『福島の歴史物語」

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2023.02.20
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3 源義経と静御前

 源頼朝は、勝ち戦で京に戻った義経に対し、京での勤務を命じて鎌倉への帰還を禁じました。それでも鎌倉へ戻ろうとした義經を、頼朝は鎌倉郊外の満福寺に留め置いたのです。義経がこのような怒りを兄の頼朝から受けた原因は、頼朝の許可の無いままに朝廷より官位を受けたことが挙げられますが、そのことは、まだ官位を与えることが出来る地位になかった頼朝の存在を、根本から揺るがすものであったのです。また壇ノ浦での戦いで安徳天皇や二位尼を自害に追い込み、さらに三種の神器を紛失したことなどにもあると言われます。鎌倉へ入ることを許されなかった義経は頼朝を深く恨み、「関東に於いて怨みを成す輩 ( ともがら ) は、義経に属くべき」と言い放ったのです。これを聞いた頼朝は激怒し、義経の所領をことごとく没収してしまいました。頼朝に追われた義経は、静御前や家来を連れて吉野に身を隠したのですが、ここでも頼朝方の追撃を受けて静御前が捕らえられ、鎌倉の安達新三郎清経 ( きよつね ) に預けられました、そこで静御前の懐妊が発覚したのです。吉野にも居られなくなった義経は、平泉の藤原秀衡を頼って奥州へ赴きます。一行は山伏と稚児の姿に身をやつしていたと言われますが、この逃避行の話で有名なものが、歌舞伎十八番の演目の一つの勧進帳です。これは源義経が奥州に落ちのびる際に、安宅の関の関守の平権守 ( たいらのごんのかみ ) に、「義経殿だ」と怪しまれるのですが、弁慶が、その嫌疑を晴らすために扇で義経を打ちすえるという機転で切り抜け、無事に乗船できたという一節があります。しかしこれは、後の時代に創られた話で、史実ではありませんが、歌舞伎以外でも多くのドラマやアニメなどでも取り上げられるほど親しまれている作品です。ところで平家との戦いやこの戦いなどで勲功を認められた工藤祐経 ( すけつね ) は、各地に領地を与えられていますが、その一つが郡山であったのです。

 文治二年(1186年)年、源頼朝は、源氏の氏神である鶴岡八幡宮で、平家撃滅の戦勝を祝した宴を開きました。身重の体で吉野の山中を彷径っていて捕らえられていた静御前は鎌倉に呼びつけられ、頼朝と初めて対面し、神前での舞を強要されたのです。このとき静御前の舞った舞は、

『吉野山 峰の白雪ふみわけて いりにし人の あとぞ恋しき』であり、

『しずやしず しずのをだまき 繰り返し むかしを今に なすよしもがな』というものです。実はこの歌はパロディーであって、オリジナルの歌がありました。それは伊勢物語の出て来る

『いにしへの しずのおだまき 繰り返し むかしを今に なすよしもがな』というものでした。この歌の意味は、ある男が、むかし付き合ってた女性にこの歌を捧げて、「もう一度昔みたいに会いたいなぁ」と言ったけど、女の人は何の返事もくれなかった、というものです。

 そしてこの、『しずのおだまき』という言葉には、裏があります。それは、古今集にある、

『いにしへの しずのおだまき いやしきも よきも さかえは ありしものなり』という歌です。ところで『おだまき』というのは、糸を繰る道具です。くるくる廻るので、『繰り返す』という言葉の枕詞になっています。頼朝は、若い時は都で過ごしていますので、趣味が都人のようなところがあったそうです。ですから、古今集のこの歌は知っていたと思われます。意味は、「昔、あなたは伊豆の蛭ヶ小島に流されていた罪人でした。今はときめいていますけれども、出来る事なら昔の様にあなたを罪人に戻してしまいたいものですねぇ」という意味だったのです。これは、静御前の源頼朝に対する痛烈な皮肉であり、呪いの歌だったのです。この静御前が舞った時、鼓を担当したのが、楽曲に巧みであった工藤祐経 ( すけつね ) であり、『工藤一臈 ( いちろう ) 』と呼ばれていたほどでした。一臈とは、年功を数える言葉で,最長老を意味します。吾妻鏡にも、『二品並びに御台所鶴岡宮に御参り。次いでを以て静を廻廊に召し出さる。これ舞曲を施せしむべきに依ってなり。伊東左衛門尉祐経、鼓たり』と記載されています。そしてその踊りの最中に、しかも重臣列座の中で、頼朝は口を開いたのです。

「今ここで、静の腹を裂いて赤子を取り出し、この目の前で殺してしまえ!」

 これは、あまりにも残酷な話です。しかしこの悲しみは、頼朝自身も若い時に経験したものでした。前にも申し上げましたが、まだ頼朝が平家に囚われ、流刑人とされて伊豆に居たとき、その身柄を預かっていた工藤 ( くどう ) 祐隆 ( すけたか ) の娘の八重と恋に落ちて生まれた男の子の千鶴丸を殺されているのです。そして今、頼朝は、同じことを静御前に要求したのです。しかしさすがに、「今ここで」というのは無理があるということになり、後に出産した時に男子であれば即、殺すということになります。ちなみに、そののちの事になりますが、静御前の子は男の子でした。この子は生まれると同時に川に投げ込まれたのです。頼朝の子の千鶴丸と同じように・・・。ここのところの話は、2022年のNHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』でも放映されています。

 一方、義経を引き取った平泉の藤原秀衡は、関東以西を制覇した源頼朝の勢力が奥州の自身に及ぶことを懸念し、義経を指導者に立てて頼朝に対抗しようとしたのですが、文治三年(1187年)に病で亡くなってしまいました。そこで源頼朝は、後を継いだ藤原泰衡に、義経を捕縛するよう強く圧力をかけたのです。泰衡は再三に及ぶ頼朝の圧力に屈して、「義経の指図を仰げ」と言い残した父の藤原秀衡の遺言を破り、500騎の兵をもって10騎あまりの義経主従を衣川館に襲ったのです。義経の家来たちは必死に防戦したのですが多勢に無勢、ことごとく討ち果たされました。この衣川館で藤原泰衡の兵に囲まれたとき、義経は一切戦うことをせず持仏堂に籠り、まず正妻の郷御前と4歳の女の子を殺害した後、自害して果てました。享年31歳でした。このとき持仏堂に籠った義経たちを死しても護ったという、『弁慶の立ち往生』の話が有名です。

 義経の首は腐敗を避けるため酒に浸され、黒漆塗りの櫃に収められて43日をかけて鎌倉に送られました。文治五年(1189年)六月十三日、首実検が和田義盛と梶原景時らによって、今の鎌倉市の『腰越ノ浦』で行われました。伝承によりますと、義経の首は神奈川県藤沢の白旗神社に祀られたとされ、位牌は藤沢市本町四丁目の荘厳寺にあります。そして義経の胴体は、宮城県栗原市栗駒沼倉の判官森に埋葬されたと伝えられています。いまも白旗神社は、小田急江ノ島線の『藤沢本町駅』近くにありますが、白旗神社の説明書きには、『伝承では弁慶の首も同時に送られ、夜の間に二つの首は、白旗川を上り、この地に辿り着いたといわれています』とあるそうですから、平泉から運ばれた首は義経1人のものだけではなかったことがうかがえま

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 ところで郡山に、源頼朝に都を追われた義経を慕った静御前が、従者の小六と乳母の『さいはら』を供として、陸奥国の花輪、今の大槻町の花輪に辿り着いたという伝説があります。それは、静御前が、義経は、さらに遠い北の平泉にいると知り、この地を治める花輪長者の世話でこの地にとどまったというものです。ところが平泉へ向かう準備をしていたのですが、義経が討たれたという知らせを聞き、今の大槻町にある美女池に身を投げたと言われます。これを哀れに思った花輪長者が、石碑を立てて弔ったのが、今の静町にある静御前堂の始まりと伝えられています。それから約400年後の戦国時代になっての話ですが、この地を治めていた大槻城主の伊東左衛門高行は、村内の塚から夜な夜なあやしい光が放たれ、村人が恐れているという話を耳にしてその塚を調べ、出てきた石碑からこの地が静御前を祀った場所であることを知ったというのです。そこで高行は、静御前を祀るお堂をこの地に建てましたが、のちの天明三年(1783年)に再建されたものが現在の静御前堂であるとされます。なお、乳母の『さいはら』が針仕事を教えていた地は今の大槻町の針生、静御前が化粧を直した場所は今の三穂田町下守屋の化粧坂、小六が死んだ場所は今の逢瀬町多田野の小六峠、静御前が身を投げる前に『かつぎ』を捨てた沼は今の三穂田町川田の『かつぎ沼』そして身を投げた池が『美女池』と呼ばれるようになったと言われます。なお『かつぎ』とは、貴婦人が外出するときに頭からかぶった衣服のことです。ちなみに、郡山最初の大規模住宅団地の名の静町は、近くにある静御前堂を意識して付けられた町名であると言われます。






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最終更新日  2023.03.08 09:41:37
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