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逢瀬川の戦い
去る日、私は郡山地方史研究会による、伊達郡国見町へのバス旅行に参加しました。実はその行程の中に、『安積屋敷』の見学があったからであり、なぜ国見町に安積屋敷があるのかと疑問に思ったからです。そのとき、国見町の歴史家である菊池利雄さんが、案内と説明に立ってくれました。そして頂いた昭和六十三年十月十五日付の『広報くにみ(No184)』に掲載されていた、『ふるさとの文化財35 安積屋敷跡(前田舘)菊池利雄』というパンフレットに、次のように記されていたのです。この文章を要約してみます。
『安積氏は伊東あるいは工藤とも称し、工藤左衛門尉祐経の次男伊東祐長を祖とし、承久の乱の戦功として鎌倉将軍藤原頼経(よりつね)より、奥州の安積郡に四十五邑を賜って来住し、姓を安積氏と改めた。室町時代のはじめ頃、伊東祐長九世の後裔の祐時は、伊達氏十一代の伊達持宗に仕えてその麾下に属した。天文二十二年(1553年)、伊達氏十五代の伊達晴宗は本拠地を西山城、いまの桑折町から米沢に城を移し、南奥羽の中心的存在になった。一方、祐長十四代の伊東肥前重信は、若年にして父に死別したが伊達晴宗によって所領が安堵された。次いで伊東肥前重信は、伊達晴宗・政宗の父子に仕えたが、天正十三年(1585年)十月、政宗が佐竹・蘆名氏などの連合軍と戦った際に人取橋の戦いに戦功をあげ、天正十六年、郡山の夜討川の戦いにおいて戦死した。この戦いに伊東肥前重信が出陣して行ったのは、この舘からであろう。天文二十二年(1553)正月、伊達晴宗が重信に与えた『所領安堵状』の中に、『伊達郡前田(現国見町小坂)ノ内、屋敷手作・・・がある。(中略)これらのことから肥前が本拠としたのは、この前田舘とみてまず間違いがなかろう。この肥前は、祐長から数えて14代目とされている』とありました。
ところで天正十三年(1585年)、伊達政宗は、安達の針道にある大内定綱の小手森 ( おてのもり ) 城を攻めました。定綱は政宗に味方すると言いながら裏切ったのです、しかし伊達勢が迫る中、定綱は後の守りを側近たちに任せて、本城である二本松城に逃げ出したのです。怒った政宗は、陥落させた小手森城で、『撫で斬り』と言われる大虐殺を行ないました。その内容は、政宗の叔父である最上義光に宛てた書状に告白されています。
『大内定綱に直属する者を500人以上討ち捕りました。そのほか女子供だけでなく犬までも撫で斬りにしました。合計1000人以上を切らせました』つまり城内にいた大内家の家臣と奉公人のほか、動物まで殺したというのです。なおこの様子は、昭和六十二年に放映されたNHKの大河ドラマ『独眼竜政宗』の『八百人斬り』に描かれています。
その三年後、佐竹、相馬、蘆名の連合軍が、二本松救援を名目にして、郡山方面に向かって兵を進めてきました。それを迎え撃った伊達と田村の連軍は、逢瀬川周辺で激突したのです。しかし政宗は、北の大崎氏との抗争が継続していたため兵力の集中できず、軍勢の数では蘆名、佐竹、相馬方と比べて非常に劣っていたのです。政宗記によれば連合軍は約八千騎、伊達、田村勢は約六百騎と記録されています。政宗はその本陣を、いまの富久山町福原字陣場の小十郎坦に置き、先鋒を久保田の山王館、いまの日吉神社に置きました。
七月、久保田を守っていた伊達勢の前方を蘆名方の部隊が通過しました。それを伊達勢が深追いをし過ぎて、蘆名勢に囲まれてしまったのです。伊東肥前が30騎余でこれの救援に向かったのですが、ここで政宗を助けるための身代わりとなって戦死をしたのです。ここでの戦いが、いわゆる『久保田合戦』、ですが、通称は郡山合戦です。しかし古くは、『夜討川の戦い』と言われていました。この『夜討川の戦い』と言われたということは、夜討川の周辺の戦いであったことを示唆していると思われます。いずれこの戦いは郡山が主戦場になっていますから、私は、伊東肥前は伊東祐長の末裔ですから安積郡に住んでいたとばかり思っていたのです。そのことがあって、国見町への旅行に参加したのです。
私は、吾妻鏡を調べてみました。すると、宝治元年(1247年)五月十四日の項に、『御台所左々目谷の故武州禅室経時 ( つねとき ) の墳墓の傍らに送り奉るなり。人々素服を着け供養す』とあり、その中に、『駿河の九郎・千葉の八郎・安積新左衛門』の名があったのです。ところが『広報くにみ』では、安積金四郎、または新左衛門、さらには伊東肥前が同一人としているのですが、吾妻鏡にある安積新左衛門は1247年の人であり、『広報くにみ』では1553年に伊達晴宗が伊東肥前に屋敷を与えたとあるのです。どうも年代が合いません。しかし歴史上、天正十六年の、『夜討川の戦い』で戦死したという部分は、『広報くにみ』と合致しています。ともあれ、菊池利雄さんの論文によると、『重信が出陣して行ったのは、この舘、つまり今の国見町からであろう』としているのですが、私には、どうも国見から郡山の戦場までの距離が遠過ぎるように思われたのです。しかし伊達晴宗が肥前に与えた『所領安堵状』から類推すると、肥前は国見から出陣したと説が正しいと思われます。
さて肥前の戦死後のことになりますが、仙台藩第4代の藩主伊達綱村によって、肥前を称える碑が建てられました。この碑は、陣所が置かれた日吉神社に『伊東肥前の碑』として現在も残り、郡山市指定文化財に指定されています。この碑の前に立つ案内板を、紹介します。
『伊東肥前は、手兵30余騎と共に伊達政宗を救い戦死したので、伊達家ではその後、参勤交代の途上;必ずここに駕をとめ香華を手向けたと言われる。尚この碑は逢瀬川の北にあったが水害で崩壊したので天文五年(1740年)に現在の郡山機関区付近に移されていたが、昭和15年10月に改修、同32年1月に機関区構内に移されていたが、同45年10月県道拡張に伴い、伊達家本陣と言われるこの地に移された』(郡山市観光協会)
そして万延元年(1791年)に亡くなった郡山出身の朱子学者・安積艮斎は、七言絶句を作っています。
川原吊古獨傷情・川原古 ( いにしえ ) を吊 ( とぶら ) ひ独り情を傷ましむ
一片殘碑苔暈生・一片の残碑 苔暈 ( たいうん )
後世莫憂文字滅・後世憂ふる莫かれ文字の滅するを
忠臣埋骨不埋名・忠臣骨を埋むるも名は埋れず
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