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慶應四年七月十七日、江戸は東京と名を変えました。そして会津落城の前々日の九月二十日、天皇は京都を出発、十月十三日東京へ着き、徳川家の居城であった江戸城に入りました。供奉する者。3000人と言われます。なお慶応四年は、九月八日より明治に改元しています。
仙台藩が新政府軍に降伏したのは、明治と改元した直後の九月十五日でしたが、翌十六日の午後十一時頃、芝にあった仙台藩の空き屋敷が焼失しました。この時点では、未だ会津は落城しておりません。この火事の失火原因も、消火活動などの詳細も、一切が伝えられておりません。
幕府が消滅して大名が引き払った後のすべての旧江戸屋敷の跡地は、国や東京府の管理に移されました。しかし国や東京府は、その予算の資金獲得のため、これらの広い土地を農地などにでも転用させようとして、民間に払い下げることにしたのですが、その引き渡しの条件として、四ヶ月以内に作付けをしない場合は無効としたのです。これらの地価は、麹町、虎ノ門、桜田辺りは坪25銭、飯田町や番町辺りは20銭、市ヶ谷、四谷、青山の辺りは10銭で売りに出されたのですが買い手がつかず、建っていた屋敷を「タダでやる」と言っても売れなかったというのです。それでも風呂屋が燃料の薪として、それこそタダ同然で若干の建物を引き取っていったというのです。地方でも、各藩が所有していた城や藩の所有地が一般に売りに出されました。当時の福島県の地価、これは現在のように需要と供給から決められたものではなく、新政府が徴税をするために決めた公定の価格なのですが、これによりますと、高い順に三春が坪2円、福島が1円、須賀川が86銭、郡山が66銭、本宮が60銭、二本松が57銭でした。この地価に伴う高額の税金に根をあげた三春では地価の減額運動が起こり、1円40銭、1円20銭と二度にわたって地価が引き下げられましたが、それでも福島の町よりも高かったのです。それにしてもこれらの地価を東京と比較すると、東京の安値が際立ちます。
明治になって間もなく、すべての旧江戸屋敷跡は、明治政府の所有地とされました。そして明治二年十二月二十七日の深夜、元数寄屋町、いまの中央区銀座五丁目で起こった火災により、『旧脇坂藩、旧仙台藩の元屋敷あたりまで数か所焼失する』と当時の新聞に掲載されました。前年の九月に燃えたのは旧仙台藩の屋敷でしたが、まだ建物が残っていたのでしょうか。それとも別の建物だったのでしょうか。消火の様子やどのような被害があったのかは、判然としていません。
明治五年三月二十六日、今の皇居前広場のうちにあった無人の旧会津藩上屋敷から出火し、いまの丸の内、有楽町、八重洲にあった多くの旧江戸屋敷、それに日本橋、京橋、銀座、築地、明石町、新富町、入船町の商人町を焼く大火となってしまいました。江戸屋敷のすべてが引き払われたと同時に、大名火消しがいなくなったことも、大火となった理由の一つであったのかも知れません。ともあれ多くの家が燃えてしまったために、江戸城周辺は寂しい場所となってしまったのです。今の文京区小石川三丁目にあった伝通院の近所では、夜になると狐火が出たというのです。狸や狐も出るようになったのですが、それはまだいい方で、今の東京駅や丸の内では、「幽霊も恐がって出ない」と言われるほどの寂れようであったと伝えられています。七月中旬から九月上旬にかけて30夜以上にわたって踊られることで有名な、郡上踊りの(岐阜県の)郡上八幡藩の藩主は青山氏でしたが、この屋敷跡も買い手がなく、ついに墓地にされてしまいました。ここは青山氏の屋敷跡でしたから、青山墓地という名になったのです。このように土地の処置に困った明治政府は、後の三菱の総帥・岩崎弥太郎にむりやり頼んで、丸の内地区の10万坪ほどの広大な土地を買ってもらいました。それを聞いた知人が驚いて、「なんで、あんな不便な所を買ったのか?」と聞いたところ、「仕方がない。竹でも植えて虎でも飼うさ」とうそぶいたと言われます。日本橋地区の町家にも遠く、皇居までの間となる丸の内界隈は、このように淋しい場所であったのです。後に三菱地所はここに煉瓦のビル街を建て、一丁ロンドンと言われる貸事務所を作って、日本一の大地主になったのです。
当時はそのような状況でしたから、国や軍、東京府や鉄道などの多くの土地を使う施設は、江戸屋敷跡地の有効活用の方法の一つでした。例えば明治七年、市ヶ谷には参謀本部と陸軍士官学校が作られ、そこから現在の日比谷公園や国会議事堂をはじめ政府の多くの官庁のある広大な土地は、陸軍の練兵場となっていました。現在、市ヶ谷には、陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地が置かれています。
現在、これらの江戸屋敷の跡が、都内各所に残されています。ちょっとその名を列挙してみます。
六義園は造園当時から小石川後楽園とともに江戸の二大庭園に数えられていました。元禄時代に大老格として幕政を主導した柳澤吉保自らの設計と言われます。その他にも有名なものとして、
後楽園は、東京ドームや後楽園遊園地を含む水戸藩の上屋敷でした。
東京大学本郷キャンパスは、加賀藩上屋敷でした。その他にも、
信州高遠藩屋敷跡の新宿御苑。
徳川綱吉家の小石川植物園。
和歌山藩の赤坂御苑。
甲府徳川家の旧浜離宮恩賜公園、などが有名な屋敷跡です。そして地名として残されたものがあります。まず銀座です。銀座といえば東京の銀座が知られていますが、これは当時の主な流通貨幣のうちの銀貨の鋳造が行われたこと、この場所以外での貨幣鋳造が厳しく取り締まられたこと、などにより『銀の屋敷・銀座』の名が付けられたと考えられています。これは徳川家康により、駿府(静岡市)に置かれていた幕府の銀座が、慶長十七年(1612年)に江戸に移されて以来、地名として定着したものです。そして金座です。金座とは、江戸幕府から大判を除くすべての金貨の製造を独占的に請け負った貨幣製造機関のことで、金貨の製造のほか、通貨の発行という現在の中央銀行業務に相当する役割を担っていました。金座のあった所は、江戸通町 ( とおりちょう ) 、いまの中央区日本橋本石町の日本銀行本店のある所です。江戸時代に金吹所 ( かなふきしょ ) 、つまり製造工場、そして金局 ( きんきょく ) 、つまり事務所のあった場所であり、世襲の御金改役である後藤庄三郎光次 ( みつつぐ ) の役宅でした。しかし、後藤庄三郎は金貨の鑑定と検印のみを行い、実際の鋳造は小判師などと呼ばれる職人たちが行っていました。当初この場所の周辺は、両替町と呼ばれていましたが、金座のある場所は、本両替町と呼ばれていました。
約200年間続いた仙台藩の上屋敷跡地は、文明開化の象徴ともいえる新橋ステーションの建設地となりました。この新橋ステーションおよび線路敷の中には、会津藩中屋敷の跡地も含まれていました。三月二十五日には測量が始まり、四月十二日には地ならし工事が始まりました。ところが、東京側の停車場建設には兵部省が反対したのですが、太政官の決裁によって汐留の地とされ、横浜側の停留所は野毛浦海岸の埋立地とされました。ところで今で言う『駅』は、正式には『停車場』とされたのですが、「ステーション」、または『すてんしょ』と呼ばれていました。駅という名が一般化したのは、電車が出現してからでした。鉄道開業当時の停留所は、新橋、品川、川崎、鶴見、神奈川、横浜の六ヶ所であり、この線路敷きには、仙台、会津藩の屋敷跡の他にも、赤穂、新見(岡山県)小田原、二本松、和歌山、鯖江(福井県)など、多くの藩の江戸屋敷の跡地が利用されています。大正三年になって、旅客ターミナル駅の機能が新設された東京駅に移ったことで、電車線の駅であった烏森駅が新橋駅と改称しています。そしてその後になっても、江戸屋敷の跡地の多くが、山手線、中央線などの線路敷や駅舎などの建設に利用されたのです。
現在の港区西新橋は、江戸時代、芝田村町と称されていました。これは一関藩の田村家の屋敷があったことに因み、田村小路と呼ばれていた屋敷地に田村町が成立したのです。明治十一年には東京府芝区となり、明治二十二年の東京市成立に伴い、東京市芝区となりました。しかし、昭和七年にこの地域の町名が変更され、昭和四十年と四十七年には住居表示実施による町名変更があって、現在使われている西新橋が成立したのです。実は、ここには赤穂藩の浅野内匠頭の切腹の場となった、田村家の上屋敷があったのです。私はこの話を、我が家の婿殿に話をしたのです。当時東京で勤めていた婿殿は、そこに建立されていた『田村屋敷跡』の碑の写真を撮り、そこで営業していた『御菓子司・新正堂』の和菓子を土産に帰って来たのです。そして開口一番、
「これ『切腹最中』と言うのですが、どんなものと思います?」と聞いてきたのです。すかさず私は、『切腹最中』と言う位だから、アンコがはみ出るくらい詰まっているのだろう」と言うと、
「ピンポ〜ん。それはそうなんですが、実はですね、買おうと思ったら客が並んでいるんですよ。変に思って聞いてみました」
「ふ〜ん」
「そうしたら、『許してもらえそうもない、どうしようというとき、最後の手段としてこの切腹最中を持参する』というのです」
「それは面白いアイデアだな」
「並んでいる客に、あなたも何か謝らなければならないことがあったのですか? と聞いたら笑っていましたが、多い日は、なんと7000個以上も売れるそうです」
そう言って婿殿は包みを開けました。そこには思った通り、大きな口を開けた最中が入っていました。大笑いになりましたが、美味しかったです。どうぞ皆さんも折りがありましたら、ご賞味あれ。それにしても、商魂逞しい話でした。