『福島の歴史物語」

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2024.03.20
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カテゴリ: 鉄道のものがたり
西欧諸国に追いつこうとして富国強兵を掲げていた明治政府は、その具体的政策のひとつとして、全国への鉄道布設を重要課題としていました。しかしイギリスで発行した国債の返済の途上にあり、資金不足であった政府は、旧士族に与えた金禄公債や各地の資産家の資金を当てにして日本鉄道会社を設立し、その資金で全国に鉄道網を広げようとしていました。

 明治14年8月、岩倉具視をはじめとする華族などが参加し、政府の保護を受けた鉄道会社である『日本鉄道株式会社』の設立が決定し、同年11月に設立特許条約書が下付されました。政府はこの『日本鉄道』に、国内の鉄道網建設を目論んだのです。この政策に従った日本鉄道は、明治16年、上野と熊谷まで開通させています。これらの建設にあたって、政府は国有地の無償貸下げ、8%の配当保証、用地の国税免除、工部省鉄道局による工事の施行や用員の訓練・補充など、手厚い保護と助成を与えています。

 日本鉄道が、建設工事に入る頃の県内の様子です。

  白 河  昔ながらの城下町で、人力車の継ぎ立てが多い。
  郡 山  明治二十年代までは三百戸程の村。二十一年には四十八台の人力車もあり、交通の要地であ
       る。
  二本松  人力車が百六十台もあり、各地から人力車の乗り継ぎのため人が集まり、車夫で宿泊するも
       のが毎日五十人以上あり、人力車の町といった感じ。
  福 島  有名な生糸は、内国通運や誠一社が横浜に馬で陸送した。一頭が約百五十キログラムをび、

  桑 折  街道上の中継地で、宿屋十軒、人力車や馬車もあり舟運による中継地でもある。

 しかしこのような状況もあって、鉄道建設反対の運動もあったのです。農民のほとんどは、「汽車の煙で稲が枯れる」「灰で桑が枯れる」というような風説によるものが大半でしたが、その他にも、「今までの宿場町が廃れる」「人力車の商売が成り立たなくなる」と言う経済的な理由のものもあったのです。

 明治17年、日本鉄道会社は、第一線区とした上野から高崎までを5月に開業、次いで第二線区の大宮から白河までの工事と、第三線区である白河・仙台間の工事を開始しました。第一線区が養蚕地である群馬県であり、生糸の横浜への輸送で鉄道の経済効果を実証していたこともあって、鉄道が通ることへの福島県内の養蚕家の期待は、大きかったと思われます。この線は、『日本鉄道・奥州線』と位置付けられました。しかし日本鉄道はその建設資金獲得のため、地元に建設債券の消化を求めたのです。それは郡山だけではなく、鉄道の通らない三春でも求められたのです。三春での消化状況をみると、三春町が32人、南小泉村が1人、三丁目村が1人、木村村が1人、柴原村1人、滝村2人で総人数38人、その総株数は494株、金額2万4700円を集めました。しかし郡山村では、出資者の募集はなかなか困難であったようです。明治16年の文書にも「鉄道会社ヨリ払込之儀催促有之ドモ壱人モ出金セシ者ナク其俵打過居レリ」とまで書かれていたのですが、その後、呉服商の」橋本清左衛門など29余名の資産家が、3万円の株金を引き受け、その目的を果たしたのです。しかし日本鉄道が、鉄道が通らない三春にも建設債券の購入を要請したことは、須賀川・郡山・本宮と平坦な地を利用して鉄路を敷設しようとした日本鉄道が、三春も利用可能と考えたためと思われます。このように、日本鉄道の奥州線の開設が進む中で、奥州街道上にあった小さな宿駅は、急速に宿場町としての機能を失って衰退していったのです。

 当時の郡山の町は、今の旧国道にある会津街道の分岐点が北限でした。そこには今でも、『会津道』と『三春街道』の道標があります。そして南限は今の東邦銀行郡山中町支店あたりまでの細長い集落だったのです。そして今の柏屋あたりから駅までは、畑や田んぼが続いていたのです。今でこそその後の市の発展により、駅が街に近い場所にあるように見えますが、古い絵などを見ると、郡山駅は畑に囲まれていたのです。

 この奥州線開業当時の駅の様子を、『ものがたり東北本線史』から転載してみます。
『奥州線が全通したころの駅は、すべてが木造平屋建てのこじんまりした建物で町外れの寂しい所にあったから、そのモダンな駅舎は人目をひいた。駅前の道路は新しく開かれた幅の広いもので、雨の日はぬかるみとなり風の日は黄色い渦が空高く舞い上がっていた。駅の出入り口には人力車が人待ち顔に並んでいたものである。夜は待合室や改札口あたりに薄暗いランプがぶら下がり、あとは信号機の青や赤のランプが見えるだけで駅の裏側は真っ暗である。番頭や車夫の提灯が駅前の通りを彩っていたものである。

 待合室に入ると、時刻表、賃金表、乗客心得などがいかめしく壁にぶら下がっている。待合室と反対側の出札窓口には『切符売下所』と看板がかかっている。しかし上等切符を買う人はあまりいない。

 列車到着五分前、駅長はガランガランと鐘を鳴らす。出札口の窓がパタンと閉められる。やがて白い蒸気を吐きながら列車が入ってくる。上野〜青森間の直通列車以外は、大てい貨車と一緒の混合列車である。列車の前部と後部の車掌のほか制動手も乗車している。汽車がホームに止まると、助役も駅夫も客車のドアを片端から開けて行く。旅慣れた旅客はホームの便所に駆け込む。駅夫は「小便せられたし」と触れ歩いている。こういう駅は5分くらい停車する。老人や婦人は汽車が今にも発車しそうな気がしてなかなか便所に行けない。

 駅夫は大きなヤカンにお湯を入れて上等車にお湯を持っていく。冬は大きな駅の駅夫は大変である。上等・中等の旅客に湯タンポのサービスをしていたから、その湯を詰め替えなければならない。下等の旅客にはひざ掛けを貸した。しかしそれで十分で
ないから、自分で毛布を持って乗った。赤い毛布であったから、地方から東京へ出かける『お上さん』を『赤ゲット』などと言った。冬はよく雪害で運休するので『雪中ご旅行の方は防寒具と食糧を持参せらるべし』という掲示が駅にも車内にも貼ってあったものである。

 下等の客車はマッチ箱のように小さい。ドアから入ると細長い木の椅子で車内が五つに仕切られている。客車内を縦に通り抜けることは出来ないから、一度乗ったら歩き回ることはできない。椅子には、背をもたせかける板ができる前は、一本の鉄棒が渡してあるきりであったから、長距離の汽車旅行は腰が痛く楽ではなかった。上等・中等・下等の呼び名が一等・二等・三等になったのは、明治三十年十二月からである。そのころ便所のある客車はほとんどなく、蒸気暖房もない。夜は客車の中にランプが二つ、屋根裏から吊り下げられる。座っている人が、ぼんやり見える程度である。五十銭もする特製弁当と熱いお茶などを車掌に注文しているのは、上等か中等の客であろう。この一等車の運賃は、三等車の三倍で、庶民にはまったく無縁のものである。』






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最終更新日  2024.03.21 12:01:34
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