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サンクチュアリー
江戸屋敷とその周辺は幕府の権力下にありましたが、屋敷そのものには、幕府の権力は及ばないものとされていました。仮に犯罪者が屋敷内に逃げ込んだとしても、絶対的権力を有する幕府がその捜査権を屋敷内にまで r 行使することはできず、一定の手続きを経ない限り、容易に立ち入れない場所であり、そこはいわば治外法権の場所であり、サンクチュアリーの性格を帯びていたのです。その例として、殺人か何かの事件を起こし、追われた犯人が他の藩の屋敷に逃げ込むことを『駆け込み』と言ったのですが、追って来た幕府の役人が門番に引き渡しを要求しても押し問答になり、「誰も来なかった」から、「見てくる」となり「来たようだが誰もいないから、裏門から出て行ったようだ」となり、結局、捕縛することが出来なかったのです。江戸屋敷には、幕府の役人と言いども勝手に入れなかったし、このことは屋敷の側としても強く意識することであり、屋敷の内は他の介入を許さず、あくまでも自律性を守ろうとする傾向が強かったのです。
このため、江戸屋敷の持つ治外法権を悪用する事件が多く発生することになります。水谷伊勢守と水野美作守は 屋敷も隣り合わせであったので 日頃から『水魚の交わり浅からず』というほどに親密な仲でした。ところがあるとき、美作守の中間が、仲間と刃傷沙汰を起こして伊勢守の屋敷に駆け込んできました。中間の引き渡しを要求する美作守の使者に対して、伊勢守は、「この度の駆け込み者の儀は、水谷の家にかかり申すことに候。伊勢守を人と存じ、相頼み申し候を、我が身難儀及び候て身柄を差し出し候ては、侍の一分立ち申さず候。それがし一命に替え申す覚悟にて候」と、断固とした口調で身柄の引き渡しを拒否したというのです。これは、 家の権利と自律性を堅持しなくてはいけない、またひとかどの武士と見込んで保護を求めて来た者を、むざむざと引き渡したら侍の一分が立たないから、一命に換えても保護するというのです。
ところが、乱心者のケースもありました。貞享二年(1685年)七月二十一日、本田隼人の家来で有馬半兵衛と名乗る者が、守山藩の屋敷の雨宮平介を尋ねて来ました。「十日ばかり宿をお借りしたい」と言うので事情を訪ねると、「人を斬って来た」と言うのですがどうも様子がおかしいのです。家老に届け、藩主の耳にも入れた上で客座敷に通し、さらに様子を聞くと、やはり乱心の様子が見え、まぎれもなく精神に異常をきたしていると思われました。そこで本田隼人に問い合わせると、「乱心者で御座候間、脇差を取り上げ、差しおかれ下され候ように」とのことでした。このことは、本田隼人方の乱心者が、守山藩の屋敷にふらりとやってきて、妄想を口走ったことから事情が判明し、乱心者の身柄は、本田隼人方の者に引き取られていったと言われます。
二本松藩の家臣のうち家の絶えた215家を集録した『松藩廃家禄』に、一人の少年の話が出てきます。聖徳二年(1712年)二本松藩士・丹羽又八の14歳の息子の六之助が、岡田長兵衛の屋敷の前で切腹して死んでしまったのです。自殺の原因は、実に取るに足らないものでした 六之助は、長兵衛の息子で一切年下の翁介と遊んでいて、セミの抜け殻の取り合いをしていたのですが、翁介が奪い取って、自分の屋敷に逃げ込んでしまいました。それを取り返そうとした六之助は翁介を追って屋敷に入ろうとしたのですが、翁介の屋敷の門番が屋敷の門を閉めてしまったので、六之助は、門の前に佇んでいました。原因といえばたったこれだけのことでした。セミの抜け殻を取られた上に、門番に行く手を阻まれた六之助は、大いに憤り、扉に打ちかかっていたのですが埒があかず、そこで自らの腹を切って死んでしまったのです。どうしようもない憤りから自らの命にぶつけて、わずか十数年の人生にピリオドを打ってしまったのです。
延宝五年(1677年)九月末の、丑満時、今の文京区大塚四丁目近くの本伝寺の脇の薬草園あたりを、守山藩の屋敷の者たちが歩き回っていました。彼らは、屋敷から駆け落ちして前日に発見された奉公人を成敗するため、適当な場所を探していたのです。すると彼らの様子からそれと察したのか本伝寺の住職が近づき、奉公人の身体に自らまとっていた衣を掛け、「この者の命、私の一命を賭けて申し受けたい」と助命を願い出たのです。出し抜けにそうは言われても、死罪と決定したものを、簡単に手放す訳にはいきません。押し問答となったのですが住職は是非にと言って一歩も引かないのです。ついに屋敷に戻っての再評議の結果、本伝寺の要望を受け入れて、身柄を引き渡すことにしたのです。この時の守山藩の応対は、次のようなものでした。「この者は、当方としては是非とも成敗しなければならない罪人であるのに、貴僧は理不尽にも衣をかけて助命を申し出た。貴僧の行為は当方としては許し難いものであるが、ご近所でもあり、かねて交際のある間柄でもあり、その上貴僧が一命にかけてとおっしゃるからには致し方ない、かの者の命、貴僧にお渡しする」しかしそれは、無条件でではありませんでした。奉公人は頭をボウズにされた上、即座に遠国へ追放、もし姿を変えて江戸に舞い戻るようなことあれば、その時は、「見つけ次第首をはねる」と言い含めたのです。サンクチュアリーの性格を帯びていたのは屋敷という空間だけではなかったのです。住職が袈裟衣を掛けることで、その中のわずかな空間も瞬時にサンクチュアリーとなり得たのです。なお、ここに出てくる守山藩は、いまの田村町守山にあった藩です。
延宝六年(1678年)、尾州様又侍、つまり尾張徳川家の家来の家来が、市ヶ谷の研ぎ屋を訪れました。そこで何があったかは分りませんが、ともかく口論となりました。又侍は研ぎ屋に少々の傷を負わせ、「すわ刃傷沙汰」と駆けつけた近所の町人たちに取り押さえられて縄をかけられました。「どこの者か」と問うと「尾張屋敷の者である」と言うのです。さすがに御三家の権威に恐れをなしたのか町人たちは、又侍の縄を解いて尾張屋敷に連行し、経緯を説明した上で、屋敷のしかるべき方と相談したい旨を申し入れました。ところが尾張屋敷ではこの申し入れに応じず、「その者はとりあえずお前たちに預けおく。そのものが当家の者であることを確認した上で連絡する」と言うのです。埒があきそうもないので、町人たちは又侍を町奉行所へ引き連れたので牢に入れられました。そうこうしているうち、尾張屋敷から、「かのものは当家の又侍に相違ないから、「早々に身柄を引き渡すように」と町奉行所に申し入れがなされました、ところが町奉行所は、これに応じなかったのです。そのため尾張屋敷では、この件のやり取りで用をなさなかった藩の担当者に腹を切らせたため、話はついに幕府の知ることとなりました。かの又侍は、釈放されたのですが、町人たちに絡め取られた上、縄をかけられたのが藩の名を汚したと言うことで、結局成敗されてしまったというのです。 こんなことができるというのも、幕府が捜査権を有しないということにあったのかも知れません。(氏家幹人著・江戸藩邸物語より)