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この京都旅行は、今年3月7日のものです気がつけば、もう10月も半ばである実の話、この最近は、かなり大変で今回の日記を書いたのは、いつものノートPCではなくって、3年程前まで愛用していたものだ当時、このPCに写真がいっぱいになったので要らないのを消して整理して外付けHDDに移さなきゃいけないのに、面倒で使っていなかった、娘のお古のPCに乗り換えていたのだが、ここにきて大きな音でガガガ~~とやりだしてしまってヤバいやばい。やばすぎる!と前に使っていた方を引っ張り出し、写真を減らしてます3年前にやらなきゃいけなかった事だしウィンドウズ10には直してたんですがその後のアップデートがされてないので時間がかかる、かかる3年も経てばセキュリティも、ブラウザも新しいものにアップグレードしてくれと次から次に。ブログのログインとかブックマークとかお引越しもままならず悪戦苦闘こんなんじゃ、スマホのお引越しとか無事出来るんだろうかお引越しをしたとは言え、こちらのPCも10年超えで使用していると、本体が熱くなるので先も短そうだ。今は一刻も早く写真を外付けHDDに移してしまいもう一つのガガガ~という娘から貰ったPCの写真も救い出さねば・・・あまり使わないから。。。という娘が現在使っているノートPCを、譲ってくれるそうなので購入はしなくてもいいけど。ネット見たりするのに、タブレットを1つ欲しいものだ。PCもつけっぱなしを防げて寿命が少しはのびるのかもしれないさてさて写真の方は、今年3月初旬に娘と二人で出かけた、京都旅行の続きです。嵐山から次にやってきたのは嵯峨野の大覚寺です。まるで平安期の殿舎を思わせる風情は見覚えがありませんか? 数多の時代劇ドラマや、映画のロケ地として有名です東映の太秦映画村からも近いので、利用しやすいのかもしれません。そういった事もあるのか撮影禁止と表示された一部をのぞいて寺院内も、写真撮影をしても良いとの事でした。このお部屋で法王が院政を行っていたそうだ。ではでは何時ものようにウィキペディアで説明をすると>大覚寺(だいかくじ)は、京都市右京区>嵯峨にある、真言宗大覚寺派大本山の寺院。>山号を嵯峨山と称する。本尊は不動明王を>中心とする五大明王、開基は嵯峨天皇で>ある。嵯峨天皇の離宮を寺に改めた皇室>ゆかりの寺院である。>嵯峨野の北東に位置するこの地には、>平安時代初期に在位した嵯峨天皇が>離宮を営んでいた。嵯峨天皇の信任を>得ていた空海が、離宮内に五大明王を>安置する堂を建て、修法を行ったのが>起源とされる。>嵯峨天皇が崩御してから30数年後の>貞観18年(876年)、皇女の正子内親王>(淳和天皇皇后)が離宮を寺に改めたのが>大覚寺である。嵯峨天皇には孫にあたる>淳和天皇の皇子恒貞親王を開山(初代>住職)とした。>鎌倉時代の徳治3年(1308年)に後宇多>法皇が大覚寺を再興した。法皇は伽藍の>整備に力を尽くしたため、「中興の祖」と>称されている。また、ここで院政を行った>ため嵯峨御所(さがごしょ)とも呼ばれた。>法皇の父である亀山法皇[注 2]から続く>系統は当寺にちなんで「大覚寺統」と>呼ばれ、後深草天皇の系統の「持明院統」と>交代で帝位についた(両統迭立)。この>両系統が対立したことが、後の南北朝>分裂につながったことはよく知られる。>元中9年(1392年)、南北朝の和解が>成立し、南朝最後の天皇である後亀山>天皇から北朝の後小松天皇に「三種の>神器」が引き継がれたのも、ここ大覚寺に>おいてであった。>ただし、南北朝時代を通じて南朝方寺院>であったというのは事実ではなく、南北朝>分裂後に南朝方の性円法親王(後宇多法皇の>皇子)と北朝方の寛尊法親王(亀山法皇の>皇子)が相並ぶ分裂状態が続いたものの、>南北朝が和解した時期には北朝・室町>幕府方の有力寺院となり、後に室町幕府>3代将軍であった足利義満の子・義昭を>門跡に迎える素地となった。このように、>皇室ゆかりの寺院であり、>代々法親王が住職となった門跡寺院で>あるため、現在でも御所風の雰囲気が>ただよっている。と、いった感じで歴史的にも重要な位置にある格調高いお寺であるこの廊下とか、よく時代劇に出てきたりしますよ。映画の陰陽師のシーンとかも印象的です。名前は村雨(むらさめ)の廊下といいます直角に曲がっているさまが、まるで稲光のようだから名付けられたようですよこちらは石舞台。雅楽などがこの上で開かれたりします朱色でひときわ色鮮やかなのは霊明殿です。昭和11年の二・二六事件で凶弾に倒れた斎藤実第30代首相が、昭和3年に自費で建設をしたという東京都の練馬区沼袋の日仏寺の本堂を百草園へ移築を経て、昭和33年にこちらへ再移築したものだそうです華やかですよね奉納をされた般若心経の写経を納める心経殿は鉄筋コンクリートで模した八角円堂で、設計は昭和初期を代表する住宅建築家の藤井厚二氏によるものだそうだやっぱ、ここは見どころいっぱいで良いお寺だなぁ。などと思いながら広いお寺をてくてくと歩くが、他に拝観者は誰もいなかった。まっ3月だしねここ最近はGOTOトラベルとかGOTOイートで盛り上がってるけれど、コロナ感染者の数は一向に減らないどころか、微増?五大堂(本堂)からは、大沢の池を眺めることが出来た。この池も時代劇とかで使われてそうこの大沢池だが大覚寺の東側にある広大な溜池で、平安時代に営まれた嵯峨天皇の離宮造営にあたり、唐の洞庭湖を模して作られ、「庭湖」と呼ばれてもいるこのお庭、これまでは無料で見学が出来たけど、今春から有料化がされるそうで、この時は料金所を作っていたそこに詰める係員の日当くらいは入金されたらいいけど。このような池越しのお寺の風景も、今となればもう有料しっしまった~。この日記を書く為境内図を見ていて、亀山城のものを移築したという、明智門があったそうだけども見逃してしまった。むろん写真もないこんなタイムリーな時期なのに、下調べを、しっかりとやるべきだった何時もの事だけど、行き当たりばったり後でブログを書くために調べていて初めて知るパターンそれでも今はスマホで、ネットが使用出来るから、交通機関や、食事とかもかなり情報を、タイムリーに得られるのは、行楽好きにはありがたい話だこのお寺を選んだのも、嵐山に行くにあたって、その時期の花が楽しめるというので出かけた部分もある。この梅園には、他にも梅の花を見に来ていた中高年の姿も幾人かあった今でこそお花見というと桜だけどもそもそも奈良時代に始まったという当時のお花見は、中国から渡来したばかりの梅の花だったという。その為に万葉集の桜の歌は43首でかたや梅を詠んだ歌は、110首程あるそうだ。かの令和のきっかけになったのも、大伴旅人の観梅の宴の席であったそうだし万葉集と言えば、藤原道長の嵯峨逍遥の折に三十六歌仙の一人である前大納言公任が詠んだ歌に出てくる名古曽の滝も、この大沢池にあった。今は枯れてしまったそうだけど 滝の音は絶えて久しくなりぬれど 名こそ流れてなほ聞こえけれあっ、その当時に既に枯れていたのか。流石日本最古の人口の林泉(庭池)とも言われるわけだ今日は午前10時から、GOTOイートの紙のプレミアムお食事券(岐阜県版)の事前予約があって無事に、1万円で12500円(千円券10枚+500円券5枚)を一人2セットまでというのを予約が出来た予約サイトでポイント貰うのは、田舎では利用出来る店舗が皆無だったが、紙の方は市内だけでも100店舗近くあって、いつものコメダやガスト、丸亀製麺など大手チェーンも使える。とは言え、2月末迄なので2セットが限度かな 旅は続く 2020年3月7日に京都で撮影にほんブログ村
2020年10月16日
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※ 今年3月7日の京都旅行です ※さてさて直前のUSJ大阪の閉園に伴ってかわりに麒麟がくる!の岐阜市を観光をしてから、娘とやってきたのは京都です大阪&京都旅行は昨年末には予約をしていたので、最初から行くつもりだったんですが、新型コロナによって海外からの団体客の受け入れもなくなりいつもは観光客でごった返している嵐山渡月橋も、人のいない写真すら撮れます週末なんですが、久しぶりに静かな嵐山京都ではアジア系の観光客は皆無でして日本人の他に、欧米の高齢観光客などがちらほら本当は、梅小路の京都鉄道博物館とか京都水族館に行きたかったんですけどそれらの施設も、新型コロナで閉館をしてしまったので、じゃ人の少なそうだという嵐山にでも行くかと鎌倉時代に、満月の晩に舟遊びをされていた亀山天皇が、曇りのない夜空に月がさながら橋を渡るような様を見て「くまなき月の渡るに似る」と詠まれた事から渡月橋となったとかベンチで休んでいると、足元にハトがやってきました。何も食べていないんだけどもねなんだか風情のある橋もありました。詳細は不明です再び渡月橋を渡り、駅側に戻ってきましたこちらには観光客向けのお土産屋さんが軒を連ねています嵐電(京福電気鉄道)の嵐山駅も、のぞいてみました。江ノ電とか都電荒川線みたいに街中の家の軒先すれすれを走り抜けていくかわいい電車です「マルダイ」とも称される、モボ101形の車両がいた。1975年製造、武庫川車両工業製だ娘は橋とか公園とか神社、お寺よりもこういった商業施設などを、ぶらぶらとまわるのが好きのようでして食べ歩きも出来ますし。桜と、竹のミックスのソフトクリームは、娘と半分こブラックサンダーは、応仁の乱以来の衝撃!!だそうですローソンも京都っぽくなってました自販機も、おこしやすしば漬にもなれます。てな事で嵐山の定番の観光地巡りもしてみましょうかまず外せないのが野宮(ののみや)神社でしょうか。ここが一番、観光客の姿が見られました。神社は無料ですし、願い事も出来ます。源氏物語にも登場しており王朝文化を垣間見るような場所であるウィキペディアによりますと>豊鍬入姫命を端とした伊勢神宮に奉仕する>斎王が伊勢に向う前に潔斎をした「野宮」に>由来する神社であると伝えられる。天皇が>代替わりすると、未婚の皇女・女王(平均>12-13歳、最年少2歳、最年長で28歳)の>中より新たな斎王が卜定され、>宮中の初斎院で1年間、そして嵯峨野の清ら>かな場所を選び造営された野宮に入り1年間>潔斎した後に斎宮寮(現在の三重県多気郡>明和町)に向かい伊勢神宮での神事に臨んだ。>野宮の場所は毎回異なっていたが、嵯峨天皇の>代の仁子内親王のときから現在の野宮神社の>鎮座地に野宮が作られるようになった。斎王の>制度は南北朝時代、後醍醐天皇の代の祥子>内親王を最後に廃絶し、その後は天照大神を>祀る神社として存続していたが、度重なる>戦乱の中で衰退した>後に後奈良天皇、中御門天皇らの綸旨により>再興され、現在まで皇室からの厚い崇敬を>受ける。源氏物語「賢木」の巻の舞台とされ、>謡曲「野宮」の題材ともなっており境内>各所に案内板が設けられ授与される御守にも、>それらをモチーフにしたものが見られる。>鳥居は樹脂加工がされており、樹皮がついた>ままのクヌギの原木(徳島県剣山産)を使用し>作られた貴重な「黒木の鳥居」で、形として>のみは日本最古の鳥居形式を伝えている。>また、脇に備えられた垣根は、クロモジで>作られた小柴垣であり、>鳥居とともに源氏物語作中での風景描写と>して描かれた往古の潔斎空間の風情を醸し>出している。苔を用い嵐山を表した美しい>庭園として有名な「野宮じゅうたん苔」を>はじめ、モミジ・椿・石楠花・馬酔木などが>境内を彩り、>季節毎にその表情を変え参拝者を楽し>ませる。境内社の野宮大黒天は縁結びの>神として有名で、大黒天に参詣し、その>横の「お亀石」をさすれば願いが叶うと>言われ、多くの参拝者の祈願によって>美しく黒光りしている。と、言ったわけで次ぎは嵐山でというよりも京都にやってきた外国人観光客が、こぞってやってくるという竹林の道だ。ここ最近にも私も2度ほど出かけたが、外国人がぞろぞろ歩いていて、風情もへったくれもない最近はSNSやネットで、人気が火が付く場合も多く、名古屋では栄オアシスのライトアップが外国人観光客に人気があるそうだが、京都では東山界隈とか伏見稲荷と並び、ここも大人気であるまるで昔の嵐山に戻ってきたような風情このあたりは王朝貴族の別荘などが建てられていたそうで、ここに因んだ和歌も多く、小倉百人一首もここで編纂をされたそうである>嘉禎元年(1235年)宇都宮頼綱から嵯峨野>(現在の京都市右京区嵯峨)に建てた別業>(小倉山荘)の障子色紙に古来の歌人の>和歌を1首ずつ揮毫して欲しいとの要望を>受けて、定家は天智天皇から順徳院に至る>までの100人の歌人の和歌を1首ずつ選んで>頼綱に対して書き送る。後に、これが定家が>小倉山で編纂したことに因んで『小倉百人>一首』という通称で呼ばれるようになった。ウィキペディアより転載本来は、渡月橋のかかる桂川の右岸が嵐山左岸は嵯峨であるそうだが、観光的にはこのあたりも「嵐山」って言っちゃてますね天龍寺のある地名も、ウィキペディアでは>天龍寺(てんりゅうじ)は、京都府京都市>右京区嵯峨天龍寺芒ノ馬場町(すすきの>ばばちょう)にある、臨済宗天龍寺派>大本山の寺院。山号は霊亀山(れいぎざん)>寺号は正しくは霊亀山天龍資聖禅寺(れいぎ>ざんてんりゅうしせいぜんじ)と称する。>本尊は釈迦如来、開基(創立者)は足利尊氏、>開山(初代住職)は夢窓疎石である。足利>将軍家と後醍醐天皇ゆかりの禅寺として京都>五山の第一位とされてきた>天龍寺の地には平安時代初期、嵯峨天皇の>皇后橘嘉智子が開いた檀林寺があった。その>後約4世紀を経て荒廃していた檀林寺の地に>後嵯峨天皇(在位1242年 – 1246年)とその>皇子である亀山天皇(在位1259年 – 1274年)は>離宮を営み、「亀山殿」と称した>足利尊氏が後醍醐天皇の菩提を弔うため、大覚寺>統(亀山天皇の系統)の離宮であった亀山殿を>寺に改めたのが天龍寺である。(略)足利尊氏は、>後醍醐天皇の始めた建武の新政に反発して天皇に>反旗をひるがえした人物であり、対する天皇は>尊氏追討の命を出している>いわば「かたき」である後醍醐天皇の崩御に>際して、その菩提を弔う寺院の建立を尊氏に>強く勧めたのは、当時、武家からも尊崇を>受けていた禅僧・夢窓疎石であった。寺の>建設資金調達のため、天龍寺船という貿易船>(寺社造営料唐船)が>天龍寺船という貿易船(寺社造営料唐船)が>仕立てられたことは著名である。落慶供養は>後醍醐天皇七回忌の康永4年(1345年)に>行われた。天龍寺は京都五山の第一として>栄え、寺域は約950万平方メートル、現在の>嵐電帷子ノ辻駅あたりにまで及ぶ広大な>もので、子院150か寺を数えたという>しかし、その後のたびたびの火災により、>創建当時の建物はことごとく失われた。>中世に6回も火災に遭っている。応仁の>乱による焼失・再建後、文禄5年(1596年)>慶長伏見地震にて倒壊>その後しばらくは安泰であったが、江戸>時代の文化12年(1815年)にも焼失、>さらに幕末の元治元年(1864年)、禁門の>変(蛤御門の変)で大打撃を受け、現存>伽藍の大部分は明治時代後半以降のもの>である。結構、京都の中心から離れているのにここも、戦乱などに巻き込まれていたのか。仏殿は新しくなったものであるが王朝の昔を今に残しているのが夢窓疎石の広大な庭園である。詳しくは↓の立て看板を読んで下さい。岐阜県の多治見市にも夢窓疎石のお庭が残された寺院があるので、昔から親しみ深い方だここの他に残された庭園の名をあげると西芳寺庭園、京都市。世界遺産、国の特別名勝天龍寺庭園、京都市。世界遺産、国の特別名勝永保寺庭園、岐阜県多治見市。国の名勝瑞泉寺庭園、神奈川県鎌倉市。国の名勝恵林寺庭園、山梨県甲州市。国の名勝覚林房庭園 、山梨県身延町。町指定文化財ほか>夢窓疎石(むそう そせき)は、鎌倉時代末>から南北朝時代、室町時代初期にかけての>臨済宗の禅僧・作庭家・漢詩人・歌人。別名を>木訥叟。尊称は七朝帝師(しちちょうていし)>宇多天皇9世孫を称する。建仁寺の無隠円範>らに学んだ後、元の渡来僧の一山一寧門下の>首座となったものの印可に至らず、のち>浄智寺の高峰顕日の法を嗣ぐ。夢窓派の祖>後醍醐天皇にその才覚を見い出されて尊崇を>受け、「夢窓国師」の国師号を下賜された。>以降、入滅後も含めると計7度の国師号を>授与され、後世には七朝帝師と称えられる。高さ2メートルもある硯石は、鈴木松年氏が明治32年に法堂に雲龍図を描いた時に墨を摺った硯石だそうで、書画が上達するご利益があるといわれてます中国から伝来したという平和観音の前にある愛の泉は80メートル地下から湧き出る霊水なんだとか。という訳で、嵐山をうろついて次に向かったのは・・・ つづく 2020年3月7日に京都で撮影にほんブログ村
2020年09月28日
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※今回の日記は3月上旬のものです※さてさて、今春に娘と岐阜城に出かけた時の日記を、ここで紹介した事があるが実はそのまま岐阜から、京都へと足を延ばしていたのだ。その当時、都会ではクラスターなど数十人程の感染だったが岐阜県は2名、京都は8名と少なかった本当は、懸賞で当たったUSJ大阪に行く予定だったが、数日前に閉園となっていた既に、その旅行の為にJR東海のぷらっとこだま(帰り用)と、青春18きっぷとを2万円程で購入していたので、これってどうしよう・・・青春18きっぷは、金券ショップで少し安く買ったけど、これ他人がクレジットカードを利用したのを、持ち込んだものだから、未使用でも換金など出来ないし旅行会社で購入をしたぷらっとこだまも既にキャンセル料が必要な時期だったUSJ大阪には今回は行けないが、これは関西方面に予定通り、行くしかないなっともともと次の日には京都に行く予定だったので、ぷらっとこだまは京都からのもので感染者も少ない京都なら大丈夫そうそれに海外のお客さんでごった返していた京都が、昔のように静かさを取り戻しているというのも、逆にチャンスなのかもしれない。関ヶ原の駅にはこのような車両がいたUSJ大阪最寄りのホテルは、無事にキャンセル出来たので、かわりに京都駅付近のホテルの予約をするが、当然だが、かなりお得な宿泊料金だった伊吹山を過ぎると関西に来た感じがする米原駅の近くには、新幹線高速試験車両保存場がある。公開はしてないみたいだが、特別公開もするらしいこれも何かの実験研究とかするものだろうか彦根の伊佐山城は、石田三成の居城だその真横を通るので、いつもカメラを向けてしまうJRの彦根駅の真横には近江鉄道。ここは西武系なので、西武鉄道のお古の車両も走っているそうだ。西武の創業者は滋賀県出身である安土駅近くの安土城郭資料館。近くに織田信長の安土城址もあるが、行った事がない大津の瀬田川? 京都も間もなくだという訳で京尾駅に到着。真ん前には京都タワーが西日を受けて、まるで和ろうそくみたいだし巨大な京都駅では、ついつい上を見上げてしまうこの巨大な階段も、脇にエスカレーターもあるので、一度は一番上にまで行くそこの展望台から夕暮れの京都市街を眺めてみる落日時に間に合い、西の空が色鮮やかな茜色となり、のちに夜の帳が下りてきた私の子供時代はかなり複雑なものでして15室位ある大きな田舎家に、子供のいない伯父夫婦、両親、伯父夫婦の養子になっている長兄親子と大所帯だった私は親が40歳位の子だったので、兄姉よりも甥姪の方が年が近くてサザエさんのワカメちゃんみたいなものかなその叔母の父親は、この家から養子に出ているそうだし何が何だか。江戸中期からの農家で実家は10代を越えているが、何でも長男が家を継げないジンクスがあるそうで元が先妻の子が大人になったので家に残して後妻と家を新たに建てたから、その因縁ではないかとも言われている幕末のご先祖なんぞ、長男と次男のどちらも養子に出して娘に婿を取って、この家を継いだそうだし。その前には本家が後継ぎがおらずうちの長男が養子に行った事もらるらしいまっ長兄も三男の長男だし。娘は嫁に行って外孫いるけど、息子二人は40歳過ぎで独身既に親もいないし、兄嫁は新興宗教に凝っている事もあって私も行く事も殆どない。近くのスーパーで顔をあわす位だ。千葉の次兄の家に行く方が多いくらいか? 今夏も東京オリンピックがあれば姉とのぞく予定でいたが延期になってしまったし私が小学校に上がったころから、教員だった父親が寝付く事が増えて、長期入院などもして経済的に、恵まれてはいなかった。次兄は京都大学に入学をしたが、バイトなどで賄っていたようだ結局、父親は糖尿病による合併症などが悪化し、最後は入院中にストーブに乗っていたやかんをひっくり返して、その湯を浴びて重度の火傷で死亡をした。そんな事から、子供の頃には家族旅行は無縁だった幼稚園の頃に日帰りの地元の日帰りバス旅行に、母親と善光寺に行ったのが最初で次は子供会で名古屋城へ行った覚えがあるお泊りは母親の長兄親子と大阪の妙見山と母親の次兄親子と福井に海水浴というのが初めての海母親とは父親が入院する名古屋の病院に見舞いに行ったのが、2回位なものであと、京都にいる次兄のところに遊びに行った事があっただけ。京都タワーではかっぱ寿司を食べた覚えがある後は修学旅行で奈良、京都、広島といったあたりか。母親とは姫路&京都、明治村に学生期に行った事がある。これだけかなぁで、20歳頃になると1980年代に突入し世の中はバブル!郵便貯金の金利も、国債も10年も持てば倍増する時代で、長兄に勧められて母親は国債のほかに、株なんかも持っていたので多少なりとも金銭的には恵まれていた。私も少しの間だけど働いていたし母親と二人で100万円のヨーロッパ周遊旅行はフランス、ドイツ、スイスオーストリア、オランダ。北海道旅行九州旅行などなど。桜の頃の吉野山や京都哲学の道なども出かけた。友達と奈良ホテルとか、正倉院展にも毎年のように出かけた旦那とは22歳の時に結婚して、初の旅行先は東京ディズニーランド。家族旅行は定番の関西の他に、倉敷、尾道鎌倉、伊豆、北陸で海水浴・・・更に懸賞スタートですよテレビのなすびの懸賞生活に触発をされて懸賞を始めて半年もたたずスペイン旅行があたり娘と。息子とはイタリア旅行。旦那とハワイ旅行。姉と韓国旅行、姪と韓国旅行といった感じの頃もありました今は娘と二人で出かける事が多いです。でこの時も娘と出かけた京都でして、昼飯が午後遅かった事から、夕飯代わりに和風パフェでも食べようという話になって先ほどの階段の上部にある拉麺小路の入り口にある「茶筅」で抹茶パフェを食べました。海外からの観光客も増えて京都には、新しいホテルも幾つも出来ていて、新型コロナで大打撃を受けている訳ですが今回泊まったのは、京都駅から少し南に下ったところの「ホテルアンテルーム京都」で、10年程前に学生寮をリノベーションしたものでしてホテル内はアーティストの作品が飾られたギャラリーや、落ち着いたバーなどもありこじゃれています廊下すらも異空間な感じですまるで自分の部屋にでもいるようなリビングを備えたお部屋でして清潔感もあるし、素敵なホテルでしたこんなホテルが、3月には二人で僅か5600円で泊まれました今はGOTOキャンペーンもあって宿泊料金も、通常期のものに戻っているかもしれませんが、春のホテル料金は、すごい事になっていました照明もかっこいいやホテルの部屋から東の方を。この辺り普通に住宅街。2日目にもこの近くのホテルに泊まるので、チェックアウトをしてから、そちらに事前に荷物を預けて地下鉄でやってきたのは京都のど真ん中四条烏丸です。ここにやってきた理由はモーニングです。ネットで調べたお店がおばんざいが手軽に食べれて、なかなか良さそうで。外観写真、撮り忘れました「京菜味のむら烏丸本店」は朝早くから開いていて、おばんざいの小鉢を好きなものを4つ選べて、ご飯と味噌汁が付き650円です娘は、ご飯を湯葉丼にランクアップをしたもので850円。しかも食後にはセルフでコーヒーなどもいただけます↓1916年の建築で、東京駅や日本銀行の設計もした辰野金吾氏の設計による、旧北國銀行の建物。てな訳で新型コロナの影響が出始めた、3月上旬の京都の旅は続きます 2020年3月6.7日に京都で撮影にほんブログ村
2020年09月23日
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日帰り旅だった割に、中身が濃かったので3回に分けての旅日記。今回は伏見稲荷の後半戦と、八つ橋屋さんへの立ち寄りを紹介したいと思います。更に帰路では・・・前回のスタートに紹介をした表参道にある大きな鳥居の下の狐の像は、本当は参拝の後の帰り際に立ち寄っただけで、実際には北側の神幸道(浦参道)から、伏見稲荷に向かいましたきゃ~、なんだこれは!といった混み具合で千本鳥居は、人だらけになるんじゃないかと心配をしたが全員がそちらに行く訳でもなく知らないのかな? 興味がないとか? 鳥居は願い事が「通った」というお礼で奉納される千本鳥居とか言うが、実際には奉納をされた鳥居の数は1万基位あるらしい。そんなお金はないというなら、気軽に、鳥居の絵馬を買って奉納するのも良いかもしれない。朱色は魔を防ぐと言うが、伏見稲荷では稲荷神の力である豊穣を表す色であるそうだ白狐さんの絵馬は馬みたいなのや、ジャニーズみたいなのも、思い思いに描かれている。時間があれば、私もイケメンのお狐様を描きたいのに羽生ユズや及川ミッチーとか、星野ゲンあたりかな。お公家さんの烏帽子が似合いそうな気もさてさて奥社参拝所の境内には、おもかる石があり、願い事をしてから石を持ち上げて思ったよりも軽いと感じれば願い事が叶うし、重いと感じれば叶わないというので、幾人も並んで順番を待っていた私も持ち上げてみて、軽くも重くもなくってま、これ位だろうな~ってのはどんなもんでしょうね。業の深い人はどんな力持ちでも持ち上がらないんだとかこちらは利き腕でない方で、小石を投げてうまく穴を通れば願いが叶うという「投げ石占い」で、こちらはやらなかった。利き腕でも入りそうもないし江戸期の国学者で伏見稲荷大社の社家の出の荷田春満(かだのあずままろ)を祭っている春満は賀茂真淵の師であり、本居宣長らと並び国学の四大人の一人でもあるそうで、学問の神様となった前回のコメントで、お稲荷さんは怖いというものがあったが、これは神仏習合の荼枳尼天(だきにてん)は白狐に乗る天女の姿で表されるが、起源であるインドのダーキニーは裸身で虚空を駆け、人の心臓を食らう夜叉であった為である(なんだか鬼子母神を思い出す)無論大日如来(毘盧遮那仏)が化身した大黒天にの霊力に心服して善神となり、名だたる戦国武将が信仰していたあとお稲荷様は願い事が叶うと、ちゃんとお返しをする必要があると言われ、それで伏見稲荷大社でも沢山の鳥居が建っている訳だが、私の子供の頃も失くしものを探す時に、近くのお稲荷さんで願って出てきたら油揚げを(袋から出し)お礼にお供えしていた日本三大酒どころといえば、兵庫の灘に広島の西条、そして京都は伏見という訳で月桂冠や松竹梅、黄桜など全国でも名の知れた日本酒の酒蔵が並ぶ。でも大関や白鶴、沢の鶴とかは灘のお酒だけど。その飲み口の違いから灘はキリッとした辛口の男酒で、伏見は柔らかな甘口の女酒らしい明治期に建てられた能舞台(神楽殿?)ではこの後に、ちょっとした神楽?の演奏がされ演者の写真&動画撮影は禁止だった何やら、由緒ありげな日本家屋があった↓詳しくは、このような感じだそうである社家(しゃけ)についてウィキペディアによると・・・・>社家(しゃけ)とは、日本の身分のひとつ。代々>特定神社の神職や社僧の職を世襲してきた家>(氏族)のことである。明治維新後、現代まで>世襲している神職家のことをいう。有名なのは出雲大社の千家で天穂日命を初代とし84代の千家尊祐氏の長男である、千家国麿氏が高円宮憲仁親王の次女の典子女王と結婚をされた伏見稲荷大社の社家の場合、前に紹介した荷田氏と、渡来系の秦氏の両家の分家を合わせ15家があった。3家は境地に居住し、12家は社頭に居を列ねたそうだ現存する旧社家は大西家である。そうそう海外の人に千本稲荷が知られたキッカケだが、ネットによるとチャン・ツィイー主演の映画「SAYURI」で主人公が子供時代に、ここを駆け抜けるシーンがあったからだとか↑ユーチューブ予告編でも千本鳥居のシーンがある他に嵐山の竹やぶも出てくるし。それにしても中国女優がゲイシャを演じるとは・・・伏見では粘土を産しており、古くから土師器が焼かれ稲荷山の土に物を利する霊験があると言われ、江戸期には、京都を経由する旅人や商人、西国大名の参勤交代行列により伏見人形は日本各地に伝わって、それぞれの土地の土人形・郷土玩具の原型となったそうだ。蔵元はかつては数十あったが衰退し、今では「丹嘉」一カ所だけらしい伏見稲荷の名物グルメは小鳥の丸焼き(雀)だけど、それは苦手なので、ガイドブックで見つけた、いなり煎餅を購入する事にしたキツネのお面は、よく名古屋のどまつりで豊川方面の踊り手が、つけていそうな感じ鳥居のマスコットの横には、相撲レスラーのTシャツがどすこい。名古屋場所が始まっているが大関が次から次に離脱で、結局は横綱になってしまうのかこちらはJR奈良線の電車で踏切では、レンタル着物女子も待っていたそして今度の踏切は、京阪本線の電車のだ踏切の横にあった京阪電車の伏見稲荷駅にはこんなカワイイ、看板キツネがちょこんとお出迎えしてくれていた駅横には、どど~んと白狐のコインロッカー白狐の自動販売機駐車場の近くには忍者~。特に伏見稲荷に関係もないと思うが、外国人受けするのだろう。でも近くの伏見城には甲賀忍者も馳せ参じているそうだから、まっいいかそういった訳で、最後に立ち寄ったのはお買い物タイムと言う訳で、江戸後期の文化二年創業の老舗「井筒八つ橋本舗」だ生チョコレートとか生キャラメルと同様で本来の八ツ橋はカタイおせんべいであった箏曲の祖である八橋検校を偲び箏の形を模したことに由来するとする説や伊勢物語の第九段「かきつばた」の舞台である「三河国八橋」にちなむとする説などがあり聖護院八ツ橋総本店、本家西尾八ッ橋、聖光堂八ツ橋總本舗、八ツ橋屋西尾為忠商店、おたべといった総本店や本家や本舗がいろいろ・・・「夕子」は、 水上勉の小説「五番町夕霧楼」の主人公、片桐夕子から名付けられたそうだ京都八つ橋商工業協同組合に属すのは14社で聖護院八ツ橋総本店のお嬢さんが伏見の酒蔵の御子息と結婚したとか、昨年の葵祭の斎王は本家西尾八ッ橋のお嬢さんだとか京都においてかなりウェートの高い業界、お家柄らしいうちの娘はあんこが苦手なので、短冊形の生の八つ橋や、カタイ本来の八つ橋の方が好きだ店舗の前のお水だが、ちょっと読みにくいが↑こんなお水らしい店の前にはなぜだか坂上田村麻呂像についてネットニュースに紹介がしてあったのでリンクを↓。詳しくはこちらをご覧ください「滋賀と京都が一丸に」 坂上田村麻呂像が除幕式そして天智天皇(中大兄皇子)の石像もあった白村江の戦いで大敗し、飛鳥より近江国大津に遷都をした天智天皇は、「扶桑略記」によると馬で山科に行き行方不明になり、そのまま戻らなかったとされ、沓が見つかった山科に陵墓が造られたと言われてもいる>東海道、逢坂関の西側に位置する近江国追分(髭>茶屋追分)を発祥の地とする。寛永年間(1624- >1644年)のころに仏画として描かれ始めた。当初は>信仰の一環として描かれたものであったが、やがて>世俗画へと転じ、加えて18世紀ごろより教訓的・>風刺的な道歌を伴うようになった。ウィキペディアより八つ橋の他に大津絵も売っていた。ちょっと欲しかった>大津算盤(おおつそろばん)は、日本式のそろばんの>ルーツ。かつては「算盤といえば大津、大津といえば>算盤」と全国的に名を馳せた。現代のものと異なり、>五つ玉が2つある。(中略)現代において生産高8割を>占める播州そろばんは、 天正年間の三木城落城に>際して大津に避難してきた人々が、技術を習得し>持ち帰ったものである。 ウィキペディアより江戸期の京都付近の街道は、人や馬の通る人馬道とは別に、二列に花崗岩の車石が敷かれている一種の軌道(車道)があり、その上を牛車の車輪が通ることから輪通り石、輪石、輪形石などと呼ばれていた石の右上に恵比寿さんが浮き出ているそうだこうして宝石店、宇治で昼食、伏見稲荷大社井筒八つ橋本舗追分店(本店は京都祇園)とまわって、京都東インターからバスは名神に入ったが10分もしないうちに大渋滞となり、全く動かなくなってしまった。すぐ先で、外国人観光客を乗せた大型観光バスが渋滞する車列の最後尾に突っ込み、死傷者も出た大事故が起き救急車や消防車が幾台も路側帯を走って行った遠くに赤色灯が見えるくらい事故現場は近くであと時間が少し違えば、事故に巻き込まれていたかもしれない2時間程の通行止めとなったが、1時間ほどしてすぐ横の草津パーキングエリアにバスが駐車したのでトイレなどの心配はなかった。通行止めが解除されると、パーキングエリアから本線へと戻ったので、事故の現場を通過する事もなかった本当に事故は他人事じゃない。今回も500円の任意の保険に入ったが、これからも保険はかけておこうと思った予定よりも2時間程遅くなって、夜遅くに自宅に到着。無料で貰ったのはパックシートが3枚と八つ橋1つ自腹で購入したのは井筒の八つ橋と、生八つ橋蕎麦ぼうろと、伏見稲荷で購入したおみくじの入ったいなり煎餅。最後にお稲荷さんに油揚げをお供えするというのの由来は、ウィキペディアによれば>俗に「キツネの好物」とされ、故に稲荷神には>油揚げを供える。キツネの好物とされた由来には>諸説あるが、昔話などではキツネの好物はネズミの>油揚げとされており、殺生を禁じた仏教の影響も>あってかわりに豆腐の油揚げを供えたものという。 令和元年5月24日に京都で撮影にほんブログ村
2019年07月16日
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コンコンコン!と、このキツネが見たいと思っていた。伏見稲荷は以前にも何度か出かけた事があるが、いつも京阪電車の伏見稲荷駅からのルートで、このキツネの像のある入り口には行った事がなくってガイドブックか何かで、伏見稲荷の紹介でこのキツネの像が載っているのを見つけて一度、見てみたいなぁと思ってましたが今回は見つけられましたよ。口には金色の稲穂が・・・なかなか愛らしい顔をしてますこっちは前回で紹介したJR奈良線の稲荷駅の目の前にあるようですね。真横には大っきな鳥居があります。それをくぐって参道へとかなりの参拝者がおいでになるようですね。既にインスタ映えをすると、外国人観光客からは日本有数の観光スポットでしたし、修学旅行の生徒や日本人団体客などなど・・・さて今回のバス旅行では、徒歩10分近くはかかる観光バス用の駐車場で下車して、ほとんど一本道を自分たちで伏見稲荷(途中まで添乗員さんが引率)まで出かけ、集合時間前に下車した観光バス駐車場まで戻ってくるという自由行動で、時間も少し長めあまり広いとは言えない、街中の観光バス駐車場は次から次へと団体バスがやってくるので、下車時に10分以内に駐車場から出て、他の所で時間を潰し今度は集合出発時間の10分のみ、また駐車場に入車が出来るというシステムで添乗員さんから、早く戻ってきてもバスはいないし絶対に、集合時間には遅れないようにして下さいと念を押された。伏見稲荷までは迷う事はないにしても途中に京阪電車とJRの線路の踏切があるので、そのあたりの時間も考えて戻ってくる必要がある日本人は神社もお寺も、教会すらもあんまり抵抗のない宗教観だから、神社も平気で参拝をしてる人が殆どだと思うけど、様々な宗教を持つ海外の皆さんは神社仏閣、どんな気持ちで参拝されてるんだろうやっぱり文化財みたいな感じで、参拝ではなく鑑賞目的なのだとは思うが、伏見稲荷は京都の世界遺産には選ばれていない。赤い鳥居での写真がSNSで話題になって、海外の皆さんが押しかけているのだけど京都での世界遺産の神社仏閣は、次の通りで賀茂別雷神社(上賀茂神社) 賀茂御祖神社(下鴨神社)教王護国寺(東寺) 清水寺 延暦寺 醍醐寺仁和寺 平等院 宇治上神社 高山寺 西芳寺(苔寺)天龍寺 鹿苑寺(金閣) 慈照寺(銀閣) 龍安寺 西本願寺 二条城唯一、苔寺だけ行ったことが無い。ここは予約も必要だし、拝観料もお高い事もあって、なかなか行こうという気持ちにもなれなくて。修学院離宮や桂離宮とかも事前に予約が必要だが、無料なのでしっかり出かけた事があるうちの息子など友達と奈良に出かけた時に、東大寺大仏殿の前まで行きながら拝観料が高いので、入るのやめたそうで、あそこまで行きながら~。奈良まで行ったのに・・・と呆れたものだがわざわざ海外から京都へやってきた観光客には、予約も必要なく、参観時間もなく、しかも無料で、アクセスも良い神社は良い観光先であろう。ここ伏見稲荷と他にも八坂神社とかは、私も近くに行くとまず参拝をさせて貰っているし・・・さてさて、寺の門には阿吽の仁王さんがおいでになるが神社では「随身像(ずいじんぞう)」となる。向かって右が左大臣で、左は右大臣だそうで、左大臣の方が高位なので老人の姿をしており、右大臣は若かったりもする仁王同様に阿吽の口元をしているが、これはウィキペディアによれば>阿吽(あうん、サンスクリット語: अहूँ 、a-hūṃ)は>仏教の真言の一つ。古代インドのサンスクリットの>悉曇文字(梵字)において、a(阿)は全く妨げの>ない状態で口を大きく開いたときの音、m(hūṃ、>吽)は口を完全に閉じたときの音である。>悉曇文字の字母の配列は、口を大きく開いたa(阿)>から始まり、口を完全に閉じたm(hūṃ、吽)で>終わっており、そこから「阿吽」は宇宙の始まり>から終わりまでを表す言葉とされた。宇宙のほか>にも、a(阿)を真実や求道心に、m(hūṃ、吽)を>智慧や涅槃にたとえる場合もある。>阿吽は宗教的な像にも取り入れられ、口を開けた>阿形(あぎょう)と口を閉じた吽形(うんぎょう)の>一対の像は、神社の狛犬(本来は獅子と狛犬の一対)>などにみられる。また、寺社の金剛力士像(仁王像)や>沖縄のシーサーなどにも口を開けた阿形と口を閉じた>吽形がみられるキツネばかりの伏見稲荷でも、普通の神社のように狛犬もいた。さてさてお稲荷さんでキツネがいるのは前回の宇治神社でのウサギみたいなエピソードでもあるのだろうか。そんな訳で伏見稲荷大社についてウィキペディアにどう書いてあるかを紹介すると>伏見稲荷大社(ふしみいなりたいしゃ)は、京都府>京都市伏見区深草にある神社。旧称は稲荷神社。>式内社(名神大社)、二十二社(上七社)の一社。>旧社格は官幣大社で、現在は神社本庁に属さない>単立神社。稲荷山の麓に本殿があり、稲荷山全体を>神域とする。>全国に約3万社あるといわれる[1]稲荷神社の総本社>である。初詣では近畿地方の社寺で最多の参拝者を>集める(日本国内第4位〔2010年〕)。現存する旧>社家は大西家。祭神は以下の五柱。これらの神々は>稲荷大神の広大な神徳の神名化とされている>主祭神である宇迦之御魂大神を中央の下社、佐田彦>大神を中社、大宮能売大神を上社に据え、明応8年>(1499年)に本殿に合祀された左右の摂社、田中>大神・四大神とともに、五柱の神を一宇相殿(一つの>社殿に合祀する形)に祀っている>稲荷神は元来、五穀豊穣を司る神であったが、時代が>下って、商売繁昌・産業興隆・家内安全・交通安全・>芸能上達の守護神としても信仰されるようになった>摂社の祭神、田中大神と四大神については由緒が>はっきり分かっておらず、伏見稲荷大社では「稲荷神と>何らかの深い関わりがある地主神、あるいは土着神>的傾向が濃厚」としている>下社の摂社に祀られる田中大神は、その名のとおり>田の神ではないかと考えられるが、かつては大己貴神や>猿田彦神、鴨建角身命などとも同一視された。中社の>摂社に祀られる四大神についても諸説があり、一柱の>神名なのか、四柱の神の総称なのかも明確には分かって>いない>「イナリ」の縁起としては『山城国風土記』にあったと>されるものが有名である。(中略)秦氏と賀茂神社との>関連や、秦氏が和銅年間に稲荷社の社家となったことを>伝えている。社伝には、当時に全国的な天候不順で>作物の不順が続いたが、勅使を名山大川に遣し祈請>すると加護があって山背国の稲荷山に大神を祀ると、>五穀が稔って国が富んだ、とも伝えている。>上述の『山城国風土記』に見られるように、「イナリ」の>表記はもともと「伊奈利」の字が当てられていたが、>『類聚国史』にある淳和天皇の天長4年(827年)正月>辛巳の詔で初めて「稲荷」の表記が用いられた(中略)>また、東寺に伝わる『稲荷大明神縁起』では(大意)>ある書物では、100年の昔の和銅年間から竜頭太という>者が稲荷山の麓に家を構えて住んでおり、昼は田を>耕し、夜は山に入って薪を求める仕事をしていた。>その顔は龍のようだった。頭の上に光放つものがあり>夜でも昼のように明るかった。姓は荷田、名は竜頭太と>いった。これは稲を背負っていたからという。(中略)>空海はその顔を面に写し神体として祀り、それからは>収穫が絶えることがなくなった。この面は東寺の>竃戸殿に祀ってある。この竜頭太という山の神こそが、稲荷神であるそうだちょっとまて。弘法大師は出てきてもキツネは出てこないという事で、ウィキペディアで続きを・・・>稲荷神(いなりのかみ、いなりしん)は、稲を象徴>する穀霊神・農耕神。「稲荷」とは食物の神(ウカノ>ミタマ)、キツネ(御食津神)、油揚げ、稲荷寿司>旅芸人が町回りで立てる細長い旗などを指す言葉。>「稲成り」の意味だったものが、稲を荷なう神像の>姿から後に「稲荷」の字が当てられたとされる。>もとは古代社会において、渡来民の秦氏から伝わった>氏神的な稲荷信仰であり、秦氏の勢力拡大によって>信仰も広まっていった。本来の「田の神」の祭場は>狐塚(キツネを神として祀った塚・キツネの棲家の>穴)だったと推測されるが、>近世には京都の伏見稲荷を中心とする稲荷信仰が>広まり、狐塚に稲荷が祀られるようになった。五穀を>つかさどる神・ウカノミタマと稲荷神が同一視される>ことから、伏見稲荷大社を含め、多くの稲荷神社では>ウカノミタマを主祭神としている>稲荷は穀物・農業の神だが、現在は商工業を含め産業>全体の神として信仰されている。稲荷神は神仏習合>思想において仏教の女神である荼枳尼天とも習合した>ため、仏教寺院で祀られることもある。稲荷神を祀る>神社を稲荷神社と呼び、京都市伏見区深草にある伏見>稲荷大社が日本各所にある神道上の稲荷神社の総本宮>となっている。伏見稲荷大社では、狐は稲荷神の神使と>される>伏見稲荷大社は狐を稲荷神の神使とし、稲荷神そのもの>ではないと述べていたり、また最上稲荷は白狐を稲荷神>(最上位経王大菩薩)の御眷属(お使い)と述べて>いたりするように、一般的に寺社においては祭神と狐は>区別されている。民間伝承においては、稲荷と狐はしば>しば同一視されており、例えば『百家説林』に「稲荷と>いふも狐なり 狐といふも稲荷なり」という女童の歌が>記されている。>また、稲荷神が貴狐天皇(ダキニ天)、ミケツ(三狐・>御食津)、野狐、狐、飯綱と呼ばれる場合もある。 日本>では弥生時代以来、蛇への信仰が根強く、稲荷山も古くは>蛇神信仰の中心地であったが、平安時代になってから>狐を神使とする信仰が広まった。稲荷神と習合した宇迦之>御魂神の別名に御饌津神(みけつのかみ)があるが、狐の>古名は「けつ」で、そこから「みけつのかみ」に「三狐神」と>当て字したのが発端と考えられ、>やがて狐は稲荷神の使い、あるいは眷属に収まった。なお、>「三狐神」は「サグジ」とも読む。かつて「シャグジ(石神)」>または「三狐神(シャグジ)」であった岩屋(神)が、後に>稲荷神・ウカノミタマを祀る神社となった事例もある。時代が>下ると、稲荷狐には朝廷に出入りすることができる「命婦」の>格が授けられたことから、これが命婦神(みょうぶがみ)と>呼ばれて上下社に祀られるようにもなった。>上記されているように稲荷神は元々は農業神であるが、>狐は穀物を食い荒らすネズミを捕食すること、狐の色や>尻尾の形が実った稲穂に似ていることから、狐が稲荷神の>使いに位置付けられたとも言われる。江戸時代に入って>稲荷が商売の神と公認され、大衆の人気を集めるように>なった。またこの頃から稲荷神社の数が急激に増え、>流行神(はやりがみ)と呼ばれる時もあった。>また仏教の荼枳尼天は、日本では狐に乗ると考えられ、>稲荷神と習合されるようになった。今日稲荷神社に>祀られている狐の多くは白狐(びゃっこ)であると言った事らしいです。ハイ・・・・。といった事を長々、説明しているうちに写真は有名な千本鳥居へこのフォトジェニックな朱色の千本鳥居が大人気でトリップアドバイザーで日本の観光地ランキングでは1位を誇っている(2位は広島の原爆資料館)。海外の方の姿も多かったけど、老若男女を問わずたくさんの人で、この子たちは修学旅行中の男子学生みたいだがレンタル着物で京都をまわるのも楽しそうあちらの着物のお嬢さんは、海外からのお客様のようだ。外国の若い人に日本が人気なのも、このレンタル着物も一役買っているのかも。気候的に京都は夏はむちゃくちゃ暑いし、冬は底冷えだし桜の春に、秋の紅葉。5月も観光には適していたしかもかなりの良い天気日差しが鳥居の隙間から、差し込んで良い感じだしたくさんの人が訪れる伏見稲荷の鳥居だけど、狭い一方通行の千本鳥居の奥の方も、ずっと鳥居が続きそちらの方は人も少ない。まず海外の皆さんだけだ千本鳥居も、人がぱっと少なくなるタイミングもあったりするし、私はぐるっとまわってきて入口からもう1度・・・前に紹介した境内図にあるように、社殿の背後にある標高232メートル。一ノ峰・二ノ峰・三ノ峰と三つの峰がある稲荷山が神体山で、朱色の鳥居で結ばれた先に様々な神様が祭られている。千本鳥居の奥にあるのが奥社参拝所(奥の院)からお参りが出来る前に娘と稲荷山をぐるっと参拝をさせて貰ったが今回はそのような時間がないので、ここまでで引き返すことにした。と言っても千本鳥居をもう一度、ぐるっと出来るだけの時間はあったけど表からなだと朱色だけで無地な鳥居も、帰りに裏側から見ると参拝者の名前と、奉納した日が書かれている。人の名前の入っているのとかはどうもなぁ~と思うところだが、漢字の読めない海外の方は、漢字がクールだとこちらの方が人気だそうだウィキペディアによれば>鳥居(とりい)とは、神社などにおいて神域と人間が>住む俗界を区画するもの(結界)であり、神域への>入口を示すもの。一種の「門」である。稲荷神社などの>鳥居が朱色であるのは、古来その色が生命の躍動を>表し災いを防ぐとして神殿などに多く使われたためで、>これが鳥居にも影響しているとされる>鳥居の起源については諸説あり、考古学的起源に>ついてはっきりしたことは分かっていない。単に>木と木を縄で結んだものが鳥居の起こりであると>考えられる。文献に徴すれば古くは「於不葦御門>(うへふかずのみかど)」(皇太神宮儀式帳)と>称して、奈良時代から神社建築の門の一種として>いる。いずれにせよ、8世紀頃に現在の形が確立>している。と言った訳で、前回にもましてウィキペディアによる説明文ばかりになってしまって申し訳がありませんでした。稲荷や狐、鳥居については少しは興味持たれたでしょうか。中身が濃すぎる無料招待の日帰りバス旅行、まだ1回あります! ではでは 令和1年5月24日に京都で撮影にほんブログ村
2019年07月11日
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さてさて前回の懸賞当選報告でも、少し紹介しました、いつもの日帰りバス旅行無料招待いつものように一人で出かけたけど、今回もとても良い方がお隣で、楽しい一日でしたよまずは、お決まりの宝石屋さんで90分間のショッピングタイム。誕生石クイズで当たりパックのシートを今度も貰いましたが、お隣の奥さんも当たった♪と、ニコニコされてましたこの宝石は、コンクールとかに出すやつらしく撮影が出来る入口の部屋で今回はお買い上げになった方がいるらしくその手続きなのか、バスの発車が遅れたので先程のパックのシートをバス全員にも配ってくれました。バスは木曽川を超え名神高速を西へと向かい昼頃には、昼食場所の京都の宇治に到着!家族旅行などを含めて、宇治は今までに数度は来ているが、嵐山同様に風光明媚でいいところだなぁ~川の畔の喜撰茶屋で、団体料理をいただきますが、今までは早くに食べても、土産物屋を見物する位でしたが、ここならお散歩に行けそうだし!お店のホームページを見たところ、たぶん1500円位のお料理かな。冷たくなった天ぷらは湯豆腐に投入し、温かで美味しくなりました。お散歩時間確保の為に早食いしちゃいまして集合時間までの時間はありますし、早足ではありますが、宇治の散歩に行くぞ~宇治に来ると、平等院が満足度が高いし抹茶パフェとか食べに行くので、実の話川の向う(東側)は行った事が無いのだまずは朱色の喜撰橋を渡る鵜飼いと言えば、岐阜市の長良川が有名だけど、ここ宇治でも鵜飼をやっているようだ。私は岸からだけど以前に嵐山で泊まった時に、遠くから鵜飼を見た事があるお~~、鵜がいるよ♪ 鵜飼についてウィキペディアで、紹介させて貰うと>鵜飼い・鵜飼・鵜養(うかい)は、鵜(ウ)を>使ってアユなどを獲る、漁法のひとつ。中国、>日本などで行われていた。現在では漁業という>より、観光業(ショー)として行われている>場合が多い。 また、ヨーロッパでは16世紀>から17世紀の間、スポーツとして行われた。>鵜飼いの歴史は古く、『日本書紀』神武天皇の>条に「梁を作つて魚を取る者有り、天皇これを>問ふ。対へて曰く、臣はこれ苞苴擔の子と、>此れ即ち阿太の養鵜部の始祖なり」と、鵜養部の>ことが見え、『古事記』にも鵜養のことを歌った>歌謡が載っている。>天皇の歌に「しまつとりうかひかとも」とある。>また中国の史書『隋書』開皇二十年(600年)の>条には、日本を訪れた隋使が見た変わった漁法と>して『以小環挂鸕鷀項、令入水捕魚、日得百餘頭』>(小さな輪を鳥にかけ日に100匹は魚を捕る』と>記されている。>延喜年間(901年 - 923年)には長良川河畔に>7戸の鵜飼があり、国司藤原利仁により鮎が献上>された。そして、それを時の天皇が気に入り、>方県郡七郷の地を鵜飼に要する篝松の料として>賜り、鵜飼七郷と読んだ>『和名抄』には美濃国方県郡の鵜飼が掲げられ、>『集解釈別記』には鵜飼37戸とあり、『新撰>美濃誌』には方県郡鵜飼の郷9箇村とある。>文明年間(1469年 - 1486年)、一条兼良が>美濃の正保寺に滞在し鵜飼を見物した記録が>ある。>永禄7年(1564年)、織田信長は長良川の>鵜飼を見物し、鵜飼それぞれに鵜匠の名称を>授け鷹匠と同様に遇し、1戸に禄米10俵を>当て、給与した。う~む、古くから鵜飼されていたんだ。しかも美濃国の長良川河畔でされていたとは。岐阜県民だというのに見物したことが無い「浮島」「浮舟ノ島」などの人工島の一つである「塔の島」には、現存をする近世以前の石塔では日本最大(約15.2メートル)の十三重石塔が建つこれは鎌倉時代に、宇治橋の大掛かりな修造がされ宇治川の川中島として、大橋の南方に舟を模した人工島を築き、放生会を修する祈祷道場とした宇治川で漁撈される魚霊の供養と、橋の安全の祈念を旨にして島の中央に大塔婆が造立されたそうである島は宇治川の氾濫にも耐えて、激流に浚われる事が無く「浮島」「浮舟ノ島」と呼ばれるようになったが大塔は氾濫の被害を受けて、倒伏と修復を繰り返し江戸時代に起きた氾濫で倒伏し、川底の泥砂に埋もれ明治末に発掘されて再建をした。国の重要文化財だ近江より奈良へ帰る途中、宇治川付近で歌われた柿本人麻呂の歌碑があった。「宇治川の網代木で一時停滞し、やがて行方知らずとなる波のように滅びさった近江の都に仕えていた人々はいったいどうなったのであろうか」との意で、もののふの八十氏河(やそうじがわ)の網代木(あじろき)にいざよふ波の行く方しらずもこちらは橘橋と言うらしい。時間がないので渡らず遠くから、眺めて拝観終了宇治川の向こう岸には、道元が興聖宝林寺を建立した事に始まる、日本の曹洞宗としては最初の寺院となった興聖寺。宇治川に面した総門より本堂に通じるまでの緩やかな参道は「琴坂」と呼ばれ、宇治十二景の1つにも数えられている更に、源氏物語の宇治十帖に縁があるという「手習観音(聖観音)」が安置されているというので、いつかは参拝に出かけたいけど今回も時間的に無理のようだそして宇治川と言えば、源義仲と鎌倉の源頼朝から派遣をされた源範頼、源義経との宇治川の戦いとしても有名で、佐々木高綱と梶原景季の宇治川の先陣争いなどもそれに先んじて、以仁王(高倉天皇の兄宮)と源頼政が平氏打倒のための挙兵を計画し、諸国の源氏や大寺社に蜂起を促す令旨を発したが、準備不足の雨に露見し追討を受けて、以仁王と頼政は宇治平等院の戦い(橘合戦)で敗死をしてしまった単に風光明媚な土地と言うわけではなく、交通の要所がゆえに、歴史に幾たびか登場する宇治だがやっぱり、その名が一番知れ渡ったのは紫式部が執筆した「源氏物語」の存在が大きいと思われる私も子供の頃に、これで宇治の名を知ったとは言っても現代語訳のものだし、光源氏の物語は真剣に読んだけど、亡くなったのちの宇治十帖とか流し読み状態だったが。ここでの主人公は薫の君で光源氏(本当は柏木)と女三宮の息子で、生まれつき体から良い薫がするので、そう呼ばれているこちらは匂宮と浮舟が、小舟の上で愛を語らう場面らしい。匂宮は今上帝の三の宮(第三皇子)で、母は光源氏の娘である明石の中宮で、光源氏の孫となる薫の君に対抗し、薫物(たきもの)に心を砕いており二人は世間から「薫る中将、匂ふ兵部卿」と呼ばれ世間の評判はこの二人に集中していたそうだイケメンでイケイケな匂宮は、薫の君から宇治八の宮の姫君たちの噂を聞き、薫の手引きによって中君と結婚するが、夕霧の娘六の君を北の方に迎えると、中君をないがしろにしてしていた。しかも中君の異母妹である浮舟が、薫君の恋人と知りながらも薫になりすまして契りを結んだ為、浮舟は苦悩のあまり入水を図ったのだもともとが昼食タイムなので、あまり時間がないけどこの神社位なら参拝が出来そうだ。このすぐ近くには世界遺産にも登録されている、宇治上神社もあるが時間のある時にゆっくりと参拝をさせて貰おうかと思う。先程の曹洞宗のお寺や源氏物語ミュージアムなども行きたいしといった訳で今回お邪魔をしたのは、かわいらしい「宇治神社」である。普通であれば龍の口からだがここではウサギだし。中世に宇治茶の象徴としての宇治七名園が作られて、お茶には不可欠な水として「宇治七名水」も定められ、現存する唯一のものがこの「桐原水」で、宇治上神社の境内に沸いているこの樹は「兎楽の樹(うらくのき)」といい、簡単な説明は下の写真をご覧下さい。宇治神社と宇治上神社の御祭神は、ウサギに導かれた菟道稚郎子命である彼は第15代応神天皇の皇子(日本書紀では皇太子)で16代仁徳天皇の異母弟であるそうだ。宇治の地名は古くは宇遅、莵道、兎道などとも表記されており菟道稚郎子の宮があったウィキペディアによると>『日本書紀』によれば、百済から来朝した阿直岐と>王仁を師に典籍を学び、父天皇から寵愛された。>応神天皇28年には、高句麗からの上表文に「高麗王、>日本国に教ふ」とある非礼を指摘し、これを破り>捨てている。応神天皇40年1月に皇太子となった。>翌年に天皇が崩じたが、郎子は即位せず、大鷦鷯尊と>互いに皇位を譲り合った。>そのような中、異母兄の大山守皇子は自らが>太子に立てなかったことを恨み、郎子を殺そうと>挙兵した。大鷦鷯尊はこれをいち早く察知して>郎子に伝え、大山守皇子はかえって郎子の謀略に>遭って殺された。>この後、郎子は菟道宮に住まい、大鷦鷯尊と皇位を>譲り合うこと3年に及んだ。永らくの空位が天下の>煩いになると思い悩んだ郎子は互譲に決着を期す>べく、自ら果てた。>尊は驚き悲しんで、難波から菟道宮に至り、遺体に>招魂の術を施したところ、郎子は蘇生して妹の八田>皇女を後宮に納れるよう遺言をし、再び薨じたという>『播磨国風土記』には「宇治天皇の世」という記載が>あり、事績は見えないがこの「宇治天皇」は菟道稚>郎子を指すと見られている壬申の乱を前にして大海人皇子(天武天皇)も近江を後に吉野へ向かう途中で、ここ宇治にも立ち寄っていたという。宇治川のあたりでの別れ際に、舎人たちは大海人皇子の吉野行きを「翼をつけた虎を野に放したようなものだ」と言ったそうだそんなこんなの歴史の端々に登場する宇治、歴史ファンならば妄想モード最強になれるのは間違いなし。宇治川の東側のこの道をさわらびの道といい川の西側はあじろぎの道で、良い散策路になっている万葉集にある詠み人知らずの歌宇治川は淀瀬無(よどせな)からし網代人(あじろひと)舟呼ばふ声をちこち聞ゆ現代においては宇治と言えば、やっぱお茶という事で、さわらびの道沿いに「福寿園 宇治茶工房」があったので、次に来た時には立ち寄りたいが時間もないので、そろそろ戻るとするかお昼をいただいた喜撰茶屋で、50円の割引券を貰っていたので、喜撰ソフトをぱくり。八つ橋がささっているよ自分が喜撰ソフトになる事も出来るし♪ と言った訳で集合時間になったので、バスに乗車して、今回のメインの伏見稲荷大社へと向かう事にするバスの車窓からは宇治の縣神社。大和政権下における県(あがた)に関係をする神社と見られ1052(永承7)年に、藤原道長が別業(別荘)を寺院である平等院とする際、鎮守としたそうだ「宇治橋」は「瀬田の唐橋」と「山崎橋」と共に日本三古橋の一つに数えられ、日本霊異記に道登が宇治橋を架けたのは、646(大化2)年と伝えられている。古今和歌集や紫式部の源氏物語に登場し、能の「鉄輪」で登場する橋姫伝説でも有名である現在の橋は、1996(平成8)年に架け替えられ長さは155.4m、幅25m。橋の姿が宇治川の自然や橋周辺の歴史遺産と調和するよう、擬宝珠を冠する木製高覧という伝統的な形状を使用している宇治へは京都から京阪宇治線と、JR奈良線があり京阪は宇治が終着となるが、JRは宇治川を渡って奈良へと。この電車はJRの「みやこ路快速」だ昨日あたり、娘が最近は奈良に行っていないし、久しぶりに京都や奈良とかに行きたいなぁ♪なんて嬉しい事を言っていたので、この夏は関西地方に出かける事が出来るかも♪秀吉が隠居の為に建てた伏見城は、戦いも経て、関ヶ原の戦いで勝利した家康が再建をしたが、一国一城令で二条城を残し伏見城は廃城となり、一帯には桃が植えられ桃山と呼ばれたそうだ。戦後になって遊園地が出来模擬天守も作られた 令和1年5月24日に京都で撮影にほんブログ村
2019年07月02日
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長らくここで紹介をしてきた10月末と11月中旬の国宝展目当ての京都行きの紹介も、いよいよ最後の回となりました2度目の京都。11月16日の最終日に出かけた先は・・・黄金の菊の御紋と、桐の紋のある由緒ありげな立派な門。真言宗醍醐派総本山醍醐寺の塔頭の三宝院(さんぼういん)にある国宝の唐門である。菊と言えば皇室そして桐は豊臣秀吉の紋として有名でありここは秀吉が醍醐の花見を行った寺である本来は三宝院の為に造られたものでなくて違う場所に建立する予定のものが、ここに建立されたたしく、北政所の寄進によって前田玄以の奉行により建立されたと伝わる桃山時代の門で、2011年の改修により黒漆塗が施され一層、立派になったウィキペディアの記述を引用すると>永久3年(1115年)、左大臣 源俊房の>子で、醍醐寺14代座主勝覚が灌頂院>(かんじょういん)として開き、後に>仏教の三宝にちなんで現在の名に改めた。>応永3年(1396年)に足利義満の猶子と>なって醍醐寺座主に任じられ、続いて>准三后となり、後には足利義教の室町>幕府将軍擁立にも活躍するなどした。>以後、歴代院主が醍醐寺座主を兼ねる>慣例が成立する>古くから醍醐寺は真言宗系の修験の>中心であったが、この頃から三宝院が>真言宗系の修験者、山伏の取締にあたる>ようになる。(中略)応仁の乱で三宝院が>焼失し廃寺同然となるが、>安土桃山時代に醍醐寺金剛輪院の院主で>あった義演は豊臣秀吉の信頼が厚かった>ため、同院を中心に有名な醍醐の花見が>開かれた。義演は准三后となり、秀吉の>許可を得て三宝院32世を名乗り、金剛輪院を>三宝院と改称した>桜で有名な醍醐寺三宝院庭園はその時期に>整備された。義演は徳川家康からも信任を>受け、江戸時代初期の天台宗系修験道で>ある本山派本山の聖護院との相論では江戸>幕府の支援を受けて、慶長18年(1613年)に>修験道法度が制定された。この中央の3つの石は阿弥陀三尊を表す「藤戸石」であるが天下人が所有するという名石である。源平の戦いで源氏方の佐々木盛綱が、馬で海を渡ろうと思いつき藤戸の渡(倉敷)の浅瀬を土地の若い漁師から教わり、他言をされては先陣を人に奪われてしまうと思い漁師を切り殺した謡曲「藤戸」にも描かれた、漁師を殺した場にあり、浅瀬の目印でもあった藤戸石は勝利へ導いた石として足利義満が金閣寺へ移し、その後は細川典厩家の庭に置かれていたものを、信長が足利将軍の為に建てた二条城に据え置き、後に豊臣秀吉の聚楽第から、花見の為の造園で醍醐寺三宝院へと運ばせた派手好きな豊臣秀吉のエピソードで必ず出てくるのはこの醍醐寺三宝院の山麓で開催をされた醍醐の花見であろう。その様子はウィキペディアの記述によれば>豊臣秀頼・北政所・淀殿ら近親の者を>初めとして、諸大名からその配下の>女房女中衆約1300人を召し従えた盛大な>催しで、九州平定直後に催された北野>大茶湯と双璧を成す秀吉一世一代の>催し物として知られる。>記録に残るその日の輿の順は、1番目に>北政所、2番目に西の丸殿(淀殿)、>3番目に松の丸殿、4番目に三の丸殿、>5番目に加賀殿、その後に側室ではない>前田利家正室・まつが続いた。宴会の>席では、正室である北政所の次に杯を>受けるのを淀殿と松の丸殿が争い>北政所とは家族ぐるみの長い付き合いの>まつが「歳の順から言えばこの私。」と、>申し出てその場をうまく取りおさめたと>いう話が伝わっている。(中略)花見に>招かれたのは女性ばかりで、秀吉・秀頼の>他には唯一前田利家の名が見えるのみである>応仁・文明の乱のあと荒れ果てていた>醍醐寺を復興した中興の祖、第80代座主>である義演は、秀吉の帰依を得て良好な>関係を築いていたが、秀吉の最期が近い>ことを感じ取り、一代の華麗な英雄の>最後にふさわしい大舞台をしつらえる>ために、あちこちにそれとなく手配をして>この醍醐の花見を実現させたともいう。>秀吉はこの約5か月後に没した。花見の>責任者に奉行の前田玄以を任命し、秀吉>自ら下見のために醍醐寺へ足繁く通い、>殿舎の造営や庭園の改修を指揮し、醍醐山の>山腹にいたるまで、伽藍全体に700本の>桜を植樹した>参加した女性たちには2回の衣装替えが>命じられ、一人3着ずつ着物が新調され>衣装代だけで2015年現在の39億円に>相当する金額がかかった ウィキペディアより転載との事で今でも醍醐は桜の名所で、私も桜の頃にも来たことがあるけど、今回は紅葉狩り。庭は撮影OKだが建物内部は撮影禁止なので写真はないが、表書院は醍醐の花見の際して奈良から移された能の楽屋を中門を付加するなど、書院造風に整えたもので国宝に指定をされている更に玄関、勅使の間・秋草の間・葵の間庫裏、宸殿(奥宸殿)、純浄観、護摩堂(本堂)など殿堂6棟の他、 長谷川等伯一派と、石田幽汀による障壁画の数々が重要文化財に指定をされている今週末に最終回を迎える大河のおんな城主直虎だが、海老蔵信長の最後がどうなるかと楽しみだったのにとりあえず死んだらしいと伝聞。ナレ死すらもなくて、桶狭間の戦いをすっとばした大河だけあるわと拍子抜けでやっぱ岩村のおんな城主の方が素材として面白かったんじゃない?旦那は後半の阿部家康が気に入ってしたけど信長に殺されるかもと光秀に吹き込まれて戦々恐々。直虎がわざわざ関西まで出向いて家康の逃げ道の段取りをを作るなんてこじつけすぎ。まっお江が一緒に家康と伊賀越えをしたってファンタジー(妄想)大河もあったけどもうわき役女性を主役にするのは辞めたら?それだけに来年は堂々と西郷隆盛するのは好感が持てるが、西田敏行と鹿賀丈史のイメージがまだ残っている。西田さんの秀吉もぴったりだったなぁ(おんな太閤記)まっ、これは北政所が主役だけど関ケ原のキーパーソンではないかと言われる程だし北条政子や日野富子、春日局にしても別格持統天皇とかやったらいいのになぁ~。天皇家内紛だから古代でも無理なのかなぁ。天智天皇の皇女として生まれ、政略結婚で姉と共に叔父の天武天皇(大海人皇子)に嫁ぎ、甥と夫の確執によっての逃避行から戦乱。戦いに勝利し天皇となった夫を支えて(姉は既に亡くなっている)病弱な息子を天皇にするべく有力な皇子を策略で追い落とし(姉の忘れ形見も)たが息子が亡くなると、7才の孫を天皇にするまではと、自分が皇位につき藤原不比等という優秀な腹心もいた事もあって、律令国家建設を推し進めた、類まれな才能と行動力を持った女帝であったと断線しましたが三宝院から、今度は醍醐寺の広大な境内へと向かいました。その入り口には西大門(仁王門)。豊臣秀頼が再建したものでそこに安置された仁王像(重文)は、もともとは南大門に祀られていた尊像で、平安後期に仏師勢増、仁増によって造立された尊像である醍醐寺についてウィキペディアによれば>真言宗醍醐派総本山の寺院。山号を>醍醐山(深雪山とも)と称する。本尊は>薬師如来、開基(創立者)は理源大師>聖宝である。古都京都の文化財として>世界遺産に登録されている。>醍醐寺の創建は貞観16年(874年)、>空海の孫弟子にあたる理源大師聖宝が>准胝観音並びに如意輪観音を笠取山>頂上に迎えて開山、聖宝は同山頂>付近を「醍醐山」と名付けた。>醍醐寺は山深い醍醐山頂上一帯(上醍醐)>を中心に、多くの修験者の霊場として>発展した後、醍醐天皇は醍醐寺を自らの>祈願寺とすると共に手厚い庇護を掛け、>その圧倒的な財力によって醍醐山麓の>広大な平地に大伽藍「下醍醐」が発展>することになる。>その後、応仁の乱など戦乱で下醍醐は>荒廃し、五重塔のみが残された。しかし>豊臣秀吉による「醍醐の花見」をきっかけ>に、紀州などから寺院建築が移築されたり>三宝院が建設されたりなどし、今日の姿>となった。国宝の金堂であるが>入母屋造本瓦葺き。正面7間、側面5間。>平安時代後期建立。豊臣秀吉の発願に>より紀州から移築したもので、慶長3年>(1598年)から移築を開始し、秀吉>没後の慶長5年(1600年)に落慶して>いる。当初は紀州湯浅の満願寺本堂で>あったという。>部材には平安時代のものが残るが、堂が>湯浅にあった鎌倉時代に改修を受けており、>移築時の桃山時代の手法も混在する。内部>には本尊薬師三尊像(重要文化財)を>安置する ウィキペディアより転載同じく国宝の五重塔は>天暦5(951)年建立。承平元(931)年>その前年に亡くなった醍醐天皇の冥福を>祈るために第三皇子の代明親王が発願し、>穏子皇太后の令旨で建立が計画された。>しかし、代明親王の死去(937年)などの>影響で工事は停滞し、発願の20年後に>完成した。>総高38メートル。うち相輪部が12.8メートル>で、全体の3割以上を占める。創建以来修理を>重ねたが、特に天正13年(1585年)の地震>では一部の軒が垂れ下がるなどの甚大な>被害を受けたため、豊臣秀吉の援助で慶長>3年(1597年)に修理が完成している>京都に残る数少ない平安時代建築として>貴重であるとともに、初重内部の両界>曼荼羅と真言八祖を表した壁画も平安>絵画の遺品として重要であり、塔本体>とは別に「絵画」として国宝に指定>されている。今回は行く気にもならなかったが、下醍醐に対してお山の上には、上醍醐にも伽藍が幾つもあって国宝の薬師堂とか、国宝の清滝宮拝殿などもあり、お寺の名の由来となった醍醐水という霊泉もわいている下醍醐から上醍醐までは、山道を1時間ほど登らなければならず、まだ若い頃に一度だけ参拝をさせていただいたが、キツかった覚えが標高450メートルの醍醐山の山上にある今回出かけた京都のお寺は、南禅寺や青蓮院、知恩院といいどこも格式も高くて、歴史もある権力者に近しいお寺ばかりを紹介したけど、ここももう、どこもかしこも国宝だ、重要文化財だとわんさか上醍醐の薬師堂にはかつて、国宝の薬師三尊像重要文化財の閻魔天像、帝釈天像、千手観音像といった諸像があったのだが、今は防犯&保存から下醍醐にある最新の設備を持った霊宝館に保管&展示がされている五重塔など数棟の建造物の国宝の他にも、絵画9件、彫刻(仏像)二体、文書&書籍は7件と24件の国宝があり、重要文化財に至っては快慶の仏像や俵屋宗達の屏風絵など、数十件は軽くありそうだ。国宝展にでかけなくても国宝が幾つも拝見できるなんでも仏像・絵画・工芸品など10万点以上の寺宝があるそうだ。なんでこんな膨大な数になるかというと文書とかお経などは1件あたりの数量が膨大であるので。2017年に国宝になったばかりの「宋版一切経」も 6,102帖(附経箱604合)と数千点で構成をされている霊宝館ではこのような貴重な寺宝を、テーマなど決めて展示をしており、先ほどの国宝ほやほやの「宋版一切経」も見る事が出来た。宋版一切経は南宋時代初期に木版で印刷刊行された仏教経典の一大全集で、ほぼ完全に残っており経箱に南宋の年号が確認され、醍醐寺に伝わった経緯も判るので重要文化財から国宝に格上げがされた貴重な仏教関連のお宝の他にも、醍醐の花見で秀頼、前田利家らが詠んだ和歌の短冊など所縁の宝物も展示をされていて、歴史ファンには興味深かった「醍醐大しだれ桜」は樹齢180年。東西24メートル南北20メートルもある大樹で、霊宝館にはこの他にも40本以上の桜がある。推定樹齢百年のソメイヨシノはソメイヨシノとしては京都最古、高さは11メートルを超えるを越える醍醐寺は、地下鉄で醍醐駅まで行って、そこからはコミュニティバスのようなもので行ったが、帰りは東山三条まで行く路線バスが、ちょうど時間がよくそれを利用した。他にも京都駅からのバスもあった 平成29年11月16日に京都で撮影にほんブログ村
2017年12月13日
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京都で紅葉のシーズンともなると、幾つものお寺で夜のライトアップが始まって、市内に泊まる観光客や地元民で多少なりとも賑わう様は冬のイルミネーション輝く東京や大阪の都会のようだとは言っても繁華街でもなく、元々がお寺などのある静かな街なので、大きな声を出すのすら憚れて、夜のしじまの中こんな京都の夜を楽しめるのも、一興というもの。ホテルから近いここは白川でテレビドラマでもよく登場したりする比叡山と如意ヶ嶽の間に水源があり、全長は9.3キロ。京都市動物園付近で琵琶湖疏水に入り慶流橋から疏水と分れ、四条大橋付近で鴨川に注ぎ、平安期には付近に白河院御所もあったそうだ。このあたりは東山三条の東側あたりで坂本龍馬とお龍が元治元(1864)年8月に、祝言をあげたという青蓮院の塔頭金蔵寺のあった跡で、お龍の父は青蓮院宮に仕えた医師だったので、その関係もあり金蔵寺住職の智息院が仲人を務めたそうだそうそう、その日は11月13日で竜馬の誕生日であり、暗殺された日でもあった流石に京都だけあって、犬も歩けば神社仏閣旧跡に当たる。その日の夕食は繁華街へ出るのも面倒で、ホテルからライトアップをする寺院へ行く途中で、東山三条あたりでと考え灯りが暖かなほうざんに立ち寄ることにした最近になって出来た和食処のようで(不明)開店祝いらしき蘭の花が隅に置かれていたお値段も一品物から手頃な価格で、場所柄地元民より観光客相手でもあるのかな?税込み千五百円の都膳でデザートに柿も出た。他にも日替わりで750円の定食もあるようだが、その日のメインは苦手な食材(たぶん鶏肉)だったのでパス姉の方はさっぱりと、うどん。お腹も一杯になったし、ではではライトアップに参戦といきますか(本当は食事から白川構成上、食事が最初ではと逆にしました)それでなくても迫力のある青蓮院の門前の大楠も、ライトアップで夜空を遮るように覆っていた。青蓮院が現地に移転をした13世紀以降に植採をされたものだそうで5本あり市の天然記念物に指定されている今はないが、かつてこの向いにあった旅館に家族連れで20年以上前に泊まった時だが、部屋に通されからお茶を出した高齢の中居さんが、胸元に挟んだのし袋を出し入れをしてチップをさりげなく(?)要求してきたけど、用意などしてなかったので、鬼瓦のような顔になったのが怖かった露骨に要求されたのこれっきりだったけど、他の観光地の旅館では部屋係のお姉さんが退出した時に、廊下で他の中居さんから「幾ら貰った?」と聞かれ口ごもっていたのが気の毒だった。まっそうゆうのもあって中居さん恐怖症で旅館よりホテルばかり使ってた時期も最近は温泉目当てもあって、旅館も使うがチップとかは渡していないです。食事も食堂だったり、布団敷きも男の人たちだし特に同じ中居さんが担当をって事も皆無でフロントで鍵を貰い、食事の時間を決めて自分たちで部屋に行くのも増えてきたし帰り際のフロントで宿泊料を払う時に料理が良かったとか、温泉が最高でしたなどと褒め、感謝の気持ちを伝えて帰るようにはしているが。美味しかったとか良かった思い出は忘れても、不快な事や予想外の事は昨日の事に思い出されるお造りで、お腹がそぎ落ちたお魚がピクッと動いたので、姪がびびり魚の頭を紙で隠していた伊豆の温泉旅館も民事再生して、立て直し系のチェーンに資金援助を受け再出発をしたとテレビでやっていたし、旅館業も大変だそんな訳で青蓮院に戻ります。ここのライトアップは春と秋に行われており幾つもある中で、ここを選んだ理由は青いライトが庭に施され、夜空に輝く星空のようだというので、紅葉がまだでも楽しめそうだと特別拝観料は800円(昼間は500円)と少し高めだが、本堂や諸堂御殿の中も靴を脱いで拝観が出来た。その後に玄関に戻ってライトアップをされた庭をまわるのだが足元を照らすように、丸い提灯を手渡されなんだかテーマパークみたいで楽しい流石に名のあるお寺であるだけに、豊臣秀吉が寄進したといわれる巨大な一文字の自然石で作られた「一文字型手水鉢」なども水がたまるところ、とりあえず硬貨を投げ込むのが日本人のようだ室町期の相阿弥の作と伝えられ、粟田山を借景にし、その山裾を利用した池泉回遊式の庭は、龍心池の対岸南に高く石積みした滝口を中心とし、東側にかけて築山が設けられた築山泉水庭でもある11月の半ばとは言っても、やっぱり紅葉には早くて、これらが赤くなるのはまだまだ先のようだでも、その代わりとはいってはなんだが竹林のライトアップが印象的。さて青蓮院門跡についてこのあたりで紹介をしておくと開基は伝教大師最澄、本尊は熾盛光如来(しじょうこうにょらい)である。梶井(三千院)、妙法院と共に天台宗の三大門跡寺院であるウィキペディアによると>「門跡寺院」とは皇室や摂関家の子弟が>入寺する寺院の事であり、青蓮院は多くの>法親王・入道親王(皇族出身で親王の>称号を与えられた僧侶)が門主(住職)を>務め格式を誇ってきた。江戸時代に仮御所と>なったことがあるため「粟田御所」の>称もある>梶井、妙法院とともに、青蓮院も比叡>山上にあった房(坊)と呼ばれる小寺院が>その起源となっている。青蓮院は比叡山>東塔の南谷にあった青蓮坊がその起源で>あり、門跡寺院となって山下に移ったのは>平安時代末期の行玄大僧正の時である>久安6年(1150年)に鳥羽上皇の皇后>美福門院は青蓮院を祈願所とした頃から>寺格が上がり始め、鳥羽上皇の第七皇子>覚快法親王が行玄の弟子として入寺して>より後は、皇家や摂家の子弟が門主を>務める格式高い寺院となった。>江戸時代の天明8年(1788年)、天明の>大火で内裏が焼失した折には、青蓮院が>後桜町上皇の仮仙洞御所となった。この>ため青蓮院旧仮御所として国の史跡に>指定されている。近代に入り、明治26年>(1893年)の火災で大部分の建物が>失われた>平成4年(1993年)には過激派(中核派)の>放火により好文亭が焼失したが2年後に再建>されている。 以上、ウィキペディアより青蓮院の鎮守神として比叡山の山王日吉社から勧請された十禅師社。 日吉の神さまは天台宗の宗護神だそうで、古い天台宗の寺院には必ず祀られているんだとか青蓮院と言えば1144年の創建以来初めて国宝の「青不動明王二童子像」が平成21年に御開帳があり私も姉と出かけてきたが、この青不動は、高野山明王院の赤不動、三井寺の黄不動とともに日本三不動画の一つで、現存する平安仏画の最高傑作であるそうだそんな事も意識をしての青い色のライトアップであろうか。 宸殿は門跡寺院特有のもので主要な法要はここで行われる。有縁の天皇及び歴代門主の御尊牌を祀る。宸殿前に右近の橘、左近の桜を配するのは、御歴代尊儀の在ます所の意味であり、親鸞聖人が第三代門主慈圓により得度をした場所でもあり、お得度の間とも言うそうだ ご本尊の織盛光如来であるが、織盛光仏頂・摂一切仏頂輪王とも言う。釈迦牟尼仏が衆生教化のため忿怒(怒り)の相を表わした姿といい、身の毛孔から熾盛の光明を出すという天災地異の際これをまつり除災招福を祈るという熾盛光法があるその為、特に平安時代から鎌倉時代にかけては宮中から勅命を受け、折々に天変地異の息災と皇室の安寧を祈願する役割を担っていたそうだご本尊の「熾盛光如来曼荼羅」は、天台第3世座主円仁が唐から持ち帰ったものは戦乱で焼失し現在のものは、安土桃山時代の作で豊臣秀吉が奉納したものだそうだ国宝の青不動の他にも数多くの重要文化財の寺宝が残されているが、第二次世界大戦以後この寺から流出した寺宝も多く、重要文化財クラスでも16点もあるそうだ。なんだかこのように格式の高いお寺も、神社も色々とあるんだろうな・・・・親方と相撲協会の確執に続き、今度は有名神社の相続争いと神社本庁の関係まるでサスペンスドラマみたいな展開神聖な神社が金の亡者と化した一家に食い物にされ、神様もお怒りだと思う先日は南禅寺の三門を紹介したけど闇に浮かび上がるのは徳川秀忠の命によって建立をされた知恩院の三門で高さ24メートル、横幅50メートル屋根瓦は約7万枚。「華頂山」の額の大きさは畳二畳以上にもなるそうだ楼上内部は仏堂となっており、その中央に宝冠釈迦牟尼仏像、脇壇に十六羅漢像が安置をされており、天井や柱、壁などには迦陵頻伽(かりょうびんが)や天女、飛龍が極彩色で描かれていている。竜神は水を操るので火災除けであると、ここの特別公開で聴いた更には知恩院の七不思議の一つである白木の棺があり、三門造営の命を受けた造営奉行の五味金右衛門夫妻の木像が安置をされている。これは懸命に三門を完成させたのだが、工事の予算が超過しその責任をとって自刃をした夫妻を弔う為であるとかこの知恩院でも七不思議があるので他のものもざっと紹介をしておくと御影堂から集会堂、大方丈、小方丈に至る廊下は、全長数百メートルもあり歩くと、鶯の鳴き声に似た音が出るが曲者の侵入を知る為のもの(忍び返し)御影堂正面の軒裏には和傘があるが左甚五郎が魔除けの為に置いたものだそうだが、他にも雄誉霊巌上人が御影堂を建立する時に、このあたりに住んでいた白狐が自分の新しい棲居を作って欲しいと上人に依頼し、それが出来たお礼にこの傘を置いて、知恩院を守る事を約束したという説もある大方丈入口の廊下の梁に置かれた大きな杓子は長さ2.5メートル、重さ約30キロもあり、三好清海入道が大坂夏の陣の時に大杓子をもって暴れまわったとか、兵士の御飯をすくい、振る舞ったというものであるそうだ。全ての人々を救いとるという意味から方丈の廊下の杉戸に描かれた狩野信政の猫の絵は、どちらから見ても見る人の方を正面から睨んでいるよう見える。大方丈の菊の間の襖絵(狩野信政)の数羽の雀も上手に描かれたので雀が生命を受け、飛び去ったので、飛び去った跡しか残ってない黒門への登り口の路上にある大きな石は知恩院が建立される前からあると言われる瓜生石で、誰も植えたおぼえがないのに瓜のつるが伸び、花が咲いて瓜があおあおと実ったという説と、八坂神社の牛頭天王が瓜生山に降臨し、後再びこの石に来現して一夜のうちに瓜が生え実ったという説がある更に瓜生石を掘ると、二条城までつづく抜け道があるとか、隕石が落ちた場所であるなど様々な伝説があるんだとか。こんな不思議が一杯の知恩院の紅葉のライトアップ、11月も半ばだというのにまだまだといった感じだし高いお金を払って階段上って、中の拝観もできる訳でもなく、ちとしまった~感が・・・ま、それでも除夜の鐘の中継でも有名な日本最大級の鐘も見れたし、夜のお寺は幻想的でもある。寛永13(1636)年に鋳造された鐘は高さ3.3メートル、直径2.8メートル、重さ約70トン「えーいひとーつ」「そーれ」の掛け声のもと親綱、子綱を17人の僧侶が最大限の力を振り絞り、108つの除夜の鐘を打ち鳴らす最後に知恩院についてであるが、浄土宗総本山で山号は華頂山(かちょうざん)で、華頂山知恩教院大谷寺という。ご本尊は法然上人像と阿弥陀如来で開基は浄土宗の宗祖である法然だ。法然が後半生を過ごし没した草庵のあった地に建てられ、現在の大規模な伽藍が建立されたのは、江戸期である二条城同様に徳川家の京都での拠点とされ将軍家の威勢を誇示し、京都御所を見下ろし朝廷を牽制するという位置づけでもあったかつて門主は皇族から任命をされたが、更にその皇子は徳川将軍家の猶子となったとか 平成29年11月15日に京都で撮影にほんブログ村オムの葉
2017年12月11日
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この写真は、最初に国宝展(第二期)に出かけた10月末の京都なのですが既に紅葉も始まっていました。テレビか何かで水辺は夜など冷え込むと言ってましたがそれで、紅葉の進みも周囲よりも少しは早いのかな紅葉の盛りにはさぞかし美しいであろうこのお寺は京都でも有数の紅葉スポット浄土宗西山禅林寺派の総本山。禅林寺またの名を永観堂というが、その名の由来は、優れた徳の高い第7代の住職永観律師の永観からだとかしかし永観堂はえいかんどうと読むが永観律師の方はようかんと読むそうだ山号は聖衆来迎山、院号は無量寿院で本尊は阿弥陀如来。御開基は、空海の高弟の真紹僧都だそうで、古くより「秋はもみじの永観堂」と言われている禅林寺の本尊である阿弥陀如来立像は顔を左に曲げている像であるのだが永保2(1082)年、永観が日課の念仏を唱え、阿弥陀如来像の周囲を行道していると、須弥壇から下りた阿弥陀如来が永観と共に行道を始めたそれに驚いた永観が歩みを止めると阿弥陀如来は振り返って、永観遅しと言葉を発したそうだ。それより阿弥陀如来像の首の向きが元に戻らないままなんだとかこのような「みかえり阿弥陀」は、中国では北宋時代に遡る例があり、国内ではこの像が最古で、山形県の善光寺像など他にも若干の作例があるそうで、阿弥陀来迎時に浄土へと戻る際に、往生者を見守る為に阿弥陀が振り返る姿なのだとか東京国立博物館に寄託をされている寺宝の仏具の「金銅蓮華文磬」は国宝展で実物を見る事が出来た。今まさに臨終をしようとする信仰者の前に、阿弥陀仏と眷属たちが極楽から迎えに来た来迎の場面を描いた絹本著色山越阿弥陀図の方は東京で見たかどうかは覚えがない今回の国宝展では、京都国立博物館にあるものであったが、仏の胸と右掌には小さな絵絹の欠失があって、かつては五色の糸が結びつけられ、今まさに臨終をしようとする信仰者の手に握らせ、阿弥陀の縁を結ばせていたんそうだ。この話は金戒光明寺で聞いたところで「極楽」とは、阿弥陀の浄土の事だそうで、阿弥陀経には「衆苦あることなくただ諸楽を受くるが故に極楽と名づく」とあるそうだ ウィキペディアによれば↓>この極楽という仏土は広々としていて、>辺際のない世界であり、地下や地上や>虚空の荘厳は微をきわめ、妙をきわめて>いる。この浄土にある華池や宝楼、宝閣>などの建物もまた浄土の宝樹も、みな>金銀珠玉をちりばめ、七宝乃至は百千万の>宝をもって厳飾されている>しかも、それらは実に清浄であり、光明>赫灼と輝いている。衣服や飯食は人々の>意のままに得ることができ、寒からず>暑からず、気候は調和し、本当に住み>心地のよいところである。また、聞こえて>くる音声は、常に妙法を説くがごとく、>水鳥樹林も仏の妙説と共に法音をのべる。>したがって、この浄土には一切の苦は>なく、ただ楽のみがある。(前後するが)>いまをさること十劫の昔、阿弥陀仏は>成道して西方十万億の仏土をすぎた彼方に>浄土を構えられた。そして、現在でも、>この極楽で人々のために説法している。他にも薬師如来の「東方浄瑠璃浄土」や阿閦(あしゅく)仏の「東方妙喜世界」、釈迦仏の「西方無勝世界」、観音菩薩の「南海補陀落山」など諸仏の浄土が、娑婆(現実)世界から見ればあらゆる方向にあるそうで、それを十方浄土という各経に説かれた十方の如来や、仏を信じていればその浄土に行くという話だ。更に「一蓮托生」という言葉があるが、これは死後に阿弥陀の極楽浄土に往生し、同じ蓮花の上に生まれ変わって身を託したいという事から「他力本願」とは、阿弥陀仏が衆生を救済する本願の働きの事であり、「自業自得」は自ら行なった善悪の行為により本人自身がその報いを受けるで「因果応報」も同様でどれもが仏教から派生した熟語である南無阿弥陀仏というお念仏は、阿弥陀に帰依し極楽浄土に導いて欲しいという、浄土宗や浄土真宗で使われ、姉も西本願寺系だけど、うちのあたりは曹洞宗や臨済宗の土地柄だが、年寄りが御詠歌の他に、なむあみだぶつ~なんまいだ~と念仏をやっていたようなまっ、明治期の廃仏毀釈で虚無僧の普化宗がなくなったとドラマの中で扱われていたけどそれまでは神仏習合。神様、仏様。お念仏も盂蘭盆会も先人の行ってきた事は、昭和とかになっても続けられていたけど、戦後生まれが多くなってきた最近は風前の灯火ある意味で楽しみのない田舎での老後の娯楽でもあったように思います。それが昨今ではゲートボールとかカラオケ、ダンス、手芸や旅行となんでもありな老後の趣味。ご朱印状ブームのようにお寺や神社も、年配の人より若い人や海外の人の方が多いくらいですがそれもまた文化財があったり、歴史的な由緒を持つような、限られた寺社仏閣に限られた事であって、地域の人たちの為にある無名のところは檀家も減って、兼業でもしてないと生活も立ちゆかない修理も出来ずに、雨漏りだらけの屋根に食事はカップラーメンばかり。年収は生活保護以下といった地方のお寺の惨状をテレビで特集をしており、限界集落同様に限界のお寺も地方には数多くある。対策としてお寺の統廃合を打ち出そうとしても当然、廃寺となる側では反発をする声もうちの地域の神社も禰宜様が高齢で、最近廃業をしたので、神社の神事などは近隣の神社の禰宜様がやってきてくれるのだが地域での祭りでは、地域の住民が神事を簡素化し見よう見まねで行っている有様だ地域の要になる産業が無くなり、人が減り学校が無くなり、お店が無くなり、交通が無くなり、寺社が無くなり、集落が消えもとの野山となってしまうのも仕方がない話なのかもしれない。まだ、うちのあたりは観光業があるので、今後も集落が残るのは確実ではあるしなによりも観光客の為に、駅から路線バスが一定時間毎に運行されているので、車のない老人の足が確保されているのも有難い事だ更に中央道の神坂パーキングエリアに長年話だけはあったスマートインターの設置が具体化(2021年)したので交通の便が更によくなる話逸れました。戻します今は神社は彫刻もあって、朱色で華やかでお寺は茶色で、地味なイメージがあるけどそれらは、鎌倉期に武士に好まれた禅宗の影響があっての事で、それまでのお寺など朱塗りは魔よけの意味もあって派手な彩色などもされていたようだそういやぁ~京都の醍醐寺とか鞍馬寺平等院とか色鮮やかな朱色だし。この永観堂の今は緑の葉っぱも、11月の半ばになれば真っ赤っか。それもまた見てみたかった紅葉の有名なお寺なのに、その時期に一度も来た事がない。でも見返り観音とか、斜面を利用したお寺が面白くで何より、この階段のカーブが好きでして永観堂には七不思議があるそうでしてこの階段もその一つであるそうだ御影堂、阿弥陀堂、開山堂に続いている湾曲している急こう配の階段を臥龍廊(がりゅうろう)といい、まるで龍が体をうねらせているように見えるので名づけられたんだとか永正年間(1504~1521)に造られたものが昭和に改修されたそうである。ここも屋根がある回廊で巡れるので、雨の日観光に良いと考えてコースに入れたが、この頃には雨も止んでいた七不思議のひとつ悲田梅は、永観律師が境内に薬王寺(悲田院)という施療院を置いて、梅を育てて、梅の実を病人や貧しい者に分け与えたもので、その梅の木が一本だけ残っている更に七不思議の三鈷の松は、普通の松葉は二本であるが、この木の松葉は三本で葉の長さも30センチ近くにも及ぶ珍しい松で財布に入れておくと、お金がたまるとか箪笥に入れると服がたまると言われている更に春に三鈷の松の辺り一帯に棲んでいる蛙の鳴き声が、まるで木魚を叩くようなので木魚蛙と呼ぶが、誰もその姿を見た事は無い伝法堂(瑞紫殿)の阿弥陀如来坐像は応仁の乱で諸堂が焼け落ちた時も、右手が焦げたのみで焼け残ったといい火除けの阿弥陀如来として火除けの信仰を集めている古方丈の孔雀の間の欄間には、雀が描かれているが、向って右端の欄間には五羽の雀が描かれているハズなのに、四羽しかおらず一羽少なく抜け出してしまったと言われる臥龍廊や多宝塔付近の急斜面に生えている紅葉は、寺が建立される前にこの地に住んだ藤原関雄の和歌にちなんで岩垣紅葉と言う おく山の岩垣紅葉散りぬべし照る 日の光みる時なくて (古今和歌集)「菟芸泥赴」の中には「本堂の傍に聖衆来迎の松があり。永観説法の時、この松に弥陀如来影向ありしとなり。今は枯てなし」とあり、山号の由来を示す伝承で、阿弥陀堂の右手にある松がそれなんだとかと数えると1,2,3・・・8つ。あれれ七不思議なのに八つとはいかに。お寺には水琴窟などもあれば、足の悪い方のためにエレベーターなども設置がされていたので見返り阿弥陀も容易に参拝も出来る。という訳で10月の国宝展(2期)目当ての京都初日は祇園、東山、三十三間堂、国宝展二日目は二条城、南禅寺、永観堂であった午後には京都駅に出て小腹も空いたので食事をする事にしたが、私はどうしても京都らしいパフェが食べたくて、丼もどちらも食べられるという京都駅地下ポルタにある「nana's green tea」だがここって東京本社の全国チェーンなのねナゴヤドーム前のイオンとか、名古屋パルコにもお店があるんだ、まっいいか。姉はご飯が食べたいというし私はパフェが食べたいのだから、何も京都のお店に拘る事は無い。とは言っても本当は湯豆腐が食べたかったんだけど・・・次は11月の4期の国宝展の時の京都観光を紹介します。ではでは 平成29年10月28日に京都永観堂で撮影にほんブログ村
2017年12月06日
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テレビやネットニュースで、紅葉時期の京都の寺社における観光客の迷惑行為を報道をしていた。お土産に持ち帰ろうとぶちぶちと紅くなった葉を枝からちぎる高齢女性が次々に映り、葉の無くなった枝が痛々しいはらはらと葉が舞い落ちる風情が好きだと枝を揺すっては葉を落とす高齢女性とかカメラマン同士が場所取りでなのか喧嘩して、写真撮影を禁止したお寺(記念写真程度ならOK)とか、自分勝手な人たちにつける薬はなさそうだ2期の国宝展で出かけた10月下旬の京都2日目は生憎のお天気で、あまり歩きたくもなかったし、雨の日の風情を楽しむならここかなぁ~とやってきたお寺は東山の南禅寺。ひと月もしたらこの緑の葉っぱもみんな真っ赤に色づく事だろう歌舞伎の「楼門五三桐」で、石川五右衛門が南禅寺の三門の上から満開の桜を眺めて言う台詞は「絶景かな、絶景かな。春の眺めは価千金とは小せえ小せえ。この五右衛門には価万両・・・」との事。しかしこの門だけど五右衛門の死後30年後に再建されたものだ門とは鳥居同様に外部の邪悪なものと内部の聖なるものとの境界に位置し、邪悪なものは一切入らない結界の印が「しきみ(閾)」であったのが「しきいき」→「いしきいき」→「しきい(敷居)」という言葉に転化されたしたがって神聖な「敷居」は、またぐもので踏んではいけないそうだが座っていいのか?寺社は観光施設ではなくて、宗教施設であるという事を今一度われわれも認識する必要があるのかも。藤堂高虎が、大坂夏の陣で戦死をした一門の武士らの冥福を祈る為に寄進したものだ三門とは空門、無相門、無願門の三境地を経て仏国土に至る門の事で三解脱門を表すとされ〇〇山の山号より山門という事もあるそうだ天井画の天人と鳳凰の図は狩野探幽によるもので、知恩院三門、身延山久遠寺と共に日本三大門の一つでもある。三門の中には門に扉を設けないものもあるが、これは一切衆生が、仏門に入る事を拒まない仏の大慈悲心を表すものだとか実は私が子供の時に、亡き母親と最めて京都に来た時に訪れたのが南禅寺だった(他には方広寺、豊国神社)。その前の年位に叔父親子と東本願寺に行ったのが初・京都寺社拝観になったのだけどやっぱ母親に連れられ出かけた南禅寺の思い出は今も色あせる事は無い。先程の三門は重要文化財だが、方丈(大方丈と小方丈からなる)は国宝に指定をされている。大方丈は慶長期の御所建て替えに際し、天正期に建設をされた女院御所の対面御殿が下賜されたもの名勝に指定をされている方丈前の枯山水庭園は「虎の子渡しの庭」といい、小堀遠州の作庭だとか。虎の子渡しと言えば竜安寺のそれでも有名だが、その由来は ウィキペディアによれば↓>虎は、3匹の子供がいると、そのうち>1匹は必ずどう猛で、子虎だけで放って>おくと、そのどう猛な子虎が他の子虎を>食ってしまうという。そこで、母虎が>3匹の虎を連れて大河を渡る時は次の>ようにする>母虎はまず、どう猛な子虎を先に向こう>岸に渡してからいったん引き返す。次に>残った2匹のうち1匹を連れて向こう岸に>行くと、今度は、どう猛な子虎だけを>連れて、ふたたび元の岸に戻る。その次に、>3匹目の子虎を連れて向こう岸へ渡る。>この時点で元の岸にはどう猛な子虎1匹>だけが残っているので、母虎は最後に>これを連れて向こう岸へ渡る、という>中国の説話(虎、彪を引いて水を渡る)に>基づくものである。こちらは妙心庭。お庭などは写真の撮影が出来るが、建物の中は撮影禁止になっているので写真はありませんが>大方丈の間取りは六間取で、南側が西から>順に花鳥の間(西の間)、御昼の間、麝香の>間、北側が西から順に鶴の間、仏間(内陣)>鳴滝の間である。建物の東端は幅一間半の>細長い部屋で、柳の間と呼ばれる>仏間を除く各室に桃山時代、狩野派の>障壁画があり、計124面(附指定4面を>含む)が重要文化財に指定されている。 ウィキペディアより転載接続して建つ小方丈は、寛永期のものだそうで、障壁画は狩野探幽の作と伝えられるが、作風上からは数名の絵師によるのであるらしい。南禅寺については>臨済宗南禅寺派大本山の寺院である。>山号は瑞龍山、寺号は詳しくは太平>興国南禅禅寺である。本尊は釈迦如来、>開基(創立者)は亀山法皇、開山>(初代住職)は無関普門(大明国師)>日本最初の勅願禅寺であり、京都五山>および鎌倉五山の上におかれる別格扱いの>寺院で、日本の全ての禅寺のなかで最も>高い格式をもつ。(略)南禅寺の建立以前>この地には後嵯峨天皇が文永元(1264)年に>造営した離宮の禅林寺殿があった。>亀山上皇は正応2(1289)年、40歳の>時に落飾(出家)して法皇となった。>2年後の正応4年(1291年)、法皇は>禅林寺殿を寺にあらため、当時80歳の>無関普門を開山として、これを龍安山>禅林禅寺と名づけた。↑ウィキペディアより転載それが南禅寺の前身となるらしい時代が下り、応仁の乱などで焼失し荒廃した寺を再興したのは、徳川家康の側近として幕府の法律の立案外交、宗教統制を一手に引き受けてその権勢から黒衣の宰相の異名を取った以心崇伝であるそして南禅寺と言えば三門同様に有名なのが、この水路閣である。片平なぎささんとかが佇んでいると、どこからか現れる狩矢警部。色んな男優さんが演じられているが、私的には若林豪さん皆さんもきっと、テレビか何か一度くらいは水路閣を見た覚えがあるのではないでしょうか。この紅葉なども真っ赤になればさぞかし綺麗だろうなでも京都の秋の特別公開とか、紅葉より一足早く京都に出かける事が多い向こうからも、早くどかないかなぁ~と思っているだろう観光客。何でも南禅寺境内は一脚、三脚による写真撮影は禁止みたいだ。今後、このような流れはより増えてくのではないのかなボケて、なんだかフォトジェニックこれだけ見たら京都だとは思われずスペインあたりな佇まいも。水路閣であるが、建設当時は京都の景観を破壊すると反対の声もあったそうだ琵琶湖から京都市内へ水を引いている琵琶湖疎水の為のものであり、上部に水が流れている。明治維新で都も東京になってしまい、産業も停滞しつつある京都に元気を取り戻そうとして始めた京都の年間予算の2倍を要した明治の一大プロジェクトである疏水の水力によって新しい工場を興し舟で物資の行き来を盛んにしようという計画だった。水路閣は明治21年に完成南禅寺境内を通過する為、周辺の景観に配慮して田辺朔郎が設計、全長は93.2メートル、幅4メートル、高9メートルのレンガ、花崗岩造りだここもまた、雨の日はしっとりとした雰囲気が良く、ホテルで起きて朝の雨を受けて南禅寺に久しぶりに行こうかなと思いついた訳でして東山の麓で冷えるのは、10月末であるのに少し色づき始めてた塔頭の天授庵は細川幽斎が復興したお寺で2013年のそうだ京都、行こうの秋のキャンペーンで使われた紅葉の寺先程の以心崇伝が中興の祖である塔頭の金地院にある東照宮。寛永5(1628)年の造営で権現造り様式。家康の遺髪と念持仏とを奉戴しており、国の重要文化財に指定されている応仁の乱の西軍の総大将であった山名宗全の墓所があるのは塔頭の真乗院だ結構、南禅寺って戦国武将にゆかりのあるお寺であったみたいだ応仁3(1469)年、東軍が西軍本陣に斬り込んできた際には齢66歳ながらも具足をつけて刀をとり庭に出て、敵兵を追い払ったという記録もあるんだとか西軍の諸将からは宗全入道とか、赤入道などと呼ばれていたんだとか明治期に作られた蹴上インクライン(傾斜鉄道)のトンネルは、レンガを斜めにする事で強度を増させ、その形状からねじりまんぽ(まんぽは鉄道下のトンネル)と言うそうで、それをくぐれば地下鉄の蹴上駅もすぐだ 蹴上駅からすぐの南禅寺みたいに駅近で便利なのが二条城で、城内を歩くので雨の日の観光にももってこいだ。南禅寺の方丈もだけど、以前は本物の障壁画であったのが、その保存を考慮し複写画などが御殿に使用をされている本物の障壁画は、収蔵庫などで厳重に収蔵されるようになった。それが時期によって交代で公開をされており、今回は大政奉還150周年記念展示第2弾:歴史の舞台 〈大広間〉一の間・二の間の障壁画の本物を見る事が出来た二条城は足利将軍家のものや、信長が足利十五代将軍に作った城や、自分の宿泊所を作り、後に皇太子に寄進をしたものなどもあったが、今のものは関ケ原の戦いに勝利した徳川家康が、京都滞在の為に作った城であるが、朝廷は二条亭と呼んでいた家康と豊臣秀頼の会見が行われたり、秀忠の娘の和子が二条城から後水尾天皇の元へ入内後水尾天皇の御幸も行われた、徳川の栄光の城も、慶応3(1867)年10月14日に徳川慶喜が政権返上を明治天皇に奏上するという大政奉還の場ともなった黄金ソフト、秋麗(あきうらら)という神々しいソフトクリームを売っていたが寒い雨の日というのは関係なく、看板の写真を撮った。お見送りは前日に出かけた国宝展をしていた京都国立博物館のトラりん 平成29年10月28日に京都で撮影にほんブログ村
2017年12月01日
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このところのお天気は、暖かだったりや寒かったりと日替わりな寒暖差もあって風邪で体調悪化だったも、なんとか乗り越えられたようで、ふと気がついたら11月も最終日になっていたレンタルビデオは安いし、地域行事もあれば、新蕎麦も食べに行きたいしとどたばたしてしまって、何が何だかという感じの11月だったが、ある意味中身が充実していたという事でさて国宝展の為に2期の10月下旬と4期の11月半ばの2度に渡って姉と出かけた京都だけど、国宝展以外にももちろん観光にも出かけたので、その紹介。まずは10月下旬の方の1日目新幹線で昼前に京都駅に着いて、祇園でお昼ご飯を食べてから、国宝展が空いてくる午後遅くまでを、お天気も良いので時間つぶしに出かけたのは、東山界隈でここであれば外れはない祇園祭でも有名な八坂神社からスタートするのが私の東山での散歩の定番でありその日も、沢山の観光客で賑わっていた八坂神社の主祭神は素戔嗚尊やその妻と8人の子供だそうである斉明天皇代2(656)年に、高句麗から来日をした調進副使の伊利之使主(いりしおみ)の創建とされる。貞観11(869)年疫病が流行をした際に神泉苑で行われた御霊会を起源とした祇園祭は、天禄元(970)年頃から八坂神社の祭礼として毎年行われるようになったそうだ境内には縁結びにご利益があるという大国主命が祀られた大国主社があるが本殿前は外国人観光客が参拝など全くせず記念撮影に興じて途切れなかったので少し離れた所での参拝となった美御前社(うつくしごぜんしゃ)には素戔嗚尊が所持していた剣から生まれた美女と誉れの高い宗像三女神が祀られており、社殿の前に美容水が湧き出ておりお肌につければ効果抜群であるんだとか東西南北を守護する四神によって護られた地の京都。北は玄武、南は朱雀、西は白虎そして八坂神社がある東は青龍が守護しており、八坂神社の本殿の下には池(龍穴)があり青龍が住んでいるそうで、その本殿下から湧き出る水が祇園神水(力水)である歴史ファンに見逃せないのが、その脇にある忠盛灯篭で、由来については下部の説明板の文章をお読み下さい。このように京都のあちこちに、千年の王都の歴史が見え隠れしているこの褒美に、寵姫の祇園女御を与えた白河法皇は女子が生まれれば朕の子とするが、もし男子が生まれれば、忠盛の子として育てよと命じるが、その時に生まれたのが平清盛であったとも伝わるその他には清盛の母親(祇園女御の妹)が白河法皇の子を産み、祇園女御が養子として育てたなんて説もあるんだとか。八坂神社の近くにある祇園女御の住居跡に、その菩提を弔う供養塔が建てられているまるで祇園祭の鉾のような建物は、祇園閣(銅閣)といい、大倉財閥の設立者である大倉喜八郎が建てた、別邸の真葛荘の一部なのだが、この地への大雲院の移転により伽藍の一部となった本能寺の変で自害した織田信忠(信長の子)の菩提を弔う為に、二条御所跡(烏丸御池)に創建したもので、信忠の法名から名づけられ長らく四条に位置しており、市中を引き回しされていた市石川五右衛門が大雲院の門前で亡くなった為、五右衛門の墓もあるそうだ周囲が繁華街になったので、大倉氏の別邸を買い取って東山に移転したんだとか。その為書院にも、大倉邸をそのまま利用をしており祇園閣ともども、国の登録有形文化財に指定されている平家物語から、戦国。そして幕末へと・・・司馬遼太郎の燃えよ剣で新選組ファンになった私には、御陵衛士(ごりょうえじ)の存在は忘れられない。思想の違いから伊東甲子太郎一派が新選組から離脱し、名目上は孝明天皇陵(後月輪東山陵)を守る為にと作られた組織である高台寺塔頭の月真院を屯所とした為、高台寺党とも呼ばれている。江戸以来の盟友であった藤堂平助や、新選組側のスパイとも言われる斎藤一なども参加。後に油小路事件で伊藤らは新選組に惨殺され、生き残りの衛士が伏見で近藤勇を狙撃し重傷を負わせた更に、後に近藤勇は関東の流山で大久保大和(剛)と称し新政府軍に出頭したが、元衛士らに正体を看破されて捕縛をされて、斬首となったのだ。高台寺へと登る参道をてくてくここは紅葉時のライトアップを見たり、桜の頃など馴染みのお寺だ高台寺は秀吉の菩提を弔う為、北政所が建てたお寺で、落飾した北政所の院号を寺の名にしたもので、伏見城の建物を移築した女性らしい華やかな寺だ特に霊屋には、高台寺蒔絵は施され一見の価値があるが、今回は内部はパス。何か囲まれた石の周りにはおみくじが結んであるが、ただの石なのか、由来でもあるのかは不明第二次世界大戦の戦没者や犠牲者の追悼の為に、帝産グループ創設者の石川博資によって建立された、鉄筋コンクリート造りの霊山観音だが高さ24メートル、重さは約500トン高台寺所蔵の涅槃図のデジタル複製画が内部に貼り巡らされた利生堂では法要や講演会を催すものだが、無料での拝観が出来た。そこからの京都駅前方面の展望すぐ脇には、SLOWJETCOFFEE高台寺があり、娘ときたら寄ってみようそのカフェ前からの眺め。いつまでも変わらぬようで、かなり変化も感じる京都。行くたびに、お~っこんな新しいお店が! 寺の宝物館がピカピカだよ!と驚く事ばかり今も昔も観光客で溢れている二寧坂(二年坂)、三寧坂(三年坂)界隈は京都観光の目玉スポットの一つであるとりあえず、このあたりをうろつけば京都へ来た感が半端ないその多くは外国人観光客や、修学旅行生団体観光客などなど。したがって年配の人よりも、若い人たちに好まれるようなお店が、どんどん増えているような気も暖簾の奥には三つ指をついた世界的なアイドル、キティちゃん。うちの姉も一時期はキティを集めてたみたいだが還暦を過ぎて興味も薄れたようだいわゆるインスタ映えしそうなキティのパンケーキも食べれるようだが、お昼を食べたばかりだし、店頭のサンプル品の写真をパチリこういった割引は好感が持てる今夏オープンしたばかりなのが、左側のスターバックス京都二寧坂ヤサカ茶屋店で純和風の誂えでお座敷なんだとか。娘とならたぶん行ってたかも坂がきついし、この先の清水寺も大規模改修中なので引き返す事にしよう。とかいってもいつもそんな感じで、坂を登らずここから右手の八坂の塔方面へと向かうとインスタ映えをすると観光客に大人気の日本における庚申信仰発祥の地とされて日本三庚申の一つ八坂庚申堂。正式には大黒山延命院金剛寺といい、本尊の青面金剛は、飛鳥時代に中国大陸より渡来をした秦氏の守り本尊であったんだとか中国道教の説く三尸説(さんしせつ)では庚申の夜には睡眠中に体内の三尸虫 が逃げ出して、その人の罪を天帝に告げ早死にをしてしまうので、虫が逃げぬよう徹夜をして身を慎むと、長生きが出来るとされており平安時代には貴族が行っていたのが、広く庶民も行うようになったくくり猿は、お猿さんが手足をくくられて動けなくなった姿を現していて、欲に走る者を戒める事を意味しているそうで、願いを書き込んで一つ欲を我慢すれば、願いが叶うものなんだとか。八坂界隈ではご縁があるよう、家族円満の祈願で5つのくくり猿を軒先にぶら下げているこちらの塀の上には、這うようにして立派な松の枝。何メートルあるんだろっ。その先に八坂の塔があり、592年に聖徳太子が如意輪観音の夢告により建てたとされるその際には仏舎利を三粒を収め、法観寺と号したというが、平安以前に朝鮮半島系の渡来人の八坂氏の氏寺として創建をされたのが真相みたいだ。何度となく焼失をし今の塔は永享12(1440)年に足利義教の援助によって再建されたもの戦国時代には地方より、上洛をした大名が当寺に定紋入りの旗を掲げる事で、誰が新しい天下人になったかを世人に知らせたそうである。このあたりは以前は人など少なかったのに、穴場的な場所は外国人の人の方が多いような気もする。SNSの力ってすごいし間もなくバスの通る東大路通に出るというあたりのレトロな建物で、何のお店なんだろう? そろそろ京都国立博物館へ向かうべく市バスに乗るが、東山界隈から京都駅へ向かうルートは午後など観光客でいっぱいだまだ国宝展に入るには早いようなので、向かい側にある三十三間堂(蓮華王院本堂)で沢山の観音様を拝観させていただこうと思った。元は後白河上皇の離宮である法住寺殿内に、創建をされた仏堂で、御本尊の千手観音の別称である蓮華王に由来して蓮華王院という後白河上皇が平清盛に建立の資材協力を命じて完成したといい、創建当時には五重塔なども建つ本格的な寺院であったのが、火災で焼失間面記法による三十三間四面に由来し、三十三間堂というが、法華経等には観音菩薩は三十三種の姿に変じて衆生を救うと説かれている堂内の中央には、鎌倉時代の仏師湛慶による本尊の千手観音坐像を安置し、その左右には計1,001体の千手観音立像を安置されており木造二十八部衆立像や、木造風神雷神像など圧倒される光景だ。どれもこれもが国宝だ 平成29年10月27日に京都で撮影にほんブログ村
2017年11月30日
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紅葉をバックに考える人。世界的な彫刻家、ロダンの作品である。11月も半ばにやってきたのは10月下旬に続いての京都国立博物館ブログで紹介した国宝展の前半(10月)と後半(11月)はかなりの作品数が入れ替えになるので11月15日(四期)に、国宝を見る為姉と再び京都国立博物館にやってきました今回は金曜日ではないので午後6時に閉館するので午後早くに入館した為、入館待ち時間30分。中も前回の夕方の観覧時に比べてかなり混んでいましたまっ、それでも見れない訳でもなくって日本の肖像画を代表する「神護寺三像」も最前列で、じっくりと観覧が出来ましたちなみに正式には「絹本著色伝源頼朝像、絹本著色伝平重盛像、絹本著色伝藤原光能像」といいます普段は前の2点は京都国立博物館に、伝光能像は東京国立博物館に寄託されているので、三像が揃ってというのは、かなり異例の展示でした。もう、これだけ見れただけでも大満足ですが、ただ大きな画像であるだけに、もう少し離れた所から三つの肖像画を見比べたいところですが、常時人が群がり叶いませんでした更に大きく横に長い屏風を、最前列でのかぶりつきでアップで見ても、魅力半減もっと離れた所から全体の構図や雰囲気を楽しむものなのに、2メートル位は離れた所に仕切りバーでも作って、多少なりとも遠くから観覧をするとか出来なかったかな西本願寺にあったものが大正時代に鉄道王の根津嘉一郎の所蔵となり東京の根津美術館が所蔵する尾形光琳の代表作「燕子花図屏風」や円山応挙の「雪松(ゆきまつ)図屏風」、与謝蕪村の「夜色楼台図」が揃うのも四期の目玉であったそうだ更にそろい踏みと言えば、2期では空海と最澄の書があったが今回は平安時代中期に「和様の書」を大成した小野道風、藤原佐理(すけまさ)、藤原行成の「三跡」揃い踏みそれぞれの分野ごとでもテーマなども決めていたみたいだ凄みがあるといえば京都の曼殊院の不動明王像(黄不動)だったが、その腹部に小さな不動明王が描かれているのが最近わかったそうだ。黄不動は秘仏で普段は非公開であるそうで、このような機会はなかなか無いので見入ってしまったこうして二期と四期の2度の来訪によってかなりの国宝を見る事が出来た。盛況だった国宝展も今週末11月26日まで。京都国立博物館の野外展示には、平安京で使われた石材などもあった写真が前後するが、昼前には京都駅に到着し、まずはホテルに荷物を預けて三条河原町付近で、昼食を食べようとうろうろしてたら木屋町で幕末の志士桂小五郎が滞在した対馬宗氏の屋敷跡こちらは土佐を脱藩した天誅組の吉村寅太郎であるが享年27で射殺されたその辞世の句は、吉野山風に乱るるもみじ葉は我が打つ太刀の血煙と見よそして同じく土佐の武市瑞山。通称は半平太で武市半平太の方が有名かもしれない。竜馬とは遠縁にあたり、京洛における尊皇攘夷運動の中心的役割を担った(土佐勤王党)が、主君に対する不敬行為という罪目で、半平太は切腹を命じられ、三文字割腹の法を用いて腹を三度かっさばいた後に、介錯が心臓を一突きしたそして志士らに多大な影響を与えた兵学者にして思想家の松代藩の佐久間象山は元治元年、西洋かぶれのイメージから攘夷主義者に暗殺をされた。後年には兵制の確立を行い陸軍の父と呼ばれた長州の大村益次郎も明治2年に急激な変革を不満に思う者らに襲われて暗殺された地だそして三条通りにあるのがだんだら模様の浅黄色の羽織の新選組が、京都を焼き尽くそうという計画をしていた志士らの会合をしていた池田屋に乗り込んだ。今は居酒屋三条木屋町は幕末は随分ときな臭い土地柄であったようだそんな三条木屋町で1日目のランチという事で事前に調べてたお豆腐屋さんの位置がいまいち判らず、歩いてて偶然に980円ランチの看板を見つけて入店したのは、長年京都で愛され続けてきたという「円居」プロデュースの「京都洋食ムッシュいとう」ブッフェ形式で、いつも食べきらない程皿にのせて後悔するので、今回は野菜を中心にヘルシーな感じで。後から美味しかったお魚のお料理とかおかわりしましたここのフレンチトースト、最後の一つのを持ってきたけど美味しかった。横の女の子は皿に数個は積み上げていて、私がいる間は追加されなかったのが残念だったあっ写真の下部の怪しげなのは心霊系ではなくてスマホを構える私の指です。そんな心配もしちゃいそうな瑞泉寺は秀吉により女子供も含めた一族郎党が三条河原で処刑された豊臣秀次一族の供養がされた寺だその中には東国一の美女と呼び声の高い最上義光の息女、駒姫もいたのだか享年僅かに15歳。側室として召し出されて京都についたばかりで、秀次に目通りをする事もなくこの世を去った戦国の悲運に見舞われた少女で、右側に立て看板があるその辞世の句は、「罪なき身を世の曇りにさへられて共に冥土に赴くは五常のつみもはらひなんと思ひて罪をきる弥陀の剣にかかる身のなにか五つの障りあるべき」>彼女らの遺体は遺族が引き渡しを願った>が許されず、その場で掘られた穴に投げ>込まれ、さらにその上に「畜生塚」と>刻まれた碑が置かれた。ウィキペディアよりそんな訳でホテルに荷物を預けてからバスで1本の京都国立博物館で午後には国宝展を見て、夕刻には再び戻ったがホテルにチェックインをするのにも早いので、少し手前のバス停で下車をして祇園界隈をうろうろと京都五山の第三位で国宝展の第二期でも見た俵屋宗達の風神雷神がある建仁寺で右側の塀は五本筋築地塀といい、皇族や摂家にも用いられたもので、皇室に由来する格式の高い寺院の証拠でもある建仁寺の塔頭の正伝永源院には、信長の弟で、千利休に弟子入りし茶道の宗匠となった織田有楽斎のお墓があるようだここに有楽斎が建てた国宝の如庵は今は愛知県犬山市に移築がされている祇園をてくてくにゃん前から祇園で抹茶パフェを食べたいと思っており、どこに行くか迷ったけど今回は「祇園小石」にしたここは飴屋さんで、様々な飴の試食もさせてくれるし、後で会計時にも袋に入った小さな飴を二粒貰ったといった訳で飲食コーナーで、念願の抹茶パフェをパクっと。大きな栗とか白玉がこぼれ落ちそうだ姉の方はクリームあんみつこういった細い道は大好物。向こうに抜けられそうだその先の祇園の白川には、鷺京都御所から辰巳の方向の守護神とされる辰巳大明神(辰巳神社)は今は芸の上達を祈願する舞妓さんや芸妓の信仰を集めているんだそう京の街も、そろそろ夜の帳がおりてきて薄暗くなった中を、急ぎ足でホテルへと向かった。とは言っても日が短いだけでまだ午後5時位なんだけども紅葉シーズンも始まった時期だけに平日とはいっても10月下旬よりも空室も少なく、宿泊料金自体も高くどこに泊まるかをネットのサイトで物色。二人で2万数千円のが良いが高い。2万円は程々、1万5千円は安いがちょっとねっ・・・て、迷ってしまい、決めかねたままでいたら泊まりたかったけど高めなので、躊躇をしていた交通の便の良い東山三条にあるホテルのレディースプランが直前割りとなり二人で税込み2万円ポッキリで出たので、即予約をした京都花ホテルは小さなホテルだが、全館禁煙で、Wi-Fi完備、女性に優しいとのコンセプトだそうで、このレディースルームでも様々な工夫があり、コーヒーメーカーも。早速ココアを飲んでみた香りも選べるアロマスタンドとか、色んな女性に好まれる備品も揃っていて、他にフットマッサージ器や、空気清浄機などもマットレスは浅田真央などの宣伝で有名なエアウィーブ。フェイスマスクに休足時間。入浴剤も色々と揃っているシャンプー&リンスも自分好みのものが選べるように浴室に幾つも置かれていた部屋に入る前にはウェルカムドリンクのコーナーも出来ていて、セルフで飲物を楽しむ事もここから2日目です。昼頃までに観光を済ませて、預けた荷物を取りにホテルに戻るついでに祇園でお昼を食べて帰ろうかと。何やらかわいい郵便局を発見さてお昼の方は、お好み焼きの原点とも言われる一銭洋食。ウィキペディアから>大正時代の駄菓子屋で、水で溶いた小麦粉に>刻みネギやわずかな肉片などを乗せて焼き、>ウスターソースを塗ったものが「洋食」と>銘打って売られていた。>起源は不明であるが、この種の料理を洋食と>呼ぶのは西日本に限定されるため、おそらくは>大阪または京都が発祥と思われる。(神戸では>「肉天」と呼び、洋食という言葉は使用され>ない)洋食焼きは当時1枚一銭で売られていた>為に「一銭洋食」と呼ばれるようになった。>具材はねぎ、千切りキャベツ、ひき肉、すじ肉、>こんにゃく、かまぼこ、もやし、魚粉、豆類、>天かすなど多岐に渡り、店や時代によって様々>である。洋食焼きは戦後も「拾円焼き」「五〇>円焼き」などと銘打って店舗の軒下などで>作られてきたそんな今は懐かしい一銭洋食を、懐古的に商品化。お店の方もレトロな感じの祇園にある「壹銭洋食」。さすがに洋食と銘打つだけあって、かなりコテコテ。薄味だった関西で、こんな濃い味が好まれたのはなぜ?再びの祇園白川。外国人観光客が何やら巽橋上に集まり、囲みで撮影してたのは観光客がレンタル衣装で舞妓姿になってたなんちゃって舞妓さん。今風のお嬢さんが安っぽい着物で、それを本物の舞妓さんと勘違いしてしまうのはまずいなぁ~と懸念こういった普通の着物姿だったら、和服親しんで貰うのにも、すごく良いと思うけど、なんちゃって舞妓さんはね・・・日本人より、日本通の外国人も多いから本物と勘違いする事はないと信じたいバスの車窓から、ぼ~と外を見ていたら四条通りで、本物の舞妓さんのチラ見が出来た。淡い色の上品そうな着物を背筋を伸ばしキリっと着こなし、日本髪を結った薄化粧(すっぴん?)の若い女性だけど見るからに、観光客とは全く違うこちらは絢爛豪華な着物を身にまとった本物の花嫁さん。ここに小さな結婚式場があって、よく花婿花嫁の写真撮影を行っていたりもする。という訳でホテルで荷物を受け取り、すぐ脇の地下鉄駅から乗車してあっと言う間に京都駅に到着一銭洋食だけじゃお腹もいっぱいにもならないし、新幹線に乗る前に京都で和風スイーツを、もう一品という訳で地下街のポルタで、江戸期の弘化年間創業の雑殻問屋であったという京阿月の栗ぜんざい主要商品が「小豆」であったので社名を「阿月」とした京菓子や甘党の店であるさて今回の二度目の京都は、国宝展の他に紅葉もポイントだったが、それについてはまた今度。さて、どこのお寺でしょうね? 平成29年11月15&16日に京都で撮影にほんブログ村
2017年11月24日
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2000年に開催をされた文化財保護法50年記念の「日本国宝展」を東京国立博物館へ見に行った時は、当日入場券を購入するのに1時間かかった覚えがありそれもあって2014年の国宝展は混雑するだろうし、普段から国宝とか見るし改めて行かなくてもいいかと断念したが正倉院の鳥毛立女屏風も出展をしており今なお見る機会が無かったので、行っておけば良かったと後悔もしている。前は奈良の国立博物館で毎秋に開催をされる正倉院展にも何度も出かけたが、混雑がひどくて人の後ろの後ろの後ろあたりで背伸びしないといけない位で最近は行く事もないしだいたい10年程に一度レベルで開催される「国宝展」だが、国の宝を破壊や海外流出から守る為に「国宝」という概念が生まれて、同年京都国立博物館の前身である帝国京都博物館が開館をしてから今年は120周年のメモリアルイヤーにあたるそうで、今秋にそれを記念して「国宝展」が京都で開催をされている京都国立博物館での大掛かりな国宝展は実に41年ぶりで、建物以外の国宝指定を受けている美術工芸品885件のうちの約四分の一にもあたる、200件程が10月~11月26日の期間中に4期にわけられ入れ替えで展示をされるという今までにはないような大規模な国宝展だとは言っても全期にわたって展示をする国宝は少なく1~4期のうちの各1期間のみの展示もあるが、その多くは10月の前期(1,2期)もしくは11月の後期(3、4期)での入れ替えになっており10、11月にそれぞれ1度は観覧できれば大多数を見る事が可能であるのだがところで今回は平成館で展示をされたが今まで紹介したレトロな方は明治時代の建物で、重要文化財に指定をされている普段から神社仏閣好きでもあるし、多くは既に見ていたりするけど、中には鳥毛立女屏風のように、今まで見る機会のなかったものもあって、あぁ~これ見たいなぁ~とネットにある展示品の情報を見つつ、行くならば11月の方かなぁ~なんて、思っていたのに、テレビなどのメディアでも取り上げられるようになると昨年の某鑑定番組で話題になった日本に3点しかない国宝の曜変天目茶碗のうちなかなか表に出てこない京都の龍光院に伝わる(津田宗久→黒田長政→寺らしい)ものが今週末までで展示が終わりますよと煽られた先週の水曜日に、よ~し京都に見にいっちゃおう!と姉と電話で意気投合姉が、次の日には用事があるというので金曜日は夜8時まで(通常は6時)開館するというし、夕刻の方が会場も空いているのではないかと思い、金曜日の京都のホテルも予約をして、姉は「天目茶碗を見てくるわ♪」と家族に言い残し、二人でやってきましたよ、京都国立博物館!午前中は入館待ちで長蛇の列が出来て週末など80分待ちにもなるそうだがそれも午後遅くになってくると徐々に解消されるといので、お昼前には京都に着いていたが、お昼を食べたり観光をしたり時間をつぶしてから(後で紹介します)会場にやってきた到着したのは午後4時近く。当日券も窓口ですぐに購入できて、入館もすぐ出来たけど、やっぱり会場の中の方はかなり混雑していました。といっても正倉院展の通勤列車の中のような状態ではなく、少し待たなくてはいけないけど、混雑しがちな壁際の展示品でも最前列で見る事も出来るメインはやっぱり、曜変天目茶碗だけどそれを最前列で見る為の行列も、内部に出来てて、見るまでに15分程かかった茶碗の内側に小さな白い丸い点が幾つもありそれをとりまくように輝く青やエメラルドグリーンの色彩が煌く様は、宇宙の星々?前回も紹介をしたNHK大河で市川海老蔵が演じるイケメンな信長が、婿の信康に恩賞として与えようとしたが断られた黒い茶碗も見た感じが、曜変天目茶碗みたいだったし本能寺の変で焼失をしたと言われる茶碗であったのか(井伊谷の者が貰っていた黒い茶碗はふちもあり、どう見ても別の茶碗)午後4時に入館をして、100件程の国宝をじっくりと目に焼き付けて外に出てきたのは午後7時少し前で、外は真っ暗になっていた最近の美術展や特別展の当日券は1500円が主流で、それだけの価値があるとは思えない場合もあるのだが、「これは1500円以上の価値があった! すごかった!」と姉もご満悦誘ったがいがあった。印象にあったのは?と聞くと、やっぱり茶碗!と答える姉だったし私の場合は初見でわっ♪と声を上げたのは四騎獅子狩文様錦で、学校の教科書によく載ってる左右対称の文様で、小野妹子が隋から持ち帰り、聖徳太子の御幸の際には旗となった風俗図屏風(彦根屏風)とかも嬉しかった更に、たぶん今までにも見たとは思うが山越阿弥陀図や餓鬼草紙などなど。個人の絵かきとしては一番、国宝登録数が多い雪舟は10月中旬は全6作品が見れたそうだが、先週にも秋冬山水図、慧可断臂図天橋立図の三作品がまだ並んでいた同じように幾つも並んだと言えば、因陀羅筆楚石梵琦賛の禅機図は5つに切断されて断簡となったが、別々に所蔵される寒山拾得図、智常禅師図、丹霞焼仏図の3つが揃った。「帰牧図附牽牛」(李迪筆)なども、見たかった作品今までにも何度か見ているが、風神雷神図も今回の目玉の一つだと思う。ただこういった作品も入れ替えの為に、11月は並んでない11月でも見られるのが縄文時代の土偶で茅野の縄文のビーナスと、仮面の女神は前に見たが、縄文の女神(10月のみ)は初見だと思うし、深鉢形土器(残すところ4期)も県外では殆ど展示されないものでそれらが並ぶのも面白い趣向だ。モダンな感じすらするなんだか絵画ばかりを紹介したけど、巨大な六丈仏や、太刀や鎧、古墳の出土品などなど様々な国宝が並んでいる。前の方の人が熱心に読んでいたのか、最前列の行列が全く動かなかった「伝教大師請来目録」(最澄筆)は穴が開くほど眺めていたので、茶碗以上に印象が残っていたりするので、何年かしてあの時の国宝展は「あぁ、最澄の書ね」と言いそうださて11月になって展示品も殆どが入れ替えになったので、私や姉もちゃっかり紅葉も一緒に楽しもうと後半に再び来訪予定です。今度の目標は神護寺の肖像画三像揃い踏みで23年ぶりだそうですよそれぞれに見たばかりですが長谷川等伯久蔵父子の絵が揃うのも目玉なんだとか行ってみたいと思うあなた、詳しくは下記で京都国立博物館「開館120周年記念特別展覧会 国宝」さてさて、このゆるキャラは京都国立博物館の公式キャラクターのトラりんです。尾形光琳の幼名市之丞から拝借し虎形琳丿丞(このかたりんのじょう)が本名で、光琳の竹虎図がモチーフだとか裏地がお気に入りで見せてくれましたトラりんのりんは、琳派からだそうでしてこう見えてアカデミックなゆるキャラですがチャームポイントはお尻だそうで、ぐっと突き出してくれましたお帰りになる前には集まってきた人たちとハイタッチでお別れをするなど、けっこう関西風のくだけたトラりんでした。う~むこうなると国宝展の思い出は最澄の書とか茶碗ではなくって、トラりんになりそうなさて、ここからは京都でのお食事とかホテル紹介を・・・1日目のお昼前に京都につきまして、午後遅くに京都博物館に入る為に、時間つぶしに祇園、東山をうろうろ。祇園で見つけた昼のランチの看板を見て入ったのは居酒屋さんの「いとう家の小鍋」で、観光客などおらず地元の若い子とかサラリーマンのお父さんがお昼を食べてましたヘルシーな小鉢のおばんざいが幾つも並んだおばんざいランチ880円。柚子の効いたやわらかなこんにゃくとか、味も良かった (これは次の日の写真です)京都国立博物館からバスで、ホテルには直接行けそうになかったので夜には京都駅に出ての夕食タイム。京都駅前の地下街「ポルタ」のレストラン街に出かけてました四季の素材感を大切にしているといる和パスタ「こなな」は地元の若い女子率が高いようでしたパスタに300円を足すと、ほうじ茶と3種のおばんざいセットが付きます。とは言っても昼間のに比べたら今風の味です和パスタとあるだけあって、さっぱりとした味なので、洋風が苦手な年配者には良かったですよ。ちなみにランチもこのパスタも私が姉に奢りました♪お腹もいっぱいになったので、地下鉄を使い五条駅に移動し徒歩1分でホテル到着。やっぱ駅近がホテル選びのポイントです。京都では最近は急増をする外国人観光客に対応をして新しいホテルが続々と京都に誕生してまして「シタディーン京都」もそんな一つかもここも外資系のようで外国人観光客向けなのか、領収書が日本人相手でも英語の表記だし。一人あたり6千円弱だと電話で言ったら、姉は「どんなひどいところに泊まらされるんだろう」と、心配だったみたいだが、部屋に入りこぎれいな部屋で喜んでました。まっ、窓を開けるとビルの壁なので眺望は望めないですがシタディーンとはフランス語で「都市生活者」という意味らしく、ホテルの利便性とアパートのプライベート感覚が融合した宿泊施設であるそうで、ミニキッチンも部屋にあり、レンジフライパン、鍋など調理器具も用意されていた引き出しを開けるとお箸やスプーン。ここで調理も出来そうだし長期滞在で自炊をしたい人にはいいのかもその割にコーヒー、紅茶のパッケージではなくって日本茶とおせんべいという和風なものは、逆に外国人観光客に喜ばれるのかも折り鶴などもあるし。お水のボトルは無料こういった格安系のホテルだって、やっぱ週末や紅葉、桜のトップシーズンには需要が高まるのでかなり高い金額になりもするがそれでも満室となる。既に紅葉と国宝展後期目当ての次のホテルは一人あたり1万円だし次の朝は、モーニングを食べに近くの高木珈琲烏丸店に出かけた。前にケンミンショーでもやっていたけどパンの消費額1位は、京都だそうで、かつての都人はパンの朝食が好きであるらしい。大学生とかも多いしねその為に喫茶店が多く、地元系喫茶チェーンも幾つもあるのだが、最近は全国系なども増えて激戦化もしそう。ここの近くも名古屋のコメダ珈琲も出来ていた。うちのあたりはコーヒー代だけで軽食が付いてくるけど、他の地域などはモーニングセットの料金になるので、その内容によって料金もバラバラしたがってモーニングプレートにコーヒーが付いているという感じで、この名物リッチモーニングセットは680円で、トーストとにぬき(ゆで玉子)のセットは550円だホテルの近くには平等寺(因幡薬師)があった頂法寺(六角堂)や行願寺(革堂)と並んで京都の町衆の信仰を集めた町堂の一つである つ づ く平成29年10月27日に京都で撮影にほんブログ村
2017年11月01日
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ふるさと割で大津市の温泉旅館に姉と泊まって、次の日に出かけた先は京都の三大祭りの一つ「祇園祭」の昨年度から再開をした「後祭」目当てであった。去年行きたかったけどチャンスがなく、今年こそはというタイミングでのふるさと割。ラッキー古くより疫病退散を祈願する「八坂神社」のご神事である祇園祭であるが、7月17日の神幸祭と、24日還幸祭に合わせ、長らく前祭の山鉾巡行、後祭の巡行をしてきたのだが、昭和41年から前祭の17日にのみまとめて山鉾巡行となったしかし後祭があった24日には、山鉾巡行の代わりに「花傘巡行」が行われるようになり、昨年度から再び山鉾巡行が復活しても、今まで同様に花傘巡行もされ華やかな後祭とった。時期を逸して後悔をする「後の祭り」という言葉は、前祭に比べて地味な後祭では行っても意味がないのが語源だが平成の後祭は華やかで、その目玉の一つが花街の舞妓さんらが見られるのだ。例年であれば二つの花街だけだが、今年は花傘巡行50周年にあたる記念で四つの花街が参加し華やかさを増していた実は山鉾巡行では後からやってきた厚かましい関西のおばちゃんたちの割り込みで、すぐ横に姉がいたはずなのに振り返ると、知らないおばあちゃんが身を乗り出していて、その人の足元に姉が座り込んでいるよ>道路の柵の内側には、山鉾巡行の随分前から場所を取ってた人たちがいるにもかかわらず、巡行直前に柵の外(道路側)の縁石に、ずらずらと年配の方や海外の方が座り込んで。なんかね・・・そんなのあり?という訳で山鉾巡行は不快な事もあり、姉には大変申し訳なかったけども、それも終わると多くの人が帰りはじめ、花傘巡行はのんびりと見る事が出来たつ~か、山鉾巡行よりこっちの花傘巡行の方が私は好きなんだけどな。おキレイな舞妓さんたちも見物出来るし♪ この後で八坂神社で奉納の舞をされるそうなので、その衣裳も趣向を凝らしている次は八坂神社での奉納の舞も見てみたいけど、境内などには舞妓さん押しのおじさまカメラマンで占拠されていて近くで見れそうもないようなそんな訳で、今回の日記で家のネットによる更新が最後になりそうだ。一応は17日まで使用となっているが、とにかく忙しいので。8月に入って小屋の修理も始まり、解体前&地鎮祭を兼ねた神官さんによるお祓いこの暑さで、舅の姉(入退院を繰り返している)や舅の弟が入院したというし。そんなお年頃と言えばなんだが、舅も姑も持病は多いが介護が必要でないだけでも有り難いかもしれない家の片付けもクライマックス。私の部屋(いらないものはもう捨てている)と、和箪笥だけで引っ越しもいつでもOKって感じだけど舅、姑の部屋は後から嫁が捨てただの失くしただの言われたくないので、私は一切立ち入らないようにしている。高い所からモノを取るのは旦那の役目で、ぼちぼちと進んでいるようだけど、舅もノータッチ!のくせに文句だけは多い2万円位で農協で買った懐中時計が出てこないそうだ。昨夜などは夜に舅がはめている手袋を「朝、そこにびちゃっておいたのにない」と、姑が片付ける時に失くしたと言って新しい手袋を出しても「そんなもんははめん!」と1時間以上にわたって姑をどなりちらした挙句自分で持ってました~。今夜は今度は目薬が無くなったといって同じように怒鳴り合いが聞こえているし、やっぱり同じ所に同じものがあって、同じようにしなきゃいけないみたいな一種の病癖があるのではなかと・・・とっても恐ろしくて舅のモノなど触れないです大晦日に、業者から貰った次の年のカレンダーを部屋に飾るのが舅の役目なんですが、ある年にはお気に入りの大きな日めくりが無いと大騒ぎになって、怒鳴り散らしこれじゃあ来年が来ない!といって、大晦日の年取りのごちそうも手を付けず、最悪の雰囲気の中でなんとか日めくりが出てきて助かりましたが居間のテレビの上の同じ壁面側に、3つもカレンダーを並べてかけておくというのが、なんともヘン!!と思ったもんですが、昨今は不景気の余波なのか大きな日めくりも小さな日めくりも業者が配るのをやめたので、うちは毎年無事に年取りが行えます(笑)舅弟の初盆もあり、引っ越し間近で日程が取れそうもないし娘の家にも近いので娘のお休みの日に合わせて、お盆には1日早いが舅、姑を連れて出かけ、最初に娘の家に寄ってスイカ村~。舅は娘と一緒に回転寿司でもお昼に食べるつもりだったんだけど旦那の叔父妻からの事前の電話では、午前中は用事があるので昼頃に来てくれとの事で、これは食事でも出してくれるのかな?という訳で舅、姑、旦那だけが出かけて、私と娘は別行動。するとお昼少し前に叔父妻から電話があり、午後遅くにも急に用事が出来たそうで忙しそうなので昼は食べてからいくと姑がいうと、一緒に食べたいから、用意もできないし買ってきてくれと言われて事前にほかほか弁当を人数分(叔父妻分も)買って、姑はたぶんお金を出してくれるだろうと、レシートもしまって行くと、え? もう自分は食べたって?はぁ~?、一緒に食べたいとか言ってたのに。自分たちで買ってきたほかほか弁当を他家で食べて無論、お金も貰えず叔母妻に買ったのは意地でも残してきたくはないと、娘に食べさせるようにお持ち帰り~、娘の夕飯となりましたそんな事なら娘に美味しいものでも外食させてくれば良かったと舅も姑も後悔しきり。遠くからわざわざやってきた亡夫の本家の人間に対して・・・。舅も含めてあの兄弟は変わり者が多いけど、その家族もなんだかね・・・ヘンだしその亡叔父の新築の家のお祝いで、子供は汚すと嫌だから連れて来るなと言われ、叔父叔母さんたち本人のみが出かけたら(前の)嫁さんの兄弟は、子供も含めて家族揃ってきていてブチ切れたって因縁もあるし、姑によれば亡叔父さんはこの家にあった古文書とかを勝手に持ち出しているみたいだ更にお盆前に旦那の会社の飲み会もあって、旦那を会場に送っていくついでに不要物をリサイクルショップに持ち込み売り飛ばし、旦那の宴会が終わるまで実家に訪問(土産はウィスキー)し、仮住まい中に甥のケーブルネットの無線ラン使わせて~とOKを貰ったんで、娘や実家でのネットは可能となった朝夕が冷え込み、今朝などは室温24度。寒いので窓も閉めるもう秋もすぐそこ。ではではっ 平成27年7月24日に京都、祇園祭花傘巡行にてにほんブログ村
2015年08月14日
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さて娘と9月中旬に出かけた京都の旅も、いよいよラストの観光先の「八坂神社」となった。東山とか祇園にも近く、京都に来るたびに大概、立ち寄っている。だって拝観料がいらないんだもん。ご参拝も出来るしウィキペディアより>全国にある八坂神社や素戔嗚尊を祭神とする関連神社>(約2,300社)の総本社である。通称として祇園さん>とも呼ばれる。7月の祇園祭(祇園会)で知られる>元の祭神であった牛頭天王が祇園精舎の守護神であると>されていたことから、元々「祇園神社」「祇園社」>「祇園感神院」などと呼ばれていたものが、慶応4年=>明治元年(1868年)の神仏分離令により「八坂神社」と>改められた>祇園祭は、貞観11年(869年)に各地で疫病が流行した際に>神泉苑で行われた御霊会を起源とするもので、天禄元年>(970年)ごろから当社の祭礼として毎年行われるように>なったとの事だ境内には、平家物語巻六にも書かれた「忠盛燈籠」があるある五月雨の降る夜に、白河法皇が祇園女御に会うた為にこの辺りを通りがかると鬼のようなものが見えた。法皇は供をしていた平忠盛に討ち取らせようと命じた 忠盛は、その正体を見定めてからとして生け捕りにすると燈籠に燈明をあげようとした、祇園の社僧であったそうだ社僧の着た雨具の蓑が、燈明の光で銀の針のように見えた為だったらしい。忠盛の思慮深い行動に都人らは感嘆したそうだ。その所縁の燈籠更に、素戔嗚尊が天照大神と誓約をした時に生まれたという宗像三女神(市杵島比売神、多岐理比売神、多岐津比売神)を祀る「美御前社」は美を象徴する神様として、祗園の芸舞妓美容師、理容師、化粧品業者、美しくなりたいと願う人々の崇敬を集めている。肌の健康を守るといわれる美容水なども昨日は清水寺背後の縁結びの地主神社に参拝してなかったのでここ八坂神社の境内に鎮座ずる、縁結びの神様(大国主神)を祀る大国主神社にも参拝大国主とは素戔嗚の子で因幡の白兎でも有名。高円宮典子様が嫁がれた千家氏が、神職を務める出雲大社のご祭神でも有名だそんな訳で八坂神社の参拝を終えて向かうは京都駅! とその前にさて、ここからは前日の東山から祇園を通ってホテルへ向かう時の文字数オーバーではみ出してしまったので、こちらで紹介をしますここは祇園にある神社の「安井金比羅宮」で、祭神は崇徳天皇、大物主神源頼政。藤原鎌足が藤原家一門の繁栄を祈願した仏堂を建立し藤を植樹し藤寺と号した。のちの時代には崇徳天皇が藤寺の藤を愛でる共に、寵愛した阿波内侍を住まわせていたのだとか崇徳上皇が讃岐国で崩御すると、阿波内侍は出家して尼になり崇徳上皇の自筆の尊影を藤寺の観音堂に奉納し、日夜ひたすら勤行したのだとか大円法師が参拝した際に、崇徳上皇の霊が現れた為、後白河法皇の詔によって光明院観勝寺が建立されたのが、紆余曲折もあり神仏分離で神社となった境内には縁切り縁結び碑という高さ1.5メートル、幅3メートルの絵馬の形をした巨石があり、中央の亀裂を通し神様の力が円形の穴に注がれているそうで、そこをくぐると悪い縁は切れるし、良い縁は結ばれるそうだ崇徳院は保元の乱に敗れ讃岐国に流され崩御しますが、怒りに荒れ狂う崇徳院の怨霊の姿は「保元物語」にも描かれている。御白河院が崇徳院の怨霊を慰める為に、鴨川の東に建てたという粟田宮という神社がこの地に移ってきた崇徳天皇の御廟があったで、京都駅到着。また歴史ものあるし今回も文字数オーバーで最後まで紹介できるか心配だ帰りにはぷらっとこだまを使うので、時間もあるしとりあえず京都駅の屋上まで今日も登ってみた新幹線も見えるし東寺の五重塔もこちらは東本願寺、改修中春に出かけた西本願寺そろそろ時間だし 降りて行ってみよう~ 京都タワーも見えたりも 新幹線の改札を過ぎると、ほんまもんも、なんちゃっても見れなかった観光客の為に舞妓さんホームに上って新幹線でも見物するか前から見たり横から見たり。無論、黄色い線から出ず安全な所から今回は禁煙席のぷらっとこだまは売り切れで、喫煙席にしたけどうちと同じように吸わない人がほとんどで、車内がモクモクという訳でもないが、やっぱ少しタバコ臭い ぷらっとこだまにはビールなどがオマケにつくので、娘は早速エビスを飲んで、私の方は旦那にお土産抹茶味の好きな息子にも、お土産なども買ってみた天下分け目の関ヶ原で、滋賀から西は薄味のどん兵衛。岐阜で売られているものと、こんなに色が違う。娘は関西の方が好みのようだ 平成26年9月22日に京都で撮影
2014年10月13日
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年に2度は出かける京都だけど、この前紹介をした祇園から東山界隈は、まず毎回出かけている京都らしい地域であるが同じようにお気に入りなのが、このブログで以前にも何度か紹介もした「先斗町」だ京は碁盤の目のようになっており、前回は繁華街の寺町京極新京極と紹介したけど、その東には大きな河原町通り。道を挟んでの東側に木屋町通り、そしてほそっちい「先斗町」で鴨川に至る南北の縦ライン このほそっちょい路地裏みたいな通りには飲食店などもあり夕刻からは沢山の観光客もくりだし、私も若い時に一人前で数千円以上はするような近江牛のしゃぶしゃぶも友達と食べたたぶん自腹でのお食事代としては今までの最高金額かも(汗)当時は友達と奈良ホテル泊まったり、一人で50万円もするようなヨーロッパ旅行に母親と出かけたりバブル期だったのか羽振りが良かった株や国債、金融機関の金利も高くて、金が金を生むって時代であったし、一般国民も気も大きくなるというものだ(遠い目)しかし時代も変わり、最近はもっぱら相変わらず羽振りの良い姉におごって貰い、名代鉄ピン揚げを鴨川納涼床でとかで京都に住んでいた時、知り合いの女性が行けないからと貰った鴨川をどりのある先斗町歌舞練場。その方に回らない寿司屋に連れて行ってもらい土産のかっぱ巻き含めて二人で1万円越え 昭和も遠くなったものだ・・。三条大橋には三条河原や池田屋の他にメインには三条大橋。東海道五十三次の終点なので弥次さん喜多さんの銅像も三条大橋自体は戦後にコンクリートで架け替えされたものだけど擬宝珠は古いものらしく、池田屋事件で付いたとされる刀傷が橋の北側と南側の2か所に現存するらしい 娘もいて暇でもないので探すのはやめた。先程の弥次喜多の銅像のそばにある「撫で石」を撫でると縁起がいいらしい春の旅行でも紹介した江戸後期の尊皇思想家でる高山彦九郎の像ついつい撮ってしまう平成の世の中になって姿が変わろうが東京は江戸だったし、京都もかつては歴史の表舞台であった時も。京都で一番の繁華街の四条河原町付近には田舎にはない、こんな駐車場もあったりするが 坂本龍馬と中岡慎太郎が暗殺された近江屋も四条大橋の袂にあるのは老舗北京料理店の「東華菜館」で、館内には日本最古のエレベーターが今も動いているそうで、ヴォーリズの設計による洋館で、大正15年に竣工したんだとか(国の登録有形文化財)パンケーキのブームが始まってどれくらいになるんだろう。それでも田舎にはそんなしゃれたお店など待ってても出来ないし、6月に娘と出かけた横浜はアサイーの朝食。今回はネットでパンケーキのお店の「ELK(エルク)」京都店を娘が捜して、パンケーキ食べ放題(スープ飲み物付)1000円娘、ふ~ふ~言いながら5枚を完食で。私の方は1日10食数量限定のelk特製ブルーベリーとたっぷり濃厚チーズのパンケーキ(チャイ付)1280円。少し高くても限定何食限りって魅惑的な言葉だもん~食べログのクーポン券でアイスクリームもトッピングサービスして貰いましたしまった~~。お店の写真を写すのを忘れてしまいましたわ!ウィキペディアより>祇園社(明治以降は八坂神社)の門前町であったのでこの名が>付けられた町は、鴨川から東大路通・八坂神社までの四条通の>南北に発展した。京都有数の花街(舞妓がいることでも有名)>であり、地区内には南座(歌舞伎劇場)、祇園甲部歌舞練場>祇園会館などがある>現在は茶屋、料亭のほかにバーも多く、昔のおもかげは薄らい>だが、格子戸の続く家並みには往時の風雅と格調がしのばれる>北部の新橋通から白川沿いの地区は国の重要伝統的建造物群>保存地区として選定、南部の花見小路を挟む一帯は京都市の>歴史的景観保全修景地区に指定され、伝統ある町並みの保護と>活用が進んでいる そういった訳で前日は、四条通りから南側を徘徊してほんまもんの舞妓さんにも出会ったけど、今日は祇園の北側の国の重要伝統的建造物群のあたりを歩いてみる。こちらにもお茶屋さんとかもあり夕刻に、芸妓さんに出会った事もあるし夜遅くには狭い道の脇にずらりと黒い高級車が並んで、SPらしき目つきの鋭いスーツの男性が立っていて、ビックリしたものだ今日は結婚式の前撮りらしきカメラマン付きの新郎新婦が、あちらにもこちらにも。4組もいたし!かわいい看板! 東山のように観光客があふれる事もなく、京都らしい町並みを楽しめる地区かもしれない白川沿いとか緑も一杯。春の夜桜も良いかもよくロケで出てくる辰巳大明神は、祇園の芸舞妓さんからの信仰を集め伎芸上達にご利益のある小社だ 白川にかかるのは、巽橋つ~~か。祇園のど真ん中のこんな建物も販売中のようだとういった訳で、なんだか同じ辺りをウロウロしてる京都旅もいよいよクライマックスへと! 平成26年9月22日に京都で撮影 日記更新をしましたが、今日はお出かけ予定もあり、皆様のブログには 明日中(13日)に伺います。台風が心配ですよね。このままじゃ直撃
2014年10月12日
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さて、娘と9月中旬に出かけた京都の旅も、初日の事しか紹介できてません。まだまだ旅は続きます。夕刻ホテルにチェックインして、2時間程、足を休めてから再び活動を始めますよ夜の京都を徘徊です(笑)まず出かけたのは、修学旅行でお土産を買いに来た事もあるアーケードの「新京極」、並行している「寺町京極」京都は年に2度は来るけど、このあたりに出没をするのは久しぶりかもウィキペディアより>1872年に京都府参事槇村正直によって作られた比較的>新しい通りである。かつては広大な寺域を誇った時宗>十二派の四条派の金蓮寺が、18世紀末から寺域の切り>売りをはじめ、明治以前に売却地に料亭・飲食店・商店>見世物小屋が建っていた >一つ隣の寺町通(寺町京極)に集まる寺院の境内が、縁日の>舞台として利用されるようになり、人が多く集まったため、>各寺院の境内を整理し、寺町通のすぐ東側に新しく道路を>造ったのが新京極通のはじまりである槇村正直って、八重の桜の覚馬お兄ちゃんとやりあった人?そして三条河原といえば、ゴエモンや秀次などの処刑や処刑後の晒し首が行われた事で有名で、新撰組局長の近藤勇も板橋刑場で刑に処せられた後に、首が運ばれ三条河原で晒し首となったとか その僅か4年前には、この近くの池田屋に潜伏していた京都放火計画をしていた、長州藩や土佐藩等の尊王攘夷派志士を襲撃して意気揚々と京都の街を練り歩いたというのに。今は「海鮮茶屋池田屋はなの舞」という居酒屋になっていたてな訳で、てくてくとやってきたのは、昼間にはパトレイバーが立っていた平安神宮だ偶然、娘が午後の東山の街歩き中に、キョロキョロとしていたら気になるポスターを発見。ちょうどその日の夜「岡崎ときあかり2014プロジェクション・マッピングコンペティション」が岡崎の京都市美術館で行われるというのだ数年前に娘と、東京ディズニーランドのシンデレラ城で見た事があるけど、東京駅や大阪城などでの大規模な様子をニュースで見たりして、どこかで見たいなぁ~と思っていたしかも大阪城のプロジェクション・マッピングとか有料だったが無料で見れるんだから、これは行かねばなるまい!東京の人などはさっささっさと目的地に向かって、さっそうと街を早歩きするけど、名古屋などでは何かお得なものでもないかと周囲をキョロキョロしながら歩く県民性元尾張藩で、名古屋のテレビを見て名古屋の新聞(中日新聞)読んで事あるごとに名古屋に出かける岐阜県民も、やっぱそんな性質などもあるようだコンペティション(競技)なので、一人のプロの人が作ったものでなくって、様々な人による入賞作品(昨年度の優秀作も)を次々に映し出していくのでかわいいのもあれば、硬派なのもあって個性的で面白いなんて堪能もしたし、行きホテルから歩いてきたけど帰りには奮発して地下鉄なんかを使ってみよう。何せ今日も2万歩くらいあるいたのでへとへとだ地下鉄のホームに降りると、その日に岡崎で開かれていたアニメフェアの関連ポスターがずらりと貼られており、「え~~~私の好きな漫画家の展覧会とかしてたんだ」と娘ショック。昼間は市バスで岡崎へ来たのでポスターに気が付かなかった 地下鉄使ってたらね~~と娘は残念がるが、へたすりゃアニメ&漫画で京都の午後がつぶされるところだった私はほっと一安心。地下鉄で戻りホテル近くの全国チェーン、いつものサイゼリヤでワインも白赤2種をデカンタで頼んで、ほろ酔い~。でも安い最近は価格的にも交通の便も設備も良いビジネスホテルをよく利用しており、ここのお風呂はセパレートタイプだったので、ゆっくりお湯にもつかれてのんびりできた次の朝は、食べログで見つけたホテルの近くの「都野菜賀茂」での朝食バイキング(飲み物付)490円。開店数分前には着くように出かけたので並ぶ事も無く、開店時にはお店には入れた店名のごとく京都産有機、無農薬、減農薬野菜満載のヘルシーな朝食で大満足。この周囲(四条烏丸)には京都市民が普段でも使うような良い飲食店とか多いので要チェックだ食事を終えて出てきたら、昨日のうどん屋みたいになっていた(汗) で、ホテルに戻ってお店が開き出すような時間まで、朝ワイドをのんびり見てから出かけたら、ホテル近くに娘が前から気になっていた(東京?)というカフェチェーンがあるので、娘が注文京都らしい自販機も撮影し京都らしい八百屋さんでは丹波栗もあるらしいで、やってきたのが久しぶりに来たかった京都の台所である「錦市場商店街」だこのお嬢さんは赤の他人だ。娘ではない京都らしい食材の試食も出来る築地市場もだが、私たちのような観光客が食べ歩きが出来るように100円の食材もあって卵焼きや、漬けまぐろを~以前に姉と食べた事はある(餅かな)。流石にチョコレートのコロッケは興味はあるけど、娘も買い食いする気持ちにはならなかったようだ 昨夜も通りがかった↑錦天満宮の境内に湧き出るのは「錦の水」 続く! 平成26年9月21、22日に京都で撮影
2014年10月10日
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こんな絵になる京都であれば、いっそ着物で歩いてみたいという世の女性の願望を叶えるように、変身スタジオ増殖中!シンプルな着物の他に、舞妓や新選組隊士などなど。娘もやってみたいなぁ~とか、ちと憧れもあるようだ昔、娘の上の学年のお母さんなどが京都嵐山に行き、舞妓に変身した写真を見せて貰った事があって言葉を失う! その当時アラフォーなお母さん達だった。やっぱ舞妓さんは若い娘が良い最近見た映画の「舞妓はレディ」でも、後継者がいなくて三十路で舞妓なんて嫌っ!て、先輩舞妓さんお怒りだったし百春ちゃん演じた田畑智子さん、なかなか良かった(笑)といった訳で、人並みに変身願望もある娘と出かけた9月中旬の京都旅。東山散歩の続きは3回目になります。今だ使ったお金は電車、バス代とうどん代の1万円(2名分)となりますここは大正時時代に院庭園の一部を取り崩し、通り抜けの道を造ったのが、昭和の時代になって京都から市電が廃止をされるようになり、市電に使われていた石畳を敷したという「石塀小路」 路地伝いに、旅館や料理屋が軒を連ねる落ち着いた佇まいが観光客にも人気があります通りもメインから一歩、外れたらホント、よろしおすわぁ~今日も観光客が変身したなんちゃって舞妓さんのグループがこちらにも。カメラに囲まれる事もあるけど本物とは違うという事さえ勘違いされなければ、良い京都や日本の宣伝にもなります流石に世界遺産。いや登録される前から京都は外国人に人気観光地ですし今回、驚いたのが男性の着物変身(着流し風)も含めて結構海外の皆さんが変身されてる事気軽に民族衣装を着て、京都をそぞろ歩きは楽しいんでしょうねというか観光も楽しいけど、その国の文化風習を自ら体験をするというのが人気みたいこのお嬢さんも海外からのお客様のようです♪ そうそう皆さんもお知りと思いますが、産寧坂(さんねいざか、三年坂)と、二年坂とかありまして、坂で転ぶとどうとかとか言われますが>「産寧坂」の語源には諸説あり、この坂の上の清水寺にある>子安観音へ「お産が寧か(やすらか)でありますように」と>祈願するために登る坂であることから「産寧坂」と呼ばれる>ようになったという説が有力だ ウィキペディアより転載この周辺は生八つ橋の試食とか、舞妓はんがひぃ~ひぃ~という激辛商品の試食(どちらもお茶付き)などもあるんだけど、今回自腹を切って日本酒のカクテルなるものを購入して娘と半分こそれにしても昔と比べて、周辺も整備され小奇麗になって、なんかテーマパークにいるみたい。でもお金かからないから良いよ、ここUSJ大阪もハリーのが出来て行きたいけど、TDL同様にパスポート高いし、懸賞もしてないので自腹切れるような金額じゃないし 逆に近くに居たら年間パスポートとかお得な切符使ったりもするけど、並ぶのも嫌だし、並ばなくて済むチケットを更に買い足すなんて行為はとてもとても・・・庶民はやっぱ街歩きが一番の観光ですかね。こちらは「五龍閣」(国の登録有形文化財)は、清水焼の窯元で碍子や義歯まで製造し財を成した松風家の屋敷で、大正時代に建てられた洋館だ。今はショップになっているこの界隈に来ると、用もないのに必ずここ見ちゃいますね。前に姉とお昼に湯豆腐いただきました若い子に水の撒き方を指導中~清水寺近くのバス駐車場から、団体さんがぞろぞろと清水寺へと向かうので半端ない人出だ人も多そうだし、拝観料も必要なので清水寺はスルーして、参道の塔頭で、東日本大震災で津波で流された陸前高田の樹を使ったという仏像を参拝するなんか、このあたりも散歩(徘徊)ルートが決まっていて、ここから戻って、今度向かうのは 大阪に通天閣があるように、名古屋にはテレビ塔。東山のシンボルといえば「八坂の塔」である 臨済宗建仁寺派の霊応山法観寺の五重塔の通称が「八坂の塔」で、何でも聖徳太子が如意輪観音の夢告により建てたと言われており、その際仏舎利を三粒を収めて法観寺としたんだとか。一度、中に入った事もあるてな訳で東山も堪能したし、午後も遅くなってきたのでそろそろホテルへでも向かうか。ホテルは交通の便の良い四条烏丸にしたので、そこまでは歩ていく事にする東山から下れば、そこはもう祇園 って! ほんまもんの舞妓さんだぁ~~。やっぱお着物が違うしお高そうなお草履も履いてるし!! 舞妓さんも肖像権があるので撮影OKなイベントやお祭りの席でもないので、後姿をいやぁ~~、なかなかほんまもんの舞妓さんは道端では見れないです1分速くても、1分遅くても遭遇できないし。やっぱ今回の旅はなんかツイてる~~春に姉に連れられ、市川海老蔵を観劇した南座の前を通って西日の四条大橋を渡り・・・ 平成26年9月21日に京都で撮影
2014年10月07日
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台風の近づく週末は、しっかりと地域行事に駆り出されました。都会の淡白なお付き合いと違い、田舎のそれは地域総出なんてのもあって大変だったりします。しかも過疎化で老人だけの家庭も増えて、10年後どうなっているんだか火曜日には朝から娘のところで用事があるので、当初は前日の月曜に異動すればよいと思ってたが、台風18号の接近で行事が終わり次第に、雨の中を国道19号を北上大桑より北では小雨で済んだのだが木曽町へ入ると御嶽山の噴火の災害派遣の車両が、幾台も行き来していた。夏の南木曽の土石流と言いテレビで報道されてると遠い所の事にも思えたが、やはり身近な場所で起きてしまった事だったんだもう、この時間は松本では雨も上がっており、これならば昨日でなく今日、移動すれば良かったかもと思いもするが先の事はわからない。その時に最良の努力をすれば良いのだし・・・皆さん、台風のご被害などありませんでしたか?といった訳で、ブログの日記は9月21日に娘と出かけた京都の続き。前回は娘が食べログの点数の高いうどん屋に行きたいと岡崎に出かけたので、思いもよらぬパトレイバーなども平安神宮の前で見物が出来て屋根と空を撮ろうと見上げたら、虹ではなくて太陽に薄い雲がかかった際に、その周囲に光の輪が現れる「ハロー(日暈)」も見れたなんだかツイてるし~前にも紹介をしたように、漫画&アニメのイベントをしていたので、若い子の姿も多い。B級グルメのイベントもやっていたけど、うどんを食べてきたのでパス岡崎にある「京都府立図書館」は>日本で初めての公立の公開図書閲覧施設である京都集書院を>前身とし、1909年(明治42年)に現在地である岡崎の地に>開館した。 ウィキペディアより 平成23年に武田五一氏が設計をして、正面部分の壁面を保存しながら建て替えを行ったそうですなかなか見どころ一杯の岡崎だった。ここからはてくてくと南に歩いての東山散策まずは、大きな楠(くすのき)が印象深い粟田口の「青蓮院」である。三千院、妙法院と共に、天台宗の三門跡寺院とも言われて格式も高いお寺で、天明の大火で内裏が焼失した際に後桜町上皇の仮御所となった事があるので「粟田御所」とも言われている 更には日本三不動の「青不動(不動明王ニ童子像、国宝)」のある寺としても知られており、以前に拝見した事がある知恩院の塔頭の一つ「崇泰院」の前に、親鸞上人旧御廟所、本願寺発祥地、蓮如上人御誕生地との石碑があった。親鸞聖人の末娘である覚信尼がこの地に廟堂を創建し、遺骨と御影像を安置したそうでこれが本願寺の始まりともなった1415年はこの大谷本願寺で第8世蓮如が生誕し、1465年に比叡山の僧兵に破壊されて山科本願寺を建立るまでは本願寺の地であった。後に知恩院の拡充に伴い親鸞聖人廟所が大谷本廟(西大谷)へ移され、その跡地に開創されたお寺なんだとかそして「知恩院」の巨大な三門は高さが24メートルもあり、東大寺南大門より大きく、日本の寺院の三門(山門)の中では最大の二階二重門であるそこを過ぎると、有名な枝垂れ桜もある「円山公園」だ>明治維新までは八坂神社(当時は祇園感神院)や円山安養寺の境内の>一部であった。明治初年の廃仏毀釈の一環として、1871年(明治4年)に>上知令によって土地が政府に没収され、1886年(明治19年)に総面積>約9万平方メートルの公園が設けられた ウィキペディアより高知県出身の自由民権運動家で、自由党員であり実業家の今幡西衛らの尽力によって建てられた「坂本龍馬と中岡慎太郎の銅像」慶応3年秋に龍馬が宿にしていた河原町の近江屋で、京都見廻組に襲われて亡くなった坂本と中岡は京都霊山護国神社の霊山墓地中腹でねむっている 大雲院の「祇園閣(国の登録有形文化財)」は、財閥の大倉喜八郎の別邸「真葛荘」に昭和3年に建てられた、祇園祭の鉾を模したものだ白河法皇の寵愛を受け、祇園に住んでいたので「祇園女御(出自不明正式な女御ではない)」と呼ばれた女性もこのあたりに住んでおり祇園女御供養塔があった月は朧に東山~♪とは、祇園小唄の冒頭の一節。昭和5年の歌謡曲で(作詞は長田幹彦、作曲は佐々紅華)、金森万象監督によるサイレント映画「祇園小唄絵日傘」の主題歌なんだとか長く高台寺道として知られていたが電線地中化工事を終えて、御影石を敷き詰めた石畳の道は、高台寺で余生を送った北政所ねねにちなんで「ねねの道」と呼ばれている、いかにも京都らしい風情ある道だ娘からの京都らしいところに行きたいとの事前の要望に、思いついたのはやはり、ここ東山。知恩院から清水寺に至るエリアだったこの付近には「東山路傍の触れ仏」があり、9種類の仏像や仏具が置かれており、各々に触れることでご利益があるそうで、こちらは春光院門前の摩利支天像。摩利支天はインドの神様で、護身や得財勝利などのご利益があり武士を中心に信仰を受けてきたそうだてくてくと・・・どこにカメラを向けても絵にもなる上に、ご利益まで得られるとは!知恩院以北の静けさとうって変わり、清水寺に近づいてくると観光客の人出も随分と増えてきて賑わしくなってきた新撰組ファンならみんな知っている「御陵衛士」とは、孝明天皇の陵(後月輪東山陵)を守るための組織で、高台寺塔頭の月真院を屯所とした為に高台寺党とも言われている。伊東甲子太郎が思想の違いから新選組を離脱。新選組から隊員を引き抜いて結成したもので中には近藤四天王とも言われた生え抜きの藤堂平助や、斎藤一(新選組側の間者と言われている)も名を連ね、後に新撰組の手による静粛の油小路事件へと・・・。幕末の京都は血なまぐさいものだったようだ 平成26年9月21日に京都で撮影
2014年10月06日
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9月の初旬に続いて、10月も(正確には9月30日から)4日連続の日記更新だ。前回の日記もあれこれ関係がない事を書いて文字数オーバーになり、写真もだが岩村がらみで大河ドラマの感想を書いたのを、ばっさり削除しただから今回はしょっぱなから旅行記にいってみよう~。9月中旬、娘が連休が取れたので久しぶりに京都へ行きたいというので、松本からでは時間的にも金額的にも大変なので娘の仕事が終わってから私が運転する車で戻り、次の朝に京都へ向かったうちからなら普通電車で、名古屋、米原で2回乗り換えで約3時間半、普通料金4000円で行ける。電車に乗っていたら、急に子猫が飛んできた。なっなぜに~? 子猫は女子学生の膝の上に飛び乗って、きゅっきゅとスカートを噛んで引っ張っていた女子学生は振り払うようなことはせず、えっ? えっ?と状況が判らないまま、子猫は程なく飛び降りて他のお客について、他の車両に行ってしまった。駅のホームから迷い込んだのか?なんて思わぬアクシデントもあったけど、電車は岐阜から滋賀へ。県境にそびえる1377メートルの伊吹山は、日本百名山、新・花の百名山、一等三角点百名山、関西百名山、近畿百名山、ぎふ百山に選定されている。古くから神が宿る山として信仰の対象であったそうだ気が付けば、もう京都駅。新幹線を使えば日帰りもできるが交通費が勿体ないので何時も1泊はしている。私は年に1度2度は来るけど、娘が京都に最後に来たのは大学時代?東京&横浜方面も飽きたのか、久々に京都に行きたいという娘とは、旅行費はワリカンなのでホテルも娘が払いやすいよう安いところを探して、食べるところは食べログなどで検索~本当は私は久しぶりに嵐山に行きたかったんだけど、娘が食べログで見つけていた、高得点のうどん屋のある岡崎へとバスで向かったが、四条通り、河原町通りなど混む道ルートだったんで着いたのは昼過ぎ。地下鉄にしとけば良かったかなお店の前には人ごみが。実はうどんの有名店が二軒並んでおりその二軒のうどん屋に並ぶ行列だ。奥(南)は「山元麺蔵」で土ゴボウ天ぷらが有名な店で、こちら側(北)は「岡北」で正統派京うどんが食べれるという やっぱ京都に来たんだし、行列もこちらの方が少し短いようであったので迷いなく今回は「岡北」さんをチョイス! お店を改装されたばかりなのか、中はすんごく綺麗でおしゃれ~♪既に外で並んでいるうちにメニューを貰って、注文もしていたので、席について程なくうどんも出てきた。私はしっぽくうどんで湯葉とか、お出汁が良いだけに美味しい。娘の方はきつね。刻みあげか、そのままなのかをチョイス出来る娘のうどんの方が汁に甘みを感じる。やっぱ旅行の事前にはネット検索で情報を集める重要性を感じたおなかもいっぱいになって、ケチな娘の希望を満たすには近くの平安神宮にでも行くか。無論、有料の庭園部分は桜も咲いていない時期なのでパスだ。この平安神宮で忘れられないのは小学校の修学旅行で目の前まで来ながら駐車場が満杯で参拝出来ずスルーされてしまったという過去がある。まっ、のちに庭園の枝垂桜でも有名なのでお花見をしたり、家族でも来た事もあるが、久しぶりだ ん? へっ?? うどん屋のあたりでも何やら音楽とか聞こえ何やら、お祭&イベントでもしているようだとは感じていたが京都らしい赤い鳥居の向こうには、赤カーペットが敷かれて何やら立っているしパトレイバー? グーグル+とかで大阪とか東京で立っていた写真を見ていたけど、まさか京都で見れるなんて全く知りませんでした。さっきは事前にネット検索とか言ってたけど、私が見た京都の観光サイトには、こうゆう情報は全くなかったもん 京都らしい平安神宮の門をバックにパトレイバーって、なんかミスマッチというか、その意外性が面白いというか。どうやら後からネット検索をしたら、前日とその日に京都国際マンガ・アニメフェアというのが近くのみやこめっせ(京都市勧業館)で開催された関連のようだ実写版「THE NEXT GENERATION パトレイバー」に登場したパトレイバーの98式AVイングラム(全長約8メートル重さ約22トン)だそうで、こうやってデッキアップするのが2日間で数回のみというのに、偶然出くわしたようだいやぁ~~、なんだかついてる。嵐山に行ってたら見れなかったし有名うどん店のおかげだね。エイベックスのアニメ系アイドルグループのミニステージもやってて、オタ芸を生で観れたと娘が喜ぶ。そうそう見れるもんでもないし 平安神宮が目的でやってきた外国の方とか、びっくりだろうねある意味、今の日本らしいクールな光景?? な訳で、喧噪に無縁な平安神宮へと狛犬じゃなく出迎えてくれたのは、青龍と白虎。四神相応による東西南北がかかわっているようです。玄武と朱雀は?って! なんじゃこりゃ~~。↑京都国際マンガ・アニメフェアの関連イベントの平安神宮奉納ライブが夜に開催される模様。ある意味、今日しか見れない平安神宮の光景、その2ウィキペディアより転載>1895年(明治28年)4月1日に平安遷都1100年を記念して京都で>開催された内国勧業博覧会の目玉として平安京遷都当時の大内裏の>一部復元が計画された>当初は実際に大内裏があった千本丸太町に朱雀門が位置するように>計画されたが、用地買収に失敗し、当時は郊外であった岡崎に>実物の8分の5の規模で復元された。博覧会に先立つ3月15日には>平安遷都を行った天皇であった第50代桓武天皇を祀る神社として>創祀された>皇紀2600年にあたる1940年(昭和15年)に、平安京で過ごした>最後の天皇である第121代孝明天皇が祭神に加えられた。平安>神宮では、京都を守る四神の御守が授与されている>1976年(昭和51年)1月6日、火災(平安神宮放火事件)が発生し>本殿・内拝殿など9棟が炎上、焼失した。ただし、外拝殿である>大極殿は延焼をまぬがれている。(中略)全国からの募金により>本殿や内拝殿は3年後に再建されたてな訳で、用意周到&偶然の京都旅は次回へ続く! 平成26年9月21日に京都で撮影
2014年10月03日
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さて、このお寺はどこでしょう? え? わからないですか。ヒント、京都市の天然記念物の樹齢四百年の大銀杏がありますじゃ、ヒント2 実姉の嫁ぎ先の宗派です。これでわかったあなたはスゴイ! パチパチパチ~♪ ではヒント3。歴史ファンのあなたならピンとくるハズ新選組が屯所にして事があり、刀傷が残っていると伝えられる太鼓楼も鎌倉時代に親鸞聖人によって開かれ、室町時代の蓮如上人によって、民衆の間に広く深く浸透して発展した浄土真宗の本願寺派の本山、「龍谷山本願寺」へと伺った真宗大谷派の本山である真宗本廟(東本願寺)と区別をする為通称の「西本願寺」と呼ばれ、地元の方からはお西さんの愛称でも親しまれている。これからの文章は西本願寺で統一します 朝刊にでかでかと新聞広告が載って、西本願寺の門主交代の儀式「法統継承式」が行われ、大谷光淳氏36歳が親鸞の子孫による世襲で、25代目の門主に就かれた事が書かれていたウィキペディアより>もともと公家の日野有範の子息である親鸞と、日野広綱>(覚恵の父)の血統を引く東西両大谷家当主は、代々有力>公家の猶子になる慣習があり、また、代々公家と通婚を>続けており母系によっても公家化が進んでいった京都に出かける日にちをネット検索をしたら、西本願寺で春の法要が行われ、普段は予約の必要な国宝の書院内部と飛雲閣の参観が誰でも自由に拝観が出来るのだ拝観予約が面倒でまだ拝観した事がなかったので、この機会にこれは行かねばなるまい。残念ながら共に撮影禁止だったがどちらも素晴らしい文化財であった。しかも無料で拝見が出来目の保養 金閣、銀閣とともに京都三名閣の一つである飛雲閣は、秀吉が建てた聚楽第の一部で、三層からなる楼閣建築である更に秀吉の伏見城の遺構であるのが唐門で、これはいつでも見る事も撮影もOK。桃山時代の豪華な装飾彫刻を施した檜皮葺き唐破風の四脚門だ彫刻の見事さから見ているうちに日の暮れるのを忘れる事から日暮らし門とも呼ばれている。このように寺院でありながらも桃山文化を代表するような建造物や庭園が数多く残されておりユネスコの文化遺産に「古都京都の文化財」の一部として登録されている 明治45(1912)年に信徒の生命保険株式会社の社屋として建築された洋館が本願寺伝道院となり、京都市の有形文化財に指定もその設計者は京都では平安神宮や祇園閣、豊国廟の設計をした伊東忠太であるそうで、東京では築地本願寺。妖怪好きで有名らしくて摩訶不思議な動物の彫刻が付けられていた。なんだかパリのノートルダム大聖堂を思い出す 西本願寺に行かれる事があれば、このコミカルな妖怪たちにも会いに出かけて下さい。あと今回は行かなかったけど近くに龍谷大学(西本願寺系)の大宮キャンパスがあり、明治12年に建てられた学舎など国の重要文化財になってますので、ご覧になると良いですよさてここからは前日の祇園散歩の続き。やはり京都へ来たならば東山界隈も足を伸ばしたい。八坂神社から東山もちょこっと散歩したんだけど同じような事を考える人は多いようで、4月半ばの週末の京都東山・・・・・東京原宿並み~~~風情もへったくれもないこの素敵なお着物の奥様方は、舞妓の都をどりか南座の海老様の観劇のついでにだろうか 着物の若い娘さんがやたらに目立つのは、観光客がレンタル着物での変身によるもののようだ。やっぱ着物姿の女子は良いもんだ男女着物カップルの姿も多かった中には舞妓に変身した娘たちも。この子たちもかわいい事はかわいいけれど・・・海外からのお客さんから本物の舞妓と誤解されてしまうのは困るような気もする。着物とかもやっぱ安っぽいし・・・ (参考写真。昨春の都をどりお茶席で本物の舞妓さんと芸妓さん)舞妓さん好きな方へのお土産に、舞妓傘 幕末の志士好きであれば、こんな傘はどうだろうこんな人ごみじゃどうしようもないと、一歩外れた石塀小路に逃げ込む石塀小路は大正時代に寺院庭園の一部が取り崩され通り抜けの道が作られ、昭和になって京都から市電が廃止されるようになると市電に使われていた石畳をここに敷いてできたものだ 法観寺の八坂の塔は永享12(1440)年の再建で、東寺興福寺の五重塔に次ぐ高さの49メートル八坂庚申堂(大黒山延命院金剛寺)の「くくり猿」 てな訳で、姉とは初夏にまた出かけようとホテルを予約済み南座観劇、仁和寺と御室桜、京都御所と蹴鞠、西本願寺特別公開と盛り沢山の春の京都1泊2日の旅だった 写真は2014年4月13&14日に京都で撮影
2014年06月06日
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さて仁和寺の御室桜に、京都御所などにも出かけた4月の京都旅行であるが、元はと言えば姉のところのイケメンが好きな姪たちが買った南座での市川海老蔵源氏物語のチケットがまわってきたものである姪らは3姉妹で、自分たちが仕事の都合とかあっても確実に行けるよう、土曜公演×2枚と日曜公演×2枚というように複数日を2ペア購入するようにしている それでもいけない時がある場合は「○(私)ちゃんと行っておいでよ」というように、姉と私に。もしくは娘が学生時代は私と娘にチケットがまわってくる時があるのだハイ、さようでございます。中小とは言えど経営陣でとっくに還暦を過ぎてもお給料の入る義兄に、公務員だった年金生活の姉ですので、お金に余裕があり新幹線のお金も、宿泊代も、チケット代も、お食事代も姉が付き合ってくれたからとおごってくれます。このお弁当も姉が買ってくれました 市川海老蔵「源氏物語」公演前の、南座の客席の様子でございます。幕が上がる(上演)前は撮影OKですので他の方もカメラで撮影をされていました年が17歳も離れており、父も母も早くに亡くなっているので、兄や姉がいわば父母がわりな感じです。特に姉は孫がいないので、うちの娘や息子が孫みたいな感じでしてまっ、それでも遠慮をして安いぷらっとこだま新幹線とか安いホテルを予約をしようとすると、こだまは本数が少ないから普通ののぞみにしようとか、もう老い先が短く何度も旅行が出来る訳でもないから、良いホテルに泊まりたい といった感じです。姉が娘たちのお土産を買う時はいつも同じものをうちの娘にも買ってもくれます。そんな姉に「お母さん、○ちゃんと船旅でもしてきたら?」って飛鳥の近距離クルーズの広告を見ながら言われたそうで話戻ります。源氏物語も終わり幽玄な王朝絵巻から平成の京都、祇園に戻りました。昼の営業が終わって若い板さんたちもしばしのんびりと1年前には姉と雨の京都で、よ~~いやぁさぁ。都をどりで舞妓さんを拝見しましたが、今年はチケットがありませんでした。週末だから仕方がありません(昨年は、平日) せっかくなので、午後の祇園をぶら散歩こちらは四条通りから北側、白川方面へと向かいましたが祇園も一歩はいれば、こんな感じです(汗) ずっと前に、夜の白川沿いあたりで黒塗りの車がずら~っと横付けされて警備風の人が目を光らせ、ビビった事が四条通りに出てきましたその東の果ては八坂神社の真っ赤な西楼門 日本三大祭のひとつに挙げられる祇園祭は、ここの祭礼で明治までは、祇園御霊会(御霊会)と呼ばれていたそうだ全国の八坂神社や素戔嗚尊をご祭神とする神社の総本社で神仏分離令で、元々は祇園神社、祇園社、祇園感神院と呼ばれていたものが八坂神社と改められた >社伝によれば斉明天皇2年(656年)、高句麗から来日した>調進副使・伊利之使主(いりしおみ)の創建とされる。>牛頭天王は釈迦の生誕地に因む祇園精舎の守護神とされ、>名は新羅の牛頭山に由来するのだという ウィキペディアより長らく処刑や処刑後の晒し首が行われた、三条河原にやってきた。石川五右衛門が釜茹での刑に処されたり、豊臣秀次の首の前で妻子側室侍女ら39名が処刑され、石田三成や幕末新選組の近藤勇局長の首も晒された。新撰組の池田屋騒動もこの辺り江戸後期の寛政の三奇人(すぐれたる人)のひとりで、尊皇思想家の高山彦九郎は、吉田松陰ら幕末の志士に影響を与えた人物で、皇居望拝姿の彦九郎の銅像が三条にあった 我を我としろしめすかやすべらぎの玉のみ声のかかる嬉しさ>橋が架けられた時期は明らかではないが天正18年(1590年)>豊臣秀吉 の命により五条大橋と共に増田長盛を奉行として>石柱の橋に改修された。江戸時代においては五街道のひとつ>東海道、五十三次の西の起点。 ウィキペディアより十返舎一九の滑稽本「東海道中膝栗毛」の弥次郎兵衛と喜多八の像もあった 構成上、ここにきたけど四条大橋脇にある東華菜館のレトロな建物はウィリアム・メレル・ヴォーリズ氏の手で設計をされた洋館で、大正15年竣工この四条河原町の東側を三条河原町まで、ほそなが~い先斗町この近辺に来ると必ず通る、お気に入りの通りだ時間も時間なので、ホテルに戻る前に有喜屋(うきや)先斗町本店で、お蕎麦の定食を食べる事にするおなかもいっぱいになったので、四条通りをホテルへ向かっててくてくと 新京極や寺町京極。今日はパス長い長い4月13日の一日が終わった 写真は2014年4月13日に京都で撮影
2014年06月05日
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私が京都御所を意識したのは、幕末の「蛤御門(禁門)の変」によるものだった。中学の修学旅行は1、2日目は各地(京都、日生、小豆島他の選択)でのグループ活動でその後、2、3日目は広島へ集合をしたのだが私のグループは殆ど私がコースを作ったので、新選組にはまっていた影響で京都の壬生寺や、東山の維新の道に無論、この蛤御門も出かけた今思うに、日帰りも可能な京都にわざわざ行かなくても小豆島(まだ行ったことがない)や、お魚が美味しかった日生とか、違うコースにしときゃよかったなぁ~とか思う それ程に京都は身近なので、春秋の特別公開が毎年行われる京都御所も何度となく出かけた事があるのが、今回は事前に蹴鞠がある事をネットで知っていたので、京都御所へと京都御所であるが、桂離宮等と同様に事前にネットかハガキによる予約申し込をする事が出来るが、定員オーバーの場合は抽選によるので思うように参拝出来ない事も多い幾つもの御所内の宮殿を昇殿する事無く、外側を歩きながら中をのぞき見る形による見学だ。そういった一般公開の他に、京都御所は春秋に特別公開がされ予約がなくても誰でも参観が出来、一般公開時には入れない紫宸殿の前庭に入る事も出来るのが魅力だ特別公開中は、そんな屏風や杉戸などの建具の他に、各流派の生け花なども展示をされているでは、そろそろ「ウィキペディア」先生にご登場いただいて京都御所の概要などを簡単に紹介させていただきたいと思う>京都御所(きょうとごしょ)は、京都府京都市上京区にある>皇室関連施設で、14世紀以来、1869年までの間、内裏、すなわち>歴代天皇が居住し儀式や公務を執り行う場所であった。>宮内庁京都事務所が管理している。>平安遷都(延暦13年・794年)時の内裏は、現在の京都御所>よりも1.7キロ西の千本通り沿いにあった。現在の京都御所は>もと里内裏(内裏が火災で焼失した場合などに設けられた>臨時の内裏)の一つであった土御門東洞院殿の地である>南北朝時代(14世紀半ば)から内裏の所在地として定着し、>明徳3年(1392年)の南北朝の合一以後、ここが正式の皇居と>なって明治2年(1869年)、明治天皇の東京行幸時まで存続した>明治以降は京都皇宮(きょうとこうぐう)とも称される。>1877年(明治10年)、東京の皇居に移っていた明治天皇が>京都を訪れた際、東幸後10年も経ずして施設及び周辺の>環境の荒廃が進んでいた京都御所の様子を嘆き、『京都>御所を保存し旧観を維持すべし』と宮内省(当時)に命じた >京都御所に隣接して京都大宮御所、仙洞御所がある。>仙洞御所は後水尾上皇の退位後の住まいとして造られた>ものだが、現在は庭園と茶室を残すのみである。>京都大宮御所は、後水尾天皇の中宮の東福門院のために>造進されたのに始まり、現在の建物は英照皇太后(孝明>天皇女御)のために造営され、慶応3年(1867年)に完成>現在は天皇、皇后、皇太子及び皇太子妃の京都府への>行幸啓(旅行)の際の宿泊や国賓の宿泊に使用されている。>京都御所に現存する主な建物としては、紫宸殿(ししんでん)>清涼殿(せいりょうでん)、小御所(こごしょ)、御学問所>(おがくもんじょ)、御常御殿(おつねごてん)、 >迎春(こうしゅん)、御涼所(おすずみしょ)、皇后宮御常御殿>(こうごうぐう おつねごてん)、若宮・姫宮御殿(わかみや・>ひめみやごてん)、飛香舎(ひぎょうしゃ)などがある。 ↑ インターネット百科事典「ウィキペディア」より コピペさせていただきました。感謝前回紹介をした、蹴鞠をする庭もあった宮殿も素晴らしいが、お庭もまた心落ち着かせる広大なものであった ちなみに前述の京都大宮御所、仙洞御所や修学院離宮桂離宮、すべて見学をさせていただいたつい最近、天皇皇后両陛下がお住まいの東京の皇居を抽選で一般国民が参観させていただけたそうであるが全然、知らなかったやはり情報をキャッチできるかどうかで、人生が随分豊かになるんだろう 今年の秋にも同様に、秋季宮殿特別参観がされるそうなので今度は忘れないように応募をしようと思う(詳しくは宮内庁HPで)来年の大河ドラマは幕末、再来年は三谷幸喜で戦国だそうだが平安王朝とかやらないかなぁ~。藤原道長で紫式部や清少納言なんかも出てきて道長、知ってらっしゃいますよね この世をばわが世とぞ思ふ望月の 欠けたることもなしと思へば お金がかかるとは思うけど、視聴率わるくないと思うんだけど本当は、古代の大化の改新から壬申の乱にかけての中大兄皇子と、大海人皇子兄弟をやってほしいのですが そうそう私のハンドルネームの殿上人の本当の意味は、官制で五位以上の者のうちで、天皇の日常生活の場である清涼殿南廂へ昇る事が許された者です。私はただの田舎者ですが平安王朝への憧れを込めて 写真は2014年4月13日に京都で撮影
2014年06月03日
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連日の雪降りで寒い日が続く中、雪で夏の話の続きである。奈良の夜を満喫した次の日の8月16日は、やっぱ京都の五山の送り火なども行ってみようと思いついて・・・かつては京都に住んでいた事もある身、アパートからは左大文字見えてたし、近くの船岡山なんぞも登ってみたその後も吉田山から見たり、家族と鴨川でって事で・・・今度はどこで何を見ようかなっと、ネット検索をしてたら松ヶ崎の「妙法」の妙の字が、地下鉄駅から数分の宝ヶ池球技場のグランドから良く見えて、点火する人たちの姿もわかるくらいだとあったちなみに祇園祭と並び京の夏を代表する五山の送り火だが東山如意ケ嶽の「大文字」が特に有名で、大文字送り火と称される事も多いが、その他にも金閣寺大北山(大文字山)の「左大文字」、松ヶ崎西山(万灯籠山)と東山(大黒天山)の「妙法」、西賀茂船山の「船形」、嵯峨曼荼羅山「鳥居形」と京都のあちらこちらで行われている その起源は平安とも江戸とも言われているが、盂蘭盆会や施餓鬼の行事として、江戸前期から中期の記録に残されているそうだ。かつては「い(かながしら)」とか、「一」、「蛇」「竹の先に鈴」、「長刀(なぎなた)」といった送り火などもされていたそうだ宝ヶ池球技場からは、遠くに東山如意ケ嶽の「大文字」金閣寺大北山(大文字山)の「左大文字」住宅の合間からの西賀茂船山の「船形」も見る事が出来たさて、そんな京都のお泊りは・・・。さすがに送り火の日の夜だけあってネットの宿泊サイトも満室ばかりで、こうなれば紅葉シーズンの時にするように、大阪駅前、大津あたりで宿泊するしかないかぁ~~~とあきらめつつも楽天トラベルで空き発見! 神社仏閣好きの私もまだ未体験の宿坊だぁ~~。しかも一室1名利用でも、2名でも同じ価格であるのが良心的だ♪ 改装したばかりのトイレや、風呂などは共同(男女別)だけど、とっても綺麗だぁ~ そんな訳で、奈良から夕刻には東山にある智積院の宿坊に着き一休みをしてから、市バス&地下鉄利用して送り火の見物に出かけた。夕食は帰りの京都駅構内で見つけた見切り価格のサンドイッチなどをお持ち帰り~ 前から宿坊は泊まってはみたいとは思ってたんですが、なんかチャンスがなくて。ドライブ旅なら温泉旅館だし、鉄道旅とかなら、駅から徒歩数分以内のホテルって感じで・・・。それでも宿坊はホテルや旅館にはない魅力がある。それは 宿坊にもよるとは思うし(参加しなくて良い場合も有るようだが)翌朝早くの、お寺のご僧侶によるお勤めを後ろから参加させていただける事だ。まずは「金堂での朝勤行」。泊まった方は皆参加されているようだったその後には「明王殿での護摩炊き」。案内してくださった僧侶に写真はOKとは言われたけど、御堂内はまずいだろう~と思い外観のみだ。小さなお子さん連れのご夫婦もいたが、ちょこんとおとなしく正座していた。うちの子供もさせたらよかったかなぁさて真言宗智山派総本山「智積院」は、山号を五百佛山(いおぶさん)寺号を根来寺(ねごろじ)といい、御本尊は金剛界大日如来だそうで、もともとは紀州根来山大伝法院の塔頭であったのが豊臣秀吉と対立し、根来攻めで全山が炎上してしまった智積院の住職であった玄宥は、根来攻めの前に弟子と高野山に逃れており新義真言宗の法灯を守る為に智積院の再興を志していたのを、関ヶ原の戦いで徳川家康が勝利し豊国神社)の付属寺院の土地建物を、玄宥に与えて京都東山に再興がされたのだ更に三代目住職の頃に豊臣氏が滅び、隣接していた「祥雲寺」の寺地も与えられて規模を拡大し、五百佛山根来寺としたそうだこの祥雲寺とは豊臣秀吉が、わずか3歳で死去をした愛児の鶴松(棄丸)の菩提を弔う為に建立した寺で、智積院に今も残されている国宝の長谷川等伯一派の障壁画は、祥雲寺の客殿に飾られていたものだそうだ私もその長谷川等伯一派の障壁画を見たいと思い、かなり前に拝観したことがある。朝勤行の後には普段は有料拝観の大書院やその国宝障壁画のある収蔵庫も案内していただけたその当時の殿舎は天和2(1682)年の火災で全焼したが、大半の障壁画は持ち出されたのだが、近世の1947年にも火災があり既に国宝に指定されていた障壁画のうち16面が焼失してしまったそうだ大書院には、ピンピカな復元模写の障壁画が飾られており写真撮影などもOKだった「利休好みの庭」と伝えられるお庭の原形は、祥雲寺当時のモノだとされ、智積院になってから第七世住職が修復をして東山随一の庭と言われるようになった土地の高低を利用して、中国の盧山をかたどった築山を造りその前面に池を造り、山の中腹や山裾に石組みを配して変化を持たせているそうだ。そんなお庭を見ながら、まだ朝食前だが上品な和菓子とお茶をいただくこの「利休好みの庭」であるが、岩下志麻さんのメナードのTVコマーシャルで使われているそうで、興味のある方は↓のリンクで動画がご覧になれます。音楽は徳永英明さんだ 「 岩下志麻さんのメナードのCM 」ちなみに後半で出てくるしぶい水墨画は、智積院の講堂の襖絵で、田渕俊夫さんによるものなんだとか↑ 複製模写のキンキラのも綺麗だけど、やっぱり色も褪せて歴史と風格を感じる国宝の長谷川等伯一派の障壁画も、もちろん収蔵庫で見せていただけた。撮影不可なのでご興味のある方は↓の福山雅治さんのCM動画をご覧下さい。福山さんがお寺に来たのではなく、障壁画が会いに行ったようだ(汗) 「 福山雅治さんの金のスーパードライのCM 」CMは「松に秋草図」で、他に「楓図」「桜図」「松と葵の図」がある。この美しい障壁画やお庭は、500円(大人)で拝観が出来るので、ぜひご覧になって下さい。宿坊もお勧めですよ 平成25年8月16&17日に京都で撮影
2013年12月15日
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なんだかんだで4月も末。明日より世間はゴールデンウィークとなります。ウィークどころか息子は11連休だそうで! 旦那の方はカレンダー通り。娘に至っては連続出来ない普通な週休二日と言う事で人それぞれ。家庭に人が戻って来るので主婦はかえって忙しくなります(汗) 昨年のゴールデンウィークは、姉と大阪での(姪が行けなくなった)観劇のついでに2泊をして、赤穂に龍野に奈良の長谷寺の牡丹や室生寺の石楠花などと関西の春旅をしましたが、今年もまた姉と行ってきましたよ~。「春の京都」どすえ~~! 3月になって、離宮の拝観予約ネットに空きが出てるのを見つけてこれはチャンス! 姉と行くしかないと予約も出来て、思うようなホテルの予約もネットで完了! そのついでにと春の京都では何か見れないかとネット検索。「都をどり」は行けないかな? 「都をどり」とは毎年4月中に、祇園甲部歌舞練場で開催をされる祇園甲部の舞妓や芸妓による舞踊公演で、明治5(1872)年の博覧会の余興として上演されたのが始まりという伝統のある催しでその予約は前年度の10月からだし、もう残っていないかなぁ~? なんて心配していても始まらないし、早速、予約の電話を入れるとわぉ~~空きがあったしっ。まっ最後の方だから後ろの方は仕方がない(当日にならないとお席はわからない)なんて感じで、生憎の雨の祇園を姉とそぞろ歩き 離宮の観覧も終え、都をどりの観覧までには時間もあるし3千円位のお弁当をなんて思っていたが昼時の予約なしでは席も無く、やっぱり京都だろうが庶民の味方、B級グルメを早々に食べて「歌舞練場」へ向かうと、ちょうどこれから次の回の人の開場をするというところ 今回は「茶券付きの特等観覧席券」4500円を購入したので、観覧の前に、別室で芸妓さん&舞妓さんのお手前を拝見しながらお茶を頂く事が出来るのだ。ネットの下調べによると舞台の方は撮影が出来ないがこのお茶席は、自分の座った席からは芸妓さん&舞妓さんの撮影も出来るという 野球観戦用望遠レンズは持参していないので、やっぱ一番前列の席で芸妓さん&舞妓さんを撮影をしてみたいって事で、皆さんが一方通行で入場時にしか見れないという展示などを観覧されているうちに、お茶席入場入口で順番取り待機(いすに座れる)し、姉と交替で売店などをひやかして・・・・いよいよお茶席に入場! 最前列ゲット。座ると早々に、かわいい皿に乗ったのは「とらや」のお饅頭。このお皿はお土産に持ち帰ることが出来ちゃいます・・。どの色のお皿が貰えるかはその日の偶然みたいなもので。。。お饅頭をぱくり! いよいよお美しい祇園の芸妓さんと舞妓さんが揃っての入場。誰が当番であるのかは事前に公式HPで判ります。今回は芸妓の「小扇」さんと舞妓の「佳つ雛(かつひな)」さん、お二人ともお綺麗でしたよ~お手前は芸妓さんがして下さるのですが、最初、2番目に入場をされた方が飲む事が出来ます。お茶のお運びも舞妓さんがして下さいますよ他の人には和服のお姉さん達がテキパキと、お茶碗を並べていくので風情はまったくないし、お茶席のマナーがどうのって雰囲気もないですまっ、私の方もお美しい芸妓さんのお手前を、拝見するのに夢中なのでお菓子もお茶も、お皿もおまけみたいなものですが・・・・・しまったお茶のお写真が1枚も無かった!祇園甲部芸妓の「小扇さん」によるお手前を拝見しましたが、2年前に襟替えをされて舞妓さんから芸妓になれたばかりだそうで、と~ってもすらっとされていてお美しい方でしたよ~♪ 舞妓さんの時から人気のある方のようです ネットで調べると、黒紋付に赤の返し襟は芸妓さんの正装姿だそうでその由来は島原の太夫が、宮中では高貴な身分の女性にしか許されていなかった緋袴の着用が出来る「正五位」を賜っていたので、緋袴をはかない替わりに、長襦袢の衿の裏に緋色を使って裏返し見せる事で公式の姿に代えていた為だそうですそして、藤の花の簪も愛らしい舞妓の「佳つ雛(かつひな)さん」です「舞妓Haaaan!!!」なんて映画もありましたが、京都と言えばやっぱ舞妓さんが大人気。でも御座敷なんぞに縁はないし、このような行事などでお顔を拝見するのが庶民の楽しみウィキペディアによれば>舞妓は京都の祇園を中心とした花街で、唄や踊り、三味線などの芸で>宴席に興〔きょう〕を添えることを仕事とする女性のことで、芸妓の>見習い修行段階の者をいう。>舞妓・芸妓は、神社仏閣へ参詣する人や街道を旅する人にお茶をふる>まった水茶屋で、お茶や団子を提供していたものに酒や料理が加わり>その店で働く茶汲女(ちゃくみおんな)が歌を聞かせ舞を見せるように>なった>今から約300年前の江戸時代に京都の八坂神社(当時は祇園社)のある>東山周辺の水茶屋で始まり、それを運ぶ娘たちが歌舞伎芝居を真似て>三味線や踊りを披露するようになったといわれている>東京など関東地域における『半玉』、『おしゃく』とは別の文化起源で>あるため、区別されるものである 京都の寺社仏閣とも所縁の深い事から、芸妓さん&舞妓さんは八坂神社の節分会や、平安神宮の例大祭に、八坂神社の花傘巡行(見た事がある)時代祭、南座顔見世総見と・・・京都の風物詩には欠かせない存在だとか京都の花街で舞妓が在席しているのは、この祇園甲部の他には、宮川町や祇園東、先斗町、上七軒の五花街であり、今回の祇園甲部の都をどりのように他の花街も舞踊公演があり、以前には先斗町の「鴨川をどり」を見た事がある(こちらは5月) なんて感じでお茶席も、次々に何度も回を重ねられるので食べて飲んだらどやどや~と退場。途中には今までの公演で利用をされた衣装を展示してあるコーナーや、お土産売り場も設けてあったそして「都をどり」を観覧する座席へ。遅い申し込みで2階席だったけど全体舞台が見渡せて姉には好評。外国人の方も幾人かおいでのようで舞台の幕が開くまでは撮影もOKであった 「都をどりは、よ~いやさぁ~♪」の掛け声とともにスタート。日本の四季を交えての、小野小町と深草少将や、安珍清姫、夕鶴などなど・・・とっても華やかな舞台であった♪ 平成25年4月24日に京都祇園で撮影
2013年04月26日
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まぁ、これは次の日? いえいえアラレも降れば、風雨もキツイ日であったのだが天気がころころ変わって、編集上前後したけど、あの雨が止んだ熊川宿を出て15分後位後最初の観光地に着いた時、青空すらも・・・ 日頃の行いのが良いのか、単なる偶然なのかは判らないが福井県内で唯一の国宝(建造物)のある小浜市の明通寺に着いた途端の出来事であった。天気の変わらぬうちに国宝寺院を拝観させていただこう!アメリカの大統領と同じ名前で、知名度が上がった小浜ではあるが、私がここに来たいと思ったのは30年は昔。当時はまだ10代であった。子どもの頃から城だ、古墳だ、お寺だなんて歴少女だったので、「海のある奈良」とも言われてた小浜市は、京都市内や奈良に負けぬ文化財の宝庫であると本などで知っていた 古くより大和王権の日本海側からの出入口として、繁栄を誇り海産物を奈良や京都まで送った「御食国(みつけくに)」の一つでもあった。奈良の東大寺で行われる「お水取り」の水は小浜の遠敷川の鵜の瀬から送られたものである(この寺の近く)その為に中央集権とのつながりも深く、奈良時代の頃からの古い寺社なども多く、特に重要文化財に指定された仏像などが魅力でそれらの仏像巡りをするのが、小浜観光の目玉でもある福井県内には6つの国宝があり、永平寺の道元筆「普勧座禅図」瀧谷寺の「金銅宝相華文磬」、常宮神社の「朝鮮鐘」、劔神社の「梵鐘」、そして建造物として明通寺の「本堂」と「三重塔」だやはり小浜観光の最初には、ここ明通寺に訪れようと思っていた 流石に国宝寺院だけあって建物の風格なども違う。拝観受付けを済ませると、毛糸の帽子を被ったご僧侶が一緒に本堂まで上がられ本堂に鎮座する御本尊の前で、お寺やお堂、仏像などについてを簡単に説明をして下さった話によれば三重塔に続き、2010年からは本堂の屋根葺替工事が続き、昨年12月に工事が完了したそうで、三重塔の方から見れば確かに屋根がピッカピカ。それにしても今年の拝観で良かった!工事中で拝観出来なかった熊本城。工事中の青ビニールが悲しい寺社仏閣数多し!屋根の葺替工事には、境内の檜から採取した檜皮も使われており参道の樹木が真っ赤っかだったのはそのせいか 明通寺(みょうつうじ)であるが、真言宗御室派の寺院で、山号は棡山(ゆずりさん)という。この山中には棡樹(ゆずり木)があってその樹下に不思議な老居士が住んでいたそうだ。征夷大将軍として蝦夷征伐を行った坂上田村麻呂が霊夢を見たそうで・・・この老居士の命ずるまま、天下泰平、諸人安穏を祈願して、大同元(806)年に堂塔を創建し、老居士は棡の木を切って、本尊である薬師如来や、降三世明王、深沙大将の三体を彫って寺に安置をした 平安時代末期(既に時代が↑の話とは合わないけど)に造られたと思われる御本尊の「木造薬師如来坐像」、「木造降三世明王立像」「木造深沙大将立像」、「木造不動明王立像(元・松林寺のもの)はどれもが国の重要文化財に指定をされている中でも砂漠の毒蛇を神格化したインドの神様で、西遊記に登場するする流砂河の主でる沙和尚(沙悟浄)のモデルとなった深沙大将の立像は、頭部に髑髏、腹に幼女の首を付けた異形の護法善神として表され重要文化財に指定されているのは、岐阜県の横蔵寺と丹後の金剛院のと3体の仏像のみだそうだ 明通寺、木造深沙大将立像 更には国宝の「本堂」であるが、文永2(1265)年に落成をした入母屋造、檜皮葺きの建物で、屋根や隅軒などが鎌倉時代の特色をよく示し、堂内は中世仏堂特有で内陣と外陣(礼堂)に別れている国宝の「三重塔」は、文永7(1270)年に上棟。高さは22メートル初層内部には四天柱が立ち、釈迦三尊像と阿弥陀三尊像が安置され柱や壁には十二天などが描かれているそうだ 境内には樹齢500年の萱(かや)の樹も。車に戻ると俄かに天気も崩れて、数分もしないうちに雨も降ってきた雨の中、市内の次のお寺に到着。今回は仏像が目的だからと雨の中を本堂へと。羽賀寺(はがじ)は高野山真言宗の寺院で、山号は本浄山霊亀2(716)年に、奈良の女帝元正天皇の勅願によって、行基が創建したとされている 守護細川氏などの庇護を受けていたが元弘の乱で焼失し、細川氏清が再興。更に後応永5(1398)年にも焼失するが、永享8(1436)年後花園天皇からの勅命を受け、奥州安倍氏の安倍康季が再興をした本堂は文安4(1447)年の建立で桧皮葺の入母屋造り。北山文化の特徴があり堂内は内陣と外陣が明確に区別されている。重要文化財に指定をされている御本尊の元正天皇の御影との説がある「木造十一面観音菩薩立像」は10世紀初期の作で、檜の一木造、翻波(ほんぱ)式。衣文、膝に届く程に長い腕など、平安前期の古様をとどめているその他に木造千手観音菩薩立像、木造毘沙門天立像、紙本墨書羽賀寺縁起などが重要文化財に指定をされているそうだ。雨でも仏像拝観であれば苦にもならない ゆっくりと堂内の仏像を拝見させて戴いていると、雨にぬれるからとお寺の方が、本堂軒下の靴を堂上に新聞紙を敷いてそこに移動をしてくれていた。そんな心配りがまた嬉しいむかしむかし若狭のある漁村の庄屋の館で、海辺で拾ってきたからと食べれば永遠の命と若さが手に入る人魚の肉が、村人らに振舞われたそうだ。しかし不気味なので皆で話し合って、食べた振りをして懐に入れ、帰り道に捨てる事にしたところが、一人だけ話を聞いていなかった者がおり、自宅に持ち帰って隠して置いた人魚の肉を、その家の娘が盗み食いをしてしまった。娘は食べた時そのままに、いつまでも十代の美しさを保ち、何百年もの間を生きたそうであるその美しさゆえに結婚をしても夫に先立たれてしまい、父も年老いて亡くなり、村の人々にも疎まれて尼となり、国中を周って貧しい人々を助けたそうだが、最後には世を儚んでこの岩窟に消えたそうであるそんな哀れな八百比丘尼が入定した岩窟が小浜市の「空印寺」にあった生没年として最も有力な説は、白雉5(654)年に生まれ、宝徳3年(1451年)に京都を訪れて、その後に小浜へ戻り800歳で入定をしたものであるという 平成24年11月15日に小浜で撮影(最後の写真は16日、宮津で)
2012年11月21日
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一見さんお断りな「祇園」のお茶屋には無縁だけど ここにやってきた理由は、お馴染の「京の冬の旅」で 非公開の寺社や庭園などが、特別公開をする事から 俵屋宗達の風神雷神図で有名な京都五山の「建仁寺」へ このお寺は何度となく出かけているので、このブログ でも以前にも紹介をした事があるが、臨済宗建仁寺派の 大本山の寺院で、山号を東山と号し、本尊は釈迦如来 開基は源頼家で、開山は栄西である 地元では「けんねんさん」の名で親しまれているそうで 毛利氏の外交僧として、豊臣政権で重用をされた安国寺 恵瓊(あんこくじ えけい)が、関ヶ原の戦いでは西軍に 加わって敗れ京都の六条河原で斬首され、その墓がある 今回は、そんな建仁寺の塔頭にあたる「建仁寺両足院 (けんにんじりょうそくいん)」が、冬の旅の特別公開に なっているので出かけてみたのだ。両足院の「両足」とは 仏の別称である「両足尊」に因むそうだ もう見るのも断念をした今年の大河ドラマの「江」にちなんで 京の冬の旅の今冬のテーマは戦国の天下人と名将と姫君 って訳で、このお寺に所縁があるのは戦国の名将である 「黒田長政(くろだながまさ)」である 豊臣秀吉の軍師として名高い黒田孝高(官兵衛、如水)の 長男である長政を、関ヶ原の戦いで一番の武功を挙げたと 家康がその手をとって喜んだと言われており、筑前福岡藩 五十二万三千石を与えられ、初代藩主となった そんな長政が関ヶ原の戦いで、内兜に納めていたという 守護神で、秘仏の「毘沙門天(びしゃもんてん)像」が 特別公開をしていたのだ この毘沙門天像は、鞍馬寺の毘沙門天の胎内仏であったが 織田信長が比叡山を焼き討ちをした時に、鞍馬寺の僧らが 足利将軍家の茶家であった比喜多養清の手元に、疎開を させたそうだ しかし鞍馬寺の僧が、比喜多家に借財をして返さないので 像が寺に戻らぬまま、比喜多家が黒田家の御用達をして いた為、長政が出陣の際に身に付けるようになったとか その後、黒田家が保持をしていたが、明治10年になって 両足院に寄進がされたそうである。毘沙門天のお使いは 虎であるそうで、狛犬ならぬ勇壮な「狛虎」がいた ちなみに毘沙門天とは、持国天、増長天、広目天と共に 「四天王」とされる武神で、夜叉や羅刹といった鬼神を 配下としている。密教では「十二天」の一尊で、北方を 守護をするとされ、日本では「七福神」の一員でもあり 勝負事に利益があるそうだ 聖徳太子は物部守屋追討で、四天王に戦勝を祈願をして 四天王寺を建立し、毘沙門天を祀る為に信貴山を開山を したそうだし、上杉謙信は自分自身が毘沙門天の生まれ 変わりと信じ、軍の旗印にも「毘」の文字を使っていた 庭園に、織田信長の弟で茶人として知られた織田有楽斎が 建仁寺の塔頭、正伝院に建てた「如庵」の写しである茶室 「水月亭(暦の席)」と、白木屋百貨店(東急百貨店)の 創業者である大村彦太郎が、別荘の建物を寄進し移築した 「臨池亭」がある 室町時代に元から来日をした僧の林浄因は、元の肉まんを 改良をして、日本で初めて「饅頭」を作った人物であって その曾孫にあたる文林寿郁が、両足院を創建をした為に 両足院は「饅頭始祖の寺」とされている 先ほど名前の出た織田有楽斎(おだうらくさい)ゆかりの 建仁寺の塔頭である「正伝永源院」も特別公開をして いたので、拝観をさせていただいた 「永源庵」は南北朝時代に創建をされ。大名の細川家の 最初の菩提寺であったが、明治の廃仏毀釈で建仁寺では 50余ヶ寺の塔頭が14ヶ寺に削減され、ここも廃寺とされた その堂宇が残っていたところへ、「正伝院」が土地や如庵を 処分をしての寄付を強要をされており、ここに移ったそうで 後には「正伝永源院」と名乗るようになったそうである そんなお引っ越ししてきた「正伝院」は、鎌倉時代に創建を されたが、長らく荒廃をしていたのを織田有楽斎が再興し 茶室の「如庵(じょあん)」を建て、茶道三昧で過ごした 明治になって「如庵」は、東京の三井本邸に移築をされた後 昭和13年には、神奈川県中郡大磯の三井家の別荘に移築され 戦後になって「名古屋鉄道」の所有となり、愛知県犬山市の 有楽苑に移築され、国宝に指定をされてる 平成8年にその写しの「正伝如庵」が、中村昌生氏の監修で 完成され、扁額は元首相の細川護貞氏の揮毫だそうだ 寺には織田有楽斎や、夫人、子、孫の墓もあった。また この地は、かつて賤ヶ谷七本槍の「福島正則」の寓居地で あった為、福島家の家来の墓もあったのだが撮影をし忘れ こちらは細川家の墓で、細川護煕氏がお墓参りに来られる 事もあるそうだ 雅な祇園には、こんな自販機がお似合いで 日が傾き始めて八坂神社も輝いて、そろそろうさぎの 岡崎神社に向かうとするか。そんな訳で初日の京都は これでおしまい! 平成23年1月13日に京都で撮影
2011年02月24日
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最初に「三条大橋」がかけられた時期はハッキリしない けれど、天正18(1590)年に、豊臣秀吉の命により 増田長盛が奉行となり、五条大橋と共に「石柱の橋」に 改修がされたそうである 江戸時代になると五街道の代表格にある「東海道」に つながる橋として、幕府直轄の公儀橋に位置付けられ 多くの旅人でにぎわった 橋の脇に「東海道中膝栗毛」の主人公の弥次郎兵衛と 喜多八の像があり、像の側にある「撫で石」を撫でると 縁起が良いそうだ 三条大橋の西詰めに、藩や幕府のお触れが知らされる 「高札場跡」があり、慶応2(1866)年には、土佐藩士と 新選組が切り合いをした「三条橋詰制札事件」が起きた また大正6(1917)年には、ここ三条大橋から日本初の 「駅伝競走」がスタートをしたとか 元治元年(1864)年に、京都三条木屋町(三条小橋)の 旅館「池田屋」に潜伏をしていた長州藩や土佐藩などの 尊王攘夷派志士を、京都守護職配下で治安維持組織の 新選組が襲撃した「池田屋騒動」の時に付いたとされる 刀傷が、三条大橋の北側と南側の2か所に現存をしている 新選組の山崎烝、島田魁らの探索で炭薪商の古高俊太郎が 捕えられて、土方歳三の拷問で「祇園祭の前の風の強い日 御所に火を放ち、中川宮を幽閉、一橋慶喜・松平容保らを 暗殺し、孝明天皇を長州へ連れ去る」という不逞浪士らの 密談が、池田屋か四国屋で行われるのが判った そこで二手に分かれ四国屋には土方隊で、池田屋は近藤が 率いての沖田総司永倉新八、藤堂平助など10名程で突入 そんな血なまぐさい京都では、その付近で元治元(1864)年 一橋慶喜に招かれて入洛し、公武合体と開国論を説いた 「佐久間象山」が尊王攘夷の志士らに暗殺をされた 更に明治の世になっても・・・・。幕末期には長州藩の医師で 西洋学者、兵学者で長州征討と戊辰戦争で長州藩兵を指揮をし 勝利の立役者となり、明治政府では兵部省における初代の大輔 を務めて、事実上の日本陸軍の創始者である「大村益次郎」が 明治2(1869)年に軍事施設視察と建設予定地の下見の為 京阪方面に出張した大村は、三条木屋町の旅館での会食中 兵制を中心とした急進的な変革に対して、強い反感を持った 元長州藩士らにより襲われ重傷を負った。治療のかいも無く 敗血症により、高熱を発して様態が悪化し亡くなったそうだ 気分を変えて。新京極や寺町通、三条通よりも私が好きで このあたりに来ると用もないのに、ついつい通り抜けたく なるのが、鴨川と木屋町の間にある細~い、細~い路地の 「先斗町(ぽんとちょう」で、以前にもこのブログで紹介 した事がある 江戸時代に護岸工事で埋立てられて、茶屋や旅籠などが 置かれたのが始まりで、芸妓や娼妓が居住する「花街」と なり、明治5(1872)年に華やかな「鴨川をどり」が初演 され、今も春の京都の風物詩だ そんな鴨川をどりが上演をされる「先斗町歌舞練場」は 大阪松竹座や東京劇場などを手がけて劇場建築の名手と された、大林組の技師である「木村得三郎」の手により 昭和2(1927)年に創設をされた 今は飲食店が多くあり、東側の店は鴨川に面しているので 夏場には「納涼床」を設ける店も多い。お店の前にこんな 京野菜のディスプレイ 一説によると「先斗」という地名の語源は、ポルトガル語の 先という意味の「ponto」であるとか、鴨川と高瀬川に挟まれ 「堤」であると捉えて、「鼓」がポンと鳴る事からだとか あまりの狭さに「電柱」すらもがひんまがる そんな店の合間から、木屋町に抜けそうな路地もあって 通り抜けられるとか、行き止まりなどと表示があるのも 先斗町を抜けると、永治2(1142)年に勧進によってかけ られ、八坂神社の参拝にも使われた「四条大橋」があって その向こうには、顔見世興行に出演をする歌舞伎役者の名と 紋が記されたまねき看板をあげる「まねき上げ」でも有名な 「京都南座」も 室町時代の頃から鴨川の河原では、田楽や猿楽の勧進 興行が常設的に催されていたそうだが、慶長8(1603)年に 出雲の阿国(おくに)が「かぶき踊り」を演じたのが、今の 歌舞伎の発祥とされているそうで、その銅像も四条大橋の たもとにあった その反対側には、北京料理の「東華菜館」本店のレトロな 建物があって、大正15年に新しいビアレストランにと 近江八幡の洋館でも紹介をしたヴォーリズの生涯唯一の レストラン建築で、スパニッシュ・バロック様式のものだ そして、いよいよ祇園に潜入。それを代表する建物がこの 祇園の中でも最も由緒のある「お茶屋」のひとつである 「一力亭」である。忠臣蔵の大石内蔵助が豪遊をしたとか 近藤勇や大久保利通、西郷隆盛も出入りをしていたという 流石に歴史に彩られた京都。祇園にも老舗は多く、こちらは 享保年間(1716-1736)に創業をした祇園の「老舗」の 和菓子屋「鍵善良房」。葛切りで有名で、京都四條南座にも 近く、歌舞伎役者や芸能人の利用も多いので、テレビなどで ご覧になった方もおいでになるかも どんどん焼きが進化したもので、大正時代より関西地方で 水で溶いた小麦粉を焼き刻みネギなど乗せて、ソースを かけた「壱銭洋食(いっせんようしょく)」の食べれるお店 だけど、前に紹介をしたランチで、お腹が一杯で葛きり 同様に、食べれなかった 「祇園(ぎおん)」は、八坂神社(祇園社)の門前町として鴨川から 東大路通、八坂神社までの四条通沿いに発展をした京都を 代表する花街であり、北側にあたる新橋通から白川沿いは国の 重要伝統的建造物群保存地区に、南側の花見小路を挟んだ 辺りは京都市の歴史的景観保全修景地区に選定されている その日もあでやかに、芸妓さんが四条大橋を渡っていた 平成23年1月13日に京都で撮影
2011年02月22日
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前の日記でランチをした煉瓦の「新風館」は大正15年に 建てられた「旧京都中央電話局」を改装したものである そして、このモダンな建物は「旧毎日新聞社京都支局」で 昭和3年に建てられ、カフェやアートギャラリーなどに 利用されている 東海道五十三次の終点の三条大橋より続く「三条通」は かつては京都の中心として賑わい、明治期には煉瓦を取り 入れた近代建築の様式で建てられた この建物は明治23年に、木骨に煉瓦を貼る独特の工法に より建てられた元時計店で、京都で最古の民間の赤煉瓦 建築である 国の重要文化財に指定をされながら、今も郵便局として 活用されている「中京郵便局」(明治35年)は、壮麗な ルネサンス様式の建物である お次は国登録有形文化財の「旧不動貯蓄銀行京都支店」 (大正8年)で、今はブティックやカフェが入ってる 東京や大阪などにも煉瓦建築も多少は残されているが その多くは関東大震災や太平洋戦争で焼失し、まとまって 街並みが残されているのは、この「三条通」くらいかも そんな三条通を代表する建物が、東京駅の設計もした 辰野金吾の設計による「旧日本銀行京都支店」(明治 39年)で、国の重要文化財に指定をされている 今は「京都府京都文化博物館別館」となっている そんな訳で娘を漫画の殿堂に置いてから、特に目的が ある訳でもないので、ぶらぶらと三条通を東に向かう 事にしたのだが・・・さすがに歴史ある京都!! 「伊勢物語」の主人公とされるイケメンで、六歌仙や 三十六歌仙に選ばれた、在原業平の屋敷跡も・・・ ちはやぶる神代もきかず龍田川 からくれなゐに水くゝるとは 後白河天皇の皇子の以仁王の住まいがあり、高倉小路に 面していた為「高倉宮」と呼ばれた。治承4(1180)年 源頼政と打倒平氏の挙兵を計画し、諸国の源氏や大寺社に 蜂起を促したのだが、準備不足のうちに露見し宇治平等院の 戦いで敗死し鎮圧をされた しかしながら彼の令旨を受けて、源頼朝や源義仲など各国の 源氏が挙兵する事となり、これが平氏滅亡の糸口となったのだ 武蔵坊弁慶が少年時代に住んだ三条京極には、弁慶がとても 気に入っていた石がある。この石は弁慶の死後は奥州高館に あったのが「三条京極に行きたい」と発声鳴動し、付近では 熱病が蔓延したので、人々は畏怖し京都に安置がされた 前の日記で紹介をしたテレビ番組で、タクシー運転手さんが おすすめしたのが有名なイノダ珈琲店の本店だが、ランチで 食べ過ぎて、立ち寄るような気持ちにならず、残念、素通り 新京極や寺町通などのアーケード街がある、京都の商店街は 小学校の修学旅行で、夜にお土産を買いに来た思い出の地で 京都に住んでいる時も、風と共に去りぬのリバイバルを見たり 今は無き京都花月で、吉本新喜劇を見たりも 名物の千枚漬の仕込みをしてた 東京銀座の地価日本一で、よく名前の出てた「鳩居堂」の 京都店。寛文3(1663)年、熊谷直実から数えて二十代目 熊谷直心(じきしん)が、京都寺町に薬種商として創業を したのが、その始まりなのだとか 薬種原料が香と共通したので、薫香線香の製造が始まり 薬種原料の輸入先である中国より、書画用文具を輸入し 販売をするようになったのだとか 私の好きな歴史人物は新撰組の土方歳三と、大化の改新の 中大兄皇子(天智天皇)と、戦国武将の織田信長である あまたの役者が信長を演じる中で、今年の大河ドラマの 豊川悦司は、「・・・であるか」信長の反町隆史の次に 好みだっただけに本能寺の変も終え、あぁ今年の大河も 終わってしまった あれは無いよ。いくら主役とは言ってもあんな幼子である 「江」を史実むちゃくちゃに、信長や、家康や、千利休や 光秀にすら会わせて、対等のものいいにはあきれ果てた あまりにバカバカしすぎて見る気も失せて、今から来年の 清盛が楽しみだ そんな訳でついつい、このあたりにやってくると本能寺に 立ち寄ってしまう。信長ラブ。といっても当時の本能寺は 蛸薬師通小川通西南角あたりで、天正15(1587)年に 豊臣秀吉の命で現在の寺域へと移転されたのだが 加藤清正の寄進といわれる「臥牛石」も境内にさりげなく 織田信長の三男である織田信孝により、信長らの遺骨の 収集作業が進められ本能寺の変から1ヵ月後、武将の魂と される信長所持の太刀を納め建立をした、石造宝篋印塔の 「織田信長公廟」がある この他にも阿弥陀寺の住職の清玉が、本能寺の変の直後に 信長の遺体を火葬した場に遭遇し、その遺骨を寺に葬った 「織田信長公本廟」や、信長の一周忌に秀吉が建立をした 大徳寺塔頭の総見院には、ご遺骸が見つからなかった為に 信長の木像を火葬をして納めた五輪塔など、全国各地にも 墓所や供養塔が 有料の大寶殿宝物館には、信長が所持していたといわれる 釜や茶わん、肖像や太刀などが展示されており、なにより 本能寺の変の際に、鳴きだしたといわれる「三足の蛙」の 香炉は一見の価値がある その他にも、上から順に島津義久夫人(義久の二番目の 夫人で鉄砲伝来の時の種子島の島主、種子島時尭の二女)や 菅中納言局庸子(五条中納言為庸の娘で、霊元天皇の皇子と 皇女を産んだ)、徳川家重夫人(伏見宮邦永親王の姫宮で 17歳で家重に嫁いだが早産のあとに急逝、信仰をしていた 本能寺に遺髪や爪がおくられた)といった女性らの石塔も さらに播磨、備前の戦国大名であった浦上氏の末裔であり 若くして学問、詩文、七絃琴などに親しんだ江戸時代の文人 画家の浦上玉堂(うらかみぎょくどう)の墓所も。代表作の 「凍雲篩雪(とううんしせつ)図」は、川端康成の愛蔵品と して知られている いよいよ鴨川にかかる三条大橋についた。戦国時代の京都 三条河原は処刑場の代表地とされ、石川五右衛門が釜茹でに なったのも、石田三成の首が晒されたのもここだ。そして 人々の涙を誘う最大の悲劇が・・・ 天下人豊臣秀吉が、我が子の秀頼を後継者にしたいが為に 甥(実姉の息子)を養子にして後継者にしていた豊臣秀次を 関白職を剥奪し高野山に追放。切腹の上で三条河原に首を 晒した 秀次の死から約半月後、秀次の首の前で秀次の妻子や愛妾 34人が五時間にも渡り、石田三成の手で打ち首に処され 秀次の嫡男仙千代丸5歳、次男百丸4歳、三男於十丸3歳 四男土丸1歳、一ノ姫(享年不明)も処刑され、生後一ヶ月の 菊姫と、既に田家に嫁いでいた二人の娘のみが助命された 弟の吉田宗恂がかつて秀次に仕えていた縁で、京都の豪商の 角倉了以が、慶長16(1611)年に、秀次の菩提を弔う為 秀次の戒名の瑞泉寺殿から名を取り「瑞泉寺」を建立して 秀次の墓石(秀次の首が入れられた石の櫃)や、妻子らや 賜死した家臣10人の五輪の塔も・・・・ 平成23年1月13日に京都で撮影 皆さんのところには明日夜までには伺います
2011年02月18日
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さて、いよいよ娘がインフルエンザをお土産に 貰ってきた、1月中旬の関西旅行2泊3日の旅を 紹介したいと思う 青春18切符も終わってしまっていたが、高い 新幹線も使いたくはないので、いつものように 普通電車で乗りついで・・・って、え~っ大垣で 乗り継ぎまで40分もかかるなんて! どこまで 新幹線を使わそうとしてるんだ、JR東海!! そんな訳で伊吹山をバックに走る新幹線を横目に 朝に出たのに、昼過ぎにやっと着いたのは京都♪ 京都の烏丸御池にある複合商業施設の「新風館」で ますはランチをいってみよう~ 前の日にテレビ番組で「京都の人が行くお食事店を タクシーの運転手に教えて貰う」といいながら、私も 知っているような、観光客用みたいな有名店ばかりで こりゃだめだと、娘とネットで探したお店は・・・ 京野菜ダイニング「TAWAWA」新風館店で、週末は 行列も必至。その日は平日だったがテーブルは一杯に なっていた 1200円のランチビュッフェは、京都の四季を堪能できる メイン料理を幾つかの中から1つ選んで。。。 あとは、京のおばんざいや様々なお料理や、ジュースなど 食べ放題である。しかもネットの特典チケットを印刷持参を したので、ビュッフェに含まれていない京野菜ジュースを サービスして貰えた(奥の緑色の。美味しかったです) さてお腹も一杯になったので、すぐ近くの「京都国際マンガ ミュージアム」へ。ここは娘は前から行きたいと楽しみにして おり閉館近くまで、読みたかった漫画(廃刊本など)を存分に 読み放題で・・・ 娘をそこに残して私は別行動。夕刻までの京都をぶらり 旅~。で、あそこ行って、ここ行って(テーマごとに別の 日記で紹介します) 夕刻近くに辿り着いたのが、吉田山の南麓に鎮座をする 「岡崎神社」である 延暦13(794)年に、桓武天皇の平安京の遷都により 王城鎮護の為に、都の四方に建てられた神社の一つとされ 東方を守護をするので「東天王社」と称したそうである 治承2(1178)年に、帝の中宮のお産の奉幣を賜った 事からも、安産の神としても長らく信仰をされてきた この一帯は野兎が多かったので、兎が神様のお使いと され、兎は多産なので子授けにご利益があるそうだ 境内には水を掛けて、願かけをする「厄除子授兎」も どこもかしこも神様の使いのうさぎ、うさぎが一杯で 12年に一度のうさぎ年には、参拝者も一杯な神社だ その近くにある真宗大谷派(東本願寺)「岡崎別院」は 親鸞聖人が、29歳から数年間を暮らして、ここから 東山吉水に住む法然上人の元に通ったという草庵跡で 岡崎別院が創建される前は、親鸞屋敷と呼ばれていた 柵で囲まれた「鏡池(姿見の池)」は、後鳥羽上皇の 官女である松虫姫と鈴虫姫姉妹の出家を発端にした 承元の法難(建永の法難)において、親鸞聖人もまた 越後配流を前に、姿を映して名残を惜しんだ池だとか その他にも、親鸞聖人お手植えの紅梅「八房の梅」が 配流や東国布教を経て、高齢になっての帰京後にも再び しばらくの間は、この地に住まわれたそうである 草庵跡は江戸後期に、東本願寺20世にあたる達如により 寺院の「岡崎御坊」とされたが、明治に入って岡崎別院に 改称をした そろそろ娘も集合場所の京都駅に向かう時間。私もラストに バス停の近くの「熊野神社」に参拝をする事にした。ここは 弘仁2(811)年、修験道の日圓上人が国家護持の為に紀州 熊野大神を勧請をしたのが始まりで 新熊野神社や、熊野若王子と共に京都熊野三山とされ 縁結び、安産、病気平癒、鎮火にご利益があるとか 熊野三山において烏はミサキ神(死霊が鎮められたもので 神使)として信仰をされてきた 「八咫烏(やたがらす、やたのからす)」は、日本サッカー協会 (JFA)のシンボルマークであり、JFA公認のサッカー守りも あるのだとか 三足とは熊野本宮大社の主祭神である「家津美御子大神 (けつみみこのおおかみ)」の御神徳の智、仁、勇の三徳で あるとか。その他にも天、地、人を表すという説も そして聖護院といえば八ツ橋のお店がいっぱいで・・・。旅も 始まりなのでは購入せず、そのまま京都駅へ! 真っ暗になった夜空には京都タワーが。そんな訳で今回は 紹介しきれなかった午後の京都・・・また今度! 平成23年1月13日に京都(伊吹山のぞく)で撮影
2011年02月16日
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いよいよ京の夏の旅も今回の日記が最後。それにしても 中身の濃い、魅惑的な旅であった。こうゆうグルメ付きの 観光バス旅行は、積極的に今後も楽しみたいものだ♪ 実は最初に出かけたのが、ここ京都御苑の正門にあたる 堺町御門。文久3(1863)年、長州藩はこの門の警備を 担っていたのだが、会津藩や薩摩藩によって門を固められ 追放されてしまい、この政変によって長州藩と尊皇攘夷派の 三条実美ら公卿は、都落ちする事となった そこからほど近くにあるのが、藤原氏嫡流で公家の家格の 頂点に立つ事が出来た摂家(大納言・右大臣・左大臣を経て 摂政・関白、太政大臣に昇任が出来る)の一つである名門 九条家の屋敷跡。以前は勾玉池といったが、今は九条池 九条家の他、近衛家、二条家、一条家、鷹司家の五家があり 摂関家、五摂家、執柄家ともいう。この五家が摂政・関白職を 独占していたので、関白になりたかった羽柴(豊臣)秀吉が 近衛前久の猶子となって、藤原朝臣秀吉(近衛秀吉)として 関白の就任を果たした事もあった 九条家敷地内の勾玉池のほとりにある厳島神社は、鳥居の 笠木が唐破風(からはふ)形という珍しい形で、平清盛が母の 祇園女御の為、安芸の厳島神社を勧請したものだそうだ 藤原氏北家嫡流であった、藤原忠通の三男の九条兼実を祖とし 京都九条にあった、藤原基経創建といわれる九条殿に住んでいた ので九条家だそうだ。明治維新後は公爵となり、九条道孝公爵の 四女の節子(貞明皇后)は、大正天皇の皇后である 京都御苑の南西部に旧九条邸は存在し、今は庭園が整備をされ 池畔には「拾翠亭」と呼ばれる瀟洒な茶室が現存し、母屋などの 主な建物は、明治維新後の東京移住命令で、東京の九条邸に 移築された。後に東京国立博物館に寄贈され九条館と命名され 現存をしている 手の込んだ待合いの屋根には、なぜだかシーサーが 「拾翠亭(しゅうすいてい)」は、今から約二百年程前に 九条家の屋敷内に設けられた別邸で、母屋からは舟でしか 行けない趣向であったそうで、茶会や歌会などに使われて いたとか 内部には十畳と三畳のふたつの茶室が残されており、現存 する公家屋敷の茶室としては数少ない建造物で、白くぽっぽと 壁に見えるのは「ほたる壁」 「拾翠亭」との名の由来は、緑の草木を拾い集めるという 意味と、勾玉池にはカワセミが多く飛来したので、カワセミの 「翠」の文字を用いて名付けたそうである。それにしても 粋な文様の透かし 西陣の機屋「井関妙持」に宛てた千少庵の書状 当初は東山を借景とした、眺めを第一に作られたそうだが 樹木も大きくなって全く見えず。真夏を彩る百日紅が 美しく、良い時期に来訪が出来たものだ お公家さんの障子の貼り方は、特殊な「石垣貼り」で 紙の継目は縦桟の間隔を、二分の一ずつずらした 貼り方 こうして中身の濃い京都のお屋敷&グルメ旅は完結~!! 平成22年9月5日に京都で撮影 ここから先は写真が半端に残ってた、ミニ・トピックを 集めてみたオマケ編です まずはこの夏の猛暑で、アイスなど我が家も消費が増え ガ~リガリ君♪、ガ~リガリ君♪ 大当たり~~!! 更にこのブログで紹介をした、サントリー白州蒸留所の 訪問日記でいただいたウィスキーを飲み比べ。娘は白州 私と旦那は山崎が好みという訳で、白州は娘のところへ これは春になるけど、息子が出かけた関西の工場見学で 自作のラーメン・・・・なんでキョロちゃんなんだ! と思いつつ、きっとお子様だから、手元にチョコボール あったんだろうな~ ここにきて日も随分と短くなってきて、皆さんのブログ などでも、夕焼け&夕日の写真も増えてきた。有る日の 夕刻。西に位置する恵那市の笠置山の付近だけ、西日が 当たって、まるで別世界のようだった 明日も、あさってもお出かけです。皆さまも良い休日を おおくりください。お仕事の方はご苦労様です 夢穂
2010年09月18日
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あの猛暑は嘘のように、ここにきて一日、一日 日増しに秋らしくなってきて、今朝は部屋の中は 22度で、ハムスター(以前、飼っていた)の適温 ではないか。これくらいがちょうど良いのにな さて、京都の夏の旅の続き。午後にバスが横付けを したのは、享和3(1803)年に、京都西陣において 初代伊兵衛によって創業した、老舗「鶴屋吉信」だ バスガイドさんいわく老舗は、暖簾(のれん)が命 火事などでは、暖簾を抱えて逃げると言われており 四季折々に変えたりもして、まさに店の顔でもある 近代的なビルの上階で喫茶が出来て、茶室も誂えてあり ツアーの方の為に、特別に用意をされたという「菊華」を 頂戴をした 無論、お買いものタイムも用意されてあるので、お店自慢の 「京観世」「柚餅」など伝統のお菓子や、新作のお菓子も 試食も自由で、あれやこれやと一口ずつ食べ比べも出来た (観光バスで来店のみの、試食サービスかもしれません) 京都では「お配り饅頭」といって、花嫁を知人に紹介する 時に、腰高のお饅頭に花嫁の名を添えるそうで、純白の 饅頭はお嫁に来た家の家風に染まって、家を護る決意を 示しているといわれる 更に饅頭のようにまるく和やかで、円満な家庭の幸せを 築くという心構えを込めるとか。最近は紅白の饅頭も多い その始まりは、江戸時代の元禄享保の頃に大奥で鑑賞された 献上菓子であるそうで、明治になって、白砂糖が輸入されて 生砂糖(雲平生地)の細工菓子の製法がて、特に京都の 飾り菓子が有名になった と言うわけで、この大輪の菊はお菓子です 更に御所車をあでやかに飾る花も、菓子で出来てます 有職故実(朝廷や公家の礼式・年中行事などの先例や 典故による儀式典礼)や、有名社寺の伝統の祭礼や 儀式の為の供餞菓子、茶の湯に使う茶菓子などという ように、京都の和菓子は磨きぬかれてきたそうだ 明治8(1875)年に、米国聖公会から派遣をされた 米国人教師が大阪で始めた女学校がその始まりだそうで 明治28(1895)年に京都移転をして、平安女学院と して開校し、大正9(1920)年には日本で初めて 制服としてのセーラー服を採用したそうである 京都御苑の真横に、明治31(1898)年に平安女学院の チャペルとして建設された、レトロな聖アグネス教会があり 平安女学院の守護聖人で、ローマ皇帝ディオクレティアヌス 統治の時代にローマで殉教した聖アグネスにちなんだ名前だ 教会のある平安女学院京都キャンパスは、後期の室町幕府の 政庁が置かれ、第14代足利義輝、第15代足利義昭らが 旧二条城を築いて幕府を運営していたという そのお隣にあった古いお屋敷は、長らく裁判所の官庁宿舎で あったのを、平安女学院が買い取って「有栖(ありす)館」と 命名をされ、茶道など女学生の授業に利用をされている そのお屋敷も夏の旅で特別公開をされており、お邪魔をしたが なにゆえ「有栖(ありす)」であるかというと、そのお屋敷は 幕末のヒロインの和宮親子内親王の元の許嫁(いいなずけ)で 十五代将軍徳川慶喜の追討軍の総帥であった、有栖川宮 熾仁親王で有名な「有栖川(ありすがわ)宮」の邸宅だからだ 十五代将軍徳川慶喜の生母の登美宮吉子は、この有栖川宮家の 出身で、熾仁親王は吉子の甥にあたり熾仁親王と慶喜は従姉妹 同士でもあった 官軍の軍歌であるトコトンヤレ節で歌われた「宮さん宮さん お馬の前でひらひらするのはなんじゃいな」の宮さんとは この有栖川宮熾仁親王でもある。 前述の閑院宮や伏見宮、桂宮と並ぶ世襲親王家の一つである 有栖川宮は歴代、書道・歌道の師範を勤めて皇室の信任も 篤かったのだが、大正12(1923)年に後継ぎが無くて 廃絶となった。ところが近年になって有栖川宮の継承者と 勝手に名乗る人物が現れた、有栖川宮詐称事件で騒がれた 初代の好仁親王の時代から京都御所の北東部分にあたる 猿ヶ辻と呼ばれた場所に屋敷があったが、幟仁親王の頃 慶応元(1865)年に、御所の拡張で召し上げられて 今の京都御苑内で、直前まで松平容保が宿舎としてした 凝華洞(御花畑)跡に、明治2(1869)年に新御殿が 落成をした ところが明治5(1872)年に、明治天皇からのお呼び 寄せによって、幟仁親王も東京へ転住をされる事となって 宮邸の土地と家屋は、京都府に引き渡し裁判所として使用を され、この建物の一部を移築したのが「有栖(ありす)館」だ さすがに宮家のお屋敷。その造作は素晴らしく釘を隠す装飾の 「釘隠し」や、天井を高く見せる為の幅の狭い「蟻壁」とか 菊の紋が入った襖の引き手など見どころも多い 能舞台として使われた「板張りの間」があり、裁判所の所長が 住んでいた時代には、知り合いの歌舞伎役者や芸能人などと 板張りの間宴を催していた事も。能舞台の床下には音響効果を 上げる為に甕(かめ)が埋められているそうだ 平安女学院が購入した時には、庭の草木も荒れ果てていたので 平安女学院の客員教授で、江宝暦年間から250年もの間 平安神宮や円山公園などを作庭してきた造園業「植治」の 11代目当主の小川治兵衞氏によって、現代の名庭が出来た 烏丸通りに面した門は、明治45(1912)年に三井財閥の 総長の三井高保氏が邸宅の表門として築いたもので、後に 裁判所が購入し、昭和27(1952)年に裁判所所長宿舎の 表門として現在地に移築をされた。当時の所長と親交のある 歌人の吉井勇が、李白の詩から「青天門」と命名をしたそうだ その門の脇の見事なしだれ桜は、昭和27(1952)年に 画家の堂本印象のアイデアにより、豊臣秀吉が醍醐の宴をした 醍醐三宝院の「実生(みしょう)の桜」を分譲移植したもの そんな訳で京都のお土産には、京都駅で購入した「阿闍梨餅」 (満月)と、「嵯峨野若竹」(京菓匠鶴屋長生)と、もちろん お邪魔させていただいた鶴屋吉信の「御所氷室」もお土産に 平成22年9月5日に京都で撮影
2010年09月16日
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大概の京都にある神社仏閣は、既に行った事があるので 普段は公開をしてないが、期間中は特別公開をしている という神社仏閣や、善光寺のような何年に一度の御開帳で 秘仏を参拝出来るというのを探して出かけている そんな京都では、秋、春の特別公開に、違った団体主催で 京の夏の旅、冬の旅・・・と四季折々にあり、最近は特別 公開でも、既に行った事がある所ばかりだったりして・・・ そんな旅も、予算の関係&自由に動けるから個人(フリー)で 公共交通機関を使い、直接に神社仏閣に出向くのが普通なの だか、この暑さに根を上げて。更にはプランが魅力的すぎて ネットで見つけた時に「これに行きたい!」と、即断をした 非公開の幾つかの宮邸宅、公家屋敷のコースもさることながら 西陣の格式ある料亭でのお食事もついて、更に老舗の京菓子も おやつに食べる事も出来ると至れり尽くせり。その上でバスも 冷房完備で目的地に直行して、横付けなんだしね。たまには こんな楽チンな旅もしてみたい あ、ちなみに費用は京都駅発着で9200円でした。その日は 週末でもあるので、バス二台に88名のお客様があったそうで バスの運行ルートを変えて、どこでも別々に行動できるように 工夫がされてましたよ そんな訳で、お昼ご飯は早い方の回の午前11時40分頃から 充分な時間を取っての西陣の料亭は、有職(ゆうそく)料理で 有名な「西陣魚新(にしじんうおしん)」にやってきた ちなみに「西陣(にしじん)」の地名は、応仁の乱で西軍が 陣を置いたからだという 安政2(1855)年から続くという西陣の老舗(しにせ)で 御所の大礼(即位式)に、お祝い料理を御用達した事もある 由緒ある料亭だそうで、玄関先には様々な看板も ちなみに京都における老舗の定義は三代、百年で仲間入りが やっと出来るとガイドさんが話されていた。その敷地内には 藤原定家がお茶に使ったといわれる名水井戸や、室町幕府の 七松観で知られる松が残っているとか。流石に京都 有職(ゆうそく)料理は、平安時代の公家(貴族)が大臣に 就任した時などの、大きな宴会で食べられていた大饗料理が 公家風の料理形式として残された物だそうだが、室町時代に 確立をされた武家の礼法から始まって、江戸時代に発展した 本膳料理などの影響も受けているそうだ 有職料理、精進料理、懐石料理、おばんざいなどを含めて 京料理と呼ぶ。って訳でお食事の御膳には京都の夏らしく 鱧(ハモ)とかが美しく並ぶ。この他に吸い物もあった ご節句飾りなどもされる一角には、この旅を意識をしてか 1915(大正4)年11月10日に、京都御所の紫宸殿で 挙行をされ、第123代天皇になられた大正天皇の大礼の お料理や記念品などが並べられていた 京都から東京に天皇さんがいってしまって幾星霜。和菓子の 虎屋のように、一緒に東京に行かれた老舗もあるだろうが 京都に残った老舗や市井の人は、どんな気持ちでお迎えを したのだろうか その後、昭和天皇も京都で即位をしたが、今の天皇陛下は 京都御所から皇居へ高御座が運ばれて、東京で即位式が 取り行われた 額に掲げられた書は、天皇家にも所縁の深い閑院宮家六代 載仁親王(伏見宮邦家親王の王子)のもの 大日本帝国陸軍の元帥陸軍大将であった親王は、昭和20 (1945)年5月に81歳で薨去をされ、大日本帝国の最後の 国葬をされた人物だ 閑院宮(かんいんのみや)とは、四世襲親王家の一つで 江戸中期に東山天皇の皇子の直仁親王が創設した宮家だ その当時、皇位継承予定者以外の親王は、世襲親王家を 継承する者を除いて、出家をして法親王となるのが慣例で あったのだが、承応3(1654)年に、後光明天皇が22歳で 崩御をされた時に、近親にあたる皇族男子らは殆どが 出家をしており、いったん出家した皇族が還俗をして 践祚した例はなかったそうで、後継問題で紛糾をした 皇統の断絶を危惧した新井白石が、徳川将軍家の御三家の ように、補完する新たな宮家が必要であると建言を行って 寛永2(1625)年の有栖川宮(高松宮)が創設されて以来 宝永7(1710)年、東山天皇皇子の直仁親王が閑院宮を 創設することになった 閑院宮邸は京都御苑の南西部に与えられて、場所を変えずに 江戸時代の遺構を残した唯一の宮家屋敷である。閑院宮邸は 正徳6(1716)年に造営をされたのだが、天明8(1788)年の 天明の大火で焼失し再建をされて、明治となって閑院宮家が 東京へ移住してからは、華族会館や裁判所、宮内省京都 支庁に使用をされた 平成15年から18年にかけて、全面的な改修と周辺整備が 行われ、主屋は中庭を囲む木造平屋建の四つの棟で構成 されて、京都御苑の自然や歴史について展示する展示室が 設けられ一般に無料で公開をされている 夜鳴く鳥の鵺(ヌエ)の寂しげな鳴き声は、平安の人々には 不気味に聞こえて、天皇や貴族たちは鳴き声が聞こえるや 大事が起きないよう祈祷したという。トラツグミであるそうだ 世襲親王家(せしゅうしんのうけ)とは、定親王家ともいい 江戸時代に当今の天皇との血統の遠近に拘らず、代々 親王宣下を受ける事で親王の身位を保持し続けた四宮家 閑院宮の他に、伏見宮、桂宮、有栖川宮がある 病気がちであった後桃園天皇が、安永8(1779)年に 22歳で崩御し欣子内親王しか子がおらず、閑院宮家より 急きょ、師仁親王(即位後は兼仁に改名)を養子を迎えて 光格天皇として即位(欣子内親王は後の光格天皇の中宮) よって、今の天皇陛下は閑院宮家の系統であるそうだ 閑院宮邸から出たら、華やかな衣装をまとった花嫁の記念 撮影。脇の花婿に、姉が「おめでとうございます!」と言葉を かけると、「ありがとうございます♪」と晴れやかな花婿の声 平成22年9月5日に京都で撮影
2010年09月13日
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蔦のせいなのか、周囲の気温から考えても やはりそうだったのか、9月の最高気温を 「京田辺市」が9月5日に叩き出した、当日 近くの「京都」に姉と二人でうろついていた たぶん残暑もキツイだろうし、ネットで見つけた 「京の夏の旅」キャンペーンで、普段は非公開の お屋敷を中心にまわる「京の宮御殿と公家屋敷を たずねて」というコースを、冷房の利いた観光 バスでまわるのが楽かもと申しこんでいたのだ 紹介するのは、バスでまわった順通りではない けれど、京都市街地の西の嵯峨野(さがの)に 位置する、お寺というよりも宮殿のような雅な 「大覚寺(だいかくじ)」を紹介したい。何が 有名かって、太秦(うずまさ)の撮影所が近く 時代劇のロケで、あそこもここも見覚えがある 「明智門」は、必殺仕事人シリーズで今は亡き 中村さんが通っていた南町奉行所だったりして 無論、水戸黄門や、暴れん坊将軍シリーズ他 何度も何度も登場していたりする この奥の明智陣屋と明智門は、光秀の亀山城からの 移築といわれている。戦国ファンは訪れたい門だ 「大門」は江戸初期の建造で、時代劇では 大身旗本の屋敷や各藩の江戸藩邸、地方では 代官屋敷や陣屋に擬えられる事が多いようだ いかがです? こんど時代劇でもじっくり見て この二つの門が使われているか、見比べて みてみるのも面白いかも 菊のご紋が物語るように、このお寺は天皇家に 深くかかわっている。というのも、嵯峨天皇が 離宮を寺に改め、ご開基は嵯峨天皇である上に 後宇多法皇がここで院政を行うなどしたからだ その為に天皇家ゆかりの建物を移築したものが 多くあり、この雅な「宸殿」は後水尾天皇の中宮 明正天皇のご生母である東福門院の御所の 旧殿を移築したものと伝えられている 来年の大河ドラマの「お江(江与ともいう)」と 二代将軍徳川秀忠の間に生まれた、徳川和子だ 宸殿の蔀戸(しとみど)の金具に蝉がおり、これは 蝉は人の気配を感じると、鳴いて逃げるので 泥棒 除けを願うものだとか、蝉は飛ぶ時におしっこを するので、火防のお守りではないかと諸説がある そして宸殿の前に「右近の橘、左近の梅」あれは 桜ではないかと思われるかもしれないが、最初の 桓武天皇遷都では御所の紫宸殿前も梅であった のが、承和年間(834~847)に枯死したので 桜に植えかえたそうだ 梅と橘は共に唐から伝えられたもので、早春に花を 咲かせて春を告げるという事と、実を結ぶ木として 大切にされてきたそうだ。桓武天皇の平安京遷都の 20年後に、即位をされた嵯峨天皇は葛野の地を 愛でて「嵯峨院(嵯峨離宮)」を建立されたそうだ その名は、唐の文化に憧れていた天皇が、唐の都 長安北方の景勝地である嵯峨山になぞらえて嵯峨と されたとか 遣唐使船に乗り、唐の新しい文化を伝えた入唐求法の 僧侶の「弘法大師空海」と、親交を結んだ嵯峨天皇は 高野山開創の勅許や東寺の下賜などを行い、嵯峨院 持仏堂の五覚院で、当時起こったという飢饉に際して 弘法大師空海が、五大明王に祈願をしたそうである 貞観18(876)年に、嵯峨天皇の長女の正子内親王が 嵯峨院を大覚寺と号し、初代門跡(住職)に嵯峨天皇の 孫であり、弘法大師の法灯を継がれた「恒寂入道親王」 (淳和天皇の皇子)を迎えられたそうである 皇位が二分され南北朝と呼ばれた時代に、後嵯峨上皇と 後宇多法皇が続いて、大覚寺門跡となられて大覚寺に お住まいになられた事から、大覚寺統(南朝)と呼ばれ ていたそうだ 元中9(明徳3、1392)年に、南北朝の媾和が大覚寺で 行われ、南朝の後亀山天皇が北朝の後小松天皇に 三種の神器を譲り、大覚寺に入られた後に吉野へ移って 南朝の再興運動が始まった 後宇多法皇六百年、後亀山天皇五百年の御遠忌記念 事業として大正14(1925)年に、法隆寺の夢殿を模して 建立された。大正天皇の即位式用二条離宮(二条城)の 第一車寄せの用材が使用された「勅封心経殿(心経殿)」 東京の東宮仮御所の霞ヶ関離宮(現・国会前庭)の 貴賓館だったのを、罹災された秩父宮さまが戦後の 住まいとされていた御殿が昭和46(1971)年に 下賜、移築をされたもので、皇室の方がおいでに なった時の休憩所とされている「秩父御殿」 今回の夏の旅では、普段は非公開である秩父御殿が 特別公開をされ、お部屋も拝見をさせていただけて 美しい襖絵や、オリジナルのレトロな家具なども素敵 であるが、内部は撮影禁止の為に写真は無い 大正天皇の即位式場に建てられた饗宴殿を、式後に 賜って移築した「御影堂」に、秘鍵大師(弘法大師) 嵯峨天皇、後宇多法皇、恒寂入道親王などの尊像が 安置されている 天保8(1837)年に、有栖川宮家の慈性法親王が 若くして大覚寺門主となったが、江戸寛永寺に住み 日光輪王寺の門主となって、天台宗の座主も兼ねる事と なり、大覚寺最後の宮門跡として江戸へ下向する日に 名残惜しそうに何度も振り返った為に、「勅使門」は 「おなごりの門」と言われる 嵯峨天皇の離宮造営にあたり、唐の洞庭湖を模して 作られ、庭湖とも呼ばれる「大沢池」は、周囲約1kmの 日本最古の人工の林泉(林や泉水などのある庭園)で 中秋の名月の観月が有名だ 大沢の池の脇には、今昔物語で百済川成が作庭した ものと伝えられる嵯峨院の滝殿庭園内に設けられた 「名古曽の滝」を三十六歌仙の前大納言公任が詠み 滝の音は絶えて久しくなりぬれど 名こそ流れてなほ聞こえけれ 暑い中に照り返しの厳しい駐車場に戻り、自販機で ジュースでもと思ってみたら、京都観光が出来そうな カラフルな自販機だった 平成22年9月5日に京都で撮影
2010年09月10日
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そんな訳で、怒涛のうちに2009年も終わり 新しい年を迎えようとする直前に、なんとか 11月下旬の京都の紅葉の旅日記も、無事に 最終回を迎えることが出来た ラストを飾るのは、歌舞伎の「楼門五三桐」の中で 大泥棒の石川五右衛門が「絶景かな絶景かな」という 知恩院三門、東本願寺御影堂門と共に、京都三大門に 数えられている「山門」でも有名な南禅寺だ 大坂夏の陣で戦死をした、一門の武士らの冥福を祈り 藤堂高虎が寄進したもので、上層階の「五鳳楼」には 釈迦如来と十六羅漢像、藤堂家歴代の位牌、大坂夏の 陣の戦死者の位牌などが安置をされ、石川五右衛門が 亡くなってから、かなり後に建てられたらしい この山門の下と、境内にある琵琶湖疏水のレトロな 水道橋(水路閣)といえば、サスペンスドラマでは 外せないスポットなので、画面を通して見知ってる 方も多いだろう しかし私にとっては、今は亡き旅好きの母親に連れ られての小学生の高学年の頃に、京都で初めて訪れた 寺(あと豊国神社)であるだけに、忘れられない 特別な寺であり、大好きな寺だ もっとも、それより以前に母方の叔父家族に連れ られての東本願寺が京都デビューであって、お堂の 大きさよりも、女性信者の髪の毛で作られた丈夫な 綱のさまは、40年近くたっても昨日の事のように 忘れられないが・・・ とても暑い夏の日に、緑深い南禅寺の参道を二人 木漏れ日を面白く思い見上げながら、母親の後ろを てくてく歩いた南禅寺は、今回は色鮮やかに紅葉に 彩られて、姉と二人での紅葉見物♪ 大型バスが何台も参道に並び、沢山の人の笑い声に 満ち溢れており、私の知っている静かな南禅寺とは まるで別の寺のようだった 窓ガラスに映る紅葉さえも見事で、旅のラストに 姉にこの紅葉を見せられてラッキーだった。西日に よって、より紅葉が鮮やかであったのかも。さして よくない曇り空に差し込む一瞬の日差しは、母からの 贈り物のようにも感じた 臨済宗南禅寺派大本山の寺院であり、正式な寺号は 太平興国南禅禅寺(たいへいこうこくなんぜんぜんじ)と いい、ご本尊は釈迦如来である 開基は亀山法皇で、日本初の勅願禅寺にあたる。前に 紹介をした京都五山や、鎌倉五山の上におかれた別格 扱いで国内の全ての禅寺で、最も格式の高い寺だそうだ ここには、後嵯峨天皇が造営をした離宮の禅林寺殿が あったそうで、40歳で落飾をした亀山法皇が寺院に 改めたそうだが、毎夜のごとく妖怪変化が出没を していた ところが信濃国出身の無関普門(むかんふもん)が 弟子を引き連れて禅林寺殿に入り、静かに座禅をすると 妖怪変化が退散をしたので、亀山法皇は無関普門を 寺の開山としたそうだ この寺の魅力はなんといっても、国宝にも指定 されて いる方丈で、御所の建て替えでの旧御所の建物が下賜 されたもので、狩野派の華麗な障壁画が数多くあり 重要文化財に指定されている(室内は撮影禁止) 特に小方丈の障壁画は狩野探幽の作画と伝えられて いるそうで、方丈前の枯山水庭園は小堀遠州の作の 「虎の子渡しの庭」の通称を持つものなど見所も多い そんな訳で、最近はなかなか更新も出来ず旅の 日記もたまるばかりで、申し訳なく思いますが 一年間ありがとうございました。新年のご挨拶は また、次の日記で! 平成21年11月23日に京都で撮影
2009年12月31日
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いよいよ2010年も、カウントダウンに突入! 10日を切ったというのに、先月下旬に出かけた 京都の紅葉旅行の続き・・・ 春には、しだれ桜でも有名な東山の円山公園には 来年の大河ドラマの主人公である、幕末に彗星の ように鮮やかな軌跡を残した、土佐の坂本竜馬の 銅像もある。この人って土岐氏の傍流、明智氏の 子孫なんて一説もあるんだ。岐阜県人、親近感も 旧暦の慶応3年の11月15日(12月10日)の夜 この京都の近江屋で、中岡慎太郎と共に暗殺を された。その日は奇しくも誕生日であったそうで 暗殺当日に誕生祝いとして、淡海槐堂が贈った 掛け軸の「梅椿図」には、生々しく血痕が残され 私も20歳の頃に、それを博物館で見たのだが その時の様子を鮮明に覚えている 明治天皇の詔によって、明治維新の為に志半ばに 倒れた勤皇の志士らの御霊を奉祀する為に東山に 京都霊山護国神社が建てられ、墓所には坂本龍馬 中岡慎太郎、桂小五郎(木戸孝允)と幾松の夫妻や 高杉晋作、久坂玄瑞、大村益次郎など・・・ 京都霊山護国神社へ向かう参道を「維新の道」という ここを登るのは、だいたいが幕末ファン。お正月に 大河が始まれば、参拝者が激増するかも 新選組の参謀で、文学師範でもあった伊東甲子太郎が 同志と共に新選組を離脱し、孝明天皇の御陵を守る為の 組織を御陵衛士といい、高台寺塔頭である月真院を 屯所としたので、高台寺党とも呼ばれていた その中には、近藤の道場である試衛館の生え抜き隊士 でもある藤堂平助や、斎藤一(間諜として潜入したと 言われ、後に新選組に復帰)などもおり、油小路事件での 死闘は新選組ファンには、涙なくしては語れない 高台寺党が薩摩と通謀し、近藤勇を暗殺しようとして いると斎藤一によって伝えられた近藤は、国事の相談が あると伊東を招き酒宴を開き、その帰路に油小路七条で 待ち伏せ伊東を暗殺。その遺骸を放置して遺体を引き 取りにきた同志をまとめて粛清しようとした 七人の同志が駆けつけたのを、試衛館以来の仲間の 永倉新八や原田左之助が、藤堂を逃そうとしたのだが 他の新撰組隊士によって斬られ、藤堂平助、服部武雄 毛内有之助の三人が絶命 生き残った同志らは薩摩藩邸にかくまわれ、一月後には 伏見街道の民家に潜み、近藤を狙撃して右肩に重症を 負わせた さらに後には、越谷で大久保大和と称して新政府軍に 出頭をした近藤を、新政府軍に加わっていた生き残りの 同志の加納道之助に正体を明かされ、斬首となったと 近藤の命運に深くかかわった御陵衛士なのだ かつては陰謀渦巻いた京都も、今はのどかな日差しの 中で外国人のお坊さん。そして観光客のお嬢さん扮する なんちゃって舞妓さんを、お母さん激写中! いや、平和が何よりです 室町時代に浄土真宗の本願寺を再興して、現在の本願寺派 (西本願寺)、大谷派(東本願寺)の礎を築いた蓮如上人は 東山の本願寺(知恩院塔頭の崇泰院付近)で、本願寺第七世 存如の長子として生まれ、17歳の時に青蓮院で得度した そうである 三千院(梶井門跡)、妙法院と共に、天台宗の三門跡寺院と される「青蓮院」は、天明8年の内裏炎上の際に後桜町上皇の 仮御所となったので「粟田御所」とも呼ばれる格式の高い寺で 室町時代には、後に室町幕府第六代将軍足利義教となった 義円が門主を務めた事でも知られている 「門跡寺院」とは、皇族や摂関家の子弟が入寺をする寺院で 特に青蓮院には、多くの法親王(男子皇族が出家をして僧籍に 入った後、親王宣下を受けた場合の身位・称号)が、門主を 務めている 豊臣秀吉が奉納した「一文字手水鉢」 その中でも、青蓮院第十七世門跡となった伏見天皇の第六皇子 尊円法親王は、小野道風や藤原行成などの上代様の書法を研究し 南宋の張即之の書風を加味して、尊円流または青蓮院流と称する 書法を作り出したそうである 室町時代の相阿弥作と伝えられる築山泉水庭や、江戸時代の 小堀遠州作と伝わる霧島の庭もあって、清水寺や、知恩院 南禅寺などの巨大寺院の多い東山でありながらも、ここに 来ると、深山の趣きすらも感じる私のお気に入りのお寺だ そのシンボルは、門前の幾本もの樹齢八百年の巨大な楠で 京都市の天然記念物にも指定をされている。御本尊は天台宗 最大の秘法といわれる「熾盛光法」(国家鎮護、皇室の安泰 などを祈る修法)の本尊の曼荼羅で、公開をされていない 更には高野山金剛峯寺の「赤不動」、三井寺の「黄不動」と 並び称される日本三大不動の「青不動」があり、普段は秘仏 とされており、過去には1970年の「大阪万博」、1986年の 奈良国立博物館「平安仏画展」、1997年「比叡山・高野山 名宝展」の3度しか公開をされていないのが、しかも青蓮院 での特別公開! これは行かねばなるまい! 五色不動(ごしきふどう)とは、密教の陰陽五行説に 由来し重んじられた青、白、赤、黒、黄の色がそれぞれ 東、西、南、北、中央を表しており、平安遷都の後に 朝廷が都を守る為に、四神と合わせた五色の守りとして 不動明王を配置したとされ、青蓮院の青不動が五色の 中心と位置付けられ、最上位に君臨するとしている その五色不動のうち3つが現存されての青、赤、黄と 信号のような三不動だ 偶然、香淳皇太后陛下の甥にもあたる元銀行マンの 青蓮院門跡の東伏見慈晃門主による御法話を聞けて 護摩供養も間近で拝見が出来たのはラッキーだ 平成21年11月23日に京都で撮影
2009年12月22日
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私は京都の北山や嵐山など、結構あちこちの 紅葉に出没もしているが、今回は姉のお伴と なっているので還暦を迎えた、年の離れた姉の 体力や希望を優先してのコースにした 私の場合は、前回のような小さな渋いお寺が 好きなのだが、姉の場合はズバリでかい規模で 更には派手なお寺が大好きだったりする そんな姉が喜ぶだろうと、京都の雑誌にあった 紅葉特集ナンバー1の東福寺に続き、ナンバー2に 選ばれていた、修学旅行でも外せない東山の 「清水寺」に出掛けることにした 桜の頃に、夏の頃・・・寒い冬にと何度となく 出かけた清水の紅葉って・・・・もしかしたら 私も見た覚えがなかったりする お参りも済ませ、紅葉の向こうに艶やかな三重塔・・・ よりも、姉のお目当ては茶屋の赤毛氈だったりして 清水寺にある茶屋のうち。。。。忠僕茶屋の由来は 幕末の頃に、清水寺の成就院の勤皇の志のあった 月照上人は、薩摩の西郷隆盛と共に行動をされて いたのが、井伊大老の安政の大獄から逃れる為 西郷と共に鹿児島へ落ち伸びたそうだ しかし逃げ切れないと覚悟を決めた、月照上人は 錦江湾へ身を投げ命を絶たれた。西郷は島流し 下僕として上人に付き添っていた重助も牢に入れ られていたが、釈放をされたのちに、清水寺と 西郷の後押しで開いた茶屋が、忠僕茶屋だそうだ 私と姉は「舌切茶屋」で、茶団子などを食べる事に したのだが、こちらも月照上人のゆかりの茶屋だ 西郷と逃げた上人の行き先を探ろうとした幕府の 役人らは、清水寺の寺男である近藤正慎までも 拷問したが、それでも寺男は口を割らなかった 上人を守り抜こうとした近藤は、ついには頭を壁に 打ちつけて、、舌をかみ切って自ら命を絶ったそうだ そんな近藤に免じて、残された家族らは境内に茶屋を 開く事を許されたそうで、その名は舌切茶屋となった 幕末の頃に京都は短き時を日本の中心となり、腐敗を した幕府や、外国船の到来で新時代を迎えようとした 日本の行く末を案じた志高き若者が、西から、東からと 集まってきた あ~。仁が終わってしまう。あの坂本竜馬も気に入って いたのにな。という私は実は司馬遼太郎の燃えよ剣での 土方歳三ファンで、テレビでその役をやられた俳優さんが マスターをされていた哲学の道の喫茶店にも、大昔に のこのこ出かけた事もある 中学の修学旅行でのグループ行動でも、蛤門や壬生寺に 出かけもしたが。。。。まさか後になって、そこに住む事に なろうとは! その当時の友達は真田広之の追っかけを していた。あ、昨夜はBSで伊賀忍法帖をやってたが その頃、京都にいたんだっけ。懐かしい 当時とくらべて東山も随分と変わったものだ。なんだか 清水坂に綺麗な一角が出来ており、奥まったところには 清水焼の窯元で、ガイシや義歯の生産で財を成したという 松風嘉定の大正時代の邸宅があり、国の登録有形文化財と なっているそうだ 今では湯豆腐で有名な、順正の所有となっているそうで 窓越しに、その建物を見ながら湯豆腐を食べる事にした お昼頃にはとても青空も綺麗で、東山も沢山の観光客で あふれていた。姉はいつものようにお香と、よーじやの ハンドクリームをお土産に購入 う~む。なんだか外国人観光客ってあまり見なかった 気がする。先週出かけたド田舎にはヨーロッパ系の方も いたりして、フランスの方に人気の飛騨の高山にしても 日本イコール京都という図式は流行らないのかも しかし歴女にとって、京都は聖地みたいなもので道を あるけば歴史的な名所ばかりでわくわくするばかり 白河法皇の寵妃で、妹の子である平清盛を猶子にして 後押しをされた祇園女御の屋敷跡または 祇園女御が 建立をした仏堂跡と伝えられてきた祇園女御塚 こちらは京都では近世となるが、夢二が住んでいた処 千枚漬で有名な西利の店頭には、きれいに積まれた かぶら・・・さて、京都まで出かけた本当の目的の 場所にいよいよ向かいますか 平成21年11月23日に京都で撮影
2009年12月18日
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なんじゃこりゃ~。昨日はネット状態が悪く写真1枚の 登録にも5分はかかる「フォト蔵」に、丸一日かけて 最近の旅行の写真登録をして、その写真のタグをブログ 日記に下書き登録をして、下書き状態の日記も一挙に 増えて、明日あたりには京都の紅葉旅行の続きでも な~んて目論んでいたら、あれれ~~~。下書き登録の ボタンを押したつもりでいたのに、公開をされているし しかも写真だけの日記にもかかわらず、コメントも沢山 いただいて・・・ 丸一日近く気がつかないとは、痛恨のミスです。そんな 言い訳も紅葉の足を引っ張るだけだし・・・ここ最近は なかなか訪問も出来ずにいるのに、日記更新をしながら 皆さんのブログにも訪問が遅れてしまった申し訳無さに 穴があったら入りたい気分 写真だけの日記に下さったコメントは、こちらの方に 私がログアウトして、皆さんのお名前で書き写して おきます。もしお暇でしたら再度コメントを戴けると 幸いです 汗、汗・・・そんな訳で、あわてて順番も違うけど京の 旅の最後の南禅寺界隈(笑)は午後遅く、微妙な朝からの 天気も晴れたり、曇ったりを繰り返して このお寺でも曇っている時に写した写真は、薄暗くって 西に傾いた眩しい光が差し込むと、途端に周囲の紅葉は 色鮮やかに つい数分前は、こんな沈んだ赤が 光を浴びて、キラキラと 小さな池を要した、このしぶいお寺は南禅寺の塔頭の 「天授庵」で、南禅寺の開山である第一世大明国師の 無関普門禅師を奉祀する寺院で、紅葉でも有名だ 団体客でごったがえす南禅寺の山門の真横にありながら ここは別世界のような趣きに、外国人の方などもご満悦 紅葉はちょっと遅かったかな? ちなみに細川幽斎により、天授庵として復興したそうだ 今から300年ほど前に、南禅寺へお詣りをする人達の 休息所として始まり、今は料亭として有名な「瓢亭」って こんな所にあったのか。何度も訪ねた南禅寺も、この道を 通るのは初めてだ そして車や人でごった返す南禅寺界隈でありながら、そんな 道から下をのぞげば、勾配があるので琵琶湖疎水の船を 線路に乗せて引き上げていた蹴上のインクライン線路跡 南禅寺からの帰路は、静かな住宅街を通って地下鉄「蹴上」 駅への近道もまた楽しい。この時期の夕刻の京都駅行きの バスは大変に混雑をしており、満員で乗車を断られる危険も だから時間も正確だし、いつも地下鉄を利用して京都駅に 出るようにしている 先ほどのインクラインの下を横切る為の小さなレトロな トンネルを抜けたら地下鉄駅だ。このトンネルは強度を 保つ為、「ねじりまんぽ」というトンネル内のレンガが らせん状に積まれた、独自の工法で作られているそうだ 名残り惜しいけど京都の秋はこれで終わり。でも日記は 中途の分があるので、まだまだ続く。。。グルメもあるよ 平成21年11月23日に京都で撮影
2009年12月15日
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あまりにも立派な楠の大樹が、門前に 立ち並ぶ青蓮院は、法親王(天皇の 皇子や皇族の男子で、出家後に親王 宣下を受けた者)が、門主を務め 宮門跡寺院として格式を誇ってきた 江戸時代の御所炎上の際、後桜町上皇の 仮御所となった為、青蓮院旧仮御所として 国の史跡にも指定をされ、その地名から 「粟田御所」とも呼ばれ、雅さも感じる 慈円院主のもと、わずか9歳の親鸞聖人が 得度をされたそうで、楠は親鸞聖人の お手植えによるものと伝えられている 小御所の近くにある「一文字手水鉢」は 豊臣秀吉の奉納であるとか 廊下に巨大なお数珠がかけてあり それをくぐると、厄払いになる さらには、座敷&坐像なので、写真は 控えたのだが、おみくじの創始者である 元三大師のおみくじもひけちゃいます♪ 話は変わって・・・・ 11月上旬は、京都御所の一般公開や 秋の未公開寺院の特別公開が目的で 毎年のように、京都に出かけるので 紅葉もまだまだ始まりで、ほのかに 早いものは、色づき始めている程度だ 続けての京都訪問もままならず、紅葉の 一番美しい頃の見物はしたことがない たぶん、この黄緑色の紅葉が真っ赤に 染まったら、さぞかし美しいであろうと 禅林寺の木々を眺めた 永観律師がおいでになった事に由来して またの名を永観堂とも呼び、古くより 「秋はもみじの永観堂」と称された 小ぶりな木造阿弥陀如来立像は、頭部を 左に向けた特異なお姿をされており 「みかえり阿弥陀」の通称もある これは、永観律師が念仏を唱えながら 阿弥陀如来立像の周囲を行道していると たところ、阿弥陀如来が須弥壇から下り 一緒に行道を始めたので、それを驚き 永観が歩みを止めると、阿弥陀如来は 振り返って「永観遅し」といった時の お姿がもどらなくなったとか・・・ 普通は、松は二葉か五葉なのだが、まれに 三葉の松があり、仏具の三鈷に似ている ところから「三鈷の松」と呼ばれており その葉は、ラッキー☆アイテムのようだ 平成19年9月9&10日に京都市内で撮影 追 記 「庭のどこが虎の子渡しでしょうか?」と 前の南禅寺の日記の説明不足で、複数の方から ご質問がありました。築地塀の前に並ぶ石が 川を渡る親子の虎を表しているそうです
2007年09月14日
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京都といえば山村美紗ミステリー。京都 ミステリーといえば、狩矢警部という訳で 某男優さん演ずる、死体のメイク待ちの 彼に、かつて出会った事があるのが東山 界隈だ 黄門さまの風車の弥七のように、突然に 絶妙のタイミングで、コートをたなびかせて 現れるのが、南禅寺の境内にある水路閣だ 気配感じろよ~!と、突っ込みたくもなる 私もミステリードラマで、琵琶湖疏水が流れる このロマンチックな水路閣を知って、何度と なく出かけているお気に入りのスポットである ま、有名どころだし、皆さん知ってはいると 思うが、一度、このブログでも紹介したかった さらに「ちょっと、そこで話しましょう!」と 警察署から出かける先は、石川五右衛門が 絶景かな!と、見栄を切る南禅寺の三門の下 東山の緑に包まれた、大好きな南禅寺で 国宝の大方丈を彩る、狩野派のきらびやかな 障壁画を堪能し、方丈前の小堀遠州作庭の 「虎の子渡し」の枯山水の名園を見物する 虎の子渡しとは、中国の故事で、目を離すと 他の2頭の兄弟虎を殺しかねない、獰猛な 子虎の計3頭を、無事に河を渡した母虎の 知恵である。川は危険なので1頭ずつしか 連れてはいけない。さぁ、どうする? 最初に母虎は、獰猛な子虎を向こう岸に渡し 戻ってくる。その次に大人しい1頭を連れて 向こう岸に渡り、獰猛な子虎を連れて戻る 更に大人しい残りの一頭を連れ、向こう岸へ 渡して戻って、最後に獰猛な子虎を連れ 向こう岸へ渡って、おしまい 岐阜県産の大理石の「紅縞」でできた 巨大な硯(すずり)石 平成19年9月9日午後に、京都市内で撮影
2007年09月13日
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京都のホテルのペア招待が当選をしたので 青春18切符を利用して、娘と二人で残暑 厳しい京都に出かけた。どこも出かけた 所ばかりなので、娘に面白がって貰えたら などと、私が選んだのは青春18切符で 交通費がかからない事もあり、伏見稲荷 稲荷神を祀る全国の約4万社の稲荷神社の 総本宮であり、五穀豊穰、商売繁盛、交通 安全といったご利益がある。現在の本殿は 応仁の乱で焼失し再建をされたもので、国の 重要文化財にも指定をされている ご神域である稲荷山には、信者から奉納を された約一万基の鳥居が立ち並び、特に 千本鳥居は名所となっている 日本人は表側から、写真を撮っているのに 対して、外国人は住所や名前の書かれた 裏側からとっている人を、幾人か見かけたが 漢字がエキゾチックなのだろう 千本鳥居を通って奥院へ。山深い奥院には 一対の石灯籠があり、この灯篭の前で 願い事をして、灯篭の空輪(頭)を持ち上げ 重さが軽ければ願い事が叶い、重ければ 叶いにくいというおもかる石。軽かった~! ここの絵馬は、白狐さんの形をしていて みんな面白い顔が描いてあるよ~。自画像? 奥院の先の鳥居の参道から、山道に それた所には、竹取物語の舞台だとも 言われている神宝神社のお社がある 昔ながらの千代紙で作られた叶雛 (かなえびな)での祈願が出来る やっぱ、お昼にはおいなりさんを食べる 事にしたが、それを見て娘が絶句? 「あれ、ここの尖がってる!」。そう うちのあたりのおいなりさんは、丸いの だけど、皆さんの地域はいかがです? 看板ネコちゃんなのか、のんびり軒先で お昼寝しているのを、観光客になでなでされ 上目遣いで、愛想良くするネコちゃんは 再び目を閉じて、うとうとと・・・・ 参道では、名物のすずめとうずらの焼き鳥 すんません。私は無論。娘も食べなかったです 平成19年9月9日午前に、京都市内で撮影
2007年09月11日
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京都御所の予覚時間まで時間があるので、最初は 平野神社でお花見とも考えたが、思いのほか桜には 早く・・・。だったら、お気に入りのあの餅を! そんな訳で、京都駅から真っ先に向かったのは 洛北の名刹、大徳寺。は信長や、ガラシャ夫人など 歴史的人物にゆかりがあり、沢山の塔頭が立ち並ぶ 寺の町である 秀吉に寵愛された千利休が、この鮮やかな三門の 上層に自身の木像を安置した為、門をくぐる者は 利休の下を通る事になると、秀吉の怒りを買って しまい、自決をする羽目となってしまった ちょうど修学旅行中の女子高校生らが、境内に ある和食所でお食事タイムだったようで、何時も 静かな境内も、華やいだ少女らの声が響いていた そんな女の子たちも見逃せないのが、すぐお隣に あたる今宮神社である。京都の八百屋の娘だった お玉が、三代将軍徳川家光の側室にあがり、五代 将軍綱吉を産んだという「玉の輿」にあやかっての 玉の輿のお守りを、妙齢の女性もお買い求めだ しまった~、うちの娘にも買えばよかったのに 娘は、人の顔ほどもでかい参詣スタンプに夢中だ 994年(正暦5)年に、都の悪疫退散を祈った という紫野御霊会を営んだのが今宮神社の起源で 京の三大奇祭のひとつ、やすらい祭りでも有名で やすらい人形という健康を祈願するものも 京名物のあぶり餅は、きな粉をまぶした親指大の 餅を餅を竹串に刺して、炭火であぶって白味噌の タレをぬったもので、竹串は今宮神社に奉納された 斎串が使われている 日本最古の和菓子屋とされ、西暦1000年(長保 2年)創業という千年の歴史を誇る一和は、前回に 食べたので、今向かいの江戸時代創業のかざりやで 食べることにした。はぁ~甘辛くって美味しいけど 娘は高山のみたらし団子の方が好みのようだ 京都駅地下街のサンドアート 平成19年3月29日午前撮影
2007年04月19日
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せっかく関西に出かけるならば、花見も 楽しまねばなるまいと、選んだサクラは 京都御所のものだった。お天気にも恵まれ 青空の下で老若男女。国内外の多くの人が サクラに携帯を向けていた 狩野派の障壁画のように、ダイナミックで 絵画的な枝振りは、見るものを圧倒をする 同じ桜であるのに、田舎のサクラと、京都の サクラでは、なんだか違って見えてしまう(笑) 桓武天皇が「啼くよ(794)鶯、平安京」と 都を開かれて、千年以上の長い間の帝都で あった京都は、日本人には特別の存在である いつもは、一般公開で沢山の人らの長い行列で 慌しい見学の「京都御所」を、宮内庁の予約を 必要とする通常の見学で、ゆっくり楽しんだ 平安時代の御所は、今よりも西にあり、正式の 内裏が火災等で使用できない際、臨時の内裏 (里内裏)の一つであった土御門東洞院殿を 南北朝時代に、光厳天皇が皇居と定めたという 現存をする建物は、江戸末期になってから総奉行 松平定信によって、平安様式にのっとって再建を されたものだそうだ 「天下布武」の名の下に、足利将軍家を滅ぼし 比叡山を焼き打ちした信長であっても、天皇に 弓ひく事はなく、秀吉は朝廷より関白・太政大臣に 任ぜられ豊臣姓を賜り、家康の孫娘である和子は 徳川家を天皇の外戚とするべく、皇子を出生する 期待を背負って、宮中に送り込まれた 明治維新で、天皇が東京にお移りになっても、なお 第二次世界大戦前までは、天皇即位は京都御所で 行われていたそうで、戦後の皇室典範の条項改定に より、今上天皇が御即位の大礼の際には、高御座と 御帳台は東京の宮城まで運ばれ、大礼が終わった後 再び、京都の紫宸殿に戻したという 天皇の在所を示す特別な玉座である「高御座」が 京都御所紫宸殿にあるので、京都御所こそが皇居で あると言う人もいるそうだ 平成ガメラ・シリーズ第3作である「ガメラ3 邪神覚醒」のクライマックスでは 親を殺された事で、ガメラを憎む少女が育てた 邪神イリスが、近未来的な京都駅で、ガメラと し烈な戦いを行う 安上がりなぷらっとこだまを利用をする事が 多いので、一時間に1本、乗り遅れ不可のこだまを 待つ為に、早めに京都駅に着いて、駅構内で 時間をつぶす事が多い私には、馴染みの場所だ 長いエスカレーターを上ると、京都市内が 一望できる展望台になっており、夕暮れの 淡いピンクに染まる、京都の町を眺めた 平成19年3月29日午後撮影
2007年04月16日
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子供の頃に好きだったゲゲゲの鬼太郎が 実写映画になるという。特に印象的だったのが 迦楼羅(かるら)神が笛を吹いて、獰猛な 牛鬼をひれ伏せさせた話であった。幽霊は 怖いけど、妖怪は怖くないという私でも 「百鬼夜行」は、やはり怖かった 魑魅魍魎(ちみもうりょう)が、都大路を 真夜中に列をなして行進をするという 「百鬼夜行」を目撃すると、その者は 死んだり、病気になるなどと恐れられていた この原型は、使い古した鍋釜や五徳 木魚といった道具が、変化をした妖怪 付喪神(つくもがみ)となり、行進をした 説話だそうで、北野天満宮の天神市も 付喪神になる前に、古道具を売り 飛ばそうとしたからという説もある そんな百鬼夜行がされたという、北野の 大将軍商店街が妖怪ストリートになって おり、妖怪ラーメンを食べてみたかった 陰陽道によると、年々によって各方位の 吉凶を司るとされる八将神(八将軍、 八大方位神)の中でも、大将軍の方位は 最も恐れられており、平安京を造営するに あたって、御所の四方に大将軍をまつり 王城を鎮護したという大将軍八神社 大内裏の南に造営をされ、天皇や廷臣の 宴遊の場だった庭園は、常に清水が湧き 出すことから、神泉苑と名づけられたそう 竜神が住むといわれ、ここで西寺の守敏と 東寺の空海が祈雨の法を競って、空海が 勝ったという逸話も残る 全国唯一だという「恵方社」があり、年の はじめに、その年の恵方へと向きを変え その方向に参拝が出来る。ご祭神は歳徳神 (としとくじん)という、陰陽道における 一年の福徳を司る神様だ 今年は北北西に向かって、私も参拝をしてきた さて陰陽道といえば、映画、漫画、小説などでも 大活躍の安部清明。その生い立ちは、安倍保名と 信太の森(大阪和泉市)の狐の葛の葉の間に 生まれたとか、平将門の子であるという説も・・・ 彼の屋敷跡に建てられたという、晴明神社には 病気平癒のご利益がある水が、湧き出ており 千利休が、茶の湯に使ったとの言い伝えも 立春になると井戸の上部を回転させ、取水口が その年の恵方を指す仕組みになっているとか 安部清明が、式神を封じた場所にちなんで 平成7年まで実際に使われていた石材を使用し 一条戻り橋が、境内に再現をされていた 紀州熊野で修行に励んでいた、浄蔵のもとに 父親の三善清行が危篤の報せが届き、あわてて かけもどると、一条通の堀川に架かる橋の上で 父の葬列にであい、「もう一度話がしたい」と 祈祷をすると、三善清行がよみがえり、最後の 話が出来たことから「戻り橋」と呼ばれる 大江山の鬼であった茨木童子が、源頼光の 四天王の一人である渡辺綱に、片腕を切り 落とされたのも、一条戻り橋だとか 街の何気ない蔵の窓もすらも、なんだか ミステリアスに感じてしまうのだ 平成19年1月24日午前中に撮影
2007年02月02日
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新年を迎えて、早1ケ月。猪による農作物の 被害も多いわが地域では、あまり活躍をして いただきたくは無いが、今年は勇猛な猪年 そんな訳で、世にも珍しい狛犬ならぬ狛猪が 鎮座する、護王神社に参拝をせねばなるまい ちなみに、世間には狛鼠、狛兎、狛猿なども 存在をしているらしい 京都御所のすぐ横にある護王神社は、かつては 洛西の高雄山神護寺の境内に、和気清麻呂の 霊社として祀られていたものを、明治天皇の 勅命により、御遷座されたそうである 国家にも歌われる、小石の集まったさざれ石は あちらこちらで見られるのだが、ここのは 看板に「日本一」とあった。でかい・・・ 以前、大和神社の御分霊が戦艦大和に祀られて いたとブログで紹介をしたが、護王神社の 御分霊は、軍艦「高雄」に祀られ、沈没をする 事なく、その任務を全うしたという話だ 神社の向い側には、幕末歴史ファンには馴染みの 蛤御門の変(禁門の変)の舞台となった蛤御門が 建っている 長州藩が朝廷に強訴に及ぶというので、京都の 守護にあたる会津、桑名、薩摩藩の兵らと衝突 今でも御門の梁には、鉄弾の跡が残っている 今回の旅の目的は、ずばり娘の大学の合格の お礼と、娘、息子の高校受験でお世話になった 純白の学業のお守りを、お返しすることだった 時期柄、学生さんたちの参拝も目立った 暖冬といわれ、梅も満開の地域もあるのだが 北野天満宮は、ほんの少しほころびかけた 梅の花。ホーホケキョ! 今年の春の知らせは めでたくも、北野天満宮の境内に届いた 北野天満宮は、西陣にも近く、その鳥居前町は 古くから賑わい、出雲阿国が女歌舞伎踊りを したのも、この地であったそうだ また「咄家の祖」である露の五郎兵衛さんによる 上方落語発祥の地といわれているそうで記念碑が 建っていた 平成19年1月24日午前、撮影
2007年01月29日
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国宝の金堂(旧皇居・紫宸殿) 夢枕獏さんの小説や、岡野玲子さん作画の 漫画化に、野村萬斎さん主演の映画化などで 有名な、王朝を闊歩した陰陽師(おんみょうじ) 安倍清明の不思議な逸話は、御室(おむろ)の 「仁和寺」(にんなじ)にも残されている 今昔物語第24巻の安部晴明随忠行習道語に よると、仁和寺の寛朝僧正のところで、同席した 公卿らに、陰陽道の技を使って、カエルを殺して 見せるようにせがまれ、術を用いて手を触れず カエルを真平らに潰しそうだ。平面ガエル? 映画において、晴明が蝶をまっぷたつにする シーンでロケに使われた仁和寺は、王朝文化の 優美さを体感ができる、大好きなお寺である それもそのはず、国宝の金堂は慶長18年 (1613)に建立された、皇居の正殿であった 紫宸殿を、寛永年間の皇居建て替えに伴って 清涼殿、常御殿などと共に仁和寺に下賜をされ 境内に移築をされたものだからだ 平安時代、光孝天皇の勅願により、仁和2年(886)に 建て始められたのだが、光孝天皇は完成を見ずに 崩御をされ、御子の宇多天皇の代になった2年後 落成をした。その年の年号から仁和寺と号した 宇多天皇が出家後に、仁和寺伽藍の西南に「御室」と 呼ばれる僧坊を建てられ、お住みになった事から 御室御所とも呼ばれている。明治時代に至るまで 皇子や皇族が歴代の住職を務めた、門跡寺院として 皇族や貴族の手厚い保護を受けた名刹である 4月下旬に咲く、背の低い御室桜でも有名で 数多くの寺宝など、美しい御殿以外にも、見所が いっぱいのお寺に、大きなお寺が大好きな姉も 「京都にこんな美しいお寺があったのか」と 大満足の様子だった 禅の心を石庭に見る外人さんも、京都の千年もの 王朝文化を感じたいのなら、仁和寺は最適なのに 外国人どころか、嵐山や東山界隈の日本人観光客の 雑踏もない。静かな緑豊かな寺である 小腹も空いてきたので、昨日のように昼抜きには ならないように、今回もまた北野天満宮周辺の グルメスポットに向かう。あ~~、とようけ茶屋は 今回も10人くらいの人が並んでる・・・ そんな訳で並ぶのキライな私は、豆腐好きな姉と 「京とうふ藤野」のTO-FU CAFE FUJINO 北野店で 1050円の藤野プレートセットにありついたのだ 前から食べたかったのよね~~ ぱくり! さらに食後のデザートには、近くの「京とうふ藤野」 天神通り分店で、豆乳ソフトクリームにチャレンジ 期間限定で、むらさき芋の豆乳ソフトがあったので ぱくり!! おなかいっぱいで、今回の旅の最大の目的である 「北野天満宮」で娘の合格志願を行い、その帰りに 名物の「天神堂」の焼き餅をぱくり!!! 続 く 平成18年10月28日 撮影
2006年11月16日
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さて、京都での一日は、等持院の朝から 始まった。北野白梅町から歩きなれた 道を西にすすむと、あれ高校の校舎が新しく なっている!! またも超・豪邸が!! 久々の等持院は、結構、建物など変化が 見られた。変わらぬようで、京都もまた 時代の流れるままに、進化をしているのだ 足利尊氏が、1343年、別院北等持寺を 建立し、尊氏の死後、尊氏の墓所となった 応仁の乱で、柳馬場の等持寺が焼失した為に 別院だった、現在の等持院が本寺になった 方丈の西の庭は、夢窓国師作と伝えられ 高台には茶室清漣亭があり、かつては衣笠山が 借景になっていたが、今では大学の校舎が・・・・ 尊氏墓所 北の庭には、尊氏の墓と伝えられる塔があり 霊光殿には、歴代足利将軍の木像が並んでいる さらにお寺の墓地には、長門&津川兄弟の 父親でもあり、日本映画の先駆者である マキノ省三氏の大きな銅像がたっていた 「竜安寺の石庭」として、世界にも知られる 枯山水の方丈石庭は、室町幕府に仕えた相阿弥の 作庭と伝えられ、近世以来「虎の子渡しの庭」の 別称があるそうだ 衣笠山山麓に位置をする、藤原北家の流れを汲む 徳大寺家の山荘であったところを、守護大名の 細川勝元が譲り受けて、創建をした禅寺である 衣笠山 徳川光圀の寄進と伝える、知足の蹲踞(つくばい)や 秀吉寄進の日本最古を名乗る、侘助椿などもある とにかく、外国人のお客さんが目立つ多いお寺だ 大きなお寺が大好きな姉のリクエストに応えて 次には、あそこに行こうかな・・・ 続く 平成18年10月28日午前中に撮影 ついに氷点下になってしまいました。恵那山に 初冠雪。霜が降りて、水溜りは凍り、車も キラキラと、水滴が凍って光り輝いてます 部屋の中でも、10度をきり、息を吐けば は~~~白い事も。エルニーニョも発生し 今年は暖冬じゃなかったの!? 寒いです・・・ 季節の変わり目、皆さんもお風邪を召さぬよう! インフルエンザの予防接種はしましたか?
2006年11月13日
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哲学の路 午後2時も回り、朝のバイキングの大食いも解消し やっと、お昼ご飯を食べる気持ちにもなってきた 久しぶりに銀閣寺界隈で食べ歩きをしたいな。あの 昔ながらのキャンディーを、無性に食べたい! などと市バスに飛び乗ったのが、ガイドブックを 見たら・・・あ、キャンディーって火曜定休にプラス 第2月曜もお休み? 今日じゃない・・・(泣) とりあえず、お昼ご飯は・・・あそこにしますか 上州風の「名代おめん」のつけうどんは、なんといっても 山のようになった薬味と、ゴマでしょう。こんな時間にも かかわらず幾組ものお客さんで、お店はにぎわってた お腹もいっぱいになったので、哲学の路を散策しながら 「銀閣寺行く?」「別にどっちでも・・・」 何度も いってるし、無料で見れる入り口の立派な生垣を 見物してから、修学旅行生の元気な声の響く門前を ぶらりぶらりと・・・ 生八つ橋の試食コーナーには、女子学生が集まり 「青りんごいけてるよね~」とか、吟味をしていた しかし、いろんな味があるもんだ。ゴマ風味が 売り出し中なのかな? うちの女学生は生ではなく おせんべいのかたい八つ橋をご所望。袋でいいかな さすがに足も痛くなってきたので、早めに京都駅に 向かうことにしたのだが、主要観光スポッとだけを 停車するバスって、早くて観光客にはうれしいです♪ 時間もあるので、最後に美味しいものを食べて 京都とお別れをしようと思った。となると・・・ やはり「茶寮都路里」の抹茶パフェでしめますか 15分待ちの間に、メニューなど吟味して、私は 3色の抹茶アイスの乗ったカキ氷にした。白玉が ついていたのだが姉に奪われてしまった それにしても、今にも転げ落ちそうなアイスを 落とさず、どこから手をつけたものか・・・・・ 今回のお土産は みんがおススメという「亀屋良永」の御池煎餅はうまい! 美味しすぎて、甘味息子が一晩で食べてしまった(泣) 三室戸寺は蓮でも有名なので、蓮の実の甘納豆 桂離宮のかわいい小物入れには、愛子様のお印の 五葉躑躅(ごようつつじ) 平等院の52体の雲中供養菩薩像が印刷された トランプと、姉からもらったしおり そして番外に、京都駅で福井県キャンペーンを していて、ただでもらったとろろ昆布! 秋に今年3度目の京都を予定してますから、しばしのお別れ またきます。今回も楽しい思い出をアリガトウ 京都御苑、学習院跡。松木の桜(倒れた松から桜の若木が・・・) 平成18年6月12日。撮影
2006年06月25日
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甘味姉妹はホテルに帰って、夜のおやつとして 駅構内で購入をしていた、満月の「阿闍梨餅」を 食べることにした。事前にガイドブックの写真で 一目ぼれをしたもので、旅の目的のひとつだった 阿闍梨 (天台の高僧)が、比叡山での千日回峰 修業中にかぶる網代笠の形にちなんだそう 京都駅から桂離宮行きのバスを利用をしたかったので 今回は、京都駅周辺のホテルを探していたのだが ぷらっとこだまフリープランで、新都ホテルの新館 サウスウイング禁煙ルームを使用することにした 姉はタバコのにおいが大嫌いなのだ。お部屋は少し 狭いけど、洗面台とかおしゃれ~~! かっこいい 朝バイキングも、和食、洋食など豊富で茶碗蒸しも あれば、酸味のあるアロセラジュース好きなのよね さて桂離宮を見学をしてから、仙洞御所の見学まで 時間があるので、御所近くにある寺社見物でも・・・ 紫式部の屋敷跡に建つ廬山寺(ろざんじ)の源氏の 庭は桔梗で有名だが、今回もその花を愛でる事はなかった いささか歩きつかれて、時間もあるので、見学者が他に 誰もいないのをいい事に、30分近く座り込んで 庭を眺めたり、おしゃべりをしたり・・・・ お寺によっては抹茶とお菓子が楽しめるのだが こうゆう小さなお寺はのんびり出来て、風にそよぐ 木の葉の音までを楽しめて癒される・・・・ す~~っと、疲れが飛んでいくようだった 紫式部が源氏物語を書いていた日も、きっとこんな 静かなゆったりした時間が、流れていたのでしょう この近くには、同志社大学の創立者である新島襄の 邸宅がひっそりと残されている。宣教医テ-ラ-の 助言のもとにに、設計は新島襄自身が行ったという 木造の2階建て、コロニアルスタイルを基本とした 明治時代初期の洋風住宅である。期間限定で公開を されているので、いつかは内部も見学をしたいものだ 前に宇治の名水の一つを紹介をしたのだが、京都は 名水が多いので有名である。その中で「京都三名水」と 呼ばれるのが、戦後になって枯れてしまった「佐女牛井」 (亀屋良長本店にある醒ヶ井は、平成3年に復興された) 京都御苑内で、役人が昇進を願って身を清めた「県井」 梨木神社にある「染井(そめのい)」の3つの井戸だ 染井は、宮中の染所が使っていたそうで、この井戸から 汲んだ水を染色に使うと、色鮮やかに染め上がったそう 参拝客は自由に飲んだり、汲んだりできるので、その日も 空のペットボトルを持った人が並んでた。一口、飲んでみた この神社は萩の花でも有名なのだが、一枝、もう咲いてるよ 平成18年6月12日正午ごろ撮影
2006年06月23日
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宇治に出かけたのには、他にも目的があった 7月の祇園祭がらみで出かけた京都で、かつて 大輪の蓮の花を見物をしたことのある三室戸寺で 今度は、満開の紫陽花を楽しむ趣向なのだ 三室戸寺までは、さわらびの道を歩いたのだが 宇治十帖ゆかりの古跡、神社などが幾つもあって 源氏物語にどっぷりと浸ることが出来る 前の日記で、宇治川の流れの速いのには驚いたと コメントがあったが、浮舟が身を投げた状況もまた 実際に、自分の目で、肌で感じてこそわかるものだ 途中、源氏物語ミュージアムで瀬戸内寂聴さんの 山積みにされた生原稿に圧倒された。ここまでか というばかりに、文章の直しが入っているのだ 奈良時代の宝亀元年、山中から黄金の仏像が発見され 光仁天皇の勅願によって、この金銅千手観音立像を ご本尊として創建をされたと伝わり、西国三十三ヶ所 観音霊場の第10番札所として、またつつじ、紫陽花 蓮などの花の寺として有名なのが、この三室戸寺である 境内になにやら行列が! へなちょこ牛を飼っていた人が 三室戸寺の観音様にお参りすると、牛がどんどんと立派に なって、ついには勝負にも勝てたそうだ 牛の口の中にある観音様に触れると、勝運に恵まれると いうことで、あの若貴兄弟もお参りをして、その手形も 傍らにあった(この奥さんは、見ず知らずの方です) 寺からは臨時バスで宇治駅に着いたのだが、そのまま 改札口に行かず、一目散に甘味姉妹がむかったのは 抹茶スイーツで有名な、創業安政六年「中村藤吉本店」 風雅な中庭には、黒松を宝船の形に仕立てた樹齢が 200年もの宝来船!! ありがたや~~!! すごい人!! 15分くらい待ってから、席について 姉が頼んだのは竹筒を使ったパフェ。私は欲張りなので アイスも、シフォンケーキも、ゼリーも! みんな 楽しめるので、すんごいボリュームですよ~(でも完食) しかも、価格が安いんです♪ 腹いっぱいになった甘味姉妹は、ホテルに早々にチェック インして、幸せな気分で仮眠をとって、さぁ元気も出たぞ 京都のネオンが待っているとばかりに、先斗町にいざ出陣! 一説には、信長の頃にポルトガルの教会がこの辺りにあり ポルトガル語のポント(先端)やポントス(橋)から 先斗(ポント)町と呼ばれるようになったらしいとか 天ぷらが大好きな私。ここにある「山とみ」さんの 鉄ピン揚げは、以前から食べたかったお料理なのだが 旅番組などで見た覚えのある人も多いかも しかも、二人で千円アップで、高嶺の花でもあった 川床が楽しめるというのだから、川床初体験にわくわく お店の人たちもフレンドリーで、なんだかいいわぁ~ だいたいが予約が必要、高額なディナー料金のお店が 多い中で、ここはリーズナブルで「一見さん歓迎」って 姿勢は、観光客にはうれしい限りです♪ お腹もいっぱいになってお店から出ると、いゃぁ~ 先斗町の舞妓さんやわぁ。綺麗やなぁ~~ 「おかぁ~さん、おおきにぃ~」などと間延びした声を 聞きほれているうちに、写真を撮り忘れました 平成18年6月11日 完食!
2006年06月21日
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