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クリスマス篇<PART2>12月に入ってからというもの連日連夜続く盛況な客足に、普通でも2回転、週末ともなると3回転4回転はざらで、ウェイターのお仕事はそれこそ一服する暇もなく立ちっぱなしの歩きっぱなしで、何とか終電で家にたどり着いた途端にバタンキューってな感じで、バイトとは言え仕事のためだけに人生があるような毎日でした。12月は一人千円のクリスマス・セットというのが強制的に付くので、売り上げは一気に上がります。セットというのは1本百円くらいのシャンパン(単なるサイダー)と、紙製の仮面マスクに紙笛(駄菓子屋で売っていそうな安物)が付いてるだけなんですが、さすがキャバレーでのし上った会社ですから、使えるノウハウはしっかり踏襲するわけです。近所の同系列のキャバレーから同じセットをぶら下げて、赤ら顔でふらふら出てくる親爺を見るたびに水商売の奥の深さにつくづく感心したものでした。それとは逆に、文句も言えずこんなもの千円で買わされた挙句、人ごみの中で安い酒飲んで大騒ぎでもした日には、従業員に袋叩きにされて店から放り出されるという悲惨な目に遭う人々を見て、委員長は、一体この熱狂はどこから来るものなのか、はたまた、世の中の常識というのは一体何を基準にしているのか、そんな疑問を抱いたものでした。やはり12月といえば忘年会シーズンですし、大学生あたりは早くも冬休みに入りますから、お客の多くがグループ・団体になります。早い時間から来るお客のほとんどはダンスが目当てですから、さほど問題はないのですが、9時、10時を過ぎてやってくる客、特に団体は、ここにたどり着くまでに相当呑んでますから、既に出来上がった状態で入店してくるので些細な事でも大騒ぎになります。委員長の体験から学んだセオリーですが、6人を超えるグループには必ず問題を起こすトラブルメーカーが紛れ込みます。5人だと多数決で必ずどちらかの意見が有効になりますので、たとえトラブルメーカーがいても小難でやり過ごせます。ところが6人となると、仮に3対3で意見が割れるとトラブルメーカーの主張がどっちにしろ大難を招きます。更に6人以上の団体の場合、かなり高い確率で問題児・トラブルメーカーが紛れ込んできます。これはいかなる団体にも当てはまる法則とも言えるでしょう。そしてディスコでよくあったのが、ダンスフロアで足を踏んだ、踏まないのケンカですね。これは完璧に一定のパターンで起こります。必ず被害者はそこの常連か、あるいは遊び慣れてる人です。そして加害者はかなり泥酔して大だこ踊りをやらかすタコです。すでにこのタコがダンスフロアに登場した時点で、すぐに周りの常連とか遊び人の目に留まり、暗黙のうちにフロアの悪役となります。さて、誰が殺るか?という暗黙のコミュニケーションが行われます。ターゲットの分析はその外見から始まります。学生風あるいは社会人、年齢、地位、身長、体重、酔い加減等の調査が済むと、バカの代表者が名乗りを上げるようにして足を踏まれるか、タコの手に絡まれに行きます。そこでまずガンが飛び、ちょっとした態度「やっちゃうぞテメー」といった感じで威嚇して警告を促します。ここで仲間が気づき、タコを抑え込みにかかれば難を逃れられるか、あるいはトイレとかで「怪我しないうちに帰った方がイイぞ」とか凄まれる程度の小難で収まりますが、仲間が結構イケイケだったりとか、ヤバイと感じないノーテンキなシヤワセグループだったりした場合はいよいよ場外乱闘となります。ここで被害者と加害者が見事に逆転します。ダンスフロアで迷惑踊りを繰り返す加害者タコは、「インネンこかれて」チョーパンとか膝蹴りの被害者となります。被害者だったバカの代表は、踊り場の皆さんのためと言う大義名分によって制裁を加えた時点で加害者となります。通常は被害者タコが、鼻血ブーとかその場でうずくまることで事態は一気に収束しますが、時に外見と相反して根性のあるヤツとか、泥酔していて痛みを感じないヤツだったりした場合は、逆上して大暴れします。更にここで被害者と加害者が再度逆転します。加害者バカは、大声出して暴れる被害者タコを、踊り場の皆様のためにと、強い正義感から天誅を加えます。乱闘に気づいた店の従業員が直ちに止めに入ります。加害者バカは手馴れたもので、「この人酔っ払ってて手がつけらんないんすよ」と見事被害者に転じます。「なぁんだとぉー、お前が先に手ぇを出したんだろぉーう」と、ややロレツが回らない態度の被害者タコは手を振り上げて抗議抵抗、しっかりと加害者になりきってしまいます。そんな踊り場の騒ぎに、黒服以下店員の有志が待ってましたとばかりにやってきてタコを取り押さえ、フロアから引きずり出します。「おれぇはきゃくだぞぉー」とか更に暴れるタコは、あちこちから出てくる手や足でボコボコにされながら裏の非常口に消えていきます。委員長たち毎日コキ使われているウェイター君たちは、ここぞとばかりストレス発散、「やめろ、やめろ」のかけ声の下、羽交い絞めにしたタコをこらしめます。タコは思わず叫びます。「お前らがやめろ!」そして、委員長たちストレス一杯のウェイター君たちにとって最高のシュチュエーションは、タコ対タコ、更にタコグループ対タコグループの乱闘が何よりのお好みです。タコは理屈が通りませんから、とにかく蹴って殴って黙らせるのが一番。しかも双方ともボコボコにして店から追い出しても、悪いのは当事者同志、お店は迷惑していますってことで、たとえお客が怪我したところでお互いのケンカで怪我したんだから仕方ありません、といった具合にどう転んでも加害者にはなりません。やれやれ、今日も一日お疲れさん、店の外に出た委員長の目に、ごみクズと化した千円のクリスマスセットが寒空の新宿の道端のあちらこちらに虚ろに転がっておりました。高いお金を払って、蹴って殴られ叩き出されたお客様は、果たして神様なのでしょうか?
2005年05月31日
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クリスマス篇PART<1>ということで、新宿ビバヤングは12月に入ると、クリスマス~師走~新年に向けて、色々な模様替えが行われました。まず、新しいバンド・サウンドウェーブスがフィリッピンからやって来ました。これで毎日2バンドが出演し、その合間にDJが入るという豪華絢爛、大型パブディスコの面目躍如と言ったところでしょうか、南口あたりのディスコシーンの話題を独占したようなものでした。従来のバンド・リップヴァンウィンクルは、まあ並みのバンドというか、ギター、ベース、キーボード、ドラムスにサックスとヴォーカルが入ったコンボだったのですが、サウンドウェーブスは当時では非常に珍しい、トランペット2、サックス1の管セクションが入った大型バンドでした。ユニフォームもビシッと揃え、かなりショーアップしたバンドだったので、対バン(対抗バンド)はやたらと影が薄くなっていってしまいました。委員長のお気に入り、ゲバラ・シスターズはこの二つのバンドとうまくセッションして、かぶったレパートリーをうまく使い分けながらステージに花を添えておりました。しかし、このSOUND WAVESのコピー技術は本当に素晴らしかったです。委員長も当時はBANDに憧れ、ちょっとはギターなどもかじっておりましたが、それでもシンプルなロックバンドのコピーでさえ、中々うまいと思えたバンドにお目にかかったことはありませんでした。ざっと思い出しても、KC&ザ・サンシャインバンドのファンキーホーン、オハイオプレイヤーズのファイヤー、ハービーマンのハイジャック、BTエキスプレスのドゥイット、テンプテーションズのハッピーピープル等、DJのレコードからそのまま演奏を引き継ぐなんてこともやって、客席で聞いているとDJからバンドにいつ切り替わったのかわからないほど見事なテクでした。となると不思議なもので、それまで結構イカしてると思っていたリップヴァンウィンクルが、何だか汚いフーテン上がりのバンドのように見えてきて、お客のウケも次第に歴然としてきます。バンドのバロメーターは、ダンスフロアにどれだけのお客を動員できるかってことですから、結果はありありと見えてきてしまいます。ちょっと可愛そうだったですね。DJの方はというとN観光専属のマチャアキこと立石君と、週末だけ立川ベースからやってくる黒人のウィリーが受け持っておりました。ブラザー・ウィリーとはあまり親しくなかった委員長ですが、彼と初めて挨拶を交わしたのは、なんとビバヤングのトイレの中でした。委員長が用足ししているところに後からやってきたウィリー、委員長の頭を見て仲良しと判断したのでしょう、となりに来てジャンプスーツのジッパーを下ろしました。当時の委員長、英語なんぞは中学以来喋ったこともなければ、外国人と二人っきりになった経験もありませんでした。しかもトイレという限られた空間の中のことですから、必要以上に緊張は高まります。ウィリーは気軽にハーイってな感じで話しかけてきて、勝手にベラベラと話し続けます。一体何を喋っているのかチンプンカンプン、ただただ愛想笑いをして、早く用足しが終わることを祈るばかりでした。しかしこの時委員長は、重大なる教訓を得たのです。「人間が一番無防備なときは用足しをしているときだ」そうです、もし用足し中に襲われるようなことになったら、用は止まらん、一物掴んだ手は離せん、ズボンは汚す、こんな状態では応戦不可能です。だから危なそうなトイレに入るときは「大」用を使うか、一人では入らないというのが不良の心得第一条なのです。(ほんとかよ)確か、TVドラマ「太陽にほえろ」で萩原健一演じるマカロニ刑事が、立ちションしてるとこを暴漢に襲われて死ぬってシーンがありましたが、どんなに腕に自身のあるヤツでも、用足しの最中に襲われたら無抵抗でアウトですね。それでもウィリーのジャンプスーツが気になっていた委員長は、そっと視線を彼のジッパーに向けると、彼のスーツの中央、胸の辺りから下半身にむけて一直線に伸びたジッパーは、ダーっと一気にご開帳、胸の辺りからは縮れた胸毛なども見え、へその下の更に黒い茂みまで肌けて、なんとそこにはSHAFT黒いジャガー(アイザックへイズですね)が顔を覗かせていたのでした。ジャンプスーツでの用足しは、かなり情けないカッコになるのだということも学んだ委員長でありました。DJのマチャアキは博多出身の九州男児、プロのJAZZドラマーを目指して上京、N観光のDJ見習いに応募、数ヶ月のDJ研修を受けてビバヤングに配属となりました。この時の同期生に、後のディスコ業界で一旗上げた新宿のジュリーこと鈴木昇二氏がいて、彼は姉妹店の歌舞伎町Q&Bに配属されました。もうひとつの姉妹店、西口ブイワンは誰が行ったのか知りませんが、後年委員長も各店をめぐることとなり、更にマチャアキ、ジュリーとも深く関わっていくことになるのですが、今考えると、このビバヤングとの因縁は運命的なものさえ感じてしまいます。(でもないか?)さて、イベント的にはこんな模様替えがありましたが、ホールの方もかなり忙しくなってきて、入れ替わり立ち代り色々なヤツが出たり入ったりの毎日でした。まさに水商売そのもの、水が流れるように人もどんどんと流れていきます。開店時に新人社員です、と紹介されて、翌日にはもういなくなってるなんてことがザラにありました。ただメシ喰いにきただけですね。中でもこいつはスゲーって思ったのは、昼頃来て今日から働かせて下さい、ってメシ喰って、マネージャーにクリーニングの引き取り頼まれて千円だかそこらもらってそのまま帰って来なかったっていうヤツ、これは良い仕事しましたね。半日給1000円メシ付き。まあ3日持てば良いほうで、大抵が1日か2日で消えていきました。それだけシゴトが大変だったってことでもありますが、どちらかと言えばバイトの方がしっかりしてて、正社員として入社してくるのは流れ者みたいなヤツが多かったですね。今思い出しても、あの忙しさは尋常じゃなかったですね。人ごみの中でボトルやグラス運んで、テーブル片付けて、また案内して、片付けて、って休む間もなく終電時間まで延々と続くわけですから。ほんと人ゴミですよ。人のゴミの中で泳いでるボーフラみたいな感じ。あるときなどは製氷機の製氷が間に合わなくなって、近所のキャバレーに氷もらいに行かされたりしました。寒空の新宿の繁華街をデカいバケツに山ほどの氷を入れて、ヨイショ、ヨイショと運ぶアフロのにーちゃんを想像して下さい。しかも赤いちゃんちゃんこみたいなベスト着て、かかとの高い靴はいて、まるで漫才師ですよ。おぼんこぼんじゃないんだから。ホンモノのSOULマン目指して飛び込んだ業界ですが、期待していた世界とはかなりかけ離れた目の前の現実に、世の中の厳しさをあらためて知った委員長でありました。しかしそこはそれ、なんと言っても気合の入った道楽者ですから、なんでもかんでも楽しんでしまおうという旺盛な好奇心と、全て自分の都合が良いように解釈できる得意技を駆使して、冥府魔道の道楽道を歩んだのでありました。このあともバカな話はまだまだ続きますよ。
2005年05月30日
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順応性が早く適応性が高いことが道楽者の特徴と言いましたが、早い話がそれだけかぶれ易いってコトと要領が良いってコトに尽きるわけです。さて、委員長のバイト生活も半月も過ぎる頃には、すっかり環境調査も済ませ、憧れのアフロのおねーちゃんが歌ってるバンドとも話をするようになりました。バンド名はリップヴァンウィンクル、ヴォーカルはゲバラ・シスターズ。姉妹のシンガーデュオで、委員長がのぼせていたのは妹の方でリンダ・ゲバラ、姉さんの方が美人でルックスは良かったのですが、あまり興味がなかったせいでしょうか、名前の方はすっかり忘れてしまって未だに思い出せません。二人はフィリッピンのミンダナオ島出身で、バンドのメンバーはマニラから来たと言っておりました。姉さんの方は落ち着いた雰囲気で、いつもインドのサリーのような衣装を着込んで、額の眉と眉の間の中央には丸飾りを付けていました。当時は、フィリッピンはもちろんのことアジアの文化なぞ知る由もない委員長でしたが、今にして思えば彼女たちはイスラム教だったのでしょう。特に姉さんの方はいつも民族衣装ぽいファッションでしたし、ちょっと高慢な、とっつきにくい感じが漂っていました。ビバヤングのダンスフロアーは、バンドステージを正面にして長方形の100人は踊れるほどの広いスペースでした。その後方に更に大きな長方形の客席があり、その奥に照明室、バンド控え室、更に非常階段の横に狭い従業員更衣室(ロッカー)がありました。ここでちょっと斬新だったのが、客席中央に円筒形のヴォーカルステージがあったことです。今風に言うとお立ち台のような感じで、宴もたけなわ、盛り上がってきたところで、ゲバラ・シスターズのリンダがこのステージに上がり、メインステージとオープンステージで掛け合いディオを披露します。委員長はトレンチを持ってホールを駆け回る度に、このお立ち台の上のリンダを意識するように愛想を振りまきながら一生懸命アピールしたのでした。もちろん彼女にしてみれば、アフロした変な日本人のウェイターがやたらとモーションかけてきている、ってな程度のことだったのでしょうが、何せ委員長は夢見る道楽者ですから、彼女がお立ち台に上がる度に、わざわざ遠回りをして手を振ったり、愛想笑いしたり、何とか気を引くためにそれはそれは努力を重ねたわけです。さすがのバカ友、酒屋の息子も呆れて「おめぇホントにバカじゃねーの」ってなもんで、舞い上がった道楽者ほど困ったヤツはおりません。とは言うものの12月に入るとお店は次第に忙しさも増し、具にも付かない道楽を楽しむ暇もなく、とにかく働きずくめのコキ使われっぱなしになっていきました。道楽者とは言え、もともと根がまじめな委員長ですから、仕事は仕事としてきっちりこなしていくうちに、正社員の黒服の方々からも次第に可愛がられるようにもなっていきました。黒服と一口に言っても一応の階級があり、この会社は元々キャバレーから成長してきた会社だったので、その構成もキャバレーの匂いが漂うものでした。まず、店長をトップに支配人(マネージャー)、その下に主任、次いで幹部候補生と称する黒服、ボーイ長、ウェイター、そしてパートという具合です。基本的にはウェイターっていうのはバイト社員が主で、正社員として入社するとすぐに幹部候補生扱いになります。店ではこの幹部候補生のことを略して幹候(カンコウ)と呼びます。ちなみにこの会社の正式名称はN観光株式会社と言い、キャバレー・クインビーで経営拡大していった会社でした。当時のキャバレーは水商売の代表選手で、キャバレー太郎の異名を取った福富太郎氏のハリウッドチェーン、採算独立性のハワイチェーン、乙姫キャバレー龍宮城チェーン、キャバレー浦島、世界的にも有名だったグランドキャバレー赤坂ミカドなど、夜の社交場の代名詞でありました。後年これらキャバレーチェーンが、パブやコンパへと業務をシフトしていく流れの中でブームに便乗し、更に大型ディスコへと転身していきました。ちなみにディスコの企画を総合的なプロデュースとして手がけ、後のディスコ業界の手本となった青山のウィスキー・ア・ゴーゴーは企業経営の面から見てもパイオニアと言えるのではないかと思います。さて、委員長は、皆が名前の後に幹部候補生の略で幹候(カンコウ)をつけて呼ぶのを、てっきり観光会社だからだと思い込んでおりました。大池カンコウ、椿カンコウ、藤井カンコウ、いくら観光会社だからといって、何も全員の名前に観光を付けて呼ぶこともないだろうに、と訝しく思っておりました。また、実はこの会社がキャバレーチェーンだと知って、ひょっとしたらバス会社とかも持っている大きな観光会社だとも思ったりしましたが、いわゆる水商売企業の多くが、観光会社と名乗っていることを知ったのは随分後のことでした。幹部候補生として見習い期間が終わると、次に本社の研修を受け、これを無事終了すると晴れて幹部社員として、主任あるいは支配人の辞令を貰い、各チェーン、支店へ再度配属されていきます。このシステムは水商売とはいうものの一般企業となんら変わりの無い、非常に合理的に人材を育成していく理にかなったものでありました。ただ、人材育成システムはいくら完璧でも、素材である人材の方ばかりはそう簡単に見出せるものではありません。幹部候補生とは言うものの、それはそれは素晴らしい人材が次々と現われは消え、現われは消え、名前を思い出すのも至難の業といえるほど、委員長の道楽人生で一番の宝とも言える、興奮の出会いの数々でありました。12月に入るとさすがに毎日が忙しくなり、社員増強ということで委員長以下4名のバイトに栃木出身のガキ親爺風田舎ヤンキーと、キャバレーの呼び込みから転向してきた手もみにーちゃんが加わり、ホールは6人のバイトウェイターが揃い、これに沖縄出身の広島弁のウチマ主任、おサルのボーイ長が現場監督となりました。委員長は黒服連中に結構可愛がられたせいか、よくチラシ撒きに指名がかかりました。チラシ撒きというのは店のビラ撒きのことですね。これは正式に言うと管轄の警察に届出が必要で、勝手にビラなどを撒くと道路交通法違反で逮捕されてしまいます。ですからチラシ撒きというのは、無許可のいわゆるモグリのビラ撒きです。南口から紀伊国屋あたりを抜けて、歌舞伎町の入り口辺りまで、警察の目を盗んでせっせとビラを配って回ります。この頃はまだこの手の営業もさほど過激ではなく、ただビラを配って歩くだけのことでした。現在のように携帯電話など無い時代ですから、一歩外へ出たらビラを配ろうが配るまいが、最低でも1時間は自由時間になります。幹候だけでは時給の無駄遣い、コスト高になるのでバイトやウェイターを連れて出るわけです。20分くらいは適当に撒きますが、後は皆で喫茶店などへ行き与太話をしながら一服して帰ります。キャバレーチェーンも数多く持つ会社ですから、どこで誰が見ているかわかりません。そこで、このチラシ撒きに動員されるメンバーは、口が堅く、状況に合わせた上司の嘘を決して裏切らないという暗黙の掟がありました。口の堅さはもちろんのこと、ズボンの中もまだ十分に硬かった委員長でありました。そして10代最後の思い出というには、あまりにも過激かつ興奮の中でのクリスマスを迎えることになる委員長でした。
2005年05月29日
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というわけで、委員長はついに新宿南口パブディスコ・ビバヤングでアルバイトを始めました。もちろん高校時代からのバカ友、三鷹台駅前の酒屋の次男坊も一緒です。お店は、新宿駅南口を出て甲州街道方面に向かって徒歩5~6分のところにありました。現在はビジネスホテルか何かになっているようです。当時の人気ディスコ「GET」の隣にあった、光会館というビルの4階で、そうですね、広さはかなり大きかったですが、トゥゲザーとかには敵わなかったですね。トゥゲザーが1500人収容と言ってましたから、ビバヤングで500~600人くらいのキャパだったのですかねぇ。ビルの1階はパチンコ屋、2階が大型喫茶「穂高」、3階が同店の同伴席、5階は事務所だったかな。しかし、この同伴喫茶ってのが当時は随分とアチコチにありました。二人がけのボックスシートをパテで仕切ってある、ちょっと薄暗い喫茶でしたね。コーヒーが1杯百円の時代に、ここで呑むと五百円になってしまいます。安物のロールケーキかなんかが付いてきました。なんだか、いかにもって感じですが、当時はこんなトコで怪しいことしてたんですね。レンタ・ルームなんてのもありましたね。3畳くらいの部屋を時間貸ししてくれるんですね。カウチとテーブル、ティッシュボックスなんか置いてあって、何するんでしょうか?もちろん委員長も、トンコ修行に明け暮れた高校時代は時々お世話になりました。それでも今時の子供たちに比べたら可愛いもんですね。せいぜいボックスに並んで座って、イチャイチャしながらチューするくらいのことですから。それでも二人で千円は結構なプライスでした。まあたいがいは新宿西口中央公園あたりがデートスポットでしたから、たまに麻雀で小金を稼いだときとかは奮発して同伴に行きました。「御苑」とか「西武」とかいう店名が記憶に残っています。一度、彼女と踊りの帰り、盛り上がってしまいレンタルームに入ったことがありましたが、閉店時間の午前1時を過ぎてしまい、終電にも乗遅れて深夜の歌舞伎町に放り出されてしまい、根性決めて「旅館」(ホテルじゃありませんよ旅館です)に突入したのは良いのですが、案内してくれた婆さんに前金で四千五百円を請求され、ひえーっとばかりに追い出された苦い想い出もあります。仕方なく近所の深夜喫茶で始発待ちしたことも、逆に純愛風のほのぼのとした良い想い出となりました。(じゅうぶん不純だろ)えー、何の話か、よーわからなくなりましたが、ともかく憧れのアフロねーちゃんと一緒にシゴトができるってことで、委員長は新しい道楽にワクワクしながら新宿での生活をスタートしたわけです。ここの面接は、事務所でちゃんと店長がしてくれました。長身で結構男前の店長はハキハキとしたしゃべり方で、履歴書と顔を見比べながら質問をしてきました。「えーと、君は日大の1年生」酒屋の息子は、いわゆるコンチってな感じのスリーピースのスーツなぞ着ておりまして、まあ無難な大学生のフリをしておりました。「で、君はデザイナー学院、専門学校生だね」委員長はこの時すでに学籍は剥奪されていましたので、偽学生ってことになりますか。店長はまず委員長の頭に眼をやり、次いで服装のチェックです。委員長も一応は面接ということで、ニットフレアーにダブルのブレザーなど着込み、それなりに真面目そうな学生のフリをしておりました。(どこがやねん)「ふーん、デザインの勉強しているの?」真面目な顔で質問する店長の目が笑っているのを、見逃さなかった委員長でした。「はい、一応服飾デザインをやってます」胸を張って応える委員長。「うーん、そのモミアゲはまあ良いけど、ウチは客商売だから、その髭は剃らなきゃダメだよ」そうです、この頃の委員長はアフロを渋く見せるため、モミアゲと口ひげを伸ばしていたのです。「はいわかりました」ということでパートタイムは午後6時から終電ギリギリの12時まで、食事は一切なし。時給は350円くらいだったかなぁ。休みなしで働いて月7万円くらいだったと思います。実はこの面接の前に一度、東口二幸のマクドナルドに二人して面接に行ったことがありました。新しモノ好きの道楽者ですから、時給も良いし、なんかアメリカっぽいし(当時のイメージとしてはかなりカッチョ良かったですね)、ハンバーガーという言葉の響きに釣られて、自分たちの身分もわきまえずノコノコ出かけて行きました。精悍な顔つきのユニフォームを着た店長は、バカ二人の顔を見るなり、深夜のメンテナンスはどうだといきなり切り出してきました。時給は500円、夜中の12時から朝の6時まで。おおーっ、と声を上げた二人ですが、次の言葉にさっと頭を下げて退出しました。「ただし、ウチは食べ物商売だから、まず頭はスポーツ刈り、髭はダメ、清掃着は毎日洗濯、店長の掃除点検で合格が出なければやり直し、こんな条件だけどどうする」要は、黙って帰って欲しかったってことなんですけど、しかし世間知らずというか向う見ずと言うか、いい根性をしていたバカ二人でした。さて、ビバヤングのバイトは順調にスタートし、黒ズボンに白ワイシャツ、蝶ネクタイに赤いベストを着せられた委員長は、まずウェイターのお仕事を覚えさせられました。トレンチ(ステンレス製お盆のことですね)を小脇に抱え、左手にダスター(テーブル拭き)を持って、ホールを見回り、空いたアイスペールや灰皿の交換、黒服が案内したテーブルに飲み物やおつまみを運ぶ、単純な作業です。ホールを担当するのは数人の本職ウェイターとボーイ長、そして委員長たちバイトのウィターです。黒服は入り口でお客様を案内して、ホールの客席に誘導してオーダーします。受けたオーダーは、キッチンとドリンクカウンターのあるデッキに持っていってオーダーを通します。「ボトルセット4、ポテト2、ピーナッツ2お願いします」てなことで、ボトルセットというのは、当時のパブはほとんどがこのパターンで、来店時にウィスキーのボトルをキープさせます。サントリー・ホワイトが千円、角瓶が千八百円、オールドが二千二百円、全て一般小売価格でした。これに水割りセットとして氷が入ったアイスペールとサントリーのミネラルウォータが付きます。伝票には、テーブルチャージ(TC)が一人300円、ミネラルウォーターが1本100円、おつまみは300円より各種、強制的に一人一品取らされます。アイスはTCに含まれていますから、水割りのセット4というと、TCが4人で1200円、ミネラルが4本で400円、おつまみが最低1200円、これに一番安いサントリーホワイト千円で合計3800円、これに税サービス料10%がついて4180円ナリ。一人頭で割ると1045円。安いですねえ。さてアルバイトと言っても、それはそれなりに一応はサパーのサーバント・マナーくらいは知らなくてはいけません。早速、ボーイ長から教えを受けます。ミネラルウォーターは瓶だけで中味は水道水。プラスティックのケースに入った瓶の上からホースでじゃぶじゃぶ注ぎます。ボーイ長は、瓶の中の水の位置を揃えるように指導します。いかにも今蓋を開けたように見せるわけですね。水の位置にばらつきがあると、水を入れ換えて使っているのがばれてしまいます。良心的なお店は水といえども、ちゃんとお客の前で栓を抜きますね。ただ、この店のテクは、ボトルだけはお客に封を切らせました。これですべてが良心的だと思い込ませる演出ですね。ボトルは一般小売価格そのままですから、なおのこと良心的だなぁ、と思い込みます。もちろんこれはサントリーの営業戦略にバッチリ乗ってますから、原価割れは絶対してませんね。そりゃまあ、千円のボトルをそのまま定価で売っているのですから、100円のミネラルウォーターを細かくいう人はいませんよね。しかし、水道水1本100円で売りゃ儲かりますね。それでもこの後、色々な店を転々とした委員長は、ビバヤングはまだまだ良心的なお店だったなあ、と感心したくらいですから、そりゃ当時はスゲーお店がいっぱいありました。ボーイ長弱冠20歳、北海道出身、北島三郎先生的風貌の小柄のあんちゃんでした。お正月にお目にかかるおサルの二郎君に瓜二つ、赤いベストがよーく似合う先輩でした。その上に沖縄出身のウチマ主任という方が、委員長たちバイト社員の直属の上司となりました。更にバイトの先輩二人が細かな指導をしてくれました。二人とも現役大学生、歳は委員長たちより二つくらい上だったと記憶しています。どこの職場も同じですが、新入りは気合を入れてよくコキ使われます。ボーイ長はおサルだったので言葉使いは少々乱暴でしたが、別段さからいさえしなければ、それなりのどこにでもいる働き者の先輩といったところでした。問題はバイトの先輩でした。根本的に要領よく、楽して時間を稼ごうってな魂胆がありますから、新人には教えるフリして何でもやらせます。黒服やボーイ長がやってくると、やたら忙しく動き回って働いているように見せますが、いなくなるとすぐに近づいてきて、「週末は忙しいから覚悟しといたほうが良いぞ」とか、「XX主任はそーでもないけど、○○主任はうるさいから気をつけろ」などと耳打ちをする傍ら、「ほら、あそこの灰皿溢れてるぞ」とか「オーダー上がってるから4番テーブル運んで」とか要領よく指図します。最初のうちは先輩ですから、そんなものかと言うことも聞いていましたが、自給も待遇も一緒のこいつらになんで指図されなきゃなんねぇーんだ、と不良のあんちゃんの血が蘇ってきます。道楽者は順応性が早いことと、適応能力が優れていることが特徴のひとつです。出金時間の午後6時、委員長と酒屋の息子が待ち構える、正社員がホールに出た後の誰もいない裏の狭いロッカールーム、そこへやってきた先輩二人。暴力こそはふるいませんでしたが、東映映画「仁義なき戦い」でしっかり覚えた広島弁が炸裂し、ただ者ではない証拠をしっかりと見せ付けたのでした。すっかり恐縮した先輩方はおずおずとホールに出て行きました。と、そこへ小柄でひ弱そうな沖縄出身のウチマ主任がやってきたのです。「わしのライター見よらんかった? ここらで落としたと思うんじゃけぇ。ありゃ高かったんよ。ワシゃのう、普段はここでタバコ吸わんもんで、置くわけないと思うんじゃが」沖縄出身は間違いないらしいのですが、なぜこの人が広島弁を使うのか知る者は誰一人おりませんでした。しかし、広島言葉も使う人によっては、迫力のない単なる方言に成り下がるということを知った委員長でもありました。
2005年05月28日
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今日の記事内容に間違いがありましたので、訂正させて下さい。以下の文中、1975年はトゥモローUSAは未だオープンしておりませんでした。オープンは1976年の8月ですから、1年ほどズレています。委員長が前座で踊ったのは2度目の来日時でした。このときのMCはマイク越谷さんで、トゥゲザーのショー前座はファンキードールズというダンサーだったと思います。委員長も大分とモーロクしてきておりまして、どーも記憶がイマイチはっきりしません。当時の資料もほとんど無いので、記憶だけを頼りに書いておりますが、どう逆算しても歳と時代が合いません。これで、もし間違ってたら委員長もアルツ入ったと思い、許して下さい。誠実な道楽者だなぁ~。(誠実な者が間違ったこと書くか?フツー)***間違えている部分******<ちなみに75年のヒューズコーポレーションの時は、同系列のよしみで委員長がダンサーとして出演していたトゥモローUSAでも1日だけショーをやりました。彼らにとっちゃ小遣い稼ぎみたいなもんで、4階のステージが終わったら7階に行って、てな感じですね。ギャラも、事務所通さずトッパライでマネージャーと本人たちのお小遣いってなことでした。そして、なんと委員長率いるダンサーズ「BAD CHILDREN」は前座で踊ったのでした。イヤーさすがにこの時は緊張しましたね。何せモノホンの黒人グループの前座ですからね。>
2005年05月27日
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昨日の続きです。タワーオブパワー来日公演第二弾!凄いですね、翌年1975年にも再来日してます。9月18日 中野サンプラザホール9月19日 新宿歌舞伎町<ビバハウス>9月20日 中野サンプラザホール9月21日 新宿<カンタベリーハウス>9月25日 大阪フェスティバルホール1975年のこの時には、ヴォーカルのレニー・ウィリアムスとドラムスのデヴィッド・ガリバルディの二人が既に脱退してました。委員長はカンタベリーハウスに見に行きました。今こうして見ると、カンタベリーチェーンの快進撃というか、勢力拡大が現れていますね。以前は外タレ、特にSOUL系はビッグ・トゥゲザーの独壇場だったのですが、このあたりから競り落ちてますね。委員長は1975年のこの時、どこで働いていたかあまり定かに思い出せないのですが、とにかくカンタ系の歌舞伎町進出は勢いがあったと記憶しています。Big Together を代表とするダイタン商事は、ディスコ分野では新宿を制覇したと言っても過言でもなかったのですが、このあたりから陰りが見え始めたような気がします。大型店舗と一挙大量集客が主流になっていった時代でもありますね。さて、道楽者の昔話、委員長のバイト探しですが、一人で働くのは怖かったので何とか酒屋の息子をたぶらかして、二人してとりあえずは働く気にはなっていたのですが、そこは気合の入った道楽者、中々に決めあぐねておりました。酒屋の息子は大人ぶって、大きい店の方が会社がしっかりしてるから安心だなどと分かったようなことを言い、実際にその門を叩いてみると、案外いい加減な会社だったことを知り、少しは世間と言うものも分かった二人でもありました。ちなみに、なぜ最初にBig Togetherを選んだのかと言えば、次のような大物スターがそのステージを踏んでいたからに他ありません。(これも古いパンフから出てきたものです)世界のスーパースターと踊ろう!! ファッショナブルなディスコティック・クラブBig Together1974年 2月18日 ジェームス・ブラウン1974年 7月 7日 スリーディグリーズ1974年11月20日 ナンシー・ウィルソン1974年11月29日 タワーオブパワー1974年12月16日 テンプテーションズ1975年 4月18日 コモドアーズ1975年 8月31日 ヒューズコーポレーション次回出演予定のスーパースター○ ミラクルズ○ スタイリスティックス○ ジョージ・マックレー&グエン・マックレー常時外人ビッグバンド出演中あなたの演出で楽しいパーティーを開きませんか?10名様より1500名様までOK。凄いですね、キャパ1500人って。今更ながら感心します。デカかったんですね。そして、なんと言っても衝撃的だったのはジェームス・ブラウンでしょうね。SOULの王様が新宿歌舞伎町に来たってことで、こりゃもう踊り場一体は大変な騒ぎだったですね。と言っても、当時日本ではまださほど知名度はありませんでしたが、まあとにかく踊りバカの間では衝撃的だったことを覚えています。残念ながら委員長はこの時のJBは見に行っておりません。確かこの時は金無かったし、なんと言っても大学受験騒動真っ只中だったですからね。ちなみに75年のヒューズコーポレーションの時は、同系列のよしみで委員長がダンサーとして出演していたトゥモローUSAでも1日だけショーをやりました。彼らにとっちゃ小遣い稼ぎみたいなもんで、4階のステージが終わったら7階に行って、てな感じですね。ギャラも、事務所通さずトッパライでマネージャーと本人たちのお小遣いってなことでした。そして、なんと委員長率いるダンサーズ「BAD CHILDREN」は前座で踊ったのでした。イヤーさすがにこの時は緊張しましたね。何せモノホンの黒人グループの前座ですからね。というような時代でしたから、委員長と酒屋の息子がバイト先としてまず選んだのがビッグ・トゥゲザーだったとしても当たり前のことだったわけです。前々回お話したように、面接でコケた二人は結局ウダウダしているうちに、いつの間にやら秋風の吹く季節となり、更に金欠も進んで寒空にオーバーも買えず、いよいよ働かざるを得なくなりました。さて、また二人は履歴書なんぞをしっかりこさえて、今度は新宿南口のビバヤングへと向かったのでした。委員長は頭をアフロにしてからというもの、以前のツッパリ系ディスコから卒業し、バンドの出ている大箱店に行くようになっておりました。そしてこのビバヤングにも幾度か足を運んでいるうちに、看板やチラシに載っていた黒人のセクシーレイディに魅せられ、更にこの写真の黒人女性によく似たアフロのおねーちゃんが歌っているバンドに引き寄せられて、ついついその気になっていってしまったのでした。つまり委員長は、道楽者の得意技、具にも付かないワープ現象に陥っていたのでした。委員長はここで働くうちにそのアフロのおねーちゃんと良い仲になり、ファンキーな恋が芽生え、二人はいつしかバンド・ディオでデビュー、委員長がギターを弾き、おねーちゃんが踊りながら唄う、というような思い切り道楽者そのまんまの夢にうつつを抜かし、白昼夢を見ているように勢い込んで面接に向かったのでした。そしてこのおねーちゃんが米黒人ではなく、出稼ぎフィリッピーナで、アフロもカツラだったことを知り、道楽者のバラ色の夢もそこはかとなく散り、委員長の身に19年間の道楽の請求書が一気に届いたのは、寒さが厳しさを増すクリスマスも近い12月の終わりごろでした。
2005年05月27日
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昨日は1974年頃の古くさい話をした委員長ですが、自分でも懐かしくなってなんかないかな、とキャビネットの中探してみたら、なんと当時のライブコンサートのプログラムがいくつか出てきて驚きました。実は、委員長は日本から島流しの刑を受けたとき、過去との決別として、800枚からの所有レコード、当時の衣装(?)など想い出の品は全て処分してしまいました。ですから当時の思い出というのは、数十本のカセットテープくらいだけだと思い込んでいたのですが、こんなものが残っていたなんて自分でもホント驚きでした。1974年 TOWER OF POWER 公演スケジュール11月28日 中野サンプラザホール11月29日 新宿ビッグトゥゲザー11月30日 TBS(TV)スペシャル12月 1日 大阪府立体育館「ファンキーパーティーWHAT IS FUNK」12月 2日 神戸国際会館12月 3日 新宿アクションディスコクラブ ハチノス12月 4日 中野サンプラザホール委員長はこの公演、新宿ビッグトゥゲザーのライブを見に行きました。まだレニー・ウィリアムスのヴォーカルが健在だった頃ですね。当時の日本では、これだけのブラスセクションが前面に出たバンドは皆無だったと思います。夜のヒットスタジオとかのバックで演奏していた、宮間俊之とニューブリード(だったかなぁ?)みたいなビッグバンド以外に、ブラスセクションを有するバンドはなかったんじゃなかったですかね。でもって、確かデビューアルバムのジャケットがプリントされたTシャツをもらって、相当に自慢げに着ていた記憶があります。ボロボロになるまで着こんでたかなぁ。タワーオブパワーのレパートリーで、委員長のお気に入り「What is Hip?」って曲があるんですけど、HIPってスラングが当時は相当な流行り言葉で、よくブラザーに Are you Hip? て聞くのがうれしかった覚えがあります。今も続くHIP HOP のHIPですね。まさにHIPがPOPする、ヒッピーのHIP。この後アメリカ文化はヒッピーからイッピー、ヤッピーになってっちゃうんですけど、このHIPって響きは不良っぽくて良かったですね。ところで、この会場の中の「新宿アクションディスコクラブ ハチノス」って一体どこにあったんでしょう?さすがの委員長も覚えがありません。アクションディスコというのが凄いですね。千葉真一さんや真田博之さんなんかが出てきそうですね。うーーん、思い出せない。もしどなかたご存知でしたら掲示板にでも載せて下さい。さて、このパンフの中味がまた興味深いです。昭和49年11月25日OPEN銀座のプレイスポット ジュリアス・シーザー誕生● 若者と音 一流バンドで踊れる店● 女性と色彩 光と照明とファッションを楽しめる店● 紳士と対話 サテライトスタジオでおしゃべりする店● ジョークとギャグ ユニークな企画を演出する店PUB NIKKA ジュリアスシーザー 営業時間PM5:00~PM11:30銀座並木通り中島商事ビル地階当時はどこもトリスバーかサントリーパブでしたから、パブ・ニッカというのが斬新ですね。サントリーに対抗意識を燃やすNIKKAといったところでしょうか。しかし凄いですね、銀座のディスコですね。実は、委員長は数年後一度だけここでサラ回したことがあったんですが、スゲーところでした。なんせ皆スーツWITHネクタイですからね。また営業時間がオフィス街のタイムテーブル通り、終業時間5時オープン、閉店はピッタリ終電に合わせてますね。駅までの歩行時間も計算されてます。当然の結果ですけど、確か数年で業種変更したと思います。しかし、このコピー凄いですね。「若者と音」って、元々ディスコは若者が行くところじゃないんですかね?「女性と色彩」って、今聞くとなんかちょっとエッチ、風俗っぽいですね。「紳士と対話」って、これ極めツケですね。まいりました。ゴルフは紳士のスポーツです、って同じノリですか。「ジョークとギャグ」恐れ入りました。思わずひれ伏せてしまった委員長です。広告の隅に三角の切り取り線つき「御招待券」がついています。ワンドリンク・ワンチャーム(無料)一枚で3名様御招待(ふとっぱらですね)ちなみに裏面にパイオニアのステレオの広告も載ってます。「1980年代を予見したパイオニア・セントレートステレオ」S-8D18万9千800円専用オプションカセットデッキ 57,000円デジタルタイマー 10,800円4チャンネルステレオ 234,800円も発売木造モルタルアパートでは絶対に聞けません。せっかくですから、これらのパンフネタ、また続けて書きますね。。。。。。
2005年05月26日
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昨日に引き続き、委員長がディスコでバイト始めた年、1974年頃の新宿界隈の様子を思い出してみましょう。まず当時のファッションはというと、バギーパンツに開襟シャツとかブルゾン系にハイヒールなんてのが一般的でしたかね。当時はTVドラマの「傷だらけの天使」が、とにかく不良にーちゃんのカリスマ的存在だったと思います。メンズビギに代表されるイタリアン系のファッションと、俗に言うヤンキー系のニットフレアーにハンテンのTシャツとか、パンタロンのスリーピース、裾広ベルボトムに細身のニットシャツ等など、アメリカからやってきたヒッピーファッションも随分と波及していました。確か歩行者天国もこの頃始まったのではなかったでしょうか。タカノ・フルーツパーラーの前あたりには、長髪、ベルボトムにやたらとヒールの高いロンドンブーツのツェッペリン風のおにーちゃん、おねーちゃんたちがよく屯してました。伊勢丹、三越、丸井、鈴や、三愛あたりのおねーちゃんたち、今風に言うとデパガですか?彼女たちのファッションも、バリエーションにとんでて中々に可愛かったですね。どっちかというと無難な感じのアイビー系が多かったと思います。レースのストッキングなんてのが結構色っぽかったですね。委員長はアフロヘアーに、原宿「ハラダ」で買ったニットのバギーパンツにイタリアンカラーなんぞ着て、その気になっておりました。当時黒人ファッションっていうのは、ニットのジャンプスーツとか派手なデザインで大抵がオーダーメイドでしたから、既成のモノで調達するのは中々に難しかったですね。手本になる雑誌も少なかったし、レコードのジャケットとか参考にして、似たようなブツを捜すしかありませんでした。仕立てるにしても、わざわざ福生あたりまで出かけなければなりませんでしたし、お金もかかるので、できるだけファンキーなモノを物色して歩くのが日課でした。当時よくお世話になった原宿竹下通り入り口にあった「ハラダ」は輸出用品を扱っていましたので、アイビーファッションに限らず、アメリカっぽい商品が安くて多かったですね。ニットのバギーなんかもハイウェストベルトレスだったり、とにかく人と違うカッコをしたい奴の御用達のようなお店でした。値段も安かったし。高校生の頃はコットンパンツに花柄のボタンダウン、今で言えばアロハ系のシャツなんかが、アメリカっぽいデザインで安く売られていて、アーノルドパーマーやラコステ、クロコダイル等ワンポイント・ブランドが買えないビンボー学生にとっては強い味方でした。委員長の場合は、出身が不良のあんちゃんでしたから、ちょっと間違えると派手な「族」風ファッションになってしまい、おねーちゃん達に怖がられたりしてしまい、結構敬遠されたりした辛い想い出もあります。横浜港南台の大事故の後も相変わらず三鷹台の酒屋の息子とはよくつるんでおり、事故で廃車かとも思われたブルーバードも無事復活し、懲りずにトンコ修行に明け暮れる毎日を過ごしておりました。当時の委員長たちがどっぷりはまった遊び場は、歌舞伎町入り口近くのビルの地下一階にあった「モアモア」というパブでした。カウンターパブで、サントリー・ホワイトのキープボトルが千円、テーブルチャージが300円、氷とミネラルウォータ(ビンだけで中味は水道水)100円づつ、その他おつまみ300円から、というとてつもなくお手軽な店でした。すでに高校生時代にこの店の良い顔になっていた委員長は、高校生活の縛りから開放された途端に糸の切れたタコ状態、金さえあれば入り浸り、ないときは誰かにタカッてでも強引に行くというような日々を過ごしておりました。店は、20人程度のカウンターバーが二つと、奥に15人ほどのボックス席があり、四畳半ほどのバンドステージと15~6人が踊ったら溢れかえるようなダンスフロアがありました。バンドが休憩のときはジュークボックスで踊る、というような非常にオーソドックスなスタイルのパブでした。しかし、ここが結構生意気な店で、近隣の踊り場から流れてきたツワモノどもの溜まり場と化していて、しかも酒が安く飲めるってことで中々にネチっこい奴らが多いため、ダンスフロアは常に常連で占領され、一般大衆が割り込んでタコ踊りなんぞしようものなら、その場でボコボコにされるような非良心的なお店でした。当時のいわゆる「踊り場」はダンスが中心でしたから、腰据えて飲むって奴が少なかったことと、基本的に不良はやっぱり生バンドが好きでしたから、こういったこじんまりしててわがままのできる店が大変好まれたわけです。もうひとつ、もてはやされた最大の理由はジュークボックスだったのです。「踊り場」では自分の好きな曲がかかるまで待たなければなりませんが、ジュークだったら気の向くまま延々とフェバリットソングを踊れるわけです。バンドタイムは、レパートリーによって一般大衆タコ踊りに解放されますが、ひとたびジュークタイムになると、怖いおにーちゃん、おねーちゃんがどっとフロアを占領し、ゲット仕込み、トレビ仕込のステップオンパレードとなります。ちなみにここの常連の間では、GET野郎はお子様扱いされてましたね。入店にさほどの度胸も根性も必要なかったからです。他はみな命がけというか、いつでもケンカになったら戦う根性か、何とか言いくるめてごまかしてダチになってしまうという、テクニックを駆使できる頭脳を持ち合わせていなければならなかったからです。さてジュークの中身というと、永遠不滅ずーっと不動のボタンを維持していたレアアースのゲットレディ、JBのセックスマシーン、恋が欲しくて、O‘JAYSの裏切り者のテーマ、シュープリームスのストップインザネームオブラブ、スリーディグリーズの荒野のならず者、スティービーワンダーの迷信、クック・ニック&チャッキーの可愛い人よ、WARのシスコキッドなどのラインアップに、歌謡曲やサンタナ、スージークワトロなどがまぶしてあって、時々一般大衆のおじさんなんかが、ウケ狙ってドリフターズなんぞをかけてしまった日には、ババンババンバンバーーーンと針は飛ばされ、眼は飛ばされ、「おー怖っ!」てなことになるのですが、この選曲って一体誰がしていたのか、今にして思えば謎でした。でも、メリージェーンなんぞでチークを踊ったりしてた委員長も、結構ワケのわからない奴だったのでしょうね。そんな道楽者のバカ常連が一堂に会するウィークエンドともなれば、同じ曲が延々とリピートするジュークボックスの回りは、張り切り小僧のステップ大会が明け方までエンドレスで続いていったのでした。
2005年05月25日
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晴れてアフロ小僧となり、必殺のSOULマンを目指すことになった委員長は、お馴染み三鷹台駅前の酒屋の次男坊とつるんでディスコのバイトを探し始めました。なんせデザイナー学院の授業料は3ヶ月目から全部お小遣いとなり、学費未納のクセに学校には遊びに来るわ、学食でメシは食うわの道楽三昧。さすがの専門学校とは言え、夏休み後の新学期には委員長の名前はしっかり削除されておりました。それでも遊び盛りの道楽者、なんとかディスコで踊り続ける方法はないものかと思案をめぐらします。もともと頭の良い方ではありませんから、誰でも思いつくような、非常に簡単で安直な解決策を選んだわけです。「ディスコで働けば良いじゃん。毎日踊れるし、出会いも豊富だし、オマケにお金にもなるって、こんなうまいことどーして思いつかなかったんだろ」思いつかなかったんじゃなくて、働く気がなかっただけなんですけどね。とは言うものの、一人で水商売へ飛び込むにはチト勇気が入ります。いくら新宿で遊んでいるからといって、アマチュア不良が本職不良の世界へ飛び込むような覚悟が必要だったわけですね。当時の新宿、不良の遊び場は大きく別けて4つのパートに別れていました。まずはご存知歌舞伎町。ここは当時から不良少年にとっても結構気合の入った場所でした。キャバレーやピンサロの風俗系も多かったし、パチンコ屋からゲームセンター、とにかくなんでもありでした。歌舞伎町の奥には大久保、新大久保の温泉マークが鎮座しておりましたし、なんせ従業員が皆相当に玄人ぽかったですね。今風に言えば黒服ですが、本当に黒服はみなやくざじゃないかと思えたほど、そりゃ貫禄のある方々が多かったですね。で、明るい色のベストを着ているのがウェイターなんですが、これがまた皆モロ不良ファッションで、パンチ、パーマ、染髪(今風に言えば茶髪?当時は少なかった)、剃りこみは入れるは眉毛は剃ってるは、そりゃもう少年やくざというか、やくざ予備隊みたいのばっかりでしたから、ここらで遊ぶ不良少年にとってはスリル満点、プライオリティNo.1でした。次に、ちょっと大人っぽい雰囲気の東口界隈は、大手デパートや映画館が立ち並ぶ、ちょっとおしゃれな遊び場でした。フルーツパーラー・タカノや中村屋に代表されるように、どちらかといえばレストランや喫茶店が多く、一般社会人、OLなど落ち着いた場所でした。そして南口、ここには有名なGETやソウルトレインがありました。雰囲気的には裏通りぽかったですね。場外馬券売り場や、ピンク映画やストリップの劇場があったし、スタンドバーやスナックなども多かったせいか、ガラの悪いおっさんも結構いましたが、どの店も一歩店内に入ると比較的おとなしい雰囲気でした。客層も大手デパートの従業員(今風に言えばデパガ)とか、サラリーマン系が多く、年齢層は若いことは若かったですね。あとは線路を隔てて、ちょっと目立たなかった西口。ガード下のイメージが強いですが、ここの食堂横丁には随分とお世話になりました。衣だらけで何を揚げたのかわからない、かき揚天丼百円とか、何の肉かわからないひと串20円の焼き鳥屋とか、そんな屋台街とオフィスビルが立ち並ぶ、ちょっと変わった趣の街でした。駅前は小田急、京王デパートがどーんと構え、奥は第一生命ビル、住友ビル、京王プラザ、その奥は中央公園広場と、一般的イメージ的としてはこれらの高層ビルと整理された町並みが新宿の顔だったような気がします。ここらの繁華街は仕事帰りのオフィスワーカーが中心でしたから、あまり過激な店は少なく、閉店時間も終電に合わせ、午前1時~2時が多かったですね。青梅街道沿いにはおしゃれなバーやスナックもあったし、デート後半は中央公園にもつれ込む、といったところでしょうか。それでも終電には間に合わせる、っつーようなちょっと硬めな客層だったとも言えます。さぁて、話が長くなりましたが、委員長と酒屋の息子はおっかなびっくり、まずは歌舞伎町東宝会館4階、ビッグトゥゲザーの門を叩いたのです。そりゃ、当時からバンドは出るわ、ゲストは呼ぶわで、新宿では珍しいくらいの大箱でしたので、小さな店よりデカイ方が会社がしっかりしてるから安心だろう、というような酒屋の息子のアドバイスに従った委員長でした。結構真面目な履歴書なんぞを持参しまして、いざ面接へと向かいましたが、通されたのはホール裏の社員食堂。といっても8畳ほどの小さなスペースに長イス、長テーブルが無造作においてあるだけで、2~3人のツッパリにーちゃんたちがどんぶりメシをパクついておりました。委員長と酒屋の息子が、主任らしき黒服のおじさんに連れられてそこに入ると、にーちゃんたちのするどい視線が委員長のデカイ頭に浴びせられました。さあ、社長が来るのか、マネージャーが来るのか、きっと怖そうなおっさんだろうな、などと考えつつ、汚い長イスに腰をおろすと、小柄の主任が言いました。「で、いつから働けるの?」えっ、と顔を見合わせる委員長と酒屋の息子。「えーと、いつでもいいんですけど」「そう、じゃ明日から来てね。ウチは3時出勤だからね」「えっ、3時ですか?」「あのぉ、僕ら学生なんで、6時くらいからじゃないとこれないんですけど」「バイトなの?」「はあ、できれば6時から11時でできれば・・・・」「うーん、バイトねぇ。まぁいいか。でもウチは6時から12時までだから、それでよければ明日から来て。はいじゃあね。」なんなんだこの展開は、ってことで外に出た二人は暗~くなってしまいましたが、「いかねーだろ?」「いくわけねーよ」「じゃ、踊って帰るか」ということで、馴染みのパブディスコ歌舞伎町「モアモア」へとなだれ込んだ二人でした。
2005年05月24日
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アフロ小僧誕生委員長がアフロ小僧に変身したきっかけですが、実は東京デザイナー学院に行ったことがひとつの原因とも言えます。すでに17歳から踊り場、いわゆるディスコに出入りしていた委員長なので、黒人音楽の洗礼は受けてはいるものの、未だ突っ張り根性が抜けきらぬ中途半端な道楽者でもありました。また、道楽者の特徴でもあるバンドマンへの憧れも、中学生の頃から密かな夢として抱いておりました。レッドツェッペリン、ディープパープル、グランドファンクにユーライヤヒープなどにのめりこむ傍ら、チャックベリーやシャナナ、はたまたキャロルやダウンタウンブギウギバンドまで、いつか自分も熱狂的なステージに立つ姿を夢見ていました。ところが、これらのファッションと、現実の自分が身を置く不良の世界のファッションとがどうしてもマッチしないのです。憧れのギタリストは長髪にベルボトムジーンズ、自分の周りはボンタン・革ジャンにリーゼント、はたまたディスコに行けばコンポラスーツにニグロパンチ、どれもみな委員長の好奇心を掻き立てるものでしたまあ、どのみち道楽者のことですから、どれが一番女にモテるかってことが最大のポイントでもあったのですが。そんな夢ばかり見ていた委員長は、デザイナー学院で新たな衝撃に出会ったのです。アフロヘアーにニットパンツ、衿幅の広いシャツにショートジャケット、背中にはRight onの文字。ジャクソン5のレコードジャケットから抜け出してきたような、長身のまさしくSOULマンが現れたのです。東京羽田からやってきていたエイちゃんと呼ばれる彼は委員長と同い年。そしてそのファッション感覚は、学校内でも他の追随を許さぬほどのインパクトを持っていたのです。ROCK系の派手な長髪ロンドンブーツはやたらといましたが、アフロ・ファッションはデザイナー学院と言えども、この時は彼一人だけでした。「これだ、これこそ俺の求めていたものだ」などと単純に納得した道楽バカの委員長ですが、そこはそれ、道楽バカの集まる学校ですから考えることは皆同じです。あいつだけに目立たせてたまるか、ってことで続々と後を追う者が現れてきました。あっという間にクラスの三分の一がアフロ頭になりました。バカは伝播する。この時身を持って学んだ委員長でした。この時一緒にバカウィルスに感染した同級生で、シゲと呼ばれる赤坂ビブロスの常連だったヤツが、後年、六本木のスクエアビル界隈でニックと呼ばれる有名DJになっていたのを知ったのは、委員長が80年代初めにオープンDJとして入った六本木マジックでのことでした。総勢五人のDJが顔を合わせたとき、鳴り物入りで紹介されたのがニックこと、このシゲだったのです。二人はアフロにしたのも同時期なら、業界にデビューしたのも同時期で、委員長が新宿南口にあったビバヤングというパブ・ディスコでバイトを始めたとき、シゲは六本木アフロレイキでバイトをスタートしていました。ちなみに、これだけのバカに影響を与えた張本人のエイジは、ずーっと後になってエンバシーでバイトを始め、委員長とは赤坂ハレムで再会、この頃業界は一気に盛り上がり、世の中ディスコ一色、全国的なSOULブームに沸き、委員長もそれなりの顔になっておりましたが、さすがにエイちゃんには頭が上がりませんでした。なんと言っても本家本元、SOULに関しちゃ僕らの先輩ですからね。久しぶりにエイちゃんと再会した委員長は、エイちゃんが業界に失望した話を聞いて、その時はピンと来なかったのですが、ずーっと後になって、この時彼が言いたかったことを理解することになったのです。たとえファッションから入った道楽者でも、ブラックミュージックと黒人文化に深く関わっていったことによって、いつしか本当に追い求めるフィーリングを掴んだときには、時代が変わり始めていたことに気づいた時でもあったのです。
2005年05月23日
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さて、高校を卒業してめでたく道楽者としてのデビューを飾った委員長は、御茶ノ水にある東京デザイナー学院という専門学校に入学しました。何をトチ狂ったのか、その時はかなり本気でファッション・デザイナーになろうと思ったりしていました。正直言って見え透いた下心なんぞは全くありませんでした。ところが、高校生活の3年間を男子校で揉まれた委員長は、頭の暖かそうな心優しいおねーちゃんたちがやたらと多いこの学校で、入学早々一気に舞い上がってしまったのです。数人の本気学生を除くその他大勢の生徒のほとんどが、いわゆる大学にも行けず、かといって高卒で就職するのも嫌だし、きらびやかな東京の生活に憧れて上京してきた田舎の中流家庭のおじょうちゃんといったところですから、すでにいっぱしの道楽者であった委員長の素晴らしいキャンパスライフが始まったのは当然のことといえます。毎日毎日、少女漫画のようなファッションを工夫しながら通ってくるおじょーちゃんたちの中に、ハイウェストの細身のパンツとハイネックのラコステ、リーゼントにキャッツアイの委員長が姿を現すと、それはまるで異次元からやってきたエイリアンのように、彼女たちのデータベースの中からは検索の出来ない人物Xであったのです。デッサンの先生からは、「あー、変な奴が入ってきて困っちゃったなぁ」などと舌打ちをされながらも、午後のクラスでは頑張ってミシンがけなどもこなした委員長でありました。ところが1ヶ月もするとクラスも打ち解け始め、よーく見渡すと同じ臭いのする道楽者が、実は結構いたことに気が付き始めます。さすがに姿形はスリーピースのスーツやら、バギーパンツにボーリングシャツとか、一見デザイナー学院らしいおしゃれな奴らですが、委員長の臭いを嗅ぎ付け摺りよってくると、「そのコンポラどこで仕立てたの?シブイじゃん」とか「俺らヒヨポン(日大日吉)出身なんだけどさ」とか話しかけられた日には、何だお前らもかよーってな感じで、結局付属校のくせに大学行けなかったボンクラ同士がすっかり意気投合してしまい、クラスはここから一気に道楽者の独壇場となっていったのです。バカはバカを呼ぶ。このことわざに間違いありませんでした。横浜の金髪野郎・りょうちゃん、族まるだし・たけ坊、横須賀どぶ板通りの刺繍屋の倅、湘南平塚の地元サーファー・たかし、ブラックエンペラー親衛隊出身の大将(すでにこの時20歳)、よくもまあこんだけろくでもない奴らが集まったものだと感心しました。このグループに巻き込まれて色々な奴らが加わり徒党を組みましたが、中でも異色だったのは既に22歳のおにーちゃんでした。髪の毛を肩まで伸ばし、サンタナのような風貌で身長は155センチと小柄ながら東北訛り、しかも18歳のガキらと一緒に遊べたメンタリティーは未だに尊敬に値します。ある時などは、新宿で酔っ払って終電に乗り遅れたこの道楽バカの一団は、中野のおにーちゃんのアパートにテクテクと向かう道すがら、誰が始めたのか「ちゃりんこエンペラー参上」などと酔った勢いに任せてそこら辺の自転車を無断借用し、深夜の甲州街道を疾走したのでした。ちゃりんこエンペラーの最後尾、元エンペラー親衛隊の大将が中野坂上の交番前を無灯火で通過したときには、すでにパトカーの追跡を受けた一団でありました。何とか全員で振り切ってバカ軍団のアジト、中野のおにーちゃんの家にたどり着いたのは明け方近くのことでした。「腹減ったなぁ」東北訛りの声に皆で顔を見合わせると、修道院カットと呼ばれたおかっぱ頭の髭親爺、大将の顔が見当たりません。数日後、霞ヶ関の家庭裁判所に揃って出頭した、委員長の未成年時代最後のお努めでした。さて、そんなバカが集まれば、当然すぐにどーらくの話が進みます。早速青山のスナックを借り切って「パーティー」の始まりです。なんせ相手は田舎のにーちゃん、ねーちゃんたちです。都会の不良に勧められれば、そういうもんかと訳もわからずパー券買わされて、踊りのひとつも教われば、それはそれで夢に見た東京のキャンパスライフをエンジョイしたことになるわけです。デザイナーへの道など3ヶ月もしないうちにすっかり頭の中から消滅し、学校に何しに行くのかわからなくなるほど毎日毎日がどーらくの連続でした。ちなみにこの学食のコロッケライスはうまかったですね。福神漬けは食べ放題でしたから、ビンボーな道楽者にとっては何よりの味方でしたね。コロッケ1個とライス買って、福神漬け山盛りにして確か100円だったと思います。そんな楽しい毎日でしたが、委員長の道楽人生には更なる衝撃的イベントが起こります。なんとクラスの中の大人っぽいおねーちゃんから誘われて、新宿本町の彼女の下宿アパートで半同棲生活が始まったのです。新宿のセコイ踊り場しか行った事のない委員長は、年上のおねーさまに連れられて六本木デビューを果たします。まずは当時有名なディスコだった「メヴィウス」、ロゴは有名なメヴィウスの輪ですね。つづいて、ムゲン、アイ、ズッケロ、アフロレイキと、そりゃまあ、不良とは言え、19歳になりたてのまだ純な心の残る委員長にとっては垣間見た「大人」の世界に異常な興奮を覚えたものでした。もちろんおねーさまが委員長を気に入ってくれたのは、踊りがうまかったって理由があるわけですが、この時ほど道楽しててヨカッタと思ったことはありません。しかしこのお付き合い、今にして思えばペットのようなものだったのでしょうね。調子に乗った楽しい日々には必ず請求書が来る、ということを悟ったのもこの時でした。ある日のこと、委員長は高校の同級生、酒屋の次男坊と再会、横浜の不良グループを紹介して合流し、皆で横浜本牧町へ繰り出そうということになり、奴のブルーバードに乗り込んで一路神奈川へ向かいました。不慣れな道をぶっ飛ばす向う見ずな不良は、ご想像の通りドッカーンとタクシーと衝突、助手席の委員長は頭から血をフイて幽体離脱、気がついた時は救急車の中でした。何故かぶつけた相手の運ちゃんが一緒に乗っていて、「おめーか、運転してたのは?」と凄まれ、「なんだぁ、この野郎、だったらどーすんだテメェ」なぞと逆上してしまい、救急隊員に抑え込まれたりしました。いくら血ぃ出してたからって、何も事故の当事者同士を同じ車に乗せなくたっていいものを、今考えると結構危なかったですよね。でもって病院に到着すると、どうゆーわけか湘南連合のステッカーが貼られた車が病院の周りをぐるりと取り巻いていて、アブナそうな少年達が見守る中、まるで凱旋帰国した兵士のように救急車から降りた委員長でした。さすがにタクシーの運ちゃんは大人しく後を付いて降りて来ました。その事故の3日後、委員長の頭は見事なアフロヘアーへと変身を遂げたのです。その変身振りを見た酒屋の息子は「脳波も一度調べろ」としつこいくらいに言いましたが、委員長は事故で中途半端な不良が吹っ切れて、遂にホンモノの道楽者を目指すことを決意していたのでした。酒屋の息子の両親も、委員長の母親に電話してきて、「費用はウチで持ちますから、一度大学病院で検査を受けて下さい」と申し出てくれました。その話を聞いて、「じゃ行ってみるから病院代、先にもらってくれよ」と言った途端、唖然として言葉を失った母親の姿を見て心の中で懺悔した委員長でした。実を言うと、このアフロヘアーにはちょっとしたきっかけがあったのですが、それはまた明日ということで。。。。。。
2005年05月22日
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今日は委員長が道楽者の世界に入るきっかけとなった事件をお話ししましょう。委員長は、1955年(昭和30年)に世田谷で生まれ、小田急線の梅が丘という所で育ちました。かの有名な国士舘大学・高校がある街です。育ちは思い切りビンボーでしたが、なんと無謀にも、高校は日本大学付属桜ヶ丘高校などという坊ちゃん学校に行ってしまったことが、道楽道へ入るそもそもの発端だったと言っても良いでしょう。(フリーページの委員長と縁のある人々もご参照下さい)すでに高校二年生にして、新宿歌舞伎町のディスコなぞに出入りを始めておりました。今でこそ中学生だって夜の繁華街に簡単に遊びに出ますが、70年代当時としては、かなり勇気のいる修行で、所謂「踊り場」で知り合った不良は皆、グレードも高く、学校なんぞは当の昔にコキ辞めたような、そりゃもーどーしようもないようなバカばかりでしたから、ここでいっぱしの顔になるっつーことは、イコール不良の顔役になるっていうことでした。ここらでしっかりと不良のいろはを学習して、将来は立派な不良になることを目指す馬鹿者達の巣窟のようなところでした。(当時の不良の話もフリーページに書いてありますから是非読んで下さい)そんな委員長もしっかりと不良のお勉強を重ね、高校三年生には梅が丘駅前のスナックを借り切って「パーティー」などを開催し、一躍地元のバカ自慢のTOPに躍り出ました。パーティーに来ていた女子高生が万引きで捕まり、その彼氏が暴行事件を起こしてしまい、芋づるで委員長も世田谷警察署に任意出頭を求められました。当時のテレビ三面記事には、「高校生不純異性交遊、スナックで貸切パーティー」なんぞというタイトルでTVデビューまでさせてもらい、スナックのマスターからは出入り差し止めというありがたいお手紙までもらいました。それでも何とか学校もクビにならず、生まれついての調子の良さで、何とか大学目指して頑張ろう、などと一週間くらいは受験勉強もしたりしました。一応、委員長は無難な線で、日大経済学部、日大農獣医学部の二つを受けることにしたのです。もうひとつは高校の隣にある日大文理学部が、内申書と推薦で拾ってくれるという先輩の言葉にわずかな期待もしておりました。さて試験当日、まずは農獣医学部ですが、なんと試験中に牛の鳴き声が聞こえるではありませんか。「むぉおーーーーーー!」試験中の教室に押し殺した笑い声が聞こえ、委員長は一気にブルーになりました。しかも、当日は午後から関女の彼女と待ち合わせをしておりました。午前の筆記試験の後は、もちろん面接です。筆記試験にまったく手も足も出なかった委員長は、彼女との待ち合わせの時間が近づく面接会場で決断しました。「俺には牛や馬は似合わねぇんだよ」面接の順番を待つ学生たちを尻目に、彼女の待つ世田谷線山下駅前の喫茶店に向かった委員長でした。続いて経済学部の入試試験は、当時のバカ仲間、井の頭線の三鷹台駅前で酒屋を営む家の次男坊と、新宿西口地下交番前で落ち合って試験に向かうはずでした。委員長は、ヘアアイロンでバッチリ決めたオールバックでコンポラスーツにチェスターコートをはおり、交番の前で一服しておりました。「おっせぇーな、あのばかは」などとブツブツ言いながら、タバコの本数も増えていきます。と、そこへアイビー姿のアホづらした酒屋の息子がくわえタバコでやってきました。「わりぃ、わりぃ、ちょっとねぼーしちまってよぉ」そんな奴の後ろから若手のバリバリおまわりさんが付いて来ました。若手は、委員長と酒屋の息子の姿を上から下まで眺めて言ったのです。「お前ら、歳いくつだ?」えっと言う感じでしたが、そこは年季の入った不良の委員長は、「19」と平静に答えました。(注)この19歳という表現が微妙なニュアンスで、20歳というとウソ臭い、18歳だと完璧に引っ張られるし、その中間が警察や補導員をかわす不良のテクニックだったわけですね。(ほんとかよ?)「学生か?」「いや、働いてんの」「どこで?」「親父の仕事手伝ってんスよ」「まぁ、良いからちょっとこっち来い」そう言って若手は委員長たちを交番の中に連れ込みました。嘘を突き通せると信じて疑わなかったバカ二人ですが、若手の次の言葉に一瞬青ざめました。「おめーら、なんか変なもの持ってねーだろうな。ちょっと上着脱いでみろ」委員長は、常に大事なモノは上着の合わせ部分に付いている隠しポケットにしまう習慣がありましたから、しめたっ、と思い上着を脱ぎました。「変なものなんか持ってないっすよ」若手は上着を脱いだ委員長の体を手で触り、身体検査を始めました。内心、「へっ、ばーか、こっちにゃなんもねぇーよーだ」などとタカを括っておりました。何も出てこなかった若手はがっかりしてイスに腰掛け、「でこれからお前らはどこ行くんだ?」と尋問しながら委員長の脱いだコートを触り始めました。やっ、やべー。コートの上から手探りする若手の手に何か手ごたえがありました。「おっ、なんだこれは」遂に若手の手によって、隠しポケットから掘り出された財布と共に受験票が現れました。受験票の写真の委員長は、七三横別けの真面目な学生ヅラをしておりました。「なんだおめーら高校生じゃねーか」偶然にも若手の出身校が同じポン大ということで、何とか大目には見てくれましたが、一時限目の試験に間に合わなかったことは言うまでもありません。「おめーがそんなつっぱったカッコしてくっから、こんなことになったんだよ」このわずか2ヵ月後、酒屋の息子にこの落とし前をしっかり取られる事になります。さて、委員長の最後の望みは文理学部の内申テストです。これは学級担任の力の見せ所ですから、バカ学生の将来は担任で決まると言っても過言ではありません。そして、委員長の担任は見事期待に応えてくれたのです。「第一次補欠合格」体の良い寄付金集めと知ったのは親子面談の時でした。とは言うものの、この知らせが母親の元に入ったとき、委員長はダチのアパートで彼女と同棲ごっこなぞしており、親の心配をよそに踊り場で覚えたステップの練習などに明け暮れておりました。携帯電話などない当時のことですから、運良くダチが家に電話をしてくれなかったら、そんまんまバカが昇天しただけのことでしょう。委員長の家は母子家庭で筋金入りのビンボーでしたから、担任との親子面談で補欠合格寄付金70万円を切り出されたとき、人生の何たるかを理解したといってもけして大げさなことではありませんでした。親はどんなにバカな子でもかわいいもんです。後年、委員長も子供を持って初めて親の気持ちがわかりました。早速借金の段取りを付けている母親の姿を見た委員長は、こんな道楽者にこれ以上金を使うのは勿体無いことだからやめてくれ、と生意気にも親を諭しました。そんな二人だけの家族会議の中、酒屋の息子から電話がありました。「今さぁ、担任から電話があってよぉ、文理の二次補欠に引っかかったって言うんだよな。何でも、俺の前に一次補欠がいるらしくてよぉ、そいつが止めねぇーと繰り上がんねーらしんだよな」委員長の決意は確かなものになりました。これでこいつへの借りも返せるし、親にも無駄な金使わせずに済む、一石二鳥だ。ということで、この日を境に委員長は道楽者の道を歩むことになったのです。なんて多少カッコつけてますが、実は内心、寄付金払うくらいだったら、その金で思いっきり遊びたいと、不純な思いがあったのも事実でございます。この発想こそが道楽者の道楽たる由縁ですね。酒屋の息子は大学へ。そして委員長は東京デザイナー学院へ、ファッションデザイナー目指して突き進んだのです。3ヶ月目には授業料使い込んで除籍されてしまいましたが、専門学校という道楽者養成学校ではそれなりに楽しいキャンパスライフを送ることができました。
2005年05月21日
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非生産活動推進委員会・委員長はその昔、東京新宿界隈でディスコなぞという如何わしい場所に生息していたことがあります。昨夜のNHKニュースで(サイパンでは日本語放送はNHKしかないもので)、小泉首相が歌舞伎町を視察してノーガキをたれておりましたが、委員長の脳裏には現役バリバリの道楽者であった頃の思い出がこみあげてきて、どーしても書かずにはいられなくなりました。委員長が歌舞伎町あたりを根城にどーらくに勤しんでおりましたのは、1976年頃だったでしょうか。歌舞伎町のど真ん中に位置しますコマ劇場の隣、東宝会館7階のツモローUSAというディスコで働いておりました。大型雑居ビルで、確か1階が映画館、4階に同系列のビッグ・ツギャザーなるディスコ、6階がパブ「青春の館」、最上階には大衆クラブ・ハイツ、このようなラインアップで結構盛り上がっておりました。なんと1階のエレベータ前のディスプレーには、ダンスフロアで踊る少年少女を扇動するかのごとく、DJブースの上で手を振るアフロヘアーの委員長の勇姿がございました。今更自慢したところで何のどーらくにもなりませんが、当時はちょっとした人気者でもありました。このあたりの昔話はまたの機会にして、今日は、歌舞伎町が見舞われた災難とご町内の皆様のお話を致します。昨夜見たニュースの中の歌舞伎町は、昔の面影もなく、何だかフーゾク街のような荒んだ映像で、非常に心が痛みました。もちろん当時から、繁華街はどこも不良の溜まり場ではありましたが、画面の中の今の歌舞伎町は一般人が何のポリシーもなく、ただ欲に溺れる街に成り果ててしまったように見えました。それはさておき、当時もこういったお偉方が先頭に立った見回り、補導、視察なぞが幾度となく行われましたが、実施前に必ず通達があり、店側はできるだけおとなしくやり過ごす、というような感じでしたし、なぜ派手な報道陣が一緒に回っているのかも疑問のひとつでした。要は、こういったことをやってますよ、という一般大衆へのアピールにすぎませんね。果たして彼らが、本気でことに取り組む気があるのかないのか、まだ当時は純な心が残る少年の疑問は膨らんでおりました。髪の毛も膨らんでたし、ズボンの中も膨らんでた。もうひとつ疑問に思った(今も思っていますが)のは、暴力団という表現ですね。暴力団というのはすでに認知された団体なのでしょうか?それならば、それを取り締まるというのはどういうことなのでしょうか。社会的に認知しておきながら、それを取り締まり根絶しようというのは一体どういうことなのでしょうか?委員長の悪い頭ではよく理解できません。暴力団というのは一体どのようなオーガニゼーションなのでしょうか。是非とも明確な定義づけを行って頂きたいものです。委員長も一度、店で桜の代紋に職務質問された経験があります。当時、ディスコの営業時間は午前2時までと定められており、深夜営業中にケーサツに踏み込まれるというようなことがありました。一人の刑事がDJブースにやってきて、早速取調べが始まりました。「名前は?」「ロニー」「はぁ? 名前は?」「ロニー」「お前日本人か」「うん」「名前を言いなさい」「ロニー」「それが名前なの?」「芸名」「じゃ、本名は?」「XXXX」と言った具合に、無駄な時間が不毛な質問に費やされていきました。まさしく非生産活動ですね。
2005年05月20日
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元来、道楽者は型にはめられることをコトの他嫌います。道楽者は幼少の頃から協調性や集団行動にやや欠ける性質を持っています。まず、幼稚園のお遊戯やお歌のおケイコなどで回りに合わせられずフザケだし、将来の道楽者の片鱗を見せます。小学校に上がると、授業中にテレビのバカなギャグを連発したりして、皆にウケる快感に目覚め始めます。中学に上がる頃には、ちょっとオマセな恋愛ドラマの登場人物に成りきったりして自己顕示欲が芽生えだします。高校生の頃になると、もう完全に異性を意識した思い切った行動に出始めます。とにかく人と違ったこと、一歩でも二歩でも先を行きたい衝動に突き動かされ、自己顕示欲共々その行動はエスカレートしていきますが、ここら辺で道楽者とやくざ者の道が決まっていきます。バイオレンスなどの行動に走り始め、学校をクビになっていくようなバカと、適当に教師のご機嫌を伺いながらもお調子者を続けるバカのどちらかに進路が決まっていきます。最近では学校に行かず、家に立てこもって我道を行くような子供も増えているようですが、今時の学校なんぞはどのみち何の役にも立ちませんから、できるだけ早く身近にいる道楽者を探して一緒に遊ぶようにしましょう。こんなデタラメな今のニッポンを再生できるのは道楽者しかおりません。ということで、右へ倣えで、無理やり全員を型にはめようとしてきたこの国の実態を、皆でしっかり見極め、健全な道楽者をどんどん増やしていくことが、ニッポン救済の唯一の道です。つまり、道楽者になることこそが、世間にはびこる大嘘や、悪意を持つバカを、自分自身の目で見極め、かけがえのない自分の人生を生き抜く能力を養う方法なのです。そうです、これが人類究極の最終戦争「バカ対バカ」の戦いに挑む、道楽者の平和の戦い「ジハード」聖戦なのです。では、過去皆が騙されてきた「大嘘」を検証してみましょう。○洋食屋で使うナイフとフォークの正式な使い方。ライス(御飯)はフォークの背に乗せて食べるのが正式なマナーである。一体誰が言い始めたことなのか、何十年も信じて疑わなかったニッポン人。ナイフ&フォークの文化圏では炊いた米を主食として食べる習慣はないし、よしんばメニューにのったとしてもスプーンを使って食べます。あたりまえですね。誰が考えたってスプーンを使えば良いものを、わざわざ食べにくい方法をマナーにするわけありません。チョット考えればすぐわかりそうなものですが、誰が広めたんでしょう。ちなみにアジア圏ではフィリッピンなどフォーク&ナイフ文化もありますが、これはスペイン文化から持ち込まれたものでしょう。もちろん米を主食としますが、ちゃんと彼らなりに知恵を使った加工が施されています。スープと米(御飯)が一緒に食べやすいように、ナイフの代わりにスプーンが使われていますね。セットアップは左にフォーク、右にスプーンが置かれ、通常、ナイフは使いません。なお、アジア圏全般で伝統的なスタイルは、素手で食べる、手づかみが正統なマナーです。箸を正式なマナーとするのは中国、韓国、日本くらいです。○バーボンウィスキーの本場アメリカ南部ではバーボンはストレートでしか飲まない。日本では水割りやオンザロックで飲むが、それはバーボンの正式な飲み方ではない。西部劇の影響か、バカなノーガキを偉そうに流布したおかげで、急性アルコール中毒で倒れた人も数知れません。更に南部人はバーボンしか飲まないみたいなことも言われましたが、別に南部人に限らずどこの州へ言っても1ブランドなんてことはありえません。どだい酒なんてものはどーやって呑もうが本人の勝手だし、だいいち、日本人とアメリカ人の体質の違いも考えずに、「型」を押し付けることで権威を示そうというところが浅薄です。○男はクラブでカクテルは飲まない。ロックやストレートが男らしいとでも言うのでしょうか?バーで金を払って何を呑もうが大きなお世話で、ウィスキーだから男らしいとか、リキュールだから女々しいとか、酔っ払って暴れたらお世話になる場所は皆一緒で、トイレか檻の中です。米国黒人などは2メートル以上もある大男でさえ、ジンフィーズを注文したり、アップルワインなどを注文するし、白人だって数集まって飲み比べが始まれば「カミカゼ」などという強烈なカクテルで自爆したりします。男らしさを酒のブランドで見せようなどとは、逆に女々しい姑息な手段とも言えます。○ロックンロールとはフィフティーズ’50’sのことを指す。ROCKはアメリカ文化の代表的な音楽ジャンルです。もちろんヨーロッパ系だってありますが、従来の音楽カテゴリーをぶち壊した移民の国ならではのスタイルと言えます。そんなカテゴリーを日本人が勝手にジャンル別けしてはいけませんね。「ROCK&ROLL」読んで字の如し、ロックがロールする、GROOVEの最高表現ですね。チャックベリーもビートルズもローリングストーンズもイーグルスもドゥービーブラザースもマイケルジャクソンもレッドツェッペリンもエリッククラプトンもオーティスレディングもスティービーワンダーもリッチーブラックモアもシンデレラもジミヘンドリックスも、はぁはぁ、疲れた、み~んなRock’nRollなんですね。便宜上多少のジャンル別けはありますが、聞く側にとっちゃ、プレスリーのロックとマイケルジャクソンのロックがどう違おうが知ったこっちゃないわけで、聴いてハッピーになりゃ良いだけのことですね。北島三郎とサザンオールスターズほどの違いはありません。これが正統派ロックだ、とか純正メタルとか、黒人だからSOULだとか、音楽聴くのに何でこんな型にはめられなきゃいけないんでしょうかねぇ。これが正真正銘の「きんぴらごぼう」の味だ!なんてものは存在しません。その土地土地、その家庭家庭で作られる味が、その人にとってのホンモノの「きんぴらごぼう」の味なんですね。まだまだ挙げればキリがありませんが、このように一般庶民を威嚇する評論家などというとんでもない奴らと、自らが情報をきちんと処理できないメディアの作り出す、くだらない権威主義が自由な精神性に基づいて生きる道楽者を社会から排除し、一般大衆を馬鹿にしているのです。さあ皆さん、目を覚まして一緒に道楽者の道を歩みましょう。
2005年05月19日
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あたりまえのことですが、まず原則として、道楽者はくだらないことや、ばからしいことが大好きです。いわゆる一般的普通人が、「こいつバカじゃねーの」とか「どーしてそんなもんに一生懸命になれるんだろ」とか指摘する人物は間違いなく道楽者です。若年層はファッション自体ですでに道楽者をアピールしているので、比較的見分けやすいのですが、中年あたりになると普段は単なるオッサンやオバハンの着ぐるみを被り、善良な市民のフリをしているので注意が必要です。そういった怪しそうなジーさんやバーさんに遭遇した場合は慌てず、会話の中にさりげなく昔の道楽者アイテムを散りばめながら反応を見てみましょう。「あのぉ、私ぃ、最近クラブによく行くんですけどぉ、昔はクラブのことディスコって呼んでたんすかぁ~」などと尋ねてみて、妙に会話のノリが良くなってきたならまず間違いありません。現在40代~50代の中年層は概ねディスコの洗礼を受けていますので、相手の口から当時の店名やヒット曲名が出てきたり、調子に乗って「湘南~サーフィン」の話などが出てきたりしたら、道楽者ひとりゲットです。ただし、ここで間違ってはならないのは、道楽者はオタクではありませんので、あまりマニアックな話になり始めたら気をつけましょう。よく、オタクと道楽者は混同されがちですが、基本的に道楽者の方がモノへの凝り方や、こだわり方が淡白ですので、あまりひとつのアイテムに執着するような場合は、ちょっと疑ってみる必要があります。アイテムのディティールにあまり深く入り込んでいくようなタイプの場合、往々にしてオタク系やストーカー系が多いので、すぐに話題を身近な話に切り替えて話の腰を折りましょう。基本的に道楽者は、異性にモテたい、気を引きたい、というような単純かつ不純な動機だけが機動力になっていますから、アイテムの中味についてはさほどこだわりなく、広く浅く要領が良い、という点に留意して下さい。また逆に、昔の話を引き合いに出して説教などを始めだしたら、これも大変危険です。そーゆー人は、ごくまっとうな人生を歩んでこられたフツーの単なるオッちゃん、オバちゃんですから、時代の流れすら読み取る能力もありませんので、早々に会話を切り上げてさっさと退散しましょう。仮に相手がお金持ちだったりしたら、せめて御飯くらいはご馳走になるのも悪くはありませんが、つまらない冗談に愛想笑いしたり、つまらない人生訓などに相槌を打って付き合う忍耐力と、まんざらでもない顔をしながら平気で御飯をおいしくいただく面の皮の厚さが要求されます。あとで顔全体の筋肉が疲労して顔面神経痛などにならぬよう、就寝前にお風呂でゆっくりとマッサージなどを施すと良いでしょう。さて、最後に道楽者の特徴ですが、最近は趣味の範囲が多様化してきているので、一目で見破れるほど道楽者も単純ではなくなってきています。ですから、一概に以下のパターンに当てはまらない場合もありますので御了承下さい。○バンドマンが多い。*ミュージシャンではありません。バンドマンです。常に道楽者は仲間で群れたがる性質があり、特に「バンド」という言葉に弱いので、同じ趣向の人たちといると安心します。特に中年層に多いのが特徴です。○調子コクと道の上で踊りたがる。*40代以降の層は、興が乗ってくると必ず道の上で踊りたがります。特に原宿あたりでは輪になって踊ったり、「ギバちゃんに似てる」などと声をかけてあげると更に興奮します。○スケボーを見るとはしゃぐ。*テクについて語り始めたら黙って聞いてあげましょう。○スナックのカウンターの上に乗りたがる。*別名カウンターサーフィンとも呼ばれ、カウンターをボードに見立てライディング・ジェスチャーと解説が入ります。○時々危ない友達が尋ねてくる。*どー見ても玄人ぽい人が時々尋ねてきたり、レゲエ風の爺さんが友達にいたりする。○カラオケに行くとやたら英語の歌を歌いたがる。*しかし選曲がやたらと古い。テネシーワルツとかプレスリーだったらかなり年季の入った道楽者だ。ビートルズやストーズ、更にグループサウンズなども含まれるが、突然、平井とか福山とかを歌い出すのも特徴だ。親爺のくせに結構新し目も知っている。○自分のことをオヤジと言いながら謙遜するが、内心まだまだ行けると信じているので、ファッションや芸能ニュースなどの話題もしっかり予習している。○改造車の話になると目の色が変わってくる。*チューンの内容に歴史が感じられたら、まず間違いない!さあ、あなたの隣にいる道楽者を見つけてお友達になりましょう。道楽者は人生の達観者です。何でも相談して心を癒して下さい。ただし相手が異性の場合は、年齢差に関係なくまだまだ行けると思っていますので注意しましょう。
2005年05月18日
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道楽者もやくざ者も共にアウトローですが、社会でのポジションはまったく違います。まず道楽者はOUT OF LAWな行為をたまはにしますが、存在自体はLAWの範囲内です。比べてやくざ者は、その存在自体を自ら法律外に位置付けています。「俺たちゃぁなぁ、天下の裏街道を歩く身分なんだぞぉ。言わば天下の嫌われ者だぁ」座頭市のおっさんもこう語っているように、明らかに体制から逸脱した存在であることを自ら認めています。そこへいくと道楽者は、貧富の差はあるものの一般人と同じ社会に生息しながらも、一般人とは一線を画す、隠れキリシタンのような生活を送っています。まあ、通常は一般社会の常識や社会通念といったモノサシで測れば、みなひっくるめてアウトローということにはなるのですが、道楽者から見た場合、両者の関係には歴然たる違いがあります。それは「ハングリーさ」です。道楽者はうまくメシを食うしたたかさは持っていますが、どんなことをしてでもメシを喰おうとゆーような根性はありません。なんせ、道楽者が拠り所とする精神性は「好きなことしてメシを喰う」ですから、メシが食えても嫌いなことはしない、ってのがセオリーです。反面、ホンモノのアウトローはメシを食うため、のしあがるためなら何でもします。ここらへんの根性というか、生き様というか、自分の人生への心構えが全く違います。ですからやくざ者からは成り上がりが生まれますが、道楽者からはひょうきん者しか生まれません。また、著名なタレントやミュージシャンの立身出世物語などを見て、ハングリーな生活に憧れたりしますが、実際にやってみてすぐに根をあげてしまうのも道楽者の特徴です。よく考えればわかりそうなものですが、大体ハングリーな生い立ちの人間が、道楽なんぞにうつつを抜かしている余裕などあるわけがありません。傍で見ていると一見、彼らは道楽を追及して成功したように映りますが、道楽は単なるプロセス上のアイテムで、実際彼らの最終目標として追及していたのは所詮金儲けでしかありませんね。どだい金儲けと道楽は対極に位置しているわけですから、金持ちになった時点で道楽は終わっているんですね。じゃあプロセス上の道楽はウソだったのかっていうと、それはそれなりに本当に道楽もやっていたのだと思います。たまにホンモノの道楽者が凄腕のマネージャーと出会って、道楽と金の両方を掴むこともありますが、結局は掴んだ金でお互いの好きなことをまた始めるってところでしょうか。よくいるでしょ。せっかく稼いだ大金をくだらない道楽に突っ込んでスッテンテンになったヤツとか。あたりまえですね。道楽以外はしてこなかったんだから、一般社会に飛び出して一般人のルールで勝負したら勝てるわけがないんですね。これもよく考えればわかりそうなもんなんですけど、まわりのヤツらもその金狙ってますからね、いろんなこと言って吐き出させますね。そんなこともわからないのが道楽者たる所以ですね。言ってみればまさしく道楽者の鏡ですね。道楽者はすべからくこうありたいものです。だから、道楽者のみなさんは決して金儲けなんぞを目指したりしないようにしましょう。ねずみ講とかルートセールスとか、集まってくるやつ見ると圧倒的に道楽者が多いですね。気をつけましょう。
2005年05月17日
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無駄の生産こそが非生産活動の基本であり、道楽者の究極の遊びです。コト、遊びに関してはアメリカと言うかアメリカ人というか、USAに住む人たちというべきか、その彼らを語らずして「遊び」の本質には触れることはできません。とにかくバカらしいものとか、くだらないこととか、一銭にもならない無駄なことをやらせたらアメリカ人に敵う民族はないのではないでしょうか。今現在、日本において一般的とされる「遊び」のほとんどが輸入加工品ともいえます。そしてそのほとんどが米国から入り込んで来たものと言っても過言ではないでしょう。第二次大戦後、日本でいう終戦後、とにかく米国からのカルチャーの流入は尋常ではなかったようですし、受け入れる側のニッポン国民も戦勝国のシンボルであるアメリカ文化を手放しに享受したのは想像に難くありません。なにせ、ギブミー・チョコーレートの世界ですからね。私くらいの年代は、未だにハーシーズのチョコレートを見ると緊張してキョーツケしてしまいます。そんなニッポンでまず爆発したのがJAZZですね。もちろん戦前からJAZZは日本にも入っては来ていましたが、終戦という開放感と、モノが豊富なアメリカのイメージは、ビッグバンド・JAZZに代表される陽気で楽しいビート・インパクトがニッポン人の頭のヒューズを飛ばしてしまったわけです。しかし、この当時からすでにニッポン人は加工貿易に着手し始めています。笠置シズ子の「買い物ブギ」とか「ジャングルブギ」とか、凄いですね。今で言うパクリですが、ただのパクリじゃないところがニッポン人の面目躍如たるところです。全編関西弁で唄われている「買い物ブギ」のアイディアは、今聞いても斬新です。やはり関西弁は米語のノリに近いのでしょうか。しかしまあ、この後続々とアメリカから「遊び」が入ってくるわけですが、これら全てが楽しいことこの上なく、興奮冷めやらぬニッポン人はずっぽりとアメリカ文化の洗礼を受け、その中に埋没していくことになります。アジア近隣諸国で、ニッポン人のことをバナナと呼ぶようになっていったのはこの頃からですね。バナナ=外皮は黄色いが中味は白い。(肌は黄色いが中味は白人の意)言いえて妙。うまいこと言いますね。でも私らの時代はなんだかんだ言っても、やっぱり憧れのハワイ航路ですからね。「波乗り」ですよ「波乗り」。そのまんまですから。サーフィンってな言葉も入ってきてはいたんですけどね。やっぱりこっちの方がウケがよかったのかなぁ。これなんぞも道楽者の遊びとしては最高峰に輝くのではないでしょうか。板で波に乗って「キモチイイー」ってだけですからね。しかも波が終われば全てが終わる。そんでもって、遊びは次々とエスカレートしていきますね。台風の波に乗る、とか、桟橋をくぐるとか、バカですね。一銭にもならないことに命を張る道楽者の真髄がここにあります。どんどん無駄を生産していきます。このあたりの道楽的精神性がニッポン人には欠けているのでしょうね。その代わり、どんな波にも乗ることのできる波乗り板を開発したりしますね。勤勉ですねニッポン人は。道楽者のために道具を作る。バカなことに命を賭けるアメリカ人。その道具を作る日本人。この構図は今も続いています。
2005年05月16日
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道楽者のどーらくとは、本来人々をシヤワセな気分にさせる遊びでなければなりません。ところがどーも日本という国は形から入る国民性みたいなものがあるせいか、なんでもルールやパターンにはめたがる傾向があります。せっかくバカバカしい遊びが生まれても、すぐに生産効率を高めてしまったり、神聖化したりするものだから創生者の意図とかけ離れたまじめな遊びになってしまいます。いわゆるこれがニッポンの得意技とも言える「加工貿易」なのですね。これは資本主義体制において突出してニッポンの経済発展をもたらした、世界に誇るニッポンの伝統文化でもありますが、故にパイオニアとしての道楽者を排出できない最大の理由でもあります。どこぞの国でちょいと流行のモノが現れると、さーっと出て行って自国に持ち帰り、研究者が寝食も忘れ、あらゆる角度から吟味し売れる商品に作り変えて商売に励んでしまう。洗練された技術者の技が結集された「加工品」は、世界的な品質基準を満たし、あるいは輸出先の趣向に合わせて更なる改良まで施して生産性を高めてしまいます。ところが、その元にあるべき「遊び」を創作する土壌が日本にはありません。つまり遊びと名のつくものはすべからく無駄の過剰であり、その無駄の蓄積こそが人に与える最高の快感でありますが、そもそも日本人はこの無駄が大嫌いな民族なのですね。どーしても道楽者の好きにはさせてくれない。どうもこれは農耕文化と関係がありそうです。農耕は季節と密接に結びついていますから、村という集団の生産性は団体行動でしか成り立ちません。村人全員号令一致で一斉に種まきをして、村人全員で刈り取らねばならない。「今日のおいらは気分がいーから、一日歌を歌っていてぇーだ」なんぞといった日には、「ほんなら、おめーは村から出てけぇ!」てなことで、かの有名な村八分が生まれることになってしまうわけです。さて、村から追い出された道楽者は、毎日毎日気分の赴くまま好きな歌を歌って暮らすにはどーしたらいいか、思案の果てに思いついたのは日本列島を季節に乗って旅することだったのですね。収穫祭で自慢ののどを披露して、お調子者の与太話、祭りの間は食うには困らず遊びっぱなし、盆や正月、祝いの席には声がかかる。そのうちに道楽者がひとりふたりと集まりだして、これにいつの間にやら凶状持ちの股旅なぞも加わって、旅から旅の根無し草の浮き草家業。「河原乞食」「大道芸人」「旅役者」みぃ~んな道楽者のご先祖様です。しかし生産性を無視した無駄の集団、道楽者は生産活動にとっては無用の存在。いざとなれば別に「祭り」なんか無くたって誰も困らない。だから天候不順や不作の年はメシが食えない道楽者。それでもどーらくで人々をシヤワセな気分にさせるためだけに生きている道楽者。お祭り野郎は今も生き続けています。そう、今これを読んでいるあなたも立派なお祭り野郎です。
2005年05月15日
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すべてのどーらく者が追い求める究極のドリーム。それは「好きなことしてメシを喰う」である。しかし、好きなことをしてメシを喰うということは、あとから莫大な請求書がやってくるということなのだと気づいた時には、もうすでに取り返しのつかないところまで来てしまった自分を悟った時でもある。こうなったらしかたがない。最後までどーらくを貫くぞ、などと気勢を上げたところで人生が開けるわけでもなく、寄る年波、あとどのくらいのどーらくが出来るだろうかと気張るくらいが関の山。気張りも気負いも、踏ん張りすぎてどこぞが緩んだりして。。。。。せめてもの救いは、どーらく人生に費やしたバカの数々を振り返り、その世界を語ることで人生の選択肢にはパターンはないのだということを、後に続く道楽者たちに伝えることで勇気を与えることができるということと、バカの遺伝子を次世代に残すことができるということである。まさにこの種の存続こそが、非生産活動者の究極の目的である。いつの時代だって、どんな時代だって、人間が住むところ道楽者なくして人の世は成り立たないのだ。長いものに巻かれず、体制に呑みこまれることなく、人の生き方を見つめ続ける道楽者の血を絶やしてはならないのだ。どーらく爺に続く若い非生産活動愛好者のみなさん、世の中をハッピーにするのは貴方たちの使命です。若さは二度やってこない!思い切って舞い上がって下さい。後から来る請求書を恐れてはいけません。「青春」は全ての人間に与えられた、唯一平等の「才能」です。(ある道楽者の言より)細木数子さんも言っております。「出る釘は打たれるけど、出過ぎた釘は打たれない」中途半端はいけません。とことん行きましょう。どーコケても私くらいの爺にはなれますから。。。。。ということで、どーらく爺が費やしたおバカな半生を、これからボツボツと語ってゆくことにしましょう。(フリーページも覗いてね)
2005年05月14日
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別名「空想癖」とも言われ、ひょっとすると病気の一種かもしれないが、とにかく何の役にも立たず、一銭にもならない想像を膨らませて遊ぶ世界。しばしば「インナートリップ」などという表現を使い、精神を洗脳するような儀式に用いられたり、悪用されたりする恐れもあるので、常に厳しい精神的自己管理技術が要求される。一歩間違えると「誇大妄想」のようなヴィジョンを創り出してしまうので、周りの人間が適当なところで現実に引き戻してやる必要がある。時々誤解されがちだが、精神病や精神疾患から来る幻想とは一線を画すものであり、当事者自身が現実社会からはみ出すことはまず起こりえない。突然仕事に嫌気がさしたりしたときや上司に怒られているときなどに、高尚な精神が肉体を離れバラ色の世界にワープしてしまう自己治癒能力に近い現象でもある。なお、この高尚な精神は、描いた空想ストーリーの中で適当な結末が現れると、自動的にもとの肉体に戻って無事社会復帰を果たすことができる。しかし、ここで気をつけておかねばならないのは、経済社会での生産的思考によるワープは邪悪な精神を拠り所とするため、白日夢現象を誘発し精神が肉体に戻れないこともあるので大変危険である。「こうしてああして金を儲けて、デッカイ家を建てて、ロールスロイスを買って、銀座で毎晩ハシゴして、おねーちゃん誘って、イッヒッヒ・・・・・・」といった具合に欲望が増幅され脳内覚醒作用が起こると、潜在意識は肉体を現実社会から逃避させるべくいわゆる「うわの空」状態を持続させ、最終的には廃人と化す恐れがあるので注意が必要である。したがって、描く空想のディテールにあまりにもこだわりすぎると、精神が暗黒面へ引きずり込まれるので、道楽者のお約束として、考えはできるだけ具にも付かないものにしておくことが大切である。また、想像するヴィジョンにはユーモアやユニークなアイディアが不可欠であり、道楽者同胞の共感を呼ぶことができれば、それはすなわち高尚な精神による「具にもつかない考え」として、また非生産性行為の見本として道楽者の間で語り継がれていくことになるであろう。<今日のワープ>日本専売公社を復活させ、国家事業としてマリファナたばこの製造販売を行う。日本酒と同様に、各地の土壌風土により味も異なるのでブランディングが必要である。「翔び方」を押さえたハッピー・スモーク・ライト HAPPY SMOKE Light香りも十分楽しめるピース・グラス PEACE GRASS東洋の神秘ブッダ・メンソール BUDDAH menthol北海道原産の最高級枝葉を使用したスーパーフライ・ライトSUPERFLY Lightなどなど。この国家事業により、悪質な化学生成ドラッグの乱用を抑え込み、無農薬栽培で育まれた純粋な葉っぱが持つ自然の力によって戦争を放棄させ、人類の平和を実現させる。
2005年05月13日
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