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HERE IS THE LATEST INFORMATION ON TYPHOON NABI 14W AS RECEIVED FROM THE NATIONAL WEATHER SERVICE, TIYAN, GUAM, AND COMPILED AT THE EMERGENCY MANAGEMENT OFFICE, OFFICE OF THE GOVERNOR. AT 7:00 A.M. THIS MORNING, TYPHOON NABI 14W WAS LOCATED NEAR LATITUDE 15.4 DEGREES NORTH AND LONGITUDE 146.8 DEGREES EAST, OR ABOUT 245 MILES SOUTH-SOUTHEAST OF AGRIHAN, 200 MILES SOUTH-SOUTHEAST OF PAGAN, 170 MILES SOUTH-SOUTHEAST OF ALAMAGAN, 75 MILES EAST-NORTHEAST OF SAIPAN, 85 EAST-NORTHEAST OF TINIAN, AND 140 MILES NORTHEAST OF ROTA. TYPHOON NABI 14W IS MOVING WEST AT 10 MILES PER HOUR., DURING THE NEXT 12 HOURS…. TYPHOON NABI 14W IS EXPECTED TO TURN WEST-NORTHWEST. MAXIMUM SUSTAINED WINDS ARE 85 MPH. NABI WILL CONTINUE TO INTENSIFY DURING THE NEXT 12 HOURS.ということで、只今北マリアナ諸島をタイフーン・ナビ(台風14号)が通過中です。進路予測では現地時間午後12時頃、サイパン島を直撃することになりそうです。現在サイパン島は雷を伴った風雨に包まれております。(飛行機飛ぶかなぁ?)本日、非生産活動推進委員会・委員長は滞在中の観光客の皆様及び島民の皆様のために奉仕活動に従事致しますので、道楽者の昔話は休載させて頂きます。(たまにはまともなこともしなくちゃね)この台風は数日後に必ず日本方面へ進路を取ると思われますので、日本在住の皆様にもご注意申し上げます。Best Regards
2005年08月31日
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ようやくダンサーから脱却し心機一転、ディスコDJそしてSOULバンドへの道をひた走る委員長の身の回りも新しい環境が整いつつありました。大学の文化祭、いわゆる「学祭」へのバンド出演の依頼が、相棒のムラちゃんのもとへちょろちょろと舞い込んで来る季節となりました。とは言うものの満足なバンド活動などしていない二人ですから、直接の出演依頼など来るはずもなく、すべてはムラちゃんが出入りしていた三鷹のフィルモアという楽器店経由で回ってきたものでした.(正直言って、三鷹だったか武蔵境だったか覚えがないのですが、当時その界隈のアマ・バンドにはかなり有名な楽器店だったように記憶しています)時代の流れからいっても、当時のディスコ・ブームはもの凄かったですから、たとえ「学祭」と言えど、ちょいと目先の利く実行委員会あたりともなれば、ディスコ・パーティとか模擬店みたいなものを企画するのは当たり前で、そうなると本職のツテを頼らざるを得ません。そんな学生やらアマバンドが出入りするフィルモアの常連だったムラちゃんが、歌舞伎町のディスコで仕事をしているという噂を聞きかじった店員がある一人のミュージシャンを紹介してきました。待ち合わせの中央線武蔵境駅前に降り立った二人。アフロ頭のド派手な委員長とハンチングを被った地味なムラちゃんの前に現れた男は、やや長身長髪、黒のスリムジーンに赤のボタンダウンシャツを羽織った一昔前のROCKミュージシャン風のむさ苦しい奴でした。「こんにちは、○○アツシです。ムラ○さんですよね。こちらはロニーさんですか」ちょっとハスキーな声に特徴がありましたが、どうもうだつの上がらないアマチュア・バンドという感じのアツシ君は、花の都新宿のディスコからやってきた二人を伴って徒歩数十分の自宅へと案内してくれました。「XX新聞武蔵境販売所」の看板のかかった店の横を通り抜け、裏手にあるアパートのような下宿らしき一室に通されました。四畳半ほどの部屋はその半分が土間のような段になっていて、高い段になっている方は畳張り、低い方は板の間という妙な造りでした。アツシ君は委員長とムラちゃんを高い方の段に座らせると、自らは板の間にイスを持ってきて腰掛けました。「フィルモアの△◇さんから聞いていると思いますが、実は僕の友達が家政大学の文化祭でコンサート企画をやってまして、僕のところに誘いがあったんですが、僕自身バンドを持っているわけではないので、一緒にやってくれる人を探しているうち、ムラ○さんを紹介されたっていうわけです」「一応話は聞いてますけど、ディスコ・バンドをやるわけですか?」ムラちゃんがマネージャーっぽい話をします。「いえ、それは僕の友人の企画で、どうせやるならディスコ風にできないかって言ってきたもので、それでフィルモアの△◇さんが、それならちょうどイイのがいるってことで」「で、どんな音楽をやられているんですか?」あまり期待はできませんが、恐る恐る聞く委員長でした。「ええ、僕自身は特にこれっていうジャンルはないんですけど、どちらかと言えばROCK系ですね。フォークっぽいのもやります」「たとえばどんなのやってるんですか」「あの、基本的にコピーとかはやったことないんです。全てオリジナルで自作です」「それってシンガー・ソングライターってことですか」「まあ、一応」これは驚きです。一体彼がこの妙な部屋でどんな曲を紡ぎだしているのか、大変興味のあることでした。アツシ君は古いカセットデッキ(昔はテレコみたいなのなかったからね)を運んできて、かなり年季の入ったテープをガチャリと入れると再生ボタンを押し込みました。ジャーン、ジャーン、ジャジャジャッ、フォークギターのコードが流れ出し、続いてだみ声のハミングらしき歌が聞こえてきました。本人がギター1本で弾き語りのような歌を録音してあるだけのものでした。なんと表現してよいのかわかりませんが、とにかく雰囲気だけは独自のセンスが感じられます。「歌詞は付いてないの?」しばらく黙って聴いていたムラちゃんが訊きました。「ええ、これは今作曲中の試作なんで、まだ詩がないんですよ」ふ~ん、なるほどと頷くムラちゃん。「で、オリジナルって何曲くらいあるの?」更に質問を重ねます。「そうですね、中学生の頃からのものを入れると250曲はあると思います」「250曲!?」これはまたまた驚きでした。こんな座敷牢みたいな部屋で250曲もの作曲をしていたなんて、まるで岩窟王のようなヤツです。「詩がついているのを聴いてみたいんだけどなあ」ムラちゃんがそう言うと、黙ってカセットテープを止めると座敷の奥に置いてあったフークギターを手に取ったアツシ君でした。(おっ、生演奏かい?)「実は今度の学祭で演ろうと思っている曲なんですが」と言って、ギターを弾き始めました。8ビートのボサノバ風のコードが刻まれて、アツシ君が歌い出します。「やさしくボクを包んでくれる~ この街の夜景~」うーん、何処かで聴いたことのあるような無いような不思議なメロディーが座敷牢に響きます。しかし、彼の声はちょっと特徴があるというか、個性的というか、中々面白いものはありました。歌い終わったアツシ君。「もうちょっとファンキーなのもあるんですけど」と演奏続行を促しましたが、遮るようにムラちゃんが言いました。「まあ、大体感じはわかったけど、編成はどうなってるの?」(何の感じがわかったのでしょうか)「ええ、できれば最低でもコンボは欲しいですよね」「えっ、欲しいって、メンツは揃っているんじゃないの?」またまた、驚きです。バンドを持たないと言っても、出演依頼を受けた以上は寄せ集めでも何でもメンバーを揃えるのは常識です。「いえ、ですからムラ○さんに相談してみようと思って△◇さんにお願いしたんです」「そうは言ってもさあ、俺達だってバンドを持ってるわけじゃないし、そんなにすぐにメンツ揃えられるほど顔も広くないしなぁ」ちょっと困惑した感じのムラちゃんでした。しかし、本番まであと2週間ほどしかないってのに、バンドはない、メンバーは揃わない、しかもディスコっぽいことをやりたいなどとのたまうシンガー・ソングライター、この岩窟王は一体何者なのでしょうか?顔を見合わせ言葉に詰まるムラちゃんと委員長。と、そこへ母屋の方から声が聞こえます。「アツシ~!時間だぞぉ!」「ムラさん、すみません、配達の時間なんでちょっと行って来ます。2時間はかからないと思いますから、よかったら待っててくれますか?」が~ん! 岩窟王は新聞配達を生業にしていたのでした。衝撃を受けた二人が早々に引き上げたのは言うまでもありません。
2005年08月30日
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1977年10月 委員長にとっては忘れることの出来ないある出会いがありました。Mama, Do you remember~母さん、ボクのあの帽子どこへいったのでしょうね~そうです、角川映画第二弾「人間の証明」のロードショーです。実は、委員長はガラにもなく親孝行のつもりで、映画好きの母親を連れてこの映画を見に行ったのでした。しかも委員長の働く新宿歌舞伎町東宝会館です。当時1階の映画館前にはビルのテナントの写真が貼ってあったのですが、そこにはなんとアフロ頭の委員長の勇姿、DJ姿の特大写真が掲げられておりました。別にそれを見せたくて連れ立ったわけではありませんが、わが息子のお調子者姿をその目で見て、ああ、もうこの子を止めることは誰にもできないと悟った母親でした。さて、映画は森村誠一原作のサスペンス・ドラマで、人間愛の奥深い葛藤を描いた話題作でした。当時乗りに乗っていた故俳優松田優作主演、三船敏郎、岡田茉莉子他豪華キャスト、さらにニューヨークロケまで敢行した角川映画の超大作でした。ストーリーは敗戦直後の混乱期に生まれたいわゆる「戦争の落とし子」、GIベイビーを核に、高度成長期を背景として財を築いたファミリーが織り成す悲しい人間ドラマでした。そして、悲劇のヒロインを演じたのがジョー山中で、サウンドトラック主題歌も歌っていました。映画のテーマとなった親子の愛の物語を、偶然とはいえ母子家庭の委員長親子が見たというのも何かの縁だったのでしょうか、この詩は委員長の心の奥底に染み込んできました。原詩は西条八十の麦藁帽子という詩がキーワードになっているのですが、失われた母子の心を歌うジョー山中氏の声は、魂の雄叫びのように今でも印象深く心の中に残っています。かぶれ易いことにかけては天下一品、道楽者の委員長はその日からすっかりジョー山中にはまり込んでいってしまったのでした。その昔、フラワー・トラベリング・バンドというグループで活躍していたジョー山中氏ですが、辛うじて委員長の記憶にあったのは「メイクアップ」と「さとり」くらいのもので、単なるROCKバンドの位置付けでしかありませんでした。さっそく彼らのレコードを手当たり次第買い漁って聞きまくる委員長でした。映画の大ヒット、主題歌の大ヒットでレコード会社もここぞとばかり、古いアルバムを続々と再発していきました。ジョー山中のルーツはここにある! みたいなキャッチ・コピーでほぼ全盤復刻です。そして委員長の頭に衝撃を与えたアルバムが「タイム」でした。アメリカのタイム誌の表紙をかたどったアルバムジャケットには、アフロ頭のジョー山中氏が刀を持って立つ凛々しい姿が映っていました。しかも、アフロは耳の上あたりから両脇に金髪のメッシュが縁取りされています。これだ!これこそオレが求めていたフィーリングだ!(やれやれ、何度目でしょうかこのセリフ)早速近所の美容院に飛び込んだ委員長でした。翌日、トゥモローUSAのDJブースに金髪メッシュの入ったアフロ男の登場です。しかし、このフラワー・トラベリング・バンドってのは、時代に埋もれた凄いバンドだったのですね。デビューアルバムの帯にかけられた内田裕也御大のコピーが凄いです。「どこかのバカヤローが小原庄助さんみたいなロックだと言った。みんなが今、その小原庄助さんをこぞって取り入れている。聞けFTBの叫びを!」デビューアルバムはブラックサバスのコピーや、朝日のあたる家などのリメイクが混ざったちょっと雑なアルバムでしたが、全編英語という、当時の日本のロックバンドではまず考えられないデビューの仕方でした。全アルバムを聞いてみて感じたのは、音楽性もさることながら、彼らが持つそのファイティング・スピリットが全編満ち溢れていたことでした。まさしくアウトローの持つ攻撃的なパワーがレコードに注ぎ込まれているのです。それにしてもジョー山名氏の金属音にも似たあの声、特に突き抜けるハイトーンは鳥肌が立ちました。こんなスゲーバンドが日本にいたなんて、本当に驚きでした。SOUL馬鹿一筋で来た委員長は、ここで本当の意味での音楽への開眼をしたわけです。委員長の心の目を開けてくれたジョー山中氏との衝撃的な出会いでした。(大げさではありません。不良少年の集大成。ROCKの根源がここにあったのです)そして、この映画にはもうひとつの因縁が隠れていました。映画の大ヒットと共にテーマ曲「人間の証明」をスローナンバーとして使っていた委員長に、同僚ブラザー・ジョーが言ったのです。「素晴らしい歌だ。ハートが伝わる。彼がこれほどのシンガーだとは思わなかった」「へぇ、ジョーは彼のこと知ってるの?」「ああ、最終オーディションまで一緒だったからね」「えっ!?」驚きましたね、なんとキャラクター・オーディションがあったなんて。しかも同僚のジョーが出ていたなんて初耳でした。すかさず根掘り葉掘り聞き出す委員長には更なる衝撃が!(ってガチンコじゃないっての)オーディションには相当の数の黒人やら黒人のハーフが来ていたそうで、最終選考に残ったのが3人、ジョー山中氏、ジョー・サンダース、そしてもう一人はあのジョニーだったと聞かされた時は本当に驚きました。ヤツはこんなところで勝負してたんだ、としばし感慨深い気持ちで一杯になりました。ジョーいわく、彼はだいぶいい線いっていたが、演技にまだ多少の照れがあったので落とされた、と言う話でした。じゃあ、YOUはどうだったの?と聞くと、笑ってごまかしていましたが、どーも年齢で落ちたのではないかと思いました。当時すでに30は越えてましたからね。まあ、しかし自分の周りの人間が見えないところでメージャーを目指していたなんて、こりゃあ侮れないと感じた委員長でした。オレも頑張らなきゃいかんぞーという感じでしたね。とは言うものの、何をどう頑張れば良いのか、焦りばかりがつのっていく毎日でもありました。そんな委員長のせめてもの慰めは仕事後のムラちゃんとの与太話でした。ムラちゃんの歩いてきたバンド人生は委員長にとって刺激になる話が多く、未だ自分の知らないバンドの世界は妙に好奇心を掻き立てるものでした。高校生のころアマチュアバンドのコンテストで準優勝を取って以来、プロを目指したものの人間関係の難しさや、好きな音楽をやりながら生計を立てていく難しさ、結局はアマともプロともつかない中途半端な状況にいる苦しさなどなど、委員長が体験してきたDJやダンサーとは比べ物にならないほど生活感のある実体験を聞かされました。また逆に、委員長の経験してきたディスコとアウトローの話は、ムラちゃんにとってはやはり未知の世界の出来事として興味深く聞きこんでくれました。そんな二人の馬鹿話は毎晩繰り返されていくうちに、中途半端な人生の上にいる二人にある共通の想いが芽生え始めていたのでした。「こいつとなら、なんか新しいことができそうだ」(また新たな勘違いが生まれただけです)お互いの不完全燃焼に終わった中途半端な夢を繋ぎ合わせれば、ひょっとして何か新しい人生の突破口が開けるかもしれない、そんな漠然とした期待感を抱いた二人でした。(馬鹿が二人寄っても馬鹿が増幅されるだけで利口にはなりませんね)そんな期待感が高まっていく二人の前に、委員長のライバル、あのジョニーが現れたのでした。九州のディスコから再び新宿へ帰ってきたジョニー。彼らがダンサーデビューしたバンド、BIBのヴォーカルとして復活してきました。委員長の顔を見にトゥモローUSAに立ち寄ってくれたジョニー、久々の対面でした。そしてお互いの顔を見合わせたとき、思わず笑い転げてしまいました。二人ともアフロに金髪のメッシュが入っていたのです。オレたちゃやっぱり永遠のライバルだぜ~。ようし、今度はバンドで勝負だ。久しぶりにジョニーと二人で踊り明かした新宿の夜でした。
2005年08月29日
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さて、ビッグ・トゥゲザーと合併したトゥモローUSAは10月に入って、またまた大変動って、ちょっと大げさですが、ついにダイタン商事は解散となり、トゥモローUSAは江川店長が社長となって「小林商事」の経営となりました。糸数支配人は店長へと昇格し、江川さんこと小林さんは直接の現場指揮から退き、社長業に専念することとなって行きました。そして10月から、システムも本格的に大型店の特色を出し始めていきます。平日の客の入りでは、360度開放型のダンスフロアはガラガラ状態が目立ってしまうという欠点を補うために、入り口から向かって正面にアコーディオン・タイプの鏡を取り付けました。週末の混雑時はオープンしてフロアを全開にできるカーテン・タイプの鏡で、高さ4m長さ25mの大型鏡で、更にこれをスクリーンにしてフィルムを上映するようにしました。料金は平日、男性\1,870女性\1,540で、毎週月曜日はバンザイ・ディスコデー男性女性共に\800、毎週水曜日はウーマン・ポテト・ディスコデー男性\1,000女性\500という独自のシステムを打ち出しました。更にポテト食べ放題、水割り・ジュース飲み放題の話題付きです。当時はまだ、バイキング・スタイルは主流にはなっておらず、先陣を切ったインディペンデント・ハウスが注目されてはおりましたが、各店このスタイルを模索していたような状況でした。恐る恐る始めたような雰囲気が覗えますね。フレンチ・フライド・ポテトが食べ放題、水割りとジュースだけ飲み放題という限定付きフリードリンクも試行錯誤といった感じです。しかし、この水曜日の女性500円は大当たりしました。とにかく平日水曜日だというのにもの凄い人だかりでした。売上こそ上がりませんでしたが、これは大当たりで、女の子が集まればほっといても男は集まるって、典型的な客寄せで大成功を収めました。(これって、アメリカだったら人種差別で訴訟の対象になりますね。女性が男性の半額って何の根拠も無いんですから)「水曜日はユサ(常連はUSAを皆こう呼んでました)でナンパ」が合言葉のように、とにかく水曜日は土曜日にも劣らず大盛況。溢れんばかりのおねーちゃんに群がるアホな野郎がどんどん集まり、すっかりお馴染みイベントとなりました。イモ食って酒呑んで踊ってイイ気持ち~って、こうなってくると他店も追随してきます。この後ディスコが食堂と合体されていくわけですが、あの頃の熱狂は踊りだけではなかったような気が致します。さて、新生トゥモローUSAの販売戦略はこれだけではありません。なんとラジオ番組を作ってしまったのです。(っていうか番組スポンサーになったんですね)深夜の時間帯でしたが、ラジオ関東で毎週日曜日30分のディスコミュージックを主体としたジュリーの番組がスタートしました。毎回ゲストを交えてディスコシーンの話題を提供する番組でした。ゲストはもちろん日本フォノグラムの渡部氏他業界の方々です。CMには委員長や従業員代表などもコメントしたりして、それなりに業界では注目を集めたりしました。常連の中には毎回録音して保管してたヤツもいましたね。今風に言えばヲタク系ですか。ジュリーの親衛隊みたいなのもいたなぁ。カワイコちゃん系お嬢ちゃん女子大生が多かった。この時点で、ディスコDJ業界ではジュリーが頭ひとつ飛び出したわけです。勿論こうなってくるとレコード会社の面々もジュリーに対する態度が変わってきます。当然厚遇されますから、本人もメージャーの仲間入りみたいな感じになっていきました。幻のDJバンドの後、本格的なメージャーデビューを飾ったジュリーと委員長の関係は、このあたりからちょっと噛み合わなくなっていきました。別段、委員長はラジオのDJ目指していたわけではありませんから、ジュリーのステーション・デビューは仲間として誇らしかったし、チームUSAとしてもチーフDJが番組を持ったということがひとつのプライドでもありました。ところが、このあたりからジュリーのわがままが次第に目に付くようになっていったのでした。相変わらず日本フォノグラムでのバイトを名目に遅刻常習。店内に開設した輸入盤の販売コーナー。これは歌舞伎町白馬車のチーフDJ・渡辺たかし氏とジュリーが始めた輸入レコードの販売店でした。さらにディスコ・プロモーションの代行などをレコード会社各社から請負いはじめ、思いつくまま手当たり次第にコトを起こしていくジュリーに皆振り回されるようになっていきました。こうなってくると、これらのシワ寄せはリトや委員長にくるわけで、ジョーはこういった事情には一切関知しませんから、遅刻すればその穴埋めはリトか委員長がしなければなりません。初めのうちは友情めいたものもあり、引き受けていましたが、度重なってくると次第に不満も募ります。特にリトなどにしてみれば、仕事を世話してくれた恩人ですから、まず断ることはできません。委員長にしてみても昔からの付き合いだし、本人がどんどん売り出しているのだから、手伝いは当たり前とも思っていましたが、休み返上してまで無理を通すジュリーに多少は苛立ちも覚えていました。委員長もこのころは、DJスタイルがようやく深夜番なりの形になり始めていたし、ジュリーの手伝いの傍らムラちゃんとのバンドごっこもそれとなく続けていました。また、プライベートでは道楽の不始末にまったく懲りない委員長は、彼女のドリーから愛想を付かされ結局フラれてしまい、多少フラストレーションの溜まった状態でもありました。いい加減に目を覚まして落ち着きなさいよ、みたいに言われたのですが、これからはバンドだぁ~などと、またまた夢みたいなことを言い出す委員長を尻目に、さっさと子供を卒業して大人になっていってしまった彼女でした。いや~、女は強いし、割り切りも早い。委員長は結構ショックだったんですけどね。同じ夢を見れなくなったというか、まさしく愛想付かされたみたいな感じでした。みじめ~。(あなたは少女の時を過ぎ~って歌のセリフみたいな感じですか)こんな状況でしたから、度重なるジュリーのわがままも遂には堪え切れずに対立してしまったのです。長い付き合いだった分、多少険悪な対立関係にもなりました。というのも委員長は元来道楽者ですから、人がどう思おうが、何をしようがあまり関係ないといったマイペース型なのですが、リトやジョーからもジュリーの横暴さを聞かされると、友人として情けないというのと、義侠心みたいなものが頭をもたげてきて、つい大きなお世話を焼いてしまうことになったのでした。オレしか言うことができない、そう勝手に思い込んだ委員長はジュリーを呼びつけて説教をかましてしまいました。しかも、リトやジョーの実情を引き合いに出したものですから、ジュリーもこれには激怒して反駁してきました。「オレは自分のことだけじゃなく、USAや皆のことを考えて業界の関係を作っているつもりだったのに、そんな風に思われていたのならもう金輪際一緒には仕事したくない」「ジュリーが思うほど、皆業界の関係まで期待してないし、自分たちの生活を犠牲にしてまでジュリーをカバーする必要はないと思う」一旦マイナスの方向に歯車が回りだすと、箸の上げ下げさえ腹立たしくなっていくのが人情です。お互い子供のようなものですから、突き詰めるところ意地の張り合いになってしまいました。委員長としてみれば、やりたいことやるなら人に迷惑かけずにやれよって思っていたし、ジュリーにしてみれば多少なりとも皆のことも考えつつ手を広げているのに、まるで嫉妬されているようで困る、みたいな感情が先立っていました。根は悪気ないんですけどね、軽いから、思いつきで突っ走るタイプだったから、結構誤解もあったんですね。それにまだ若かったから、責任の重さもあまり感じていなかったのではないでしょうか。マイペース型の道楽者とアイドル王様タイプですから、うまく理解して共存すれば最強のコンビなのですが、半目に回ると弾け合ってしまい全てが陰陽になってしまうわけです。生活のリズムも完璧に対照的でした。レコード業界とディスコ業界の接点に立って上手く立ち回るジュリーは、お店でもメインの時間帯で人気者を演じ、後半の玄人っぽい時間帯でアウトローを気取る委員長は、ミュージシャンの世界へと出入りするようになってゆき、次第に両者の個性がはっきりしてきました。ライバルと言うよりは、お互いに別の道を歩み出したとも言えます。この頃からお互い満足に口もきかなくなり、お互いの仕事やプライベートに関しても一切触れなくなっていきました。委員長はムラちゃんとバンドごっこへの道をひた走り、ジュリーは業界から表稼業への転進を目指して突っ走りました。ジュリーは地下から表へ、委員長は更に地下深く潜る、というような感じで相反する動きでもありました。手堅く足固めしていくジュリーと、一発大穴狙うロニーみたいな感じでしたね。今あらためて冷静に振り返ってみると、二人の根本的な野心というか本質は「貧乏生活からの脱却」だったわけで、行き方こそ違うものの人間として奥底に流れるものは同じだったような気がします。学歴もなく、世間一般で言う家柄もなく、親の縁に薄く、生活が立ち行かなくなる将来の不安が常に心の片隅に息づいていて、それはひとりで生きて行かねばならない孤独さだったのかも知れません。突き詰めて言えば、自分以外は信じられない人間不信のようなものだったとも言えます。とは言うものの、それだけ冷めていたかと言えばそうでもなく、お互いお人好しなところも随分有り、結構くだらないことでよく騙されたりもしました。敢えて言えば、委員長の方が金銭に対する執着心が多少薄かったせいか、遊び人みたいなろくでもない人間ばかりが集まってきていました。類は類を呼ぶってやつでしょか。反面、ジュリーは当時からしっかり貯金とかしていたし、車なんかもローンで買って頑張っていましたから、遊ぶ余裕なんてのはありませんでしたね。まあ強いて言うなら女遊びくらいかなぁ。なくて七癖って言いますから、人間は何か弱点がありますよね。
2005年08月28日
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熱狂と興奮のDJバンド。たった1日、というよりたった数十分の出来事でしたが、それはやはりDJとは違って自分で演じる楽しさと、観客を乗せる醍醐味はステージに立った者にしかわからない魔法のような快感を共有した素晴らしい体験でした。ひょっとしてバンドでメシ喰っていけるかも、少なくとも皆の心の中にはこんな甘い誘惑が芽生えたのではなかったでしょうか。(よくあんだよね、こういう勘違いってヤツが)多かれ少なかれ、バンドをやりたいなんぞというヤツは皆同じです。この一瞬の快感に導かれて人生の落とし穴にハマって行くのです。まずはムラちゃんが結構その気になってしまいました。今回はシゲル君という若手が登場したために、自身はステージに立つことは叶いませんでしたが、本人は未だ現役でベース弾いてましたから、チャンスがあればもう一度みたいな気持ちは少なからず抱いておりました。次に委員長がその気になっていました。やっぱりバンドだなぁ~としみじみ思っていたのでした。ダンサーもDJも所詮は人の褌でメシ食ってるだけじゃないか、という常々抱いていた本質的な疑問の答えを見出したような気持ちになっていたのでした。人の創った音楽をネタに商売しているだけじゃ結局メインの座を得ることはできない、そう思うのは当然です。ダンサーもDJも、自分ひとりでは決してメインのステージには立てません。そう考えると、やはり音楽のメインステージは、自分で演奏して自分で歌うことのできるバンドでしかないのです。更にジュリーが軽いノリで調子コキます。「面白いじゃん、全員DJでバンドやるなんて、まず今までにないじゃん」アイドル系王様タイプですから、バックバンド+ジュリーの構図はすでに本人の頭の中では出来上がっています。さて、現実的に中核になるのはリトとレビンですが、共にプロとしてやってきて一応は結論を出した二人ですし、日本で生活していく難しさも彼らなりには熟知しています。いや正直言って、委員長やジュリー、ムラちゃんなどよりもよっぽど人生について真面目に考えているし、そのための生活設計みたいなものも彼らなりに持っています。当然答えは「遊びならOK」です。当たり前ですよね。こんな子供の夢のような話に、今更簡単に乗るわけもないし、人一倍生活かかってますから。はしゃぎまくったジュリーはどうも納得できないようで、なんとかムラちゃんに喰らい付いてしぶとくねだります。ムラちゃんはジュリーのアイドル性を普段からかなり評価していましたから、本人がそこまでやる気があるならいけるんじゃないかと考えました。相談を受けた委員長は、「オレは踊って歌えるソウルバンドにしたい」と更に子供の夢のような話で駄々をこねます。「それを実現するためにもバンドのキャリアを積む必要があるだろ」みたいな説得をされ、それも一理ある、と上手く丸め込まれてジュリーとロニーのバンド構想がスタートしました。リトとレビンはあきらめて、ムラちゃんがまたまた自分の昔のバンドメンバーに声をかけてメンツを揃えることになりました。お調子者のジュリーは早速お店でベシャリをかましてしまいます。「トゥモローUSAから夢のDJバンドが結成されました。バンド名はザ・ドリーム」(くっさ~、ドリーム?高校生バンドだってそんな陳腐な名前付けねぇぞぉ~)まったく、この鈴木のしょうちゃんは昔からこんな感じで、すぐ感情で先走る傾向がありました。逆に言うと、このあたりが子供っぽさの残るところで憎めないところでもあったのですが、歳を取っていくに連れて、こういう性格が他人には誤解を招くようなことになっていったりしたんですね。それとネーミングのセンスは昔から「無かった」ですね。ということで、ドリームの第一回練習は前回同様下北沢のスタジオで行われました。メンバーはムラちゃんの元バンドの中核的人物だったギタリスト・ヨンタナ(サンタナに似てたからそう呼ばれてました)、ドラムは小熊君、ベースはシゲル、結局ムラちゃんは自身のパートを譲ってキーボード(シンセ)を担当しました。そして委員長のギターとジュリーのヴォーカルで6人編成のバンドでした。課題曲はディープパープルのブラックナイトとブラザース・ジョンソンのゲットザファンクの2曲。(スゲー選曲だなぁ)当時は、親指で弾いて小指で引っ掛けるチョッパーベースが注目を集めていた時期ですから、シゲルもチョッパーはかなり派手にバチン、バチン入れてました。で、何故ブラックナイトかっていうと、ジュリー君のヴォーカルはどちらかというとハイトーン(決してメタル系ではありませんよ、単に声が高いって言う意味です)だったので、まずSOULには向いてませんから、取り合えずハードロックやってみようよ、ってなとこでした。Get the funk out ma faceにしてもさほどヴォーカルが強調される曲じゃなかったし、なんかソレっぽい曲を入れなきゃロニーがイジケルだろって、ムラちゃんは中々の苦労人でしたね。さあ、練習日、やっぱりジュリー先生は遅刻です。やっぱりなぁ、って思いつつも、30分ほど皆で音合わせ等をしていると、「ごめんごめん、ちょっとフォノグラムでつかまちゃってさぁ~」っていつものジュリー節で登場です。バイトしててDJしてバンドまでやれるんかい、って皆の不信感をもろともせず、早速練習開始です。一応歌詞カードなんぞを持参したジュリーですが、実際に歌ってみてちょっとは気が付いたようです。こりゃ遊びじゃ出来ないなって。委員長は約1年程前、三鷹のスタジオで自分の実力を思い知らされたあの苦い経験を思い出しました。「まあ、最初だからこんなもんだよ。練習あるのみ、練習だよ練習」委員長は自らの体験を踏まえ、そう言って励ましましたが、ヨンタナがぴしゃりとクギを刺します。「もっと自分で歌いこんでこなきゃスタジオ代がもったいないぜ」グサッ! あ~、あの三鷹の悪夢が再び蘇ります。「まあ、もうちょっと自分で自信が持てるようになってからだな」追い討ちをかけます。(って当たり前のことを正直に言ってんだけどね)「ちょっと選曲も悪かったかもしれないね。もう一度考えてみよう」ムラちゃんがそれとなくまとめます。(大人だなぁ~)ということで、バンド結成の意気込みも虚しく、意気消沈してトゥモローUSAのお仕事に向かうザ・ドリームでした。なんにせよ、新しいことにチャレンジする気持ちが嬉しい委員長は、ダンサーズの経験も生かし、あまり焦らずに練習を積んでいくしかないだろうなと思っていました。一番良い練習方法は、やはりどこかのハコに入って毎日演奏すること以外にないと思っていました。ダンサーズも結局は実演、ステージを繰り返すことによって緊張を保ちながら踊りが仕上がっていきます。バンドだって同様ですから、毎日の繰り返しの中でチームワークも整っていくものだと悟っていました。(継続は力なりって言いますよね)この点はムラちゃんも同意見で、ある程度の音がまとまったら、どこかのハコにもぐりこむことを考えていました。実はこの話が持ち上がったときからすでに、大まかの構想と危惧していることなどもあり、仕事の後、深夜喫茶で始発待ちをしながら、そんな話に明け暮れていた委員長とムラちゃんでもありました。しかしながら、いつもぶつかる問題は、果たしてジュリーが今の生活を捨ててまでバンドをやるかどうかということで、この点は二人ともやはり疑ってかかっておりました。軽い気持ちで考えているだろうことは判りきっています。そして今日初めての練習を終えてみて、あらためてその疑念が強まりました。それならそれで、自分たちも含めた回りの人間が本気になる前に辞めておいた方が良いのではないか、というような話も何度か出ましたが、中々に辛抱強いというか苦労人といおうか、もう少し様子を見ようというムラちゃんの言葉に、そうまで言うならと従わざるを得ない委員長でした。ところが翌日、出勤してきたムラちゃんの顔色が酷く悪く、更に重い言葉で「後で話がある」と委員長に告げると、その日は仕事中ほとんど口をききませんでした。さて、いつもどおりマジソンのハンバーグ・ステーキセットをパクつく委員長を前に、メシも食わず真剣な顔のムラちゃんが淡々と語り始めたのです。「実はさ、今日仕事に来る前にジュリーに呼び出されてさ、色々聞かされたんだよね。自分の人生についてとか生活についてとかさ」「ふ~ん、ジュリーって昔からきっちり貯金とかしてるもんね」(そーゆう話じゃねーだろ)「でさ、結論から言うとさ、バンドは辞めるって」「良かったじゃん、本人から言い出してくれて」「それはそれで良いんだけどさぁ、なんかこう筋が通っていないっていうかさ」「筋って言うと?」「バンドなんてさ、所詮、実生活とはかけ離れたところから始まってるわけじゃない?だからやりたいかやりたくないか、好きか嫌いか、以外の選択というか理屈はないわけでしょ」「うん、そりゃまぁそうだよね」「だったらさ、生活がどうのとか、人生がどうのとか、聞きたくなんかないし、辞めたいってだけでいいじゃん」「それだけじゃないの?」「みんなには続けて欲しいとか、裏方で応援するとか言われるとさ、俺達は一体何なんだって思うわけよ。本人がヒーローになりきってるわけ。自分が抜けても皆で頑張ってくれみたいな話になってさ」「ふ~ん。まだ一回しか演ってないのにね」「オレさ、なんかそこで吐き気がしてきちゃってさ」「あはは、ムラちゃん、結構神経細いんだね」「なんかさ、ずしんと重いんだよ。今までに無かったタイプだから」「ムラちゃん、オレなんかもうジュリーとかれこれ3年一緒にやってんだよ。大体何考えてるかくらい見当付くし、そんなに真剣に考えてたらこれから先付き合っていけないよ」「でもさ、あれだけはしゃいでてさ、たった一日でこれじゃね、人間性疑うよ」「人間性って言われると、俺も疑わしいけど、俺達だけでやればいいじゃん。そのうち、一緒にやっとけば良かった、って思わせてやればいいじゃん」(う~ん、この展開って過去にもあったような気がするなぁ)ということで、まさにドリームはナイトメア悪夢となって終わりました。翌日、何事も無かったように明るく響くジュリーの声がトゥモローUSAのダンスフロアに響き渡っておりました。「歌舞伎町はど真ん中、東宝会館7階、アメリカンディスコ・トゥモローUSAからお送りしております。お相手は新宿のジュリーこと鈴木昇二でお付き合い下さい」
2005年08月27日
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(昨日の続き・・・デス)というわけで、ジュリー以外の面々はパラキンのバンドの皆様に頭を下げて「機材お借りします」と殊勝な態度でステージに上がります。なんといってもジュリー先生はオオトリですから、余裕のご出陣です。「アンプのチューニングはいじらないでね」と注意を受けた面々、パラキンのバンマスがマスターボリュームを低くしていったことを見逃さなかったムラちゃんでした。そりゃ、どんな素人かわかりませんが、金貰ってる自分たちよりフロアを沸かされたりしたらプロの面子がなくなります。たとえ姑息な手段と言われても、なんらかの小細工はしていくのはあたりまえです。ちょっとした音合わせの間に全員のアンプを見て回ったムラちゃん、しっかりといじくって調整を施します。ハウスパーティーですからもちろん常連も数多く、DJがバンドをやるなんて企画は盛り上がらないはずがありません。メンバーの顔ぶれを見ても期待は高まっていきます。アフロ頭にジャンプスーツの委員長、まさかキャロルを演るとは誰も思っちゃいませんね。ショーなんてものはこの裏切りが結構起爆剤になったりするんですよね。(ほんとかよ)オープニング、どっか~ん! LONG TOLL SALLYからメドレーROCKIN’ ROLL MUSIC!リトがぶちかましてレビンがつなぎます。いきなりのロックンロールに会場は「おお~っ」という感じで一気に盛り上がりました。続いて委員長の雄叫びです。「かっわいいーあの娘はルイジアンナ~」(なんだよ、あいつアフロのくせにキャロルかよ、などの声が聞こえますが関係ナイ!)「も一度おどって、も一度やらせて、お願いだっかぁら~」(ってちょっと下品だけどウケましたねえ)さあここでトリのジュリー登場。素肌にジャケット羽織ってソフトまでかぶってます。もう完全に沢田研二入ってますねぇ~。小娘軍団みたいなのがキャーキャー騒いでおります。(まあ、どのみち余興ですから)危険な二人~時の過ぎ行くままに、でチークを踊らせて、マイク持ったジュリーがすかさずノーガキをたれます。「本日はトゥモローUSA1周年記念パーティへご来場下さいましてありがとうございます。僕らDJ一同これからも頑張りますので応援して下さい。ではもう一曲みんなで踊って下さい。ジョニーBグッ~ド!」(世界はボクラのために~みたいなノーガキですね)どっか~ん!!ラストはジョニーBグッドでグチャグチャです。リトは興奮してマイク持ったままフロアに飛び出て、客と踊りながら歌いまくります。(さすがプロです、つぼをちゃんと心得ています)委員長も調子くれてギターを肩からはずしてダンスフロアーに飛び込みます。(なんだよ、アフロのくせにツイスト踊ってるぜ、と言う声も聞こえますが、気にしな~い)ゴーゴー、ゴージョニーゴゴゴー!ダンスフロアー大合唱の渦です。ギャオー!演ってる方も踊ってる方も皆頭のヒューズが2~3本飛んでます。戦い済んで日が暮れて・・・・。パラキングループのボーヤ連中が機材撤収に入ります。「あいつら勝手にアンプいじりくりやがってよぉ、素人のクセしやがって」プロよりウケたのがちょっと気に入らないようです。たぶん親方たちにも八つ当たりされたりしたのでしょう。オメーらがもうちょっと客を乗せて躍らせなきゃダメだろ、くらいに言われたのではないでしょうか。そんなパラキン小僧たちがブツブツ言いながら機材を運んでいます。「本当、トーシロのくせに調子にのりやがってよ、まったく、やってらんねぇーよな」搬送中のエレベータ前ですれ違った委員長とシゲル君の耳にはしっかり届いています。「何だぁ~、なんか文句あんのかこの野郎」すかさず絡んでしまうお調子者の委員長でした。(まだまだ若い)ドキっとして小さくなるパラキン小僧4名。「おめーらなぁ、新宿でナンパすんには十年早ぇんだよ、田舎のデスコとは違うんだよ、ここは」ずぼし!とばかりに委員長に下心見透かされたパラキン小僧たち、ちょっとムッとした顔で委員長を睨んで搬送の手を止め身構えました。「あれっ、何かな、その態度は」(と突っ張るものの、4人じゃちょいとヤバイかなぁ)と視線をシゲルに送ります。と、シゲルが委員長の前に立ちはだかるように出張ります。「カッコつけんのも良いけどな、殴られんのは痛ぇぞぉ、にーちゃん」ちょっとファイティングポーズ入ってます。(大人しい顔してるクセにダイタンなやっちゃなぁ、こいつは)チッと舌打ちして機材運びに戻るツイスト野郎たち。(あー良かった、ちょっとだけ冷や汗出た、4人じゃちょっと危なかったなぁ)別にケンカが強いわけでもないのに後先考えないですぐ調子コク性格の委員長は、これが原因で時々痛い目にあったりしていましたが、それよりなにより、シゲルのこの余裕には驚きました。「シゲルってそんなにゃみえなかったけどなぁ、ツッパリだったんだぁ」「そんなたいしたもんじゃないですよ。ただ目の前で生意気こかれたらね、ちょっと黙ってらんないでしょ」(口調が穏やかなんだよね、こいつは。だから不気味ってのもあんだけど)とにかく、へえーっ、こんな隠し芸があるんだぁ、と見直した委員長でした。恵比寿生まれの恵比寿育ち、お坊ちゃまみたいなこのシゲル君が、実は元ボクサーでジョーカーズ出身という恐ろしいヤツだと知ったのはこの年の暮れ、皆で明治神宮へ初詣に出かけた時のことでした。いやーホント、人は見かけによらないってのはまさにこのことです。
2005年08月26日
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必殺のDJバンド of Tomorrow USAの練習が始まりました。(といっても1日だけだけど)練習スタジオは下北沢のスタジオ「WHO’S WHO」に決定。残暑厳しい下北沢商店街を、重たいハードケース入りのグレコのテレキャスターを担いでいそいそとスタジオに急ぐ委員長でした。メンバーは時間通り集合。いつも時間にルーズなジュリーも、この時ばかりはさすがに緊張してか定刻集合しました。ディレクターのムラちゃんより簡単なコード譜が配られ、早速音出しです。簡単な3コードですから、あとはノリさえ合えば何とかなります。まして中にはプロ二人とセミプロ二人、素人は委員長とジュリーだけですから、これで音がまとまらないようだったらステージは御辞退するしかありません。さて、しょっぱな、リトのLONG TALL SALLYでズッコーンと抜けました。まるで、もう昔からずーっとやってたバンドのようです。続いてレビンのロックロールミュージック、これは途中のサビの部分にちょいとしたシンコペが入りますから要再調整、それでも楽勝ってな感じです。さあていよいよ委員長のキャロルです。二曲ともブレイクがポイントですが、シゲルが矢沢ベースをしっかりとコピーして難なくパス。そしてジュリーの歌謡曲2本立て。これはちょいとアンサンブルを整えるのに時間がかかりました。皆原曲をよく聞き込んできていませんから、それなりの雰囲気を出すにはちょっと骨が折れました。(あんましやりたくないなぁ~みたいな気分がモロ出てます)でもって最後はジョニーBグッドのアドリブ入りですが、いやーこれはもうノリノリ、練習とは思えないほどみな力が入りました。レビンのギターソロなんてもう、かなり自己陶酔入ってました。(Go, go! Go Johnny go, go!って大合唱)ディレクターのムラちゃんもさすがにびっくりしていました。初めてのセッションでこれだけまとまるなら、こりゃひょっとしてこのままバンドで喰っていけるんじゃなかろうか、みたいな妙な期待感も生まれたりしましたね実際。ということで根が道楽者のメンバーですから、あまり深くは考えず数日後はぶっつけ本番と言うことになりました。練習を終えて仕事に戻ったメンバーは、ここでひとつ大事なことに気がつきます。楽器はどうすんだ? そうです肝心の楽器手配は誰も考えていませんでした。レンタルにしてもたった2~3日で揃うかどうか、不安になったジュリーとムラちゃんは委員長を伴って糸数支配人に相談に行きました。「あ~、バンドね、パラダイスキング呼んであるから。相談してみれば?」やっぱり信じてはいなかったのですね~、DJバンド。そりゃそーですよね。少なくとも千人からの客を想定しているのですから、素人バンドでコケたら良い笑いものです。いくら色物、DJバンドとかいったところで演奏がシャバダバでは洒落になりません。「じゃー僕達の出番は無いってことですか?僕らは一生懸命練習してるんですよ」(練習してるたってたった1日だろ)こーゆー時のジュリーってのは学生っぽいっていうか、青春ドラマっつーか、熱くなるっつーか、面白いキャラでしたね。妙にムキになっちゃったりして。「いやいや、ジュリー達にもやってもらうんだけど、やっぱりプロも呼んだ方が良いだろうってことになったんだよ」(う~ん、さすが大人、なだめるのが上手い)ということで、機材はその時ちょっとお借りするってことで、先方の事務所に話をつけてもらい、なんとかDJバンドのステージは実現の運びとなりました。しかし、ダニー飯田とパラダイスキングって、凄いセンスでしたね。開店記念の平尾まさあきってのも凄かったけど、更に凄いバンドの登場です。でもこのグループって確かハワイアンバンドじゃなかったっけ?(ギャラ安かったのかなぁ)さあ、USA軍団の胸をワクワクときめかせつつ1周年記念のパーティーはやってきました。男女共に千円で飲み放題(って言っても水割りとジュースね)でポテト食べ放題(って胸焼けしそうだ)の大サービスで、よ~く集まりました。店内満員御礼のすし詰め状態。メインイベントのパラキンことパラダイスキングの登場です。まあとにかく人が入ってれば何やったって盛り上がりますからね。しかし、ヴォーカルのおっちゃんはどう贔屓目に見てもクラブ歌手だろって感じで、パートナーはちょっと若いおねーちゃんだったけど、どうみてもサクラと一郎だよこれはって感じです。でもその割にはバックバンドは結構若くて、なんだかアンバランスな感じでした。さらにリーダーのダニー飯田さんのご紹介があります。出た!スチールギター、びょ~ん、びょ~んってな感じで、どうもハワイアンだよな、やっぱり。トップナンバーはいきなりポール・アンカ「ダイアナ」ですね、やっぱりって感じです。(平尾さんの時とあまり変わり映えしませんね)ブレザーのおっちゃんとひらひらフリルのドレス着たおねーさまのデュオ。どうみてもクラブのディナーショーだよこれじゃ。まあ何と言いますか、ソツない演奏、ソツないステージ、見ていて安心、おじょうずなんですが、どうもピリッときませんねぇ。ということで第一回目のステージが終わり、DJタイムに変わると、案の定大爆発、そりゃそうです千人からの客が入っているんですから、何かけたって踊らないわけがない。しかも結構退屈なバンドショーの後ですから、そりゃ大爆発するのも無理はありません。「おー、盛り上がってるじゃん」ひどく興奮気味のジュリーですが、委員長はじめ、みな結構緊張気味です。DJバンドの出番は機材の調整もあるので、パラキンの2回目のショーが終わった後のアトラクションということになっていました。楽屋をパラキンに取られてしまった委員長たちは仕方なくDJブースの周りでウダウダしています。そんな熱気あふれるダンスフロアでは、パラキンのボーヤというか付き人というか取り巻きと言うか、妙なフィフティーズ・ファッションをしたあんちゃん達が踊っておりました。もう見るからにナンパ目当てはミエミエですが、いまひとつ自分たちをわかってないというか、地方営業と混同しているというか、回りの雰囲気に相当浮き上がっていることすら気付きません。いかにも「オレたちゃゲーノー人だぞぉ~」みたいなアピールがミエミエです。まあ実際のところ、誰も相手にしてないって感じだったんですけど、どーも本人たちワケがわかっていないというか、俺達ゃゲーノー人だぞ、ゲーノー人、ほらほら今夜相手してやるから寄って来い、みたいなね、可愛げのない野郎たちでした。さて、こーゆーことには人一倍目ざといチーフDJがいますから、これ見よがしに常連のお嬢ちゃん系を回りにはべらせてキャーキャー言って見せ付けます。さらにお祭り気分で悪ノリしてるスタッフも、こーゆー甘ちゃん野郎たちが目に付いているようで、ウェイターのお仕事の傍ら鋭くガンなどを飛ばしまくって威嚇しています。しかし、パラキン小僧たちは世間知らずと言うか、アホ、ゴホン、いや失礼、ディスコ知らずというか、一向に気遣う素振りもなく相変わらずフロアのおねーちゃんたちを物色しております。そんなこんなで早くも2回目のステージが始まり、それまで熱気ムンムンで盛り上がっていたダンスフロアもちょっと沈みます。これって、ひょっとしてDJ盛り立てるための趣向?みたいな、なんのための生バンドがようわかりませんね。と、そこへ例のパラキン小僧たちがフロアに躍り出て、下手糞なツイストを大振りで繰り広げるではありませんか。サクラ使うんならもちっとマシなヤツ使えよなぁ~、みたいな感じでしたが、本人たちは周りの雰囲気も一向にお構いなしで見栄をきっています。身内ばかりでなく一部観客しら~っとしてます。「ジュリー、あいつらちょっと鬱陶しくない?」「うん、オレもそう思う」たまりかねた委員長は、ダンスフロアでウダウダ踊っている常連諸君に「者ども、ひけーっ、ひけーっ」の合図を出します。先頭で次のDJタイムに備えて陣取りしていた常連たちがぞろぞろと引き始めました。残っているのは、フツーの一般市民の皆様だけですから、パラキンだろうとドリフターズだろうと呑んで踊ればそれでハッピーってなもんで、バンドの2回目のステージも恙無く終了いたしました。ここでチーフDJからのアナウンスが入ります。「さあ、お待たせいたしました。いよいよトゥモローUSAがお送りする今夜のメインイベント、DJバンドのショーをお送りいたします。日頃お世話になっております我々DJが・・・・・」さすがチーフです。次から次へと、よくもまあこんだけテキトーなことが喋れるなあ、ってくらいぺらぺら喋くりまくって会場を煽っていきます。しかし、今夜のメインイベントはパラキンじゃないんかい。って、こういう図々しさがジュリーの得意技で、アメリカっぽいっていうのか、売込みがうまいっつーか、ハッタリが効くっつーか、この手の大風呂敷は右に出るヤツぁいなかったですね。(後編につづく・・・・)
2005年08月25日
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前回は数少ない当時の資料、と言うか委員長が偶然持っていた雑誌からお話しましたが、当時、毎日あれだけ聞いていたヒットソングなのに意外と記憶に残っていないのがちょっと不思議な感じでした。今回も引き続き当時のヒットソングの話題から入りますね。曲自体の記憶が全然無いんですけど、とりあえずよ~くかけた曲を思い出してみます。ラブマシーンの「恋のショック」アメリカン・ガールズが星条旗をデザインしたユニフォームを着て並んでいるシングル盤のジャケが印象に残っています。ワンダーウーマンみたいだった。踊りはステップ。これはステップ以外で踊る客はいませんでした。ステップ課題曲?原題は確かDesperate だったと思います。衝撃的な恋と言う意味でショックなのかぁ、と妙に納得した覚えがあります。でも曲が浮かんでこないのは何故だろう。多いときは1日3回以上は確実にプレーしていたと思います。フローターズの「フロートオン」スローでやたら長い曲だったからリクエストが多かったのかもしれません。とても雰囲気のある曲でした。12星座をひとつずつ語るところがムードありました。ファンキー・ビューロー「クラップユアハンズ」和製ディスコながら健闘したのではないでしょうか。ブレイクで手拍子打つところがミーハーぽくて受けたのかなぁ。もうひとつのブギー・ウォークもステップ系だったかな。確かディスコ教会が昔のステップ・ウォークをリメイクして流行らそうとしたけど、ダメだったんじゃなかったかな。EMOさんのイラスト付きだったと思う。結局現場では全然違うステップで踊っていました。残念。これも曲を全然覚えていない。なんか後半に「ドゥイッ~」って感じのヴォーカルが入っていたような。。。DO IT, DO IT~。ラルフ・カーター「エキストラ・エキストラ」ステップの代表選手みたいな印象が強く残ってます。これかけると軍団みたいなのがダーッと出てきてフロアを占領しちゃうんで、委員長自身はかな意識的に敬遠してました。むこうもコイツにリクエストしてもかけてくれないから、みたいにステップ軍団とはあまり相性が合わなかったですね。でもあれだけ頻繁に、しかも何処行ってもかかってたのに曲自体を覚えていないのが不思議です。ステーヴィー・ワンダー「可愛いアイシャ」ポップな曲で幅広い客層に好まれた曲でした。ステップ踏んでた客もいたけど、三連ビートはノリにくかったんじゃないかなぁ。フル・ヴァージョンは7分近いロングヴァージョンでした。踊らなくても聞いてるだけでもHAPPYになれる曲でした。ブリック「Ain’t gonna hurt nobody get on down」委員長も個人的に大好きでしたねこの曲、アコースティックのギターのリフとトロンボーンの絡みがファンキーでした。このころテレビのソウルトレインでもヘビーな曲より、こういったちょっとPOPな感じの軽めのFUNKYサウンドが好まれていたようでした。このBRICKっていうグループもちょっと変わったバンドでしたね。モロFUNKかと思うとJAZZっぽかったり、後年はレイパーカーがプロデュースしたりしてましたね。とまあ、随分とだらだら書き出してしまいましたが、チャートやリクエストを振り返ってみても色々なサウンドがディスコになだれ込んできた様子が覗えます。これだけじゃあまりはっきりと出てきませんが、ロックンロールも結構かけてたような気がします。パートの合間みて20分~30分のR&Rタイムみたいな感じで、ビル・ヘイリーとかチャック・ベリー、リトル・リチャードとか、委員長もキャロルのライブヴァージョンとかかけた覚えがあります。客も50‘sのオリジナルかけないと納得しない奴らや、ビートルズとかキャロルでもノッちゃう奴らとか、ジョニー・ウィンターとか今で言うメタル系に近いのをリクエストするヤツとか色々いました。でもファッションは何故かアーミー系が多かったですね。進駐軍ファッションみたいな。おねーちゃんたちもアーミー着こなしてました。悪ノリしてグループサウンズかけたら結構ウケたのを覚えています。そのあたりの年代の人も遊んでたってことですね。カーナビーツとかジャガーズとか結構踊ったりしてました。そういえばアイ高野って後年クリエーションで歌ってましたっけ。かかる曲によってフロアの人々が入れ替わるみたいな、妙な感じ今でも覚えてます。もうひとつ凄かったのがなんと言ってもピンクレディでしょうね。とにかく凄かったですねぇ、この勢いは。皆で振り付け踊っちゃうんですから。その昔、新宿GETでも松尾ジーナの「気ままなジーナ」でステップ作ったり、山本リンダの「どうにも止まらない」とか「狂わせたいの」とかもステップ作って踊ったりしたことありましたが、このピンクレディ現象には及ばなかったですね。さすがに委員長はかけませんでしたが、何故かブラザー・ジョーはこれでかなりウケ取ってましたね。本人も振り付け真似したりしてね。「SOSチャッチャ、SOSチャッチャ」みたいな。でもって、ジュリーも負けずと「勝手にしやがれ」とかかけ始めちゃって、歌謡ディスコみたいになっちゃった。一体なんだったんだろあのノリは。客もそれで結構喜んでたんだから、よくわかりませんね。大衆心理というヤツは。さてトゥモローUSAのリニューワル・オープンは開店1周年記念でもありました。そこで、ハウス・パーティーの企画が持ち上がりました。何か、お祝いらしく派手なことをやろうということで、それならやっぱりバンドだろって、当時は必ず出てきた発想ですね。何かと言うとバンド呼べって、昔の体質そのまま引きずってましたよね。ナイトクラブとかダンパとか「生バンド」って言い方も凄かったですね。生じゃないバンドってどんなんだ?ってツッコミ入れたくなりますよね。そこで、我らがDJチーフが手を挙げて発言いたしました。「せっかくだから僕らDJでバンドやりましょう」おいおい本気かよ。言ってること解ってんだろうなぁ。元バンドマンのムラちゃんもいるし、リトも元プロだし、ロニーもギター弾けるし、あとは適当にメンバーみつけてトゥモローUSAバンドをやろうよってなことです。元々、新宿のジュリーなどと名乗っている鈴木のしょうちゃんですから、自分が歌ってみたいという単純な発想から言い出したことでした。糸数支配人、江川店長に異存があるはずはありません。ギャラもいらないし、話題にもなるし、ちょっと心配なのは「腕」の方ですが、そこはそれ素人考えで、DJだから音楽のことはよく分かってるだろし大丈夫じゃないか、みたいな軽い考えでした。ということで、昔から軽かったジュリーですが、またも軽い発言で結構みな右往左往させられました。とはいうものの、ムラちゃんもバンドには多少未練があるし、委員長にしてみてももう一発何かやってみたいという気持ちもあり、なんとなくこの話は進んでいくことになりました。タイミングというヤツも、皆の流れに勢いがあると上手い方向に導いてくれるもので、この時、ムラちゃんの元バンドメンバーのドラマー小熊君が、アルバイト探してムラちゃんを訪ねてきていて、こりゃラッキーってなことで1日だけのお仕事をしてもらうことで商談成立。更に、リトを頼ってフィリッピンから元サウンドウェーブスのギタリスト・レビンが来日しており、これでうまく行けばDJで使ってもらえるかも知れないぞ、という甘言で誘い込み、委員長の後輩KGが、バンドメンバー求むってウロウロしていた恵比寿の先輩シゲル君というベーシストを伴ってやってきたところ、すかさずオーディションだとか言って引っ張りこんだのでした。流れに勢いのある時とはこんなものです。インスタント・バンドの出来上がりです。ヴォーカル:ジュリーギター&ヴォーカル:ロニーギター&ヴォーカル:レビンエレクトーン&ヴォーカル:リトベース:シゲルドラムス:小熊君ディレクター:ムラちゃんいやー、しかし今考えるとスゲーメンバーですよね。当時こんな混成バンドって珍しかったんじゃないかな。さて早速レパートリーの相談です。寄せ集めの俄かバンドですからディスコサウンドなんざぁ百年早いってことで、今流行のロックンロールだろやっぱり、みたいなことで無難な結論です。とは言うものの、ジュリー&ロニーはそんな数日で英語の歌詞を暗記できるわきゃありませんから、「オレはキャロル歌わしてくれ」とか「オレはやっぱりジュリーだろ」みたいなことで、結局のところロックンロール・パーティー・プラス・沢田研二となりました。のっぽのサリー:リトロックンロール・ミュージック:レビンルイジアナ&ファンキーモンキーベイビー:ロニー危険な二人、時の過ぎ行くままに:ジュリージョニーBグッド:全員全7曲のステージレパートリーが決まりました。早速練習開始です。課題曲は皆各自コピーして1週間後にスタジオ集合となりました。
2005年08月24日
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新宿歌舞伎町東宝会館7階アメリカン・ディスコ・トゥモローUSA世界最大のダンスフロアーを持つこのディスコはビルボード誌にも紹介されました。76年8月に堂々オープンしたUSAは順風満帆とはいかずとも、なんとか年の瀬を乗り切って77年を迎えましたが、ここでまたひとつの転機を迎えることになります。それは同ビル4階にあった姉妹店「ビッ・トゥゲザー」の閉店と、同時にトゥモローUSAとの合併でした。遂にダイタン商事はその命運をトゥモローUSA一本に絞り込んだのでした。トゥゲザーの従業員のほとんどがUSAになだれ込み、7人の主任と5人のチーフ、4人のセコンドと8人の正社員ウェイター、5人の厨房で一気に膨れ上がりました。USA江川ファミリーの須貝主任、館山主任、渡辺主任に、トゥゲザーからやってきた小林主任(江川店長の実弟)、尾田主任、菊池主任、長友主任の7人衆を束ねる糸数支配人。同じく江川ファミリーの田中チーフ、に加えて橋本セコンド、小園セコンド、更にトゥゲザーから鈴木竜司チーフ、小松原チーフが入って多少の派閥争いのような小競り合いもありましたが、なんとかまとまり8月1日にリニューワル・オープンとなりました。リニューワルと言っても、ダンスフロアの中央の柱4本を取り外しただけでしたが、ダンスフロアの実質的面積は確かに当時世界一ではなかったでしょうか。同じ会社で同じビルにあった姉妹店とはいえ、そのカラーは随分と違っていて、社員のカラーが統一されるまでには多少の時間がかかりました。特にトゥゲザーのウェイターは不良というかワルっぽいのが随分といて、合併当初は一時的でしたが多少雰囲気が悪くなったりしました。特にトゥゲザーはバンドがメインであったためか、トゥモローUSAのスポットを浴びるDJに対して反感が持たれたりしました。特にアイドル系のジュリーがよく槍玉に挙げられ意地悪をされたりしました。フロントでジュリー目当てにやってくる客を捕まえては、「あいつは足が悪くていつもヒールを履いているが、脱ぐと左右の足の長さが違うんだぞ」とか吹き込んだり、委員長にしても、「歳ごまかしてて既に大きな子供がいるんだぞ」とか言われたりしました。事実ジュリーは小柄で身長もチョイ低めだったので、確かにヒールの高さはだいぶ高かったので、聞いた方も結構本気にしたりしてました。でも、所詮はアイドル系ですから「かわいそう、私が支えてあげたい」みたいな、それはそれで盛り上がっちゃったりして、噂を吹き込んだヤツの思惑通りには行きませんでしたね。委員長にしても、自身がMCで「独身子供一人」とか言ってましたから、あってもおかしくはない噂で、逆にジョークとして随分と使ったりもしました。まあ、今にして思えばこのあたりから開き直りというか、SOUL馬鹿もヤケクソになってバラエティー系になっていたのかもしれません。ところが、ジュリーってのはこういったことにやたらと過敏反応するタイプで、噂の出何処、流した張本人を突き止めようとしたりして、スタッフと多少の小競り合いもあり、さらに対立の溝を深めてしまったりしました。閉店に追い込まれた店の従業員は大抵心がいじけていますから、江川ファミリーの明るい雰囲気とは対照的に、店全体の緊張はしばらく高かったような気がします。また、77年は前述したとおり色々なことが次々と起こって、ディスコ産業自体がみな行き先を模索していたような時代でもありましたから、上り調子の勢いはなく、皆不安な気持ちが混ざった日々を送っていたといえるでしょう。当時のトゥモローUSAのヒットチャート(これはもう完全にジュリーの作ったデッチあげですが)が、手元に残っているので紹介してみたいと思います。(ジャーン!)リクエスト・ベスト20キミ達のリクエストをもとに、ツモローU・S・Aが集計した、ディスコチャートです。(原文のまま、さらに)ディスコで、最高にハッピーになれるときは、お気に入りの曲がかかった時。キミも。ヴァイブな曲にはボディを、メロウな曲にはハートを感じてみないか?(誰だろ、このコピー書いたのは。ジュリーかなぁ)第一位(先月5位) アット・ミッドナイト/ルーファス 票数342(本当かなぁ)これはかなり疑わしいですねぇ。この曲、委員長がかなり気に入ってましたからね。まだこの頃はSOULとかアフロ小僧には皆一目置いていましたから、この後のプロモ用ヤラセ順位をごまかす為だったような気がしますね。第二位(先月3位) ブギー・マン/KC&サンシャイン・バンド 票数301このあたりは本当のような気がしますね。ステップ系もソウル系もミーちゃんハーちゃんも気軽に踊れたナンバーです。第三位(先月4位) ベイビー・シッター/ソウル・イベリカ・バンド 票数294でた~!日本フォノグラム。もう完璧に出来上がってますね。しかも赤丸急上昇。しかし、委員長もシッター・ダンスなんてのをイラスト図解付で紹介してますね。TVのソウルトレインでも踊っている新しいステップなんてキャッチ・コピーが付いてます。でもこれは本当ですよ。ステップというより左右に手を振ってツイストするような踊りなんですが、ソウルトレインで何人かのギャングが踊っていたのを見て紹介しました。ステップを飽きさせようとした委員長のヤラセでしたが、あんまり流行んなかったなぁ。これも結局変なステップがくっついてきて、結局は大ヒット。この後、日本フォノグラムはジュリーとのコンビでディスコヒットを増産していくことになります。第四位(先月2位) 愛するデューク/スティービー・ワンダー 票数210これって確かにランキングはこんなものだったと思うけど、これってリクエスト集計でしょ。こんなに沢山はリクエストこなかったと思う。かければ誰彼なく踊ったのは確かだけど。第五位(先月9位) ダブル・ダッチ/ファット・バック・バンド 票数208これは嘘だろ、どう考えても。ポリドール・レコードって試聴盤あんましくれなかったから、ジュリーのヨイショかもしれない。あと、委員長の言うところのSOUL系DJへの多少の気遣いがまだこのあたりまではありました。現場で反発食うのを恐れたみたいなね。前にも書きましたが、ジュリーが理論武装、委員長が実技武装っていうこのコンビ、今にして思えば最高だったかもしれない。この時代あたりはまだSOUL系業界人がブイブイ言ってたから、カチこまれても委員長やモノホンSOUL MANジョーなんか結構盾になっていたような気がしますね。第六位(先月10位) ディスコ・インフェルノ/トランプス 票数206う~ん、これは多分レコード会社直径のUS情報からだと思う。ビルボード・チャートとかから選んだじゃないかなぁ。しかも赤丸急上昇になってる。委員長の記憶では、日本でヒットしたのは確か翌年の映画サタデーナイトフィバーからだったと思います。これはちょっと時代を先取りしてるんだぞぉ、みたいな見栄みたいな気がするなぁ。第七位(先月1位) 2人のホットライン/シルヴァーズ 票数185先月1位で今月一気に7位転落って、ほんとかなぁ。でもUSAではステップ派に人気あったし、確かにリクエストも多かったですね。もちろんSOUL系もフリーで踊ってたし。ブギー・マン同様八方美人的な曲でしたから、踊りを踊らない(踊れない)DJ系にとっては便利な曲でした。第八位(先月6位) 恋のチャンス/エモーションズ 票数173エモーションズの記念すべき再デビュー、プロデュースはEW&F、モーリス・ホワイトですね。これはエンバシーとかハレムでもよく踊ってたヒットソングです。委員長やブラザー・ジョーもよ~くかけました。第九位(先月8位) もうひとつの愛に・・・・/ウィリアム・ベル 票数172はいはい、日本フォノグラムですね。ヨイショっと。スローバラードです。172人もリクエストした人がいるなんてスゲー!第十位(先月7位) サタディ・ナイト/EW&F 票数170うん、確かにリクエストは多かったですね。でもベイシティローラーズと間違ってリクエスト入れたものも混じってんじゃないの(笑) ステービーの回想(I wish)とか恋のチャンスとか一連のダンス・シリーズって感じでよく踊ってました。この他15位にボニーMのダディ・クール(パパさん冷たい)とかがまぶしてあって、とりあえずはまだSOUL系といった雰囲気ですね。以上はトゥモローUSA発行の情報誌「さーち」からご紹介しました。(このご紹介しました、ってフレーズ、当時のDJはみな良く使ってましたよね)せっかくですから、もうちょっとPICK UPしてみましょう。推薦文を書いている人が数名おりまして、渋谷プリンスDJ渡辺寛氏推薦ウィリアム・ベル「もうひとつの愛に・・・」超プッシュですね、更に日本フォノグラム、ソウル制作渡部光一氏推薦デルズ「ワンステップ・モア・デルズ」結成25年記念アルバム(これは本当に良い出来でした)、続いてRCVソウル制作石原孝氏推薦シャラマー「アップタウン・フェスティバル」60年代のタムラ・モータウンのヒットメドレーでつなぎ合わせたシャラマーのデビューアルバムです。ソウルトレイン・レーベル、もちろんプロデュースはドン・コーネリアス。更に新宿クレージーホースDJ松本みつぐ氏推薦ジェームス&ボビー・ビューリファイ「恋のあやつり人形」日本フォノグラム(またまたまた登場)デビューアルバムらしいですが、はっきり言って忘却の彼方です。もう一人、新宿白馬車DJ渡辺たかし氏推薦アレサ・フランクリン「甘い熱情」ワーナー・パイオニアは大御所ってことで何故かナベちゃんこと渡辺氏が書いてます。後にこの方はエスメラルダというDJ養成機関虎の穴(笑)で講師を務めました。いい声してたんですけどねぇ、ルックスがどうも・・・・・・。(だからDJなんだろ)最後にもう一人だけ、新宿インディペンデントハウスDJジョイ氏推薦スレイブ「宇宙の奴隷」ワーナー・パイオニア、ってタイトルが凄いですね。確かにジャケ写真は奴隷風黒人が地球のような球体を担いでおりますが、宇宙の奴隷なんですか我々は?このヒットシングル「スライド」はかなり渋い曲でした。途中のギターソロがディストーションの利いたROCKぽいノリでかなりカッチョよかったですね。ということで、非常に数少ない委員長の当時の資料からご紹介致しました。今振り返って当時リクエストが多かった曲を思い出してみると、委員長自身が覚えていて強く印象に残っているものって意外と少ないもんですね。
2005年08月23日
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1977年のディスコシーンはといえば、それはそれは色々なことが次から次へと起こっていった時代でもありました。本当にめまぐるしく変わる流行というか、錯綜するファッションというか、このあたりの時代からでしょうか、ひとつの流行を全員が追うといったパターンが崩れ始め、各自が自分の好みで流行を取り入れていくような個性らしきものが生まれ始めていったのは。前半はロックンロール&ツイスト、俗に言うフィフティーズ(50’s)の何度目かのリバイバルブームからスタートして、ヨーロピアン・サウンドをベースにしたバスストップを真似たステップの流行、更にピンクレディーの大ヒットに合わせて振り付けそのものをディスコで踊ったりしてました。従来のディスコで踊っていたSOULミュージックも、黒人音楽の枠を離れエレガントさやPOPさを取り入れた軽めのサウンドが一般的になっていきました。いわゆるSOULからDISCOというカテゴリーに変わっていったのもこの頃です。代表格というか時代の先端を走ったのがアースウィンド&ファイヤーでしょう。グループの軌跡から言うとこれが第三期目にあたる変革期で、リーダー、モーリスホワイトが描いた構想の頂点に当たると思います。第一期はCBSソニーに移籍後3枚目のアルバム「OPEN OUR EYES」でサウンド的にもコンセプトが明確になり、続く「That’s the way of the world」で更に洗練されました。続く第二期ではライブステージでマジック・ショーばりの新しいパフォーマンスを取り入れたり、宗教、哲学そして宇宙観を見事に昇華させた過去の総括的アルバム「SPRIT」を発表。そして第三期、77年に発売された「All ‘n all」で遂に彼らの頂点を極めたのでした。とにかくこのアルバムは世界的にも大ヒットを記録したばかりではなく、あらゆるジャンルの音楽に影響を与えたと言っても過言ではありません。まさにEW&Fの最高傑作といえるでしょう。このアルバムのリリース以降、色々なジャンルで、色々なアーティストがこの手法を取り入れたサウンド創りをしています。委員長自身、個人的に言わせて貰えば、このアルバムで全てが完結したと思っています。ちなみにEW&Fはこのあと世界的なブームを巻き起こしますが、実際にはこのAll ‘n all以降特別新しい変化はなく、すべてはこのアルバムの延長線上にしかないと思います。黒人音楽からスタートして、JAZZとの融合、宗教的メッセージ=白人音楽への融合(商業的成功)、公演興行の改革、まさしく音楽史上に名を残すスーパーグループでありました。よく比較されるグループに「パーリャメント・ファンカデリック」が上げられますが、実際にその対極に位置するスーパーグループでしょう。徹底的にFUNKと黒人音楽にこだわったアナーキーさは、どう控えめに見てもPOPとは程遠く、一般人にとっては非常に難解な音楽とも言えるでしょう。ちなみに彼らは77年にライブアルバムを発表していますが、ROCK、 JAZZ、FUNKとクロスオーバーしたその音楽性はEW&F以上に刺激的です。モーリス・ホワイトの学者肌とも言える緻密な計算の上に成り立つ音楽性と宗教性は、鬼才ジョージ・クリントンのユニークな才能とはまさに対照的であり、明と暗、裏と表のように多数のアーティストに今も脈々と引き継がれています。ただひとつ言える事は、両者ともに現役で活躍しておりますが、過去のヒットでライブをこなすEW&Fに比べ、ジョージ・クリントン率いるP-FUNK軍団は未だにあらゆるジャンルのアーティストと競演を繰り返し、今も融合を続けています。EW&Fの計算に基づいてきちんと組み立てられたパッケージ・ショーと、生のフィーリングを重視したアドリブ主体のP-FUNKライブショーの面白さは、どちらもプロの最高峰に立つ貫禄があり、優劣つけがたい巨人グループと言えるでしょう。委員長の好みで二大スーパーグループの話が長くなりましたが、77年は全日本ディスコ協会が主催するダンス・コンテストが行われた年でもあります。「全日本ロックンロール・ダンスコンテスト」です。(でた~!ツイスト&ジルバ)つい最近までアフロ頭の全日本ソウルトレイン・ダンサーズなどというグループを引き連れて全国のディスコ巡りをしていたと思ったら、セクシー・バスストップのステップを広めるため奔走したりと、多忙な活躍をしていたディスコ協会でしたが、なんと今度はロックンロールで一大イベントの主催です。(やれやれ)そしてその会場となったのが何を隠そう(誰も隠してねーだろ)、トゥモローUSAだったのです。ヤッターって喜んでる場合ではありません。もう記憶が曖昧で、どこのレコード会社が協賛したかも忘れてしまったのですが、確か司会は我らがチーフDJジュリーだったと思います。もちろん審査員は勝本会長以下ズラズラとお馴染みの顔ぶれ。参加者を見てまたまた驚いた委員長でした。つい最近までアフロ頭していた協会関係者が、アーミールックに身を包み現れたではありませんか。なんのこっちゃねん、こりゃヤラセかい?ってなもんでした。苦し紛れかわかりませんが、アーミースタイルというものの顔は黒塗り(ドーラン)、パンツは細身、いわゆる黒人アーミーですね。(うーん、これは新しいアイディアだと納得)そー言われてみれば、フィフティーズ(50‘s)ファッションには黒人はまずいませんでしたね。(ラッツ&スターが出る前までね。あっキングトーンズがいたか)というわけで、全国から(本当に全国から来たかどうかは知りませんが)アメリカン・グラフティみたいなダンサーが沢山やってきました。はっきり言って、この間の事情はまったく忘却の彼方で覚えておりませんが、USAの江川店長と勝本会長は国士舘大学の先輩後輩の仲でした。(関係ないか)でもって、会場の代表者がいないのはおかしいだろってことになりまして、常連の女の子でそれなりの格好をして来ていた娘がいたので参加させることになりました。コンテストはペア・ダンスなので相手を探さなくてはいけませんが、そんなに都合よくそれなりの野郎が居るわけもありません。(嫌な予感がするなぁ)「ロニーを呼べ、ダンサーなんだから何でも踊れるだろ」糸数支配人の一言で指名された委員長は自身のアフロ頭を指差して言ったのです。「でもこの頭、どうすんですか?それにカッコだって」「おい誰かポマード持ってこい、ビン丸ごとでいいから。それとアー坊を呼んでこい」アー坊というのは当時ツッパリ・ファッションバリバリのウェイターでした。委員長のアフロ頭はとてつもなくでかいツッパリ・リーゼントに変身、ドッカーズの綿パンにBVDのTシャツ、革ジャンを羽織ってロッカーの出来上がりです。更にワルノリする糸数支配人は真っ黒なレイバンのサングラスを持ってきて、「これで優勝しなかったらダンサーの名折れだな」と一言。そりゃあんまりでしょう。しかし、ここでも協会系の参加者(ダンサー)はきちんと振り付けかまして、誰がどー見ても素人じゃありません。数ある参加者のなかに何人かは、間違いなく関係者のヤラセ組が潜んでいます。(お前もヤラセだろ)こうなりゃメチャクチャ暴れてやるぞ、と開き直った委員長はパートナーの素人娘に耳打ちして、ジルバは踊れるか確かめました。もちろん、だてに常連はやってませんから「大丈夫」のお返事。「じゃ、一曲はジルバでいくからね。ターン3回転とか入れるから、オレのリードに合わせてね。もう一曲はソロパートでツイストにしよう。ここでオレは派手に目立つから、あなたは可愛らしく審査員にアピールしてね。オレのことは放っておいていいから」ということでいきなりのぶっつけ本番ヤケクソです。なぜかステージに上がると闘志みなぎる性格からか、黒人アーミールックのヤツらを見て更にエキサイトします。なんと観客席にはイサムちゃんに混ざって顔見知りのDJがチラホラいます。皆、この委員長の姿を見てニヤニヤとあざ笑っています。(よーやるわって)見てろよ、思いっきり笑わせてやるからな。益々エキサイトする委員長。(笑わせてどーすんだって)さあ、コンテスト第一次予選です。ジルバはハッスル、サルサ仕込のダブルターンにトリプルターンの連増技。(ロックンロールとはちょっと違うと思うんだけど、まっ、いいか)参加者は大方がファッション重視で、あんまりマジで踊ってるヤツはいませんでした。例のサクラ組以外はそれなりのカッコマンばかりで、これは踊りの腕を競うと言うよりもファッションと派手なアクションの競い合いみたいなもんでした。さて、課題曲二曲目はソロパートで勝負。常連女の子は可愛くフリルのスカート翻してツイスト、委員長はジャンプしてダウン、ファンキーブロードウェイで昔の踊り場ショータイム。これは受けました。身内ウケ。イサムちゃんも大喜び。一気に会場の笑いを取って、振り付けサクラ組の出鼻を挫く作戦です。ということでシナリオどおり委員長は予選落ちで、特別賞を貰いました。会場側は必ず何かの賞がつきますからね。貰った賞状と副賞は女の子に渡してお礼を言うと、ポニーテール娘は嬉しかったのでしょうか、なぜかウルウル瞳で委員長を見つめます。一瞬ドキっとしましたが、さすがに子供には手は出せません。タイプも違うし。(ならタイプが合ったら手を出すんかい?って突っ込んでる場合じゃありません)「いやー、良いモン見せてもらったよ。爆弾リーゼントには参ったぜ」コンテスト終了後、イサムちゃんから労いの言葉を頂きました。(笑われてんだろ)お決まりゴトとは言え、入賞もしましたから店の宣伝にもなって、糸数支配人への義理もきちんと果たした委員長でした。祭りの後の余韻を引きつつ店の外にはアメリカングラフティさながら、ツッパリにーちゃん、ねーちゃんが屯しております。ポマードべとべと頭の委員長は、いつものようにムラちゃんと喫茶店マジソンに入ると、そこには例のポニーテール娘とジュリーが仲良くゴハンを食べているではありませんか。まあ、道楽者人生とはこんなものです。
2005年08月22日
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Good evening everyone!Welcome to the Tomorrow USA disc.My name is Ronny, DOKUSHIN KODOMO HITORI NIPPON-JIN.And I’ll be coming to you with a lotta soulful sound.Please keep me company for next hour.1977年春、トゥモローUSAにDJとして復帰した委員長のオープニング‘MCです。「独身子供一人ニッポン人」ってところは、日本のボードビリアン故早野凡平(ハヤノボンペイ)氏が使っていたフレーズでした。(パクリましたごめんなさい)ということで、トゥモローUSAの遅番専門としてシコシコとまた業界に入り込んだ委員長は、毎晩10時出勤の翌朝午前4時までのパートをこなしていったのでした。実際のところ、ダンサーズの解散で失意にあった委員長でしたが、不完全燃焼で終わったとは言え、その余韻とステージに立って観客の視線を浴びる快感を一度知ってしまった道楽者は、もはや麻薬患者のごとくスポットライトの魅力から逃れられずまたも業界に舞い戻ってきてしまったのでした。とは言うものの、遅番の出勤時間10時~11時はおおよそ1日の最終ピークですから、遅番第一回目のパートを終わる頃には、お客はみな終電に遅れまいといそいそと撤収、帰宅準備に入ります。あ~あ、って感じでズルズルと居残った客がちらほらする、がら~んとしたホールに虚しくディスコサウンドが響き渡ります。ブースの相棒、照明係のムラちゃんは黙って委員長の手元のミキサー、ティアックM3のマスター・ボリュームを二目盛りほど下げて音量を閑散時用に合わせます。さあこれから朝の4時まで、ムラちゃんと2人で頑張らねばなりません。大型店の客がいないときほど寂しく虚しいものはありません。残った客はと言えば、酔っ払ってグダグダと居座ってしまったヤツとか、遠くから遠征に来ていてどのみち始発まで頑張るしかないヤツとか、二次会、三次会の流れで踊り足りなくてやってきたヤツとか、どのみちまともなお客サマではありません。このころのディスコは大型店の進出と共に、その形態も大分と変わってきていました。今まではディスコと言えばソウル・ミュージックという具合に、ソウル一辺倒で走ってきたブームですが、この時代あたりからヨーロッパ系の軽いサウンドが入ってきたりして、従来の統一性はかなり薄くなってきていました。そんな時代のニーズをいち早く察していたかどうかはわかりませんが、トゥモローUSAの江川店長は4人のDJに別々の個性を持たせるように指示していました。まずは、早番専門のフィリッピン人リトは英語のMCで、アメリカっぽさを出させ、次の黒人ジョーには黒人特有のパフォーマンスで見せるDJを、同じくメインの時間帯を受け持つアイドル系とでもいうのでしょうか、新宿のジュリーこと鈴木しょうちゃんにはおしゃべりをふんだんに盛り込んだDJ、そして遅番専門の委員長にはダンサーズの経験を生かしてダンスマスターのようなDJを、といったような構想がありました。リトはもともとバンマス(バンドのマスターですね)でしたから、お客の状況を掴むのが大変上手く、選曲もそれなりにバランスが取れていて、アメリカンDJというような英語でリズムのあるDJのスタイルが出来上がっていきました。ブラザー・ジョーも同じくバンマス出身でしたから、これはステージアクションをふんだんに取り入れたサービス精神満点のパフォーマンスで結構呼び物になっていました。(一人バンドみたいな感じでしたね)衣装をパートごとに毎回変えて、喋りというよりもブースの上で身振り手振りのアクションを繰り出していきます。かといってSOULばかりかけるかといえばそうでもなく、そこはバンドマンのアッピール精神で、リクエストなどにも応えたり、定番レアアースのゲットレディなどもタイミングを見計らってかけたりしていました。大抵、リクエストをかけるのは次のDJジュリーに引き継ぐ時が多かったですね。自分を一番上手く演出できる曲はメインで、結構どーでも良いヨーロッパ系とか軽めのディスコサウンドは引継ぎ間際で上手くごまかしたりしてました。さて、チーフDJジュリー君はルックスが良かったのか(沢田研二っつーよりも布施明って感じでしたけどね)、やっぱりお客さんには人気ありました。おしゃべりもそれなりに上手かったし、愛想も良かったから、いわゆるアイドル系みたいな感じでした。彼の定番フレーズは、「新宿歌舞伎町はど真ん中、東宝会館7階、トゥモローUSAからお送りしております。お相手は新宿のジュリーこと鈴木昇二でお付き合い下さい」ってな感じのラジオ局のDJぽかったですね。ただ、基本的にはジュリーは踊りを踊りませんから、選曲は正直言って結構ばらつきがありました。勢いのある時は誰が何かけたって踊るってなもんですが、一旦場がしらけてしまうと引き寄せるのは中々にテクニックが要ります。まあ、言ってみればメインDJ2人がアイドル系みたいなもんですから、上手くその日の流れに乗ったときはドッカン、ドッカンノリまくるのですが、流れが少しズレると中途半端なノリになってしまいます。ジョーはもちろんFUNKY系が自分の見せ場ですから、この手の客が多いときは6割以上がSOUL・FUNK系になりますが、ステップ系の客が多いときは一気にフロアから客足が引いてしまいます。さあ、こうなるとあせってタバレスのディスコ天国あたりを流してステップ組を引き戻します。安心したジョー、次はブラスコンストラクションのチェンジンで自分のペースに戻そうとしますが、またフロアは引きます。あせったジョー、レアアースのゲットレディなどをかけだします。ここで高校生とか一般大衆的なお客が出てきます。続いてドナサマーのトライミー、ステップ組と一般組が入れ替わります。あーー、ドツボにはまったとはまさにこういうことですね。代わってジュリーはと言えば、相変わらずレコード会社のプロモートを請け負ったりしてましたから、パート中少なくとも3曲はプロモがかかります。もともとディスコというか踊り自体にポリシーはありませんから、流れが引いてくれば適当にリクエストかけたりして繋いでいきます。踊り場に集める曲は熟知していますから、いざとなれば何でも良いわけです。その日の客層で、それがソウルであろうがステップであろうが歌謡曲であろうが、基本的には踊らせれば良いわけですからね。実際のところ、これがごくまっとうなディスコのDJじゃなかったかなという気がしないでもありません。要はお客が喜ぶものをうまくかける、当たり前のことです。ただ、これは客が主導権を握っているようなものですから、土日の混雑時になると結構殺気だってきます。ブースの周りに各ジャンルごとの常連が張り付いてきて、自分たちの好みがかかるまで威嚇されたりします。主体性が無い分、リクエスト争奪戦みたいな感じで、八方美人はこういうとき結構辛いもんがあります。とまあこんなことを続けているうちに、大体の選曲のパターンが生まれてきて、個性と言うよりはDJの色分けのような状態になってしまったのでした。しかし、ジュリーは女の子にはもてましたね。よーくもてた。特に若い子にね。遊び人系はダメでした。やっぱそーゆー雰囲気ではないもんね。俗に言う素人っぽい娘が結構イカレマシタ。ゴホン、失礼。さあ、そうなってくると委員長はどのような出番でオツトメしたらよろしいのでしょうか。試行錯誤、結局当面はジョーのパフォーマンス系でダンサーズの衣装着てブースで踊りながら、ジュリーのおしゃべり系でベシャリをかます、って、そのまんまですね。今にして思えばなんだかバラエティ系ですよね、これって。まあ、深夜番は客も少なかったし、土日を除いたら結構遊んでたみたいなもんでした。あとひとつ特筆しておかなければいけないのは、トゥモローUSAのDJブースはステージ風に一段高いところにあって、DJは皆立ってやってたということです。これも江川店長のアイディアで、DJのパフォーマンス性をもっと前に出して、個性を売るという目的でした。これは従来のブースの中の黒子的存在だったDJを、スポットライトの当たる表に引き出したってことではかなり画期的だったと思います。だから全員ブースの中でスポットを浴びて立ってやってました。これってやってる方も結構その気になるんですよね。注目されてるって実感が湧き上がって来るから自然と自身を演出するようになっていきます。本人が意識するほど客は見ちゃいないんですけどね(笑)とまあ、こんな具合で毎日が過ぎていきましたが、この委員長の充電期間というか潜伏期間の大きな収穫は仕事の後の始発待ちでした。午前4時閉店。その後は目の前のジョイパックビルの1階にあった、マジソンという喫茶店で始発が動くまで待ちます。マチャアキの代わりに入った委員長は、以前にマチャアキがそうしていたように照明係のムラちゃんと喫茶店で過ごす毎日となりました。まさしくマチャアキの代わりと言うべく、ある時は麻雀などにも誘われますが、残念ながらマチャアキほど委員長は弱くなかったので、鴨ネギというわけにはいかず、マチャアキほど頻繁に狩り出されることはありませんでした。さて、ムラちゃんとはたった一度でしたがバンドも経験した中です。ムラちゃんも結局はバンドを解散して、今はこうしてシコシコと照明係などをして食い繋いでいるわけです。お互い志半ばにして倒れた同志のような共感も生まれ、この不完全燃焼したやり場をお互いにポツポツと話し出したのです。控えめな性格のムラちゃんでしたが、それなりにバンドという閉鎖された中での人間関係を体験してきただけあって、委員長にしてみれば随分と大人に見えました。確かに2つ3つ年上でしたが、年齢以上に委員長の知らない音楽の世界を色々と教えてくれたのも彼でした。
2005年08月21日
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誰が名付けたのか「おかまダンス」。ディスコ文化に衝撃を与えた新宿の Pop Culture はまさに時代に咲いた花でした。SOULにしろヨーロピアンにしろミュンヘンにしろ、元々は外部から入ってきた、いわゆる輸入モノの加工品ダンスであったわけですが、このオカマ・ダンスは正真正銘ニッポンのファッション&ディスコの中から生まれ出たオリジナルです。さすがの委員長もこの成り立ちまでは詳しくありませんが、もともとは「ツバキハウス」が始めたイベント「ロンドンナイト」から生まれたと言われています。ブリティッシュ・ロックは元来、今で言うビュジアル系でしたから、男が化粧したりユニセックス的なファッションをするのが当たり前で、これも今風に言うならコスプレ系のマニアが集まりだしたことが発端だったのではないでしょうか。セックスピストルズのパンク系やらデヴィッド・ボウイ、ロッド・スチュアートはもちろんストーンズでさえディスコ・サウンドを取り入れたりしたくらいでしたから、ディスコファン以外の連中もこれで一気にお仲間入りといった感じだったのではないでしょうか。確か後年、ツバキハウスにはメタル系が集まり出した時期もあったと思います。踊りに関して言えば、あきらかにこれはモデルウォークですね。ファッション・ショーでモデルがポーズつけて歩く、例の独特のスタイルそのものです。はじめのうちはツバキで満足していたコスプレ軍団も、ディスコの流れがSOULからヨーロピアンに変わり始めると、新しい刺激を求めて歌舞伎町にも進出してきました。中でもリーダー格になったのが、エルと呼ばれる女装の男の子でした。女装と言っても、女になりきるほどのものではなくて、一目瞭然男とわかるファッションでした。胸とか作ってなかったし、化粧はしてたけど女に見せるモノではありませんでしたね。彼(彼女)が実際にゲイだったかどうかは知りませんが、ルックスもスタイルもそれなりで、ウォークが結構サマになっていました。ひょっとすると本当のモデルだったかもしれません。(と言ってもいわゆるデザイナーブランドのファッションモデルではありませんよ)このエルと一緒につるんでいたグループも、たぶんモデルクラブの娘たちだったのでしょう。ファッション・センスもそれなりだし、品がありましたから、フロアで並んで踊る(ウォーク)してくると、一瞬回りの客が引くみたいな感じでそりゃ目立ちました。たぶん本人たちもこの視線を浴びる快感が楽しくて、あちこち出入りしていたのではないでしょうか。余談ですが、時代背景的に言っても、このころ、ケンゾーとか日本を代表するファッション・デザイナーは皆ヨーロッパ行って穴開けられてきたと言われてましたし、アメリカでもゲイが市民権を求めて立ち上がったりした時代ですから、日本でも起こるべくして起きたファッションとも言えます。ヴィレッジ・ピープルなんてのはまさしくゲイを謳歌するための戦略的芸人でした。(ってしゃれになってないよね、そのまんまだ)映画でもアル・パチーノのクルージングなんてのは、その世界が見事に描かれていました。ミイラ取りがミイラになるって話なんですけど、潜在的な同性に対するセックス願望と想像以上に簡単に陥っていく心の動きや葛藤の描写が実に見事でした。まあ日本ではこんな奥行きのある流行ではありませんでしたが、いわゆる新宿三丁目あたりに生息されていた方々にとっては市民権を得るきっかけになったのではないでしょうか。これは大げさではなく社会的現象としてきちんと取り上げるべきだと思います。(そんなにムキにならんでもええやん)従来のオカマという言葉から発想する侮蔑的なイメージを払拭し、漠然とした雰囲気ながらファッショナブルなゲイという方向性に光を与えたのです。(ほんとかよ)これも言葉が常識をぶち破った実例ですね。タブーを破った。この流行以降、オカマという言葉の持つニュアンスは絶対に変わったでしょ。さらに日陰者だったオカマに、社会通念としての位置づけが行われたと言っても過言ではありません。ひとつ注意すべき点は、ディスコで話題になったオカマ・ダンスを踊っていたのはプロのオカマでも、実際のゲイでもなく、一般庶民ですよ。要は、今風に言うビジュアル系のコスプレグループのことを総称して「オカマ」と呼んでいたのです。きっかけはエルが女装した男だったってことと、男が化粧してたからって単純な理由です。当時はこれらの人々を一言で表現する言葉がなかったってことですね。だから総称して「おかま」よ呼んだ。ただそれだけです。ところがあまり「オカマ」を連発したもので、モノホンのおねーさまたちや薔薇族モーホーの兄貴たちまでが勢いづいてしまい、「ブラックボックス」とか「さざえ」とかいう如何わしいディスコ(っていえるのかなぁ)に集まりだして、ちょっと深みのある流行も派生しました。そのうちにこのオカマ族はモデルウォークから中近東風のファッションに変わり、アラビアンナイトみたいな手振りの踊りに移り始めていきます。サウンドの方もエキゾチックなものやYMOのテクノポップ系などが好まれるようになっていきました。名作「ロミオとジュリエット」とか「マジックフライ」とか、イメージの世界に浮遊するような感じの音楽ですね。そしてこのあたりから、オカマ系とホモ系に分派していきます。オカマ系はさらにコスプレ傾向が強くなっていき、ホモ系はYMOに代表される無機質なファッション、コンピュータ・ミュージック、いわゆるテクノへと枝分かれしていきました。ちなみに時代考証からすると、この枝分かれ前に一瞬50年代ファッションとロックンロールが駆け抜けます。きっかけはKing of R&Rエルビスの死でした。フィフティーズはある一定のサイクルでリバイバルしてましたから、これが何度目かのリバイバルブームだったわけですが、この当時のファッションはアーミー系が多かったですね。(進駐軍ファッション?)いやー凄いですね。ファッションのごった煮というか文化の坩堝というか、とにかくディスコ文化はそこで遊ぶ一般大衆の手に委ねられていったわけです。過去からの伝統芸SOULファンキーダンス。ヨーロピアン系ステップダンス。コスプレ陶酔系オカマダンス。無機質モーホー系テクノダンス。ちょっとだけよロックンロール系ツイスト&ジルバ。時々チャチャ系元祖ステップダンス。ということで、結果オーライ。ディスコ文化、ダンス・カルチャーを広めようとしたDJの目的はここに達成され、人民は自らの意思で音楽を選び踊りを踊る主体性をついに手にしたのでした。(メデタシ、メデタシ)ニッポンのディスコが一人歩きを始めたブレイクポイントである、そのきっかけはやはりオカマダンスだったと言えるでしょう。オカマ・ダンス以降のニューダンスとファッションはすべてニッポン人が作り出した正真正銘オリジナル・ダンス&ファッションと言えます。70年代後半、新宿は世界に先駆けて実験的カルチャー鍋の都市と淘汰されていったわけです。イヤイヤ、好きにして状態。これが新宿だ!ってことで最後の極めつけはこれしかありません。タケノコ参上!(ヤッター、おまたせ)さあ、ここまで読まれた方はもうお分かりですね、タケノコ族の生い立ち。憧れのディスコに年をごまかして遊びに来ていた高校生は、そこでオカマダンスを踊る中近東風ファッションに身を包んだお姉さま、お兄様を目撃したのでした。しかもファッショナブル・ディスコの幻想的な照明の中、身振り手振りのイメージダンスを踊るその姿は、まさに非現実的な世界にゆらめく思春期の脳髄を刺激したのです。さらに、縦横隊で列を組んで踊るステップグループの、統一されたマスゲームのような統率美を目の当たりにして集団で踊る快感も知りました。ディスコ文化丸ごと一気に、しかも継続的に青少年のDNAにしっかり書き込まれたのです。そして遺伝子は受け継がれていくうちに、ぱらぱらと独自の変化を遂げていくことになります。ということで70年代のディスコ史の側面と申しますか、時代背景を委員長なりの解釈でご説明申し上げましたが、このような時代の流れを踏まえつつ、また明日から委員長のお話を再開させて頂きたいと思います。
2005年08月20日
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「ソウルだけがダンス・ミュージックじゃないだろ」はい、もちろんおっしゃるとおりです。踊りは踊る人の好き勝手です。誰も否定は致しません。ついに踊れない(踊らない)人たちが選ぶダンス・ミュージック時代の幕開けです。Interpreterは流行、文化を正しく伝える使命があると言いましたよね。ここからInterpreterが伝え始めたのは企業の販売用コピーとなってしまいました。踊り・ステップはお客さんが勝手につけてくれますから、先取りするのはファッション・流行ではなく利益を生みだす売れそうな曲です。POPカルチャーの生情報はInterruptされました。DJの情報はすべてレコード会社のファクターを通してしか発信されなくなっていったのです。アフロ小僧対長髪にーちゃんの対決です。このころの本流派DJって、なぜかみんな長髪+ジーンズでしたね。ROCK風だったり、カントリー&ウェスタンだったり、フォーク風(中村雅俊みたいな)だったり、なぜかドゥ・ジーンズとかはいてましたね。ということで、テレビにもラジオにも雑誌にも出ていない、コーラスグループやシンガーのヒットソングがいきなりディスコから飛び出すようになりました。さらにチョイと目ざとい販促部長あたりは、「ライナーノートも書いてもらおうかな」などとツボを押さえ込みます。更にエスカレートしていくと「今度はプロデュースでもしてみないか」などと上手いこと言ってDJを乗せます。「ぷろでゅーすですかぁ」よく意味も分からぬまま、自分の名前が載ったレコードジャケットを見て喜びに打ち震えるDJたち。MIXING STUDIOの隅に座って見てただけでAssistant Producerかなんかクレジットされて、要は毎晩店でしつこいくらい宣伝させられるだけなんですが、広告宣伝費と思えば印税払っても安いモンです。さあ、こうなってくるともう誰彼構わず「俺もまぜてくれぃ」とか「ヤローばっかりいい思いしやがって」という具合になっていくのが世の常です。(やっぱビンボーが悪いんですね)しまいにゃ、アフロ落して転向していくヤツなんかも出てきます。いつの時代もいますよね。変わり身の早いヤツ、っていうか利益尊重主義みたいな。ついに新宿のディスコはレコード会社のプロモート合戦の場と成り果てました。ヨーロッパ行って(アメリカは著作権料高いからね)名も無いアーティストの楽曲を1曲30万円(当時の)くらいで買ってきて、テキトーなジャケットこさえて、できればテキトーなステップくっつけて(ほっといても客が作ってくれるのもあったし)、発売日が決まったらディスコに試聴盤配って先行宣伝させておいて、「遂に日本発売決定」というような流れが出来上がっていきました。アーティストのバイオったって、買って来た本人ですら見たことも無いのですから、写真でもあればめっけもんで、適当な経歴つけてDJにライナー書かせて、はい一丁上がりってなもんです。実際イラスト・ジャケが多かったですよね、この手のレコードは。特に安くてお手軽、アーティスト・バイオがいい加減でいじり易かったのが、いわゆるミュンヘン・サウンドでした。皆こぞってドイツに買い付けにいって、無名アーティストの原盤を買い漁ったという話も伝え聞きました。一発屋が多かったのも当たり前ですね。だって、それっきゃないんだもん。アーティストだってどこにいるかわかんないし。だからアルバムまで出せたアーティストはそれなりにメージャーってことになります。(狭い範囲だけど)でもまあ、この手法はディスコに限ったことじゃなくて、昔からどこの国のレコード会社もやってたことですから、ことさらディスコばかりを取り沙汰するのも可笑しいですけどね。ビートルズのデビュー前、イギリスからハンブルグに出稼ぎに行ったり、スタンダードナンバーやポップスをロックに変えてドイツに持ち込んだり、はたまたイギリスの原音をアレンジしてアメリカで売ったりと、根本的な手法はレコード会社にとっては昔からのものだったようです。それと、これは言うなれば当時のディスコブーム(第二次ブームになるのかな?)がどれだけ凄かったかという証明でもあります。ヨーロッパ圏でも大爆発しました。のちにVSOP(Very Special One Pattern)なんて呼ばれた、いわゆるズンドコ・サウンドがもてはやされるようになっていきました。委員長をはじめSOULで育った馬鹿は少しは抵抗しましたが、時代の流れというかこのブームの波には誰も逆らえなかったというのも事実です。今振り返って考えると、ローカルDJも本流派も対立してたころが逆に幸せだったような気がしますね。皆、このブームの流れがどこに向かっているのかわかりませんでしたから、ただもう皆ガムシャラに突っ走ったようなものです。顔合わせれば音楽論、ダンス論、ディスコ論、経営論からマーケティング(昔はそんな洒落た言い方はしなかったですけど)までムキになって激論を戦わせました。時代を背負って立っているくらいに思い込んでいたDJたちですが、企業側から見たらこんなに単純で使い易く重宝な販促要員はいなかったんじゃないですかね。当時でもシングル2万枚売れば儲けが出たって言ってましたから、ディスコはおいしいマーケットだったんでしょうね。しかも簡単にヒット曲を作り出せるヤラセ要員が沢山いたし。この当時和製ディスコサウンドなんてのも随分出ました。フランスやイギリスでも独自のディスコサウンドをクリエイトしたように、日本でもオリジナルを作る動きが随分と出てきていました。マーケットとして面白かったというのもあります。また、アーティスト自身もディスコで使える(踊れる)曲の創作、みたいな流れが生まれてきたのも理由のひとつではなかったでしょうか。ディスコ・サウンドということではなくて、世界的な流行で「踊れる」ようなサウンドが主流になっていったということでもあります。でもコスト的にはこっちの方が並のミュンヘンサウンドの数十倍はかかりますから、お手軽に作ったモノとも言えません。それはそれなりにアーティストがいて、アレンジャーがいて、ミュージシャンがいて、ディレクターがいて、プロデューサーがいて、販促がいて、ってそう考えていくと、これはやはり立派な作品と言わざるを得ません。当時は和製ディスコ?みたいな感じでバカにもされていましたが、後年自分がこういった実際の製作現場に携わるようになって学んだこと、理解したことは、それがたとえミーハーとかバカ系とか言われるサウンドでもあっても、作り手は皆真剣に一生懸命取り組んで、魂を吹き込んでいるいるということでした。「一寸の虫にも五分の魂」「バカチョン音楽にも職人の魂」ということで、それはプロの集団の技術が結集されているわけですから、頭から見下してバカにしてはいけないということです。またまた話がそれましたが、さて、ディスコDJがその使命であるINTERPRETERを放棄して、単なる資本主義の手先と成り下がってしまったころ、時代はPOP cultureの生情報を発信する新しい流れを生み出していきます。さすが新宿。うごめくようなドロドロとした大衆文化の発祥はやっぱりここしかありません。大箱ディスコが単なる販促活動、ヤラセ合戦の場となっている間に、その昔SOULが地下から這い出してきたように新しい文化が自然発生してきたのです。オカマダンスの登場です。(やったー!おまたせ)凄かったですね。このムーブメントの登場は。誰の仕掛けでもありません。時代が生み出したPOP CULTUREそのものです。これは新宿が自慢できる、生きた文化・風俗といえるでしょうね。ホント、こういったポップ・カルチャーっていうのは自然に生まれてくるものなんですね。SOULも時代に見放されてきて、なんだかディスコも小奇麗になってしまい、DJはみなこぞって営業活動に勤しみ、挙句の果ては自分たちがすべてをコントロールしているみたいな錯角を起こし始めて有頂天になっていったころ、いきなり背後から一撃を食らわされたような感じでした。ちょっとへそ曲がりな委員長は「ざまーみやがれ、何でもかんでもおまえらの思うとおりにゃいかねーぞ」っていうのが実感でした。実際、SOUL一筋で来たアフロ馬鹿の見本みたいな委員長でしたから、どうせSOULが消えていくのなら、あとは面白いものをどんどん世に出してやろう、というのが本心でした。SOULミュージックの流れを汲みつつも、ヨーロピアン・サウンドなどという呼び名で融合させたダンスミュージックでしたが、その先鋒を走っていた本流派DJがこの現象を見て、慌てたのは当然です。元々がダンスというもの自体を体感していないのですから、本質的なディスコの面白さを理解できるはずがありません。もともと庶民の遊びなんてものは誰かに与えらるものではなくて、自然に生まれ出てくるからこそ面白いので、ヤラセみたいなものが長続きするわけありませんね。ついにニッポンのディスコの流れはここから、まさしく大衆の手に委ねられていったのでした。
2005年08月19日
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DJの使命は正しい情報を伝えることと、最新のヒット(情報)を提供することです。それがINTERPRETERの役目です。情報を噛み砕いて解釈を加えて相手に伝える。ところがディスコブームの波に呑み込まれて来るうちに、DJは本来の使命を忘れてしまい、次第にInterrupterとなっていってしまったのでした。そして、このあたりから前述したDJ同士の対立が生まれていったのです。まずは現場から、その必要性によって生まれてきたローカルDJはSOULに関する流行の最新情報を求めて、在留米軍のブラザーが集まるところに出入りするようになります。本人自身がSOUL好き、相当にかぶれてますから自然と流行には敏感になります。そしてブラザーたちが好んで踊る曲や、新しい踊りを仕入れてきては自店で紹介します。しかも踊りに至っては実演付きですから、お客にとってもわかり易いし飛びつき易い。かたやブロードキャスティング系の本流DJは、レコード会社経由で入手してきた最新ビルボード誌のチャートとか見て情報を流します。今、アメリカではこんな曲が流行ってる、こんな踊りが流行ってる、といった感じです。(それにしても当時はFAXすらありませんでしたからね。アメリカから入ってくる最新情報はみなテレックスですよ。テレックスって知ってますか?)まあ、これらレコード会社経由の情報は、基本的に中央の正統な情報として正しいのですが、俗に言う肌で感じる実態もないし、枝葉の付随する情報も無く、単なるランキング情報は受け売りのようなものにしかならないわけです。さらに、ランキング外の独自のヒットなどはまったく理解できない。それでもある時期まではこれで上手くいっていました。SOUL系のローカルDJが先導して、本流系DJがデータとしての情報を流す。その喋りも顕著に現れていました。ローカル系は曲自体の説明やコメントそのものよりも、フロアのムードで客を笑わせたり煽ったりするもので、対照的に本流系は当然、曲の紹介からアーティストやレーベル、編曲者、はたまた日本盤の発売日まで詳細な情報を提供していました。(あんまり聞いてる人もいなかったと思うけど、一応基本に則ってました)店自体、客側にも実際に踊りを踊れるDJの選曲した流れが好まれたし、それが正しいのだ、と言わんばかりの権威的な地位でもありました。時代の先端を行っているDJは、客側にしてみれば全てを知っているパイオニアのような存在でもあったわけです。アフロもしてるし、ファッションも黒人ぽいし、踊りだって上手いしみたいな、今にして思えばほとんどハッタリだったんですけどね。アフロレイキやエンバシーあたりに通っていれば、誰だって得られる程度の情報しか持っていなかったんです、実際は。このあたりにも日本人特有の形式美というやつの弊害がありました。そーゆープロっぽいお店に行くには、こーしゃなきゃいかん、あーしゃなきゃいかん、みたいな威嚇があったんですね。そんなものドカドカ乗り込んでって自分の目で確かめれば一目瞭然なんですけど、そこらに通うスノッブたちが威嚇するわけですね。特別な者しか出入り出来ないんだぞぉ、みたいな敷居を高くしてしまう。そうして自分たちの威光を守ったと言うような、非常に了見の狭い方々も少なからずいたわけです。(特に六本木あたりで働いてた田舎出のあんちゃんにこの手が多かったですね。ここをどこだと思ってんだぁ、みたいなね)でもまあ、一般人にしてみればそんなトコに出入りするのはちょっと勇気がいるし、新宿あたりのアフロのお兄さんの言うことを聞いて、その気になっている方が安全だったんですね。言うなれば委員長が、アフロしたSOUL SISTERもどきに憧れたのと同じ次元ですね。(疑似体験みたいな)本物の黒人はちょっと無理だろうし根性ないから、日本人でカブれたヤツくらいなら付き合って安心だ、みたいなモンです。まあ実態はともかく、SOUL馬鹿にとっては、DJが流行を先導していた良き時代でもありました。本流派のDJにとっちゃあまり面白くない状況ではありましたが、とりあえずSOULに関しちゃかなわないし、踊りだって上手く踊れないし、しょうがないみたいなもんです。この時期、やたらとアフロ頭が増えましたね、ディスコの従業員にも通ってるお客にも。アフロ頭は時代の先端、登録商標みたいなもんだったのかなぁ。いつの時代も「ファッション」ってものがありますからね。ところがここで有頂天になっていたSOUL馬鹿を揺さぶる、新たな波がブラザーによって持ち込まれてきたのです。それが「バス・ストップ」というステップでした。正直言ってこの踊りをエンバシーで初めて見たとき、委員長はヤバイと思いましたね。せっかく悪しき風習から開放されたニッポン民族のダンスマニアたちを、またまた縛り付ける新たな「カタ」がやってきてしまったと。(そこまでいわいでもええやないかい)せっかく自由に踊ることの楽しさを理解し始めたばかりなのに、またここで頭を抑えるような踊りが入ってきてしまった、委員長は直感的にそう思いました。今でも覚えていますが、一度、請われて歌舞伎町のパブ・トゥモローにバス・ストップを教えに行ったことがありました。ちなみにこの時一緒だったのが、後に「もんた&ブラザース」でドラムを叩くことになったマーティン・ブレイシーでした。ステップの再流行を否定しながらも、常に自分は時代の先端を行っていなければいけないという、非常に矛盾した行為でした。(単なるカッコマンやんけ)はいそのとおりです。何がなんでも俺が一番なんだぞぉ~ってな、単なる見栄ですね。ところがその時お客さんにステップを教えていて感じたのは、たぶんこのブームは長くないだろうなという思いでした。このステップは従来のステップに比べて複雑なことと、バリエーションが次々入ってきて、今までのようにひとつのパターンで染めることは無理だろうと思いました。いわゆる課題曲=ステップみたいなセットにはなりにくいってことです。これはたぶんフツーのお客にはちょっとついていけないだろうなという感じでした。更に業界のSOUL馬鹿たちも同様な思いを抱いていたようでした。「ステップを流行らせてはいけない」(諸悪の根源だぁ~みたいな)いわゆる形式「カタ」は、特に主体性の薄い日本人には楽で受け入れ易い分、個人の個性を殺してしまう危険を孕んでいることを、経験から感じていた業界人も多かったのではないでしょうか。(そんな大げさなものでもありませんが)まあ、委員長が危惧したほどベースの黒人の間でも定着せず、一過性の流行として終わりました。これが以前にも説明しました流行の帰属性というやつで、ベースのブラザーが持ち込むステップは州だけに留まらず、市町村(笑)、軍の所属、通う店、コミュニティあたりまで掘り下げたところから流れ込んできてしまったため、寄せ集め所帯の軍隊では煩雑になりすぎて、あっという間に流行りは収束してしまいました。ところがです、このブームをでっち上げて商売にしたヤツが現れてしまったのです。しかも全国ネットでやらかした日本人がいたのです。そうです、もう皆さんご存知のセクシー・バスストップですね。踊りのフォーマットもオリジナルのバス・ストップとは似て異なもの、まさに和製創作ダンスが和製ディスコ・サウンドに乗って業界を席捲してしまったのです。これまでにも、たぶん新宿GETあたりからの流れから出てきたものでチャイニーズ・カンフーや、アスクミー、ダンスダンスなんてステップも流行ったりしたことがあったのですが、SOULブームの流れを変えるほどのインパクトはありませんでした。これらのステップ課題曲(?)自体が昔のようにきちんとカタにはめられなかったし、チャイニーズ・カンフーだってブラザーがレゲエで踊ったりしてましたから、いわゆる踊りのバリエーションのひとつといったような流れでしかなかったわけです。もうひとつ突っ込んで言えば、これらのステップを含め過去のステップの成り立ちは、結果はともかくとしてダンス文化の浸透というある意味で公共性があったわけです。ところが、このセクシー・バスストップは、企業利益を優先したコマーシャルベース(商業性)のみによって成り立っていたからちょっと厄介でした。この曲はこのステップ以外で踊るヤツいないでしょ?ニッポンのディスコ業界が独自の道を歩み始めた記念すべきステップ・サウンドです。お見事でした。作戦成功。身も心も踊らされた皆様(特に未成年者が多かったですね)は、資本主義社会のセオリーどおり某企業の売上に貢献されただけではなく、日本のディスコ産業という零細企業が作り出した業界を大手企業の営業戦略の場にまで伸し上げたのですから、たいしたもんだと言わざるを得ません。このあと誰の手によってかは知りませんが、続々とステップ+ディスコヒットのお手軽セットが生産されていきます。その殆どのヒットがビルボード誌に登場してこなかったのは何故だったのでしょうか?それは未だ現役のSOUL馬鹿たちが、自分たちの威信をかけて音楽と踊りを守ったからです。(おいおい、それはいくらなんでもちょっと大げさだろって)正直言って色々な思惑もあったと思いますが、少なくともこの頃は未だ資本主義の手先たちもSOULチャートにうかつに手が出せなかったといったところでしょう。そんなことしたら、現場でアフロ小僧の猛烈な反撃を食らいますからね、多少はビビってました。ですから、SOUL馬鹿たちの反撃をかわしつつ、テリトリーに抵触しないジャンル、ヨーロピアンサウンドに目を付けたのです。レコード会社にしてみれば、こんな低コストの商品は願ったり叶ったりです。版権(原盤権丸ごと)が格安で買ってこれるし、情報はすべてこちらで操作できるし、あとはディスコにやってくるにーちゃん、ねーちゃんを上手く乗せれば大儲け、って、こんな流れが出来上がっていったわけです。今までソウルDJに主導権をとられていた本流系DJは、遂に自分たちの出番だとばかりに続々とレコード会社が企画する販売戦略に乗っていきました。遂にオレたちの時代がきたぞぉ~ってなもんです。あわよくばステーション(局の事ですね)のDJも狙えるかもしれない。そして合言葉は、「ソウルだけがダンスミュージックじゃないだろう」でした。ということで良い意味でも悪い意味でも、「セクシーバスストップ」は日本のディスコ産業の命運を分けた一発だったと言えます。
2005年08月18日
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少々話が逸れてしまいましたが、70年代半ばある種のスノッブを作りだした踊り場のステップのこういった流れも、結局は踊る楽しさを知り始めたいわゆる一般人によって表舞台へと引きずり出されていくことになるのです。もちろん引き金になったのはベトナム戦争の終結ですね。死からの恐怖から開放され、反戦運動も収束し、ストレスの捌け口となっていたダンスが人生を楽しむためのダンス、本来の姿に戻っていったのでした。それまで地下に潜っていた不良の遊び、溜まり場はここで一気に大衆化していきます。ディスコブームの始まりです。特権意識にも似たひそかな遊びだった踊り場が一般大衆に解放されたのです。踊りも今までの暗いイメージのステップではなく、男女でお尻をぶつけ合うバンプが登場して「踊り場」のイメージを一掃しました。バンプは古い踊り場のしきたりをぶち壊したのです。しかも今までの踊り場にはなかった男女ペアで踊るという新しい風が吹き込まれました。ちなみに委員長も高校生時代から踊り場に出入りしており、おおかたのステップはマスターしていましたし、踊り場ではちょっとした顔になったりもしていましたが、後年、黒人と仕事をするようになって、踊りに対して少々の疑問が生まれました。ある時、ミュージシャンのカーティスという黒人が、ダンスフロアでシュープリームスのSTOP IN THE NAME OF LOVEを踊っている高校生とおぼしきグループを見て、委員長にこう尋ねてきたのです。「彼らは何でこんな古い曲が好きなんだ?(時代年齢が合わないってことですね)」「なぜ同じ踊りを皆で揃ってするのか?クラスのダンスコンテストでもあるのか?」「なんで(男女)ペアで踊らないのか?これじゃまるでアーミーじゃないか(笑)」全員で鏡に向かって横一列に並んで踊っている姿は、まさに軍隊のように彼の目に映ったのでしょう。SOUL C.C.なんて言って説明しても彼にはチンプンカンプンです。この時もまた委員長は腹が立ちました。確かに自分たちが楽しんで踊ってきたステップとはいえ、これじゃ形だけが後輩に受け継がれただけのことじゃないかって、しかもこの曲はこの踊りじゃなきゃダメだという、悪い風習というか権威を彼らの頭の中に植え付けてしまいました。音楽も踊りも、もっともっと自由なんだということを何で伝えられないのだろう、という自身に対する腹立ちでもありました。幸いにして、この後の踊りの流れはバンプに始まりウォーターゲート、オールドマン、レゲエ、ポイントなどと、フォーマットはあるものの、すべてが個人の個性で曲を選び、踊るカタチのものとなり、いつのまにかこれらの古いステップの形式は忘れ去られていくようになりました。(昔ゃ~ヨカッタって言う人以外は・・・・笑)ただ並んで踊る習慣はあまり変わりませんでしたね。皆鏡に向かって黙々と踊ってた。(笑)そういえば、昔のパブ・ツゲザー(こう云う表記だった)には、ステップ禁止令みたいな張り紙が入り口に貼られていました。確か、「ステージに向かって一方向横隊になるメダカ・ステップはお断りいたします」みたいな文面だったと思います。(図入りで描かれていました)やっぱりステップの排他的な流れがエスカレートしていった時代でした。ふ~ん、俺達はメダカなのかぁ~と妙に納得した委員長でもありました。さて、話がだいぶ遠回りしましたが、この時代のSOULブームはディスコブームと相まってDJのスタイルにも相当な影響を与えました。流行の踊りはすべて在留米軍基地の黒人たちによって日本に直輸入され、音楽もその殆どがR&B/SOULでした。これは米国本土でも同様で、ビルボード誌の主流もR&B/SOULとなり、POPSの上位はすべてSOULが占めるといった現象になっていきました。もちろんディスコのDJは新譜の情報に血眼になり、黒人の集まるお店へとせっせと通うようになっていきました。現在のように情報が溢れた時代ではありませんでしたから、DJはみなビルボード誌のチャート・コピーを少しでも早く入手しようと躍起になりました。それまでは輸入盤を扱う業者から、ひと月遅れは当たり前のチャート・コピーと新譜で満足していたDJも、いち早くヒット曲を見極め入手していくようになっていったのです。当時は最新の輸入盤を仕入れるのは中々難しく、ディスコのほとんどがアーリーバード吉岡さんの手がけていた直輸入シングル盤に頼っていました。もちろんどのお店もチャート上位曲が欲しいわけで、ランダムに入ってくる30枚セットにヒット曲が何枚入っているかというようなお楽しみ袋のようなものには、次第に満足できないようになってきていました。チャート・ランキングは吉岡さんの選別に頼らざるを得ないわけで、少ない予算で最新情報を仕入れるにはシングル購入しかなかったわけです。(当時の輸入盤は高かった)つまりアルバム販売前にシングルが先行して発売になりますから、シングルヒットの目安でアルバム購入が検討されたわけです。(結構苦労してたんですよ昔は、お金も無かったし)超ヒットはいきなり50位くらいからランキングしてきて、1ヶ月もしないうちにBEST10に食い込んできたりするので解り易いのですが、90位あたりから入ってきてジワジワと上昇していくような曲もあるわけです。「赤丸急上昇中」なんてDJのコメントによくありましたよね。懐かしい~。赤丸で登場しても途中でランキングダウンするのもあったりして、なんといってもチャートがレコード購入のバロメータでした。さらに、HOT 100の他にも州別のランキング・チャートがありますから、ニューヨークやカリフォルニア、ワシントンDC、フィラデルフィアなどのCASH BOXチャートも見ておかないといけません。アメリカはデカイ国ですから、州といっても、彼らにすれば州が一国なんですね。だから野球なんかもワールド・リーグって言ってますよね。州(国)を束ねたUNITED STATES=アメリカが世界なんです。ちなみにアメリカには外務省って管轄がありません。国務省なんですね。凄いですね、ここら辺が日本人にはちょっと理解できない奥深さです。ですから、州で第一位のヒット曲になっても、全米でランキングもされてないなんてことが実際にあるわけです。(まあ、そこまで極端なことは少なかったですが)このあたりのことも後にまたお話しますが、日本のディスコヒット=全米ヒットだったということでもないんですね。それは、ベースの黒人たちから持ち込まれる流行というのが、彼らの所属する共同体、軍であったり州であったり、を前提にしているからです。これが直輸入の真髄です。軍隊の黒人はプロのDJではありませんから、多分に個人の趣味に作用されます。中にはミュージシャンなんかもいて、独自のヒット予想なんかも盛り込んだりしていましたが、大抵はやはりビルボードのランキングを参考にしていました。フィラデルフィア出身のブラザーはサウンド・オブ・フィラデルフィア、地元のアーティストを優先して紹介するだろうし、踊りだって地元で流行っている踊り方を持ってきます。それが日本人の感性に合えば、まずはそこの店で流行るだろうし、それを伝え聞いた他店のDJが真似したら自分の店ではウケなかったとか、逆に連鎖反応して日本国内のディスコでヒットしたとか、これは日本のオリジナルヒットになるわけです。更に所属する隊や、マリーン、ネイビー、エアフォース等々、各共同体にもカラーや流行がありましたから、彼らが持ち込んできた情報がすべて全米ネットワークかというと、これもちょっと違っていました。以前お話した「ダッチ」(ゲンコツぶつける挨拶)だって、横田と横須賀は違っていたし、日本風に言えば県人会みたいなのもあって、出身地別とかマブダチ同士のダッチとか、とにかくベース経由で入ってきた情報は「生」な分、それが全て全米共通のモノではなかったのも事実です。このあたりをよく勘違いして、全米ブラックの流行だと思っていたっていうことが随分ありました。日本の場合だって同様にスケールの差こそあれ、ローカルのブームが中央に上がって全国ネットで流れる頃には、当のブームはもう終わってたなんてこともしばしばあるわけです。例として適切かどうかわかりませんが、例えばカラオケブームに沸くフィリッピンに日本の東北地方のちょいとした遊び人が訪れたとします。お店の人は、日本人客を一人でも多く取り込んで売上を上げたいので、何とか日本人の喜びそうな情報を仕入れようと一生懸命になります。でも彼の持っている情報は自分のテリトリーの範囲ですから、東京で今流行っている曲は何だとか、どんな店が流行っているんだ、とか聞かれても、それはテレビで見た情報とか雑誌で読んだ情報とかでしかないわけです。あるとき、旅行者が立ち寄ったマニラのカラオケ屋さんでは、千昌夫、吉幾三がニッポンを代表するシンガーだと信じており、店の女の子が歌って聞かせてくれるのは演歌ばかりみたいな店だった、と。(笑)ここまで極端なことも無いでしょうし、今の時代ではありえない話ですが、情報の少ない時代の限られた情報網から入ってくる流行は所詮このようなものです。それはそれで良いんです。それはその地域の流行りであるし店のカラーなんですから。ただ、そのカラーが日本全国共通なものと思い込まれてしまうと、これはちょっとした悲劇を生んでしまいますよね。(笑)当時はとにかく黒人のやることなすこと、全てを崇めていたような感がありましたから盲目的に受け入れてしまったようなものです。これも仕方の無いことで、情報が非常に少なかったからすぐに洗脳されてしまいます。ベースにはPXという軍隊専用のスーパーがあって、ここで調達したLP(シングル盤なんか売ってませんから)も貴重な新着情報のひとつだったのですが、PXの仕入れだって、ビルボード誌のランキングに影響を受けているし、買い手のブラザーにしてみれば自国(州)のアーティストに目が行くのは当たり前です。ということで、ここでもINTERPRETERの役割が重要なポイントになってくるわけです。なぜInterpreterを強調するのかというと、DJこそがこの重要なInterpreter(仲介役)だったからです。たんなる情報を右から左に流すだけだったら、それはメッセンジャー(伝言)でしかありません。きちんとした解釈を持って相手に伝える、という意味から言えばやはりDJはInterpreterだと思うんです。
2005年08月17日
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1960年代後半から1970年代前半、ベトナム戦争を時代背景としたアメリカの若者たちはあらゆる方面で独自のカルチャーを創りだし、保守的な文化や常識をどんどん壊し始めていきました。まさにこの混沌としたアメリカ文化がそのまま当時の日本の踊り場にも反映され、ROCKバンドと黒人音楽が共存していたり、長髪ヒッピーとコンポラのリーゼントが同じ店で遊んでいたりと明確な色分けができていませんでした。この時代のアメリカにおけるヤング・ジェネレーションが起こしたカルチャー・ムーブメントは、世界的な規模で同時代の若者たちに多大な影響を与えました。ロック史上最高のコンサート「ウッドストック」、ミュージカル「ヘア」、ワッツ市で行われた黒人による黒人のためのコンサート「ワッツタックス」などなど。音楽による文化革命が行われたといっても過言ではありません。特に黒人について言えば、アフロ・アメリカンを強調し、今まで無理やり押し付けられてきた白人文化と決別すべく、「Black is beautiful」のスローガンと共に大きなアフロヘアと右手の握り拳(ゲンコツ印ですね)を高々と挙げるポーズが、瞬く間に黒人社会に広まっていきました。ミュージカル「ヘア」のテーマは髪を伸ばそう、でしたから、自然に生えてくる美しい髪を伸ばそうとアジって、ミリタリーの短髪に対して挑発したわけです。そして黒人の合言葉は「I AM SOMEBODY!」でした。「私は誰か」じゃありませんよ。Somebodyというのはひとかどの人物をさす言葉です。立身出世したようなひとのことを、He became somebodyといった具合に、彼はひとかどの人物になった、といったような表現に使われるSOMEBODYです。つまり、黒人が同胞に対して発した強烈なメッセージが、「私はひとかどの人物である」というアジテーションですね。「俺はひとかどの人間だ」って叫びです。俺たちはすばらしい民族なんだ。我々はアフリカ系移民アフロ・アメリカンであることを宣言したわけです。アメリカは移民の国ですから、潜在的な民族意識から各コミューンが形成され、これを統一するための宗教が必要でした。しかし黒人には、この何々系移民と言う潜在的な拠り所となる民族意識が無かったというか、ないがしろにされたというか、彼らの存在そのものの拠り所とする意識がありませんでした。元々自分たちの意志によって移り住んできた民族ではありませんし、その血統と言うか、出自と言うべきアフリカのどの部族とか、どの国とかも極めて曖昧なわけです。更に言えば、民族的な象徴である祖国の言語というものを持たない特殊な存在でもあります。イタリア系、アイリッシュ系、アジアン系etc.それぞれの移民は原語を持ち、それぞれの源文化を引きずっています。ところが、黒人にはこれらの回帰する明確な源がありません。黒人特有の発音や言い回しが特殊であることの理由が、何となく頷けるような気が致します。民族に根ざす共通の言語を持たないために、英語文化のなかで独自の言語を主張しているように思えます。宗教に関してもゴスペルというものがありますが、公共の場で政治と宗教を語るのはタブーと言われていますから、これはまた別の機会にしたいと思います。(私自身も今はこれについて語るほどの力量がありませんので)一応こういった新しい民族意識の流れから、民族としての源流を辿る動きも起こってきます。アフロアメリカンがアフリカでコンサートを行った「SOUL TO SOUL」や、後にアメリカの黒人文化に強烈なIMPACTを与えたアレックス・ヘイリーの「ルーツ」など、失われたアフリカとアメリカの道を修復する動きも活発になっていきました。(しかし彼らの源流回帰は、この両者とも彼らが思うほど単純ではなかったように見受けられます)そしてさらに、泥沼化していくベトナム戦争を背景にして、あのマービン・ゲイの名曲「WHAT’S GOING ON」に代表されるように、単なる反戦運動から自国への不信感への告発とつながっていきます。このあたりからR&Bも次第にメッセージ色が強くなり始めていきました。黒人音楽もモータウンに代表される従来のポップスから、民族主義、反戦、人種問題などを取り上げる多系統に発展し、黒人意識革命のような流れも生み出されていきました。日本の踊り場では、どちらかというとメッセージ色の強い白人系ROCKより、POPなダンス・ミュージックが支持を得て、次第に色分けが出来上がっていきました。ようやく踊りを踊るためのクラブが形になっていったのです。ダンス・ミュージックとステップの時代の幕開けです。踊る楽しさを分かち合うためのステップなるものが生まれました。日本人には未だ馴染みの薄いダンスは、ある一定のパターンを覚えることによって次第に順応し始めていきました。ヒット曲に合わせた踊りがどんどん生まれ、これが自然に広まっていき、いつの間にか「踊り場」の暗黙のルールのようなものになっていったのです。なんにせよ、その踊る姿が格好良いからこそ、皆がこぞって真似を始めたわけで、それがつまらないものだったら流行にもなりません。そして、日本でステップがスムーズに浸透していった理由に、日本民族の血と言うか、農耕民族特有の「村」意識が作用していたのではないかと思います。まさしく盆踊りのコンセプトとほぼ同類のものです。その共同体(店)の一員である認識が同じステップを踏む行為であり、ひとつの儀式のようなものだったわけです。ところが、ダンス文化を広めようとして始めたことが、実際にはその目的とは裏腹に排他的なものへと進み始めてしまったのでした。さらにこの排他的意識は権威主義的共同体へと発展していきます。同じステップを踏めない者は共同体の一員と認めない、だからステップを覚えろ、といったような抑圧的な傾向を持ち始めました。しかし、日本人と言うのはこの形式というものにとにかくこだわりますね。やはり日本文化の持つ特性なのでしょうか。形式美といったものでしょうか。何にでも形式を見出したり作り出したりするのが好きですよね。特にアメリカ文化(及びヨーロッパ文化)が日本に入り始めた頃、これを仲介あるいは紹介したINTERPRETERの責任は重大だったと思います。このブログのはじめの方にも書きましたが、本人の勝手な解釈で形式を作り出し、偉そうに文化人を気取って庶民に間違った情報を流した権威者は、日本人の国際意識を少なくとも10年は遅れさせた張本人と言えます。誰ですか、ナイフでゴハンを取ってフォークの背に乗せて食べるのが、洋食の正式なマナーだなんて教えたヤツは。私は19歳になるまで信じて疑わず、この諸式に則って洋食を頂いていましたよ。たまたまアメリカ人(黒人ですよ)と知り合い、レストランでディナーをシェアしたときに、「日本人はライスをマッシュポテトの代わりに食べるのか?」と訊かれ、「何でそんなムツカシー食べ方をするんだ」とも言われてしまいました。日本人はもっと早く気付くべきでしたね。ナイフ&フォークの文化圏ではゴハンは食べないのですよ、フツーは。だからライスの食べ方なんてもの自体マナーにないんです。ちょっと考えればわかることなのにですよ。正直言って、私はこの時無性に腹が立ちました。それはマスに乗って流される情報に振り回された自分に腹が立ったのです。それからです、ひとつずつでも良いからマスの情報を鵜呑みにせず自分の目で、感性で判断していこうと思ったのは。ドラマティックスの名曲にもあります。Whatcha’ see is whatcha’ getすべては自分の目で見て確かめろってことですね。
2005年08月16日
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戦後の日本経済の目覚しい復興は、盛り場繁華街にもようやく秩序をもたらせ、一般人も娯楽を楽しむような時代に入り各種各様の遊び場が生まれていきました。そして、終戦直後のナイトクラブ、キャバレーの流れを汲む遊び場が、ベトナム戦争によって再び蘇ることになります。それがゴーゴークラブであり、俗に言う踊り場でした。もちろん取り仕切ったのは、終戦直後進駐軍と組んで繁華街で名を成したアウトロー達です。すでにノウハウはあるし、当時の若造達もそれなりの顔役に収まっています。昔との違いは、政府公認の慰安婦がいないことと、終戦直後ほど日本国民は飢えてはいないということでした。終戦直後の外貨獲得政策とは反対に、これらの繁華街で対象とされた顧客は同胞日本人でした。そしてそこに集まってきたのは、米国から流れ込んでくる文化をいち早く肌で感じたいという好奇心旺盛な若者たちでした。いつの時代でも若さは体制を否定し、危険を求め、非日常的な空間を求めるものです。もちろん米国本土にとっても、日本に駐留する米兵にとっても、ベトナム戦争はひとつのブレイクポイントでもありました。終戦直後の頃との明白な違いは、戦争が終わった開放感から復興に向けられた生への執着と、ベトナムが死地ともなりうる戦場にこれから向かっていく生への執着という正反対の時代背景がそこにあったということです。村上龍さんの小説「限りなく透明に近いブルー」が、まさにこの時代を見事に描写しています。これは米国音楽にもはっきりと現れてきます。体制批判、束縛された精神の解放を訴えるROCKは、フラワー・チルドレンやヒッピー文化を創出し、ドラッグの乱用は非日常への強い欲求を表し、異人種が同居する実験的国家アメリカの保守的統制規準をぶち壊そうとしました。そしてアメリカのニュー・ジェネレーションはそれを見事にやってのけたのです。しかも暴力を一切使わずに、保守的な思想をぶち破ったのです。それが、FUCKの四文字です。アメリカの平均的家庭では、子供たちが乱発するこの四文字に親は卒倒し、教会は猛反発し、州のコミッティでもあちこちで騒乱が起きました。言葉が抑制する精神的弾圧、アメリカのタブーから開放を求める若者たちのムーブメントは、世界のヤングジェネレーションを先導しました。この時代に創作されたミュージカル「ヘアー」は、当時のヒッピー文化がすべて表現されている歴史に残る名作でしょう。後年、ミロス・フォアマン監督によって映画化されました。VIDEOにもなっていますので是非ご覧下さい。言葉がタブーを壊したという意味がお分かり頂けると思います。まずはこのヒッピー文化に傾倒する若者たちが盛り場に集まりだして、サイケデリックとかアンダーグラウンドとか叫びながらROCKを啓蒙しました。ROCKバンドが演奏するお店に屯し、ドラッグ(と言っても当時は睡眠薬とかシンナーですね)をやりながら踊りますが、所詮情報のない時代のことなのでファッションが先行しただけの風俗でしかありません。憧れのアメリカ文化ってとこでしょうか。このころの新宿には長髪、ジーンズのヒッピーもどきから、フーテン、学生運動活動家、不良、やくざなどがジャズ喫茶やゴーゴーハウスを溜まり場にするようになっていました。ちなみに当時の週刊誌に、フーテン族の取材という記事に写真入で紹介されたのが、後の新宿シンデレラの店長五郎さん(弟の方です)でした。このころ新宿でちょっとした勇名を馳せた、紀伊国屋グループと呼ばれる不良団のメンバーでもありました。このグループから後の踊り場~ディスコの主要人が続々と登場していくことになります。ディスコ夜明け前といったところでしょうか。もちろん米軍基地から持ち込まれたのはROCKだけではありません。アメリカ本土がそうであったように、この時代のカルチャーは非常に混沌としたもので、整理のつかぬままに一気に噴出した感があります。日本の踊り場、アンダーグランウドの世界にも、これらのヒッピー文化と同時に黒人がR&Bと踊りを持って一気になだれ込んで来たのです。その理由に、ベトナムの最前線に狩り出されたのが黒人ばかりだったからという説がありますが、これはほんとかどうかは定かではありません。でも、酒を飲んだら踊らずにはいられない黒人文化がそこにあったのは間違いないと思います。また、当時は徴兵制が生きていましたから、粗野な乱暴者ばかりではなく知識人も含まれていたので、適度なバランスが取れていました。戦地で死ぬか生きるか、刹那的な兵士は一時でもその恐怖を忘れるため、女、ドラッグ、そして音楽に浸ります。これは黒人じゃなくても、人間なら誰もがそうなるでしょうね。そしてそこに持ち込まれた音楽がリズム&ブルース、後のソウルミュージックだったのです。50~60年代の黒人ファッションは未だ白人に蹂躙されており、縮れ毛を直毛に伸ばしたリーゼントヘアーに細身のスーツといった、白人社会の枠に無理やりはめ込まれたようなものでした。リトル・リチャードやチャック・ベリーといった先人の轍を踏んで、ジェームス・ブラウンをはじめダイアナ・ロス、スティーヴィー・ワンダーなどなど、皆白人の格好をさせられていました。もちろんテレビ・コードや、ライブステージのコードも、これに従わなければならなかったわけです。そんな影響を受けて、当時の踊り場に集う不良少年のファッションは、コンポラスーツにリーゼントという流れが出来上がっていました。踊りの方もファンキー・ブロードウェイやJBの一連のヒットと共に米軍のブラザー達からどんどん持ち込まれて来ました。いわゆるステップの始まりですね。もともと踊り音痴な日本人に、これらの踊りを普及させるにはある程度のパターンが必要だったわけです。ゴーゴークラブの従業員が黒人から伝授された踊りを、日本人のお客に教えていくという流れが自然発生的に生まれていきました。分かり易く教えるにはパターンを作ること、フォークダンスや盆踊りと同じやり方ですね。日本人の得意技である加工技術の面目躍如といったところでしょうか。異文化を吸収すると、すぐに自分たちの文化に合わせて加工してしまう。ここからディスコ・ステップの歴史がスタートしたわけです。
2005年08月15日
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さて、ディスコの変遷みたいな話になってきましたが、せっかくですからもう少し詳しく、委員長の個人的な時代の解釈をお話しましょう。委員長は評論家でもないし研究家みたいな学者でもありませんから、自分が関わった世界のことしか知りませんので、これは持論にすぎません。この点はあらかじめお断りしておきます。あくまでも私自身の解釈です。まずはディスコのルーツ、「踊り場」が遊び人の間でもてはやされるようになったのは、R&B(リズムアンドブルース)の流行からでした。レイ・チャールズの自伝映画「レイ」でもしっかり描かれていますが、黒人にとってのダンスは生活の一部であり、黒人音楽とダンスはワンセットになった文化でもあります。レイ・チャールズがゴスペルを取り入れたり、ジェームス・ブラウンがJAZZを踊るための音楽に変えたり、モータウンが黒人特有のPOPSを創造したりと、現在のダンスミュージックのルーツはすべて黒人の手によってクリエイトされてきました。日本でこの流れをいち早く取り込んで、「踊り」を「遊び」として流行らせたのが俗に言う「踊り場」だったわけです。この「踊り場」の歴史は終戦直後の東京の復興から始まります。全ての始まりは「進駐軍」、つまり占領軍として日本にやってきた米軍の米兵から持ち込まれたアメリカ文化に端を発しています。これは本題から少し外れるので詳しくは書きませんが、当時の目ざとい米兵達が、戦後の復興期に暗躍する日本人のアウトローと組んで立ち上げたのが、現在の繁華街の代表選手みたいな六本木、渋谷、新宿だったわけです。銀座あたりは戦前から名前どおり、東京を代表する盛り場でしたから、ここらはまたちょっとタイプの違った復興の仕方を遂げていきます。当時の闇市などで暗躍したアウトローと米兵が組んで、新しい商売を始めたのが六本木であり、渋谷、新宿だったのです。特に六本木がその先端を走った理由には、米軍高官の社交場となった山王ホテルや米軍兵舎が近くにあり、はずれにはソ連大使館などがあったからです。当時からすでに国際的な趣を潜在的に秘めていたのです。在留米兵を楽しませるための商売(春を売ったりした訳ですね)がここで展開され、この形が後々のクラブ~ディスコへと受け継がれていったわけです。ちなみに日本政府は米兵向けの特殊慰安婦所を設けることにより、若い米兵などが一般市民を巻き込まないようなリスクヘッジをすると共に、外貨獲得による経済復興を試みたのです。もちろん政府公認以外にも、米軍兵舎前は米兵の富を求める女性たちが溢れていたとの記録が残されています。戦後の日本はこの米兵相手の商売なくして復興はありえませんでしたし、喰うや喰わずの敗戦国民が資本金無しで起こせる商売はこれしかなかったわけですね。金は高いところから低いところに流れる。資本を持つ国が資本を持たない国を陵辱する。資本主義のセオリー通り、未だに世界はこの頃と何も変わっちゃいませんね。というわけで、米兵を楽しませるお店を作って相手する女の子を置くためには、米本土の流行をそのまま持ってこなければなりません。ここで一気にアメリカ文化がシンクロして日本になだれ込んできたわけです。モノと文化は進駐軍経由で横流しされ、これを一手に取り仕切ったのが盛り場のアウトロー達です。米兵相手の商売ですから、当然米兵の後ろ盾がなくてはやっていけませんが、商売を取り仕切る日本人がいなければ成り立ちません。まさしく日米通商条約の締結ですね。裏の世界ではいち早く始まっていたのです。戦後のアナーキーな時代は何でもアリのやり放題、進駐してきた米軍にとってはまさに日本はパラダイスだったのでしょう。ということで、時代の先端、流行の最先端を行くお店に出入りできる日本人は、繁華街を取り仕切るアウトローたちだけです。また、このアウトロー、不良たちは、もともとが無類の新物好き、流行には敏感ですから、危ない場所とは知りつつも新しいモノ目指して徘徊していたわけです。ちょっと説明が乱暴ですが、「踊り場」に不良が集まった理由はここらに根があります。成り立ちからしてアウトローの世界だったんですね。アンダーグラウンドが素晴らしいのは、そこが非日常的な空間であり、立ち入る者の制限が一般常識とは違う次元で量られるからにほかありません。見えないからこそ、見たいんで、見るために努力するってことです。(笑)流行のファッションに身を包んだ不良が、キャメルやラッキーストライクなど洋モクを咥え、ハーシーズのチョコレートやチューインガムなどをばら撒きながら、瓦礫と化した東京の街を闊歩する姿は、飢えながらも青春真っ只中にある若者たちの目にどのように映ったかは説明するまでもないでしょう。危ない場所だけど行ってみたい。そこには富の象徴、憧れの裕福なアメリカがある。基地の街、横浜、横須賀、立川みな同様です。まさにフェンスの向こうのアメリカです。さて、そのアンダーグラウンド世界に持ち込まれた文化の中のひとつに、音楽とダンスがあったわけですが、終戦直後は出入りする米兵の実技指導や実演によって、不良日本人たちアウトローがこれらをどんどん吸収していきました。もちろん仲介役はホステスさんたちです。歴史は夜作られる。いつの時代も貧困な国の復興は女性の犠牲の上に成り立っていますね。(注)ここまでは文献資料等による考察です。委員長はこの時代、未だ生まれてませんから見てきたわけじゃありませんので念のため。そんな成り立ちで夜の盛り場、プレーイング・スポットも次第に定着していったのです。
2005年08月14日
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まあ、考えてみればもっともなことなんですが、踊りの踊れないヤツに踊れる曲をクリエイトさせるってのは確かにおかしな話ですよね。克也さんや糸井先生は常にご自身で情報収集をされておりましたから、ご本人が踊れなくても、今、アメリカではこんな踊りが流行っていて音楽の主流はこれです、みたいな紹介もできたわけで、一般的にメディアはそれが使命ですから、きちんとした情報をきちんと伝えていくってことで、今まではそれで良かったし、リスナーもラジオ番組を追っかけてさえいれば流行の先端にいられたわけです。ところが、踊り場、ディスコに関してはちょっとこの流れが違ってきました。ディスコの場合はベースの黒人が生でその情報を持ちこんできちゃうから、黒人が集まるところが自然と流行の発信源になっていきます。だから流行の先端を走るヤツ、特にディスコDJはこういった店にせっせと通うようになって行くわけです。それがアフロレイキであったり、エンバシーであったり、ムゲンであったりしたんですね。ところがこういった場所に出入りするには、それなりのファッションやそれなりの遊び方も覚えなきゃならない。ということで、ここらの感覚が後々六本木の高飛車な態度になって現れてきたわけです。業界の人間が情報を仕入れに通う店=特権意識=排他的地位の確立みたいな流れはいつの時代も同じです。それと、もうひとつ突っ込んで言えば、DJが客を引っ張っていたってことですね。DJの言ってることがすべてみたいなトコがあって、踊りにせよ曲にせよ相当な影響力を持っていました。その影響力はすべて黒人が持ち込んでくる、アメリカの最新ヒットとニューダンスでしたから、皆こぞって新しい流行を仕入れるためにこういったお店に出入りしたわけですね。ところが、放送局流れのDJ連中の中には、こういった場所に出入りするのが不向きな人とか、好みが合わない人もかなりいたわけです。更に、別に俺達はSOULが好きでDJやってるわけじゃないし、流行として捉えてるだけ、みたいな感覚で、ダンスミュージックだけがSOULじゃないだろとか、ROCKなら負けないとか、POPSだったら詳しいとかいうのもあったわけです。となってくると、彼らがSOUL DJに対抗するには新しいムーブメントを興す以外に、DJのイニシアチブを取り戻す方法はありません。「ろくに踊りも踊れないDJにダンスミュージックがわかるわけない」「SOULだけがダンスミュージックじゃないだろ」この対立と言うか、この構図は日本だけではなく、世界(ちょっとオーバーですか)、ヨーロッパや白人文化圏でも顕在化されていき、その結果、後のスタジオ54に代表されるミキシング・エンジニア的なアピールや、POPなディスコサウンドと各国のオリジナリティを持つサウンド・クリエイトへと展開されていったわけです。後年の日本のディスコ業界は、踊れるDJは殆どその姿を消してしまいましたが、音楽に合わせて踊る快感というのは人種や文化の差こそあれ、根本的には人間の本能だろうと思いますから、その形や音を選ぶのは個人の勝手だし、先導する人間が必ずしも踊れなきゃいけないのかというと、やはりそういった考えも少々僭越な気がいたします。しかしながら、踊り場を遊び場として考えた場合、その踊りや音源のカラーに寄せられて集まる人がいるわけですから、幕の内弁当のように何でもかんでも詰め込んだのでは、食べさせられた人は皆消化不良を起こしてしまうか、最悪の場合は食中毒にかかったりしますから、やはり節操と言うものは必要な気が致します。後々、またあらためてこのあたりのことはお話させていただきますが、本来ならば当時のディスコ文化を引っ張っていくべき役割のDJたちが、このようなくだらないプライド合戦のようなことをしてしまったために、ゆっくりと定着させるべきダンス文化を駆け足で推し進めてしまい、結局はその寿命を自らの手で縮めてしまったのではなかったのかと今更ながら思います。更に言えば、レコード会社の商業戦略的なソースに利用されたということもあります。ダンスミュージックについて言えば、いわゆるリスナー系の感覚とダンス系の感覚は確実に違っていたと思います。リスナー系はどちらかと言うと、オーケストラとかメロディを重視した聞き易さを規準に選曲しますし、ダンス系はメロディそのものよりビートを重視した選び方をしますから、中々折り合わないのも当然のような気がします。特にFUNK系などは、踊りを踊らないリスナーにしてみれば延々とリフが続くだけの単調な音楽に聞こえるでしょうし、ソウルファンにしてみればオーケストラ系のダンスミュージックでは軽すぎてつまらないし、オレたちゃスクールメイツじゃないんだからみたいな、踊る気にならないという感じがありました。まあ、DJの間でもこんなぶつかり合いがあったわけです。新宿GETを代表とする、店側がお客を教育して引っ張っていたようなタイプの時代から、お客のニーズに合わせた曲を店側が選んで流すような時代への変わり目でした。これはお店のキャパが、俗に言う大箱、大型店に変わっていくのと平行して流れが生まれていったとも言えます。大量生産、大量消費は当時の日本の経済状況とシンクロする部分が多分にあったのではないかとも思われます。それだけの人数を一箇所に集めて先導するには、昔ながらの手作りのようなやり方ではもう手に負えなくなっていきました。客の好みを知ることもDJの基本ですが、すでに当時のお客はジャンルが分散していましたから、逆に言うとダンスフロアに集めた客をDJのカラーで染めることは不可能になっていってしまったのです。いわゆるお客が店を引っ張るような流れに変わっていったわけです。しかもそれは急速に進行しました。まあ、これも言ってみればいつの時代も同じようなもので、世代の交代と言うか、新しいジェネレーションは常に前の時代を否定するところから始まるワケで、それまで浸透していた踊り場の「しきたり」みたいなものをぶち壊し始めたということでしょう。音楽の歴史がそうであるように、常に新しいことを始める者は異端児扱いされますが、後年その形が残るか残らないか、それは時代が評価することでもあります。クラシックから飛び出してJAZZが生まれ、カントリーからブルースが飛び出て、ブルースからロックが飛び出して、そこにゴスペルが融合したりと、人は常に新しい快感を求めていくのです。つきつめると、人の行動はすべて快感によって導かれていると言っても過言ではありません。いったいこの快感は我々をどこへ導こうとしているのでしょうか?また話が飛躍してしまいました。道楽者はすぐワープしてしまいますので。(笑)つづく・・・・
2005年08月13日
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プー太郎生活を続ける委員長の元にジュリーから電話が入ったのは、Tomorrow USAを辞めて約1ヶ月が過ぎようとしていた頃でした。「ロニー、元気か? 仕事してんのか」「何にもしてないよ。無職だよ」「そんなことだろうと思ったよ。USAに戻ってくるか? マチャアキの穴埋めるのにもう一人DJがいるって、江川店長が言ってんだけどどうする?」「江川店長が? 俺で良いのかなぁ」「ああ、ロニーならかまわないって言ってるんだけど」「じゃ、やってみようかな」「おう、とにかく早い方が良いから今日にでも店に顔出せよ」またしても江川店長の思いやりに頭が下がる思いでした。早速USAに出向いて江川店長はじめ、皆さんに挨拶をしました。糸数支配人、須貝主任、渡辺主任、館山主任(相変わらずでしたね、この人は)、みな快く迎え入れてくれました。USAファミリーとして復活したロニーの再スタートです。お店の調子は相変わらずでしたが、心持かスタッフの雰囲気が明るくなったように思えました。そしていつの間にか、ジュリーこと鈴木のしょうちゃんがチーフDJになっていたのにも驚きました。更にもう一人新しいメンバーとして紹介されたのが、なんとあのビバヤングに出演していたフィリッピンバンド、サウンド・ウェーブスでキーボードを弾いていたリトでした。彼の話によるとバンドは解散、自分は今年から上智大学に留学生として日本に来ているとのことで、全ての面倒を見てもらっているガールフレンドの負担を軽くするため、アルバイト探しでジュリーを頼って来たとのことでした。ということで、ここに新生Tomorrow USAのDJメンバーが揃ったのでした。チーフDJ・ジュリー、DJ&パフォーマンス・JOE THUNDERS、DJ in English・LITO LUSTORE、DJ&ダンス・ロニー、この個性的な4人でシフトが組まれました。学生リトはオープンから10時までの早番専門、ジョーはメインの8時~午前1時、その合間を縫ってアイドルDJジュリーが7時から12時、そして委員長が11時~午前4時までの深夜専門。早い話、早番リトと遅番ロニーは、メインDJのジュリーとジョーのつなぎみたいなモンでした。だからといって別段不満もなく、委員長はダンサーズ解散の精神的けじめをつけるためにもしばらくは死んでようと思っていました。ライバル・ジョニーも博多に都落ちしたし、お互い次のステップまでしばらくの間は充電期間だと思って、おとなしくしていようと考えていました。DJとして復活したものの、約1年のブランクがありますから、勉強するのにも深夜番はうってつけでした。江川店長の構想では、4人が独自の個性的なパフォーマンスでDJスタイルを創りだし、時間帯によって店のムードを変えるというものでした。ジュリーとジョーはすでにそのスタイルがある程度出来上がっていましたが、リトと委員長はこれから独自の個性を生み出さなくてはなりませんでした。元々小さな箱でSOULマンを気取っていた委員長ですから、大箱でどんなパフォーマンスを見せたら良いのか、これはダンサー以上に大きな課題でもありました。当時のディスコDJには大きく分けて2つの流れがあり、ひとつはブロードキャスト、いわゆる放送局系のDJ。もう一方は、踊り場・ディスコから生まれたローカル系のDJでした。もともとディスク・ジョッキーという名前はラジオ局のパーソナリティを表現したもので、競馬の騎手・ジョッキーが馬の代わりにDISCの上に乗る、という意味からそう呼ばれるようになったそうです。昔は、ラジオ局でもジョッキーが自らレコード(ディスク)を回しながら喋っていましたから、まさにディスクのジョッキーですね。話は飛びますが、DJの大御所糸井五郎先生と一度仕事をご一緒させていただいたことがありました。この時の先生、レコードの回転数45を33と間違えて回してしまったのですが、その切り替えの速さといったら素晴らしかったですね。通常はシングル盤45、LP盤(アルバム)33の2種類をランダムにチョイスして回してゆきますから、こんな間違いはよくありました。昔のターンテーブルは、針のついたアームを置くストッパーの下の位置に回転数の切り替えレバーが付いていて、センターがストップで左が33、右が45というふうになっていて、レバーを右左に倒して回転数を合わせるようになっていました。先生はシングル盤を33回転モードでプレーしてしまったのですが、その頭が出た瞬間に気が付き、「はい、次の曲は~」と声を被せつつ、ターンテーブルを人差し指で早回し、と同時に親指でレバーを45に切り替え、「ゴーゴーゴー」とか言い終わる頃にはきちんとイントロが終わりコーラスに入っていました。いやー、プロの技を目の当たりにしてスゲーなと思いました。さすがに年季が入っているなぁと思いましたね、実際。全然慌てない。落ち着いておしゃべりを被せて、殆ど誰も気付かぬうちに事は終わっていました。「先生でも間違いはあるんですねぇ」と言ったら、「当たり前ですよ。でもこのごろはね、自分で回すことは滅多にありませんから楽ですけどね。こういった現場ではちょっと緊張しますね。このごろはちょっと耳も遠くなってきましたから、気が付くのが遅いこともあります」普段の喋り方もラジオのDJそのまんまでした。委員長が中学生の頃夢中になって聞いていた深夜放送オールナイトニッポン、まさかその大御所パーソナリティの糸井五郎さんと、こんな形で仕事をご一緒できるとは夢にも思っていなかった出来事でした。忘れがたいエピソードのひとつです。ということで、いわゆるブロードキャスティング(放送)をメインとしたディスクジョッキーが、俗に言うDJで、これが本流とでもいいましょうか、音楽を紹介しながらおしゃべりをするという放送局のジョッキーですね。昔はクラシックやジャズ、ロックなどを売り物にした、DJが入っている音楽喫茶みたいな店も多く、放送局目指して修行するジョッキーが随分とおりました。この流れから「踊り場」、俗に言うディスコへ流れていった方々が、鈴木昇二氏や赤シャツのみつぐ氏を代表とするグループです。大先輩、小林克也さんなどは元々放送局の流れで、ディスコDJを手がけたりしたわけですね。昔は糸井五郎先生なども時々お仕事をされていました。言ってみれば、メージャー選手が時々マイナーでプレーしたみたいな感じですかね。もうひとつの流れは、踊り場から育っていったDJです。昔はディスコのDJというとベースの黒人がアルバイトで入ってて、その合間を従業員の目ざといヤツが回す、みたいな感じでしたから、さほど職業的な意識は高くなかったように思えます。GETに代表されるように、従業員は踊りの手本も見せるし、踊りとセットになっている新曲も紹介するし、ウェイターもやるしって、とにかく何でもやってましたからね。見よう見まねで自然と覚えちゃいますから、あとは喋らせて面白いヤツとか、選曲が上手いヤツとか、それなりに皆楽しんでやってたってのが実際ではなかったでしょうか。75~76年にかけて一気に爆発したSOULブームの時には、アフロして踊れなきゃDJもダメだぁ、みたいな風潮がありましたから、ディスコDJ=ダンスマスターみたいな感じですよね。GETが典型的な例ですね。アフロこそしてはいませんでしたが、DJは踊らせても上手くなきゃいけないみたいな、ちょっとした資格のようなものがありました。DJだから踊れて当たり前みたいな。だから、従業員でも踊りの下手なヤツは中々DJの番も回ってこない。そんな形でディスコの現場から必要性というか必然的に生まれてきたのがディスコDJでした。表向きは同じに見えても、方向性が明らかに違っている二つの流れがブームと言う同じ土俵に乗ってしまったわけです。そして、この辺の考え方の違いが後に大きな対立を生んでいくことになるんですね。この話は長くなりそうなので、つづきはまた明日。。。。。。。
2005年08月12日
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非生産活動愛好家の皆様、日頃は道楽者の昔話をご愛読頂きありがとうございます。昔話の方は1977年、委員長率いるダンシングチーム「BAD CHILDREN」がついに解散するに至り、途方にくれた委員長はこのあと1ヶ月ほどプー太郎に成り下がってしまいます。ということで、このプー太郎をしていた1ヶ月間は特別書くこともないので、今日は号外として「ミュージカル・バトン」をご紹介させて頂きます。これはブログ仲間で回されていくリレーバトンのようなものです。その昔「不幸の手紙」とか「幸福の手紙」とかいう遊びが流行ったでしょ?あんなようなものだと思っていただければ宜しいかと思います。要は、バトンを受け取った人は、ブログ上で新たな5人の人にこのバトンを渡して行くといった、非常に非生産性の高い行為です。(略して非生行為・ヒ・セイコウイと呼びましょう)で、何故バトンのタイトルがミュージカルかと言うと、このバトンの内容が音楽に関する質問に答えるという形式で成り立っているからなんですね。う~ん、ちょっと疑い深い委員長は某大手企業の巧みな営業戦略じゃないかとか、警視庁と保安の裏調査じゃないかとか、CIAの陰謀ではないかとか、色々ワープして楽しみましたが、仮にそんなデカイ陰謀に巻き込まれたりしたら、委員長の後半の人生はバラ色に輝くのではないかと、くだらないことを言ってる場合ではありませんね。ということで、ミュージカル・バトンのテーマは以下の5つです。1.Total volume of music files on my computer コンピュータに入っている音楽ファイルの容量どれくらいですか?2. Song playing right now今聞いている曲は何ですか?3.The last CD I bought最後に買ったCDは何ですか?4. Five songs (tunes) I listen to a lot, or that mean a lot to meよく聞く、または特別な思い入れのある5曲は何ですか?5.Five people to whom I'm passing the baton 次にバトンを渡す5人を選んで下さい。このミュージカル・バトンについてはGoogleのはてなダイアリーに詳しく載っていますからご参照下さい。http://d.hatena.ne.jp/keyword/Musical%20Batonでもって、委員長へのバトンは70年代のディスコ戦士、委員長の戦友テリーのブログ(ブロッキャ)から渡されました。しかしまあ、このテリーは昔から新し物好きでしたからね。とにかく新しいものには好奇心旺盛というか、アンテナの感度が良いっていうか、ひとつところに留まることを知らないタイプですね。今はインターネット・ラジオや、ブログ放送など手がけておりますが、まあ、よくこんな一銭にもならないことに夢中になれるなぁってくらい、私財投げ打ってまでも突っ込んで行く、その道楽者根性には頭が下がります。ホントに。非生産活動推進委員会としては非生産功労者賞を差し上げたいくらいです。(ちなみに彼のサイトは当ブログのリンクから入れます)さて前置きが長くなりましたが、ミュージカル・バトンの5つのテーマにお答えしていきましょう。まず、1.のPCの中の音楽ファイル容量は、100MBほどですね。委員長の場合、合計3台のPCを使っておりまして、1台はOFFICE用でこれは遊びのファイルはほとんどありません。2台目はパーソナル用ノートパソコンで、ここに数十曲程度の音楽ファイルが入っています。3台目は自宅の家族用で、これはもうほとんど子供たちに凌駕されておりまして、親父のスペースはほんの少ししかありません。実は委員長がPCに触れ始めたのは15年位前になるのですが、当時はハードの容量がやたら小さかったもので、データファイルはとにかくFDに落すという習慣が身についてしまっておりまして、未だにデータを本体に残したままにすることができない癖があります。ということで、ファイルはすべてカードとかCDに保存しています。2.の今聞いている曲は、ゲーム音楽の「ゼノ・ピッタン」です。子供の日本語教育のために買ったゲームなんですが、挿入歌が耳について離れませんね。ひらがなを組み合わせて遊ぶPS2ゲームで、このところ毎晩子供たちと遊んでいるうちにハマってしまいました。3.の最後に買ったCDは、ピンクフロイドのDark side of the Moonです。HBOというケーブルTVでピンクフロイドの特集を見て、懐かしさの余りあらためて聴いてみたくなって購入しました。番組ではデヴィッド・ギルモアが当時の秘話等を聞かせてくれたり、あの時代にこんな音楽をやりながらツアーを行っていたというところが凄いですね。ということで、このアルバムは永遠不滅の名作ではないでしょうか。そして、4.ですが、これは中々難しいですね。挙げ始めたらキリがありませんが、絞りに絞って5曲をリストアップしてみました。(1)Change is gonna come/サム・クック委員長がSOUL音楽にかぶれ、黒人音楽、文化を追求して行くうちにぶち当たった「魂」の詩って感じですか。「俺は川沿いの、掘っ立て小屋で生まれた」という出だしで始まるこの歌は、米国に生きる黒人の血の歴史みたいなものを彷彿とさせます。「いつかは変わる、わかっているさ、いつか変わっていく」そんな慟哭とも似たサム・クックの声に涙が溢れ出てしまいます。後年、ボビー・ウーマックがサム・クックに捧ぐとして、そのままのスタイルで取り上げましたが、この二人を聞き比べると、受け継がれる魂というか血の影を感じざるを得ません。(2)Evil/アースウィンドアンドファイヤー曲は、EW&FがCBSに移籍して二枚目のアルバムKEEP YOUR HEAD TO THE SKYからです。ちなみにこのタイトルナンバーもセットみたいなもんですね。発売当時はラテンロックなどと呼ばれていましたが、アフリカの民族楽器カリンバの音色とモーリス・ホワイトの優しい声に衝撃を受けました。更にバックコーラスが非常に美しくて、後年スーパーグループになっていく片鱗を覗かせています。詩の内容はまるで宣教師のようですが、音楽にメッセージを乗せると言うことを始めて理解した曲でもありました。まさに魂が揺さぶられた一曲です。(3)Now and Forever/キャロル・キングマドンナが出演した女性リーグを描いた映画のタイトルソングです。第二次大戦中のアメリカでは野球選手も続々と戦場に狩り出され、娯楽としての野球が行き詰まってしまい、苦肉の策として女性のプロ野球リーグを創り出しました。初めての経験ながらも、全国から集まった女子選手の転戦ツアーをしていく様子が描かれています。アメリカの野球史上に残る幻の女子リーグ。青春時代のほんの一時とはいえ、中味の濃い時代をシェアした女性たちの心温まるストーリーでした。「今もそして永遠に私達は繋がっている」という詩に心が癒されます。キャロル・キングの溌剌とした中にも物悲しさが漂う声につい引き込まれてしまいました。良い時も悪いときも、ある時代を共に過ごした仲間を思う心の詩が、自分の体験と重なるようで忘れられない一曲です。(4)頬に街の灯を/吉田美奈子個人的には、この曲が彼女の和製ポップの最高傑作だと思っています。とにかく完璧です。何も言うことはありません。機会があったら是非聞いて頂きたい名曲です。日本のごくありふれた商店街の夕暮れ時、雑踏の中で愛する人の思いが浮かんでくる、というようなイメージのごくごく日常的なやさしい感性が伝わってきます。(5)ジャーニー/もんた&ブラザースダンシング・オールナイトのB面に収録されていた曲です。30年ほど前、深夜の赤坂、「びっくりや」という大衆食堂でご飯を食べているときに有線で流れていた曲です。そのとき私はホルモン焼き定食を食べていました。(そんなこたぁ誰も聞いちゃいないってか)たぶん、もんた氏がアメリカ旅行をした時のことを詩にしたのだと思います。なんのことはないいわゆるフォークソングなのですが、行くあてのない当時の自分の心情と詩が非常にフィットして、未だに心に残っていて、時々思い出しては聞いています。というわけで、バトンの質問にお答えしました。さてこのバトンを誰に渡そうか迷いましたが、はっきり言ってブログは未だビギナーなもので、特に仲間もおりませんから勝手に選ばせていただきました。このバトンは、続けるのも止めるのも、すべては受け取った方の自由ですから、気軽に受けて下さい。何日以内に出さないと不幸になるぞ、とか脅したりはいたしませんのでご安心下さい。NETのあそびですからあまり固く考えないで下さい。非生産的ゲームですので、あまり真剣に悩まず軽く受け流してください。ということで以下のブログを選ばせて頂きました。よろしくお願いします。RAGLOGラグタイムあれこれALEXEI RUMIANTSEV アレェクスェイ・ルミィヤンツェフさんの、音楽にまつわるブログです。ジャンルを超えてお楽しみ頂けます。http://raglog.cocolog-nifty.com/raglog/2005/07/post_98d4.html野次馬女の部屋とにかく幅広いジャンルを独自の視点で捉えておられて、結構勉強になったりします。野次馬と道楽者はある面共通する精神性がありますね。http://plaza.rakuten.co.jp/yajiumanoheyaざんすーサイズ・AB型日記日常生活のありふれた風景を独自の感性で書いておられます。http://plaza.rakuten.co.jp/zansusize
2005年08月11日
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新宿末広亭の裏にあった喫茶店でヒトミの親父さんと話した後、委員長とヒトミの将来についての話し合いは続きました。(何だか結婚話みたいだなぁ)とにかく、まだあきらめたくないというヒトミの気持ちは十分に伝わってきましたので、まあそんなこんなで色々考えていくうちに、一度六本木SECの仕事でお世話になったリップスティックという事務所の社長を訪ねてみることにしました。事務所といっても弱小プロダクションですから、どのみち養ってはくれないことは解っていましたが、まずは道が見えなければ歩き出せません。事務所は四ツ谷駅で下車、雪印の看板目指して歩いていったビルの裏通りにあるこじんまりとしたアパートの1室でした。小さな事務所や企画会社が入っているコーポといった感じの場所でした。社長のCさん自ら営業に回る典型的なパターンです。一攫千金狙って業界に勝負をかける事務所はおおかたこんなものです。それでも一人でも大当たりする芸人を出せば、都内の一等地にビルが建ちますから山師は後を絶ちません。委員長とヒトミの訪問を快く受けてくれたC社長、まずは仕事を探してくるから、それでしばらくは食い繋いで欲しいということでした。バイオがいるからと、隣の部屋にある企画会社からカメラマンを連れてきて、早速プロフィール用の撮影です。マイナー事務所は横の繋がり連携プレーですね。近所の石畳や公園でパシャ、パシャと二人の写真を撮りました。肝心の売り込み芸はどうするってことになり、踊りだけじゃやっていけないし、唄でも歌うかってことになりました。(なんかこの流れって漫才師とたいして変わらんなぁ)男女ディオってことでC社長とイメージしたのが、ヘドバとダビデ「ナオミの夢」とかピンキーとキラーズでした。(なんかSOULとはかけ離れていくなぁ)「あなたギター弾けるんだったら、バンドの可能性もあるよね」って、軽く言うC社長、小さな事務所には17~8歳のバンドの写真が壁にベタベタ貼ってあるところを見ると、どうやらバンド系の音楽事務所のようでした。アイドル系はなんといっても業界のコネなくしてのし上がれませんが、バンド系は間違ってプロの前座とかでブレイクでもしたら、そりゃもう大変です。ロックバンドは、学園祭、アマチュアのコンサートからライブハウス等、仕事も取りやすく、売り出すきっかけはアイドル系よりも可能性が高いので、弱小プロダクションには結構この手のタイプが多かったですね。ブレイクして大手に持っていかれることもありますが、まずはチャンスが多いことが強みです。委員長とヒトミは、当面DJかダンサーの仕事が取れれば、なんとか食い繋ぐことができますから、ここは一番C社長に期待する以外はありませんでした。勝手にセールス・バイオを作って営業に回ったC社長から電話があったのは3日後でした。オーディションがあるから来てくれと言われ、呼び出された先はなんと新宿歌舞伎町クレージーホースでした。ヒトミと二人して出かけていくと、C社長から踊りとDJのオーディションと言われ、まずは1曲適当な振り付けでペアダンスを踊り、次はブースに入ってサラ回しです。なんと当時のクレージーホース、DJはミツグ氏でした。「あっ、ロニー、久しぶりだね。ところで今日はなに?」もっちゃりしたミツグ氏の問いに、なんと答えて良いものやら、今の自分の状況を一口で述べるのは至難の業です。「今、事務所に入っててさ、今日はダンサーズのオーディションなんだ」ってことで説明になったようなならないような会話のあと、ブースに入れてもらいDJとして喋りとサラ回しのテスト終了。結果はその夜のうちに届きました。「残念だけどダメだったよ~」申し訳なさそうに電話してきたC社長の声を聞いて、委員長は結果ではなくC社長の発想にがっかりしました。というのも、何もディスコで働くなら自分のコネ使って探したほうが早いし、DJの仕事ならいつでも取れる自信がありました。何故、事務所に入ることにしたかと言えば、ヒトミとのペアで働ける場所を見つけたかったからで、お世話になった江川店長の元を離れ、同じ新宿のディスコでは仕事をするつもりがなかったからでした。自分はディスコ以外の業界は全く知らないし、どうせペアでやっていくならディスコ以外の違った世界で試してみたいという気持ちが強かったので、SECのようなサパークラブとか、ライブハウスとかの仕事を期待していたのでした。ディスコで職探しするなら、何も事務所に所属する必要もないし、ちょっと肩透かしを食った感じでした。そのまま1週間が過ぎ、再びヒトミから電話がありました。「親父がさ、そんないかがわしい事務所じゃダメだって、怒られちゃったよ」「俺もそう思う」「撮った写真とか、ファイルとかあったら全部取り戻して来いって言ってんだけどさ」「じゃ、俺が行って取ってくるよ。このままズルズルしててもしょうがないし。断ってくるよ」翌日、四ツ谷の事務所に出向くと、何故か異様に興奮した社長が嬉しそうに話しかけて来ます。「昨日のテレビ見た? ガールズ。凄い話題でさぁ、問い合わせがガンガン来てんのよ」「ガールズ?」 はいはい、あのランナウェイズのコピーバンドね。「もう忙しくってさ、悪いけど今そっちまで手が回らないのよぉ」「はあ、実はボクも無理をお願いして悪かったかなと思いまして・・・」ということでお払い箱です。って言っても面倒も見てもらってないから、両者合意の下これで縁が切れたってことですね。でもちょっと悔しかった。あんなガキみたいなバンドとオレ達を比べやがって、みたいなね。(自分たちだって十分ガキだろうがぁ)当時の女性バンドのコードって保守的だったから、ちょっと変わったことすりゃ話題になるわけで、お色気といってもランナウェイズに比べたらママゴトみたいなモンだったし、所詮は色物扱いで終わるだろうな、っていうのが率直な感想でした。後年メンバーは形を変えてメージャーへ移っていったけど、結局事務所はリップスティックではありませんでしたね。(C社長残念でした)この後しばらくジタバタしていると、元ダイタン商事のムゲンの店長から九州行きの話が入ってきました。博多にダイタン系列の姉妹店があり、そこへダンサー&DJでどうだ、という話でした。でもなぁ、都落ちするとなぁ、流行にも疎くなるしなぁ、と躊躇していたら、意外にヒトミから「あたしは行っても良いよ」というあっさりした返事をもらい、う~ん、じゃひとつやってみようかい、と腰を上げた途端、ヒトミの親父さんから「絶対許さん」とクギを打たれてしまいました。そりゃそうですよね。未成年者だし、地方で問題でも起こされたら大変ですし、そこはそれやっぱり女の子ですから、父親としては手元に置いておきたかったのでしょう。委員長の方も、彼女のドリーに猛反対されてあきらめました。いくら仕事とは言え、男女二人で地方に出るとなると、何が起きてもおかしくはありませんから、普通は反対しますよね。ちなみにこの話は委員長のライバルだったファンキー・ドールズのジョニーの元に転がり込んで、結局彼が行くことになりました。お供でついて行ったのが、昔馴染みの一平でした。このころのジョニーも委員長同様、相当行き詰っていてダンサーもバンドも当面は活動中止となっていました。アダムスアップルもダイタン商事だったし、ジョニーのボス、マリオさんも行き詰ってしまっていて、結局は皆時代の波に呑みこまれていったのでした。しかしこのジョニー、まさに同じ時代を生きたライバルでしたね。お互いに別の道を歩みながらも同じような道筋を辿って行ったのでした。これをもちましてBAD CHILDREN、ロニー&ヒトミ、そのすべてに終止符が打たれました。(合掌)一応はヒトミもこれで納得がいったようでしたが、なんとなく歯切れの悪い終わり方でした。さあて、これからどうしようかな。(本当に行き止まりです)でも、また振り出しに戻っただけのことじゃん。(歳だけはしっかり喰ったけどね)一人のほうが気が楽だし。(自己責任だけだからね)ということで、委員長は年老いた母親の厄介になり、しばらくの間プー太郎をかましたのでした。毎夕、再放送されてた「細腕繁盛記」とか見ながら、一日中グダグダと過ごす委員長でありました。(やれやれ)
2005年08月10日
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1970年代の新宿歌舞伎町、ディスコ産業を席捲制覇したダイタン商事はチェーン全店共通会員権の健闘も虚しく、コマ劇場隣の東宝会館4階Big Togetherと7階tomorrow USAの大箱2店を残し、すべての店舗の処分が決定しました。Tomorrow USAは辛うじて生き残りはしましたが、相変わらずの荒んだ状況は全く変わらず、なんとか毎日の営業を続けていただけでした。まあなんと言っても水商売ですから、とりあえず日銭が入りますのでたちまちに営業が立ち行かなくなると言うことはありませんが、給料が出るのか出ないのかという不安が解消されたわけではありません。そんなこんなでマチャアキがまず脱落。榊田主任の時もそうでしたが、どうもこの人は九州男児の浪花節みたいなところがあって、何故か一人突っ張って辞めていきました。とは言うものの、結局は麻雀で身を持ち崩したみたいなトコがあったのも事実です。さて、委員長率いるBAD CHILDRENはというと、チャーリーの急性アルコール中毒事件で2日ほど穴を開けてしまったこともあり、また、店全体的に漂う退廃的ムードに流されてか、チャーリーが脱退を表明しました。ガキの遊びもこれまで、といったところでしょう。放っておいてもそれなりに皆歳喰って大人になっていきますから、一般的な生活をしたいと思うのも無理はありません。もちろん委員長には引き止めるだけの資金繰りや目途もありません。ところが、ここでヒトミが食い下がります。「あたしは辞めないからね。ロニー、二人でもいいじゃない、辞めちゃダメだよ」わずか17歳の彼女がここまで執着するとは思ってもいませんでした。とは言っても、いくらなんでも二人じゃどうにもなりません。正直言って、こんな状況下で江川店長にまたもやお世話になるのは忍びなく、ここは潔く身を引くことを決意したのでした。まさに終わった、という感じでした。ついにBAD CHILDRENもこれで終わりです。新宿の踊り場で遊んでいた悪ガキが集まり、一応はその世界で頂点を極めた長いようで短かった2年でした。江川店長に挨拶を済ませ、楽屋の衣装を片付けてすべてが終わりました。不完全燃焼のまま終わった気持ちもありましたが、SOULが好きで黒人に憧れ、踊りに夢中になってディスコで働き、気が付けばガキ大将になっていた、そんな自分をあらためて冷静に見直す時がきたのでしょう。ある意味、緊張が解けて気が抜けたような数日を過ごしましたが、音楽を聴けば振り付けのアイディアが浮かんだり、テレビを見ればこの踊り使えるとか、未だ頭の中からはダンサーズ根性が抜けていませんでした。そんなこんなで、仕事を辞めて2~3日もしないころ突然ヒトミから電話がありました。「親父が会いたいって言ってるから出てきてよ」「会いたいって、何で?」「仕事のことだよ、とにかく一度会ってくれる?」「ああわかった」何だかよく分かりませんでしたが、ヒトミの親父が芸人ということは知っていましたので、なんかのコネでも紹介してくれるのかと思い、興味もあったので会うことにしました。待ち合わせの新宿三丁目の喫茶店には、ヒトミと父親の二人が委員長を待ち構えておりました。結婚の許しを請いにいくヤツはきっとこんな感じかなぁ、などとくだらないことを考えつつ席につきました。自己紹介のあと、ヒトミの親父さんが唐突に切り出しました。「なんか楽器はできる?」「はあ、ギターなら少し」「唄は?」「唄ですか?あんまり自信はないですけど」「じゃ、コーリューブンゲンを買ってきなさい」「コーリューブンゲン?」「ああ、基本は私が教えるから」「ちょっと待って下さいよ。教えるって、一体何をするんですか」「二人で漫才をやりなさい」「ま、まんざい?」いやー驚きましたね、ヒトミの親父さんは漫才師だったんですね。シャンバローっていう3人組の楽団漫才です。しかもこの親父さん音大出のミュージシャンでもありました。奥様(ヒトミの母さん)は残念ながら離婚してご一緒ではありませんでしたが、宝塚歌劇団に籍を置いたことのある芸人さんとのことでした。こりゃ、ヒトミがここまで執着するのも無理はありません。両親揃って本腰の入った道楽者ですから、血統書付きみたいなもんです。しかしなあ、漫才じゃなあ、嫌いじゃないけど、今やれって言われてもなあ、心の準備だって必要だし、と頭の中でパニックが起きている委員長を見かねて、ヒトミが割って入ります。「ちょっと待ってよ、あたしたち漫才なんてやりたくないよ」「やりたいことをやるにはメシ喰わなきゃならんだろ。まずはメシを食うことが先決だ」「第一、あたしらにできるわけないじゃん」(そうかなぁ、俺は出来そうな気がするけどなぁ)「明日、米丸さんに会わせるから」*ちなみに米丸さんは当時の協会の会長でした。(そ、そんな、いきなりですか)「親父、ちょっと待ってよ、勝手に決めないでよね」いやいや、冷や汗ものでしたが、まあ何とかその場は収まって(どう収まったんじゃい)、とりあえず漫才師の話は保留と言うことになりました。(ちょっと残念)しかしこの親父さん、さすが芸人と言うか、話の最中で見せる顔の表情に年季というものを感じましたね。真剣な話をしているときは怖いくらいマジなんですが、笑ったときの表情は顔が崩れるというのか、営業用の顔になるというか、別人のように変身します。すげーなってのが印象でした。パッと笑い顔を作れる、というか楽しそうな顔になる。ほんと芸人魂みたいなものを見させてもらいました。さて、この後ヒトミと二人で相談です。委員長としては、もうすでに自分自身の中ではケジメがついていたので、今更何をする気にもなりませんでしたが、ヒトミの執着というか、あまりの情熱に根負けしてしまったのです。とは言うものの、特別なコネがあるわけでもなく、いっそのこと本気で漫才師をやってみるか、ってなもんでした。彼女はもちろん頑なに拒否しましたが、委員長は結構本気でやってみたいと思ったりしました。根がお調子者ですから、舞台なら何処でも良いじゃないか、みたいなね。アフロして派手な漫才師って、想像しただけで結構面白そうでしょ。しかも夫婦漫才みたいな。(もちろんヒトミとはそういう関係ではありませんでしたよ)新宿末広亭の舞台に立っている自分を想像したら、それだけで結構笑えましたよね。当時はまだ若手漫才師みたいなのはほとんどいませんでしたからね。Wけんじさんとかてんやわんやさんとか、まだツービートなんか出てくる前のことでしたから、もし本気でやってたら結構売れてたかもしれませんね。唄って踊れる漫才コンビ、なんちゃってね。
2005年08月09日
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憂鬱な日々の続くTomorrow USAでは先の見えないもどかしさに、自棄を起こすスタッフも増え始めていました。お客もソコソコは入っていましたが、他の新しいお店に比べると勢いのない空元気のようなもので、やることなすことのすべてがマイナスに回っていくような感じさえしていました。ジュリーとジョーは相変わらずのマイペースで、ひたすら自分たちの道を黙々と歩いているというようでした。深夜番のマチャアキはというと、照明係のムラちゃんと始発待ちまでの時間を他愛もない話に明け暮れる毎日を過ごしておりました。相性が合うというのか、ムラちゃんの温和な性格が気にいったのか、時にはまじめにビジネスの話などもして盛り上がる二人でありました。それでもマチャアキは少なくとも週3日は麻雀のお誘いが掛かり、二人の密談も結局は与太話の枠を出ずに相変わらずの道楽人生に変わりはありません。BAD CHILDRENはここで満足してしまったのか、あるいは店の存続に気を揉んでいたのか、ただ仕事として踊る日々を消化しているに過ぎませんでした。チャーリーはベルの影響で次第に目つきが悪くなっていき、ヒトミは毎晩のようにハレムに通い詰め目にクマを作っているし、委員長も店全体に立ち込めた暗雲のようなムードの中で開き直った感じの毎日でした。時にはマチャアキに付き合って朝まで麻雀を打ったり、彼女のドリーを呼び出して踊りに行ったりと、漠然と回りに流されるような日々を送っていました。そんなある日、いよいよ江川店長から全員に通達がなされました。ダイタン商事は近日中に整理されるであろうということと、この店のことは自分なりに精一杯努力するがこの先社員の給料は保証できないので、辞めるも残るも君たちの自由にして欲しい、といった内容でした。委員長にしてみればとうとう来たかという感じで、別段動揺するわけでもなく、取り敢えずはこのまま続けていくしかないと思っていました。ヒトミは根っからのフーテン娘でしたからこのまま残ることに依存はなく、店を出たら何もなくなってしまう訳ですから、たとえ無給でもしばらくはやってみようという考えでした。チャーリーだけが難色を示しました。同棲中の彼女に加え、ベルという居候まで面倒見ている身にとっては、無収入は切実な問題ですからかなり深刻なことでした。更に委員長の危惧したとおり、ベルの精神的重圧に相当参っていました。ポツリポツリと話し始めたチャーリーの口から飛び出すのはベルの悪口ばかりで、ドラッグも作用していますから、非常に狭い精神世界の中でもがいているのが手に取るように分かりました。いずれこうなることは予想していたことだったので、早速出かけていってベルとの話の仲介役を買って出ました。店の事情を説明して、何とかこの場を切り抜けるため協力して欲しいというようなことを、ベルの先輩としての顔を立てつつお願いをしたところ、数日中に就職が決まりそうなので近日中には出て行くことになるだろうということでした。話を聞いてみればチャーリーがもがいていた精神的圧迫というのは、二人の料理人としてのプライドにまつわる事で、ベルは和食10年のキャリアがあり、チャーリーは洋食に入って高々2年程度の新米ということで、そんなお互いのプライドが覚醒時にぶつかり合ったという、委員長にしてみればポン中の戯言、どーでも良いようなことでした。とにかく一件落着、この数日後にベルは池袋のスタンド割烹に就職が決まり、彼もこれで業界とはいよいよ縁が切れることになったのでした。ということでBAD CHILDRENの進退は、とりあえず1ヶ月先送りとなりました。従業員の間では、これは従業員の選別をする人員整理だという噂も流れましたが、ここでまたウェイターの数人が辞めていきました。さあこうなってくると、従業員は不安を紛らわすために毎晩飲みに出かけたり、麻雀に走ったりと、自暴自棄でやけくそ状態になっていきます。マチャアキもほぼ毎晩のように麻雀に出かけるようになり、賭けで負けた分は控え室でチンチロリンや、挙句の果てはじゃんけん勝負1本千円まで出てくる始末で、もはや末期的な状況となりつつありました。幸いにも委員長は高校時代に賭け麻雀で相当揉まれましたから、仲間内での勝負ではソコソコの小遣い稼ぎになり、勝ったあぶく銭はチャーリーの家賃の助けに当てたり、ヒトミの小遣いになったりと、それなりに要領良く生きる術に長けた自分にまんざらでもない気がしておりました。道楽は身を助ける。(ホントかよ)いやいや、これはたまたま運が良かっただけです。道楽は決して身を助けたりしません。一時の良運で勘違いしてはいけないのです。ちなみに後年はこのツケも支払わされることになる委員長です。何とか食いつなぐために思いついた博打ですから、無い者同士の取り合いは当然のこといずれ修羅場を迎えることになります。まず、毎晩博打にうつつを抜かしているわけですから、仕事に身が入るわけがありません。かろうじて早番はジュリー、ジョーがいますから何とか持っていますが、終電間際あたりからは従業員全体がダレ始めてきて、もう頭の中は博打のことで一杯です。しかもしっかりと頭を抑える人間が現れませんから、建前の仕事だけで、ちょっと目を離せば楽屋でトランプやサイコロを前にして目が血走っていきます。トイレに入れば大用のドアを開けて出てきた厨房のチーフが、用足しをしている委員長の尻にぷすっと注射針刺してきてニヤニヤするし、女子トイレからは可愛い喘ぎ声が聞こえてきたりと、それはもうまさに世紀末状態です。散々道楽をやり倒してきた頭のデカイ委員長が、ここではすごくまともな人間に思えてくるから不思議です。こうなってくると全てがマイナスのサイクルで回り始めていきますから、悪循環は更に拍車がかかっていきます。早番のジュリーですら先行きの不安は隠せず、お客が喜ぶ曲をただ回す出けのレコード係りに成り下がってしまい、ジョーは日に日に落ちていく客足を何とか引きとめようとリクエストだらけのサービスに走り、気が付けばお店は常連客ばかりの巣窟のようになっておりました。深夜のマチャアキは、出勤はするもののムラちゃんにサラ回しを頼んで雀荘へ一直線、仕方なく委員長が手伝ったりして、もうとにかく滅茶苦茶でした。当時はまだカセットデッキの性能が今ほど良くなかったこともあり、かろうじてDJの体裁は保っていましたが、委員長にしたところで金貰ってるわけでもないのに真剣にサラ回すつもりなどサラサラありませんから(シャレになってないっつーの)、ロングバージョンのオンパレードでした。時々終わったのも気づかないで居眠りしたりしてましたね。(ひどい奴っちゃ)こんな悲惨な毎日に、更に追い討ちをかけるような災いがBAD CHILDERNに降りかかってきたのです。ター坊こと館山主任が酒に酔ってチャーリーに絡み、包丁を持ち出して無理やり酒を飲ませたのでした。この館山主任、小柄な割には日ごろからイケイケで有名な人で、特に酒が入ると見境なく暴れたりするので皆から恐れられている存在でした。そんな武闘派のおっさんに睨まれたのですから、否応なくグラスに注がれたウィスキーを一気飲みさせられたチャーリーは、グラスをカウンターに置き、二言三言話して席を立って歩きだしたところでドタっと倒れて意識不明となりました。タッパは178cmほどある立派なガタイのチャーリーですが、ウィスキーをグラス一杯一気飲みではいくらなんでも自殺行為です。急性アルコール中毒は下手すると命取りです。館山主任はいたずらのつもりだったのでしょうが、見ていた従業員もさすがにこれはヤバイと思ったのか、皆でトイレに担ぎ込みました。幸い、倒れた拍子に内容物を吐き出したので、後はどんどん水を飲ませて背中を叩いて少しでもアルコールを吐き出させなければなりません。便器を抱えたまま意識朦朧としたチャーリー、はてさてどうやって彼を家に送り届けたら良いものか。到底歩いて帰れるわけはなく、かといってこんなところで夜明かしするのも危険です。悩んだ挙句、委員長のバカ友三鷹台の酒屋の倅にSOSを送ったのでした。持つべきものバカ友です。こんな時こそ役に立ってもらわなければ、ホントにタダの馬鹿野郎ですからね。久々に見るブルーバードは昔のままでした。何とか皆に手伝ってもらって車に乗せて彼のアパートまで行き、彼女とバカ友と委員長の三人でチャーリーを部屋に運び込みました。家に着いて落ち着いたのか、ようやく意識も戻ってきて、「ロニーさん偉い! ところでこの人誰ですか」とかわけの分からないことを陽気に喋りだすチャーリーでした。ホント、死ななくてヨカッタ。
2005年08月08日
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1977年はディスコにも影響を及ぼした「ピンクレディー」が大爆発、今風に言えば大ブレイクした年でした。対照的な元祖バラドル、キャンディーズの解散宣言はまさに時代の変わり目を物語っていたように思えます。スポーツ界では、プロボクシング世界Jフライ級チャンピオン具志堅用高選手が初防衛、後の13連続防衛の日本記録の第一歩を踏み出しました。プロ野球では王貞治選手の本塁打756号を達成し、日本初の国民栄誉賞が授与されました。更に全日本柔道選手権では山下泰裕選手が史上最年少優勝、全日本九連覇のスタートとなりました。暗い話題では恐怖の無差別殺人青酸入りコーラがありましたが、未だに数多くの謎の残る事件です。また、ROCK界のスーパースター・エルビス・プレスリーが死去。享年42歳の惜しまれる死でした。米大統領が追悼声明を出したことでも話題になりました。ちなみに委員長の旧友というか先輩のマイク越谷氏の落ち込み方は尋常ではありませんでしたね。年末には喜劇王チャールズ・チャップリンが88歳で逝き、アメリカを代表する世界のスーパースター二人が消えた年でもありました。プレスリーの死がきっかけとなったかどうかはわかりませんが、フィフティーズがリバイバルヒットで蘇り、ちょっとしたロックンロールブームも起こりました。このあたりからディスコもクロスオーバーというかフィージョンというか、ジャンルを超えて大衆化路線を走り始めていきました。俗に言うズンドコ・サウンド、歌謡曲、オールディズ、ヨーロピアン(後のユーロ)と何でもありの時代を迎えます。この年のレコード大賞は沢田研二の「勝手にしやがれ」ですね。ピンクレディー同様、これも新宿のディスコではよくかかりました。タモリのハナモゲラ語や「話がピーマン(中身が無い)」とか「トンデレラ、シンデレラ、キンチョール」なんて流行り言葉がありました。マイルドセブンが発売されたのもこの年でした。マイルドって言葉もちょっとブームになりました。そしてソウルファンに衝撃を与えたアレックス・ヘイリーの「ルーツ」の登場です。10月にはTVドラマが放映されて、主人公クンタ・キンテの生き方と米国のタブーはセンセーショナルな話題を呼びました。音楽プロデューサーはクインシー・ジョーンズ。小説もベストセラーを記録しました。同時期に池田満寿夫の小説「エーゲ海に捧ぐ」は芥川賞を受賞。その描かれた画家的なビュジュアル的表現がユニセックス風なファッションを生み出した。ディスコをファッションショーの会場に見立て、最新ファッションに身を包みモデルウォークしながら踊るムーブメントが、後に俗に言うオカマダンス等に受け継がれていきました。最後にもうひとつ、映画「ロッキー」の大ヒットがありました。シルベスター・スタローンがスーパースターに成り上がった記念すべき第一作目です。東京のあちこちで、俄ボクサー(もどき)が早朝ランニングをする姿が見られました。早起きして生卵飲んで腹下した若者は私一人だけではないでしょう。フィラデルフィアの落ちこぼれ不良が、愛と栄光を掴むためにボクシングに賭けた不器用な生き方はお調子者の道楽者たちの心を鷲掴みにしました。社会をドロップアウトした不良の夢見るサクセスストーリーとしては、語り継がれる最高傑作ではないでしょうか。さてそんな時代背景の1977年、新宿の夢見る不良もひとつの岐路に立っていました。BAD CHILDREN最終章~新宿の悪ガキからディスコ・ダンスチームが生まれ、山あり谷あり峠あり、一時は二十人近くまで膨れ上がったソウル馬鹿グループも、最後は三人が生き残っただけで、約1年間の悪ガキたちの夢はここに淘汰されたのでした。イントロダクション~暗転(銅鑼の音)「オープン~セッサミ~~」Love and Understanding~オープニングナンバー「He’s a sweet soul brother」MCSoul Man/Sweet Charles~パントマイム風ロボットE-man boogie/Jimmy Caster Bunch~ファンキーフルーツ&アクロバットGetaway/Earth, Wind & Fire~エンディングBad Children Members; Ronny, Charley & Hitomi20分のショーは土曜の夜ともなると拍手喝采、1日2回のショーをわざわざ見に来る客も少なからずいて、ヒトミにもそれなりのファンが付いたりして、花束なども届きちょっとしたアイドルのようでした。(ご近所のちょっとした人気者ってとこですか)SOUL馬鹿を標榜してそれなりに生き残った三人が、ようやくたどり着いたダンスショーの完成でした。そんな委員長たちの充実感とは裏腹に、Tomorrow USAはダイタン商事の行く末に翻弄されていくこととなっていきます。旧タイプのお店、エストレ、ノクターンヴェール、テムズハウスなどが相継いで閉店となり、従業員は残存する各店舗に回されていきました。店長や支配人がハコ取りしたり、黒服、ウェイター連中引き連れて動ければそれにこしたことはありませんが、大抵の社員は大箱のBig TogetherやTomorrow USAで引き取ることになりました。このころにはすでに、喫茶部門のTomorrowチェーンとは明確な切り離しが行われており、残り数店舗でなんとか起死回生をはかろうとしたダイタン商事でしたが、時代の流れは、大型店舗、大衆化に向かい始めており、明るくて大きなディスコが着々と確実に歌舞伎町の主役の座を占め始めていきました。不穏な動きに敏感な従業員は、新しくオープンする店、特にカンタベリーチェーンの快進撃に続けとばかりに皆移っていきました。残った従業員は当然不安を抱え、殺伐とした雰囲気の中で私生活も次第に乱れ始めていきます。(世間一般で言えば最初から乱れてるんですけどね)DJジュリーは相変わらずレコード会社の代行プロモーションなどを手がけながら、着実に自分の道をしっかりと歩いていましたが、マチャアキは麻雀にのめり込んでいき、厨房では注射針が飛び交い、黒服、ウェイターは女性客に頻繁に手を出すようになり、ちょっと荒んだ状況にもなっていました。何故かこの時の江川店長はきちんとした姿勢も見せず、ただ現状にすべてを委ねているといったような感じでした。今にして思えば、この時上層部では何かしらの動きがあって、ダイタン商事の進退を伺っていたのかもしれません。我らがBAD CHILDRENもひとつの頂点を達成したという充実感と、まわりの殺伐とした雰囲気のギャップの中で、新しい振り付け、パッケージ・ショーを創作していく意欲は次第に薄れていきました。そしてこのとき、チャーリーの家にベルが居候していることを知り、彼のドラッグへの傾倒の理由がはっきりしました。チャーリーは委員長やベルを先輩と仰いでいましたから、ベルが彼のアパートに転がり込んだときも敬意を表して面倒をみたのでしょう。ベルはハレム時代に一度錯乱状態で切腹自殺を図ったこともあり、ドラッグにはかなり引きずられていることは知っていましたが、まさかチャーリーの家に転がり込んでいたとは露知らず、驚きを隠せなかった委員長でした。チャーリーには当時同棲していた娘もいましたから、変な関わり方をしないように注意はしましたが、すでにベル中心の生活真っ只中にいては人の言葉に耳を貸す余裕などあるはずがありません。いずれトラブルになることは目に見えていましたが、今のトコは何を言っても無駄という状況でした。悪事千里を走るのことわざどおり、ヒトミも同じように夜遊びがひどくなっていき、男関係も次第に乱れていきました。大馬鹿野郎の見本のような委員長がこんな考え方をするようになっていったことも、自分自身の驚きでもありましたが、少なくとも人の倍はバカなことをしてきた分だけ、バカの結果は大体予想がつきます。不思議なもので、周りがはぐれて行けば行くほど、反対に自分はまともになって行き、自分もそれなりに大人になっていくのかな等と思ったりしました。こうして不良は、お互いがぶつかり合いながら成長していくことに気がついた委員長でもありました。
2005年08月07日
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心機一転、三人のパッケージ・ショーを目指したBAD CHILDRENは、お立ち台の踊り子役を演じつつ、休憩時間は振り付けと練習に集中しました。今回のショーは、オープニングからエンディングまで全てきちんとした振り付けで、パッケージ・ショーとしての演出を決めていくことにしました。もちろん振り付けも委員長の独断ではなく、各自が全体的に見たイメージや、各自の持ち味をどうやって見せるか等を真剣に考えつつ進めていったのです。それは、ショーに入る前のイントロダクションの選曲から始まりました。フロアで踊る客を席に戻すことと、次はショーが始まるということを期待させる方法を考えなければなりません。スローにしてしまえば簡単ですが、チークを踊る客をフロアから蹴散らしたのではあまり良い印象を与えません。そこで、ショータイムのテーマソングを探し、踊れず、チークにもならない、そんな曲を選びました。これは以前SECのショータイムで使用した、映画「キャバレー」のサントラ盤から、ピエロが登場しそうな鳴り物入りのショート・バージョンをピックアップしました。ワーナーブラザースのLOONEY TUNES SHOWみたいなノリの楽曲です。ライブの雰囲気と、曲の終わりには観客のかけ声や拍手なども入っていて、まさしくショーの始まりを促すイントロにはぴったりでした。この1分半くらいの曲の間にフロアを暗転させて、ステージにスタンバイします。オープニングはKOOL & THE GANGのLOVE AND UNDERSTANDINGです。ちょっと重めのミディアムFUNK、ブレイクダウンで登場。三人のバンプやロボットを交えて、キメはヒトミを挟んで縦一列に並びます。ここでEW&Fの「Sun Goddess」ライブバージョン。オリジナルはラムゼイルイスの名曲ですが、ライブバージョンはややビートアップしていて、ドラム&ベースのメリハリが効いています。キーボードとサックスのアドリブパートを生かして、三人の踊りの掛け合いをストーリー仕立てにしてパントマイム風で1曲丸々踊ります。エンディングの拍手に重ねて、スリーディグリーズのDO ITでファンキーフルーツをメインにしたアクロバットダンスを見せて、エンディングは一気にアップテンポ、チェイスの黒い炎GET IT ON。ヒトミをメインにしてモダンダンス風なスピードある踊りでCUT OUT。この曲は昔からモダンでよく踊られてましたね。クロスオーバー・サウンドの先駆けではなかったでしょうか。踊りはちょっと粗かったし、自己満足的なトコもありましたが、全体のまとまりはまあまあでなんとなく三人の構図がつかめました。マチャアキやジュリーからも褒めてもらったし、JOEからはもう少し客にアピールしろ、とかのアドバイスも貰ったりして、ようやく形が見え始めた感じでした。数日踊ってみては、選曲を組み替えてみたり、途中で二枚重ねのジャンプスーツを脱ぎ捨てて衣装を変えてみたり、チャチャ系サルサ(出ましたサルサ、こんなところで生きてくるとは思いませんでした)、ビートルズまで取り入れて、試行錯誤、実験的なショーがしばらく続きました。お立ち台に乗ってゴーゴーダンサーを経験したおかげで、お客との間合いや、目線の引き付け方、踊りを大きく見せる方法なども学び、ようやくと三人の中にも本当の意味でのプロ意識が芽生え、更にショーできちんとした踊りを見せたいという欲求も次第に高まっていったのでした。そんなこんなで独自の世界で勝手に盛り上がっていた委員長でしたが、DJの方はというと、ジョイが抜けた後釜を入れることなく、ジュリー、マチャアキ、ジョーの三人で回すようになり、いよいよダイタン商事も終わりが近いとか、もうすぐ潰れるぞとか、あちこちから噂が入ってくるようになりました。それでもBAD CHILDRENはここ以外に潰しは効きませんから、選択の余地なしってことで余計なことは考えず踊りに集中する以外ありませんでした。あいかわらずジュリーとジョーはちょっとわがままですから、二人が早番とメインの時間帯を取って、深夜はマチャアキの担当になりました。相変わらずマチャアキは麻雀にドップリ浸かっていて、深夜番になったことも麻雀人生に傾き始めた契機となったようでした。このころの麻雀仲間には、あの蒲田ブルドックで一緒に路頭に迷ったイケちゃんなども顔を出していて、彼は蒲田を最後にディスコ業界から離れてサパー(いわゆるホストクラブ)を転々とし、更にゲイバー(彼はゲイじゃありませんよ)に行き、その後はプロの雀師として食い繋いでいました。これら博打うちが集まる歌舞伎町裏の雀荘にマチャアキも始終入り浸るようになり、USAでメンバーが集まらないときは流れの雀師と打ったりして、私生活もだいぶと乱れ始めてきました。はっきり言って弱かったからね。鴨ネギでした。精神的に追い込まれると、行き場のない若さはそんなところに走ってしまうのが業界人の性みたいなものでもありました。そしてここで意外な人物がUSAにやってきます。あの三鷹バンド騒動で登場したムラちゃんが、ジュリーの紹介で照明係としてやってきたのです。USAのフロア照明は、設計デザインした会社から照明技術者が派遣されて来ており、DJ同様三交代勤務で照明専門のエンジニアとして調光を担当していたのでした。バンドにも行き詰って、そろそろまっとうな道を考え始めていたムラちゃんは、ジュリーの紹介でこの照明器具を扱う会社に就職し、USAへの派遣社員としてやってきました。委員長とはしばらくぶりの再会でしたが、相変わらず温和なムラちゃんはあらためて新人社員としての挨拶を済ませると、地味な仕事に就いていったのでした。新人ですから当然、彼のパートは深夜番です。ここでマチャアキ、ムラちゃんのちょっと変わったコンビが生まれることになりました。マチャアキも元々はプロのドラマーを目指していたミュージシャンですから、話が合わないわけがありません。しかも年齢的にも性格的にも相性が良く、お客の少ない深夜ながら中々味のあるディスコタイムを醸し出すようになっていきました。人はそれぞれ、道もそれぞれ、時代の転換期を迎え、委員長の前にまた道楽者が集結しはじめ、その道楽者の各々がまた新たな夢を見て始動し始めていったのでした。
2005年08月06日
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ようやく正月気分も抜け始めた頃、Tomorrow USA ではゆっくりと内部変動が始まりつつありました。店長江川(小林)ファミリーの4天王のひとり榊田さんが去り、DJのジョイが去り、ダンサーズのマリがDrop outし、従業員の間ではダイタン商事が潰れるというような噂も流れ始め、殺伐とした中で日々の営業が回っていました。そんな重苦しい雰囲気の中で、あのヒトミまでもが仕事に穴を開けてしまったのでした。親が死んでもステージに穴は開けるなと言われるほど、芸人にとっての舞台は真剣勝負の場でもあります。それが喩え、場末のキャバレーであろうとストリップ劇場であろうと、芸を見せてメシを喰っている者の最低限の職業意識だと思います。そのステージに穴を開けるということは、すなわち業界から抜けるということであり、プロとしてのプライドを捨てたことでもあります。高々ディスコのショーとは言え、それを楽しみに来て下さるお客様が一人でもいる以上は、精一杯踊ることがダンサーとしてのプロ意識であり、好きなことをしてメシを喰う生き方を選んだ者のプライドでもあるわけです。最年少のヒトミでしたが、プライドと言う面では人一倍意識の高かった娘だったので、委員長にとってはまさかの思いが先立ち、病気とか事故でもあったのではないかとか、とにかくアチコチ連絡は入れてみたものの、根っからのフーテン娘を捕まえることはできません。結局その晩はとうとう連絡もなく、かろうじてパッケージショーは一時中断していたので、大事にこそなりませんでしたが、こうなると委員長とチャーリーの男二人ではダンサーズは続けられないし、いよいよこの道もこれまでか、と体から力の抜ける思いでした。委員長としては、これまで面倒を見ていただいた江川店長に申し訳ないという気持ちが強く、いっそのこと今日を限りに辞めてしまおうかなどとも思い詰めたりしました。とは言うものの、張本人のヒトミの話も聞かずに勝手な結論をだすのも、あまりにも性急過ぎるので、チャーリーとも相談の上、彼女からの連絡を待つことにしました。不安な気持ちで迎えた翌日もとうとう連絡はありませんでした。「いよいよこれで終わりなのか」更に重苦しい一日が過ぎ、翌日は覚悟を決めて出勤しました。入店の挨拶をしたところで糸数店長に呼ばれました。いよいよ解雇通告か。既に覚悟は出来ていましたから、きちんと挨拶をして終わらせるつもりでした。「さっきヒトミの親父さんから電話があって、なんでも貧血で倒れて救急車で運ばれたらしいよ。急だったもんで連絡が遅れて申し訳ないって謝ってたよ」驚いたのとほっとしたのが入り混じって複雑な気分でした。それにしても、貧血って、どう考えても彼女らしくないので訝しくは思いましたが、父親が電話してきたくらいだから嘘ではないと思いつつも、いまひとつしっくり来る理由ではありませんでした。翌日、委員長とチャーリーの前に現れたヒトミの顔色は確かに青白く、幾分体も痩せて少しやつれた表情をしていました。それでも、2日間の穴を開けたことを詫びる彼女の態度からは、未だ踊りに執着している意志の固さが窺え、今日はステージに立つと言い張る彼女に、やはりこいつは芸人の娘だけあって根性あるなあと感心したものでした。病み上がりとは言え、それなりのステージをこなしたヒトミを誘って、久しぶりに三人揃っての食事に出かけました。普段無口なチャーリーでさえヒトミの復活は内心嬉しかったようで、あらためて三人のショーを考えるきっかけにもなりました。やはり一度味わったスポットライトと観客の喝采は麻薬以上で、お立ち台の上で踊るのとは雲泥の差があります。「ロニー、やっぱもう一度ショーやろうよ。三人でもできるよ」「そうかぁ?でも、あの広いフロアを三人で見せるとなるとなぁ」「ロニーさんはペアにこだわり過ぎてんじゃないですか。女の子をセンターにして俺達がペアになるってのも方法じゃないですかね」「でも、三人だけで20分近くのショーを持たせることができるかなぁ」「SECの時だって三人でやったじゃない」「でもあれは女二人の男一人だったから間が持ったんで、女一人の男二人じゃな、色気もあんまりないしなぁ」「ちょっとぉ、それどういう意味よぉ、私じゃダメってこと?」「そうじゃねぇーよ、見せ場の数の話だよ。おまえアクロバットできるか?女も入れて三人でアクロバットでもできりゃ面白いけど、そりゃ無理だろ」「ロニーさん、ファンキー・ドールズだって派手なアクロバットはさほど入ってなかったじゃないすか。それに女だって一人だったし。できると思いますよ」「うーん、でもセンターがヒトミってことになると、おまえの力量に相当かかってくるぞ。常にメインダンサーだからな。歌でも唄うか?」「いーじゃん、それ、私唄うよ。これでも宝塚目指してたんだから歌くらい唄えるよ」「お前なぁ、そう簡単に言うんじゃないよ」委員長はあの三鷹のバンド騒動を思い出して、ちょっと暗くなりました。「一度やってみるか。このままゴーゴー・ダンサーやっててもしょうがないし」「そうだよ、ロニー、そうこなくっちゃ」「ところでお前、貧血で倒れたって本当かよ」ヒトミはぺロッと舌を出して亀のように首をひっこめる仕草をしました。「俺にはわかってるけどな」チャーリーが低い声で言いました。「何だよ?」 知らないのは俺だけかい。「お前、テンぱっててメシ喰わなかったんだろ」「家で倒れちゃってさ、親父が救急車呼んだんだけど、病院で親父に正直に言ったらさ、親父ビビッちゃって、血液検査したらバレルと思ったらしいんだよね。で、精密検査なんてされたらかなわないから、先生にゴネまくっちゃってさ、何とか無事退院できたものの、さすがに家では安静にしてろって、1日監禁よ。で、ようやく今日は出してもらえたってわけ。親父も芸人だからさ、穴開けたら回りに迷惑かけるの知ってるから。それで親父が電話してくれたんだよね」肩の力が一気に抜けた委員長は、気がついていたチャーリーにも飽きれたというか、こいつも同じかと思うと溜息が出ました。「チャーリー、お前も打ってんのか」「時々ですよ。時々。そんなに金持ってないし」なら、金があったらしょっちゅうやるんかい、って突っ込んでる場合じゃないですね。「これからショーをやるんだったら、ほどほどにしなきゃなぁ。ショーで穴開けられたら今度は完璧にクビだぞ」「わかってるよ」「わかってます」本当に筋金入りの道楽者、頼もしい奴らです。余談ですが、この後三人のショーでBAD CHILDRENは完全燃焼することになるのですが、後年、マドンナの一番最初のライブビデオを見た時はちょっとした衝撃だったですね。まさに委員長たちが目指した究極のゴールがこれでした。デビュー当時のちょっとぽっちゃりしたマドンナの化粧といい、ファッションといい、もしBAD CHILDRENが続いていたとしたら、ヒトミはこんな風に進化していたんじゃないかって思ったくらい、当時のヒトミを髣髴とさせました。踊りもよく似てたし。INTO THE GROOVEなんて、BAD CHILDRENの振り付けにかなり近くてびっくりしましたよ、ホント。俺達の感性は間違っていなかったってことが証明されたようで、独りよがりではありましたがとにかく驚きました。たぶん歌はあそこまで唄えなかったでしょうけど、和製ポップスだったら、ひょっとして結構イイ線行ったかも知れませんね。逃した魚はデカイ(笑)
2005年08月05日
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1977年の幕開けはあまり明るいものではありませんでした。年末年始の繁忙期はとにかくお客が入っているので、すべてが順調だと思っていましたが、1月後半から2月に入る頃は客足も次第に衰えてきました。実はこの頃、裏ではすでにダイタン商事の崩壊が進行していたのでした。会員権の乱売で旧タイプの小箱は、水商売の最大の特性である日銭商売の日銭が回らなくなり、会社全体に暗い影が忍び寄っていたのでした。不思議なものでこうした不穏な動きは現場にもシンクロしていくのか、店の方もあちらこちらで乱れが出始めていきました。まずは楽屋の盗難事件です。ライターや小銭、時計などが頻繁になくなりました。もちろん身内に泥棒がいるわけで、従業員のロッカールームも同様、職場の中に疑心暗鬼の暗いムードが漂い始めました。そんな中、ボクサー志望のYというウェイターがいて、彼がたまたま楽屋で一人きりでいたところにジョイが遭遇してしまったことから、この件が大きく取り沙汰されてしまい、疑われたYがジョイに逆恨みしてケンカとなってしまいました。相手はボクサーですから、ケンカというよりは一方的にジョイが殴られてしまったわけですが、この時のジョイの落ち込み方は尋常ではなく、回りのスタッフが誰一人として援護もしてくれず、店長や支配人でさえも暴力は制止したものの、ジョイを庇うような行動が取られなかったことにはジョイは相当なショック抱いたのです。すべてがマイナスの方向に流れ出しているときと言うのは概ねこんな調子です。店長や支配人、主任あたりも会社の不穏な動きは肌で感じていますし、従業員にしても上司の態度から雰囲気くらいは読み取ることはできます。これが水商売ですと、末端のウェイターあたりは大概根がイジけてますから、すぐに悪さをしでかすことになってしまうわけです。この時ばかりは、ジョイの持ち前の八方破れ的思考も生かされず相当に落ち込んでいました。数日後、ジョイはオープンしたばかりのインディペンデントハウスへと移って行くことになりました。ビバヤングに始まって、同じバカな道を歩んできたジョイ吉野との別れでした。(オレたちゃいつまでも友達だぜ。あにき~)当時の江川店長率いる4天王、糸数支配人、須貝主任、館山主任、榊田主任、いざとなれば江川(小林)店長の地元八王子でそれなりのポジションが保証されているような立場でありました。中でも頭ひとつ出ていた糸数支配人を別として、主任の三人は未だアウトローの血を強く引きずっており、呑む打つ買うの典型的な夜の業界人でした。夜な夜な開かれる麻雀大会には、博打好きのマチャアキの他、時間にゆとりのある委員長などもよく巻き込まれました。委員長もさほど腕に自身があったわけではありませんが、そこはそれ、根が道楽者ですから小遣い稼ぎに参加したりしていました。夜中から始まって、大金が動き出すと営業開始時間ギリギリまで、まさに寝ずの大博打大会です。委員長もダンサーズの練習時間に時々遅れたりして、リーダーとしての資質を問われたりしたこともありますが、所詮道楽者の集まりですから、勝った金でメシ食わせたり衣装を買ってやったりすればみんなゴキゲンでハッピー、てな具合です。ところが博打にのめりこむ人間というのは、傍から見ればこれはもはや病気としか言いようの無いほど常軌を逸脱した世界にはまり込んでおり、他人がどう言おうが、世の中がどうなろうが自制が利かなくってしまうようです。委員長にはかろうじてダンサーズという重石があったおかげで、博打人生にはとことんはまりませんでしたが、この3主任とマチャアキはもう完全に狂気の世界に入り込んでおりました。毎晩、毎晩続く麻雀大会は、レートもどんどんエスカレートしていきます。そのうちに営業時間にも間に合わなくなり、こうなったらヤケクソだとばかりに、延々ぶっ通し48時間我慢大会の始まりです。疲れも極限に達し、ようやく終了。各自が我に帰った頃にはすでに丸一日が過ぎていました。主任3人が穴を開けたTomorrow USAでは、さすがに見かねた江川店長が全員を呼び出し一人ずつ問いただしました。怒るというよりは、これから先どうするつもりなんだ、ということですね。これは怒られるよりも堪えます。怒るってことはまだ関係が続くことを前提としていますが、どうするんだ、と聞かれる場合は自分たちで決めろということですから、二者択一です。榊田主任以外は全員が頭を下げ、復職を申し出ました。もちろんマチャアキも同様、頭を下げてお願いしました。榊田主任は、「己が承知でやったことですから、けじめはつけます」と、あまりにも潔い態度に一同唖然としたそうです。さすがに元紀伊国屋グループ(関係ないか)、この榊田主任というのはちょっと異色の水商売人で、法政大学法学部を出ており、見た目もインテリ、中々の美男子で、ソープ嬢と同棲しているギャンブラーといった、いわゆる業界人が憧れるようなタイプに人でした。そしてこの日を境に本物のギャンブラーとなって、新宿の人ごみに消えていったのです。(カッチョイイ~)残された三人は、江川店長にも榊田主任にも、まるで心の中を見透かされたようでちょっと淋しげでした。ここでマチャアキが何故か呟きます。「みんな仲間なのになんで止めないんだろう。ちょっとがっかりした」どーいう意味で言ったのかはわかりませんが、館山さん、須貝さんが引き止めなかったことを非難しているように思えましたが、委員長には、男なら誰もがやってみたい行動じゃないかなぁという気がした出来事でした。続いて委員長率いるBAD CHILDRENでも、マリが穴を開けました。翌日、実姉に連れられてやってきたマリは委員長に詫びを入れましたが、数日後、再び穴を開けてとうとうそれっきりとなりました。踊り以上に楽しいことが見つかったのでしょう。路頭に迷った三人ですが、とにかく続けようということで、再び江川店長に相談しました。「三人の形が整うまで、しばらく3人で別々にやってみたら?」ダンスフロアにお立ち台を作って、そこで踊りを見せたらどうか、という提案でした。委員長の脳裏には、池袋アダムズアップルのジョニーの姿が浮かびました。それも悪くないかな。早速翌日から小さなお立ち台、円形ステージが用意されました。一人ずつ交代で踊りますが、引き継ぐときは二人で踊って入れ替わる、というようなパターンで、1日2回のステージは続きました。その間、三人での振り付けも考えながら、三人が三人の持ち味を生かした踊りを見せることに専念しました。これはそれなりにお客に喜ばれ、時にはお客を台に上げて一緒に踊ったりして、また別の角度からショーアップというものも見直すことにもなりました。でも、これってストリップのまな板本番ショーみたいなもんじゃないの、って感じもありましたが、見る側、踊る側の感覚というものが多少はわかるようにもなりました。そんなこんなで何とかダンサーズも生き延びることになりましたが、ここでまたまたヒトミが穴を開けました。マリ同様、この頃彼女らも青春真っ只中っつーか絶頂期と言うか、遊びたい年頃でしたから夜遊びも頻繁だったし、男関係もかなり派手だったので、委員長としてみればほぼあきらめの境地にも入っていました。チャーリーと二人、その晩はこれでいよいよBAD CHILDRENも終わりかってな話にもなりました。ただ、ヒトミの場合は親が芸人だったし、母親は宝塚を夢見ていたほどの環境の中で育てられた娘だったので、彼女の中にある芸人魂(ちょっと大げさかな)みたいなものを感じていた委員長でした。彼女は絶対に戻ってくる、そう信じていたのでした。
2005年08月04日
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1976年冬、この当時流行っていたのは、フーチークーと呼ばれる踊りでした。この踊りの名前は確かではありませんが、当時のヒット曲、オハイオ・プレイヤーズのWho’d she cooからそう呼ばれていました。昔のブレイクダウンのような感じで、両手の脇をしめて腕は交互に振り、片足ずつ斜め前に摺り足、みたいな踊りでした。ハレムやエンバシーでは、パートナーの股に挟み込むようにお互いの足を摺り寄せるように踊っていました。この頃のBROTHERの流れはどちらかというと、エンバシーよりもハレムの方に傾いていたと思います。理由はもちろん黒人好きおねーちゃんが多かったってことですが、エンバシーは勝本さんの大活躍で一般大衆にも知名度が上がり、日本人の客も随分と増えましたが、反面、自然とBROTHERたちの足も遠退いていったというとこでしょうか。店にとってみれば日本人客が増えれば売上が上がるので嬉しいことですが、売り物であるBLACK専門店みたいなカラーはBROTHERの出入りがあってこそ生きてくるわけで、わざわざ出向いてきたのに中は日本人ばっかりだったなんてことになると興醒めってことにもなります。今にして思うと、このころのエンバシーはSOULヲタクみたいな様相を呈していましたね。アフロヘアの日本人がやたら集まってきてゴチャゴチャやってました。協会のダンサーズもウェイターとして働いていたし、和製SOULディスコみたいな感じで中途半端な店になっていました。確かこの頃、店名をBRAG EMBASSYに変えて、イメージチェンジをはかっていたような時期でもありました。BRAGはBlack, Red And Greenのソウルカラーの略ですね。黒人の肌の色のBLACK、アフリカの地平線に沈む太陽のRED、そして大地のGREEN、これがSOULカラーで、その黒人の大使館という意味からブラッグ・エンバシーと改名されました。(店長のユキさん以下スタッフ全員で捨て看板貼って歩いてましたね、六本木、乃木坂、赤坂あたりの電柱に)当時の六本木は、新宿の大箱ディスコ・ブームの流れとは一線を画し、あくまでエレガントさというか大人っぽさにこだわっていましたし、以前にもまして新宿をガキ扱い、田舎者扱いしていた感があり、エンバシーや、アイなどの旧タイプの店も丁度時代の変わり目で、集客には苦労していたと思います。委員長もこのころはいっぱしのSOUL MANを気取っておりましたので、結構デカイ面して遊びに行っておりました。後輩のガミタことタガミ君もDJとして働きだしたこともあって、プライベートではエンバシーに通うことでBLACKモードにどっぷりと浸っておりました。遊びに行けば、相変わらず勝本さんには「協会に来いよ」とか誘われるし、従業員にも一目置かれるような自分に酔っていたところも多分にあったことも事実です。協会に屈しない委員長のことを、ガミタ君がお世辞に「ディスコのアウトロー、BAD CHILDREN」等と形容してくれて、益々調子づいた委員長でもありましたが、要は頭抑えられて人に指図されてまで踊りたくないってだけのことで、大そうなポリシーやきちんとした理屈に基づいていたわけでは決してありません。このあたりの考えはファンキードールズのジョニーとかも同じでした。ちなみにこのDJガミタ君、「70’sディスコ伝説」の中の70年代ファッションという見開きページの写真に載っています。左のページの写真に、エンバシー従業員の集合写真、中央の勝本さん右隣に店長のユキさん、その隣がガミタ君です。アフロ頭に混じって一人だけノーマルヘアが彼の存在を物語っていますね。彼は本当にBLACKミュージックが好きでDJになりましたが、黒人にはなりたがりませんでしたね。(笑)さて年末の繁忙期を向かえ盛り上がるディスコシーンですが、この当時ハレムの盛り上がり方も尋常ではなく、Girl Friendの取り合いからGI同士のケンカも多く、結構危ない店でもありました。それでも本物を味わいたいマニアは結構出入りしていて、マリやヒトミもご多分に漏れず夜な夜な遊びに行っておりました。この頃ヒトミが付き合っていた彼氏がサミーさんで、GETのニックさんとかと同時代の人でしたから年齢も相当に上でしたし、踊りで言えば、いわゆるステップ時代の人でした。ちなみにこのサミーさん、後の六本木T.G.I.F.の店長になった人です。そんな関係でよくヒトミと一緒にUSAにも出入りするようになり、委員長たちに昔のステップなどを伝授してくれたりもしました。外人クラブで働いていた経験もあるとかで、多少英語も話せたので委員長にとっては色々と勉強をさせていただきました。時々ポケットから取り出して服用するピンキー(オフタリドン錠)は、不良としての年代というか年季を感じさせる道楽者でもありました。そしてこの頃、サミーさんについて回っていたのがマイケルでした。(後の六本木キサナの店長ですね)マイケル・ジャクソンが好きでマイケルと名乗っていた彼もやはり、アフロファッションに身を包みSOULダンサーズを結成、メージャー進出を狙っておりました。一度、Big Togetherで、ダンスチームのコンテストか何かがあった時に一度だけ、彼のダンスチームの踊りを見ましたが、サミーさん直伝のステップ系というか、こじんまりとしたダンスショーでした。同時にエモリさんのネッシーギャングのショーも見ましたが、中近東風のファッションなどを取り入れた面白い演出ではありましたが、正直言って踊りはイマイチでしたね。確かこのイベントもディスコ協会の絡みだったと思います。肝心のBAD CHILDRENのショーは、メンバーを4人に絞り込んだことでまとまりは良くなりましたが、更なる試行錯誤を繰り返し、レパートリーにロックンロールやマンボ、チャチャなどを入れてみたり、ショーの最中で衣装を変えてみたりと、なんだかキャバレーのダンスショーみたいなことにもなったりしてました。めまぐるしく変わる毎日に追い立てられるようにドタバタしながらも、なんとかここまで来たBAD CHILDRENでしたが、すべては新しいことの経験の連続で、何のコネもなく、誰かがつけた道の上を歩いたわけでもなく、自分たちがひとつづつ切り開いた道であるという自負が委員長の胸の中に芽生えていました。ただガムシャラに朝から晩まで一日中踊り続け、好きなことだけを続けてきた結果が今の自分たちではありましたが、正直言ってこの頃、目指すべく目標と言うか夢と言うか、そんな明確なものは何一つありませんでした。ただ、誰の真似でもなく、誰にも指図されず、新しいことをしてみたい、そんな漠然とした思いだけで、今自分たちがやっていることは、前例の無いこと、すなわち時代の先端を走っているという、今にして思えば自惚れに近いプライドだけに突き動かされていたといっても良いでしょうね。少なからず、この時代を突っ走った仲間は皆、同様のプライドというか思いを抱いていたのではないでしょうか。これから先どうなっていくのだろうという手放しの期待感とか、あのワクワクした精神的な高ぶりは、体験した者にしかわからないものであるかもしれませんね。ということで、Tomorrow USAと共に迎える初めての年明けは、ここまでたどり着いた新宿の悪がき達それぞれにとって、記念すべきひとつの時代の終焉と始まりでありました。
2005年08月03日
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今日のオープニングナンバーは、EW&Fライブアルバムよりアフリカーノ~パワー・メドレーでお願いします。12月のTomorrow USAは、生バンド+黒人DJジョーのパフォーマンス+BAD CHILDRENのダンスショー+三人の個性派パーソナリティ、ジュリー、マチャアキ、ジョイのDJと、中味の濃いというかごった煮というか、盛り沢山な企画で盛り上がっておりました。このころのヒット・ナンバーをざっと思い出してみると○EW&Fのサタデーナイト(よくベイシティローラーズと間違えてリクエストがきました)○EMOTIONSの恋のチャンス(モーリスホワイトのプロデュースによって不死鳥のように蘇ったコーラスグループの大ヒットナンバーでした)○POCKETSのカムゴーウィズミー(これもアースプロデュースの新人グループでした)○スティーヴィー・ワンダーのI wish(ベースがやたらカッチョ良かった。今聞いてもこのリズム部隊のノリは絶品、ホーンセクションのからみも最高です)○同スティービーのIsn’t she lovely(邦題は可愛いアイシャ、だったかな? 2枚組アルバム・Key of lifeは彼のアルバムの中でも特に秀作が揃っていました)○同、Sir Duke(邦題は愛するデュークだったかな)も忘れてはいけませんね。サッチモの名前なども歌詞に散りばめてあって、往年のJAZZプレーヤーへ捧げた鎮魂歌でした。アレンジもSWING JAZZをRespectした凝った作りになっていますね。ちょっと個人的な好みが入りすぎているかもしれませんが、なんと言ってもアース・ウィンド&ファイヤーの目覚しい活躍が次の時代の訪れを予感させていますね。EW&FのターニングポイントとなったこのアルバムSPRIT(魂)は、そのジャケットの瞑想風のMIND POWERがこの後の飛躍への予兆として現れています。このアルバム製作中に、彼らの盟友であったチャールズ・ステップニーを失ったことも、彼らにとっては新しい転機となったのかもしれません。タイトルメッセージ「GETAWAY」では、この苦悩の日々から立ち去ろうと歌っています。委員長は個人的に「Burning Bush」という曲が好きでした。人類学を専攻したモーリス・ホワイトならでは、その哲学的なメッセージはこれまでのアルバムコンセプトの集大成のような気がしました。更に、有名なゴスペルシンガーズのエモーションズの掘り起こしにもみごと大成功を収め、埋もれた実力派トリオの復活は、スタックス時代のファンも含めて彼女たちのセンセーショナルな再デビューに喝采が浴びせられました。ダンスナンバーのI don’t wanna lose your love(恋のチャンス)、タイトルのFLOWER他全曲聞かせてくれます。BACKは勿論アースのメンバーなので彼らの色が濃く出ていますが、エモーションズのヴォーカル&コーラスは全くと言ってよいほど音色に喰われていません。しかし、このリズム・アンサンブルは本当に最高ですね。アル・マッケイのギターがとにかくカッコ良いし、エモーションズの歌声も色あせるどころかアースサウンドに上手くフィットして、もうすでに過去からずっとやってきたパートナーのような感じでした。ちなみにワッツタックスで見せてくれたあの有名なシーン、教会で祈りを捧げる黒人のオバちゃんたちを陶酔失神させバタバタと倒れさせた、彼女たちのゴスペルはまさしく神の声、究極のEmotionはそのままこのアルバムにも注ぎ込まれています。この時代のもうひとつの衝撃は、ステーヴィーの2枚組アルバム、Songs in the Key of lifeでしょう。発売と同時にミリオンセラーを記録したお楽しみ袋みたいなアルバムでした。Isn’t she lovelyは愛娘アイシャを歌った三連のスウィングビートで、とてもPOPな明るいダンスナンバーでした。I wishはクリスマスの思い出を歌ったFunkyなダンスナンバーで、時期的にピッタリ合ったスティービー節といった感じのモータウンサウンドです。モータウンのリズムはなんと言ってもベースにあります。跳ねるベース、歌うベース、この曲の後半で聴けるベースのアドリブのノリは常人ではありませんね。日本人にはこのフィーリングは出せないでしょう。こんな演奏を始終している米国ミュージシャン達の層の深さを感じざるを得ません。さて、音楽の話ばかりになってしまいましたが、我らがBAD CHILDRENはこの年の瀬に来て、新たな局面を迎えることとなったのです。まずは、最年少メンバーKGの復学問題です。KGは高校中退、暴走族(恵比寿のジョーカーズですね)を経由してQ&Bで委員長たちのSOUL SPRITにカブれ、そのままズルズルと業界に居ついてしまった少年でした。ご両親も一度Q&Bの委員長の元を訪れたことがあり、行く末をお願いされたりしましたが、つまらぬ道に入って、より愚れるよりは踊りでも踊らせておいた方が安全でしょう、などと結構いい加減なアドバイスをしたりして兄貴分を気取っておりました。とは言うものの、親御さんにもそれだけ可愛がられていた甘ったれ小僧だったので、委員長としても目の届くところにおいてお預かりしていたつもりでもありました。それでもここらがやはり潮時、せめて高校くらいは出ておかないと苦労するぞ、みたいな説教などかまして、たとえダブりでも復学するように奨めたのでした。もうひとつは委員長の彼女ドリーのことでした。やはり仕事の中にプライベートが入っていたのではプロ意識の障害になります。マリやヒトミがけじめをつけたのに、委員長が混同していたのでは示しがつきません。彼女もこの辺はおおかた察しがついていて、自ら脱退を申し出てくれました。本人にしても、勢いでここまで来てしまったが、何もプロのダンサーを目指していたわけでもないし、楽しい時期に辞めるのがベストと言ってくれました。ということで、この先メンバーは男女4人でやって行くことになり、少しはプロとしての自意識も固まりつつ波乱万丈、怒涛の1年が終わろうとしておりました。
2005年08月02日
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1976年8月にオープンしたTomorrow USAは、その営業のすべてが試行錯誤の毎日の連続で、落ち着く間もなく年の瀬を迎えることになりました。なんと言っても最大の稼ぎ時であるクリスマス、年末年始を控え、江川店長はここで12月1ヶ月だけの契約でフィリピン・バンドを起用しました。SOUL BROTHER JOEも復活し、BAD CHILDRENのダンスショーと3人のDJプラス生バンドといった、当時としては豪華絢爛なディスコで集客を狙いました。このころはまだバイキング・システムではなく、厨房は江川店長が頼りとするシェフのイタリア系料理が自慢でもありました。キープボトルは、ダイタン商事チェーン全店で取り扱っているオリジナル・ブレンドでした。もちろんカティサークやジョニ黒、レミーなども置いてはありましたが、若者対象の店ですから値段で勝負、オリジナル・ブレンド1本千円はやはり魅力的です。洋酒風オリジナル・ボトルに入ったウィスキーは、特殊ブレンドの高級酒という触れ込みでしたが、サントリーレッドやらブラックニッカなどを大きなディスペンサーにどぼどぼと注ぎ込んで測り売るするという、文字通り特殊ブレンド低コストの素晴らしいシステムでもありました。ボトルカードから名簿に記された残量を拾い出し、正確に測ってボトルに注ぎ込んで一丁上がりです。これなら大量の在庫ボトルを抱える必要もなく、大変合理的な商法だと思いました。時々、客から飲みすぎると目が沁みたり頭痛がするとの苦情もありましたが、踊ればどうせすぐに汗で出てしまうんですから、良い酒を高い金払って飲む酔狂な奴もいませんでした。ディスコブームもこのあたりから大箱全盛時代に入っていきました。新宿でも次々とオープンする新興勢力に押されて、ダイタン商事は旧タイプの店の売り上げが落ち込んでしまい、結局はUSAで動員した分は他チェーン店に影響を及ぼすような悪循環に陥っておりました。そりゃ誰だって新しい店が良いに決まってますから、古いお店は新たに投資して改装などを施していかなくては、従来の売り上げを維持するのは中々難しい状況でありました。そこでダイタン商事が打ち出した企画が、チェーン店全店で利用できる会員権の販売でした。Tomorrowチェーンも含めて全店共通の割引特典と、同伴優待などのおまけのついた会員権の販売を開始したのでした。これも当時としてはかなり画期的なアイディアでした。当時の歌舞伎町最大のチェーンを持つ、ダイタン商事ならではの企画と言っても過言ではありません。パブやディスコ、喫茶店も含めて数十店のチェーンで共通して使える会員権は、確かに魅力あるものでした。ところがこの企画を危ないと指摘したのがマチャアキでした。これはダイタン商事の崩壊を意味していると言って、崩壊が分かっているからこそ早めに現金回収を目論んでいる幹部の陰謀だと推理していました。そんな理屈を色々聞かされたところで、ディスコの踊り子さんにとっては自分の人生が大きく変わるわけでもなく、そんなもんかというだけのことでした。確かにこの頃、スキャットやエストレ、ノクターン、ブロウハウスと旧タイプの店は改装ひとつするわけでもなく、客足が減っていたのは間違いありませんでした。同様にN観光チェーンのV-one、Q&B、ビバヤングもこのころ、時代の変わり目に苦慮していました。まさに覇者交代の時期だったのかもしれません。そんな時代の波にまず最初に呑み込まれていったのがQ&Bでした。売り上げも落ち込んでいた上に、店内で客同士の喧嘩から傷害事件が起きてしまい、営業停止となりました。会社もきっかけを待っていたような状態でしたから、これで一気に店閉まいとなったのでした。さてQ&BのDJ、Eさんは美容師養成学校を卒業し千葉の美容院へ見習いが決まりましたが、狂気のSOUL MANベルはまたも路頭に迷い、委員長を訪ねてUSAへやってきました。このころベルはトニーという相棒と、ピエロの衣装をまといコミックダンスショーなるものを時々ご披露していて、江川店長も面白がってくれていたので、頼み込んで当面の間だけでも面倒を見てもらうようにお願いしました。時期的にも稼ぎ時だし、ショーはバラエティに富んでいた方が面白いだろうと、またも江川店長のお世話になりました。話は変わりますが、この当時の面白いエピソードをひとつ。当時コマ劇場の裏手にパブ・スキャットという店があり、ここでチーフを取っていたのがサミーことイサムちゃんでした。確かこのころ迄まだアフロしていたと思います。根っからの新宿野郎で、エンバシーでの就業経験もあり(ってちょっと大げさな表現ですか)、草分け的存在のSOUL MANのひとりでした。彼は川崎のぼるの漫画「荒野の少年イサム」が好きでした。(顔に似合わず可愛いとこあるよね、って関係ないか)あまり記憶が定かではないのですが、イサムちゃんはこの後、六本木ホワイトハウスかチェスターへ移っていったと思います。まあそのあたりの時期の話です。で、一時ジュリーがここに入っていたことがあって、どうしてもバイトが忙しくて穴開けられないってことで委員長に助っ人のお呼びがかかりました。器用貧乏というか、銭儲けに疎いというか、頼まれるとひょいひょいと軽く出かけていく委員長の節操の無さも重宝がられる存在でもありました。スキャットは細長い感じの小箱で、入り口近くに丸型カウンターがあって、奥にボックス席、その前に小さなダンスフロア、とって付けたような小さなDJブース、そしてバンドのステージがありました。昔は小箱でもよく生バンド出てましたから、まさにここも時代を感じさせる昔のタイプの踊り場でした。初めての仕事で多少は緊張しましたが、バンドとの交代で入るDJですから楽といえば楽でした。バンドも当時にしては珍しく日本人バンドで、ファミリーっぽい感じの雰囲気でした。店長はお店のロゴ、西洋の兜を模倣したモヒカン刈りの長友の秀さん。小柄ながらお客の扱いは天下一品、ダイタン商事でも表彰されたほどの水商売が天職のような人でした。ピンチヒッターとしての仕事は無難に努め、9時を回った頃にはイサムちゃんの登場です。派手なスカジャンにサングラス、DJというよりはちょっと危な系のあんちゃんって感じです。「おー、ロニーどうだ、調子は」でかい地声で声かけられて、なんだかほっとしたような委員長でした。ところがバンドのメンバーがステージに上がると、どうも雰囲気が変わってイサムちゃんの表情も硬くなります。バンドの演奏が始まり交代終了、「ロニー、茶でも飲みに行こうぜ」そういってブースを出るイサムちゃんの後を追って出た委員長でした。フロント脇の事務所に入って、本当に日本茶を啜る二人でした。「あいつらよぉ、ちょっと生意気でよぉ、気にいらねぇんだよな」「あいつらって、あのバンドのこと?」「おう、大した腕でもねぇくせしやがってよ、ちょっとプライド高けぇんだよ」「ふ~ん」まあ、どんな経緯かあったかは知りませんが、こっちはトラの身分ですから揉め事はできるだけ避けたかったので、軽く聞き流していました。さて、バンドの終了時間も近づき再びDJタイムです。委員長はこのパートが終われば晴れて放免です。「じゃ、俺回してくるわ」そう言って事務所を出ようとする委員長のあと、俺も一緒に行くよと言ってついてくるイサムちゃん、ブースに入ると照明の調光スイッチなどを操作しつつ、ラックからレコードをどんどん取り出して委員長の前に置いていきます。なんのこっちゃねん、とぽかんとする委員長。「ロニー、必殺バンド殺し、教えてやるからよぉ」「バンド殺し?」「ああ、いいか、奴らの次のステージのレパ、全部先に回しちゃうんだ」「えっ」「次は一番客の入りが多いステージだからよ、ウケ狙いのレパ組んでるはずだからよぉ、先に全部かけてお客を踊らしちまうんだよ」なんてヒデーことする奴だろ、でもそれって楽しそうだなって、一体どうなるのか面白そう。ということで、イサムちゃんの選曲通り、いつになくべしゃりに力の入る委員長、更にイサムちゃんの照明効果でせまいダンスフロアは全開バリバリ、お客も乗りまくって興奮の坩堝。久々に良い汗かきました。そんな陰謀が渦巻いているとは露知らす、のんびりとメシなど食って帰ってきたバンドは、さあこれからが俺らの本番だぜ、みたいな顔つきでステージに上がります。交代のナンバーは「ザッツザウェイ」です。お客もノリノリで踊り続けてます。もちろんバンドのレパですから、おっ今日のDJは気が利いてるジャンみたいに委員長の顔をみながら演奏を開始する彼ら。ザッツザウェイでレコードからバンドにつないでいきます。That’s the way I like it, Ah ha,Ah ha,ザッツザウェイ~、アハ、アハ引継ぎ終了。したり顔でブースを出て行く委員長とイサムちゃん。イサムちゃんがブースのマイクを取って、コーラスを重ねます。「ザッツザウェイ」~「アホ、アホ」カウンターでコーラを飲みながら観戦する二人。ダンスフロアは次第に客が引いていきます。2曲目のゲロンッパ、ブーギー、が始まるころには踊り場は悲惨な様相を見せ始めます。バンドメンバーの顔にあせりが見えます。こんなはずはない・・・・・That’s right!恐るべし必殺バンド殺し・・・・・合掌。
2005年08月01日
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