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時代はいよいよ1976年に突入です。この年の出来事をざっとピックアップしてみましょう。まず1月15日に委員長の成人式がありました。(って関係ないか)ちなみに、V-oneの支配人だったワカバヤシさんにネクタイを貰いました。大人になれよ、という意味のプレゼントだったのですが、先輩からの気持ちがありがたかったです。当時の流行、やたら太いタイでしたが、今でも大事にとってあります。「ロッキード事件」これは凄かったですね。でもロッキードっていう踊りは生まれませんでしたね。ウォーターゲートがあるんだから、ロッキードだってあってもよさそうなもんですが、やっぱニッポンはこういった遊びのセンスに疎いですね。学校教育関係では「偏差値」ってなもんが幅を利かすようになりました。後年、深い後遺症を残すことになる、数字で人を計るシステムのスタートでした。(早く見切りをつけて、人並な人生捨てといて良かったなぁ、ってほんとかよ)そしてこの年一番の話題はなんといっても、「アリ対猪木」の異種格闘技戦だったのではないでしょうか。歌舞伎町一番街にあった喫茶店マイアミなどは、大型テレビまで用意して盛り上がりました。ひとり千円も取って見せようって魂胆が凄かったですね。(実は委員長も1杯千円のコーヒー飲みました)肝心の試合は「何だかなぁ~」って、皆ムカついてましたよね、実際。梶原一騎や格闘技評論家みたいな人たちがワーワー言ってましたけど、ありゃ詐欺みたいなもんでしたよね。世界最高の話題の凡戦ってなもんでした。日本専売公社の新製品マイルドセブンが発売になったのもこの年でした。アフロ小僧はみなKOOLかSALEMでしたが、ちなみに委員長はブラザー・カーターにベンソン・メンソールをよく買ってきてもらってました。当時日本じゃ売ってませんでしたから、ちょっとスノッブしてましたね。しかし、当時はLIGHTとかなかったから、かなりキツかったですよね、ニコチンとタールの量。でもって、レコード大賞は都はるみの「北の宿から」でした。「あなた寒くはないですか~、毛糸のパッチを編んでます~」ってくだらない替え歌も流行りました。更に、後年ディスコにも壮絶な影響を及ぼした、おピンクレディがデビューしました。「ペッパーーーけいぶッ~」って、まさかディスコでこんな踊りをするとは、当時の業界の誰もが予想し得なかった出来事でした。でも、よく考えてみりゃ、GETでも松尾ジーナとか山本リンダとか、ステップまで作って踊ってたんだから、そうバカにはできませんね。「可愛い人よ」とかだって、ジャニーズのはしりみたいなもんだし。そして、V-oneのM浦さんが、なんとアフロヘアに大変身、ついにここまで来てしまったのか、相当に遅れたデビューでしたが“バロンM浦”SOUL MAN登場でした。このバロンってのはDJエディの命名でしたが、その由来を聞いたら、だって顔がバロンでしょ、ってよくわからない答えが返ってきました。まあ、こんな時代背景のもと、委員長のディスコ人生は粛々と進んでいきます。(笑)総合企画「ひとやすみ」は社名どおり、ひと休みばかりしていて中々進展しません。深夜、白馬車に集まっては、奥のボックス席でおいちょかぶに興じる単なるバカに成り下がっておりました。一打ち千円で朝まで盛り上がって、始発に乗って帰るってなことの繰り返しで、人生こんなんでいいのかなぁ、と薄暗い新宿駅で始発に乗り込む委員長でした。後輩のトオルは、イサムちゃんの下でDJ見習いを始めてましたが、ヒデトの方はジョイ吉野のところへは現れず、結局ここで縁が切れてしまいました。そんないつもの深夜集会に、ジュリーがある男を連れてきました。N観光のディスコ「Q&B」オープン時に、ジュリーと一緒に働いたことのあるYという人物でした。そして、このYという人物が大変興味のある話を持ち込んできたのでした。Yの知り合いの社長が蒲田にディスコをオープンしたが、素人経営で営業がままならぬ状態に陥ってしまい、プロの手助けを望んでいる、というような経緯で、以前に新宿のディスコで働いた経験を持つYが相談を持ち込まれ、昔馴染みのジュリーを頼ってきた、というよな話でした。この話を聞いて、道楽者の一団の瞳は大いに輝きました。総合企画「ひとやすみ」にいよいよ本格的な仕事が舞い込んだぞーってなことで、中味も確かめずに全員が夢の世界へとワープしていったのでした。しかし、下手すりゃ「蒲田」が何処にあるかも知らないような連中が、勝手に想像を膨らませてあーだのこーだの言ってるんですから手に負えません。早速、社長のマチャアキが現場を視察して、その社長と詳しい話をしてくるというような段取りになりました。こうやって、社会からドロップアウトした仲間の力を結集させれば、俺達でも何か大きなことができるんだと、勝手な想像に夢膨らませる委員長でもありました。半端者がいくら集まったところで、所詮は半端なことしか出来るはずないんですが、そこは皆筋金入りの道楽者ですから、漫画の世界と現実の世界をごちゃ混ぜにしたような夢の世界で楽しんでいたのでした。(夢見ることにに夢見るってやつですか)そんな話が進む中、委員長は毎夜V-oneのプライベートタイムを楽しんでおりました。この頃、またひとつのV-oneオリジナルHITが生まれておりました。それがスウィート・チャールズのStranger’s Nightです。このSweet CharlesってのはJBファミリー、PEOPLEレーベルから登場した色男です。声はちょっとハスキーなファルセットで、「SOUL MAN」ってダンスナンバーがミディアム・ヒットしました。そのアルバムのトップナンバーがこのSTRANGER’S NIGHTっていうスローバラードでした。イントロにちょっとしたトークが入っていて、「ハンサムでセクシーなソウルブラザーは?」って問いに、数人の女性の声で「スイート・チャールズ」って答えが入り、さらに「えっ、誰だって?」と聞き返し、「スイート・チャールズ」って声がリピート、そしてメロウなバラードに入っていくという、あのJBショーのMCみたいな感じですね。でもって、この”Good Handsome Looking Do”ってところでカーターが、”Carter”と自分の名前を叫びます。”Who?”って問いかけに再び「カーター」と叫びます。このタイミングが妙に可笑しくて、デュースや他のブラザーも色々と合いの手を入れて掛け合いになります。その雰囲気が非常にBLACKっぽくて(?)、委員長はそのフィーリングに酔いしれておりました。(自分がブラザーになったみたいで)曲はたぶんフランクシナトラの「夜のストレンジャー」(だったかな)のカバーではなかったかと思いますが、マニア好みの洒落たアルバムでした。ジャケの写真も良かったですね。あと、当時の輸入シングルで強烈な印象が残っているのが、デヴィッド・ボウイのFAMEでした。(アイリーン・キャラじゃありませんよ)HOT100(R&B)にも60位からランキングしてきていました。曲は暗~い、ミディアムテンポのダンスナンバーでしたが、なぜ白人、しかもイギリス人がビルボードR&Bチャートにランキングされているのかちょっと不思議でした。気になったのでカーティスに尋ねたら(こういう話はカーターじゃダメでしたね)、一言「ファンキーだからさ」だって。そのまんまですね。で、しつこく、なぜ白人なのにR&Bでランキングされてるんだ?って聞いたら、「ファンキーだからさ」って、意外とつまらない答えでした。要は、ブラザーがFUNKYと認めたってことですね。普段、人種(白人)については敏感なくせに、こういったことではあまりこだわらない彼らの感覚は、正直言ってちょっと理解できませんでした。ただ、この会話は委員長に一筋の光を与えてくれました。(大袈裟やのう)「じゃオレでもFUNKYと認めてくれれば、本物のブラザーとして受け入れてくれるってことか?」ってことで、ようし、やるぞ、やってやろうじゃねぇーの、って力が入ったのでした。(何をやるのかは、ようわからんかったのですが)そんな希望の光を見出した頃、「ひとやすみ」のスタッフに召集がかかりました。深夜の歌舞伎町、白馬車の奥のボックス席で行われた緊急会議で、社長のマチャアキから驚愕の発表がありました。「どうやら向こうは本気らしい。全て任せても良いとまで言ってる」ええっ、と一同顔を見合わせ、どういうことなのか、一斉にマチャアキに質問が浴びせられたのでした。
2005年06月30日
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この頃のディスコでもう一軒忘れてはならない店がありました。赤坂スーパーコップスです。コップスの呼び名で親しまれた、ちょっと大人っぽくて、ちょっと不良っぽいディスコでした。赤坂見附駅前のファッションビルの2階、一時は赤坂ムゲンと人気を二分したほどの有名な店でもありました。結構ハーフの奴らが溜まり場としていたせいか、雰囲気的には横浜とか横須賀とか港町っぽい感じのするお店でした。まあ、言ってみれば赤坂だって港町ですから、街自体が持つ雰囲気は似ていたのかも知れませんね。(港区だし、いわゆるウォーターフロントですよね)そして、ここで店長をしていたのがメビウスでもお馴染みだった二郎さん、支配人が双子の弟五郎さん。後にシンデレラの店長となりました。委員長は店の想い出そのものより、この二人のことの方が強く印象に残っています。店に上がる階段の前で店長に会って挨拶して店に入ると、なんともうそこには店長がいるではありませんか。アレッて、狐に鼻をつままれたって感じが、まさにこれでした。どうやってここまで一瞬の間に上がってきたのだろう、と不思議な感じでした。瞬時に動くエレベータかなんかが裏口についてるのかなぁ、なんてね。よく考えればわかりそうなもんですが、そこはそれ道楽者のバカ野郎ですから(笑)、いうなればマジックショーのトリックなんてのも、こんな先入観を利用しているんですよね。二人が双子だって知ったのは随分後のことで、その後のシンデレラ時代でも、自分と同じようなトリックに面食らった方も随分とあったのではないでしょうか。新宿シンデレラで盛り上がって、さあじゃあもう一発赤坂へ行くぞーって、赤坂シンデレラに入ると、そこにはすでに店長がいて「いらっしゃい」って、夢でも見てるんじゃないかって、思いますよね。このコップスの常連にも委員長の同級生がおりまして、名前はジョン斉藤と言い、黒人と日本人のハーフでした。ただ、ヤツの場合はSOUL MANというよりはGANG系で、当時はまだ珍しかったキャッツアイなどを仕入れてきて常連に売ったりとか、トルエンやドラッグの密売なんぞの道に入り込んでおりました。テリトリーも結構広く、新宿ハイハ(よーく不良が溜まっていた喫茶店)などにも出入りしてましたが、ある時を境にピタリと姿を消して以降会っていません。ちなみにヤツは東京京浜地区の出身で、ここら辺の不良はまたちょっと独自な雰囲気を持っていました。さてV-oneの方は、梅ちゃんがビバヤングに戻され、ワカバヤシ主任が昇格して支配人になり、いよいよ委員長の天下というような様相を見せ始めましたが、ここでちょっとした内紛が勃発してしまいます。ツトム君、ケン坊の年配組とワカバヤシ支配人が対立、委員長以下アフロ小僧もどっちつかずの三つ巴状態になってしまったのです。ここでワカバヤシ支配人から委員長は相談を受けました。このままじゃ、また以前のように従業員が勝手なことをやり出して押さえが利かなくなるから、一気に総入れ替えをしたいと打ち明けられたのでした。ワカバヤシ支配人とはビバヤング時代からの付き合いでしたから、この人の性格もよく分かっている委員長、自分を信頼してくれているその言葉に渋々ではありましたが、後輩の説得にあたったのでした。せっかく兄貴分と慕ってくれ、これから道楽を一緒にやっていくつもりであったヒデトやトオルに、クビ切りの宣告をするのは辛いことでしたが、年配組だけを外して若手だけを残すわけにもいきません。仕方のないことでしたが、結局、バイトのM浦さん(まだいたんですねぇ、この人)と委員長の二人を残して、全員解雇、また一からやり直しです。区切りの良い1975年12月末日でV-oneのスタッフ総入れ替えが行われたのでした。委員長はヒデトとトオルを伴って白馬車に出向き、今後の二人のことを皆に相談しました。ダンサー目指すならDJもできた方が良いだろうと、トオルをスキャットのイサムちゃんに、ヒデトを目黒ファンキーホースのジョイ吉野に面倒見てもらうことにしました。総合企画「ひとやすみ」も出だしは盛り上がったものの、所詮は道楽者の集まりですから、これといった進展もないまま、DJ同士の横のつながりを広げることが精一杯でした。同時期、全日本ディスコ協会がビクターレコードの後押しで、全国的に加盟店を増やしつつあり、ジュリーのレコード卸業も結局は全国展開する協会に侵食され始めました。そして、ディスコ協会の名を一気に知らしめたイベント「全国ハッスルコンテスト」が行われたのです。V-oneにも勝本会長、ニック岡井氏が直々にポスターを持って、宣伝にやってきました。ポスターには、会長タコ(勝本氏のニックネームですね)、エモ(エモリ氏)、ニック(ニック岡井氏)の連名で、各自の顔のイラストが書かれてありました。今ひとつ記憶がはっきりしないのですが、課題曲はスタイリスティックスの愛がすべて、ミラクルズの双子座の人、エディ・ケンドリックスのキープオントラッキンの3曲だったと思います。踊りもハッスルとトラッキンが指定され、エモリ氏のイラスト入りで踊りが紹介されていました。大会は各地で予選が行われ、決勝大会は新宿ビッグトゥゲザーだったと思います。V-oneは新宿地区予選の会場に選ばれ、代表として委員長が踊ることになりました。このころの委員長は「ひとやすみ」のダンサーとして、すでにアチコチの店のショータイムで幾度か踊っていましたから(決して金取れるような踊りじゃなかったですけどね)、今更アマチュアと一緒に踊れるかい、みたいな生意気コイてバカにしていました。実際のところ、当時はアフロしてそれなりの衣装着て踊れば、ダンサーとしてそれとなく皆納得したような時代でもありました。見る方にしてみても、比べる基準になるダンサーがいませんから、せいぜいTVのソウルトレインで見たような踊りをしていれば、そんなもんかといった極めていい加減なものでした。加えて、赤坂のダンスコンテストで一応は業界の裏話みたいなことも耳に挟んでいましたから(耳年増)、どうせ優勝は決まってんだろ、みたいな投げやりな考えもありました。もちろん練習なんぞするわきゃありません。委員長の彼女とトオルを連れて3人で出場はしましたが、オチョクリ半分、ふざけて適当に踊りました。どうもツッパリ根性が抜けきらないと言うか、頭押さえつけられるような団体がきらいというか、すぐにこうしてつまらぬ虚勢を張ってしまうのが委員長の悪い癖でもありました。(素直じゃなかったんですね)とは言うものの、エディ・ケンドリックスのトラッキンは結構ノッってしまい、会場が会場だけにオーバーアクションでイベントをすっかり盛り上げてしまいました。参加者は、新宿ソウルトレイン代表、GET代表、あとは忘れましたが、どのみち業界の人間だったと思います。審査員には勝本さん、ニックさんなどが来ており、それなりにお店のイベントとしては盛り上がりました。驚いたのは、参加者がきちんと曲に合わせた振り付けをしていたことでした。まさかねぇ、本気で優勝狙ってんのか?って感じでした。このあたりが委員長の生意気と言うか、冷めたところで、頭の中では「どうせ高々ディスコじゃん。どうせ本気になるならテレビとか、もっとデカイ舞台でやろうぜ」みたいな、典型的道楽者思考、実力も無いくせにデカイ山狙うバカだったわけです。もひとつ、ツッパリ根性でいうと、これで優勝したらディスコ協会の風下に立つことになるじゃん、てなとこでした。もちろん優勝する実力なんて当時は無かったんですけどね。それでも、優勝トロフィーなんぞを受け取るシーンを想像して、これじゃ頭押さえ込まれたも同然じゃねーか、俺達は対等だぜって、ホント若さって素晴らしいですよね。まあ、そんな威嚇的な態度が根底にありましたから、おチャラけて審査員の前で突っ張って踊ったりしたわけです。委員長の彼女がニックさんと親しかったり、勝本さんとも顔見知りだったこともあり、険悪な雰囲気にはなりませんでしたが、まあ、こんなもんかってな感じでした。ちなみに委員長たちは準優勝か3位だったかな。出場組数から言えば当然でしたけど。これは主催者側からのお気遣いってことで、会場V-oneの代表ですから社交辞令的なお約束の入賞ですね。もちろん決勝大会への出場権も貰いましたが、出るつもりはサラサラありませんでした。ということで、彼女の顔もあることはありましたが、ここで正式に業界に名乗りを挙げた委員長でした。取りあえず、協会には顔を売ったぜ、みたいな感じでした。まあ、向こうは、殆ど名前も覚えちゃいなかったでしょうが。委員長にしてみれば、これがディスコ協会との因縁の第一歩だったわけです。
2005年06月29日
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1975年12月、クリスマスを前にして委員長はまさに絶好調。V-oneではヒデト、トオルの弟分と暇さえあればダンサーズの稽古に励みました。加えて、ツトム君、ケン坊の先輩たちからはジ・アザー仕込の昔のステップを伝授され、更にDJエディなきあとディスクジョッキーにもチャレンジといった具合に、委員長の人生はまさにディスコ一色、大変充実した毎日が続いておりました。ブラザー・カーターともムゲンのショータイム以来すっかり気心の知れたお友達になり、このころにはカタコト英語も随分通じるようになっていました。この当時カーターと仲の良かったブラザーに、デュースというちょっとした色男がよくつるんで店に来ておりました。カーターに比べて黒人らしい(?)奴で、ジーンズの上下にスニーカーといった、いかにもその時代らしいファッションのブラザーでした。このデュース君、中々粋な日本人の彼女がいて、たまにV-oneに連れて来ることもありました。当時のヨーパンにはインテリ系が多かったのですが、言っちゃ悪いけど正直言って可愛い子ってのは少なかったですね。そりゃいくらヨーパンと言えども、言葉が通じなきゃ恋愛は成立しませんからね、それなりの語学力をもてるだけの素養が必要でした。中にはやたら色っぽい子もいましたが、ノータリン、ゴホン、いや失礼、そういう子はそれなりの子でした。(意味わかんねーぞ)委員長も結構インテリだったので、友達として割と長いお付き合いをした娘たちもいました。(インテリかなぁ)デュースの彼女は今風のキャリアウーマンってな感じで、大人っぽい感じのおとなしそうな娘でした。たまにアフロのかつら被って、デュースとお揃いのジーンズの上下などを着て来ることもありました。彼女が来るのは必ず遅い時間だったので、委員長は勝手にキャリアウーマンと決め込んでいましたが、その話し方や物腰の柔らかさから、それなりの女性であることは間違いないと思っていました。そして、デュースは委員長にEarth, Wind & FireのAll about loveって曲をリクエストして、彼女に、モーリス・ホワイトの語りの部分をレコードにかぶせてよく歌ってあげていました。片や彼女は、デュースと踊るときは必ず、委員長にダウンタウンブギウギバンドの涙のシークレットラブをリクエストしてきました。(もちろんここでBGMは涙のシークレットラブです)Secret Love 愛されても溜息ばかりがSecret Love 思い出さえ誰にも言えず泣かせますねぇ。なんだかんだ言っても、当時はまだこの手のお付き合いは壁が厚かったですよね。当時のV-oneのお楽しみはなんと言っても、12時過ぎのプライベートタイムでした。お客が一斉に引き始める12時頃から、デュースやカーターの友達がやってきます。そしてこの時間が過ぎると、支配人の梅ちゃんは売上金を持って本社へ向かいます。この時間から閉店時間の1時までが、身内だけのプレイタイムでした。ベースのブラザーたちはカーターの仕事が終わるのを待って、皆で六本木あたりに繰り出すため、V-oneで待ち合わせをします。時にはパートナーのシスターを連れて来るブラザーもいたりして、多いときには数十名にもなって、ちょいとしたファミリーパーティのようでした。そんな日はまるでTVのSOUL TRAINの舞台のようで、ホンモノのアフロカルチャーに触れた思いで異常な興奮を覚えました。そんな夜中のお楽しみ時間、V-oneだけの身内ウケナンバーが、ラベルのフェニックスでした。スローから始まり、ラベルがじっくりと歌い上げていく、オペラのようなつくりのこの曲は、いつのまにかこの時間のメインイベントのようなものとなっていたのでした。前半のスローパートは、各自がパートナーと抱き合うように踊り、次第にビートアップして最後は感動のダンスナンバーとなっていきます。なんでこの曲で遊ぶようになったのかはわかりませんが、カーターの仲間が集まってくると、暗黙のうちにこの曲が選ばれ、V-oneスタッフも一緒に一同で踊って盛り上がり、このHAPPYなFEELINGを抱えたまま皆で夜の街に繰り出したのでした。もうひとつ印象深い曲が、ミラクルズのYOUR LOVEです。この曲は「双子座の人」のB面にカップリングされていたバラードですが、ミラクルズのとろけるようなファルセットがたまらなく、途中に「語り」が入っていて、ほんのりと甘く、心温まるやさしい曲でした。これはカーターが、自分の誕生日にベースの仲間を招待してV-oneでパーティをしたときに、友人からリクエストがあってかけたのですが、一同が踊りながらカーターを冷やかしていたのが今でも印象に残っています。この時のカーターは涙目になってウルウルって感じでちょっと感動的でした。皆がカーターを呼ぶとき、「カーラー」に聞こえるのが可笑しかったですね。南部の人が多かったのかなぁ。この深夜のプライベートタイムでもうひとつ、V-oneの従業員全員が同じ感動を味わったひと時がありました。それは、もうひとりのDJカーティスの友達が来たときです。カーティスは根っからのミュージシャンでしたから、友達にもミュージシャンが多く、ある晩彼の友人のトランペッターがやってきたことがありました。もうお客もほとんどいないがらんとした店内。カーティスがかなりJAZZっぽいインストもんのスローナンバーをかけました。委員長はいつもとはちょっと違う雰囲気に興味を引かれ、カーティスに今プレーしているレコードを尋ねると、彼はブースの下のテーブルにいる友人を指して、「ヤツが持ってきたレコードだよ」と言って、FUNK INCのジャケットを見せてくれました。(確かタイトルもFUNK INC.だったと思います)ジャケットを手にとって見ていた委員長の横で、カーティスの友人は手元においてあった小さなハードケースを開き、おもむろにトランペットを取り出しました。(コルネットっていうんですか?普通のトランペットより一回り小さいサイズ、日野テルマサ氏が使っているタイプです。)そして、店内に流れるレコードとJAMセッション、てな感じでアドリブを吹き始めたのです。これには従業員全員がぽかんとしたまま、聞き入ってしまいました。ディスコバンドはお馴染みでしたが、こんなJAZZのソロを間近で見聞きしたのは初めてのことでした。まさしく感動のひとときでした。曲が終わると同時に、全員の拍手が店内に響き渡ったのは言うまでもありません。いやー、V-oneで働いててよかったなぁとしみじみ思った委員長でした。
2005年06月28日
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総合企画ひとやすみ主催の第一回ディスコパーティは無事成功を収め、収益もソコソコに上がり、インチキ会社とはいうものの取り敢えずの運転資金もでき、益々意気上がる道楽者たちでした。更なる資金源を求め、年末にもう一度でかいパーティを企画して奔走するマチャアキとジュリーでしたが、どうも若造が金儲けを始めるとプロの方たちに目をつけられ、今で言う企業舎弟にさせられそうになったりもしました。委員長は念願のヨーパンもどきの彼女をGETして、二人仲良くSOUL街道をまっしぐらといったところでした。更にジュリーが、レコード販売の営業に回る傍らダンスショーの仕事などを取ってきたりして、ままごとみたいな会社でしたが、皆がそれなりに持ち味を生かして道楽的な夢を追いかけたのでした。この時、マチャアキは新宿ムゲンでDJをしており、○周年記念の企画に委員長をダンサーに仕立てて、これもパッケージにして商売しようなどと言い出しました。何事も深く考えずに突っ込んで行く性格の委員長でしたから、そりゃ面白そうだってなことで、早速ダンサーズの結成です。せっかくSOUL SISTERの彼女ができたのですから、こりゃもうソウルトレインなみにペアでばっちりファンキーな踊りを見せてやるぞってなもんで、俄然力が沸いてきます。あとのメンバーは弟分のヒデトに任せ、早速彼女と踊りの稽古、練習を口実にして営業前のV-oneで盛り上がります。どうだ、DJは誰でもできるけど、ダンサーはそう簡単にはできねぇだろうってな大見栄きって、ムゲンのショータイムをこなした委員長でした。この時はV-oneのジャンキーDJカーターを連れ出し、黒人DJ入りのパッケージショーにして大ウケでした。まあ、肝心の踊りなんてのは本当に稚拙なもんでしたが、本物の黒人がフロアに出て、SOUL TRAINのドン・コーネリアス風にDJを入れ、その前でアフロファッションのダンサーズが踊るのですから、素人にとっちゃ、そりゃそれなりに、そんなもんかなあ、ってなところです。このときいくらもらったかは忘れてしまいましたが、カーターがやたら興奮して、自らも踊りだして(メチャメチャ下手くそでしたが)興奮の一夜でした。なぜかカーターのお気に入りは「FREE MAN」でしたね。(日本じゃあまりHITしませんでしたけど)一回でもショーのステージに立ってお金をもらえば、もう立派なプロです。こうなったらとことん行くぞってなことで、大分本気になっていった委員長でした。ヒデトが連れてきたアフロ野郎は新宿育ちのカサイという奴で、やはりツッパリ系のSOULバカでした。エンバシーで数ヶ月仕事したってことを自慢にしている、ちょっとお水かぶれのヤツでした。本当はヒデトがアフロねーちゃんを連れてくることを期待していたのですが、まあ無理でしたね。いくらなんでもそんなに都合よくはありません。ここでまたまたバカがバカを呼び、久我山のバカ軍団、タバスコ野郎(昔話その30参照)トオルがヒデトを頼ってV-oneに就職してきました。しかし、バカは本当にほっといても群れて行くものですね。そしてここで、新宿組を一致団結させたディスコ業界始まって以来の大イベントが行われたのです。(ちょっと大げさだったかな)東芝EMIが企画した全日本ディスコDJコンテストとノンストップ・ダンスコンテストでした。会場は赤坂マンハッタン、DJは課題曲を使ったDJパフォーマンスを競い合い、同時にダンスコンテストも行い、コンテストの最中はノンストップで踊り続けるといったかなり面白い企画でした。ディスコ野郎とはいえ、みな二十歳ソコソコの若者ですから、優勝を夢見てマジでチャレンジを始めました。課題曲は、タバレスの愛のディスコティック、BTエキスプレスのピースパイプ、ウォーのロウライダー、その他(あと何曲かあったと思うのですが、思い出せません)。マチャアキとジュリーが声をかけて新宿のディスコDJを集めました。ダンスコンテストは委員長が声をかけて集めました。当日はアフロ小僧やら、遊び人風ねーちゃんにーちゃんのオンパレード、ひときわ目立ったのがアフロレイキの連中でした。(マー坊はいませんでしたね。笑)新宿組は委員長、ヒデト、カサイ、トオルの4人が貧乏くさい小汚いジーンズ・ファッションで出場、応援団は地元新宿のエンドウはじめ族軍団、六本木組のねーちゃんたちに比べてかなりガラ悪かったですね。委員長の彼女のDORIだけが唯一赤坂っぽいナリで応援に来てくれました。フロアの周りにはニットファッション(オーダーメイド)のブラックファッションばかりで、応援団もちょいと小奇麗なおねーちゃんばかりです。その中に小汚いガラの悪いアフロ小僧が紛れ込んでいます。踊る前から見下されたような委員長たちは、よけいに突っ張ってしまいます。さて、コンテストスタート。新宿組のDJがサラを回すとフロアで委員長たちがワーッと声をあげ、踊りにも気合が入ります。マンハッタンの狭いフロアですから、ぎゅうぎゅう詰め状態で長時間踊ってれば自然とストレスがたまってきます。更に六本木野郎たちの下手くそなダウンやら、大振りのファンキーフルーツなどが新宿組を威嚇してきます。ガンの飛ばし合いから、「邪魔なんだよテメー」とか「うっとおしいんだよ」とか小競り合いが続きます。結局、DJコンテストの優勝はアフロレイキ代表、小林克也さんの弟子に決まり、マチャアキや新宿組数名もなんらかの賞をもらいました。ダンスの方も同じくアフロレイキ代表と、マンハッタン代表、誰が取ったかもあまり覚えていないくらいにどーでも良いコンテストと成り果てていました。(やたら長く踊りゃいいってもんじゃありませんよね)会場からぞろぞろと出てくる興奮冷めやらぬ出場者たちは、店の近辺でグダグダしております。そして、コンテスト終了後のマンハッタン前の神社、因縁の勝負の決着がつけられたのです。こういうことに関しては絶対に引かないバカばかりですから、ものの数分の乱闘で圧倒的勝利を収めた新宿組でした。もちろん委員長は暴力は嫌いですから、SOUL SISTERと高みの見物でした。タバスコ野郎のトオル君、高校中退グループのカサイ君、エンドウ君他の大活躍で、場外乱闘も無事終了、なんとか溜飲を下げて引き上げる新宿バカ軍団でした。(なんかいつもこんなオチですよね)この事件(?)を契機に一段と強い絆で結ばれていった新宿ソウルブラザースだったのですが、V-one の方は、残念ながら支配人梅ちゃんのいびり猛攻撃に、遂にDJエディ、テリーも辞めていくこととなってしまいました。別れ際、テリーはニットパンツとシャツをトオルに譲り、DJエディは委員長にソウルカラーのシャツとサスペンダーパンツを譲ってくれました。また、この頃はボルサリーノと呼ばれるソフトが流行っていて、アフロ三人組みは三色(グレー、紺、キャメル)のハットにJUNのサテンジャケットと、黒革もどきのビニールパンツでお揃いのファッションに身を包んで、新宿界隈をデカイ顔して歩き回りました。(目立つことは目だったけど、どうみても田舎者だよね)踊りの方はレゲエからポイントに移り始めた頃でした。基本的には踊り自体はレゲエなんですが、人差し指でパートナーを指差す仕草の手振りが入ります。そしてここに空前絶後、ディスコヒットの歴史に永遠に残るであろう名曲、KC&The Sunshine BandのThat’s the wayが大爆発しました。とにかくこのヒットは凄かったですね。メガヒットなんてもんじゃなかったですね。どこの店に行っても絶対にかかっていましたし、とにかくみんながみんな踊っていました。シングルリリースはGet Down Tonightに続くセカンドカットだったんですが、シングルバージョンじゃお客が納得せず、こればっかりはアルバムのロングバージョンプレーでした。とにかく躍りやすいマイアミサウンドは、このポイントという踊りと相性が良かったのでしょう。
2005年06月27日
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1975年の夏も終わり、V-oneの仕事にも慣れ始めたころ、委員長の前に旧友が一気に現れ始めました。高校時代からのバカ友、井の頭線三鷹台駅前の酒屋の次男坊は、新しい彼女を連れて客としてやって来るようになりました。その次男坊の地元中学の同級生ケイゾーも、ようやく新しい職場に落ち着き、スネさんを伴って遊びに来ました。もちろんS子も一緒です。ちなみに、この三人が遊びに来た日に客同士のちょっとしたケンカがあったのですが、なんと止めに入って裁いたのはS子でした。ケンカの当事者同士もスゴスゴと引き下がるほどの迫力に、今更ながら頭の下がった委員長でした。「あたしさぁ、小さいときからお祭り好きでさぁ、神輿担ぐのも大好きなんだよね。でももうそろそろ落ち着かなきゃいけないでしょ、ハハハ」って言ってる矢先の出来事でした。更に、ビバヤングのDJマチャアキが新宿のジュリーこと鈴木昇二君を連れてやってきました。博多からジャズドラマー目指して上京してきたマチャアキですが、ここらで一念発起、ミュージシャンの夢は一旦あきらめ、事業家としての出発を試みたのでした。その相棒がジュリーで、新宿の仲間を集めて企画会社を立ち上げたとのこと、まずはそのご挨拶と、第一回企画として「パーティ」を主催するための会場にV-oneを使わせて欲しいとのお願いに来たのでした。まんざら知らない仲でもなし、マチャアキは梅ちゃんに頼んで格安パーティ会場の提供を受けたのです。そこで久々にマチャアキと再会した委員長は、マチャアキの誘いにこころよく応じ、この時はじめてジュリーこと鈴木昇二と出会いました。「俺達みたいなモンでも集まれば何かできるはずだ」(若い頃は誰でも一度は経験ありますね)(しかしバカがいくら集まったところでカバにもなれません。ゴホン、失礼)そう熱く語るマチャアキに道楽者のバカ一同は感動し、夢の世界へ一直線。怖いもの知らずの若者はいつの時代でも、それが無謀な生き方だと判っていても夢見ることに憧れます。(何の根拠もない夢なんだけどね)“総合企画 ひとやすみ”社長○○マサアキ 副社長鈴木昇二あとのメンバーも、ディスコDJや喫茶店で働く新宿の仲間が集まっていると聞いて、委員長も異常に興奮しました。オレも入れてくれぇ~ってなもんです。もちろんケイゾーやヒデトも、元来お調子者の道楽者ですから、それなら俺らも一枚乗るぞってなことで、すぐに話は進みます。酒屋の息子だけは現役の大学生、ちょっと大人の彼女もできたせいか、今までに無く落ち着いた態度で、「しっかりやれよ」みたいな生意気こいて、この日を境に道楽者の仲間からは外れていきました。(それがあたりまえなんだけどね)そしてこの時、マチャアキからジョイ吉野が目黒のディスコでDJデビューした話を聞いて、「なにぃ~」と益々燃え上がる委員長でした。どういう経緯でたどり着いたのかは知りませんが、目黒のファンキーホースという店でDJを始めた吉野、後輩ながらあっぱれという気持ちと、先を越されたという複雑な気持ちでした。この時の委員長は、別段DJを目指していたわけではありませんが、相変わらずディスコでウェイターをやってる自分がひどく遅れをとったような気がしたのです。総合企画ひとやすみ主催「愛と夢を求めて~ディスコパーティ’75」なんだかよく分からないコンセプトですが、都会で生活する寂しい若者のための楽しいパーティの場を提供するって、今風に言うと「合コン」ですか。そのまんまですね。要は「出会い」を求めている若者を集めて、酒飲まして躍らせるって、委員長が高校生の頃からやってるパーティ屋ですよね。単にプロが仕掛けただけのことで、中味にたいした違いはありませんが、なんつってもそりゃディスコの従業員やDJがパー券売るんですから、あっという間に完売です。委員長にしてみりゃ、そんな金儲けとかより、また新しい道楽者に出会えるってことの方が興味深くて、「ひとやすみ」の溜まり場であった歌舞伎町DJ喫茶「白馬車」へ出入りすることの方がとても刺激的でした。白馬車は、歌舞伎町一番街のコマ劇場寄りにあるビルの2階にあった喫茶店で、3階は同伴で、いわゆる深夜喫茶と呼ばれる24時間営業のお店でした。この店の特徴は、店の中央部にサテライトがあり、ラジオさながらのディスクジョッキーが入っていたことでした。もちろん、マチャアキやジュリーもここでラジオDJ目指して修行を積んだ場所であり、当時はラジオのジョッキーを目指すアマチュアの登竜門のようなお店でした。この店の支配人をしていたフジワラさんという年配のおっちゃんが、マチャアキとジュリーの話に興味を持って、それならオレにも一口乗せてくれってな話から、次第に仲間が増えていったというような経緯でありました。コトの発端は、仕事帰りの始発待ちにこの店を利用していた同業者が、深夜のDJを通じて顔見知りになり、愚にも付かない夢を語っているうちに本気になったというような、典型的な道楽者の戯言、ヤマ話だったわけです。集まったメンバーは、当時スキャットのDJだったイサムちゃん、クレージーホースのDJ高橋さん(この人がV-one出身だったと後で聞かされて驚きました)、ムゲンの渡辺さん、トゥモローの池ちゃん(この人もV-one出身だった)、あとDJ見習いのような若者数人(いつの間にかいなくなちゃったケド)、などが毎晩白馬車に集まっては愚にも付かないヤマ話に花咲いたのでした。そーいえば、ビバヤングの兄貴、オオイケさんも一時ここに顔出していましたね。マチャアキの見習いみたいなことして、白馬車のブースで皿回したりしてました。ほんの一時でしたが、更正しようとはしたんでしょうね。まあとにかく、何が起こるかわかりませんが、時代もまさにディスコブーム真っ只中、わけもわからず明日に期待する、あのワクワクした感じってのは、そう簡単には言葉で現すことはできません。一体何が起こるんだろう、何が始まるんだろうっていう時代への期待感は、若さとともに大きく膨らまずにはいられませんでした。このときジュリーは吉岡さんから輸入盤仕入れてディスコに卸す仕事を始め、K観光グループチェーンを皮切りに新宿の大方のディスコと契約を結びました。ジュリーは当時からメージャー目指して頑張ってましたね。とにかく生活設計というか、生活観というか、委員長たち道楽者と違って随分と大人に見えました。(同い年だったんですけどね)レコード屋さんにも興味があったようでしたね。委員長は、この人はレコード屋さんで身を立てるのかなぁ、なんて思ったくらいでした。DJだ、ダンサーだ、SOULだFUNKYだ、花だ提灯だと戯言をコイる委員長たちと比べて、貯金だ、確定申告だ、と難しいことを良く知っている人だなあ、と思っていました。DJもうまかったですね。当時からディスコというよりラジオDJっぽかったですね。トークっつうかおしゃべりが非常にうまかった。糸井五郎さんに相当心酔していたし。白馬車に集まる連中のほとんどが、始発まで「おいちょかぶ」で興奮する中、ジュリーは黙々とDJの勉強してましたからね。ホント、偉いやっちゃ、みたいなね。さて、そんな新しい時代の幕開けを期待していた委員長に、ついにヨーパンもどきの彼女ができたのです。茶髪のアフロで長身の彼女はGETの元常連、V-oneに入社したばかりのツトム君やケン坊の知り合いということで、女友達と遊びに来たのでした。新しい踊り「レゲエ」も知ってるし、フロアではやたら目立つ彼女でしたが、どう見ても不良まるだし、ヨーパンもどき、まず普通の人は手は出しませんね。顔立ちは、そうねぇ、研ナオコ系みたいな感じかなぁ、黒人ぽかったよね。ツトム君が冷やかし半分で委員長に言ってきました。「あいつ、男探してるらしいぜ」どういうつもりで委員長に言ったのかはわかりませんが、委員長がすぐに立候補したのは言うまでもありません。ツトム君、驚いた表情で、「マジかよ」、委員長「マジですよ」、そうか、わかったってなことで、その場でお見合いです。言葉はあまり交わしませんでしたが、“決まり”です。まわりのやつらは皆、「へえ~」ってな感じでした。確かに個性的な彼女でしたが、委員長の潜在意識の中に残っている、ビバヤングのリンダ嬢を髣髴とさせるフィーリングに重なったのです。ドゥリーシルバースプーンのバンプミーベイビーのジャケットに写っているアフロLADYに良く似ていましたね。(おかげでV-oneではちょっとHITしました)恋に落ちた委員長、遂にSOUL SISTERをGETしてSOUL MAN“RONNY”の誕生です。好きなことをしてメシを食う人生の始まりです。SOUL SISTERの名前はDORI/ドーリー。後で知ったことですが、彼女は超ど近眼、メガネはかけていませんでした。(^、^;
2005年06月26日
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しかし、どこに行っても必ず道楽者はいるもので、V-oneにはビバヤングとはまた一風違った道楽者がおりました。V-oneの道楽者、DJエディとテリーの二人とは割とすぐに馴染めましたが、ラリーとはさほど打ち解けるほどの仲にはなりませんでした。後で知ったのですが、ラリーはあの関西弁のおっさん“ベル”と一緒に大阪からやってきたそうで、年齢も委員長よりはちょい上でした。もひとつ驚いたのが、ベルは元板前で、このV-one にもしばらくの間厨房で働いていたとのコト(いやーなんかしら縁があったんやねぇ)、なんでも、ベルはフライ用の油を温めるため火をつけたまま買い物に出てしまい、キッチンで小火を出してクビになったという強烈なエピソードの持ち主でもありました。ひょっとして、あの時ビバヤングに来たのは職探しだったのかなぁ、などと思ったりした委員長でした。さて、委員長も仕事中に堂々と踊りの練習に励みつつ、だんだんとV-oneテイストに馴染んでいったのでした。ところが経営者側としてみれば、体制建て直しのために人事異動を行ったのですから、今までどおりのやり方がそのまま続くわけがありません。キャバレー上がりの支配人梅ちゃんは、しばらくするとホールでの踊りを禁止し、ビバヤング仕込の顧客サービス(サパーのマナー)を徹底させるような指導が入りました。今までのやり方とは正反対のキャバレー(軍隊)方式になれば、従業員全員が叛旗を翻すのは目に見えています。まずターゲットとなったのは、キャバレー上がりの長髪にーちゃん。しかしこの人、なんでディスコなんかに就職したのかよくわからないあんちゃんでした。喫茶店にでも行ってりゃ良かったものを、なんだか気力の無いこんにゃくのような性格でした。で、結局は梅ちゃんに怒鳴られてクビ。何が理由で怒鳴られたのかも正直言って思い出せませんが、支配人室で梅ちゃんに怒鳴られて涙流しながら退店していったことだけがはっきりと記憶に残っています。続いてラリー。彼の場合はちょっと陰湿で無口な方でしたから、梅ちゃんを無視することで抵抗しましたが、結局は自分から辞めていきました。辞めるときのラリーは、梅ちゃんに最後の復讐、怨念の一発というかイタチの最後っ屁というか、梅ちゃんの晩飯の味噌汁に小便入れて飲ませちゃったんですから、いくらなんでもやり過ぎと言うか、ひでぇ奴でしたね、まったく。さらに厨房のチーフ、見た感じは青年サラリーマン、どう見てもコックさんには見えない長身の無口なお兄さんでしたが、誰が教えたのか仕事中にシンナーを吸わせたもんだから、厨房でラリって座り込んじゃった。もともと梅ちゃんとは肌が合わないチーフでしたから、たまたま厨房に入ってきた梅ちゃんに怒鳴りつけられて逆上、目の前にあった包丁を握りしめてキッチンのカウンターをくぐろうとした途端、そりゃもう、もの凄い勢いで梅ちゃん厨房から飛び出して行きました。誰もが内心「ざまーみろ」ってな感じでしたが、この時の逃げ足の速さは天下一品、たいしたもんだと感心した委員長でした。この梅ちゃんですが、外見は勝新太郎を二回りほど小さくしたような体つきで、顔はまさにネズミ顔、チョット見た感じは強面やくざ風ですが、意外と小心者のアホなおっちゃんでした。もともとはN観光の車輌部、運転手あがりですから、人を使う仕事にはあまり慣れておらず、ビバヤング時代も店長あっての支配人ってな役どころでしたから、元々は頭に立つタイプの人じゃなかったんですね。まあ、それでもワカバヤシ主任という温厚な部下が居たので、なんとかかんとか支配人で収まっていたわけです。これで厨房のチーフも居なくなり、残されたのはDJエディと委員長の社員二人、テリーとM浦さんのバイト二人、これにレジのおばちゃんとワカバヤシ主任、梅ちゃんの7人となったわけです。当面、厨房が居ないと営業になりませんから、階下のキャバレー・クインビーでアルバイトをしていた台湾人留学生の若者を引っ張り上げ、あとは社員募集をかけたのでした。ここでやってきたのがアイザワ君という18歳のアフロ小僧でした。特別SOULかぶれってコトでもなく、単なる目立ちたがりのアフロ少年でした。使う方にとってみれば新人の方が随分と使いやすいわけで、過去の悪い習慣を一掃して体制を立て直そうってなことでした。そんなある日、委員長を訪ねてもうひとりのアフロ小僧がやってきたのです。久我山のバカ軍団のひとり、ヒデトでした。フロントでしょぼくれた顔をして立っていたヒデト、委員長の顔を見るなり今にも泣き出さんばかりに懇願してきました。「XX君、突然で悪いと思ったんだけど、怪人二十面相クビになっちゃって、家賃とかの支払いもあるし、ここで使ってもらえないですかね」たった一度、極悪少年フクシマに紹介されただけのヒデトでしたが、こうまで思いつめて訪ねてきたのだからなんとかしてやろうと、義侠心に熱い委員長は(そうかぁ)店に招きいれ、厨房でメシを食わせてやったのです。「ハラへってんだろ、まあメシでも食えや」一時は自分も同じようにして、ワル仲間にたかったことのある委員長でしたから、ヒデトの気持ちが痛いほど良くわかりました。(そんなおおげさなことでもないケド)そこで、ワカバヤシ主任に事情を説明すると、ちょうど募集もしてることだし、頭もアフロならちょうどいいだろうってことで、就職が即決しました。これで新制V-oneのアフロ三馬鹿、いや三羽ガラスが揃ったのでした。これで何となく店の体制も整い始め、N観光の社員教育に則った営業が始まりました。そうこうしているうちにアイザワ君が来なくなり、代わってちょい年配のツトム君とケン坊と呼ばれる二人組が入社してきました。スリーピースの背広をビシっと着こんで、見るからに水商売って感じの二人組でした。話を聞けば、ジ・アザーやクック、ニック&チャッキーとは遊び仲間、委員長たちにしてみれば新宿の先輩みたいな二人でした。実際のところは、半年間の食い繋ぎで就職したらしい二人でしたが、これでどうやらお店の人事体制もすべて入れ替わったことになり、益々梅ちゃんの天下となっていきました。委員長二十歳の夏もあっという間に終わり、そろそろ季節は秋口、10月に入ろうとしていました。この時のV-one の黒人DJは、カーターという小柄な男がメインで、時々カーティスという大柄な男との二人が横田基地からアルバイトに来ておりました。カーティスはカーティスメイフィールドに本当に良く似ていて、心の優しい穏やかな男でした。ミュージシャンでもあり、横田ベースの仲間とバンドを組んで、ブラックシープなどにも出演していました。このバンドで、カーティスはトロンボーンとコーラスを担当、そしてドラムを叩いていたのが、後にもんた&ブラザースのドラマーとなるマーティンでした。彼も、時々カーティスを訪ねてV-oneに遊びに来たりしていました。このあたりはビバヤングと随分違って、ブラザー達が頻繁に出入りしていたので、アメリカンカルチャーというより、アフロアメリカンについて随分と学ぶ機会が多く、この時のカルチャーショックみたいなものが、委員長をSOULバカの深みにはめたとも言えます。V-oneでも時々ケンカがありましたが、こういうときにはカーティスがさっと出て行って間に入ります。身長180cmは楽にある黒人に仲裁されれば、まず双方ともしゅんとなって引き下がり、大事には至りませんでした。このカーティスがよく口癖で委員長に言っていたのが、「ケンカ、ダメ、センソー、モットダメ、Very Very Bad!」でした。片言の日本語と片言の英語での会話でしたが、彼が語った言葉のすべてが委員長の心に今も残っています。「自分は人殺しになってしまった。音楽を愛するミュージシャンの自分が、この手で人を殺してしまった。戦争は本当に良くないことだ。戦争は絶対に反対だ。CRAZY!」このクレージーという言葉は、日本ではジョークっぽく使われていて、さほど言葉の重さを感じませんが、英語本来の意味から言うと、かなりなインパクトをもつ“キチガイ”沙汰です。(英語圏でCRAZYを使うときは注意して下さいね)彼とはこんな会話を何度かしましたが、後年、たまたま五木寛之の小説を読んでたら、非常に良く似た黒人トランペッターの話があって、カーティスの顔が目に浮かびました。大変可愛そうなことではありましたが、それでも当時は徴兵制度による召集でしたので、こうした識者も多く含まれていたおかげで、軍の無軌道な行為はある程度抑えられていたのでしょうが、最近は食扶ち確保のための志願者が多いので、常識も教育もないようなならず者も多く含まれているため痛ましい事件が多いのでしょう。一方、小柄なカーターはちょっとした紳士っぽい感じのいでたちで、FUNKYというよりは日本で言うサラリーマンみたいな面持ちでした。ところがどっこい、こいつが結構クワセ者で、とにかくドラッグ好きというか、大抵STONEDで、翔んでいない日は無いってくらいのもんで、とにかくEverydayがHappyでした。ルックスもまあまあだったせいか、やたらオネーチャンにも人気がありました。踊りはメチャへたくそだったけど、かなりのプレイボーイでしたね。性格も悪くなく、ひょうきんな奴で、仲間内での人気もまずまずでした。そして委員長は、このカーターから「幸せの煙」の洗礼を受けました。ある日、カーターが委員長を呼び寄せ、エレベータ横の非常口に連れ出しました。彼はクリっとした目を大きくさせ、ポケットから白くて細いコヨリのようなものを取り出し、「Smoke it」と言って差し出しました。委員長は意味が判らずぼやっとしていると、カーターは自分でくわえて火をつけました。親指と人差し指に挟んだコヨリを思い切り吸い込むカーター、まさに煙をバキュームする勢いです。途端に枯れ草を燃したような独特の香りが漂います。煙を吸い終わったカーターは火の付いたコヨリを委員長に差し出しました。委員長は見よう見まねでコヨリを指に挟み、同じように一気に吸い込みました。吸い終ったと同時に再びカーターがコヨリを奪い取ってもう一服入れ、すぐに火をもみ消して半分になったコヨリをまたポケットに戻しました。カーターはニヤニヤしてポケットからタバコを取り出し、委員長に1本取るように勧めると自分も1本口にくわえて火を付けました。煙をゆっくりと吸い込んだ委員長の喉から肺に、さわやかで冷たい空気が入り込み、煙を吐き出した後もその感触が残っています。手に取ったその長いタバコはベンソン・メンソールでした。自分の体の中で何が起こっているのか判りませんが、ラリったりしているわけでもなく、意識はしっかりしています。かといって、いつもとはチョット違う、妙な感じでした。「Get out here」カーターの声にはっとして一瞬我に帰る委員長。店内から聞こえてくるダンスビートに体が勝手に動き出す感じで、踊りながらホールに戻る委員長。Get up and get down, just get on down!紫の煙~初めての体験でした。
2005年06月25日
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1975年8月~ V-one で人気のあった曲をざっと振り返ってみましょうか。ファイトザパワー/アイズレーブラザース、ハッスル/ヴァンマッコイ、愛のディスコティック/タバレス、Shining Star/EW&F、Get Down Tonight/KC & the Sunshine Band、1234ブロウユアホイッスル(笛の音が入ってて、ホイッスルが流行りました)、Keep on Bumpin’/KG’S、Do what you wanna do / People’s Choice 邦題は「ディスコ天国」だったかな。Super Jaws / Super Jaws スパー・ジョウズってコーラスが入っているだけなんでしたけど、やたら良くかかってました。レゲエで踊るにはピッタンコって感じでした。たぶんスピルバーグの映画「JAWS」のHITに便乗したディスコものだったんでしょうね。でも、ビルボードのHOT100にもランキングしてましたから、ディスコヒットには違いなかったですね。ちょっとアップビートのDance dance danceもよく聞きました。(カルフーンってグループだったとかな)お馴染みコモドアーズもマシンガン、スリパリー、サンクティファイドと立て続けにシングルカットされました。ちょっと異色なのはリトル・ビーバーのパーティダウンでした。JAZZっぽいラテン系チャチャで、なんとベースはあのジャコパストリアス、ブルース&JAZZの世界ではちょいと知れたギタリストだったらしいんですが、渋かったですね。大人っぽくて、フロリダのバーあたりでかかりそうなアダルトな雰囲気が最高でした。あと記憶にあるのは、ヘルプレスリー、エキスプレス(BT Express)、JB’sモノレール(これもエキスプレスに対抗してJBが作ったんですね)、ジャングルジャズ(KOOL&The Gang)はジャングルブギのニューバージョン、スピリットオブザブギと立て続けにヒットしました。このアルバムは本当に良く出来たアルバムだったと思います。委員長が働き始めた頃のお客は、まだウォーターゲートやオールドマンが主流で、いわゆるツウは新しい踊り「レゲエ」に挑戦していました。そういえば、BT Express のエキスプレスを踊るときは、ウォーターゲートで手をくるくる回したり、首を振ってみたり、適当なバリエーションが入っていましたね。ジャングルジャズはジャングルブギと重ねてプレイしたりしてました。これって今にして思えば「つなぎ」だったのかなぁ。お客にはウケてましたけど、ちょっとピッチが違うから苦しかった。ファンキーフルーツなんかもこの曲でみなよく踊ってましたね。ところで、このファンキーフルーツって日本製だったんですよね。当時の委員長もてっきり黒人が持ってきたものだとばかり思っていましたが、それにしちゃネーミングが変でしたよね。いくら黒人がFUNKYだからって、フルーツまでファンキーにするこたぁねぇだろみたいなね。踊り自体は確かにSOUL TRAIN GANGなどが踊ってましたけど、なんていう呼び方していたかは不明ですね。確か、全日本ディスコ協会主催のファンキーフルーツ・コンテストなんてのがありました。はっきり覚えていませんが、結構それなりの人たちが出て盛り上がったようです。吉野が憧れていた赤坂マンハッタンのジョイ・ジンが割とうまかったですね。その弟子みたいなジョイ吉野も中々うまかった。V-oneではテリーがよく踊ってました。ロボットとかと組み合わせて結構面白かったなあ。あとラリーもよく踊っていたけど、彼の場合はなんか自己満足ってな感じでイマイチでした。そして、このラリーに手ほどきを受けたM浦さんのファンキーフルーツも凄かったですね。本当におサルのシンバル人形みたいだったなあ。手振りの後、ジャンプしながら後ずさりするっていうのが、当時の一般的な振りだったんですけど、この後ずさりがなんとも凄くて、動物的というか歌舞伎的というか言葉ではいかんとも表現しがたい光景でした。それでまた、DJエディやテリーがM浦さんをノセるもんだから、ショータイムでご披露となります。ここまで笑いものにしていいのかなあ、とも思いましたが、本人が全然そう思ってませんから手がつけられません。ヴァンマッコイのハッスルもちょっとした人気でしたが、この踊り「ハッスル」もどうやらビクターレコードとディスコ協会の企画モノだったようですね。当時のFUNKサウンドの中にあって、ちょっとエレガントな曲で異色でした。そういえばチャイニーズカンフーなんてのもありましたね。これはステップで踊ってました。でも、もうこの当時はいわゆるステップは古いタイプの踊りで「懐メロ」扱いされてましたから、新曲とはいえお店(DJ)には結構煙たがられてたのも事実ですね。カタにハマらず自由に踊ろうよってな流れになってきてました。ちなみに「レゲエ」も「ハッスル」も、委員長が始めて見たのはエンバシーのフロアでした。このころ、エンバシシーはSOULエンバシーと名前を改め、店内改装、ジェイルのような檻に囲まれたレイアウトにイメージチェンジしていました。以前のような客席とフロアが重ならず、ダンスフロアは檻で囲まれた四角のハコのような中に独立して作られてありました。新装オープンの噂を聞いて早速出かけた委員長、なんとそこにはビバヤング時代に一度顔を合わせた、あの関西弁のおっさんがいるではありませんか。ネームタッグには「ベル」と書かれていて、「あんときはほんま助かったわ」とお礼を言われ、エンバシーにちょいとした知り合いができて嬉しかった委員長でした。そして、そこで見た新しい踊りが「レゲエ」と「ハッスル」でした。パートナーと向かい合って、4拍子で左右に歩きながら腰を振る「レゲエ」は手をモンキーダンスのように肩から上、腰の辺りでふりながら踊ります。ハッスルは文字通り早足ステップで踊る、チャールストンのような踊りでした。委員長は、フロアで忙しなく足を動かしているブラザーを見て、隣に居たブラザー&ヨーパンに聞くと、特に決まったステップではなく、とにかく“ハッスル”するんだそうで、なんかよくわからん踊りでした。後にエモリさんのイラスト図解入りで、男女ペアでジルバのように踊る「ハッスル」が紹介されたときは、なんかちょっと変な感じがしましたね。こんな踊り、エンバシーで見たことないなぁ、って感じでした。これもビクターレコードとディスコ協会の創作ダンスですね。(これはあんまり流行りませんでしたね。日本じゃまだまだペアで踊るっつー意識が低かったから、男は女とちゃらちゃら踊れるかい、ってスタイルが多かったですね)今日は当時のHITを紹介したので、最後にこの当時の委員長のお気に入りをご紹介しておきましょう。それはなんといっても、KOOL & the Gang “SPRIT OF THE BOOGIE” ですね。タイトルチューンはもちろん、JUNGLE JAZZ、Mother Earth, Winter Sadness,と全曲フルに使えて、アルバムコンセプトもしっかりしていました。とくにB面トップのマザーアースは、まさにKGサウンドの決定版って感じで最高です。ブレイクに入るカウベルの音がまろやかで、日本の木魚みたい音色とそのタイミングが踊ってて快感でした。さらにスローナンバーのウィンター・サッドネスは、ご存知サマー・マッドネスの続編です。Summer Madnessはシンセのみのインストですが、Winter Sadnessはヴォーカルが入ってて、後半のシンセとギターのからみが、まさに冬のイメージを奏でていて、これこそしっくりと腰を絡めてチークを踊るにはピッタシでした。JAZZの雰囲気が大人っぽかったし。残念なことにこのアルバム、USAではCD化されておらず、日本のみの発売です。70’sファンの方には是非お薦めの1枚です。(なんだかライナーノートみたいだな)スローでもう1曲だけ特筆したいのが、コモドアーズの”This is your life”ですね。これも後年のThree time lady やEasyへと続くライオネル・リッチーのヴォーカルがかなりねちっこい初期のHITでした。ということで、今日はちょっとマニアっぽい話になりましたね。(^0^)
2005年06月24日
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本気で仕事を探す気があるのか無いのか、はたまた本気で働く気があるのか無いのか、一向に落ち着きのない無意味な毎日を送っていた委員長のもとに突然、極悪少年フクシマから耳寄りなニュースが飛び込んできました。N観光の人事異動で、新宿西口にあるV-one(ビバヤングの姉妹店でブイワンと読みます)に、ビバヤングの支配人梅ちゃんとワカバヤシ幹候(主任に昇進)が配属になったとのことでした。このワカバヤシ幹候は、歌舞伎町ノックアウト事件でドロップアウトしてしまったオオイケ幹候の同期生で、九州大分から上京してN観光に就職した23歳の若者でした。これなら顔見知りだし、今更新人として見ず知らずの店に入るよりは気が楽だったので、早速小田急線に乗って新宿西口V-oneに出向いたのでした。当時のディスコでもV-one はSOULっぽさでは結構有名で、従業員は全員アフロ、フロアでも正々堂々(?)と踊っても良い(ビバヤングじゃ仕事中の踊りは厳禁でした)、そんな話は以前からも聞いていたので、こりゃ楽しそうだとワクワクして出かけたのでした。小田急ハルクの並び、坂の途中にある小さな雑居ビルの4階がファンキーディスコV-oneでした。エレベータを降りると入り口から左曲がりの細い通路になっていて、抜けると切符売り場のようなレジ窓口があり、ここで入場券(1ドリンク付)を支払って中に入ります。店内は六本木メビウスに大変良く似た造りで、縦長の先にダンスフロア、中央が客席、奥が楕円形のボックス席、そしてドリンクカウンターの前に小さなスタンドバー・カウンターがありました。DJブースはビバヤングと同じタイプのアクリル製のカプセルブース(これもメビウスとほぼ同じ)で、照明用の調光卓が組み込まれてありました。ダンスフロア正面には大きな鏡が一面に張られており、これもメビウスの真似かなぁという印象で、メビウスと違っていたのはダンスフロアが横長ではなく縦長だったことです。早速、支配人の梅ちゃんと面接、ワカバヤシ主任にも挨拶をして、明日からお仕事です。委員長の場合は自宅からの出勤ということもあって、終電に間に合う12時までの勤務を了承してもらいました。当時の水商売ってのは、ほとんど田舎から飛び出してきた若者(?)ばかりでしたから、通常は寮に入るのでまさにタコ部屋そのもの。自宅から通う社員なんてのは少なかったわけです。タコ部屋に押し込めて12時間労働ですから、生産効率は非常に高かったですよね。寮住まいしてる奴らには労働基準法なんて関係ないですからね。下手したら犯罪者だったりすることもありますから、文句言って自業自得になるよりは、とりあえずメシ喰って生き延びた方が良いということです。仲良しコンビのケイゾーも、時を同じくして吉祥寺の喫茶店に入り、料理学校~バーテンダー・スクールという具合に、不良少年の更正パターンを歩き始めました。さて、この時のV-oneは、キッチンのチーフ、バーテン兼ウェイターのあんちゃん、これにDJのエディと名乗るO君の3人が正社員で、あとは親父くさいアフロのラリー、ひょろっとしたテリー、やたら歳食った文化服装学院生徒のM浦さんのバイト3人、そしてワカバヤシ主任と支配人の梅ちゃんというメンバーでした。実はこのV-oneには、以前ビバヤングからシラカワ幹候っていうイケイケのおっちゃん(以前のエピソードで紹介した通り、オオイケ幹候と並んでケンカ好きな人でした)が主任として配属されたのですが、従業員と折り合いが合わず、遂には退職してしまったというような経緯がありました。その頃の主任にH田という男がいて、暴走族の頭だったらしく、店にはそんなのばかりが集まってしまい、従業員を入れ換えたというような話も聞きました。確かにこのH田元主任は、後に歌舞伎町でT会に属するようになり、やはりその道に入っていった人物でした。おっと、大事な人達を忘れておりました。レジのおばちゃん(実はこの人N観光社長の実妹さんでした)、黒人DJのカーターとカーティス(二人が交代で横田基地からバイトに来ていました)、この3人もV-oneのスタッフでありました。初出勤した委員長はこれらの顔ぶれを見て、自分が期待していた店とはかなり違っていたのでがっかりしました。唯一嬉しかったのはホールが小さくて、あまり駆けずり回ることはないなぁ、ということでした。なんせ、ビバヤングの頃は満員満席になると、そりゃもう重労働というか、ホール駆けずり回ってましたから、それに比べりゃビバヤングの三分の一ほどの店なんで、たとえ満席でも楽勝ってなもんでした。ということで、正直言ってこのころのV-oneはもう末期的な状態を呈していて、バイト二人とDJの三人が何とかV-oneカラーをひきずっているだけでした。まあ、考えてみりゃ、支配人の梅ちゃん、主任のワカバヤシさんなどは典型的N観光社員ですから、キャバレー色丸出しでありました。V-oneも開店当時はそれなりのコンセプトでスタートしたようですが、どうも途中から従業員が暴走しだして手がつけられなくなり人事異動となった、というような話も聞かされました。委員長がビバヤングにいるころ、このV-oneのH田という主任と当時の渡辺支配人が一度たずねてきたことがあり、その時そのH田主任が委員長のアフロを見て、ウチに来ないかなと声をかけてきたことがありましたが、今にして思えば、確かにこのH田主任、アフロはアフロだったんですけど、不良少年御用達の45度銀縁メガネなどをかけており、SOULというよりは族って感じの風貌でした。そんなこんなで委員長が入った時には、ファンキーディスコというにはかなり酷い状態であったことは間違いありませんでした。従業員も皆が皆てんでんばらばら、ただ出勤してきて働いて帰る、ってな感じで、多少はビバヤングでキャバレー教育を受けた委員長は、管理もきちんとままならぬ統率のとれない状態を目の当たりにして、そのあまりの酷さに驚いたものでした。だからといって、先頭に立って一生懸命仕事に燃えるようなタイプではありませんから、それはそれなりに道楽的業務活動を行ったわけです。そりゃ二十歳になりたての若造ですから、世の中のほんの端っこをかじった程度で社会の仕組みまでわかるわきゃありません。ただ、今までとはちょっとタイプの違う人たちが多かったので、付き合い方に戸惑ったっていうのが本当のところだったと思います。ビバヤングでみてきた人たちは、もうこれ以上悲惨なバカはいないってくらいのどーしょーもない不良ばっかりでしたから、V-oneで知り合ったラリー、テリー、エディO君などが、妙にインテリっぽく見えたほどでした。ちょっとセンスが違うなぁって。そんなこんなで多少緊張しつつも、営業前の点呼では社歌を皆で合唱したり、号令をかけたり、正社員の中ではアフロ頭がひとりだけでなんとなく妙な感じでした。正社員の顔ぶれだけ見ると、ディスコとは程遠い感じがして頭が痛くなりました。そのうちにバイトのラリーやテリー、DJのO君たちとも話をするようになり、それなりに仕事にも馴染んでいったのです。ちょっと遊んでいた3ヶ月の間に流行も変わりつつあり、踊りはウォーターゲートからオールドマン、そしてレゲエという新しい踊りに変わっていました。おサルの手招きのような振りで、四拍子の歩行を付けて腰を振るっつー、今までとは一風変わった踊りでした。なぜレゲエなのかわかりませんが、ブンチャカブンチャってなレゲエのビートから来たのかもしれません。確かにこのころ、ボブマーレーやジミークリフなんかもチャートに顔を出していましたから、新しい風みたいなもんだったのでしょう。アフロ頭のラリーはちょい大柄、髭づらで、確かに黒っぽい感じはしていましたが、イマイチ愛想が悪くとっつき難い感じでした。暇さえあれば、レゲエの練習をしていたのが印象的でした。なんか熊がサル踊りしてるみたいで滑稽でしたね。ひょろっとしたテリーは、今で言うアメカジっていうのかな、バックパッカーのハシリみたいな感じでしたが、バイト中はイタリアンカラーのユニフォームにニットパンツ、スーパーフライのキャップをかぶったりして、いかにもディスコの従業員ってことで、ウェイターの合間にホールで踊ったりして、ビバヤングとは随分と違う雰囲気にちょっと驚いたりしました。小柄なDJエディO君はリーゼントにサングラス、オールディズぽいカッコで、GETのDJにだいぶ影響を受けていたようで、かなり日本語のしゃべりを入れていました。声は非常に良かったですね。低い良い声してました。そして、もうひとりのバイト、この人ほど委員長の人生の中で強烈なインパクトを与えてくれた人はおりませんでした。年齢不詳、経歴不明、性格温厚、なんと表現してよいかわかりませんが、とにかくその当時、委員長から見たら相当な年上、おっさんの風格も露にした顔を持ち、新宿の文化服装学院に通い、ディスコでアルバイトなどをしている、とっても不思議な人でした。更に驚いてしまったのは、V-oneのゴールデンタイムに、なんとこの人のショータイムがあるではありませんか。チークタイムが終わり、DJエディのナレーションが入ります。この導入部は笑福亭つるこうの「鶯谷ミュージックホール」イントロです。開園のブザーが鳴り、お待たせいたしました。只今より開演です・・・・てな女性のアナウンスが流れ、ここでミュージックスタート。“You are everything I need” アーティスト名は忘れましたが当時のマイナーヒットです。リズムはチャチャ系のミディアムテンポ、チャカポコギターの入った結構メロディアスなナンバーです。DJエディのMCが入ります。「お待たせしました、バロンM浦のショータイム!」そして、そこへカンフーパンツ(裾を絞った武道着)にノースリーブのTシャツ、さらに鉢巻を巻いたMさんが颯爽と登場しました。客席の常連たちは大爆笑です。相反してフロアのM浦さん、真剣な眼差しでワケのわからない踊りをはじめます。ここでまたDJのO君のMCが入ります。「さー、M浦さん、ターン行ってみよう!」M浦さん妙なステップでターンします。客席バカウケ大爆笑。しかしM浦さんの目は出来上がっています。今度はタンゴのようなステップでフロアを縦横無尽に歩き回ります。締めくくりは、ジャニーズのような仮面ライダーのようなポーズ、ようわからん踊りで興奮の坩堝、ショーは終了いたします。客席にむかってお辞儀をして退場。ステージ衣装(?)から制服に着替えるM浦さんにテリーが言います。「M浦さん、今日のターン良かったよ」「ああ、あれは僕が昔モダンダンス習っていたときのステップでさ、ちょっとチャチャとはあうかどうかわからなかったんだけど、試してみたんだ」(試さなくてもいいよ)目が完全に出来上がっちゃってるM浦さん、更にコメントは続きます。「僕さ、少林寺もやってたことあるから、今度はオープニングでこのカタを入れてみようと思うんだ」一体、この笑いものにされているおっさんは何者だろう?とにかく純粋にショーダンサーを演じている無垢な心というか、ノータリン、いや、ゴホン、失礼、この歳までどういう人生を歩いてきた人なのか、大変に興味のある方でした。この人のエピソードだけでもかなりの数書けそうですが、驚くことに、この数年後、M浦さん、なんとチェスターバリーのDJになっちゃったんですね。いやいや、岩をも通す信念というか、心が清いというか、信じて人を疑わない生き方は幸せを招くと言う手本のような方でした。(そうかなぁ~)あと、ここに登場するテリー氏は今、インターネットラジオ(ファンラジ)ってサイトで当時のDJを復刻させるような放送をやってますから、当時のことに興味のある人は是非サイトへご訪問下さい。
2005年06月23日
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ビバヤングで皆に兄貴と慕われたイケイケ男のオオイケ幹候、誰もが恋する春先に店で知り合ったちょいと遊びの分かるおねーちゃんにメロメロになりました。オオイケ幹候は北海道出身、横浜で水商売デビューの後、新宿に流れてきてキャバレーで修行して、ビバヤングに幹候として転属してきたのは22歳の時でした。林隆三をちょっとせこくしたような面相でやや長身、まあそれなりの黒服で、お客にもそこそこ人気がありましたが、所詮は田舎者ですから、DJのマチャアキや委員長、ケイゾー達のグループの影響をモロに受けてしまい、23歳でSOULの世界に目覚めたわけです。そんなころ、ちょっと遊び慣れした大人の彼女ができて、ルンルン気分のオオイケ幹候が久しぶりの公休をとって(ビバヤングはタコ部屋ですから休みなんぞは月1回がイイとこでした)、ようし今日は勝負だぞ(勝負下着を着けたかどうかは知りませんが)ってなことで、ちょっとカッコつけて委員長、ケイゾー、吉野のアフロ3人組を伴って、彼女と待ち合わせの歌舞伎町モナミビル7階、ファッションパブ・ノクターンヴェールへと繰り出したのでした。こじんまりとした店内は中央がダンスフロア、その正面に小さなDJブースがあり、フロアを取り囲むような席は、低めのゆったりとした大人のディスコという雰囲気でした。店に入ると、既に彼女はボックス席でオオイケ幹候を待っていて軽く手を振ります。オオイケ幹候は委員長たちアフロ3人組を舎弟のように紹介して、ちょいとした兄貴風を吹かせます。こっちはタダ酒、タダ踊りですから、そりゃヨイショにも力が入ります。ということでいい気持ちになったオオイケ幹候は放っておいて、3人は早速踊り出します。さて、オオイケ幹候の存在などすっかり忘れるほど踊り狂っていた3人は、チークタイムの休憩でボックス席に戻ってみると、ぽつんとひとりぼっちのオオイケ幹候に気付きます。既にボトルは半分以上空いており、目の据わったオオイケ幹候からは異常な殺気が漂っているではありませんか。遊び人の彼女ですから当然夜の知り合いも多く、店内で友達と出会い、そっちの席に行っていたのでした。しかも運悪く相手は男3人組、ナリもちょいとおしゃれな遊び人風ファッションでキマっています。あー、やだなぁ、この展開、委員長の心配どおりコトは進行していきます。「オレ、なめられてんのかなぁ」(ヤバイなぁこの感じ)「ちょっとわからしてやらないとだめかなぁ」(やる気かなぁ)ここでツッパリ印のケイゾーが火をつけてしまいます。「オオイケさん、どいつですか?けじめ取りますか?」(何言ってんだよこいつは)「おお、お前もそう思うか」(話がかみ合ってねぇぞ)「やっちまいますか」(お前言ってることわかってんだろうな)ということで、このあたりから踊りどころじゃなくなって、ケイゾーも酒をガンガン飲み始め、イケイケ同士で勝手に盛り上がる困った奴らです。そんなところに彼女が戻ってきて、さらに油を注ぎます。よしゃあいいのに、どこぞの店の常連で、どこぞの店の黒服だのと、その三人野郎の話なんぞを面白おかしくするもんだから、いよいよオオイケ幹候の目は三角になっていきます。どうも弱っちゃったね、この人はってなもんです。三人組が店を出るのと同時に、オオイケ幹候が号令かけて突撃です。モナミビルのエレベータに無理やり乗り込んで、1階についたとたんにならず者と化すオオイケ幹候。委員長と吉野はさっとかわします。あーあ、やな展開になっちゃったなぁ、と憂鬱な委員長に吉野が気楽なことを言います。「あにきぃ、オレの先輩の店でチャーハンでも食わない?」この吉野ってやつ、結構こういう面白い芸風があって、危険な目に会うととんでもない行動を思いつくというか、逃げがうまいと言うか、中々の人物です。コマ劇場の横の食堂ビルに「五十番」というラーメン屋があり、ここにアフロ頭の吉野の先輩が働いていたのでした。委員長も酔っ払いの喧嘩なんぞに巻き込まれるのはまっぴらですから、すぐさま吉野の提案に賛成し、聞こえよがしに「あー、腹減ったからメシ喰おうっ」とか言いつつ、モナミビルの斜向こうにある「五十番」へと吉野と二人で歩き始めました。さて、ビルの地下につづく階段に3人を引っ張り込んだオオイケ幹候、意味不明なノーガキを叫びながら、片っ端から殴る蹴るの乱暴三昧。後ろにはケイゾーがアフロの毛を逆立てて仁王立ちしています。理不尽な暴力の餌食となっている3人こそ本当に良い迷惑で、何がなんだかわからぬまま悪酔いあんちゃんのなすがままです。委員長と吉野はラーメン屋の先輩にチャーハン二つをオーダーして、店の前で見物を決め込みました。「なんでオオイケさん怒ってんの?」吉野がたずねます。「さあ、ヤキモチじゃねぇの」と答える委員長。そこへ地下の事務室からやたら背の高いおっさんが二人出てきて、オオイケ幹候をビルから引きずり出しワンツーパンチの早業でノックアウト。ひざから落ちて意識を失うオオイケ幹候。この大男に立ち向かうケイゾー。あー、やっぱりバカだねこいつぁ、と心の中で思う吉野と委員長。そこへオオイケ幹候が夢中になった彼女が制服警官を連れてきて、一気に終了。大男二人組は、たぶんビルの用心棒だったのでしょう。おまわりさんに挨拶してその場を立ち去りました。道路に大の字で転がっているオオイケ幹候を起こすケイゾー。委員長と吉野もお手伝いに馳せ参じます。よっこらしょ、とオオイケ幹候を皆で立たせて肩を貸します。おまわりさんは、「どうした?喧嘩か」と、見りゃわかるだろうって質問をします。皆に支えられてかろうじて立っているオオイケ幹候、オハヨー、ここでお目覚めです。「あれっ、どしたの。なんだお前たち何してんだこんなとこで」おまわりさんも、「大丈夫か、歩けるか。気をつけて帰れよ」って、オオイケ幹候を歌舞伎町のど真ん中に置き去りにして、交番に帰って行ってしまいました。なんなんだよ、加害者捕まえネェーのかよ、と思いましたが、この被害者も加害者であるし、結局何事もなかったかのように歌舞伎町の夜は更けていきます。(なんだそれ)数分後、ようやく事態をのみ込めたオオイケ幹候が騒ぎます。「あいつら何処行った? 逃げたのか?」こまった兄貴分を抱えるアフロ三人組は完全にしらけております。「オレにパンチ入れたヤツは誰だ?」騒ぐオオイケ幹候ですが、誰も答えようとしません。「オオイケさん、腹減ったからメシでも食いましょうよ」吉野がなだめるように言いますが、オオイケ幹候、今度は八つ当たりです。「何でお前たちは暴れなかったんだよ。オレがやられてりゃ飛び出すのが当たり前だろ」そんなこと言われたって、ビバヤングの店内ならいざ知らず、こんな歌舞伎町のど真ん中で、しかもごついケンカプロみたいなヤツ相手に小僧がよってたかって何をしようが、返り討ちにされて張り倒されるのが関の山です。まあ、後輩の前で気絶までしてしまったオオイケ幹候の気持ちを考えれば、無理もないのですが、こっちだってこんな酔っ払いのオッサンのために命がけでケンカするほど人間は出来ておりません。「もういいよ、お前ら帰れよ」そう言い捨てて歌舞伎町の人ごみの中へと消えていったオオイケ幹候でした。残された三人は五十番でチャーハンをパクつきながら、吉野と委員長はケイゾーの闘志を讃えました。「あにき、根性あるよね」「ありゃ、ビルの用心棒だよな」「ああ、パンチ早かったし、ありゃケンカのプロだね」「でもよ、オオイケさん見捨てて逃げるわけいかねーじゃん。こっちも死ぬ気よ」こんなことに死ぬ気で取り組むなよってもんですが、確かにこのケイゾー、困ったやつですが根性だけはありました。更にこのケイゾーの根性は、翌日きっちりと証明されることになりました。翌日は何もなかったかのように出勤した三人ですが、オオイケ幹候は案の定お休みです。支配人の梅ちゃんは大怒りしてます。そりゃ公休日の翌日の無断欠勤ですから、楽しい思いをしやがってこの野郎、くらいにしか思っておりません。そこでアフロ頭三人組がフロントに呼ばれます。フロントロビーに出張った三人は予想外の成り行きに驚きます。そこには昨夜の三人組とその兄貴分のような、玉虫生地のスーツをビシッと着込んだ男が、支配人の梅ちゃんと対峙しているではありませんか。玉虫スーツの男がゆっくりとドスの利いた声で話します。「ウチの社員とお宅の社員が昨日もめたらしいんだけど、きちんと説明してもらおうか」いつものようにおどおどする梅ちゃん。三人組の一人がケイゾーを指差して「おたくでしたよね、昨日いたのは」と一言。兄貴分がケイゾーにたたみかけます。「もう一人いたはずだろ。どこにいんだ」「今日は休んでるんです」雰囲気に飲み込まれて意外と殊勝なケイゾー。「じゃ、お前がその当人連れて話しに来い。今夜中に連れて来るんだぞ」そう言って名刺を一枚置いていきました。場所は委員長やケイゾーがよく遊びに行っていた、スタッセビルの地下「シェラザード」でした。早速皆で相談、オオイケ幹候に電話しますが、どうも昨夜の一発がかなり利いているようで声に元気もなく、心なしかロレツが変です。ビバヤングの支配人梅ちゃんも相談には乗ってくれ、たかがディスコの従業員相手ならたいしたこともないだろう、と最初は突っ張っていましたが、どんな会社か良く知っている(スネさんの先輩とかいましたからね)委員長やケイゾーが、Y組が絡んでいることを話した途端、態度は一変して、「金だな」と結論付けます。「俺ら金なんか持ってないすよ」ケイゾーが泣きます。じゃオレが貸してやるからそれで話しつけて来い、ってなもんで、結局一人1万円として3万円(せこくネェか)で詫びを入れる段取りとなりました。さて、オオイケ幹候は立てませんから、ケイゾー一人で行くことになります。委員長も心配ですから、「オレも一緒に行こうか」と言うと、「こういうときはひとりで行った方が収まりやすいから」というケイゾー、伊達にイケイケだったわけじゃない、というような面子だけは立てたのでした。「あにきぃ、ほんとうに大丈夫」ドラマチックになる委員長。「ちょっとカッコつけてくっからよ、もしオレになんかあったときは、かーちゃん頼むぜ」それだけは頼まれたくないなぁ、と心で思いつつも、「そうだよ、あにき、あにきのかーちゃんに頼んでみたらいいんじゃねぇの。先輩もいることだしさ」「バカ言ってんじゃネェよ、男のケンカに女出せるかよ」「あにき、かっこいい」ということで、梅ちゃんに借りた3万円を懐に、単身敵地に乗り込むケイゾーでした。ケイゾーの話によると、向こうは喧嘩支度で数十人の黒い背広が居た、などと大げさに言ってはおりましたが、3万円で収まったところをみると、案外フツーに示談ってことだったのではないかと思います。この事件がきっかけでオオイケ幹候は面子を失い、結局は店も辞めプー太郎と成り下がり、挙句の果てに後輩のフクシマあたりとつるんで暗黒外へ一直線、ってよくありがちな転落物語でありました。いよいよ明日からは新宿西口V-oneデビューに入りますよ。お楽しみに。もうバイオレンスにもちょっと飽きたからね。でも、オーバーじゃなくて、当時は本当に喧嘩が日常茶飯事ってくらいで、昔は皆血の気が多かったんですかね。でも最近のバイオレンスとは質が違いますよね。最近は不良印のステッカーも貼らずに、やくざ以上の無茶をする子供も多くて、まさに狂気の沙汰って感じですね。
2005年06月22日
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1975年夏、二十歳になったばかりの委員長は自堕落な生活に明け暮れる毎日、バイトで稼いだ少しばかりの金も2回の新島旅行とディスコ通いですっかり使い果たしてしまい、それでも未だ懲りずに無軌道な道楽道を突っ走っていたのでした。もうこの頃は家にも戻らず、夜な夜なケイゾーのサバンナで寝るというようなフーテン生活を送っておりました。とはいうものの無一文ではゴハンも食べれず、かといってまだ働く気にもならず、思いついた究極の手段が「居候」でした。その頃、中学時代の同級生が吉祥寺商店街の八百屋で働いており、ケイゾーの家からも近いしこりゃ都合がいいやってなもんで、旧友“てっちゃん”の住む三鷹のアパートへ転がり込んだのでした。てっちゃんは、通称コマバカ、いや失礼、駒場学園の出身で、高校時代は共に「仁義なき戦い」を見て興奮したバカ友の一人でもありました。てっちゃんは、高校時代、下高井戸に下宿していたので、委員長は当時の彼女とここによく入り浸っては、同棲ごっこなどやらかしたりしておりました。そんな仲の二人でしたから、委員長が訪ねていくと、そりゃあもう喜んでくれて、なんなら一緒に八百屋で働けなぞとも言ってくれて、本当に良いヤツでした。このてっちゃんも委員長と同じく母子家庭の育ちで、中卒と同時に町田の山崎団地(そうです、あの有名な不良の巣窟となった)に引越し、委員長との縁も切れかかったのですが、弟が兄貴以上にしっかりと不良の道に入ってしまい、仕方なく下宿生活、そして高卒で就職という典型的な不良少年の更生人生を歩んでいたのでした。(ほんとかよ)ということで、一人住まいの寂しさもあってか、委員長の居候を歓迎してくれ、そこは働いている者の強み、とにかくお金がありますから、食べることには事欠かず、挙句の果てはディスコなどへも連れてってくれるし、いっそここでずっと暮らしていこうかい、などと不埒な思いをめぐらす不届き者の委員長でした。この頃の吉祥寺界隈は、オープンしたばかりのインディペンデントハウス(ここは時間制バイキングシステムという新しいタイプのディスコとして話題を呼びました)、バンド&DJのベルファン(ここはやたら不良が出入りして喧嘩が多かった)、老舗ディスコ城などがあり、三鷹市、小金井市、八王子市、立川市あたりの遊び人が出入りしておりました。とはいうものの、今ほどの活況さはなく、こじんまりした繁華街ってな感じでした。委員長は時々デカイ頭を買われて、てっちゃんと一緒に閉店後の八百屋の前で売れ残った果物や野菜を売って小遣いを稼いだりしました。週に一度、親方(社長)の好意で当日の売れ残りを破格で分けてもらい、閉店後の店頭で売るっつーような力技、テキヤさんのような仕事をしたわけです。まだアフロヘアが珍しい時代でしたから、おばちゃんとかには結構人気者になったりして、「キャー、これ地毛?触らせて」とか言われて、「そのかわりこのバナナ買ってよ、おねーさん」などと媚売って、それなりに売上もありました。商店街の店じまいに合わせて八百屋の閉店が8時ですから、7時頃から店の片付けを手伝いながら商売の準備を始めて、閉店と同時にスタート、9時までの1時間が勝負でした。勤め帰りのOLや買い物に遅れてきた主婦などがお得意さんで、傷物の野菜や果物を叩き売る楽しさもまんざらではありませんでした。仕入れ代を超えればあとは全部自分たちの利益ですから、そりゃ売り方にも力が入ります。まあ、こんな経験も後にDJやダンサーとなった時、ショーアップなどに生かされたわけですね。(そうかなぁ)夜9時までに売り切って後片付けを済ませ、ディスコ衣装に着替えていざ出陣ってなもんで、稼いだ金はすぐにインディや城、ベルファンなどで浪費するという、江戸っ子気質丸出しの生活を楽しんだのでした。ちょっとばかり金回りが良くなったという噂を聞きつけると、どこからかともなくバカ野郎達が集まってきます。ケイゾーはともかく、何故かビバヤングをクビになったフクシマやオオイケ幹候(この人もこの頃プー太郎してまして、その経緯もまた面白いので後でお話します)がくっついてきて、三鷹のひっそりとしたてっちゃんのアパートの暮らしは一転してドンちゃん騒ぎのアジトと化し、ご近所の皆様に大変ご迷惑をおかけ致しました。当時の三鷹って、本当に閑静な町(と言うより田舎)でしたので、やたら目立ってしまったのは間違いありません。今にして思えば、てっちゃんって本当に人格者と言うか良く出来た友達でした。八百屋の朝は早いですから、朝7時には出勤です。もちろん1日働いて夜8時に帰宅します。疲れて帰宅すると部屋にはワケのわからない居候がグデグデしていて、メシなど勝手に自炊したり、ステレオでディスコサウンドをガンガン鳴らして踊りの練習、しまいにはアンパンなど喰い始めて、人の家を何だと思っているんだ(何とも思っていませんね)、などと怒りもせず、一緒になって騒いでくれたてっちゃんでした。さすがに委員長もいよいよ責任を感じて、てっちゃんのアパートを出ることを決断したのです。(ならモット早く決断しろよ)放蕩生活もここらが潮時です。そろそろ仕事をしなくちゃなあ、と思い始めたのは委員長だけではなく、ケイゾーも車のローンやガソリン代をそういつまでも親に甘えるわけにもいきません。まだ夏を残したままの8月、委員長は仕事を探して再び新宿に戻ってきました。ケイゾーと委員長が仕事を探し始めると、一緒に働きたいなどと言ってフクシマが後をついて回るようになりました。楽しい職場じゃなきゃイヤだってなわがまま野郎ですから、職探しにしてもどうも真剣さが見られません。結局は新宿の知り合いのところへ行っちゃ、タダメシ、タダコーヒーなど頂いて、「どっか仕事ネェかなぁ」などと口で言ってるだけで、働く気などあるようには到底思えません。知り合いだっていい迷惑です。どうみたって、不良の仲間にしか見えないバカにウロウロされて、メシやコーヒーをたかられるのですからかないません。このころフクシマは親に金を借りて新宿に近い初台にアパートを借りました。結局、仕事を探すと言ってはこのアパートに燻って、グダグダするのがオチでした。そんなある日、フクシマに誘われて「怪人二十面相」というスナックに行きました。高校生の頃によく出入りしていた、いわゆる50’s、60’sのロックンロール系ファンの集まる店でした。この店にフクシマの烏山工業高校の同級生(といっても中退仲間)が働いていて、バイトを探しているという話を聞き、二人揃って出張ったのでした。行って見ると、なんとまたまた久我山のバカ、烏校(カラコウ)の同級生、新登場のヒデトが既に働いていたのでした。何でも、フクシマと委員長が来る前の日に決まったということで、一足違いでチャンスを失った二人の前で、「ワリぃなぁ」と申し訳なさそうにする童顔のアフロ小僧、ヒデトでした。仕方なくまたもやフクシマのアパートに戻ってみると、部屋にはオオイケ幹候とヨシワラの二人が、おねーちゃんを連れ込んでアンパンを喰っているではありませんか。さすがに怒りを爆発させて狂犬小僧フクシマが暴れます。年下の、しかも元部下のフクシマに「出てけよ、テメー」などと罵られるオオイケ幹候、完全にラリってしまってロレツも回りません。一時はビバヤングの兄貴と慕われたこの人が、こんな情けない姿になってしまったのは歌舞伎町のノックアウト事件がきっかけでした。このお話はまた明日。。。。。
2005年06月21日
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アフロ小僧の新島旅行は、結局なんのこたぁない野郎同士の冴えない旅となりましたが、取り敢えず黒人を目指す二人の肌は少しだけ黒くなりました。無事本土に戻った二人は、早速色の黒さを自慢しに新宿に出張って、新島「くろんぼ」仕込み(笑)の草履でも踊れるオールドマンをご披露したのでした。この頃、委員長とケイゾーの二人は新宿ブラックシープよく通っていました。フロアが三つのコーナーに分かれていて、手すりで仕切られた段違いのフロアがちょっとTVのソウルトレインのステージっぽい感じで気に入ってました。バンドも週末は黒人バンドが出たりして、かなり黒っぽいイメージの店でした。新島帰りのアフロ小僧二人組は、早くもここで若いおねーちゃんをナンパしてしまいます。彼女たちは第一期サーファーファッションとでも言うのでしょうか、当時は畳地の厚底ぞうり(雪駄を上げ底にしたようなぞうりですね)にボンタンみたいなダボダボジーンズ、アロハにプカシェルってのがちょっと粋なファッションでした。ハワイ帰りだぜぇ、みたいなスノッビー・ファッションといったところでしょうか。そんなナリした二人組を誘って夜のドライブ、羽田空港まで行ったのですが、よく見りゃ高校生に近い幼顔の二人、道楽者とはいえ、こりゃちょっとやばいんじゃないのってことで、この日はこのまま中野あたりまで送ってお別れしました。特に委員長の場合はソウルシスターを追い求めておりましたし、言うなれば自分たちだって二十歳になったばかりの若造ですから、年上はウェルカムでも年下は子供っぽくてイマイチ気乗りしませんでした。後にこの子達と委員長は偶然再会することになるのですが、なんとこのときケイゾーはしっかり電話番号などをGETしており、きっちり裏で付き合っていたのです。後でこの事実を知った委員長は、ケイゾーの腰の入ったスケベ根性に感服したものでした。また、ブラックシープの隣にあったQ&Bにも時々顔を出しておりました。ビバヤングのチェーンということもあって、親近感があったのか、別段知り合いがいたわけでもなかったのですが、天井の低い薄暗い感じが昔っぽく、大きな鏡も気に入っておりました。そんなある夜、賑わうフロアででかい顔して踊っている委員長の前に、黒人のハーフのようなアフロ小僧が躍り出てきました。「あにきぃ、久しぶり~」おっと、吉野君の登場です。久々に見るジョイ吉野の顔は、妙に色が黒くて羨ましいくらいの黒人顔です。それに比べて委員長の新島仕込みの日焼け肌は、まだまだ修行が足りません。「おめー随分色黒いなぁ」「俺んち、実家が御宿だからさ~」「最初見たときハーフかと思ったぜ」「実は昨日まで大島行っててさ、全身ばっちり焼いてきたんだよね」く、くっそー、新島の方が大島より遠いのに、なんで負けたんだ、などとわけの分からない地団太を踏む委員長でした。悔しがる委員長は早速ケイゾーを巻き込みます。「あにきぃ、俺ら負けてちゃまずいんじゃねぇの」「負けるって、何が?」「色だよ、色。何であいつの方が色が黒ぇんだよ」「なこと言ったってしょうーがねーじゃん」「もういっぺん行こうぜ、新島」「あー? 別に日に焼くんだったら江ノ島でも大磯でも良いんじゃねーの」「だめなんだよ、大島に負けちゃ、新島に悪いだろ」(なんのこっちゃねん)ということで、わけのわからない委員長の剣幕に押されるケイゾーがしぶしぶ承諾して、新島旅行第二弾が計画されたのです。ところが、ここでケイゾーの彼女、スネさんも黙ってはいられません。それでなくとも男好きの疑いをかけられている委員長ですから、二度も二人だけで島に渡るとなると更に疑い深くなります。ひょっとして女連れて行くんじゃないかとか、やっぱりこの二人できてるんじゃないかとか疑心暗鬼に陥っています。じゃ連れて行けばいいんじゃねーか、とケイゾーに聞くと、俺だけ彼女連れてっちゃ、あにきに悪いからってなこと言い出して、そうかよ、俺にゃ女がいなくて悪ぅござんしたね、といじける委員長。そこでスネさんが間に入って、友達連れてくるってなことで話がまとまりました。またかよっ。そうです、予想通り委員長のパートナーはS子でした。しかしよく考えてみれば、この二人、友達が少ないのは当たり前だよなぁ、などと同情する委員長でもありました。(口にしたら絞められてただろうなぁ)4人で行くと決まったら動きの早いスネさん、早速船の手配からお弁当のおかずまで、夫婦気取りできっちりと仕切ります。まあ、こっちは日焼け目的だから、誰が行こうが何をしようがしったことではありません。とにかく、よーっく日に焼けるようにコパトーンのオイルなども買い込み、今度こそ黒人になるぞーっと気合の入る委員長でした。さて、ダブルデート(?)の新島旅行ですが、7月も半ばを過ぎれば一斉に夏休み、ピークシーズンに入りますから船の切符も中々取りにくくなります。浜松町・竹芝桟橋からの直行便は満席で、熱海からの高速艇しか取れません。(ホントに当時は伊豆七島は人気がありました)ということで、新幹線で熱海まで行き、1泊して高速艇で新島へという旅程が組まれました。当日朝は新宿で待ち合わせ、どうせなら午前中に熱海まで行ってその日も無駄なく遊びましょうってなことになりました。アフロリーゼントのS子は、委員長とケイゾーのお揃いアロハに倣って、不良少年御用達原宿ハラダでスネさんとお揃いのアロハ、しかも上下ペアの甚平スタイル。アフロ頭二人とこのスケ番二人組、一体回りの人たちはどのように見ていたのでしょうか? 今にして思えば、新宿最強のタッグチームだったような気がいたします。さて、熱海に着いた一行は、山の上の素泊まり宿に一泊して、翌朝熱海港から高速艇で新島に渡ります。ところが低気圧の影響か、曇天で風も強く、結局はこの日は海岸を散歩しただけで終わり。翌朝は小雨まで降り出す始末。不安な面持ちの乗客は列を作って乗船を待ちます。乗船客の中、一際目立つ委員長たち一行を見つけて声をかけて来た青年がいます。「また会ったね、僕もこれから行くんだけど、天気悪いよね」アフロレイキのボーイ長マー坊でした。「やっぱ、竹芝からの船取れなかったの?」「いや、僕はいつもこっち使ってんだよね。速いから」愛想笑いの委員長、こいつ結構金回りいいんだなぁ、と内心うらやましく思ったりしました。「ところでさ、これ買わない」マー坊がバッグから取り出したのは、当時大流行のプカシェルでした。「1本千五百円なんだけど、ロニーだったら千円でいいよ」おー、きっちり名前を覚えててくれたのかって、悪い気はしません。マー坊のバッグにはざっと30本近くのプカシェルが入ってます。「毎週仕入れに帰ってるからさ、まとめて買ってくれればもっと安くできるし、ディスコでも結構さばけると思うよ」おお、なんとこいつはこの若さで(って歳知らなかったんだケド)、こんなことして商売してるのかぁ、大人だなぁ、なんぞとと感心しつつも、色黒自慢で競い合ってる自分がなんだか非常に子供っぽく思えてしまい、負けずに大人っぽく見せるためにも、その場で1本買ってしまった委員長でした。(きっちりセールスのツボにはまったわけです)おまけに、隣に居たS子を目ざとく見つけて、「彼女にも買ってあげたら?」などと調子こかれて、なけなしの二千円をふんだくられたのでした。さらにマー坊、その横にいたケイゾーとスネさんつかまえて、「ジミーもどう?」ってなこと抜かしたもんですから、「えっ、ジミー?ってなによそれ?」ってな具合にスネさんに詰め寄られてシドロモドロするケイゾーも、きっちり2本買わされてしまったのです。このマー坊ってヤツぁ、本当に大した野郎でした。お揃いのプカシェルをしっかり首に巻いて船に乗り込んだ一行は、この後更なる災難に見舞われることになったのです。海は大シケ、危ないからって甲板にも出れず、皆船底の二等船室に閉じ込められたのでした。大波小波に船は揺れ、横になっていてもゴロゴロと転がりそうなくらいで、子供は泣き叫び、大人はトイレになだれこみ、身動きひとつできずに皆まんじりとしているこの船室こそ、まさに黒人が乗せられた奴隷船じゃないか、おお、これこそオレが求めていた本物のソウルマンだあ、などと呑気たれている場合じゃなく、黒い顔を目指してやってきたのに真っ青になってしまった委員長でした。ケンカ自慢の姐御二人もさすがに船酔いには勝てず、揺れる船室の隅に張り付いていたのでした。あー、こんなことなら熱海で遊んでりゃよかったなぁ、などとグチを言っても始まりません。ただひたすら到着を祈るばかりでした。しかし、そこはさすがに高速艇、奴隷たちを乗せた船は荒波を乗り越え、なんとかブザマな姿を見せる前に島に到着してくれました。桟橋から降り立った委員長はしっかりと新島の大地を踏みしめました。やれやれ助かった、と気が緩んだ委員長、民宿のおばちゃんが運転する爆音ヘリコプター・ライトバンにトドメを刺され、新宿最強のタッグチームは遂にダウンとなったのでした。で、結局は3日間ともお天気に恵まれず、委員長の目論みはもろくも崩れ去り、友情の印、白いプカシェルだけが4人の首の周りで輝いていたのでした。
2005年06月20日
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久我山バカ軍団の世田谷用賀抗争事件(笑)で、ツッパリ出身のソウルマンであることが発覚し、一躍尊敬されるようになった委員長は、7月はじめにケイゾーと二人新島へと旅立ったのでした。委員長は高校生時代に、幾度となく伊豆七島・新島を訪れた経験があり、夏休みのバカンスで、当時のちょいとした遊び人はこぞって新島に繰り出したものでした。(ほんとかよ)もちろん当時からサーファー(ブーム前の本物サーファー)あたりは、やっぱりハワイなどへ飛び出しておりましたが、そんなに金も持ってないやつの遠出といえば、伊豆七島がお手軽でした。今ならさしずめ、グアム・サイパン(笑)あたりになるのでしょうが、とにかく軟派目当ての若いにーちゃん、ねーちゃんで賑わった新島でした。東京竹芝桟橋から夜の10時出航、明けて翌朝6時到着ってなことで、船中1泊という当時にしては中々味わえない情緒ある南洋への旅でもありました。船で海を渡るなんざぁ、男のロマンですね。東海汽船の何とか丸に意気揚々と乗り込んで、甲板にゴザ敷いて陣地を分捕るアフロ頭の二人組。一般客には、目立つと言うか、ちょっと怪しい奴らに映ったことでしょう。ディスコでしっかり録音したカセットテープをガンガン流し(でも当時のポータブルデッキってモノしかなかったんですよね、英会話カセット聴くようなヤツとか、ステレオタイプだと数十万もするSONYのカセット・デンスケなんてのが有名でした)、ケイゾーの兄貴のガットギターなんぞを持ち込んで、ちょっとしたバンドマン気取りで異常に盛り上がった二人でした。二人は原宿ハラダで買ったお揃いのアロハなんぞを着こんで、デケー頭にディスコサウンドで首振って、とにかく自己顕示欲はイヤと言うほど満たされました。さて、新島に到着した二人は、早速迎えに来てくれていた民宿のオバちゃんの、ヘリコプターのような爆音を立てて突っ走るライトバンに乗っかって、本村(ほんそん)にある民宿仙次郎へと向かったのでした。民宿仙次郎は、五右衛門風呂にプレハブ住宅の5~6部屋のこじんまりとした宿でした。(そりゃ民宿だからどこもこじんまりしてるだろ)季節も7月の初旬、まだピーク前と言うこともあって泊り客も少なく、委員長とケイゾーは六畳間を独り占め、いや正確に言うと二人占めしたのでした。徒歩10分もしないところに前浜ってビーチがあって、大方の観光客はここで海水浴してましたが、まだピーク前でビーチにめぼしいおねーちゃんもいないし、ケイゾーと委員長はレンタルバイクを借りて、島の裏手の羽伏浦(はぶせうら)という大波の海岸へ出かけて行きました。後年、サーフィンのメッカとして脚光を浴びるこのビーチも当時はほとんど無名に近く、サーフィンをやってるヤツなんてほとんどいませんでした。そんなところですから、頭のデカイ二人組がそんなところで何をすればよいのでしょう。結局はデケー波に頭からグチャグチャに呑まれ精根尽きて、ギャースカ言いながらも、ようやく民宿にたどり着いたのは夕暮れでした。民宿のおばちゃんの手料理を食って、さあいよいよ俺達の出番だぜぇ、ってなことで夜の新島、プレイングスポットへ繰り出します。さすが、夜ともなると皆それなりにおしゃれをしてきますから、昼間見た素顔のじゃがいもやだいこんも、夜はすっかりキューイやパパイヤになって夜の村祭りに花を添えます。本村のメインストリートには、お土産屋さんや、スナック、ビヤガーデンがあります。さらに、映画館まであって、さながら新島銀座といったところでしょうか。そんなメインストリートからちょいと外れたビーチ側の建物の二階から、ハービーマンのハイジャックが聞こえるではありませんか。ケイゾーと二人見上げると、なんとちょうちんに色つき裸電球が風に揺れています。その真下には石段があり、「ディスコ・くろんぼ」の手書きの看板、チビ黒サンボかダッコちゃんか、相当に年季の入った黒人の顔が笑っております。更にワンドリンク五百円とまで記されているではありませんか。とにかく踊るトコさえあれば俺達の天下だぜ、ってな勢いで石段を駆け上がる二人の眼前に広がる世界は、じゃがいもとだいこんをゴボウとニンジンが誘っているというような、始めてみる異次元の世界だったのです。入り口で、雪駄の底を厚くしたような草履を履いた、アロハにダボダボジーンズ、首にプカシェルの長髪にーちゃんから一人五百円を徴収され、砂交じりのイスに座らせられた委員長とケイゾーは、この時初めて新島のすべてを理解したのでした。無理やり造ったとしか思えない10畳くらいの屋上に、とってつけてようなイスとテーブル、蓄音機と呼べそうなポータブルステレオ、学校の視聴覚室から盗んできたような箱型スピーカーから流れるKC&ザ・サンシャイン・バンドのGET DOWN TONIGHTに、ヒモでぶら下がったちょうちんが踊っておりました。確かに二人はGET DOWNして、風に揺れてカラカラと音を立てるちょうちんと裸電球の音にずしーんとダウンをゲットしたのでした。そんな二人を慰めるように声をかけてきたのが、入り口で五百円を巻き上げた長髪のにーちゃんでした。「どっから来たの~?」踊りながら聞いてきたヤツは、日野テルマサを子供にしたような顔をしてました。「東京」ぶっきらぼうに答える委員長。「もしかしてエンバシーにいませんでした」おっと、こいつは中々分かるやつジャン。うまく引き込まれてしまった委員長でした。「僕、アフロレイキのマー坊です」(自分のことマー坊って言うなよ)ヤツは名刺を取り出して委員中にくれました。こんな若造が名刺なんか持ってるって、こりゃただ者じゃねーな、とちょっとひるんだ委員長でした。名刺には、「ソウルインアフロレイキ ボーイ長 マー坊」とありました。おい、名刺に「マー坊」ってこいつマジかよってな感じで、いよいよ向こうのペースにはめられた感じの委員長。「エンバシーは給料良い?」おっと、こいつは俺達を従業員だと思ってるんかい。まんざらでもない委員長、こうなったらハッタリかますっきゃないと、「うん、安いから辞めてきちゃったんだよね」「僕も夏場はここでバイトするんで今はお休みしてんだ~」おう、こいつは結構やるヤツだなぁ、と妙に感心する二人。「で、名前教えてよ」おっと、そう来たか、ここで一発カッコつけとかなくちゃなぁ。「オレはロニー、こいつはジミーっていうんだ」えっ、と驚くケイゾー。「で、またディスコで仕事すんの?」「いや帰ってから考えるよ」人の虚栄心を中々に突いてきたマー坊ですが、裸電球のネオンにつられてやってきたおねーちゃんにファンキーオールドマンなどの踊りの手ほどきなどしつつ、新島の夜は更けていったのでありました。あとはシドロモドロしないうちに退散ってことで、その夜はおとなしく民宿に帰った二人。「あにきぃ、なんでオレがジミーなんだよ」「いいじゃねぇかよ、ジェームスディーンみたいでかっこいいじゃん」「そうかぁ?」「あー、もう決まったぜ、あにきは今日からジミー、これで行こうぜ」「で、あにきはなんでロニーなんだよ。ロニーって誰だよ」「いーじゃんかよ、名前なんてよ、気に入った名前でいいんだよ」とうことで、伊豆七島新島でジミーとロニーの華々しく麗しい(笑)、襲名披露の儀が厳かに執り行われたのでした。
2005年06月19日
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新宿ビバヤングの想い出話「CRAZYエピソード」は、まだまだ沢山あるのですが、かなりマニアアックなネタになるので、またあらためてお話しすることにします。さて、そんなおバカな経験を重ねつつ入梅、夏も近づいてきます。そしてこの6月は委員長の二十歳の誕生月でもありました。人生になんの目的も持たず、ただ面白おかしく生きていければ良いと思っていた委員長ですが、さすがに成人するにあたって、ちょっとはまじめになろうかな、などとも殊勝なことを考えました。そうだ、俺はこんなところで終わる人間じゃないはずだ。いつまでもこんなところで働いていてはいけないのだ、などと若者によくありがちな独りよがりな期待感に胸膨らます委員長でした。(ズボンの中もしっかり膨らましていましたが)ということで、委員長は重大決心をしてビバヤングを辞めることにしたのでした。(そんな大げさなことかなぁ、バイト辞めるだけなのに)本当は夏も来るし、どっか遊びに行きたかっただけなんですけどね。(どうせそんなトコだろ)まあ、若い頃は何かをするたびに、ろくでもない理屈つけちゃ自分を正当化しますよね。そしてケイゾーを道ずれに、二人でビバヤングのバイトを辞めたのでした。1975年6月。二十歳になった委員長の新しい人生が始まります。さて、お仕事から解放された委員長とケイゾーのコンビの逸脱振りは、そりゃもうなんつったって「傷だらけの天使」状態。ますます糸の切れたタコ。どこまでも舞い上っていきました。とにかく昼間はほとんど寝てるかグダグダしていて、夜になると鏡の前でしっかりアフロを整え、目はバッチリ冴えてケイゾーのサバンナで新宿に繰り出します。しかし、今考えても本当にどーしょーもない生活でしたね。朝まで遊んだ日は家にも帰らず、駐車場のサバンナで夕方まで寝て、また夜になると目はギンギン、新宿に繰り出すってな生活を続けてました。ケイゾーの地元(井の頭線久我山)では、後輩たちが憧れの目で委員長のことを見ていました。ケイゾーは地元でも一応は名の通った不良でしたから、集まってくる後輩ももそれなりの筋金入りのバカばかりでした。バカな後輩はケイゾーに委員長のこと指して「あの人ホンモノのソウルマンでしょ?」とか尋ねられて、「じゃテメーはオレが偽者だって言いてぇのか」とか脅したりして、なんかよくわからないSOULマンでした。ある晩、駅前の喫茶店(当時は皆サテンって呼んでましたね・笑)に入ると、地元バカ軍団勢ぞろいってなことで、なにやら盛り上がっておりました。中からケイゾーを慕う後輩のトオルとハルオが近づいてきて言いました。「ダチがちょっとやらかしちまいまして、落とし前つけに行かなきゃなんねぇんですよ」カウンターのピンク電話でがなっている兄ぃがいます。ケイゾーが委員長に耳打ちしました。「あれがさ、久我山仕切ってる○○君っつーんだよ。オレの兄貴の同級生なんだけどさ、ここらのガキ集めていい顔してんだよ。元はおとなしいにーちゃんだったんだけどさ、中卒でグレ出しちまって、今じゃXX組に出入りしてるらしいんだけど、いい歳してガキの頭立ってるようじゃしょーがねーけどな」ちなみにケイゾーは後妻の子供で、ケイゾーと妹には5つほど歳の離れた腹違いの兄がいました。バカな後輩ハルオの話によると、自分たちの仲間の一人が彼女のうちに遊びに行ったところ、そのアパートの部屋でアンパン喰ってる野郎に遭遇してしまい、いきなり相手をぶん殴って部屋から追い出してしまった。とゆーよーな、どーでもいいくだらないことだったのですが、殴られたヤツは、ワケも聞かずにぶん殴られたのが気に入らないってんで、やくざの先輩連れてアパートにやって来て、殴ったヤツと話をさせろと居座っている。ということで、居座られてる彼女は困っていて、早くなんとかしてチョーだいヨってなことで、地元久我山のバカ有志に召集がかかったというような、もう、漫画のネタにもならんようーなくだらない話で盛り上がっていたのでした。相手がやくざらしいってことで、このバカ少年たちの兄ぃである○○君が登場、彼女のアパートの外でビビって居る加害者バカと電話で話しているところでした。「あーっ? だから何人ぐらいで来てんだ? やくざぁ? だったらそれでこっちも話しつけるから、向こうが何人で来てるか見てこいっつってんだろーっ」電話口で盛り上がる兄ぃでしたが、店内に集合したバカ達は委員長とケイゾーのアフロが珍しいのか、皆で取り囲むように集まって来ていいました。「ケイゾー君、その頭いくらくらいすんの」「こっちの人ホンモノのソウルマンですよね」アホな質問で笑ってるうちはよかったのですが、もう折り紙つきのバカの集まりですから、中々ケンカ話が進展しない上、珍しい客人も来てるってことで、遂にバカの自慢比べが始まってしまいました。「おめぇタバスコ、コップ1杯飲めるか?」「いくら出す?」「五千円じゃやらねぇだろ」「そうだなヤリ万(1万円)だったら考えてもいいね」「おう、トオルがタバスコ、コップ1杯ヤリ万で飲むッつってっけど、賭けるやついるか」「おう、じゃオレ、ヤリ千(1千円)」「オレ500円」「せこいな、てめぇ」だんだん頭が痛くなってきた委員長でしたが、バカはいつもこんなことしているのでしょう。あっという間に一万五千円ほどの賭け金が集まりました。「ちょっと足んねぇな。トオル、どうする?これじゃお前の取り分は8千円ってとこだけど、やるか?」「しーがねぇな、1回だけだぜ」(おいおい、1回でいーだろ)そう言ってテーブルの上の札を数え始めました。誰かがヒヤタン(お水用のタンブラーの俗称)にタバスコを注ぎ始めました。一同、3本目のタバスコが注ぎ込まれるコップを凝視してます。「おい、もうタバスコねぇぞ。あとでマスターに怒られっぞ」お店も良い迷惑ですよね。こんなどーしょーもないヤツに屯されて。結局、コップは一杯にはなりませんでしたが、三分の二は超えています。バカ一同注目の中、トオルというバカの代表選手がコップに手をかけます。「じゃあ行くぜ」と言ったか言わないうちに一気に口に運び飲み干しました。一同トオル君に注目、おおーっと溜息に似た声があがります。パシっと空のコップをテーブルに置いたトオルは顔色ひとつ変えません。一同、期待が裏切られて落胆の色は隠せません。「なんでぇ、たいしたことねぇじゃん。オレもやりゃよかった」(やるなよそんなこと)「トオル、ちゃんと飲み込めよ、飲み込むまで勝負なしだかんな」疑い深いヤツもおります。ゴクっと音を立ててタバスコはトオル君の喉を通過しました。と、ここで兄ぃから号令が出ました。「おい、とにかく皆でいっぺん見に行って来いや!」待ってましたとばかり、皆一斉に立ち上がって我先にと飛び出します。ハルオがケイゾーに聞きます。「ケイゾー君たちも行こうよ。数多い方が面白いし」(面白いのか?)ということで、一同駅前に停めてあった車やバイクに乗り込んで、一路世田谷は用賀までぶっ飛ばします。「あにき、ケンカになっかもしんないぜ」ケイゾーが聞きます。「お、おれは良いけどよ、あにき、車壊されたりしたまずいんじゃねーの」「ま、やばくなったら逃げりゃ良いだけジャン」そりゃそうです。こんなバカのために車壊されたり、怪我したりしたら、そりゃ本当の間抜け野郎です。委員長は気になってケイゾーに尋ねます。「あにきぃ、さっきのトオルってヤツも来てんのかなぁ」「しらねぇ、バカはほっときゃいいんだよ」ということで、最後尾から一団の後を追った委員長とケイゾーのサバンナが目的地用賀のアパート近くに到着したころ、路上駐車の車やバイクから続々とバカの一団が路地裏に入っていきます。「あにき、どうする?俺らも行く?」とケイゾー。「あにきが行くんならオレも行くケド」野次馬根性は人一倍旺盛な二人ですから、お互い返事を待つまでもなく路地裏の人だかりに向かっていました。久我山のバカ軍団が取り囲んだ中央に、上半身裸で晒しを巻いたパンチ頭の小柄な男と、同じく晒しを巻いたチョイ痩せ型の長身野郎が立っていました。今にも皆で袋叩きにするぞってな殺気の中、小柄なパンチ野郎が腕組して構えています。その光景を見た委員長は、想像していたやくざ者にしては迫力に欠けているので、少々がっかりしました。さらにその小柄なパンチ野郎の顔に見覚えがあることに気づいたのです。「おう、なんだお前、○岡じゃねえか。○岡だろ、サクラ行ってた」そうです、ヤツは委員長の日大桜ヶ丘高校の同級生だったのです。用賀中学から来ていたヤツはサッカー部で、確か玉川グループのメンバーでした。(当時玉川グループって族ともツッパリともいえない不良グループがこの界隈で有名でした)○岡は委員長の顔をしげしげと覗き込みます。頭がデカイせいか、暗がりのせいか、中々わかりません。「おめぇ2年の時部室でタバコすって停学くらったろ」委員長の言葉にようやく気付く○岡。「おぅ、なんだオメーこいつらの地元かよ」「違うよ、俺は梅が丘だよ」「おう、そうだったよな、確かおめぇんち士館(国士舘大学)の近くだったよな」「おう、思い出したか、懐かしいな」久我山バカ軍団がぽかんとして成り行きを見ています。「実はよお、オレのダチなんでよ、穏やかに話してくれよ」そう委員長がお願いすると、「おー、そうか、でもあんたらこんだけ集まるって結束が固いねぇ」と応える○岡。「とにかく今日のところは引いてくれよ」提案する委員長。「おう、オレもよ、年少から出てきたばっかでよ。できれば騒ぎは起こしたくねぇんだよな」合意する○岡。一件落着、一同安堵の表情に戻り、おずおずと解散になりました。車に戻った委員長とケイゾーの車の陰で異様なうめき声が聞こえます。「あにきぃ、誰がいるぜ」オェーっという叫びにも似た声が再び車の陰から聞こえます。バカ軍団も声に気が付き、寄って来ました。車の陰でしゃがみこんでいる野郎がいます。タバスコ男トオル君です。オェー、ゲー、と国道246沿い用賀の裏通り、闇を引き裂く悪魔の声が響き渡りました。やれやれ、二十歳になって新しい人生を歩み出した委員長の周りには、新たなバカの因縁が生まれ始めていたのでした。後にこのトオル君、委員長の結成したダンスチームBAD CHILDRENのメンバーとして活躍することになるのですが、この事件以来、ホンモノのソウルマンもツッパリ出身だったってことで、久我山バカ軍団の人気者と成り下がってしまった委員長、二十歳の夏の始まりでした。なんかこんなんばっかしですね。
2005年06月18日
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新宿南口ビバヤングでのエピソードで、ひとつ忘れてはならないお話があります。70年代後半のディスコ・ブームの中を、疾風のように突っ切っていった狂気のソウルマン・ベルとの出会いです。当時のビバヤングの常連にアフロした若造二人組がおりました。一人はやたら背が低く、もうひとりは反対にやたらノッポの、いわゆるでこぼこコンビでした。さほど目立つ二人でもなかったのですが、どう見ても高校生くらいの顔立ちでチョロチョロ出入りしていたので、委員長たち従業員は生意気な小僧くらいに思っておりました。そんなある日のこと、この二人組のチビの方と背格好が同じくらいの角刈りのおっさん(どーみてもオッサンにしか見えなかった)が、突然委員長に話しかけてきたのです。「あのお、ちょっと頼みがあるんやけどな」やべっ、やくざだ、と咄嗟に思った委員長でした。「な、なんですか」「悪いんやけど、ちょっとここの子ら裏口から出してやってくれへん」おっさんの後ろに例の生意気アフロ組が立っています。「な、なんすか。」まったく意味のわからない委員長はしどろもどろです。「なんやこの子らな、どうも悪いのんにひっかかってしもてな、ゆすられてるらしいんや」「えっ、ゆすられてんですか?」「そやねん。この子らの隣に座った女がな、バッグから財布抜かれたゆうてな、この子らに弁償せえゆうてるらしいんやわ」「えー、そんなら警察呼んだ方が良いんじゃありませんか」「せやけど、この子ら未成年やろ、話がややこしなるよってな、せやから裏口から逃がしたって欲しいんや」「しかし、そんなこと言われてもなぁ、困ったなぁ、店長に相談してみないとなぁ」と、ここでこのおっさん結構強気に出てきました。「そんなことしたら、ことが大きくなってしもて、話がややこしくなるやろ」「でも、オレの勝手にはできませんから」「そんなこと言わんと助けたりーな、困っとるんやから」変なおっさんに見込まれちゃったなぁ。アフロしてるってだけで友達扱いされたらかなわんぞー、とか思いながらも、「金は払ってるんでしょうね」「せやから、金はこの子らの分もワシが一緒に払って帰るがな」おっさん伝票をぴらぴらさせて委員長に迫ります。「しょうがねぇな、じゃ会計はちゃんとして下さいよ」そう言って、委員長はでこぼこ二人組をバンド控え室の裏口から外に連れ出しました。二人は本当に申し訳なさそうに委員長に頭をさげ、「ありがとうございました。助かりました。ありがとうございました」と、何べんも何べんも頭をさげてあやまります。まんざら悪い気のしない委員中、今度はすっかりその気になってしまい、「おう、今度から気をつけろよ」などと説教などコイて、困ったときはいつでも来いよ、とまでは言いませんでしたが、チョイ兄貴ヅラして二人を外に出しました。さて、委員長がホールに戻ると、例の角刈りのおっさんは、その因縁付けてるおねーちゃん(というよりはおばさんに近かったですが)二人と話をしております。まあ、確かにお水っぽい臭いのするおばちゃんたちで、そう言われれば子供に因縁コイて金取りそうな雰囲気だなぁと思ったりもしましたが、あとのこたぁ知ったこっちゃないんで、あとはこの角刈りのおっさんが片付けてくれるだろうと思っておりました。ところがおっさん、再び委員長を捕まえて、「悪いけど、自分これで会計して来てくれへん? ほんでワシも裏口から逃がして欲しいんやけど」(関西の人は相手のことを指して自分と言います)と言って、伝票と金を握らせました。「え、どういうことなんですか」「ええから、ええから、自分には迷惑かけへんて」「そんなこと言われてもな、どうなってるんですか」「はよせな、話がややこしなってもいいんか」そう言うと強引に委員長を押し出すように裏口に連れ込みます。帰り際に一言。「助かったわ、アリガトウ」そう言って立ち去ったおっさんでした。未だにこの事件の真相は明らかになっていません。もちろん、この女の二人組も別に騒ぎを起こしたわけでもなく、いつもどおりの1日が終わりました。もちろん、でこぼこコンビもこのおっさんも会計はきちんとしましたから、別に金をごまかされたわけでもありませんでした。そして数ヵ月後、まさかこのオッサンと六本木ソウルエンバシーで再会することになるとは、思いもよらなかった委員長でした。さらに、この時のでこぼこコンビのチビ、佐藤テツが後にダンサーズBAD CHILDRENのメンバーになるとは夢にも思いませんでした。この時の角刈りのオッサンこそ、何を隠そう後の赤坂ハレムの店長となったベル、その人だったのです。
2005年06月17日
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SOUL SISTERを求めてDISCOを徘徊する委員長は、新宿のほとんどのディスコに顔を出しました。歌舞伎町は、Q&B、ブラックシープ、アップルハウス、ムゲン、クレージーホース、ノクターンヴェール、エストレ、スキャット、トゥゲザー、パブ・トゥモロー、シェラザード、プレイハウス、ブロウハウス、西口ブイ・ワン、東口ゲット、ソウルトレイン、などなど。あとは、赤坂ムゲン、マンハッタン、六本木エンバシー、ボビーマギー、メビウス、他にも行きましたが、一度か二度行っただけっていうのも多かったですね。吉祥寺のインディペンデントハウスがオープンしたのもこの頃ではなかったかと思います。最初はタイムカード制バイキングという画期的なシステムでした。1時間八百円か千円だったと思います。踊るか食べるか?みたいなキャッチフレーズで登場したディスコですね。その後のバイキングスタイルの原型になったのが吉祥寺インディでした。あと、古い店で「城」ってのがありました。当時でもまだ踊り場って店でした。そんなこんなで、ケイゾーとスネさん、委員長とS子のチームでよーくあちこち行きました。たまたま行ったときの雰囲気が合わなかったとか、おねーちゃんが少なかったとか、大した理由ではありませんでしたが、やっぱ相性みたいなものもありましたから、それっきりってな店も随分ありました。ここで当時のDJについてお話しましょう。まあなんと言っても時代の先駆けと言えばアフロレイキですね。無名時代の小林克也さんとか、ブラザーもただの黒人ってだけじゃなくてそれなりのキャリアのあるDJが揃っていました。当時のビバヤング、ブイ・ワンが真似した「メビウス」のカプセル型DJブースも印象に残っています。メビウスは確か女性DJがいたと思うのですが、どうも記憶が曖昧です。湯川レイコさんだったかなぁ、当時でもミュージックシーンで有名な人が出てたと思います。ビバヤングのブースは透明アクリル製の球形カプセルで、機材はテクニクスのターンテーブルとオリジナルミキサーでした。当時のターンテーブルはモータードライブでしたから、立ち上がりがやたら遅くて、アドバンス・ランニングは、LPで三分の一から半分、シングルでも二分の一は必要でした。フェーダーは棒状のスティックが3本、左右のターンテーブルとマイク用です。センターにマイクが付いていて、見た目もシンプルで、ブースとのレイアウトも結構かっこよかったですね。レコードはというと、あの頃の主流はシングル盤でした。アメリカのチャート(ビルボードのHOTシングル)を頼りに新譜を紹介していました。「赤丸ランク上昇中!」懐かしいですね。当時のDJの定番フレーズでした。輸入シングル盤は、ライナーノート解説でお馴染みのアーリーバード吉岡さんが一手に引き受けていました。30枚セット(20枚だったかなぁ)1パックで、ビルボードのチャートコピー付きで毎月入ってきていました。ランダムで入ってきますから、チョイスはできませんでした。だから当時のDJとしては、このシングルHITの様子を見ながらアルバムを買うっていうような感じでしたね。そりゃ予算がふんだんにあればアルバムごとどんどん買っちゃったんですけどね。ただ、当時はアルバムにしても輸入盤の入手は難しかったですね。タワーレコードなんかなかったし、ほとんどがベースのPXでした。だからベースの黒人DJが重宝されたんですよね。しかし、このシングルってのは凄かったですね。雑な紙袋(真中に穴があってレーベルが見れるだけ)に入ってて、時々レーベルのスティッカーがずれてたり、盤がゆがんで針飛びしたりと、中々苦労も多かったなあ。なんでも当時のアメリカじゃドーナツ盤なんてのは、真中の穴にヒモ通してぶらさげて道で売ってたって言いますから、それだけの価値観の相違があったわけですね。(日本で売ってた人、結構おいしい商売だっただろうなぁ)で、入荷すると早速ぱーっと聴いて、レーベルの上にマジックで、GOODとかSG(スローグッド)、MG(ミディアムグッド)とか、独自の選定で仕分けして選曲を組み立てたりしました。英語だって読むのは大変です。辞書を片手にメモ入れたり、そりゃ苦労しました。チャートで上位でも、日本人ウケしそうもないヤツとかも結構紛れ込んでたし、流行を作るのもDJのお仕事でした。当時の洋楽、特にSOUL系はよっぽどじゃないと日本でアルバムリリースされませんから、シングル発売のみってのも多かったですね。しかも流行から遅れること3ヶ月は当たり前。ちょっとしたディスコヒットだったら、日本盤が出る頃にはとっくに死んでたり、なんてこともよくありました。逆にベースのDJが知らない曲が日本盤にあったりして、このあたりは面白かったですね。ブリティッシュ・ファンクのジミー・ジェームスとかバズーガとか、米国圏外のFUNKは当然知る由もありませんからね。彼らだってそこまでプロのDJじゃないから、外国のヒットまでは知りませんでしたね。ジミージェームスのファンキーオールドマン(今にして思えばい加減なタイトルだったなぁ)は日本と英国のみのヒットだったんじゃなかったかな~。ジョイ吉野が好きだったですね。異常に気に入ってて、オールドマン、ムキんなって踊ってましたよ、彼は。相変わらず新宿では鏡の前で野郎同士で踊ってました。エンバシーの雰囲気でもひとつカッチョよかったのがメローなペアダンスですね。ただガムシャラに踊るばかりが能じゃない、ということで、ミディアムテンポの曲でパートナーと踊るっていう雰囲気が、これまた日本人にはない感覚で、スノッビーでした。ミラクルズからソロになったスモーキー・ロビンソンの「バージンマン」とかマーヴィンゲイの名曲「愛の行方」とか、チークでもないハードでもない、まさにミディアムなノリで踊るセンスは色っぽかったですね。しかし、バージンマンってそのまんま、「童貞」の詩なんですけど、これってちょっとした社会風刺っていうかメッセージソングなんですね。マーヴィンゲイもそうなんですけど、ベトナム戦争を背景にして結構こういった政治的(社会的)メッセージを含んだ曲がモータウンから随分と出ました。そしてメッセージソングで忘れてならないのは、カーティス・メイフィールドです。GIVE ME YOUR LOVE、FUTURE SHOCKなど、70年代前半は黒人音楽が色々な社会運動と関わっていった時代でもありました。フューチャーショックは、後年ハービーハンコックがリメイクしてリバイバルヒットさせましたが、何故ハービーが突然この曲を取り上げたのか、委員長は大変な驚きでした。10年の時代を経ても「Futurere Shock」のメッセージは色あせてなかったってことですね。さて、SOULバカはどっぷりと黒人文化にはまっていったこの時代、後輩のジョイ吉野はひそかに赤坂マンハッタンで修行を重ね、見事師匠のDJジンのファンキーフルーツを習得し、ビバヤングで委員長たちにご披露しました。おっと、やばいぜあにき、こりゃ俺達負けちゃうぜってなことで、委員長とケイゾーのコンビは武者修行の旅に出るのでした。(なんじゃそりゃ)ちなみにこの頃、吉野君がはまっていた曲はウィリーハッチのGet Ready for Thisでした。そして委員長がはまっていたのがファットバックバンドのI FEEL GOODでした。今のFUNKと比べてちょっと泥臭い感じですが、委員長の場合どちらかというとBAND志向が強かったせいか、マンドリルとかウォーとかライブっぽいノリの曲が好みでした。ウォーLIVEのGET DOWNなんて、延々とワン・コードでパーカッションが引っ張る泥臭いアフロロックでしたけど、音の隙間っていうんですかね、リズムの隙間が快感でした。確かこの頃だったですね、新宿ブラックシープがオープンしたのは。隣のアップルハウスにも黒人バンドが出てました。何故か皆小柄だったなぁ。それから、アップルにはハッピーと呼ばれるニグロハーフの用心棒がいましたね。それだけケンカも多かったってことですが、アップルハウスは一時不良の溜まり場と化した時期がありましたね。ケイゾーと委員長のアフロ・コンビも、こうしてアチコチのDISCOを回っては修行(何の?)に励んだのでした。(軟派にもね)いつの日か、アフロガールとネチッこいチークを踊ることを夢見つつ、ジョイ吉野のファンキーフルーツに負けない、ファンキーロボットの習得に執念を燃やしたのでした。ということで、更なる委員長のSOUL SISTER探しは続くのでした。
2005年06月16日
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やっぱり黒人はSEXYです。ってことで、今も昔も委員長は相変わらずBLACK系が大好きです。ただCOLOREDって一口に言っても幅広いですから、ただ色が黒ければ良いってわけでもないんですが、基本的には正直言ってそれもアリです。(^0^:(なんのこっちゃねん)ともあれ、ソウル・エンバシーで黒人のチークダンスを初めて見た時の衝撃は、未だに忘れられません。ピタッと太ももを合わせ、腰をグラインドさせるようにリズムを取ります。ヤバイですねぇ~。こりゃイチコロだと思いましたよ、正直言って。こんなのありかよ~ってネ。オ、オレもやってみてぇ~って、本気で思いました。カッチョ良かったですね、ホント、これがホンモノのSEXYってやつだと思いました。この日から委員長のヨーパン探しが始まったのです。(かぶれ易い性格してますから)しかし、ヨーパンつっても、黒人目当てに来てるねーちゃんをどうにかできるわきゃありませんから、言ってみりゃモドキですよね。ヨーパンもどき。つまりSOULファッションした黒人かぶれの彼女をGETすることが、委員長の当面の課題となったのです。といってもこの当時、女の子でそこまでかぶれた娘を探すのは大変です。ファッション的にはアフロしたり、ハイヒールにちょうちん袖のブラウスなんてのもいましたけど、踊り踊らせるとまず不合格でした。(えらそーだな)しかし、ここに委員長の大勘違いがあったのですね。そこまでSOULにかぶれてるおねーチャンがいたとしたら、何も日本人のSOULかぶれと付き合わなくったってホンモノの黒人と付き合えば良いわけだし、しかもチャンスはいくらでもありますから、これはちょっとムボーな高望みに近いってもんでした。そして、この頃ですね、ようやくチークダンスの選曲を学び始めたのも。それまでは、スローな曲なら何だってチークって思っていましたが、これがまたまた大勘違い。そりゃそーです、これからムードを盛り上げて行ってベッドインっつーのに、失恋の詩なんぞかけられた日にゃ、立つモンも立たず、ゴホン、いや失礼、萎えるっつーか、ゴホン、いや、その、あの、なんつーか、色っぽさにかけてしまうわけです。まあ、日本人にとっちゃ、どーせ英語の詩なんか聴いて分かるわきゃないんですケド、そこはそれ一種のコスプレみたいなもんで、何とかなりきろうってな努力があったわけです。(無駄な努力と知りつつも、やらずにはいられないSOULバカ)エンバシーでブラザーがチーク踊る曲ってのは、新宿のディスコとはもうまったく別世界で、まずHIT曲は出てこないし、聴いたことない曲も色々あって、それがまたバカの優越感をくすぐったりしました。俗に言う「スノッブ」ってやつでしょうか。そんで、しばらくはこのチークMUSIC、スローバラードに凝ってしまった委員長でした。当時のお薦めはなんと言っても、メジャー・ハリスの「愛の香り」がNO.1でしょう。原題はちょっと忘れましたが、曲のエンディングに「イイ声」が入ってまして、こりゃチークで昇天しちゃうんじゃないかと思ったくらいです。あとは、これもタイトルをちょっと忘れちゃったんですが、アイザックへイズのインストもので結構渋いのがありました。イントロでカップルの会話がまぶしてありまして、カウチソファーに腰掛けて、シャンパンを抜いて呑む音とかが入ってて、異常にムードが盛り上がります。ニューバースのワイルドフラワーなんかも結構人気ありましたね。グラディスナイトも人気でした。しかしこの人、ホントに坂本スミ子に似てましたよね。(坂本スミ子が似てたんだろ)歌唱力はナンバーワンじゃなかったでしょうか。あとはジョニーテイラーとか、サムクック系のボビーウーマック、女性だとミリージャクソンとか、やっぱり泥臭いっつーか、モロにソウル(魂)を歌う歌手が人気でしたね。コーラスグループで言うと、テンプテーションズ、ドラマティックス、ハロルドメルヴィン&ブルーノーツ、ブルーマジックなんかのサイドショウもちょっとおしゃれでした。日本人向けだとやっぱりスタイリスティックスとかミラクルズかなぁ。スモーキー・ロビンソンも甘かったですねぇ、とろけそうでした。 “A QUIET STORM”スローナンバーについてはヒットチャートとかはあまり関係なかったですね。一般的にブラザー達は新しモン好きでしたから、中途半端に古い曲はあまり好まれませんでした。日本人には、ドラマティックスのインザレインとかバリーホワイトとラブアンリミテッドの「恋の雨音」とか、仕掛けのある曲が好まれましたね。“Walking in the rain of one I love, feel so fine….” しっぽりと濡れた感じのおねーチャンの語りに異常に興奮したりしました。途中でバリーホワイトとの電話でのやり取りが入ってて、思わずセクシー!って、声がね、なんともその気にさせる曲でした。あと、ビリーポールの名曲「Me and Mrs.Jones」は渋かったですね。JAZZっぽくて、腰でリズム取るには最高のピッチでした。詩は不倫の話なんですが、これって映画「卒業」のミセス・ロビンソンみたいなんかなぁ、とか思いつつ辞書を片手に詩を読みました。それにしても、SOULバラードって、意外と不倫の詩って多いんですよね。やっぱ黒人って、不倫多いのかなぁ、なんてちょっと疑問に思ったりしました。ホイットニーだってデビューHITは不倫の詩でしたよね。とにかく思わせぶりな詩と、ねっちりとした流れにビートが刻まれているようなものが好まれました。ビートに合わせて腰でリズムを取りますから、バックビートのアクセントが強い方がノリが良かったですね。フロアーで抱き合って左右に揺れているだけ、っつーのは日本人か白人くらいで、黒人はかなりヤバイ雰囲気の味出してましたからねぇ。ちなみにミリー・ジャクソンのライブなんて、ほんと凄いですよ、SEXそのものをインスパイヤさせますから。腰の使い方も凄いし、あの大口、真赤な唇から舌なめずりとかしながら歌いますからね、異常にそそられますね。下手したら見てるだけで逝っちゃう、ゴホン、失礼、そんな感じです。決してスタイルやルックスがいいわけじゃないんですけどね。こういったクレージーなステージで売って来たレディスソウルって結構多いですよね。ティナ・ターナーなんかも色っぽかったですよね。バックダンサーも皆ミニで、パンツがちらっとみえたりして、ひざをガクガク振ってね、Shake your legsってフレーズも流行りました。ちょっと意味深です。DJでこのフレーズよく使いましたが、フロアのブラザーがこっち見てニヤっとするのが嬉しくて、黒人が踊ってるときは必ずタイミング見て叫ぶフレーズのパターンでした。あと、JBのSex MachineのフレーズShake your money makerってのも当時は受けましたね。(ホント意味深ですよね、金を生み出すナニを振れ?)そういえば、JBとアイザックヘイズが自分のことセックスマシーン・マンってよく使ってましたけど、これもカッチョいい男の代名詞ですね。Sex Machine Man.更にチャカカーンとか妹のタカブーンとかも結構Crazyでした。タカブーンが来日したとき、赤坂ムゲンで音楽関係者集めてレセプション・コンサートがあったんですけど、特にDISCO DJはプロモ兼ねてますから相当数集まりました。でもって委員長は当時業界では一丁前な顔してましたから、新宿のジュリーこと鈴木昇二氏と二人で最前列で観賞させて頂きました。チャカに比べて一回りくらい小柄で少し痩せてました。でも声のパワーはさすが姉妹だなって唸らせるほど迫力があって、アクションもド派手、最前列の二人を飲み込みそうな勢いでシャウト、真赤な唇が淫靡に挑発します。ところで、日本人のアーティストと黒人(っつーか米国の)アーティストの決定的違いって分かりますか?それは、エンターティナーとしての目の使い方なんですね。日本人の場合、直接観客の瞳を覗き込むように訴えるステージアクションってあまり得意じゃないでしょ。でもUSアーティスト、特に黒人の場合、目で歌うって芸当が得意なんです。仮に観客の自分が、ステージ上のアーティストと目が合ったとしますよね、日本人の場合だと軽く目線で「挨拶」みたいな感じで、数秒で目線が動きますが、黒人の場合だと、その瞬間から目で訴えるように歌いかけてきます。絶対に目を逸らすことはしません。まるで魔法のようですね。十中八九この瞬間から虜・ファンになってしまうんですね。例のタカブーンの場合も、委員長と目が合った瞬間から少なくとも8小節以上、委員長のためだけに歌ってくれます。体に電気が走ったようにドキっとしますよね。更に男って基本的にバカですから、「お、おれに気があんのかなぁ」などと夢の世界へ旅立ってしまいます。ジュリーと委員長もご多分に漏れず、コンサート終了後、「やっぱ英会話できないとダメかなぁ」「いやー、やることは一緒じゃねーの」とか「今夜は彼女、赤プリだよなぁ」などとバカ野郎が夢うつつという始末でした。えー、話が相当に逸れましたが、つい最近も雑誌の対談記事でシャネルのデザイナーがまさに委員長と同じようなことを言っておりました。「宣伝に使うモデルとシュチュエーションには、すべてSEXを連想させるヴィジュアルが施されている」って、要はファッションの目的はソコにしかないってことですよね。(そうなの?)まあ言ってみれば、人類の究極の生存原理は「SEX」ってことに集約されるのではないでしょうか。ってまた今日もこの結論となりました。
2005年06月15日
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今日は当時のディスコヒットについてお話します。踊りはウォーターゲートに続いてオールドマンなんていうのがベースの米兵から持ち込まれました。年寄りが杖をついて歩くようなスタイルから名付けられたのでしょう。課題曲をざっと思い出してみると、テンプスのHappy People、オハイオプレオヤーズのスキンタイト、ファイヤー、ハービーマンのハイジャック、KGのライムタイムピープル、JBのマイサング、ヘル、ファンキープレジデント(この時リリースされた一連のアルバムは全て秀作だと思います)パパドントテイクノーメス(これはLP盤一面延々と続くロングバージョンでした)、BTエキスプレスのDO IT、ジミーキャスターバンチのバーサバットブギ、オージェイズのマネー(邦題は緑色の神様?なんじゃこりゃ、確かにドル札は緑っぽいけど)、あとこのマネーにイントロが似ていたCHANGES(邦題はコミッショナーからの伝言?益々意味不明ですね)、あとJB’sも頑張っておりました。中にとっても気になる一曲がありまして、タイトルは「MAKIN’ LOVE」って、そのまんまラブをメイクするのか、っておバカな委員長は意味よくわかんねーぞって感じでしたが、フィリッピンバンドのお友達に意味を教わって、「おー、そうかそうだったのか」と妙に納得したのでありました。しかし英語ってのは合理的な表現方法ですよね。(愛を造るってねぇ)しかしこの曲、ほとんどオハイオプレイヤーズのスキンタイトと同じで、コーラスのスキンタイトってところがメイキンラーブってのに変わっているだけでした。これって盗作じゃねーの、とか思ったりしましたが、God Father of Soulは何をしても許されるだろうと思っておりました。しかし、このJBのセンス、カッチョ良かったですね。Soul Brother N0.1:ナンバーワンですよ。ブラザーのナンバーワン。じゃ誰がナンバー2なんだって、よくわかんないんですけど、要は黒人の頂点に立つってことですよね。本人が言い切っちゃうんだから凄いですね。ちなみにFunky Side Of Townって曲で他の黒人アーティストを名指しで取り上げて、ソウルブラザーNo.1について唄ってます。Super Bad:なぜBADなのかって? 黒人はカッチョいいことをBADで表現します。なんかこの感覚って、不良っぽいですよね。逆さ意味みたいな。最高のワルって、カッコイイですよねこの表現。当時のBROTHERの挨拶で、What’s Happening same man, you look so bad today.なんていうのがありました。What’s Happening? はご存知黒人の定番フレーズです。Same manってのは、肌の色がSAMEって意味で、今日は決まってるじゃんみたいなことで、YOU LOOK SO BADです。そういえば、上田正樹とソーバッドレヴューなんてバンドがいましたっけ。でもこれ、普通の会話でアメリカ人に言ったら、相当ユーモアのある人じゃないと無視されてしまうでしょうね。God Father of Soul:このネーミング、本当に素晴らしいですね。世界的な大ヒットとなったコッポラの名画「ゴッドファーザー」をすかさず取り入れてしまう、このJBのセンスには本当に脱帽です。Minister of Funk:スゲー、ファンク大臣。確かJBのレーベル名だったような気がします。ファンカデリックがパーリャメント(議会)を作ってますから、JBはやっぱり大統領でしょう。Funky President:もちろん大統領なのは当たり前です。同名の曲も流行りました。確かこの一連のヒットは皆、何故かゴ~ンというドラの音から入ってたはずです。リアリティってのもありました。とにかくこの時期に出たJBのアルバムは2枚組が多くて、そのほとんどがシングルヒットしましたから、まさにJB一色って感じでしたね。しかしJB系の人たちは本当にセンス抜群だと思います。時代を先取りする感性もそうですが、ガキの頃の言葉遊びみたいなジョークや、世間一般を揶揄する文字通りのブラックジョークなどがまぶしてあり、なんといってもアウトローの道楽者にはこのフィーリングがたまりませんでした。同系列のファンカデリックやパーリャメントなども、後年モータウンのRICK JAMESを挑発するように「100%PUREなFUNKと呼べるのは俺達だけだ」とか発言しておりました。それでPURE FUNK=P-FUNKなのかと思っておりましたが、ジョージクリントンのインタビューでは、パーリャメントFUNKの略でP-FUNKだと言っておりました。レーベルもチョコレートシティです。黒人の街って意味ですね。(いやー、P-FUNKは最高ですネ)たぶん一般の方はご存知ないと思いますが、Minister of Funkレーベルは結構単発のシングルを出しています。中でも委員長が面白いと思ったのは、SOULエクソシストってやつですね。ソウルドラキュラじゃありませんよ。エクソシストですよ。もちろんあのリンダブレア主演の映画エクソシストのパロですね。もちろん演奏はJB’Sなんですが、バンド名はエクソシストだったと思います。メチャメチャにファンキーなダンスナンバーなんですが、確かイントロにオドロオドロしいナレーションが入ってたりして、委員長も随分と色々な音楽を聴いてきましたが、過去にホラーファンクってジャンルはこの一曲だけじゃなかったかなぁ。エンディングに救急車のサイレンが入ってて、映画のエンディングを彷彿とさせるようなつくりになってました。あとはMFSBのフィラデルフィア・サウンドと、マイアミ・サウンドと呼ばれるKC &the Sunshine Bandが一般的には非常にポピュラーでした。KCも最初のHIT、ファンキーホーンはかなりルーズビートのダンスナンバーでしたが、GET DOWN TONIGHTのセカンドアルバムからはKC色が鮮明になりだしました。後年はワンパターンとか言われ、ミーハーっぽくなってしまいましたが、ファーストアルバムの「BABY I WANT YOU LOVIN’」なんて曲のブラスアレンジは最高でしたけどね。忘れてならないのがオハイオプレイヤーズです。ジャケットかエッチでしたね。そそられました。やっぱSOUL=DISCO=DANCE=SEXYっていう流れがありましたから、ジャケ見て空想の世界へ飛び立った若者も数知れなかったのではないでしょうか。そういえば、スリーディグリーズとか古くはシュープリームス、アイク&ティナ・ターナーなんかも、結構ドキっとするジャケットでしたよね。ティナのバスト、何故か後年だんだんと大きくなっていったことに気がついたファンも多いと思います。この頃のアフロ小僧はホンモノのSOULマン目指して、よくエンバシーに通いました。確かに知名度は「アフロレイキ」の方があったのですが、どーもあのメージャー臭い雰囲気と言うか、偉そうにしてるというか、どうも新宿育ちのツッパリ系ソウルマンには肌が合いませんでしたね。そのくせ赤坂ムゲンとかはよく行ってたりして、よくわからない理屈なんですが、委員長の場合、例のデザイナー学院の頃の同級生が働いていたということもあって、ライバル意識があったのかもしれません。しかし、ソウルエンバシーにはよく通いましたね。「エンバシー」の頃は、入り口にSOULファッション用のアクセサリーなんか置いてあって、その奥がダンスフロアでやたら狭かったですね。ひょうたんみたいな感じだったなぁ。暗いし、20人も踊ったらぎゅうぎゅうになるような店でした。勝本さんもまだ若くて、黒のジャンプスーツにデカイアフロして貫禄ありましたね。確か入り口にJBがジェイルに手をかけている写真が張ってあって、まさに元不良少年が集まる場所、みたいな思い込みをしていました。しかしこのエンバシーは、ビバヤングを始めとする新宿のディスコとは全く違ってましたから、委員長にしてみればここで遊ぶことがSOULへの道だと信じ込んでいたのでした。(なんや、よーわからんが)まず、ここに来てる客のほとんどがベースの黒人で、皆ヨーパン(って古い表現だよね)目当てに来てたんですが、当時も黒人好きおねーちゃん達は数多くいて、皆それなりのアフロファッションで通ってきていました。それと、まず遊び方(踊り方)のスタイルが全く違ってましたから、フロアで一人で踊る奴なんてのはほとんどいないし、必ずパートナーをエスコートしなければなりませんでした。日本人だけですね、野郎同士でバンプ踊ったり、固まって踊ってたのは。まあ、ダンスの歴史も違いますから仕方ないことですけど、パートナーなしでディスコ来る奴は相手探しから始めなければなりません。だから野郎同士で来てる奴らは、相手が見つかるまではフロアに出て踊りません。そんなコンディションも知らずに、一人でシャカリキになって踊りまくっていた委員長は、彼らの目には「男好き」か「アホ」に映っていたことでしょう。エンバシーに通い始めてようやく学習した委員長は、ここでディスコというかダンスという娯楽がSEXのAppetizer(前菜)であることを悟ったのです。そしてついに人類の真理を突き止めたのです。(ほんとかよ)「すべての道はベッドへと続く」そうです。人間の営みはすべて究極の目的、枕を並べて寝るためのもので、男女の遊び(全てが異性とは限りませんが)とはこのひと時の快感を更にエンジョイさせるためのプロセスでしかないのです。靴下ひとつ選ぶにしても、そこには究極的な目的「SEXアピール」が必ず介在します。この頂点を目指す上で、コースのメニューにこだわるのが人間の性であり、女の価値、男の価値に対する位置付けになります。この目的に向かうプロセスが長い人ほど、道楽者としての年季が入っていることになりますね。そしてそれだけのプロセスを踏むことによって、最高の快感と心のつながりを実感できるわけです。(そうかなぁ)だって、当時は未だに「だまってオレについて来い」みたいな硬派っぽさが漂う男女関係がほとんどでしたから、「お前が好きだ」「あんたぁ~」ってなもんで、なんだかんだ言ってもこのあたりは、日本人ってまだまだドン臭かったですよね。とにかくムードを大事にする黒人のセンスに触れて、SOULに益々傾倒していく委員長でありました。
2005年06月14日
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恐怖のミキ嬢の呪縛からようやく開放された委員長、心の底からのびのびと道楽者人生にCOME BACKしたのでした。しかし正直言って、彼女とのことは多少美化してストーリー仕立てにしてますが、実際はもっともっと凄かったんですよ。そこまで書くとあまりにも生々しくなりますからね。(BGMはファットバックバンドのI FEEL GOODでお願いします)晴れてケイゾーとのコンビも復活し、夏の訪れを前に久しぶりにのびのびとした委員長でしたが、更にここでまた新しいメンバーが登場します。ビバヤングの常連に小柄なアフロにーちゃんがおりまして、彼は赤坂マンハッタンのDJだったジョイ・ジンの友達でした。ですから当時でもかなりの本格派っつーか、数少ない本物のSOULバカでした。そして、このアフロにーちゃんの後輩がビバヤングに入ってきたのでした。目のパッチリした濃い顔の大人しいヤツ、吉野と名乗るこの中々の色男、後に委員長と一緒にDISCO業界で仕事をすることになるとは、この時には思いもしませんでした。この吉野、大人しかったのは数日だけで、1週間もせぬうちにアフロ頭に変身、委員長のことをケイゾーの真似して「あにきぃ」と呼ぶ始末。そりゃ同じアフロしてるからってお前に兄貴と呼ばれる筋合いはねぇぞ、と思いもしましたが、まあ慕われて悪い気はしません。結局、ラメのシャツ貸してくれとか、ジャケット貸してくれとか、結構けじめのないやつだなぁ、なんて思ってました。そんなある日のこと、「N観光」では全チェーン店上げての決起集会みたいんなもんがありまして、そのため早朝集合しなければならず、寮に帰っていたのでは遅刻や欠勤を出しては店長の減点となるため、若手社員全員店で夜を明かすことになったのです。どんな大会かは知りませんが、人数は多い方が良いということで委員長たちバイトも駆り出されたのでした。店で夜明かしとなれば酒やつまみはあるし、ちょっとした宴会気分です。委員長はケイゾーやオオイケ幹候、村下、DJマチャアキ等と酒を飲み始め、音楽談義に花が咲きます。酔いも回り始め、馬鹿野郎達のバカ話もいよいよ堂々巡りを繰り返す頃、フロアから突然ゲッダウントゥナイト(KC & the Sunshine Bandですね)が鳴り始めたのです。なんだぁ? 皆でDJブースに駆け寄ると、ウェイターの吉野、斉藤、他数名がアンパン喰ってラリっているではありませんか。俺にもやらせろ、とはさすがに言いませんでしたが、しょうがない奴らです。まあ、委員長たちも結構酔いが回っておりましたので、野郎ばかりで深夜のディスコパーティー開催、狂気の夜はドンちゃん騒ぎで明けていったのです。(ちなみに委員長、酒は下戸ですから非常に少量で酔えます。低燃費ですね)翌朝、フラフラしたビバヤング社員は、新宿厚生年金ホールへと向かったのです。会場に到着してみると、これは驚きです。黒服の一団、やくざの集会か、総会屋の集団か、更に厚化粧のねーさん達がちらほらと混じっているではありませんか。集会の内容がまた凄いですね。宗教団体の集団洗脳みたいでした。二十歳前の委員長でしたが、そこはそれ、早くから世の中を斜に構えて生きてきた不良ですから、一発で正体を見破りました。(そんなおーげさなことかよ?)まずは社長の言葉、続いて社歌合唱。社旗なんぞ振り回して盛り上げます。更に、ここがポイントです。社長直々に優秀社員ホステスの表彰です。加点と呼ばれる報奨金もあります。ここでMCが入ります。「ホステスさん、今年の売り上げナンバーワン、○○さんですー!。」なんとホステス嬢の実家からお母さんがやってきてますってな臭い演出。ステージの上、親娘で抱き合って、涙、涙、拍手、拍手、歓声の渦。「苦労の末ようやくつかんだ幸せ、これで親孝行も立派に果たせました」やばいなぁ、田舎のねーちゃん、にーちゃんたち感動してます。更に美談は続きます。京都のキャバレー新店舗。地元やくざの嫌がらせにも屈せず、正道営業を貫きました。(見事に中間搾取阻止ってなトコです)店長以下幹部社員全員に表彰上と金一封です。そして最後は各店舗の売り上げ順位の発表です。もちろん上位店舗は加点として報奨金がでます。パブ部門ではビバヤングが第一位。(当たり前ですね、キャパとか立地条件とかからいっても、他店に負けるわきゃありません)色を売り物にして安い酒売って、ぼろ儲けする資本家の正当性をアピールする最高の演出です。お涙頂戴の臭い演出、これは水商売だけではなく企業全般、資本家が労働者をうまく使う常套手段ですね。ねずみ講や宗教団体、はたまた○○大賞なんてイベントも似たり寄ったりといったところです。すべては資本主義の理論で動いています。そんな会社の一大行事も終わり、委員長たち道楽者は夏の訪れを前に益々活気づいていきます。着るものも薄着になるし、女の子も肌を見せるファッションが増えだし、色気づいたお調子者たちは皆ウキウキして青い春の到来に異常な期待をします。(これがせいしゅんだぁ)後輩の吉野は赤坂マンハッタンでジョイ・ジンの指導を受け、踊りに磨きがかかってきました。これに影響を受けたのか、委員長の相棒ケイゾーがアフロの洗礼を受けます。その当時はウォーターゲートって踊りが主流で、これは当時のアメリカ大統領ニクソンのスキャンダルからきた黒人特有のジョークだったのでしょうね。踊り方はいたって簡単、体は正面を向きつつ、腰から下を右、左と運ぶだけの単純なものでした。これに首を振ったり、手でバリエーションをつけたりして好きに踊るわけです。バリエーションにはファンキーフルーツとかロボットとかが有名ですね。まあ、要するに目立ちたがり、自己顕示欲の強い道楽者のための踊りと言えます。そういえばあの当時、ニッカウィスキーがサントリー・ホワイトに挑んだ「黒の50」ってのがありましたね。ニッカブラック黒の50。CMがソウルトレインギャングで、彼らの踊り、特にFUNKYロボットがお茶の間に流れディスコブームの火付け役となりました。このBGMは後にスリーディグリーズが「DO IT!」って曲にしてシングルリリースしたはずです。インストバージョンにDO ITってスリーディグリーズのコーラスが入ってるだけなんですけどね。たぶん和製ディスコでしょう。日本のみ発売ってやつ、多かったですね、この3人娘には。「苦い涙」なんて日本語の歌謡ポップスも出しました。でもこれ結構秀作だと思います。片言の日本語が哀愁を持ち、ちょっぴりセクシーでしたね。さすがにディスコじゃ踊れなかったけど、歌謡曲としてはイイ線いってたと思います。*みてたはずよ あたしのキモチぃが*あなたの方へ 傾いていくのォ みてたはずよぉ~サビが結構泣かせます。*オンナが恋に かけたものなど ドーでもいいけど*ジンセイかけて ガケにたたせて 手をはなすツモリ~いやいや、中々ぐっとくるもんがありました。ただ、アレンジがちょっと懲りすぎちゃってて、ブレイクとかが多すぎるからディスコではチョイ無理がありました。てなわけで、この頃はもうとにかくアチコチのディスコ行って、派手に目立つことばかりに闘志を燃やす委員長たちでした。吉野はかなりマジで赤坂マンハッタンのジョイに傾倒してたし、委員長はケイゾーとプレイハウスのバンドに憧れたりしてました。このバンド、ヴォーカルにアフロ三人衆が歌って踊り、かなりショーアップしたステージが委員長の感性を相当刺激しました。それに、この3人が全員ハーフで、ロシア系黒人のハーフ、黒人と日本人のハーフ、フィリッピン系日本人ハーフで、特別、コーラスグループのようにユニフォームを揃えるわけでもなく、それぞれが個性的な上、たまに3人で揃って踊る振り付けがまたカッコ良くて、委員長とケイゾーはかなりのめりこみました。なかでも、アフロリーゼントみたいな長身の黒人ハーフ・ロニーに、委員長はかなり痺れました。ルックスはジョー山中をもう少し優しくしたような感じで、唄自体はさほどうまくなかったのですが、ロックとFUNKの混ざり合った不良っぽさが彼のステージの雰囲気から滲み出ていて、新宿のアフロ小僧は自分の求めていたフィーリングはこれだと確信したのでした。(そんな偉そうなもんじゃないだろ)ということで、今日は、後にディスコ業界で売名行為に成功した、ビバヤングのお仲間二人のリングネームの由来をご紹介致しました。後の新宿インディペンデントハウスで脚光を浴びたジョイ吉野と、この昔話の主人公である委員長ロニーのお話でした。お別れBGMはジャクソン5の「ララは恋の合言葉」(スゲー邦題だよね。まあ、そのまんまって感じですけど)、La La means I love youです。オリジナルはデルフォニックス(フィラデルフィア)ですが、J5バージョンはマイケルの幼いシャウトが泣かせます。
2005年06月13日
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今日のBGM、オープニングテーマはJBのFunky Presidentでお願いします。(^。^さて、相変わらず恐怖のミキ嬢に振り回される委員長ですが、とにかく男は色とネオンに弱いですね。(なんじゃそれは)特に二十歳前後のサカリですから。なんだかんだ言っても、最後は新大久保あたりになだれ込んでPEACEってなもんです。しかし、女の武器を巧みに使うミキ嬢ですが、まあ心を許さず遊ぶ分には、これほど面白い相手はなかったでしょうね。会うときは常に、シュチュエーションに合わせた役どころを演じて楽しめば、そりゃ面白いですよね。今風に言えばコスプレみたいなもんでしょうね。舞台はディスコとか夜の六本木とか、和室とか洋間とか風呂とか公園とか(こらこらっ)、本人たちさえその気になれば、いくらでも楽しみ方はありますから。(えっ?)ただ委員長の場合、やばかったのは、多少なりとも心を動かしたというか感情移入というか、現実的にミキを「彼女(パートナー)」の対象としていたことですね。これが彼女にとってもやばかったのだと思います。彼女の話が全て本当だとすると(未だ本当だと信じてますが)、一番心の揺れ動く、しかも一番純な時期に相当なダメージをハートに受けており(これはお話できませんが、ちょっと桁外れの体験をしております)、これが現実逃避の仮想プレイに繋がっていて、本人も無意識のうちに心の中は見せない生き方をしていたんだと思います。だから、時に本当の心の中が表面に現れて現実と関わることになってしまうと、自己矛盾が起きて自身を否定する行為に走ってしまう、といった過程の中で自殺未遂を起こしてしまったのでしょう。抽象的でわかりづらいかもしれませんが、要は現実と自分の逃避している夢想の世界との境界が分からなくなってしまっていたってことと、現実の世界に裸の自分をさらすことができなかったってことでしょうね。プロの精神分析医じゃないんで、これはあくまでも委員長の私見ですが、少なくとも一時でも裸の心で通じ合えた二人だから分かることでもあるといえます。そんなミキが夜のディスコでバイトを始めだしてからというもの、彼女の描くキャラクターのバリエーションが複雑になっていきました。そりゃ、当然と言えば当然、委員長だってビバヤングで働くようになって、以前の数十倍は刺激を受けましたから、危なげな女の子が毎日、バカの幕の内弁当みたいな環境にさらされているのですから、影響を受けないはずがありません。お互いのバイトが終わる時間に、プレイハウスの下、ジョイパックビルの1階にあった「マジソン」っつーテレホン喫茶(当時は画期的でしたね。テーブルにインターフォンがあって、お茶しながら電話できるってやつです)で待ち合わせするのですが、たまに知らないあんちゃんがミキと一緒に座っていたり、バンドのメンバーが一緒だったりとか、よくありがちなパターンで、若いおねーチャンの周りが俄かに華やいでいきました。ミキとの付き合いも、そろそろちょっとやばいかなーなんて思っていた委員長ですが、人に盗られるってなると、今度はもったいないってなもんで、つくづく男ってのはどーしょーもない生き物です。顔には出しませんが、ちょっとは嫉妬したりする委員長を弄ぶように、ミキはさらに委員長を挑発してきます。バンドの誰々が客の誰と出来てるとか、双子のシンガーの一人はメンバーのギタリストと付き合ってるとか、誰それに軟派されたとか、楽屋ウケするような話題がミキとの会話に増えてくるようになると、ビバヤングの勉強会を思い出す委員長は、ミキの旺盛な好奇心が自分を超えてしまうのではないかと思ったりもしました。言動だけではなく、更に行動もエスカレートしていきます。バイトは12時、終電に間に合うまで、ってハズなのですが、何故か残業で帰れないってな電話が委員長の店に入ってきたりします。そんなときの委員長は、「じゃ俺先に帰るぜ」と突き放します。「死んでやる」 ガチャッ、ツー、ツー、ツー。一瞬にして戦慄の走る委員長。(BGMはオハイオプレイヤーズのFIRE、イントロのサイレン入りでお願いします)すぐにプレイハウスに電話してミキを呼び出しますが、なかなか取り次いでくれません。仕方なく仕事が跳ねたと同時に店に向かう委員長。フロントで彼女を呼び出すと、愛想笑いを浮かべながらミキが現れました。「てめぇ、ふざけんなよ、くだらねぇ冗談言うんじゃネェよ」さすがに我慢できずミキを罵って、一人店を出て帰途につく委員長でした。例によってしばらく連絡はありません。委員長もそろそろこの付き合いに疲れ始めていたので、もう別れるならそれでもいいや、というような投げやりな考えになっておりました。そしてミキの病院からの二度目の電話をもらいました。「ねぇ、なんとか、言ってよ」 電話の向こうからミキが囁きます。無言の委員長。「もうこれでおしまいなの?」 怖~!今初めて、自分が付き合っている女は危険なのだと悟った委員長でした。はっきり言って、どうしていいのかわからない自分に苛立ちもし、まるで迷路にでも迷い込んでしまったようでした。数日して、退院してきたミキはバイトもやめ、外見は元のミキに戻っていましたが、委員長はもう以前のように普通にお付き合いすることが出来なくなっていました。名コンビのケイゾーも「あにきぃ、大丈夫、顔色悪いぜ」とか声をかけてくれますが、はっきり言ってずしんと重たいものを背負っている感じの委員長でした。ある日、委員長は「別れ話」を決意してミキを江ノ島に誘いました。この期に及んでしぶとくもまだ、道楽者根性は生きてますから、二人の思い出を残す、とかノーテンキな演出を考えた委員長でした。新宿からロマンスカーに乗って江ノ島でおります。もう初夏の日差しが二人の肌を貫きます。手を繋いで海岸を散歩する二人。(BGMは再びDIANA & MARVINのStop, look, listenです)半日ブラブラと歩いてまわって新宿に帰ってきたところで、委員長が切り出しました。「じゃ、俺バイト行くから」「待っててもいい?」「あのさ、俺達もうダメなんじゃないかな」ミキの目が委員長の瞳の中を覗き込みます。(BGMは梶芽衣子の怨み節です)「・・・別れてあげるわよ。死んであげるわよ。」小田急線の新宿駅のホームへ駆け込んで行くミキ。だめか~。うなだれる委員長。そして数日後、ミキの病院からの三度目の電話で目の前が暗くなった委員長でした。「どーしても会いたいの。来て・・・」どうしようか迷った委員長ですが、どっちにしろ決着をつけなければ蟻地獄からは抜け出せません。病室に横たわるミキの姿は、以前と違い頭に大きなガーゼ、手は肘からギブスとぐるぐる巻きの包帯、蚊の鳴くようなミキの声。「事故っちゃった・・・・」あの日、委員長と別れた後、昔の彼に電話して車で迎えに来させてモーテルへ。彼が寝入った隙に車を持ち出し電柱と激突。(電柱で良かったなぁ、人だったらどーすんだって)何でも、そのまま江ノ島まで行って車ごと海に突っ込むはずだったと。。。。。。。。(助けてくれ~)心の中で泣き叫ぶ委員長でした。委員長の心の叫びが天に届いたかどうかは定かではありませんが、結局、元彼が何とか彼女を引き取ってくれてまずは一件落着。半月ほどして退院したミキから明るい声の電話があって、小田急線の町田駅前でお別れをした委員長でした。彼女が見せてくれた、元彼の写真、アフロにボンタン革ジャン、チョイ太め、乗ってる車は白のサバンナ、おっとこういうことだったのかい、と納得した委員長。(内心こんなのと俺と比べてたんかい。と思いましたが、まずはめでたく和解でした)彼女の最後の告白、彼との過ちで一度堕胎をしていたことを聞かされた委員長、渦のような運命に流されるこの娘は本当に死にたがっているのかなぁと思ったのでした。「じゃあな」の一言で別れた委員長は、背中を向けて立ち去るミキの後ろ姿を見送ったのでした。(BGMはダウンタウンブギウギバンドの「恋のかけら」です)いつだって 切なくて やるせない この気持ちあなたは今 ドアの外へ 足音が遠ざかるいつだって 会うたびに しのび泣く この恋にあたしだけが 肩をすぼめ 人の言葉に 耳をふさぐ 遅すぎた なにもかも 今日もひとり あたしひとり凍りついた 恋のかけら 冷めた心に 突き刺さるいつだって さよならの やるせない 一言が忘れかけた 時の流れ この胸に 刻み付けるいつだって つまずいた 悲しみを 隠しながら私だけが 探している 見失った 愛の行方を遅すぎた なにもかも 今日もひとり あたしひとり消したはずの 恋の嵐 枯れた心に 突き刺さる(宇崎竜童事務所無許可掲載)
2005年06月12日
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My mistake, love you girl, love you girlMy mistake, love you boy, love you boy…….(オープニングは前回の続きでDiana & MarvinのMy mistakeです)いやいや、「恋は盲目」とはよく言ったモンで、舞い上がったHEARTは本当に手がつけられませんね。当時すでに一丁前の不良を気取っていた委員長ですが、そんな自慢も言ってみりゃ、どんぐりの背比べで、同世代のバカ達の中、ほんの頭ひとつ飛び出たくらいのことだったわけです。今にして思えば、同世代の奴らから「スゲー!」とか言われることを目的にバカなことをせっせとしていただけのことで、言うなればままごとみたいな不良ごっこでした。それは心のパーツに欠陥がなかったからこそ、辛いことや悲しいこともバカな生き方で楽しんでしまうという、道楽者の生きるための知恵というか本能で乗り切って来れたのだと思うわけです。ところがあと数ヶ月で二十歳を迎えようとしていた委員長は、ここでとんでもない恋の蟻地獄に引きずり込まれて行ったのでした。まさに、マイミステイク、人生最大の重~い心の痛手を負う経験をしてしまいました。恋の入り口はいつもHAPPY、誰もが夢見てシヤワセになりますが、恋の出口はずっしり重い暗雲立ち込める心の戦いです。1975年春、委員長はミキという娘といきなり盛り上がってしまい、世界は二人のためにってな調子で、心は一色、全てが彼女との世界に染まってしまったのです。ミキは毎晩、毎晩店にやってきては、委員長の仕事が終わるのを待って、二人で朝まで遊びます。そりゃもう完全に舞いがっちゃってる二人ですから、後先考えず「ロマンス」の旅にどっぷりと頭まで浸かっています。委員長も、もうSOULでもROCKでもそんなこたぁーどうーでもいいよ、ってな感じで、とにかく二人の夢の世界が全てでした。今にして思えば、二人が出会って引き合ったフィーリング、二人を繋いでいた感性っていうのは、一番危険なパターンである仮想世界への逃避だったのではないか、と思われます。今風に言えばバーチャルシュミレーションっていうか疑似体験ですね。お互いが描く想像の世界で、お互いの役を演じているっていうのかな、その世界がたまたま同種類だったってとこでしょうか。その根底に流れていたのが、ダウンタウンブギウギバンドであったり、平山美紀であったり、所謂その音の世界でトリップしてしまうという、誰にでもある経験なのですが、これが行き過ぎると現実と想像の世界の境界線が見えなくなってしまうのですね。アイドルの追っかけに、このタイプがよ~くいますね。アイドルが歌っている世界が、そのアイドルの人生と重複してしまい、勝手に想像を膨らませすぎてしまい、自分の中でアイドルとの世界を造り出してしまうといった、ちょっと危ないタイプですね。ミキの場合がこのタイプで、彼女の感性を揺るがす「歌」の主人公になってしまう、といった特殊技能の持ち主だったのです。そして彼女が演じる「女」は、自分だけが常に「真実の愛」を探している、傷ついた不良の女という設定だったのです。事実、傷ついた女ってことでは、これは壮絶な体験を持った彼女だったのですが、現実と想像のバランスが完璧に崩れてしまっていたので、時に常人では想像もつかない行動に走ったのです。この心の欠陥が先天性なのか後天性なのかはわかりませんでしたが、心のパーツに重大な故障があったことは間違いありませんでした。この常識を逸脱した行動がプラスに作用するときは、素晴らしい「愛の園」になるのですが、マイナスに作用した場合は「陰陽師」ってなちょっとしたホラーになってしまいます。朝まで遊んで、ふらふらと家に帰ってドタっと倒れこむ委員長。深い眠りに入った頃に電話が鳴ります。「起きた?」受話器の向こうでミキの甘ったるい声がします。「あー、何だよ」非常に寝起きの悪い委員長(低血圧気味だったので。ほんとかよ)。「眠れないの」「なんで?」「だってさぁ」「だからなんだよ」「女にそこまで言わせるの」「まだ眠いんだよ、俺は」 と言いつつパジャマの下はキョーツケしてます。「・・・・・・・・・」「じゃ、今夜会おうぜ」「・・・・・・・・・・」面倒くさくなった委員長は受話器を下ろし、布団かぶって倒れます。夢も見たのか見ないのかうつらうつらの中、ドアを叩く音がします。ったくうるせーな、誰だよ、こっちゃ眠くてしょーがねぇーっつーのによまったく。ブツブツ言いながらもドアを開ける委員長。そこにはミキが立っているのでした。(BGMはダウンタウンブギウギバンドの「あんたがいない」です)口づけが待ち遠しくて、今日もここまで来たの朝が来るまで待てなくて、今日も部屋まで来たのにあんたがいない~、あんたがいない~人は皆指差して あばずれとあざ笑うけど惚れたのはあんただけ うぶな気持ちをわかってねあんたがいない~、あんたがいないこの身体通り過ぎた それだけの男たちとは違うはずと思いたい 心まで許したからあんたがいない~、 あんたがいない他の女と遊ぶなら、今夜限りといってね朝が来るまで抱かれたら、いっそ別れてあげるわあんたがいない~、あんたがいない~(宇崎竜童事務所無届掲載)しかしなんと言っても、やっぱり男は色には弱いモンですね。男と女のトラブルっつても、大概は寝技に持ち込まれたら男の負けです。さて、こんな調子の二人でしたが、ある時、ケイゾーとスネさんに誘われてダブルデート、六本木メビウスに出かけた時のことでした。スネさんとミキが険悪、ガンの飛ばし合いになってしまいました。こりゃチトやばい、ってことでミキの手を引っ張って店を出た委員長、ミキがその手を振り解いて突然車道に飛び出しました。(BGMは平山美紀の「恋のダウンタウン」です)遊びのつもりで、ハハンハーン、私は彼に別れましょうと、ハハンハーン、背中を向けたダウンタウン六本木 サタデーナイト (その日はサタデーナイトじゃなかったぞ)いろんな男の目の前で抱かれたかったのに愛なんて、愛なんて、女の部屋のハハンハーン、まぼろしねっー(平山事務所無届)この頃、すでにこういった突拍子もないミキの行動に少々疲れていた委員長は、面倒くさくなってそのまま放っておいて、店に戻りました。中ではスネさんとケイゾーもチョイ雰囲気悪くなっていましたが、スネさんが「彼女は?」と委員長に尋ね、「知らねー」と応えると、心もちほっとしたかのようにスネさんが委員長に言いました。「○○君には向いてないよ、あの娘。やめた方が良いよ」そうは言われても、すっぱりと割り切れない気持ちはありました。たぶん、ミキも委員長も小さい頃から一人遊びが多くて、寂しさ紛らわすために音楽を聴きながら夢見るって方法を人生の拠り所にしていたんじゃないかと感じていたのです。そして、その拠り所とする音楽の感性がたまたま非常に近かったってことが、二人を結びつけた関係そのものだったような気がします。六本木で喧嘩別れをしてから一週間ほどどちらも連絡しませんでした。こういった男女のケンカは我慢大会みたいなところがあって、先に電話した方が負けみたいなつまらない意地がありますから、どっちも頑張っているのだろうと思っていました。それでも、彼女を道路におっぽりっぱなしにして別れてしまった罪悪感が残っていた委員長は、素直に負けを認めて彼女に電話しました。ところが誰も出ません。母親が同居しているはずですが、夕方まで何度もかけましたが誰も出ないのです。翌日も、その翌日も出ません。引越しでもしたのかなぁ。3日目になると、さすがに心配になった委員長ですが、デカイ頭してノコノコ彼女の家に行くのも恥ずかしいし、とは言うものの、このまま彼女と別れるのはイヤだし、などと結構情けなくオロオロとうろたえたりしました。4日目の夜、ビバヤングに彼女から電話がありました。「ごめんね」声がだいぶかすれています。「どーしたんだよ、どっか行ってたのか」「うん」「どこへ」「病院」「えっ、病気でもしたのか」「呑んじゃったの、クスリ」「クスリ?」「明日電話して」そう言って電話を切ったミキでした。意味のわからない委員長は、また何か新しいテーマソング見つけたのかな、ってな感じでのんきに翌日彼女に電話しました。電話は予想外で、ミキの母親が出ました。母親からミキが町田の総合病院にいることを聞き、早速出かけることにしました。(ちなみにミキは小田急線の柿生に住んでおりました)病院の窓口で彼女のベッドを尋ねると、看護婦のおねーさんが、「まだ安静が必要ですからあまり興奮させないで下さいね」と、委員長の頭を見て諭すように言いました。ベッドに横たわるミキの素顔は、少女のような童顔で色がやたら白くいたいけな表情をしておりました。ミキは委員長に気付いて、大きな瞳を開いて小さな声で言いました。「ごめんね」「どーしたんだよ、どこが悪いんだよ」まったく気の回らないアホな委員長、当たり前ですね、こんな経験今までないんだから。その日はたわいもない話をして終わったのですが、帰りがけ、窓口で彼女の病状を尋ねた委員長は愕然としました。服毒自殺未遂。マジかよぉ~、ってなもんですね。しかも常習だと言われてショックと言うより怖かったですね。ヤバーって感じです。翌週、元気になったミキは懲りもせず、再びビバヤングに現れました。「プレイハウスで働くことにしたの」ってうれしそうに言うミキの顔に、背筋がぞっとする思いの委員長でした。
2005年06月11日
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1975年春、新宿ビバヤングの勢いは全く衰えず、毎日盛況な日々が過ぎておりました。クリスマスから始まった狂気のディスコ乱闘(笑)フィーバーも正月を過ぎ、2月の極寒を経て、春風の吹きはじめた3月に入ると、4月の年度替りを前にして益々ウキウキした気分が蔓延してきます。衣替えも始まり、昼間の新宿の街並みもにわかに色づき始め、道楽者ばかりでなく一般人にとっても恋の季節の始まりといたところでしょうか。委員長は相変わらずケイゾーとの名コンビで道楽道を邁進中でしたが、春風に誘われてチョット危ないおねーちゃんに引っかかってしまったのでした。(以下BGMはキャロルの涙のテディボーイでお楽しみ下さい。なんちゃって)ある日のこと、いつものように委員長とケイゾーはホールの隅でバンドの演奏に合わせて踊りの練習をしておりました。この頃の二人はかなりSOULにハマってしまっておりましたので、ステップと言うか、振り付けと言うか、ディスコで目立つことだけを目標に、しっかりとお稽古に励んでおりました。そんな二人の下に非常に小柄な目のパッチリとした(またも南方系フェイス)、ツッパリねーちゃんがスタスタとやって参りまして、委員長のシャツの端っこをつまんで話しかけてきたのでした。「あのぉ~、アフロさん彼女いるんですかぁ?」おっといきなりかぁ、ってな感じで驚いた委員長ですが、どー見てもナリが違いすぎるので、こりゃ族と間違えられたかなって印象でした。彼女はタイトスカートにチャイナ、どー見てもツッパリねーちゃんです。そして、当時、アフロヘアーでダウンタウンブギウギバンド風つなぎに革ジャン、なんてファッションが族の間で結構流行っておりました。委員長も軟派の際に、時々族と間違われて敬遠されることなどもしばしばで、まさかツッパリねーちゃんに声かけられるとは思ってもいませんでした。ケイゾーならともかく、どー考えてもマッチしないペアだし、冗談かなとも思いましたが、そこはそれ、いっぱしの道楽者ですから、「据え膳食わぬは」の喩えもあるくらいですから、得意技のテキトーぬかして寝技に持ち込んだのでした。結局は遊び盛りヤリタイ盛りですから、理性の前に条件反射でズボンの中はしっかり膨らんでおりました。ところが、このねーちゃん、とんだくわせものというかデンジャレスというか、疫病神と言うか、このあと3ヶ月ほど委員長はどっぷりと引きずられることになったのです。ミキと名乗る、この小柄な子が実は二十歳を過ぎていて委員長より年上だったことにも驚きましたが、なんと寝技が凄い、ゴホン、いや失礼、床上手、ゴホン、いやあの、とにかく未だ未成年者の委員長にとっては、秘境探検のごとく、それはそれは楽しいひと時だったのです。(おいおいっ)更に彼女の感性が委員長の心の琴線を弾いたというか、グッとくるほどの趣を持った娘だったのです。彼女の家に連れていかれた委員長は、その環境が自分と非常によく似ていることに感動し、心に傷をもつ者特有の情感をシェアできたと、しっかり思い込んでしまったのでした。まず、彼女が取り出してきたレコード(勿論当時はCDなんてものはありませんね)がダウンタウンブギウギバンドの「続・脱どん底」で、委員長に最初に聞かせた曲が「あんたがいない」 → 「恋のかけら」 → 「ダウンタウンならず者懺悔」 でした。まあ、ここまではよくあるツッパリ系レベルですね。続けて平山美紀のアルバム、真夜中のエンジェルベイビーとか、ダウンタウン六本木とか、当時でもかなりのマニア(っつーか、不良とか族系に多かったんですけど)しか知らないようなコレクションの登場です。ここで決め手になったのは、平山美紀のデビュー曲「ビューティフル・ヨコハマ」のB面ですね。「さよならのブルース」って曲なんですが、なんとも色っぽいあのダミ声と女心を唄う演歌ポップみたいなメロディが、異常に不良の心をくすぐる名曲でした。この曲はアルバムに収録されてませんから、シングルのみのリリースだったんですね。そしてこの詩に込められた哀しい女の性に、委員長は不良の哀愁を漂わせることで、自分に酔いしれていたのでした。(艶歌っぽいなぁ)だから彼女が平山美紀のアルバムを出したとき、どうだ、これは知らねーだろってなことで、委員長はとっさにこの曲を知っているか尋ねたのです。そしたら彼女、にやりと笑って、ラックの引き出しからこのシングルを取り出したのです。男と女のフィーリングなんてのは、結構くだらないモノで出来上がっちゃうんですよね。自分に酔いしれるツボが一緒だった時の快感は、まさに電気ショックみたいなもんですよね。もひとつオマケにキャロルの未発表収録盤がトドメでした。薄茶色のダンボール風ジャケットで、永ちゃんのデタラメ英語で吹き込まれた試作とか、最後の部分を逆回転させると「全世界の女性の皆さん、あなたのXXXXは臭い、洗いましょう」といった、あのお下品なジョーク入りの特別限定品です。翌日から二人は、昼間の新宿を用もないのに手を繋いでブラブラし始めたのです。しかし、このナリはおかしいだろう。お互いがそう思いました。「あなた好みの女になりたい」(お、おいっ、奥村チヨだろ、そりゃっ!)でも本当にこんな臭いセリフ言うんですよ。このミキって女は。でも委員長も完全に舞い上がっちゃってますから、おーおーういやつめ、なぞと調子くれて、歌舞伎町のマルセイってジーンズショップで「サンカサンブンノイチ」って数字がロゴのブランドジーンズを買い込んだりして、二人お揃いのSOULファッション、すっかりその気になりきってた道楽者同士でした。別れを惜しみながらも委員長はバイトへ、ミキはお家に帰ります。ところが、その夜ビバヤングのフロントで委員長を呼びだす奴がいるではありませんか。なんだろう、委員長を尋ねてくる奴なんているわきゃねーし、と呟きつつフロントへ出てみると、そこには小柄なアフロ娘がいるじゃありませんか。アフロのかつらまで買いこんで、ナリはもう完璧にSOULファッション。「何か言ってよ~。会いたかったんだぜぇ」とミキ嬢。じーーーんと感動に打ち震える委員長でした。更に彼女の手には、ダイアナ&マーヴィンのアルバムが。。。。。Your everything, everything is you…….この晩から「女」にのめりこんで行ってしまった委員長は、ケイゾーの心配をよそに、ミキと二人で道楽者トリップの旅に出たのでした。そして、委員長がこの夢から目覚め、全ては悪夢だったのだと悟ったのは、ミキが口癖のように呟く「死んでやる」の最初の声を聞いたときだったのです。(BGMはダイアナ&マーヴィンのMY MISTAKEでお願い致します。とほほ。。)後編につづく。
2005年06月10日
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極悪三人組が解雇されて、再びビバヤングも平和な日常が戻って参りました。委員長お気に入りのリンダ嬢も帰国、リップヴァンウィンクルも契約が終わり、変わりに新しいバンドがやってきました。今度も女性のツインヴォーカルが入ったバンド・ユニバース、凄い名前ですね、さぞかし演奏は気合が入ってるのかと思ったら、まあ並みのバンドでした。ヴォーカルのお姉さま二人も、モロにフィリッピーナと言う感じの、ちょい歳いった二人でした。小柄で目のくりっとした奥村チヨ(古~!)と二回りほど太った杏里(失礼)って感じですか。古株のサウンドウェイブスも油が乗り切ったと言う感じで、まさに絶好調でした。油は乗りすぎて、脂ぎっちゃってましたが、まず演奏は素晴らしかったですね。マチャアキのDJが終わり、エンディングナンバーがバンドのレパで、そのまま繋げて演奏、まさにフルコピーでいつ切り替わったのか分からないほどのテクでした。当時は対バンとかDJとの切り替えの時は、例の「ダヒルサヨ(フィッリッピンのスタンダードナンバーですね)」でメンバーが変わっていくパターンが多かったのですが、ビバヤングはこのあたりのセンスはかなり進んでいたと思います。彼らバンドメンバーの日常生活は、昼間練習がない日は5時くらいに来て、営業終了後は送迎バスに乗って目白の寮(っていってもアパートですが)に帰る、というスケジュールでしたが、来日してひと月もするとバスに乗って帰る奴などはほとんどなく、バンドユニバースのお姉さまとか、歳食ったバンマス(バンドマスター)とか、その日あぶれた野郎くらいのもんで、後はみなガールフレンドと何処かへ消えるというお決まりのパターンでした。大抵は演奏中に目星をつけたおねーちゃんに、委員長などのボーイを使って呼び出し、片言日本語で「トーキョー、ハジメテデス。ヨルハコワクテドコモイケナイ、ダカライロイロミタイデス」かなんかうまいこと言って、夜の新大久保あたりでおねーちゃんのカラダをイロイロ見たりしてました。特にブラスセクションの3人組は、しょっちゅう出番があるわけじゃないので、演奏の合間みちゃ、パーカッションとか叩く振りしてダンスフロアで軟派しちゃったりします。また、よくわかんないおねーちゃんは、ファンなどになったりして、3日と空けず通い詰め、貢物も持参でやってきて、あげくの果てにお腹まで膨らまされちゃったりして、本当、こいつらヤリタイ放題でした。メンバーのほとんどは妻子持ち、しかも子沢山で、給料はほとんど国へ送金。彼らの唯一の楽しみは、ビルの1階にあったパチンコ屋でおもちゃとかの景品を稼ぐこと。あとはバンドマンお決まりの、休憩時間の博打ですね。単なるサイコロころがし(日本のチンチロリンに近かった)とか、コインの裏表とか、貧乏人同氏の金の取り合いですから、パーッと流行ってパーッと終わるってなもんです。委員長はこの時初めてバンドマンの副収入について勉強しました。これはいわゆるヒモみたいなもんですが、よく言えば夢を売り買いしてるってことで、タレントとかアイドルとか、結局はこれがルーツなのだ、と理解したものでした。規模の問題こそ違うものの、やってることは同じで、要は舞い上がったミーちゃんハーちゃんから小銭を巻き上げる合理的なシステムってことですよね。これがメージャーなプロの世界だと、生産性を高めるためにファンクラブを作って組織的に販売促進活動をしたり、グッズを作って事業展開したり、合理的に利潤を上げていくシステムがあるわけです。更に一番の違いは、利益の中間搾取が合法的に行われるってことですね。言ってみりゃ、やくざのみかじめ料みたいなもんですから、芸能界ってのも所詮は同じ穴の狢というか、ご同業ってことですね。まあ、当時の委員長がここまで理解できたわけじゃありませんが、道楽者の求める、好きなことしてメシを食い、さらにおねーちゃんまで喰ってしまうという道楽者ドリームが、いよいよ手の届くところまで来たというか、まさに今目の前に広がっているのだと勝手に思い込んでしまったわけです。バンドのギャラは全て国の家族へ送金。メシは会社でしっかり食べて、生活費と遊ぶお金は貢物ってなもんで、悪びれた様子もなく、これがお仕事だみたいな感覚は、思春期の委員長にとってはかなり刺激的でした。時にはバンドの送迎バスに紛れ込んで、彼らの寮に行った委員長は更に驚きました。深夜3時を過ぎているというのにアパートの各部屋には、アチコチのフィリッピンバンドのメンバーが屯してるし、グルーピー(というにはちょっと素人っぽい)のねーちゃんたちがグダグダしてるわ、「おー、ハーレムだ!」と感嘆した委員長でした。委員長のナリを見て、同胞と思った比国の方たちからはタガログ語で話しかけられるし、おねーちゃんたちは好奇の目で見るし、何だかんだ言いながらもフィリッピン熱にうなされた委員長でありました。しまいにゃ、おねーちゃん達とのお手紙の代筆なんぞまでやらかす委員長も、当時は外国人と付き合ってる自分に酔っていたようなもんでした。中には彼女の元カレとかが乗り込んできたりとか、親が出てきて結婚しろとか言われたり、後の委員長の道楽者人生にとって貴重な体験をイロイロとさせてもらったりもしました。しかし、このメンバーで18歳のジュンって奴は今でも印象に残るほど、腰の入ったスケベでしたね。18のクセして女房子供有り、身長160センチ、ルックスも大したことない割には、毎日違うねーちゃんをエスコートしてました。まあ、相手もそれなりってことでしたけど、とにかくコイツは上から下まで見境なかったですね。なんでも「いてこましたれー」ってなもんでした。あとは、後年も友情で結ばれたジェシーって奴は、当時23歳、すでに5人も子供を持つ立派なとーちゃんでした。中国系で落ち着きすぎてたせいか、あんまりもてませんでしたが、大学生のおねーちゃんと結構マジな関係になってしまい、最後は自分の衣装から靴から身の回りの品前部売っぱらって彼女に償って行きました。結構マジな奴だったんで、委員長もお助けでいろんなもの買ってあげました。想い出深いのは、彼の自慢のブーツでしたね。当時はあまりブーツなんてものは野郎が履くものじゃなかったんですけど、これが委員長の足に妙にフィットして、後半のダンス人生で履きつぶすまで3年は愛用しました。もうひとつ忘れてはならない事件がありました。当時、ほんの1、2ヶ月だけバイトに来ていたフォークシンガーみたいなにーちゃんが居て、そう、歳は23-4だったかな。長髪で中々の美男子、タッパも175くらいあって、まぁ俗に言うイイ男だったんですけど、こいつが見た目とは裏腹に結構手の早い奴で、バンドユニバースの奥村チヨとできちゃたんですね。ところがこれは後で知ったことなんですが、なんとバンマスが亭主だったんです。これは大変でしたねぇ。死ぬの別れるの弁償しろ(?)だの、えらい騒ぎになりまして、結局はこいつが店辞めて収まりましたが、当時のフィリッピン人はすべからく日本人を相当に嫌ってましたから、こういった事件はかなり異質な出来事でした。教訓として、「色」に国境はない。更に女にも性欲がある、ってことをしみじみと感じた委員長でした。そりゃ、仲間内での話はスゲー内容の勉強会で、人生とはなんぞや、ってな、とてもじゃないけど文章にはできないお話ばかりでした。このバカたちの勉強報告会はボトル倉庫と呼ばれる密室で開催されておりました。そこは厨房の裏手、ボトルを保管する部屋があり、その奥に4~5人が休憩できる場所で、夕食も順番にここで食べるのですが、このひと時がバカたちの情報交換と発表会の場だったのです。しかし、ここにはボトル倉庫のおばちゃんと呼ばれるバーちゃんがひとり勤務しており、バカ達の与太話に聞き耳を立てていたのでした。そうですねぇ、歳は60くらい、わりと上品なバーちゃんでしたが、やっぱりお水系という感じの人でした。仕事の合間にショートホープを指に挟んで一服する姿なんぞは、どう見てもカタギじゃないってな感じでした。昔のやり手バーさんみたいなね。バーちゃんの仕事は、お客が呑み残したボトルの位置を測ってノートに付けるって単純な作業でしたが、几帳面なバーちゃんでしたから、たまにお客が「量が減ってるぞ、誰か飲みやがっただろ」とか言いがかりを付けて来た時には強い味方となりました。ところがこんなバーちゃんの存在も知らずに、ダチが遊びに来たからっつって、他人のボトルを勝手に飲ませちゃうような頭の悪い子供達が悪さをした時は、このバーちゃん、自分の全存在を賭けて烈火のごとく青筋立てて怒りまくります。そうなるともう誰にもこの怒りは静めることはできません。支配人から店長の耳に入り、罰金として給料日に大枚を供出させられます。果たしてこの金が何処に行ったのかは分かりませんが、いつからか皆このバーちゃんのことを「蔵の鬼婆」と呼ぶようになりました。さて、このバカの勉強会でひとつ面白いエピソードがあったのでご紹介いたしましょう。この昔話にもたびたび登場する沖縄出身のウチマ主任です。社員のほとんどが寮住まい(タコ部屋です)の野郎ばかりですから、集まれば下ネタばかりが世の常です。そんなしょーもない話で盛り上がる中、キャバレー上がりの揉み手にーちゃんが米国製エロ本(プレイボーイとかね)の黒塗り(当時ヘアの部分は黒のマジックインキで塗りつぶしてありました)を取る方法について講釈がありました。ベンジンもラッカーもシンナーもダメ。ところがシリコンオイルという薬品を使えば一発で落とせる、とのたまったのでした。横で黙って聞いていたムッツリスケベのウチマ主任。早速、寮に帰る道すがら、歌舞伎町の深夜スーパーでプレイボーイを買い込み、何を勘違いしたかバイク用のエンジンオイルを買い込んでウキウキと帰途に着きました。さて、翌日の勉強会、エンジンオイルの空き瓶持参で報告するウチマ主任。「わしゃぁのう、こんなが言うように、昨日これで試してみたんじゃがのう、擦っても擦っても、マジックはよう落ちんでな、手はベトベトになるし、それでもどんどん、どんどん、やってみたんじゃがのぉ、とうとう紙が破れてしもうてのぉ、なんやこれはインチキやったんかのぉ」大爆笑の渦に当人のウチマ主任も大笑いの夜が更けていったのです。
2005年06月09日
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いやー、知らぬ間に道楽者のバカ話もついに20回目を迎えましたね。時代は1975年、新宿南口ビバヤングの青春も、これからいよいよ佳境に入っていきます。委員長とケイゾーの名コンビが絶頂期を迎え始めたころ、ビバヤングにも新入社員が続々と入ってきました。これも、ケイゾーの活躍ぶりを耳にした地元久我山の後輩が、頼もしい先輩を頼って来たといったところでしょうか。まずはフクシマって奴がケイゾーを頼ってやってきました。小柄なこいつは高校中退、不良の出世を夢見る喧嘩好きバカで、当時はまだ17歳でした。こいつにつるんでついて来たのがオーハシってバカで、こいつは本当に中卒でした。さらにバカはバカを呼んで、ヨシワラってバカが一緒にくっついてきました。童顔のクセして、態度だけはデカく、水商売のプロみたいな顔していた奴らでした。とは言うものの、店だってそんなにバイトばかり雇うわけにもいかず、未成年ってこともあったので、皆正社員としての雇用となりました。これに加えて何処から流れてきたのかわかりませんが、やたら水商売にかぶれちゃってる村下ってのと、どーみても18歳には見えない斉藤って小柄で大人しそうな奴も入社してきました。そして、これら新人正社員を取り仕切ったのがケイゾーと委員長でした。社員よりバイトの方が態度がデカイという、ねじれ現象を起こしましたが、そこはそれなりにうまくまとまったひと時でもありました。更にこの時期、古株の若林カンコウ、大池カンコウ、白川カンコウの3人が研修を終了して主任になり、ゆくゆくはチェーン店のどこかの支配人になっていくという前途が開かれたのです。更に古株だったウチマ主任ですが、彼は年末最大の大喧嘩の最中に人知れず逃げ出し、帰らぬ人となりました。この大喧嘩というのは、たまたま新宿のチンピラグループ(組織の構成員みたいな奴らですね)が、学生愚連隊(古くさい表現だなぁ)みたいなグループと諍いを起こして、ホールをグチャグチャにするほどの大乱闘となってしまい、停めに入ったスタッフも巻き込まれて、とにかく従業員全員で収拾にあたるというような異常事態だったのでした。ボトルの瓶は振り回すわ、イスは投げるわの、そりゃもうかなり本気な乱闘になってしまい、抑え込んだ従業員もくんずほぐれつホールに転がり、厨房からは包丁持って飛び出す奴も出てきたり、こりゃホントに死人が出るな、と思ったほどでした。何とか皆で両チームの頭を抑え込んでようやく収まりましたが、この時ばかりは、さすがに黒服、ウェイターにも怪我人が出て、警察沙汰にこそなりませんでしたが、開店以来の大事件でした。そんな騒動も収まった営業終了時、「N観光」お決まりの点呼で解散となるのですが、数がひとり足りません。普段から目立たぬウチマ主任のこと、トイレで踏ん張ってんじゃないかとか、怪我でもしてバンド控え室で寝てんじゃないかとか、店内隈なく探しましたがとうとう出てきませんでした。身長165くらい細身、やや癖毛、濃眉毛、目は大きめ切れ長、沖縄出身ながら広島弁を話す、そんな風貌のウチマという人を見かけたら、是非とも委員長にお知らせ下さい。後の与太話のネタにさせて頂きます。さて、悪ガキ3人組と言うか、3バカ大将というか、フクシマ、オオハシ、ヨシワラの3人はとにかく手のつけられない暴れん坊でした。ヨシワラがピアスをしたいと言えば、フクシマが安全ピンで耳に穴開けて血だらけにするし、客にナマイキコカれたって言えば、三人で裏口から表に出て行って待ち伏せしたりとやりたい放題の極悪三昧。最もひどかったのは、店長、支配人不在のとき、ツッパリ小僧のグループをフロント・エレベータ前でボコボコにして、逃げようとする仲間を無理やり非常口に連れ込んで、殴る蹴るのやり放題、血だらけになったこのグループが東口の交番に駆け込んで、パトカー横付けでとうとう事件になってしまいました。この時、委員長とケイゾーは停めに入ったのですが、気がつくのがちょっと遅かったため、お客の怪我はかなりの重傷となってしまいました。警察の事情聴取では被害者全員が一致して、アフロの人とリーゼントのお兄さんが助けてくれたというような証言をしてくれたので、二人は無罪放免、店長にも褒められるという、妙なことになりましたが、基本的に道楽者はやくざ者やならず者とは違いますから、成り行きでケンカとかはしますけど、決して暴力が好きなわけではありません。反対に乱暴は嫌いです。バカですけど、人を傷つけて楽しむ趣味はありません。ということで、この3人組は期待通り即刻クビ、あとは暗黒街へまっしぐらってな感じで、もう絵に描いたような奴らでした。このあと何度か、こいつらとかかわることになる委員長とケイゾーでしたが、オオハシは20歳になる前に天国の階段を上り黄泉の国へと旅立ちました。フクシマ、ヨシワラのその後は分かりません。(どのみち長生きはできない奴らでしょうから、もうあの世に行ってるかもしれませんね)色々な人や、その人たちにまつわる人生を見てきた委員長ですが、この世の中には生まれついての「ワル」っていうのが間違いなくいると思います。大抵の場合は育った環境や、親や、思春期の人間関係でグレていく後天性ワルなのですが、生まれた時から業を背負った「ワル」っていうのがいるという事実を知ったのもこの頃でした。(これはちょっとマジでホントですよ)よく生まれついての悪人はいないとか言いますが、それはちょっと違うような気がしますね。委員長が言う「悪」というのは、人間としての心とか感情とかいった部分に欠陥を持っている人がいるってことです。カラダの部位じゃないですよ、心のパーツって意味ですよ。人間として、最低限ギリギリのところで守られているモラルは何だと思います?それはやはり同種の生命を奪わない、ということだと思うんですね。動物でも生きるために多種族の生命を奪うことはありまが、まず、同種での殺し合いはしませんね。種の保存という大きな意味では共食いみたいなことは時々起こりますが、普通は縄張り争いでもボス争いでも、殺すところまではしませんね。同種において、致命傷を与えるまでの戦いはまずしません。ところが人間はこれを平気でやってしまいますね。しかも戦争などは、生産効率に基づいた大量殺戮なども行ってしまいます。人間はその社会構造が特異だから、たまに何かのはずみで「人殺し」になっちゃうこともありますが、己の意思をもって、同種である人間を殺すって行為は人間にしか当てはまらない行為です。そういう見方からすると、一般的に言われている「悪魔」とか「デビル」ってのが心に巣食っている人が、私達の世界に間違いなく紛れ込んでいます。これは、良いとか悪いとかの善悪二元論では語れない、人間の生の奥深い部分での話です。人は一人で生きてませんから、人との出会いで変わっていくのが人間というものですね。そして曲がった心が素直になったり、人を思いやる心に気づいたりとか、逆に素直な心がイジけてしまったり、人を疑ったりする、これが当たり前の人間で、当たり前の心を持った人です。一般的に言う不良や道楽者は、根本的に「不信」から人生をスタートしますから、人を傷つけ、その分自分も傷つき、その過程で人を信じる方法を学んでいくという、非常に遠回りな生き方をしますが、その遠回りした分だけ人生にリアリティがあります。委員長がよく言う「人生の請求書」とはこのことですね。やったことには必ず清算業務がついて回りますから、これを先送りすると取り返しのつかないことになったりします。委員長の実体験で言うと、例えばケンカなどになった場合、一瞬でも殺意を抱いたりすることはありますが、相手を傷つけ自分も痛い思いをした時点で、闘争心は収束し、相手を思いやる気持ちに変化していきます。たぶん人の心というのは、このように自分の内側に向かっていくようにプログラムされていると思うんですね。武道家や格闘技のファイターなども、より闘争心の強い相手を求めていくうちに、人としての心の在り処に辿り着くようになっていくと思うんです。ところが、まれにこういったプロセスを踏まない、というか人のことをまったく考えられない人間がいるのです。自分が生きていること以外、全てを受け入れない、受け入れられない人がいるのです。とは言うものの、普通はこれにも程度というのがありますから、心の広い人とか、善意の塊みたいな人がこういう自分だけの世界に凝り固まった人を何とかしてくれたりする場合もあります。宗教家とか慈善家とかがそうですね。これが過激になると、霊能力者とか霊媒師、祈祷師とか、ちょっと危ない人になります。結論から言っちゃいますと、実はこれらの人々は同じ世界に生きてる人なんです。ですから、これはプロ対プロの仕事になりますから、決して素人が手を出してはいけないことなのです。生半可な善意や慈善の心で関わると大変なことになります。では、どうすれば良いか?まず自分自身の直感、素直な声に耳を傾けて下さい。心の危険信号が出ていたらすぐに従いましょう。よく陥りがちな常識の罠は、「助けを求めている人を突き放して良いのか」ってヤツです。自身の心は正直ですから、自分に出来る手助けなら考える間もなく無心で手を差し伸べているでしょう?危険なのは、心が躊躇したときです。「ここで見捨てたら、後でどう思われるか」とか「自分はここで試されているんだ」とか、妙な理屈で自分を正当化するような罠にはまったら、まずこう考えましょう。「人間というのは、テレビで流れる戦争や悲惨な人々のニュースに心から同情しながら、晩ご飯の献立を考えたり、家族の心配なども一緒にできる生き物なのです」どちらの感情も嘘ではなく本心です。それが人の心ですね。だから、人が自分をどう見るか、じゃなくて、自分が人をどう見るか、なんです。とかく、冷たい人だとか、情も涙もない、とか言って非難する人がよくいますが、人間とは実際にそーゆー生き物なのです。この条件に当てはまらない人はいません。委員長は実体験で、本当のワルに関わって生命まで失った人も何人か見てきました。傍で見ていて、危なっかしくて、声をかけるのですが、相手の心に支配されていることに全く気付きません。どこかで気付いて引き返せば、それなりに何とかなるのですが、致命傷を負うまで、とことん行っちゃう人が往々にして多いのも事実です。危険と感じたら逃げましょう。当たり前のことをして恥じることはありません。えー、今日は道楽者の昔話その20回目を記念して、哲学的なお話になってしまいましたが、よくここまで生きていられたなぁ、とつくづく思う道楽者として、皆様への人生のアドバイスをさせて頂きました。参考になるかどうか分かりませんが、とにかく危ないと感じたときは、恥も外聞も捨て形振り構わず逃げましょう。とかく道楽者は身の危険について鈍感ですから、普段の心がけが大切です。委員長は、過去何度もこういった場面に遭遇して、お人よしというかノーテンキというか、その場に居た為に大怪我をしたことが何度もあります。体の怪我もそうですが、金銭的なものや精神的なものも沢山ありました。よく命があったなぁってなこともありました。だからこそ、これは身を持って断言します。「危ないと感じた時は逃げましょう。」いつもバカ話ばかりの道楽者ですが、そのバカの教訓ですから真面目に聞いて下さい。また明日からバカ話の続きを書きます。
2005年06月08日
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「あにきぃ~、俺さぁ、手紙書こうと思ってんだけどさ、拝啓のケイってどういう字?」「あーやだ、だから中学くらい行っとけつってんだよ。いいか、拝啓のケイは経験のケイでもいいし、競馬のケイでもいいんだよ」「やっぱあにきは頭いいよな、なんつっても中卒だもんなぁ」こんな会話がやり取りされる1974~5年の最高傑作TVドラマ「傷だらけの天使」。萩原健一演じる小暮修(オサム)を兄貴と慕う、水谷豊演じる乾亨(アキラ)の名コンビは当時の不良の間で随分と模倣されました。「アキラっ! ちょとカッコつけてくっからよぉ」「あにきぃ、おいらも連れてっておくれよ。後生だからさぁ、おいら一人じゃ淋しいよぉ」ドラマは1話完結で、毎回バカの代表選手みたいな二人が、私立探偵の手先となって色々な事件に巻き込まれていくという、かなり乱暴なドラマでしたが、なんと言っても舞台が新宿{彼らの住処が新宿駅前の雑居ビルのペントハウス}だったこともあり、委員長に限らず新宿を根城にしていた道楽者は、こぞってこの二人のライフスタイルを追いかけました。委員長とケイゾーのコンビも、このスタイルを模倣することで、毎日の道楽者人生を楽しんだのでありました。ある日、ケイゾーが委員長を呼び、嬉しそうにして定期券を見せました。久我山-新宿 (ケイゾーは井の頭線の久我山に住んでおりました)氏名:乾亨(イヌイ・アキラと読む)「おまえバカじゃねーの」本当にそう思った委員長でした。「あにきは定期買わないの?」ケイゾーが委員長にアキラの真似で尋ねます。「バカヤロー、ソウルマンはなぁ、定期みたいなダサいモンは持たないんだよ」「あにき、カッコいい」こんな感じで、オサムとアキラになりきる二人でした。そして更に調子づく二人は、3日と空けず夜遊びを繰り返しました。店でテキトーぬかして軟派が成立すると、委員長はビバヤングの下にある喫茶店「穂高」におねーちゃん達を誘います。ケイゾーは速攻で家に帰って、自慢のサバンナを駆って新宿に戻ってきます。夜の東京をほっつき歩くアフロとリーゼントの二人組は、朝日が昇るまで道楽に勤しんで、最後は直感サバンナの駐車場で夕方まで寝るっつーような、放蕩三昧、どーしょーもないバカでした。時に、ケイゾーがサバンナのハンドルを握るときは、委員長はケイゾーのことを「あにきぃ」と呼びます。ディスコに出かけて鏡の前を独占するときは、ケイゾーが委員長のことを「あにきぃ」と呼びます。電話ではお互いを「あにき」と呼びます。そんな楽しい毎日が続いていたある日のこと、ケイゾーの彼女スネさんがついに我慢できず爆発しました。スネさんはケイゾーのことを「あんたぁ」と呼びます。ケイゾーはスネさんのことを「おまえ」と呼び捨てかまします。「あんたぁ、遊んでばっかでいいの?車の借金どうすんの?」「金なら親父に借りるからいいんだよ。おまえの心配することじゃねーだろ」委員長にもお鉢が回ってきます。スネさんは委員長の本名・苗字に君付けで呼びます。「○○君、ウチの人を引っ張り回すのもイイけど、仕事はきちんとさせてよね」もうほとんど夫婦みたいな感じです。委員長は返す言葉もありません。ケイゾーがスネさんを諭します。「あにきにはカンケーねぇことだろ。」あきれ返るスネさん。「あんた、○○君の舎弟なの」委員長が答弁します。「いや、舎弟とかじゃなくて、あにきとはとにかく気が合うんだよね」混乱するスネさん。「二人であにき、あにきって、気持ち悪いわよ、あんたたち」スネさん、委員長をキッと睨みつけて言います。「○○君て、ひょっとして男好き?」「勘弁してくれよー、俺は女が好きだよぉー」「おまえ、いい加減にしとけよ」てなことで、スネさんの疑惑は中々晴れません。そりゃ、本当に四六時中一緒に居ましたからね。だからってスネさんの前で、軟派した子達とホテルへシケ込んだこととか言えるわきゃないし、女遊びしないときは、サバンナの駐車場でアンパン食ったりとか、もう本当にどーしょーもない大馬鹿野郎たちでしたから、スネさんが嫉妬するのも無理ないかな、と思っていた委員長でした。しかし、なんでこんなに意気投合したのか今でも不思議です。さて、委員長に嫉妬するスネさんは強硬手段にでます。ある晩、ケイゾーと委員長はスネさんに誘われて、歌舞伎町裏のスタッセビル地階にあった「シェラザード」という新しいディスコに行きました。支配人がスネさんの朝高の先輩ということもあって、ボックス席で厚遇され、まんざらでもない委員長の前に、色黒で大柄、瞳パッチリ、頭チリチリ、アフロというよりはリーゼントに近い髪型のおねーちゃんが登場したのです。「S子よ、スネの昔からの友達なんだ」(スネさんは自分のことスネって呼びます)やたら愛想の良い元気印のS子は社交的で快活、声もでかいしハスキーなところも中々に好印象でした。早速フロアに出て踊りだした委員長たちですが、踊ってみてまた驚いたのはS子のタッパです。委員長もケイゾーも身長は170センチちょいといったところですが、このS子もほぼ同等、ガタイもしっかりしていて、下手すりゃ委員長より良いカラダしてました。確かに踊りも豪快でうまかったし、顔もどちらかと言うと南方系ファンキーでしたから、すぐに馴染んでワキあいあい、楽しい夜が明けていきました。閉店前のチークタイム、スネさんがそれとなく委員長とS子をフロアに連れ出し躍らせます。少々照れる二人ですが、最後のチークってことで、委員長はS子の腰に手を回します。おっ、と言う感じの手ごたえ、スポーツ選手のような筋肉質、S子の両手は委員長の肩にかかっていますが、ちと重い。帰り際、スネさんが委員長にそれとなく言います。「S子どぉ?今、彼氏いないんだって」「やだ、スネさん、居ないのはホントだけどさぁ~、アハハ、いやだ~」屈託のない笑い、委員長は嫌いではありませんでした。ホント、性格はとっても良い子でした。でも、相手だって選ぶ権利はあるし、委員長にも選択の余地くらいはあるはずです。でも、二人並んで歩いてたら、オカマと宝塚のペアみたいじゃん、と率直に思った委員長でした。彼女には、たぶんもっとたくましいムキムキマンみたいな男が似合うのではないかなぁ、としみじみ思った委員長でもありました。結局、S子とは付き合いませんでしたが、この後も随分と長く友達付き合いをしてもらいました。この4人で新島にも行ったし。。。。。
2005年06月07日
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1975年の幕開けと共に新宿ビバヤングのメンバーも一新しました。委員長のバカ友・酒屋の息子が復学(っていうか普通の大学生に戻っただけなんですけど)のためバイトを辞める代わりに、ヤツの中学校の同級生ケイゾーが入って来ました。BVDの白Tシャツにファーラー、こげ茶の革ジャンを羽織ったリーゼント頭のケイゾーはいわゆるヤンキー。委員長の第一印象は、やたらと水っぽいヤツって感じでした。それもそのはず、昼間は紀伊国屋裏の「らんざん」で働く“お水”の優等生です。ツッパリ系ならば、まずはこーゆーヤツが絶対にモテるっつーようなタイプの男前でした。清潔感の漂う不良っていうのかなぁ、ジェームス・ディーンとかジョージ・チャキリス(古っ!)って感じでしたね。なんだかんだ言っても、まだこの当時のディスコはこの手のツッパリ系にーちゃんが圧倒的に人気ありましたからね。中途半端なファッションも随分と多かったですね。裾幅の広いバギーパンツにアロハ系の開襟、首にはプカシェル、頭はソフトバックなんだけどパーマがツッパリっぽくてやたら前が飛び出てたりとか、ツッパリが抜け切れてないからシャツの衿立てちゃったりして、しかも歩き方が突っ張ってるからヒールが妙にぎこちなくてね、笑えましたねぇ。(どうみても田舎のあんちゃんだよね)このケイゾーと委員長との出会いは仕事前のバンド控え室でした。鏡の前で短めのリーゼントにブラシを入れているケイゾーの後ろから、同じくアフロにブラシ入れに入った委員長、ここで初めてケイゾーが話しかけてきました。鏡を見ながら短めパーマのリーゼントの先っちょ、前髪を整えながら委員長に聞きました。鏡越しに自分の頭と顔を指して「カッパだろ?カッパってよく言われんだよね」。なんだよ、いきなりって感じでしたが、確かにカッパ系の顔立ちのケイゾーでした。「俺も昔、よくカッパって言われたよ」委員長も昔はカッパとよく言われたことがあったので、さわやか系のケイゾーの笑いにちょっと共感が湧きました。ケイゾーが委員長のアフロ指して「それ、一番細いロットで巻くの?」。「ああ、思いっきり引っ張るから痛ぇんだよな」道楽者の出会いはフィーリングですから、これでコンビ結成となりました。男同士の場合も相思相愛っていうのかな(モーホーじゃないよ)、お互いに興味持ってるってことが無言のうちに通じ合うってことがあるんですよね。先に切り出したのはケイゾーの方でした。「俺、踊りはあんまりわかんねーんだけど、どこら辺行ってんの?」「最近はエンバシーが多いね」「今度踊り教えてくれよ」「いいよ」ってなことで、暇さえあればホールの隅で踊りを教えてやった委員長でした。目立つ二人ですから、おかげで客席のおねーちゃん達にも結構声かけられたりして、益々調子コイた委員長でした。ただ、当時ケイゾーには年上の彼女がいて、これがまた強烈なねーちゃんでやたら水っぽいなぁ、と思ってたら、案の定15歳でデビューの筋金入りのスケ番でした。当時の不良だったら、まずこんなペアに憧れるんだろうなぁってな感じの、少年やくざと情夫ってところでしょうか。彼女、さほど美人ではないのですが、怖さと色気がほどよく混ざり、文字通りの姉さん女房型でした。どーも眉が薄いなぁ、と感じてた委員長の目に狂いはなく、やはり「北」の方でした。その界隈じゃ「スネさん」と呼ばれる姐御で、ケイゾーは「アイコ」と呼んでおりました。普段は「かーちゃん」とか呼ぶのが不良の慣わしでしたので(ほんとかよ)、仲間内で彼女の話題が出るときは、「かーちゃんがよぉ、どっか連れてけって言うモンでよぉ」とか、一丁前な夫婦気取りのお二人でした。一方、その頃の委員長は、それまでのツケで専門学校時代の年上の彼女からは捨てられたペットのような扱いを受け、さらに二股かましてた高校時代からの関女の彼女も立派に就職してからは、バカな道楽者とは付き合っていらんない、みたいな感じで疎遠になっておりました。おまけに12月からブーム真っ只中のディスコは、仕事もキツくて言うほどには遊ぶ時間もありませんでしたから、これっつー彼女もなく、ただ毎日を面白おかしく過ごしていただけのことでした。そんな道楽者が新しいジャンルのパートナーを見つけたわけですから、そりゃほっといても盛り上がっていくわけです。はじめはケイゾーが委員長の道楽に興味を持って近づいてきたわけですが、遊び始めるうちに委員長も、ケイゾーの思ったより深みのある不良人生(なんじゃそりゃ)にも興味が湧き始め、黄金のコンビ結成となったのでした。ケイゾーの彼女は、新宿通りと靖国通りを結ぶ大通り(確か当時はカドに靴のワシントンとかあったと思います)の中間、アドホック寄りのサブナード出入り口階段付近にあった雑居ビルの地階、こじんまりとしてジュークなどが置いてある「尾瀬」というスナックで働いておりました。そして、そのもうひとつ道を隔てた紀伊国屋の裏手に、「らんざん」という大型の喫茶店があり、ケイゾーは朝9時から午後5時までそこで働いていました。更に、午後6時から深夜12時まではビバヤングといった具合に、不良ながら勤労少年のケイゾーでした。理由は簡単。元々族上がりのツッパリですから、四輪といっても当時人気の「サバンナ」購入には少々のバイトでは追いつきません。加えて、高卒→服部料理学園→喫茶店主任→スナックのマスター、という当時の不良のエリートコースを驀進中のケイゾーでもありました。彼女も不良としては血統書付きみたいなもんですから、20歳そこそこにして妙に落ち着いた「ねーさん」で、二人の将来は不良の誰もが夢見るママとマスターというような生活設計(笑)が出来上がっていたかどうかは定かではありませんが、昔不良だった夫婦がやってるスナックなんてのが一般的な理想像でもあったわけです。(ほんとかよぉ)ということで、ケイゾーが週1回、昼間の仕事が休みの前日は、委員長と「尾瀬」に行って彼女のスネさんと落ち合い、深夜の歌舞伎町へと繰り出すようになったのです。スネさんはすでにその界隈では名の通った姐御だったので、さすが歌舞伎町には随分と精通しており、委員長もタジタジするほどの「顔」を持っておりました。新しい店ができるとすぐに御招待券などを入手してきては、売り出し中のあにいのケイゾーとアフロ小僧を引率してあちこち連れ周り、顔を売って歩く、ちょいとした姐御ってな感じでありました。新宿ポップ時代の仲間が店移るっちゃ行き、昔可愛がってくれたおっちゃんが店出すっちゃ行き、ってなもんで、知らず知らずのうちにケイゾーと委員長も歌舞伎町界隈ですっかり馴染みの顔となっていきました。新宿通りと靖国通りを結ぶ大通り、伊勢丹の向かい側にレインボービル(だったと思う)の7階にオープンした「キャニオン・セブン」ってディスコには、元ポップのDJ・A君がいたり、歌舞伎町スタッセビルの地階にオープンした「シェラザード」ってディスコには朝高(不良通はアサコウと呼びます、ほんとか?)の先輩がいたりとか、そりゃもうあっちこっち連れ回されました。特に歌舞伎町の中央、コマ劇場東宝の正面にあったモナミビルはディスコ・ビルってな感じで、3階ムゲン、5階クレージーホース、6階テムズハウス、7階ノクターンヴェール、8階は焼肉屋(一度ここで爆発があってディスコに犠牲者がでました)、という具合に不良が数多く出入りするビルでした。ビルのサイズはだいぶ小さかったですけど、後の六本木スクエア・ビルみたいなもんだったですね。で、何故2階、4階がないのかと言うと、ムゲンとクレージーホースは2階建ての造りになっていて、ダンスフロアは吹き抜けで2階分の高さがあったからです。当時としてはかなり洒落た造りで、二階は落ち着いたVIP席のような仕立てで、客席からダンスフロアを見下ろすようになっていて、踊り場に出るときは螺旋階段を降りるようになっていました。(故松田優作さん主演のTVドラマ「探偵物語」で、クレージーホースが一度使われたことがありました。この時BGMに使われたのが、なんと委員長が製作した幻の和製ディスコ・サウンド「新宿ディスコナイト」でした。しかし、センスのないタイトルだなぁ、そのまんまじゃねぇかって)そんでもって、クレージーホースは六本木にも同名のお店があって、後年はチャクラ、ネペンタ、ギゼと新しい流れを作ったダイショウ商事、ムゲン、テムズハウス、ノクターンヴェールは、当時の新宿を制覇したダイタン商事の経営でした。ダイタン商事は、この他、ビッグトゥゲザー、エストレ、ブロウハウス、スキャット、パブ・トゥモローなどのチェーンを持つ歌舞伎町最大のディスコ・チェーンでした。このダイタン・グループの総帥は若き実業家小林会長で、なんとコマ劇場横の立ち食いそば「コマそば」から一代で成り上がったお水のヒーローでした。さてケーゾーのかあちゃんことスネさんの友達は、何故かこのダイタン・グループに数多くおりまして(そりゃ同じ時代遊んでてそのままその世界に入っていった不良ばかりですから当然ですね)、あまりの顔の広さに恐れ入った委員長でした。ところが、遊びまわっているうちに、ケイゾーが委員長の道楽ウィルスにすっかり感染してしまい、「踊り」にのめり込み「FUNK」に目覚めだしてしまったのでした。何処に行っても委員長とケイゾーの二人が鏡の前で踊りに興じて、おかあちゃんはほっぽり放しです。スネさんも気合の入った不良ですから、踊り、特にステップにかけちゃ中々うるさい方でしたが、そりゃどんなにうまくたって、黒人かぶれのアフロ小僧には勝てません。そのうち、スネさん、何故か委員長に嫉妬し始めまして、大事なおとうちゃんを盗られたみたいな、「ひょっとしてモーホーじゃないの?」などと疑いをかけられる始末です。そんなスネさんの対抗策は、委員長に女を世話するなどという荒業に出たのでした。そして、彼女が連れてきたのは、昔からの踊り場仲間、淀橋中学(ヨドチュウですね)出身のS子だったのです。身長170センチメートルの大女(失礼)、顔立ちは確かに委員長好み南方系、もちろん踊りも豪快、スネさんとは昔から踊り場で番を張ったことのある、ケンカの腕も界隈じゃ有名な筋金入りの新宿SOULシスターでした。いやー、まいったなぁ~。
2005年06月06日
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さて、昔話の時代も1974年から75年に入ってきましたので、ちょっとこの当時の出来事を簡単におさらいしておきましょう。あはは。結構誠実な道楽者ですから(そうかなぁ)それなりに資料を漁って見ました。まず1974年の話題はなんと言ってもこの人、ユリゲラーですね。スプーン曲げ、流行りましたねぇ。ちなみに委員長の奥さんもできます。だから何だってコトなんですけど、貧乏一家のスプーンをやたら曲げちゃって困ったもんです。どうせなら、曲がったスプーンとか折れたスプーンを元に戻すって能力だったらもっともっと世間に認められたことでしょう。このパワーがいつか世の中のためになることを祈ります。そして爆発的な大ヒットとなった「ベルサイユの薔薇」の登場です。この作家が、後年ぷっつんしてしまうなんて誰も想像つきませんでしたね。「好きなことしてメシを食う」はいずれ莫大な請求書がくるという教訓です。やはり道楽で大金を手にするとロクなことはありませんから、くれぐれもご注意下さい。(ほんとかよ)スポーツ界は話題豊富です。モハメッド・アリがジョージ・フォアマンを破り、奇跡のチャンピオンにカムバック。ジャイアント馬場がジャック・プリスコを破り日本人初のNWA王者に輝く。凄いですね、馬場さん。16文キック!今の子たちにはこのサイズ説明するのが難しいですねぇ。椰子の実割り、カワヅ落とし、必殺技の数々。興奮しました。そして、なんと長島選手の引退がこの年でした。往年の野球少年は皆涙を流しました。さて、不良少年の話題はというと、そうですあの「傷だらけの天使」がTVに登場したことに尽きます。あの衝撃的なタイトルシーン、生トマトにコンビーフかじって、ソーセージ食って牛乳飲む、あの無節操さが不良少年を虜にしました。真似して腹下した馬鹿が何人いたでしょうか?ちなみに放送開始は74年10月5日土曜日で、翌75年3月29日まで半年間の放映だった。音楽は井上堯之+大野克夫(元スパイダース・古っ!)監督は、恩地日出夫、深作欣二、工藤栄一、児玉進、スゲー!キャストは、小暮修(萩原健一)、乾亨(水谷豊)、綾部貴子(岸田今日子)、辰巳五郎(岸田森)、海津警部(西村晃)、森川京子(ホーンユキ)その他ゲストも凄かった。ホーンユキさん、平パン、デラパン、グラビアでは随分お世話になりました。えっ?(^0^;しかし、このドラマのブームっていうか、流行っていうのは、本当に当時遊んでた馬鹿というか不良にしか分からない魅力でした。お調子者で教養も無く、かといって喧嘩が特別強いわけでもないし、根性があるわけでもない。落ちこぼれの代表選手みたいな二人が、人生楽して生きることに情熱を傾けてその日その日を精一杯生きる、そんな不良馬鹿の力強さみたいなものに同時代を生きた世代の共感を得たのでしょうね。言ってみりゃ、これぞまさしく道楽者のヒーローです。そして74年の締めくくりは日本レコード大賞、「襟裳岬」森進一でした。明けて75年は、カルビーのポテトチップ発売、紅茶きのこのブーム。「傷だらけの天使」で一躍若者の共感を得た萩原健一、打って変わって演技派役者の面目躍如「前略おふくろ様」放映スタート。日活ロマンポルノ・SM女優「谷ナオミ」引退。縄で縛って鞭で叩いて、こちらも随分お世話になりました。(^0^;ハワイの貝殻「プカシェル」大ブーム!出たぁ~、1本千円、新島のビーチ(昔ゃ、単に“海”って言ってたよね)で怪しい若者が売り歩いていたなぁ~。実は彼、マー坊って言って六本木アフロレイキでボーイ長やってた奴なんだよね。偶然にも委員長がジミーって奴と二人で新島行ったとき、偶然船で乗り合わせて、なんだかよくわからんノリで買わされちゃった。お土産にって、彼女の分まできっちり二千円取られた。こういうパブリックスペースで目立つカッコしてはいけません。必ず行商のターゲットになってしまいます。悔しいから、「俺らはエンバシーで働いてんだぞぉ~」とか思いっきりハッタリこいてやりましたが、島のディスコ「くろんぼ」でまたも再会。ウェイターのバイトしながらプカシェル売り歩く、奴のそのフーテンの寅さん的生き方には頭が下がる思いでした。(でもないか)いやー、でもこのプカシェル、確かに流行りましたよね。アロハ風シャツに白のバギーパンツ、首には白いプカってのが当時の一般的スタイルだったですね。ちなみに委員長は相変わらず原宿「ハラダ」のアロハにニットバギーでしたが、当時の不良仲間は、同じハラダのアロハでも上下ペアで買い込んでました。今にして思えば「ジンベエ」だよね。同時に、関東、関西で「ニュートラ」がちょっとした流行にもなりました。アンアン、ノンノンの影響ですか。そして極めつけは、キャロル解散、伝説の日比谷屋音コンサート、クールスが前でしゃがんでました。キャロルの親衛隊クールスってことで、ストーンズの親衛隊ヘルスエンジェルス、みたいなー、って矢沢さん言っておりましたが、そうかなぁ~、ちょっと違うと思うんだけどなぁ~って思っていた委員長でした。そしてこの年のレコ大は「シクラメンのかほり」布施明でした。しかしこの年のディスコブームは本当に凄かったですね。新島にもディスコあったし、式根島にも、さらに湘南海岸とか伊豆白浜あたり行っても、変な掘立小屋みたいなところで踊ってたなぁ~。しかもぞうりで。よく意味わかんなかったけど、それだけディスコのパワーが凄かったってことですね。(本当に意味わかんねーぞ)さぁてと、委員長のビバヤング生活は更に盛り上がって、75年年明けと共に、旧バイト組と入れ替わるように続々と馬鹿たち(本当にどーしょーもないバカばかり)が入社してきました。コトの発端は、委員長のバカ友・井の頭線三鷹台駅前で酒屋スーパーを営む家の次男坊君が、自分のバイトの後釜に中学の同級生だったケイゾーを紹介したことから始まりました。そしてこのケイゾーと委員長の出会いは、道楽者人生に更なる興奮と衝撃の日々を与えてくれたのです。続きはまた明日。。。。。。。。
2005年06月05日
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横浜チャイナタウンの戦いは、仏のフジさんの期待を大きく裏切り、結局は深夜のチャン街をブラブラしただけで終わりました。その後、アホ一行は元町のディスコ・アストロに行きましたが、ここらは閉店が皆早くて、商店街はすでに静かに眠っておりました。仕方なく本牧の「リンディ」で踊って、再びチャン街の屋台のラーメンをすすって新宿に戻った道楽者たちでした。委員長の新宿ビバヤングのバイトもかれこれ3ヶ月が過ぎようとする1月中ごろには、バカ友・酒屋の息子も第一次補欠入学の負い目を持つ身、そろそろ学校に真面目に行かざるをえなくなり、後ろ髪引かれながらも楽しいバイト生活に終止符を打ちました。同様にバイト大学生古株二人も辞め、更に栃木のヤンキーにーちゃん、キャバレー上がりの揉み手あんちゃんなど、バイト組が続々と辞めていきました。残されたバイトウェイターは委員長だけ。更におさるのボーイ長までもが、無断欠勤をして店長の逆鱗に触れクビとなりました。さあ、こうなると委員長の天下です。相変わらず忙しい毎日でしたが、黒服連中や支配人などにも結構可愛がられて益々調子に乗る委員長は、バイトのくせしてすっかりホールを独り占めする存在にまでなりました。好奇心の塊のような道楽者は店内の隅から隅まで知りつくし、19歳そこそこでディスコの顔役のようになった自分に酔いしれておりました。ここで出会った数々の人の中でも取り分け面白かったのが、照明係のおっちゃんでした。ブルー系のサングラス(当時はこんなスケベっぽいサングラスはあまりしている人が少なかった)にぼさぼさ髪、不精ひげにヨレヨレのジーンズ、年の頃は30代半ばといったところでしょうか。ステージを正面にして店の最後部、細長い調光卓が置かれた縦長四畳くらいの照明室の主、それがこのおっちゃんでした。劇団四季だかどこかに所属する照明のプロでしたが、委員長が徹夜麻雀明けの日などはここの入り口のドアの間に隠れて、よく居眠りをさせてくれました。普段は無口でとっつきにくいおっちゃんですが、元々職人気質の人ですから、芸人には優しく、委員長のアフロを見て芸人志望の一人とでも思ってくれたのか、委員長にはとても優しくしてくれました。そして、委員長がこの照明室に出入りした理由は、他にも理由がありました。出番待ちの休憩時間に委員長のお気に入り、リンダがここに出入りするのです。照明室の裏に同じくらいの奥行きで、照明室よりはやや広い楽屋があったのですが、男ばかりの部屋に居るのもイヤなのでしょう、優しいおっちゃんのところに来ては調光卓などを悪戯する彼女でした。委員長より更に一回りくらい大きなアフロに、ピシッと体にフィットしたジーンズなどをまとった彼女は、そりゃなんともセクシーでした。顔は委員長好みのモロ南方系、鼻はぺちゃんこ目はパッチリ、そうだなぁ、ドゥーリーシルバースプーンのバンプミーベイビーのシングルジャケットにあるアフロ娘みたいな感じでした。(んなこと言っても、わかんねーだろうなぁ)また、声がハスキーで、片言の日本語が可愛かったですね。姉さんの方はちょっと小金持ち風の日本人のオッサンに見初められて、その後結婚して辞めていってしまうのですが、とにかくこの二人の姉妹は非常にストイックで、営業終了後はバスに乗ってまっすぐ寮に帰り、浮いた噂のひとつもありませんでした。委員長にしてみれば、とにかくアフロのねーちゃんが大好きだったってだけのことですが、姉さんの結婚とともに帰国してしまった彼女とは、この照明室で多少の会話をしたほんのつかの間の恋とも言えぬ淡い思い出だけでした。ある日、徹マン開けのひしゃげたアフロで出勤した時、控え室の鏡の前に座っている長髪の痩せこけた貧乏臭いおねーちゃんに驚いた委員長は、その鏡の前のテーブルに置かれたアフロのかつらが、今委員長の目の前にいる貧乏臭いおねーちゃんのモノだと理解し、さらにそれが憧れのリンダ嬢であると悟ったのでした。リンダ嬢は冷ややかな視線で委員長を見下すように一言、「パゲッ」と言い捨てたのでした。そりゃ徹マン帰りでアフロはひしゃげてっかもしんないケド、ハゲはねーだろ、ハゲはー、とブーたれる委員長。後に知ったことですが、この「パゲッ」っていうのはタガログ語で「ブス」とか「不細工」の意味で、確かに「ハゲ」ではなかったのですが、どちらにせよ、けなされたことには変わりなく、また、委員長憧れのアフロも地毛じゃなくて、更にそのかつらを取ったら単なるフィリッピーナだったことに気づいた委員長は、この日を境に淡い恋から目覚めたのでした。(めでたし、めでたし)さて、照明係のおっちゃんですが、この人も結構麻雀が好きで、仕事帰りによく付き合いました。おっちゃんは調子が出てくると必ず、「お~れぇは~、かわらの~、枯ぁれスス~キ~」などと唄い出します。一体いくつなんだろ、この爺、などとも思いましたが、満員の店内でバンドのスポットをビシッと当てる時のおっちゃんは、さすが職人だなぁ、と感心させられることが多く、未だバンドマンの夢を捨てきれぬ道楽者委員長は、ステージアップの技術などを、ここで自然に学んでいたのでした。あと、もーひとりおっちゃんの休みの日に代わりで来る、ちょっと毛色の変わったにーちゃんもおりました。小柄なフォーク青年みたいな人で、結局、委員長とは一度か二度口を利いただけで消えていってしまいました。生きてるのかなぁ~。この人との会話第一声は、「君、僕と一緒にレバノンに行かない? 人民解放軍へ入って一緒に戦わないか」でした。この一発はかなり強烈でした。とにかく委員長の頭の中にあるどのカテゴリーにも入らない人物でした。もちょっと人の頭見てからモノ言えよって感じでしたが、明るく好青年と言う感じで、厭味なところはありませんでした。本当に2度ほどおっちゃんの変わりに来ただけでしたが、ちょっと不思議な人でした。本当にレバノンに行ったのでしょうか?こんな変な奴らばかりの舞台裏でしたが、やっぱりお友達として面白かったのはバンドのメンバー達でした。彼らは委員長のことを、アフロと呼び(タガログ訛りでは、アプロって発音します)、小僧のように使われたこともありましたが、彼らから学んだ音楽知識は、後の委員長の音楽活動に多大な影響を与えてくれました。これはマジで本当です。楽曲のコピーの仕方や、コーラス、ボイスコントロール、エンターティメントとしてのショーアップ、チームワーク等など、バンドにこだわらず芸人としてのプロ意識みたいなものを自然に学んでいた委員長でした。その代わりといっちゃなんですが、よーく軟派のお手伝いもさせられました。とにかくバンドマンは皆スケベーです。と言いながらも、一緒につるんだ委員長も結構スケベーなヤツだったのでしょう。しかし当時のバンドマンはモテましたね。何はともあれモテました。こんな不細工なヤツなのに、なんでモテるのかなぁ、などという素朴な疑問もありました。19歳の委員長にはまだ女性を見る目も、遊び方も、そりゃまだまだ子供でしたから、彼らとつるむようになって、こんな世界もあるんだ、というような好奇心丸出しの世界でした。まあ、言い寄ってくる女が、みぃ~んな良い女とは限りませんが、手当たり次第に手をつけてしまう節操のなさと言うか、腰の入ったスケベーというか、フィリッピン人特有の感性だとばかり思っていた委員長でしたが、後年、バンドマンのスケベー根性はボーダーレスなのだということを体感するのでありました。
2005年06月04日
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ブルースリーとチャイナタウンそしてディスコ‘74年のブームとして忘れてならないのが、香港が生んだスーパースター・ブルースリーです。アメリカ映画「燃えよドラゴン」の超大ヒットで、世界的なヒーローとなったブルースリーですが、残念ながらその栄光のBENEFITを受ける間もなく他界してしまいました。(合掌)74年はそんな彼が残した過去の作品(香港映画)が続々と公開され、空前絶後のカンフーブームと相成りました。ディスコでもカンフーや空手を取り入れたダンスバージョンが現れ、踊りにもそんな影響がチラホラと出ておりました。以前にご紹介した「吼えろ!ドラゴン・カンフーファイティング」なども、その典型的なパターンで、一時「カンフー」などという踊りも出たりしました。何のこたぁない、ハッ、アチョーッとか言って空手の真似をするだけなんですが、これが結構面白くて、ジェームスブラウンのLAのライブ(委員長はVIDEOで見たのですが)では、JBでさえ、良く分からん構えで空手の真似なんぞもしてましたね。竹中直人(漢字間違ってない?)氏が、デビュー当時よくこの「燃えよドラゴン」のワンシーンの物真似をしてましたが、あんな感じの人がディスコにはザクザクおりました。サントラ盤なんかも時々かけるDJがいたりして、フロアでブルースリーの物真似合戦みたいなことになったこともありました。さすがに委員中はSOUL小僧だったので、どちらかというとブルースリーよりは黒人武道家ジム・ケリーの方に関心がありました。彼もB級映画では「ブラックドラゴン」の名で活躍しており、かなりの人気がありました。つい最近では、「UNDERCOVER BROTHER」っていうかなりおバカな黒人B級映画にゲスト出演しています。ちなみにこの映画、なんと、あのJBもゲストで出てますし、70年代のディスコヒットや、当時の黒人のファッションとか文化が散りばめてあって、道楽者の親爺にはお薦めの映画です。ということで、当時委員長が働いていた新宿南口ビバヤングの従業員も、皆一様にかぶれまして、特におサルのボーイ長などは委員長が高校生の頃に買ったヌンチャクをプレゼントしてあげたら、異常に喜んで、仕事が終わると赤いちゃんちゃんこを脱いで毎晩振り回しておりました。もちろんこのワイロのおかげで委員長の待遇がずば抜けてよくなったのは言うまでもありません。それとは別に、このカンフーブームを冷ややかな目で見る一人の道楽親爺がおりました。彼の名は、藤井幹候(カンコウは名前じゃなくて幹部候補生の略ですヨ)、別名仏のフジさん。麻雀がやたら弱いくせにすぐに仲間に入りたがり、もらったばかりの給料を丸ごとむしりとられてもちっとも懲りずに遊びたがる、変なおじさんでした。元々は車輌部で重役方の運転手をしているのですが、大した仕事もなくぶらぶらさせておくのはもったいないということで、夜の6時頃から11時までは店に勤務させられたのでした。11時を過ぎると、系列のキャバレーやクラブへ接待のお客様の送迎をしたり、重役の送迎などに回ります。特別、運転手の仕事がない日は閉店時間の深夜2時間まで店にいて、閉店後は皆で麻雀を打ったり、飲みに行ったりしていました。鴨がネギ背負って歩いているような、すでに30歳近いボーっとしたおっさんでしたが、委員長たち若手には結構人気がありました。彼のポジションも結構いい加減ではっきりした序列もないので、中途半端な存在がバイト組と似ていたこともあり、歳の差があるわりにはよーくつるんで遊びました。運転手と言っても早いときは11時に送迎に行って、12時前に帰ってきてしまいます。もちろん本来なら早く送迎が終われば、また店に戻らなければいけないのですが、そこはそれ、もしそんな真面目な人だったら、この歳までこんなとこでグダグダしてるわきゃないので、間違いなく道楽者の一人でもありました。そして委員長たちは、このおっちゃんが送迎のあとの社用車を自由にできることを見逃しませんでした。バイトのお仕事は12時で終わりです。送迎が早ければ11時30分にはおっちゃんが戻ってきます。遊び盛りの道楽者が集まれば悪事の相談も即決です。DJのマチャアキとか酒屋の息子などが委員長と一緒になって、おっちゃんを遊びに誘います。仏のフジさんは子供たちに慕われるとイヤとは言えません。それに下手に逆らうと、フジさん一番の楽しみである麻雀の仲間に入れてもらえません。ということで、麻雀でフジさんから巻き上げた金で懐が少し暖かくなると、今度はドライブをおねだりして深夜の六本木「ソウルエンバシー」などへ繰り出す委員長たちでした。こんだけカモられてもグチのひとつもこぼさず、一緒に遊んでくれた仏のフジさんですが、ついにその本性が露になる事件が起きました。ある日のこと、いつものようにフロアで暴れるタコを皆でボコボコにして店から放りだしたところ、なんとこのタコが応援を連れてリベンジに現れたのです。ボコボコにされてゴミくずのようになったあんちゃんが連れてきたのは、ボタンのない蛇腹の学生服を着たガタイの良い二人組でした。支配人以下黒服数名が居並ぶ、ビバヤングのフロントに現れた二人組は静かに、そして迫力のある言葉で言ったのです。「どういう理由でコイツがこんなめに遭わされたのか説明してもらおうか」結構な迫力に少しは引きかけた支配人のネズミの梅ちゃんは、その強面の顔とは裏腹に意外と小心者だったので、すぐに黒服たちに問いかけました。「誰か知ってるか?」そこで結構イケイケな黒服、白川カンコウ、大池カンコウが名乗りをあげます。「踊り場で暴れたから帰ってもらっただけだけど、こっちも商売だから他のお客さんに迷惑がかかると困るからね」騒動を聞きつけて、その他の黒服やウェイター君たちがどっとやってきます。学ラン二人組はひるまず言い返します。「だからってこんなに殴ったり蹴ったりしていいのか」「こっちも従業員が抑えるのに怪我してんだよ」大池カンコウがフロント前エレベーターの横の非常口を開けて言います。「ここじゃ他のお客さんの迷惑になるから、こっちで話そう」これは話じゃ埒があかないから殴り合って決着をつけようという無言の合図です。大池カンコウ、白川カンコウの二人が先導して非常口に出ます。ボコボコ野郎はエレベータ前に置き去りです。4人が出て非常口のドアが閉まりかける寸前、仏のフジさんがパッと滑り込みました。ガーンと音を響かせてドアが閉じた瞬間、ドタンバタン、ゴツゴツ、ンナローッ!ウッ!バタッ。静かにドアが開いて目に青あざの大池カンコウ、蝶ネクタイがちぎれた白川カンコウ、そして鼻血と口から血を滲ませた学ラン二人組が出てきます。その後ろから仏のフジさんが出てきて、エレベータの下階ボタンを押します。フジさんは委員長を見つけて「下まで送ってやって」と声をかけます。委員長はおずおずと開いたエレベータにボコボコ野郎を乗せて、1階のボタンを押します。学ラン二人組とフジさんが乗り込みます。従業員全員の熱い視線の中、エレベータのドアは閉じました。密室の中、出入口のボタンを押す委員長、その後ろに学ラン二人組とボコボコ野郎、そしてその後ろにフジさん。この時ほど1階までの到着時間が長かったと感じたことはありませんでした。無言のまま到着したエレベータから降りる学ラン二人組。目頭と口に血を滲ませた学ランがフジさんに一瞥くれて、「あんたも若いねぇ」そう言い残して3人は紀伊国屋方面へと立ち去りました。前で手を組んだ姿勢のフジさんの手の甲は、皮がすりむけて血が滲んでいました。その時のフジさんの顔はいつもの仏顔でなく、蒼白のホラー顔になっておりました。「奴らさぁ、パッと見たときにさ、拳ダコがあったからさ、こりゃまずいと思ったのさ。いくら大池でもさ、やばいかなと思ってね」この痩せ型の単なるボーっとしたオッサン、藤井カンコウが剛柔流二段の凄腕であることを、この時初めて知った委員長でした。つまり、運転手の仕事もその腕を見込まれてのことだったわけですが、みかけは単なる淋しいオッサンのクセにこんなかくし芸があったことは皆知らなかったのです。さて、話は戻りますが、委員長他道楽者一派はこうしてよくフジさんをそそのかしては、夜遊びを繰り返していたのです。しかも遊ぶ金はその本人から麻雀で巻き上げた上に、会社の車を持ち出させたあげく運転手までさせて、やりたい放題の道楽三昧。ところが、度重なる夜遊びに、ちょっと疲れたフジさんからクレームがあがりました。「ディスコもいいんだけどさ、俺踊れないし、酒も飲まないから。。。。俺はどっちかというと麻雀の方が良いんだけどな」さあ困った委員長はすぐに見え透いた企画をぶち上げます。「フジさん、横浜行ったことある? 中華街。あそこはさ、やっぱカンフーの本場だからさ、スゲーのがいっぱいいるらしいよ」「カンフーていうとやっぱり少林寺拳法かな?」異常にノリ安い人でした。「さあ、太極拳とか、色々あんじゃないの?」更に膨らます委員長。「そんな奴らがウロウロしてるの?」フジさんだいぶと本気です。「さあ、俺も見たわけじゃないけど、結構腕自慢がゴロゴロしてんじゃないの」ここまでくればサクセス!「行ってみようか?場所分かる?」しめしめ、今夜は横浜まで遠出だぜい。12時、待ち合わせの甲州街道でフジさんと落ち合った委員長たちは唖然とします。なんとチャイナ服を着込んだフジさん、しかも丸型のサングラスをかけてニヤニヤしています。更に車のトランクを開けて、自慢げに委員長たちに見せたものは、ヌンチャク、トンファ、サイ、白の空手着、一体この人は。。。。。。。。。。。さすがにビビッた委員長でした。
2005年06月03日
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1974年頃のディスコバンドこの時代はロックバンドからディスコバンドへと、流れが変わって行った時代でもあります。それ以前は新宿アシベなどに代表される、ゴーゴー喫茶(喫茶っていうところがスゲー)とか、アングラ・パブとか言われる、実態のつかみにくい店が主な踊り場でした。といっても、この頃の委員長は小学生高学年から中学生くらいの歳だったので、実際に体験したことはありません。従兄弟の姉ちゃんとか兄ちゃんの話を聞いて想像をめぐらせたものです。俗に言う耳年増そのまんまですね。アシベはグループサウンズ時代の名門でしたから、昔から黄色い声(昔はよくこーゆー表現してましたね)を上げて失神しちゃうような女子高生とか、俗に言う不良の溜まり場でした。委員長も一度、タイガース見たさに従兄弟の兄ちゃんに連れてってもらったことがありますが、道路までとぐろを巻いた異常な列に、結局入場できず、新宿コマボウルでボーリングやって帰ってきました。そんな委員長が怪しい踊り場に出入りを始めたのは、高校生になってからのことでした。新宿で特に今でも印象が強いのはなんと言っても「サンダーバード」ですね。穴倉みたいな店でいかにもアングラって感じだったし、名前からしてSOULというよりはROCKって感じの店でした。当時の委員長はカッコこそツッパリでしたが、内面はグランドファンクとかツェッペリンとか長髪のROCKERに憧れていたので、結構お気に入りの店でした。客層も革ジャンにボンタンやコンポラ等の、いわゆるヤンキー兄ちゃんに混じって、長髪キタナ系ヒッピー姉ちゃん、兄ちゃんがいたりして、危ない雰囲気は最高でした。それにこの当時、店内であんぱん(シンナー)吸ってたのは、ツッパリ小僧じゃなくてフーテン系ヒッピーでした。ダンスフロアはレコードはジェームスブラウンやサム&ディブのR&B系で、生バンドはうって変わってハードロックってな感じで色分けされてました。さすがにロックじゃステップは踊れませんが、そこはそれなりにゴーゴーダンスばりのテキトー踊りや、プラウドメアリーみたいな曲はステップで踊ったりとか、適当に客がそれなりにバリエーションを楽しんでおりました。中には長髪のラリパッパ姉ちゃんみたいなのが、JBLのスピーカーに頭突っ込んで髪振り乱して首振ってたりして、結構わけわかんない店でもありました。当時を振り返って印象に残っているのは、「太陽に吠えろ」のテーマをかなりスローダウンして、けだるいビートにディストーションの深いギターを載せたバンドの演奏が、まさに新宿って感じで思春期真っ只中の委員長を興奮させました。早速家に帰ってからギターの練習、よく真似して弾きました。もちろんのこと、この頃のバンドはすべて日本人でした。あとは新宿歌舞伎町のど真ん中、ジョイパックビルの7階(だったと思います)にあったプレイハウスが結構渋かったですね。記憶にあるのは双子のディオシンガー・キューピッツ。彼女たちは後年マキシマムって名前で、チャーリーズ・エンジェルスのサブテーマでデビューしました。英語で歌ったテーマ「NOTHING」は結局売れなかったですね。(無念)あとは後にフーリンカザンってバンドでデビューしたグループが出てました。当時のレパートリーで記憶に残っているのは、マンドリルのフェンスウォーク、ホットチョコレートのブラザールイ、ドゥビーのロングトレインランニング、ウォーのミーアンドブラザー、CCRのプラウドメアリー、カーティスメイフィールドのフレディの死、スティービーの迷信、サンタナは結構演ってましたね。ブラックマジックウーマン、エビルウェイズ、僕のリズムを聞いてくれ、サンバパティ、皆定番って感じだったですね。あとは、スライのサンキュー、テイクユーハイヤーとか、ファンキーというよりはブラックロックみたいな呼ばれ方してましたね。かなり昔のことなので、時代がちょっとズレているのもあるかも知れませんが、コピーの宿命というか、管楽器の少ない曲が多かったです。時々ツイスト系なんかも混ざってました。同じく歌舞伎町のパブトゥゲザー(当時はパブだった)も有名でした。ご存知のように、JBはじめ一流どころが過去にステージを踏んでます。そしてこの後、この流れを塗り替えた一発が登場します。KOOL &ザ・ギャングのファンキースタッフです。よく、ディスコの流れを変えたのはコモドアーズのバンプだったと言われてますが、正直言って委員長が当時遊んでいたディスコではあまり踊った記憶がありません。どちらかと言えば、ファンキースタッフの大ヒットというか爆ヒットの方が印象が強いです。とにかくどこもかしこもこれがかかると大騒ぎでした。一度、横須賀どぶ板通りの刺繍屋の息子に誘われて、横須賀ニューサンタナへ行った時などは、夜中にブラザーが酔っ払ってホイッスルをピーピー鳴らしながら歩いてたし、CAN GET ENOUGH!ってトコでRIGHT ONとか合いの手が入ったりと、そりゃもう凄い勢いでした。このアルバム、ワイルド&ピースフルは最高傑作だと思うし、これほどディスコDJに重宝されたアルバムは無いのではないでしょうか。委員長もバンドマンに憧れ、弁当代をちょろまかしながら丸井の月賦で買ったグレコのテレキャスターが、ついに日の目を見ることになったこの当時のことはしっかりと覚えています。当時のギタリストの憧れはレスポールかSG、ちょっと渋めでストラト、テレキャスはいまいちメインの座からは外れておりました。だから丸井でも一番安かった。二万九千円、月々二千九百円の10回払い。仕方なくキャロルなんかをコピーしていた委員長は、このテレキャスの凄さを知らぬまだガキンチョでした。やたらとデカイ音にして歪ませるギターしか知らなかった委員長は、ギターも打楽器の一種なのだと気づいたのがファンキースタッフでした。このリフ、カッティングはまさに目から鱗状態。ギターの使い道は奥深いことに気づいた委員長でした。更に新宿ビバヤングでフィリッピンバンドとお友達になった委員長は、彼らの演奏するエリッククラプトンのアイ・ショット・ザ・シェリフでレゲエ、ロック、ソウル、音楽にジャンルはないのだ、ということを身を持って知ったのでした。踊っても、聞いても、気持ち良ければ、それがすべてだということを悟ったのでした。ちなみにこのとき、彼らからロングトレインランニングのリフや、JBのセックスマシーンのカッティングなどを伝授され、いよいよ道楽者の泥沼にハマっていってしまった委員長でした。ちょっと話が道楽者過ぎたかなぁ?わかりづらかった人は、また明日のバカ話をご期待下さい。
2005年06月02日
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クリスマス篇<PART3>ディスコの裏話、バイオレンス系が続いたので、今日は音楽の話をしましょう。まずはクリスマスで一気に盛り上がっていく、新宿のディスコシーンをざっと振り返ってみます。当時のヒット曲で特に印象深いのが、「吼えろ、ドラゴン/カンフー・ファイティング」ですね。この曲は出だしにちょっとした仕掛けがあって、妙な雄叫びと中国風のメロディーの絡みから入っていきます。チャイナタウンを鼻歌で歩く武道家ってなイメージのイントロです。このようなイントロが長めのダンスナンバーは、チークタイム開けのトップナンバーによく使われました。照明の落ちたダンスフロアーには数組のカップルが抱き合ってチークを踊っております。パートナーのいないあぶれた客(ほとんどが野郎)は、各テーブルで仕方なく酒飲んでツマミ喰ってウダウダしています。スローナンバーがゆっくりとフェイドアウトして音が消えかかる頃、「おっほほほーっ~、おっほほほーっ」店内に響き渡る雄叫びが、テーブルの客は一斉に立ち上がってドドッーっと先を争うようにダンスフロアに突進していきます。その姿は、まるでサバンナの獲物に群がるハイエナの一団のように、皆踊り場目指して突進していきます。通路は満員電車の乗降口のようにごった返し、この時ばかりはウェイター君たちもサッと両脇に寄ってこの流れを通過させます。さて、フロアはそれぞれのポジション争奪戦も終わり、今や遅しと曲の幕開けを待つ顔に、照明係のおっさんの粋な計らいでスポットライトが思わせぶりにフロアを照らします。「Everybody was KunFu fighting!」出たーっ!バンプ・ビートに全員噴火、ドカーンと一気に昇天、更に煽っていくDJ。基本的に踊りはバンプだったのですが、そりゃ相手あっての踊りですから大概の野郎は好き勝手に踊るしかありません。時々、野郎同士でバンプを踊ったりする「しったか野郎」もいましたが、気持ち悪かったですね。男同志で尻ぶつけて何が楽しいんでしょうか?この当時、ジ・アザー、ゲットなどのステップも生きておりましたが、バンプの大ヒットで踊り場は急激な進化を遂げていきます。スティービー・ワンダーの迷信(スーパーステーションって、スゲー駅があるのかと思っていた奴らも少なくない)のプッシンクールとか、ペンギン、ホットパンツ、ブレイクダウンとか、一人でバリエーションを作れる踊りを適当に混ぜて踊ることが多かったですね。これらを全部ひっくるめてステップって呼んでるけど、委員長は、これはステップとは言わないような気がしますね。(当時から同じ思いでした)例えば、シュープリームスのStop in the name of love とか、振り付けの入ったものなんかがステップってことで、その他はフリーダンスのバリエーションというかパターンだと思うんですけどね。オージェイズの裏切り者のテーマとかジャクソンファイブの窓辺のデートとか、足の動きは皆一緒なんですけど、曲のブレイクに当たるところで曲に合わせた上半身の振り付けが入るのが特徴ですね。あと、ゲットレディなんてのは果たしてステップっていうのかなぁ?なんて思ったりしますよね。だって、あれ足(ステップ)に動きって特にないでしょ。今思えばタケノコ系かななんてね。ゲット、レーディーって手打って指差したりなんかして、いわゆるステージで歌う時の振り付けだよね。可愛い人よとかも同じですね。だって、その後出てくるウォーターゲートとかオールドマンなんてのは、ステップ扱いはしてませんよね。名前=ダンスでした。そこいくと、やっぱりチャチャはすごいですね。これはマンボとかモダンダンスの流れですから、不滅のステップというべきですね。ジ・アザーとかの流れで、当時すでにオッサン近くの年代の人にプロフェッショナルみたいなチャチャおじさんが結構いましたね。数人の仲間で並んで踊って、チャチャの間にいろんな呼び名のステップが入ってきます。リーダーが声をかけて、「アオヤマ」とか「ターン」とか色々なバリエーションをアドリブで加えていきます。これはカッチョよかったですね。今ならさしずめジャニーズ系ですか?ハマチャチャとか、ニューチャチャとかそれぞれの土地によって独自のアレンジが施されていました。つーことで、昔は結構ステップなどと言う敷居が高かった「踊り場」も、バンドが入った大型のパブ系の登場で一般市民にも開放されたって感じですかね。タイミング的にも、バンプみたいな男女ペアで踊るアメリカ風文化も適度に入って、ちょうどこの時代が変わり目だったのでしょう。当時、「アメリカン・バンプ」なんて名でよく紹介されてましたけど、じゃ、イングランド・バンプとかジャーマン・バンプとかあるのかって突っ込みたくなりますよね。誰ですかね、こーいったテキトーぬかすヤツは。それから、やっぱりこの時代のスパースターはスリーディグリーズでしょう。「荒野のならず者」スゲータイトルですよね。なんか西部劇の主題歌みたいに思ってたヤツも随分おりました。「エッチね、このスケベ親父は」ってな歌なんですけどね。これも何故かチャチャでした。スリーディグリーズはすべからくチャチャ専門でした。ちなみに空前絶後の超ヒット「TSOPソウルトレインのテーマ」も何故かチャチャで踊ってましたね。一度、委員長とDJのマチャアキでビバヤングの店長にお願いして、ソウルトレイン・ゲームをやらしてもらったことがありましたが、悲惨な目に会いました。TSOPが流れた途端、皆で並んで一斉にチャチャ大会。店長には「何これ?」って言われるし、一部ソウル通のお客には「ダッセー!」とか罵られる始末。新宿では無理なのだとしみじみ悟った委員長でした。実は、このソウルトレイン・ゲームっていうのは、マチャアキDJとか委員長たちが仕事の終わった深夜、車輌部の運転手のおっさんたぶらかして、よく横浜まで遠征したときに覚えた遊びだったんですね。横浜の本牧町に「リンディ」っていうおしゃれなディスコがありまして、店の中にロールスロイス(だったと思う)のボディがディスプレイしてあって、その中にDJブースがある、当時としてはかなり進んでいたお店でした。お客も当然のこと、ベースの人たちですからちょっとした外国に来た雰囲気ですね。でもって、深夜ながら、客で賑わってくると、従業員からアナウンスがありまして、「今からソウルトレイン・ゲームをやりますから二列に並んで下さい」って言われてフロアに出て、中央を開けて二列に並びます。ここでTSOPがかかって、順番にペアで踊りながら中央のスペースを抜けていく、というTVのソウルトレインのシーンを再現するわけです。ベースのブラザーたちは当然パートナーと来ていますから、踊りは下手でもそりゃペアでちょっぴりセクシー、「おーカッチョいいなあ」って身震いするほどしびれてしまった委員長だったわけです。閉店時間が来て、興奮冷めやらぬ委員長たち新宿のアホ一行は、道路を挟んだ対面のゴールデンカップスで夜を明かしてから、スゴスゴと新宿へと引き上げて行くのが慣わしでした。このカップスも由緒ある店で、キャロルなんかも出てた老舗でした。当時はもうさびれかかってて、白人の酔っ払いが男同士でウダウダしているような店だったですね。あと、新宿ではほとんどの大箱にバンドが出てて、これがまた結構生かしてました。まだ日本人のバンドが大勢いました。いつの間にかみいーんなフィリッピンバンドになっちゃったんですけどね。安くて重宝されてましたが、彼らもソウルドラキュラあたりが流行り出す頃にはお払い箱になっていきました。道楽者の末路は万国共通です。(寂)
2005年06月01日
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