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ヒューズ・コーポレーション、ファンキー・ドールズ、のパッケージショーを通じて素晴らしい学習をしたBAD CHILDRENは、ようやくダンスショーとしての全体像が見え始め、振り付けも今度はきちんと作り、音源もSOULばかりにこだわらず、効果音なども取り入れて全体的な演出を考えるようになっていったのです。そして、ここで思いがけない仕事が飛び込んできました。たまたま店に遊びに来ていた音楽プロダクションの社長が、委員長たちのショーを見て大変興味を持ってくれ、関係のある六本木のSECという小さなサパーディスコの仕事を持ってきてくれたのでした。場所は旧防衛庁近くのビルの地階、ガラスで仕切られた半円形のダンスフロアの文字通りSecret Spaceでした。ただし、店の規模からメンバーは3~4人で20分程度のショーを2回、10日間の契約でした。もちろんピンハネはなし。そのプロダクション社長は、もし上手くいきそうだったら自分のところに所属して欲しいというようなことでした。そこで委員長は、自身とマリ、ヒトミの女2人、男1人でパッケージを作り、実験的な仕事を請け負ってみることにしました。構成は、オープニングとエンディングに映画「キャバレー」のサントラを使って、全員がゼンマイ仕掛けの人形を模して踊りを見せるパッケージにしました。EW&FのSing a Songで明るい感じの踊りを見せてから、オハイオプレーヤーズのSweet Sticky Thingでパントマイム風のロボットを加え、最後はグラハムセントラルステーションのIt’s all rightでちょっぴりファンキーにアクロバットを入れて盛り上げエンディング。この10日間のショーの体験は、また素晴らしい勉強になりました。ショーの構成もさることながら、踊りのバリエーションも観客側から見直すことや、目を引き付けるEye Catchの重要性など、SECの部長さんやDJにもアドバイスを貰い、新しい道が少し開けた思いでした。このお店は近隣のナイトクラブのホステスさんや芸能人の常連も数多く、深夜から混み始めるので、2回目のショーはそれなりに盛り上がりました。ちなみにこの時、「ずうとるびい」というお笑いグループの山田隆夫さんが委員長たちのショーを気に入ってくれて、3日ほど通い詰めてくれました。翌週のテレビ番組「笑点」で歌手デビューした「ずうとるびい」、出だしの振り付けがBAD CHILDRENショーの人形振りそのまんまでした。なんのこたぁない、踊りとアイディアをパクられただけでした。(芸能界は甘くない)この仕事を請けたことで視野も広まり、以前にもましてSOULとかFUNKへのこだわりが薄れていきました。というか、ショーの面白さが解り始め、もっと自由にもっと色々なことができる可能性に気が付いたのでした。なぜ今まで頑なにFUNKにこだわっていたのか、自分でも呆れ返るほどの割りきりが生まれ、踊りそのものに対する興味も一層深いものになっていきました。ヒトミの勧めで、日曜朝のテレビ番組「ザ・宝塚」も見るようになったし、モダンダンスのステップも覚えに行ったりして、選曲も仕掛けの多い曲をSCOREにして振り付けするようになっていったのです。(かなりプロっぽくなりました)自分の中で大まかな形が淘汰され始めると、不思議なもので環境も自然と淘汰され始めていくようです。ダンサーを辞めたトオルはハレムで働き出し、そんな流れでマリとヒトミもハレムに頻繁に出入りするようになり、マリはブラザーと付き合いだし、ヒトミはハレムの元店長サミーさんと付き合い始めるようになりました。同じ頃、Q&Bのベルもトニーという相棒を見つけてコミックダンス・ショーを始めるようになり、これらの取り巻きがTomorrow USAのBAD CHILDRENに絡むようになってきました。ショーの合間にベル&トニーのコミック・ショーが入り、ゲストでサミーさんが一曲踊って、サミー・ディヴィスJr.の物真似をしたりと、独自の雰囲気でバラエティ・ショーの趣きさえ窺がわせるような展開となっていったのでした。DJの方もジョーがビザの切り替えで一旦国外に出ることになり、アシスタントのシンガポールのおっちゃんも辞め、そのかわりにラジオDJなる変なヤツが一時やってきました。かなり年配のDJでしたが、触れ込みはプロのラジオジョッキーってことで、ジョーの穴を埋めるためにダイタン商事のツテを辿って潜り込んできました。ギャラの割にはたいしたことの無いヤツでしたが、特別生意気コクわけでもなく、嫌なヤツでもありませんでした。妙に所帯じみていたことだけが印象に残っていますが、名前すら覚えていないので単なる通りすがりのキャストといったところでしょう。(1ヶ月もいなかったんじゃなかったかな)彼との唯一の想い出といえば、楽屋裏口の非常階段で、ジョイと彼と委員長の三人で夜空を仰いでタバコを吸ったことくらいでした。この時、彼が夜空上空を飛行する黒い物体を見つけて、「あっ、カラスだ」と叫んだのですが、それは明らかにカラス以上の大きさの物体であったし、飛行形態も鳥とかではなく変則的な動きをして飛び去っていったのです。ジョイが「カラスじゃないよ、あれはUFOだよ」と言い、「そうかぁ?」と委員長も半信半疑、謎の物体を目撃した三人でしたが、このプロDJとはこれが最初で最後のタイムシェアでした。(3人ともぶっ飛んでいたわけではありません。あれはやっぱりUFOだったのかなぁ?)話が逸脱しますが、もうひとつジョイとの想い出で楽しかったエピソードがあります。あるとき委員長が横田ベースのブラザーから飛び道具入手しまして、早速みんなで楽しみましょうということになり、マチャアキ、ジョイと委員長の三人はジョイの田無のマンションに向けて意気揚々とタクシーに乗り込んだのでした。道すがら、草の品評や飛び具合などを、シッタカして喋くる委員長の与太話にそっと聞き耳を立てていたタクシーの運ちゃんが突然、「おたくら矢野アキ子って知ってる?」と唐突に聞いてきたのです。「あー、あの、いろはにこんぺいとう、とか力の抜ける唄でしょ?」マチャアキが答えます。「わ~らにぃ~まみれてよぉ~って、三橋美智也のカバーとかやってる奴だよね」委員長も以前この歌聞いて力が抜けた経験があります。「あれね、いいらしいよ、一服決めていくと」運ちゃんしみじみ言います。「えっ?」一同汗が出ます。「コンサートなんか見に行く奴ぁ、ほとんど一服決めてるみたいよ」運ちゃん、ちょっと嬉しそうです。「はぁ、そうなんすか」なんなんだよ、このオヤジは。「私らの業界もね、最近は冷たいのが流行っててね」誰も聞いてねーよ、そんなこと。「寝ないで仕事しないと稼げないから、皆いっちゃうんだよね」あぶねーなぁ、ひょっとして今決めてんじゃないだろうな。「ピンクフロイドとか聴いてんの?」大きなお世話だろ。「ええ、まあ」というような会話のあと、一同はジョイのマンションになだれ込み、ミッドナイト・パーチーが始まったのですが、今の運ちゃんの話題になった途端、皆BAD TRIPしてしまい、「あれ、もしかして潜入捜査官かなんかじゃねーの」「現行犯で踏み込まれたりして」「降りたときじっとこっち見てなかったか」「シャブとか持ってないかカマかけてたんじゃねーか」「矢野アキ子とか妙に詳しかったよな」「最近、タクシーとかダンプとかの運ちゃんに多いらしいぜ」時は金なり、煙は時なり、楽しいはずのパーチーは繰り返される不毛な会話で、一同を不安の闇の中へといざなったのでした。昨今の無軌道なドラッグ乱用に比べれば可愛いもんでしたよね、当時は。いくら道楽者とはいえこればかりは推奨しているわけではありませので、是非みなさんははまり込まないように注意して下さいね。ドラッグについては昔からマリファナ論争とか色々取り沙汰されていますが、委員長自身は個人的に否定も肯定もしません。最近では脳内覚醒物質ドーパミンなどの存在も明らかにされてきて、人間が覚醒を求める本質自体にメスが入り始めてもいます。ただ、社会的な立場を維持するのであれば、周りの人に影響を及ぼすことを考慮すべきだと思います。また、その根底には資本主義社会のシステムが働いていることも知っておくべきでしょう。医学的データからも、マリファナの中毒性よりアルコール依存性の方が高いということも実証されているわけですが、酒は合法的に売られています。だからといって現行の法律規制を犯せば罰せられますから、それを承知で道を極めるのならばそれはそれで個人の責任において他人がとやかく言うことではないと思っています。ただ、周囲の方々の生活を脅かしたり、危害を加えるようなことになると、これは単に個人だけの問題では済まされませんから慎むべきではないでしょうか。その昔、日本の国会議員代表のおっさんが黄金の三角地帯へ出向いて行って、ゲリラ部隊の隊長に案内されて広大なケシ畑を視察したことがあったそうです。世界的なドラッグの蔓延と三角地帯の貧困を憂いて出張って行ったおっさんですが、したり顔で隊長にご高説をのたまったそうです。「そば粉を作りなさい。これだけの土地なら十分にやっていけます」経済大国ニッポンからやって来たコッカイギインのおっさんの話ですから、ゲリラ部隊の隊長さんは目を輝かせて尋ねたそうです。「それで、そのそば粉とやらは一体いくらくらいで取引されるんですか?」「そうだね、経済支援という名目もかねて、キロ千円以上は出そうじゃないか」世界平和と麻薬撲滅、正義を謳うお偉い先生のそば粉のお話でした。「蕎麦は地球を救う」
2005年07月31日
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トオルとテツの去った後、メンバー探しに奔走する委員長は、夜な夜なアチコチのディスコを徘徊しつつQ&Bに顔を出すと、ベルが待ってましたとばかり「相談に乗るでぇ」と言ってくれて、エンバシーの後輩を一人紹介してくれました。更にQ&Bに屯していたBAD CHILDREN二軍みたいな連中も我先にと、こぞってやってきました。とは言うものの、アフロしてりゃいいってもんでもないし、トオルの後釜、テツのアクロバットの空いた穴は結構でかくて、簡単には補充できません。いっそのことベルに入ってもらっちゃおうか、って言ったらヒトミとマリに猛反対されてタジタジになりました。「私らのイメージが壊れる」だって。一応、ベルの顔を立ててエンバシーあがりの若手を使って練習はしてみましたが、どうもイマイチで、短期間で無理やり仕上げなきゃならなかったこともあったので練習がきつかったせいか三日目にはすっぽかされて、結局はボツ!当面は、二軍でまとわり付いていた当時16歳のKGを、少々やばいと思いつつも起用することにして、さてもう一人が中々決まりません。とにかく血眼になって後釜発掘に奔走の毎日でした。踊りの上手いヤツがいると言われりゃ出かけ、芸達者なヤツがいると言われりゃ出かけ、それでも中々ピンと来るヤツにはお目にかかれません。ところがそんなある日、後釜は自らUSAにやってきたのでした。長身の逆三角形アフロ、フランケンシュタインを思わせるようなロボットを巧みに踊るヤツ、チャーリーの登場です。ヒトミもマリも賛成はしませんでしたが、反対もしませんでした。(どっちなんじゃい)チャーリーは当時異色のダンサーズ、ブラック・ファントムというグループにいて、プロレスで言う悪役チームみたいな感じのショーをやっていました。暗い感じのメンバーばかりで、SOUL版KISSみたいな感じかなぁ。でも、踊りはまあまあいけそうだったし、ちょっと変わったカラーも入れてみたらどうかと思い、彼に声をかけました。実際のところ本人も後釜狙って来ていたようで、即決でした。これで何とかメンバーは補充したし、あとは新しい振り付けを考えて、即練習を始めようってなことで、一同気合を入れて新生BAD CHILDRENの再スタートとなりました。今までのパートナーはプライベートでもパートナーでしたから、良い部分も悪い部分もあり、どちらかといえば仲良しクラブのようなもんで、プロ意識は薄かったように思えます。比べて新生BAD CHILDRENはショーアップに集中した構成を考えて、身長体型もうまく合わせ、曲によってはパートナーの組合せも変えたりすることがスムーズにできました。ヒトミやマリも吹っ切れたのか、踊りに専念するようになり、当初に比べると多少はショーらしくなってもきました。メインのショータイムの振り付けを完璧にするまでのゴカマシに、Q&Bから二軍を連れてきて踊らせたり、変則的に4人で踊ってみたりと色々な試みも行いました。このころ、4階にあったBig Togetherでヒューズ・コーポレーションのライブショーがあり、なんとその前座にジョニー率いるFUNKY DOLLSが出演すると聞いて驚きました。彼らとは池袋のアダムスアップル以来で、ダンサーズのパッケージ・ショーを見るのはこれが初めてでした。ショーの司会はマイク越谷さん。簡単な紹介の後、まずは前座のダンスショーです。オープニングは映画のサントラから「スーパースター」でした。ダンスフロア暗転イントロのアカペラコーラスが入ります。ジ~ザスクライ~、ス~パ~スターカットアウトしたところで、Kool & The GangのLove & Understandingに乗ってメンバーの登場です。スカイブルーのジャンプスーツに赤の裏地、男三人、女一人のFunky Dollsがブレイクダウンで踊りながらフロアに現れました。きちんと振り付けされた踊りは「プロ」の余裕さえ感じられ、見ていた委員長たちメンバー全員、正直言って圧倒されました。ジョニーとお京さんのかけ合いはアダムスで見たパターンでしたが、二人の表情もあの頃に比べると格段と豊かになっていて、演技に空々しさがなく、安心してみていられるものでした。アクロバット・パートは、後にジャパニーズでデビューしたボビー、そしてY君、バック転や宙返りこそありませでしたが、連続して見せるダウンやファンキーフルーツは計算されたショーアップで、十分に観客を満足させるものでした。二人の表情はやや緊張気味でしたが、ショー全体からみなぎる自信が感じられ、危なげない仕上がりのパッケージ・ショーでした。エンディングはメンバー3人で人形のような表情のお京さんを抱え上げ、フロアをぐるりと回り観客へアピール、正面に戻ってお京さんが下ろされて全員でDOLLのポーズでカットアウト、ストップモーションで終わり、暗転。20分そこそこのショーでしたが、まさにプロと言えるだけの内容でした。その後のヒューズ・コーポレーション・ショーは、それなりのディスコライブで盛り上がりましたが、この時の委員長はジョニーのプロ魂というか、完璧なSHOW UPを見せ付けられ、敗北感すら覚え落ち込んでいきました。取り巻きのようなガキの頭に立って、いい気になっていた自分がひどく子供っぽく思えたし、ろくすっぽショーの勉強もせず独りよがりのダンスショーに明け暮れていた毎日が恥ずかしく思えたのでした。マリやヒトミも同様な思いを抱いたようで、口では強気なことを言っていましたが、同じ道を歩く自分たちがあまりにも幼かったことを、まざまざと見せ付けられたようで、USAの楽屋に戻ってからも沈んでいました。そんな暗~くなった楽屋へ、ジュリーが衝撃のニュースを持ってやって来ました。「ウチでも明日ヒューズ・コーポレーション呼んだぞ」もともとディスコ・ショーはオマケの営業ですから、彼らのお小遣い稼ぎです。せっかく同会社の下階でやったのですから、上でも一度やってくれ、みたいなもんで、商談は即決。たいした宣伝もないままショーが企画されました。当然、前座はBAD CHILDRENです。嬉しいやら、怖いやら、落ち込むやら、複雑な気持ちでした。誰とも無く「練習でもしとこうか」の掛け声も虚しく、今更間に合わないし、どうせオレたちゃ出たとこ勝負よ、みたいなツッパリもイマイチ元気がありませんでした。さて翌日、楽屋にはマイク越谷さんがやってきて、今着ている私服とどこが違うのかようわからん衣装を取り出して着替えると、「どう、準備はOK?」などと愛想を振りまきますが、なんだか暗い楽屋だなぁ~といった感じです。結局は客の入りが少なかったので、時間を少し延長することになり、ヒューズ・コーポレーションはBig Togetherの楽屋で出番待ちとなり、ダンスショーは時間通り始めることになりました。というわけで、前座とはいうものの時間つなぎのショータイムみたいなもんで、結局自分たちもほっとしたのは事実でしたが、所詮オレたちゃこんなもんか、みたいに更なる落ち込みも生まれてしまいました。かろうじて、ヒュース・コーポレーションのショーを特等席で見ることができ、少しは慰めになりました。メイン・ヴォーカルのレディ・ソウル、彼女の喉は最高でした。He is my homeという曲を、マイクを外してシャウトしたときには鳥肌が立ちました。身長160cmほどの小柄な体から会場全体に響き渡る声量にも驚きましたが、演出的にも観客を引き付けておくだけの仕掛けがしてあって、ショーというものがどういうものなのか、少しは理解できました。彼女のジャンプスーツは、脇の下から足首まで網目のシースルーになっていて、もの凄くセクシー、チラリズムの局地でしょうか。ノーパンなのは勿論ですが、見る角度によって胸からヒップライン辺りまでが、透き通るような想像を与えるデザインには本当に目を見張りました。
2005年07月30日
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Tomorrow USAにジュリーが入った頃、委員長の古巣Q&BにあのベルがDJで入り、更に赤坂ハレムではV-one時代のラリーが店長となっておりました。ベルはハレムで割腹自殺をはかるというとんでもない事件を起こして、一時身を潜めておりましたが、心優しい元エンバシーの先輩E氏のおかげでQ&Bに入ることができ、なんとか業界に復活してきました。Q&Bでは昔からの常連のアフロ小僧たちが、BAD CHILDRENに続けとばかりに二軍を結成してベルからの指導などを受けたりしていました。いやー、実際この頃の歌舞伎町は本当に熱かったですね。特にV-one時代からの常連は、ディスコ界で快進撃を続ける委員長たちをヒーロー化したりしていました。自分たちの身近から有名になっていくバカたちを見て、羨ましがっていたのでしょうね。誰だってやってみたい生き方ですけど、そう簡単には踏み込めませんからね。でも長い目でみれば、「やってなくて良かった」てなもんですけどね。傍から見てる分には、精神的なプレッシャーや将来への不安とかは見えませんから、楽しく好きなことをやって暮らしていると言う風にしか映らないものです。Tomorrow USAではジュリーが入ったことによって新たなテンションが生まれつつありました。それは、ジュリーがバイトの関係で早番専門、マチャアキが中を継いで、ジョイが遅番専門、そしてメインの時間帯をJOEが受け持つと言うようなシフトが組まれたことで、マチャアキ、ジョイから反発があったのです。「ひとやすみ」時代の経緯や、ジョイの借金事件との関わりなど、皆ジュリーに対して少なからず嫌悪感を持っていたので、自我を通す強引なやり方に反発したのでした。かろうじて委員長はダンサーという立場でしたので、この暗闘には介入しませんでしたが、マチャアキもジョイも、後から来たジュリーを快く思っていなかったのは事実でした。とはいうものの、この当時のジュリーのガムシャラな生き方は、形こそ違うものの成り上がろうとするアウトローの典型ではなかったかと思います。誰もが成功を求めつつも先の見えない世界に夢を見ながら、毎日毎日を手探りで生きていましたから、自我、嫉妬、嫌悪などはあって当然でした。この業界に携わっていた人間のほとんどが、毎日起こる出来事にやみくもに振り回されて、毎日をただ流されて生きていただけで、相当に強固な意志を持っていなければ飛び抜けることなどはできなかったと思います。逆に言えば、それだけ住みやすい世界であったことも確かです。毎日がお祭りですから、金の続く限り遊んでいられる世界でもあったわけです。ここら辺が水商売の落とし穴ですね。無くて七癖とはよくいったもので、欲望と誘惑に囲まれた世界では、人は皆何かに取り憑かれてしまうものです。いわゆる表の社会でもやってることは一緒ですが、裏の社会ほど生々しくはありませんね。最近は裏も表もケジメがなくなってきたようですが、ひとつだけ確信を持って言えるのは、この生々しさこそが人としての「生」のリアリティを感じることのできる場面であるということです。人生は悲喜劇と言いますが、生々しさを伴った本当に悲しい場面に遭遇すると、その状況が笑い話に思えたり、小さな喜びを分かち合う人たちを見て悲しくなったりと、人が生きるということの実感を掴むことのできる唯一の場が、アウトローの世界ではないかと思ったりします。ということで、ここらでジュリーが頭ひとつ飛び出した感がありました。委員長も早速巻き込まれ、キングレコードのプロモーションにBAD CHILDRENが再び動員されることになりました。HIDDEN STRINGS BANDとBUDAレーベルのプロモーションで、都内のディスコを回るといった「営業」そのまんまの企画でしたが、ダンサーズの名前を売るには絶好のチャンスだぞ、みたいについ乗せられて、ジュリーとキングの荒井さんに連れられて、都内のディスコをアフロ軍団は巡ったのでした。新宿はいつでも回れるからという理由で、今回は六本木に打って出るぞ、ってなことで、「メビウス」「アイ」「プラスワン」「ファイブホース」「グリーングラス」「ボビーマギー」何故か赤坂「マンハッタン」「ハレム」などを回りました。ハレムではV-one時代のラリーに再会して驚きました。髪の毛は短く切って風貌もすっかり大人びていて、さすが店長といった落ち着きさえ感じられました。委員長たちを見て、「俺も昔協会のダンサーしてたころさ、踊り子さんはこちらからお願いいします、とか言われて笑った覚えがあるよ」とか声掛けてくれて、すっかり経営者の顔になっていました。結局、時間も早かったせいか、あまり客のいない店でのプロモが上手くいったのかどうかはわかりませんが、とりあえず各店のDJには仁義を切ったってなところでしょうか。当時の業界では、ビクターレコードとディスコ教会の独壇場といった感もあり、こういった実際に足で回る営業でチャートランキングを上げる方法はあまり行われていませんでした。この点はジュリーが現役のDJであったことから生まれた発想で、普段レコード会社など縁のないディスコDJの元に、レコード会社側が自ら試聴盤を持って営業に回って来るのですから、そりゃDJとしても悪い気はしません。しかも、タダでレコードは貰えるわ、大手レコード会社の社員に頭下げられるわで、普段ろくでもない人間を自称しているような奴らばかりですから、すっかり気分も良くなって、義理でも選曲に取り入れるのは当たり前となります。オリコンとまでは行かずとも、地域のチャートランキングや、その店のリクエストランキングなどにもプロモ曲の名が挙がってくれば、それはイコール営業実績となるわけです。「また、次の新譜持ってくるからさ、たくさんかけてね」みたいに言われれば、ビンボー生活のDJにとってみりゃ、こんな嬉しいことはありません。そのうち試聴盤欲しさに、勝手にランキング操作して媚び売るヤツなども出てくる始末。さあ、そうなってくると、今度は実績欲しさに若手プロモーターがディスコ回りを始めます。とは言うものの、当時のレコード会社の洋楽宣伝担当者がディスコDJなどを知るわけも無く、結局は現役DJでプロモを扱うジュリーのところに話が回って来たのでした。はじめは横の繋がりから、各社が相乗りして回ったりしていたのですが、そのうち金出してもいいから独自の営業をしてくれ、みたいな話になって、当然ジュリーの元にそんな話がポツポツと舞い込んでくるようになったのです。さあ、こうなってくるともうジュリーの天下です。あちらこちらから試聴盤の包みがジュリーのもとに届きます。試聴盤欲しさにジュリーの周りに取り巻きが出来てきます。ちなみに当時の委員長の手元にも、キングレコードの試聴盤が山ほどありました。更にエスカレートしてくると、「○×の新譜手に入らない?」とか、ディスコ系以外の試聴盤の調達まで頼まれる始末です。「手に入れてやるから、△○かけてくれよ」みたいな取引になります。(どこの世界でも似たようなもんですね)「レコード貰って魂まで売り渡していいのか」(そこまで言わんでもええやんけ)みたいなことをいうヤツも出てきたりして、業界ではちょっとした騒動だったわけです。今にして思えば、そんなことを言ってた奴が後に先頭切って旗振ってたんですから、結局はみな同じ穴の狢ですね。ヤツばかりが良い思いして悔しいっ、てなことだけです。それにしても、この道筋を付けたジュリーはやはり業界の先駆者だったのではないでしょうか。さて、そんな絶好調のジュリーが若手プロモーター達に煽てられて、プロモ会社を作ろうと画策しました。これに委員長も巻き込まれて、BAD CHILDRENを本格的に売り出すぞぉ、みたいな話で盛り上がったわけです。(二人とも若かったからね)テイチクレコードのマコト君がまず名乗りを上げてくれて、マネージャーを務めてくれることになりました。その他直接には介入してきませんでしたが、各レコード会社の洋宣担当者がジュリーに乗りました。(皆大人だからね、いきなり手放しで乗ってきませんよね)当面はギャラなしだけど、各社プロモの手伝いにBAD CHILDRENが駆り出されることになったのです。まずは名前を売ることから始めなきゃって、うまく使われたのかもしれませんが、何のコネもない委員長たちにとっては大手レコード会社との繋がりは大切なステップでもありました。ディスコへ営業に回る時は必ずダンサーズが同行して店を盛り上げる、といったサービス付プロモーションでした。それなりに頭角を現しはじめたジュリーとロニーのコンビネーションも、このあたりでまたも壁にぶち当たりました。キングレコードはジュリーの正規採用を却下、更にディスコプロモを通じて他社との関係が深くなっていったことに対する注意が促されました。BAD CHILDRENではトオル、テツの二人が委員長のやり方に抗議して脱退を表明。(って大げさな表現ですね)彼らの言い分は、自分たちはSOULダンサーズを目指してここまでやってきたのに、なんでソウルドラキュラやバスストップみたいなステップまで踊らなきゃならないんだ、といったことでした。これに対する委員長の答えは、「俺だって同じ気持ちだが、まずは売れることが先決で、もう少し売れて金稼げるようになってからもう一度考えようぜ」というありきたりの説明でした。もうひとつ、少なくとも踊りを見せて金を貰っている以上は、仕事なんだから好き嫌いでは選べないことが社会の常識だ、というようなことを言ったところで、テツが更に反発してきて、そんな常識なら俺はついていきたくないと言いました。子供から大人へ移行する時期だったのでしょうね。驚いたことに、ここでマリとヒトミが二人に反撃を食らわせました。「あんたたち男の癖に情けないわね。ここまで来ちゃったんだから、あとは有名になるまで行くしかないでしょ」(ごもっともです)「これで辞めるなら、私達の付き合いもこれで終わりだからね」(そこまで言うか)いやー、女は強い、凄いと思いましたね実際。一番年下であるヒトミがそこまで言い切る、その踊りにかけた情熱っていうものに頭を殴られた感じでした。結局、二人は去っていき、残された委員長は新たなメンバーを探して夜な夜な新宿をほっつき歩くことになったのです。
2005年07月29日
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国鉄(現JR)中央線立川駅からおんぼろ車輌の青梅線に乗り換えて、ようやくたどり着いた福生駅は古き良き武蔵野の田園風景に、アメリカ人がちらほらと彩を添えて独自の匂いの漂う町でした。木造の古い田舎駅を出ると目の前に幅広な道路があるだけで、こじんまりとした商店がぽつんぽつんと点在し、それを商店街と呼ぶにはちょっと寂しすぎるほどの駅前通りでした。ゆるやかに左に折れた大通りを進むと、時折チョッパー風の自転車に乗ったアフロ頭の青年や、ヒッピー風の長髪ROCKERなどとすれ違い、田舎というのか異国と言うのか一種独特の雰囲気がありました。普段自分たちが歩くところは必ず行き交う人々の視線を浴びるはずであるのに、何故かここでは、そういった目立つ自分たちをちっとも構ってくれず、日常の景色の中のごくあたりまえな出来事としてさりげなく溶け込んでいきます。それが嬉しいのか嬉しくないのか、複雑な心境になるのは、やはり自分たちのその格好が世間では、普段から特別扱いされていることへの優越感を持っているからかもしれません。さて、大通りを抜けると長く続くフェンスが物々しく、その向こう側に米軍基地の建物が見えてきます。フェンスに沿った国道は埃っぽく、さほど車も走ってはおりませんが、時折アメ車に乗ったアメリカ人と遭遇したときは外国に来たような錯覚も起きます。更にゲート近辺は国道沿いに商店が立ち並び、駅前よりよっぽど商店街らしく、まさしく基地の町といった感じで、横須賀や横浜とはまた違った趣のあるところでした。この埃っぽい国道をアフロ頭の男女混合東洋人グループ6人は、SOULファン御用達のラッキー・テーラー目指してテクテクと歩いて行ったのです。人通りもほとんどない昼間の国道、BAD CHILDREN OF SHINJUKUの刺繍入りの革ジャンを羽織ったアフロ小僧はフェンスの中を眺めながら、自分たちが特別な存在であるかのごとくその雰囲気に酔いしれていたのでした。ウィンドウ越しに無造作に生地が積み上げられた商店、ラッキー・テーラーに入ると、店の奥から頭の禿げ上がった爺ちゃんが現れ、ちょっと変な日本語でやたら愛想を振りまいてきたのでした。「あー、新しい生地入ったヨ、ソレソレ」と積み上げられた生地山のてっぺんに乗っているシルバー色のニットを指差しました。とにかく生地があちこちに積み上げられていて、ほんのわずかなスペースに応接セットのような小さなカウチとテーブルがあるだけの小汚い店で、委員長たちメンバーは生地を物色し始めました。「おっちゃん、6人まとめて作るんだから安くしてよ」トオルが交渉します。「あー、あんた達もディスコ協会の人?」おっちゃん、答えになってません。「違うよ、俺達はこれだよ」トオルが革ジャンの背中の刺繍を見せます。「あー、BAD CHILDREN OF SHINJUKU・・・」おっちゃん、英語の発音はちょっとマジです。「俺らは新宿から来たんだよ」トオルが突っ張ります。「あー、新宿ね、勝本さん先週来たよ、新しいUNIFORM作った」おっちゃん、ボケが上手です。しかも英語の部分だけ発音がマジになります。「それって協会のダンサーズのこと?」ヒトミがおっちゃんに尋ねます。「あー、それそれ、そこの生地で作ったね」指差した生地は赤のなんのことない生地でした。「なんだよ、こんな生地で作ったの?」トオルが小馬鹿にしたように生地を摘んで見せます。「あー、あんた達EMBASSYの人?」よくわからんおっちゃんですが、英語の発音はマジ。(しつこい?)「違うよ、俺達は新宿のナンバーワン・ダンサーズだよ」トオルがまたもムキになります。「あー、ダンサーズね、エモリさんたちも作ったよ」さすがに会話に疲れたトオルも生地選びに専念します。おっちゃんからアメリカの通販カタログを借りて、デザインを皆で選びます。黒人専門の通販カタログにはニット製のBlack Fashionが満載されています。すったもんだしたあげく、最初のユニフォームだからオーソドックスにジャンプスーツが良いということで落ち着き、おっちゃんが奨めてくれた新着生地を使って全員赤のニットにしました。女の子はノースリーブでSEXYですが、男の場合は動きが大きく見えないので、白のサテンでちょうちん袖のシャツもオーダーしました。当時委員長たちは、六本木グループがニット・ファッションで派手な格好をしていることに対抗して、全員ジーンズに上げ底運動靴(ハイヒール・スニーカー)を着用していましたが、これが新宿界隈ではちょっとしたファッションの流れになって、新宿のアフロ小僧はなぜか皆ハイヒール・スニーカーを履いていました。ジャンプスーツのデザインはトオルのアイディアで、中央のファスナーはありきたりだから、横で止める形にしようということになり、仕立てのおっちゃんと打ち合わせです。このおっちゃんがまた曲者で、言葉が通じないと言うか、人の言うことを聞かないというか、なんでこんな変な店が重宝されるのかよく分かりませんでしたが、やっぱり人柄なのでしょうか、大方のアフロ小僧はここで仕立ててましたね。実際、委員長はアフロ小僧以前に、コンポラをここでよく仕立てましたが、生地の豊富さと値段の手頃さだったような気がします。ユニフォームをオーダーして意気揚々と新宿に引き上げた委員長たちは、ここでまたまた新しい展開を迎えることになります。USAのDJ山本さんが辞め、なんとあのジュリーが入ることになったのでした。ジュリーはこの頃、委員長の古巣ビバヤングに入っていて、相変わらずキングレコードのバイトも続けておりました。ビバヤングも時代の流れには勝てず、ついに閉店の兆しも現れ、このあたりに非常に敏感なジュリーはタイミングよく山本さんの後釜に入り込んだわけです。遂にあの幻の企画会社「ひとやすみ」のゴールデンメンバーがここで再会となりました。マチャアキ、ジュリー、ジョイ、そして委員長、なんの因果か巡り合わせか、夢見る馬鹿者、いや若者たちが再びここに集まってきたのでした。
2005年07月28日
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1976年最大の話題はなんといってもロッキード事件でしょう。現職総理大臣の汚職は過去に例を見ない大スキャンダルでした。「黒いピーナッツ」というキーワードと共に、「まぁ、このぉ~」っていう角栄さんの物真似も流行りましたね。とは言うものの、SOULバカのアフロ小僧にとっては縁のない世界、世の中がどうあれ、ディスコがすべての踊りに明け暮れる毎日が続いておりました。そういえばピーナッツって和製ディスコサウンドがあったような気がします。そしてこの時代のもうひとつの話題こそが、SOULバカにとっての黒人文化研究になくてはならない入門書とも言える「限りなき透明に近いブルー」の登場でした。普段、活字などとは無縁なSOULバカ達でしたが、当時のヨーパン経由で流れこんできたこの本の噂は、アフロ野郎の必読書とまで賛美されるほどでした。しかし、普段漫画以外読んだことのないようなアホな奴らに、芥川賞作品が理解できるわけもなく、委員長も弱い頭を屈指して取り組みましたが、乱交プレーあたりの描写に興奮した程度で、気味悪く得体の知れない本でしかありませんでした。随分後年になってから読み返してみて、ようやくタイトルの意味や表現の巧みさ、感性を理解できたものでした。今にして思えば、村上龍さんもこの時代のSOUL熱に巻き込まれた一人であったのかもしれませんね。それも、ディスコで騒ぐアフロ小僧たちより更に突っ込んだところで、この時代と深く関わっていたのでしょう。そんな社会情勢や時代背景とは程遠いところで、委員長たちの道楽生活は繰り広げられておりました。Tomorrow USAのショータイムはというと、ダンスフロアを取り囲むようにお客が床の上に直に座り込んで見るようなスタイルで始まり、昔の踊り場のショータイムに近いものでした。たぶん、当時からショータイムというと、こういったパターンで行われるものだと皆思い込んでいたせいでしょうか、踊り自慢の技比べみたいで、ダンス・ショーというには程遠いシロモノでありました。こうなってくると俄然テツのアクロバットが受けるわけで、大技のあとは委員長とトオルのロボット、あとはマリ、ヒトミ、ドリーがお客を選んでステージでペアダンスというような流れで進行していきました。今思うと、まるで常磐ハワイアンセンターのタヒチアン・ショーですね。ファイヤーショーとかフラダンス体験コーナーとかあったりして。1日2回のステージで、1回目はこんな感じのコンパニオンでお客を楽しませ、後半は20分程度の見せるショーをやるようなことに自然と形が出来上がって来ました。そんな試行錯誤と手探りの中、ここであらたな緊張が入り込んできたのでした。SOUL BROTHER JOEの登場です。同ビル4階のBig Togetherに出演していた黒人バンドが契約を終え、リーダーのJOE THUNDERSが江川店長のもとへ日本人WIFEを連れて売り込みにやってきたのです。髭面にターバン、派手なジャケットにブーツという、かなりド派手なファッションに身を包んだジョーの第一印象は、「インド人かあ?」みたいなもんで、ターバンしてる黒人なんてアラビアンナイトかインドカレーでしか見たことありません。Tomorrow USAはDJだけのディスコがコンセプトでしたから、バンドは要らないとあっさり断れらたものの、ここで引っ込むような素人ではありません。それならDJをやらせろ、みたいな話になって、そんなら見させてもらおうじゃないか、ってことでJOEがDJブースにやってきたのです。更に、「私はミュージシャンだからターンテーブルとかミキサーとかのエンジニアリング・テクニックはないから、誰かアシスタントをつけてくれ」という要望まであがります。(凄いですね、米国人の売り込み方は。強引というか、オレはスゲーんだみたいな)もう、このやり取りを見ていた段階で、こりゃダメだろうな、こんなわがままなヤツに勤まるわきゃねーだろ、と誰もが疑いませんでした。ところが、一旦ブースに入ったJOEは、まるで人が変わったようにフロアの客の心をグイッとばかりに鷲づかみ、ワーッと喚声が上がり、これに応えてオーバーアクション、いきなり音をブツっと止めさせて、「コンニチワ、ワタシ、ジョーサンデス、Here we go!」っていきなりミキサーのマイクレベル振り切ってヒューズが飛びました。バンドの場合はステージと客との距離が多少ありますが、ここでは目と鼻の先、一体感はバンド以上です。オマケにオーディション・サービス、ブースから躍り出て客と一緒に踊ります。たいして上手くはないのですが、そりゃ黒人特有のノリと、根はミュージシャンですからビートの跳ね方はもう完璧にプロです。まいったなー、こんなヤツが出てきちゃうと、みたいな思いが全員の胸の中で巻き起こります。当然オーディションはパス。DJデビューということになりました。委員長にしてみれば、これで一気にSOUL色が出て俺達の理想のディスコになるだろうと期待も一気に膨らんだのでした。(ちなみ70’Sディスコ伝説という本の中にJOEの写真が載っています)当時の店のオーナーであるダイタン商事は、このTomorrow USAに相当な期待をかけており、企画面でもかなり画期的なことをやろうとする意気込みがありました。ですから、店長の江川さんも、従来のパターンを打ち破るような斬新な試みに対しては常に前向きでした。時代の流れは自分たちが作る、というような意気込みさえ感じられました。日本語も解らず、ターンテーブルの操作も解らないJOEのアシスタントには、シンガポール人の黒服が付くことになりました。当時USAにはこのシンガポール人の他にエジプト人、ベトナム人、中国人などが学生アルバイトとして働いておりました。このあたりにも当時の江川店長の時代の先取り感覚的な姿勢が伺えます。さてBAD CHILDRENのダンスショーも、毎日の試行錯誤の繰り返しからある程度のパターンが出来始め、それとなくチームワークも整い始めて形になり始めていきました。内容的には相変わらずの手抜きと言うか、アドリブ主体の振り付けでしたが、江川店長のアイディアで、360度のショーアップをはかるため、6人が6本の柱の間を踊りながら抜けていくステージを考えました。グラハム・セントラル・ステーションの名曲The Jamを使って、各アドリブ演奏・パートを6人のソロダンスに別けて踊り、後半のJAMパートを柱の間を踊りながら回っていくという、フロア・デザインを利用したオリジナル・ステージが出来上がりました。この他にも花火を使ってみたり、JOEとの掛け合いで踊ってみたりと、ありとあらゆる試みにチャレンジしました。そんなこんなで少しずつ知名度も出てきて、それとなくやっていけそうな手応えを感じ始めた頃、またまた事件が勃発しました。(ちょっと大げさですね)ある日のこと、1回目のステージが終わって、マリ、トオル、テツの3人が映画を見に行くと出たまま戻ってきません。2回目の出番待ちをしていた委員長は苛立ちましたが、何の連絡もないままとうとうステージに穴を開けてしまいました。糸数支配人にお詫びして、事情を説明しているところへ新宿警察から電話が入りました。糸数さんへの話では、3人が補導されて本署にいるとのことでした。「補導?」耳を疑う委員長でしたが、よく考えてみればトオル、テツは18歳、マリは17歳、外見から見てもフーテン家出少年少女といったところですから当たり前の話です。どちらにしてもまっとうな少年ではありませんから、反抗的な態度を取ったりしてしょっ引かれたわけです。かろうじてマリの実姉が身元引受人に駆けつけてくれ、補導の問題は解決したのですが、未成年者がダンサーとして就業しているということが取り沙汰され、糸数支配人の事情聴取となってしまいました。実際に実姉が保護者として付いているわけですから、簡単な事情聴取で済みましたが、彼らが未成年者であることをすっかり忘れていた委員長は、まるで保護者になったような気分でした。糸数支配人にはご迷惑をおかけしましたが、それでも江川店長は怒りもせず、水商売にはこんなことはよくあるからと笑い飛ばしてくれて、「そんなカッコで歩いているからフーテンと間違われるんだよ。ユニフォームくらい作ってあげましょう」そう言ってユニフォーム代を出してくれたのです。少々かすれた声で笑う江川さんのぽっちゃりとした体格が今でも目に浮かびます。早速、悪ガキたちは福生のラッキー・テーラー目指して旅立ったのでした。
2005年07月27日
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非生産活動愛好家の皆様、しばらく留守にしておりまして失礼致しました。委員長は社会的義務としての生産的行為であるオツトメを無事果たしましたので、本日より非生産活動を再開させて頂きます。(やれやれ)また、皆様からの励ましのメッセージや心温まるカキコミなど頂きましたこと、ここにあらためて御礼申し上げます。お蔭様で今後の非生産活動へのハゲみとなりました。(ちなみに約1cmほどのハゲみとなりましたこと、御報告いたしておきます)さて、道楽者の昔話もいよいよ1976年代の新宿ディスコ篇第二部(笑)に入りますが、その前に委員長が昔話を書くことになりました経緯を少々お話しさせて下さい。私は18歳でディスコ業界という、ある意味で特殊な世界に入り、28歳までの約十年間を道楽三昧な生活を続けました。最後は、時代にけじめをつけられた形で一般社会に放り出され、気が付けば30歳という年齢に達しており、世間一般で言う社会生活を送るには常識や価値観も相当にずれておりました。言葉ではうまく説明できませんが、普通の人になろうとすればするほど空回りしてしまい、まさに何をどうしたらいいのかわからぬまま暗澹たる日々を送っていました。そんな頃、偶然にも同じような境遇にいた旧友DJチェングに出会い、サイパン行きの話がトントン拍子に進み日本脱出となりました。この時、日本でのしがらみを一切断ち切り、すべて一から出なおすつもりで業界のことは自身の心の中で一種の封印を致しました。音楽以外に能のない、それも非常に狭い範囲の世界でのぼせ上がっていただけの自分の非力さを知り、ようやく謙虚になれたといったところです。それでも世の中はそんなに甘いものではなく、人生を面白おかしく生きた道楽者がそう簡単に社会復帰出来るわけがありません。そんな単純だったら、私が面白おかしく人生をエンジョイしている頃、勉学に励み、就職活動に悩み、きちんとした生活設計を持っていた人たちに申し訳がありません。人生はそれなりにバランスが取れているのです。道楽して楽しんだツケはそれなりに支払わねばなりません。サイパンでの最初の十年は精算の十年と言っても良いほど、それはもうガムシャラな生き方でした。幸い配偶者にも恵まれ、それなりの家庭も持ち、何とか落ち着き始めたのはつい最近のことです。昨年は久しぶりに家族で日本に帰り、新宿、赤坂、六本木と随分様変わりした街並みに驚き、自分が一番輝いていた時代はすでに遠い過去のものになってしまったのだなと実感しました。そんなノスタルジーな気分で、たまたま立ち寄った新宿紀伊国屋書店である一冊の本に目が留まりました。懐かしいエモリさんのイラスト表紙の「70’sディスコ伝説」がそれです。手にとってページをめくると、「やっぱりなぁ」という感じで、勝本さんやニックさん、エモリさんの登場でした。それでも当時の懐かしさは一杯で、内容はともかくとして興奮したのも事実です。反面、自分の大切な想い出が、またマスコミに取り沙汰されて金儲けに利用されているのかと思うと、見たくない、見ないでおこう、という気持ちが湧き、結局は本棚に戻して帰ってきました。ところがサイパンに戻ってからも、どうにもこの本の存在が頭に引っかかって仕方ありませんでした。見たら自分の想い出が汚されるようで腹が立つのではないかという気持ちと、逆に自分の知らないところで時代が勝手に描かれて良いのか、という気持ちとで複雑な気分でした。そこで昔馴染みのマイク越谷氏にお願いして、この本を購入の上郵送して頂きました。さて、実際に手にした本の中味はというと、意外と薄っぺらな内容のシロモノで、唯一面白かったのはブラザー・コーン氏のGETの思い出話でした。年齢的にも遊び的にも自分の時代と合っていたからかもしれませんが、あの当時の感覚が蘇りました。あとは、私が一番嫌いな過去の栄光話みたいな内容ばかりで、やっぱりなぁ、という印象でした。もちろん時代を凝縮して1冊の本にまとめるとすれば、御三家が登場して、当時有名な店を語るだけで終わってしまうのも無理ないことだと思いますし、当時の生き残りが非常に少ないことも内容に奥行きが出ない理由だということも理解できます。それでも、それぞれの時代にそれぞれの関わり方をした人間がいるわけで、ひとつの解釈で時代を表現されることには違和感を覚えました。それがきっかけとなって70年代をインターネットで検索したところ、旧友テリーのサイトに当たり、数十年ぶりの再会をしました。まさかこんな形で出会えるとは本当に驚きでした。更にテリーのサイトから、当時の不良の溜まり場だった新宿の喫茶店「ハイハ」という名前で、K-UNITのKUNIさんという方のサイトに入り、自分と同じ時代を生きた手触りを感じまたもや驚きました。あとは同様にリンクから入ったサイトで「じょんとらさん」や「YUKIさん」など多くの方々と知り合い、当時のディスコに思い入れのある方たちとBBSでコミュニケーションを取らせて頂くようになりました。あちこちのBBSに書き込んでいるうちに、旧友テリーからブログを奨められて、これだけ当時を思う人がいるのならばやってみようかと思い、自分なりの時代の検証を含め書き始めました。と、まあこんな具合で始めたブログですが、私自身は過去の栄光にすがるような話は書くつもりはありませんし、「あの頃は良かった」というノスタルジー話も嫌いなので書きません。あくまでも私自身のために書いているだけですから、リンクのお願いもしていませんし、幅広く呼んで頂こう、などという大それたことも考えておりません。(御厚意でリンクを張っていただきました皆様には感謝しております)ですから、タイトルにもあえて70年代とかディスコとか言う言葉は使いませんでした。これは私自身が現在でも非生産活動を行って生きたいという願望と、非生産活動を現役で行っている方々へのエールとして読んで頂きたいという理由からです。私の昔話を読んで、人生の選択肢は自由であり、すべては自分自身の決断に委ねられているということを体感して頂ければ幸いです。爺となった今でもまだ可能性はあると信じ続けたいので。(笑)そして、このブログにはもうひとつ個人的な目的があります。それは、私と同じ時代を生きた戦友たちの名を、せめて何らかの形で記しておきたかったからです。非常に狭い範囲且つ短い時代のことではありますが、たまたま私は運良く目立つところにいたおかげで売名行為に成功し、多少は名前が残っております。だからといってそれでメシが喰えるわけでもありませんが、少なくともこの名声(笑)を利用して当時の道楽者たちを掘り起こすことができたら、という道楽者の勝手な思い入れで古い話を書いているわけです。かといって、それは決して懐古趣味などではなく、同じ時代を生きた戦友、アウトローとしてのせめてもの鎮魂歌のつもりです。(なんか戦死者みたいだなぁ)というのも、昨今のリバイバル・ブーム(正直言って私には実感がありませんが)を当時の戦友はどう見ているのかと思うと、書かずにはいられない衝動に駆られてしまうのです。それは、昔の仲間が仮に何かの機会で自分たちが生きた時代の記録に触れたときに、きっと私が「70’sディスコ伝説」という本を見たときと同様の思いをするだろうと思えるからです。そこに語られた話はその時代の一部分だけであり、決してそれが総てではないからです。誰だって時代の総てを知っているわけはありませんから、語られていることが嘘だとは言いませんが、自分たちが総てを作ったというのも僭越だと思うし、当時の流行のサイクルは非常に早かったし、長年にわたって時代の頂点に君臨することなんて不可能ではなかったかという疑問もあります。R&B、SOUL、FUNK、ステップ、タケノコ、オカマ、テクノ、ユーロetc.すべての時代の上に立つ人とは一体どんな人なんでしょうか。更に、自分も含め、当時の仲間は今にして思えばみんなゴミのようなヤツばかりだったし、そのゴミとしての生活にプライドを持って生きていました。だからゴミはゴミなりに、時代の1ページに記してやりたいと思うのが、同じゴミの人情というものでしょう。今まで調子くれて遊びまくっていたディスコに翳りが見え始めたとき、将来に不安を感じつつも業界にしがみ付いていたゴミたちは、結局時代に見切りをつけられ一般社会に放り出されました。「ロニーさん、やっぱ安定した生活は公務員しかないっすよ」そう言って区の清掃職員に就職していった後輩がいましたが、本当にゴミ屋になっちゃったんじゃ洒落にもなりませんね。危ない道を選んだヤツも沢山いました。私はかろうじて塀の外に落ちてそれなりの生活を送っていますが、未だ中にいるヤツや、過去の身分を明かせず今の生活を大事にしているヤツもいることでしょう。(なんだかヤクザ者みたいだな)みいんな、愛すべきゴミ仲間です。縁があったらもう一度会いたい奴らばかりです。そんな奴らを抜きにしては私の昔話は語れません。まして面白おかしい人生を選んで生きたんですから、爺になったゴミ仲間もそれなりに面白い人生を送っていて欲しいという願いもあります。所詮DJなんてのは潰しの利く職業じゃありませんから、どのみちろくなもんにはなっていないと思いますが、そこが同じバカな時代を生きた戦友としてまともな大人になっていて欲しくないという願いでもあります。(大人っつーかもう爺だろ、すでに)ということで、今日は私のブログ・コンセプトについてお話しさせて頂きましたが、私の書いたものについてはすべて私個人で責任を持ちますので、書かれている内容や主旨に疑問を持たれた方、あるいは苦情、ご不満などお持ちの方はご遠慮なく私宛にメールをお送り下さい。勝手にオレの名前を使いやがって、ふてぇヤローだ、とか、オレはそんなバカじゃなかったぞぉ、みたいな抗議などにも逃げ隠れせずきちんと対応させて頂きますが、私もすでに50歳を迎えておりますので体力的過激な行動にはついていけない場合もございますのであらかじめ御了承下さい。明日より道楽者の昔話を再開させて頂きます
2005年07月26日
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ご愛読頂いている皆様へちょっとばかり下界の様子を見ているうちに、知恵熱が出まして、委員長は海亀の背中に乗ってしばし竜宮城へ行ってまいります。ここまで一気に書き進めて参りましたが、ここらで一息ついてもう一度過去を振り返ってみたいと思います。正直申し上げまして、このところ非生産活動にのめりこんでしまい、社会義務をないがしろにしていたものですから、ちょっと生産的行為もしておきませんとお仕置きをされてしまいそうなので、しばし現実世界でオツトメを果たして参ります。ということで皆様には申し訳ございませんが、26日の月曜日までお休みさせて頂きます。あー、もっと書きたい、もっと書かせて、イヤだめ、好きにして~。失礼致しました。皆様の週末が楽しく素晴らしいものでありますよう、お祈り申し上げております。See you next week, I hope you having nice weekend, enjoy!
2005年07月20日
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世界最大のダンスフロア、アメリカン・ディスコ・トゥモローUSAの改装工事がほぼ終了するころ、委員長はQ&Bを辞め、ロニー&ドリー、トオル&マリ、テツ&ヒトミの6人、DANCE TEAM BAD CHILDRENが正式にスタートしたのでした。改装後のダンス・フロアーは、ギリシャ風神殿を思わせるような大理石の床、大きな外柱にはスピーカーが埋め込んであり、内柱4本の中には埋め込みタイプのダイヤモンド型のフロア照明、天井も高く、まさしく世界最大のフロアと呼ばれるに相応しい造りでした。更にフロアを取り囲むように、帯状の白のレースカーテンが下りるといった非常にエキゾチックに凝った仕掛けが施されてありました。照明機器の試運転に立ち会った委員長達は、その広さと贅沢さに目を見張りました。こんなところで一体自分たちは、どんなショーをやったらよいものか、果たして観客はどのような位置から自分たちを見ることになるのか、不安ばかりが募っていったのでした。ホールはダンスフロアを囲むように配置されていますから、視線をどこかに合わせなければ正面が決まりません。各柱の面に沿って視点が入りますから、前横後ろと、360度の位置から見られることになります。店の入り口から向かってフロア左手に円形のDJブース、右手側がバー・カウンター、ホールの作りも絨毯張りの豪華なボックスタイプとパブ・タイプのスツールに別れ、セクションによってムードが変わるような造りでした。DJブースはパーリャメントのマザーシップコネクションのジャケットに似た、赤い円盤型の中にDJとライティングマンが入るようになっていました。オープン時のターンテーブルはDENON(製品番号は忘れました)のディスクドライブで、立ち上がりも従来のベルトドライブに比べかなり早く、アドバンス・ランニングも短くてすみました。ミキサーはTEACのM-THREE、マイクはシュア社製、ヴォーカル用スタンドが付いていました。照明も床下、天井に加え、柱の下段から床を這うようなライン型が大理石に反射して非常に綺麗なものでした。第一回スタッフミーティングで、マネージャー、DJ、シェフそしてダンサーズが顔合わせをしました。オープンDJは、マチャアキ、ジョイ吉野、山ちゃんこと山本さんの三人。この山本さんという人は、赤坂マンハッタンからやってきた業界の大先輩でした。後にディスコGOODの店長兼DJとなりますが、この当時はDJをやりながら歌手を目指しておりました。メインはマチャアキと山ちゃんの二人で、ジョイ吉野は遅番専門、夜中のシフトでした。店長は江川諭さん、支配人が糸数さん(沖縄の方でした)、この下に3人の主任、須貝さん、館山さん、榊田さんが江川(本名は小林ですね)ファミリーメンバーでした。そして、我らがBAD CHILDRENダンサーズメンバー6人が加わり、オープニング・イベントの企画会議に入りました。まずはプリ・オープンとして平尾マサアキさんのショーが入ることになりました。これはダイタン商事の小林社長の関係で、平尾さんの事務所の秘蔵っ子としてデビューが決まっている女性コーラスグループの起用が目的でした。確か全員16歳の女の子で、シュープリームスやスリーディグリーズのコピーをしていたと思います。ちなみに、グループ名も忘れちゃったくらいですから、結局泣かず飛ばずの企画倒れだったのではないでしょうか。ということで、どういうセンスかようわかりませんでしたが、平尾マサアキ・ショーの合間にBAD CHILDRENのショーを入れるという妙なオープニング・イベントでした。“星は何でも知っている~‘76”ってディスコバージョンがご披露され、コーラスグループもそれなりに健闘致しましたが、踊りたくてウズズズしている客を前に、かなりの時代錯誤というか、無理のある企画ははっきり言って「おつかれさま~」でした。それでも連れてきたバンドは凄かったですね。確かブラスセクションは後のスペクトラムのメンバーだったと思います。星は何でも知っている~、じゃね、ちょっとかわいそうでした。フロアの周りにぐるりと円陣のように座り込んだお客からは、結構殺気も漂っていて、ここらでそろそろ踊らさないとやばいんじゃないのって感じでした。案の定、DJタイムに変わった途端、ドッカーン!世界最大のダンスフロアは大爆発、ブースのレコード針がやたら飛んで、こりゃ設計ミスじゃねーの、みたいな感じでした。そして、この後チークタイム。フロアの柱から白いカーテンが下りてきます。当時この演出は斬新でした。あー、あの中で抱き合って踊りたい、みたいなね。さあ、そしていよいよBAD CHILDRENの出番です。DJからショータイムのMCが入って、カーテンの下りたままのフロアからはお客さんが客席に戻っていきます。照明は暗転、ダンサーズが中に入り込んでセットポジション。ゆっくりとカーテンが上がっていきます。「Ladies and Gentleman, once again, Three Degrees!」TSOPライブバージョンが鳴って、アフロ頭の男女6人の登場です。振り付けしたのはこの一曲だけ。あとはKGバスストップとタワーオブパワーのインザスポット(Slot in the spot)、バーケイズのShake your rampとすべてアドリブ、って言えば聞こえは良いですが、テキトーそのもの。でも、見てる方もディスコダンサーズのショーなんてものが、どんなものかもわかりませんから、とりあえずは喜んで見てくれました。そりゃやってる方だって、ディスコダンサーズのショーがどんなものか解っていませんから、やったことはそれがそのままショーだってことになってしまうわけです。まあ、オープニングってこともありましたから、勢いに乗って盛り上がっただけなんですが、平尾さんのショーのおかげ?であったことも事実だと思います。何はともあれお客さんが喜んでくれたことで、少しは気が楽になりましたが、これから毎晩どうやっていこうかと考えるとちょっと不安になったことも事実でした。江川店長はショーというよりも、お客さんを楽しませるコンパニオン程度に考えていたのかも知れませんが、委員長としてはやはりジョニー率いるファンキードールズが頭にありましたから、何とかダンス・ショーで脚光を浴びたいと、そればかり考えていました。とは言うものの、所詮は素人の集まりですから、振り付けひとつとっても中々にまとまりません。気持ちはあせりますが、結局は相変わらずのアドリブのオンパレードと、ソウルトレイン・ゲームのようなお客と踊るアトラクションでごまかす日々が続いていったのです。このころQ&Bでは委員長の後、元エンバシー、ディスコ協会で働いていたシュガーパイ・ガイ(ちょっと甘くて良い男)のE氏が入り、もうひとり女性のDJと二人でこじんまりとやっておりました。時々、練習場所に借りたりして顔をだすと、アフロのかつらを被った梅ちゃんがブースに入ってたりして、かなり末期的な状況とも言えました。そんな梅ちゃんの暴走を会社の耳に入ったのか、しばらくして梅ちゃんは又も古巣ビバヤングへと戻って行ったのでした。ちょっとした時代の変わり目だったのかもしれません。例のビバヤングのアニキ、オオイケさんが東口グリーンで遂にデビューを飾ったのもこの頃でした。五反田に事務所を構えるI系Y組のHさんの舎弟となり、とうとう業界の人となってしまったのでした。さらにその手足となってウロウロしていたのが、極悪三人組のヨシワラ、オオハシ、フクシマでした。一方、西口V-oneのワカバヤシさんは奥様の関係からか、知らぬ間に辞めており、委員長を驚かせました。今振り返ってみても、このたった1~2年の間の出来事が、倍の年数の経験のように思えるのは、その日その日がぎっしり詰まった中味の濃い1日だったように思えます。そして、時代の流れも本人たちの意思とは関わりなく、前へ前へと進んでいったのでした。
2005年07月19日
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委員長の昔馴染み(って当時それほどの年は過ぎてないケド)のS子が、テツを伴ってQ&Bに相談にやってきました。新宿ビバヤングで働いていたはずのジョイ吉野が、実はすでに店を辞めていて、しかも借金をしたまま行方不明だというのです。なんとジョイに金を貸したのはS子で、その橋渡しをしたのがテツだと聞いて、委員長は驚かずにはいられませんでした。テツはジョイにもS子にも可愛がられていたので、二人の間に入っていい顔したばかりにニッチもサッチもいかなくなっていたのでした。事情を聞くと、ジョイが引越しのための敷金が不足して、テツがS子に頼み込んで二十万の借金を申し込んだとのことでした。S子にしてみれば後輩のテツの頼みだし、QBのころからの顔見知りだったジョイのことだからと一肌脱いだような経緯でした。当時の大卒の初任給が11万かそこらでしたから、これは20代の若造にとってはちょっとした大金です。約束は1ヶ月、賃貸契約が済んだらすぐに返すという話でした。ところが1ヶ月過ぎてもジョイから連絡は無く、店に訪ねてみるとすでに辞めたと知って、さすがに心配になったS子がテツを問い詰めて、委員長のもとへとやって来たのでした。ジョイとはウェイター時代からの付き合いでしたから、結構ルーズな面も知っていた委員長ですが、自分の知らぬところでこんな借金を作っていたとは思いもよらず、まして後輩のテツまで巻き込んで、よりによってS子の金を引っ張ったと聞いては黙っているわけにはいきません。早速ジョイの居所を探すため、新宿のあちこちの仲間に連絡を取りました。一週間ほどして、なんとジュリーから田無でジョイに会ったとの連絡がありました。委員長たちが探していることは伏せて居場所を尋ねたところ、近所のマンションを借りていることを聞き出したので早速委員長に連絡を取ってくれたのでした。世話好きジュリーですから、頼みもしないのに住所からロケーションを割り出してくれたばかりでなく、日にちを決めて車で案内までしてくれたのです。ジュリーの案内で、委員長はテツを引きつれジョイのマンションに向かいました。「まず俺が呼び出すから、出てきてもいきなり手は出すなよ」ジュリーが大層に言いますが、いくら腹が立ったとしてもジョイとは絶対に喧嘩にはなるはずありません。そんな付き合いはしてこなかったし、委員長は腹が立つというよりただ情けなく、なんとかジョイの実情を知りたかっただけでした。田無の新築マンションのエレベーターに乗り込んだ委員長は、それだけで今のジョイが無理な生活を送っていることは手に取るように分かりました。ドアのインターフォンを押すとジョイの声が聞こえました。ドアを開けて委員長の顔を見たジョイは慌てた様子も無く、心持ち顔に疲れが見て取れました。部屋に入ると彼女がお茶を入れてくれましたが、どうも生活感が感じ取れません。後輩のテツに辛い思いをさせたこと、S子の信頼を裏切ったこと、逃げ隠れしたところでどのみち委員長の耳に入り、いずれは自分でけじめをつけなければならなくなること、などを委員長が手短に説明すると、ジョイの張り詰めていた表情は安堵の顔に変わり、なにひとつ言い訳もせず、今週中にすべてを清算するから待って欲しいと語るジョイでした。「じゃ、約束の日を決めたら」ジュリーが口を挟みましたが、委員長は言葉を制して、「じゃ、今週中にQ&Bに電話してくれよ」そう言って部屋を後にしました。何の確証もありはしませんでしたが、同じ釜の飯を食った仲、同じバカな時を過ごした仲間ですから、これでだめなら俺が肩代わりすればいいことだ、と開き直った委員長でした。まして部屋には彼女もいましたから、この話を聞いて格好がつかなくなるようなら、これですべては終わるだろうとも思ったのでした。さすがにこの状況では、ジョイの芸風であった突飛な行動は出ませんでしたが、いつになくマジな会話を交えた夜でした。それから2~3日してジョイから清算に行くからと電話があり、S子を呼び、梅ちゃんを証人に立ててQ&Bの事務所で会うことになりました。実兄に付き添われて現れたジョイは、いつもの明るい表情に戻っており、S子、テツにきちんと頭を下げ、実兄から借金の返済も行われ、ようやくこの一件は解決したのでした。おかげでS子との友情も深まり、テツや梅ちゃん、ジュリー(はお喋りでしたからね)他の面々にも委員長の株は上がり、信頼のおける奴といった風評がオマケに付きました。そして、ジョイはこの後、トゥモローUSAのオープンDJになることが決まっていると聞かされたとき、やっぱこいつの芸風は変わってないじゃん、と苦笑しました。ということで、何故かトゥモローUSAで黄金の「ひとやすみ」メンバーが復活勢ぞろいすることになったのです。トゥモローUSAは突貫工事で8月に新装開店の準備が進み、オープンと同時に華々しくデビューを飾るBAD CHILDRENの練習は、江川店長の好意でビッグ・トゥギャザーの使用許可が出て、いよいよダンサーズの気合も入り始めました。ペアダンスに重点を置いた振り付けの基本は、TVのソウルトレインですからオープニングはスリーディグリーズのTSOPから始めることにしました。ライブ・アルバムからのチョイスでしたから、イントロにMCが入ります。Once again Ladies and Gentlemen, Three Degrees!大箱ディスコのでっかいスピーカーは、ライブの臨場感を一層デフォルメしますから踊り手にとっても勢いづきます。特に人気のあるグループのHIT SONGのライブバージョンは歓声入りですから、客数が少ないときほどムードを盛り上げるには効果的です。しかし適当にディスコで踊っていたのとは訳が違い、ショーとなるとその構成や振り付けがこんなに難しいことだったとは思いませんでした。そんな振り付けをみんなで考えながら、毎日が喧嘩の連続です。大まかな構成は委員長が考えたのですが、振り付けとなるとバリエーションが不足して、どうしても同じような踊りのパターンになってしまいます。そんなときは必ずヒトミがクレームをあげます。「ロニーの踊りってワンパターンなんだよね」「じゃあお前が作れ」確かにヒトミの言うとおり、委員長の踊りは小箱では面白おかしく見せることはできても、大箱のステージで見せる技術は力不足でした。ましてヒトミの場合は母親が娘に宝塚の夢を託したというだけあって、踊りの基本は委員長よりしっかりしていました。バンドでもダンサーでもそうですが、一番技術のある奴が結局は仕切ることになります。したがってBAD CHILDRENも最終的には委員長とヒトミの振り付けが引っ張っていくことになりました。男女六人のグループですが、パートナーはそれぞれが私生活でもパートナーであり、スタート時こそ目的がひとつに絞られていますから、この関係はうまく作用してペアダンスでは息のあった振り付けができました。しかしパッケージ・ショーとしてのメリハリにはいまひとつ欠けます。そこで、ペアはオープニングとエンディングに絞って、中間部には男三人のアクロバティックな踊りと、女三人のSEXYダンスを加えることにしました。テツのアクロバットは体操部上がりだけあって、かなりの迫力があります。バック転、前転、ひねりを入れた連続業でキメのところで全員でダウンして、立ち上がったところでロボット、ここで男女が入れ替わって女三人の腰フリダンスと宝塚系モダンが入ってエンディングに持っていきます。いかんせん素人ですから細部はほとんどアドリブ、まったくいい加減極まりない振り付けでした。今にして思えば、かなりいい加減というか、でたらめというか、よくこんなもんで金貰ったなあ、とつくづく思います。衣装すら満足に考えもせず、まさしく悪ガキの集まりのようなものでした。あとは出たトコ勝負だ、みたいな開き直り、怖いもの知らずのBAD CHILDRENのデビュー の日がいよいよやって来ました。
2005年07月18日
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いやー、日本版ソウルトレインって、あの企画は一体なんだったのでしょうか。結局、あのレセプションの後まったく音沙汰なし、結局企画倒れだったのでした。もし実現していたら、委員長は島流しにもならず、ブログなんかをシコシコ書いていたりしてなかったことでしょう。でもないか。とは言うものの、トゥモローヴィラのレセプションで踊りを披露した委員長は、再びマチャアキのお呼びでノコノコと出かけて行ったのでした。話によると、店長がレセプション会場で委員長たちの踊りを見て、非常に興味をもったようで、8月に新装開店するディスコで使ってみたいという話でありました。さっそくマチャアキに紹介された江川店長は、小柄ながら恰幅の良い温和そうな人で、第一印象でピンと来るものがありました。トゥモローヴィラは、ダイタン商事の最新のアイディアを盛り込んだお店だったらしいのですが、今にして思えばちょっと時代が早かったのかもしれません。また、ディスコも新しい時代に突入しようとしており、大掛かりな仕掛けや内装が施された店が続々登場して、歌舞伎町もディスコ一色というくらいの乱立でありました。そんな中、世界に誇るディスコを創ると豪語したダイタン商事の社長が、ウン億円を投じて改装工事に入ったお店がトゥモローUSAでした。ダンスフロアの面積が世界一、ギネスブックに載せるために設計された世界最大がうたい文句のディスコでした。さて江川店長と面談した委員長、この時ばかりはハッタリなしで「胸をお借りします」とお願いし、男三人女三人の六人編成のダンサーズの出演契約を受けて頂きました。当時DJのギャラ平均は月20万円くらいでしたが、さすがに海のモノとも山のモノともつかないダンサーズにはそれだけのギャラは出せないってことで、一人頭手取り10万円で半年の契約が成立しました。今の生活を捨ててもダンサーに賭ける意気込みを買ってくれたのか、手取りが下がることに同情してくれたのか、江川店長から「1日2回のステージで食事を付けましょう」と条件を追加して頂きました。委員長はBAD CHILDRENメンバー全員を召集、ダンサーズデビューの話をすると、皆目を輝かせて燃え上がっていったのでした。さっそく昼夜を問わず練習がスタートしました。振り付けといっても、Q&Bの小箱で踊っているのとはワケが違い、世界最大のダンスフロアーが売り物になるディスコでのショーですから、これからは自己満足で納得するわけにはいきません。その日から踊りの研究も始まりました。まずは本物の黒人ダンスを盗むためにエンバシー、ハレムへと通い出しました。当時のハレムは、エンバシーを凌ぐ勢いでBLACK専門店の看板を掲げておりました。確か初代の店長はサミーさんだったと思うのですが、委員長たちが頻繁に出入りするようになった頃は、何故かあのベルが店長となっておりました。あのビバヤングで出会った変なおっちゃん、ベルです。ハレムは赤坂一ツ木通りの赤坂見附寄りの雑居ビルの地下一階、入り口からしてちょっと胡散臭い、まさにハーレムといった感じの怪しい店でした。フロアといっても、貧乏臭いカウチタイプのボックスシートの中央にスペースがあるだけの、非常にシンプルなお店でした。DJブースったって、そんな上等なもんじゃありませんでした。縦型のレコード棚にターンテーブルをくっつけたような、お手軽な感じでした。雰囲気的にはエンバシーよりもブラザーが多く、それに群がるパンねーちゃんの種類もダイブ幅広く、異国情緒溢れるお店でもありました。(やっぱ赤坂も港区だからかなぁ)店長ベルもBLACKファッションに身を包み、出会った当時から比べると堂々とした態度で店を切り盛りしておりました。更に驚いたのは、なんとあのレイキのマー坊が一緒にいるではありませんか。しかも頭はきっちりとアフロ、ファッションもきっちりニットの仕立てです。もひとつ驚いたのは、あのエイジもいたのです。そうです、委員長がアフロ頭にした直接のきっかけを作った、東京デザイナー学院の同級生のエイちゃんです。ただ、まわりにこうもアフロ頭ばかりが揃うと、さすがにエイちゃんも影が薄く、委員長もこの数年でSOULに揉まれたせいか、初めてエイちゃんと出会ったときのインパクトはもう心の中からすでに消滅していました。この時久しぶりに顔を合わせたエイちゃんは、自分の知るSOULFUL LIFEと、描いているライフスタイルは、今のこのSOULブームとはまったく違うものだし、ここ(ハレム)には本物のSOUL MANはいないと失望していたのが、後々まで委員長の心に引っかかりを残しました。エンバシーではディスコ協会のダンサーズが従業員として働いており、威嚇するためにもBAD CHILDRENはよく出かけていっては、狭いフロアで派手な踊りを自慢したものです。なんと言っても当時のダンサーズで、男女ペア6人のSOUL FASHIONはBAD CHILDRENしかいませんでしたから、正直言ってそれだけでも勝負アリって感じでした。同時期にエモリ・アイさん率いるネッシー・ギャングなどというダンサーズも登場しました。そしてBAD CHILDRENより一足早く、ジョニー率いるファンキー・ドールズが池袋アダムスアップルでデビューを飾りました。早速委員長以下オリジナルメンバーの6人は池袋まで視察に出かけました。このころDJはジュリーから山田主任が引き継いで、後にファンキー太郎と名乗る山田太郎氏は委員長の顔を見るなり、「ウチに来ないか」と唐突に言ってきました。ちょっと待って下さいよ、ってなもんです。これからDJ辞めてダンサーになるって時に、DJで誘われても困りますって、丁重にお断りしましたが、まさか自分がDJになっちゃうとは思いもよりませんでした。さて、ステージは中央にバンド、左右にお立ち台があって、片方はジョニーとお京さん、もう一方はボビーとY君(後にマネージャーになりました)の4人が踊っています。どうやらパッケージになっているようで、ダンサーズとしてのショーは未だやっていないようでした。でも、ジョニーとお京さんの絶妙のタイミングと、ダンスの掛け合いは鳥肌が立つほどカッコよかったですね。二人の表情が特に良かったですね。クールなお京さんにおどけたジョニーが絡む感じで、ファンキーフルーツやロボットで見せながら、シメはお揃いのステップでカットアウト、凄いと思いました。プロだなぁって感じでした。更に、バンドBIB(ブラザース・イケブクロ・バンドとか言ってましたが)のエンディングで、お立ち台からジョニーがステージに踊りながら混じってコーラスも入れます。委員長はかなりショックを受けました。あのQ&Bでの別離からほんの数ヶ月でヤツは着実に実力も付け、しっかりと自分の夢を形にしているのに、このオレは相変わらず新宿の悪がきを気取ってバカなことの繰り返し、この時ほど自分が情けなく思えたことはありませんでした。ステージ後、楽屋を訪ねるとジョニーは気さくに出てきて、「ロニーもいよいよデビューするらしいじゃない、ジュリーさんから聞いたよ、おめでとう、頑張れよ」そう言われても、アレだけのステージを見せられた後ですから、いつものハッタリさえ出てきません。逆に、素直な気持ちになって「何処から踊り仕入れたの?」とたずねると、「コップス2やエンバシーかな、あとTVのソウルトレインとか、マリオさんがフィルムとか見せてくれて」とすでにプロになりきっています。「せっかくだから踊っていってよ」そうジョニーに言われても気分はかなりブルーになっていて、その日はそのまま引き上げました。一緒に行ったトオルやテツも、ちょっと怖気づいた感じでした。そんな雰囲気を察してか、マリとヒトミが委員長たちにハッパをかけます。「たいしたことないじゃん、あんなの。私らの方がもっと凄いのできるよ」「そうだよ、それにあれじゃ、ジョニーとお京さんの二人でやってるようなもんじゃない」さすがにこういうときは女の方が度胸も根性もあるんだなぁ、としみじみ思った委員長でした。(実際、こんな場面幾度となくありました)新宿に舞い戻った委員長は早速マチャアキに連絡を取って、改装工事中のフロアでもいいから練習場所を提供してもらうよう江川店長に頼んでもらい、さらにQ&Bのオープン前の時間を練習場所に使わせてもらうことにしました。この頃は、梅ちゃんも完全に舞い上がっちゃっていましたから、店に来る女高生やらツッパリねーちゃんやら、手当たり次第に手出しまくりで、色ボケ親爺は委員長の言いなりでした。一応7月一杯で退職して、8月からトゥモローUSAに行く予定で、それまでは色々と便宜を図ってくれるような約束が出来上がってしました。そのかわりダンサーズで芽が出たら、俺も引っ張ってくれってな、夢のような色ボケ親爺の交換条件でした。ところがこの山場に来てちょっとした事件が起こったのです。
2005年07月17日
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今日のBGMはマーヴィンゲイのI Want Youでお願いします。1976年にリリースされた久々のマーヴィンのAlbumは、エキゾチックなイラストのジャケットのSEXYなダンスナンバーでした。JAZZともSOULとも言えず、軽いタッチのマーヴィン・サウンドは幅広い音楽ファンに支持されておりました。What’s going onに代表されるメッセージ色の強いアルバムから一転して、真夜中のダンスパーティーをインスパイアさせるジャケットと彼のセクシーなファルセット・ヴォイスは、チークでもよしメロウダンスでもよし、まさしく大人のサウンドでした。このころ、キングレコードではBUDA(ブッダ)レーベルを獲得して、イージーリスニングJAZZ、いわゆるクロスオーバーと呼ばれるジャンルが注目を集めていました。ジュリーの関係で、このあたりの試聴盤をごっそりと頂いた委員長は、これらのアーティストから後の人生の音楽観を変えるほどのインパクトを与えられました。特に、グローバー・ワシントンJr.のミスター・マジック、フィール・ソー・グッドなどは、従来の小難しそうなJAZZという分野をシンプルにまとめた、JAZZ入門篇とも言えるような音楽で、しかもFUNKYに踊れるし、まさにクロスオーバーしたサウンドでありました。デオダード、ボブ・ジェームス、エスター・フィリップス、ラルフ・マクドナルド等など、後年ディスコでも有名になるアーティストたちがこぞってアルバムをリリースした時代でもありました。そして、EW&Fのまさに対極に位置するとも言える、パーリャメント&ファンカデリックもP-FUNKブームを巻き起こします。UFOから降り立つBlack Manのジャケット、“Mother ship connection”は衝撃的でした。それ以前にも黒人特有の黒人音楽、ファンカデリックはBlack Powerの最前衛をひた走るBlack Rock Groupでもありましたが、今でも根強い人気のMaggot Brain とか、とにかくこのアナーキーさと全編世の中を完全にナメきったセンスが最高でした。ハレムもエンバシーもこのMother Ship Connectionはノリノリで狭いフロアを、タイトに重なり合うように踊っていたのが印象的です。当時、このナレーションの部分、はっきり言って意味わかりませんでしたけど、かなりぶっ飛んでいることだけはBrotherのFeelingから感じ取れましたネ。こりゃただもんじゃねーぞって感じでした。異様なムードとヘビーなFUNK、更にムスクの臭いでムンムンして、妙に興奮させられました。あとはミーハー的に、ワイルドチェリーのPlay that funky musicが有名でしょう。白人ながらあっぱれといったところですね。一発屋でしたが、歴史に残るHITということでは称賛に値するナンバーです。さてそんな時代背景のディスコライフは、いよいよ大型店舗のブームに突入といった感がありました。中でもマチャアキが働いていたトゥモロー・ヴィラというお店は、当時の大衆パブにしてはもの凄く斬新なアイディアが施されていて、ディキシーランドJAZZやゲームコーナー、ビストロ、そしてディスコスペースと行った具合に、店内が色々なセクションに分かれていて、アメリカンパブ&パークといったアメリカ色の強い新しいタイプのパブでした。とはいうものの、このセンスについてこれるだけのお客が新宿には少なかったのか、もっぱら人気のあったのはディスココーナーでした。非常に狭いフロアで、その周りを古き良き時代のアメリカを代表するミニ機関車が回る、という凝ったつくりのスペースでもありました。広いスペースの店内の一角、狭いフロアでぎゅうぎゅう詰めになりながらも踊るお客を見て、当時の社長、店長共々、結局はここも時代の波に呑み込まれていかざるを得ないと思ったことでしょう。まず第一弾の改装ととして、ダンスフロアの拡張が行われました。当然と言えば当然ですが、次第にこのフロアが占める割合が増えていきます。同じビルの4階には、ディスコの名門ビッグトゥゲザーがあるにも関わらず、フロアを広げただけで客足が増えていく様を目の当たりにした社長、店長は決断します。ディスコにしよう。トゥモローUSAの構想が持ち上がりました。時を同じくして、Q&Bの常連客だった一人の若者が委員長のもとに、とんでもない企画話を持ち込んできました。TBS系列で日本版ソウルトレインのような番組を作るので、その司会を是非ロニーさんにやってもらいたいということでした。おい、マジかよ、冗談だろ、そんなデケー話いきなりされたって困るぜ、ってなもんで、どうして良いかわからない委員長でした。しかも、今日製作発表会がトゥモロー・ヴィラであるから、とにかく一緒に来てくれって強引な話でした。といっても一人じゃ心細いし、誰かいないかと思案しているところに、間抜けな顔してやってきたテツとヒトミ、丁度いいところに来たなお前ら、テレビだぞテレビ、ってなことで、二人を引き連れて会場に出かけた委員長でした。会場には、確かに花輪なんぞか数本置かれていて、○○製作会社とかTBS製作部とか書いてあります。マジかよ、半信半疑だった委員長もここまで来ると、もう後には引けません。店内はフロアーに簡単なステージが用意されて、ホールは立食パーティ、そして、DJブースにはお馴染みマチャアキがいます。更にブースの横のカウンターに大柄なアフロおじさんがひとり座っていました。全日本ディスコ協会の勝本会長です。挨拶をして隣に腰をおろしました。勝本会長、開口一番にこう言ったのです。「ロニー、協会に来ないか?」えっ、て感じでした。面識こそあれ、面と向かって口を利いたこともない委員長の名前を知っていたことも驚きでしたが、お誘いがかかったこともそれ以上の驚きでした。とはいうものの、色々な出来事が花火のようにドンパチあがったこの数ヶ月の間に、委員長の胸の中には小さいながらも自分のグループを持つ夢が芽生えておりました。「いや、あのもうちょっと色々な踊りも見てみたいし」(答えになってねぇぞ)二言三言、妙な会話をしましたが、すぐに製作スタッフから出番の合図です。しかし出番つったってこっちは何の段取りも聞かされておりません。と、そこで勝本会長が言います。「オレが挨拶してから、ロニー&ダンサーズって紹介したら、こういう振り、できる? できるよね、こういう風に踊りながら出てきて・・・」勝本会長自ら踊りの手本を見せて説明をしてくれましたが、最中にGOの合図です。委員長は言われたとおり、舞台裏でテツとヒトミに勝本会長の踊りの振り付けを教えながら説明しました。「ロニー、ダサいよこの踊り」ヒトミが口を尖らせます。うん、確かに指図されたくない、と思った委員長。それでもひとまずは会長の顔も立てようってことで言いくるめます。「出だしだけでもやってみようぜ。あとはこっちのペースでいいじゃん」多少不服そうなヒトミでしたが、もう打ち合わせする時間もありません。そこで、勝本さんからのCALLで委員長が舞台に上がります。舞台袖には例のQBの常連、製作会社のスタッフが合図を送ります。後はもう舞い上がって何をどう踊ったかすら覚えてませんが、だてに踊りバカだったわけじゃありませんから、見栄えだけはするように舞台を縦横無尽に踊り狂いました。特に、当時の流行のロボットは大うけで、益々調子コキまくって、テツは興奮の余りバック展、前転、半ひねりと大技の連発です。(連れてきてよかったぁ)テツは機械体操部出身、ルックスも童顔ながらまあまあ、身長さえもう少しあったらなあ、ってなもんで、もちろんヒトミは勝気なおねーちゃんですから、舞台といえども物怖じひとつすることなく堂々たるプレゼンテーションでした。プレゼンのあとはディスコタイムとなり、パーティは盛況、委員長たちも出番を終えて帰ります。幸い勝本会長は関係者と雑談中、委員長は出番を作ってくれた製作スタッフに挨拶して早々に引き上げました。「結構興奮したねぇ~」ヒトミが笑っています。「オレあがっちゃって、何やったか全然覚えてないよ」テツは初めての大舞台でした。「勝本さんに誘われちゃったよ、ディスコ協会に来ないかって」委員長が言うと、ヒトミが食ってかかってきました。「じゃ、あたしらはどうなんのよ。ダメだよ、ロニー、勝手に行っちゃ」もちろん行く気はありませんでしたが、勝本さんに声かけられたってことは素直に嬉しかったし、自分が突っ張ってやってきたこともまんざら間違いではなかったんだなあ、としみじみ思ったりしたのも事実でした。
2005年07月16日
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ニッポンのSOULバンドを目指して三鷹楽器に集結した道楽者たちは、己の実力を目の当たりにし、その夢がいかに遠大かつ無謀な計画であったかを悟ったのでした。まず第一に、自分たちが目指すSOULバンドにはブラスセクション(管楽器)が必要であり、根本的な楽器編成からもう一度考え直さねばならないことを知ったのでした。当時はデジタル楽器などあろうはずもなく、アース・ウィンド&ファイヤーに限らず、SOULバンドに憧れるならば、まずそこには、管楽器奏者を集めなければならないという命題が立ち塞がっていたのでした。ハードロックやPOPSをコピーするアマチュアのROCK BANDに、当時はまったくの畑違いであるディスコDJが組んだところで、もともと依存する音楽志向が違うので、そう簡単に融合できるはずもなく、まさに真夏の夜の夢(昼間だったけど)とも言える、道楽者同士のセッションでありました。1回の練習じゃまだ判らないし、練習を繰り返していくうちに何か見えてくるさ、と楽天的に言う村ちゃんでしたが、どちらかといえばBAND素人の委員長とトオルの落ち込み方は尋常ではなく、自分たちがどれほどのものかをつくづくと思い知らされたのでした。実はこの村ちゃんのBANDも、この当時すでに崩壊状態にあり、何とかメンバーを踏み止まらせる苦肉の策が、このJOINTでもあったのでした。メンバーの音楽監督的なギタリストのヨンタナ(サンタナに顔が似てることからそう呼ばれていた)は、「ダメダメ、話にならん、もっと歌い込んでからだな」と一喝。(当然です)ドラムの小熊君(別名こまわり君)は優柔不断、そろそろ道楽から足を洗う時期に来ていると思っているらしく、どちらでも良いような答えともならぬ答え。キーボードのH君はすでにCBSソニーへの就職が決まっており、今回はお手伝いで参加、「楽しかったよ」の一言で他人事。ということで、結果的にはこの1回のセッションでこの企画は終了しました。痛い思いをした委員長とトオルはQ&Bに戻って、「やっぱり俺達には踊りしかないな」と慰めとも反省ともつかぬ決意を新たにしたのでした。このあたりから委員長とトオルは、完璧に自分たちの世界に入り込んでしまい、ひょっとすると俺達は黒人なんじゃないかと思い込んでしまうくらいSOULに没頭していました。また、そんなバカを一目見ようとあちらこちらから色々なSOULバカが迷い込んできては、更なるSOULバカ自慢を繰り広げたのでした。とは言うもののQ&Bも新進のディスコには太刀打ちできず、業績は落ちてきており、ビバヤング、V-one共々、危機感を募らせているような状態でもありました。これはこの時代の流れでもあったのですが、いわゆる小箱の「踊り場」は過去のモノとなりつつあり、GET、SOUL TRAINなどもご多分に漏れず、やはり経営は苦しい状況となっていたのでした。そんな時代にも関わらず、あらたな挑戦とも言うべくSOUL色の強いお店がオープンしました。しかも成城学園という世田谷の住宅街に現れ出た「ANOTHER WORLD」はまさに別世界のようなコンセプトのディスコでした。ある晩、Q&Bに見たことのあるようなないようなアフロ小僧がやって来ました。何処かで見たことのある、そのちょっとひょうきんな踊りっぷりはやはりあの人でした。そう、V-one時代の仲間テリーです。What’s Happening? 右手拳を挙げておどけて見せるテリーの頭はなんと、こじんまりしたアフロになっているではありませんか。「どーしたの、テリー、その頭」委員長のイメージのテリーは、アメリカンナイズされたヒッピーみたいな感じで、当時でもちょいと時代の先駆けみたいなサーファールックだったのに、突然FUNK魂がRevengeしたようにファッションもBlack Powerに変わっていたのです。「今度さ、成城にオープンしたアナザーワールドって店にいるから、遊びにおいでよ」委員長にしてみれば、すでにSOULは卒業したOBみたいに思っていたテリーが、またこの世界に戻ってきたことの方が不思議でした。更に、時代もFUNKからDISCOへと移り変わっている頃で、自分たちでさえもアフロSOULがどこまで行けるか多少は不安に感じていた時でもあったので、時代を逆行するようなテリーのチャレンジはまさに不思議な行動でもありました。また、内心では「成城学園のディスコねぇ? いつまでもつかなぁ」みたいな感じで、どうも委員長にはいまひとつピンときませんでした。でもテリーっていうのは、こういう風にちょっと突飛な行動が持ち味だったので、それはそれで興味もありました。ということで、好奇心旺盛な道楽者二人、トオルと委員長はアフロ小僧数人を引き連れて成城学園アナザーワールドへ乗り込んだのでした。期待通りというか、当然と言うか、夜中の成城あたりは非常に閑静な住宅地でありますから、そんな中に突如現れた世界はまさにアナザーワールド、客は道楽者だけ、貸し切り状態、始発待つにも、ここから出たら野宿しかないってな処です。そこはそれ、テリーの友情で朝まで「ぶっ飛び」コイて踊りまくり、何をやっているんだか、道楽者のMidnight Partyは疲れを知らぬまま朝を迎えたのでありました。「じゃ、また来るわ」(たぶんこれが最後だと思う)そう言って別れを惜しむ委員長でした。(さあとっとと帰って寝よう)小田急線成城学園駅のプラットホーム、始発待ちのトオルと委員長の中には共通の思いがありました。「長いことねーだろうな」この当時のテリーとの思い出で忘れられないことがいくつかありました。このころのテリーは、ボージーというBlack manと始終一緒にいて、今までのミリタリー系とは幾分変わったタイプのブラザーでした。特に彼がプロデュースというかマネージメントしていたダンサーズがいて、これは最高にカッコ良かったですね。当時のダンサーズの中じゃナンバー1だった思います。もちろんモノホンの黒人グループですから、ハナから日本人に太刀打ちできるわけがなかったのですが、小学生か中学生くらいの双子の男の子が踊るロボットというかパペットというか、これは面白かったし、その技術も目を見張るものがありました。Baseballを取り入れた彼らの振り付けActionは、その後色々なグループが真似していましたが、これはもう完全にノリが違っていました。加えて女の子二人がメッチャ可愛いかった。踊りの方は、技術で言えば日本人でも彼女たちより上手い娘はいましたが、適度なお色気と黒人特有のノリはマサにSEXY & FUNKY、オーラが出ていました。委員長も随分と色々な踊り手(ダンサー)やグループを見てきましたが、自意識過剰も含めた評価の中で、過去本物と認めたのは、このグループとジョニー率いるファンキードールズだけでした。もちろん、来日したSOMETHING SPECIAL(ソウルトレインギャング)は本当の本物(どう言う意味やねん)ですから評外です。ちなみにこのSOUL SISTERS、ビクターから発売されたレコードのアルバムジャケットにもなりました。写真欲しさに買った覚えがあります。肝心のアーティストが何だったか、未だに覚えがありませんが、確かジャケの撮影はエンバシーだった思います。表ジャケが妹の顔のアップ。裏ジャケがエンバシーのダンスフロアで踊るボージーと姉でした。いやいや、この姉妹、当時のアフロ小僧たちを相当虜にしたのではなかったでしょうか?(もっと詳しい話を知りたい方はテリーのサイトへどうぞ)正直言って、超自信過剰な委員長でさえ、このダンサーズのパッケージショーを見たときには自信喪失、今までのハッタリが足元から崩れ落ちていく感じすらしました。更に委員長をビビらせる事件が起きました。この双子の坊やの片割れが、ボージーに連れられてひょっこりとQ&Bにやって来ました。妙に大人びた態度のガキやなぁ、と思いつつも、やっぱりフィーリングの違いが歴然と踊りに滲み出ていて、情けないけど、踊り教えてもらうかな、などと思ったりする始末でした。するとこの坊主、DJブースにやって来て、”Can you play reason for me” と言ったのです。もちろん、このREASONっていうのはEW&Fの名曲スローバラードです。早速ライブバージョンを回してやると、なんと委員長の横に座って一緒に歌い出すではありませんか。ほお、と思った委員長、オープンDJスタイルでマイクを彼に手渡すと、調子コイた坊主はすっかりその気になって歌います。レコードにかぶせているとはいえ、フィリップ・ベイリーのあのファルセットを楽々かぶせて歌うこの坊主、ただ者ではありません。く、くっそー、何でオレは黒人に生まれてこなかたんだ、と地団太踏んだところでこの坊主に勝てるわけでもなく、持って生まれた血だけは塗り替えられないと悟ったものでした。その晩落ち込んだ委員長はある情景が目に浮かびました。それは、自分たちのダンサーズBAD CHILDRENがステージで踊り、その後ボージーたちが現れてショーを見せているというシーンを想像しました。そして、二組のグループがステージに立ったとき、果たしてお客の目にはどう映るか。それはまるでピエロとスターのように、まがい物でしかない自分たちがそこにいるのです。負けた。日本人は黒人じゃない。この歴然とした事実に委員長は落ち込んだ夜を明かしました。道楽者の朝は開き直りの朝でもあります。「そうだよ、俺達ゃ日本人なんだから、はじめから黒人にゃなれないんだよ」(もっと早く気付けよ)あきらめの良いことも道楽者の得意技です。どうせコピーなら、コピーでいいんだよ。だったらオリジナルより上手いコピーになりゃいいじゃん。凄い発想ですね。コピーがオリジナルを凌ぐってトコが傲慢ですね。この日から委員長の頭の中では、音楽ジャンルのこだわりがなくなったのでした。(って大げさなもんじゃないけど)初心は忘れてはならないのです。「オレたちゃツッパリSOULマンだ」そしていよいよダンサーズのデビューがやってくるのです。ちなみに、随分経って小田急線の車内で偶然に遭遇したテリーは、ロン毛にジーンズ、草履履き、カリフォルニア・ドリーミングに見事変身しておりました。おっと、またひとつ先を行くんだねこの人は、ってな感じでしたね。そしておいらはとことんSOULモドキに突っ走るぜ、みたいな新たな時代の幕開けでもありました。
2005年07月15日
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Q&BのDJライフも油が乗り切って、ついでに脂ぎっちゃったりして、興奮と感動の日々が流れておりました。この頃、青春の野望に賭けた道楽者のお仲間はというと、企画会社ひとやすみ元社長マチャアキは、東宝会館7階にオープンしたトゥモロー・ヴィラというアメリカン・パブでDJを始め、元副社長ジュリーはアダムスアップルとパブ・トゥモローをかけもちしたりして、頑張っておりました。委員長は時々二人のもとを訪れ、懲りずにもっとデカイことやろうよ、とそそのかしたりしておりました。マチャアキは蒲田ブルドック事件以来、「オレはこれから一匹狼で行く」と言ってプロ麻雀の世界を目指したりしておりました。ジュリーは相変わらずせっせと稼いで貯金を増やしつつ、いずれはレコード会社へ就職といったような堅実な道を目指していました。ジュリーも委員長も共に、学歴もなく、コネもなく、もちろん金には縁遠いボンビーな生活者でしたから、この点ではボンボンっぽいマチャアキとは違って相通じるものがありました。以前にもお話ししましたが、この頃は結構お互い助け合ってのし上がって行こう、というような友情も芽生えたりしていました。委員長はジュリーのキングレコードのアルバイトで、何とか実績をつけさせてあげたいと思っていましたから、多少は自分のSOULポリシー(そんなんあったんかい?)と違うイベントでもできるだけの協力をしました。もちろんジュリーも委員長の夢である、ニッポンのSOULバンド結成のため色々とお手伝いもしてくれました。とにかく、アース・ウィンド&ファイヤーにどっぷりと浸かってしまった委員長は、もう生活そのものがEW&Fと言っても良いくらい、モーリス・ホワイトの哲学にアフロヘアを捧げたようなFUNK人生を歩んでおりました。(意味わかんねーぞ)星型の指輪に、星座のペンダント、ジャケットにはジュピターの印、常に頭を空に向けて歩いておりました。 Keep your head to the sky.そんなある日のこと(そうです、Happeningはいつもある日突然やってくるのです)、固い契り(そうだったの?)のSOUL BROTHERジョニーがやって来て申し訳なさそうに語ったのでした。「ロニー、ごめんな。オレ、アフロレイキのマリオさんに前々から誘われてて、どうしてもやってみたいんだよ、マリオさんところで」委員長は一体全体何を言っているのか判らず、ただ頷いて聞いているだけでした。「ロニーとの話も面白そうだし、やってみたいんだけど、やっぱり、オレどうしてもマリオさんと仕事してみたいんだ」ジョニーの説明では内容がよくつかめませんでしたが、おまえとはやらないって言われたわけで、そんな話に今更何を言っていいのかもわかりませんでした。「そうか、残念だけどジョニーがそう決めたんならそれでいいじゃないか」「ありがとう」「気が変わったらいつでも戻って来いよ」この後、ジョニーはマリオさんのアナザーワールドというお店に行くことになるのですが、委員長は、この時初めて自分が口先だけで、夢の実現に向けて何も行動していない人間だったと思い知らされたのでした。ジョニーは本気で夢を喰っているのに、オレは毎日毎日お祭り騒ぎしているだけじゃないか。そう思うと自分自身に腹が立つ反面、目標を定めたジョニーを羨ましく思ったりしたのでした。委員長だってテレビに出たり、イベントに顔出したり、傍から見れば、夢を具体化しているようには見えますが、実際のところ何一つ自分で切り開いたものではありません。すべてが成り行きで回っていったに過ぎず、人よりちょっと勝気だった性格が功を成しただけのことでした。ようし、俺もここらで根性決めて一発やるぞ、少なくともジョニーには負けたくない、いつかヤツが頭を下げてBAD CHILDRENに入れてくれと頼みに来るようになってやる、そう意気込んだ委員長でした。カッコいいですね、盛り上がりますね、ドラマ的に。これでガッツ見せて成り上がってたら、こんなとこでブログ書いていませんね。所詮道楽者ですから。これが私です。ってなもんです。その晩は確かにガッツに火が付いて燃え上がりました。ガォーってムキになって踊り明かして、一晩寝て起きたらまたいつものディスコナイトの始まりです。ジョニーと袂を別けたこの日に二人で踊った想い出の曲、ジョニーがリクエストしたのは、なぜかEW&FのHappy feelingでした。心情はUnhappyだったんですけどね。それでも、BAD CHILDRENメンバーのトオルやマリ、ヒトミは、「一緒にやっててもたぶんジョニーとはうまく行かないよ、だから良かったんじゃないの」そう言って、「私らもそろそろ本気でやろうよ」と言い出したのです。そうだな、そろそろ本気でやってみるか。(こーゆーときは女の方が根性ありますね。割りきりが早い)そう思った委員長ですが、とは言うものの何をどうしたらいいのかさえ見当も付かず、ただあり余るエネルギーだけが体の中で燃え滾っているような感じでした。(青春だなあ)そんなところへ、またもやジュリーがやってきました。「ロニー、バンドやりたいって言ってただろ、だからメンバー探してきてやったぜ」「えっ、ほんと?」「紹介するから白馬車へ来いよ」というところで、タイミングもバッチリ、ジョニーがやるなら俺もやるってなもんで、早速トオルと二人、白馬車に出張っていったのでした。そこで委員長たちを待ち受けていたのは、長髪のチョット暗めの地味~なおにーちゃんだったのでした。どうみたって歳はもちろん委員長より3つ4つは上、しかもディスコとは程遠い坊ちゃん坊ちゃんした風貌、どうもイメージしていたバンマスとは違うなぁというのが第一印象でした。彼の名は村○君。通称「村ちゃん」、三鷹方面で活躍中のアマチュアバンドのリーダーとのことでした。その界隈ではちょいと知られたバンドなそうで、メージャー目指すために派手なこととか、目立つことをやってみたいって話でした。当時のジュリーは、彼女が田無に住んでいたことからジュリーも田無にアパート借りていて、たまたま彼女の友達が村ちゃんの彼女と同級生で(っつーことはジュリーの彼女は年上ってことですね)、バンドのデモとかをキングレコードに紹介してくれみたいな話でやってきたのが事の発端でした。ジュリーも昔からお調子者のお世話好きですから、「オレのダチにダンサーとバンドをくっつけてみたいってヤツがいるぜ」ってことで、「ほー、そりゃ面白そうだ」みたいな話から、じゃ一度会ってみようてなことになったわけです。まあ、茶店での話はたわいもないことだったんですが、委員長はモーリス・ホワイトにかぶれきっちゃってましたから、音楽性とかメッセージとかすべて受け売りとはいうものの、音楽論までぶち上げてしまい、村ちゃんも「おー、こいつはスゲー奴に出会った」みたいに勝手に盛り上がってしまったのでした。じゃ、一発音出ししてみっか、てなことで話はとんとん拍子に進んで、三鷹のスタジオ借りて第一回目の練習となりました。練習曲は、サンタナのEvil waysとEW&FのDevotionの2曲。サンタナはまだしも、Devotionなんてムボーですね。当時のプロだって恐れ多くてコピーなんぞしませんでした。コーラスだって、ファルセットだって、シロウトが演れる曲じゃありません。やりたいこととできることとが判らない、典型的な道楽者の独りよがりです。スタジオは学生街ということもあって、通りに面したガラス張りの一室は外からギャラリーがのぞけるようになっています。そこへアフロしたド派手なにーちゃんが二人たてば、周りは嫌がおうにも盛り上がります。見学させて下さい、って楽器屋の奥にあるスタジオには中高生の人だかりができます。村ちゃんも驚きです。おー、見栄えがするってのはこういうことか、みたいな、今までの地味な自分たちのバンドでは考えられない状況です。メンバーもこりゃちょっとイケるんじゃねーか、みたいな期待感が膨らみます。委員長とトオルは、当然じゃないの、俺達は、みたいな超自意識過剰ですから、しまいにゃ狭いスタジオで踊りなんぞ軽くご披露しちゃったりして、どこまでも命知らずな野郎どもです。(タバスコ呑むのとはワケが違うんだぞ)一曲目の練習が終わるか終わらぬか、楽器屋さんの前は何事もなかったかのごとく平凡な日常生活に戻っておりました。人だかりができたことすら夢の出来事のごとく、ほんの数十分のあいだにフツーのアマバンドの練習風景となっておりました。そしていつもと変わらぬ三鷹の学生街の日は暮れていったのでした。(あ~あってなもんです)バンドもダンサーも夕暮れに黄昏ていった長くも短い一日でした。まさかこの数年後、委員長と村ちゃんが一緒にレコーディングをすることになるとは、この時の関係者の誰一人として夢にも思っていなかったのではないでしょうか。オマケですが、SANTANAのEVIL WAYSって曲、例の911テロの後すぐに誰かがラジオ局から流した替え歌がありました。もちろんジョーク好きのアメリカ人のイタズラでしょうが、たった1日アメリカ全土に流れたようです。委員長も1回だけでしたがカーラジオで運良く聞くことができました。全部は覚えてませんがこんな感じでした。You’ve got a change your evil ways, (これは原曲のままですね)この後”BABY”ってコーラスが入るんですが、このパートが、「ビン・ラーディン」になってるんですね。続いて、I’ve never forget to punish you if you’ve got a change, ビン・ラーディン~って感じだったですかねぇ。ほんのワンコーラスだけだったんですけど、驚いたというか笑ったと言うか、スゲーなって思いました。正確に聞き取れなかったので英文のまま紹介できないのが残念ですが、「悪魔の道に入り込んだあんたがいくら改心したとしても、これからあんたにお仕置きをするから覚悟しておきなさい」というようなメッセージソングでした。日本人には絶対にない発想ですよね。もちろん米国だってCopy Rightの問題とか、On Airコードとかありますから、海賊放送なんでしょうけどここまでやっちゃうとこが凄いですよね。ラジオというかメディアというか、送り手がきちんとした意志をもって自分たち流のやり方で表現したメッセージだと思いましたね。アーティストSPRITって言うと大げさかも知れませんが、職人気質みたいな「遊び」が盛り込まれていますよね。根性ありますね。まして宗教色国家のことですから、こんな過激なメッセージソングを電波に乗せて流すってことは下手すると犯罪行為にあたります。それを承知で流した局(たぶん皆ローカル局でしょうけど)も根性入ってますね。体制の顔色伺いながらこじんまりとチャリティコンサートなんぞやってるニッポンのROCK BANDにも、もちょっと根性見せて欲しいですね。そういった意味で言うと、ニッポンでは本気でROCKしてるヤツって非常に少ないですね。残念。
2005年07月14日
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今日は昨日の続きエピソード2です。相当なBLACKファン御用達ディスコとなりつつあったQ&Bは、BAD CHILDRENの噂もさることながら、新宿ではエレガントなディスコが軒並みオープンしていく中、古いタイプのディスコとしてブラザーもチラホラ来るようになりだしていました。とは言うものの、彼らのお目当てはガールフレンド探しですから、特別Q&BがSOULFULな店だったというようなことではありません。お隣のブラックシープにはベースの仲間がバンドで出てるし、まずはここでうまくガールフレンドがGETできたら、今度はもう少し落ち着いた店で腰を据えて口説きたい、ってな処が本音だったようです。Q&Bって天井低くてやけに暗かったから、ボックスシートも低く出来てて、座り心地はまんざらでもないし、必然的にブラザーが増えてくればそれなりの選曲になっていくし、周りのムードも自然にSOULっぽくなっていったというような感じでした。更に、アフロ小僧が溜まり出したせいで、アフロ娘も結構出入りしだしたものですから、ブラザー達にとっては自分たち目当てのグルーピーちゃんたち、みたいに思うのは当然で、ブラックシープとQ&Bの流れが自然に出来上がっていきました。さて、そんなある晩のこと、V-oneのDJカーターに入れ込んでいたガールフレンド3号が大柄のブラザーを伴ってQ&Bにやってきました。カーターは、踊りはムチャクチャ下手くそなくせに、おねーちゃんにだけはやたらもてて、結構なプレイボーイでしたから、日本人のガールフレンドだけでも4~5人はおりました。委員長のランキングではその中の3号にあたる彼女は、なんと偶然にも当時の委員長の彼女と同じ学校に行っていたということもあり、いつのまにかお友達のひとりになっていたのでした。ちなみに彼女たちが通っていた学校は、御茶ノ水の池坊学園です。凄いですね、昼間花嫁修業に通うお嬢様達は、夜もしっかり黒人文化の研究もなさっておられたんですね。しかしねえ、委員長の彼女の話によると、ブラザーに入れ込んじゃったお嬢様は一人二人じゃなくて相当な数がいたそうで、世の中本当にわかりませんね。昼間はまったくその素振りも見せず、夜はハレムやらエンバシーやらに出没、その変貌振りにはクラスメートでもちょっと気付かないほどだったそうです。実は委員長の彼女も、この頃はもう地毛のアフロではなく夜のカツラでございました。そりゃそーだよね、いくらなんでもアフロで池坊は似合わんでしょ。さて、このお友達のガールフレンド3号は、その晩、カーターと一緒に入ったブラックシープでカーターのプレイボーイぶりにすっかり腹を立てて、あてつけにそこにいた横須賀マリーンにわざと軟派されてQ&Bにやって来ちゃったなどと委員長に面白おかしく言うのでした。マリーンのにーちゃんの名前はラリー、身長は190cm以上あったのではないでしょうか。Q&Bの天井ギリギリくらいのデカ男でした。顔は今風に言うと、ウィル・スミスにスナイプスを強引にねじ込んでハマーで割ったみたいな感じ(ワカラねぇーぞ)、率直に言ってあまりイケ面ではなかったと。。。。でもHEARTは中々良いヤツで、体の割には心の優しいヤツでした。店でも決してガールフレンド3号に横柄な態度は取らず、見てくれとは違って相当な紳士ぶりを発揮しておりました。そのせいか、ガールフレンド3号は調子くれて、カーターとの鬱憤を晴らすように、まるで女王様気取りです。もともとマリーンはドカタ仕事系ですから、朝早いし力仕事で辛いのですが、彼女の言いなりになってディスコで朝方まで付き合って、Kiss and say good-byみたいに、彼女のタクシーを見送って始発で横須賀まで帰るってな、いじらしいデートが何度か続いておりました。ちなみに横須賀マリーンは横田AIR FORCEに比べるとホワイトカラーとイエローカラーくらいの差があって、マリーンは大抵が無教養の乱暴者みたいな見方をされてましたから、横田のカーターとはどだい比べ物になるはずはありませんでした。しかし、このラリーの献身的な態度を見てて委員長やトオルもちょっと同情して、彼女と別れた後の始発待ちに付き合うようになっていったのでした。一度、コマ劇場並びのカウンター寿司「コマ寿司」へ連れていき、寿司を食わせたんですが、脂汗流して喜んでおりました。(そりゃ耐えてたんだよ)当時はまだ「寿司バー」みたいにメージャーなフードではありませんでしたから、カウンターに座ったラリー、お絞りを両手で握り締めながら口にあてて、”Did you cook it?”などと愛想笑いを浮かべながら板さんに聞く始末。板さんも最初のうちは面白半分で、頭のデカイ3人に「シーチキン、シーチキン」とかからかってくれていたんですが、握りを出すたびにギャーとかウーとか言って口にしないラリーにしまいには青筋たちはじめて、誰だこんなやつ連れてきたのは、って怒り出してしまい、早々に立ち去った3人でした。委員長もちょっとガッカリしつつ「これは日本の名物で高価なんだぞ」って説明しましたが、アメリカ人はやっぱ生ものは食べないんだなぁ、と実感したのでした。仕方ないのでカーネル・サンダーズおじさんの店に連れて行ったときの、祝福に満たされたラリーの顔が印象的でした。“Oh Jesus, I appreciate、イタダキマス”フライドチキンにケチャップを塗ったくってパクつくラリーを見て、アメリカ人の味覚は日本人より絶対に劣っていると確信した委員長でもありました。ということで、毎晩のようにQ&Bにやってくるようになったラリー君、ガールフレンド3号からの連絡が無いときはQ&Bのソファで居眠りです。そりゃ肉体労働者だから、いくらタフと言っても毎晩じゃ辛いわな。今夜も彼女は来なかった、とまたも淋しい始発待ちに深夜の歌舞伎町をうろつく3人組。今夜はどこの茶店で夜を明かすかなあ、などと歌舞伎町東映の看板などを見ながら歩いていると、突如として喚声があがり、ミラノ座の前をブラックシープの黒服連中他数十名の一団が大久保方面へと走っていくではありませんか。と、それを見たラリー君、なんと猛ダッシュ、猛スピードでその後を追いかけていきます。なんだぁ、と委員長とトオルも後を追います。一団はミラノ座のカドを左に折れ、スタッセビルの中になだれ込んで行きます。知らぬ間に野次馬も一緒になって人数は二、三十人に膨れ上がっています。ドカドカとビルの地下に入ると、そこはお馴染みジュリーのいたパブ・トゥモローです。フロント前で一団のリーダーらしき人物が怒鳴っていて、その一団からラリーの頭がのぞいています。「いつでもやったるそぉー。オレの腹にはドスが何本もはいってるんじゃあ!」何事でしょうか、ようわからんタンカがビルに響きわたります。「いいか、俺の腹には何本もドスが入ってるんだ。やるならやったるぞぁ」妙に騒いでる人物の後ろではブラックシープの従業員が、目を血走らせて店の中を覗き込んでいます。「オレの腹にゃ何本もドスが入っているんだ、いいか何度も突かれてるんだぞ」はいはい、もうよくわかりましたってなもんです。そんなに何本も刺されたってことは、喧嘩弱いってことじゃないのかい。当人は興奮してるから判っていないようですが、外野の野次馬としては一体何が言いたいのかまったく判りません。それにしてもラリー君はそこで一体何をしているのでしょうか。「いいか、なめるなよ、いつでも来るからな、俺の腹にはドスが入ってるんだぞ」まだ言ってます。何がどうなって、どう解決したのかわかりませんが、収まった様子の一団はゾロゾロと引き上げてきます。先頭には白いシャツが肌けてヨレヨレになった小柄なブラザー、彼はブラックシープのDJです。その隣に付き添うように歩いているラリー君。後ろから従業員数名が周りを取り囲むように歩いています。ラリー君の話によると、トゥモローのスタッフがブラックシープに遊びに来ていて、どういう経緯か知りませんがDJと揉めてしまい、怒ったブラザーが殴りかかり、あわや乱闘というところで相手が逃げたのでそれを追いかけて行った、というようなくだらないことでした。何でもこのDJはラリー君のお友達だったらしく、ブラザーの喧嘩はブラザーがHELPするという義侠心から飛び出したとのことだったのでした。“I like fight, I’ve learned KARATE, I’m very strongネ” だって。いつもの穏やかなラリー君には似合わず、本当は武闘派だったんですね。彼が見せてくれた拳には、赤黒緑のソウルカラーの毛糸の指輪が巻かれておりました。彼曰く、自分はブラックベルト保有者なので、SPRITのないFIGHTはしないが、ブラザーが助けを求めているときはいつでも闘うと、可愛い指輪をした頼もしいFIGHTERでした。さて、そんな彼のガールフレンドとのお付き合いも、そろそろ決めてあげなければ可愛そうだ、とよけいなお世話の委員長、「興味がないのだったら、いい加減にしてあげないと可哀想だよ」と彼女にお知らせしてあげたのでした。数日後、上機嫌のラリー君がQ&Bにやって来ました。委員長の顔を見るなり、”What’s happening brother, hey man I got it!”と叫んでダンスフロアで勝手に踊り出す始末。ようやく彼女のお許しがでたのかな、と思った委員長、”Right on”などと調子くれたのですが、彼が有頂天になっていたのは彼女のことじゃなくて、ブラックシープのDJになった、ということでした。I got it, I got it.やたら喜ぶラリー君、委員長もトオルも一緒にCelebrateしてあげました。一息ついて、彼女のことを聞いてみたら、ラリー君ちょっと照れくさそうに笑って、“She is a cherry girl, I don’t wanna hurt her, ITAI, ITAI, DAME-DESHO?” とのことでした。お嬢様の黒人文化研究会も中々に厳しいものがあったようです。ちなみに、委員長はラリー君が実際にDJをしているとこを見る間もなく、いつの間にか彼も新宿から消えておりました。ベトナムで死んでいないことを今も祈っています。最後に、カーターのガールフレンド3号ですが、その後数回ハレムで遭遇しましたが、相変わらす研究はあきらめていないようすでした。今にして思うと、渡辺えりこの若い頃、みたいな感じだったかなぁ。。。。
2005年07月13日
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さて、ジュリーとロニーのコンビはイケイケどんどんといった具合に、Q&Bの合間をみては、あちらこちらのイベントに顔を出すようになって、更に悪ガキが集まってきました。気が付けばQ&Bはアフロ小僧の溜まり場みたいな雰囲気になってきて、福生のBPから噂を聞きつけてわざわざ訪ねて来るヤツがいたり、ミッドウェイからなだれ込んできた黒人なんかもやって来て、益々委員長たちを興奮させたのです。せっかくですから、この当時のQ&Bの二大事件をお話しましょう。ひとつは、ビバヤングのバンド、サウンドウェーブスのヴォーカルだったネストールって奴に入れ込んじゃって、バンドがフィリピンに帰るときに一緒にくっついて行っちゃったホステスさんのお話です。ちょうど委員長が一緒にバンドやろうぜって、バカな話を持って行った後のことでした。このおねーちゃん(というには、ちょい歳喰ってましたが)、N観光のクインビーで働きながらせっせと貢いでいたので、当時のビバヤングでは誰もが知っており、委員長とも顔見知りでした。そのおねーちゃん、アジア系ハーフで名前をアリス(って顔じゃなかったケド)と名乗っていたんですが、元々はグルーピー系だったようで、“イエロー”のジョニー吉長さんに妹のよう?に可愛がられていたとか言っておりました。(あくまでも本人の弁ですから、事実かどうかの確証はございませんのでよろしく)そのアリスが突然Q&Bに現れたのでした。昇り竜の刺繍入りシルクだかサテンのド派手な須賀ジャンなんぞに身を包み、ホステス時代より幾分若返った感じの出で立ちでした。早い話、調子に乗ってフィリッピンまでついてはいったものの、当然彼には女房子供もいるし、貢ぐ能力のなくなったガールフレンドは迷惑なだけですから、テキトーに言いくるめられてマニラに置き去りにされたってなことでした。(彼らはマニラからだいぶと離れた町オロンガポの出身でした)さあ、行くあてもない彼女は、マニラのホテルで痴話げんか、貢いだ金を返せだの、死ぬの生きるのとお決まりのコースです。ただ、揉めた場所が彼らの地元ですから、どんなに日本で貢いだかは知りませんが、所詮はよってたかって言いくるめられて飛行機に乗せられてBACK TO JAPANです。そんなこんなでボロボロになって戻ってはきたものの、一文無しのプータローですから、何とか食い繋ぐために、まずはビバヤングの梅ちゃんを頼ってきたのでした。当時の経緯を知ってる梅ちゃんですから、ほっとくわけにもいかず、相談には乗ったものの、彼女いわく、自分は今、横須賀にいてニュー・サンタナというディスコでDJをやっているが、ボーイフレンド(ブラザーですね)がミッドウェイで出て行くので、この先住む場所がないからここでDJとして使ってくれ、ということでした。(ヤレヤレ)梅ちゃんに伴われて彼女はDJブースにやってきました。あら~、ウェイターのアフロちゃんじゃない、ってな調子で、まずはご挨拶。梅ちゃんから事情を聞いた委員長、じゃあちょっとサラ回してみて、ってテストしてみましたが、こりゃダメだって、どうみても使い物にはなりません。梅ちゃんも、だめだよな~って困った顔して事務所に引っ込んでしまったのです。ビバヤングでバンドマンに貢いでいた頃の華やかさもなく、悲壮な顔のこのおねーさまがなんだか哀れに思えた委員長は、3階のボトル倉庫に案内して厨房で作ってもらった晩ご飯をシェアしてあげました。腹を空かしていたおねーさまは、ぺロっと丼飯を平らげて「ごちそうさまでした」と御礼を言って、肩に掛けた小さなポシェットからなにやらキナ臭い物を取り出して委員長に差し出したのでした。「飛び道具だよ~」 (おっといきなりかよ、って)そう言って、かなり太めのねじり煙草を委員長の手のひらに握らせたのです。ここじゃやばいせってなもんで、店終わってからにしようよってなことになり、その夜はルンルン気分で終わりました。相棒のトオル君も早めに帰して、梅ちゃんと従業員が帰るのを見定めてから、そっと裏口から店に入る二人。静まり返ったビルの薄暗い非常口に小さな火がともって、枯れ草と線香の混じったような香りが煙ります。ワォーッ!二人は新宿ムゲンに突入、朝まで踊りまくり、ヘトヘトになって店を出ると彼女が委員長にもたれかかってきます。あれ、何この展開は?いくらぶっ飛んだからって、これはちょいとまずいぜって感じです。委員長は過去の経験で痛い思いをしておりましたから、デンジャラス系は匂いで判ります。仕方ないのでQ&Bに戻って店のソファに彼女を寝かせ、委員長も結局そのままウトウトして気が付けば昼です。皆が来る前に一旦店を出ないと怪しまれるので、彼女を起こして近くの喫茶店に入りました。そこで聞かされた身の上話が、グルーピーのこととか、せっかくミッドウェイのマリーンを掴まえたのに転属になってしまい、横須賀を出なきゃならなくなったことなどでした。しかしなあ、あんたの腕じゃ、とてもじゃないけどDJは勤まらないし、これは梅ちゃんに素直に頼んでホステスかなんかで面倒見てもらった方が良いんじゃないの、ってことでようやく落ち着きました。中々に聞き分けの良いおねーさま、早速チェーン店の西口のクラブ「淀」(V-one の上階でした)に就職が決まり、まずは一安心でしたが、とりあえず身支度するにしても一旦は実家に帰らなければならず、一夜の宿を取る金もないってことで、ひとまず梅ちゃんがしっかりとメンドーみちゃったわけです。こういっちゃなんですが、お水関係は男に頼る生き方しかできないって女の人が結構たくさんいるんですよね。まあ、委員長も人のことトヤカク言えるほど立派な人生を歩んできたわけじゃないんですが、やっぱ女性の場合、主体性がないというか、男に流されちゃうっていう生き方はかなり哀しいものがあります。逆に、付き合う男の地位でいきなり偉くなっちゃう女も困りものですが、どっちにしろ自分を見失った人間の行き着くところは男も女も大概一緒です。こんな経験を語ったらキリがありませんが、やはり道楽者として一番肝心なことは自分を知るということに尽きると思いますね。男でも女でも、自分がどの道楽をどのように楽しんでいるか、ということを知ってさえいれば、多少の浮き沈みはあるものの、泥沼に足を引きずり込まれることはないと思います。とは言っても若い頃の男と女の関係ってのは、所詮感情が先立ちますから、頭ではわかっていても体が言うことをきかないってこともあるんですよね。(えっ?)なんの話かわからんようになりましたが、とにもかくにも良いトコ取りした梅ちゃん、タナボタの一夜は楽しく過ぎたのでありました。委員長にしてみても、晩ご飯の見返りに「一服」貰ったりして、みいんなまあるく収まって、ヨカッタ、ヨカッタということでした。(お察しのとおり、これで終わりってことはあるわきゃないですね)さて、日々騒動というようなFUNKYな道楽者人生ですから、このアリス騒動もすぐに過去の出来事となり、すっかり忘れたある日のこと梅ちゃんが目を血走らせてDJブースにやって来たのです。「もらっちゃったよ。横須賀っつってたからヤバイと思ったんだよな」あーあ、って感じです。「やっぱりヨーパンはダメだな。オレも甘かった」そう、下半身がね、甘かった。というわけで、梅じゃなくてよかったよね。梅ちゃんが梅になったらシャレにならんもんね。委員長も危なかったなぁ~、と背筋が寒くなる思いで一杯でした。クロウトはヤバイと身を持って学んだ梅ちゃんですが、この日を境にシロウト相手に下半身が暴走を始めていくことになり、いい歳コイて身を持ち崩した典型的な水商売親爺に転落していくとは誰もが思わなかった頃のとても辛~いエピソード1でした。Papa was a rolling stone.エピソード2に続く。
2005年07月12日
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高田の馬場BIG BOXでのイベントのおかげで、プロダンサーズの名乗りを挙げたBAD CHILDRENにちょいと変わった仕事が舞い込んできました。もちろん仕掛け人はジュリーこと鈴木の昇ちゃんです。カルロス・サンタナの弟でマロ・サンタナってギタリストがおりまして、彼がサルサバンドを引き連れて出た、かなり大きなライブイベントがありました。確かRCAレコードだったと思うのですが、このライブアルバムの日本リリースが決まり、早速プロモーション企画が立てられたのです。内容は、ニューヨークでこのライブを見てきたと言う、サルサ音楽評論家の羽田だったか波田だったか忘れましたが、ハダ某氏が、日本テレビの「イレブンPM」でレポートをやり、ついでにレコードの紹介もするというような企画でした。そこで、ハダ氏が是非ともサルサダンスを日本の皆さんに紹介したいから、踊れるヤツを探して欲しいという依頼がRCAレコードに寄せられました。たまたまスポーツ新聞に載ったBAD CHILDRENの記事を見ていた担当者が、ジュリー経由で問い合わせてきました。しかしそんなこといわれたって、サルサなんて知る人ぞ知るというような時代でしたから、気安く言うなよってなもんです。こっちだって、SOULすら満足に理解していないのに、いきなりサルサとか言われたって、チンプンカンプンです。「え、なに、さるだ?」「さるじゃねぇよ、サルサだよ」てくだらないボケ言ってる場合じゃねーだろって。相変わらずイケイケ精神のジュリーですから、「いいじゃん、やっちゃえばいいじゃん、テレビ出たら仕事増えるぜ」っていい加減なもんです。「でもなぁ、サルサってどんな踊りかも知らないし」「ラテン系なんじゃないの」早速試聴盤が届きましたが、完全なラテンです。元々バンド志向の委員長、サンタナは嫌いじゃないし、ラテン系も血が流れてますから(ほんとかよ)やってみるかってなことになりました。メンバー招集してサルサを聞かせます。皆デカイ頭でクビをかしげています。「ファンキーフルーツとかロボットはできないよな」(あたりまえだろ)「ジルバかなんかかな」(踊れるのかおまえ)「ハッスルにしちゃおか」(まあ似たようなもんかな)そこで、サルサ評論家のハダ先生に会いに行きました。先生、メンバーのマリの手を取って踊って見せてくれましたが、完全にリズム音痴。よけいわからなくなって、全然参考になりません。こんな感じでしょうかって、ハッスルとジルバを混ぜたような踊りを見せてやると、先生「ちょっと違うんだけど、まあいいか」と渋々OKです。もうちょっと派手に振舞ってくれって要望があり、そんなら派手に手を挙げてくるくる回したらどうだってなもんで、これには先生大満足。「そうそう、派手にね、動くことが大事なんだよ、ビートに乗ってね」(あんたにビートのことは言われたくない)さて、テレビ出演の前に、レコード会社主催の発売セレモニーのパーティが、赤坂プリンス(出ました赤プリ!)行われました。派手な衣装で出かけたBAD CHILDRENは、ホテルのパーティなんぞは初めてですから、異常に緊張してます。会場には音楽評論家の福田一郎先生やら、内田裕也御大、ペドロさんやら、業界の有名人がゾロゾロ来てます。まさかこんなところで踊らされるんじゃねーだろうな。しかもインチキサルサを。不安一杯のメンバーたちは、緊張のためか、やたらと突っ張ってガン飛ばしたりします。もう完全にわけわかんなくなってますから、飲み物配りに来るボーイにガン飛ばして、「こっち来るな」みたいなね。どー振舞っていいかわからないから仕方ありません。もうやってることが自分たちでもよくわかってない。野良犬の自己防衛みたいなモンで、とにかくなめられたらいけないってんで、みんなで固まって周りを威嚇してます。(誰もあんたらをなめやしないよ)そこへようやくジュリーがやって来て、「なんだ、どうしちゃったのよ、みんな緊張しちゃって」と委員長の肩をポンと叩いてくれて、ようやく金縛りから解けたように、落ち着いた面々。しかし、ここで思わぬコメントがサルサ評論家から飛び出します。「さあ、みなさん、今日はダンサーも連れてきてますから、ご一緒にどうぞ。踊りましょう!ヘイ、ミュージック」こらこら、いきなりかって、明るいラテンサンバ(じゃなくてサルサですね)が流れて、心の準備もないままにフロアに出されたBAD CHILDRED、もうこなったらヤケクソです。どうせオレたちゃ偽モンだ、ばれようがどうなろうがしったっこっちゃないって、トオルはソウルチャチャなんぞ始めるし、ヒトミは宝塚踊りになっちゃうし、もうカーニバル状態です。ところが、やっぱスケベ爺が多いのか、オネーちゃんと踊りたがる客ばっかりで、俺たちゃ出番ないね、って、SOUL SISTERにお任せでなんとかパーティは切り抜けました。ペドロさんだけがちょっと胡散臭い顔して見てましたけど、そう言われればサルサかなぁってな感じで、要は陽気に騒ぐ音楽ってことですね。この勢いに乗って「11PM」では約5分のスポット出演が無事終了。生本番ですからね。瞬く間にBAD CHILDRENの名前は全国ネットに流れました。何年も会ってない中学校の同級生や、ケイゾー、三鷹台の酒屋の倅などからも電話を貰い、一瞬とはいえ一躍脚光を浴びた瞬間でした。ヤッターってなもんです。「みんな見てくれた?」みたいな。いやいや、さすがテレビは凄い。しかし、このサルサ評論家の先生、どうも名前に聞き覚えがあると思ったら、なんと委員長の崇拝するEW&Fのライブアルバムで、しっかりとカリフォルニア・ジャムのライブレポートを書いているではありませんか。あんたサルサ評論家じゃなかったんかい。音楽評論家って一体? ということでお騒がせのサルサダンサーズの一夜でした。ついでですから、ここで1976年の音楽シーンの話題をちょっとPICK UPしてみました。日本を代表するROCK BANDクリエイションに5人目のメンバーとして、フェリックス・パパラルディが加わりました。アルバムタイトル「クリエイション・ウィズ・フェリックス・パパラルディ」(ってそのまんまじゃん)で、ポール・バターフィールドが1曲だけハーモニカを吹いていることでも話題を呼びました。GROOVE A THON ブラックモーゼ・アイザックヘイズのニューアルバムは、ディスココネクションがヒットしました。チャカチャカチャカって変なインストもんでしたね。日本フォノグラムからモーメンツのグレイテストヒットがリリース。あんまり知名度のないグループでしたが、ファルセットが綺麗なコーラスグループでした。フォノグラムのお土産袋にしっかり入っていましたから、Q&Bではスロータイムによくかかりました。そういえばこのころだったかなぁ、ルーファス・フューチャーリング・チャカカーンの唇ステッカーが出たのは。チャカカーンの唇アップ舌出しイラストはインパクトのあるジャケットでした。ちょっぴりストーンズのミックジャガーの唇イラストに似てました。東京の話題ばかりなので、大阪のディスコシーンの紹介もしてみましょう。ミナミ・東洋ビル1階 スピークイージー 土曜日は5時から5時まで12時間営業。キタ・ナンリビル7階 らんぶるおん かなりマニアックな店で有名でした。キタ・角庄ビル8階 アルファルファ 同伴コードが厳しい店でした。キタ・セカンドストーリー 大人っぽい店でした。キタ・水谷ビル地下1階 カルチェラタン 京都にも同名の店があったけど別もんだと思います。しかし圧倒的にキタが多い感じだなぁ。と言っても、委員長実際に行ったことのある店は1軒もありません。(あしからず)噂に聞いていたのは「らんぶるおん」が、かなり黒っぽい店だということでした。あと、友人から聞いたのですが、フロアの天井がドームのように開いて夜空が見えるディスコがあったって本当ですかね。一度行ってみたかったんですけど、残念ながら何故か大阪とは縁がありませんでした。たまたま手元にあった当時の雑誌に、全国ディスコマップが載っていたので紹介させてもらいました。
2005年07月11日
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流行のおいしいところだけをツマミ食いしたら、残りはカスばっかりになってしまいます。この点だけは今でも自分は間違ってなかったと思っています。ディスコそのものが輸入品ですから、日本の地場に根付くまでには時間がかかるわけで、それを一足飛びに和製ディスコなんて作っても所詮は色モノ扱いです。そんな色モノを、売れるからって増産したら、業界の寿命を縮めるのは目に見えています。もちろん当時はそんなしっかりとした考えがあって言ってたわけではありませんが、伊達にガキの頃から繁華街に出入りしてたわけじゃなく、駆け足で流行をかき回すとどういう結果になるかをたぶん肌で感じていたんでしょうね。案の定、初めてディスコに足を踏み入れた人たちは、「これがディスコだ」と教えられたようなものですから、良いも悪いもなく素直に受け入れてしまいます。店が客を引っ張っていった時代から、客が店を引っ張る時代への引き金となったのがセクシー・バスストップを代表とする、和製ディスコステップというかレコード販促活動でした。もともと、ディスコの踊りは、そこで踊っている人たちが楽しんでいるうちに自然発生的に生まれたものでしょう。だって、黒人(というか米国人ね)は、ステップ=課題曲なんてありませんから、例えばあの超爆発大ヒットのThat’s the wayにしたって、シングルリリースされたときはオールドマンで踊ってたし、新しい踊りレゲエが入ってくればレゲエで踊ったし、さらにこれがポイントになればポイントで踊ると言う風に、踊りが流行なんで、楽曲に踊りが付いていたわけじゃありません。今でもそうなんですけど、黒人の生み出すニューダンスってユニークでしょ?遊び心に溢れているっつーか、世の中をなめちゃってるって言うか、斜めに構えている典型的なアピールだと思うんですね。どこまでふざけてるのか真面目なのかわからない、ジョークっぽさがあるでしょ。オールドマンとか、後のグランファとか、見た目は滑稽なんですけど、踊ってるうちにカッコよく見えてきますね。さらにネーミングも面白いし、これがFUNKYなんじゃないですか。ディスコとか、ダンスとかにまったく興味の無い人がこれらの踊り見たら、何が楽しいの?って、爺さんの真似して踊って、バカじゃないのって。これが世の中に対するオチョクリなんですね。黒人特有の。向こうも思っていますね。お前らバカじゃねーの、こんな楽しいことも知らねーで、ってね。それを金儲けのために変な知識を植え付け、教え込んじゃったからややこしくなっちゃった。セクシー・バスストップだって皆で踊れば楽しいんですよ。それが踊りってもんですから。それはそれで良いんですよ、皆の娯楽なんだから。楽しいってことで十分なんです。それ以上の理屈はいらないんです。盆踊りだってなんだって、音楽に合わせて体動かすのはもともと気持ちイイことなんですから。でもね、盆踊りは踊りを揃えなきゃいけませんよね。東京音頭って曲があって、その踊りがある。レコード会社らしい発想ですよね。こんな定義づけをされてしまった人たちは、その後ずーっとこのマニュアルに則って遊ばなければなりません。「セクシー・バスストップかけてよ」「ウチはファンキーディスコだからそんな曲かけないよ」リクエストした人には意味分かりませんね。だってディスコで覚えたステップなのになんでディスコでかからないの?教えてくれたのもアフロしたファンキーなおじさんだったのに。日本製だから?ワケわかりませんね。この状態。もっと突っ込んで言うと、「セクシー・バスストップ」って楽曲をリクエストしたんじゃなくて、セクシー・バスストップっていう踊りを踊らせてよ、っていうリクエストなんですねこれは。さらに突っ込むと、じゃ、君たちはなんで浅野ゆう子のセクシー・バスストップでは踊らないの?日本語で歌ってるからダサいの?でも元々これって日本製じゃないの。益々混乱しますよね。(曲があって踊りがあるんで、踊りがあって曲があるんじゃないでしょ)これは日本人がディスコというものを消化する前に、クソもミソもごっちゃに放り込んじゃった結果、手がつけられなくなっちゃったってことです。でもまあ、後年、結果オーライというか、それぞれの楽しみ方でオリジナリティも出てきたので、ブームの終焉を早めることにはなってしまいましたが、それはそれで良かったのかもしれません。ただひとつ委員長が残念に思うのは、ディスコ文化が日本の生活にうまく溶け込んでいかなかったということです。ダンスってものが日常生活に密着してませんね。踊ると言う行為が、あくまでも非日常的なものとしてしか捉えられてないことが残念です。わざわざクラブ(今はそう呼ぶようですが)に出かけなきゃ踊れない、って変ですよね。昔、六本木にビストロっつーかバーっつーか、“PIPS”っておしゃれな店がありました。ゲームなんかが置いてあって、酒飲んで、スナックつまんで、興がのってくるとフロアのスペースをちょっと空けて彼女の手を引いて踊り出す、っていうかなり庶民的な店でした。この感覚こそダンスの総てだと思うんですけどね。音楽に体が自然と動き出し、可愛い彼女と同じビートをシェアする、って最高でしょ。委員長はこんな文化を日本に浸透させたかったんですよ、ホントに。何もアメリカ人になれっていうことじゃなくて、日常生活に、踊りを楽しむことが入り込んだとしたら、人生はもっと楽しくなるはずだと信じてますから。そりゃ、めかしこんで、おねーちゃん目当てで、カッコつけて、ビシッときめて、さあディスコに繰り出すぞって感覚ももちろん楽しいし、つまらない日常をリフレッシュするための空間が人間には必要です。人に見てもらいたいって欲求もありますから。(笑)でも、フィーリングの合う相手と一緒にいるとき、会話の合間にグッとくるMUSICが流れてきて感情が高まったりして、「踊ろうか?」って自然に体が動いたら最高じゃないですか。そこが、自宅であっても、公園であっても、ちょっとしたバーであっても。喜びの体現ですよね。そんな形のダンス文化を日本に染み込ませたかったんです。日本でも最近はハウスパーティーみたいなことしてますけど、そこで夫婦とか恋人同士とかで踊るのって未だ抵抗あるでしょ。恥ずかしいって。残念ですよね。もし、機会があったら、「シャルウイダンス・Shall we dance?」って映画の日本版と米国版を見比べて下さい。踊りを踊るってことの捉え方や、その日常性がはっきりと描かれていますから、たぶん委員長の言いたかったことがわかってもらえると思います。今日はへんなノーガキたれてしまいましたが、明日はいよいよTVデビューのお話です。
2005年07月10日
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オープニングナンバーはファットバックバンドのスパニッシュハッスルです。Do the Spanish Hustle! 今までのファットバックバンドに比べて、上品になり過ぎた感じでしたが、踊りやすいナンバーでした。販促用のスティッカー、あちこちにベタベタ貼って歩いた記憶があります。さて、キングレコードでバイトに励むジュリーこと鈴木の昇ちゃんですが、この頃は結構本気で正社員目指して頑張っておりました。ディスコ関係に顔が広いことを買われてのプロモーション要員でしたが、仲間内では頭ひとつ飛び出した感じで嫉妬されたりもしたのは事実です。そりゃ、みんな学歴も教養もろくにないヤツばかりの世界ですから、レコード会社に就職(バイトなんですけどね)したってだけでも、生意気な野郎だ、くらいに言われて、DJの職をうまく利用しやがって、みたいな、よくありがちなやっかみですね。自分じゃできないくせに、人がやるとうらやましいのと悔しいのとが入り混じって、イヤミになっていくという貧乏人特有のいじけ体質がしっかりと現れたりしてました。ジュリーがプロモーションでディスコを回ると、「ウチの店にはこの手の曲はタイプじゃないから」とか、「これは流行らないよ」とか、高飛車な態度で扱われたりもしていました。あいつばっかりに良い思いさせてたまるか、みたいなね。こんなもんです世の中は。このころ、ジュリーが委員長とつるんでた理由も、実はこのあたりにあったんですね。当時はなんだかんだ言っても、まだアフロ頭、SOULマン全盛でしたから、ディスコDJもSOUL系が多かったんですね。音楽的にはジュリーの方が圧倒的に知識は上でも、時流と言う面から言えばそこはどうしても見下されてしまいます。ジュリーの容貌も長髪でカヨワイ感じでしたから、アフロ小僧あたりに、「おまえ、FUNKの意味わかってんのかよ」とか「踊りも踊れないくせにダンスミュージックのプロモなんかできるのか」みたいな感じで、直接口に出して言われるわけではないのですが、結構虐められたりもしたんです。そこで、委員長の登場となったわけです。アフロ軍団のBAD CHILDRENもその界隈(どの界隈?)じゃ、ちっとは名が通り始めた頃でしたし、もちろん委員長へのやっかみや「生意気な野郎だ」みたいな雰囲気もありましたが、当時のDJで踊り場時代からディスコに勤しんでたヤツなんてのは数少なかったものですから、建前だけでも面と向かって見下されるようなことはありませんでした。今、当時を振り返ってみても、GETあたりは別として、古株と言えるのはイサムちゃんとかテリーくらいしか思い浮かびませんね。いわゆる東京者というか新宿派ですね。委員長も別段喧嘩が強かったりしたわけじゃないんですが、昔から向こう意気だけは強かったもんで、高ビーな態度で来るヤツには「じゃ、踊りで勝負するか?」みたいな威嚇したり、「田舎でイキがってろよ」とか生意気なこと言って突っ張ったりしてたわけです。まあ、よくあるツッパリ根性と言うか、弱いからこそハッタリかますみたいな態度でいたもんですから、ジュリーにとっては頼もしい相棒だったんですね。音楽的趣向はまったく違いましたが、お互い一緒にいてトクだったってことでしょうか。ジュリーって、本当に沢田研二好きだったし、逆に委員長の好きなダウンタウンとかキャロルとかは全くダメでした。SOULもジュリーはバラード系だったし、委員長はやっぱダンス系でした。唯一気が合ったのは女好きってことくらいでしょうか。(すべからく男は皆、この点だけは気が合いますね)まあ、言ってみれば、ジュリーが理論武装、委員長が技術武装で、ちょっとうるさがたのDJとか専門家が出てくると、ジュリーが音楽知識(ジャンルとアーティストの履歴は詳しかったからね)ひけらかしで対抗して、ちょっと黒っぽい感じのヤツが出てくると委員長が踊って見せてハッタリかますみたいな役割分担でした。そんなプロモーション活動をしているうちに、二人ともキングレコードの手先のように言われるようになりましたが、そんなこというならディスコ協会だってビクターの手先じゃないか、といった具合に言い返したりしてました。要は、他のヤツらだって「俺達も混ぜてくれ」ってなところで、みなそれなりにメージャー志向はあったんですね。そして、ジュリーが更なるステップアップを図るため、新たなプロモーションイベントを企画しました。キングレコードがシャイ・ライツを獲得したことから、新旧合わせて一連のアルバムリリースキャンペーンが組まれたのです。オー・ガール、北風の中で、などの往年のヒットを持つシャイ・ライツと、新しいソウルバンド・ヒドゥンストリングス・バンドの発売記念イベントが企画されました。場所は高田馬場ビックボックスのイベント会場。前半はラジオ関係のDJを集めてアルバムの紹介。これはキングレコードの荒井さんとジュリーのサテライト式のオープンDJ。そして後半は一般客(リスナー)とバッドチルドレンのディスコダンスタイム。ここで委員長が作った踊りを紹介して、課題曲としてこれらのダンスナンバーを披露しました。まるでビクターとディスコ協会のパターンの踏襲ですね。ちなみに委員長が考案した「タッチ」という踊りですが、Q&Bのみの流行りでした。(当たり前ですね、誰もしらねーよ、そんな踊りって)たいして人は集まりませんでしたが、業界紙やスポーツ新聞に載ったおかげで、一応はプロのディスコダンサーズという既成事実が出来上がってしまいました。プロモの成果かどうかはわかりませんが、シャイ・ライツのアルバムリリースはそこそこの初回売上がありました。人気のあるグループだったので、ほっといても売れたってとこもありますが、この業界はハッタリ第一主義(?)ですから、これに気を良くしたジュリーが次々と仕事を持ち込んできました。そのひとつが、シングル用のジャケットでした。当時はエモリさんのイラストが一生を風靡してましたから、どこの社もこれに変わる新しい絵柄を欲しがっており、ジュリーが委員長のデザインスクールの経歴(といっても3ヶ月で中退ですが)に目を付け、無理やり描かせるという荒業に出たのです。「踊りを踊れるヤツが描くイラストだから受けるのは間違いない」ってとんでもないハッタリですよね。第一、委員長が専攻していたのは服飾デザインですから、イラストなんて描いたこともないし、いくら踊りが踊れるからって、それを絵にするのはそう簡単なものではありません。どうもやろうとしていることがディスコ協会の2番煎じみたいでイヤだったのですが、根がいい加減な道楽者ですから、テキトーにチャッチャッチャってなもんでエモリさんのパクリに近いもんを描きました。2~3枚描いたのかなぁ、雑誌とかにも載せてもらったりしましたが、覚えがないほどですから、かなりいい加減な仕事であったことは間違いありません。ただ、これだけは譲れないっていうか、こだわったのは、売るためのテキトー・ステップだけは作らないし絶対にやらないって、何処言っても一席打ってました。レコード会社の人間にとっちゃ、そんなこたぁ、どーでも良いことだったんですけど、委員長にしてみれば、あのセクシー・バスストップがどうにも納得できなくて、こんなことしてたらディスコがダメになっちゃうって言い続けてました。
2005年07月09日
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新宿の悪ガキ~BAD CHILDRENはあちこちのディスコに出没しては、目立ち放題目だって名前を売って歩きました。この頃はエンバシーにもよく通いました。ダンサーズもちょっとした流行のように、あちこちでチームが結成されました。最も有名なのはもちろん全日本ディスコ協会の全日本ソウルトレイン・ダンサーズでした。特に地方のイベントには必ず出演していましたから、中味はともかく知名度だけはありましたね。でもアフロ小僧がみな疑問に思っていたことがありました。メンバーは協会の会長勝本さん自らリーダーとなり、全員アフロヘアのマニアックなダンサーズだったのですが、彼らが登場するイベントは必ずしもマニアっぽいものではなかったのです。ソウルが好きでFUNKYな踊りを目指すアフロ小僧はみな、勝本会長、ディスコ協会を目標にしていたのですが、その協会がセクシー・バスストップとかの講習会などを手がけていることへの疑問は少なからずありました。アフロヘアのSOUL MANとセクシー・バスストップがイコールで結ばれないのです。あたりまえですよね。だってエンバシーじゃセクシー・バスストップなんかかからないし、そんな踊りするヤツは誰もいませんからね。でもダンサーズのメンバーはエンバシーに集合して練習します。ダンサー目指してエンバシーに就職したヤツだっていましたからね。この大矛盾は、後々大きな渦巻きとなって業界全体を巻き込んでいくことになるのですが、この時はまだまだ皆純粋でした。本当に黒人音楽と踊りが好きで、本気でBLACK MANになりたいと思っていたヤツらばかりだったからこそ、皆いつか自分がその先頭を走ることに夢を見ていたのです。委員長ももちろんジョニーとダンサーズを作るつもりで、一生懸命振り付けなどを考えておりました。そんな頃、新宿のジュリーこと鈴木昇二が、キングレコードの洋楽宣伝でアルバイトを始めて、あちこちのレコード会社へ出入りするようになりました。この頃のジュリーは、「ひとやすみ」の鎌田事件ですっかり評判を落としてしまっていて、仲間内であまり人気がありませんでした。まあ、当人のせいではないんですけど、引っ張り込んだ張本人だった割にはダメージが少なかったことと、着実の自分の道を築いていたことが皆の反感を買ったようなものでした。マチャアキにしてみれば、少なくとも自分の責任として皆の就職先は確保したし、ワタナベ主任あたりからはかなりキツーイ恨み言なども言われ、それなりにツケは処理したという思いが強く、反面ジュリーは何一つ責任らしきものは取らずにマイペースといった感じだったので、両者の人間性みたいなものが現れたわけです。たった数ヶ月の関係ではありましたが、大変に良い勉強をさせて頂きました。その割にはこの経験を全く生かさず、更なる道楽に身を投じていく委員長でありました。そんな状況ですから、このころ一番毒にもクスリにもならんような委員長がジュリーのお友達だったわけです。ジュリーはジュリーなりに何かしてやろうという気持ちがあったのでしょう。委員長はアチコチのレコード会社に引っ張りまわされ、なんやかやと試聴盤を沢山貰って帰って来ました。へー、タダでレコードが貰えるんだぁ、ってなもんで、この業界も悪く無いじゃん、というのが率直な気持ちでした。それでも当時はディスコDJなんてのは、あまりプロモーションの対象として重要な位置を占めていませんでしたから、もらえるレコードも限られていました。もちろん、ビクターレコードなんてのは、当時からほっといても売れるってなアーティストを沢山抱えてましたからかなり敷居が高かったですね。行っても、「あーそう、Q&B? どこ? 新宿、へえ歌舞伎町ね」こんな感じでしたね。セクシー・バスストップかなんかのシングル盤かなんか貰って、「これたくさんかけてね、はい、おつかれさん」みたいな。ポリドールもキツかったですね。(ここには恨みがあるから後年の部で一杯書きますね)当時はジェームスブラウン御大がおりましたが、試聴盤なんてのは枚数が少ないし、配るところも限られていますから、有名音楽評論家とか糸井五郎さんとか有名DJとかにしか回しませんね。ほっといても売れるから。新しいレーベルもないし、「えー?ディスコ?どこの?」みたいな感じでした。あとは東芝も結構偉かったですね。洋楽だけでも十分成り立つ会社ですから。なんつってもビートルズがいたし、しかもこの時代のディスコヒット・レーベルも相当持ってましたから、小さな箱のDJあたりじゃ、新人アーティストのシングル盤がよいとこでした。せっかく来たんだから、かわいそうだからね、これでも持ってって、みたいな。場所も霞ヶ関だったしね。メージャーって感じでした。キングレコードなんて護国寺でしたからね。ちょっとマイナーな感じでしたね。渋谷はRCAレコード。ここは上品な感じだったな。アキバさん、今でも覚えてますね。KC&サンシャインバンドで大ブレイク、マイアミサウンドが結構当たったんで、洋楽にもディスコプロモーションの動きが出てきたころでした。ちなみに、ここで浅野ゆう子さん(セクシーバスストップ)とエレベータでお会いしました。背の高い大柄な少女って感じで、明るくて素直な人でした。日本フォノグラムは六本木俳優座下のメビウス近く、フィリップスの看板が目立ちました。後年随分とお世話になるのですが、この頃はあまりヒットもなく暗い感じでした。でもこのころから気前は良くて、なんでもかんでも袋に詰めてくれて、持ってけ持ってけって感じで沢山お土産くれました。こういうところでDJの選曲変わりますよね。実際、営業活動ですから。ワーナーパイオニア、CBSソニーはやっぱり敷居が高かったですね。メージャーってハンコ押してあるみたいで、ディスコ?、なんかかける曲あったかなぁ、みたいな感じです。後年は積極的にプロモ入りましたが、この頃はまだディスコものあんまり扱ってなかったですからね。当時の洋楽宣伝(洋宣)って、まだディスコでプロモするっていう認識薄かったし、担当者があんまりディスコなんて行ってなかったと思います。どっちかつーとROCK系みたいな、ラジオとか専門誌関係にお願いするってのがパターンで、まさかディスコヒットで売上がガンガン上がっていくとは思っていなかったんですね。ただ、オフィスにアフロ頭のギンギラ野郎が現れると、それだけで興味あってか、結構皆さんよくしてくれました。おーーっと、もうひとつ、テイチクレコードを忘れてました。凄いですね、テイチク、演歌バリバリ、何故かディスコに進出、って変なレーベルありましたね、この時代よりちょっと後になりますが、ソウルドラキュラ、大ブレイクして、いきなり洋宣できたんですね。今まで細々やってたのが、一発当たって大乗りでした。誠ちゃん、後にBAD CHILDRENのマネージャーやってくれた人です。やさしい人だったなあ。南こうせつさんみたいな感じの人でした。ということで、こうやって振り返ってみると、やっぱビクターレコードのハッスル・ホンダさんて先見の目があった、というか営業マンだったんですね。それに上手く乗ったディスコ協会も、時代を引っ張った立役者でもあったわけです。ちょい遅れを取って、ジュリーとロニーのコンビが似たようなことをやろうとしたわけですが、お互いまだまだプロに徹し切れなかった青い時代でした。ことの発端はキングレコードが「シャイ・ライツ」のレーベルを獲得したところから始まります。このお話はまた明日。。。。。
2005年07月08日
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「まぁいにち、まぁいにち、ぼくらはQBの~」って感じで、朝から晩までディスコ漬け、SOUL漬けの毎日が続き、EW&FのSing a SongやらShining Starやらで振り付けも出来上がり、すっかりダンスチーム・バッドチルドレンはその気になっておりました。またまたそんなある日、コップス2の一平が突然Q&Bに現れました。「ロニーさんが会いたいっつうから、ジョニーさん連れてきましたよ」おっといきなりの殴りこみです。総勢5~6名のジョニー軍団がQ&Bに乗り込んできてフロアーで大暴れ。さすがに前回のコップス対戦では、おいしいところを委員長たちにかっさらわれた感があってか、今回は凄腕ばかりを引き連れての登場でした。まだブレイクダンスなんて始まる前の当時、アクロバット的なツワモノが狭いQBの中で跳んだり跳ねたり、今度はこっちが一方的にやられました。一息ついて、ここでお互い名乗りをあげてシェイクハンド手打ちです。フィーリングというのは男女の仲だけじゃなくて、お互いが認め合えるとやはり同じ感性で惹かれ合うものなんですね。やはり、ジョニーも委員長の一団と遭遇したときに、ビビっとくるものがあったようで、二言三言話しただけで意気投合、すっかりSOUL BROTHERとなってしまいました。ブームの真っ只中の当時と言えども、これだけ男女のペアで揃ったチームはなかったし、しかも全員アフロなんてのも珍しかったから、群れて歩けばそりゃあ目立つのは当たり前、それを見てまたバカが集まってくるってな感じでした。そして、この時委員長は、ジョニーと出会ってSOULバンドの夢が復活したのでした。しかも、ジョニーも元はROCK BANDでVOCALを取っていたって話を聞いて、いよいよ興奮を抑えられない委員長でした。踊って歌って見せるショーバンド構想は、以前から委員長の頭の中にしっかりと根付いており、これでいよいよ実現できるのでは、という期待感で一杯になりました。もちろん夢に描いていたのは、史上最強の黒人グループ、EW&Fです。ジョニー、トオル、ジョイに委員長をたして、これに女性ダンサーを付けて、おお、ニッポンいちのソウルバンドだぁ~、って道楽者トリップで頭が廻る委員長。しかし、ここでハタと気が付いた。楽器できるのは一体?し、しまった~、ルックスばかりにこだわってて肝心の演奏を忘れてたぁ~。当時、日本のバンド業界でSOULとかディスコバンド目指してるヤツなんて、殆どいませんでしたから、メンバー探しは雲を掴むような話です。確かにディスコバンドはいることはいましたが、大抵は仕事のためにやってるようなもんで、本気でソウルバンドをやろうなんてヤツ、アマチュアでもまずいませんでしたからね。そこで閃いたのがビバヤングのサウンドウェーブスでした。この際フィリピン人でもかまわない。あいつらなら腕は確かだし。(って、そーゆーあなたは何者でしょう?)そう思い込んだ委員長は、いても立ってもいられなくなって、早速ビバヤングへ出かけたのでした。一年ぶりに訪れたビバヤングは従業員メンバーも入れ替わっており、客層もぐっと変わって退廃振りがうかがい知れました。ここの時代は終わったんだなぁという思いでした。早速、リーダーのエドウィン、リトに話をすると、意外にあっさり、「いくらくれるんだ?」の一言で終わりです。そりゃそーですよね、お金稼ぎにこんな遠いとこまで来てるんだから、バカの道楽に付き合う暇なんぞあるわきゃありません。そうだよな、世の中やっぱ金だよな、ってな具合で、まだ生きてたボトル倉庫のばーちゃんに挨拶して引き上げてきた委員長でした。一人相撲の委員長、とりあえずダンサーだけでもきちんとまとめて、まずはそれから考えようと、新たな決意を胸にトオルと狂ったようにダンスバカに拍車がかかりました。そこへ、梅ちゃんからジョイの転勤の話が持ち上がったのです。このころ、ジョイも踊りだのバンドだの人生から、DJとして本気でやっていく心構えができたのか、日々の会話も委員長からは離れがちでした。そんな時期の話ですから、ジョイもほっとしたのか喜んで移っていきました。別れ際に二人で経費ごまかして買った二枚のレコードを分かち合いました。2枚とも新譜で新人、どちらもヒットは未知数です。ブラザースジョンソンとブーチーズラバーバンド。ジョイがジャケットでブラジョンを選びました。(ルイスジョンソン、ベース抱えてるモンね)星型サングラスにベースを背負った仮面ライダーのようなブーチーは委員長。この2枚は、当時のDJ御用達レコード屋さん「四ツ谷ライブ」のバイト店員ツトム君のお薦めでした。ちなみにツトム君は、モナミビル7階のノクターンヴェールのDJでした。ツトム君、さすがに目が肥えてましたね。後にお騒がせグループとなったブラジョンとブーチーでした。さて、ジョイなき後のQ&Bはトオルと委員長の二人のお店になっていきました。もうこうなってくると、店に住んでると言ってもおかしくないくらい、四六時中レコード聴きまくって、気に入ると踊りまくり、メシ喰って寝る以外はずーっと音楽漬けです。更にこの勢いは周りのバカにどんどん伝播してゆきます。しまいにゃ梅ちゃんまでアフロのかつらかぶって、フロアで踊り出す始末。挙句の果てはヨーパンやら高校生やら片っ端から手をつけ始めて、益々舞い上がっていった梅ちゃんでした。「ディスコ教の教祖」とか表現したヤツがおりましたが、この梅ちゃんのパターンはまさにそのまんまですね。毒にやられたつーか、いい歳コイて舞い上がったというか、委員長とトオルの世界にすっかり引きずり込まれちゃいました。人生って本当に面白いですよね。まあいうなれば、それだけ人を魅了する不思議な力が、ディスコっていうものにあったからでしょうね。
2005年07月07日
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ダンスチーム「BAD CHILDREN OF SHINJUKU」発足と同時期、東京のディスコシーンも大きく変わりつつありました。まずは全日本ディスコ協会がビクターレコードと提携して、数々のイベントやプロモーションを仕掛けて、一大ブームを巻き起こす引き金になりました。今までの暗いイメージを一掃した豪華な内装や照明設備に彩られ、明るい大型店舗がどんどんオープンし、楽曲や踊りも軽くなり一般大衆的な遊び場としてのディスコが注目を集めるようになっていきました。黒人ファッションも大衆文化にうまく溶け込んで、ディスコファッションなる新たな流れを生み出していくようになりました。アフロヘアも今までのような黒人マニアだけのトレードマークではなく、誰もがファッションとして取り入れ、ディスコへ行くためのファッション、ディスコで映えるファッションへと進化して行ったのです。(このころアフロとかカーリーのカツラもよく出回ってました)まさに時代の変わり目、新旧交代というような感じで新しいディスコファンと従来からのダンスマニアが混じり始め、この頃には「踊り場」世代は駆逐された感があり、一応この時代で古きよき時代のステップ世代は終わったと言ってもよいのではないでしょうか。そしてこの時代の流行を引っ張って行ったのは、「踊り場」から育ってきたアフロ頭の黒人かぶれ連中でした。更にSOUL BAND大物グループがその頂点を極め始めた時代でもありました。Kool & the Gang “Love understanding”邦題は「愛の融合」でしたっけ。弟分のKG’SのKG BUSSTOPもヒットしました。バーケイズの復活、平均的白人バンドAWB、アイズレーブラザースのパワーアップなどなど。御大ジェームス・ブラウンを筆頭としたR&B~SOULのスタイルはBANDを主体としたFUNK~DESCO SOUNDへと移行していった時代でもありました。そしてEW&Fライブ「灼熱の饗宴」ホワイトアルバム2枚組がリリースされ、大きな反響を呼びました。一気に大爆発って感じでした。レコードに針を落とした途端、オープニングのパワーから度肝を抜かれました。Devotionの大合唱とフィリップ・ベイリーのあのHIGHファルセットも凄かったですね。ジャケの中写真がまたカッコよかったですね。こんなライブをこの目で見てみたいと思ったのは委員長だけではなかったはずです。この2枚組アルバムとの出会いが、委員長の道楽人生の総てを変えたと言っても過言ではありません。You are Shining Star no matter who you areShining bright to see what you could truly beこの衝撃のフレーズが委員長の魂を貫きました。「君は輝く星、たとえ君が誰であろうと、本物の自分であるために明るく輝くのだ」痺れましたねぇ、SHINING STAR。そうだ俺達は輝く星なんだ、なんか救われた気がしました。この日から委員長のテーマソングはシャイニングスターになり、フロアで右手でユーアーシャイニングスターって歌いながら指差すのがポーズになってしまいました。(まさに自分が歌っているような錯覚ですね)ということで、このアルバムを手にした日から、Q&Bがアースウィンド&ファイヤー一色に染まっていってしまったのです。(まわりは良い迷惑ですね)そして、委員長からメンバーに、BAD CHILDRENはホンモノの黒人を目指し、人々に愛を与えるチームになるのだ、という号令がかけられたのでした。「暗黒への挑戦」 That’s the way of the worldそうです、不良からの脱却、ぐれた者がたどり着く境地は「愛」しかないのだ。「愛こそが人類を救う道」(ってどっかで聞いたことあるなぁ)だから、チームのメンバーは必ずパートナーがいなければならない、というかなり強引な理屈で発令されたのでした。(しっかし、よくもまあここまでかぶれたもんだと思います)とにかく、バッドチルドレンは男女のペアでなければダメ、しかも黒人かぶれじゃなきゃダメという、かなり本気な道楽へと突入して行ったのでした。トオルが連れてきたパートナーはV-one からの常連マリ、テツが連れてきたのはあちこちですでに名を売っていた少女ヒトミ、そして委員長は彼女ドリーとペアを組んで6人のオリジナルメンバーが誕生しました。これに彼女できないメンバーが数名、たえずQ&Bにたむろして踊りに明け暮れる毎日が過ぎていったのです。そんなある日、六本木にスーパーコップス2がオープンしたという噂を聞きつけて、いよいよBAD CHILDRENの六本木進出が決行されたのでした。Q&Bの閉店とともに一同タクシーに分乗、六本木テレビ朝日前に集結しました。総勢十人くらいになったのかなぁ。ジョイ吉野も一緒でしたね。深夜とは言え、もの凄い熱気と人だかりでした。かなりの大箱で鏡の前はアフロ小僧のオンパレード。よくもまあこんだけデカイ頭が集まったもんだってなくらい、黒人もどきだらけでした。しかも、ダウンはするはファンキーフルーツは踊るは、目一杯目立ちたがり屋ばかりが揃っていますから、ダンスバトルさながら、殺気まで漂っていました。ホールに案内された委員長一行は、ひとりのウェイターに目が留まりました。長身のリーゼント野郎一平です。彼はV-oneによく出入りしていた高校中退組のひとりで、店ではお調子者ながらトラブルメーカーとしてマークされていた少年でした。一平は新宿軍団の来店に、意気揚々として挨拶にやってきました。「ロニーさん、久しぶりです」「お前こんなトコにいたのか」「はい、オープンから働いています」「そうか、新宿者の根性見せて、ここいらのヤツらに負けるなよ」目をウルウルさせて喜ぶ一平でした。元々、不良少年ってのは人との付き合い方が不器用で、どこかで誰かと群れていないと不安で、心のつながりに飢えていますから、仲間意識が強くなると感情が高ぶります。「ロニーさんも負けずに新宿の踊り見せてやって下さいよ」おう、出陣じゃ~いってなことで、一気にフロアに躍り出た新宿組。革ジャンに刺繍やら、ジーパン、ジージャンに鉢巻と、胡散臭いグループの登場にさらに殺気立つダンスフロア。野郎ばかりの必殺技博覧会みたいなフロアに、男女ペアのアフロ軍団が割り込んで行きます。さすがに当時でもペアで踊るヤツらは少なかったので、まわりのアフロ小僧たちもやや圧倒され後ろに引き下がっていきます。ぐるりと新宿BAD CHILDRENが取り囲んだフロアー、そこに割り込んできて、委員長の隣で大技を仕掛けてくるひとりのSOUL MANがおりました。逆三角形のアフロ頭、ジーンズに革ジャケット、小柄ではありますが、肌の色は黒く顔立ちもブラザーそのものです。彼の周りにも取り巻きが現れ、二大グループの対抗戦のような雰囲気になっていきました。ただ、こっちにはSOUL SISTERがいる分だけ華やかです。ここでタイミングよくEW&Fのシャイニングスター・ライブが勢いよく飛び出しました。ドッカーン! 遂に爆発です。この一発を決めて新宿軍団はホールへ引き上げます。この引き際も肝心ですね。一気に踊ってさーっと引く。フロアはちょっとしらけた感じでしたが、こっちにしてみれば、どうだってなもんです。新宿なめんなよ(って誰もなめてませんよ)って感じでゾロゾロと引き上げます。席に戻った委員長、一平を呼び出して逆三角形アフロ野郎の素性を聞き出します。「あー、ジョニーさんでしょ」「ジョニーって言うのか」「うん、赤坂コップスからの常連でさ、結構有名だよ」ふーん、てなもんで、委員長は彼の踊りとフィーリングに惹かれるものがありました。彼の踊り全体から漂う雰囲気が、自分の求めていたフィーリングにぴったりだったのです。一度会って話をしてみたい、そう思いつつ新宿に引き上げていったBAD CHILDRENでした。
2005年07月06日
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FUNKY DISCO Q&Bの営業時間はというと平日は午前2時まで、土曜日は午前4時までで、DJは二人でぶっ通しでやりましたが、基本的にはジョイが早番、委員長が遅番で、数日とはいえ先に就職したジョイに主導権があったのは当然のことでした。確かこの頃、東芝レコードが小林克也さんのDJ入りプロモーション・ディスクを作って、ディスコDJに試聴盤として配布したため、ディスコDJの間でこれが爆発的な身内ウケとなりました。いやー、とにかく今までのディスコDJは何だったの?ってな感じで、日本人でもこのくらいはやらないとホンモノにはなれないんだなぁってなもんでした。今でも覚えています。トップナンバーはBTエキスプレスのピースパイプ。インディアンのアワワワッって声が入ってて、克也さんの「イノハマハバハジャー」(インディアン嘘つかない~みたいな)とかワケのわからない言葉が入って、英語のMCが飛び出してきます。曲はもちろん東芝レコードのHITメドレーですが、これ一枚かけっぱなしで十分踊れる、ディスコそのものみたいなディスクでした。WARのローライダーかな、Hey man, Where’re you going? とか言って、バイクの爆音の後、「仮面ライダー!」ってなオチが付いてて、本当に飽きない仕掛けが施されていましたね。このディスクの元ネタになったのは、以前お話した赤坂のDJコンテストだったと思います。あのときの課題曲が殆どだったし、収録されているピースパイプのアイディアは間違いなく「ひとやすみ」DJから生まれたものだと、委員長は未だに思っています。あの頃、V-oneではピースパイプをかける時に「Smoking Happy Smoke!」ってフレーズが身内ウケしてたんで、DJコンテストのときにマチャアキにこのフレーズ受けるから使いなよって言ったら、そのまんまは使えないから「Everybody Happy Smoking!」に変えたんですね。案の定、このフレーズが受けまして、たぶんこの時のアイディアを克也さんが使ったのだと思います。(V-oneでは、平和のパイプでシヤワセの煙を吸おうって、カーター達には異常にウケてましたから)しかしこのノンストップ・プロモーション・ディスクのインパクトは並みじゃなかったですね。だいたい当時のディスコDJなんて、結構みんないい加減なヤツが多かったから、FENの放送みたいな克也さんの登場は驚き以上に、俺達DJはみんな偽者じゃんってな感じでした。ただ、おおかたのDJは、克也さんはプロ(ラジオ)だからディスコDJより数段格上という認識だったので、自分たちディスコのDJとは根本的に違うと思っていたんじゃないでしょうか。それほどDJのステイタスも高くなかったし、大抵が従業員が持ち回りでサラ回したりしていましたから、DJとしてのプロ意識ってのは今ほど強くなかったと思います。言ってみりゃ、誰がやったところで客の入りがさほど変わるわけでもなかったし、DJのおしゃべりを聞きに来ているわけじゃなし、踊る曲、ヒット曲がたくさんかかればよかったってなものでした。だからと言って誰がやっても同じってことでもなかったんですけど、あのDJがいるから行こうってな客は常連だけで、一般的に言えばまだまだマイナーな職業でした。常連って言うのは、別にDJじゃなくても、そこの店長とかスタッフと気心が知れてくれば必然的に身内っぽくなりますから、いわゆる親衛隊みたいなものです。話はノンストップ・ディスクに戻りますが、このレコードは限定配布で非販売品でしたから、非常にプライオリティが高かったですね。盗難事件まで起きたっつーくらいのいわく付きレコードでした。今だったらオークションで相当なプレミア付いたんじゃないかな。ジョイ吉野が宝物のようにして大事にしていたのを覚えています。昔はカセットテープもまだまだだったし、やっぱりレコードの価値は高いものでした。ジョイがこの克也さんのMCを一生懸命コピーしていて、よく二人でヒヤリングしました。とにかくカッコ良かったですね。でも、当時あの英語のMC理解できたディスコの客なんていなかったんじゃないのかなぁ。客がそうだからDJだってそれほど英語にこだわらなかったってこともありますね。数年して克也さんがブレイクしたときは、ディスコDJは皆なるほどって納得したんじゃないかな。やっぱこうあるべきだったんだぁ、みたいなね。踊りの方も、この頃から妙なステップが流行り出して、ディスコも大衆文化となり始めて色々なタイプの流れに変わりつつあった時代でもありました。モードの流れで言えば、踊り場と呼ばれていたステップ時代からバンプ、ウォータゲートなどのフリーというか黒人系、ここでバスストップなるステップから新たなステップのバリエーションへと転化していったというところでしょうか。遺伝子的に言うと、昔のステップのしきたり(?)=この曲はこのステップ、っていう考え方が残って、フリーダンス系の黒人っぽい振りがデフォルメされ、バスストップ系の複雑なステップのパターンに取り込まれたってな感じではないでしょうか。あはは、意味わかんない?整理すると、バスストップを基本にしたステップに、ファンキーな振りを取り入れ、このステップはこの曲で踊ると指定する、ってそんな感じですか。元々日本人て、こういう作法とか型とかが好きだから、何でもカテゴリーを作って当てはめないと安心できないっていうか、皆で同じパターンに則るのが文化だったのではないでしょうか。特にこの時代の人たちは根本的にコンセプトが同じですね。(もちろん委員長もこの世代ですが)いわゆるこれらの後付ステップは、やはり大型店の台頭が拍車をかけていったのだと思います。カンタベリーチェーンに代表される、広いダンスフロアーでこそステップは生きてきますから、Q&Bのような古いタイプの小箱の店では窮屈過ぎて、踊る方も次第にマニアックなヤツばかりになり、時代を走る少年少女は新装開店のニューディスコへとなだれ込んで行ったのです。新旧交代の時代の始まりだったのかも知れませんね。そんな時代に意固地になって逆行するかのごとく、委員長とジョイ吉野はFUNKにこだわるDJをやろうとしていました。更にここで、スキャットのイサムちゃんのところで修行していたトオルが、噂を聞きつけてやってきました。「あにき、おいらを見捨てないでおくれよ」てなもんで、なんだかんだとQ&Bに入り浸り状態になってしまい、梅ちゃんも、それほどまでにQBが好きならウェイターで雇ってやろうてなことになり、ここでQ&B黄金のFUNK時代へ突入となりました。しかし、このころの委員長は本当にディスコ漬けでしたね。5時に出勤して午前2時まで、DJやりながらとにかく踊りっぱなしでした。毎日少なくとも6時間以上は踊ってたんじゃないでしょうか。ヒデー話ですよね。DJが自分の好きな曲かけて、客をないがしろにしてフロアで踊り狂っちゃうんですから。もうやりたい放題好き放題って感じでした。しかも、このトオルとは何故か息がピッタリあって、とにかく踊り技の特訓みたいな毎日でした。これで上手くならなかったら、才能ないってことです。それくらい踊り狂いました。そのうちこの噂を聞いてか、アフロ小僧がチョロチョロと出入りするようになってきて、気が付くとビバヤングで縁のできたテツ(昔話その29参照)とか、V-oneからの常連で当時16歳だったトモとかKGとかが溜まりだして、一気にソウルチルドレンてな軍団となっていったのでした。こうなってくると、もう委員長の道楽根性は止まりません。さっそくチーム結成。(とにかく何でもいいから群れちゃうみたいな)名前は「BAD CHILDREN of SHINJUKU」、BADはもちろんSUPER BADの意味ですね。悪ガキってイメージでチルドレン、そしてここだけは絶対に譲れない「新宿」の地名を入れました。どうも皆ツッパリ上がりですから、すぐにステッカーや刺繍なぞ作ってしまい、挙句の果てこれを売り出すヤツまで現れて、これじゃまるで族じゃねーか、みたいなことになってしまいました。かれこれ20人くらいの軍団になったのでしょうか。ファッションの方も徹底して「新宿」らしさを出そうってことで、ジーンズ系にこだわり、六本木系のニットファッションとはあえて違った色合いを出しました。(仕立てまでするほど金無くて、単なるビンボーだったってだけなんですが)「言ってみれば新宿はハーレムだから、俺達はハーレムの黒人を目指すぞ」って、よくわからない理屈をこねて、なんだか胡散臭い不良グループが出来上がったわけです。そのころ手本にしたファッションが、The Voices of East HaremのRight on be freeのアルバムジャケットでした。白黒のジャケでハーレムの子供たちが「RIGHT ON BE FREE」のバナーを手にデモしてる写真でした。全員ジーンズにスニーカー、何とも生活感溢れる黒人のティーンたちが自分たちとオーバーラップして、新宿って街の響きと共鳴した感覚でもありました。このアルバム、特別なヒットもなくマイナーな楽曲ばかりで、たぶん相当なマニア以外は知らないでしょうが、なんとバックバンドにはエリック・ゲイルやらリチャード・ティーがクレジットされていて、後にスタッフで有名になるずーっと前のセッションメンバーだったんですね。皆、ハーレムの民権運動のメンバーだったのだと思います。ちなみに、最近(と言っても数年前ですが)発売されたサンタナのセッションライブのDVDを見てたら、エンディングでこの曲RIGHT ON BE FREEがプレイされていて、個人的にはちょっと感動的しました。Dancing Team BAD CHILDREN OF SHINJUKUの誕生でした。そして委員長は、ここで宿命のライバルと運命の出会いをすることになります。それは六本木にオープンしたばかりにスーパーコップス・パート2での出来事でした。
2005年07月05日
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蒲田ブルドックの夢はたったの一週間で終了し、青春の野望に賭けた馬鹿者たち、いや、若者たちはそれぞれに新しい道を模索しなければなりませんでした。フジワラさんの気遣いで、当面は白馬車の奥のボックス席が集会場所となり、まずは皆の就職先の確保です。まがりなりにも社長を名乗っていたマチャアキですから、その責任に於いて一生懸命に皆の仕事の斡旋に駆けずり回ってくれました。「おまえらのことはちょっと待ってくれ。まずはナベちゃんと高橋さんを何とかしなきゃなんないからな」すまなそうに言うマチャアキに、少々同情していた委員長とジョイ吉野は、俺達のことは心配しなくていいよ、と空元気で励ます以外に出来ることはありませんでした。俺達はとりあえず遊んでるから、みたいに突っ張ってはみたものの、今更V-oneには戻れないし、どーしょうかなってなとこでした。二人してトゥモローのジュリーを頼って行ってみましたが、相棒の松本みつぐを紹介されて、暗にここにゃ空はないよって言われ、仕方なくタダ酒飲んで踊るしかない二人でした。ちなみにこの当時、バスストップという新しいステップが入ってきてまして、時代に遅れちゃいけないってことでせっせと覚えたりもしてました。ここまで、バンプ、ウォーターゲート、オールドマン、レゲエ、ポイントと流れてきたフリーダンスが、ここでまたステップに戻るのか、って感じでちょっと違和感というか抵抗感がありました。蝶のように舞い、蜂のように刺す、モハメッドアリを讃えたディスコバタフライ(意味が全然違うと思うんだけど)とか、ダブルダッチバス、マンハッタンバスストップ(Breakawayが何故こんなタイトルになったのかわかりませんが)、ザッツザウェイも巻き込まれていましたね。リリースがちょっと遅れたら、この曲もマイアミバスストップとかになってたかも知れませんね。ステップの流れは横須賀、ミッドウェイから入って来て一気に広まっていきましたが、昔のステップほどにはブーム全体を塗り替えるほどの勢いはありませんでした。この頃はもう皆が自分たちそれぞれのスタイルを持ち始めていましたから、ひとつのステップ、パターンで全員が右へ倣えするってことは少なくなっていたからでしょうね。確か、ジュリーがトゥモローの店長に頼まれて、お客に新しいステップを教えてやってくれってことで相談を受け、カーティスやマーティンを連れて来て一緒に踊ったこともありました。まさかね、このマーティンが後にもんた&ブラザースで太鼓を叩くことになるとは思いもしませんでした。それでも、その種類があまりにもたくさんあり過ぎて、3つ4つ踊ったらもう沢山って感じでしたね。基本的には動きは同じだし、バリエーションもあまり多すぎると、何も皆で合わせる必要ないじゃん、みたいなことになって、結構あっという間の流行でした。「この曲にはこのステップ」とういうような、昔のステップ・ダンスと違ってステップと曲がきちんと決まってなかったからでしょうね。このあたりをカーティスやマーティンに聞いたことがありましたが、彼ら曰く、特別、曲の指定は無いし、その場所、その店の流行りだそうで、難しさを競った遊びでもあるってなこと言ってましたね。ニューヨークスタイルとかマンハッタン、シスコあるいはディスコの店名とか、それぞれに命名して呼んでいたようです。そんなこんなのうちに、ついに委員長の金も底を付き、白馬車にも行かなくなって1週間ほどが過ぎました。エンバシーにでも就職しようかな、などと考え始めていた頃、マチャアキから電話がありました。「仕事見つけたから出て来いよ」そう言われて、しばらくぶりに新宿白馬車へ出向いてい見ると、そこにはなんとあの梅ちゃんがいるではありませんか。戸惑いながら席に着くと、マチャアキが唐突に切り出しました。「Q&Bで良いだろう?」「いいだろうって、何が」驚いたことに、梅ちゃんはいつの間にかQ&Bの支配人になっていて、マチャアキが昔のよしみで委員長の就職をお願いしてくれていたのでした。梅ちゃんも、以前とは大分態度が和らいでいて、「まあ、いいから来いよ。もうひとり素晴らしいDJもいるから」そう言って、早速委員長をQ&Bに連れ出したのです。店に入ると開店前のがらんとした清掃中の店内、奥にあるDJブースに人影が見えました。「あにき~、元気だった?」ブースの中、ターンテーブルの前でニコニコと笑っていたのはジョイ吉野でした。「じゃあ二人とも明日から頼むぞ」そう言って梅ちゃんが委員長の肩を叩き、こうして委員長はジョイ吉野とQ&BのDJを始めることになったのです。いやー、しかし、このジョイ吉野ってヤツの芸風は面白かったですね。なんだかんだ言っても、委員長より生活力があるっつーか、要領が良いっつーか、ホント中々見上げたやつでした。さて、「ひとやすみ」の他のメンバーですが、ワタナベさんは無事ムゲンに復職(もちろん主任の職には戻れずヒラから出直しです)、マチャアキはトゥモローヴィラ、池ちゃんは歌舞伎町の裏のサパーへ、そして残る高橋さんは、白馬車の最後のおいちょかぶ大会以来消息不明とのことでした。この最後のおいちょかぶというのは、就職先を探して白馬車に集まっていた数週間前のこと、ありったけの金を賭けて最後の博打をやろうということになりました。みな、持ち金も少なくなってきていますから、たとえ仲間内とていくらかでも稼ぎたという欲望が交錯する中、深夜のおいちょかぶ大会が開催されたのでした。博打なんてものはキリがない遊びですから、始発までと言う約束で皆大勝負に出たのです。取ったり取られたり、熱い戦いが続きましたが、いよいよこれが最後のいっちょう、高橋さんが親を取り、掛け金もあるったけ行けってなもんで、カードの上に札の山が出来上がりました。さあ、男は一発チャンスにかけろ。なんと高橋さんが「シッピン」で親の総取りです。あ~、終わった。これで総てが終わったんだ・・・。皆なけなしの金を失い、いよいよ人生のトドメを刺されたような重い夜が明けていきます。札束を引っつかんだ高橋さん、すっくと立ち上がって手にした札をテーブルにばら撒いたのです。「みんなで分けろ」そう言い残してひとり店を出て行ってしまいました。ぽかんとして高橋さんを見送った一同、テーブルの上に散らばった札を拾いながら、どうしたんだろうと心配しつつも、しっかりと自分の財布に札を入れ込んでいたのでした。マチャアキの話によると、この日以来白馬車にも顔を出さなくなり、自宅に電話しても誰も出ないとのことでした。「死んでたりしなきゃいいんだけど」などと物騒なことを言うマチャアキ。彼との最後の会話で、「帰るトコもないし、お袋も歳だし」と呟いていたのが気になって仕方が無いと言うマチャアキでした。委員長もこの日以来、高橋さんには会っていません。トッポジージョに似たひょうきんな人でした。ジョイ吉野とのコンビで始まったQ&BのディスコDJは、蒲田ブルドックの反動で思い切り黒っぽい、かなりマニアックなSOUL DISCOとなっていったのです。V-one時代のお客さんもこちらに流れてきて、いきなりFUNKY色の色濃い店となってしまい、ツッパリ系の常連は隣のブラックシープやアップルハウスへと流れていったのでした。ちなみに委員長たちがハコ入りする前は、V-oneにいたテリーがDJをしていたと聞いて驚きでした。可愛そうに、また梅ちゃんにいびられたんだろうな、と同情しました。その梅ちゃんがQ&Bに来た理由ですが、聞かされた話によると、この店には非常口を出た3階にボトル倉庫なる個室があって、当時の主任がここにおねーちゃんを引っ張り込んで悪戯をした、というようなことでした。もちろんこの主任はクビ、責任をとって支配人は降格、そこでV-oneに引き続きまたもピンチヒッター梅ちゃんの登場となったとのことでした。(結局自分も同じ道を辿ることになるのですが・・・・)実はこの時の梅ちゃん、ビバヤングでドイさんというボクサー崩れのコワーイ店長の下にいて、相当に窮屈な仕事場だったせいか、Q&B転属で一気に開放された気分になったのか性格も以前とはだいぶ変わって、かなりさばけた態度になっておりました。さて、このドイ店長は元々Q&Bの支配人で、昇格してビバヤングの店長になったという人で、ジュリーがQ&Bをトンコしたのもこのドイさんの過激な性格についていけなくなったことが原因というくらい、それはそれは過激な塊のような方でした。なんせ、ホールの丸テーブル(かなり厚手の板)をパンチで叩き割っちゃたり、歌舞伎町でチンピラ相手に大立ち回りしてしまうようなトッポイ人でした。笑いながら喧嘩して「新宿のドイちゃん、知らねーのかテメェ」とか言って、片っ端からぶん殴っていっちゃうようなチョイと狂ったおっちゃんだったそうな。(梅ちゃん談)ところが、この後ジュリーが一時ビバヤングに入り、ドイちゃんと一緒に仕事をするようになったのですから、世の中ってのは本当にわからないものですね。死んだバーちゃんに昔よく言われました。「人は相身互い、どこでまた出会うかわからないのだから、どんな人にも親切にしておきなさい」含蓄のある言葉に、今更ながら人との出会いの不思議さを思い知った委員長でした。さて、委員長がQ&BでDJを始めたこの頃は、バスストップの影響か、チラホラとステップダンスが混ざってきておりました。中でも特に印象的だったのが、レディバンプでしたね。手を打って片手を開いて上にあげ、もう片方の手は腰の後ろに回す振りが、妙な感じでした。ファンキーフルーツとかのバリエーションで、こんな感じのダウンがあったので、これを真似たのか、取り入れたのか、中学生っぽい子供たちが踊っていたのが強く印象に残っています。ちなみにこのレディバンプ、ジョイ吉野が妙に気に入っておりまして、よく踊ったりしてました。自分のお気に入りだったせいか、子供たちがステップ踊ってるのを見て、結構ムッとしたりなんかしてましたね。「ゲロンッパッブーギー!」シルバーコンベンションもこんなことになるとは思いませんでした。セイブミーからフライロビンフライのHITで一躍人気者になったシルバーコンベンションですが、あのエレガントさというかソフトな感じというか、不思議なノリがいきなり歌謡曲になってしまったような感覚でした。フライロビンフライなんて、ブラザーたちもよーくポイントで踊ってましたから、ホントにフラーイって翔んじゃってましたケド(^。^;それがいきなり、That’s Right!ですからね。このあたりから踊りも混ぜこぜになっていったんでしょうね。確かに中学生も多かったなぁ。ジーンズにバンダナってファッションも多かった。変なヤツは手にバンダナ巻いて、ステップ踊ってましたね。手を挙げてバンダナ振って、アルプスの少女ハイジってかフォークダンスってか、なんかよく分かんなかったけど、流行だったんでしょうか。もちろん大箱の台頭も理由のひとつだったですね。今までの暗い怪しい雰囲気から、明るいエレガントなお店って感じの大衆パブ系ですか。なんでもそうですが、流行ってのはアンダーグラウンドから大衆に露出しはじめた途端につまらないものになっちゃうんですよね。だから先端を走るヤツとか仕掛けるヤツってのは、大衆にブームが移った時点で、また新しいことを始めているんですね。でもって、これを追いかけていく流れがブームになっていくというような、ある一定のパターンがありました。最近はこのパターンはまったく当てはまりませんが、それでも日本人ってこの流れが好きというか、この流れに乗るのが一番楽で安心なことを知っているんですね。この年代の人は特にこの体質抜けきれてませんね。(ヨン様とかね)やっぱり農耕民族の血なのかなぁ~。
2005年07月04日
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蒲田ブルドックの6日目も相変わらず客はなく、ちょっとはヤバイ雰囲気が立ち込めておりました。そんな暗~い雰囲気をもろともせず、ジョイ吉野と委員長はバンド目指してギターのお稽古です。委員長は高校時代に買ったグレコの白のテレキャスターを抱え、ジョイ吉野はお揃いの白、グレコのジャズベースを手に、ボン、ボンと弦を爪弾きます。もうこうなってくると店の営業なんてどーでもよくなってきて、とにかく早く一人前にベースを弾けるようになりたい、とそんな一心不乱なジョイ吉野でした。まずは課題曲、3コードのロックンロール・ベースのパターンレッスンです。委員長がギターでリフを切って、ジョイ吉野がユニゾン風になぞります。「なんだよ、ロックンロールになっちゃったの?」高橋さんがチャチャを入れてきますが、異様に真剣な目つきのジョイ吉野に圧倒されてしまいます。そりゃ昨晩から一睡もしていないのですから、顔色だって悪いし、目だって真赤だし、尋常じゃないですよね。結局その日も、朝までこんな具合に身内で盛り上がってようやく解散。ジョイは買ったばかりのベースギターを大事に抱えて帰途につきました。長い一日だったなぁ、と委員長もふらふらした足取りで帰りました。家にたどり着いた途端、布団にもぐりこむと一気に爆睡です。夢も見ず深い眠りの中でしつこく鳴り止まない電話のベル。重い体を何とか起こして受話器を取ると、向こうの声はマチャアキでした。「ちょっとまずいことになったから早く来てくれ」寝ぼけ眼で時計を見るとすでに午後5時を回っておりました。なんとなく予感していた得も知れぬ不安が現実化していくような感じでした。蒲田駅から早足で大通りにでるとブルドックの看板は消えており、勢いよく入り口のドアを開けるとフロントの前に「ひとやすみ」のメンバー一同がうな垂れています。皆が委員長の顔を見て、おう、来たか、ってな感じで、一瞥をくれましたが、誰も口を開いて何か言おうとはしません。委員長はマチャアキの顔を探しましたが見当たりません。しかたなくワタナベ店長に理由を尋ねると、「オーナーが店を手放した」の一言です。「それって、店じまいってこと?」誰も答えようとはしません。「今、ボス(マチャアキのことですね)がオーナーに会いに行ってるから、その返事次第だな」高橋さんが何かを祈るような口調で言いました。元々いい加減な道楽者の委員長はさほど動揺はしませんでしたが、ワタナベさんや高橋さんはそれなりに生活がかかっていますから、ちょいと深刻でした。どんよりとした空気が立ち込める中、ジョイ吉野が買ったばかりのベースギターを抱えてやってきました。「どうしたの、看板消えてるけど」こういうことには敏感なジョイですから、皆の雰囲気で大体のことは理解したようでした。「あにき、練習しようよ」こういった緊張の場で、思いがけない行動に出る芸風を持ったジョイを、この時ほど頼もしいと感じたことはありませんでした。「そうだな、ここでこうしていてもしょうがないし、やるか」ってことで、フロアに行ってギターを弾き始めた二人でした。そんなこんなで、マチャアキが戻ってきて皆を集めます。「今、オーナーが金策に回っているが、とりあえず店は閉めるしかない」一同押し黙ったまま話を聞いています。「もうひとりだけ融資のあてがあるから、待ってくれと言われた。俺はこの言葉を信じたい。男として最後の賭けを信じたい」九州男児のマチャアキは、普段はクールな理論の持ち主で、皆にも社長ではなくボスと呼ばせるくらいの青年実業家を気取ってはいましたが、こういう土壇場になると、なんのこたぁない浪花節親爺そのまんまです。とりあえず皆で白馬車に引き上げようってなことで、適当に身支度をするとぞろぞろと新宿に舞い戻ってきました。この時、何故か理由は思い出せませんが、皆で新宿南口に出て、ビバヤングの手前のビルの隅で連れション(下品ですみません)しました。一同、真冬の寒空の下、息子共々しょぼくれて並んで用を足しました。(なんで南口だったんだろ)フジワラさん以外は皆二十代の若造でした。たった7日間の青春の野望の終焉です。ジョイ吉野のベースギター、丸井のクレジットの支払いだけが心配な委員長でした。
2005年07月03日
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蒲田ブルドックの営業は五日目に入りました。相変わらずお客はありません。退屈しのぎに、ジョイ吉野と委員長はフロアで踊りの練習などをしているうちに、ジュリーの話題になりました。いいよなぁ、こんな苦労も知らずに、おねーちゃんたち相手にしゃべくってんだろうなぁ、などと今の自分たちの憂鬱さが腹立たしく、いっちょ、パーッと踊りにでも行こうか、ってなことになりまして、終電に乗っかって新宿まで出かけた二人でした。久々の歌舞伎町が妙に二人のハートを刺激します。スタッセビルの地下、パブツモローに到着した二人はジュリーを呼び出すと、嬉しそうに出てきたジュリーは二人を招きいれてくれました。(もちろんタダです)自分が蒲田に行けない後ろめたさからか、妙にやさしくしてくれたジュリーでした。ちなみにジュリーとは呼ばれてましたが、ルックスはどうみても布施あきらだったなぁ。この時、ジョイ吉野は髭なぞ生やして黒い厚手のソフトHATを愛用していて、ヴァンマッコイにそっくりでした。「Good Night Baby」のアルバムジャケだと思いましたが、ヴァンマッコイが草かなんか口にくわえた顔のアップ、あの顔によーく似てました。さて、蒲田での鬱憤を晴らすかのように、二人はフロアで思いっきり踊りまくりました。すでに深夜に入っていたホールの客もやや踊り疲れてか、フロアで踊る委員長とジョイをショータイムのつもりで観賞しているような感じでした。営業終了後、ジュリーが言いました。「お前たちの踊りカッコイイよ。これって商売になるんじゃない?」おいおい、今頃そんなことに気付いたのかい、みたいなもんで、今更ってな気もしませんでしたが、委員長の夢はもひとつ大きくて、これからはやっぱりBANDだろってことで、またひとつ愚にも付かない道楽話に花咲いたのです。新宿のジュリーを名乗るくらいですから、この人だってBANDに興味が無いわけありません。典型的な道楽者はまず、歌手とかバンドマンに憧れて道を踏み外した輩が多く、自分の実力に気が付いたときにホンモノになれるかどうかが決まります。やりたいこととできること、これが自身のなかできちんと整理できた人は、やりたいことを目標に努力を重ねていきます。こういった人はホンモノになれる確率の高い人です。大概の道楽者は、やりたいこととできることのけじめがつけられずにずるずると業界にぶら下がっているか、己の実力を悟った時点で無駄な努力をせず横跳びして新境地を開く(ずーっと新境地を開拓し続けてる人もいますが)、のどちらかです。「運も実力のうち」という名言がありますが、委員長の経験から言っても、「実力」は地道な努力の積み重ねでしかありませんから、努力なくして「運」だけで世の中は渡っていけるものではありません。若い頃のほんの一時、強運というかツイてるってヤツがいますが、これも長い人生の中のその一瞬のことですから、その後はやはり自身の努力無くして進めません。あとは何を自分の「成功」と定めるかですね。世の中というハードは、資本主義というソフトで回っていますから、お金を掴むこと=成功という方程式によって成り立っていることは事実ですね。金で解決できないことは殆どない、と言っても過言ではありません。それだけがすべてじゃない、ってのも本当のことですが、「すべてじゃないもの」は確かにありますが、それでもそれは全体の一割くらいではないでしょうか。ですから、やはり「成功」は「お金」ということになりますね。ただ、このお金の掴み方と掴んだお金の使い方がとても重要です。このふたつの行為には、基本的にパターンがありません。これこそ、いくらでも追求できる大変奥行きのある行為ですので、皆さんも自分の人生を大切にお使い下さい。ちなみに非生産活動を推進する道楽者の委員長の夢は、なんと言っても「不労収入」に尽きます。働かずして収入を得る、美しい言葉の響きですね。生産行為と非生産行為の境目のない人生、これぞ究極の道楽者人生です。ってことで、話がまたも逸脱しましたが、新宿歌舞伎町に集った道楽者三人は、自分たちが置かれている現在の立場も省みず、とんでもない話に盛り上がっていきました。「バンドやらない、三人で」「でも、オレ楽器できないし」「大丈夫、オレが教えてやるよ」「じゃ、オレ唄歌うから」おいおい、お前たちには蒲田のディスコの営業があるだろって、わかっちゃいるけどやめられない。夢多かりし青春真っ只中の三人ですから、その日は始発まで盛り上がってしまいました。お調子者では委員長に負けるとも劣らぬジョイ吉野が、まだ薄暗い新宿の街を駅に向かう道すがら突拍子もないことを言い出しました。「あにき、オレ、ベースやるよ。やるならベースだな」「えっ、本気かよ」「今日、このまんま買いにいくの付き合ってくんない」「買うって、何を」「決まってるジャン、ベースだよ。オレ楽器のことよくわかんないから、あにき一緒に行ってよ」「行ってよって、おまえ金持ってんのか」「丸井なら買えるでしょ。オレ頭金くらいならあるから」見上げたもんだぜ道楽者根性、と言いたいところでしたが、このジョイ吉野ってヤツはこういった思いつきで行動する、ちょいと変わった芸風の持ち主でありました。二人はモーニングセットを食って、「丸井」開店を待ちました。この頃、ようやく赤いカードが出始めた頃で、委員長はこの業界にいる間にウン百万近いお買い物を致しました。(本当に良いお客さんでしたね、後年はキャッシュローン専門になりましたが)さて、ジョイはグレコのジャズベース(当時6~7万円だったと思う)を買うことにしましたが、手続き上、保証人で引っかかってしまい、結局は委員長のカードを使って委員長名義のローンで購入することになったのでした。(大丈夫かな、仕事もいい加減なのに)「仕事が終わったら毎晩練習しようよ」朝まで踊って寝ずに買い物して、目を血走らせた道楽者二人は興奮を抑えきれず、買ったばかりのベースギターを担いで蒲田ブルドックへと向かったのでした。
2005年07月02日
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1976年2月、底冷えする鎌田商店街のはずれに、本格的SOULディスコ「ブルドック」がリニューワル・オープンしました。リニューワル・スタッフは総合企画“ひとやすみ”。店のレイアウトは、皆がそれぞれの得意技を生かしてそれなりに仕上げました。ジョイ吉野は電気屋あがり、DJブースのセット、スピーカーの配置、配線を一手に引き受け、何とかディスコらしい体裁を整えました。委員長はデザイナー学院の経験を生かし、店内にSOULFULなイラストを施して雰囲気を作ります。高橋さん、池ちゃんはテーブルのセッティングを変え、入り口からホールへの導入部を少し勿体つけるようにして、入り口から店内を見渡せないようにしました。ワタナベ店長は調理人の経験を生かし、おつまみメニューの選定と厨房器具の整理を始めました。加えて、原価計算や売上見込み、経費の算出などを一手に引き受けてくれて、寝る間も惜しんで集中していました。社長のマチャアキとこの話の仕掛け人Y氏は、オーナーからいくらかでも改装予算をもらえるように交渉を続けていました。営業を引き継いだ従業員一同揃って開店、お客様のお出迎えです。「いらっしゃいませ!」かけ声虚しく、お客はゼロ。開店休業です。チラシでも撒いてみるか、ってことで寒空の蒲田駅前にチラシを配りに出ます。どうもディスコって感じの乗降客じゃありませんね。とにかく頑張ろうってことで深夜営業。仲間内で好き勝手なレコードを持ち寄って、みんなで踊ってみたりしても虚しいだけ。夜中になって委員長の彼女が実姉を連れてやって来ました。よく似た大型姉妹は蒲田の町じゃちょいと目立ちましたね。姉さんは酒飲みだったもんで、なんだかんだと明け方近くまで飲んでいってくれました。「大丈夫なの、こんなんで」彼女はそれなりに委員長の前途を心配してくれていました。翌日は数人の来客がありましたが、間違って来ちゃったような女の子たちと、食事がてら飲みに来たちょっと年配のカップルでした。深夜に入って、今度はV-oneのワカバヤシ支配人が奥様を連れて訪れてくれました。1時間ほど居てくれましたが、「難しいんじゃないか」一言ポツリと言い残して帰りました。さて、3日目は土曜日、週末ですからチョットは期待できます。午後7時を過ぎたあたりで、若者が集い始めました。それなりのディスコ客がぽつぽつと入り始め、ホールの半分くらいは埋まりました。リクエストには全て応じます。ゲットレディ、裏切り者のテーマ、ストップインザネームオブラブ、荒野のならず者、愛の航海、ロックユアベイビー、吼えろドラゴン、ザッツザウェイ、アスクミー、ソウルトレインのテーマ、セックスマシーン、愛のディスコティック、愛がすべて、マンハッタン・バスストップ、ジョニーBグッド、ファンキーモンキーベイビー、可愛い人よ、ディスコヒットのオンパレード。(おいおい、SOULディスコじゃなかったんかい)さすがに自分たちの食扶ちを稼ぐとなると、ノーガキはコイてられません。お客に喜んでもらって、また来てもらうためなら何でもしますって、当初のコンセプトなどはどこへやら。とにかく少ない客で盛り上げようと必死です。(こんなに一生懸命DJやったの、みんな初めてじゃなかったのかな)何とかディスコらしい(?)雰囲気で盛り上がってきたころ、フロントが騒がしくなりました。婦人用サンダルをつっかけた青ゾリパンチ頭が数人、ワタナベ店長、フジワラさんなどを前に食ってかかっていました。「サンダルや下駄履きはダメ。靴履いて来い」「靴ならいいんだな」「ああ、靴さえ履いてくれば入れてやる」押し返したワタナベさん。「困った奴らだなぁ、あんなのが出入りしてたら上客が来なくなっちゃうよ」元々の経営が行き詰ったのも、こんな不良少年達の溜まり場になってしまっていたからでした。十分もしないうちに、さっきのパンチ頭たちが戻ってきました。チグハグな靴ですが、ちゃんと履いています。「靴履いて来たぜ。入れてくれよ」言葉を失うワタナベ店長。渋々ながら入店させます。さあ、入ってしまえばこっちのもの、と言わんばかりにフロアを占領。客席からはチャームのピーナッツやら氷を、客やDJめがけて投げつけます。「いい加減にしろよ」喧嘩早い池ちゃんが注意しますが、おチャラけるだけで一向に悪戯はやめません。そうこうしている内に再びフロントが騒がしくなりました。制服の警官の立ち入りです。どうやらパンチ野郎たちが履いている靴は表通りでカツアゲしてきたものだったようで、被害者からの届出で交番から巡査がやって来たとのことでした。パンチ小僧たちはお巡りさんに連れられて退場。やれやれと思ったのもつかの間、今度は鉢巻、マスクには「ZERO」のマーク、特攻服に身を包んだ若者たちが数十人なだれ込んできました。さすがにこればっかりは入店お断りです。フロントで「入れろ」「帰れ」の押し問答が続いているところへ、新たな少年やくざが乱入してきました。少年やくざ二人が、特攻服の少年たちに「今日はおとなしく帰れ」と促すと、おとなしく従って帰る少年たち。意外な展開にしばし面食らうワタナベ店長以下スタッフ。少年やくざの話によると、この店のオーナーから用心棒を頼まれているS会の事務所が道路を隔てた向こう側にあるので、困ったことがあったらいつでも呼んでくれとのことでした。あ~あってなもんで、完璧にデキレースです。こんなあんちゃん達に一体いくら払っていたのか知りませんが、これじゃ商売が長続きするわきゃありません。まあ、何にせよ週末の売上八千円ナリがともかく入り、一同で反省会です。「あのガキたちをどうするかだよな」「根気よく追い出していくしかないだろうな」「しかし、あの用心棒ってのも曲者だよな」「あんなのにいくら払ってたんだろうね」水商売の経験者とはいえ、何から何まで自分たちでやっていく難しさを実感した一同でありました。それでも根が道楽者ですから、また明日考えよう、ってなもんで、緊張の土曜日は終わりました。翌日の日曜日は夕方の5時頃から不良少年らしきグループが、店の周りをウロウロしています。昨日のメンバーとはちょっと違って、もう少し年少組でした。オープンと同時に入店してきて、数人の仲間内でどんどんリクエスト入れてきて、踊りまくりです。へー、こんな奴らもいるんだぁ、などと呑気たれているところへ、またまた昨夜のパンチ野郎たちの登場です。今度はしっかり靴を履いてやってきました。店内に入ると、年少組がパンチ小僧に挨拶して席を空けます。なんのこたぁない、先発隊で来ていた中学生番長グループでした。「よう、夕焼け番長、お前ら学校どこだ」池ちゃんが尋ねます。「*○!X△◇*」カムセハムニダ、失礼致しました。この日は特別問題も起こさず適当に遊んで帰りましたが、この街の奥行きを知った委員長、やれやれ、本格SOULディスコへの道は中々に険しいことを悟った一日でした。
2005年07月02日
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総合企画「ひとやすみ」に舞い込んだ飛び切りデカイ話は、真夜中の歌舞伎町、深夜喫茶白馬車の隅で、やや興奮気味のマチャアキ社長の口から身振り手振りで語られました。過日ジュリーが連れてきたY氏の紹介で、蒲田のディスコを経営するオーナーと会ったマチャアキとジュリーの二人は、このオーナーから色々な質問や相談を受け、現状の経営状態が芳しくないこと、自分にはディスコの経営は無理であることなどから、経営回復のための協力依頼を受けたというようなことでありました。目を輝かせながらもふんふんと聞いていたメンバーたちから、マチャアキ、ジュリーの二人へ矢継ぎ早に質問が浴びせられました。「どんな店なの?」「立地条件は?」「企画の依頼なの?それともマネージメントの依頼なの?」「契約金は?」まあ落ち着けと言わんばかりにマチャアキが質問を遮って、「今日は向こうの話を聞いてきただけだから、もし皆がこの話を進めることに賛成なら、あらためて具体的な話をするつもりだけど」と言い終わらぬうちに皆から賛成の声があがります。「よし判った。じゃ、この話を進めるとして、具体的に我々のメリットと先方のメリットを比較していこうか」(メリットもなにも傾いてる店なんですから・・)頑張って背伸びしても所詮はこの程度ですよね。ということで、いよいよ愚にも付かない話が現実味を帯びて、益々愚にも付かない話へと発展していき、深夜の白馬車は目を血走らせた道楽者が、朝まで独自の経営哲学などを語り明かしたのでした。いやいや人生何事も経験です。今にして思えば、傾いた会社のオーナー(経営者)は藁をも縋る思いですから、相手が誰であろうと相談に乗ってくれれば頼りたくなるのが人情です。いくら何でも新宿あたりの水商売でチャラチャラしている若造に、そんなウマイ話が突然飛び込んでくるほど世の中甘くはありません。まして現実社会からかけ離れた世界で、1日のうちのほんの数時間、レコードをかけるだけで金貰っているような道楽者たちに、いくらディスコだからといって簡単に経営が勤まれば誰だって苦労しません。最初のうちは、店のレイアウトだ、選曲だ、チラシまきだ、イベントだ、花だ提灯だ(こればっかですね)と、好き勝手なことを言って盛り上がっていた道楽者達ですが、しまいにゃ、「店ごと貰っちゃうってのはどうだろ」などと言い出す始末。「それってハコ取りするってこと?」「そーだよな、いっそのこと俺らで経営しちゃった方が早いかもしんないな」「でも場所がなあ」「いやー、これからは蒲田だぜ。蒲田からホンモノのSOULをわからせてやろうぜ」「そうだよ、アフロレイキやエンバシーにも引けをとらないSOULディスコを作ろうぜ」「おう、メチャくちゃFUNKYな店にしたいな」一体自分たちをどれほどのスペシャリストだと思い込んでいたのかわかりませんが、自分たちが乗り込んで行って丸ごと面倒みちゃおう、みたいな思い込みだけが先行して、まだ店も見ぬうちから勝手な想像だけが大きく膨らんでいきました。ということで、早速交渉案が作成されました。○イベント等の企画=いくら?○DJ、スタッフの派遣=いくら?○店のマネージメント=いくら?(自分たちがいくら貰うかだけの話じゃん)こんな具合の極めて稚拙な契約交渉案でしたが、当事者たちは皆目を輝かせて思い切り舞い上がっていたのでした。さすがに白馬車のおいちょかぶ大会はしばらく中止となり、毎晩期待に胸膨らませた道楽者たちが集っては「一大企画」を懸命に作成しました。そんな期待とは裏腹に、マチャアキ社長が持って帰ってきた回答は、「金はない」の一言でした。(あたりまえですよね)ところが、「とにかく当面は資金繰りが追いつかないから払う金はないが、もしその気があるのならお店をすべて君達に任せるから自分たちで賄ってくれ」といった話になったそうな。(よくあるパターンですね)さあ、勢いよくここまで引っ張ってしまった連中ですから、そう簡単には収まりません。更に大激論が続き、「こんなチャンスはめったに来ないぜ」(そう思いたいのはわかりますケド)ってことで、やるだけやってみようってなことになりました。ホントよくありがちな話ですよね。結論が決まってて、皆で後付の理屈コイて納得するパターンですね。ということで、「ひとやすみ」はディスコ経営に乗り出すことになったのでした。とは言うものの、メンバーの顔を見渡してみて、DJやダンサー、ウェイターくらいは出来そうですが、肝心の経理とか厨房とかはどうすんだって話になります。元来、好きなことしてメシ喰うっつーか、楽して喰うっつーようなコンセプトの持ち主ばかりですから、そんな叩き上げのような根性のあるヤツはひとりも見当たりません。かろうじて白馬車の支配人フジワラさんが、経営の実務経験者でありましたが、そこはそれ、だてに歳を取ってるわけではありませんから、いきなり今の仕事を放り投げてまでこんな博打のようなムボーな話には乗って来れません。「すぐには辞めれないから、当分は遅番の仕事に入る前に手伝いに行くよ」ジュリーも同様、パブツモローに入ったばかりだから今すぐには辞めれない、ってなモンです。(やはり生活感のある大人二人ですから、こんな博打にうかつに手を出すほど子供じゃありません)とは言うものの、結論が出た以上は前に進む以外ありません。実務者探しと言うことで、マチャアキが新宿ムゲンのワタナベ主任に目を付け、皆で口説き落とし、店長と経理をお願いしました。頼まれる方だって、そりゃ乞われて悪い気はしませんが、給料が出るか出ないか、いや、稼げるか稼げないかわからないような話に気軽には乗れません。てなことで、一度皆で店を視察しようじゃないか、ということになりました。蒲田駅西口(だったと思う)は、今ほどの繁華街ではありませんでした。京浜地区独特のちょっと暗い感じが漂う商店街。駅こそ大きくて立派ですが、ちょっと危険な雰囲気が匂います。お店は、商店街からは外れていましたが、駅から10分ほどの大通りに面した小さなビルの2階でした。パブディスコ「ブルドック」人通りも少ない歩道、寒風が吹く中、アフロや長髪の胡散臭いヤツらがゾロゾロと店の中に入っていきます。内装はそれなりに凝った造りで、ダンスフロアを囲むようにボックスタイプの客席があり、奥にはVIP席のような仕切りもあり、ちょっとしたパブという感じでした。厨房もそこそこに広く、ちゃんとした料理も出すつもりでいたのでしょう。設備はそこそこ、ひととおり整っていました。DJブースはかなりいい加減で、近所の電気屋さんが組み立てたようなセットで、フェーダー付きのミキサーなどはなく、二つのターンテーブルを家庭用のプリアンプとセレクターで繋いであるだけのテキトーなシロモノでした。ここらへんのことだけは知識のある奴らばかりでしたから、早速ブースの設計から始まります。職人やタレントが商売を始めると概ねこんな感じなんでしょうね。誰一人として原価計算とか、売上見込みとか言い出しません。一番肝心なことを抜きにして店のディテールばかりに話が集中します。それでも、なんとなくやっていけそうな雰囲気はあり、それとなく夢見がちな道楽者は結構楽しんで意気揚々と新宿に引き上げて来たのでした。「やるか?」「やろうよ」二つ返事で全員がこの話に乗りました。早速、マチャアキはワタナベ主任を伴って退職届をだしました。続いて高橋さん、池ちゃん、ジョイ吉野そして委員長が退職届けを出します。これに白馬車のフジワラさんが早番で入り、更にマチャアキの弟子みたいな若者が付いてきました。ジュリーも空いた時間は駆けつけるってことで、(確か)皆1月一杯で仕事を辞め、2月からハコ取りというような計画が立てられました。委員長の場合、ワカバヤシ支配人には随分と親しくして頂いて大変に申し訳なかったのですが、逆に「頑張れ」と激励してもらい、感動に打ち震えながら夢の実現に向けて大きく飛び立ったのでした。(大げさなヤッちゃな)少なくとも不良上がりのろくでなしばかりが集まって、店一軒任されることになったことは事実ですから、周りの人はみな尊敬の眼差しで見ていたことは間違いありません。結果はともかくとして・・・・。
2005年07月01日
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