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1980年正月、ようやくお屠蘇気分も抜け始めた頃、飯倉の事務所もそろそろ不穏な動きが見え始めてきました。スポンサーである株式会社タートルに掛かってくる電話がどうもただ事ではなく、回数も日に日に増えていったのです。事務所の借賃の換わりに電話番と事務を代行することが約束でしたから、タートルに掛かってくる電話は全て伝言など受けてFさんかSさんに連絡しなければなりません。前にも言ったように当時はポケベルですから、受けた当人が連絡をしてこなければどうやっても連絡のつけようがありません。そのうち頻繁にかけてくる先方も段々態度が荒くなってきます。「てめぇ、名前なんて云うんだ?いつまで待たせんだ、このヤロー!」てな口調になってくると、事務お手伝いのMちゃんはさすがに怖くなって近くにいる委員長やヒロシに電話を変わります。「逃げ隠れしてねぇで電話よこすように云え!」「ほんとにそこにいねぇんだな?今から行って確かめるぞ、こらぁ」事務所は事務所でもほとんど危ない事務所のやり取りそのままです。そんな内容をFさんに伝えると逆にこめかみをぴくぴくさせて、「今朝も極○の奴ら数人がウチに乗り込んできやがったから蹴り倒してやった」とか云い出す始末です。さすがに委員長もこれはちょいとやばいんじゃないかと昇ちゃんに相談しました。「なんかさ、手形割とかやってるらしいんだけど、ちょっとやばいかもな」昇ちゃんも同様に感じていたようです。二人の心配が現実のものとなるのも時間の問題でした。ビルのオーナーから事務所の閉鎖が言い渡され、即刻退去を求められました。もともと家賃など払っていたわけでもないし、出て行けといわれたところで居座るほどの執着もありません。そしてこのあたりが大変要領の良い委員長は、早速中村マーちゃんにトラックを借りてこさせ事務所のカウンターだの事務机だのをしっかり持ち出しました。ついでにリースのコーヒーメーカー・セットなども積み込んだ一行は、すばやく手配した引越し先の原宿まで手際よく運び出したのでした。(まるで夜逃げだよね)この頃すでにFさんもSさんもほとんど顔を出さなくなっていましたから、御両名に代わって備品は持ち出し、お預かりしておきましたというような言い訳で通すつもりでした。どうもドタバタ劇には慣れっこになってしまったのか、こういう土壇場で指揮官のようなテキパキとした動きは委員長自身驚くほどの手際のよさで、数名の若手DJ達を使ってさっさと引越しを完了させてしまいました。それにしてもまるで夢でも見ていたような事務所開設と会社設立でしたが、その幕引きも夢のような出来事でした。しかしこの事務所開設の経緯って、今にして思えば「企業舎弟」ってやつですか。結局、この飯倉の事務所閉鎖以降FさんにもSさんにも会うことはありませんでした。エスメラルダが原宿に移ってから数ヶ月が過ぎたある日、委員長と昇ちゃんは歌舞伎町のトゥモローエースで坊主頭に左手小指にグルグル捲きの包帯も痛々しいFさんと偶然再会したのでした。本当に偶然のことでしたが、初めて委員長たちがFさんと会ったのもこの店でした。家具の持ち出しで多少後ろめたい二人はドキドキしながら挨拶すると、「最後まで面倒見れなくてごめんな。オレもこんなになっちゃたからさぁ」そういって包帯に捲かれた左手小指を上げるFさんでした。「君達には何か迷惑はかからなかったか」逆に心配してくれるFさんにはちょっと心が痛みました。「人生には辛いこともあるけど、君たちはまだ若いから頑張って成功してくれよ」相変わらず明るいノリのFさんでした。昇ちゃんや委員長にとっては心強いスポンサーを失ったことになりましたが、いずれは別の道を行くことは解りきっていたことでしたし、長くは続かないであろうこともよくわかっていた二人でもありました。それでもこの出会いは、ガムシャラに突き進むしかなかったエスメラルダの船出に加速をつけることのできた幸運なチャンスだったと今でも思っています。とかく見栄が重要なポイントとなるこの業界にあって、エスメラルダ設立のハッタリは売名行為という面からは大変インパクトのある滑り出しでした。もしこれが原宿の小さな事務所からのスタートであったなら、これほどの短期間で人材集めからハコ取りまで多角的には進まなかったことでしょう。すべては結果論かもしれませんが、意図せず意識せず、偶然の出会いから生まれたこの成り行きが委員長と昇ちゃんの人生の流れを変えたといっても過言ではないでしょう。まさに人との出会いが人生を織り成していくということを身を持って理解した出来事でもありました。飯倉の事務所を出て、今度こそ正真正銘自分達の力で借りた新しいエスメラルダ本部は、原宿の竹下通りを抜けてちょっと奥に入ったところにある二階建てのモルタルアパートでした。小さな企画会社やデザイン工房などがオフィスとして使っているような6畳一間のこじんまりとした部屋には、あの飯倉の事務所から勝手に持ち出してきた豪華な応接セットやカウンターが置かれ、このちぐはぐな感じがまさにエスメラルダに相応しい雰囲気を醸し出していました。それでもメンバーはみな一様に落ち着いたというか、自分たちらしい場所に収まった心地よさか和気藹々と再出発を祝ったのでした。株式会社エスメラルダの事務所が原宿に移り、スーツにネクタイはとっとと辞めて革ジャンスタイルになった委員長は、ヒロシやホリと共に事務所の電話番なども務めたりしておりました。この頃にはハコ取り店舗も相当な数に昇り、それに伴ってエスメラルダ所属の新人DJもやたらと数が増え始め、委員長の知らない顔も随分とおりました。元々会社経営なんてできるタイプではありませんから、会社ゴッコもネクタイを外した途端にヒロシ任せになってしまい、委員長はただ先輩ヅラして事務所でグダグダしているだけでした。(道楽者の本性が現れましたね)この頃のエスメラルダはサム岡田を筆頭に大学生のアルバイトDJみたいなやつらも結構いて、人生を博打にしてしまったようなアホな奴らはなぜかこういったやつらのグループとは相性が悪く、ともすればいがみ合いになったりもしました。その昔ジュリーや委員長がみつぐ氏とかと折り合いが悪かったように、いつの時代も学歴組と落ちこぼれ組みたいな対立がどこにでもあったわけです。(どのみち皆ろくでもないゴミ野郎だったんですけどね)そしてマネージャー役のヒロシの傲慢さとも対立したりしていたので、知らぬ間に派閥のような群れが出来上がってしまいました。西武線沿線で田無のジュリーを中心にまとまった、花見、サム岡田、ヒロシ、そして見習いの多くがヒロシの下に付きました。更に中央線沿線高円寺亀屋マンションを中心として、シンジ、ユウジ、ヤスオ、コジャ、加えてニック・グループという感じの色分けが自然と出来上がっていきました。当然委員長の周りに寄ってきた連中はアホの王道を行くような連中ばかりでしたから、委員長が漫画や週刊誌で聞きかじった屁理屈をこねくりまわしたりすると、みな押し黙って聞き入り、やっぱりロニーさんは凄いとか尊敬されたりしておりました。何が凄いんだかよくわかりませんが、昔から委員長の言動は人を左右してしまうようで、本人すら意味の判らない単なる受け売りでも人になんらかの影響を与えてしまうという少々危ない才能があったのかもしれません。(イエスの箱舟かぁ?)ともかくいい加減な世界の中で、更に落ちこぼれて集まってきたような奴らの知能レベルがどの程度だったかは大方想像が付くと思いますが、本人が望んだわけでもないのいつの間にか皆に持ち上げられて兄貴分のような存在になってしまった委員長でした。持って生まれた才能か、親に感謝すべき特性とも云える「勘の良さ」だけは確かにあったように思えます。それと、水商売を長くやっていると幅広いバカ野郎を嫌というほど見てきていますから、アホな奴がアホなことをするとどういうことになるかくらいは大抵見当が付くので、アドバイスが的確だったという点も後輩に慕われた理由かも知れません。特にDJなどというお調子者の代表選手のような仕事をしていると必ず女性関係ではトラブルを起こしがちですから、根本的なセオリー(なんじゃそりゃ)とか生き延びる術とかを伝授したり、あるいは筋の方々とのお付き合いの仕方とかを教えていくうちに実際にトラブルに巻き込まれたヤツの尻拭いなどもさせられるようになってしまった委員長でした。そんな自慢にもならないバカのバカ話がいつのまにか武勇伝になり、更に尾ひれが付き、加えてダンサーだのバンドだのと過去の経歴がハッタリになって、自分では知らないうちに偶像のようなものが生まれてしまったようでした。(やれやれ)
2005年10月31日
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石川県金沢のディスコナイトは中々活況のうちに委員長の任務も無事完了し、後続は花見キョンが引き継ぐことでなんとかエスメラルダの面目は立ちました。北陸の寒さにもメゲず頑張った委員長は関○部長にも大変気に入って頂き、できればこのまま残って欲しいと請われましたが、心からの御礼を申し上げてこの地を去りました。実は委員長の滞在中にもうひとつアホな事件が起きてしまい、何故かこの金沢と委員長の相性はあまり良くなかったように思えます。この時エスメラルダのマネージャー役ヒロシが、委員長の後任として送り込んできたのは立川エモンのシンジを通じて入ってきた広瀬ヤスオという男でした。一見大人しそうに見えるヤツだったのですが、外見とは裏腹に幼児期に両親と死に別れ施設で育ったという相当悲惨な体験をしてきた根っからの不良でした。彼の数日間の仕事振り、DJとしての資質について関○部長から手厳しい評価をもらった委員長はヤスオを呼び出し東京に戻るよう伝えました。よくよく話を聞いてみれば、「つなぎ」が上手く出来ず同僚のXX君に指図されたことに腹を立てたヤスオはつい地が出てしまい、「テメーなめてんじゃねぇぞ」と脅しをかけてしまったということでした。せっかく委員長がサム岡田の起こした不始末の汚点挽回で頑張っているというのに、このアホタレは一瞬にしてこの努力をパーにしてしまったのです。元々不良上がりの委員長ですから、自分と同じ弱くて気の小さい馬鹿野郎のしでかしたことを今更怒ったところで仕方ありません。「もっと強くなれよ。どうせお前この先どう頑張ったってまともな仕事はできないんだから、いつまでもガキみたいに突っ張ってねぇでもう少し辛抱しろよ」ヤスオを部屋に呼んで先輩として一言訓示を垂れた委員長でしたが、またもや後輩の不始末で更に滞在が延びることになってしまいました。ヤスオが戻されて後続のタマが無くなったエスメラルダは、止むを得ず花見キョンを送り込むことになり、たて続く不始末にジュリー自らが詫びに来るということになりました。金沢にエスメラルダ幹部集合、ということで北陸金沢の厳しい冬を体験した委員長でした。そんなこんなでようやく委員長が東京に戻ってきてみると、今回のトラブルの張本人サム岡田はジュリーの命令で関東ところ払いとなり白馬のスキー場へ飛んでおりました。今回の不祥事の反省も兼ねて田舎に飛ばされたサム岡田ですが、本人にとってはこの上ないシヤワセな仕事にルンルン気分できっとスキーなぞして楽しんでいるだろう顔が目に浮かぶ委員長、ヤスオのように何をやっても裏目に出る奴もいれば、同じ馬鹿野郎でもこんなラッキーな奴もいるのかと思うと、世の中の理不尽さ、持って生まれた因果に想いを馳せずにはいられませんでした。よく、徳とか業とか言いますが、やはり人は何かの因縁を背負ってこの世に生まれ出てくるのでしょうか。何をやってもとことん裏目に出るヤツもいれば、どんな時にも必ず救いの手が差し伸べられるヤツもいて、一体この差は何なのだろうかという疑問は未だ明快な答えを得るに至ってはおりません。それでも、委員長には確信を持って言えることがひとつだけあります。それは「己がやったことは必ず同じ形で返ってくる」ということです。自分が誰かにしたことは、良いことでも悪いことでも必ず同じコトを他人にされるということです。いわゆる人生の請求書ですね。ツケが回ってくるとも言います。だから善行を積みなさいという年寄りの言葉に偽りはありません。証明は出来ませんが、委員長自身の50年の人生はこの定義にきちんとはまっていますから、大概は正しいのではないでしょうか。まさに激動の1979年もようやく年の瀬を迎え、城を無くしたジュリーと委員長の成り行きとは言いながらも体を張った事務所経営もなんとか形になった大晦日、久しぶりに新宿クレージーホースで二人顔を合わせて正月を迎えました。この日から委員長はジュリーのことを「昇ちゃん」と呼び、お互い何とかこの業界で生き残っていく覚悟を決めたのでした。委員長の彼女C子もこの日は仕事を休んで、皆で一緒にドンちゃん騒ぎの年越しを過ごしました。思い出の明治神宮へも初詣に行き、新しい年が新たな飛躍の年となるよう、エスメラルダのスタッフ全員でお祈りしました。明けて1980年はポール・マッカトーニーの大麻所持現行犯逮捕による国外退去というセンセーショナルな事件で幕が開きました。ビートルズ来日以来14年ぶりのコンサートが中止となり、多くのファンが嘆き悲しみました。ギャラが折り合わず強硬手段に出た結果だとか、色々な憶測も乱れ飛びました。もうひとつ大きな話題はモスクワ五輪のボイコットですね。民主主義対共産主義の対立、これが最後の山場だったのかもしれません。そして山口百恵が三浦友和と婚約引退発表。変わりにと云っちゃあなんですが、松田聖子の「裸足の季節」デビューでした。タケノコ族が原宿の名物になったのもこの年です。銀座で1億円を拾った大貫さん、今もご健在のようです。悲惨なニュースでは後に映画化もされた新宿西口バス放火事件がありました。道楽者の主食牛丼の吉野家が倒産。委員長はこれで牛丼が食べられなくなるのかと思いちょっとショックでした。立体パズル「ルーブキュービック」が大ヒット。頭の悪いDJ業界ではあまり流行りませんでしたね。(笑)イラン・イラク戦争勃発。究極の代理戦争へと発展します。プロ野球では長嶋監督が辞任、翌月王貞治選手が現役引退発表。そして1980年12月8日、世紀のアーティスト・ジョン・レノンがニューヨークで凶弾に倒れました。世界が悲しみに包まれた年の瀬でした。そんな時代背景の1980年代の新宿歌舞伎町ではこの当時、角川映画のピカレスク・ロマンが時代の風潮としてあったせいか、委員長はエスメラルダに賭ける情熱と野望を映画のストーリーに重ねて、すっかりヒーローになりきっていました。(今度はアウトローごっこですね)「手負いの獣にとって優しさは、危険を招く罠になると~」欲望の街~「白昼の死角」「動く標的狙いを付けて」~「蘇る金狼」絶好調の故松田勇作氏の「野獣死すべし」と続く一連のヒット作に、かぶれ易いお調子者の委員長は革ジャンにサングラス、すっかりとピカレスク・ヒーローになりきっていました。昼間はスーツにネクタイ、一般人のフリをして飯倉の事務所に通い、夜は革ジャンとサングラス、黒ずくめの衣装という具合に、映画さながらの野望に燃えるアウトローをしっかりと成りきって演じていたのでした。(相変わらずの馬鹿ですね)また、この頃は新宿ビバヤング時代のオオイケさん(覚えてますか?歌舞伎町ノックアウト事件で挫折してしまった先輩です)などが稲○系Y組でプロデビューを飾り、すっかり東口グリーンで良い顔になっていたり、その兄貴分のHさんなども出入りしていて、新人DJ連中の間ではアウトローにすっかり祭り上げられていた委員長でもありました。更に、西口V-oneにいた細○チーフもT会系で本職になっていて、委員長のアウトロー人生に彩を添えてくれました。もちろんエスメラルダのスポンサーはS会のFさんですから、もう委員長の周りはアウトローだらけで益々その気になっていった委員長でありました。
2005年10月30日
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ディスコ・バナナビーチは、石川県金沢市片町のメインストリートの交差点に面したビルの6階にありました。企画事務所エスメラルダの初めてのDJ派遣として、当時ワンプラスワンにいたトモミが飛びました。期待通りの仕事をこなしてくれたトモミですが、当初の約束3ヶ月が過ぎても中々後任が見つからず、だらだらとひと月が経ち、ふた月が経ちするうちに彼の苛立ちも限界に来て、仕方なく間に合わせにサム岡田を送ることになりました。ところがこのサム岡田がとんでもない不始末をしでかしてしまい、その償いも含めエスメラルダを代表する委員長が出張ることとなったのでした。当時の金沢ではこのバナナビーチは異常なほどの盛況振りで、ライブコンサートなどでこの地を訪れた大物アーティストの方々なども必ず顔を出すといったような、地元では大変人気のあるプレイングスポットでした。また、地方都市では東京に少なからず憧れやコンプレックスのようなものがありますから、東京からやってきたDJが人気者にならぬはずがありません。もちろん東京から来たといってもそれが東京人であるかどうかは別問題で、その雰囲気に夢見る若者が多かったってことだけです。その東京ですら地方人の集合体ですから、一体何を持って都会というのか難しいところですが、まあいつの時代でも若者は未知の世界に憧れるものです。トモミの後釜が見つかるまでという約束でイヤイヤ飛ばされたサム岡田でしたが、なんとこいつは店の従業員と出来てしまい、しかも東京に連れて来てしまったものですからジュリーの逆鱗に触れたのは言うまでもありません。元々いい加減な世界ですからジュリーや委員長も偉そうなことは言えませんが、店の従業員に手を出したとなると話は別問題です。当事者はお互い軽い気持ちで合い通じたのでしょうが、こちらとしてみればスポンサーの信頼を失墜させる一大事です。結局のところ彼女が抱いていた夢の東京生活も、サム岡田のだらしなさを目の当たりにして一週間も持たず喧嘩別れの後、彼女は金沢に戻りお店にもそのまま復帰しました。かくして、この落とし前は責任者の委員長が出張って行って直々にお詫びするしかないだろうということになったのでした。と同時に、この頃バナナビーチのあるビルの地階に姉妹店として大人向けの「つなぎ」専門のディスコがオープンしたということもあり、ゲストDJ&ダンサーということで委員長が無料奉仕にお伺いいたしますという話になったのでした。小松空港に降り立った委員長を出迎えてくれたのは新米DJ○弘君でした。彼は高田馬場リチャード三世で実施していたブル渡辺講師のDJ教室を優秀な成績で卒業し(笑)、見事ここ金沢でDJデビューを果たした大学生でした。そしてもう一人バナナビーチのオリジナルDJのXX君が、自分の車を運転してはるばるやってきてくれていました。霙の降る小松空港からXX君の軽自動車に乗りこんだ委員長は、車中で○弘から店の状況や金沢の土地柄などを聞かされましたが、目の前を過ぎゆく景色はどんよりと暗く、いつになく不安な気持ちに苛まれました。委員長は金沢到着と同時に関○部長にサム岡田の一件を詫び、新たにオープンした姉妹店の派遣DJが決まるまでの間、両店のお手伝いをさせて頂くということで何とか丸く収めて頂きました。この関○部長という人は、バナナビーチがオープンした頃のマネージャーだったのですが、当時出演していたフィリッピンバンドのメンバーが急病で倒れた際に、音楽の心得があったことからメンバーのトラを務め、以後バンドとマネージャーを兼務したという中々異色な才能の持ち主でした。そんな才能を会社に買われてバナナビーチ店長となり、そしてこの第二次ディスコブームを契機にして部長に昇格、姉妹店のオープンとなったというような経緯でした。更にこの関○部長自身がミュージシャンということもあり、サウンドシステムも自ら設計デザインし、当時東京でも珍しかったシンセサイザーを取り込んだサウンドエフェクターなども使用しておりました。(タイプ的にちょっとムラちゃんに似てて神経質そうでした。ポジションもベースだったし、顔や体型も良く似てました)当時はやはりスタジオ54から始まった「つなぎ」という新しいタイプのDJスタイルに皆が関心を持っており、関○部長も自身がチャレンジすると共に若手の育成にも力を入れておりました。そこで紹介された関○部長の秘蔵っ子がモンチ田中でした。まさしくモンチッチ、小柄のお猿さんというような風貌の彼は何故かすでに委員長の名前だけは知っており、初対面ながら先輩として立ててくれたその態度に好感を持ちました。関○部長も「彼はルックスはペケだけど音楽性が優れているから、裏方つなぎ向きだね」と彼の評価を付け加えてくれたりしました。まさかこの彼が後に東京で一旗上げるとは、この時の委員長には想像もつきませんでした。まわりの従業員にも陰口でサル、サルと呼ばれていた彼は、何だか豊臣秀吉のようでしたね。(笑)その晩は取りあえず社員寮に泊まることになった委員長、その寮として使われていたアパートに行って驚きました。東京でも特別良い暮らしをしていた委員長ではありませんが、そこは委員長の想像をはるかに超えた余りにも過酷な住まいでした。アパート自体はモルタル造りとはいえ中々しっかりとした建物だったのですが、部屋の中に入った途端に北陸の冬の夜は委員長の体を凍りつかせました。異常に高く積み上げられた綿布団が一組ぽつんとある四畳半に通された委員長、空港まで迎えに来てくれたXX君が親切にも小さな電気ストーブを運んで来てくれましたが、もうすでに手足の先は凍りついておりました。更に後輩の○弘が追い討ちをかけます。「明け方は異常に寒くなりますから、ストーブはつけっぱなしにしておいた方が良いですよ」(凍死するのか?)「お前もここに住んでんのか?」「いやぁ、ボクはちょっと・・・・、あの彼女ができたもんで・・・」あー、そーかい。こんな牢獄のような部屋でオレ一人寝かせようってのかい。などと心の中で八つ当たりしても仕方ありません。委員長の殺気をそれとなく察知した○弘君、恐る恐る委員長に尋ねました。「そうっすよね。ロニーさんじゃ、ここには住めませんよね。取りあえず今夜はボクんトコへ来ますか?」「別にオレはどんなとこでも住める男だけど、寒いのだけはダメなんだよな。とにかくもう一度街まで連れてってくれる?」ということで、委員長は片町に引き返して店の近くの金沢プリンスホテルにチェックインしました。まさかホテルに泊まるとは思ってもいませんでしたから、フロントで滞在日程を聞かれたものの返答に困ってしまい、取りあえず2日、あとは状況によって変わります、と説明すると「それでは2日分前金でお願い致します」と言われ、なけなしのお小遣いを支払いました。やれやれって感じで、早速C子に電話して至急に金を送ってもらうことにしましたが、どうもホテル側は委員長を胡散臭い客と思っているような感じでした。金沢到着初日から北陸の厳しさを体験した委員長、この前後のビータ(旅)が南方系の暖かい仕事だったせいか特別にそう感じたのかもしれません。慌しい一日が終わり、ようやくホテルで落ち着くと今度は空腹感が襲ってきます。何か食い物はないかフロントに電話すると、「館内の食堂はすでに閉店しております」とちょっと訛りのある職員のそっけない返事。それじゃ仕方ないから外で食うか、ってことで外出しようとするとフロントの職員がジロっと委員長を睨んで「カギをお預かりします」と事務的対応。「この近くで食事できるところありますか?」「さあ、商店街は9時でほとんど閉まりますから」と、またもそっけない態度。外に出てまたまた驚きです。本当にホテルの従業員が言うように、街は暗く静まり返っています。横丁の裏通りに提灯がいくつか見えたので路地裏に入ると、バーだかスナックだか数店が営業していましたが、委員長はあまり酒が飲める方ではないし仮に入っても食べ物が無かった日には泣きっ面に蜂です。とにかくお腹を満たす食べ物を口に入れないことには寝付けませんから、更にあたりをウロつくと冷たい夜の路地裏から暖かそうな湯気の気配。ラーメン屋が一軒委員長においでおいでをしています。Oh、神様!店内は非常に混み合っていて、きっと委員長のように9時までに夕飯を取りそこなった奴らがやってきているのだろうと妙に納得して、早速チャーハンと餃子を頼んでパクつきました。しかし、満員の店内の客はみな一様に静かに食べ物を口に運んでいます。そういえば今日は朝からメシ喰ってなかったなぁ、としみじみと噛みしめながら暖かいチャーハンをむさぼる委員長でした。小さなラーメン屋は旦那と奥さんの二人で切り盛りしているようで、カウンターの中でせっせと料理を作る旦那さんと忙しく動き回る女将さん、そしてただひたすら黙々と食べる客たち。北国のラーメン屋ってのはこんなもんなのかなぁなどと思いつつも、これでようやく眠れそうだな、と満腹の委員長は席を立ってカウンターの中の女将さんに千円札を渡しました。確か5~6百円だったと思いますが、無愛想に札を受け取った女将さんはどんぶりを片付けたり、コップを洗ったりして中々おつりを用意してくれません。そのうちにテーブルのお客からオーダーの声が掛かったりして、相変わらず委員長のおつりは無視されています。どうやらこれは、旅人はチップを置くのが当たり前と言っているのだと理解し、委員長はそのまま店を出ることにしました。店を出て門戸を閉め終わるまで、とうとう委員長の背後から「ありがとうございました」の声は聞こえませんでした。寒い国の人は体力を消耗させないように言葉はできるだけ喋らない、とどこかで聞いたような気がしましたが、まさにこのことだったのかと納得した委員長、ホテルに帰ってフロントでキーを受け取りましたが、ここでも「お帰りなさい」とか「おやすみなさい」とかの声は聞けませんでした。北陸の皆様にとってこれは偏見かもしれませんが、委員長が二十数年前に体験した実話ですのでご不快に思われた方は何卒ご容赦下さい。それでも、昼間訪れた兼六園と武家屋敷は大変趣があり、日本の歴史を生きたままこの目で見たという感じでした。あれから二十年以上が経ちますが、日本の歴史遺産がそのまま次世代にも受け継がれていくことを祈っております。
2005年10月29日
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1979年秋、木枯らし吹きすさぶ新宿歌舞伎町、東亜ビルの隣歌舞伎町東映二階の喫茶店で、委員長はこの数ヶ月で急速に接近したDJ仲間のチェングを待っておりました。ハローホリデーからノコノコと出張ってきた彼は、サーファー風の衿毛付ブルゾンにジーンズ、素足にゴム草履という相当にファンキーなファッションで現れました。「寒くねぇのかよ、草履履きで?」「寒いよ」「じゃ靴くらい履きゃあいいじゃねえか」「ああ、そのうちな。雪でも降るようになったら変えるよ」「変わってんなぁ」「ところで、何だよ話って?飛び道具でも入ったのか?」B&Bにチェングの池袋時代の仲間が幹部で入り込んでいることを聞かされていた委員長は、ここで再び彼に裏取引を持ちかけました。チェングは一匹狼でしたから、ハコ取り店を増やしてもピンハネする都合の良い後輩がいません。かといってY君のつながりで旧H君グループのメンバーを入れたのではあまり甘味はありません。そこでエスメラルダの若手をチェングの下につけることで取引は成立しました。「悪い話じゃないな。あそこにはアダムスの頃一緒に馬鹿やってたヤツが入ってるから、いっちょ仕掛けてみるわ」このひと月もしないうちにB&BのDJブースで乱闘騒ぎがありました。DJブースにいた山ちゃんがホール主任にチェーンで殴られるという過激な事件が起こったのです。「てめぇ、話によると元はカタギじゃなかったらしいじゃねぇか。こんなところでおとなしく猫被ってんじゃねぇぞ」などと因縁つけられていきなり鉄のチェーンで殴られたそうでした。泣きながら新宿の古株DJ達に訴えてきた山ちゃんは、どうやらチェングが裏で糸を引いているらしいとの噂を聞きつけたことから事態は一大騒動になっていっていったのです。急遽新宿のDJ連中が呼び出されました。歌舞伎町ジョイパックビル1階の大型喫茶マジソンで集会です。もちろんジュリー、委員長、チェングも呼び出されました。顔にバンドエイドを貼った山ちゃんは今にも泣き出さんばかりに皆に訴えます。「鎖だぜ、鉄の鎖で殴られたんだから。何もそこまでするこたぁないだろ」あきらかにチェングに向かって言っています。「カタギじゃねぇんだろとか言われたって、そんな昔の話引っ張り出されてケンカ売られるとは思っちゃいなかったからさ」皆同情はしているようでしたが、誰一人として間に入ってモノを言う者はいません。「いくらなんでもこりゃやりすぎだろ?」チェングを睨みつけて言う山ちゃん。「チェングを入れたいからやったんだって、他の奴ら(従業員)が言ってたぜ」全員がチェングに注目。「いや、確かにヤツとは知り合いだけど、いくらなんでもそんなことオレが頼むわけないだろ」当然チェングの言葉は説得力に欠けます。チェングは目で委員長に助けを求めてますが、ここで下手を打ったらエスメラルダの評判はガタ落ちになってしまいます。黙って山ちゃんの話に無言で頷く委員長。他人事を装って適当に話を逸らそうとやたら話題を変えるジュリー。まあいずれにせよ、皆それほど真剣に関わろうとはしません。(人望ってのもあるしね。こういうときは日頃の行いがモノを言います)結局この夜の集会は山ちゃんの泣きを聞いてみんなで慰めるだけで終わりました。店を出たところで誰が言い出したのか、裏のバッティングセンターに行こうということになって、妙な一団はゾロゾロと歌舞伎町裏のバッティングセンターへ向かいました。皆押し黙ったまま歩いていますが、何故か山ちゃんもチェングも後に続きました。何もこんな夜中にバッティングセンターで遊ぶこともないだろうにと思いつつも、皆この騒動をどう収めて良いのかわからず、かといってここで一人帰るのも気が引けるし、といったところでした。委員長はアホらしくて遊びませんでしたが、確かオーティスやイサム、ジュリーなどがバットをぶんぶん振り回してはしゃいでおりました。根が無いヤツらですから見ていたやつらもそのうちに打ち始め、結局和気藹々とバッティングゲームになってしまい、山ちゃんの騒動はすっかり雲散霧消してしまいました。そのうち、一人二人と帰って行き、しまいに山ちゃんもあきらめて、結局ここで解散となりました。その夜チェングに電話した委員長。「ほんとに鎖でぶん殴ったのか?」「らしいな」「ちょっとやりすぎじゃネェか」「なこと言ったって知るかよ、俺が頼んだわけじゃないし」「やらせたんじゃないのか?」「ハコが欲しいって言っただけで、そこまでやれなんて言う訳ねぇだろ」「で、どうなんだ?ハコ取りできそうなのか」「ああ、たぶんな。山田には悪いけど今月一杯ってとこじゃないか」(お前も悪よのぉ~、ってまるで時代劇の悪代官と越前屋の密談のようでした)翌月からチェングがハローホリデーとB&Bを見ることになりました。マモルがチェングと共にB&Bに移り、そしてハローホリデーにはエスメラルダ総帥ジュリーが入り込みました。結局チェングも大した甘味を享受することなく、最後はエスメラルダの勢力に呑み込まれて行ってしまったといったところです。そして、この陰謀を画策した委員長は、サム岡田が起こした不始末を詫びるためと、トモミの後釜が見つかるまでの間金沢へ旅打つことになったのです。冬の北陸は寒かった。南方系の委員長は寒いところが苦手です。二週間ほど居ましたが、よい想い出は何一つありませんでした。
2005年10月28日
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当時、がむしゃらに勢力拡大を目指していたエスメラルダは、チャンスさえあれば軒並みハコ取りの闘志を燃やしておりました。また、一時合併の話まで進んだH君のグループはリーダーの死と共にそれ迄のチームワークが崩れ、個人がバラバラに仕事を取るようになっていました。もともとが個人を尊重する集合体でありましたから、特別な動きというほどのものではありませんでしたが、所詮人間なんてみな弱いものですから後ろ盾となる連合体、共同体がなくなると不安になるものです。そんな時、一度は合併話まで出たエスメラルダが破竹の勢いで快進撃を続けているのですから、自分たちも横で繋がりたいと考えるのは当然の成り行きです。新宿に進出してきたチェングは委員長としっかり裏で繋がりました。チェングは自分達のグループで頭ひとつ飛び出すために、委員長をパイプにしてエスメラルダと繋がってきたのです。委員長はチェング達グループの持つテリトリーへエスメラルダの食い込みを狙って繋がって行きました。お互いの利害が一致したわけです。この当時、チェングは池袋時代の同僚黒服がこぞって新宿に流れ込んできたこともあって、彼もまた新宿に新しい流れを作り始めていました。ハローホリデーのハコ取りがそうです。それまで新宿を牛耳ってきた連中には、ほぼ無名に近かったチェングの登場は意外な展開でもありました。そんな時代のB&Bのオープンは話が出た途端にハコ争奪戦の様相を見せ始め、まずはオープンDJとしてポップコーンの山田氏が動きました。当時新宿では絶大な勢力を持つカンタベリーグループ、そのメインビルである東亜会館でDJを張るということがどれだけの栄光であったかは、業界の人間にしかわからないステイタスでありました。しかもニューオープンともなれば、その名を売るには最高の晴れ舞台です。エスメラルダでもこのハコ取りを狙って動き始めましたが、古株が牛耳る新宿ではヒロシや花見では太刀打ちできません。特にこの頃のエスメラルダは業界を威嚇していましたから、古株DJ連中はヒロシを筆頭に若手DJ達を快くは思っていませんでした。噂ではインディペンデント・ハウスのジョイ吉野や、イサムも裏で動いているといったことがまことしやかに語られていました。またまた話がちょっと逸れますが、ある時レコード会社主催でDJ会議なるものが開催されたことがあったのですが、そこに集まったDJの三分の一以上がエスメラルダでした。まるで株主総会に乗り込んできた総会屋のようです。イサムちゃんやみつぐ氏など古株DJはみな一様に脅威を抱いたようで、その夜彼らからの申し出で懇親会というか親睦会が行われました。場所は、元ゲットの田吾作さんが区役所通りに開業したスナックでした。残念ながら名前は忘れてしまいましたが、よく昔の遊び人やDJ、業界人などが出入りしていた店です。(ちなみに委員長も深夜何度かおねーちゃんを連れて遊びに行きました)結局この懇親会、要は古株DJが若手を捉まえて説教を垂れるというような、威光を見せ付けるような飲み会に成り果ててしまいました。そりゃそうですよね、懇親会といったって若手のほとんどがエスメラルダなんですから、そこでイサムちゃんやみつぐが「お前ら、礼儀がなってない」とか「先輩に挨拶しろ」とか始めちゃったもんですから場は一気に険悪な状態になっていきました。若手にしてみれば自分たちが直接世話になった相手でもないし、店も違いますから仕事で顔を合わせることもめったにありません。この時ジュリーもだいぶ酔っていましたが、殆どが自分の子分みたいなもんですから良い気持ちになるのは当たり前で、「そうだぞぉ、お前ら、オレ達は苦労してこの業界を生きてきたんだぞ」みたいな妙な話に飛んで行ったりしてしまいました。単なる酔っ払いオヤジに成り果てていた先輩DJ達の説教に萎縮している若手たちを見ていて、遂に委員長の我慢もその限界を超えました。「あのさぁ、俺らだってさぁ、昔はこいつらと同じように先輩連中を乗り越えてやってきたんじゃないの?だって実力の世界でしょ。俺らだって実力があったから生き残ってんじゃないの?今更先輩後輩言っても始まらないんじゃない。実力のあるヤツが残る。ただそれだけなんじゃないの?」(カッチョ良い~、ってこれは実話ですよ)一瞬、座はしらけましたが、皆委員長の言いたかったことはわかってくれたようでした。別に良いカッコしようと思ったわけでもなんでもなく、昔から一緒に業界でメシ食ってきた者同志だからこそわかることを率直に言ったまでのことでした。実際ジュリーにしてみたところで、過去何人もの先輩や同僚を押しのけてやってきたわけですし、イサムちゃんやみつぐにしたって当時は生意気だのなんだのと言われながらもこうして生き残ってきたわけですから、実力あっての世界のはずです。とまあ、こんな伏線があってB&Bのハコ取りの話に戻るわけですが、エスメラルダとしても新宿のハコはひとつでも多く増やしたい時期でしたから、新規オープンというチャンスをみすみす逃す手はありません。「ロニー、B&Bなんとか取れないかなぁ?」ジュリーがそう言ってきたので委員長はこう答えました。「取る気なら取るけど、後で揉めるかもしんないよ」「山ちゃんのこと?」「うん、まあそれもあるけど、今エスメラルダの回りは敵ばっかりだからね」「でもやっぱり大箱欲しいよな」「ジュリーの覚悟次第だよ」「やっちゃおうぜ」勢いというのは怖いものです。元々勝気な性格のジュリーですから、普段見せる社交家風な顔とは反対に内面では好き嫌いがはっきりしていて結構冷酷な面もありました。委員長は早速チェングを呼び出して裏工作です。ハローホリデーのハコ取りのときも裏で協力する代わりに、自分の処のマモルの面倒を見てもらうという取引をした仲の二人ですから話はすぐにまとまりました。
2005年10月27日
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株式会社エスメラルダは順調に勢力を拡大して、委員長自身一体どのくらいの人数のDJを擁しているのかも把握できないほど次から次へと仕事をこなす毎日が続きました。この頃、地方都市でもディスコブームは浸透し始めており、企画や営業に関する相談事もよく持ち込まれました。石川県金沢のバナナビーチへ派遣したトモミは十分期待に応えてくれ、エスメラルダの信用も付き、近日オープンする姉妹店の面倒も頼まれました。更に茨城県日立市にオープンする「ピント」というディスコからも依頼があり、開業準備から携わることになりました。この「ピント」というお店は、ある輸入業者が並行輸入で仕入れたディスコ機材を販売しながらフランチャイズを狙っていたもので、すでに茨城県では水戸市に1軒開業しておりました。その肝心な機材というのが、映画「サタデーナイトフィーバー」の舞台となったディスコで使用されたそのままの機材というのが謳い文句で、田舎のオーナーを相手にした格好の商売といえそうでした。照明といっても天井からつるした円形スポットが回転するだけの、さほど目新しいものでもなく、確かに映画の中で使われているものと同様でしたが、肝心な床下照明もなく、DJブース機材とセット販売されていることが唯一のセールスポイントでした。素人ではこれらの機材を揃えるには専門家のアドバイスが必要ですし、参考となる店舗も近くにありませんからコスト的にリーズナブルな価格のセットは重宝されたのでしょう。ということで、今回は開業から立ち会うという話でしたので、社長のジュリー自ら委員長とヒロシを伴って茨城県日立市へ乗り込みました。上野駅から常磐線に揺られてたどり着いた日立駅は、田園風景が広がるとてつもない田舎でした。駅名からも解るように、ここは日立製作所が作った街であり、すべてがこの工場によって成り立っている土地でした。依頼主の日立ピントの専務の車で10分ほど走ると、商店街らしきものが見えてきました。まるで砂漠の中の街といった感じです。今までのイメージとはうってかわって、どこの町にもある立派な商店街がそこに広がっていたのです。映画館や大型スーパーまであるちょっとした繁華街でした。その商店街の中央に立つ雑居ビルの地下が日立「ピント」でした。未だ改装が終わっていない店内に入ると、件の業者が照明器具の取り付けや、DJブースの中のシステムの取り付け工事を行っていました。まず委員長たち一行はDJブースを覗き込み、機材を見せてもらいました。中央にミキサーがあり左右にターンテーブル、ポジションは通常のDJブースですが、ミキサーがちょっと変わっていました。フェーダーが横一文字になっており、左右に動かすことでターンテーブルの音源をクロスオーバーさせるという横型フェーダーでした。フェーダーを中央の位置に持ってくると、左右の音源が半々に被ります。更にターンテーブルとこのフェーダーはユニットになっており、フェーダーの上にはインディケーター、その上ミキサーの中央からはマイクが1本突き出ています。ジュリーはじめ委員長やヒロシも初めて見るタイプの機材にちょっと戸惑いました。特にジュリーや委員長は古いタイプのDJでしたから、所謂「ツナギ」をさほど重要視していませんでしたので大変陳腐なシステムに見えました。取り付け作業を行っていたシステム販売業者の社長にジュリーが紹介され、ここは未だ取り付けが完了していないので、先ごろオープンした水戸店を見て欲しいということになりました。上野駅から電車に揺られてようやく辿り着いた目的地から、再び業者の車に乗せられて小一時間ほどかけて水戸ピントへと出向きました。日立に比べて地方都市としては十分に大きな町で、ディスコもそれなりにお客が入っておりました。システム自体は無難なそれなりのもので特別目を引くものでもありませんでした。業者の社長はジュリーに「どうですか?」と尋ねましたが、ジュリーは例のごとく「音、悪いですね」とぶち上げてしまいました。こじんまりとした地方都市のディスコですから、音がどうした、照明がどうしたというほどのモノでもありませんが、俺らはディスコのプロだぜ、といった得意のハッタリでした。おかげで業者さんたちに置き去りにされてしまった委員長達一行は、またしても電車に乗って日立まで戻ることになってしまったのです。(やれやれ)午後9時を過ぎると一斉に店じまいしてしまう水戸の商店街はしんと鎮まり返っていて、なんとか閉店間際の蕎麦屋で暖かい蕎麦を啜って一息つきましたが、なんの因果でこんな寂しい木枯らしの吹く寒空の水戸駅でドンコウ列車を待たねばならないのか、新宿のディスコで華々しく活躍する花形DJ(笑)二人は凍てつく水戸駅で白い溜息を吐いたのでした。「おい、ヒロシ、電車来るのか?」「いや~、こりゃ田舎ですから1時間くらいは待ちますよきっと」「お前ちょっと時刻表見て来いよ」「何か懐かしいな、田舎思い出しますよ。ボクもこの常磐線で仙台から東京に来たんですから」「そんなとこで雰囲気出してんじゃねぇよ。このままじゃ三人とも凍え死ぬぞ」秋とはいえ、夜の茨城はもうすでに冬そのもので、三人はようやくやってきた鈍行に乗って日立駅へと戻って行きました。かくして日立ピントはDJ派遣と企画を任されることになり、1年契約のおいしい仕事にありつきました。東京に戻ったエスメラルダ幹部は早速、一番の問題である誰を送るかの人材選定に入ったのでした。余談ですが、この「ピント」のフランチャイズ構想は残念ながら水戸と日立の二店舗で打ち切りとなりました。このシステム販売業者さんは茨城県のパチンコ業界オーナーを狙っていたようですが、乗ってきたのは二社だけだったようです。ちなみにこの二社ともに地元ではちょっとした名士で、パチンコ屋、レストラン、喫茶店等など手広く商売をされていた在日の方々でした。しかし、さんざっぱらバカにしたこのディスク・システムですが、後年スクラッチの流行でこの横型フェーダーが一般的になっていくとは、この時のジュリーも委員長もまったく想像が付きませんでしたね。ってことは、このあたりの時代からすでに委員長達の感性はズレ始めていたのかもしれません。さてこうして地方都市のおいしい仕事をセコセコとこなしている間に、都内でも相当な動きが出始めていました。まずはハローホリデーを何故かチェングがハコ取りして、委員長との裏取引で当時エスメラルダの見習いだったマモルを送り込みました。続いて上野スパングルのオープン。ここは花見とホリを行かせて、後にM島を送りました。赤坂シンデレラも手中に収め、続けて新宿シンデレラも取りました。ちなみにこの頃の赤坂シンデレラには委員長の戦友テリーがいたらしいのですが、エスメラルダがハコ取りした時には既に戦死していたようです。(合掌)ここは中村マーちゃんからリト、そしてモリへと引き継がれていきました。新宿の方はサム岡田が入りました。そして更なるハコ取りはB&Bへと続いて行きます。(はっきり言って時期的な記憶が曖昧なので多少のズレはあるかもしれません)そしてこのB&Bが新宿DJ戦争仁義なき戦いの火種となったのです。
2005年10月26日
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昨日は久しぶりにファンキー・ドールズの名前が出てきたので、委員長の往年のライバル・ジョニーのエピソードをひとつお話ししておきましょう。この頃の委員長は髪の毛もさっぱりして、昼間はスーツなど着こんで会社ごっこに勤しんでおりました(委員長の場合はすべてゴッコです)が、夜は夜で相変わらずディスコの色に捲かれて脂ぎっちゃったりしちゃう頼もしい大馬鹿野郎でした。トゥモローUSAから引き連れてきた常連の中には委員長のファンなんぞもおりまして、更に新宿クレージーホースで新たに出来たご縁の若い娘などともヘラヘラしていたわけですが、ある夜二人組のおねーちゃん達にいきなり声をかけられました。カーリーヘアにチョイ厚化粧、委員長好みのこのおねーちゃん、なんとその昔高校生の頃にトゥモローUSAで委員長と一緒に写真を撮った仲だったそうで、無事ガッコも卒業し社会人となった今、改めて委員長に会う為にやって来たとのことでした。おーおー、それはそれはありがたいことです。すっかり美しいお嬢様になられてさぞや親御さんも喜ばれていることでしょうってなことで、早速お二人を六本木ナイトへお誘いした委員長でした。実はこの頃、ジョニーのバンドBIBが六本木に出ているということを風の噂に聞いていた委員長は、中々訪れるきっかけがなく躊躇しておりました。そんな時のおねーちゃん二人の訪問ですから、この機会を利用しない手はありません。靖国通りからタクシーをぶっ飛ばして一路六本木「最後の20セント」へ向かう一行でした。入り口で履物を脱いでお店に入った委員長たちの目の前では、すでにジョニー&BIBが演奏中でした。「ワ~イ、エム、シーエー、YMCA」手振りを付けて唄うジョニーの姿は昔に比べてひとまわり萎んだようでした。衣装も色あせたジャンプスーツ、ナチュラル・アフロヘアも随分とこじんまりとしていて、往年の輝きは見る影もありません。一体オレは何を期待してここに来たんだろう。踊り場の客にまるで媚を売るようにして唄うジョニーの姿は、今の自分自身を写す鏡のようでもありました。悲しかった。理由なんかありません。ただ悲しかった。ステージが終わってジョニーがテーブルにやって来ました。「ロニー、驚いたよ。久しぶりだね」「ああ、ここに出てるって聞いてたから・・・・」愛想笑いこそしてはいましたが、お互い続く言葉が出てきませんでした。「仕事何時に終わるの?」「次のステージで終わりなんだけど」「よかったらどっか行かない?」「そうだね、ここ出たところにピップスって店があるんだけどさ・・・」「ピップスなら知ってるよ。じゃ、先に行って待ってるから」とにかく一刻も早くその場を出たかった委員長でした。もう彼のステージを見たくなかったし、その場の店の雰囲気からとにかく逃げたいと思いました。連れて来た女の子たちも、入ったばかりなのにすぐ店を移る委員長を不思議に思っているようでしたが、これ以上ここにいたらこのわけのわからない感情に押しつぶされそうだったからです。六本木のメインストリート、雑居ビルの地階にあるピップスというお店は、今風に言うとビストロ、洋風パブ居酒屋のような趣で、店内にはサッカーゲームなどが置いてあり、店内のフロアーも客層あるいはお客の容貌で踊りを踊るスペースになったりする、当時としてはちょっとおしゃれなお店でした。特に深夜の常連客は近隣の同業者やアメリカ人を中心とした外国人なども多く、気分的にはちょっとした外国風な感じのお店でもありました。そんなお店、ピップスに入ったものの委員長の心は激しく動揺していました。理由はわかりません。久しぶりに会った戦友の顔を見て嬉しかったのと同時に、虚しく、そしてどうしようもなく悲しい感情は自分でもコントロールできません。一体オレは何を期待してジョニーに会いにきたんだろう。自身への問いかけはずっと続いていました。できればジョニーがここに現れないで欲しい。複雑な気持ちには理由なんてありません。感傷的とかセンチメンタルとかではなくて、胸の奥につかえた気持ちが自然に沸き起こってきただけです。未だにこの時の想いはしっかりと覚えています。委員長の期待通りジョニーは現れませんでした。閉店間際に店を出た委員長は女の子たちをタクシーに乗せたまま、一人歌舞伎町で降りてそこで別れました。わけもない悲しさだけに包まれた委員長は、ふらふらとそのままC子の働くクラブ「同期」に入って行きました。委員長のいきなりの訪問に驚いたC子。「どうしたんだね、こんな時間にぃ~」C子の清水弁が妙に心地よく心に沁み込んできました。「たまには一緒に帰ろうかと思ってさ」いつもと違う委員長の雰囲気を肌で感じ取ったC子は、何も言わず身支度をして委員長の腕を引いて表に出ました。「おなか空いてないかね?」「・・・・・・」「何か食べて行こう」未だ薄暗い明け方の歌舞伎町を抜けて、新大久保近くにあるナイト・レストランに入りハンバーグステーキを注文しました。C子はビールを頼んで一気に飲み干しました。「なんかあったのかね?」「いや、何にもないよ」委員長はC子の飲み残しのビールをコップに注ぎ、一気に飲み込みました。「どうしただね?」「たまにはこうゆう日もあるさ」「何カッコつけてるだね、この人は。なんかあったんならはっきり言いな」大きな目を緩ませて笑うC子の顔は一段と優しく委員長の眼に映りました。「こうしてオレ達も歳取ってっちゃうのかなあ」「何言ってる?」「オレは何にも変わってないのに歳は取っていくんだよな」「変わってなくないよ、あんただって随分変わったよ」「そうかな、オレはずーっと変わってないと思ってたんだけどな」「人間は知らないうちに変わっていくんだよ」二人のテーブルにハンバーク・ステーキが運ばれてきました。「わぁ、美味しそう。食べよう」一度知った美味しいハンバークの味はたぶん一生忘れないと思う。歳を取っても舌が覚えた味は一生消すことができないと思う。自分の中では変わっていない味だから、また食べたくなるんだと思う。そんなことを漠然と思いながら、C子と仲良くハンバーグ・ステーキを食べた委員長でした。(今日はちょっとマジな話になってしまいましたね)
2005年10月25日
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株式会社エスメラルダ設立。神谷町飯倉のオフィスビルに事務所を構え音楽に関する幅広い活動を開始しました。と云っても正式に登記した会社ではありません。いわゆるモグリの音楽事務所、プロダクションです。委員長も背広などを買い込んできてネクタイなどを首に捲き、毎朝9時に事務所に出勤するようになりました。もちろん夜はDJのお仕事や、地方のディスコへDJやダンサーの出前も取り扱いながら、正規の株式会社設立目指して頑張りました。事務所の実質オーナーF氏は事務机から応接セット、電話機器などの事務用品一切を取り揃えてくれました。事務所をお借りする条件はといえば、F氏が開業した商社(?)株式会社タートルの事務を代行するという、言って見れば事務所の電話番と管理でした。事務所開きはアチコチから花輪なども届き、風呂敷に包まれた「ご祝儀」を持って駆けつける黒服の紳士たちはいかにもといった方々ばかりでした。来賓のお客様が来るたびにF氏はネクタイ姿のジュリーをいちいち紹介してくれました。「あー、鈴木君、こちらがXX組の△○さん」といった具合に音楽業界にはあまり役立ちそうもないお歴々ばかりでしたが、その度にF氏が「若社長の鈴木君」と言って紹介してくれる姿は心強いスポンサーのようでした。これら大物来賓客に混じって、渡部氏を筆頭にレコード会社の面々も訪れてくれましたが、余りにも立派な事務所にみな大変驚いておりました。そりゃそうですよね。飯倉といえば立正佼成会の本部がある都内一等地。しかも交差点の角ビルです。地上階には銀行も入っているビルの一室、それも社長室まである大きなスペースに事務所を構えたのですからこれほどのハッタリはないでしょう。この時雁首を揃えたエスメラルダ幹部は、鈴木社長、ロニー営業部長、マネージャーのヒロシ、ホリ、花見、事務員のMちゃんの6人。華々しい晴れの舞台で業界の訪問を受けた面々でした。事務所の開業と同時にエスメラルダの所属DJは社員扱いとなり、給料も事務所で手渡すようになりました。事務所を訪れたDJの面々もこのハッタリにかなりビビってしまい、この後ディスコDJも含めタレント志願者が続々と訪れるようになりました。中でもかなりプロっぽいことをしたのが歌手志望の女性二人組でした。当時シンジが付き合っていた彼女がシンジを通じて事務所開業の話を聞きつけ、自分たちを売り出してくれないかと持ちかけてきたことがきっかけでした。早速業界に話を回してみると、クラウンレコードの某プロデューサーが興味を示してくれて早速デモ録りとなりました。さあ、ここでヨンタナ氏が再度登場です。アレンジャーの仕事も勉強中だった彼を売り込むチャンスでもありました。バックバンドとしてシゲル、石○君を招集、これにキーボードのスパンキーというアフロの娘を入れて即席バンド結成です。みな良い仕事をしてくれました。デモは「ナオミの夢」(出ましたヘドバとダビデ、覚えている人は五十路に手が届く方ですね)と「恋の仲直り(Reunited)」ピーチス&ハーブの二曲でした。歌唱力はまあまあといったところで特別目を引くものはありません。プロデューサー曰く、このタマで勝負するのなら「色気」しかないだろうとのことでした。年齢的にもすでに二十歳は過ぎていましたから、今更アイドル系では無理だろうということもあって、ピンクレディー以上の露出でもすればという話でした。エスメラルダとしても正規の事務所ではありませんから、彼女たちを抱えるだけの余裕はないので、後はあなたたち次第ですということになりました。シンジの彼女はやってみたいと言いましたが、パートナーの娘の方がどうも親の反対にあったようで、結局はお流れとなってしまいました。シンジも内心は反対だったようで、赤坂の東芝スタジオでデモを録ったという想い出話が唯一残っただけでした。もう一組、事務所を訪れた変わり者がおりました。ダンサー志望のニックという青年が、ある日委員長を尋ねて来たのです。彼は、ジャパニーズとしてデビューしたダンスチーム・インフォメーションズの元々のリーダーだったそうで、できればもう一度ダンサーズの仕事をしたいということで委員長を頼りにやって来たとのことでした。彼の話によると、赤坂のシンデレラでファンキー・ドールズを名乗ってダンス・ショーを始めたグループがいるそうで、それなら自分はバッドチルドレンを名乗りたいので委員長の許可を貰いたいという相談でした。往年のライバル、ジョニーのファンキー・ドールズのことも、委員長のバッドチルドレンのことも良く知っていた彼は、この二つのダンスチームに憧れて自分もダンサーを目指したという話を語ってくれました。悪い気はしないし、ちょっと嬉しかった委員長ですが、この時期ダンサーでメシを食うということはかなり難しい時代でもあり、一応、話だけは聞きましたが、シゴトがあれば紹介するということでお引取り頂きました。ところがこのニック、毎日事務所にやってきては委員長の傍を離れません。夕方頃にやってきてそのままウダウダと事務所で雑用などを手伝い、夕方の5時に事務所を閉めて夜の仕事場、新宿に向かう委員長にべったりと付いて来ます。新宿クレージーホースにも委員長の鞄持ちのように付いてきてはそのまま終電までウダウダしています。やれやれ困ったものです。こりゃあ早く何とか仕事見つけてどっかに押し込んでしまわないと一日中付きまとわれそうです。そんなややこしい数日が過ぎた頃、ヒロシがうってつけの仕事を拾ってきました。「横山エミーの歌手デビュー」グラビア・アイドルの彼女がレコードデビューするということで、プロモーションに男二人のダンサーを付けてはどうかという企画が持ち上がりました。曲名も内容も忘れましたが、ディスコアレンジなのでディスコ・プロモーションの仕込み依頼でもあったので、早速ニックを呼び出してねじ込みました。ダンサー二人はドラキュラ風のコスチュームで彼女に絡むという内容だったと思います。加えてインタビューを我らがジュリーが担当し、週刊誌やスポーツ紙に載るというので我エスメラルダにとっても恰好の宣伝になりますからとにかく派手に目立つようニックに指示した委員長、しばらくは都内のディスコを回るということで、これでようやくニックの呪縛から解放されることになったのです。(しかし変ったヤツだったなあ)
2005年10月24日
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かつてそうであったように、道楽者人生の更なる山場はある日突然にやってきました。それはジュリーが幼い頃兄のように慕っていたという、S氏との偶然の再会から始まりました。何十年ぶりかでジュリーが再会したというS氏は、数人の仲間と金融関係の仕事をしていて、これから新しい事務所を六本木に構える準備をしているとのことでした。事務所を開業するとなれば事務員や電話番も必要になりますから、それならエスメラルダに事務代行を任せるから、同居して会社を立ちあげてみてはどうかという話になったのです。まさに渡りに船、事務所を探していた委員長とジュリーにはもってこいの話でした。(上手い話は必ずオチがつくんですけどね。二人ともまだ若かったから)早速S氏がジュリーと委員長の二人を相棒のF氏に紹介してくれました。新宿歌舞伎町、普段エスメラルダが溜まり場にしている喫茶店「トゥモローエース」で初顔合わせが行われました。イタリア製ダブルのスーツに太めのネクタイ、金の指輪にローレックス、中々恰幅の良い落ち着いた紳士F氏は誰がどう見てもそのまんま、筋の人でした。また、そのひょうきんな話し振りはどことなく人をひきつけるカリスマ性があり、おとなしいS氏とは対照的にどことなくユーモラスな感じさえしました。委員長はどうもこのF氏の顔に見覚えがあり、それとなく聞いてみると間違いなく委員長の知っている方でした。もちろん委員長が一方的に知っていただけのことですが、まさかこんなところでこういう出会いをするとは思ってもいませんでした。その昔、ツッパリ修行に明け暮れていた高校生の頃、ボンタンなどを仕立てに出かけたテーラー並木の柱に刻まれた文字「国士F参上」の文字が目の前にいるF氏の顔と重なりました。そうです、当時ツッパリ少年の間で勇名を馳せた国士舘高校の超有名人F氏その人だったのです。なんのこたぁない、不良高校生のボスはそのまんまプロの世界にデビューして、現在はS会に所属する中堅幹部でした。委員長が知っているくらいですから歳だって未だ若いのに、すでに落ち着いた風格を漂わせているF氏に親近感の湧く委員長でもありました。ふ~ん、それじゃ金融業っていうのもそれなりのお仕事ってことですね。心の中でそう思った委員長、所詮俺達が関わるのはこんな感じの人でしかないんだろうなぁ、などと自身で納得しつつも、乗りかかった船ですからとにかく船出と相成りました。「じゃあ、皆で事務所見に行こうか」そう言って店を出るF氏の後に続く委員長とジュリーは、近くの駐車場に止めてあったロールスロイスに乗り込むと一路六本木へと向かいました。麻布を抜け神谷町飯倉の交差点、角地にあるビルを指差してF氏が言いました。「このビルの4階なんだけど、まだ何も入ってないから要るものがあったら言ってくれれば用意しとくから」道路を隔てて対面にはヨーロッパ車のショールームがありました。こんな一等地にいきなり事務所出すってのも玄人っぽいよなぁ~、などと感心しつつビルに入ってまたも驚きでした。部屋は家具こそ入っておりませんが、一般事務スペースの奥には社長室があり、ちょっとした商社のような趣でした。「どうだい、ここで君達の仕事はできそうかい」飄々と語るF氏は部屋の中を歩きまわりながら、事務机や応接セット、電話の数などをS氏と相談しています。委員長はジュリーと顔を見合わせ、余りにも急なことの成り行きに戸惑うばかりでした。その夜新宿の喫茶店に集合したエスメラルダのメンバーは、この急激な話の進展をジュリーの口から聞かされ目の色を輝かせました。「良い話ですけど、ヤバくないでしょうね」ヒロシが心配します。そりゃ誰だってこんな上手すぎる話を丸呑みできるはずがありません。「まあ、どのみち俺たちだけで元手なしで何かを起こそうとすれば、それなりにヤバい話にも乗らなきゃならないだろうし、博打にはリスクはつきものってことだよな」委員長がそう説明すると皆納得したようでした。「これはジュリーの知り合いが持ってきてくれた話だからオレも乗ったんで、仮に失敗してダメになったとしてもオレ達が失うものなんて何もないじゃないか」更にそう付け加えると、心持ちみんなの顔が晴れ晴れとしていくようでした。「さて、こうして事務所を持つとなると、今までのように皆でDJをやりながら片手間の仕事というわけにもいかなくなるから、ここでマネージメントの担当者を決めたいんだけどどうだろう?」ジュリーがそう言って組織をまとめに入ります。「今までの動きから見て、ヒロシと花見に営業に回ってもらおうと思うんだけど、ロニーはどう思う?」少々不服気味なヒロシでしたが、委員長も含め全員が同意したので渋々ながらも受けざるを得ないヒロシでした。花見キョンはすでにレコード会社の代行プロモーションの仕事を着々とこなしていたせいか、本人の意思とも合致して快諾しました。「あとは事務なんだけど、経理というか簿記の方はチーちゃん(ジュリーの彼女)の親父さんが税理士なんで面倒見てもらうことにするとして、事務所で働く事務員がいると思うんだ。そこで、今まで手伝ってもらっていたMちゃんを正式にパートで雇おうと思うんだけどどう思う?」Mちゃんは今までボランティアで手伝ってもらっていた女子大生ですが、その並々ならぬ奉仕の姿勢はメンバー全員が納得するほどの活躍ぶりでしたから即決です。本人の意思を確認しなくて良いのかなとも思いましたが、ジュリーがそこまで言うのだから内諾は取れているのだろうと納得した委員長でした。(元々ジュリーのファンだからね)この組織作り、人選に間違いはなかったのですが、次第に人も増えて所帯もどんどん膨らんでいくと当然の成り行きで派閥が生まれていきます。どんな団体や組織でもみな同じです。人間が群れて集まると必ず仲間内で衝突が起きるのが当たり前で、これに損得勘定が加わるから尚更やっかいなことになります。24歳の二人を頭にして20歳前後の後輩が追随する組織ですから当然といえば当然です。ただ、ディスコがあるから自分達の存在があるという原理原則にまで気付くにはまだまだ若い組織でした。喩え店は潰れてもディスコ業界はずっと続いていくものだと皆信じていましたからね。
2005年10月23日
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1979年夏。企画事務所エスメラルダは幸先の良いスタート切りました。ところがこれと前後して立川スタジオ5から火の手が上がりました。って、冗談じゃなくて本当に小火を出してしまったのです。さすが温和な新○社長もこれには辛抱できず、その日で店は閉業、従業員は全員即日解雇、後の話はすべて地元の△○組を通すようにと言い残して新○社長は二度と姿を現しませんでした。路頭に迷ったチャーリーやシンジは新宿の委員長の元へ相談にやって来ましたが、委員長としても仕事の世話はしたけど、自分たちが招いた不始末までは面倒見切れません。結局これでチャーリーとも縁切りです。可哀想ではありましたが、委員長自身もこれから先どうなるか判らない状態では相談に乗るほどの余裕もありませんでした。シンジはそれなりにDJの仕事も覚えたようなので、エスメラルダで取り込んで次の仕事を探す段取りをすることにしました。捨てる神あれば拾う神あり。一週間ほどして、なんと驚いたことに立川北口に新しいディスコがオープンするという話が舞い込んできたのです。早速マネージャー役のヒロシと花見キョンが出かけていってハコ取り成立。立川北口ディスコ・エモンドラえもんみたいな名前ですが、当時はエモン・グループといって立川ではビルも持つ、名の通った会社でした。オープンDJはシンジを頭にDJデビューのユウジが入り、これでシンジも委員長に続いてディスコ業界にドップリとはまっていくことになったのです。しかしローカルの仕事はギャラも高く、大した知名度も必要ないのでピンハネ業にはもってこいの美味しい仕事でした。しかし委員長もこの79年の夏はビータ(旅)が多かったですね。とにかく仕事を取ってくることに異常な執念を燃やしたジュリーは、手当たり次第に来る話を受けていきましたから委員長の出番もやたらとありました。まずはエスメラルダの名前を売ることが先決でしたから、大きなスポンサーの話にはまず委員長が出張って行ってハッタリかますみたいな、往年のコンビの面目躍如といったところでしょうか。千葉鴨川のナメガワ・アイランドは屋外のオープンDJでシンジとタッグを組んで出かけました。シンジがステージの上手にあるブースでサラを回し、委員長はステージでMCとDJをやりながらお客と踊るという、ちょっとしたパフォーマンス・ショーみたいなものでした。ここでジョイントしたのがタヒチアン・ショーだったんですけど、彼らの演奏する音楽が当時ディスコヒットしていたボヤージというグループのジャングルって曲の中に入っていたメドレーと同じだったんで驚きました。(ケチャックダンス?とかいうタイトルだったかなぁ)千葉から戻ると、今度はユピテル・レコードからイベントの仕込み依頼で北海道へ行くことになりました。当時カラオケ機器で当てたユピテル工業が幾つかのマイナー・レーベルを抱えてレコード製作販売に乗り出し、偶然にも北海道のディスコでマイナーヒットが出たという話から、ダンスコンテストのイベント企画の依頼が持ち込まれたのでした。曲はシンデレラというグループの「赤い靴」というポップなディスコサウンドで、たまたま北海道に「赤い靴」というディスコがあり、この店のテーマソングに使っていたものが近隣のディスコで人気を呼ぶようになったようでした。オリコンの地方チャート、北海道の部で上位ランキングしたので、これを機会に全国ヒットを狙うという企画でした。内容はディスコ「赤い靴」とタイアップでダンスコンテストを行うというありきたりのパターンではありましたが、なんと東京で予選を行い、勝ち抜いてきた参加者を集めて北海道で決勝大会をやるという、もの凄いヤラセでした。この仕事を持ってきたのはMC役のマイク越谷さんでしたが、踊りと来れば委員長=エスメラルダですから今後お互いの利益のためにもここは一番委員長自らの出番となりました。つまり、この予選通過者の仕出しが委員長の仕事ということです。しかし曲が曲なので、適当に東京のディスコ・ファッションを散りばめたコンテスト参加者を集めねばなりません。オカマあり、テクノあり、ファンキーありという具合にバラエティーに飛んでいないと、決勝大会の話題にもなりませから、エキストラのオーディションなんぞもやったりしました。ギャラこそ出ませんが、3泊4日北海道の旅に連れて行ってもらえるとなれば、それはそれは暇を持て余した道楽野郎たちが続々と集まって来ました。そして男女混合5人ほどの選抜チームが結成され、まずは函館地区予選、札幌決勝大会へと進んで行ったのです。これが縁で、委員長はユピテル・レコードのライナーを幾つか書かせてもらったりしました。札幌から戻ってくると、今度は九州長崎のディスコがオープンするので踊れるDJをひとつ頼みます、ってな具合でまるで蕎麦屋の出前のようでした。長崎は島原半島、こんなとこでディスコやって客が来るのかって処でしたが、偶然にもオーナーと委員長の姓が同じだったこともあり、大変な歓迎をして頂きました。駆け足のような時代のたった10日間ほどの滞在でしたが、きちんとしたご挨拶もないままそれっきりとなってしまい失礼致しました。二十数年前のことではありますが、この場をお借りしてあらためて御礼申し上げます。天草フェリーに乗れなかったのが心残りでしたが、一家ご自慢の焼肉、活き魚料理、海水浴、更にお別れパーティーには家族のバンド演奏と、本当に素晴らしいおもてなしをして頂きました。また、ホテルの前にあった掘っ立て小屋のストリップショーも楽しかったです。(バカヤロウ!)お客さんの中にトゥモローUSAの常連さんがいて声をかけられたのにも驚きましたが、みな夏休みで帰省されていたのですね。(やっぱ新宿は凄いと思いました)1日1回のダンス・ショータイムを大汗かいて踊った後の委員長に、「暑かろう?」と言って女の子が差し出してくれたハンカチは新宿では味わうことの出来ない優しさが滲み出ておりました。おどみゃ~島原の~(島原の子守唄)のフレーズもこの時初めて聞きました。天草四朗の歴史も未だ興味が尽きません。ということで、委員長のディスコ人生の中でひときわ印象深い長崎県島原の想い出でした。日本列島北から南まで大活躍の委員長でしたが、この他にもレコード会社の代行プロモーションを組織的に行うシステム作りも手がけました。これは自主制作盤を作った時の経験を生かし、エスメラルダのメンバーを総動員して都内全域に拡大させていきました。有線放送の電話リクエストなどは10円作戦と名付けてメンバーに1日1回リクエストをかけさせたり、ディスコ・プロモーションも試聴盤の配布と共に必ずその場で回してもらうDJへの個人アタックなども行いました。結果的にこのディスコ回りが新たなハコ取りに大いに役立ったわけで、組織的に活動することのパワーというものを実感した委員長でした。更に日本フォノグラムの渡部氏なども、その人脈から色々な仕事を拾ってきてくれました。エレクトーン教室の発表会コンサートをディスコ風に企画し、MCをDJスタイルでやったり、邦楽の新人アイドル歌手のプロモーションにディスコ・ダンサーズを使ったりなど、他業界への食い込みも徐々に行っていったのです。トゥモローUSAの崩壊から何とか立ち直り始め、いよいよエスメラルダという団体が認知されるようになって来たのは、夏も終わり秋風の吹き始めた頃でした。そしてこのエスメラルダは、ここでまた大きな山場を迎えることになります。
2005年10月22日
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1979年初夏、企画事務所エスメラルダが設立されました。RCAレコードK部長や日本フォノグラムの渡部氏も出資するという話も出ました。とは云うものの、事業内容もわからない会社では投資の対象にもなりません。早速委員長が無い頭を絞って事業計画書を作りました。会計収支も無い単なる会社設立企画書でしたが、新宿の小さな会議室を借りて株式会社設立準備のための緊急ミーティングが行われました。ジュリーの後ろ盾である二名の他にもレコード会社洋楽宣伝の関係者が数名出席して、それなりに会社設立準備委員会のような会議となりましたが、最終的には「何をして利益を出すの?」という非常に単純な質問がでるような稚拙な内容でした。当たり前ですね。毎晩ディスコでドンちゃん騒ぎしていたような奴らが、いきなり畏まってネクタイしてみたところで世の中それほど甘くないってものです。しかも相手は、音楽業界とはいえきちんとカタギの生活をしている方たちばかりです。ディスコダンスや、SOUL、ファンク、ディスコヒットの話には耳を傾けますが、会社設立や営業に関しては十分に知識も経験もある方たちですから、遊び人の戯言を本気で聞いてくれるわけがありません。しかも企画書には肝心の売上見込みとか、経営理念のようなものは全く無く、小手先の金儲けみたいな企画ばかりです。これで出資しろという方が無理な話で、1時間程度の会議は何の結論もないまま終わりました。「もういいよロニー、オレ達だけでやろうぜ」今更ジュリーが言い出すまでも無く最初から見えていた結果です。いずれにせよ、もう動き出した以上は止めるわけにも行きません。新宿歌舞伎町、モナミビル5階「クレージーホース」に収まったジュリーと委員長はここで後輩の育成に力を入れました。(って、ピンハネの合理化ですね)要はひとつでも多くのハコを取ってDJを派遣させることが当面の目標です。トゥモローUSAの崩壊は同業者であるDJ連中にもかなりの衝撃を与えたようで、野次馬根性からかアチコチのDJたちが頻繁にクレージーホースに出入りするようになりました。まずは階下のムゲン、階上のポップコーン、チェスターバリー、ミルキーウェイなどなど、古株連中が陣中見舞いのように御機嫌伺いにやって来ました。もちろん彼らの関心は何と言ってもジュリーが立ち上げた会社「エスメラルダ」に尽きるわけで、噂が先行するこの業界では早くも注目を集めていました。誰しも考えることは同じで、上手い話なら俺も一枚咬ませてくれみたいなことで集まってくる奴らが殆どでした。特にポップコーンの山ちゃんなどは年齢も年齢だし、できることなら一緒に組みたいなどとも云って来たりしました。DJだのなんだと言ったところで所詮は店がなくなれば失業するわけで、あれほどの権勢を誇ったトゥモローUSAでさえ脆くも崩れ去る様を目の当たりにして、明日は我が身と切実に感じた連中も多かったのではないでしょうか。誰もが皆将来には一抹の不安を抱えていましたから、会社を立ち上げるなどという話には目ざとく乗ってくるのも仕方のないことです。立ち上げた当人である委員長たちにしてみればせざるを得ない、今を生き延びるための貧乏人の浅知恵のようなものでした。ですから起業に対する思い入れ、経営理念や営業方針など考えるどころの話ではなく、今の生活をどのようにして維持させるかという切羽詰った状況でした。傍から見れば業界の異端児のような印象も持たれたりしましたが、決してそんな大そうなものでなく、目的は現状の手取り収入をいかにして維持させるかということに尽きました。まあ、後見人の皆さんが相当に支援をしてくれたおかげで、瞬く間にエスメラルダのハコ取り作戦は成功し、派遣DJが追いつかないようになっていきました。クレージーホースは、当初ジュリーとロニーの名前でUSAからの常連客を相当引っ張りましたので、それなりにハコ取りの評価も高く当面はエスメラルダの拠点となりました。ここから先は余りにも目まぐるしい事態が続いたので、時代や店、人名の記憶が曖昧ですが適当に整理してみましょう。新宿クレージーホースジュリー、ロニー、サム岡田、ホリがシフトで入り、見習いとしてユウジ、マモル、アクタローの三人が付きました。ワンプラスワンヒロシ、トモミ、リト高田馬場リチャード三世花見キョン、モリここでブルさんことナベちゃんが講師となりDJの養成講座を開きました。ここに集った面々が後に地方のディスコ等へと派遣されていくことになります。スタートはこんな感じでしたが、この後地方も含めエスメラルダの快進撃は続きました。ちなみにブラザー・ジョーは会社との正式契約があったので、期間満了まではUSAに残っていました。USAの後すぐに改装工事に入ったようですが、どうも委員長は想い出したくないという無意識からなのか、崩壊後の記憶が全くありません。本当に覚えが全然ないのです。頭の中で自らの記憶を自ら抹消してしまったのかもしれませんね。さてエスメラルダがスタートしてすぐはもちろん事務所も無く、昼間の連絡先が無いのも不便と言うことになり、たまたまジュリーのファンクラブのような女の子二人がボランティアを買って出てくれたので、当面は彼女達に事務と経理を任せることになりました。今なら携帯やメールがありますが、当時はせいぜいポケベル、それもただピーピー音がなるだけで近くの公衆電話を探して連絡するというようなシロモノでした。(それでも当時はかなり便利だったですよね)このポケベルの中継点も彼女達のアパートの電話を使わせてもらい、なんとか会社設立に向けて着々と準備を進めて行ったのでした。いかにも水商売って感じの公私混同、立ってる者なら親でも使えってくらいグチャグチャなスタートを切ったエスメラルダでしたが、ここで地方の仕事第一弾がやって来ました。金沢のバナナ・ビーチというところから派遣DJの依頼が舞い込んで来たのです。なんと話はマイク越谷さんからで、地元金沢でプリンスホテルも所有するという相当な名士「寿観光」の部長経由でした。さあ、初めての地方派遣、誰を送るかという話になって、集められた若手DJ達は内心ドキドキです。そりゃ大方の若手は地方からの上京組ですから、自分の故郷でもない地方に行きたがるわけがありません。とは云うものの、後々のことを考えると適当に見習いDJを送るわけにもいかず、それなりの人間を用意しなければなりません。緊張の時間が流れます。「金沢って海ある?」沈黙を破った突然の質問はトモミです。「サーフィンができるんだったら俺行っても良いよ」「日本海だけど、海はあるよ」花見キョンが答えます。季節はこれから夏ですから、3ヶ月の約束でトモミの派遣が決定しました。エスメラルダDJ派遣業務第一弾は石川県金沢市のディスコ「バナナビーチ」でした。
2005年10月21日
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ダンサーからDJ、そしてバンドと委員長の歴史はそのままトゥモローUSAの歴史でした。その歴史がある日突然なんの前触れもなく終了してしまったのですから、これほどの一大事はありません。しかも、レコードデビュー、ジュリーとのコンビ復活、後輩DJを従えグループ結成、プライベートでもまさに絶好調というような時期に、いきなり足払いをくって転がされたようでした。もうすぐ迎える24回目の誕生日を前にして、委員長の人生は行き止まりにぶち当たってしまいました。小林社長も日が経つに連れてコトの深刻さに実感が現れてきます。全員をワンプラスワンで引き取ると言っていましたが、トゥモローUSAの半分にも満たないキャパではこれだけの大所帯を抱え込むのは現実的に不可能です。結果的には人員整理となります。従業員の方はまずバイト社員がはずされ、社長から説明を受けて転職が出来るものは店を移って行きました。DJも人数削減が言い渡されました。1ヶ月は保証するが、このままワンプラスワンに残ったとしてもUSAでのギャラは保証できないということでした。このニュースをいち早く受けて、立川スタジオ5の新○社長が声をかけてくれました。「30出す」ってこの社長、キャラは全然変わっていません。委員長はジュリーと違い流転系の道楽者ですから、すぐに職を失ったところでさほど生活に困ることはありません。強いて言えば楽器貧乏、心配なのは毎月のクレジット支払いくらいのものです。C子も「それなら音楽活動に専念したら」と言ってくれました。心強い言葉を受けて逆に闘志が湧いてきた委員長でした。城の明け渡しから一週間が過ぎようとする頃、ようやくいつもの委員長の道楽者魂が戻り、なんとか立ち直り始めました。毎日不安と無気力に苛まれながら通っていたワンプラスワンの事務所でしたが、この日決意も新たに全員を集めて采配を振るうことになった委員長でした。「ここで頭が倒れたら元も子もないから、まずはジュリーのことを優先させよう」委員長の意見に誰も異存はありませんが、ジュリーを優先させるといっても皆今ひとつ意味を理解できません。「まず、今、職を失ってすぐに生活に困るのはヒロシだけだから、ここ(ワンプラスワン)はジュリーとヒロシに残って貰う。残りはオレについて一旦立川に移り、転職の手立てを考えるってことでどうだろう?」実際には高田馬場のリチャード三世や、新小岩のピラミッドなど、潜り込めるハコもあったので、新宿から都落ちするつもりなら取り敢えずは職を失うことにはなりませんでした。と、ここで友情大好き男のジュリーが一世一代の大見得を切りました。「そこまでロニーが言ってくれるのなら、オレも本気でハコ取りに動くからいっそのこと一気にカンタベリーと勝負しようぜ」どん底で繋がった友情にウソはありません。たとえそれが一時の感情であったとしても、全員の心がひとつになった瞬間です。傷つき飢えているときの団結力は、その目標を目指す強い絆で結ばれます。そしてその団結力で目標に近づき、飢えが満たされるに従って人の心は病んでいくということを知ったのはずっと後のことでした。何かに張り合うということは、人の人生に新たなパワーを注ぎ込みます。競争やゲームの原理です。加えて城を取られたという屈辱はより一層のパワーとなって溢れ出ました。このままじゃ絶対に終わらせないという決意は今までの成り行きからではなく、委員長自身が意思を持って鈴木昇二という男を相棒に選んだ決断でもありました。高校を卒業してディスコ業界にドップリと浸りきり、好きこそものの上手なれ、と何とか運にも恵まれここまでやってこれた委員長でしたが、「明日の保証は何もないのだ」そう天からの声、戒めを受けたような人生の変わり目でした。どうせこの先まともな仕事ができるような人間じゃないし、こうなったらいけるトコまで行ってみよう、そう割り切った委員長でもありました。年齢的にもアイドルみたいなことでメシが食える時代は終わっていますし、色物や奇をてらった売り方で生き残るにはすでに限界に来ています。どのみちこのままカタギの仕事に就く気も起こりませんから、それならジュリーと運命を共にしてみようと云う気になっていました。早速ジュリーはハコ取りに動き、委員長はH君のグループとの合併に向けて交渉再開、トゥモローUSA崩壊の衝撃から二週間目のことです。ところがここで再び衝撃のニュースが飛び込んできました。H君が交通事故で死亡したと云うのです。余りにも唐突過ぎる話で俄に信じ難いことでした。「ジュリー、どうする?これじゃテリトリーも広がらないし、ハコ取りも期待できないよ」合併交渉は中途半端だっただけにダメージは少なかったのですが、都内のハコを押さえるという意味では大きな繋がりを失ったことになります。「この話はこれで打ち切りにしよう。後は俺たちだけでやろう」そう強気のジュリーでしたが、この時すでに新宿クレージーホースのハコ取りを決めていた裏づけがあっての発言でした。「ギャラは落ちるけど、まずは本拠地がないと動けないからな」「で、誰が入るの?」「一応ハコの条件ではオレが入らなきゃならないんだけど、オレは外で動くから現場はロニーが仕切ってくれよ」「オッケー解った」「ギャラのことなんだけど、たぶんこれじゃやっていけないと思うから、事務所を作って一旦そこにハコのギャラ集めて、それで分配するってことで良いよな?」要はピンハネしようってことです。当時のジュリーは業界でもかなりのギャラを取っていましたから、その生活を維持させるためには仕方のない苦肉の策だったと思います。そして、クレージーホースのハコ取りが決まった日、グループは田無のジュリーのウチに集合しました。「いいか、これからオレとロニーで事務所を作るから、契約したハコのギャラは一旦事務所に入れて、お前らのギャラは事務所から支払うようになる」一方的と言えば一方的な通告でしたが、皆今の仕事はジュリーあってのものですから誰一人異存のあるはずはありません。「ギャラの比率は後で発表するけど、取り敢えずオレとロニーが頭で五分五分。後はキャリアと仕事の内容で決めるから」「いや、ジュリー、チョット待ってくれよ。ジュリーとオレが五分ってのもおかしいと思うんだよな。事務所の社長はジュリーなんだから、オレとも序列を作らなければおかしいだろ」「ロニーには現場の方を見てもらい、オレはどんどん仕事を取ってくるから五分で良いと思うんだ」これはジュリーの友情だったと思います。そしてもうひとつの理由は、これから先は一蓮托生、ピンハネの共犯者だぞという意味です。「ところで事務所の名前、会社名はどうする?」ジュリーのネーミングのセンスを知っているだけに嫌な予感のした委員長でした。一方的な話であまりにも急展開すぎる成り行きに一同は沈黙です。「サンタ・エスメラルダの大ヒットに肖って、エスメラルダってのはどうかな?」「悲しき願い」のリバイバルヒット、ディスコカバーで大爆発したサンタ・エスメラルダは日本フォノグラム社、渡部ピカイチ氏が仕掛けたメガヒットでした。
2005年10月20日
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歌舞伎町の入り口近辺、靖国通りから西口へ抜ける大ガードから吹き込んでくる南風の匂いを感じるようになると、それは甘い蜜の香りにも似た夏の始まりを知らせるイントロダクションでもありました。また今年も夏がやって来る。得も知れぬ期待感はちょっとした誘惑にも似て、何かを期待する道楽者の夏はもう目の前まで来ているという感じでした。そんな委員長の甘い期待とは裏腹に、時代は迫り来る新しい波に今まさに呑み込まれようとしていました。その日、いつものように従業員用エレベーターに乗ってトゥモローUSAに出勤した委員長は、フロントの周りに見慣れない黒服が数人立っているのに気がつきました。更にDJブースに向かうホールの通路を進むと、従業員の数がやたら多いのが気になります。なんとなく店全体に緊張感が漂っているのを感じつつも、DJブースに入るといつものようにリト君がサラを回しています。「リト、なんか変じゃない?」「アア、ナンダカワカラナイケド、オレガキタトキカラ、チョットヘンナンダヨ」なんとなく妙な雰囲気でしたが、それでもいつものようにお客が入りいつも通りの営業に入ります。続いてブラザー・ジョーもやってきましたが、もともとホールにはあまり感心のないジョーは相変わらずオーバー・アクションでHERE WE GO!などと叫んでおりました。8時を回って、ようやく我らがチーフDJジュリーの登場です。「ロニー、何があったのよ?なんかヘンじゃない?」「ああ、オープンからずっとこんな感じなんだけど、見慣れない従業員が多いよね」「オレ、糸数さん(店長)に聞いてくるわ」そう言って社長室に入っていったジュリーですが、中々戻って来ません。深夜番のサム岡田も出勤してきて、これでメンバー全員が揃いましたが、ジュリーは相変わらず社長室に入ったまま出てきません。皆不安な気持ちを抱きつつもいつもどおりのパートをこなして行きます。そこへなんとカンタベリーのオーティス中村がやって来ました。過去一度も遊びに来たことのない彼の突然の訪問に益々動揺する委員長たち。オーティスはDJブースに寄って軽く挨拶しただけでフロントへ立ち去りました。一体どうなっているのか皆目見当がつきません。ようやくジュリーがブースに戻ってきました。仏頂面したジュリーはサム岡田にDJを任せて、委員長を楽屋に呼び寄せました。「売っ飛ばされちゃったよ」吐き捨てるようにジュリーが言いました。「カンタベリーに売っちゃったんだってよ」これで全ての謎が解けました。「社長は?」「オーナーと話しているらしいんだけど、俺らもこれでお払い箱だな」「社長が身売りしたなんて信じられないな」「売ったのはオーナーだよ。○億キャッシュだってよ」「社長は反対しなかったのかな」「社長ったって、大株主はオーナーだから力はないんだよ」意外な展開というか、思ってもみなかった結末はまるで夢でも見ているようでした。取りあえず下階のワンプラスワンに全員移動ということになりましたが、こうなったら持ち出せるモンは何でも持ち出そうってことになりました。とは言うもののレコードくらいしか持ち出すものはありませんが、全員で手分けして運び出しました。フロント近くでは検問のようにニッシンの黒服が目を光らせていますが、「私物です」と大嘘ミエミエながらせっせと引越しです。ワンプラスワンの小さな事務所に集結したジュリー・ファミリーは、早速今後の対策を検討します。「社長との話では、当面は全員ここで面倒見るって言ってるけど、こんなにゾロゾロDJばっかりいてもしょうがないだろ」ジュリーの話では、とにかく一旦はこのまま全員をワンプラスワンで引き取るということになっているようでした。ヒロシやトモミも相当な動揺を隠せません。いきなり親が死んだようなものですから、不安と言うよりは考えがまとまらないのは無理ないことです。とにかく全ての話がきちんとついてからゆっくり考えようということになり、ジュリーも委員長も一旦はトゥモローUSAの仕事に戻りました。フロントではUSAの糸数店長、須貝主任やその他黒服がニッシンの黒服と対峙しています。須貝さんはかなりテンションが高まっていて、一触即発状態、エレベーター前でカンタベリー系の黒服とガンの飛ばし合いになっていました。DJブースではサム岡田がサラを回していましたが、アップナンバー、スロータイムと逐一フロントから指示が届き、その通り従わなくてはなりません。その様子を見ていてジュリーが切れそうになったところで、フロントからチーフDJの呼び出しがかかりました。「ジュリー、オレも一緒に行くよ」ジュリー一人に行かせるのも心配でしたし、最後の最後まで見届けたいという気持ちから一緒に出向いて行きました。フロントにはカウチとソファーが置かれ、従来のレイアウトがすでに変えられていました。ソファーには斜に腰掛けた貫禄のあるおっさんが待ち構えていました。そしてその横にはオーティスが立っています。「ボクがチーフDJの鈴木です」おっさんはジュリーと委員長の顔をジロっと見て静かな口調で一言。「おまえら、相当に腕の良いDJらしいなぁ」えっ、と言う感じでしたが、これに答えてジュリーのいつものハッタリが飛び出します。「はい、みんな個性ある一流のDJばかりですから」「そうやない、こんな少ないレコードでよう勤まるなぁ言うとんのや」そういうことですか。こりゃ一枚上手と言うか、こりゃかなりヤバイ雰囲気です。「それはもう皆キャリアもありますし、実力も一流ですから」どうも困ったヤツです。ジュリーってのはイマイチこういう駆け引きがわからないところがあります。「これがお前らの仁義かい」静かに、しかも凄みのある言葉でジュリーを見据えた目は相当な迫力でした。おっと、やっぱりこのおっさんはかたぎではなさそうです。ここでこのやり取りの始終を見ていたオーティスが見かねて助け舟を出してくれました。「オレも手伝うからブースの整理しようよ」そう言ってジュリーと委員長の肩を押すようにしてその場から連れ出してくれました。無言のまま三人はブースに行き、オーティスがサムに「代わろう」と言ってDJを引き継ぎました。フロントのおっさんはニッシンの部長で「人斬りマサ」と呼ばれる有名人だったそうで、確かに迫力のある方でした。うまくオーティスが取り持ってくれたから良いようなもので、あのままジュリーとおっさんが言い争いにでもなったりしたら、USAの黒服連中も黙ってはいなかったでしょうし、下手したら乱闘なんて事態にもなっていたかもわかりません。心優しいオーティスが一番で乗り込んで来てくれたことが幸運だったと言えるでしょう。委員長は未だオーティスにこの時の借りを返せずにいることが心残りです。人斬りマサこと高橋部長は既にお亡くなりになられたそうですが、オーティスは未だ健在、NETで再会を果たしましたので近いうちになんとかこの時の借りをお返ししたいと思っています。(とは言うものの僻地に住んでるもんで中々実現できませんねぇ)さて城を明け渡すことになった小林社長以下USAの社員は全員ワンプラスワンに移動することになりました。そのままカンタベリーの社員となって残ったウェイターも数人いました。ニッシンの従業員と先輩後輩の関係にあった数名のウェイターが仲間を引き連れて移籍しました。須貝主任は辞表を出しました。ワンプラスワンの規模を考えれば、社長に負担をかけたくないというつもりだったようです。もともとギャンブラー志向でしたから、これを機会に吹っ切ったってとこでしょうか。最後はエレベーター前でカンタベリーの主任といざこざもありましたが、この時の須貝さんはカッコ良かったですね。「俺はこの会社(小林商事)も辞めたし、もう誰にもとやかく言われる筋はねぇんだから、お前ら(ニッシン)の指図は受けねぇからよく覚えとけよ。文句があるんならいつでも相手になってやるから(下に)降りて来い」そう啖呵を切ってエレベーターに乗り込むと、ニッシンの黒服数人を挑発するように中へ呼び寄せる仕草をしました。もちろん誰も挑発にはのりませんでしたが、男の意地みたいなものを見せた須貝さんの最後でした。ちなみに須貝さん、この後同ビルの地下二階にオープンしたカラオケスナックの店長になりました。余談ですが、当時東宝会館地下はカントリー&ウェスタンバー「ウィッシュボン」やJAZZバー、レストラン、居酒屋、スタンド割烹などこじんまりした店がいくつか入っていました。お祭り好きのお調子者とは言え、さすがにこの時ばかりは目の前が暗くなった委員長でした。これから先一体どうなるのか、まるで交通事故にでもあったような感じで、何も考えられずただ呆然とするばかりでした。過去どんな状況でも臨機応変に生き延びてきた委員長ですが、なんの前触れもなくいきなり訪れたこの衝撃には為す術もありませんでした。
2005年10月19日
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この昔話、今回で144回目となりましたが、委員長はこの「144」という数字には大変なこだわりがあります。1979年当時、一丁前のミュージシャン気取りだった委員長は、稼いだ金の殆どを楽器に注ぎ込んでおりました。道楽者の「玩具」集めはとどまる事を知らず、次から次へと楽器の山に埋もれていった高円寺亀屋マンションですが、この時一緒に暮らしておりました彼女のC子は委員長の道楽に大変な理解を示してくれて、当時の生活費の負担を一手に引き受けてくれておりました。(そりゃ単なるヒモやんけ)ですから委員長は心の赴くまま心置きなく玩具集めに専念できたのです。気がつけば2DKのマンションには家具らしきものはテレビとステレオ以外何一つなく、ピアノ、パーカッション、シンセ、ギター、ベース、リズムマシーン、アンプ類各種といった具合で、ドラムセット以外はこれでバンドができるほどの道具だらけになっておりました。これに加えてレコードが200枚弱とステージ衣装が20着前後、まるでどこかのクラブの楽屋のような住まいでした。そんな楽器コレクションの中、委員長の道楽人生にとって衝撃的な「玩具」との出会いがあったのです。それがティアック・サウンド・スタジオ144という録音機能付き4CHミキサーでした。これは市販されているカセットテープを使用して、4チャンネル4トラックの録音ができるという当時では非常に画期的な機材でした。カセットテープのA面B面を用いて同一方向に録音ヘッドを当て、合計4トラックの録音を可能にするというアマバンドにとってはプロ並の自宅録音が行えるという優れものでした。ダビングによる音質の劣化を防ぐために録音スピードも通常の速度の約2倍になっていました。今でこそ自宅録音機器はデジタル化やPCへの移行で飛躍的な進化を遂げましたが、当時はこれだけの録音システムを作るとなると、オープンリールやミキサーをセットするだけでもちょっとしたスペースが必要になり、費用も相当な額になると言う時代でもありました。それがたった1台の機器で、しかも多重録音には欠かせないパンチ・イン、ピンポン録音なども行えるというのですから、マニアにとってはもの凄い衝撃だったわけです。発売と同時にミュージシャンには反響を呼びました。価格は15万円。高額商品とはいえ、手の届かない金額ではありませんでした。当時、米国フェンダー社製ギターの低価格商品(テレキャスター)が11万円くらいでしたから、音楽マニアにとってはお手頃価格といえました。早速委員長は丸井のクレジットでこれを購入し、遂に亀屋マンションにミニ・スタジオが出来上がったのでした。ティアック・いちよんよん(144)バンドメンバーの揃わない委員長のバンドごっこは、こうして一人多重録音によって創作活動の道を切り開いていきました。「いちよんよん」はこの後デジタル化の時代に入るまで、委員長の道楽人生の良きパートナーとしてアーティスト活動を支えてくれました。(ってそんな大そうなものでもありませんが)ということで、144にまつわる個人的な委員長の思い出でした。さて、新宿では雨後のタケノコのごとくディスコが乱立し、DJの数もやたらと増え始めてゆき新旧の確執なども生まれ出しました。古株といったところで二十歳代中間から後半がせいぜいですから、後に続く後輩にしてみれば同業のライバルでもあるわけです。同じ会社やチェーン店舗ならいざ知らず、他店や別地域となれば先輩後輩のケジメがきちんとつくはずはありません。そうなってくると必然的に群れをなして勢力下に取り込む以外、これら上下の関係を作ることはできなくなります。そんな成り行きから古株同志の利害が一致して群れを成したといったところでしょうか。まあ、大方フリーランスの世界では似たり寄ったりでしょう。フリーランスの世界では縦の関係を縛るルールは何もありませんから、現役の先輩方はこうして自らをプロテクトするしかありません。業界で名を売った人間は別として、こじんまりと活動を続けている先輩方は新人との面識も薄く、存在感を蔑ろにされることなどもあったわけです。「知らねぇーよ、そんなおっさん。どこで(DJ)やってたか知んないけど、偉そうにノーガキこいてんじゃねぇよ」(こんな感じですか?)でも考えてみれば自分たちだってそうやって先輩を否定して乗り越えてきたんですから、今更自分たちが、って気もしませんでしたが、自分たちがそうやって生きてきたからこそ同様になりたくないって意識が強かったのかもしれません。「誰々をバカにするんじゃねぇぞ、ヤツは○○の時代からDJやってるんだからな」みたいなことで先輩が後輩に言って聞かせて縦の関係を維持したみたいな感じです。まあ、よく言えば古株同士の友情みたいなもので、悪く言えば俺たちはずっと昔からこの業界にいるんだぞという威嚇みたいなものです。ただ、その友情にしても所詮は人間関係というか、好き嫌いですから、古株同士の中でも色分けがあって、出し抜き合いなどもあったわけです。そんな時代のディスコ業界でもうひとつ頭を取ろうとしたジュリー・グループの合体話が進む中、委員長はH君グループのチェングと個人的に付き合うようになっていきました。きっかけは非合法ドラッグについての話から始まり、その手の情報交換をするようになったという、いかにも道楽者らしい展開ですね。(またしても馬鹿が馬鹿を呼びました)チェングは横浜のアメリカンスクールを卒業し、ハワイに住んでいたこともあってか特にアメリカンナイズされた雰囲気を漂わせておりました。名前の通り在日の台湾人ですが、当時ではまだ珍しかったバイリンガル、英語ペラペラでそこのところだけは皆に一目置かれる存在でした。性格は委員長同様大馬鹿野郎でしたが、委員長にとっては大変に面白いタイプの道楽者で結構興味のある人間でした。(この時はまさかこいつとサイパンに行くとは思ってもいませんでしたけどね)まず第一印象で気に入ったというか、委員長の大好きな「ザ・個性」というような風貌に興味をそそられました。アロハにジーンズ、ゴム草履、当時で言うサーファー・ファッションに近かったのですが、ファッションというよりはそのまんまハワイでマリファナでも売ってそうなスタイルで、どう見てもDJには見えず、かなりインパクトのある変人系でした。(こいつ冬でもゴム草履はいてましたからね。防寒ジャケットにゴム草履ですよ、変でしょ?もちろんサーファーなんかじゃありません)またまた話はちょっと逸脱しますが、このチェングの面白いエピソードがあります。ディスコブームが一時下降気味だった頃、委員長の先輩であるマイク越谷氏が新宿のダイタン商事にうまく食い込んで「DJ講座」なるものを開いたことがありました。マイク越谷さんといえば、初代ローリングストーンズ・ファンクラブ会長やテレビ番組の司会(紺野ゆうじさんと出てました)、ライナーノート、音楽関係書籍の監修、イベントの司会などなど、音楽業界では幅広い活躍をしていた我々の大先輩です。そんな越谷さんが、当時新宿で最多店舗を所有していたダイタン商事のDJ教育を任され、週に一度講習会を行ったことがありました。ダイタングループで働くDJ全員がトゥモローUSAに集まり、越谷講師のレクチャーを受けたのでした。確か総勢15名くらいだったと思います。もちろん当時のメンバーにはマチャアキやジュリーもおりました。さて、越谷講師のレクチャーは、ディスコ史の変遷に始まり、音楽ジャンルの選別、選曲方法からMCの入れ方まで、ご本人が経験されたブロードキャストでのうん蓄なども踏まえ進められました。そしてその講義の中で英語MCについての項目があり、英語はDJのリズムや、全体の流れからDJのテンポを盛り上げるための味付けとして使うのです、というような指導がありました。この指導の内容は要約すると、きちんと英語で喋ったところでリスナー(この場合ディスコのお客様が対象ですね)に意味が通じるわけでもないので、簡単なフレーズを曲間に添えて雰囲気を煽っていくためのもの、と言うようなことでした。ここでチェングが手を挙げて質問をしました。「じゃあ、例としてどのような英語を喋るか教えて下さい」「まあ、私の場合は曲名とかアーティスト名を英語で紹介したりして、DJのテンポにアクセントをつけます」「あのぉ、ディスコサウンドの場合、元々がタイトルもアーティストも英語名じゃないんですか」「いや、だからあくまでも味付けという意味で使うわけで、ポイントとしてシャウトするとかですね、あまり英語ということにこだわらずにムード作りを心がけて下さい」「具体的にどのようなフレーズを喋るのでしょうか?」「いや、あの、私の場合は基本的にラジオDJがメインですから、英語のフレーズをそのまま喋ると言うことはあまりなくて、オリジナルタイトルを紹介するような時に使います」同席していた無責任な生徒と言うかギャラリーにとっては、この質疑応答は最高の講義となりました。チェングがバイリンガルだということは、越谷さんはもちろんDJ連中も知っていましたから、下手に墓穴を掘らぬよう細心の注意を払いながら受け答えする越谷講師のシドロモドロしていく姿に、この日のレクチャーはかつてない盛り上がりを見せたのでした。ちなみにこの頃のマイク越谷さんの司会、MCの定番フレーズは、「さあ、みんな手拍子足拍子よろしく! マイティ、マイティ、○○○○(アーティスト名)」でした。Mighty, Mighty、ってトコがいわゆる英語の盛り上げフレーズになるのでしょうか。しかし、後年チェングはこのマイクさんから結構仕事を貰ったりしていましたから、人との付き合いってのも中々面白いものですね。更に、マイクさんとサイパンで再会した委員長は、せっかくなので地元FM局に連れて行って紹介しましたが、それなりの英会話を習得していた先輩に頭が下がる思いでした。この人もエルビスに始まりストーンズ~ディスコまで音楽一筋、未だ現役で道楽を追及するその姿勢には本当に尊敬の念を抱かずにはおられません。なんと20代で所沢に家建てたんですから、筋金入りの道楽者だと思います。
2005年10月18日
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H君のグループとジュリー・ファミリーの合体は次のステップへと進められました。ここで、ジュリーは後援会の長である日本フォノグラムの渡部ピカイチ氏を紹介することになりました。第二回ミーティング会場は六本木でした。もちろん皆夜の仕事に携わっている人間ばかりですから、集合時間はお昼過ぎの夕方近くとなります。そして早くもこの合体話にひびが入ります。遅刻そうです。ジュリーの遅刻癖はそう簡単に修整が効きません。H君グループは集合時間には全員が雁首揃えてお茶を啜っておりました。そんな緊張感漂う待ち合わせ場所に、いつものようにファミリーを引き連れて登場したジュリーにY君から厳しいお言葉が発せられました。「俺達のルールは時は金なり、時間厳守が鉄則だよ」「いやー、悪い悪い、ちょっと車が混んでてさぁ~」いつものジュリー節です。H君、Y君以下全員が冷たい視線をジュリー・ファミリーに浴びせてきます。「じゃあさ、取りあえずピカイチが待ってるから挨拶に行こうか」相変わらずマイペースのジュリーです。全員渋々ながらフォノグラム社の渡部氏のもとを訪れます。渡部氏は会議室を用意してくれておりましたが、話の内容はまったく伝えられておらず、ジュリーも何処から話し始めて良いものか迷っているような状態でした。これはジュリーの良い点でもあり同時に欠点でもあり、とにかく人と人とを会わせれば勝手に話が進んでいくと考えていたようで、思惑通りに進めば良いのですが、時としてとんでもない方向に進んでしまう場合もままありました。あまり深く考えず人と人を繋いでいくやり方は幅広い人脈を作るには有効ですが、反面軽薄と捉えられるリスクもあります。H君グループのようにある程度理詰めで動くようなタイプの人間は、ジュリーのしょっぱなからの遅刻が軽薄さという先入観を抱かせたようでした。渡部氏とのミーティングは双方にとってメリットがあるということは理解していますが、果たして今後どのような具体的展開をしていくつもりなのか、あるいはDJグループの合体にレコード会社の人間がどう関わっていくのか、誰もが内容をきちんと把握できるはずもありません。なんとなく焦点ボケしたミーティングはY君を更にイラつかせたようでした。「結局、今日は何の話をするために集まったわけ?」「いや、これから色々と彼(渡部氏)を通じて力を借りることになるんで、まずは顔合わせみたいなもんだよ」多少しらけましたが、彼らにとっても渡部氏の威光は今後の展開のためにも必要ですから、たいした内容のミーティングではありませんでしたが無事顔合わせは終了しました。別れ際にY君から「時間厳守はお互い最低限のルールだと思うから、次回からはきちんと守ってくれよ」とクギを刺されました。あの夜、あれだけ夢見て盛り上がった道楽者たちですが、ささいなことから亀裂が入り始めます。もともと社会のルールに合わせられなくて(ついていけなくて)、道楽の世界に入った奴らばかりですから、頭を押さえつけられるようなプレッシャーを感じると反骨精神がムラムラと沸きあがってきます。(元々協調性の無い奴らだからね)「時間厳守とか言うけどさ、お前らがどんだけの仕事してるんだっての」「そうだよな、オレたちほどデカイハコも持ってねぇし、六本木つったって潰れかけのディスコじゃねぇか」(この時Y君がいたのは六本木アイでした)「あとは池袋だし、それにしたってディスコはアダムスだけだろ」はいはい、所詮ゴミ野郎の集まりなんてこんなもんです。昨日まではスゲー奴らだの、ビジネスライクに付き合える奴らだのと褒め称えていたくせに、自分たちの欠点をちょっと指摘されればこの始末です。だいたいワンマンでここまでやってきたジュリーですから、人のペースに合わせて足並み揃えるなんてことが出来るわけがないわけで、サラリーマンさえ勤まらなかったどーらくもんが丸っきりタイプの違う人間と協調して行く事自体が無理と言うものです。さてこの頃のジュリーは西武新宿線の田無に住んでいたことから、後輩チームもみな田無に住むようになりました。何故田無だったかというと、ジュリーの彼女(後に奥さんになります)の実家が田無だったからで、後輩連中もできるだけ師匠の近くにいた方が便利だろうというようなことで、何故か田無グループと相成りました。片や委員長はと言えば、中央線高円寺駅亀屋マンションに在を構えておりましたので、必然的にトモミやシンジなども沿線の西荻窪あたりに住むようになり、路線別人脈図のような形ができつつありました。ちなみにこの時期赤シャツのみつぐ君も高円寺に住んでいたようですが、街で顔を合わせたことは何故か一度もありませんでしたね。まあ、他店のDJとは仕事以外の付き合いってほとんどありませんでしたから、皆がどんなところに住んでいたのかもまったく知りませんでしたね。殊更興味も無かったし。しかし今にして思えば、この頃の新宿のDJって西武新宿線沿線と中央線沿線(杉並区あたり)に住んでるヤツがやたらと多かったですね。
2005年10月17日
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新宿のジュリー・ファミリーは着々と勢力を拡大しつつ、組織化にも手を付け始めていきました。ジュリーが地方にまで手を広げると同時に、東京も新宿ばかりで騒いでいたのでは進歩がないことに気付いたからでした。特に、ディスコ協会に対抗していくということならば、六本木のディスコも視野に入れなくてはそれこそ井の中の蛙となってしまいます。勢力を拡大していく上で必要なことは、自分達のテリトリーであるディスコ、店を増やすことでした。自分達の勢力圏内にいくつのハコを抱えているかが、大型チェーン店に対抗するプロテクションでもあったからです。そこで思いついたのが他のグループとの提携というか合併でした。これは委員長にとってみれば、何だか昔の暴走族や愚連隊の縄張り争いみたいな感じでスリリングな行動でありました。ジュリーも東京は下町の生まれですから結構勝気でイケイケな性格してましたし、委員長も元々は不良少年でしたから、こうなってくると二人とも俄然目の色が変わってきます。またひとつ道楽者が新しい遊びを見つけてしまったわけです。ということで連合を組む相手に選んだのは、新宿派でも六本木派でもなく、当時異色のメンバーを抱えていたH君のグループでした。彼らのテリトリーとするハコはディスコばかりでなく、「おしゃべり稼業」と名の付く仕事であれば業種に拘ることなく何でもこなしていた所が二人の目を引きました。新宿ではジュリーや委員長同様古株が群れていましたから、それらのどのグループと重なっても結局はイザコザが起きるのは目に見えていましたし、今更彼らの風下には立てないという共通の想いもありました。そこで、そんなテリトリーとは外れたグループとのジョイントはマーケットの拡大にも繋がるし、くだらないプライドで争うこともないので双方ともに興味ある合体でありました。別にそこまで計算ずくで行動を起こしたわけではありませんが、ジュリーにしても今更新宿の誰かと手を組んだところで、今の自分以上の仕事の幅が広がるとは思っていませんでしたから、ここらで新しい刺激が欲しかったというところが本音でした。H君のグループは、ジュリーや委員長が今まで関わってきたタイプのDJ達ではなく、お互いがクールにビジネスとして割り切った付き合い方をしており、学ぶ面も数多くありました。別段H君を頭として徒党を組んでいるわけでもなく、各自がそれぞれ独立した仕事として各店舗とDJ契約で結ばれており、あくまでも個人ベースでの収入を上げるための共同体のような雰囲気でした。これはいわゆるバンドマンの生態に酷似したスタイルで、全ては横の繋がりだけが基本となっており、仕事を世話したら手数料を払い、休暇等の場合はそれなりのトラ代(エキストラ料)を払って穴を埋めてもらい、数人のチームの仕事になるような場合は仕事を取って来た人間が仕切ってギャラの割り振りをする、といった具合に非常に合理的なプロ意識の高い集団でもありました。必然的に仕事を多く取ってくる人間がリーダー的な存在となり、あとはお互いの信頼関係で成り立つビジネスライクな付き合いでしかないため、多少の好き嫌いはあるにせよ、仕事が感情で左右されるようなグループではなく、お互いのルールさえ守れるならば誰とでも繋がっていくという、己の生活と収入を中心とした非常に主体性のある生き方でした。実際に彼らと会って話してみるとその合理性は非常に洗練された考え方で、委員長の目には随分と大人に見えました。実はこのH君のグループの核になっていたY君は、実家が小さなプロダクションを経営しており、本人も大手某プロダクションで仕事をしていた経験などもあり、グループを形成しているコンセプトの中核は彼が担っているような印象を受けました。彼らは非常にビジネスセンスに長けており、ジュリーの提案を新たなチャンスとポジティブに捉えてくれました。この第一回セッションではジュリーも委員長もタジタジといった感じで、全ての主導権はH君とY君に取られたも同然でした。もちろん彼らは年上でもありましたのでリーダーシップはH君に譲り、次のミーティング・セッションで具体的な統合の話をすることになっていきました。Y君も、これだけの人数で行動するならば将来的に労働大臣の認可を取り、正式な事務所として立ち上げることを前提にすべきだと言い、そのノウハウを語ってくれました。彼は、「やる以上は利潤の追求を目指す」と皆に力強く説き、一同は妙な期待感に胸膨らませたのでした。なんだかこれからスゲーことが始まるんじゃなかろうか、という道楽者特有の漠然とした期待感ですね。もちろんH君のグループのメンバーにしても、今やディスコ業界ではその先端を突っ走っているジュリーのグループとの合体ですから、これはまず都内でも一大勢力になるだろうことは簡単に想像がついたと思います。その夜は合同飲み会とでも言いますか、親睦会のような雰囲気で各自の自己紹介が行われました。ジュリー・ファミリーに比べてH君のグループはみなインテリに見えました。Y君のビジネス理論で圧倒された後ですから、殊更メンバー全員がかしこそうに見えても不思議はありませんでした。「俺たちは、今また新しいことをやろうとしているんだ。未だディスコのDJが成しえなかった起業という飛躍にチャレンジするのだ」この時立ち会った誰もがきっとそんな夢を見ていたのでしょう。特に今まで接点のなかった異人種との交流みたいなものですから、なんだか自分たちはとてつもなくデカイ夢を実現できるような幻想の世界を漂っていました。一般社会と決別した道楽者が、自分達の心の支えとなる「音楽」の道で身を立てるという、ちょっとしたアウトロー気取りで立身出世、サクセス・ストーリーを夢見た夜でした。今風に言えばビル・ゲイツとかホリエモンみたいなヒーロー像を、その夜集ったそれぞれが胸に描いていたのです。確かに実現できたらそうなったことでしょう。
2005年10月16日
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世界ディスコダンス選手権日本大会出場を最後に、ダンサーとしての夢を吹っ切って一皮向けた委員長でした。「所詮はダンサーもDJも人の褌でメシ喰ってるだけじゃネェか。どうせやるなら褌にならなきゃ本物じゃないね。ふん!」要するに、ダンサーもDJも人の作った音楽で自分をアピールしているだけで、音楽そのものをクリエイトしているわけではありません。ということはどこまでいっても所詮はメインディシュにはなれないってことでもあります。てなことで、俺はフンドシ目指して頑張るぞぉ~、とミュージシャンへの道に進む新たな決意を固めた委員長でもありました。とは言うもののバンドのメンバー集めはそう簡単にはいきません。個人的にはアチコチのアマバンドのコンサート・イベントなどに呼ばれては、パーカッション叩きながら踊ったりして注目を集めましたが、結局はゲストプレーヤー扱いでイベントを盛り上げる色物にしかなれませんでした。いつまで経っても色物から抜け切れない委員長は、結局実生活でも色に捲かれてフラフラするばかりでした。さてそんな頃、ジュリーの後援会RCAレコードのK部長の肝いりで新企画の話が持ち上がってきました。それは、一時ディスコDJ業界で話題になった小林克也さんのDJ入りプロモレコードを模倣した、ディスコヒットのオムニバス版を作ると言う話でした。当時のヒット曲、サタデーナイトフィーバーやコパカバーナ、ビリージョエルのストレンジャーなど、ディスコで実際にプレイされる曲をそのまま選曲して、なおかつ小林克也さんのDJを入れてしまうといったまたも色物企画でした。これ一枚あればご家庭でディスコがお楽しみ頂けます、みたいなミニ・ディスコ・ヴァージョンのようなレコード製作です。(しかしご家庭でディスコを楽しむか?)ディスコヒットをオムニバスにする売り方はどこのレコード会社でもやっていましたが、所詮は自社レーベルのヒットをつなぎ合せたものでしかなく、実際にディスコで選曲されているようにアットランダムにレーベルをつなぐことは当時の誰もが思い描いた企画でもありましたが、版権の問題や本国でのレーベル間の取引など複雑な問題も絡むので困難とされていました。そこで登場したアイディアがカバーバージョンでした。これも従来からある手法で、版権だけ借りてきて別のアーティストが演奏すると言うものです。ただ、これはやっぱりオリジナルヒットには及びませんから、せいぜいマクドナルドやショッピングセンターのBGMとして使う程度のものでした。曲は同じでもアーティストが違いますから、ファンやマニアにはインチキ臭いと思われるのがオチです。ところが、これにプロのDJ小林克也さんがMCを入れて、ディスコの実況中継版みたいなものだったらどうだろうか。そんな発想で制作が開始されたのです。確かに原曲は色あせますが、ノンストップでDJ入りのリアルタイム・ヒットが収録されているアルバムともなれば、同じ色物でもこれはちょっと面白い企画と言わざるを得ません。さて、カバー製作に当たってはディスコバンドの「エクスタシー&イージー」というバンドが抜擢され、更にトゥモローUSAのフィリッピン人DJリトがヴォーカル&キーボードで参加することになりました。アシスタント・プロデューサーに鈴木昇二、宣伝プロモーション・リーダーにロニー、このあたりからいよいよジュリー・ファミリーが形になり始めていきました。レコードのアルバムタイトルは「ノンストップ・ディスコ・フィーバー」。(ってそのまんまじゃん)ちなみに収録曲のサタデーナイトフィーバーとステインアライブのファルセットパート、ビージーズのカバーがリト君です。セールスは思ったほどではありませんでしたが、企画製作からプロモまで一貫してディスコDJのグループが携わった仕事はこれが業界で初めてだったと思います。ディスコ協会でもここまではやれませんでしたからね。これでジュリー・ファミリーが一気に業界の先頭を突っ走ることになりました。プロモの仕事はもちろん、ライナーノートや制作サポートなど、ディスコ分野だけのこととは言え、レコード会社との関わり方も相当突っ込んでいくことになっていきました。こうなってくると、その名声を頼って弟子入りしてくるような馬鹿者、いや失礼、若者もチョロチョロと出入りするようになり、所帯はますます膨らんでいきます。委員長の方も、シンジを送り込んだ立川「スタジオ5」では新○社長がすっかりその気になって、どこからか中古外車のボディーを買い込んできて、そのフロント部分を切り取ってDJブースに仕立て上げ、更に照明器具も揃えたりして本気でディスコを目指すつもりになっておりました。もう完全に気分はディスコってなもんで、いっそのこと店全部任せるから、みたいに言われてしまい委員長も後に引けなくなってしまいました。しかし道楽者ってのは匂いを嗅ぎ付けるのが早いっていうか、なんの因果か巡り合せか、そんなグッドタイミング、上手い具合にとある男が委員長の前に現れたのでした。チャーリーです。そう、あの幻のダンサーズ(笑)バッドチルドレンのメンバー、チャーリーがひょっこりと委員長を尋ねてやってきたのでした。髪の毛もばっさりとショートカットにし、一丁前な社会人に変身していた彼は、仕事を探して委員長の所に辿り着いたようでした。彼の話によると、ダンサーズ解散後、数年付き合った彼女と結婚するためレストランに就職し、こつこつと貯金などもしながら社会復帰を目指したらしいのですが、いざ結婚と言う段になってお互いの親に反対され、結局は泥仕合になってしまい、挙句の果てはその彼女とも仲違いするハメになってしまい、全ては御破算という悲惨な結果を迎えた傷心のチャーリーでした。「ディスコやってみるか?」「やるって、何をですか?」「なにをって、店だよ、店。ディスコの店長」「て、店長って、そんないきなり言われても・・・・」「場所は立川なんだけどさ、こじんまりした店だけどやりようによっちゃ面白いと思うんだよな」「立川ですか?」「ああ、その気があればすぐにでも連れてくけどどうする?」相変わらずお調子者の委員長は、後先考えずに何でも行動あるのみって感じで、動き出してから考えるタイプでしたから、こうなったら毒を喰らわば皿までもってことで一気に突っ込んで行ったのでした。本当のハコ取りになってしまった立川「スタジオ5」は新○社長も喜んでくれて、チャーリーの他トゥモローUSAのウェイター二人を引き抜いてきて1軒丸ごと本格的なディスコ経営に乗り出した委員長でした。しかし今にして思えば、24~5の若造に店一軒任せた社長も無茶な人だったと思います。雇われ店長とはいえ、たいした経験もなくいきなり営業全部を取り仕切るんですから、こんな無謀な話もありませんよね。(もちろんご想像の通り長続きするわけがありません)そんなこんなでジュリー・ファミリーはどんどんと勢力を拡大していき、本人たちも知らず知らずのうちにそれなりの組織となり始めていました。特にレコード会社のプロモに携わった関係で、ジュリーは地方都市のディスコにも顔を売るようになってネットワークは全国的に広がっていきました。このあたりから、地方を活動の中心にしていたディスコ協会と肩を並べるようになっていったのですが、現役のDJ、しかも新宿歌舞伎町で名の通ったジュリーの方に傾いてくるのは道理と言うものです。地方にしてみれば、イベントひとつ行うにしてもわざわざ東京からレコード会社の販促スタッフが、試聴盤や宣材を持ってやってきてくれるのですから、こんな心強いことはありません。しかもタイアップなどと称して、メディアにも名前が出たりすればどこの経営者だってジュリーさん、ジュリーさんと崇め奉るのも無理はないと言うものでしょう。更にご希望とあらば、DJでもダンサーでも派遣しますってことになれば、ほっといても勢力は広がっていきます。まあ、とにかくこのジュリーって人間は、こういった人脈作りにおいて天才的な才能を持っていたと思います。リーダーとしては確かにカリスマ性があったのかも知れませんね。その割にはまとめる力がなかったんですが、物事を切り開いていく力は本当に素晴らしいものがありました。委員長とはパートナー的に相性が良かったのかも知れませんね。ということで、バンド道楽の夢は今ひとつ捨てきれない委員長ではありましたが、当面は事業家を気取ってビジネスに打ち込んでみる気になっていました。
2005年10月15日
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1979年第二次ディスコブームに沸く新宿歌舞伎町。当時のDJ業界は概ね3つの大きな枠で色分けされていました。トゥモトローUSAのチーフDJジュリーを頭としたグループ、最大手カンタベリーチェーン・グループそしてチェスターバリー、ミルキーウェイ、ニューヨーク・ニューヨーク等を中心としたグループの三つが大枠で、更に各メンバーが横に繋がった形で広がっていました。グループと表現しましたが、それぞれが明確な枠で括られていたわけではなく、当然人間的な好き嫌いもあったし、所属した会社の枠を元に線を引いただけのことです。ただし、同系列の店でも仲の良し悪しはありましたから、会社とDJグループの関係はまたひとつ別といった感じでしたね。もちろんレコード会社との関係が強ければ強いほど名が通っていたということを考えれば、やはりこの業界の先駆け、先鞭をつけたのは間違いなく鈴木昇二ことジュリーと言えるでしょう。後はみな結局、彼の後追いだったように思います。更にゴタゴタは委員長の所ばかりではなくどこもみな似たり寄ったりで、店の単位で言えば足の引っ張り合いや派閥争いみたいなことがあったわけです。(やっぱり貧乏が悪いんでしょうね)そして、新宿以外の活動でもうひとつH君のグループが結構テリトリーを広げていて、このグループにはチェングやボビー、ジョニー、モケ(女性ですね)とかが居て、ちょっと毛色の変わったDJグループでした。どちらかと言うとブロードキャスティング系とも繋がりがあり、単なるディスコDJとはちょっと違う感じでした。チェングに代表されるように、当時ではまだ珍しかったバイリンガルも結構いて、テレビ、ラジオの音楽リポーターなどの仕事も手がけておりました。こういった派閥とは別に、利害によってグループと関わるようなDJも随分といました。まあ殆どのDJがそうだったような気がしますが、松本みつぐのグループとかイサムのグループとか言われてはいましたが、組織だってグループを形成していたわけではなく、たまたま請け負った仕事で利益をシェアした、なんていう関係の方が正しいかもしれません。基本的にはみな負けず嫌いだったし、誰もが頭に立ちたがっていましたから、変動的な連合体みたいなものといった方が正しいかもしれません。そしてレコード会社も効率よくプロモーション活動をするために、横の繋がりをつけていってDJ会議などと言うセッションを設けては、一度に都内のDJを集めて各社でプレゼンをするなんていうスタイルも出始めてきました。こうなってくると、DJの動員数とか、所属メンバーの数とかがレコード会社への売り込みというか、結構なアピールに繋がりますから、どこのグループもできるだけ数を増やして会議に乗り込むなどという姑息な手段も取られるようになりました。(なんか政治家みたいですね)もちろんこういったことに元々無関心だった奴らも居たわけですが、まわりが皆動き出して浮き足立ってどこかのグループに巻き込まれていったなんてこともありました。まあそれでも新宿で昔からの顔なじみといえば数も限られてきますから、そこはそれ、やはり古株はお互いに立場を尊重しあったりしますので、どうしても派閥となって現れてくるのは仕方のなかったことだと思います。現にポップコーンの山ちゃんこと山田氏などは、もともと池袋アダムスでホール主任をやっていた頃ジュリーがサラを回していたので、後にDJになってからもジュリーにはやはり頭が上がりませんでしたしね。歳は全然上だったですけどね。だから結局は後追いで来たDJは、ジュリー、みつぐ、イサムなどの古株とはどうしても折り合いが合わず、煙たく思っていたのではないでしょうか。まあ、そんな流れで業界も自然と色分けされていったわけです。さて委員長はと言えば、生意気にもこの頃はもうすでに一丁前なミュージシャン気取りでしたから、DJには少々興味が薄れてきていて自分のバンドを持つためにシコシコとドンバ修行に明け暮れておりました。高円寺亀屋マンションにはシゲルをはじめ、ヨンタナやシンジなどが集まるようになり、仕事前の昼間はそんなバンド小僧の溜まり場と化していました。C子のルームメイトのKも服飾の専門学校を無事卒業し、地元でTシャツ屋などを起業するため清水市に戻って行きました。マンションの契約は2年だったので、残りの1年は委員長とC子で借りるという話でそのまま住み着いてしまった委員長でした。この頃から委員長はひそかに「ヤドカリ」と呼ばれておりました。だってそうでしょ、過去振り返ってみても、みなおねーちゃんのウチに住み着いてしまうという得意技でここまできてしまったわけですから、いよいよヤドカリも最後の宿を決めたと言うようなことになるのでしょうか。週に2~3度はこうしてドンバ仲間が寄って来てはウダウダしてましたが、やはり師匠的な存在はヨンタナになるわけで、当時の彼はROCKを卒業してすでにJAZZの世界に入りつつあり、仕事も立川のキャバレーでBIG BANDの仕事をしていました。更にC子は大学に休学届けを出し、JAZZヴォーカルの修行に入ることを決意したのでした。彼女の歌の先生の紹介で、スマイリー小原さん(知ってますか?)が経営するクラブ「同期」でホステス兼歌手の仕事を始めました。場所は歌舞伎町の裏、東宝会館の目と鼻の先でしたから、C子も委員長共々二人して夜の新宿にドップリと浸かっていくことになりました。委員長と同年代くらいの方ならばご存知でしょうが、スマイリー小原さんと言えばその昔、お茶の間の話題を独占していたテレビのバラエティー・ショー番組「シャボン玉ホリデー」でバンマスをしていた人です。踊りながらバンドの指揮をすることで有名でした。風貌も大柄で外人っぽくて、当時としては非常にユニークで目立つ方でもありました。そんな業界の大先輩が経営するクラブで唄うとなれば、修行もさることながら顔を売るには最高の環境で、彼女としてみれば夢の第一歩を踏み出したことになります。更に委員長はレコードリリースもしたし、新宿の大型店で花形(笑)DJを努め、業界の古株として顔も売れ始め、まさに絶好調この上ないバラ色の道楽者人生を謳歌しておりました。そしてトゥモローUSAとワンプラスワンを中心にジュリー・グループは更に勢力拡大の道へと進んでいきました。まずは、ジュリーがブルさんこと渡辺氏と開業した輸入盤セールスで関わり、後にジュリーの鞄持ちのようになっていった花見キョンは、サム岡田と共にDJチームKOOLなどというグループを作り新小岩から高田馬場「リチャード三世」へ潜り込みました。このリチャード三世というディスコは日拓グループの経営で、高田馬場の駅前に早稲田の学生を狙った喫茶店、パブ、ディスコなど取り込んだ自社ビルの中にありました。もちろん同ビルのメインは不動産業務でしたが、一時はプロ野球チームまで抱え込んだ日拓ホームスは当時異色の大手企業でありました。そんなジュリー・グループの構成はといえば、ジュリー、ロニー、ヒロシ、サム岡田、花見キョン、トモミ(後にトミーと名乗る・笑)、リト、レビン、番外ですがジョー、といったラインアップに加え、日本フォノグラムの渡部ピカイチ氏、RCAレコードのK部長、アルファレコード販促の○林氏、ダイタン商事から日本フォノグラムに転職したA氏、キングレコードの荒○氏などの後援会が出来上がっていました。また、ジュリーは委員長との往年のコンビ復活に加えて後援会の後押しもあり、各種ダンスコンテストの仕込みやダンス・イベントの手伝いなども手がけ、テレビ、ラジオなどにもチョコチョコ顔を出すようになっていきました。そして、あのテディ団氏がイギリスで優勝を飾った世界ダンス選手権の日本地区予選が行われたのもこの頃だったと思います。実は委員長もこの大会に出場したんですね。世界大会ということでジュリーや渡部氏なども出場を勧めてくれましたので、結構その気になって出かけて行ったのですが、会場受付に全日本ディスコ協会会長の姿を見たときに委員長のつかの間の夢はガラガラと音を立てて崩れていきました。委員長自身はこれでダンスの夢にケジメをつけるつもりでの出場でしたが、受付でのこの一瞬の出来事は言葉では表現できない感情を抱かせました。表すべき言葉が見当たりませんが、空虚な気持ちというか、それまでの情熱が一気に萎えたという感じでした。結局、コンテストのステージではオカマダンスやコザックダンスなどでおちゃらけてしまい、イベントを盛り上げるサクラ役に回ってしまいました。この時応援に来てくれた面々は、教授こと玉三郎などを筆頭にそれまで委員長が関わってきた道楽者軍団でしたが、この委員長のふざけた態度に皆大変がっかりしておりました。「これがファンキーってことさ」などと嘯いてみたりしましたが、何故か心の中では空虚な気持ちとは裏腹に今までのモヤモヤが吹っ切れたようにひとつの節目になった感じでした。このコンテスト以後、委員長自身が本気で踊ることは二度とありませんでした。自分自身の中でまたひとつの時代が終わったということでもありました。ってちょっとカッコつけすぎですね。。。。。
2005年10月14日
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立川南口ディスコ・スタジオ5にシンジをまんまと送り込んだ委員長は、結局オーナーの新○社長と月20万円で契約し、シンジに15万、残り5万で委員長とヨンタナが時々顔を出して面倒をみるということになりました。いわゆる「ハコ取り」ってやつですね。実はこの「ハコ取り」っていうのはそもそも水商売、それもキャバレーなどで用いられた形態でハコ屋とかオープン屋などとも呼ばれた一種の営業方式です。ハコというのは店のことを指し、不動産で言う「居抜き」のようなもので、店のオーナーから任されて開業から営業を軌道に乗せるところまでを請け負う水商売のチームが、営業委託の契約を結ぶことを「ハコ取り」と呼びました。プロの集団ってことで、店長、支配人、ボーイ、ベルマンなどがひとつのチームで入店し、ホステスさんの教育や店長見習い、支配人見習いなどを実施指導し、3ヶ月から半年で軌道に乗せては次の開業店を巡るといった集団のことでした。要は店舗経営や営業のノウハウを伝授するためのエキスパート集団と言ったところです。これらは月極め契約でオーナーからハコ屋のボスに支払われ、チームの中での配当、各自のギャラはそのチームによって待遇が違うというようなものです。当時のディスコでもこういったハコ屋が随分とおりましたが、キャバレーのオープン屋とは違って1年とか2年とかの長期で請け負うことも少なくありませんでした。そんな時代の水商売では縦と横の繋がりが非常に厳しくて、店長を父として擬似家族を形成するスタイルはヤクザ一家のピラミッド型社会と相似していました。よく、「俺は○○店長のとこの兵隊だった」とか「XXオヤジの下で働いてた」とか、ちょっとした渡世人のような表現を使ったりしていました。また、バンドの世界でも似たような形態があり、バンドマスターがハコとして店の出演契約を取ってきて、メンバーを集めるというようなスタイルも「ハコ取り」と呼ばれていました。しかし、こういったスタイルも個人経営のキャバレーやバーが衰退してフランチャイズやチェーン店方式の企業化が始まり、水商売も一般企業の会社員のようになっていくと、そのような専門のチームも次第に会社の中の社員で組織されるようになり、外部から雇うというようなことも徐々に減っていきました。もちろん並行してバンドの世界も、会社単位での契約(俗に言う音楽事務所、プロダクションですね)や専属バンド、いわゆるお抱え楽団などに形態が移行していったわけです。ですから、大手キャバレーチェーンとか音楽事務所(プロダクション)の重役幹部には、昔のハコ屋のボスや地回り、バンマスなどが名を連ねていることが結構多かったですね。そしてこの形態は次世代のディスコ業界にも引き継がれていったのです。ただ、結論から言ってしまうと、ディスコも所詮はキャバレー業界から派生してきた事業であったため、成り立ちからしてそのスタイルを模倣しており、最後はキャバレー同様大手チェーンによって淘汰されていくことになり、結局これらのグループは都落ちして地方に活路を見出すようなことになったりしました。それでも変わらない原則は、良いお店、つまり客の入るお店には良いバンド、良い音楽が必要と言うことで、その昔、ハコ屋とバンマスが共同戦線を張ったように、ディスコ業界もハコ屋のボスとDJは緊密な関係で結ばれていました。ディスコが脚光を浴び始めた頃、同じ業界でスタートを切った者同志が後にそれなりのポジションにつけばお互いを引き合うのは当然のことで、やはりそこはキャリアと人脈の世界でもありました。特に水商売は出入りが激しいので、同じ業界に長く残っていると言うことはそれなりに実力があるということで、生き残った者同志が共同戦線を張るのは当然のことと言えます。まあ、なんだかんだと理屈をこねてはいますが、早い話が若手を見習いに仕立てて人数分のギャラを取ってピンハネするという昔からある金儲けの手段に過ぎません。これを労働大臣の認可を得て合法的に行っているのが、いわゆるプロダクションと呼ばれる組織ですね。ルーツを遡ればなんのこたぁない興行屋で見世物小屋を立てて金儲けをした時代のまま、何も変わってはいません。客を呼べる芸人を連れてきて見世物小屋を興すには、人が集まり易い場所を安くお借りしなければなりません。場所が決まれば見世物小屋が順調に商売できるように、目を光らせてくれるその土地の親分衆の庇護が必要です。そして効率的に集客するため、小屋への客寄せ、切符の販売を地元の顔役にお願いします。更に小屋の周りで飲み物食い物を売って儲ける稼業の方々もいらっしゃいます。これらを全て取り仕切るのが興行主さんです。さてこれらの場所代、みかじめ料、切符の販売手数料などはすべて興行主さんから各様各所に約束どおり支払われます。また、小屋の周りで商売をされる方々からは比率によって売上の一部を頂きます。これら支払い及び上納金を差し引いた残りが興行主の粗利益となります。さあここでようやく興行の現場、経費の支払いが行われます。まずは興行主から一括して一座の座長に約束の公演料が支払われます。座長は一座の看板芸人、一番集客率の高い芸人からランキング順にギャラを決めます。時には看板芸人が引き抜かれたりすることもありますが、長い目で見るとそういった出し抜き合いは相互間の利益にならないことになりますから、芸人が勝手にギャラの相場を崩さないように座長同士で掟を作って厳しく押さえ込みます。「ギャラ上げてくれないのなら他の一座に行くぞぉ~」などと言って、芸人がギャラの値上げを交渉したり、芸人同士が組合なんぞを作って抵抗したりすることもありますが、座長連合は興行主に掛け合ってこうした芸人を締め出して、見せしめにしたりして厳しく取り締まります。俗に言う「干す」ってやつですね。世の中は資本主義の原理で動いておりますから、金は高いところから低いところにしか流れませんので、どんなに芸人が頑張ったところで所詮は勝てません。アメリカあたりでは芸人の組合(ユニオン)のシステムがしっかりしていますから、日本に比べるともう少し芸人意識が高いのですが、これはこれでユニオンの掟もそれなりに厳しいので末端芸人にとってはどっちもどっちです。たいした芸が無くてもチヤホヤしてくれて、テキトーに売り出してお小遣いをくれる日本のシステムもそれはそれで良いところもあり、将来をあまり考えず今さえ楽しけりゃ良いんだ、みたいな道楽者には結構生き易い世界でもあります。よくアメリカでは芸人の組合がしっかりしていると言いますが、これだって所詮は芸人が自分達の食扶ちを守るためのシステムでもありますから、本当にどっちもどっちでしょう。純粋に芸を磨いたり、アートを追求するのであれば、やはり選手層の広くて深いアメリカで一流にならなければホンモノではないと思います。またまた話が異常に逸脱しましたが、ハコ取りなどと称して不就労利益を得る美味しさを知った道楽者は更に欲深くなっていくのが道理ですし、誰かがやれば必ず自分も同じ甘味を味わいたいと思うのが人の常です。あっという間にこうした流行は伝播して、新宿のディスコDJ業界はハコの争奪戦と若手DJの育成に血道を上げるようになっていったのでした。まあいずれにせよ、道楽者のゴミ連中がセコイ欲を出すとろくなことにはなりません。新宿DJ戦争仁義なき戦いの始まりです。って、ちょっと期待持たせ過ぎですか?
2005年10月13日
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立川から戻った委員長とヨンタナは早速今後の展開を相談しました。ヨンタナ自身は相談を受けただけなので自分が関わってどうこうしようというつもりも無く、できればロニーに任せるというようなことで結局は委員長の仕事となりました。そして委員長が二度目に立川を訪れたときには、既にバンドとの契約打ち切りの話も済んでいると新○社長から聞かされ、今後の具体的なアドバイスをせざるを得ない状況となっておりました。まずはどんなお店にしたいかということから話が始まりましたが、肝心のオーナー新○社長がディスコをよく解っておりません。とりあえず今流行の商売ってことだけで始めたような大変思い切りの良い方でした。よくよく話をしてみると、新○社長の描いているディスコとはキャバレーとコンパが一緒になってスナックで割ったようなもののようでした。(なんじゃそりゃ、全然わかんねぇーぞ)米軍基地も近いのでGIも来るだろうとか、近くにある立川唯一のディスコあたりが手本ですから仕方ないっちゃ仕方のないことでもありました。「それなら社長、ボクはこれから仕事ですから、よかったら一度新宿の店を見に来て下さいよ」そう言って立川を後にした委員長ですが、こんな辺鄙なところでディスコなんかやって儲かるのなぁ、などと多少疑問に思ったりもしました。まさか兵隊さんだって横田基地からわざわざこんなとこまで遊びには来ないだろうし、かといってここらの若い子たちが遊ぶにはちょっと雰囲気暗いし、どっちにしろ中途半端な店になるだろうなというのが実際の印象でした。歌舞伎町に戻った委員長はちょっとした旅行から帰ったような斬新な気持ちで、その夜は一段とお仕事に力が入りました。(立川-新宿って電車で1時間以上かかったからね)10時を過ぎてワンプラスワンの深夜番、トモミがシンジを伴ってやって来ました。このトモミは元々シンジのバンドのヴォーカルをやっていたのですが、歳はシンジたちよりひとつ下で、要領の良さと人懐っこさから結構皆に可愛がられておりました。彼は偶然にもワンプラスワンのオーディション前に委員長と知り合い、うまいタイミングでDJの仕事をGETしたのですが、片やバンド・リーダーのシンジは性格の良さというかおっとりタイプというか、自分から売り込んでのし上がっていくようなタイプではなく、結局バンドメンバーが一人二人とそれぞれの進路に就いて行く中、未だひとり宙に浮いていたような存在でした。その夜は、トモミがDJの仕事を始めたということもあり、委員長にも久しぶりに会いたいということで店にやってきたのでした。シンジはなんせC子の同級生で同郷ですから、自宅謹慎の身の委員長とすれば、ここはなんとかうまく取り入ってもらおうなどという下心もあります。「ロニー、久しぶりです」「おう、シンジ、その後バンドはどうなった?」「いや、高○も他のメンバーもそろそろ就職の心配してて、もうバンドどころじゃなくなっちゃったですよ」「で、シンジはどうするんだよ」「ああ、俺は別段すぐに就職しなくても良いんで、もう少し考えてから結論だそうかと思ってます」そんな話をしているところへ、なんと立川の新○社長が若いおねーちゃんを連れて突然現れました。「ほー、これがDJブースか。ちょっと中見せてくれる」そう言ってブースの中を覗き込む社長。「スピーカーはJBLかぁ」意外に詳しそうな社長です。「ターンテーブル2台とミキサーがあれば良いんだな」勝手にブツブツ言いながらアチコチを見ています。「じゃ、明日作っとくから、ロニー見に来てくれよ。後は照明だな。」作っとくからロニーって、結構軽い社長です。本当に出来るんでしょうか。「俺は元々電気屋だから、こんなものだったらすぐ作れるから心配すんな」別に心配はしてないけど、ブース作ったからってディスコが出来るわけじゃないし、と思っているところにシンジの顔が目に入りました。「社長、実はボクの見習いなんですけど、こいつにやらせようと思ってるんですけど、どうでしょう?」シンジ、ワケ解っていませんが性格がよいので終始ニコニコしております。「シンジ、ほら挨拶しろよ、こちら新○社長」「○木シンジです」「見習いって、ちっとはデキるの?」って何がデキるんだかわかりませんが、どうせ立川ですからお手頃でしょう。「いや、まだちょっとソウルとかファンキーとかは教えてるんですが、ロックンロールとか、特にフィフティーズにはメチャクチャ詳しいですから、立川あたりだとまだツイスト踊ってる子も結構多いでしょ。(ほんとかよ)だから丁度良いと思うんですよねぇ。まあ新人ですからギャラは20ってことで良いですから」そんなことベラベラと言われたところで意味の判る社長ではありません。シンジも、まだ何がどうなているのかすら理解できていません。新宿歌舞伎町のど真ん中、しかもこれだけデカくて煌びやかなディスコの花形DJ(笑)がそう言うんですから、無条件で頷く新○社長でした。「そうか、ロニーがそう言うんなら任せるよ」「ありがとうございます。ほらシンジ、お前もちゃんと礼言え」「えっ、あっ俺? あ、ありがとうございます」(本人はもう何が何だかわからん状態です)というわけで立川スタジオファイブのオープンDJシンジのデビューが決まりました。新○社長が帰った後、コトのあらましを聞かされて異常に驚いたシンジでした。「お、俺にできるかなぁ」「できるよ。DJなんて誰だってできる仕事なんだから」「でも、俺、ディスコだってあんまり行ったこともないし」「大丈夫、曲さえ知ってればバンドと一緒で、要はどうやってお客をノセるかってことだけだから」「んじゃロニー、教えて下さい。俺、ホント何もわからんもんで」興奮すると清水弁がでるところはC子と同じです。「じゃさ、俺のレコードとか貸してやるからさ、C子に電話して一緒に取りに行くからって言ってくれる?」(なんじゃい、結局はそーゆーことだったんかい)やりました。お調子者の策略は大成功。その夜シンジと二人してC子のもと、久しぶりに高円寺亀屋マンションを訪れた委員長でした。
2005年10月12日
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杉並区高円寺南亀屋マンションへの出入りを差し止められた委員長は、しばらくの間独身生活を強いられることになりました。(って、もとから独身だろ)この当時、C子もルームメイトが帰郷し、一人でマンションをそのまま引き継ぐか、別に部屋を探して住むかという岐路に立たされていました。もちろん相談を受けた委員長は二人で借りようと提案しましたが、今ひとつ煮え切らないC子でもありました。何故かと言えば、ひとつには大学をどうするかという問題を抱えていたからです。彼女は音大に通っていたのですが、どうもJAZZヴォーカリストへの道を歩みたかったようで、未だ心の整理がついていないようでした。実は、彼女は数年前に母親を亡くしており、ピアノとクラシックは母親の面影として心の中でずっと引きずって来ていたようで、その道から外れることに躊躇があったようでした。そんな不安定な精神状態の時に委員長の疑惑ですから、一人になって考えてみたいという彼女の気持ちもよくわかりました。(お前が悪いんだろ)なんだかんだ言っても上京して2年目二十歳の彼女にとっては、委員長と出会ってからのこの1年間の顛末はかなりな刺激でもあったようで、ゆっくりと自分の人生について考える暇も無かったのだと思います。委員長はマジでC子に惚れていましたから、そんな彼女との関係もここらで冷却期間をおいたほうが良いのかな等とも考えました。(惚れてるんならくだらねーことすんなよ)とは言うものの底なしの大馬鹿野郎の道楽者ですから、毎晩一人でふらふらしていると、結局はまたまた忍び寄る欲望に身を委ねてしまう委員長でした。(しょーがないね、このお調子者だきゃあ)しかもこの頃は、トゥモローUSAと下階のワンプラスワンの両方に出入りしていましたから、そりゃもう遊び放題好き放題みたいなもんで、更におとぼけキャラは絶好調で始終委員長の周りには取り巻きが屯するというような状態になっていきました。特に後輩のヒロシやサム岡田は深夜番に回されたということもあって、営業終了後から始発までの時間を持て余しており、彼らが委員長につるんでくるのも仕方の無いことでした。当時流行のインベーダーハウスや映画のオールナイト、ボーリング、ビリヤード、麻雀、ビンゴ、ポーカーゲームと夜の遊びオンパレードで、皆委員長が先頭に立って悪い遊びを仕込みました。特に東宝会館地下一階にあったビンゴハウスは換金ができたので、仕事の後は必ずここに立ち寄りました。(もちろん違法ですよ)摘発されるまでしばらくは日課となって通っていたほどでした。まあ、しょーもない道楽者が集まれば博打か女しかないわけで、委員長にくっついて皆しっかりと修行を積んだわけです。しかし、DJグループには不思議と酒にはまる、いわゆる飲兵衛が少なかったのは意外でしたね。(酒より危ないものにはまった奴はいたケド)そんなこんなで毎晩夜の歌舞伎町をふらふらしていたのですが、当時は省エネ対策とやらで深夜の歌舞伎町は結構暗かったですね。ディスコも早閉まいさせられたりしてましたから、結局夜中はこんなことして暇潰すしかなかったんですね。「ラスベガス」なんてゲームセンターもありました。スロットとかポーカーとかビンゴとか置いてあるんですが、みなゲームコインで換金は出来ませんから、これはあんまり熱くなれませんでした。あと、深夜のボーリング場が結構流行っていたのも意外でした。三丁目あたりも省エネ規制だったのでしょうか、ゲイとかモーホーのお兄様達が割りと多く来ておられました。たまにお隣のレーンなどでご一緒したりすると、すぐに道楽者の匂いを嗅ぎ付けて一緒に賭けボールをしたり、名刺を頂いてご招待を受けたりもしました。彼らはメチャクチャ面白かったですね。話術が素晴らしいと言うか、決して相手を飽きさせません。それがイヤミでもなく人生をジョークにしてしまうセンスは、同じ芸人(ゲイ人じゃないよ)として見習うべきところが沢山ありました。「芸のためなら女房も捨てる~」とか言いますけど、こんな遊びは決して芸の肥しにはならないと思います。特に博打などは所詮金のやり取りですから、邪悪な心も引きずり込んでしまいますし、女遊びにしたって最後は情念の世界に落ち込んでいくだけのことです。こんなことが芸の肥しになるって言うのなら、歌舞伎町は芸人だらけになってしまいます。肥しといってもせいぜい場数を踏んだ経験から、多少のことには物怖じしなくなるってことくらいのもんで、人間の裏の裏まで見たところでそれが人生のプラスになるとは到底思えません。フツーが一番です。確かに道楽して得たものも数多くありますが、失ったものを考えるとやっぱりフツーに生きるのが一番です。ってそのフツーっていうモノサシが難しいですけど。とまあこんな具合に、自宅謹慎の身でありながら謹慎どころか、以前よりひどく羽目をはずすような乱れた生活を送るようになってしまった委員長でした。そんな暇を持て余した委員長にまたまた面白い話が転がり込んできたのでした。すっかり退屈男に成り果てた委員長に、ミュージシャンのヨンタナからしばらくぶりに電話がありました。しばらくトゥモローUSAの照明係で食っていたヨンタナですが、例のムラちゃんとの一件もあり、年明けと共にUSAを辞めミュージシャンに復職していました。久しぶりに電話で聞くヨンタナの声は活況としていて、何でも、先輩のいるビッグバンドに入りこみ立川のキャバレーに出演しているとのことでした。そんなミュージシャン関係で、近くにオープンしたディスコのオーナーが知恵を借りたいと相談を持ちかけられ、それならロニーを呼ぼうと電話をくれたとのことでした。早速ヨンタナの住む中央線武蔵境駅へ出張って行った委員長でした。久しぶりに会うヨンタナはまた一段とミュージシャンとしての風格が滲み出ていて、歳の割には随分と落ち着いて見えました。今はJAZZギターの先生について「モロジャズ」を学んでいるそうで、彼の部屋にはヘビーゲージが張られたセミアコと、ちょっと聞かされただけで眠くなりそうなモロジャズのレコードが散乱しておりました。さて肝心のお仕事の話ですが、何でもヨンタナの後輩バンドが最近立川にオープンしたディスコの仕事にありついたらしいのですが、元々がロックバンドだったのでディスコもののレパがなく、このままじゃ見切りをつけられそうだということで、ヨンタナにディスコヒットのアレンジを頼みに来た、というようなことでした。しかしアレンジと言っても3リズム(ドラム、ギター、ベース)にヴォーカルですから、いくらディスコソングをアレンジしたところでお客を踊らせるほどのレパはそう何曲も作れませんし、腕の方もどの程度か見ないことには始まりません。そう思ってヨンタナがそのバンドを見に行ったところ、その店のオーナーがヨンタナの入っているキャバレーの常連だったこともあり、ヨンタナの顔を見るなりプロが来たってことですっかり頼り切ってしまったというような話でした。とは言うもののバンドや音楽のことならまだしも、ディスコの企画や営業を相談されても自分では持て余すので助っ人として委員長を呼んだと言うような経緯でした。なによりもオーナーがヨンタナをそこまで信じきった理由と言うのが、そのバンドに月1本(100万円の意味ですね)も出していたと聞いて呆れ返ったヨンタナが、1本も出せばビッグバンドが雇えるギャラだと諭したことがきっかけだったそうで、初めてのディスコ開業とは言え、プロに笑われたオーナーはメンツを失い、それならお前に任すから何とかしてくれということになったようです。そこでヨンタナは単純に考えても半分のギャラでうまくまとめれば、これはおいしい仕事になりそうだと踏んで委員長を呼び出したということでありました。(うーん同じ穴の狢って奴ですね)さあ、そのディスコですが、立川駅南口の閑散とした商店街のはずれにある雑居ビルの地下がそのお店「スタジオ5」でした。凄いセンスですね。ディスコ・スタジオ・ファイブ。当時の立川は北口の方がやや栄えていましたが、南口はキャバレーやピンサロなどの色モノが多く、遊びの流れからはさほど悪い立地条件ではありませんでした。そして同じ南口にはディスコが1軒あって、近所の若者はここで踊りを踊っていたようです。名前も忘れたし、見に行ったこともありませんが、当時は中途半端な感じの街でした。ビルの階段を降りてドアを開けると4~5人ほど座れるバーカウンターがあり、目の前は6畳ほどのダンスフロア、そこにバンドのステージがあって、奥はボックスシートでキャパは20人程度のこじんまりとしたスナック風の店でした。奥のボックスに通された委員長とヨンタナはそこで社長が来るのを待ちました。と、早速バンド演奏が始まりました。プラウドメアリー~GET BACK~ロコモーションおい、ここはディスコやないんかい、って突っ込みたくなるようなバンド演奏でした。現れたオーナーの新○社長は四十前後の優男って感じの、ちょっと立川っぽいひとでした。(どんなんじゃい?)ヨンタナと委員長を見るなり、人懐っこそうな顔でいきなり「30万出す」と切り出してきたのには驚きました。「社長、いきなりそんなに言われても、まだロニーに説明もしてないし」「いや、もう全部任せるつもりでいるから」「あのお、ボク自身がここで働くわけじゃないんで、今日は見に来ただけですから」「なに?今いくら貰ってんの?」「いや、そういうことじゃなくてですね、ボクは今の仕事辞める気もないですし、ただヨンタナ、いや、竹○君に相談されて来ただけですから」いやはや、この社長のキャラにはちょっと驚きました。後で知ったことですが、土建業及び関連事業で身を起こした方だったので即金即決がモットーだったようです。当時DJのギャラの相場は15万円くらいでしたから、社長の提示した30万円はかなり破格だったと思います。しかしこの立川の夜は寒かったですね。都内に比べて確実に2℃は気温が低かったと思います。(南方系の委員長にはこの寒さが辛かった)さあそして新しい道楽者の舞台がまたひとつ増えました。立川スタジオファイブ。(スタンド・バーみたいだよね)
2005年10月11日
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さて昨日登場した照明係の本○君ですが、彼は劇団「円」に所属するれっきとした舞台照明のプロでした。お父様がやはり同様の職人であったらしく、彼も18歳で大道具・照明の世界へ入った筋金入りの職人でした。毎日が面白ければ良いなどとテキトー極まりない生き方をしていた委員長とは正反対で、舞台照明という仕事にプライドを持ち、自身の生き方をきちんと見極めた人生を歩んでいる若者でした。(同い年とは思えないくらいしっかりしてましたね)でも、結局彼も言うなれば道楽者ですから好きなことだけでは生活していけません。ということで、人生賭けた照明係の仕事を続けるためにディスコ、キャバレーなど照明に携わる仕事で生活を維持していたのでした。相変わらずお調子者の委員長は、ちょっと興味のあることには何でも首を突っ込みたがる性格をしていましたから、この彼の所属する劇団「円」の舞台公演なんぞを新宿紀伊国屋ホールとかに見に行ったりしました。座長は故仲谷昇さんで、演劇というものには結局馴染めませんでしたが、ひとつの舞台を皆で作るという作業は音楽も同様で、幾人もの職人さん、裏方さんの支えで成り立っていることをあらためて勉強させられた良い経験でした。差し入れには必ず「裏方さん一同様」と筆入れしてもらうことが喜ばれることもこの時覚え、後の世渡り人生ではこの教訓が大変に役に立ったりしました。この本○君と委員長は結構ウマが合って、時々おねーちゃんをナンパして一緒に飲みに行ったりしたんですが(って結局はそーゆーオチかぁ)、彼の偉いところはどんなに酔っ払って朝方まで呑んでても、翌日が舞台稽古だと始発にはしゃきっとして自宅に帰るんですね。決してそのまま仕事に行くようなことはありませんでした。中々気合の入ったヤツでした。ある時などは腰が抜けるほど酔っ払ってしまったにも関わらず、居酒屋に委員長とおねーちゃんたちを残したままふらふらと新宿駅に終電めがけて突き進んで行ったのです。いくら道楽者のスケベ野郎とはいっても、おねーちゃん二人を相手に頑張るほどの根性者でもありませんから、その夜は電車で帰ろうと二人をエスコートして新宿駅まで来ると、突然尿意を催した委員長は構内のトイレに駆け込みました。終電間際は結構トイレも混雑してますから、イライラしつつ大用の方を除くとそのドアは半開き、そこにしゃがみこんでいる男のGパンはどうも見覚えがあります。しゃがみこんでいた男はいきなり立ち上がるとギャオーと便器めがけて雄叫びを上げます。(汚い話でゴメンネ)お~っと、なんとこのギャオスは本○君ではありませんか。すかさず脇に寄って肩を貸すと、「す、すいません」としょげ顔の本○君、委員長とは気付きもせずかなり酔いが回っておリます。「本○君、大丈夫かよ」と声をかける委員長にドキッとした様子の彼。「あ、あれ、ロニー、なんでこんなとこに居るの」「なんでじゃないよ、こんなんで帰れんのかよ」「だ、大丈夫、明日は8時集合だから、家帰って道具持って用意しなきゃ」「さっきの娘たちもまだそこにいるから、このままホテルでも行って寝た方が良いんじゃねーの?」「だめだめ、明日は稽古だから、家から出ないといけないんだ」何ゆえそこまで彼がこだわるのかはわかりませんが、そうまで言われては後に続く言葉もありません。「ロニー、俺のことならほっといて良いから、先に行ってよ」「行ってよ、ったって本当に大丈夫かよ」「ああ、大丈夫だから、ほっといてくれて良いから」そうまで言うなら仕方ありません。肩をはずすとまたその場にへたり込む本○君。(そう簡単にダチを見捨てるなよなぁ)「じゃ、俺行くけど、ホントにだいじょぶだね?」弱々しく上げた手でシッシッの仕草をされ、その場を立ち去る委員長。用済ませてトイレから出るとおねーちゃん二人もだいぶ酔っ払っていて、二人で肩を組んで立ってます。「遅かったねぇ~、早くしないと乗り遅れるよ~っ」「はいはい、今行くからね~」すっかり何事も無かったかのようにさっさと総武線のホームに向かう薄情者でした。さてかろうじて終電に乗り込んだ委員長とおねーちゃん二人ですが、どうもおねーちゃん二人の様子が変です。小柄な二人組の片割れ赤毛の丸顔がニヤニヤして委員長に耳打ちします。「XX子、だいぶ酔ったみたいでさ、気持ち悪いんだって」えっ、こいつもかよ。やだなぁ~、まさかこんなところでギャオスに変身なんてこたぁねーだろうなぁ。「だ、大丈夫か?」と彼女の顔色を伺いましたが、別に悪酔いしたようには見えません。電車は大久保駅に到着。赤毛の丸顔が委員長とXX子の肩を押し出して無理やり降車させました。なるほど、そういうことかい。プシューっとドアが閉まって、車内の赤毛の丸顔が二人に手を振ってます。ということでいつものコースへと向かう委員長でした。さて翌日は何故かべったりと張り付かれてしまったXX子と夕方まで一緒にいて、そのまま出勤と相成りました。本○君も無事出勤しております。「本○君、昨日はちゃんと家に帰れたの?」「ああ、何とかたどり着いたよ」「そりゃ良かった。ほったらかしにして帰っちゃったから心配だったんだよね」「大丈夫。親父のゲン担ぎでね、舞台のある日は必ず家から仕事に出ないと公演が無事終わらないって言うんだよ」「へぇ~、そんなもんなんだ」「ああ、長いのになると1ヶ月以上続くから、どうしても気が弛むだろ。だから必ず家に帰るって縛りがないと緊張が保てないんだよね」「へぇ~、プロの職人って感じだなぁ」(お前も爪の垢でも煎じて飲め!)とまあ、彼とは馬鹿な付き合いもしてはおりましたが、そんな職人肌というか玄人気質が好きで一目置いておりました。さて、その晩はC子が仕事の帰りに委員長をお迎えに来ました。昨夜は本○君を介抱して終電に乗り遅れたから実家に帰るという、真っ赤なウソの電話を入れてしっかり脂ぎってしまった委員長、まさかC子がお迎えに来るなどと言う荒技にでるとは思ってもいませんでした。こういう後ろめたい気持ちのときはどうしても一人では不安です。早速、生き証人本○君を巻き込んで、帰りに一緒にご飯などを食べて帰りましょう、などとお誘いしたのでした。委員長はC子と本○君を連れて歌舞伎町裏の炉辺焼き屋へ入りました。「あんた昨日から着替えてないの?」(清水弁では気軽にあんたと言います)委員長はほぼ毎日衣装を着替える習慣がありましたので一瞬背中に冷や汗が流れます。(やばっ!)「おふくろはさぁ、洗濯とかしてくれないから、着替えらんなかったんだよ」(疑惑の眼差しのC子)「髭も剃ってないじゃん」(ぎくっ!)「いや、あの、昨日はさ、ロニー、俺が酔っ払い過ぎて付き合わせちゃったから、寝坊させちゃったみたいだね」(本○君の助け舟、ナイスフォローです)「そう、昨日は大変だったよな。こいつ駅のトイレでゲーゲーいっちゃってさあ」「あんたも飲んだのかね?」(マジになると清水弁がモロ出ます)「いや、俺は飲めないから介抱できたんじゃん」とまあそれとなくC子の追求も交わしながら、牡蠣の土手鍋などを突付きつつ杯も進みます。ちなみにC子は酒が強いので、本○君とふたり結構早いピッチで日本酒が入ります。特にこの夜はC子の頭は疑惑で溢れていますから、いつものペースよりかなり早く出来上がって行きました。昨夜と同様終電間際まで飲んで、店を出た後は早足で新宿駅へ向かいます。息せき切って駅になだれ込むと同時に本○君が言いました。「俺ちょっとトイレ行くから先に行っていいよ」「大丈夫か、また昨日みたいにゲロンパしないだろうな」「大丈夫、大丈夫、今日はオシッコだけだよ」「じゃ今日も俺たち先に帰るぜ」語るに落ちるとはまさにこういうことです。この後しばらく亀屋マンションを出入り差し止めとなった委員長でした。
2005年10月10日
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サタデーナイトフィーバーに続く第二次ディスコブームは、スタジオ54から火が付きました。曲間をビートでつなぐMCなしのDJスタイルが日本に紹介されると、早速日本でもピッチコントロール付のターンテーブルが普及し始め、スターターもワンタッチで立ち上がるディスクドライブなど、テクニクスを筆頭にDENONなど各社がこぞって新しい技術を続々と発表しました。サウンドの方でも、いわゆる黒っぽい(黒人系)サウンドからオーケストラ張りのイージーリスニング・ダンスナンバーのようなものが主流となってきたのもこの頃でした。「サンフランシスコ」でデビューを飾ったビレッジ・ピープルは「マッチョマン」「YMCA」と大衆ディスコのアイドルとなりました。この背景にはLAやシスコでのゲイパワーの台頭や、性差別に対する運動がありました。そしてこの時代の立役者はなんといってもCHICの登場でしょう。ダンスダンスダンス~おしゃれフリークの一連のヒット快進撃は世界的なディスコブームの起爆剤となりました。いや~カッコよかったですね、このサウンドは。まさしくシックでエレガント、そしてちょっぴりファンキー、今までのダンスフリークも勿論シビれました。更に彼らがプロデュースしたシスタースレッジの華麗なる変身には旧ファンも度肝を抜かれました。グレーテスト・ダンサー He’s a greatest dancer 強烈なインパクトでした。シンプルなビート&サウンドにストリングスが被り、セクシーなヴォーカルとコーラス、まさに新しい時代のディスコ音楽といった感じでした。個人的に委員長は、EW&Fによるエモーションズの復活と、このCHIC(ナイルロジャーズ)によるシスタースレッジの復活は、音楽史に残る最高の出会いであったと思います。そして「We are Family」の大ブレイク超ヒットで一躍トップに踊り出た彼女達、この年の最高傑作アルバムの1枚と言えそうです。その他、セリビーの愛の翼とかイブリンシャンペンキングのシェイムとか、FUNKとPOPが融合したディスコサウンドのようなものが主流になり始めていきました。このあたりからはレコードの方もジャイアント・シングルなるものが続々と出始め、ビートでつなぐためのロングバージョンがDJ業界を席巻しはじめました。さすがに新しモノ好きの委員長もこれにはちょっと閉口しました。だってドラムとパーカッションだけで延々と続く間奏部は、正直言って何の意味もありませんよね。ただ音をかぶせてつなぐためだけにとってつけたようなものです。まあ、いまにして思えばデジタル化への幕開けだったのでしょうかね。この当時で個人的に印象に残っている曲と言えば、何と言ってもチャカカーンのWoman in a man’s worldですね。シングルヴァージョンではアルバムタイトルのI’m Every WomanにカップリングされていたB面でしたが、中々粋なサウンドとチャカのパワフルなヴォーカルがイカしてました。サックスはデヴィッドサンボーン、バックはほぼスタッフです。真赤なアルバム・ジャケットも印象的でした。ちなみに、しばたはつみさんが日本語でカバーした「はずみで抱いて」ってのもありましたが、原曲が素晴らしすぎましたからイマイチ企画倒れでした。当時のトゥモローUSAはその店名と、日本一のダンスフロアー面積が売り物だったせいか、よく内外のタレントが遊びに来たりしてましたが、ちょっと面白いエピソードがひとつありますのでご紹介しましょう。その日は確か平日で、客の入りもたいしたことなくフロアで踊っている客もまばらで、委員長も適当にウケ狙いの選曲でだらだらとサラを回しておりました。時間ももう既に10時を回って、早番出勤のお客様などは早々と退店された後、やや閑散とした店内でありました。そんなDJブースの委員長の元へ地味なオバちゃんがやってきて、ジャクソンファイブの曲はあるかと聞いてきたのです。「あることはあるけどかなり古いのしかないよ」と答えると、オバちゃんは、「何でも良いからかけて下さい」と言い残して立ち去りました。うーん、弱ったオバちゃんだなと思いつつ、こんな時にこんな古い曲かけたらフロアはシラケルだろうなぁ、それでなくても客少ないのに、などとブツブツ独り言を言いながらレコードラックから取り出したアルバム「モータウンヒット全集」2枚組でした。かなり年季の入ったレコードは、往年のモータウンヒットがぎっしりと詰まった博物館の骨董品のようなシロモノです。ジャケットはボロボロ、シングルジャケの写真が適当に散りばめてある、いわゆるオムニバス盤ですから、音源もあまりよくありません。時々、大昔のステップ愛好家の歳喰ったねーちゃん、にーちゃんが来た時用の非常用でした。選曲を見るとジャクソン5はABCとさよならは言わないでの2曲の他、マイケルのベンのテーマ、アイルービーゼアなどが入っておりました。(ABC以外はスローですね)こんなことなら自分のレコード持ってきたのになぁ、と思ったりしましたが選択の余地はありません。仕方なく年季の入ったABCをプレーすると、案の定お客はパラパラと席に戻っていきます。あーあ、だから言わんこっちゃない、とリクエストに来たオバちゃんを妬ましく思いつつも、こうなったら懐メロで攻めたろかいってなもんで、同LPから選曲していると、いつの間にかフロアにはさっきのオバちゃんとちょっと太めのスーツ姿の黒人がフロアで踊っているではありませんか。へー、中々変わった芸風やね、と思いましたが、どうも黒人のオッサンの方は中々の紳士で、委員長がいつもお相手するようなGIとかミュージシャンという感じではありません。うーん、黒人のインテリって感じだねこれは、だから古い曲が好きなんだろ、などと勝手な理屈で自分を言い聞かしながら、そんならこれもいけるだろうってことで、次はスティーヴィーの迷信・スーパーステーションをかけました。スーパー・ステーションってすげぇ駅があるのかって、くだらないこと言ってる場合ではありません。フロアのオバちゃんと黒人のオッサンはスタスタとフロアを下りてしまいました。そしてオバちゃんはまたしてもリクエストにやってきたのです。「ジャクソン5かけて下さい」(こりゃ相当のマニアだね)「ごめんなさい、あとの曲は皆スローナンバーで踊れる曲がないんですよ」「じゃあ、そのレコード見せて下さい」えっ、レコード?見るの?一瞬躊躇した委員長でしたが、こんな汚いレコード見たらあきらめるだろうと思ってレコードをジャケットごとオバちゃんに手渡しました。するとオバちゃん、レコードを手に持ってスタスタと自分のテーブルに行くではありませんか。(こらこらどないするんじゃい)あーあ、何か変な客に当たっちゃったなぁ、みたいな目が点になった委員長。しばらくするとオバちゃんレコードを戻してきて、今度はブースの裏手から中に乗り込んできました。(こらこら勝手に入ったらあかんがな)「あの、ジャクソン5が来ているんです」(突然何を言い出すのでしょうかこのオバちゃん)「えっ?どっかでコンサートでもあったんですか?」「いえそうじゃなくて、ここに来てるんです」「えっ?ここに?」(どこにおるんじゃい!)「はい、ちょっと紹介していただけませんか」「しょ、紹介って、どうすれば良いんですか」「ですから、マイクで言ってあげて下さい」弱っちゃったなぁ、誰だよこんな変なバーさん連れてきたヤツは~。「この人です」と言ってオバちゃんはレコジャケの写真、ジャクソンファイブの集合写真の一番後ろに立っている大男を指差しました。「これってドラムのティトでしょ?」やっと解ってもらえたというような安堵の表情を浮かべたオバちゃん、「そうです、そのティトさんが来ているんです」ようやく委員長の頭のランプがチャイムを鳴らして点灯しました。ピンポーン!あの品の良い黒人のオッサンがティト・ジャクソンだったのです。「えー、今夜はなんと、あのジャクソンファイブのメンバー、ティト・ジャクソンさんがトゥモローUSAにお見えになっています」委員長がば~ん!とアナウンスを入れます。照明係の本○君が再びジャクソン5のABCを回します。客席からスーツ姿の黒人、さっきのオッサンがフロアに現れました。照明が煌びやかに輝く中、ちょいと太めのティトが踊りながらフロアで客席に向かって手を振っています。場内からはパラパラと拍手が巻き起こりました。だだっ広いフロアにぽつんと立ったままのティト・ジャクソン、フロアの対角線上に交差する七色の照明、空ろな表情の委員長。(どう収拾したら良いのでしょう)しかし、そこは何と言っても苦労人の委員長です。早速フロアに出て行って握手を求め、更にボロボロのモータウンオムニバス(ビクターレコード社製)にサインを頂きました。ジェスチャーで彼を客席に戻すフリと客席に拍手を求める委員長。またも客席からはパラパラと拍手が閑散としたホールに鳴り響き、黒人音楽の歴史的なグループの元リーダー、ティト・ジャクソンは満足気に自分のテーブルへと引き上げて行ったのでした。ブースに戻ってナイスフォローの照明係本○君に礼を言うと、「いくらなんでもこれじゃ可哀想だったよね」とポツリ一言。せめてジャクソンズのジャケにすれば良かったかなぁと反省しましたが、すでに現役引退している彼には失礼だろうなぁ、などと大きなお世話や心配をしましたが、人知れず店を去っていたお二人でした。「一体なんだったんだろうね」と問いかけてきた照明野郎の本○君。彼は生粋の裏方職人。しかも親父と二代続く舞台照明のプロでしたから、ステージの演者さんの気持ちが非常によく解る人でした。歳は委員長と同じでしたが、中々根性の入った職人志向のタフなヤツでした。せっかくですから明日は彼のお話をしますね。
2005年10月09日
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1979年は、幕開けから次から次へと仕事が委員長の元へと舞い込んで来ました。まあ、ジュリーとのコンビ復活や、その後ろにど~んと控えていた日本フォノグラムの渡部氏などが委員長のキャラクターを気に入ってくれたことで、もうこのころはほとんどタレント気取りでしたねぇ、恥ずかしながら。でもって、昨日お話した「ラスプーチン」に続いて、今度はなんとレコードジャケットのモデルなどという大変おこがましい仕事が巡ってきたのでした。これも、もちろん渡部氏の大抜擢で、要は渡部氏の構想にあった和製ビレッジピープルってのを委員長にやらせてみたいがための業界売り込み作戦の一環だったわけです。さてそのお仕事は、渡部氏監修のベスト・ディスコ・ヒットなる2枚組のLPのジャケットのモデルということで、な、なんと相手はアメリカ人の若いおねーちゃんと聞いて喉をゴロゴロ鳴らしながら撮影現場に出向いた委員長でした。って、現場はもちろんトゥモローUSAですね。(当然ですよね)渡部氏からの要望で、ジョントラボルタ風にってことで白のスーツを着こんで挑みました。よくありがちな便乗モノみたいな、サタデーナイトフィーヴァー風なジャケで売ろうと言う魂胆ミエミエです。もちろん中味は全て日本フォノグラムですから、ベビーシッターだのオハイオプレーヤーズだのごちゃ混ぜですね。さて現場に着くと、それなりのプロカメラマンと渡部氏が待機しておりました。おいらの相手はどこじゃ?とあたりを見回しましたが、それらしきおねーちゃんはおりません。クルーは照明だのレフ版だの花だ提灯だ(またかよ)と用意を着々と進めます。そんな現場へちょいと小柄なぽっちゃり系の青い目をしたジーンズ姿のお嬢ちゃんが現れました。彼女は渡部氏やカメラマン、その助手に向かって、手当たり次第に英語でベラベラ喋り出しました。カタコト英語とカタコト日本語でようわからん会話が続きましたが、そこへ大きな衣装ケースを抱えたスタイリストのオバちゃんがアタフタと現れ、ようやく意思疎通が図られました。なんとこのオバちゃん、モデルクラブのマネージャー兼スタイリストということで、英語も堪能でした。少なくともディスコサウンドなんぞに関わる業界の人間が誰一人満足に英語も話せないというのに、このぷっくらした中年のオバちゃんはアメリカ人モデルに英語でテキパキと指示を与え、しかもカメラマンの要望なども聞きつつその場を取り仕切ったのでした。(人は見かけで判断してはいけませんね)栗毛に青い瞳のぽっちゃりとした可愛い娘で、彼女の名前はマリー。発音ではそう聞こえましたが、メアリーだかマリーだかは定かではありません。(そんなこたぁどーでも良いだろ)事前に用意されていた真赤なフリルのドレスに着替えると、オバちゃんがパッパッとメイクを施し真赤な口紅が入る頃には、おおっ~と声を上げそうな美人モデルが一丁上がりみたいな感じでした。カメラマンの指示で、二人してジルバのような踊りを踊りながら「ポーズ!」の声でストップしてシャッターがバシャバシャと切られます。手をつないで肩を抱いてポーズ、青い目のおねーちゃんに見つめられて微笑まれた委員長は完全に目の玉ハートマーク、心臓ドキドキ・バクバクって結構やばかったですね。でも肝心なカメラワークは彼女の正面と委員長の後姿って構図ばかりでした。(当たり前ですね、プロのモデルでもないのにいきなり顔は写して貰えません)渡部氏の強引な要請と言うか、経歴作りというか、要は踊れてそれなりの男なら誰でも良かったわけですが、まあそれなりに楽しんだ委員長でした。1時間ほどで撮影は終了。撤収作業などを行っているうちに、店の従業員などが営業準備を始めだしました。彼女はお着替えもせず、スタイリストのおばちゃんに言われるまま衣装は着たまま、現地解散と言うことになりました。おつかれさまでした。青い目のおねーちゃんは渡部氏に、少しここで遊んでいって良いかなどと尋ねました。きっとこの店の関係者だと思ったのでしょうね。渡部氏は委員長にどうする?と尋ねましたが、当然と言わんばかりに鼻息の荒くなった委員長はすかさず彼女をDJブースまでエスコートし、ブースの後ろのテーブルに付かせると、弟分の小鷹ウェイターを呼び、お飲み物などを注文して上げました。もう彼女の笑顔からはオーラが溢れ出て、緊張する委員長に彼女は「あなたもモデルのお仕事をしているの?」などと聞かれ、待ってましたとばかりに、「ノー、アイアムDJ」などとおおイバリのポーズでお答えすると、「Oh」と言って驚いておりました。すっかり調子くれた委員長はこれ見よがしにDJブースに入り、営業前のBGMで適当なレコードをターンテーブルに載せて回しました。とそこへ早番のリト君登場。リト君、真赤なドレスの青い目のお嬢ちゃんに一瞬驚きましたが、委員長の白いスーツ姿を見てなにやら状況を把握した様子。早速、ブースに入るとリト君の大好きなビージーズ特集から入りました。NIGHT FEVER (この二人の格好見りゃそうだろうなぁ)「Would you like dance?」「おーイェス、イェス」ってなもんで、まだ口開けの誰も居ないフロアで踊り出す二人。委員長は天にも昇る気持ちで夢の世界を漂いました。更にリト君調子に乗ってメドレー~Staying aliveおおーまさしく私たち二人はサタデーナイトフィヴァーじゃんこれは。彼女は満面の笑みを溢して委員長と楽しく踊っております。リト君もう一発ビージーズ(かなり彼の趣味ですね)Subway~”Take me to the subway”リト君がここで英語のMCを一発入れました。「Take you to the subway・・・・・(覚えてません)」彼女はこのMCに反応してリトに向かって笑顔でウィンク。(く、くっそ~、英語ができないのが悔しい~)この曲、ディスコと言うよりは軽快なポップスといった感じですが、やはり白人系ティーン(彼女の歳は知りませんでしたが、たぶんね)に人気のありそうなメロディーです。結構ノリノリで踊る彼女と、委員長はそのお相手をしている自分にかなり酔ってました。さあリト君、最後の決め手はアンディギブのシャドウ・ダンシングです。おーっと、彼女赤いフリルのスカート、腰を振って絶好調です。Do it right, take me through the night, Shadow dancing~なんと彼女はこのフレーズを口ずさみます。しかも微笑みながら委員長の顔を見つめて唄ってくれてます。(ってその時は何故かこのフレーズがストレートに耳に入ってきました)言葉は聞くんじゃなくて心に直接飛び込んでくるんですね。冗談抜きで「歌」の真髄をこの時体感しました。(ちょっとマジです)ということで、この曲の終了と共に彼女はご帰宅です。「Can you take me to TAXI?」(そんな感じだったと思います)委員長は彼女を歌舞伎町の裏通りまで送ってタクシーを止めました。赤いドレスを翻しタクシーに乗り込んだ彼女は手を振って去っていきました。えっ、これでお別れなの?当たり前ですね。英語もろくにわからんようなヤツとお付き合いするほど暇じゃありませんよね。興奮冷めやらぬ委員長は夢の中を漂っておりました。店に戻るとリトがニヤニヤして聞いてきました。「ドコデナンパシタノ?」「違うよ、仕事だよ、仕事。彼女はモデルさん」「チャントデンワバンゴーキイタ?」し、しまった~!そうだよ電話番号くらい聞いておけよな~。(後の祭りです)でもひょっとすると彼女方から尋ねてくるかもしれない。はい、いつもの道楽者ドリームはかれこれ1週間以上は続きました。しかもよせば良いのに、同棲中のC子に「アメリカ行っても良いよ、勉強してこいよ」などと調子くれた委員長でした。実はこの仕事の数週間前に、C子にサンフランシスコ行きの話が持ち上がったことがありました。当時彼女は区役所通り近くの女子大生パブで働きながら、JAZZヴォーカルのレッスンを受けておりまして、その歌の先生からの紹介でシスコのクラブでピアノ弾き語りを募集しているという話が舞い込んで来ました。相談を受けた委員長は、いきなり一人で渡米するってのはかなりヤバイんじゃないかってことで、もうちょっと詳しい話をちゃんと聞いてからにした方が良いぞ、などとアドバイスをしていました。(半分は彼女が居なくなったら淋しいってことなんですけどね)でもって、彼女の兄貴とかが先方のエージェントと会って話して来たらしいのですが、どうもメインはウェイトレスっぽい感じだったようで、結局話はまとまりませんでした。そんな経緯があったにも関わらず、今度はイケイケで奨める委員長を訝しく思うC子でした。「何で急にそんなこと言うの?」「いや、何か俺がチャンスを潰しちゃったみたいで、ちょっと悪いことしたかなぁと思って」(よく言うよ、このテキトー抜かし野郎は)「ありがとう。でもこういう大きなチャンスはそう何度もないと思うから・・・」結局最後の最後まで、二人の道楽者ドリームは高円寺亀屋マンションからは飛躍できませんでした。なお、出来上がったレコードジャケットは、委員長の後姿、横顔の部分はミラーの反射でフラッシュになっていて正体は不明でした。自分で言わなきゃ誰もわかりませんね。。。。。
2005年10月08日
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1979年元旦は、米中が30年ぶり国交樹立のニュースが幕開けとなりました。そして正月早々大阪市の三菱銀行北畠支店に猟銃男が強盗に入り、4人を射殺、行員と客40人を人質に篭城するという衝撃的な事件が起こりました。犯人の梅川昭美は射殺されましたが、なんと彼の頭はアフロヘアでした。(だからってソウルマンじゃないよ)後に高橋伴明監督、宇崎竜童主演で「TATOO(刺青)あり」という映画にもなりましたので、ご興味のある方は是非VIDEOでご覧下さい。(中々の秀作です)映画といえば、この年は邦画が随分と健闘しました。今村昌平監督の「復讐するは我にあり」緒方拳演じる連続殺人犯の話や、長谷川和彦監督沢田研二主演の「太陽を盗んだ男」、若山富三郎の「衝動殺人息子よ」などややピカレスク系ではありました。一方洋画では「エイリアン」や「スーパーマン」などのSF作品や、あの名作「ディア・ハンター」が公開されたのもこの年です。また、78年から始まった「スペースインベーダー」の大ブームが日本国中を席巻しました。凄かったですね、このブームは。どこの喫茶店に行っても必ずありましたよね。言ってみれば、ゲーム王国ニッポンの幕開けとも言える元祖テレビゲームの登場でした。なんであんなに夢中になったのか今も不思議ですね。パチンコと違って何の見返りもなく平気で何万円も突っ込んでいったんですから、非生産的行為極まりないですね。ゲーム代欲しさに子供の犯罪が多発して、ダイエー・チェーンなどでは自主撤去したり、ちょっとした社会問題にも発展しました。一方対照的に第二次オイルショックから省エネが叫ばれ、ディスコの営業時間が短くなったりしました。東京中のネオンが制限されたり、一体あの騒動もなんだったんでしょうね。省エネルックとか言って半そでのジャケットなんぞ着た政治家が偉そうにしてましたが、そんなら上着脱げばいいじゃんみたいな感じで、今にして思うとやってることが結構間抜けでしたね。音楽アーティストで言うと、レゲエの王者ボブ・マーリー、スウィートソウルマン・マーヴィン・ゲイなどが初来日しました。そしてこの年7月にソニーのウォークマン1号が発売されました。サスーンのジーンズにウォークマン、ナイキのジョギングシューズといったファッションが最先端を行き、ウォークマンでディスコサウンドを聴きながらローラースケートを楽しむなんてのがちょいとした流行になりました。そういえばローラーディスコなんてのもありましたっけ。委員長は行った事ありませんが、一瞬の出来事でしたね。一般大衆的に言えば、ディスコダンスさえまともに踊れないのに、ローラースケート履いて踊らせようったって無理と言うものです。よく考えればわかりそうなもんですが、時代の先取りとか言って調子コイた資本主義の手先がいたんですね。馬鹿者、いや失礼、若者たちをたぶらかしてゼニ儲けしようったって、相手見てから考えましょうと言う教訓でした。そんな時代のディスコの方ではマイケル・ジャクソンとクインシー・ジョーンズがタッグを組んだアルバム「オフザウォール」が、空前絶後世界的超爆発的大ヒットを記録し、SOULブーム再来のきっかけとなりました。(ヤッターッ!)そしてディスコの中心は新宿から六本木へと移って行ったのでした。後のサーファー・ディスコと呼ばれる六本木キサナドゥがオープンしたのもこの年でした。テレビでは武田鉄矢主演の「3年B組金八先生」が脚光を浴び、たのきんトリオが登場、この後しばらく金八ブームが続きました。本の方では吉行淳之介の小説「夕暮れまで」が話題になり、夕暮族なる流行語も生まれ、怪しげな男女交際クラブも登場しました。また、ギネスブックの日本版が刊行されベストセラーとなり、洋書ではもうひとつ有名な「ジャパン・アズ・ナンバーワン」が、右肩上がりで上昇する日本経済を背負って立つ企業戦士の間でバイブルとなりました。そしてこの年の日本レコード大賞は、なんと西条秀樹のYMCAでした。まさに時代ですね、ディスコ歌謡の本命と言ったところでしょうか。更に、覚えてますか「天中殺」?「算命占星学入門」なる本が単行本セールス第一位となり、占いブームが巻き起こり、やたらと流行った言葉が「天中殺」でした。この言葉に随分と脅かされた方々もいたことでしょう。委員長などはひょっとして生まれ付いての天中殺ではないかと思ったりしました。ということで戦友ムラちゃん亡き後、委員長とジュリーのゴールデンコンビ(?)が復活し、後輩DJも入ってきてトゥモローUSAチームが出来上がっていきました。新宿歌舞伎町界隈のディスコも、みな似たようにDJがグループというか派閥のようなものを形成し始めそれとなくDJ業界みたいなものになっていきました。なんといっても当時はカンタベリー系の勢いが最高潮でしたから、オーティス中村氏を筆頭とした一大勢力(笑)みたいな感じでしたね。一方、松本みつぐ氏やイサムちゃんなどもしっかりと第一線の古株となっていました。更に全日本ディスコ協会もディスコDJ協会のようなものを組織しましたが、さすがにこれは地方中心で東京都内での加盟加入はほぼなかったのではないでしょうか。このころのディスコ協会は色々なことに手を広げすぎたせいか、業界内での評価は大分と下り坂でした。そんな時期に、またも取ってつけたようなDJ協会の発足でしたから都内ではほとんどのDJが関わらなかったと思います。結局は、仲間内でグループとか派閥みたいなものが自然に出来上がっていきました。トゥモローUSAはもちろんジュリー一派というような感じでしたが、委員長自身は一匹狼を気取っていましたから、まだこの時点ではさほどジュリーとは行動を共にはしていませんでした。それでも渡部氏がどんどん仕事を持ってきてくれて、自然に縦の関係が生まれつつありました。この時の委員長は次から次へと色んな仕事をよくやりましたね、まったく節操がありませんね。怪僧ラスプーチンのコザックダンス・プロモーションなんてのもありました。この仕事は渡部氏とジュリーから頼まれて、本当に義理でやったんですけど、もうこの頃は今で言うバラエティー系みたいに成り下がっていましたから、恥も外聞もなく何でもやりました。(ソウルマンの壊れ始めですね)実は、この話はどーしょーもないプロモで、某レコード会社(言わなくても解りますね)の洋宣(洋楽宣伝)の某部長が、たまたまどこかのディスコでひっかっかって来たおねーちゃんをモノにしたいがために企んだプロモーションで、要はそのおねーちゃんをアイドルにしてやるかなんか言って連れまわしただけなんですけど、まさかズブの素人一人を会場で踊らせたってしゃれにもなりませんから、そこでプロのダンサー(笑)の出番となったわけです。まあ、しかし良い歳コイた中年のオッサンがくだらねーことしやがって、みたいな馬鹿らしくも腹立たしい仕事でしたが、このおねーちゃんもおねーちゃんで、もう頭が暖かいっつーか弱いってか、きちんとした会話も満足にできないような娘でした。(道楽者の馬鹿野郎にここまで言われるくらいですから解るでしょ)なんだかロシア風のそれなりのファッションしてきて、結構マジでメイクとかしちゃったりして、隣では中年のオッサン部長が「大丈夫?あがってない?」とかワケわかんないこと言ったりして、おねーちゃんは「はい」とか良いお返事したりしてました。でもって、オッサンはおねーちゃんに委員長を紹介してくれたりなんぞしまして、「こちらがロニーさん、今日のお仕事のお相手だからよろしくお願いしときなさい」かなんか言って励ましたりして、「よろしくおねがいしまーす」かなんか言われて頭の痛くなった委員長でした。USAのダンスフロアでは司会のジュリーが場を盛り上げてくれています。更に正面席には渡部氏をはじめレコード会社各社の販促部員も見ております。(要は横の繋がりでこの部長のヨイショしてたってだけです)委員長はアフロ時代に福生でこしらえた豹柄衿の真っ白なスーツに、白毛糸のスキー帽を被り更に白ぶちのスキー用サングラスをかけ、ロシアンダンサーズ風ファッションに身を包みました。出番間際に歯に黒海苔を幾つか貼り付け、いざ本番です。(本番もクソないよね、こんな企画)フロアーはUSAお馴染みのセットアップで、お客さんが輪になって委員長とおねーちゃんを囲んで座り込んでいます。委員長はムッツリとした顔でしっかりと腕組をして、かなり強面風に構えて立っておりました。さすがにギャラリーはオカマ風というかタケノコ風というか一般庶民的というか、そのような類の方々がなにやら勝手な期待をして見守っています。ジャンジャガジャガジャガ~、ヘイッ、ヘイッ、ヘイッ!ラスプーチンのイントロが始まった途端、委員長は大口開いて笑いながら首振って踊り出します。場内大爆笑!大うけ!渡部氏他業界の方々もゲラゲラ笑っております。そんな状況をつかむどころの騒ぎではないおねーちゃんは、一生懸命何処で覚えてきたのかしりませんがコザックダンスを踊っております。わ~かっくあっかるい~うたごえに~(ってこの曲ほんとに出だしがそっくりですよね)ということで爆笑の渦の中「ラスプーチン」のプロモーションは恙無く終了いたしました。楽屋で着替えている委員長の隣では、オッサンとおねーちゃんがその気になって話しておりました。「よかったよ~、この調子で全国回るからね」「ハイ」おいおい、次は全国じゃなくてこの調子で新大久保だろ、ってことでしょーもないお仕事をひとつこなした委員長でしたが、この時のお歯黒ギャグが身内受けして、ますます調子付いていく委員長でありました。
2005年10月07日
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やっぱり貧乏が悪いんでしょうね。心が荒んでると言うか、ゆとりがないっていうか、底辺でうごめいているゴミ仲間達なんて所詮はこんなものなんでしょう。金、地位、名声、どれもが貧乏人の憧れです。そんな餌を目の前にぶら下げられれば誰だって手を伸ばすのは仕方ないことでしょう。もともとは道楽者が始めた道楽なんですが、世間一般で認められるというか注目を集めてしまうと、自分が単なる道楽者に過ぎないと言う大前提を忘れてしまうのですね。皆の思惑が錯綜した「新宿ディスコナイト」は1978年12月に発売となりました。そしてこの記念すべき日本フォノグラムからのリリースを前にして、ムラちゃんと委員長のバンドごっこは崩壊したのです。本来ならば二人でこの喜びを分かち合うべきだったのですが、ムラちゃんは11月でトゥモローUSAを辞め皆の前から姿を消しました。ムラちゃんが委員長と袂を別った後、何故か委員長の周りの人間は一様に口を揃えて「それは良かった」と言ってきました。シゲルや同僚のブラザー・ジョー、C子までもがそんなことを言うのには内心驚きでした。どうも一般的に見て、周りでの彼の印象は怪しかったようで、「ロニーがうまく利用されている」というような見方をしているようでした。でも所詮二人の関係は二人にしか解らないので、委員長はこの後ムラちゃんについての一切を語ることを止めました。肯定的なことも否定的なことも、いずれにせよ真実は二人の心の中にしかありません。もうひとつだけ「新宿ディスコナイト」に関わるお話をしておきます。正式にメージャー・リリースされたレコードのジャケット・イラストは委員長が描いたもので、アフロした子供が両手を開いて立っていて、その回りにゴチャゴチャと妙な漫画が散りばめてあります。どことなくエモリさんの絵に似てますね。パクリといえばパクリですが、これは「悪ガキ」のイタズラって意味があります。BAD CHILDRENの象徴ですね。歌と演奏は「やまと」となっていますが、実際にはバンドなんか初めからなかったし、かといってまさかアッちゃんの顔写真載せるわけにもいきませんでしたから、イラストのジャケになることは当初から決まっていたようなものでした。でも、正直言って日本フォノグラムのディスコ系イラストジャケットって、どうも今ひとつセンスがないっていうか、絵に可愛げがなかったんですね。そんならロニーの漫画にしようよ、って皆が言ってくれて描くことになったんです。それでアイディアを考えているときに例のゴタゴタが始まりだしていて、ムラちゃんはもうやたらと日本フォノグラムに対して鬱憤が溜まっていたのか、委員長は始終悪口ばかり聞かされていました。それなら思い切りふざけた絵を描いちゃえってことであの絵が出来たんです。その時点ではまだムラちゃんとのパートナーシップが生きてましたから、俺達が作ったモノを皆で寄ってタカって金儲けに使われてたまるか、みたいな自意識過剰理論で突っ張っていったんですね。それにしてもあんな絵をジャケにしてくれた渡部氏には今更ながら頭が下がります。ムラちゃんの言うように金儲けに利用するつもりなら、あんな誰が見てもふざけたジャケを使うわけありませんよね。レコジャケって結構アイキャッチで重要なポイントですから、まともなプロデュサーだったらまずボツでしょう。そういったわがままを聞いてくれた渡部氏は、委員長たちに色々なチャンスを与えてくれていたんですけど、その当時はもうすっかり舞い上がっちゃってますから、そんな奥行きのある考え方はできなかったわけです。ということで、結局全てが中途半端なモノになってしまいましたが、まああれはあれで良かったのかなと思っています。(中途半端な道楽だったからね)さて、1978年も押し迫ってきた頃、高円寺亀屋マンションにC子と同郷のシンジと高○が委員長を尋ねてきました。静岡県清水市出身の彼らは幼馴染で結成されたバンドをやっていて、まあどこにでもある話ですが東京で一旗上げようとやってきていたのでした。高校卒業と同時にメンバー5人で上京、専門学校へ行く傍らバンド活動を続けていました。そんな彼らは、2年やってダメならあきらめて帰郷するという親との約束の期限も迫り、何とか突破口を開きたいという思いからC子を通じて委員長に相談にやってきたのでした。とはいうものの、相談されたからと言って委員長には役に立てるほどの地位も名誉もありませんから、せめて知り合いにデモテープでも回して売り込むくらいのことしかできません。そんな話をしているうちに彼らは、とにかく一度でも大手にデモを聞いてもらえればケジメがつくということになり、それならやるだけやってみようかということになりました。バンド名は「ばびぶべぼうず」。預かったデモは「ロングトール・サリー」と「ひみつのアッコちゃん」。いわゆるロックンロール・バンドですが、本人たちはコミック・バンド系のウケを狙っていて、テレビアニメのひみつのアッコちゃんのエンディング・ナンバーをアレンジして演奏していました。アッコちゃん来たかと団地のはずれまで出てみたが~(ハー、どしたアッコちゃん)アッコちゃん来もせず用も無いのに校長先生が~(ハー、ハー、勉強しろ!)ってな調子のおふざけソングでした。C子の手前もあるし、取り敢えずはどこかのレコード会社に持っていってみるしかないだろうなぁ、ってことでジュリーに相談してみると、丁度良いタイミングでDJの小林克也さんがバンドを探してるという話を聞き、早速デモを持って会いに行くことになりました。「う~ん、この程度のギャグじゃつまらないし、腕のほうもこれじゃもうちょっと練習しなきゃ無理だね」あのMCの声と口調であっさりとボツ。(まあ、当然といえば当然ですね)一緒に行ったシンジとヴォーカルのトモミも、あまりにもあっさり言われてしまったせいか、落ち込むと言うよりは恥ずかしかったようでした。特にデモのもうひとつの曲、ストレートなR&Rの「のっぽのサリー」はリトル・リチャード張りのトモミのヴォーカルに対して「ベイビー」の英語発音の悪さを指摘されるなど、本人たちにとってみればプロからの手厳しい言葉にぐうの音も出ませんでした。ということで、清水の青年団バンド「ばびぶべぼうず」はいよいよ解散を迫られることとなりました。それはそれとして、こうして縁が出来たのだから今後もよろしくお願いします、ということでシンジ、トモミは亀屋マンションにちょくちょく遊びに来るようになりました。そんな年の瀬でしたが、ここでまたまた新たな展開を迎えます。トゥモローUSAの下、東宝会館6階にあったパブ「青春の館」が潰れて、これをUSAの小林社長が買い取って新たなディスコを作るということになったのでした。ディスコ「ワンプラスワン」の誕生です。小林社長の企画では、ワンプラスワンはちょっと大人向けの店にするということでした。早速改装工事に入ると共に、新たなDJを雇うためにチーフDJのジュリーに声がかけられオーディションが行われることになりました。といっても結局はジュリーの身内を入れることが決まっていたのですが、この頃からジュリーとロニーのコンビも復活し、一応は二人で審査をするという大そうな演出が仕組まれました。オーディションにやってきたメンバーは、当時新小岩でシコシコとジュリーの鞄持ちのようなことをしていた花見キョン、創価大学学生のサム岡田、福島県仙台のディスコからジュリーに引っ張られたというヒロシ、これに加えて委員長はシンジとトモミを連れてきて受けさせました。既にジュリーはサム岡田とヒロシは決めていたようですが、この時のトモミの声が良かったのと、委員長に多少は花を持たせようと思ったのか、この3人が最終で残りました。ヒロシとトモミはワンプラスワンの専属、サム岡田はUSAの見習いとワンプラスワンを担当させることになりました。ムラちゃんという人身御供によってか、トゥモローUSAのDJグループは委員長とジュリーを中心に再結束を固め、本格的な業界での活動を模索し始めたのでした。後ろ盾には日本フォノグラムの渡部ピカイチ氏が付き、フィリッピン人のリトや黒人ジョーなどとの関係も更に深まり、各自の思いも新たに1979年を迎えたのでした。
2005年10月06日
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最終レコーディングが完了した翌日、いよいいよミックスダウンが行われました。今まで録音した各トラックごとに最終的な音質調整を行い、バランスを整え、アンサンブルの確認を行ってひとつの楽曲としてまとめます。いつものように夕方の5時過ぎにスタジオに入ると、すでに渡部氏とディレクターは作業に入っており、委員長はその時初めて全てのトラックを聞きました。そしてなんと驚いたことに、コンガ他パーカッションが入っているではありませんか。更にギターソロに入る前のパートにはストリングス(バイオリン)も入っています。渡部氏の話によると午前中にこの二つを録ったとのことでした。(1~2時間で仕上げたようです。しかもパーカションは斉藤ノブさんとのことでした)なるほど、これがスタジオの仕事、プロの職人技というのはこういうことだと悟った委員長でした。こうしてプロの職人の手で再編集された新宿ディスコナイトは、見違えるほど立派なディスコ歌謡曲として生まれ変わったのでした。そして、音楽をヤルってことの意味を深く味わった委員長は、この時から完璧に音楽という名の媚薬に嵌り、プレーヤーという芸人に当てられるスポットライトの麻薬に染まっていったのでした。「もう誰が何と言おうが俺はこの道で身を立てるぞぉ~」そう意気込む委員長でしたが、この時関わったゴミ連中の誰もが同じようなことを考えていたわけで、そうなってくると誰もが自分主体に話を持っていこうとしますから、いよいよ陰険な関係になっていきます。まずはレコーディング終了の打ち上げと言うことで、渡部氏がトゥモローUSAにやってきました。早速委員長が呼ばれてタレント・バンドの企画話に入ります。ここで何故かジュリーが同席して、しっかり仲介役になっています。「ところで、ムラ○君は何を怒っているの?」そう渡部氏に言われた委員長は、ムラちゃんがこのところ渡部氏に対して不機嫌な態度であったことは知っていましたが、実際のところどうなっているのかピンと来ませんでした。「いや、怒っているとかいうんじゃなくて、ちょっと色々ありまして」そうとしか言いようのない委員長でした。「みんなムラが悪いんだよ、せっかくの話に水を差す様なことばっかり言って」とジュリーが合いの手を入れるように渡部氏に言い捨てました。委員長はジュリーに一体どういうことなのか問い詰めると、じゃあ教えてやろうというような態度で、さも秘密を暴露するような口ぶりで語り始めたのです。「ロニーは知らないと思うけどさ、俺が歌のレッスンしていたのは知ってるだろ。それでコンサートの話とかもあってさ、ムラがその話に乗ってきてさ、俺のバックバンドをやらせてくれって言ってきたのよ」が~んって感じでした。ショックでしたね。だって、元々はジュリーの鼻を明かしてやろうって始めたことなのに、その裏でジュリーとつるんでたなんて話を聞かされたのですから、まさしく寝耳に水ってものです。「でさあ、メンバーにはヨンタナも入ってたんだよね。それでムラが彼を照明係としてUSAに連れて来たんだよ。だから俺が口利いてやったわけ」ふ~ん、これでヨンタナがブツブツとごねてた理由が解りました。「それで、ロニーにも印税の話とか著作権の話とか持ちかけたりしたんだろ?」「いや、俺にはそんな話はなかったよ」確かにムラちゃんが色々と言っていたことはありましたが、ジュリーの尻馬に乗っかってあげつらうのは仲間のすることではありません。「いずれにせよ、ムラってのは結構狡賢いヤツだから気をつけた方が良いぜ」「ふ~ん。全然知らなかったよ。そんなことがあったなんて・・・・」委員長は相当落ち込みました。頭の中では、あの新大久保のアパートで死ぬほど笑ったムラちゃんの顔が浮かんできます。俺達の関係にウソはなかったはず。そう思えば思うほど悲しみと怒りが入り混じった感情で混乱するばかりです。お調子者の委員長もさすがに今回ばかりはショックが大きくて、自分でもどうしたら良いのか判断もつきません。「ムラを呼んで皆の前ではっきりさせよう」そう言ってジュリーはUSAの楽屋に全員を召集しました。これこれしかじか、ジュリーがコトの経緯を説明してムラちゃんに回答を求めます。「別にジュリーのバンドは俺の方から頼んだんじゃなくて、ジュリーから声かけられたから話に乗ったまでのことじゃない」ムラちゃんも多少興奮して語気が荒くなってます。「じゃあ俺のバンドとロニーのバンドを同時にやってたってわけだろ。それを何でお互いに隠していたんだよ」ジュリーが核心に触れる部分を問い詰めます。「だってお互いに別の話だし、何もわざわざ話す必要もないだろ」「でもオレたちはみんな仲間じゃないの?」でましたジュリーお得意の友情話。「そうは言ってもジュリーもロニーもお互い仲悪かったじゃない」ここで委員長もちょっとカチンときました。じゃあ今まで俺達が抱いていたジュリーに対する気持ちは、ただ俺に付き合っていただけということなの?「俺には正直に言って欲しかったな」委員長の本音です。道楽者の得意技は自信過剰ですから、ジュリーになびいたのも所詮は芝居で、最終的には俺達の絆の方が深いはずと勝手な思い込みがあります。「でもよぉ、別のバンドだって言うんなら、なんで石○とかを連れてきたわけ?」が~ん、が~ん、ヨンタナの爆弾発言にダブルショックの委員長。「えっ、ジュリーのバンドにも入ってたの?」「ムラの言うように別のバンドでやろうっていうんなら、ロニーのバンドと同じメンツ使うのはちょっとおかしいんじゃねぇの」ヨンタナが確信を突きました。「別にロニーのバンドとかジュリーのバンドとか、決まったメンバーでもないし、手伝ってもらっただけのことだろ」ムラちゃんはたぶんバンドがやりたかったのです。「ムラちゃん、ベース弾きたかったの?」「そういうわけじゃないよ」「やりたいならやりたいって正直に言えばいいじゃない」心とは裏腹に語気が荒くなる委員長でした。「そんなんじゃないよ」「ロニーには印税が入るけど俺には何も無いって言ってたよな」ジュリーが更に追い討ちをかけます。「そんならあげるよ。今更印税なんて欲しく無いよ。欲しいなら欲しいって言えばいいじゃん。そんなのが欲しくてやったんじゃないよ俺は」段々興奮してきた委員長、自分でもよくわからなくなってきてます。「そんなんじゃないって」「じゃ、どんなんだよ」ロニーとムラの仲違い。コトの善悪、内容はともかく、皆が望んだ通りの結末を迎えることになりました。結局は戦友を見放した委員長でした。(といっても委員長の方が年下だったし、ことの奥行きを見据えて判断できるほどまだ人間が練れてませんでしたからね)同志と信じて一緒に戦ってきた友に裏切られたという観念で、頭の中は埋め尽くされていました。歳を取って当時を振り返ってみれば、ムラちゃんはやっぱりベースを弾いていたかったのだろうなぁと思いますし、そんな気持ちをもう少し解ってやれたらお互いの人生も変わっていたのかなぁなどと思います。回りに扇動されてうまく担がれた自分を恥ずかしく思います。一番単純に皆の思惑通り動かされたのは、何のことはないこの私でした。自分では欲のない方だと思っていましたが、今にして思えばやはり自分もセコイ欲に引きずられて自然とうまく立ち回っていたのでしょうね。更に、ロニーとムラの成功が妬ましかった思惑ってのも少なからず作動していたのでしょう。自分も含めて所詮はゴミの集まりでしたからね。「遊び」っていうのは「利害」の無いものほど楽しく続くものですから、一旦そこに金銭欲みたいなものが芽生えると骨肉の争いに発展してしまうものなのですね。
2005年10月05日
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翌日はいよいよレコーディングの最終仕上げです。スタジオ入りするとディレクターが待ってましたとばかりに、まずはヨンタナのギターソロから入りました。4~5テイクで完了。続いてコーラス、ようやくC子の出番です。今回は一応歌の唄える女性三人が揃いました。でもやっぱり素人です。キーも違えばハーモニーを揃えるだけでもすぐにはできません。ディレクターのオジサンが出てきて、スタジオの中の生ピアノを使ってハーモニーを作ります。素人とはいえさすがに素養のある人たちですから、声量のばらつきはあるもののハーモニーはバッチリでした。コーラスも3回ほど重ねて厚みを付けていきますが、最終パートではキーの調整が整わずピッチを落として録音しました。へーっ、こんな技もあったのかあって感じでした。今ならデジタル処理でどうにでもなりますけど、当時はアナログですからこんな姑息な方法も使っていたんですね。さて、歌入れの前にもうひとつ大事なお仕事が残っています。そうです。委員長ロニーの雄叫びMCです。しかも今回は手拍子と嬌声も入れることになりました。当時はクラッピングマシーンやサンプリングマシーンみたいなもんはありませでしたから(あったとしてもこんなトコで使わしてくれないよね)、手拍子を合わせるのも結構大変です。カモンガール、チャッチャッ!、カモンボーイ、チャッチャッ!手拍子だけ録るってのも結構間抜けな作業でした。そしてエンディングパートで叫びます。「All Right! Come on!」(何がオーライなのでしょうか?)委員長のMCに扇動されて嬌声や笑い声、はしゃいだ様子のYeah!とかUhoo!とか悪ノリはお手の物って感じで、ディスコっぽい雰囲気が出ました。さて、これでひととおりインストは終了です。さあ、お待たせしました。謎のオカマ・シンガーソングライター、新聞少年アッちゃんの出番です。何故オカマ・シンガーと呼ばれたかと言いますと、レコードを聴いた誰もが、アッちゃんの声が男のものか女のものか解らなかったからですね。例によって赤のボタンダウンシャツに黒のスリムジーンズのアッちゃん、丸々2日の出番待ちにもめげず個性的なだみ声をご披露してくれました。(しかし今にして思えば彼の声って「トクナガ・ヒデアキ」そのものですよね。ってことはボクら時代を先取りしていたのでしょうか)「リズムに時は過ぎる、真夜中のパーティー~」おなじみ新宿ディスコナイトのヴォーカルが六本木のスタジオに響き渡ります。ディレクターからはかなり厳しい指示がビシバシと出て、さすがのアッちゃんも今回ばかりはタジタジ、自分の歌唱力の実力の程を思い知ったようでした。なんとかハサミをジョキジョキ入れてつなぎます。って言っても、本当にテープをハサミでちょん切っじゃったりするわけではありません。数テイクを録っておいて、良い所だけをうまくつないでいく方法ですね。この方法はDJがやっているツナギ(当時は未だやってません)に似たようなやり方で、各トラックのフェーダーを操って良い部分のパートだけを新たなトラックに録音していきます。(そういえば昔はピンポン録音なんていう技術もありましたネ)ということで、ようやく全て終了したのが夜の11時過ぎ終電間際でした。最後の仕上げ、ミックスダウンは更に翌日ということになりましたが、これは自由参加ということで最後まで見届けたいヤツは来い、みたいなことで、これでひとまずレコーディング作業から開放されたメンバーでした。皆相当に疲れた様子で、帰りは言葉も少なげに帰宅していきました。委員長も意気揚々と引き上げましたが、どうもこのあたりからムラちゃんの態度がおかしくなっていったのです。どことなくイライラした様子で不機嫌で、委員長とムラちゃんの二人きりになると、渡部氏のやり方にどうも不満気なようでした。元々の原盤の権利は俺達にあるはずなのに、その話が一切ないとか、B面はそのまま自主制作盤の音源を使うのは納得がいかない等々、かなりの不満が鬱積しているというような感じでした。結局オイシイ所はジュリーに持っていかれたみたいだし、これじゃ俺達はうまく利用されただけじゃないかとも言い出しました。委員長は正直言って、このメージャーレーベルでのリリースはオマケみたいに考えていましたから、率直に渡部氏の好意とも受け取っていました。もちろんジュリーもピカイチ(渡部氏のことです)のおかげだってことを連発してましたから、ムラちゃんにとっては多少は鬱陶しく思うのも仕方ないかなと思いました。「でも結局渡部氏(日本フォノグラム)もこれで金儲けするわけなんだからさ、奇麗事ばかりじゃないと思うんだよね」そう言われてみれば確かにそうかもしれませんが、委員長自身の中では自主制作盤が完成した時点でケジメがついていましたし、本物のレコードになったんだから良いじゃないってな軽い気持ちしか持っていませんでした。どうもこのあたりからムラちゃんが精神的におかしくなり始めていったようでした。加えて、昔馴染みのヨンタナも、なんで俺がこんな仕事をタダで手伝わなきゃなんないだ、みたいなことを大っぴらに言い出すようになり、ジュリーにしても、みんなもっとピカイチ(渡部氏)に感謝すべきだろみたいなことを言い出す始末です。道楽者が遊びで作った1枚のレコードが、ジワジワと利害関係を紡ぎ出していきました。元はと言えば、ジュリーの鼻を明かしてやりたいという極単純、しかも私怨に近い感情から始まったこの遊びでしたが、実際に形となって現れてみると当人たちも気づかぬうちに意外な展開となっていってしまったのでした。なんのかんの言っても周りは皆生活苦に喘ぐゴミ連中だし、将来に不安を抱く気持ちは誰も同じで、きっかけさえあればなんとか食いつこうと考えるのは当然の成り行きです。委員長にしてもさほど欲は無いといいつつも、これがきっかけで這い上がれればといった下心が無かったわけではありません。ムラちゃんと委員長が開けた突破口に、皆が何とかぶら下がろうと思ったのも仕方の無い話です。まるで芥川龍之介の「蜘蛛の糸」のようでした。まあ小説のように生死に関わるほど切羽詰った状態ではありませんでしたが、妬みや抜け駆けなど精神的に疑心暗鬼と化したゴミ仲間ほど手のつけられないものはありません。「遊び」から「欲」が生まれると必ずこういう展開になります。まずジュリーから委員長に話がありました。「ピカイチ(渡部氏)がロニーと組んで何かしたいって言ってるよ」渡部氏は以前からジュリーを通じ、委員長のキャラを気に入ってくれていたようで、当時話題になり始めていた「ヴィレッジ・ピープル」のようなキャラクター・タレントをプロデュースしてみたいような話でした。本人も洋楽から邦楽への転進を考えていたのだと思います。そんな話を聞かされた委員長は当然悪い気がするはずもなく、これはチャンスかもしれないと欲をかいたのも事実です。さあ、このあたりから泥仕合の様相を見せ始めていきます。まずはこの後のバンドをどうするかってことになれば、当然今回のレコーディングに関わったメンバーを使わない手はありません。とは言うものの、身内のシゲル以外は一応それなりのポリシーやプライドのあるミュージシャンたちですから、タレント・バンドなどはもちろんやりたがりません。でも、メージャーへの足掛かりという点では、このまま縁切りはもったいない、といったところです。更にギタリスト・ヨンタナはムラちゃんと高校生の時分からバンドを組んできた仲間として、ムラちゃんに対する不信感を当初から抱いていました。彼はジュリーとロニーが相乗りしてくるなら話に載るが、ムラとはやらないという姿勢を打ち出していました。ジュリーにしてみれば長いこと一緒に仕事をしてきた仲間とはいえ、委員長に頭を越されるのは面白くありません。なんとか優位な立場で自分も関わっていきたいという思惑があります。そして肝心のムラちゃんといえば未だシゲルとの確執もあり、委員長がシゲルを指名することにいささか不満を持っていました。ムラちゃん自身もベーシストとしてミュージシャンをやっていきたい気持ちが残っていますから、できればこの機会になんとかミュージシャンとして喰い込みたいという思惑があったのでしょう。ここまでやってきて、果たして自分には何一つウマミがない、と感じたのも無理ないことです。考えてみれば、「新宿ディスコナイト」という1枚のレコードに皆の欲望を主体とした思惑が乗り始めたということです。そしていよいよ修羅場を迎えることになります。
2005年10月04日
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自主制作盤リリースが巻き起こしたちょっとしたブームに乗って、毎日毎日が新しい刺激の連続といった感じの委員長にまたも刺激的な話が舞い込んできました。「ピカイチがロニーに会いたいって言ってるケド、どうする?」我らがチーフDJジュリーから渡部ピカイチ氏の伝言を受け取った委員長。早速渡部氏の勤める六本木の日本フォノグラム社へと出かけて行きました。お金持ちの坊っちゃんってな感じのピカイチ氏は笑顔で委員長を出迎えてくれましたが、何故かそこにはジュリーも同席しておりました。もちろん顔なじみのピカイチ氏ですが、こうして改まってお話をするのは初めてです。ジュリーが気安く話を切り出しました。「例のさあ、新宿ディスコナイト、ピカイチがフォノグラムで出しても良いって言ってるんだけど、ロニー、どうする?」どうしてもジュリーも一枚噛みたいようです。というよりは、委員長やムラちゃんの思惑通り、出し抜かれた悔しさは想像以上のようでした。(へへ、これで満足ってトコですね)こうなったら、少しでも優位な立場で居たいと思ったのか、さも自分が渡部氏との橋渡しをしたような恩着せがましい態度でした。渡部氏が大人しい口調で尋ねてきました。「もしよければ単発のシングルだけど俺にやらせてみてくれる?」「はあ、でもあんなふざけた曲で良いんですか?」「まあ、どのくらい売れるかわからないけど、このまま終わらせちゃうのも惜しいと思うんだよね」「ありがとうございます。すべてお任せします」ムラちゃんには相談無しでしたが、どっちにしてもこれ以上はどうにもならないのだから、せめてメージャーから発売してケジメをつけたいと思った委員長でした。遂にゴミ達の道楽はここに完結する運びとなりました。意外とスケールの小さな終わり方ではありましたが、なにはともあれ一般小売店に自分達の作った楽曲が出回るのですから、一応目的は達成されることになります。早速ムラちゃんにこの顛末を報告すると委員長以上に大喜びしてくれました。ところが、ここからが人生の落とし穴、貧乏人の足の引っ張り合い、くもの糸、道楽者にとっての修羅場を迎えることになっていくのです。(頂点を迎えたら後は下り坂ってことですね)先陣を切って、いつものごとくジュリーがお得意のMCをかましてしまいます。「トゥモローUSAですっかりお馴染みの新宿ディスコナイトが、なんとこの度日本フォノグラムから正式にリリースされることが決定いたしました」そんな話で騒ぐのは身内ばかりで、一般の方々には大したニュースでも何でもありません。フィリピン人リト、黒人ジョー、更に照明係のバイトで来ていたギタリスト・ヨンタナなどがちょっと驚いた様子で委員長の元へ確かめにやってきました。有頂天になった委員長は一気に皆の注目の的となり、全ては自分が中心に回りだしているような錯覚に陥っていきました。数日後、具体的な話に入るため、委員長はムラちゃんを伴って日本フォノグラムを訪れました。渡部ピカイチ氏は全て録り直したいということで、既にきちんとしたアレンジャーも用意して自身がプロデューサーとして制作する方向で話を進めていました。委員長もまさかオリジナルをそのまんま使うとは思っていませんでしたが、肝心のバンドが無いことを正直に打ち明けると、渡部氏はプロのスタジオミュージシャンを使っても良いかどうか聞いてきました。「音的に言えばその方が間違いないと思うけど、ロニーはそれで良いの?」とムラちゃん。「うーん、せっかくここまでやったんだから、できれば同じメンバー集めてやりたいよね」と委員長。「それならロニーたちに任せるよ」と渡部氏。実はこの話が持ち上がる前に、メンバーにはそれとなく今後の活動について打診したことがありました。その際、石○君、T君はバンドとしては行動できないが、今のような参加の仕方でよければ時間の都合のつく限りやっても良いという返事でした。そしてギターのH君だけが、自分は別のバンドを本命にしているので手伝いはできるが、それ以上の参加はできない、と言ってきました。そんな経緯もあって、ギターのH君以外の自主制作盤オリジナルメンバーを招集することにしました。ベースのシゲルは勿論OK。驚いていました。ドラムの石○君は異存なし快諾。キーボードT君も快諾。俺で良いのかなぁって感じでした。さてここでギターですが、ムラちゃんの希望で昔馴染みのヨンタナを起用することにして話を進めました。更にコーラス部隊としてC子の他、2名を招集。これにロニーの雄叫びMCとアッちゃんのヴォーカルを加ええ、謎のバンドやまとが勢揃いしました。というわけで、レコーディングは日本フォノグラムの中にあるスタジオで行われました。なんとそのスタジオこそ、あの矢沢永吉つぁん率いるR&Rバンド・キャロルがデビュー前に、ミッキー・カーティスさんに連れられてデモ録りした記念すべきスタジオでした。スタジオには渡部氏、アレンジャー、ミキサーの他、制作部の関係者などが待機していて、バンドのメンバーが揃うと同時にすぐに録音開始でした。すでにアレンジャーはオリジナルバージョンからスコアを立ち上げており、アレンジ譜が一同に配られ、まずは音合わせが行われました。(スゲー、みいんな初見でスコアが読めます)このメンバーの中でスコア読めないのはアッちゃんと委員長くらいでした。ムラちゃん、アッちゃん、委員長の3人はミキサー室で様子を見守ってるだけでしたが、さすがにプロのレコーディングは驚くことばかりでした。基本のリズム録りだけでも軽く3~4時間はかかったでしょうか。十分に腕のあるメンバーでしたが、アレンジャー兼ディレクターは音の噛みかたから、ギターのリズムパートのパターンやカッティングまで事細かに指示を出します。(うーん、やっぱプロは厳しいんだね)途中でジュリーが覗きにきましたが、緊張感漂う雰囲気にジョークも空ろで居場所がないことがわかりすぐに退出していきました。委員長も結構疲れてきて外の喫煙所でタバコ吸ったりコーヒー飲んだり、C子とくだらないおしゃべりしたりしてました。元々根がいい加減な性格ですから、どうせ俺はミュージシャンじゃないし、出番が来たら呼んでよ、みたいな生意気な態度で辺りをウロついたりしておりました。結局、夜の10時までかかってその日はリズム録りだけで終了。続きはまた明日の夕方からということになりました。(昼間はもっと偉い人達が使うからね)その日はとにかく皆クタクタになって帰りましたが、ムラちゃんの顔が今ひとつ冴えません。気になる委員長が声をかけると、シゲルのベースがもたってるだの、ベードラとかみ合っていないだのグチをこぼし始めました。元はベースマンであったムラちゃんですから、少なからずシゲルとの確執は昔からあったのですが、いくらなんでもこの期に及んでシゲルを外すわけにもいきません。そんなことは百も承知でぼやいているのでしょうが、やっぱり自分が弾きたかったのだろうなぁ、という気持ちは委員長にも理解できました。更にギタリスト・ヨンタナからはやる気の無いような話ばかり聞かされるに至っては、さすがに楽天家の委員長も少し不安になりました。ヨンタナ曰く、今回のレコーディングでムラちゃんに恩着せがましくされることが嫌だということでした。要するに、ムラちゃんが思うほどに自分はこの仕事をありがたく思っていないといったことでした。早い話、お前(ムラちゃん)と一緒にするなってことでした。俺は既にプロのミュージシャンなのに、何故タダでこんな仕事をしなきゃならないんだといったところです。(いよいよ道楽者の絶頂期も崩壊に向かって作動し始めたのでした)
2005年10月03日
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結局のところ新宿ディスコナイトは泣かず飛ばずで一月が経ちました。この間委員長の周りでは色々なことが同時に、しかも入り乱れて起こっていました。まずはC子との同棲も本腰が入り始め、彼女の同郷の村の青年団バンド連中の世話役を頼まれたり、トゥモローUSAの同僚DJ黒人ジョーからのバンドの誘いを受けたり、新宿のディスコ界隈では横の繋がりが広がって色々な仕事の提携話が持ち上がったりと、自分でも驚くほどの展開ぶりでした。つくづくこの業界はやったもん勝ちだなと思いましたね。いうなればハッタリ半分、実力半分の世界です。たった一枚、しかも自費で出したレコードが自分の周りの環境をこれほどまでに変えるとは思ってもいませんでした。道楽者のみなさん、道楽者の教訓一ですよ。どーらくは考えているだけではダメです。行動して初めて道が開けるのです。ということで、毎日大忙しの委員長でしたが、まずは一番興味を引かれたジョーとのバンドにチャレンジしてみることにしました。たまたま彼の本当のブラザーが来日してきたとのことで、一度セッションをしてみようということになりました。スタジオなんぞはいらない、俺の家でやろうというジョーの言葉を真に受けて、清水の青年団シンジや高○を手伝わせて、彼の代々木のアパートに道具を持ち込みました。本格的な音出しじゃないからってことで、パール社製のおんぼろ中古ドラムに中古のヴォーカルアンプ、小型のギターアンプなどを集めてきて、彼の住む代々木の2LDKアパートの八畳間に押し込みました。メンバーは新宿ディスコナイト制作メンバーです。腕はそれなりにあっても、モノホンの黒人ミュージシャンとのセッションですから、石○君やH君、T君なども興味津々やや興奮気味です。シゲル君もコトの展開に多少面喰っておりましたが、一体この連中は何をやらかすのだろうと言った好奇心の方が先立っているようでした。手伝いのシンジ、高○に至っては、ジョーの奥さんのバストの余りの大きさに目が眩んでしまったようで始終ニヤニヤしている始末です。さて肝心の練習ですが、なんといきなりジョーはオリジナルをやろうと言い出しました。まずはカセットに録音された楽曲を皆に聞かせます。ジョーの弟のベースとジョーのギター、そしてジョーの歌が入っていました。ちょっとしたモータウンサウンドといった感じのベースで、ジョーのちょっとハスキーな声がシャウトするダンスナンバーでした。「皆OKか?じゃ、やってみよう」オ、オッケーかって、いきなりかよ、みたいなジョーの強引なペースについていくのは大変です。譜面もなし、細かい説明もなし、いきなり音を出そうと言うのですから戸惑わない方がおかしいってくらいのもんです。しかも詩は全編英語(当たり前ですね)、意味もまったくわかりません。カタコト英語とカタコト日本語でコミュニケーションをとりながら、なんだかんだと3~4時間のプラクティスが終了しました。みんなクタクタです。まあ、ジョーのオリジナルはそれなりに1曲仕上がりましたが、果たしてこれをどう料理してよいものやら途方にくれるムラちゃんと委員長でした。その夜、ジョーとムラちゃん、委員長の三人はこの新たなバンドごっこについて相談をしました。ジョーの意向としては、まず日本である程度の練習をしてオリジナル・ナンバーをまとめ、時期をみてLAに行き売り込みをかけるというような計画でした。ムラちゃんからLAでの収入はどうするのかという問いに、ジョーは当然といった口調でクラブ回りをすると答えました。ジョーは仕事の面での心配は無用と言い、どうやって我々のバンドをプロデュースしていくかということについて妙な日本語を交えながらも、ゆっくりと熱く語り始めました。しかし、彼の中ではしっかりOUR BANDとなっていたのには驚きました。かなりマジです。一体どんな構想なのでしょうか。まず彼が説明してくれたのは、米国(LA)でのショービズというか、業界のシステムが日本とは大違いで、ユニオン(組合)も含め、ミュージシャンの横の繋がりがモノを言う世界であると言うことと、彼の芸暦から、力のあるプロモーターやエージェント(日本で言うプロダクションマネージャーみたいなもんですか)との繋がりは未だに強く、売り込む自信はある、と力強く言い切りました。しかも彼は日本のマーケットも狙っていて、日米の両方に同時にアプローチして先に飛びついてきた方からセールスを図るといった内容でした。彼は彼なりに日本のディスコ業界を学習した上で、BLACK MUSICが日本でこれだけ浸透していることに目を付けていました。ちなみに、彼のLAで活動していたバンド「HOT SNOW」には、もんた&ブラザースでデビューを飾ったドラマーのマーティン・ブレーシー氏も在籍していたことがあり、ジョーはジョーなりにミュージシャンとしての日本での生き方もしっかりとレクチャーしていたのでした。更にジョーはバンドごっこ構想の具体的ヴィジョンを語り始めました。まずはLAでクラブを回る。(これは日本も同じですね。いわゆる営業、ドサ回りです)ここでセールスポイントになるのは、日本人プレーヤーとのミックスということで、自分の経験から言って日本人がディスコバンドをやるってことだけで十分に話題になるだろう、とのことでした。そして、YOUのダンスは絶対に必要だ、と力強く名指しされた委員長でした。「バンドのショーアップには絶対にロニーのダンスは欠かせない」たぶんYOUの踊りを見たらお客は必ず驚くはずだとも言われました。(おー、そうだろそうだろ、ってかなり気持ちよくなってます)「まずアメリカ人は日本人がディスコで踊るなんてコト信じられないから、YOUほどの踊りを見せたらそれだけで客を呼べるのは間違いない」これにはちょっと複雑な気分でしたね。えっ、て感じでした。それって、色物ってこと?って感じです。要はピエロ、狂言回しじゃないですか。なんだか猿回しのサルって感じがしましたね、正直言って。ほら見て下さい、サルがディスコダンス踊りますよ~って、イメージが頭の中に浮かびました。(所詮はそんなもんだろ)「そして、バンドのメンバーはインターナショナルでいくんだ。フィリッピン人のリトも参加させるつもりだ」と、更に力説するジョー。このあたりから正直言って委員長は醒め始めていきました。なんのこっちゃない、俺達はあんたの引き立て役に過ぎないじゃん。(しかもオリエンタル・フリークショーだよ、これじゃ)アメリカ行き、しかもモノホンのショービズの世界にチャレンジって夢は委員長のハートを相当くすぐりましたが、やっぱりこのジョーの発想にはイマイチついていけないところがありました。これじゃ、ちょんまげのカツラでもかぶってステージで踊ったりする方がよっぽどマシです。一緒に仕事していたジョーですらそんな風に俺達日本人を見ていなかったのかというショックと、所詮は猿真似ピエロでしかなかった自分が恥ずかしく思えました。しかし黒人の立場から逆に考えてみれば、アフロしたりソウルファッションしたりする日本人を見てどう思ったかと言えば、やっぱりファッションでやってるとしか思えないだろうなということです。(事実ファッションですよね)どんなにSOULが好きでも、真面目に黒人文化を勉強したとしても、日本人はアメリカ人ではないし黒人ではありません。しかも英語も満足に話せないくせにFUNKYとか言ってるわけですから、彼らからみれば相当滑稽だったでしょうね。更にこの後フィリッピン人のリトとも、このジョーの計画について話しあったのでしたが、彼も委員長同様の感触を受けていたようでした。アメリカが一番、そう言われているように感じるし、ジョーは俺達をジョーというスーパースターを盛り立てるためのクルーに仕立て上げようとしているようだ、とそう委員長に語るリトの口調はいつもの温和な彼とは違って語気が荒立っていました。「オレタチヲバカニシテルンジャナイ?」日本語で吐き捨てるように言ったリトでした。少なくとも彼は委員長以上にプロミュージシャンとしてのキャリアもプライドも持っていましたし、突き詰めて言えばアジア対アメリカの構図とも取れなくもありませんでした。よく考えてみれば、それも道理なんですけどね。アジアのニッポンという国でアメリカ文化の、しかも黒人音楽に熱狂している国民は英語も解らず、アメリカという土地を踏んだこともなく、ただ盲目的にアメリカ人を崇拝している、そんな風に理解されても仕方のないことでしょう。「イツモジブンガイチバンダトオモッテイルンダヨ」(うーん、確かに。でも一番だと思わせているのもオレタチだよなぁ)日本はまだまだ精神的というか文化に余裕のない時代でしたからね。アメリカからのモノは何でもかんでも諸手を上げて受け入れていた時代です。結局このインターナショナルバンドは立ち上がることもなく自然消滅しましたが、この時の委員長は正直言ってアメリカに乗り込むほどの根性もなく、ニッポンのぬるま湯に浸かっていることを選択したのでした。今にして思えば、過去委員長が後悔した唯一の決断でした。この時渡米していたらきっと人生はまた随分と違っていたと思います。でも、この時音楽を通じて体験した人種の壁と各国の文化は、アメリカに渡る以上の経験であったと感謝もしています。ディスコという狭い世界でほんの短い間でしたが、彼らもまた同じ時代をシェアした委員長が自慢できる戦友たちでもあります。(今日はちょっとマジな話で終わりました)
2005年10月02日
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1978年10月 新宿ディスコナイト 自主プロモーション開始。委員長とムラちゃんは出来上がった自主制作盤を持って新宿のディスコを回りました。ある店は同業のよしみとか言う理由で無理矢理その場でプレーさせたり、ある店では面白いレコードがあるからと持ち込んでみたり、今まで培ってきたあらゆるノウハウを屈指して自主制作盤の配布を行いました。また、店の常連や可愛がっていた高校生軍団などを使って、近隣のレコード屋に問い合わせに行かせたり、ディスコに行ったら必ずリクエストするように指図しました。新宿有線局にもドカドカと持ち込み、ご当地ソングとしてのヒットを狙い、商店街での反響を期待したりもしました。もちろん身内には暇さえあれば有線へ電話リクエストを入れるようにお願いしました。しかし、巷のレストランとか喫茶店でこの曲を聞いた時には感動でしたね。ディスコでかかるのは当たり前に思っていますから、畑違いの、しかも公共の場で自分達のレコードが流れると言うのは何ともいえない気分でした。ホームグラウンドのトゥモローUSAではどうかと言うと、さすがに我らがチーフDJジュリーもさすがに驚きの表情に動揺は隠せ無い様子でした。「へ~、凄いじゃない。よくやったねぇ」言葉では感心してくれましたがライバル意識ギンギンの彼の威圧には、逆に委員長とムラちゃんにとっての快感となり、「ざまあみやがれ、してやったり」とまずは二人の目的はここに達成されたのでした。更にジュリーもここで一枚咬みたいところですが、そんな素振りはおくびにも出さず、甘い言葉で優位に立とうとします。「なんならどこかレコード会社紹介しようか?」喉から手が出るほどのお誘いですが、しっかりとゴミ野郎の意地を見せます。「いや、いいよ。そんなつもりで作ったわけじゃないし、バンドごっこの記念と、いわゆるディスコサウンドをおちょくってみたかっただけだから」(あースッキリしたって感じですか)俺たちゃあんたと違って金儲け狙ってるわけじゃないんだよ、といったポーズ丸出しのカッコマンでした。正直言ってムラちゃんと委員長の当初の目的である、ジュリーのハナを明かすっていうか出し抜くっていうのか、要は自己満足は完璧に満たされたわけで、この後どうするかなどということまで本気で考えていなかったというのが本当のところでした。とは言っても、武蔵境の岩窟王アッちゃんはすっかりその気になって今後の展開を期待しているし、俄作りのバンドとはいえ集まったメンバーにもそれなりの結果と言うか、結論を出さなくてはなりません。「ロニー、この後どうするの?」「どうするのって言われてもなぁ・・・・」「ジュリーに頼んでどっかのレコード会社に拾ってもらう?」「う~ん、それも何か嫌だなぁ。取り敢えずもう少し様子見ようよ」てなことでしばらくは地道に話題作りに専念しました。しかし、この時手足になって動いてくれた高校生のねーちゃんたちが、後にこの曲を原宿まで引っ張っていってくれるとは夢にも思っていませんでしたね。なんせ、委員長がその当時夢見てたのは桑名正博さんとか矢沢の永吉つぁんでしたから、これをきっかけにしてインターナショナルバンドの結成、みたいな道楽者ドリームのストーリーをしっかりと描いていたわけで、まさかタケノコのレパに入るとは思いませんでした。それにしてもトゥモローUSAの常連たちで組織した「やらせ部隊」はそれなりに良い仕事をしてくれました。新宿新星堂とか紀伊国屋とか大手レコード店へ行って、「新宿ディスコナイトってレコードありますか」って大真面目で聞いて回るんですから、この起動力には頭が下がりました。何人かのペアを組んで、ローテーションまで決めて聞いて歩いてくれました。ここでひとつ勉強になったのは、チェーン店ではこの作戦は有効ということでした。支店からの問い合わせは本店に上がりますから、分散した支店から同時に同様の問い合わせが入れば、当然放っては置けませんから本格的調査が入ります。この問い合わせがレコード会社各社に入れば、中には目ざといヤツもおりますから声が掛かる可能性は高まるわけです。当然委員長達の場合はそこまで行きませんでしたけどね。そんなメージャーへの切込みを企てる委員長は、そんな画策を色々と図りながらアチコチ回って歩きました。一方ムラちゃんはというと、メージャーデビューに備えてバンドの編成に動き出しました。まず、昔仲間のヨンタナ氏(覚えてますか三鷹のバンドごっこで登場したギタリスト)をトゥモローUSAの照明マンのバイトとして誘い込みました。ヨンタナ氏もこの自主制作盤については、音楽的な内容はともかくここまでやったムラちゃんには一目置いたようで興味も示してくれました。これも今にして思えば、ムラちゃんがバンド生活を共にした元メンバーへの見栄だったのかもわかりません。人の思惑は計り知れませんから、どこまでが遊びでどこまでが本気かは確かめようもありません。更に元メンバーの小熊君にも声をかけたようでした。やっぱりムラちゃん自身にとっての過去の清算は終わっていなかったのでしょうね。道楽者のゴミ野郎でも何かひとつコトを成し遂げたことで、周囲の目や回りの流れも変わって行き、それは自分達の思惑以上に他人の思惑も背負い込んでしまうことだと委員長が気が付くのは随分と後なってからのことでした。すでにこのときの委員長は、頂点から下り坂を転がり始めていたことにも気付くことなく、ただひたすら舞い上がるばかりの毎日に引き込まれていただけでした。そしてムラちゃんのアドバイスどおり、私生活の整理ということでY子とのお付き合いもそろそろケジメをつけなくては、と相変わらず変な錯覚をしていた委員長は、新大久保のY子のアパートへ向かったのでした。この時ばかりは太っ腹なY子もさすがに、委員長の理由ともならない理由で別れを切り出され大粒の涙をこぼして声を詰まらせました。(ごめんね)でも、たとえこのまま行ったとしても早いか遅いかの違いこそあれ、結局はこんな日が来ることになるのだからと、思い上がりも甚だしい委員長の言葉は彼女の心を深く傷つけたことでしょう。まあこんな馬鹿野郎も後年きっちりとこの罪を償うことになりましたから、決してひとりだけHAPPYな人生を歩んだってワケでもありませんので許してやって下さい。(って今更遅いよねって言うか、この後もまだ懲りずに罪を重ねるのですが・・・・)ということで、女性関係はここでC子一本に絞り、貧乏脱出計画第一弾の成功を祈りつつ更なる道楽人生の階段を昇る委員長でした。でも実際にはその足元の階段はすでに崩れ始めていたのですが、絶頂期の人間なんてのはもう周りのコトなんか目に入っていませんから、自分こそが世界の主役だとばかりの有頂天に益々どーらくはエスカレートして行ったのでした。
2005年10月01日
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