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さてSOUL BROTHERジョーとの顔合わせも済み、私たちのダンサーズバッドチルドレンとの仕事もスタートし始めた頃、江川店長からちょっとした指示がありました。それはジョーのDJタイムに、私達ダンサーズがフロアに出て行って、DJと掛け合いをしながらお客と踊れというようなことでした。もちろん私たちは踊りを踊ってお金を貰う仕事ですから、なんの抵抗もなかったし、ショータイム自体が完成していないこともあったので好都合でした。ところがここでジョーがクレームをあげました。自分のDJタイムに他のエンターティメントを混ぜてもらっては困る、というような内容の苦情で、さすがに江川店長も彼のこの言動には困ってしまいました。そこですかさず要領の良い私は、「それなら掛け合いはやめて、サクラとして客と踊るというのはどうでしょうか」と生意気な提案をしました。ジョーも、それならば仕方ないだろうってなことで渋々承諾をしましたが、実際に私たちがフロアでお客と一緒になって踊ってみると、これがまた妙にウケてしまいジョーのDJの影が薄くなってしまいました。そりゃそうですよね。客にしてみれば店のショーダンサーが手取り足取り踊りの相手をしてくれるのですから、楽しいに決まっています。さあそうなるとジョーのショーマン根性はメラメラと燃え上がり、ツアーバンドで培ってきたショーアップ技術を屈指してフロアの客を自分に向かせようとあの手この手で攻めてきます。踊りの真っ最中にいきなり音がブツっと切れました。ジョーはマイクを握って何か喋っていますが音が出ません。私たちも一瞬青くなってブースに注目。ひょっとすると機材の故障かと、ハラハラしながらブースのアシスタントや照明スタッフに目をやります。さあフロアの客全員の視線がジョーに釘付けになったところでいきなり「ゲットレディ」のイントロが始まります。ジョーが大きく笑って「Here we go!」と叫ぶとフロアのお客は全員拍手喝采でお馴染みの踊りが始まります。いやー、こーゆーことってのはバンドで鍛えた演出ですから、その間合いとか、客との駆け引きみたいなものはいわゆるフツーのDJには思いつくはずがありません。もちろん私たちダンサーだってすっかり騙されたくらいですから、この彼の憎い演出は大変な刺激にもなりました。更にDJの交代、最後には自分のお気に入りのブラスコンストラクションのチェンジをかけて、本人自らもフロアに出てきて皆と一緒に踊ります。踊りは上手いも下手もないのですが、とにかくそのリズムのノリが凄くて、単調な動きながらそのダイナミックなビートの取り方は、たぶんステージでショーアップをはかるためのきちんとした裏付けのある踊りでもありました。私たちダンサーとこじんまり踊りを楽しんでいたお客さんも、このジョーのダイナミックな踊りを目の前で見せられては興奮せぬわけがなく、手拍子打ってワンツービートでフロアを跳ね回るように踊りだしました。彼の踊りはとにかく迫力がありましたね。今までディスコで見てきた踊り好き、ダンスマニアとも違って、踊りが好きと言うよりは完全に音楽に体を委ねきったような感じでビートを刻んでいく彼のしなやかな躍動感は、見ているものを巻き込んでいく竜巻のようでした。私たちも仕事抜きで結構本気で盛り上がって踊ってしまいました。「ソウルブラザー・ジョーとバッドチルドレンの素晴らしいDJタイムの後は私マチャアキのDJタイムでおつきあい下さい」マチャアキのMCが入ってジョーとダンサーズのDJタイムは終了です。なんだかジョー&ギャングっていうような感じでもありました。興奮冷めやらぬままジョー共々楽屋に引っ込んだバッドチルドレン、そこでジョーから思いがけない挨拶を受けました。RIGHT ON! Ooooh! Get funky yall!そう叫ぶと、ジョーは右手を上げて黒人独自のシェイクハンドを求めてきたのでした。なんだよ、こいつだってやるんじゃんかダッチ!そうです、彼が私のことを仲間と認めてくれた瞬間でした。まさに音楽と踊りのつながりこそがSOUL BROTHERの絆ということを体感した初めての経験でした。この後彼からは本当に沢山のことを学びました。ショーアップの方法や衣装の選び方、リズム・アンサンブルなどはバンドとしての理論をダンスに取り入れるアドバイスを受けたり、客との間合いの取り方等など、とにかく彼はショーとしてのエンターティメントのプロでした。やはりディスコの人気者とプロの違いというものをまざまざと見せつけられたようなもので、彼のショーマンシップは当時の業界には未だなかったコンセプトでもありました。結局彼との付き合いも3年越しでプライベートも含め長続きしました。彼とのエピソードは数々ありますが、特別印象に残っているのはソウルブラザーNo.1ジェームス・ブラウンの話でしょう。彼が私に語ってくれたJBは非常に生の感触があり、憧れのスーパースターの実像のような手触りがありました。といっても彼から伝え聞いた話ですから実際に自分の目で見たわけではないので、事実かどうかはわかりません。なんでもJBは地元ジョージアに自分のラジオ局を所有していて、年がら年中SOULが流れていて、時々協会の説教のようなスポットがあり、「白人に騙されてはいけない」とか「黒人の人権向上」などをアピールするプロパガンダに利用している、というような話でした。そういった意味でもやはりJBはソウルブラザー・ナンバーワンで、黒人社会のスーパースターであることは間違いのないようでした。さらに突っ込んだJBを崇拝するネオブラック・スピリチュア・グループなどもいて、彼等はジーザス(キリストですね)は実は黒人だったとか、ブラックモーゼことアイザック・ヘイズは事実モーゼの生まれ変わりだとか、結構危ない連中もいるそうで、そんなことを笑いながら話してくれました。また彼が目標としていたグループがアイズレー・ブラザースで、暇さえあれば楽屋で彼等の歌を歌っていました。ジョー曰く、ファルセットとギターの音色が見事に絡み合って絶妙の黒人音楽だと絶賛していました。ファルセットといっても色々なタイプがありますが、私のお気に入りだったEW&Fのフィリップ・ベイリーのような透き通るような声色は黒人的ではないそうで、アイズレーのハスキーな裏声と地声の間の絶妙な枯れ方が黒人のフィーリングにマッチするのだそうです。なんやよーわかりませんが、日本で言う演歌のコブシとか節回しみたいなものかななどと理解しておりました。日本人なら根本的に演歌の良し悪しはパターンがあるし、ルーツを辿ると民謡の潜在的感性ってのが日本人の心に息づいているように、黒人にも彼等の血に流れる脈々とした黒人独自の感性があるといった感じでしょうか。だから同じファルセットでもビージーズは「気持ち悪い」と言っていましたね(笑)また、当時私たちが思っていたほどに白人音楽とか黒人音楽とかの垣根はありませんでした。「青い影」や「素顔のままに」なんかも唄ってたし、自分達のベースにあるものは黒人音楽でしたが、実際には殆どがフィーリングのままという感じでした。文字通り感じるままにですね。ジョーとはよくショッピングなどにも行きましたが、お店で流れている曲がFUNKYだったりするとその場で首振って踊り出したりしちゃうんですから驚きましたね。こいつ一服決めてんじゃないか、とか疑ったりしましたが、まあそれだけ音に対する感覚がずば抜けて敏感だったのでしょうね。さすがの目立ちたがり屋の私でさえ真似の出来ないACTIONでした。まさしくこれが「FUNKY」ってやつだったのではないでしょうか。ということで一年の締めくくりにしてはまとまりのない日記になってしまいましたが、最近は日に日に開き直りが激しくなってきた私のFUNKY人生も、新しい年を迎えるに当たり特別思い入れるほどのこともないのですが、なんとか健康にFUNKYな人生を続けて生きたいと思います。どうぞ皆様も良いお年をお迎え下さい。遠い南の島より皆様のご健康をお祈り申し上げて一年の締め括りとさせて頂きます。
2005年12月31日
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1976年から、新宿歌舞伎町にあったディスコ・トゥモローUSAで一緒に仕事をした米黒人ミュージシャン・ジョーとの出会いは、SOULにかぶれた私の人生における本当の意味での入り口であったような気がします。まず、当時のディスコシーンでは、ベース(基地)に従事する黒人(ブラザー)たちによって持ち込まれた情報が全てであり、それがそのまま米国本土の生の情報でした。このあたりがディスコ業界が異色、かつ最先端を走っていた理由ではないかとも思います。当時のレコード会社も黒人音楽に関する情報については非常に疎く、また担当者が実際にディスコの現状を知らなかったということもあり、当時のメディア、一般的に雑誌媒体が主でしたが、実情を捉えきってはいませんでした。だからこそ一部のファンやマニアは、最新の情報を求めて専門店のようなお店へ出入りするようになり、必然的に基地関係者が頻繁に出入りする店がより一層高いプライオリティを得るような状況であったわけです。さて、私の黒人(ブラザー)たちとの交流は新宿西口にあったV-oneというディスコから始まったのですが、ここでまず最初に驚いたのが彼等の独自の挨拶の仕方でした。親指と中指をパチンと鳴らしてゲンコツをぶつけ合う儀式のようなもので、What's Happening Brother, What's Happenigと呼び合うスタイルです。中学校で習った英会話、ハロー、ハワイユー、アイムファインサンキュー、なんてのは一体どこで使われているのだろうってなくらい、別世界のシキタリのようなものに面食らいました。更にこのゲンコツをぶつけ合う儀式は、彼等ブラザーが所属する基地や、部署、仲間同士、出身地によってもみな違うということも理解するのに時間が必要でした。特に横田と横須賀では空軍、海軍の違いもあり、また、更に海兵隊とも違い、軍内部のヒエラルキーなども作用していて、それはそれは好奇心満々の小僧だった私にとっては、もうそこは外国、しかも黒人社会を垣間見た興奮で一杯だったわけです。今にして思えば、きっとこのスノビズム的な色分けに時分が加わったことへの優越感に独りよがりで酔っていたのかもしれません。とにかくこのV-oneで知り合った横田基地のブラザーたちに、黒人文化のレクチャーを受けた私はしっかりとソウルマンになりきっていたわけです。職場の同僚たちもみな相当なカブレ野郎ばかりですから、アフロ頭の日本人同士が黒人を気取って「What's Happening?」なんて言っちゃゲンコツぶつけたりしてたわけです。英語もよーわからん者がよくやるなぁって感じですが、当時の本人たちにしてみれば完璧に出来上がってましたから、自分たちこそが時代の最先端を走っているのだというなんの裏付けもない自信に満ち溢れ、時代と遊んでいたと言えるでしょう。まあそんな感じで黒人文化に関するお勉強はしっかりと積んだつもりの私でしたが、ここでJOE THUNDERSというひとりの黒人ミュージシャンに出会ったことでその浅学さを思い知らされることになったのです。まず彼との初めての挨拶で私はいつものように親指をパチンと鳴らして「What's Happenig?」とブラザーを気取ってゲンコツを出すと、ジョーは穏やかな表情で「Hello」と一言だけ言って大きな瞳で私を覗き込みました。FINGER TIPもしなければSHAKE HANDもしません。更に彼は静かに「You are not my brother」と言ってにやりと笑いました。う~ん、こいつはひょっとしてインド人か、と私は思ったのです。なんせ彼は四六時中色々なカラーのターバンをかぶっていたし、風貌も今まで見てきたベースのブラザーたちと違ってかなり民族衣装風なファッションに身を纏っていました。そんな感じで、当時の私はそこでおしゃべりが出来るほどの英会話力もありませんから、そのまま引き下がるしかありません。黙ったままの私を見て彼は、まるで子供に言い聞かせるようにゆっくりとした口調で言いました。Joe Thunders from Geogia,nice meeting you中学校の英会話その一みたいな挨拶に、私はまたしても少々面食らいましたが、彼の求めに応じて普通の握手をしました。その後彼はベラベラと勝手に話し始めましたが、こっちはBroken Englishに加えてスラングばかりの会話しか知りませんから、話半分も理解できませんでした。ただ彼が私に伝えたかったことの意味は、自分はきちんとした職業を持つミュージシャン(アーティストと言ったかもしれない)で、そこら辺にいる人生を投げ出した黒人とは違うし、軍人でもない。それに私は軍人は嫌いだ。人を殺す職業で金を貰っている連中とは一緒にするな。まあ、推測も混ぜて解釈をするとそんなようなことを言ったと思います。それまでベースのブラザーたちと結構遊んでもらっていた私は、彼のこの態度にちょっとショックを受けました。それは、オレとお前は違うんだ、と面と向かって言われたようなもので、今まで少なからずSOUL MANとして認めてもらっていたと思い込んでいた分だけ、ばーんと突き放された感じがして、果たしてこれから先こいつと一緒に仕事をしていけるのだろうかという不安が先立ちました。長くなりそうなのでつづきはまた明日。。。
2005年12月30日
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今日は私のSOUL人生において忘れてはならない人をご紹介します。以前にも何度か登場したブラザー・ジョーです。彼とはダンサー、DJ、バンドと幅広いお付き合いの中で、私とってはかなりの影響を受けた人物でもあります。彼はジョージア出身のミュージシャンで、ミリー・ジャクソンやアル・グリーン等のバックを経て、カリフォルニアでバンドデビューをした正真正銘プロのミュージシャンでした。彼のデビューバンドは「HOT SNOW」と云い、後年「もんた&ブラザース」でドラムを叩いていたマーティン・ブレイシーがメンバーとして参加していました。結局2枚のシングルをリリースして解散。その後新たなバンドを組んで日本にやって来ました。彼との出会いは、私がバッドチルドレンというダンサーズを率いて新宿の歌舞伎町にあったトゥモローUSAというディスコでした。私の第一印象はというと、黒人というよりはインド人ではないかと思っていたほど彼のファッションは奇抜で、トレードマークのターバンのせいかもしれませんが、それまで付き合ってきたブラザーとは相当に違って見えたのでてっきり異人種だとばかり思っていました。なんてったって、それまで知っていた黒人というのは全てGIばかりでしたから、実際にショービズで生計を立てているモノホンのブラック・ミュージシャンなんてものは理解の範疇を超えていたわけです。ともあれ四六時中ほぼ毎日顔を合わせていれば、次第にその人柄やバックグラウンドなども解り始める訳で、「SOUL=黒人」といってもそれはそれは奥行きのある世界なのだということをあらためて思い知った出会いでもありました。今にして思えばもし彼との出会いがなかったら、私も単なる時代に浮かれたお調子者の一人で終わっていたかもしれません。なにせ当時は黒人というだけで崇め奉っていたようなディスコ界隈でしたから、その黒人社会の中にもきちんとしたヒエラルキーや地域文化的なカテゴリーによって分類がされていることすらも知らなかったわけで、ファッションばかりが先行してSOUL、ソウルと騒いでいただけの単なるお調子者が当時のソウルマンのほとんどだったような気がします。そりゃそうですよね。私たち日本人だって、同じディスコの中で遊んでいたってDJとかバンドとして働いている人間と、お客で遊びに来ている人間が同じ視線で社会や時代を見ているわけではありませんから、それをひっくるめて一口に「ディスコ」では括れるはずがありません。ということで、このジョーからはアメリカ文化というか黒人文化というか、生のSOULをレクチャーされたようなものでした。年齢も相当開きがありましたから、当時の彼にしてみれば私なんぞは甘ったれの小僧程度でしかなかったと思います。それでもかなり突っ込んだ付き合いをしていく中で、単なる同僚、友人を越えた関係になっていきました。音楽や黒人文化だけではなく、人生感や日米文化の体質の違いなどもこの頃からしっかりと目覚めて行きました。そういう面からみても、彼との出会いは私の人生の中で大きな節目となりました。語り始めると思いばかりが先立ってしまってまとまらないので、引き続きあらためて明日また書きますね。
2005年12月29日
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今日は70年代の六本木ディスコの広告をご紹介しちゃいましょう。これはジェームスブラウンの2回目の来日公演の時に販売されたパンフの中に掲載された広告です。年代はイマイチはっきりしないのですが、73年か74年当たりだと思います。当時の有名店4つが1ページに広告を貼っているのも大変珍しいモノです。まずトップの「アイ」は割りとオーソドックスな店でした。当時でもチョイ古株の店だったと記憶しています。二番目のアルカポネはあのアフロレイキのビルです。正直言って私は行ったことがありません。入り口の看板は何度か見ているのですが、この店の跡にアフロレイキがあったのか、別の階だったか非常に記憶が曖昧です。でも、この時代は私はまだ高校生でしたから、活況時の体験はありません。前にも書きましたが作家の浅田次郎さんあたりがブイブイ言ってた頃の踊り場ですね。三番目はジュニアです。地図でみると旧防衛庁の裏あたりですか。「ジョージ」と「ジュニア」が近くにあったって記憶はあるんですが、ここらへんもイマイチですね。所詮私は新宿者ですから、いくら遊んでいたとはいえ高校生にはまだ敷居が高かったです。でもジュニアは結構後年になっても時々行ってたんですけどね・・・・・。さあ最後は伝説のお店「パルスビート」です。後年は青山キラー通りとか呼ばれるようになったあたりです。昔はこのあたりの暴走族とか不良は結構皆の憬れでした。ここでは新宿者はちょいとドン臭い感じだったですかね。コンポラ小僧に紛れてスリーピースのコンチのお兄さん方のチャチャを横目で盗み見ては一生懸命踊りを覚えてましたっけ。そんでもって、覚えたてのステップを新宿に持ち込んでオオイバリって感じで突っ張ってました。この青山通りを原宿、渋谷方面に抜ける通りには昼間でも結構マブイおねーちゃんたちがおりました。カッコだけは一丁前でしたが、ナンパして声かけると「あんたらどこの田舎から来たの」みたいにさげすまれてしまった苦い思いでもあります。青学の前に本屋ありましたよね。紀伊国屋?でしたか。あのあたりにミニタイにパンプスの不良娘が屯していて、私の馬鹿友酒屋の息子とよく出張って行きましたが、一度として落とせたことはありませんでした。やっぱブルーバードじゃだめだったね。あと青山から赤坂に抜ける道を右に折れて青山墓地に向かう坂の途中に有名なレストランがありましたよね。当時でも珍しかった深夜営業の店。その近辺にはVANジャケットの看板のビルがあったとおもうのですが。なんて名のレストランだったかなぁ。深夜、よくゲーノー人なんかも来てました。今で言うファミレスみたいなもんだったけど、ジュークが置いてあって結構いい味出してましたね。ということで、私の頭がまだ大きく膨らむ前のお話でした。ああもう一度コンポラを着て踊り場に行ってみたいBOMB!!
2005年12月28日
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日に日にノスタルジックになっていく私のブログですが、今日は懐かしの店長三人をご紹介しちゃいましょう。まずは私が業界で最後にお世話になった赤坂シンデレラの二郎さんです。確か本名は吉山ヒトシさんだったと思います。赤坂に住んでいて個人的にも深いお付き合いをして頂きました。麻雀もよーくやりました。弟の五郎さんとはあまり親しくはありませんでしたが、やはり不良の大先輩として尊敬していたお二人でした。もし今もご健在でしたら一度はお会いしたい方のお一人です。さて次は、伊藤店長です。私が存じ上げているのは新宿ブラックシープの店長時代です。伊藤さんの旧友に高林さんという方がいたのですが、この方とは新宿ビバヤングでご一緒させていただいた関係から、一度ブラックシープのDJに誘われたことがありました。結局隣のQ&Bで始終顔を合わすことになったのですが、いつの間にかお二人とも縁が切れていました。この写真は渋谷のパブ野郎の店長をされていたときのものです。さあそして三人目は村上さんです。この方とは新宿スタッセビルにあったパブ・トゥモローの時代にお世話になりました。当時は村上さんは主任で、DJはジュリーと赤シャツのみつぐが入っていました。そんな関係で私もちょくちょくここに出入りしていたんですけど、ジョージ・マックレーの来日公演が企画され、新宿プレイハウスに出るということになり、ジュリーが前売り券を売っていました。(もうこの当時から目ざとい商売してましたね彼は)そんでもって、私は彼女と二人で行くことにして前売り券を買ったのですが、たまたまその時持ち合わせがなくて、「早くしないとすぐに売れちゃうぞ!」とジュリーに脅しをかけられたりして、村上さんが見かねて五千円を立て替えてくれたんです。嬉しかったですね。そこまではよかったのですが、この後ジュリーはトゥモローを辞めてしまい、私は蒲田のディスコで路頭に迷い、結局この時の五千円は半年以上返せませんでした。それでも文句ひとつ言わず追い込みもかけずじっと待っていて下さった村上主任の恩は今でも忘れておりません。ということで、写真は池袋のクレッセント(だったかなぁ)の店長時代のものです。時々DJもやったりしていた多才な方でもありました。みなさんもそれなりに年齢を重ねられていることとは思いますが、機会があったら一度はお会いしてみたい方々です。
2005年12月27日
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古~い懐かしの写真がウケているようですので、本日は数少ないコレクションの中から私の昔のパートナー、新宿のジュリーこと鈴木昇二氏のスナップをご紹介いたしましょう。これはあの幻の会社、「DJトラの穴(笑)」と云われた伝説のエスメラルダ社長と横山エミーさんとの対談シーンです。場所は高田馬場リチャード三世です。内装が凄いですね。ゴージャスですね。学生街の高田の馬場にこんなインテリアのディスコ造ってどーするつもりだったのでしょうか。さすが不動産屋、と言いたいところです。えー、話が飛びましたが、これは横山エミーさんが歌手デビューしたときにプロモをエスメラルダで請け負った時の打ち合わせ風景です。横山エミーさん、知ってますか?私も記憶が曖昧なんですけど、確かグラビアモデルかなんかだったと思います。でもってデビュー曲が「なんたらドラキュラ」だったか「ドラキュラなんたら」だったか忘れましたが、ちょっとお色気の入った路線でした。あなたの血を吸い上げるわよ~、みたいな感じだったかな。「血吸うたろか~」って感じですね。で、このプロモはエミーさんがセクシーなコスチューム着て唄うのですが、その隣でダンサーが踊るって企画でした。はい、そうです。この時のダンサー役が恐怖のフーテン男ニックでした。久々に来た結構メジャーな仕事で随分と張り切ってアチコチ回りました。○○商店街のレコード屋さんの前でキャンペーンとか、割りと内容は地味だったですね。そしてこのスナップは、何かの雑誌にDJジュリーがエミーさんに新曲を質問するというコーナーでした。いやー、昇ちゃんもこの頃が絶頂期ではなかったでしょうか。ジュリーのネクタイ姿も珍しいですよね。
2005年12月26日
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遂に激動のクリスマスイブが明け、今日は静かなクリスマスです。昨夜は明け方まで花火やらビーチパーティの騒音やらで寝不足気味です。年に一度のドンちゃん騒ぎですから仕方ありませんが、たぶんこれは一年分のストレスを吐き出すための儀式ではないかと思います。発展途上国の貧しい国では毎日が、それはそれは辛くて厳しい生活です。でもこの一日を目指してみな辛抱しているわけです。昔の日本の祭りもこれに似たようなものだったのでしょうね。この一日でどかーんとストレスを爆発させて、また明日から辛い日々を耐えるみたいな感じでしょうか。もちろん子供たちにとってもこの特別な日は、一年間の辛抱が蓄積されたとっても幸せな一日ですからより神聖化されていくのでしょうね。サイパンというところはとても不思議なところで、アジアの人種の殆どが暮らしている人種の坩堝といっても過言ではありません。その種類の数でいったらNYや東京にも匹敵するのではないでしょうか。そしてその各家庭に各様の祭事があるのですが、面白いのは中国人やインド人までもがクリスマス・パーティーにジョイントしているんですね。まあ、日本でも祭事がすべて商業ベースでイベント化しているように、彼等にとっても宗教的な意味そのものよりもお祭りとしての捉え方が強いのですが、共産圏やヒンズー文化圏の人間がキリストの誕生を祝うってのもなんだか可笑しな感じです。でも文化が混ざり合うってのは良いものです。国というカテゴリーの中で洗脳されてきた思考がバランスを取るわけですから、これからの世界の動きにとっても必要なことのように思えます。でもってふと思ったのですが、平和ボケニッポン人の使命はひょっとしてこういうイベントを底抜けに企画する道楽魂ではないかと。つまり経済的な負担が一番軽い我々ニッポン人こそが、アホなピエロ役を演じて文化交流を促進させたら良いのではないかと思ったわけです。いまや世界のカモと成り上がったニッポン人こそ、損得抜きでお馬鹿なことができる人種ではないのでしょうか。そしてそれは草の根運動とでも云いましょうか、個人ベースでやればやるほど非営利的な活動になるような気がします。組織化された非営利団体NPOの矛盾をいくつも見てきた私が思うに、本来の人道支援とか、発展途上国への貢献と言うのはやはり、こういった個人の道楽者が中心になって行って行くべきではないかと思うのです。最近あった話では、「サイパン音頭を作って島お越しをしよう」ってヤツだったんですけど、これも例えば私あたりが言い出したのなら、実現は困難かもしれませんが、笑えるし、賛同してくれる人も出てくるような気がするんですけど、実際はどうかというと「音頭」を作詞作曲して振り付けするのにウン百万かかりますから政府に交渉して下さい、ってなその業界?では有名な先生からの提案でした。おいおい、ビンボーな島で金儲けすんなよなって感じですが、腹が立つのはこんなくだらないアホみたいな企画をマジで持ち込んでくるヤツの感性というか、人間性というか、品位と言うか、とにかくムカつくだけで、これがニッポンの実情かと思うと情けなくなってしまいます。こんな話を始めたらそれこそ本一冊じゃ済まないくらい出てきますが、こんなどーしょーもないオッサンに私も含め島民が舐められていると思うとこめかみのあたりがピクピクしてしまいます。それに比べると最近の若い道楽者の方が遥かに良い感性をしていて、ひょっとするとこーゆー無謀な若者たちこそが世界の中で求められているニッポン人としての役割を担っていくのではないのだろうか、などと結構オヤジくさい道楽ドリームを描いてしまいます。なんといっても多神教というニッポン人特有の体質こそが、世界でも希有の道楽者を育む土壌といえるのではないでしょうか。よく言えば大らか、広い心、悪く言えば中味がない、いい加減、これはまさしく道楽者の究極の遺伝子ではありませんか。ということで今日も愚にもつかないノーガキをこいてしまいましたが、これから私はせっせと道楽者の育成に励もうかと考えております。銭金抜きで馬鹿なことができるのは裕福で平和ボケしたニッポンの若者しかおりません。そしてこういった道楽者を世界の発展途上国にばら撒いていけば、いつの日か道楽者の千年王国が実現できるのではないでしょうか。進め、ニッポンの道楽者!貴方たちに与えられたMISSIONは道楽の普及であり、それはいつの日か人々に幸せをもたらすパワーを秘めているのです。って、前半は結構マジめに書いていたのに、何故か後半はちょっとだらけましたね。これも昨夜のパーティのせいでしょうか。たぶんまだ自身の中でしっかりとコンセプトが固まっていないので、うまく表現できないだけです。決しておふざけで思いついたわけではありません。結構昔から思い描いていたことなんですけど、もう少し煮詰めてからまたノーガキこきますね。この記事を評価する
2005年12月25日
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今日はクリスマス・イブです。私はカソリックでもクリスチャンでもありませんから、特別な思い入れはありませんが、親子の情愛と言うものを感じることのできるこの日が大好きです。元々卑しい出自の私ですが、それでもそれなりに幼少時はクリスマスなんぞという日は楽しい一日でもありました。朝起きると布団(ベッドじゃありませんよフトンです)の枕元にプレゼントが置かれていて、サンタクロース伝説に胸ときめかせた頃もありました。でもプレゼントは必ずと言って良いほど私の期待を裏切るモノばかりでありました。ということで、1年に一度素直な気持ちにさせてくれるこの日が私は結構好きです。親が子に送るささやかな夢がクリスマスだと思っています。ということで、私も今週は少ないお小遣いを持ってチープなおもちゃを買い集めてきてご近所や会社の子供たちに配ります。(気は心だからね)それに子供って親が思うほど玩具に思い入れはないんですよね。大人の目には結構馬鹿らしいと思われる玩具でも、子供はそれなりに楽しく遊ぶものです。思えば私も、多少なりとも親の夢や期待に育まれて大きくなったのですが、いつの頃からか道を踏み外してしまったのですね(^0^)ってことでこれが母親の期待を見事に裏切った姿です。凄いですね。こんなに頭が膨らむとは母親も思っていなかたでしょう。ちなみにこの道楽の精算が終わったところで大馬鹿野郎は見事に変身しました。どんな世界でもしっかり生きていける根性だけは認めてもらっても良いと思います。しかし、何処行っても結局はお調子者の道楽者野郎ですね。ちなみにこのツーショット、隣に居るのは奥さんではありません。かといって愛人でもありません。(こらこら!)職場の女子社員のお誕生日の御祝いでした。そしてその10年後です。どーしてもおねーちゃんと一緒の方が嬉しいようです。おでこの面積が次第に広がっていくのがお分かりいただけるでしょうか。みなさん、アフロは危険です。何年も続けているとこのようなことになりますので、地毛は大切にして下さい。現在進行形で、この頃より更に1センチメートルほど拡大しました。後ろもヤバイ!「後ろから愛して」ってずーっと昔のテリーのDJネタでした。面白かったね、あのMCは。今でも時々思い出し笑いしてしまいます。ということで本日は自爆ネタでお送り致しましたクリスマススペシャル。いかがでしたでしょうか?皆様のお宅も素晴らしいクリスマスが過ごされますことを心よりお祈りいたしております。Best Wishes!!
2005年12月24日
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ちょっと時代が定かではないのですが、73年頃だったのかなぁ、ジェームスブラウンが来日したときのライブパンフに載っていた広告コピーです。これをご覧いただけばソウルエンバシーという店が、いかにマニアックな店であったかがうかがい知れます。これもちょっとファイルが大きすぎて1枚でUPできませんので、苦肉の策で上下で二分割しました。凄いですね、この迫力。これはたぶん勝本さんが書いたのではないかと思います。そうです、小奇麗なSOULではなく泥臭いSOULを世の中に知らしめる大役を担った会長の熱意が十分に伝わってきますね。確か、当時のエンバシーの入り口には、「当店はSOULの専門店ですので、SOUL音楽が嫌いな方のご入店はお断りします」とかいうような注意が貼ってあったと思います。店内は二つに別れていて、入り口がドリンクカウンターとアクセサリーなどの販売、奥がひょうたんのような形のダンスフロアーだったと思います。入り口にはJBのポスター、ジェイルにはいっているお馴染みのジャケと、会長とのツーショットなんかが飾ってあったと思います。確か勝本会長は黒のジャンプスーツにデカイアフロしてましたね。大使館からエンバシーに変わり、ここでソウルエンバシーに変わりました。その後ブラッグ・エンバシーと名を変えてレイアウトも四角い踊り場になってイメチェンをはかりましたが、やはり時代の波に飲み込まれていってしまいました。やっぱり私にとってのエンバシーはSOULの教祖様みたいなところがあって、かなり神聖な店というイメージが今でもあります。しかし、この熱い思いは後年妙な方向に進んでいってしまったようです。でも当時のSOUL馬鹿なら誰しも思っていたのではないでしょうか。「エンバシーを知らずしてSOULを語る無かれ」と。
2005年12月23日
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1978年東京ディスコマップの切抜きから当時の人気者(笑)二人をご紹介いたしましょう。記事全部を載せたいのですが、ファイルが大きすぎて残念ながら顔写真だけです。ちょっと見難いかもしれませんが、ジョイ吉野は新宿インディペンデントハウスのブース、ニックさんはもちろんGETのDJ中のところです。いや~、JOYってイイ男でしたね。ヴァンマッコイに似てるってよく言われてました。この頃はもう踊りは踊ってなかったですけど、彼も一時踊りに夢中になった時代があって、二人で良く踊りにも行きました。でもって、彼のリングネームのジョイは昔赤坂マンハッタンでその名を轟かせたJOYさんから無断拝借したようです。相当憬れていたようです。でも後年はジョイといえば吉野ってくらいに、彼の方がメージャーになってしまいました。いやー、こっちも若いですね。私はこの頃のニックさんしか記憶にないので、最近の写真を見てもなんだか実感が湧きません。ちなみに御三家(ニックさん、勝本さん、エモリさん)の中では、個人的に私が一番好きだったのがニックさんでした。GETの時代も結構笑わせてくれたりして、性格も温和と言うか、ちょっととぼけたキャラがカッコ良かったですね。踊りも上手かったし。頭チリチリの時はやっぱそれなりにFUNKYでした。当時のガールフレンドとデカイ頭してGETに行ったら、入り口で「おお~、ダンス・モンスター!」などとおどけてくれたりして、いい味出してましたね。ダンスマスターって曲が流行ってたころです。でもさすがにその頃のGETは子供ばかりでしたから、アフロのアベックが入って行ったら、異常に浮きまくりました。この頃だったかな、レゲエとかポイントが流行ったのは。
2005年12月22日
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今日は昔の記事の切抜きをご紹介しましょう。1976年発行のチェックメイト6月号に掲載された都内ディスコマップから、六本木ソウル・エンバシーの切り抜きです。この雑誌は、当時メンズクラブに対抗して創刊された男性用ファッション誌で、実はこのコラムの中で私がイラストを書いてディスコダンスを紹介しています。結構生意気なコトやってましたね。この仕事は当時キングレコードでバイトしていたジュリーこと鈴木昇二氏からの紹介でした。残念ながらこのブログではサイズが大きすぎて載せられませんが、エモリさんモドキのイラストでファンキーフルーツやファンキーロボットなどを図解つきで説明してあります。ということで、エンバシーの記事は店長の加藤ユキさんが載ってます。これもファイルのサイズがちょい大きくて下半分が切れてしまっていますが、文章の末尾には「ハントは無理」の注意事項が書かれてます。そりゃそうですね、黒人とかアフロ小僧ばかりの店に女の子だけで来てる客なんてほとんどいませんし、よしんば居たとしても彼女等のお目当ては黒人ですから、この店でナンパしようなんてのは無理ですよね。しかし、当時のソウル馬鹿ってのは今で云う「オタク」に近かった気がしますね。とにかく黒人になりきるために必死コイテ情報収集に当たってましたから、やたら細かいディティールにも思い入れがありました。店長の加藤さんも未だご健在のようで、六本木で細々と商売をなさっていると伝え聞いております。この方も私同様長年のアフロパーマで相当なダメージを受けていると思います。当時からちょっと後ろがヤバかった(笑)でも、アフロ小僧たちには結構慕われる存在だったですね。少なくとも常連には会長より人気がありました。
2005年12月21日
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昨日に引き続き77年にリニューワルオープンしたTomorrowUSA発行のミニコミ誌から、当時のDJパートナーのジュリーとリトをご紹介致します。いやー凄いコメントですね。まるでアイドルですね。でも当時はちょっとしたアイドルどころの騒ぎじゃないほどキャーキャー言われてました。歌舞伎町界隈のアイドルってとこですか。今風に言えばフードル系みたいな(笑)まだみんな若かったからね。タバコがクールで車がロータスヨーロッパってのも時代が良く出てますね。しちゃうのら、ってのも当時のヒット漫画「まことちゃん」の言い回しですよね。でも当時のジュリー君は本当に良くモテてました。特にカワイコちゃん系のお嬢チャンみたいな娘にとっては身近なアイドルだったんじゃないですかね。さあ、次はリト君です。結構真面目なこと言ってますね。当たり障りないっていうか、おとなしそうなタイプに見えますね。確かに性格は温厚でおとなしかったけど、この人も本腰の入ったパロパロボーイでした。ファッション的にはやっぱりアメリカンロックって感じですか。最後はオマケで載ってるムラちゃんです。新宿ディスコナイトのやまと結成の立役者。せめて顔くらい出してあげないと申し訳ありませんね。ということで、彼はTomorrowUSAで照明マンをやっていて私とひょんなことからバンドをやることになりました。この頃、ジュリーが彼のことをチュー太って呼んでたんで、自身もそう自分を紹介しています。本人のコメント通り、リクエストは全て彼が受付役でしたから結構非難を浴びたりして可哀想だったですね。写真の通り、外見は大人しそうないたいけな青年でしたから、おねーちゃんたちからも結構ブイブイ言われたりしてました。そんでもって、もう一人のメンバー、ジョーが写ってないんですが、実はこの時はまだ契約してなかったんですね。ということで、トゥモローUSAの再スタートはこのメンバーで始まりました。
2005年12月20日
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またまた古ネタで失礼致します。私がその昔働いておりましたTomorrowUSAというディスコでは、「サーチ」というミニコミ誌を発行していました。当時としては中々斬新な発想でしたね。記事の中味は当然自社の宣伝ばかりでもう完璧に「手前味噌」なんですけど、新宿の名店(レストランや飲み屋さん)の紹介や、レコードの紹介などもあり、当時の新宿界隈の雰囲気が覗えます。このページはDJの紹介とコメントが載っています。さすがにまだ髪の毛もふさふさとしていたこの時代、結構生意気なこと言ってますね。白黒画面で印刷もあまり良くないので見難いかもしれませんが、ジャンプスーツ姿が時代を感じさせてくれます。当時はこんなカッコして突っ張っていたんですね。このページには相棒でチーフDJだったジュリーこと鈴木昇ちゃんやリト君、更にヤマトのメンバームラちゃん(ここでは照明スタッフ)としてコメントを寄せています。これはまた明日紹介しますね。まずは、恥ずかしながら私ロニーのコメントからご紹介いたしました。
2005年12月19日
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いや~泣けた、泣けました。浅田先輩ありがとうござんした。昨晩徹夜して一気に読みました。そしてとにかく色々と考えさせられました。まず読んでて思ったのは、この著者浅田次郎氏は本物のアウトローだと確信したことです。それは「人」が「人」という種の中で生きていく理不尽さや、人自らが創り出した世界であるにもかかわらず、その世界に更なる矛盾を次々と生み出し、なおかつそれらのひとつも解決できずに進んでいく存在そのものである「人」が描かれているからです。俗っぽい言い方をすれば、この著者は相当な修羅場を体験されてきたであろうことが伺えるし、おそらく色々な世の中の「枠」に身を置きながらも「人」としての存在を見てきた方なのではないでしょうか。たぶんそれは著者ご自身が、人間の存在そのものである「生」と「死」を目の当たりにして得た哲学がそこ描かれているのではないかと思えるからです。私の読み方はやはりアウトローとしての共感であり、それは法という秩序では括り切れない自身の生き方と、人の世とのかかわり方に対する哲学のようなものでもあります。物語の時代背景は幕末、明治維新の渦中に過去のイデオロギーが崩壊し、国という一大組織の中で右往左往させられる人間ドラマが実に奥行きのある描かれ方をしていますが、この人々の葛藤はまさしく時代を超越した人間社会の根本的な矛盾を的確なリアリティーを持って読者の前に写し出してくれます。そして物語は、最後の最後まで自身の生き方を貫いた下級武士の壮絶な生き様を追っていくことで、更にその人にかかわった人たちの生き様がひとつづつ掘り起こされていきます。小さな東北の村の一家族から、その所属する藩、更に国、更に世界、最後には時代というふうに大きなうねりの中に飲み込まれていく人間、しかしそのすべてを生み出したのは人間自身であるという救いのない哀しさが、過去の物語としてではなく、今現在を生きる私自身の心の中に斬り込まれた感があります。無いものの中の幸せとでも言うのでしょうか。不自由の中の自由というようなものを考えさせられました。そして私自身の著書への共感は社会の法と仲間の絆の関係でした。これは未だに私が一貫して拘る生き方でもあります。家族と仲間の絆、言い方を変えれば「掟」とでも言うのでしょうか、そこにこそ自身の存在価値があるので、その絆は社会で定められた法よりも重いということです。私自身は著書の主人公ほど献身、犠牲で「絆」を体現してはおりませんが、少なくとも社会的な法によって家族や仲間の絆が左右されるような生き方をしてこなかったことを誇りとしてますし、これは死ぬまで変わることのない生き方でもあります。今日は大変堅苦しい話になってしまいましたが、それほど考えさせる「本」にしばらくぶりに出会った感動をお伝えしたくてノーガキをこかせていただきました。浅田先輩(私はこう呼ばせていただくことにします)はやはり思ったとおり、只者ではありませんでした。
2005年12月18日
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画像シリーズ第四弾!私のルーツ・トゥモローUSAのフライヤーです。「歌舞伎町はど真ん中、東宝会館7階、世界最大のダンスフロアーを持つトゥモローUSAからお届けしています・・・・」新宿のジュリーこと昇ちゃんのMCが聞こえてきます。とにかく毎日が興奮と刺激の連続でした。一体これから何が起こるんだろう、何が始まるんだろう、ってな感じでした。当時の流行の最先端を走っていたディスコ、その黄金期の幕開け時代です。この頃はロックンロールのリバイバル・ブームに沸いていたようですね。写真で踊っている姿はツィストのようです。そしてDJブースで何故かアフロ頭の私が手を振ってますね?まさに時代を表現していますね。アフロもリーゼントもソウルもツイィストもごった煮って感じです。この時代はファッションも目まぐるしく変わりました。私のSOULファッションも時期的にいえば、そろそろ旬が終わり始めた頃とも言えます。ちなみにこの写真はビルの1階ロビーの大看板にも貼られて、相棒のジュリーが非常に悔しがっていたのを覚えています。偶然なんですけどね。たまたまカメラマンが来たときに私がDJブースに居た、みたいなことなんですけど、何と言ってもチーフDJ昇二君は地団駄踏んで悔しがっておりました。
2005年12月17日
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今日もまたまた古~い写真を1枚ご紹介いたします。白黒ってトコがかなり良い味出してますネ。これは確か1977年頃だったと思います。私が新宿Q&BからトゥモローUSAへダンサーとしてデビューするきっかけとなったイベントです。写真ではよく見えませんが、後ろのテーブルには新宿のジュリーこと鈴木昇二氏もいます。イベントはシャイ・ライツのアルバムリリース発表会でした。レーベル移籍記念としてシャイ・ライツの全アルバムをキングレコードから発売することになり、ラジオ関係者、業界プレス、一般客などを交え、当時ブームになりつつあったソウル・ディスコの雰囲気を味わってもらおうというような企画でした。結局、これがダンシング・チーム新宿バッドチルドレンのスタートになったわけです。左端からトオル、マリ、私、テツ、ヒトミです。初代メンバーです。この時、「タッチ」という踊りを作って流行らせようとしたんですけど、まったくウケませんでした。大体シャイ・ライツってバラード系のコーラスグループでしたから、ダンスナンバーで話題を作るのはちょっと無理がありましたよね。このあたりの感覚がジュリーとロニーの対立と言うか、最後まで交われなかった溝であった気がします。踊らない人間に踊る人間のこだわりをいくら言ったところで馬の耳に・・・ですよね。しかし、みなまだ若かったねぇ。ヒトミなんざぁ、この時まだ16歳だったからね。マリも17だったんじゃないかな。トオルとテツが同い年で18から19になるところで、私はすでに20歳でした。ヒゲもこの頃から伸ばし始めたんですね。ファッションも、当時のソウルマンは皆ニットで仕立てた派手なカッコしてたんですけど、「オレ達は新宿の悪ガキ」だぁ~ってことで、ジーンズとかに拘りましたね。できるだけ不良っぽく見せたいって感じですか。この時のイメージはThe Voices of East Haremでした。このグループは名前通りイーストハレムのコーラスグループで、全員が粗末なジーンズにTシャツといった見るからにFUNKYな連中でした。日本ではほぼ無名に近いグループでしたが、映画SOUL TO SOULに出演してタイトルソングを唄ったりしてまして、ホントの黒人好きな方達ならかなりビビッと来るグループです。ちなみに彼等のデビュー「Right on be free」って曲を、数年前のサンタナのコンサートのトリで演っていたのには驚きました。もちろんVIDEOで見たのですが、NYのコンサートでサンタナと所縁のあるアーティストが一人ずつ出てきて競演するといった趣向のライブでした。
2005年12月16日
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以前書かせて頂きました「新宿ディスコナイト」に登場した幻のバンド「やまと」のメンバーの写真が見つかりましたのでご紹介しちゃいましょう。画像が暗くて顔がよく見えないところがちょうどよかったですネ。え~と、左から順に、私、あっちゃん、ムラちゃん、石○君、H君、シゲルです。この他にもうひとりキーボードのM君っていうのがいたんですけど、本当にこの曲のためだけに参加した人でしたから、写真には写ってません。凄いですね。画像が入ると生々しいですね。あっちゃんのファッション、このブログで書いたストーリー通りでしょ?いつもあのカッコでしたからね。たまにシャツが赤から青に変わりましたが、基本的にはまんまです。ムラちゃん、懐かしいですね、あのハンチング、怪しいですね、ちょっと間違えると最近のストーカー系ですね。腕は確か、顔は肉まんの石○青年も私の表現どおりでしょ?白のワイシャツに白のコットンパンツ、ほぼこのスタイルでした。かろうじて右端にいるシゲル君がサーファーもどきのようなカッコしてますが、あんな大人しい顔してるクセに実はスゲー奴だったんですね。さあそして私ロニーは、もう完全にジョー山中・人間の証明的フラワー・トラベリング・バンドに入りきっていますね。写真じゃよくわかりませんケド、実はこの時のアフロにはメッシュが入っているんです。何を勘違いしているのでしょうか、メインはあっちゃんなのに一番デカイ顔してますね。まあ目立つことだけが取り得でしたから、気分はもうロックスターみたいな感じですか。ということで、「新宿ディスコナイト」秘話は過去のブログに書いてありますので、興味ある方はお読み下さい。(誰も興味ねぇだろーなぁ。。。。。。。。)
2005年12月15日
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本日は貴重な写真を1枚ご紹介いたします。いやいや凄いですね、このファッション。手前のヒゲアフロが私です。その隣に居るのがチャーリー、そして奥にチラッと見えるのが当時のGirl FriendだったSoul Sisterドリーですね。この時のメンバーは、トオル、テツが抜けて、チャーリーとKGが入った第二期目のBAD CHILDRENです。場所は定かではないのですが、どこかのパーティーにゲストで呼ばれて踊った時のものだと思います。確かこの頃は先輩のシュガーパイ・ガイことEさんと、競ってヒゲを伸ばした時期でした。結構ヒゲアフロ流行ってましたね。で、私はもちろんEW&Fのモーリス・ホワイトに憬れてましたから、モミアゲとあごひげの部分に多少の剃り込みを入れてました。このような細部に拘るところが馬鹿らしいほど真剣でした。赤のジャンプスーツは素肌に着るとウルトラマンみたいだったですね。下のシャツを見て下さい。衿のカラーが赤黒緑のソウルカラーになってますね。ちなみにこの時はいていたハイヒールも三色のソウルカラーが入っていました。確か丸井で九千八百円だったかな?みなこぞって買いに行った覚えがあります。残念ながら当時の記録と言うか、写真はほとんど日本に置いてきたか処分してしまったので、手元にあるのは半端なものばかりであまりお披露目するほどのモノじゃないのですが、これから少しずつご紹介させて頂きます。70年代当時このMCパターン「ご紹介」ってのは定番でしたね。「さあ、マイアミサウンドはKC&サンシャインバンドからご紹介しております。ザッツザウェイ・アイ・ライケッ!」ちょっとあの頃の雰囲気感じていただけましたでしょか?それではまた明日あなたとお会いしましょう。See you tomorrow, same place here Tomorrow USA!
2005年12月14日
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私が不良に目覚め始めた15~6歳の頃と言えば、大学紛争と東映のヤクザ映画が巷を賑わしておりました。歌謡界、演歌の世界ではウタダ・ヒカルさんのお母様でいらっしゃいます藤圭子さんも、この時代異常な盛り上がりを見せておりました。そんなこんなで、学生運動家と機動隊の衝突の舞台となった新宿が、混沌とした文化の中に若者たちを呑み込んで行った激動の時代でありました。私はこの頃、日活映画の大ファンで、渡哲也さんの無頼シリーズとか前科シリーズとかを見るため世田谷は三軒茶屋にあった中央劇場によく通っておりました。この中央劇場は東映映画を除く他社の映画を三本立て150円で見られたのですが、たまに時代劇やちょっとお色気風なものなども入っており、ちょっとマセたガキには御用達のような遊び場のひとつでもありました。で、何故東映は入っていないのかというと、この劇場の隣に東映の映画館があったからなんですね。だから東映はいつもロードショー公開なので、入場料が500円に跳ね上がってしまいます。当時のガキの小遣いなんてのもの300円がせいぜいですから、映画館でコーラ飲んでスルメイカ喰って一日潰せる映画館に比べ、たった2本のロードショーで500円と言うのは貧乏人の小倅たちには高嶺の花だったわけです。どうしてもロードショーを見たいときは、近所のパチンコ屋さんで大当たりを出すか、映画館の路地裏で学生服着た子供から無断拝借する以外に方法は無く、いずれにしても子供ながらにヤバイ橋を渡らなければなりませんでした。ということで、この頃から東映の金看板は大人の劇場といったような固定概念がしっかりと根付いてしまっていたのでした。しかも当時の東映映画といえば着流しスタイルの任侠モノが主流で、日活の現代ヤクザ路線と比べて少々時代掛かった爺臭い雰囲気を感じ取っておりました。そんな不良修行真っ盛りの私がある日のこと、柔道部の先輩(恥ずかしながら私は中学生時代柔道部に所属しておりました)に連れられて新宿歌舞伎町東映に行ったのは忘れもしない12月の暮れも押し迫った雪の夜でした。その日は、その先輩が大変機嫌よく奢ってくれて「にいむら」のとんかつなどを食った後映画でも見ようということになり、ようし今日は「東映」のヤクザ映画をみるぞ!しかもロードショーだ!二人で千円も払うんだぞ!ってなことになったのです。ところがこの日は新作ロードショーではなく「藤純子大会」が催されていたのでした。とはいえ、二人とも所詮は東京は武蔵野世田谷のツッパリ小僧ですから、憬れの大洗海岸の波に東映の文字が浮かび上がるスクリーン見たさに映画館に引き込まれていったのでした。「緋牡丹博徒」肥後熊本のヤクザの娘が父親の代を取って女親分となる痛快活劇、緋牡丹のお竜姉さんの可憐な姿に二人はドップリとはまってしまい、すっかり出来上がってしまった目のやんちゃ坊主たちは、映画館を出て雪の積もる歌舞伎町を夢見心地で帰途についたのでした。さあ翌日から東映映画というよりは藤純子さんの大ファンとなってしまったツッパリ小僧は、目を血走らせて新聞の映画欄をくまなく点検、藤純子さんの出ている映画を片っ端から見る決意を固めたのでした。そして遂に見つけたのです。東映映画の垂れ流し劇場、ヤクザ映画の殿堂、東映名画劇場、東映ファンなら誰でも知っているとまで言われたかの有名な「新宿昭和館」との出会いでした。一体何本くらい見たでしょうか?当時のヤクザ映画の殆どはここで見たと言っても過言ではありません。緋牡丹博徒シリーズは全編制覇、挙句は藤純子引退記念レコードなんぞも買ってしまい、ゆくゆくはその世界に行くのではないかとまで噂されたほどでした。毎週日曜日は午前9時に起床して、第一回目の上映時間10時30分に間に合うよう身なりを整え、小銭300円を握り締めて出かけたことが懐かしく思い出されます。結局時代の流れは東映ヤクザ路線に塗りつぶされ、日活の現代ヤクザシリーズは非常に短い命でありましたが、後年は深作欣二監督などによって再生されていくことになりました。「仁義の墓場」の渡哲也さんなんか凄かったですね。実在した狂気のヤクザ石川力夫を演じたのですが、東映のカラーを一気に変えた名作のひとつではないでしょうか。ちなみに、私はその後高倉健さんの「昭和残狂伝」シリーズにはまってしまい、時には銀座並木座の名画大会などにも関女(カンジョですね)の彼女などを連れて見に行ったこともありました。しかし、思えば私の青春時代は新宿昭和館と共にあった気が致します。残念ながら数年前に閉館されたそうですが、東映ヤクザ映画のあの熱狂の時代を知る者にとっては心惜しい閉館のひとつです。銀幕の向こうに夢見た時代、娯楽の少ない時代のどーらくとしては庶民の身近な異次元空間だったような気がします。「死んで貰います」流行りましたねこの名セリフ。でも実際の映画では「死んで貰うぞ!」とかになるんですけどね。健さんと純子さんの最高傑作はマキノマサヒロ監督の「昭和残狂伝・死んで貰います」だと思っています。これってヤクザ映画といよりも下町人情劇みたいだったですね。深川芸者とちょっとヤクザな板さんの恋沙汰に、料亭の後取り問題や鳶の親方と地元ヤクザの諍いなどが絡んできて、最後は唐獅子牡丹が吼える、という日本人が大好きなカタルシスですね。でもこの時の藤純子さんの芸者姿は色っぽかったですね。またセリフが泣かせます。殴りこみに出かける健さんに、「止めやしません。でも死なないで下さい。今度はあたいだけの義理と人情に生きて欲しい」じ~ん! アホなツッパリ小僧の胸は高鳴りますね。まあ、東京下町の心意気みたいなもんが、これでもかってくらい描かれているんですけど、やっぱり私も日本人なんでしょうね。グッと来るモンがありました。古くても残って欲しいものも沢山ありますね。
2005年12月13日
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最近読んだ本に「極道界」というのがありまして、この本の著者である浅田次郎さんという人物に大変興味を持ちました。実は数年前に同氏の「とられてたまるか」という著書を読んだことがあったのですが、これはその続編のような趣で、著者ご自身の懺悔録のような部分も少なからずあり、どーらく者としては非常に共感を得た内容でした。著者は「鉄道員(ぽっぽや)」をはじめ数々の小説ですでに有名な方ですが、私は実際にこれらの本を一度も読んだことがありません。何故か偶然にも私は、氏の一連の著作群をある方よりご進呈戴きまして、ほとんどの作品を読む機会に恵まれているのですが、実際のところこれらの本は私室に積み上げられたまま放置されております。まったく、タダで頂いたハードブックにも関わらず、その大方をご近所の皆様や同僚の諸氏に回すだけで自身はほとんど手に取ったこともなく、ページをめくったこともございませんでした。友人や同僚からは「プリズンホテル」は最高に面白かったとか、「蒼穹の昴」は読み応えのある作品だったとかの寸評も頂いたのですが、今ひとつ心動かされるものがなく「食わず嫌い」のような状態で現在に至っております。それなのに「極道界」というタイトルに心奪われた私は、なけなしの小遣いをはたいてこの本を購入し一気に読破したのでございます。この手の業界の裏話暴露本は昔からある手法で、一般人の知らない世界であればあるほど話題性を持つため、出版社にとって即効性のある販売戦略でもあるのですが、もちろん書き手の技量があっての暴露話ですから、いわゆるタレント本やゴシップものとは一線を画す比較的中身の濃い本といえます。さて、元々卑しい出自の私ですから、どうしても裏稼業の世界とか不良の世界とかに未だ拘っておりまして、特に時代背景が多少なりとも重なる浅田氏のお話は大変に興味深いものでありました。以前にも同様な作家安部譲二氏などの作品も読ませて頂きましたが、こちらは私より少なくとも一回りほど時代が上回る話でしたので、アウトローの歴史という面では大変勉強にはなりましたが、今ひとつ共感を呼ぶほどの感動はございませんでした。ところが、浅田氏が描く体験談のようなこの著書の後半に繰り広げられた世界は、私の生きてきた世界とまるで隣り合わせのような様相を呈しており、ひょっとすると当時どこかの同じ空間に居合わせ、同じ空気を吸っていたのではないかという興奮すら感じさせてくれるものでした。ただ、年齢的には私より5つは上である浅田氏ですから、たとえ同じ時代を生きていたとしても、世界が重なる時期はほんの数年であったと思うのですが、あまりにも時代の空気が私自身の感覚と重なり合うので本当に驚きました。たぶん当時、私たち不良少年の憧れであった先輩諸氏の中の一人に浅田氏がいたのではないか、というような確信に近い思いがあります。特に私の心の奥底から懐かしい当時の感触を引き出してくれたキーワード、新宿ムーランルージュ、駅の伝言板「国士参上」、ボンタンに長靴、青山パルスビート、コンポラ、ロータリークーペ等など、まさしく私が畏敬と憧れの目を持って追いかけた不良の先輩の姿がそこにあったのです。あの頃の恐怖と興奮の入り混じった不良独自の体感が、非常に簡潔にしかも不良独自のユーモアを交え表現されています。そして何よりも感動したのが、著者が最後に語る「六本木族」についての話であり、私自身が長年心の中で拘っていた不良の核心について触れてくれたことでした。昔の不良は「おしゃれ」だったんです。ファッションもそうですが、心の「おしゃれ」を決して忘れていなかった。それは昔の江戸っ子気質みたいなものを引きずってもいたし、アメリカから大量に流れ込んできた文化にいち早く溶け込んでいった感性も併せ持つものでした。だからこそ、そこには「粋」があったわけで、それこそが一流の不良として、時代の先端を走る遊び人として抱き続けたプライドでありました。六本木で言えば、加賀まり子さんや、井上順さんに代表されるお金持ちのお子達が時代の先頭を走っていたし、粋な不良の溜まり場は青山通りであったし、新宿には紀伊国屋グループなんてのが群れていたし、そんな時代を駆け抜けた不良たちが後生大事に抱え込んでいた「東京者」気質の崩壊していく様が実感を持って伝わってきました。私も数年前、しばらくぶりに六本木に行きましたが、浅田氏が嘆いた以上に、そこはロッポンギという名ばかりの、糞も味噌もごちゃ混ぜにした無粋な田舎者たちに陵辱され、植民地と化した土地に成り果てた姿でした。その昔、新宿は田舎者の集まりと侮蔑された歌舞伎町でさえ、今のロッポンギの萎びた感性に比べれば未だごった煮的文化は生きているように感じます。思えば、私が青山のパルスビートでチャチャなどを踊っているところへ、CB500に跨って乗り付けて来た青山みなごろし(漢字変換できませんが一文字で表現します)のマサシが、パッとコンポラの上着を脱いでピンホールのシャツの袖の刺繍「Soul Power Masashi」をこれ見よがしに皆に見せ付けて張り合っていた頃でさえ、浅田氏に言わせればすでに時代は変わっていたと言うことになるのでしょうが、それでも今の東京に比べたら不良の遊びの質も高かったように思えます。ちなみに浅田氏がシノギを削る舞台となった赤坂のマンションには、当時私もしばしば出入りしていたことがあり、ひょっとしたら稼業違いではありましたが顔を合わせたこともあったのではないかとも思いました。そういった面でも浅田氏は私の大先輩でもあります。お蔭様で私は、浅田氏ほどの修羅場を経験することもなくせいぜい霞ヶ関の家庭裁判所止まりで、その後はディスコ業界なんぞというところへ流れ込んでいきましたが、時代の変わり目に自分の周りの景色が変わっていくときの哀愁、東京で生まれ育った不良のやるせない気持ちは同じものでした。もうひとつ言わせて貰えば、私の知り合いのどうにも手の付けられないほどの馬鹿不良一人も、浅田氏同様自衛隊に入隊して皆を驚かせました。当時はこうしたケジメのつけ方が不良にとっては手っ取り早い更正方法だったのかもしれませんね。そういえば私も浅田先生同様な枯れ方をしているようで、哀しいかな二度とリーゼントなどは出来ぬ体になってしまいましたが、できることならもう一度エンジ色玉虫のコンポラに身を包み、先のとがったスリッポンなどを履いて踊り場などに出かけてみたいものです。一度この話を旧友のテリーにしたところ、「キングトーンズだって未だにコンポラ着ているぞ」とハゲまされましたが、実行するには中々の勇気がいるものでございます。いずれ皆様の前に姿を現すようなこともあるやも知れませんが、是非ともその節は見てはいけないものを見たなどと言わず、「シブイ」などとおだてて頂ければ幸甚と存じます。
2005年12月12日
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1982年秋赤坂でようやく開眼した委員長のどーらく人生は、ここでついに新しい展開を迎えることとなりました。それは、それまで委員長の人生の支えとなっていた音楽からの脱却でした。今まで自分が歩いてきた道は音楽という隠れ蓑に自分を委ねることで、実は本当の自分と向き合うことから逃げていただけだった、ということに気が付いたのでした。そして皮肉なことにそれを教えてくれたのは音楽だったのです。委員長自身の音楽とのケジメは、自身の中のいくつかの悟りから生まれました。人は心の中が哀しさや辛いことで一杯になった時BLUESを聴き、生まれてきたことの意味や生きることの哀しさに触れることができます。そしてBLUESで心が癒された時初めて愛の詩を素直に聴くことができる自分を知ります。一度愛の詩を受け入れた心は二度といたずらに哀しむことはしません。でも人は時々そこに愛があることを忘れてしまいます。だから音楽は永遠に人と共に生きているのです。いくつもの音楽との出会いがありました。そのたびに「音楽」が囁き続けてくれたこと。それが魂(SOUL)の詩、ROCKです。たとえ何処の誰であろうと、人が人としてこの世に生を受けた以上は誰もが持つ魂の詩。人は皆弱いものです。だから疲れたときは音楽を聴くのです。人は、愛で心が満たされている時にはBLUESは聴きません。それは古いアルバムを開くときのようなものです。辛いとき、苦しいとき、古いアルバムを広げ、美しく輝いていた頃、無邪気な心で遊んだ頃、そんな楽しい時を振り返りたくなります。人は、幸せなときにはアルバムは開かないものです。辛いとき、哀しいとき、BLUEが複数でやって来るBLUESを聴いて、とことん落ち込んで暗くなって涙が流れ落ちるとき、人の優しさに気が付きます。そこで人は、人を思いやることに目覚めます。そして、人を思いやったときこそ、実は自分が幸せになれるのだということを知るのです。赤坂の一年は委員長の心を本当に強くしてくれました。今まで狭い世界で見ていた心の目を開かせてくれた数々の出来事。それは過去の精算でもあったのですが、最後は逃げずに正面から立ち向かったおかげで、狭い世界からほんの少しだけ飛び出すことの出来た20代最後の小さな一歩でした。赤坂港荘で創った曲をテープに取って元彼女の○江に送りました。それが委員長から彼女に送る最後のメッセージでした。すべては人との出会いから生まれます。人が一生のうちに出会える人の数は限られています。出会いは選ばれた人だけに与えられたTHE KEY OF LIFEだと思います。思いのままに書き綴ってきました委員長の昔話も、この1982年を持って終わりにしたいと思います。1982年は委員長の人生において本当のケジメとなった年です。この後の人生は個人的な話に集約されていきますし、ディスコとは程遠い話ばかりになるのでそのうち気が向いたらまたお話させてもらいます。思いつくままに書き殴ってしまいましたので、時代や人物、場所や出来事が多少食い違っている部分もあったかもしれませんが、所詮どーらく者の昔話ですから至らぬ部分は何卒ご容赦下さい。思えば30歳で結婚して国外脱出をはかり、長いこと古い自分を封印してきましたが、一気に時代を振り返って肩の荷を降ろすことができたというか、重荷を降ろしたような気がします。少々大げさに表現すると「救われた」感じです。書くということが、これほど救いになるとは今まで思ってもみませんでした。以前から何度も言っていますが、このブログは自分のため、自己満足で書き始めたのですが、実はこの書くという行為こそが自浄効果のある癒しであった気がしてなりません。もちろん非生産的活動の典型的行為でもあります。(笑)まあ、言ってみれば音楽を演るかわりに文章で癒したといったところでしょうか。だから、もちろん幾つかのメッセージも含んだつもりでもあります。そんな限りなく自己満足に近いブログですが、多少なりとも読んでいただいた方々がいるということも驚きでしたし、同じ時代を生きた戦友がまだまだ現実と戦っていることを実感できて、根性なしのどーらく者はどれだけ励まされたかわかりません。この場を借りてあらためて御礼申し上げます。書き始めるきっかけ、背中を押してくれた戦友テリー昔のままのFUNK SPIRITを体現し続ける現役DJオーティス中村70年代不良の真実(?)の姿を伝えてくれたK-UNITのKUNIさん未だ熱いパッションで80年代ディスコを語り続けるじょんとらさん古き良き時代の新宿を知る数少ない業界の生き残り市川さん同じようなBACK STREETを歩んでこられた現役業界人YUKIさん現在のディスコシーンなど色々と貴重なお話を聞かせてくれた大泣きじいさんそして早々と旅立ってしまったトーマス、一度は昔話に花咲かせてみたたかったのですが残念です。その他にもメールや掲示板にコメントを寄せて下さった皆様ありがとうございました。今年50歳になった爺はこれでようやく過去の自分を吹っ切ることができました。皆様とは一度も顔を合わしてお話したこともないのに、まるで昔からずーっと一緒に遊んできた仲間のように思えてなりません。欲を言えば、中途半端に生き別れになってしまった戦友達の消息も尋ねて回りたいところですが、今更フツーのおっさんになってしまった自分がノコノコ出張っても、美しい(笑)夢が壊れてしまうだけかもしれませんので、爺はひたすら書くことに専念します。ということでご愛読頂きました古い古いディスコファン、不良ファンの皆様には厚く御礼申し上げます。昔話はひとまずここで終了させて頂きまして、明日からは更なる非生産活動を目指してキーボードを叩いて行きたいと思います。非生産活動推進委員会委員長 RONNY ジイ
2005年12月10日
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赤坂ゲームセンターで働く委員長の生活では、今まで関わりの無かった人々とのお付き合いも生まれました。根が好奇心の塊のような性格ですから、ここで知り合った人たちの中にも随分と面白いキャラクターがいました。特に昼間は山王のアメリカンスクールの生徒たちがよく出入りしていて、子供のクセに英語をペラペラ話す彼等に驚いたりしました。(っていうか、当たり前だろアメリカ人なんだから)そこで働くアメリカ人の女の子たちとも結構仲良くなったりして、フツーの仕事もまんざらじゃないと思いましたね。(って、結局そーゆーオチかぁ)まあ、そうは言ってもそんなに出来すぎた話はありません。時々六本木や原宿に遊びに行く程度のお付き合いでした。とにかくこの頃の委員長は八方塞失意のどん底にありましたから、ゲームセンターの仕事とは言えども心ここにあらずって感じで、暗闇の中を手探りで歩いているようなものでした。そんな状態の委員長の心に強いインパクトを与えてくれた出会いが二つありました。ひとつは、ある晩のこと、暇な店で適当にゲームなどをして遊びながら店番をしている委員長の前に、踝まで丈のある黒のロングコートを着て、頭からスカーフを被り黒のサングラスをかけたでっぷりとした女性が現れたのです。どうやら黒人のようで、そのファッションからしてモロにファンキーさが滲み出ておりました。そして、その彼女を追う様にしてチョイ年配の日本人のおばさんが入ってきました。彼女は店内を歩き回りゲーム機を物色し始めました。さあ、黒ずくめのでっぷりした女性は当時人気ナンバーワンといわれていたナムコ社製「ギャラガー」にどかっと腰をおろし、コートのポケットから徐に百円玉をジャラジャラと出してプレーを開始したのです。まあここまではよくある日々の出来事ですから、さほど気にも留めず委員長はまたアチコチのゲームで遊びながら店番を続けていました。赤坂の夜はゲームセンターで遊ぶヤツなどあまりいませんでしたから、閑散とした店内はゲーム機のBGMだけが鳴り響いているような状態です。その店内中央でゲームに熱中するこのご婦人方は狂ったようなスピードで百円玉を消化していきます。両替も千円札の自動機にまとめて数枚入れ込み、両替したコインをテーブルに積み上げて益々エキサイトしていきます。終いには、日本人のオバちゃんは黒人のオバちゃんに何か言われて、完全にギャラリーと化しておりました。ファンキーな黒人オバちゃんは次第にエキサイトしてきて、スカーフを外し、サングラスをとり、コートを脱ぎ去りました。入店したときから彼女の容姿が気になっていた委員長ですが、どこか見覚えのあるこのオバちゃんの生顔が頭の中のデータファイルを検索し始めます。さて委員長演じるゲームセンターのにーちゃんは、ドリンクなどを用意しておばちゃん二人のテーブルに運んだのでした。「You look like Roberta Flack」物怖じもせず声をかけた委員長。彼女は上目遣いで委員長を見てにやりと笑って、「Oh, you know her?」と答えました。すかさず「Yes, of course I love her」と言うと、彼女はゲームの手を止めてよしよしというよなポーズをして、「Oh, You love me」と言って大笑いしました。いやー、驚きましたね、ロバータ・フラックとこんなところで遭えるとは夢にも思っていませんでした。日本人のオバちゃんは通訳兼付き人で、夜な夜な歩き回る彼女にちょっと手を焼いていたようでしたが、ロバータ・フラックのゲーム好きは有名で、自宅近くのゲームセンターにもちょくちょく顔を出すとのことでした。早速委員長は港荘に行って彼女のレコードを探しましたが、残念ながらディスコオムニバスのようなものしかありません。唯一彼女のアルバムは映画のサントラ盤「LOVIN YOU」のみでした。しかもこれは赤坂シンデレラから失敬してきたシロモノでかなりジャケットも傷んでおり、サインを貰うには少々憚られましたが、せっかくの記念だしまあ良いかってなもんで、もうひとつBVDのTシャツをひっ掴んで店に取って返しました。「随分キレイなレコードね」そんなイヤミを言われましたが快くサインに応じてくれました。このアルバムはマーカス・ミラーのベースがメチャクチャかっこよくて、委員長のお気に入りでもあったので「マーカス・ミラーのチョッパーはファンキーだね」と言ったら、彼女ちょっとムッとしてました。(あんたさっき私のこと愛してるって言ってたんじゃないのみたいな)そして少々着込んだTシャツにもサインを頂きました。Love is musicMusic is love彼女のメッセージが書き込まれました。いや~感動しました。まさかDJを廃業してゲーム屋のにーちゃんになった自分が、こんなところでロバータ・フラックとご対面してゲームまで一緒にするとは、本当に世の中ってのも不思議なものです。彼女はさんざんゲームをやりまくった後、「私のコンサートはまだ来週までやってるから来てね」と言って去って行きました。(残念ながら東京公演は翌日で終わり、次は名古屋でした)通訳のおばちゃんが一緒に居たってのもラッキーでしたけど、ゲームをしながら彼女が語ったほんの二言三言が心に響いて、委員長の音楽に対する原点回帰は間違っていなかったと確信したほどでした。まさに、Killing me softly with your song「やさしく殺して」って感じでしたね。そしてもうひとつの出会いは、これも音楽にまつわる話なんですが、当時赤坂のどこかのクラブに出演していた黒人バンドがいまして、休憩時間によくメンバーがゲームをしに来ていたんですね。結構熱くなってゲーム機に「SHIT!」とか「BULL SHIT!」などと叫んだりして、中々ファンキーな奴らでした。毎日のように顔を合わせているうちに自然とお友達になるのは当然で、そのうち委員長が彼等にゲームの隠し技とか、攻略法などを教えたり、時には彼等がビルボード誌のコピーを持ってきて、自分達のグループがランキングされたといって委員長に自慢げに見せてくれたりするような仲にまでなっていました。そのバンドメンバーのひとり、サックス奏者のブラザーが異常なほどギャラガーにはまってしまい、熱中しすぎてステージに遅れたなんてこともあったりしました。そんな感じで中々赤坂らしい(?)ゲームセンターだったのですが、この店にはジュークボックスが一台置いてあり、これが結構良い味を出していたんですね。ちなみにセガという会社は、このジュークボックスの輸入から始まった会社なので、系列のゲーセンには必ずといって良いほど設置されていました。さて、そんな赤坂店のジュークボックスは選曲がやたらとダサくて、景気付けにかける音楽というにはアイドル歌手系ばかりでどうも土地柄とマッチしていないようでした。そういえば当時赤坂にはパチンコ屋が見附前に一軒あるだけで、軍艦マーチとかも流れていませんでしたね。ということで、委員長はこのジュークボックスの選曲に我慢ならず、自前でシングル盤を買ってきては勝手に取り替えたりして、せめて職場の環境は自分のカラーにしたいなどと思ったわけです。かといって洋楽ばかりではいくら赤坂とはいえゲームセンターらしさが出ないので、所謂ニューミュージック系みたいな曲を適当に選んでは入れていました。そんな選曲の中でまさしく委員長の転機となった一枚のレコードにめぐり会ったのです。「MUSIC BOOK 山下達郎」落ち込んだ暗い毎日を過ごしていた委員長にとっては、目から鱗といっても良いほどの衝撃でした。もちろん以前から山下達郎さんの音楽は聴いていましたし、ファンの一人でもあったのですが、この曲の持つ暖かなメッセージは従来のレパートリーに比べて底抜けの明るさが漂っていたのです。まさに究極の「癒し」系ファンキー・サウンドでした。話が遠回りしましたが、ある日いつものようにやって来た例の黒人サックス奏者がなんとゲーム中にこの曲を聴いて踊りだしたのです。ゲームもそっちのけで首振って手拍子打って、挙句委員長に近寄ってきてこう言いました。「Hey man, it’s a groove man, what’s that?」彼曰く最高にドライブしてるそうで、とにかくご機嫌でした。何て唄ってるんだ?とも聞かれましたが、そんなことを英語でうまく説明できるわけありませんから、MUSIC BOOK、ミュージックブックを連発してごまかしました。彼にはBOOKの部分がよく聞き取れなかったようで、こいつはイカしたサウンドだぜみたいな感じでMUSICの部分をハモったりして委員長も鳥肌が立つほどに興奮しました。そうなんです。音楽は感じることなんです。そんな当たり前のことになぜ今まで気が付かなかったのか、なぜ今まで黒人になりきることに拘ってきたのか、ようやく本当の自分の体の中に流れるROCK SPIRITに触れた思いがしたのです。今更何をゴチャゴチャと難しいことを考えていたのか、自分が創りだす音楽こそが自分の一番伝えたい想いであり、表現したいことがあるから音楽を奏でるわけで、そんな単純なことも忘れてつまらぬノーガキをこいていた自分をこの時ほど馬鹿らしく思えたことはありませんでした。黒人であろうが白人であろうが黄色人種であろうが、心の底から湧きあがる思いを歌や音にすることこそROCKの基本であり、それこそがアートであるわけで、こんなシンプルで単純な答えに辿り着くまでに一体何年を費やしてきたのでしょうか。27歳にしてようやく目が覚めたどーらく者でした。(MUSIC BOOKより)綴れ折るように少しずつ歩くことさえ疲れたときは忘れかけていた古い本のページ 開けてみるのも良いOh,ミュージックブック開いたらメロディーの雨が肩を濡らしてOh,ミュージックブック降り注ぐそれはさわやかなハーモニー持って弾む心に留めておきたいものひとつひとつを歌えるならば突然の雨も美しい話 外へ出るのも良いOh,ミュージックブック開いたらメロディーの雨が肩を濡らしてOh,ミュージックブック降り注ぐそれはさわやかなハーモニー持って弾む
2005年12月09日
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今からちょうど25年前の今日1980年12月8日、人類は偉大なるアーティストを失いました。しかも自宅の前で熱狂的なファンに射殺されるという劇的な死によって。JOHN LENNON 享年40歳たぶん今日は世界各地でジョン・レノン氏の「イマジン」が流れることでしょう。Imagine there’s no heaven (想像してごらん、天国なんてないんだと)It’s easy if you try (やろうと思えば簡単さ)No hell below us (僕らの足下には地獄なんてない)Above us only sky (頭上には空があるだけさ)Imagine all the people living for today(全ての人が今日を生きていると想像してみて)Imagine there’s no countries (想像してごらん、国境なんてないんだと)It isn’t hard to do (そんなに難しいことじゃない)Nothing to kill or die for (殺すことも死ぬこともない)No religion too (宗教だってない)Imagine all the people living life in peace(全ての人が平和に暮らしていると想像してみて)Imagine no possessions (想像してごらん、所有するものなんてないんだと)I wonder if you can (貴方にできるかな?)No need for greed or hunger (欲望も飢えも必要ない)A brotherhood of man (人類の兄弟愛を)Imagine all the people sharing all the world(全ての人が世界を分かち合っていると創造してみて)You may say I’m a dreamer (貴方はボクを夢想家だと言うかもしれない)But I’m not the only one (だけどボク一人じゃないはずさ)I hope some day you’ll join us (いつの日か貴方も僕らに加わってくれれば)And the world will live as one (世界はひとつになるでしょう)スタンダードと言うよりは世界の名曲のひとつになった詩ですが、実はアメリカの911テロ以降、ほとんどのラジオ局で放送禁止、あるいは放送自粛となりました。テロリストへの報復がアメリカ国家において優先されたからです。そんな状況下、911テロの二週間後のニューヨークタイムスに不思議な広告が載りました。広告だというのに広告主の名前もなく、紙面一面、白地にたった一行のメッセージが書かれてありました。Imagine all the people living life in peace.勘の良い読者にはそれがジョン・レノン氏の未亡人であるオノ・ヨーコ夫人からのメッセージだとすぐに気が付いたはずです。この当時ニューヨーク市民は連日連夜、「戦争」や「報復」という言葉に翻弄されていました。マスコミのインタビューに答えて「今伝えたいメッセージは全てこの広告の中にある」と一言語っただけでした。理不尽な暴力によって夫を奪われたニューヨーカーの代表が民衆に送ったメッセージでした。せっかくですからオノ・ヨーコ夫人のインタビューのスクラップもご紹介しておきましょう。We are one world, one people whether we like it or not. Aren’t we?I mean, I can pretend we’re divided into races and countries and we can carry on pretending that until we stop doing it. But the reality is that it is one world and it is one people.「私たちはひとつの世界、ひとつの『人間』なんです。好むと好まざるとに関わらず。そうでしょ? なんと言うか、私は、我々が国や人種で別けられているフリをすることはできるし、私たちはそのフリを止めるまでずっと演じ続けることもできるの。でも、真実はひとつの世界でひとつの『人間』だってこと」(プレイボーイのインタビューより)果たして想像するだけで人類の平和が実現できるかどうかはわかりませんが、人間の存在のすべてが「思う」ことから始まるとすれば、まずは思わなければ何も始まらないのかもしれません。このジョン・レノンのイマジンが発表されたのは1971年ですから、当時委員長はまだ16歳の夢見る少年でした。この詩は確かに衝撃的でした。本当に人類全員が祈りを込めて想像さえすれば、平和は実現できると手放しで信じていました。でも必ず水を挿すヤツがいますね。「おまえ、やっぱり甘ったれだな。言うのは勝手だけど誰がメシ食わせてくれてるんだ?そういうことは自分でメシを食えるような一人前になってから言え」はい、おっしゃるとおりでございます。すぐに右左に転ぶ思春期は、転び方を間違えると両極端なところがあります。「差別や不公平を生み出す社会が悪い!大人が悪い!壊せ!腐った世の中を」はいはい、若さは暴力的なものです。ROCKの魅力はなんといってもWILDさです。「世界を救うのは愛だ!愛こそすべて」そうです。愛だけが世界平和を実現させる唯一の方法なのです。「おまえねぇ、人を愛するには条件ってものが必ず出てくるんだよ。誰彼構わず無条件で人を愛せるのかおまえ?」う~ん、確かに。無条件で愛することができるのはジーザスかマザーテレサのような人しかいないでしょう。ということで、オノ・ヨーコさんの超越した理論は、いきなり究極の真理をズバリ語っておりますが、どーらく者の委員長としてはひとつの世界、ひとつの「人間」に辿り着く前に、ひとつの世界に生きているのは男と女しかいないってことに、う少し関わっていたいと思います。男にとって女は永遠の謎ではないでしょうか?IMAGINEという名曲を残した偉大なアーティスト、ジョン・レノン氏の遺作もヨーコ夫人との愛をテーマにした「ダブルファンタジー」でした。WOMANなんて曲も素晴らしい内容ですよね。晩年のジョン・レノンの顔はちょっとした哲学者のようでもありました。あのビートルズの頃の不良っぽいシャウトも年齢を重ねるに従って穏やかな仙人のような声になっていきました。天文学的数字と言われる印税や財産を所有し、世界の音楽史に名を残した彼は決して思考を停止させることはありませんでした。そして世界平和を実現させるためにはまず男女の愛を成就させるべきと語っていたように思えて仕方がありません。12月8日、一年に一度、平和と愛について考える日、そしてジョンとヨーコのメッセージに従って今日はゆっくりと想像してみます。
2005年12月08日
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1982年新宿シンデレラ閉店でせっかく始めたDJバンドも、ドラムのモンチが離脱してからはなし崩しに消滅していってしまいました。いよいよ時代のリングサイドに追い詰められた委員長のまわりも、次第に逃げ場を失ってジタバタする戦友達が一人ずつ姿を消していきました。赤坂のゲームセンターも会社の思惑とは裏腹にさほどの収益を生むことができず、残りの契約期間をなんとか消化するだけのようなことになっていました。そんなある日のこと、閉店間際にオオイケさんの兄貴Hさんが店に飛び込んできました。「今夜オレとつき合ってくんねぇか」「どうしたんですか」「いや、今日明日にも取られちゃうからよ、どうにも寒くて誰か一緒に居て欲しくてな」取られると言うのは逮捕されるということですが、来るのが解っていて待つというのは辛いものです。その最後の時を一人で居るのは尚更辛いということで、何故か委員長の元を訪れたHさんでした。舎弟のオオイケさんも収監中ですし、こういうときは業界の人間より楽しいだけの遊びのお付き合いでいた馴染みの元に身を寄せてくるのが常で、こういうときこそ道楽者としてはできるだけ長い時間を居てあげたいと思うのが人情です。早速店を閉めた委員長はユウジの働く六本木ギゼへHさんを連れて行きました。この頃の委員長はもうディスコとは随分と縁遠くなっていましたので、店内に入って久しぶりに賑やかな世界に触れたものの、もう自分はこの業界の人間ではないことを実感しました。ユウジも委員長の突然の訪問に驚いた様子でしたが、Hさんの姿を見てなんとなく事情を察したようでした。Hさんはもうひとり昔馴染みの女性を呼び出して三人で久しぶりにディスコで遊びました。昔馴染みの女性はHさんと同年代で委員長よりは5~6歳年上で、身なりから見ても商売人というよりは遊び人OBというような感じでした。偶然フロアで踊っていた若い娘がHさんの新宿時代の知り合いだったようで、テーブルにやってきて昔話に花が咲きました。彼女は委員長のトゥモローUSA時代のことも知っていて大変懐かしがってくれました。彼女が席を離れた後、Hさんが委員長に耳打ちしました。「残念だったなぁ、昔はおめぇに惚れてたらしいぜ」隣の姉さんが口を挟みます。「Hちゃんとはどうゆう関係だったのよ?」「結構イイ声出してたぜ、あははは」こんな昔話が出てくることがすでに自分達の時代の終わったことを物語っています。空騒ぎにも似た馬鹿話が続きましたが、時折厳しい表情をするHさんは何とか嫌なことを見ないように、忘れるようにしているようで、それはましく委員長の今の姿でもあり、時代の終焉に差し掛かってジタバタしている自分を見せられているようでした。「ありゃ、麻取りか同業者だな」Hさんが顎で反対側のテーブルに座っている玄人っぽい人を指して言いました。「まさかこんなところで捕り物が始まるんじゃないでしょうね」「まあ、マトはオレじゃないことは確かだけどな、はは」結局三人で朝を迎えました。「ありがとな」別れ際Hさんがポツリと言った一言が印象的でした。これでHさんとも縁が切れました。この数週間後、ユウジが店のフロントと揉めてギゼを辞めました。ユウジもすでにディスコ業界に醒め始めていて、初心に戻って音楽をやることを決意したようでした。そうなれば手っ取り早く金を稼いで音楽活動に専念したい、そう思い立ったユウジは新宿のビニ本屋で働くことになりました。ユウジの田舎(大分県)の先輩が裏業界で活躍していたことから、誘われるままに移っていったのでした。さすがに数週間で金回りこそよくなりましたが、人相は悪くなり、始終刺々しい態度で生活するようになっていくユウジを見てさすがの委員長も声をかけずにはいられませんでした。「おまえそんな生活続けてたら戻れなくなるぞ」「ロニーさん、オレも解ってはいるんですけど、この先何をすれば良いのか自分でもよくわからないんですよ」やはり人間は弱いものですから、目先で大きな金が動けば次第につまらない欲も出てきて心が傷みはじめてきます。特に、音楽をやろうというような人間があまり生臭い世界に身を置いてしまうと、精神的なバランスを崩して見えるものも見えなくなってしまいます。委員長はユウジに田舎に帰ることを強く勧めました。まだまだ出直すチャンスはあるし、一度原点に戻ってよく考えるように諭すと、本人もきっかけを待っていたようなところもあり、すんなりと受け入れてくれました。ドタバタ劇はまだまだ続きます。シンジのいる立川のエモンも閉店となりました。かろうじて吉祥寺の「城」がリニューワル・オープンするということで、うまく入りこめたシンジでしたが、先行きの不安は皆同じです。そしてヒロシが独立して広告代理店を立ち上げました。後日談ですが、結局は資金繰りに行き詰まってホテトル業などに手を出してしまい、数年後追い込みをかけられて委員長のウチに逃げてきましたが、ここまできたら自分でケジメをつける以外にはないというような末期的症状でした。もちろん当時の委員長はすでに業界からも、その筋の付き合いからも遠ざかっていましたので、何の力にもなってやれませんでした。せめてメシを食わせて小金を握らせてやるのが精一杯でした。後年「竜二」という映画を見たとき、この時の状況に良く似たシーンが出てきて涙が出たのを覚えています。やはり同じ時代を生きた仲間が落ち込んでいく姿を見るのは辛いものです。辛うじて委員長はなんとかケジメをつけてこうしてフツー(でもないか?)の生活を送っておりますが、あの頃の仲間にはどんな形でもフツーの暮らしをしていて欲しいと祈るばかりです。
2005年12月07日
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ヤスオの壮絶な死は委員長にとっても仲間にとってもショッキングな出来事でした。「千葉駅で車を盗んだ男が京葉道路料金所を突破して侵入、パトカーが追跡したところ盗難車は路肩に駐車中の車に追突。犯人は別の車を盗んで更に逃走したが千葉県警と高速機動隊によって逮捕された。なお犯人の車に追突された車はエンジンに引火し炎上した。車中には広瀬保夫さん22歳が仮眠を取っており全身火傷で病院に運ばれたがまもなく死亡した」事故当日の夕刊にはこのような記事が載っておりました。テレビのニュースでも流れましたが、犯人は覚醒剤常用者だったようで心神喪失などの症状ありと発表されました。委員長は何とか線香の一本でもたむけてやりたくて、千葉県警や同乗していたヤスオの同僚二人に話を聞き、ヤスオが葬られた墓をようやく探し当て、軍団全員を引き連れてお参りに出かけました。場所は小田急線柿生駅にあった無縁墓地のようなところでした。まずは警察で教えて貰ったお寺を訪ねたのですが、中々確認が出来ず住職さんが調べてくれてようやく墓地の場所がわかったというような、きっとそれは寂しい葬儀だったであろうことを物語っていました。墓地に入ってみたもののヤスオの墓が何処にあるかも分かりませんから、皆で闇雲に墓場をウロウロするばかりです。全員が通路を通り抜けたところで突然どこかのお塔婆がバタンと音を立てて倒れました。怖がりのユウジが声を上げます。「おー、びっくりした。脅かさないで下さいよ」「誰も脅かしたりしてねぇだろ」倒れたお塔婆に振り返った一同の目の前に、未だ新しい線香の燃えカスが置かれた墓石がひとつありました。その墓石の前に置かれた小さな位牌が風に煽られぱたりと倒れました。シンジがしゃがみこんで位牌を拾い上げると、かまぼこ板のような位牌にヤスオの本名が毛筆で書かれてありました。「ロニー、これだよ、これがヤスオの墓だよ」「なんかヤツが俺達に手招きして教えてくれたみたいだな」小さな位牌を墓石の前に立てて皆で線香と花を供えました。「戒名も付けてもらえないのか」余りにも不憫で涙が溢れてきました。「人に迷惑ばかりかけてきた根性なしにはお似合いの墓だぜ、バカタレが」そう罵った委員長でしたが、墓の周りを囲んだ全員が同じ気持ちだったのではないでしょうか。確かに仲間内でもあまり好かれたヤツではありませんでしたが、こんな死に方で別れていくことになるとは誰も思っていませんでした。「とうとう最後まで派手なことして目立ちやがって」落ちこぼれ軍団の一人、保夫との永遠の別れでした。どーらく者達のステージから役者が一人消え、こうしてジワジワと時代の流れに追い詰められていく焦りを感じつつも、だからといって委員長の生活が特別変わるわけではありません。DJバンドも練習を重ねるうちにそれはそれで皆結構その気になり始め、モンチがドラムセットを丸井のクレジットで買おうかと真剣に考え始めたころ、委員長の予想通り新宿シンデレラが閉店することになりました。路頭に迷ったモンチはジュリーこと昇ちゃんのツテを頼ったり、サム岡田の紹介でアチコチ当たったりと仕事探しに奔走して、結局バンドの方はこれで縁が切れることになってしまいました。新宿シンデレラの店長五郎さんは、数人のスタッフを引き連れて新大久保でポーカー・ゲーム店を始めることになりました。兄貴の二郎さんはすでに四ツ谷で細々ながらカラオケ屋を始めており、ディスコ時代のお客さんや昔馴染みなどが集まる店としてそれなりのスタートを切っていましたが、それでも一時の華々しさはなく、兄弟共々地下に潜った感じでした。赤坂のゲームセンターでは○間主任が会社とすったもんだの挙句辞めてしまい、後釜には新宿シンデレラからXX主任がやってきました。キャバレー上がりの人のよさそうなおっちゃんでしたが、どうも酒癖が悪いようで、勤め始めてひと月もしないうちに店の両替金を持ったまま居なくなってしまいました。話に聞くと、五郎さんのポーカー屋で熱くなってスッテンテンになったまま行方をくらましたそうで、当時はポーカーゲームでこんな話はザラにありました。赤坂署がポーカー屋に情報を流してワイロを受け取ったとか、没収機械を裏で業者に売っていた警察官の犯罪なども明るみに出たりして、サラ金地獄も含めて異常なほどの金銭トラブルが多発した時代でもありました。中でも取り分け面白かったのは、五郎さんの店に突然刑事が二人乗り込んできて、従業員に手錠をかけて拘束し、ポーカー機の金庫からどうどうと現金を奪って逃げたという事件でした。もちろん違法店ですから盗難届けを出すわけにもいかず、ひょっとしてあれはホンモノの警察官だったのではないだろうかと言って呆れていました。さすがにゲームセンター荒らしは、この頃はまだ少なかったので、委員長はこういう犯罪には巻き込まれませんでしたが、同僚が両替金をネコババしたのには参りました。結局、委員長が朝から晩まで働くことになってしまい、バンドの夢も遠退き、ひたすら港荘にこもっては一人多重録音の暗いオタクと成り果ててしまいました。毎週休みにはウォークマンを持って湘南海岸へ出かけ、一日海を見ながらブラブラとしてみたり、多摩川のほとりで昼寝しながらボーっとしてみたり、まさに道楽者丸出しの生活がしばらく続きました。この頃、例の元彼女○江から手紙が届き、それには以前送ったテープの御礼と、今は心に余裕がないので貴方の思いに答えられない、というような文面の返事が書かれてありました。今更彼女が委員長のことをどう考えようと、どう捉えようと委員長自身はまったく気にしていませんでしたが、今の自分が彼女にしてあげられることは、今でも彼女を追いかけている男を演じてあげること、そしてそれが彼女を慰める唯一の方法だと思っていました。早速委員長はレコードを買ってきて、手紙は付けずにレコードだけをパッケージに入れて彼女に返信しました。それはビートルズのLET IT BE、そしてその歌詞が委員長からのメッセージでした。LET IT BEWhen I find myself in times of troubleMother Mary came to meSpeaking words of wisdom let it beAnd in my hour of darknessShe is standing right in front meSpeaking words of wisdom let it beLet it be, let it be, let it beWhisper words of wisdom let it beAnd when the broken hearted peopleLiving in the world agreeThere will be an answer let it beFor though they may be partedThere is still a chance that they will seeThere will be an answer let it beLet it be, let it be, let it be, there will be an answer let it beLet it be, let it be, let it be, whisper words of wisdom let it beAnd when the night is cloudyThere is still a light that shines on meShine until tomorrow let it beI wake up to the sound of musicMother Mary comes to meSpeaking words of wisdom let it be(和訳付けときますネ)私が悩み苦しんでいるとき、聖母マリアが現れて貴い言葉を賜れた「すべてなすがままに」暗闇の中にいる私の前に立たれて彼女(マリア)は貴い言葉を賜れた「すべてなすがままに」「すべてをなすがままに」貴い囁きの言葉「なるがままに」失意と傷心の人々が調和の世界で生きるとき、そこに答えがある「すべてなすがままに」たとえ離れ離れになったとしても、必ず訪れる再会の日が答えになる「すべてなすがままに」「すべてをなすがままに」そこに答えがある貴い囁きの言葉「なるがままに」夜が厚い雲に覆われていても、私の上に光は輝いている明日へと導く光「すべてなすがままに」奏でる調べに誘われて目覚めると、聖母マリアが現れて貴い言葉を賜れた「すべてなすがままに」委員長が彼女に送ったメッセージは、実は自分自身を癒す行為そのものであったのかもしれませんでした。実際には訳しようのない言葉LET IT BE。まさしく、そのまま、そのまま、あるがままにしておこう、そんな素晴らしく本当に貴い言葉です。
2005年12月06日
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1982年2月に赤坂シンデレラの跡地にゲームセンター「ゲームインオークラ」がオープンしました。そのオープン間もない2月8日、悪夢のような大事件、ホテルニュージャパンの火災が起こりました。店の前は通行止めとなり、消防車、救急車、パトカーなどが入り乱れて未曾有の大惨事となってしまいました。本当に年明けから陰惨なニュースでした。そして委員長は新しいゲームセンターの生活が始まり、道楽者のお調子者から少しだけ実社会へのリハビリが始まりました。なんといってもチャラチャラした仕事で楽してきた身ですから、きちんと拘束時間が決められた仕事をすること自体十代の頃のアルバイト以来でもあり、すでにこの年27歳を迎えようという良い大人が満足な常識も知らず、まさに社会復帰にかけた新たな挑戦とでも云えました。まあしかし、遅番を選んだ委員長の不幸は、身から出たサビ、どーらくのツケとは云うものの中々に厳しいものでありました。かつての常連が時々顔を出してくれるのは良いのですが、セガのジャンパーを着てゲーム機の掃除などをしている委員長を見て言葉に詰まった様子が見て取れました。元ジャパニーズのトミーとか後輩なんぞも時々やってきましたが、顔を合わせるのが申し訳ないような態度でもありました。時には相変わらず夢見ているのか、慰めてくれているのかわかりませんでしたが、「ロニーさん、今度は何やるんですか?何か企んでるんでしょ」などと声をかけてくれたりする後輩もいたりしました。何言ってんだよ、見ての通りのしがないゲーム屋のにーちゃんだよと言っても、まだ彼等は委員長に何かを期待しているようでもありました。考えてみれば彼等も同様に、自分達の時代の終わりを真正面から受け入れたくない気持ちがあったのでしょう。過去の快楽の余韻を誰かに託しているようなものです。これも全てはどーらくのツケと割り切って試練に耐える様、毎日を淡々と過ごす委員長でしたが最後の最後で自分の原点復帰を決めた以上、何かひとつは自分の音楽を形にすることが当面の目標でした。仕事が終われば赤坂港荘にこもって曲作りに励み、メンバーが揃えばスタジオを借りて練習という具合に、どこにでもあるフツーのアマチュアバンドがやるような、フツーの音楽活動を開始しました。ちょうどこのころ、赤坂港荘の近くにモッズ・スタジオという新しい練習スタジオがオープンし、しかも24時間営業だったので委員長たちにとってはまさにうってつけ、深夜の練習にはもってこいでした。深夜は4時間単位で貸し出ししていましたから昼間の練習に比べてかなり割安だったのです。オリジナルソングも10曲程度作りましたかね。今にして思えば本当に良い想い出です。スタジオで一発録りしたテープやTEAC144で編集したテープしか残っていませんが、ほのぼのとした自分達らしい素直な音楽です。ただ、相変わらずデタラメなこともやってましたね。深夜営業のはずのゲームセンターなのですが午前2時頃には勝手に閉店してしまい、皆で楽器を運び込んで朝まで練習なんてこともしょっちゅうやったりしてました。結局バンドに夢を託して残ったメンバーは5人で、ドラムのモンチは新宿シンデレラ、ユウジはギゼ、ナオはユウジの紹介で六本木ウィズに入り、シンジは相変わらず立川エモンと、委員長を除く全員が現役ディスコDJの傍らバンド修行に精進していました。ロックシンガー目指すゴロウは新しいヘビメタ系のメンバーを見つけて独自の道を歩み始め、フーテンダンサー・ニックはマグロ船に乗るといって旅立って行きました。なぜマグロ船だったかというと、さすがにクレージーな息子に見かねたニックの親父さんが、性根を叩き直すにはマグロ漁船に乗せるしかないと決断したそうで、ニック本人は最後の別れに港荘にやってきて、来年マグロを一本土産に担いでやってくることを皆に胸を張って約束してくれました。これが彼との最後でした。本当にマグロ船に乗ったかどうか定かではありませんが、今でも上野あたりをウロウロしていてもちっとも不思議ではないようなキャラクターだったことは間違いありません。バンドというのは不思議な力というか魅力というか、皆で音楽を奏でる快感は体験した者にしかわからないある種麻薬のような効力があります。今までディスコだダンスだ花だ提灯だと騒いでいたアホタレ達も、自分達の手で音楽を作るという面白さを知った途端に自分達の生活の全てがそこに集約されていきます。今まで人の音楽でノーガキを垂れていた奴らも、実際に自分たちで楽器を持って演奏してみるとその奥行きの深さに気が付き、いつの間にか音楽に対する姿勢も変わってくるから不思議です。一銭にもならぬばかりか、ただ皆で集まって楽器演奏をするという行為のためだけに自分達のなけなしの金、生活の全てを注ぎ込む、まさしく究極の道楽、非生産行為の極めつけです。そしてそんなバンド熱に浮かされた道楽者たちは夜毎赤坂港荘に集まり、興奮の日々を繰り返していました。そんなある週末、ユウジ、ナオ、モンチの面々が港荘にやってきてこれからのバンド談義に花開きました。すでに酒も入っており、勢い夢の話はどんどん膨らんでいきます。更にシンジが立川からコジャを連れて来て、往年のロニー軍団が久々に顔を合わせました。「ヤスオも今日は公休取って来るって電話があったから、今日は久しぶりに昔の仲間が全員集まるよ」そう嬉しそうに話すシンジはすでに出来上がっていました。赤坂シンデレラ崩壊後、こうして皆でゆっくりと話す機会のなかった面々ですから、昔話も混ざり延々とバカ話は続いていきます。バカ騒ぎで盛り上がる港荘もいつの間にか夜が明け、スズメの声に一同の目もまどろみ始めた頃、突然ゴンっという地響きと共に部屋が大きく揺れました。「おっ、地震かぁ」「お前ヨッパッラってんだろ」「今揺れましたよね」外で人の騒ぐ声が聞こえます。ユウジが窓のガラス戸を開け、皆で外を覗き込むと港荘の角に乗用車が一台頭を突っ込んだ形で止まっています。回りで運転手らしいオッサンと自転車に乗ったおっさんが何やら大声で言い争いをしているようです。「何だ、事故かぁ。しかしこんなトコにブツけるたぁ、間抜けな野郎だな」「アパートが崩れ落ちなくて良かったですよね」一同で大笑いしてガラス戸を閉めました。しかし、大通りに面しているとはいえ、この港荘の周辺は細い路地に囲まれた比較的見通しの良いところです。それがよりによってコーナーからはみ出してアパートに激突するなんて、普通は考えられない事故でした。幸い怪我人もなかったようでしたから、大騒ぎにもならずそのまま車は走り去って行きました。すでに外は朝、そろそろ回りの家でも起き出す時間になってきたので、ゴミ野郎達も就寝時刻です。と、ここで外から叫び声が聞こえました。「火事だー!火事だー!」急いで再び窓のガラス戸を勢いよく開けると、道路を隔てた対面のアパート、ちょうど委員長達のいる部屋の真正面の二階の部屋から煙が出ています。「おいっ!火事だよ、どーする」何を間抜けなこと言っているのでしょうか。委員長の問いかけに一同はまるで他人事のようです。「皆で消しに行きますか?」「消防車呼ばなきゃ」何がなんだかわかりませんでしたが、とりあえず部屋を飛び出した委員長は港荘の階段の隅に備え付けられていた消火器を手に取って火事の現場へ駆け込みました。部屋には委員長と同じ年くらいのあんちゃんがひとり、ナベに水を汲んでオロオロしていましたが、幸いタバコの不始末で畳が燃えた程度の小火でした。委員長が手にした消火器は相当の年季モノで、結局、消化泡がシュっと一瞬出ただけで使い物にはならず、委員長同様駆けつけた近所の人たちのナベや薬缶の水で無事消火しました。「なんか変な日だね、今日は」呑気な道楽者ですから夜通しバカ話をし疲れたか、皆そこら辺に転がったまま寝入ってしまいました。気持ちよくウトウトしたのもつかの間、今度は部屋のドアをどんどんと勢い欲叩く音で眼が覚めました。ドアを開けるとゲームセンターで一緒に働く○間主任が暗い顔をして立っていました。「どうしたの、こんな朝早く?」「今、千葉の警察から電話があって、ヤスオが事故で死んだらしいんですよ」「えっ!」何を突然言っているのか状況がつかめませんでした。「警察の話では、京葉道路で事故に遭って死んだみたいですよ」港荘で転寝をしていた全員が起きて来て、今朝方の一連の事故との符合に一同は青ざめました。委員長は早速店に行って、○間主任がメモしてくれていた千葉県警の担当者に電話をして、状況を尋ねました。担当官の話によると、職場の同僚が運転する車で東京に向かう途中、京葉道路で路肩に駐車して休憩しているところへ暴走車が突っ込んできて炎上、ヤスオは焼死したとのことでした。それを聞いた委員長は愕然としました。今朝方港荘で起こった小事故が見事なほど符合したからです。「ヤスオが来たんだよ」「来たけど誰も相手にしてくれなかったから、騒ぎを起こしてオレらに知らせたんだよ」「衝突、炎上って、偶然過ぎるよな」車の持ち主で運転していた同僚は二人、ともにトイレに行っている間の事故だったようで幸い無事でした。身寄りのないヤスオでしたので、職場の同僚が訪問予定であった委員長の連絡先を探して店に連絡してくれたというような経緯でした。暴れん坊のアウトロー、根性なしの不良少年でしたが、あまりにも突然で壮絶な死に様はゴミ仲間全員にとって大きな衝撃でした。そして港荘で起きた衝突事故と小火は、とても偶然の出来事とは片付けられない本当に不思議な体験でした。
2005年12月05日
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1981年12月。その日は店長の二郎さんから全員午後4時出勤の命令が出され、アルバイトもDJも主任も厨房のチーフも全員が赤坂シンデレラに集合しました。いつになく険しい表情の二郎さんは全員を並ばせるとしっかりとした口調で話し始めました。「昨日本社から通達があって、ここは来年の年明けと共に閉店することになった」従業員の反応は思ったより醒めていて、皆それとなく薄々は感じていたことが発表されたまでのことでした。「今後のことだが、一応全員新宿シンデレラの方に移ることになっているが、本人の希望に任せる。もちろん待遇はすべて現状のままで異動することになる」二郎さんは委員長の方を見てやさしく言ってくれました。「DJも同じ条件でそのまま引き取ると言ってくれてる」委員長の腹は決まっていました。今更新宿に戻るつもりはありません。「店長、閉店した後はどうなるんですか」「ゲームセンターにするらしい。もし希望者があれば三人ほど雇いたいと言ってるから、もし残るのであれば申し出てくれ。もちろん待遇はそのままで良いらしい」それを聞いた委員長は何故かすっきりと割り切れました。これ以上ディスコと関わっていったところで先行き同じことの繰り返しだし、当面ここに残って様子をみるのも悪くないかなと思ったのです。それにゲームセンターの係員なんて結構ファンキーに思えました。(根が新しモノ好きですからね)ということで、○間主任と委員長の二人が会社に残ってゲームセンターの従業員になることが決まりました。ユウジは悩んでいましたが、委員長も今更何をしてやれるわけでもなく、自分の人生だから自分で決めろと突き放しました。二郎さんは会社を辞めて四ツ谷にカラオケ屋を開業するようでした。結局新宿には誰一人移ることなく、みごと玉砕です。遂にここで委員長の時代はいよいよ終焉を迎えることになりました。本来なら六本木マジックの騒動が最後の局面になるはずだったのですが、なんとなく流されるままに赤坂に来てしまい、結局はずるずると結論を先送りしていただけのことでしたが、閉店という終わり方こそが一番ケジメをつけやすいかたちだったのかもしれません。要は自分でケジメがつけられない道楽者は、このように時代の方からケジメをつけられることとなってしまったわけです。いつかはこんな生活にピリオドを打つ日が来るのはわかっていましたが、やはりそれを直視するのは怖かったし、できるだけ考えないように回避しながら成り行きに任せていただけですが、実際に直面してみると自分でも意外なほどあっさりとしたものでした。DJを辞めたあとの就職先を探すのも面倒だし、今の条件で面倒見てくれるならしばらくはやってみようか、といった軽い決断でした。(結局成り行きやんけ)さて、一応のケジメが付いたら多少の不安は残るものの意外と気分も軽くなり、これから先のことは追々考えるとして、当面はバンドをやるための仕事と割り切って、単なるサラリーマンになりきって生活していこうと決めたのでした。しかし年の瀬を控えて、皆新しい職場を探すのは中々大変です。退職者は1月一杯の給料は保証するとのことではありましたが、正月早々職探しをするくらいならいっそのこと繁忙期の12月に転職をした方が楽だということで殆どの従業員が仕事探しに六本木に流れ出ました。弟分のユウジは新宿時代の昔の仲間のツテを頼りに六本木ギゼへの転職が決まりました。このころのユウジも委員長同様、バンドへの執着がありましたから、とりあえず食扶ちを確保したというような感じでした。ゴロウ君は数人のウェイターとともにQUE(キュー)へ移って行きました。ヤスオは宙ぶらりんで引き取り手も無く、本人もできればまたDJとして復活したいというようなことからナオと入れ替わりで立川のアストロハウスへ飛びました。かくして赤坂シンデレラは12月の忘年会を持ってその歴史に幕を閉じたのです。1981年の大晦日、委員長の人生の中で最も暗く寂しい年明けでした。赤坂でシゲルと待ち合わせをして、二人とぼとぼと明治神宮へ初詣に出かけましたが、毎年恒例のように皆でドンちゃん騒ぎを繰り返してきた正月も、落ち目の人生、道楽者の末路といった感じでミジメなものでした。1982年の年明け早々赤坂シンデレラの解体工事が始まり、持ち出せるものはすべて新宿シンデレラに運びました。跡地のゲームセンターはセガとの提携で、アミューズメント機器の管理はセガ、センターの経営は大蔵物産(シンデレラを所有していた正式会社名です)ということで、アルバイトを1名入れて○間主任が早番、委員長が遅番といったシフトで営業が開始されました。六本木へ出張っていったユウジはその盛り上がり方に多少面食らったようで、スクエアビルを中心にディスコはかなりの賑わいを見せているようでした。「ロニーさん、仕事ならいくらでもありますからまたDJに戻ったらどうですか」そういうユウジの姿を見て、心の底から自分の時代は終わったことを実感した委員長でした。まさに赤坂シンデレラは、委員長のディスコ時代の最後のステージとして用意されていたような気がしました。周りのスタッフや仲間にも大変恵まれた環境の中で、自分のディスコ人生最後のステージを飾れたことを大変幸せに思いました。本当にこれでケジメがついたという感じです。委員長自身はこれで今までの精算が終了したつもりでしたが、どっこい世の中はそんなに甘いものではありません。実はこれからが本当の精算、どーらくのツケが始まっていくわけで、まさか更に辛く厳しい日々が待っているとは夢にも思わぬお調子者の委員長でした。
2005年12月04日
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1981年秋風の吹き始めた頃、赤坂港荘に集うゴミ野郎達にもそれぞれ現実の厳しさが忍び寄って来ていました。まずは立川で更正して働いているはずのヤスオが、突然赤坂にやってきてシンデレラに就職しました。結局立川ではニッチもサッチも行かなくなってしまい、またもや委員長やシンジ、ユウジを頼ってやって来たのです。しばらくは住むところも無いので港荘に居候することになりました。続いて変人ニックがキクゾーと二人転がり込んできました。彼等は金策に困り、バンス(前金)を貰って上野のスナックに勤め出したのですが、どうもタコ部屋に近い怪しい店だったのでトンコしてきたとのことでした。「なんだよ、それじゃお前等バンスだけパクったのと同じじゃん」「いやー、そんなこと言ったってロニーさん、やばかったんすよ。下手したらシャブでも売らされそうで、俺等犯罪者には成りたくないっすからね」っていうか、お前等がすでに犯罪を犯してるんだろうって感じです。ということでしばらくは影を潜めていたいのでここに住まわせて下さい、というようなことになってしまいました。いやはやこれから年の瀬を迎えようという慌しい時期に、コトの他やっかいな奴らが集まり出してしまった港荘は益々如何わしいアパートとなっていきました。夏場はエアコンのおかげで天国のようでしたが、寒くなってくると暖房器具はユウジが持ってきたコタツしかありません。楽器やレコードが散乱する傾きかけたボロアパート、むさ苦しいゴミ野郎達がコタツに足を突っ込んで寝ている姿は、まるで粗大ゴミ捨て場のような雰囲気でした。しかもこのコタツは本当に道で拾った粗大ゴミで、脚のひとつの留め金が壊れていて、その脚に触れようものなら音を立ててコタツのやぐらが崩壊してしまうという、爆弾ゲームのようなシロモノでした。夜中寝静まって熟睡に入りだす頃、突如としてガシャーンという音を立てて崩れ落ちるやぐらコタツ。「アチっ、アチーっ!」「寒ぃー!お~寒っ!」「なんなんだよぉ」冷え冷えとした暗くて寒い部屋の中、コタツ仲間一同は眠い目を擦りながらやぐらの脚をはめ込んで組み立てるという作業を行わなければなりません。なんの因果でこのようなゴミ野郎達と寝食を共にしなければならないのか、全ては身から出たサビとは言え、時に涙する夜もありました。(大げさなやっちゃなあ)さて、赤坂シンデレラもこの頃はかなり末期的状態に陥っており、週末ですら一回転するかしないかというくらい客足は落ち込んでいました。こうなってくると店閉まいの噂が誰からとも流れ出し、店の雰囲気もより一層暗くなります。そんな閑散とした平日の暗いディスコ・シンデレラにちょっと玄人っぽい方が委員長を尋ねてやって参りました。それは新宿ビバヤング時代の先輩オオイケさんの兄貴分のHさんでした。「こんなトコにいたとはなぁ。元気そうじゃネェか」「はい。まあ何とか生きてます」「実はオオイケがよパクられてよ、小菅に入ってんだよ。面会に行ってやってくれるか」「オオイケさんパクられちゃったんですか」「まあ小便刑だから長くはかかんないと思うけど、行ってやってくれよ。喜ぶと思うから」しばらくオオイケさんにも会っていなかったのですが、まさか収監されているとは知るはずも無く、Hさんの勧めで東京小菅の拘置所に面会に行くこととなりました。殺風景な小菅は寒風が吹き荒み、拘置所の中も更に冷たい風が身に沁みる暗くてどんよりとしたところでした。渡された面会申請書に冷たくなった指で安物のボールペンを握りしめてを公式文書を完成させます。漢字も随分と忘れていたし、職業とか続柄関係とか、どう書いて良いか分かりませんでしたが、そこはそれ根がファンキーですから、「音楽家」とか「元隣人」とかふざけたことを書いて提出しました。金網の向こうに現れたオオイケさんは意外にも元気よさそうで、委員長の顔を見るなり驚きもせず矢継ぎ早に喋りだしました。「いやー、今ラジオ聴いててよ、結構ファンキーな曲がかかったんで踊っちゃったよ。どうだみんな元気でやってるか?」「みんなって誰ですか?」「バカヤロ、誰だって良いんだよ。おまえの周りにいるヤツが元気かって言ってんだよ」「はあ、なんとか元気でやってます」「あのよぉ、時間がもったいないからよ、とにかく何でも良いから喋れよ」そう言いながら隣に座っている担当官のをチラチラと見ながら喋り続けるオオイケさん。「アニキから聞いたよ。赤坂シンデレラに居るんだって?相変わらず女泣かしてんのか」「人聞きの悪いこと言わないで下さいよ」「今度シンデレラでパーティでもやってやるからよ」「そんなことはどうでも良いですから、体大事にして下さい。あとでHさんに言われた差し入れしておきますから」そんな感じで意味も無い会話を20分ほどして終わりました。拘置所の前に、とにかく何から何まで色々な品揃えで、お菓子から漫画から、無いもの無いってくらいのもを売っているお店が一軒ありました。Hさんに言われたとおり、そこに入ってコミックを2冊とお菓子を一箱買ってオオイケさんの名前を書いて領収書をもらいました。なんでもこの店は差し入れ屋だそうで、買った商品はこの店から収監されている個人へ届けられるそうでした。差し入れといっても空港の税関のような検閲があって、個人で持ち込んだものなどの中には脱走用の小道具が忍ばせてあったり、タバコや酒などが紛れ込んでいたりすることがあるのでかなり厳しい検査を通さなくてはなりませんから、大方のモノはこのお店で買って差し入れの代行をお願いする仕組みになっています。上手い商売だなぁ、などと感心してしまいましたが、絶対に自分はこんなところに厄介にはなりたくないと切実に思いました。ということで、こうしてプロの道に入ったオオイケさんも委員長の知らぬ間にしっかりと修行を積んでいたわけで、人はみなそれなりに自分の人生を全うしなければいけないなぁなどとも反省した委員長でしたが、時代はいよいよ年の瀬にむかって怒涛のクライマックスを迎えるのでありました。
2005年12月03日
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ブランド・スニーカーの闇ルート輸入販売。なんだか不良好みの興奮する響きのある言葉です。といっても一人10万ずつ出して50万程度の商売ですが、当時のブランド品としては仕入れ代金の5倍以上の価格が付いた商品ですから、うまく右左に売りぬけ出来れば結構な儲けになることは間違いありませんでした。ただ問題は、サイズと種類が揃わないということで、まとめて業者に卸すほどの商売ではないので、各自が売り歩かなくてはなりません。悪ガキ仲間のSと委員長が目を付けたのはディスコの客に売る、というクローズドなマーケット販売でした。(そんな大そうなもんやないやろ)デパートで買えば1万4~5千円するスニーカーが半額程度で買えるとならば、飛ぶように売れるだろうことは容易に想像がつきます。しかもDJや黒服連中の横の繋がりをうまく利用すれば更に販路は広がります。「お前には特別6千円で売ってやるから、後は好きな値段で売れよ」みたいなことで商談が成立すれば、ブツを動かすだけで利益を生みます。まあ、道楽者らしい非常にイージーなモンキービジネスといったところでしょうか。ということで商品仕入れに行ったSが2週間後に韓国から持ち帰ってきた商品は段ボール箱に詰めこまれ、Sが当時働いていた浅草の輸入業者の事務所に一旦搬入されました。Sからの電話でいそいそと出張っていった委員長は、早速ハコの中から適当に選び出したスニーカーをズタ袋に詰め込んで、先ずは見本を赤坂シンデレラに持ち帰りました。さすがにナイキとコンバースのバスケットシューズはあっという間に従業員に売れましたが、中にはジョギングシューズやテニスシューズなど、当時まだ新しいジャンルの商品も紛れ込んでおり、きちんとした市場調査も行わずにいきなり商品を仕入れてしまった無謀さは売れ筋が完売した頃に明らかとなってきました。更に女性用サイズや男性用の大型サイズなど、こちらから相手を見つけて売りに行かなければならないような半端モノも出てきてしまいました。Sは仕入れ担当、委員長以下ディスコ組が販売担当という分担でしたが、商品によってはまず販売不可能のようなモノも入っており、結局のところ大半が在庫を残したままお手上げとなってしまいました。さあ、こうなってくると人間誰しも損はしたくないし、誰かに尻拭いをさせようということになるのが定石です。「ロニー、騙されたんじゃないの?」今○支配人はSを疑い始めます。「まあ、せめて元が取れれば損はないから、それで良いんじゃない」と店長の二郎さん。騙すも何もSだって出資してますから、損が出れば皆でリスクを背負うのは当たり前なのですが、今○支配人はどうも納得がいかないようで屁理屈をこね出します。「Sってのが家族で韓国に行きたいために絵図書いたんじゃないの」少なくとも委員長たちよりはカタギの暮らしをしているSですから、そんなくだらないことでこんな手の込んだことをするはずがありません。現に韓国で仕入れに当たったSは、その時に横流し商品の乏しさに自ら落胆し、いっそのこと手ぶらで戻ろうかとも考えたようでしたが、手始めの仕事が空振りでは皆に申し訳ないということで別の地区にある工場へも実費を使って回り買出しをしてきたとのことでもありました。エスメラルダでの経験が全く生かされていない委員長の行動は、自分でも情けなくなるほど軽率で軽薄でした。こうなったら自分でケジメをつけるしかありません。まずはSの家に行き、売り上げた現金は皆に戻すが、不足分は現物で埋め合わせしてもらうことを了承してもらい、二郎さんには全額現金で返済、今○支配人には半額と現物、Sには全額返金して、残りは全て委員長が商品を引き取ることでなんとか納めました。元はと言えば委員長が巻き込んだ二郎さんと今○さんですから、こっちは全て委員長が片付けるのは当然です。更に妻子持ちのSに現金で負担をかけさせたのでは、幼馴染として面目が立ちませんから、この分は委員長の金で精算しました。今○支配人は独り者だし、元々のお調子者ですからここはひとつ半額で泣いてもらうことにしました。(やれやれ、またしても空回りして余計な穴を開けてしまいました)まあ本音で言えば、こんな金額一晩二晩麻雀打てばチャラなんですけど、取り敢えずはみなの手前自分だけが割り喰ったような恰好をつけた委員長でした。ちなみにこの悪ガキ仲間のSですが、現在青山に事務所を構えログハウスの注文建築を取り扱う会社の社長に納まっています。http://belle-wood.com/赤坂港荘三畳の間は楽器の他にあらたにスニーカーの山で埋まりました。開き直ると度胸の据わる道楽者ですから、「ロニーが靴屋を始めた」のニュースに集まってきたゴミ野郎達に早速お裾ワケです。「おまえら好きなモノ持ってっていいぞ」スニーカーの山に群がるアホタレどもは我先に好みのブツを手に取って吟味します。「ただし、一人一足は売ってもらうからな」委員長の一言で全員が手に取ったスニーカーを恐る恐る靴の山に戻しました。情けないヤッちゃのう。「良いよもう、わかったヨ。好きなもの持ってけよ。チキショー、持ってけ泥棒!」相変わらずの気前の良さで、シンジの彼女とか戦友のシゲル、更にシゲルの弟とかまでも自分と縁のあるヤツらに全て無料奉仕の大盤振る舞いでした。しかし、「ロニーの靴屋」は業界でちょっとした噂になり、結構ウケましたね。ロニーらしいなって。DJと靴屋の接点が飛びすぎていて面白かったのでしょうか。突飛でもないことやりだすその行動性が高く評価されました。(そうなの?)ということでロニーのDJバンドのメンバーは全員ナイキかコンバースのスニーカーを履くことになり、ファッション的にはちょっと進んだ感じでした。(借金ばかりが増えただけだろ)しかし何か騒動が起これば連鎖反応のように次々と新手の騒動も起こってくるのが世の常です。スニーカー騒動の真っ只中、あのヒロシが再び登場してきました。ヒロシは持ち前の成り上がり根性でこの数ヶ月間広告代理店の営業に没頭し、小さな会社でしたが営業成績第一位を達成し、社長からも相当な期待をかけられるほどの営業マンになっていました。「ロニーも一緒にやらない?」赤坂シンデレラにやって来たヒロシは開口一番自信たっぷりに委員長に尋ねました。「今、ボク手取りいくら貰ってるかわかる?」「興味ねぇよ」あまりにもあっさりした答えにがっかりしたヒロシですが、要はエスメラルダへの復讐に執念を燃やすヒロシが恰好をつけに来ただけのことでした。「ロニー、一緒にやろうよ。広告代理店のノウハウはバッチリ掴んだから、後は独立して自分達で営業に回れば絶対儲かるって」「なあヒロシ、オレはさ、今更カタギの仕事でどうこうしようなんてこれっぽっちも思っちゃいないし、オレはオレの生き方で行くしかないんだよ」「そうかなぁ、ロニーだったら良い金稼げると思うけどな」スニーカー販売のツケで痛い思いをしているだけに、自分は商売に向いていないことは明らかですし、このヒロシの駆け足のようなやり方はいずれ破綻することも漠然ながら直感していました。「ところでロニー、成田のハコ空いてるんだけど誰かいない?」「なんだお前まだそんなことやってんのか」「自分が築いてきたものをそうは簡単に失くしたくはないですからね」とそのとき見習いのナオのことが頭をよぎりました。「新人でもよければ一人居るけど使ってみるか?」新宿シンデレラで見習いを続けていたナオですが、収入もなくブラブラしているのは可哀想ですから都下とはいえ仕事があれば助かるだろうとお世話を焼いた委員長でした。話は即決、ナオも取り急ぎ金になる仕事ですから断るはずもありません。しばらくは辛抱して金溜めて帰って来いよ、と送り出しました。ということで、ここでバンドごっこは一時中断して、まずはそれぞれの生活を落ち着かせようということになりました。ナオの成田アストロハウス派遣にからんでヒロシが赤坂に頻繁に訪れるようになり、委員長の取り巻き相手に甘言を使っては何かを企んでいるヒロシでしたが、やはり日頃の行いというかエスメラルダ時代の彼の行動を知っている者は誰も話には乗りませんでした。「ロニー、ボクは近日中に独立して自分で広告代理店の事務所を出すから、一緒にやろうよ」(未だ言ってます)「おまえ今の会社だって一年も働いてないじゃないか。それで独立するってのはいくらなんでも話が急過ぎやしないか」「今の社長にもそう言われているんですけど、どうしてもやりたいんですよ。そしてなんとか一刻も早くジュリーを見返してやりたいんです」「お前も執念深いね。もういい加減に忘れろよ。そんなことに拘っていたらロクなことにならないぞ」ちなみに翌年、ヒロシは独立して巣鴨に事務所を出しましたが、委員長の直感どおりその後のヒロシは坂を転がる石のように奈落の底へと落ち込んでいくことになったのです。
2005年12月02日
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バンドでオリジナルソングをやる。それはつまらぬプライドをかなぐり捨てて、もう一度初心に戻って音楽と向き合うことでした。今まで築いてきたハッタリを全てゼロにして自分の音楽を創ること、それこそがこの末期的な症状の自分を再生させる唯一残された道だと思ったからです。そうです、音楽はメッセージ。伝えたいことがあるから音を奏でるのです。それはジャンルに拘る必要もなく、ただただ自分の思いを忠実に音楽にするという究極の道楽でした。赤坂港荘に集う夢見る馬鹿者たちにリーダーからの発表です。「バンドを始める。但し全曲オリジナルで行く。そして曲はオレが作る」一同の注目を集めた委員長は更に激を飛ばします。「どこまで出来るかわからないけど、とにかくオレはやる。たとえメンバーが揃わなくても一人でもやる」(やれやれ何を勝手に盛り上がっているのでしょうか)どちらにせよ他人事みたいにしか思っていない奴らですから、なんだかお父さんがやる気になってるから付いていけば何とかなるだろうみたいなものです。まあ、そう言ってリキんでいる委員長ですら、何をどうするかはっきりと見えているわけではありません。「で、ロニーさん、僕らはどうすれば良いんですか」相変わらず気の弱いユウジ君の質問です。「どうするってお前の思ったとおりに生きれば良いんだよ」相手の理解許容能力をまるで無視して極端な結論をすぐに言い出す委員長。言われた方も何が何だかわからぬまま勢いに圧されて興奮してきます。「いいか、これからは自分の思った通りの音楽をやるぞ。オレ達はオレ達のやり方で勝負するんだ」(完全に自分に酔い始めています)「ってことはやっぱソウルですかね」「バカヤロ。ジャンルじゃねぇんだよ。オレ達の生き様を音楽にするんだ」馬鹿者たちを前にしっかりとアジってしまった委員長は自分でもブレーキの掛からぬほどに暴走を始めてしまいました。赤坂港荘に集うアホタレ一同にしてみれば今まで暗いことばかり言っていた委員長が突然興奮し出したものですから、言ってることはなんだかよくわからないけどいよいよこれから凄いことが始まるのだという期待で一気に盛り上がって行きます。「ロニーさん、いよいよオレ達の時代ですね」「おう、これからは本音でいくぞ。カッコじゃないんだ。自分達の好きな音楽をやるんだ」(って、今のところ結局はカッコしかつけていませんね)ということで、この日から委員長の音楽活動が始まりました。ティアックのポータブル・スタジオ・ミキサー144をフル稼働させて、毎晩曲作りに没頭していったのです。なんにせよやることが見つかったってことは良いことです。そうなると自然と仕事にも張り合いが生まれてきますから不思議なものです。やっぱり人間は道楽を持たねばいけませんね。どんなにくだらないことでも、生活に張り合いを与えるのは道楽です。まあしかし、そう簡単に行かないのが世の常です。特に道楽三昧で生きてきた委員長の精算がそう簡単に終わるはずがありません。(どーらくのツケをそんな簡単に世間は許しちゃくれませんね)そんな感じでゴミ野郎達の1981年の夏も無事終了し、季節は秋へと突入して行きます。とりあえずバンドごっこはシンジ、ユウジ、ナオ、モンチと委員長でスタートを切りました。まずは皆がどの程度の腕なのかってことで、コピーを2~3曲やってみましたが、まあこんなもんかなって感じです。いわゆるごくフツーのアマバンドって感じでした。課題曲はドゥービー・ブラザースのロングトレインランニング、バッドカンパニーのキャントゲットイナウ、タカナカのアローン、チャーのシャイニングユーなどでしたが、下手なノーガキが無くなった分だけ、アマバンドとしてそれなりに演奏は楽しめました。実際には今更こんなことやってて良いのかなぁ、などという不安もありましたが走り出した以上はとにかく進めて行くしかありません。一応、週1回のスタジオ練習を決めて、いい加減なバンド活動が始まりました。委員長の奮闘とは裏腹に、この頃の赤坂シンデレラは相当に客足も落ち込みだしていて、平日はガラガラという日が続いておりました。そんな中、またしても梅が丘の母親の家に、思いがけない人間から一本の電話があったのです。それは中学校の同級生で悪ガキ仲間だったSからでした。Sとは中学卒業以来何度か会っていましたが、昔の悪ガキ時代の面影はもうすっかり消えうせ妙に親父臭いヤツになっていました。それと言うのも、中流家庭の末っ子次男坊として育った彼は高校入試で挫折し、更に一浪して私立の二流大学へ進むという悪ガキならではの暗い青春時代を強いられたからでした。そんな彼は大学在学中に海外青年協力隊に入って韓国に渡り、同ボランティアで知り合った韓国人女性と学生結婚をするというとてつもない無謀な行動に出たのでした。並みの家柄に育った彼は家族の中では落ちこぼれの扱いを受けていましたが、パチンコの店員などをしながら無事大学を卒業し、小さな貿易会社に就職、子供も生まれ、悪ガキ仲間では一番早く落ち着いた道を歩んでおりました。そんな彼が何故電話をしてきたかと言うと、世田谷にあった実家を自分が受け継いで地元に戻ってきたことを知らせたかったためでした。まあ、親も心配だったのでしょう。家は次男の彼に与えたというところですか。利害関係のない純粋な友人と言うことでは、数少ない同級生でしたので早速地元世田谷の彼の家に遊びに行った委員長でした。その昔、よく遊びに行っていた彼の家はそのまんまの形で残っており、懐かしさにも増して、ちょうど人生の岐路に立つ委員長にとっては多少の慰めにもなりました。久々に会った彼は更に爺臭くなっており、みょうな貫禄まで滲ませておりました。そんな彼も密かな野望を持っており、いずれは独立して起業することを狙っているようでした。もちろん未だ道楽三昧の委員長には、彼の話は別世界のこととしか思えず、あまりにも世間知らずの自分が妙に子供に思えてなりませんでした。その逆に、彼も委員長の相変わらずやりたい放題好き勝手に生きている姿を見て羨ましがったりしていました。そんな昔話に花が咲いたわけですが、ひょんなことから仕事の話になってしまい、韓国の工場からスニーカーを仕入れて売るというような、今風に言えばベンチャー・ビジネスの話にいつのまにか発展していったのでした。ディスコ業界からの脱却を狙っていた委員長にとっては中々興味のある話でした。当時はナイキやらコンバースやらのスニーカーがブームになり始めた頃で、韓国には大手メーカーの生産工場が沢山ありました。友人Sが目を付けたのはこの工場からの横流し品で、ヨーロッパや米国でしか販売していないようなデザイン種を日本に持ってきて売るというような儲け話でした。もちろん横流し品ですから、サイズや品種が豊富にあるわけではなく、適当な仲介者を通して買い集めてもらい、それを輸入して売るというような図式でした。ちょっとした小遣い稼ぎになるし、うまく仲介者とのルートが作れればしばらくはこれで商売ができるかもしれないという、いささか乱暴な話でしたが、そこはそれいくつになっても悪ガキ仲間ですから面白半分も手伝ってやってみようということになったのでした。話はとんとん拍子に進み、調子くれた委員長は、そんな上手い話なら他の奴らからも金集めて大掛かりにやろうぜということで、赤坂シンデレラの店長や支配人をも巻き込むことにしたのです。(根がお祭り野郎ですからすぐ騒ぎたがりますね)友達のSはあまり賛成しませんでしたが「どうせやるならちょっとはデカイ金で勝負しようぜ」などと吹き上がってしまい、早速この話を赤坂に持ち帰った委員長でした。当時は高級羽毛布団のセールスなど新手のねずみ講が流行っていた時代ですから、小金で大儲けしようなどと言う欲の皮の突っ張った奴らが随分とおりまして、店長の二郎さんや今○支配人などもしっかり従業員相手に布団を売ったりしておりました。そんなところに委員長が珍しい話を持ちかけたものですから、二人ともすんなり相乗りが決まったわけです。過去のツケの精算中の身であるということをすっかり忘れて、あらたな厄介のタネをまく委員長でありました。
2005年12月01日
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