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自費出版プレス完了。レコード盤100枚納品。待ちきれずにムラちゃんは、インターコムの発注したプレス工場まで受け取りに出向きました。(発送料を節約しただけですネ)そして委員長は飲み物とカップヌードルなどを買い込んで、新大久保のアジトでひとりムラちゃんを待ちうけたのでした。ピンポ~ン(だったか、ブーだったか覚えがありませんが取り敢えずチャイム音)委員長が勢い良く開けたドアの向こう側には、大きな紙袋を両手にぶら下げたムラちゃんがニヤニヤして立っていました。「いや~、重かったよ~。シングル盤100枚って結構あるもんだよな~」早速荷を広げる二人。ダンボールのパックが10箱。1箱に10枚ずつ、塩化ビニール製の黒いレコードが薄黄色の紙袋に収まっていました。箱の中から1枚を抜き取って紙袋から取り出すと、盤の中央に貼り付けられた無色のスティッカーには丸い目をした子豚が載っており、ひょうきんな顔でこちらを見ています。胴体にはUSOのロゴも入っています。目と目を合わせて感無量のムラちゃんと委員長。酒の飲めない二人は缶コーラでまずは祝杯。「腹減ってない? カップヌードル買ってあるけど喰う?」「ああ、貰おうかな、久しぶりの重労働で腹減ったよ」カップヌードルにお湯を注ぎながらも言葉にならない喜びを分かち合う二人でした。道楽者の道楽の結晶とも言える自主制作盤100枚を前にヌードルを啜る二人。ズルズルと一口啜ったところで突然ムラちゃんが立ち上がって、委員長の体を肘でつつきました。顔は満面の笑顔と言うか、顔をぐしゃぐしゃにして笑っています。「な、なんだよ~」と委員長も言葉にならず笑い出しました。声も出ないほど笑い転げて部屋中をうろうろするムラちゃん。その姿につられて笑いが止まらなくなった委員長。目に涙を浮かべて笑い続ける二人。マリファナだってここまで翔ばないだろうってくらいの勢いで笑い続けました。二人のマインドは完全に幼い少年の頃の素に戻っていました。何が可笑しくて笑っているのか当人たちも解らぬまま、声も出ないほどに笑いが止まらず、部屋一杯に溢れた喜びに埋もれていった二人でした。目からは涙がこぼれ落ち、体の内側から沸き起こる体熱で汗が吹き出ても未だ興奮冷めやらぬ二人。お互いの目には、体の奥底から吹き上げてくるマグマのような感動を体現しているお互いの姿が映り、更に歓喜は増幅されていきます。息が止まりそうなほど笑い転げた長い時間は、二人が時空を越えて共有した魂の共鳴だったのでしょう。この一瞬のために今までの遊びがあったのです。「俺、ロニーと出会えてよかったよ」唐突にムラちゃんが喋り出しました。「今まで何をやっても中途半端だったけど、こうしてひとつの形が残せたんだから、俺はもうこれで満足だよ」「何言ってんだよ、ムラちゃん。まだこれから先があるじゃない」「ジュリーと出会って、マチャアキと知り合って、話ばかりで何一つ実現できなかった夢が、ロニーと組んで実現できた。考えたことを俺達は実現できたんだよな」道楽者の遊びは見返りの無い遊びだからこそ夢中になれたんですね。そこには自分達の感じたままの「面白さ」があっただけで、何一つ見返りとして望んだものはなかったからこそ、純粋に遊べたと言うことでした。ミュージシャンだのDJだのと格好つけた生き方をしているだけの半端者が、まがりなりにもひとつの形を残したというその事実だけが二人にとっての唯一のリアリティでした。道楽者人生の道楽の結晶が完成したその日が二人の頂点でした。そして人生の放物線は、右肩上がりの山を描きながらその頂上を頂点として、次第に下降していくということを知るには未だ若い二人でした。無邪気な心で遊んだ「遊び」が結晶という「形」に実を結んだとき、それは資本主義社会のシステムの中にいずれ取り込まれていく運命にあるということを思い知らされる日への、カウントダウンが始まったということでもありました。
2005年09月30日
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「新宿ディスコナイト」オリジナル自主制作盤は10月初旬に納品日が確定し、いよいよ謎のバンドやまとが世に出ることになりました。そしてこの時期、大手レコード会社もディスコをマーケットとした和製ヒットを着々と画策しておりました。中でも委員長ライバル、ジョニーが所属するバンドBIBは、キングレコードから上田力氏のプロデュースで60年代のヒットをディスコアレンジでカバーしたアルバムを製作中でした。ちなみにシングルカットは「インディアン・リバー」でした。もうひとつ、こちらも謎のヴォーカリストとして仕掛けられたトミーザビッチの「抱いて火をつけて~Give it to me one more time」でした。日本語ヴァージョンと英語ヴァージョンのセクシーなダンスナンバーでした。(これは結構マジでしたね。プロモでは黒人男性ダンサー二人がトミーに絡む演出で、結構いい味出してました。マジで艶やかでした)更に、委員長がその昔壊れ系彼女のミキ嬢とお付き合いしていた頃、頻繁に出入りしていた新宿プレイハウスの箱バンドのツインヴォーカル・キューピッツがマキシマムという名でメージャーデビューを飾ったのでした。タイトルソングは「ナッシング」で、なんとTVドラマのチャーリーズエンジェルズのエンディングテーマとしてオンエアされました。他にも大橋純子とみのやセントラルステーションも大活躍してましたね。シンプルラブがオカマダンスでディスコヒットして気を良くしたのか、ファンキー・リトル・クイニー(Funky Little Quinee)なんていうかなりヘビーな曲も出しました。バックは名前からしてグラハム・セントラルステーションの擬似バンドですが、みのやさんのチョッパーベースはラリー・グラハムに劣らず重くて渋かったですね。ただ、いつものように楽曲が歌謡曲ポップス・アレンジなので踊り辛い曲でした。どうもこの手のタイプはディスコを知らないと言うか、踊りを知らない人が作るせいか、音は確かにファンキーでディスコっぽくはなっているのですが、どうも仕掛けを作りすぎてしまい、現実的にディスコには則さないものばかりでした。惜しいなって感じでしたね。この曲も出だしから重たいチョッパーのFUNKサウンドなのですが、ブレイクしていきなりメローに落とし込んでしまうため、踊る方にとってはここで一気にシラけてしまいます。一般的に音楽ディレクターや、アレンジャーにしてみれば、一本調子で単調なワンパターンリズムのディスコサウンドはバカバカしくて嫌いだったのではないかと思われます。聞かせる音楽としてすぐに凝ったアレンジにしてしまうのでしょうね。この感覚というのが、実は建築デザインにも似たようなところがあるということを後年しみじみと感じた委員長でした。あるビルのデザインなど、ともするとその建物の機能とは関係なく、いかにもバリエーションのためとしか思えないような段差が付けてあったりすることをよく目にします。どうしてこんなところに階段とか段差が必要なのか判らないものや、機能を優先するのならば画一した平面にした方が便利なのに、といったケースにも何度か遭遇しました。ディスコサウンドも同じようなところがあって、なんでこんなところにブレイクを入れて曲調を優雅にしてしまうんだろうとか、不必要なメリハリが目立ってしまって、踊る側の雰囲気をぶち壊しているのも少なからずありました。もっと簡単に考えてシンプルにすれば踊りやすくてヒットしそうな曲も随分とあったのですが、アレンジャーやディレクター、プロデューサーの知名度や権威に縋った音創りが行われた結果のような気がします。まあ、当時はディスコの専門家なんて居ませんでしたから無理もないんですけどね。だからこそディスコDJが重宝がられたというところも多分にあります。言ってみればこのあたりの業界の仕組みが逆に足枷となり、和製ディスコヒットが生み出されなかった理由と言えるのではないでしょうか。逆にサザンオールスターズ、山下達郎、竹内マリアなど、狙わずしてディスコで流行ってしまったというのも面白い現象でした。山下達郎のボンバーなんて曲はモロにディスコサウンドでしたよね。本人もアイズレー・ブラザースを意識して創ったとは言っていましたが、アーティストによってセンスの差は相当にあったような気がします。後のスペクトラムなどはアースウィンド&ファイヤーのコピーっぽかったし、ゴダイゴなんてのはかなり時代を先取りしていたような気がします。どんなに名のあるアレンジャーでも、ディスコサウンドという音は創れてもヒットは創作できなかったってことですね。委員長は今でも思っているのですが、日本という国はインターナショナル・バンド、あるいはインターナショナル・ヒットを作るという難しさにおいては突出しているのではないかという気がします。文化やファッションの殆どがアメリカの物真似だし、それが当たり前のようになっているくせにほとんどの国民は満足に英語も話せません。これだけアメリカに近い(というよりは傘下の)国だというのに、うわべは真似するくせに中味は島国根性出し丸です。(カタカナの外来語が良い例ですよね)最近ではウタダヒカルさんのようなボーダーレスな歌手も登場してきていますが、楽屋というか業界側は、未だに邦楽と洋楽の壁できっちり仕切られているように見受けられます。アーティスト側は随分と英語圏への進出と言うか、ボーダーレスになりつつあり、国際的な活躍も目を見張るものがあります。と言っても、決して英語圏へ出ることが偉いとか、手放しでそれが素晴らしいことだと言ってるわけではありませんところが、これに比べて日本のマーケット自体がどうもついていっていないように思えます。というよりは、ついていくつもりがないのか、わざとボーダーを作っているようにも思えます。(ここにも生産効率の弊害というか、生産活動による精神性への侵害が見え隠れしていますね)まあ、こんな状況も何れはネット配信などの流通機構の革命から、販売会社のテリトリーが崩れ落ちるのも時間の問題のような気がしますが、プロダクション側なども利益ばかり(それもぼろ儲け)を優先させずに、ポップカルチャーとしてのアーティストの育成に重点を置いて頂きたいですね。この仕組みって、要は消費者をアホだと思っているわけですから、買う方も少しは考え方を変えていかなければ音楽業界というか、ポップアーティストはいつまで経っても井の中の蛙で終わってしまうでしょうね。(目を覚ませ!Open your eyesっていうかOpen our eyesです)最近のロックバンドの中には「そろそろ日本のロックも自分達の歴史に自信を持とう」などという姿勢も出てきて、米ロックへのコンプレックスから脱却しつつあります。ラウドネスなんてのはその先駆けの急先鋒ではなかったでしょうか。また、逆に海外のアーティストやミュージシャンも日本人の持つ独自の感性を認めてくれるようにもなってきたと思いますし、実際にメンバーとして融合しているアーティストもかなりの数になってきています。あえて日本語にこだわったロックや邦楽との融合など、本気でアートしている人たちが増えてきているのも事実で、ことのほか商業ベースとのギャップが目立つように思えます。アニメやコンピュータのリーダーシップもさることながら、日本という四季のある素晴らしい国の感性を大事にすることが、新たな国際化を推し進める起動力になることに気が付き始めたアーティストが増えてきたことでもあるのでしょう。ですからリスナーもそれなりに感性を高めていくべきで、その仲介役となるレコード会社(制作販売会社)も消費者を誘導するようなマーケティング・コンセプトを描いていただきたいものです。もう物真似アーティストからは卒業すべきではないかと思います。何でもアメリカの真似ばかりせず、日本人の感性でROCKしてはいかがでしょうか。そういった意味では、ディスコ(クラブ)ダンスや音楽も、すでに30年以上の歴史があるのですから、オリジナリティを持っても良いのではないでしょうかね。ところが、日本でオリジナリティって言い出すとすぐにラップを日本語でやってみたり、着物着てJAZZを演奏してみたりとかしますけど、そう言う意味ではないんですよね。それはそれでまた面白い試みかもしれませんが、英語と日本語の語感や韻を踏むセンスなんてのは、元々言葉の成り立ちからして違うし、ラップという音楽形態が生まれた「遊び」自体が違うのですから、パターンのフレームだけ持ってきて中味を和製にしたところで、それはやっぱり猿真似でしかありません。アーティストも本気でラップをやりたいのなら、最低でも英語で勝負して唸らせるだけの技術を持った上で、日本語との融合を試みて欲しいですね。リスナーの方々にもお聞きしたいのですが、あんなお経や念仏みたいな日本語のラップを聴いて、本当に楽しく踊ったり出来るんですかね?まあ、踊りはリズムさえ鳴ってれば踊れますけど、メッセージ・ラップとか風刺ラップとか、本当に聞き取って感じるものがあるのでしょうか?英語がわからないから日本語でやるってことなら、フレームもオリジナルに変えた方が良いと思います。何もヒップホップだけがラップじゃないと思うし。更に社会的なメッセージを持つなら、パンクみたいなやり方だってあるわけだし、ROCKするってことはある意味PASSIONだと思いますから、HEART~SOUL~SPRITを感じさせることができなければ、どこまでいってもプラスティックのままですね。委員長は個人的に言わせて貰うと、日本語のラップは大変気持ちの悪い印象を持っています。一番気になるのがファッションですね。だって姿形は完璧にアメリカのHIPHOP系そのまんまでしょ。でもラップは日本語。これでは猿真似と言われても仕方ありませんよね。格好はしっかりHIPHOPになりきっているのに、英語がしゃべれないから日本語でやるっていう、その姿勢が姑息でHIPHOPしてませんよね。アメリカ人のまんがオタクですら、オリジナルを読みたいからって日本語勉強してますよ。要はそれだけPASSIONが違うってことじゃないですか。お手軽なファッションで文化を模擬しては失礼ではないでしょうか。あくまで英語を否定して日本語でやるというなら、ファッションも日本色にした方が良いと思います。ということでまたも話が逸脱してしまいましたが、最近のニッポンのアーティストの活躍は委員長の時代の頃に比べるとかなりハイレベルなものだと思います。色々なジャンルで続々と傑出したアーティストが飛び出していますよね。飛び出すのは良いんですけど、日本のこの体質に幻滅してどんどん国を飛び出しちゃっているような気がしてなりません。これってある意味、才能あるアーティストの国外流出というか国益の損失ですよね。これだけ素晴らしい感性を持ったアーティストが生まれてきているというのに、業界ではメシのネタ以外にしか料理できないってことが残念ですね。結論から言わせて貰えば、権威主義的というか、名前だけのプロデューサーとかディレクターとかが多すぎるのではないでしょうか。コマーシャル・アートばかりを追求した結果が今のニッポンの音楽業界のような気がします。今の現役アーティストの方々には是非とも、委員長のようなオッサンたちが若い頃夢見たインターナショナル・ドリームを追求して頂きたいと思います。さらにアートファンももっと質の向上を目指して頂きたいですね。それも国外に活路を求めるのではなくて、このニッポンの地から発進して頂きたいと願うばかりです。もちろん委員長のようなオッサン達も、爺なりのメッセージを社会に送り続けることで夢の一端を担いたいと思っております。合言葉は「ONE NATION UNDER A GRROVE」、GROOVEの下、世界はひとつ!もっと本気で遊ぼう!ってことですネ。(って今日はだいぶ話が飛んでしまいました・・・・)
2005年09月29日
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自主制作盤のプレス仕上がり納期は9月末日。10月からは新宿のディスコを回ってプロモーション活動。そんなざっくばらんなスケジュールを組んでいたムラちゃんと委員長のバンドごっこプロジェクトに、思わぬ通知が舞い込んできました。制作会社インターコムの担当者からムラちゃんに連絡があり、プレス工程でトラブルが発生したため納期が2週間ほど遅れるとのことでした。別に1週間遅れようが2週間遅れようが、もうすでにレコーディングと言う既成事実を作ってしまった以上、納期にそれほどこだわる二人ではありませんでしたが、先方はかなりビビリまくってしまい、お詫びの電話やら弁償返金の話まで持ち出してきました。まあ、二人のハッタリが効き過ぎたのか、先方では委員長達が相当に綿密な計画をもとに進めている企画だと思い込んでいるのか、異常なまでの恐縮振りでした。若社長自らムラちゃんと委員長にプレス工場から直接電話を入れてきて、何とか1週間程度の遅れで片付けますからご容赦下さい、などと言われた日には逆に「どーでもいいっすよ」とも言えなくなってしまい、「できるだけ早くお願い致します」などと言ってしまった二人でした。さすがに弁償返金の申し出はお断りしましたが、それでは申し訳が立たないということで、「ではレーベルの印刷をさせてもらいます」と言ってくれました。ドーナツ盤と呼ばれるシングルレコードの真中は穴が開いており、その周りには小さな円盤スティッカーが貼られていて、通常はレーベルのロゴとタイトルが印刷されています。もちろん、自主制作盤にはレーベルロゴはありませんから、自分達のデザインのレイアウトやらレーベルモドキのバンド名をプリントするのが常でした。委員長のバンドごっこはお金も無かったし、別にレーベルのデザインがあろうとなかろうと、DJがサラを回してくれるかどうかとは全く関係のないことだったので、無印無色でタイトルのみ(これはもちろん無料ですね)のミニマム・オーダーしかしていませんでした。そんなところにいきなりプリントしてやるぞと言われても、どうしようか迷うばかりの委員長とムラちゃんでした。「ロニー、どうする?」「うーん、そうだね、バンド名もないしなあ」「バンド名くらい入れてもらう?」「そうだね、ほんじゃヤマトなんてのどう?」「ヤマトねぇ、良いけど、字はどうするの?ひらがな、カタカナ、漢字?」「宇宙戦艦ヤマトがカタカナだから俺達はひらがなでいこうよ」この当時宇宙戦艦ヤマトの映画がヒットしていたこともあり、元々の戦艦大和も悲劇の戦艦だったし、どうせこのレコードはメージャーデビューの前に消えてなくなる運命だから、ピッタシじゃん、みたいな軽いノリでバンド名が決まりました。「デザインはどうする?」「デザインったってなぁ、試聴盤みたいなもんだから特に考えてなかったし」と、そんな愚にも付かないことをブツブツ言っているうちに、サタデーナイトフィーバーのレコード・レーベルRSO(べっこ牛みたいな絵)が頭に浮かびました。今一番流行っているレーベルをパロっちゃおうか、ってなことで、牛の代わりにブタの絵を描いて、RSOの代わりにUSOの文字を入れて「ウソレーベル」というようなデザインを考えました。もうこれだけで大笑いですね。委員長もムラちゃんもすでにテンションが相当に高まっている状態ですから、もう何をやっても楽しくてしょうがないってなもんで、俗に言う「てんぱってる」ってヤツです。謎のUSOレーベルからリリースされた新宿ディスコナイト。唄っているのは男か女か、はたまたおかまか、謎のバンドやまと。こんなコピーを作っては道楽ドリームを楽しむ二人でありました。もうひとつおまけにこのインターコムという製作会社の縁故で、東京情報というミニコミ誌を発行している編集者が記事として載せてくれると言うことになりました。委員長が受けた電話でのインタビューでしたが、ディスコのDJが作ったレコードであるってことと、ブタ印のUSOレーベルを載せてもらうことになりました。そんなこんなでプレスの仕上がりを待つだけとなった委員長とムラちゃんのバンドごっこも、いよいよ大詰めに近づいてきた頃、対抗馬であるトゥモローUSAのチーフDJ新宿のジュリーは歌手デビュー目指してシコシコと歌のレッスンなどを続けておりました。更に、長年手がけてきた代行プロモートも軌道に乗り出し、レコード会社各社の洋楽宣伝を幅広く請け負っていくようになっておりました。一時努めた日本フォノグラムも結局は辞め、彼も彼なりに業界で生きていくことを決意したようでした。この時、ジュリーのフォノグラムでの上司であった渡部氏は、その後ジュリー共々委員長にとっても深い関わりを持つことになっていくのですが、第二次ディスコブームの仕掛け人として当時の業界に旋風を巻き起こした人物のひとりでもありました。
2005年09月28日
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1978年夏、高田馬場BIG BOX録音スタジオでは「新宿ディスコナイト」の録音が粛々と行われようとしておりました。まずはドラム、ベース、ギターのリズム録りから始まります。さすがに度胸も腕もある石○君でさえ、プロ仕様の16CHトラック(当時の主流は16でした)を使っての録音となると緊張しているようで、エンジニアのS氏のアドバイスによるリズムマシーン(当時使用していたのはメトロノーム代わりのシンプルなものです)を使っての録音には中々馴染めませんでした。ベースのシゲル君もバスとのビートが中々合わずに、多少苛立ちと焦りが見えました。確かリズムセクションだけで10テイクは軽く行ったと思いますが、さすがに職人S氏はこの時点でミュージシャンの力量を見極めていますから、これ以上やっても無理というギリギリのところで駄目押しを出してくれました。本来ならばディレクターがきちんとダメだしするところですが、そんな偉い奴はいませんから全てはS氏が頼りです。ここから後は全てパート別の録音です。ギターとキーボードのリズムパターンを変えて各1トラック、ソロパートを各1トラック、もひとつオマケに委員長のパーカッション(コンガ)が1トラックそしてコーラスです。しかし、練習もなし、その場で顔合わせした3人のぶっつけ本番ですから、これはちょっと無理があります。なんとかハーモニーらしきものにはなりましたが、これ以上時間を喰ってはヴォーカルまで間に合いません。S氏の「どうする?」の問いに、「耳障りにならない程度でお願いします」としか応えようのないムラちゃん。苦笑するS氏。「じゃ余分にテイク押さえといて後で繋ごうか」ということになりました。いやー、さすがに16トラックもあると余裕があっていいなぁ、などと感心している場合ではありません。続いて、いよいよヴォーカル・パートです。武蔵境の岩窟王、新聞少年アッちゃんの一世一代晴れの舞台です。しかし、こうして音だけをきちんと別けて聞いてみると、演奏も歌も楽曲さえもその全てが素人だとつくづく思い知らされるわけで、小心者のムラちゃんなどはすっかり萎縮してしまって、モニター室の隅で小さくなってしまいました。(やっぱミュージシャンだからね)そこへいくと年季の入った道楽者の委員長は、どうせ俺はミュージシャンじゃないからって開き直ってみたところで何のツッパリにもなりません。アッちゃんのだみ声ヴォーカルも残ったトラックにできるだけ録って、最後の最後に委員長の「雄叫び」を録りました。当時のディスコもののお決まりのような、DJ風のかけ声ですね。特に意味は無いのですがエンディング・パートで、余韻を持たせて盛り上げるMCを入れます。これは何のこたぁない日々の営業、毎日ディスコでDJとして声を張り上げている委員長ですから1発1テイクで終了。(マイクのレベル振り切ったらしいですが無事終わりました)一応これでA面「新宿ディスコナイト」のレコーディングは完了しましたが、もう一曲のB面「移り変わる日々」が残っています。スタジオの時間も残り1時間を切って更に焦るムラちゃんですが、こうなりゃヤケクソみたいなもんで、たいした吟味もせず4リズム一発で終了。ギターとキーボードのソロをかぶせて、すぐにヴォーカルと、もう強引極まりない駆け足録音。職人S氏には事情を正直に話して、耳障りにならない程度の仕上げ(またまた出ました)をお願いして何とかスタジオのスケジュールに間に合わせました。ということであっという間の3時間が終わり、この後昼食を挟んで午後からミックスダウン(トラックダウン)です。結構、みな自信喪失意気消沈、やっぱりプロは甘くないと思い知らされたお仕事でした。午後からのミキシングはどちらにしても素人の出る幕ではありませんから、S氏の仕事を間近で拝見し、時折「こんな感じで良い?」との質問に「はい」(って言うしかないんですけど)と返事するくらいで、テキパキと仕事をこなすS氏にはまったくもって頭が下がりっぱなしのバンドごっこの面々でした。特にアッちゃんのだみ声を繋いでいって、なんとかそれなりのシンガーにしてしまう腕は本当に見事なまでの職人技でした。本来ならば録音時間以上にミキシングにも時間を費やすところですが、なんと1時間の間に2曲を落としてしまうという無理な注文にも手抜きせず集中して頂いたS氏には御礼の言葉もありませんでした。(よくもまあこんなガキの仕事を受けてくれたモンです)ということで、編集テープを受け取りに行ったときには、しっかりと三笠山の詰め合わせなどを用意したムラちゃんと委員長でした。お世話になりました。さて、出来上がったマスターはその場でインターコムの制作担当者に手渡され、そのままプレス工場へと持ち込まれていきました。もし、お金の余裕があれば16トラックのマザーテープを買い取っておけば、将来メージャーで買取等の話が出たときに原盤権の主張もできるのですが、ウン十万円もするテープを買うほどの資金力もないし、借金までしてそこまでの大博打を打てるほど自信のある楽曲でもありませんでしたから、メンバー用に数本のカセット・テープへコピーしてもらい、これでレコーディングの全てが終了。おつかれさまでした。あとは特別問題がなければ、約1ヵ月後にレコード盤となって委員長達の手元に届くことになります。(ヤッター!)一応、ここで区切りのついた委員長とムラちゃんは、ここまでの長かった道のり(そうかなぁ)を振り返って道楽の達成感と充実感を噛みしめたのでした。(味をしめたと言うべきでしょうか)予定ではプレス完了、納品は9月末日ですから、それまでの間は大人しくしていないと、レコードが登場したときの話題性が薄くなってしまいます。(最初から薄いと思うけど)ということで、しばらくの間は自由に遊びに専念します。(ってずーっと遊んでたんじゃないんかい)さすがに馬鹿な道楽者も、ひとつのことを成し遂げたと言う自信は人間を大きくするようで、毎日のディスコの仕事にもハリが出てきて妙な余裕さえ生まれてくるから不思議です。今まで散々こだわっていたSOULにしてもなんとなく執着心が薄れたと言うか、音楽にジャンルはない、みたいな偉そうなことを言い出してみたり、曲のアレンジとか演奏とかミュージシャンとかをあげつらってノーガキ垂れてみたりと、一丁前なアーティストを気取ったりするようになっていきました。更に調子くれた委員長はすっかり音楽家もどきになってしまい、C子の住む高円寺の亀屋マンションに入り浸り作曲などを始め出したのでした。C子も音大でクラシックヴォーカルの勉強中ではありましたが、本人はJAZZ志向で、なんとかチャンスがあればJAZZ畑に入り込みたいと思っているようでした。絶対音の持ち主である彼女は、委員長にとっての音楽教師にはまさにうってつけでした。同様に、彼女にとっては業界のノウハウを委員長に学ぶといった感じで、なまじ音楽業界の一端を垣間見てしまった二人ですから、勝手な想像はどんどん膨らんでいき、お互いの道楽者ドリームに埋没して行ったのは言うまでもありません。委員長はこの時に音楽的基本を彼女から随分と吸収しましたが、お互いにどうしても譲れないという場面がままあり、これには必ず衝突しました。それはクラシック音楽の根底に流れる選民思想とでも言うのでしょうか、ブルジョワジーとでもいうのでしょうか、黒人音楽にドップリと浸かって来た委員長にとってはどうにもこの考えだけは受け入れ難く、音楽の話が深まるにつれて必ずここで大喧嘩になりました。お互い一歩も譲らない頑固なこだわりというような衝突だったわけです。3歳の頃からピアノを手にして英才教育を受けてきた彼女ですから、音楽に関する資質も才能も確かに委員長を上回っていることは事実でしたが、音楽の捉え方、感性はどうしてもクラシック音楽というプライドのようなものがその根底にありました。まあうまく表現できませんが簡潔に言うと、東大行くようなヤツ(いわゆるエリート意識ってやつですか)に本気で黒人音楽をやるようなヤツはいないといったところでしょうか。(最近はどうか知りませんが、一般的に言っての例ですよ)「いない」というよりは「やろう」と思うヤツはまずいないだろうってことですね。もちろん音楽の捉え方や関わり方というのは千差万別、極々個人的なことですから他人がとやかく言う筋合いのものではありませんが、委員長には音楽技術と感性とはやはり別のものだという意識があります。委員長の頭の中では、JAZZとかSOULとか黒人音楽みたいなもんは道楽者がやるもので、クラシック音楽みたいなもんは社会的存在における優等生がやるもんだみたいな感覚があったわけです。おまえに本当の黒人音楽がわかるのか、みたいな態度でC子に挑めば、あんたこそ音楽ってものを本当にわかってるの、って切り替えされて大喧嘩になってしまったのでした。お互いにこと音楽に関しちゃ譲らないってことでした。それでも男と女ですから、次第にC子も委員長の色に染められていってしまうことになるのですが、ミュージシャンとしての資質は正直言って彼女の方が数段上でしたね。悔しいけど。ただ、委員長もだてに何年も音楽と関わってきたわけではありませんから、JAZZ・SOULの分野で言えば当然彼女の数十倍の知識量を持っていましたから、やはり彼女にとっては尊敬すべき人物でもあったわけです。しかも自費出版などという目ざといことをするようなヤツですから、彼女の委員長に対する興味もかなりの思い入れがあったのではないかと思います。それ以上にお互いの感性がかなり近かったというのが、惹かれあった理由でもありました。(ちょっとした新鋭アーティスト気取りでしたね)
2005年09月27日
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自主制作盤のレコーディングは高田馬場BIG BOXのビクタースタジオで行われました。録音時間は3時間、ミキシングに1時間、プロ並のスケジュールで行われるホンモノの録音に緊張が高まります。この制作に関しては、恵比寿にあったインターコムというマイナーレーベル(制作会社)との契約で行われました。この会社の若社長は当時の音楽業界にあって、マイナーレーベルからの事業展開をしようとしていた中々の野心家でもありました。当初、この企画を持ち込んだ時点で非常に興味を示してくれて、自社が持つ配給システムを使って販売もやってみたらどうか、とのアドバイスも貰ったりしました。当時の自主制作盤は販売ルートを持たないため、どこまで行っても正規の出版までには辿りつけないことがレーベル立上げのネックでした。そんな中で、この会社は銀座に本店のあるレコード販売店チェーンとの直接契約を結び、独自の販売ルートの開拓を模索しており、少しでも話題になるようなレコードであるならば自社で取り込んでメージャーへの切り込みも考えていたのでした。(今で言うインディーズのDistribution Systemですね)その昔、ジュリーとタッグを組んで営業した委員長のハッタリは、何故かこの社長にもかなり効力があったようで、委員長とムラちゃんのコンビは当初から一目置かれていました。まず、委員長とムラちゃんが自費出版を決めた時点で、正式にこの会社へ制作依頼を行ったのですが、制作物に関する内容を一切公開せず、制作についての概要だけを話したことがかなりのインパクトを与えたようでした。普通ならば、大金をはたいて自主制作するのですから、楽曲や演奏者(バンド)などの詳細を率直に尋ねて、プロのアドバイスを貰うのが当たり前です。それを、「今は楽曲の公開できません」(あたりまえですね、まだ曲が無かったんですから)、「ミュージシャンの詳細も公表できません」(今のところ3人しかいないし)などとやってしまったものですから、相手もこれはタダモノではないと思ったわけです。しかも、この自主制作盤制作の目的がディスコに配布する試聴盤だというのですから、相手の社長も初めてのケースに随分と面食らったと思います。そんなバンドごっこ二人組のハッタリに見事引っかかった社長は、こいつらはひょっとするととんでもないことをやらかすのではないだろうかと思ったことでしょう。もちろん委員長たちはハッタリで引っ掛けるつもりなどさらさらなく、ただ正直にそのままをお話しただけなんですけど、まさかレコードを作る依頼をしに来ているのに、その楽曲がまだ出来ていないとはいくらなんでも言えませんでしたからね。更に、最終目標はメージャーレコードへの売り込みです、と大見栄を切ったものですから、こりゃちょいとヤバイみたいに思われても仕方ありません。制作依頼に対する契約と内金の支払いの時なども、若社長は事務所にテープデッキを持ち込んで会話を録音し始めたりしました。(詐欺師か山師に見えたのかなぁ)それだけ、胡散臭いと言うか、得体の知れない二人組にみえたのでしょうね。常日頃大雑把な水商売で暮らしている二人ですから、内金の支払いにしても、普通は前金を収めて、納品時に残額精算というような手順を踏むところを、面倒臭いからと全額前払いしたものですから更にビビってしまったようです。もし製作工程で間違いでも起こしたら脅されて金でも取られるのではないだろうか、みたいな疑惑も生まれたのではないでしょうか。(当時の二人って外見はかなり水っぽかったですからね、かなり怪しく見えたのではないでしょうか)その時交わされた契約内容と制作コンセプトを簡単にまとめると1.制作枚数は100枚だけで良い。理由は試聴盤同様、業界の中でしか出回らないレコードとして話題性を持たせるため。市販されていないので入手困難、更に限定数しかプレスされていないので、何処の誰が何の目的で作ったレコードなのか?という謎を投げかけるため業界への話題を狙う。(理屈はともかく最低限の予算ではミニマム100枚、資金的にここまでが精一杯だっただけです)2.ジャケットは要らない。覆面アーティストによる謎のレコードとして、業界での興味をひきつけるために楽曲の説明は一切しない。(ジャケ制作代まで手が回らんもんね。しかもアッちゃんの写真なんか絶対載せられないし、紙袋だけってのも結構面白いしって、テキトーそのものです)3.楽曲は録音当日まで極秘とする。ネタがばれるとディスコ業界でのインパクトが薄れてしまう。(まだ曲が決まってないし、そんなこと正直に言ったらホンモノの馬鹿だと思われるからね。言えねぇーだろ普通、っていうか普通はしないよねそんなこと)4.スタジオ代の超過料金は別途支払うので、製作工程全費用は一括前払いする。(Y子に借りてきた50万円、先に払っちゃわないとすぐに使っちゃいそうだったからね。ってこれはあとでムラちゃん、アッちゃん、委員長の3人で割って、Y子にはちゃんとお返し致しました)凄いですね。過去これほどまでいい加減に自費でレコードを製作した奴らはいなかったのではないでしょうか。まともな人間ではこんな裏事情を読むことはできません。(って裏を読む必要も無いし、まともな人間なら最初から相手にしないと思う)そんな条件、状況の下で行われたレコーディングですが、このマイナーレーベルの若社長は音楽製作に対する姿勢も中々立派でしたし、日本でマイナーレーベルの立上げを真剣に考えている熱意のある方でしたので、このバンドごっこのためにミキシングエンジニアは業界でも有名な一流のSさんを用意してくれました。Sさんはフリーのエンジニアでしたが、ビクターレコードの仕事をメインとしておられましたので、業界ではかなり名の通った方でした。普通はアマのレコーディングなんぞに立ち会うような方ではないのですが、この若社長の人脈といったところでしょうか、これは我らがバンドごっこにとっては100人力の助っ人を得たも同然でした。なんといっても職人中の職人ですから、予算の乏しいアマチュアにとっては高いスタジオ代を無駄にせず、たとえどんなクズ音楽でもそれなりの音に仕上げてもらえるという安心感があります。運も良かったのでしょう。人とのめぐり合い、運も実力のうちとよく言われますが、人生には本当にラッキーと思えることが幾度かは必ずあります。20代の道楽者たちの日頃の行いが良かったのかどうかわかりませんが(良いわきゃねーだろ)、ここまで何とか来れたのも、なにはともあれ馬鹿な道楽に一生懸命のめり込んだ結果とも言えます。さて、メンバーは30分前には全員集合して準備を整えます。ところがコーラス部隊のC子は、結局学友の協力が得られず本人のみの参加となりました。仕方ないのでその場に居合わせたムラちゃんの彼女とアッちゃんを入れて、急場凌ぎの三人で何とか乗り切ることになりました。(っていつもこんなんばっかり。出たとこ勝負)そんなんで良いのか~、本番のレコーディングなのに・・・・・。
2005年09月26日
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小田急線(井の頭線)下北沢駅南口、茶沢通りに向かって坂を下った左手にあるビルの2階に大小二つの練習スタジオを持つWHO’S WHOがありました。その大きい部屋、8チャンネルのミキサーとカセットデッキがあるマルチ録音可能なスタジオでは、胡散臭いバンドメンバーによる「新宿ディスコナイト」のパイロットバージョンが演奏されていたのでした。ノースリーブのTシャツにジーンズ、ビーチサンダルという出で立ちのベーシスト・シゲル君。毎度お馴染み白のコットンパンツに白のカッターシャツ、だらりと垂れ下がったGIベルトに黒革靴のドラマー、腕は確か、顔は肉まん石○君。丸型メガネにアロハシャツ、南こうせつそっくりなギタリストH君。同じくアロハにジーンズ、ちょいと痩せ型銀縁メガネのキーボードT君。赤のボタンダウンシャツに黒のスリムジーンズ、怪しいボーカリストアッちゃん。黒のニットフレアーに黒のTシャツ、黒のハンチングと黒ずくめの怪しいおっさんムラちゃん。そして、白のメッシュTシャツに白のスーツ、白のストッキングに白のエナメルシューズ、カーリーヘアにサングラス、どうみても詐欺師にしか見えない委員長。「さあ、今日は最後の音合わせだからね、よろしく頼むよ。次はいよいよ本番だからね。そして君たちのデビューが待っているんだよ」何を言っているのでしょうか、この詐欺師丸出しの男は。ハッタリもここまでくれば玄人はだし。これで本当に当たっちゃったりした日には、世の中真面目に働いている人に申し訳が立ちません。てなことで、どうにか音もまとまり、後は本番を待つばかりということで、さすがに皆のテンションも高まってきました。只ひとつ不安と言えば、B面の「移り変わる日々」という楽曲の余りにも簡単すぎる仕上げが、果たしてうまくいくかどうかということでした。「今更悩んでもしょうがないけど、大丈夫かなぁ」意外と小心者のムラちゃんですが、生まれついてのハッタリ野郎の委員長はダメで元々、やってみなきゃわからんね、という完全に世の中を舐めきった態度で挑んだのでした。さあ、いよいよ大詰め、ホンモノのレコーディングを控えて、ムラちゃん、アッちゃん、委員長の3人は再び新大久保のアジトに集結して最終ミーティングです。ここでまたムラちゃんから質問が飛び出しました。「ところでさ、この頭のリフなんだけど、やっぱりコーラスがいるんじゃない?」「良いですね、コーラス、入れましょうよ」って簡単に言うなよ、アツシ!「俺らでやるの?」(そりゃちょっと無理なんじゃない)「いや、コーラスはやっぱり女の方が良いと思うんだよね」「女ったって、そんな都合の良いのがいる?」「ロニーの彼女って音大行ってたよね、確か」「えっ、C子のこと?」(そんな唐突に言われても)「へぇ、ロニーさん、ここの女性以外にも彼女居るんですか?」(大きなお世話だろ)「まあ、やらせてみるのは良いけど、それでも一人しかいないじゃん」「だからさ、学校の友達とか連れてきてもらってさ、音大ならそこそこのがいるでしょ」「う~ん、どうかな、当たってはみるけど」ということで、またまた出たとこ勝負の話がこの土壇場に来て盛り上がってしまいました。アッちゃんの新聞配達のお時間も近づき、お開きとなったこの最終ミーティングの後、早速委員長はムラちゃんを伴って高円寺の亀屋マンションに向かったのでした。6畳と3畳の振り分けに4畳半のダイニング・キッチンという間取りのマンション角部屋。3畳部屋の方をC子、6畳の方にルームメイトのK、そしてそこにはピアノが1台、ただどーんと置いてあるだけで家具など何ひとつない殺風景な部屋は女の子二人が暮らすマンションとは到底思えない佇まいでした。そんな、いかにも道楽者の住処といった部屋で、委員長とムラちゃんはC子に道楽者ドリームをしばし語ったのでした。「え~、私にできるかなぁ」「大丈夫、簡単な3度のコーラスだから」とムラちゃん。「でも、友達っていってもなぁ~。私あんまり学校の付き合い無いんだよね」「まあ、とにかくあたってみてよ」ということで、しっかりC子の出番が決められてしまいました。委員長としては仕事と女は別にしたかったのですが、この際仕方ありません。(このバンドごっこって仕事だったの?遊びだとばっかり思ってたんですけど)まだ付き合い始めて数ヶ月のC子でしたが、彼女も言葉では謙遜こそしてはおりましたが、実際のところ、内心では何か東京で一発やってやろうなどと企む道楽者の一人でありました。とはいってもまだ上京1年目の19歳のおねーちゃんでしたから、委員長やムラちゃんのようなプロの道楽者(なんじゃそりゃ)を前にして全てが別世界のような話であったことは間違いありません。話はちょっと飛びますが、実はこのバンドごっこが本気になり始めた頃、委員長はムラちゃんに「そろそろ身の回りを整理しといた方が良いんじゃないの」などと言われて、「うーん、そうだな、これからメージャーになれば女関係とかのスキャンダルはまずいしなぁ」などと生意気なことを考えた大馬鹿野郎でした。早速、東中野のお風呂屋のおねーちゃんにその話をすると、声を上げて大笑いされてしまい、「整理する前に自分が整理されないように気をつけてね」などと意味の分からないことを言われてしまいました。しかも涙を浮かべながら腹を抱えて大笑いです。「おまえ泣いてんのか?」「ぎゃははは~!」更に大声出してバカ笑い。ひーひー言いながら笑う風呂屋の姐御の目から大粒の涙がぼろぼろこぼれています。そうか、やっぱりそんなこと言われるのは辛いんだろうな、などとまだまだ人間の奥行きのない委員長は独りよがりのムードを作っておりました。(あまりの馬鹿さ加減に本気で笑われてただけなんですけど、男ってやっぱ相当なアホですよね。っておまえだけだろそんなアホは)「あたしたちってさあ、整理するほどの関係だったの?」まだ笑ってます。そうか、強がり言って俺の気持ちを受け止めてくれてんのか。(本当に困った奴ですね。そろそろ気がつけよ)「あー、可笑しい。そのムラちゃんってのも面白いけど、それを真に受ける方も受ける方で可笑しいよね」「えっ?」(まだまだガキやのぉ)「スキャンダルっていうのはさあ、隠し事してあることを暴露するから面白いんでしょ?」「うん、まあそうだよな」「ヤクザのスキャンダルなんて聞いたことある?」「俺はヤクザじゃないぞ」「そうじゃなくて、ばくち打ちとかヤクザが有名になったからって、その妾とか愛人とかがスキャンダルになる?」「そりゃ、ならねーだろうなフツー。そんなのあって当たり前だからな」「まあ、とにかく頑張ってね、私整理されてあげるから、あはは、丁度今、生理だし、あはは」って、よく意味の分からぬまま、お風呂屋の姐御とは一応これでケジメをつけました。今にして思えば、人生の底辺を生き抜いてきた姐御らしい哲学だったように思います。彼女の言うとおり、委員長はまさしく自分の人生を博打にしてしまったギャンブラーだったのかもしれませんね。しかも底抜けのアホなばくち打ち。今更ながらその節は色々とお世話になりました。相変わらず馬鹿は直っておりませんが、お蔭様で人並みな親爺には成ることができました。あらためて御礼申し上げます。
2005年09月25日
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いや~まいりました。メインの楽曲に捕らわれ過ぎていて、B面の存在をすっかり忘れていたプロデューサー役の委員長でしたが今更どうにもなりません。こうなったら武蔵境の岩窟王アッちゃんのレパートリーの中から、できるだけシンプルで簡単に演奏できそうな曲を選ぶしかありません。早速委員長はディレクター役のムラちゃんを伴い、新聞配達の終了した頃を見計らってアッちゃんの座敷牢へ出向いて行きました。「ムラさん、例の宇宙大戦争のテーマからイメージした曲出来上がったんですけど・・・」いきなり岩窟王アッちゃんは新曲発表を行いたいようですが、委員長もムラちゃんもこれからお仕事という忙しい状況下でのことですから、時間の無駄と言わんばかりにほとんど会話は無視、目指すは解り易くて無難な曲です。ムラちゃんと委員長は、アッちゃんの作曲ノートなる分厚い大学ノートを手分けして目を通していきます。詩とコードしか書かれていないページばかりの何冊ものノートを見ているうちにめまいを覚えた二人でしたが、とにかく時間がありませんから是が非でも今日中に1曲選ばねばなりません。(なんじゃこりゃ)心の声は頭の中を駆け巡ります。(かんべんしてくれよ、もうちょっとまともなんはないんかい)時折ムラちゃんがページをめくる手を止めて、「アッちゃん、これちょっとやってみて」との要請に応えて、さっとギターを持って唄い出すアッちゃん。ワンコーラスも終わらないうちにムラちゃんのストップが掛かります。砂漠の中の10円玉を探すような作業は続きます。シンプルで誰が読んでもわかり易い詩にぶち当たると、アッちゃんに声をかけて唄わせます。流しの歌手がリクエストに応えているようですが、詩と曲が合致するモノには中々当たりません。妙にフォークっぽくてわかり易い詩の癖に曲がやたら凝っていたり、曲はシンプルでも詩がイマイチわかりにくかったりして、どれもみな決め手にかけます。何曲か候補は上がりましたが、「もう少し一般受けするように詩の内容を変えたい」というムラちゃんからの要望には頑として譲らないアッちゃんでした。こんな売れそうもない曲、ちょっとくらい妥協しろよってな感じで、内心苛立つ二人でしたが、創作者の意向を無視してまで踏み込むわけにもいきません。あー、あと何冊この奇怪な大学ノートのページを繰らなければならないのでしょうか。武蔵境の夜は更けていきます。「ロニーさん、ヴァンマッコイの宇宙大戦争のテーマって知ってます?」「ムラちゃん、これどう?結構詩はわかり易いよ」(殆ど聞く耳持ちませんね、無視ですか)「どれどれ、ふ~ん。アッちゃん、これちょっと演ってみてよ」「はい、これですか、これはですね、ボクの子供の頃の・・」(ノーガキは良いからはよ演ってくれ)「良いから早く歌ってよ」ジャーンとギターを鳴らして唄うアッちゃん。「はい、もういいよ、ありがと」「ムラさん、ちょっと新しい曲聞いて下さいよ」「ロニー、これはどう? フォークっぽい感じだけど」「アッちゃん、これは?」「あー、これはですね、ボクの友達の・・・」「良いから歌ってよ、早く!」(段々語気も荒くなってきます)ジャ~ン、移り変わる日々~ (おっ、良い感じじゃん)ムラちゃんと委員長の目が合いました。OKです。「アッちゃん、これでいこう」詩も短くて簡潔、わかり易いしメロディーも無難なフォーク調歌謡曲。無いよりマシってなB面ですから、多少の粗はこの際目を瞑ってもらって、次回の練習で適当に伴奏くっつけて一発で決めちゃおう、ってメチャクチャな手抜きのスローバラードが選曲されました。おなじみ骨董品のようなカセットデッキで録ったテープを手に新宿の職場に向かう二人、見送るアッちゃん。「あの~、宇宙大作戦のテーマなんですけど」(まだ言ってます)「レコーディングが終わったら今度ゆっくり聞かせてもらうよ」(無事終わったらね)というわけでB面はちょっとポップなスローバラードに決定。さあいよいよ最終段階に入っていきますよ~。
2005年09月24日
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カモンガール!カモンボーイ!新宿ディスコナイト~Come on Girl, Come on Boy, SHINJUKU Disco Night,遂に試作が出来上がりました。1978年夏~新宿に集った道楽者達の手によって、センスのかけらもない曲が創作されたのでした。新宿ディスコナイト(でたー!ってそのまんまやんけ)過去のヒット曲のデータから割り出した結果として、ご当地ソングがヒットする確立はかなり高く、しかもプロモーションには地元の商店街や地域振興会などが必ず協賛してくれると言う目論みもありました。更に、ブルーライト・ヨコハマの例からもわかるように、単純明快なゴロ合わせは覚えやすく親しみ易いという点からも大衆的なヒットの要素が盛り込まれています。って、もっともらしい屁理屈をこねてますが、実はこの頭のリフレイン・フレーズは道楽者の得意技である成り行きで出来上がったものなんです。というのは、このリフレインは当初サビメロだったんですね。(いわゆるサビと呼ばれるメインのメロディーのことです)ところがディスコ・バージョンにするには、繰り返しのリフが頭(曲の出だしの部分です)に来た方がインパクトが強いという従来のディスコヒットのパターンを踏襲して、このサビメロをリフにして使うことにしたのです。でもって、かけ声に当たるようなキャッチフレーズを考えようと言うことで、まずは間に合わせにそのまんまのゴロを並べてみたのでした。最初に使ったゴロ合わせはブルーナイト・新宿でしたが、それじゃあんまりだってことでディスコナイトにしたんですね。詩作した本人でさえ、ダッセェー、なんだこりゃ、ってなもんでしたが、中々上手い詩が浮かばず、この部分だけはまた後からハメ込めばいいや、みたいな軽い気持ちで作ってしまったのが実際の話です。この作詞についてはあまり議論もなく、本当に成り行きで仕上がってしまいました。歌謡ディスコ・ヒットという観点から言えば、もう少し気の利いた詩の方が良かったのですが、何と言ってもメージャーレーベルに切り込むという目標がありましたから、下手に中途半端な詩にして、ディスコも歌謡もダメということにでもなったらそれこそ道楽者の単なるどーらくで終わってしまいます。それならば、ある程度色モノ扱いでも構わないから、自分達のテリトリーであるディスコを中心にした話題性を持たせようということになったのです。さて原曲が出来上がったところで次のステップは編曲・アレンジです。とはいうもののきちんとしたアレンジャーなどに知り合いはいませんし、そんな仕事を依頼するほどの予算もありません。こうなったらアマチュアはアマチュアらしく、皆で音を出しながら煮詰めていこうじゃないかということになり、早速メンバーの招集です。まず、バンドというか音創りの基本はドラムです。リズム&ビートが正確であれば、安心してアンサンブルを手直しすることができます。はい、ドラムスはもちろん彼です。腕は確か、顔は肉まんの石○青年です。ベースはもちろん不良お坊ちゃんのゲルシーことシゲル君。あとはギターと鍵盤を探さなくてはなりません。そこで、石○君の顔の広さを見込んでメンバー探しをお願いしました。当時石○君はアマの間では売れっ子ドラマー、引っ張りだこでしたから、彼が声をかければそれなりの腕の奴が来るだろうとの計算が働きました。しかし、この石○君は本当にプロ意識の高い子でしたね。19歳にしてスタジオ・ミュージシャン目指していた彼の練習ノルマは1日最低6時間、そのために大学も二部(夜間)を選んだという、根性の若者でした。ということで、彼の紹介で二十歳そこそこのギタリストH君がやってきました。音楽学校でJAZZギターを専攻しているという彼は、南こうせつさんのような風貌で非常におとなしいみるからに学生っぽい青年でした。更に、このH君の紹介で25歳のセミプロ鍵盤奏者T君に助っ人をお願いしました。なんでもH君とT君は互いに息が合うセッション・メンバーということだったので、我らがバンドごっこには好都合でした。さあ、これで立上げメンバーは確保しましたから、ここから先は音的な仕上げに掛かります。この時点で各自の役割分担が整ってきました。ロニーがプロデューサー、ムラちゃんがディレクター、ギャラはないけどスタジオミュージシャン3人と、バンドごっこお抱えのベーシスト1名、そしてメインヴォーカルアッちゃんという胡散臭い楽団がメージャーレーベル目指してスタートを切ったのです。記念すべき第一回の練習、音出しは、お馴染み下北沢南口スタジオWHO‘S WHO。今回はその場で録音もしようということで、ミキサー&テープデッキ付のAスタジオを借りました。といっても当時の機材ですから、マルチ録音一発録りです。新大久保のアジトで作った詩作テープはすでにメンバーの手元に回してありましたから、各自の感性で演奏形態をイメージしてきています。リズムはお馴染み4/4拍子ディスコ・ビートです。ギターとキーボードの絡みでイントロをつけて、ブレイクを入れます。さすがに腕達者のメンバーですからすぐに楽曲はまとまりましたが、どうも雰囲気的にはニューミュージック系です。(歌詞がなかったらさわやか系歌謡曲ですね)もちろんメンバーには、ムラちゃんと委員長が何を目指してこんなことをやっているのか理解できるはずもありませんし、ディスコサウンドといわれてもピンと来ないのはもっともです。全体の流れや、ソロパート、ブレイクなどのキメごとは大体整ったので、第一回目の練習はここまでにして、ムラちゃんと委員長、そしてアッちゃんは録りたての録音テープを早速アジトに持ち帰ってミーティングです。「う~ん、これじゃちょっと軽すぎるよね」と委員長。「いや、僕はこの感じ好きですよ、オフコースっぽいし」とアッちゃん。「ブレイクとかはもうちょっとメリハリつけなきゃダメだろうな」とムラちゃん。テンポも曲調も問題はなかったのですが、今ひとつしっくりきませんでした。やはりプロのアレンジャーがいない素人、しかも俄か作りのバンドですから、そんなに簡単に自分達の描いたイメージが具現化できるはずがありません。一度メンバーにもこのテープを聞かせてみて、皆のイメージを統一させてはどうだろう、という意見で一致し、早速テープをダビングして全員に回してみました。とは言っても練習以外に顔を合わせることなど一度もないメンバーですから、次の練習日までは何もできません。そんなこんなで翌週の二度目の練習が来ました。演奏開始。前回のまま何も変わっていません。そりゃそうですよね。別に金貰ってるわけでもないし、好きで集まったバンドでもないし、余り真剣に考えてくれるわけはありません。強いて言えば、シゲル君のチョッパーがシンプルになったことでしょうか。彼は彼なりにディスコサウンドを聞き込んできて、それなりの音を考えてみたのでしょう。ということで委員長とムラちゃんはまず、バスドラムの4拍打ちを強調させるように指示し、ブレイクも多少変えてみました。当時ディスコで流行っていたエモーションズのベストオブマイラブという曲のブレイクを、そのまんまパクってハメこみました。タカトントン、タカトントン、~タン、ターン!おおっ、とばかりにディスコっぽくなった曲にアッちゃんも満足です。更にベースとバスドラを重めに強調すると、それとなくディスコサウンドに聞こえてくるから不思議です。ついでにギターソロもニューミュージック系のさわやかアドリブではなく、もっと臭くても良いから泣きを入れてくれるようにH君に指示すると、そこはそれ、だてに音楽学校に行ってるわけではありませんから、とってつけたようなフィードバックの利いたソロを無難にこなしてくれまました。「OK!大体こんな感じでいけそうだから、次は本番前の最終仕上げってことでよろしくね」すっかりプロデューサーに成りきってしまった委員長。本当にこんなもんで良いのかいな、って不安もありましたが、所詮は道楽者のバンドごっこですから、後は得意技の出たトコ勝負に賭けるだけです。そんなイケイケの委員長の横で暗~い顔したムラちゃんがぼそっと一言。「ロニー、ところでB面はどうすんの」が~ん! し、しまった~、すっかり忘れてた。と言っても後の祭り。録音日はすでに決まっています。皆のスケジュールや予算の面から見ても次の練習日がギリギリです。「いざとなればB面はインストってことにしちゃえば良いじゃん」開き直りの委員長の顔を見て泣きそうなほど暗くなるムラちゃんでした。「心配ないって。大丈夫だよ、何とかなるから」何の根拠もない発言ですが、いつも何とかなってきたんだから今回だって何とかなるさ。そう気楽に考える委員長でした。そりゃまあ、確かに何とかはなるのでしょうが・・・・・。
2005年09月23日
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新宿「バンドごっこ」プロジェクト始動遂にムラちゃんとロニーのバンドごっこプロジェクトが動き始めました。第一回作戦会議の議題は何と言っても予算会議です。あらためてムラちゃんが制作会社に問い合わせ、シングル盤の制作費原価を割り出してきました。原価で言えば、録音(スタジオ代+ミキシング料)とプレス100枚のコストがミニマムです。これにジャケット代(版下代+プリント代)が別途かかります。バンドごっこの最終目的はメージャー・レーベルへの売り込みですから、宣伝用の試聴盤と考えればジャケなし裸盤のプレス100枚で充分です。これにスタジオ録音代の幅を少々持たせて、概算50万円の制作費が弾き出されました。(当初の見積りの半分ですね。やれやれ、これなら何とかいけそうだ)さて制作原価が決まれば、あとは楽曲制作のためのミュージシャンの確保と練習スケジュールの作成です。しかしイイ加減ですよね。録音する曲も決まっていないのに、レコード会社に売り込むための自費出版をしようと言うのですから、無謀と言うかデタラメと言うか、音楽業界での多少の知識はあるとはいえ、ズブの素人二人が果たしてどこまでできるのか、しかも、リリースは年内という期限までつけてしまったのですから大変です。どうして年内の完成に拘ったかといえば、ご存知ライバルのジュリーが、歌手としてのメージャー・デビューを飾るその前に、なんとしてでもレコード=商品を業界に出したいと言うたった一つの理由からでした。(バカ野郎たちの意地ですね)たとえジュリーがどんなに頑張って歌のレッスンを積んだところで、今からでは年内デビューはまず無理ですから、我々バンドごっことしての勝負は10月~11月ということになります。是が非でも1978年内にレコード盤を世に出さなくては、道楽者としてのメンツが立ちません。(っていうか、ジュリーの鼻を明かしてやりたいだけだろ)早速行動を開始したムラちゃんと委員長の二人は、武蔵境の新聞少年アッちゃんを新大久保のアジトに呼び出しました。これこれしかじか、自主制作レコードの製作からメージャーへの売り込み方までしっかりと熱弁を振るう道楽者二人に、いささか威圧されたアッちゃんですが、なんせ彼は委員長やムラちゃんを救世主くらいに思っていましたから、とにかく言われるままに出資金やらその他関わる経費の分担を了承したのでした。(っていうか無理矢理だったけどね)三人の合意が行われたところで、ムラちゃんは持参したカセットテレコをアッちゃんの目の前に置き、委員長愛用のミニギター(海山のお供にってやつですね)をアッちゃんに手渡すと、ノートになにやらコード進行らしい文字を書き始めました。「いいかい、これが俺が分析した歌謡ポップスのコード進行パターンなんだ。一応3つのパターンを作ってみたから、アッちゃん、この進行でメロディーを作ってくれる?」「えっ?ここでやるんですか?」「そうだよ、時間もないんだから、取り敢えず思いつくままにやってみて」「やってみてって言われても、そんないきなりじゃ」「なんでもいいんだよ。これはデータみたいなもんで作ったコード進行だから、このコードにメロをつければ、まずは無難な曲にはなるはずなんだから」って、しかし強引な作曲ですよね。ポリシーもへったくれもあったもんじゃありません。「それでさ、ロニーには詩を付けてもらうから、聞きながらイメージ作っておいてよ」「イメージって、そんな唐突に言われてもなぁ」「何でもいいんだよ、ロニーは実際ディスコの現場でサラ回してるんだから、受けそうな詩をつけてくれればいいんだよ」「受けそうなって言われてもなぁ」恐怖の作詞作曲プロジェクトは新大久保のヌードモデルのアパートで進行して行きます。委員長愛用のコンパクト・ガットギターを弾きながら、アッちゃんは例のだみ声でハミングを繰り返します。「適当にまとまってきたらテープに録るからね」「あ、はい。・・・・ナナナ~、アーアーアー、イェイ、う~っナナナナ~」ムラちゃんはメトロノーム代わりに膝上を叩いてリズムを取ります。委員長はこのだみ声で歌詞を模索しますが、どうも雰囲気的に三角関係の乱れとか、逆情した女がヒモを怨む詩とか、ヤバイ場面ばかりが浮かんできてしまいます。何故かこんなとき、知らず知らずに良心の呵責に耐えられなくなっている自分に気付く委員長でもありました。(しょーがねぇーなぁ、この馬鹿野郎は)ということで1~2時間が過ぎたところで、2曲の試作と言うか、原曲みたいなパターンが録音できました。アッちゃんはそろそろ配達の時間も近づいてきたので、一旦ここで解散です。あとは各自の頭を捻って、もう一度アイディアを出し合おうと言うことになりました。テレコで録ったテープを三人は携えて帰途に付いたのです。委員長もさすがにこの時ばかりは一人っきりになりたくて、久々に年老いた母の住む世田谷は小田急線梅が丘駅の長屋に帰りました。アッちゃんの試作を繰り返し繰り返し、聞けば聞くほどにイメージは焦点ボケしてゆき、中々まとまる内容が浮かびません。ただ、ハミングのサビのような部分にあたるメロディーは、しっかりと頭の中に残るフレーズと言えそうでした。これは使えそうだな、というくらいのもので、結局は詩になるような言葉は何一つ浮かばず翌日のミーティングを迎えることになりました。再び新大久保のアジトです。なぜここが選ばれたかと言えば、そうです、部屋にエアコンが付いていたからです。1978年当時、エアコンの付いたアパートなんぞは庶民の住むところではありませんでしたから、新宿に最も近く(歩いて歌舞伎町の職場までいけますからね)、朝だろうが夜中だろうが人の出入りに無関心、といった立地条件は道楽者にとっては最適だったわけです。(しかし、ほんとにしょーもないやつらですよね)猛暑に悩まされることもなく、涼しいお部屋で作詞作曲、レコード製作の陰謀は進められていったのでした。「どーもさ、全体的なバランスがイマイチだと思うんだよね」開口一番、ムラちゃんが指摘します。「でも、このサビみたいなフレーズは結構耳に残るよね」と委員長も率直な意見を述べます。「あのぉ、ボク、別にもうひとつ曲作ってみたんですけど・・・」今日は自分のフォークギターを持参したアッちゃんが呟きます。「やってみてよ」ムラちゃんに促されてアッちゃんが弾き語りでハミングします。曲はボサノバ系の地味な曲でした。曲が終わらないうちにムラちゃんのレフリーストップです。「こ、これ、ヴァン・マッコイの宇宙大戦争のテーマからヒントを得たんですけど」もっと聞いて欲しいアッちゃんが食い下がります。「じゃあさ、このサビの部分を残して、もうちょっと煮詰めようか」アッちゃんのノーガキなど聞く耳持たぬとばかりのムラちゃんの言葉に、一同再び黙ってコード進行が書き込まれたノートを覗き込みます。「じゃ、アッちゃんさぁ、このサビの部分だけ残してもう一度メロ考えてみて」ラランラー、ラランラー、ララララーララッラー、あ~、あ~、あ~・・・・・イマイチですね、何かがしっくりきません。「コードひっくり返してみようか」ムラちゃんはそういって、ノートにコードの順番を反対にして書き直しました。ふ~ん、そーゆー手もアリかぁ。ナナナナ~、ナナナ、ナ、ナナナ~おっ、ちょっといい感じじゃん。哀愁っぽいメロになってきたぞ。「泣きが入ってきた、いい感じ」思わず合いの手を入れる委員長。調子くれるアッちゃん。パチンとテレコのスイッチを入れるムラちゃん。さあ、果たしてムラちゃんとロニーのバンドごっこはアッちゃんの救世主と成り得るのでしょうか?ということで今日のお別れのテーマ・BGMは、ロイ・ブキャナンの「メシアは再び」です。(泣きのギター)
2005年09月22日
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自費出版~読んで字の如し、自費で出版することです。一般商業流通システムを経ず、自分たちの経費で出版物を制作するという極めつけの道楽ですね。俗に言う自己満足の決定版、道楽の王道を行く道楽です。私財を投げ打って自分の音楽をレコード(記録)として残す。しかも一般流通機構に乗る「商品」としての価値をも得ようと言う、道楽者の極めつけのようなどーらくが自費出版であります。1978年当時はレコード製作自体がさほど簡単なものでもなく、色々な職人的なプロが手順を踏んで仕上げていくという、かなりマニアックなプロセスを通してしか実現できない作業でした。最近ではコンピュータを使用したデジタル処理や、一人多重録音機材なども一般に市販されており、ちょっとした知識と予算さえあれば誰でもできることですし、出来上がったCDを一般商業システムに配給することも可能ですから、さほどリスクのある遊びとも言えなくもありません。(音楽文化もようやく大衆化したってことですか)昔は、出来上がったレコード(商品)を配給するシステムなどありませんから、サークル内とか家族親戚身内一同に無理矢理売りつけて、いくらかでも経費の足しにする程度が関の山でした。そんな時代ですから、自費でレコードを出版するなんてのは金持ち野郎の道楽か、宗教がらみで利益を狙う怪しいヤツくらいしかいなかったわけです。それを20代の馬鹿者、いや失礼、若者がやろうと言うのですから、生意気と言うか、命知らずというか、まさしく道楽者と言うしかありません。しかもその音楽たるや、自分たちがポリシーを持ってやっていたりするのならばまだ可愛げもありますが、一発大穴、一攫千金、金と名声を狙おうと言うのですから、不届き千万、傍若無人の罰当たり野郎の極みです。ということで、当時の一般的なレコーディング・システム及びリリースまでの手順を、ざっと簡単に振り返ってみましょうか。1.まずは企画会議ですね。デモを聞きながらアルバム・コンセプトを固めます。これがコマーシャル・ベースですと、販売・マーケティングなども加わります。販売戦略の概要も決められます。自費出版の場合、プロフィット面は自力ではどうにもなりませんから、大概は趣味の範囲での制作ということで予算会議ということになります。2.次にプロデューサーの選定です。大手レコード会社とかですと、お抱えのプロデューサー、ディレクターがいますから大体は自社で賄います。厳密に言うと、売上の取り分でこれらの内容は随分変わってきますから、一概には言えませんが、アマチュア系アーティストのデビューとかの場合はほぼ自社社員が担当しますね。資金面で余裕のあるアーティストならば、自分自身のプロデュースで版権を殆ど自身で所有することになります。ということで、自費出版ではそんな偉い人を雇う予算などありませんから、全ては自分たちあるいは友人たちの援助だけが頼りです。3.さあプロデューサーが決まったら、レコーディング・スタッフの選定に入ります。まずは音楽ディレクターを選びます。通常プロデューサーは、出来上がった商品を販売して利益を得るところまでの全工程の責任者ですから、商品としての音楽を監督する役割を担う人間の選定は運命の分かれ道です。勿論制作予算というのもありますから、予算内で期待通りの商品に仕上げるためには、まさに「あ・うん」の関係で成り立つようにしなければなりません。ということで現場の人選は、ほぼディレクターに一任されます。ここで何よりも重要なポジションがミキシング・エンジニアですね。ミキシングマンこそ裏方中の裏方さん、キング・オブ・裏方と言えます。音源をどのように料理するか、すべてはこの人の腕にかかってきます。通常、ディレクターにはお抱えのエンジニアが付いいて、やはりこの関係も「あ・うん」の呼吸で成り立つ夫婦のようなものですね。野球で言えば投手と捕手の関係でしょうか。この相性が悪いと、100%のミュージシャンの活躍を半減させてしまったりしますから、すべてのキイはこの二人に委ねられています。腕の悪いエンジニアだと現場のストレスも溜まるし、スタジオ代もどんどん溜まりますので、プロデューサーにとってもディレクターにとっても全てのカギを握るのはミキシング・エンジニアと言っても過言ではありません。自費制作でも、こればっかりは素人ではどうにもなりませんので、予算に伴ったエンジニアを使わねばなりません。4.次はアレンジャーです。コンセプトに合致した編曲を、プロデューサー、アーティストの感性で具体化できるアレンジャーを選んでスコアを仕上げてもらいます。大抵は音楽監督がアレンジもこなしますが、最近の流行(売れ筋)とかの音を作ったりするときにはアレンジャーを指名したりします。5.いよいよ次はミュージシャンの選定です。メインのアーティストの好み、ディレクター及びアレンジャーの描いたイメージ、プロデューサーが望むサウンドを具体化できるミュージシャンが選ばれます。バンドを持っている場合は、そのままバンド・メンバーでいきますが、ソロパートにゲストを入れたり、コーラスや管弦楽団などの手配も含めて、ギャラ、テク、タイプを見極めて人選を行います。6.次は録音に入ります。どうです?ここまでだけでも、ほとんど職人集団の仕事でしょう。もっと突っ込んで言えば時間=ギャラとの戦いですから、短時間で制作側の意図を呑み込んでくれて、その通り演奏してくれるミュージシャンは引っ張りだこですから、ギャラもスケジュールも調整はかなり困難を極めます。じゃあ、バンドを持っていれば楽かといえば、それはまた別問題です。ライブでどんなに素晴らしい演奏ができても、スタジオで音を創るという作業はまた別で、納得する演奏が上がるまで何日も掛かるなんてこともあります。特に経験の浅いミュージシャンあたりですと、スタジオ代も馬鹿になりませんから、先にプロのスタジオ・ミュージシャンを使って録音しておいて、後からバンド・メンバーがそれをコピーするなんてこともあるわけです。もちろんその逆もあるわけで、オリジナル・メンバーの演奏じゃどうも物足りない、などという時には「差換え」といって、そのパートだけトラ(エキストラ)が演奏してトラックを入れ変えたりします。かといって、テクにあまりにも差が出てしまうとバレバレですから、バンドのレベルに合わせた差換え演奏ができる職人ミュージシャンがちゃんと存在するわけです。7.録音が終わると、ここからが本当にプロ中のプロの仕事になります。プロデューサー、ディレクター、エンジニアそしてアーティストが、録音の済んだ曲をひとつずつミックスダウンしていきます。SE(サウンドエフェクト)や、足りない音をかぶせたりもして、最終的なマスター・テープを作ります。8.マスターが仕上がったら、これをプレス工場に発注します。(昔は塩化ビニール製のレコードをプレスする工場がありました)9.イニシャル枚数(初回リリース)前にラッカー盤と呼ばれる試作盤が上がってきます。早速ターンテーブルで試聴して最後の駄目押しをします。10.後は納品を待つばかり。発売予定日に間に合うよう納期を確認します。この後は各社のセールス・ネットワークによって販売戦略が組まれていきます。ということで、駆け足でしたが、当時のレコーディング・プロセスを簡単にご紹介しました。もちろんこの他に、これらのスタジオ手配だのスケジュール調整だの、本当の意味での裏方作業があり、こっちの仕事も音源録音以上に大変な作業となります。こうしてみると、1枚のレコードを作るのにどれだけの人の魂が吹き込まれているかお分かり頂けると思います。委員長も実際にこの作業に携わってみて初めてレコード産業の内側を知り、それまでミーハーだのジャリタレだのと馬鹿にしていたタレントさんのレコードも、こうした職人さん達がそれぞれの魂を打ち込んで仕上げた作品であることを知って、商業的な面ばかりを見てノーガキをたれていた自分を恥ずかしく思いました。偉そうにノーガキこいてた自分は、結局何も知らない単なる素人であったことをつくづくと思い知らされたのでした。ということで、これらの作業をレクチャーしてみてようやく、「録音」に携わるディレクターあるいはミキシング・エンジニア以外の部分は、その全てを自分たちでこなさなければならないということに、あらためて気がついたわけです。更に、仕上がった「商品」レコードをどのように売り込むか、ヒットを作るか、という販売戦略も自分たちで行っていかねばなりません。ディスコだ、バンドだ、花だ提灯だと、ただ浮かれて騒いでいただけの自分の非力さをこの時ほど思い知らされたことはありませんでした。結局俺は、バカなこと喋って踊るだけしか能のない人間じゃないか・・と。「いや待てよ、ディスコという世界でここまで派手に生きてこれたんだから、ひょっとするとまだ自分でも知らない才能があるんじゃないだろうか」はい、腰の据わった道楽者はどんな逆境にも必ずノーテンキな結論を導き出します。ホント、しょーがないお調子者ですよね。「頭が高い、控えおろう!」って感じです。でも当時はこんなハッタリが通用したんですから、まんざら道楽者の才能がなかったわけでもないってことですよね。(たわけもの!)
2005年09月21日
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レコードを出す!この一点に目標を定めた委員長とムラちゃんのバンドごっこは、今までの優柔不断、のらりくらりとした道楽者の白昼夢のような生活を一変させました。何が何でもジュリーより先にレコードを出して鼻を明かしてやりたいという、やや私怨的な動機ではありましたが、方向性の定まった道楽者の執念と言うべき集中力は自分たちでも驚くほどのパワーを発揮することになったのです。更に、自費で作る以上は是が非でもメージャー・レーベルに喰い込むというプロ意識も芽生えていきました。ただ自分たちのレコードを自費出版するというだけなら、単なる自己満足の世界だけで終わってしまい、言うなれば「負け惜しみ」みたいなもので、これでは意地を張ってまで貧乏人が大金を注ぎ込む苦労も報われません。バンドごっこプロジェクトの究極の目的は何と言っても「生活苦からの脱出」です。そうなってくると、自主制作盤に向けたシナリオも、今までのような遊び半分では作れません。そしてそのシナリオはまず、最終目標の設定から始まりました。自主制作盤をメージャー・レコード会社に売る、あるいは彼らから買収のオファーを受ける、ということが最終段階での「成功」と位置付けました。あとはこの目標に向けてプロセスをひとつずつ掌握していく作業です。1.楽曲の選定:シングル盤はA面とB面があるので、最低2曲は必要。最悪の場合はインストものとしてヴォーカル部分を除いた演奏のみを収録する。2.あらゆる手段を使ってメージャー系列のメディアでON-AIRさせる方法を考える。3.過去自分たちが取り扱ってきたプロモーションの手法の全てを屈指してディスコヒットを狙う。とまあ、根本的な流れは整いましたが、当時は自主制作盤を配給するシステムはほとんどありませんでしたから、その点ではディスコというマーケットはうってつけでした。テレビ、ラジオや有線放送に至っては著作権の問題も発生してきますから、すぐに飛び込みでプロモーションに切り込んでいくことはできません。今ならちょっとしたレコード屋(CDショップですか?)でも、インディーズ・コーナーなんてのがありますが、当時はまずそんな胡散臭い自主制作盤などを販売してくれる媒体は皆無ですし、まして販売目的で制作するようなヤツがいなかったということもあります。ほとんど趣味の世界ですよね。同好会とかサークルとか、あるいは学校関係の思い出の記録みたいな。営利目的ってのもあることはありましたが、いわゆる新興宗教関係が主でしたね。(ちょっと危なかったですねぇ~この手は)余談ですが、実は委員長、この時初めて宗教と経済活動の関係に気が付いたというか、そういった視点で音楽業界を捉えることを学んだのでした。委員長が崇拝していたアースウィンド&ファイヤーの哲学的コンセプトはまさしく宗教ですよね。しかもキリスト教をベースとしています。黒人音楽を白人社会へと浸透させていくテクニックがここにあったんですね。(ライブでのDevotionなんて曲はまるで布教活動ですよ)さらに音楽的コンセプトもクラシックやJAZZの手法を最大限に生かしています。もうひとつ突っ込んで言えば、宇宙という未知の世界への想像を掻き立てる、触発させるビジュアルも施されてあり、神秘性と哲学性の裏づけ理論武装も完璧です。以前にも言ったことがありますが、彼らの目標はアルバム「太陽神」で達成されてしまったと思います。現世紀で彼らがやるべきことはもうなくなってしまったのです。完結してしまったのですね。まさに恐るべし、モーリス・ホワイトです。もし彼が、あるいは彼のメンバー達が仮に歳を取らなければ、まだまだ突き進めたのでしょうが、人間はひとつの時代しか生きることはできませんね。(少なくとも現時点では)ということで、今世紀最高最強の黒人音楽集団と言えるでしょう。(このあたりのお話はいずれまた改めてしますね)話を戻します。当時の日本ではマイナー・レーベルの起業なんて発想が無かったし、大手の牛耳るままの業界に甘んじていたという状況でもありました。アメリカじゃこういったベンチャー・ビジネスが盛んだったんですけどね、日本はだいぶ遅れてましたね。というより大手が業界をしっかりと牛耳っていたわけです。こういった点から見ても、ディスコという業界はあらゆる面において未開の部分であったし、その業界をまがりなりにも掌握していたDJと言う立場は、何か新しいことができるのではないかという非常に夢のある職種だったと思います。ただ、自分も含め、いかんせんその多くが道楽者の馬鹿野郎でしたから、そこまで見通せた器のある人間を排出できなかったってことでもあります。毎日がお祭り騒ぎでしたから、遊ぶのに精一杯みたいな感じでした。委員長だって、ライバル的存在のジュリーへの私怨みたいなものがなければ、こんなことにムキにならなかったと思います。そりゃ遊んでる方が楽ですものね。ということで、今自分たちがいるこの環境を利用しない手はありません。そこで、過去の自主制作盤で成功した実例を研究しようということになりました。実は過去に日本で大穴を当てたグループがいます。フォーククルセーダーズ「帰ってきたヨッパライ」がそれです。加藤和彦、はしだのりひこ、北山修の3人が自費出版したこのレコードは、当時の人気ラジオ番組で紹介されたと同時に一大センセーションを巻き起こしました。そして彼らは一気に頂点を登りつめ、金と名声を掴んだのでした。「できるよ、ムラちゃん、俺達だって同じことができるよ!」そう信じた二人のテキストは、このフォーククルセーダーズの分析から始まったのです。まずは楽曲の面白さと意外性。(これはアッちゃんの面白さとロニーのキャラクターにかけるしかないだろうなあ)そして、彼らが突破口としたラジオの代わりにディスコを使った話題性の提供。(今まで、だてにプロモとかヤラセやってきたわけじゃないからね)大手の買い付けに対する原盤権の所有。(そう簡単には騙されないぞぉ~。できるだけ高く売りつけて大金持ちになるぞぉ~)印税で一番デカイ権利は原盤権であり、フォーククルセーダーズはこれを知っていて、最後までこの権利を手放しませんでした。更にメージャーで売れた場合、その後の活動をどうするか。この点だけはバンドを持たない二人には想像が付かない展開だったので、その時はその時で出たトコ勝負だってことで打ち切り。(いつもこればっかりで詰めが甘いですね)とまあ、筋書きはここまでくればあとは具体化していくだけの話です。(大丈夫かなぁ~)時間もメンバーも限られた中、更に予算にも限界のあるこのチャレンジは、ただただ、ある人の出鼻を挫いて出し抜きたいと言う非常に不純な動機でもあり、これ一発で人生苦から一気に脱出できると信じて疑わないゴミ二人の道楽者ドリームの幕開けでした。
2005年09月20日
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ディスコDJの傍ら面白いことには何でもかんでもクビを突っ込んでは、まるで喰い散らかした御菓子のように、どれもこれもきちんとした収拾のつかぬまま道楽を重ねる委員長でしたが、ウザウザと買い込んだ楽器の山に埋もれる自分自身を多少は謙虚な気持ちでみて、そろそろ音楽で身を立てることを考えなければいかんなぁ、などと殊勝なことを考えたりしました。この頃の委員長はもうとにかく遊び倒しているだけの毎日を送っていたのですが、それでも内心は結構醒めたところがあって、こんな時代がいつまでも続くわけが無いと思ったりもしていました。といっても、ただ漠然とした思いだけで、きちんとした見通しがあって考えていたわけではありません。頭では理解していても体はまったく言うことを聞いていない、そんな感じでもありました。終わりがあるということを頭ではわかっているんだけど、それは今じゃない、ってずーっと思い続けていたわけですね。(結局ずっと夢見てたようなモンですから、他の道楽者となんらかわりませんね)そんな頃、委員長とムラちゃんの対抗馬であるジュリーに、歌手デビューの話が降って沸いたように持ち上がったのでした。(しかし、よくもまあこう次から次へと馬鹿話が持ち上がるもんですね)当時、ジュリーはラジオ番組のDJをしていた関係からか、小さな音楽事務所の社長がジュリーに目を付け、彼をそそのかしたのでした。DJが出来るんなら仕事はすぐ取れるから、後は歌の勉強をして歌手で売り出してみたらどうか、というような話だったのでした。だてに新宿のジュリーなどと名乗っていた道楽者ではありませんから、彼がすぐにこの話に乗ったのは言うまでもありません。そして、例によって例のごとくお調子者のジュリーのことですから、臆面もなくお仕事の最中にご紹介してしまったのです。「今度、歌手としてデビューすることが決まりました」が~ん!これを聞いてショックを受けたのはムラちゃんだけではありません。委員長もまさかと耳を疑い、直接本人に問いただすと、「これからレッスンを受けて、デビューはその後だけどね」とあっさり言い切ります。くっそ~!俺らがこんなに苦労しているっつーのに(そうかあ?)、一人だけうめぇことやりやがって(結局は妬ましいだけだろ)、と地団駄を踏む委員長。「さんざ俺達に苦労かけさせたくせに、なんだと思っているんだ!」(別にあんたらが苦労してるのとは関係ないと思うケド)早速バンドごっこの二人は新大久保のアジトで緊急作戦会議です。「ロニーどう思う?俺は未だ信じられないけどなぁ」「まあ、ジュリーの性格だから、ハッタリも入ってるとは思うけどね」「こんな形で先を越されるのは悔しいなぁ」「ムラちゃん、オレたちもさ、デモ持って回るなんてまだるっこしいことしてないで、もっとこうパーンと勝負かけられないの?」「いっそのことレコード出しちゃおうか」「えっ!?出しちゃうって、どうやって?」「実はさ、オレが行ってたプロデューサー養成講座ってのはさ、主催が自主制作盤の製作会社なんだよね。だからレコーディングからリリースまでのノウハウはあるんだよ」「自主制作盤?」「ああ、つまり自費でレコードを出すってことだよ」「自費ったって、一体いくら位かかんの?」「そうだな、録音時間を最低限に見積もって、もちろんプレス枚数もあるけど、100万円くらいかなぁ」「100万?そんなもんでできるの」「ああ、でもそれは練習用のスタジオ代とか、ミュージシャンのギャラとか一切抜きにしての話だし、録音だってプロ並の少ないテイク数でこなすっていう前提でだよ」「やろうよ、やろうよ。こうなったら意地でもジュリーには負けたくないし」しばしの沈黙の後、ムラちゃんがポツリと言いました。「オレとロニーとアッちゃんの3人で割ったとして、一人30万ずつかぁ。う~ん、何とかいけるかもしれないなぁ」とは言うものの、当時の30万はサラ金と言えども今ほどには簡単に借りられる額ではありませんでした。まして水商売勤務の23歳の若造ですから、右から左には用意できるわけはありません。いつもにも増して目が血走る二人。静まり返った部屋にドアロックを開ける音が響きます。ガチャっ。「ただいま~! なんだぁ、また二人でこんな朝まで話してんの~」おおっ~、マリア様!Y子の姿に後光が差しておりました。How Deep Is Your Love~愛はきらめきの中に~Y子の顔が観音様に見えました。
2005年09月19日
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映画サタデーナイトフィバーが公開されたこの年、あちこちで便乗したディスコイベントが繰り広げられました。まさに第二次ディスコブームの始まりです。そんな数々のイベントの中でも、特に委員長にとって忘れられないダンス・コンテストがありました。「真夏の夜の夢~東京湾洋上ディスコ・パーティー」凄いですねぇ。なんと船の上で踊ってしまうという、納涼ディスコ船の登場でした。東京浜松町、竹芝桟橋から東海汽船の船で夜の東京湾内を巡る納涼ディスコ大会。一体誰が考えたのでしょうか。もの凄い企画です。この企画の協賛がポリドール・レコードでした。トゥモローUSAのチーフDJジュリーこと鈴木昇二氏は、お馴染みレコード会社のプロモ活動の一環で、この船上ディスコパーティーの宣伝を行っておりました。しかもチケット販売まで手がけております。(当然手数料貰ってるよなぁ~)委員長は、もっともらしいMCでセールストークをぶちかますジュリーを捉まえて、「ジュリー、おいらにもチケット売ってよ」えっ!? という表情のジュリー。「本気かよ、ロニー?」(って、ウソん気なの、この企画?)「えっ、なんで?つまらないの?このイベント」「いや、そういうわけじゃないけど、ロニーがこういうイベントに行くなんてのが珍しかったから」「いや、オレ船好きだし、竹芝桟橋から船乗るのって、なんか懐かしくてさ」(そうだよなぁ、新島行ったっけなぁ~昔、この船で)「じゃ、特別割引券上げるからさ」「えっ、ほんと。じゃ4枚頂戴」ということで、ジュリーの友情で半額券を貰って、その晩は高円寺の亀屋マンションに直行です。早速、彼女のC子とルームメイトのKとボーイフレンドのS君を誘って、4人で行く納涼ディスコ大会の計画を立てました。要は賑やかなイベントに皆で行きたかったってだけなんですが、パーティーの中にダンスコンテストってのがあって、どうにもこれが気になっていた委員長でした。まさかこんなとこまでディスコ協会の魔の手は伸びてないだろうってなもんで、異常なまでの自信過剰人間の委員長は、なんとか本命彼女の手前イイ格好をしてみたかったわけです。まあ、どのみち主催者側の関係もありますから、優勝とまではいかなくても入賞は手堅いと信じて疑わない委員長、この日に備えて白のスリーピースなどを丸井のクレジット(しかしよ~くお世話になりましたよねまるいまるいは駅のそば)で購入し、頭もチリチリウェーブをなんとかヘアーアイロンで押さえ込み、見事に一般市民のフリをこいたのでありました。(プロっぽい格好で行って、ばれたらやばいからね、ってその発想がせこいよね)さて血沸き肉踊るダンスコンテスト当日は竹芝桟橋に集合。大したセールスが出来なかったのか、思ったほどの入りではありませんでした。でもまあ、船に乗り込んで夜の潮風に吹かれたりしているうちに、気分はすっかりラブラブモードのムード満点。デッキは遊覧船としてベンチが並べられており、船内では生ビールやら焼きぞば、たこ焼きなども売っており、ちょっとしたお祭り気分でちょっとアルコールなんぞも効いてきて、東京湾の夜景もまんざら捨てたモンじゃないね、などと気取っていると、いきなり大音響のディスコサウンドが流れ出して出航です。おお、動いた。(当たり前だろ船なんだから)船内は幾つかのゲームコーナーに別れていて、甲板デッキ、船室、キャビンなどを会場にして同時進行していくと言う、中々に盛り沢山なイベントでした。まずは船を一回りしながら東京湾の夜景を楽しみ、じゃんけん大会やビールの早飲み競争、JAZZバンド演奏(出ました生バンド)そしてダンスコンテストなどが行われたのでした。各会場にはちゃんとしたMC・司会が居て、船内にアナウンスが流れるようになっていて、参加者をどんどんと煽っていきます。次から次へと矢継ぎ早にゲームが進行していきますから、参加者はもう景色を見て酒飲んだりしている余裕もなくなってきます。目移りばかりで、一体何しに来たのかもわからなくなるほどに会場は盛り上がっていきますが、船酔いだか酒酔いだか甲板の手すりに海に向かってしがみついているヤツや、船室の隅で抱き合ってるカップルなど様々で、まさに真夏の夜の夢~洋上ディスコは大盛況でした。さて湾内を半分ほど航行したあたりでいよいよダンス・コンテストの始まりです。とは言っても特別なルールがあるわけでもなく、参加者は勝手に名乗り出てゼッケンをもらい、ただ踊りまくるといういささか乱暴な素人臭い演出でした。ただ、コンテストはペアが原則でしたので、思ったより参加者が少なかったので委員長の思惑はまさにドップリとはまりこんだわけです。そりゃそうだよね。こんなイベントに金払ってくるような奴はナンパ目当て以外考えられないから、ペアで来る奴らなんて元々少ないよね。ということで、ようやく委員長とC子の出番デス。多少揺れる船室でディスコフィーバー、ダンスコンテストはスタートしました。会場は審査委員らしいおっさんたちが数人、とってつけたようにただ座っているだけの審査員席を前にして、とにもかくにもただひたすら踊るだけ。そして曲の切れ目でMCが入り、テキトーに勝ち抜き者を選んでいくという極めていい加減なコンテストでありました。それでも雰囲気はそれなりに盛り上がって、結構皆楽しんで踊ってました。勿論、というか当然優勝は委員長のペアです。当たり前だよね。そんなコンテストで優勝狙って来てる様なヤツが元から居ないんですから、誰が見たって目立つ委員長たちが優勝しなきゃ、それこそインチキだ~ってなことになります。(っていうか、該当者を選ぶのさえ難しいような状況でした)賑々しく優勝目録授与などが行われました。なんと副賞は、東海汽船「船の旅伊豆大島1泊2日ご招待」他。ヤッター! 生きてて良かった。踊ってて良かった。C子も喜んでおります。関係者から目録を渡されて、「賞品は後日表彰式の席上でお渡しします」といわれ、翌週の某日某時に池袋パルコの特別催し物会場で行いますとの案内がありました。その他、ポリドールレコードから試聴盤セット(お馴染みですね)、女性用パンティーセット(全然意味分かりませんが、お尻の部分にFeverのプリントが施されておりました)などを貰ってサイコーの委員長は意気揚々と引き揚げていったのでした。興奮冷めやらぬ委員長はC子を連れてTomorrow USAで結果報告です。ジュリーやリトの祝福を素直に受けてそのまま朝まで踊りあかし、締めくくりは頂いた賞品のFeverパンティーでNight Fever AGAIN!! えっ?翌週、待望の表彰式当日、真昼間から委員長は眠い目を擦りつつC子を伴って池袋パルコ特別会場へと向かいました。ロビー前の案内嬢に特別会場を尋ねると、お姉様は優しく場所を案内してくれましたが、本日は特別催し物はございませんとのクールなお答え。そんなはずはねーだろって、仕方なく会場まで行ってみましたが、確かにがらんとしたスペースはワゴンセールなどが置かれているだけで、イベントの様子はこれっぽっちもありません。ようし、そんならポリドールレコードへ電話してやれってことで、近くの赤電話(当時は携帯なんていう便利なものはありませんからね)からポリドールレコードへ電話。さんざん電話をたらい回しにされながらもようやく担当者に辿り着き、事の顛末を説明してなんとかしてくれみたいな話をすると、「うちは協賛しただけで主催会社ではありませんから」とあっさり言われ、それなら主催会社の電話番号を教えて下さいと言うと、「さあ、某企画会社の主催ですが、あいにく私共では連絡の取りようがありません」と更にしらける回答に業を煮やした委員長、「わぁ~っかりました。もうケッコーです」と受話器を思い切り叩き切ったのでした。くっそ~、なんてこったい。たまたまオレが業界の人間だから良いようなもんで(そうなの?)、これがマジで期待してた素人さんだったら、まさしく詐欺じゃねぇか。道楽者として、しかも業界人のクセしてこんなチャチな「お化けパーティー」に騙された自分に腹立たしいやら、情けないやらでむしゃくしゃした委員長。「くっそー、オレの名が売れたら、このことは絶対にマスコミに触れ回ってやるからな~」と、何故かポリドール・レコードに八つ当たりする始末。この後、ポリドールのプロモにはことごとく非協力的になった委員長でした。残念ながら委員長の名も売れず、この暴露記事は遂にマスコミに流れることなく時は経ち、今このブログで憂さを晴らした訳です。(あんた結構執念深いね)ということで、みなさんも「コンテスト」にはくれぐれも気をつけて下さいね。ヤラセのないコンテストなんて99%ありませんから。じゃあ、一般人にはチャンスはないのか?っていうと、そんなことはありません。要はそのコンテストの裏側をきちんと調べた上で出場、あるいは参加すれば良いのです。以前にも書きましたが、ヤラセをひっくり返すテクなんぞも考えようによっちゃいくらでも考えられますから、道楽者の皆様は是非ともこういったヤラセ・コンテスト・ひっくり返し作戦などを考案してお楽しみ下さい。こっちの方がコンテストそのものより10倍は楽しめますヨ。
2005年09月18日
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唄って踊れるディスコDJ!そんな委員長の道楽者ドリームが実現に向けて始動し始めた1978年、第二次ディスコブームと呼ばれる新しい波が世界規模でディスコ業界を席捲した年でもありました。ジョン・トラボルタSMILE、サタデーナイトフィバーの登場です。(出たー!!)すでに米国では映画の大ヒットから飛び火して、ディスコ業界はビージーズ旋風が吹き荒れ、サウンドトラックのディスコヒットナンバーが続々とチャートランキングしていきました。もちろんトップはサントラ・テーマの「ナイト・フィーバー」です。日本では音楽の方が先行して入ってきましたから、映画がブームを起こす前にディスコではジワジワと下地が出来上がっておりました。まずは先行ヒットした「You should be dancing」、続いて「Night Fever」、更に「Staying Alive」とディスコはビージーズ一色と言ってもよいほど、あちこちからあの独特のファルセットボイスが流れておりました。しかし、このユーシュッドビーダンシングは何故か皆、妙なステップで踊っていましたね。ってことは映画とは別物でディスコヒットしたということでしょうか。また、当時ファットバックバンドの曲でナイト・フィーバーって同名異曲がありまして、委員長はリクエストがくると知らぬ振りしてよくこちらをかけてましたね。(意地悪ですね~)スパニッシュ・ハッスル系の結構カッコイイ曲だったんですけど、あまりヒットしませんでした。ちなみに、トゥモローUSAでは、このファットバックのナイト・フィーバーは麻雀大会の合図として使っていました。夜の面子(メンツ)ってことですね。これがかかると、今夜は朝まで麻雀大会という業務連絡でした。しかしまあ、この映画からは随分と沢山のディスコヒットが出ましたねえ。このサントラ・アルバム1枚あればディスコの1日が終わっちゃうってな感じでした。今更説明の必要は無いと思いますが、映画のお話はイタリア系移民の若者たちの青春ストーリーですね。その舞台となったのがディスコで、主人公はその界隈で踊り上手として有名なトニー(ジョン・トラボルタ)、そして彼の仲間たちが繰り広げる思春期の葛藤を描いた青春映画でした。実はこの映画について委員長は、未だにずっと頭にひっかかっていることがあります。ひょっとするとこの映画は、ある映画のプロットを使ってコマーシャルベースに乗せた作品ではないかという疑惑ですね。その原案と言うかベースにしたプロットというのは、マーティン・スコセッシ監督の「ミーンストリート」という映画です。この映画にはまだブレイク前のロバート・デニーロなんかが出ているのですが、内容はもちろんブロンクスに住むイタリア系移民の若者の青春物語で、その内面をかなりリアルに描いた問題作なんです。マフィアやドラッグ、あるいはプエルトリカン等との抗争、更には宗教(ローマン・カソリックですね)などが彼らの人生と複雑かつ密接に関わってきます。エンディングもパターンこそ違えど、テーマとしての訴え、あるいは投げかけている青春の苦悩はほぼ同質のものという感じでした。ただ、こちらはかなり前衛的手法で撮られているせいか、見る人によっては拒絶反応を示されてしまうか、あるいは難解な部分も多いので、まずは一般公開して集客できるような映画ではありませんでした。そこで、このプロットを縦軸にして、当時の若者文化の代表選手とも言えるディスコとそのサウンドを横に絡めて行くと、それはサタデーナイトフィーバーになるのではないか、とそう思うわけです。主人公の名前もトニーだし、白のスリーピースを着ています。ビデオになっているはずですから、ご興味のある方は是非とも見比べてみて下さい。さてこの映画のサントラを手がけたビージーズですが、この大ヒットで素晴らしい大変身を遂げたわけです。(このあたりも、上述の「パクリ疑惑」を抱く理由のひとつですね)当時のマスコミでは、あのビージーズも遂にディスコサウンドへ進出か、みたいなタタキで売りまくっていましたから、これは世界的規模の販売戦略であったことは間違いありません。そりゃ、過去「小さな恋のメロディー」なんてのを代表とする優等生系メガヒットを持つグループですから、イメージチェンジには相当なインパクトのあることをしなければならなかったわけです。個人的に委員長は、この映画の中で主人公のトニーがダンスコンテストのヤラセに怒ってトロフィーを突っ返すシーンが大好きでした。さんざ似たようなヤラセを見てきた委員長は、こういったメージャーの場で裏事情をバラしてくれたこの映画に共感を持ちました。たぶん、多くの方々が「へぇ、そんなもんなのかあ」と思ってくれたのではないかと思います。もうひとつこの映画を見て感じたのは、「これは白人のディスコじゃん」ってことですね。白人が黒人の流行をまたひとつ取り上げちまったぜ、という印象が強かったことですか。過去、幾度となく黒人の持つ遊びの文化を、白人が陵辱していったかということを呼び覚ます映画でもありました。そういう意味で言えば主役にされたイタリア系の人たちも犠牲者かもしれませんね。最近のアメリカは一段とこの民族間のヒエラルキーが複雑になってきていますが、底辺でぶつかり合う構図の多くがイタリア系移民対黒人として象徴化されていますよね。あくまでもこれは委員長の個人的見解、解釈ですから、こういった見方もありますということで聞き流して下さい。(評論家や学者ではありませんからね。単なる道楽者のヨタ話です)更に劇中のダンス・テクニックでは、MFSBの噂の女ケイジーって曲で踊ったラテン系のカップルが非常にカッコよくて上手かったですね。ちなみにこの映画に対抗するように、とってつけたような「Thanks God It’s Friday」という黒人系の映画も登場しましたが、こちらはお子様ムービーとも言うべくアイドル映画でした。コモドアーズが出演していたので、従来のSOULファンはそれなりに楽しんだかもしれませんが、中味ゼロ、よくわからない映画でした。マリファナ吸ってラテンで踊るダンスフリークのにーちゃんの踊りは、ジョン・トラボルタよりテクは数段上でしたね。そのくらいかな覚えているのは・・・・・。しかしこのサタデーナイトフィバーは前評判が高かったせいか、映画はとにかく空前の大ヒットでした。黒のイタリアンカラーに白のスリーピースってのがディスコにやたら現れましたよね。そしてあの映画のステップですね。例の右手を上げるポーズ、みんなよく踊りました。そしてなんと新宿に、この映画に出てくるディスコと同じ内装の店がオープンしたこともこの年の話題のひとつでした。新宿シンデレラのオープンです。ダンスフロアの床下照明、天井から照らされるスポットは映画のままでした。オープン記念は午後3時から6時までの限定で招待客に無料開放。招待された委員長はC子を連れて遊びにいきましたが、映画以上にダンスフロアの広さが大きかったことと、まるでサッカー場のような造りに驚きました。DJブースを正面にして、長方形のダンスフロアは床から一段ほど上げ底になっていて、その長方形のフロアを囲む観客スタンドのように客席が配置されていました。まるで屋内スタジアムみたいな雰囲気でした。オープン記念イベントということで凄い人数の客が入っていましたが、中にトゥモローUSAの小鷹君、増田君も彼女を連れて遊びに来ておりました。営業前の偵察といったところでしょうか。フロアで楽しく踊っていた委員長とC子でしたが、そこへ突然増田君がヘラヘラしながらやってきたのです。「ロニー、Y子が来てるよ」ニヤニヤしながらそう耳打ちしてくれました。がっちょーん! 「ちょっと店で呼ばれたから行ってくるわ」そうC子に言い残してその場を逃げるように立ち去る委員長。ぽかんとしたまま委員長の顔を見ているC子を置き去りにして、委員長は出口目指して一目散。(しょーがねぇ野郎ですね、このお調子者は)人だかりの店内、熱気ムンムンのダンスフロアー、人ごみの中を縫うようにして出口へ急ぐ委員長。ディスコサウンドがフェイドアウトしてミラーボールが輝き始めました。スローダウン。つ~みなやつさ、ああパシフィック~(永ちゃんで~す)後ろめたさと、自惚れが入り混じった複雑な心境、大馬鹿野郎の委員長の背中を矢沢永吉つぁんの声が追いかけてきます。どおやら~おれの 負~けだぜ時間よ止まれ~Stop the world (ほんとに誰か止めて欲しいなぁ、この時間)道楽者は止まれない。
2005年09月17日
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「オカマダンス VS ファンキーダンス」委員長が仕掛けたこんないい加減なイベントが、結果的には主役となったこの二組にとってのちょっとした転機となってしまったようです。しかし世の中は本当に先が見えないものですね。インフォメーションズの方は、この後行われた全国ダンスコンテストに出場したことがきっかけで、ジャニーズ事務所に行くことになり、後のジャパニーズと開花していきます。詳しいことは記憶が曖昧なのですが、当時EW&Fの「宇宙のファンタジー」が驚異的な大ヒットをしており、ディスコでは皆で諸手を挙げて空に祈るような、なんだか新興宗教の踊りのような様相を呈しておりました。そんなブームにまたまた目を付けた資本主義の手先が、これらの楽曲を課題曲にダンスコンテストを開催したのでした。確かアイドル系の人気ダンスコンテストみたいな、従来のコンテストとは一味違った趣向だったと思います。参加者はいわゆるタケノコとかテクノとかオカマとか、今風に言うビジュアル系の踊り手たちでした。そんなコンテストですから、インフォメーションズにとっては対象外だと思っていたのですが、彼らはかなり本気でSOULダンサーズとしてこれに挑戦し、選外ではありましたが、たまたま審査に来ていたジャニーズ事務所に声をかけられて、そのチャンスを掴んだのでした。後日談ですが、結局ジャニーズ事務所に所属するようになったメンバーの数名は、芸能界(いわゆるアイドル系ですね)とディスコとの割りきりが出来ず、委員長の元に相談に来たりもして、彼らは彼らなりに悩んでいた部分もあったようです。SOULが好きで入った世界でも、それでメシを食うためにはそれなりのアイドル系のお仕事というかレッスンも受けなければならず、そこらへんの葛藤に悩んでいた子もいました。こんなことやるために今まで踊っていたんじゃないみたいなね。今でこそジャニーズ事務所って言えば皆が憧れますけど、当時ディスコで遊んでるような奴らにとってはガキ扱い、馬鹿にこそすれ、そんなところで働こうなんて考えるヤツはまずいませんでした。フツーに考えてもアフロ小僧とたのきんトリオはどう考え立って繋がりませんよね。この時、委員長は確か彼らに「割り切りの問題は自分の心で決めること」とアドバイスしたのだと思います。(カッチョイイ~、ってこれはマジです)というのも、同じ思いは委員長も既に数年前に経験しており、SOULマン目指して踊ってきたのに、ある日ソウル・ドラキュラのステップ踊らされたりして落ち込んだことと同じで、それでメシを喰っている以上は自分の好みの踊り(SOUL)以外の嫌いなことでもやらなければならず、もしそれが嫌ならば、それは趣味の世界でやれば良いことで商売にすることはできないということです。そんな先輩でもある委員長にできるアドバイスは、後悔しない道を選びなさいということだけでした。確かこの後メンバー・チェンジがあったと思います。最終的にリーダーのトミー君、元ファンキードールズのボビー君は残りました。今にして思えば、ディスコ、それもSOUL系からメージャーに昇ったのは彼らが最初ではなかったでしょうか。よくやったと思います。残念ながらジャパニーズ単独では大舞台には立てなかったようですが、皆がやろうとしたことを実現したのですから大したものだと思います。少なくとも踊りで勝負して踊りで這い上がったと言う点では、70年代のディスコ史に名を残すグループだったのではないでしょうか。ということで、もう一方のシルエッツですが、これがまた歌舞伎町界隈のちょっとした有名人のような存在になってしまい、本人たちも結構その気になったりしておりました。そんな頃、タイムリーな仕事依頼が舞い込んできたのでした。またまた、RCAレコードのA氏から、今度はシルヴィー・バルタンの来日イベントのお手伝いを頼まれたのでした。さすがフランスでもディスコブームの渦は巻き起こっており、なんと大御所シルヴィー・バルタンもディスコソングを歌うことになったとのことでした。原曲はクラウディア・バリーの愛しのジョニーで、もちろんフランス語のカバーバージョン、タイトルはディスコクイーン(って本人のシルヴィーがクイーンってことなんでしょうね)、サビの部分だけが英語で「Dance, dance Disco Queen」っていうちょっと変わったレコードのプロモーションでした。フランス語だろうが英語だろうが、どのみち日本人にはわからんだろうって、とりあえずの緊急来日プロモーションでした。企画は「ディスコクイーン・ダンスコンテスト」というもので、対象は女性だけで、踊りもさることながらファッションも選考対象という、フランスっぽいおしゃれな企画でした。そこでA氏からの依頼は、テレビ、雑誌の取材が沢山集まるので、できるだけ見栄えの良い参加者を集めて欲しいとのことでした。ここで委員長の頭の中のランプが「ピンポーン!」と音入りできらめいたのでした。丁度いいじゃん、シルエッツ!これ使おうよ。ってなことで、話題作りにオカマを出しても良いですかとA氏に尋ねると、「え~?ほんとのオカマなの?」とちょっと難色を示しましたが、絶対に話題になること間違い無しだからと強引に説き伏せて、シルエッツの二人を登場させることで押し切ってしまいました。コンテスト会場は赤坂マンハッタン。審査委員長はもちろんシルヴィー・バルタンご本人です。会場にはお馴染みディスコ協会系の方々も見えておりましたが、さすがに中近東ファッションはおらんわね。衣装こそは派手なねーちゃんたちでしたが、俗に言うディスコファッション系みたいなのばかりでワンパターン、その中でモロに新宿スタイルのアラビアンナイトのような妖しいファッションの二人はひときわ輝いていたのは言うまでもありません。この二人が登場しただけで、すでに勝負アリです。委員長は未だ成しえなかった「ヤラセ」のひっくり返しを、遂に実現できるかもしれないという期待に胸弾ませました。いつもながら今回も、どうせ優勝は決まっているのだろうと薄々は感づいていましたが、審査委員長がシルヴィー・バルタンというところがミソで、フランス人は主張が強いし、本人が気に入ってしまえば回りが仕込んだヤラセだってひっくり返る可能性は十分にあります。とは言うものの、メインは曲のプロモーションですから、予選だ本選だ、花だ提灯だ(こればっかですね)と、もう嫌と言うくらい「ディスコクイーン」が流れっぱなしの会場でしたが、皆結構マジで踊っておりました。案の定、委員長の仕込んだ色物「玉三郎」は会場でも異色の存在、メディアも面白がって見守っています。最終選考でシルエッツ(もちろん女の子の方ですよ)が勝ち残り、なんと準優勝を勝ち取りました。(残念ながら、やっぱり委員長の思惑通りにはいきませんでしたネ)優勝したのは、ディスコっぽい黒革のパンタロン・パンツに浮世絵風の薄ジャケを着たフリースタイルダンス系のおねーちゃんでした。(う~ん、怪しいなぁ、やっぱヤラセかなあ、ってお前もじゅうぶんヤラセだろ)ところがここで驚いたことに、シルヴィー・バルタン自身が玉三郎に特別賞を出すと言い出したのでした。これは本当に番外というかシナリオ外で、主催者側も賞品等用意してありませんから、お馴染みの試聴盤の詰め合わせやら、プロモ用シャツやらを間に合わせの副賞として用意してくれて、バルタンさん自身から手渡してくれました。バルタンさん、さすがフランス人です。このおしゃれなジョークが気に入ってくれたようでキッスのオマケまで付きました。(チキショー、玉三郎の野郎うめぇことやりやがって、一番美味しいトコもっていきやがった)地団駄踏んで悔しがった委員長でした。ちなみに翌日のスポーツ新聞や翌週発売の女性週刊誌にも写真や記事が載り、取り敢えずは委員長の目論見どおり話題提供は結果オーライ大成功でした。そして、なんと委員長を更に驚ろかせたのはバルタンさんの次の一言でした。「彼女も一緒にテレビに出して」(もちろん準優勝のシルエッツの片割れ女性のことです)実はこの企画の目玉として、優勝者が「独占大人のチャンネル」というテレビ番組にバルタンさんと一緒に出演して踊ることになっておりました。(確かテレビ東京だったと思います)それを本人自身が準優勝の彼女を指名したのですから、会場はちょっと唖然としました。いや~、これで委員長の溜飲は下がりましたね。ヤラセはひっくり返せずとも、蜂の一刺しはできました。踊りはともかく、誰の目から見ても容姿とファッションでは絶対にこちらの方が上でしたからね。やったぜ!ということで、テレビは生本番で10分のスポット。委員長はマネージャー気取りで男装の玉三郎(って元々男だろ)と共にテレビ東京に乗り込んだのでした。いやいや、もうひとつオチがあってびっくりしたのですが、この彼女の姉さんはモデル出身のタレントで、委員長たち一行を局の受付でスタイリストやら関係者やらを伴って待ち構えていてくれたのでした。メイクから打ち合わせまで、単なる素人ゲストのクセして、これじゃまるで新人タレントのデビューみたいじゃん、って空いた口が塞がらなかった委員長。あれよあれよと言ってる間に本番スタート。モニターに映る自分の妹の姿を涙ぐんで見つめるこのお姉様にはしばし心打たれた委員長でもありました。美しい姉妹愛ってか。残念ながらジャパニーズとは対照的に、シルエッツはこの数ヵ月後に玉三郎の浮気が原因で破局を迎えてしまいましたが、単なる歌舞伎町のディスコの常連だった彼らが、一応はメージャーな出番まで勝ち上がったってことで忘れられない思い出です。しかもいわゆるオカマファッションで。二人とも良い味出してたんだけどねぇ~。惜しかったなぁ。(何が?)オカマブームに沸いてた頃の新宿ディスコ、委員長の忘れられない、楽しくもほろ苦かった二つのエピソードでした。
2005年09月16日
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人生全てがノリに乗っていたこの頃の委員長は、とにかく青春真っ只中、ディスコ業界では自分が最先端を行っているという強い自惚れから、結構高慢な生き方をしていたことも事実でした。そんなある日、トミーと名乗る男がひょっこりと委員長を訪ねて来ました。彼はインフォメーションズというSOULダンサーズのリーダーで、是非ともトゥモローUSAで自分たち使って欲しいと売り込みにやってきたのでした。話を聞けば、メンバーの中には昔(といっても1~2年前のことですけどね)の後輩なんぞもいたとかいないとかで、頼られると調子くれる委員長ですから、ほんじゃまあ、ひと肌脱いでやろうかいってことで、早速糸数店長に相談を持ちかけました。もちろん、あっさりと断られましたが、彼の一途な情熱(そんな大げさなものでもありませんでしたが)と、委員長を先輩と立ててくれる彼の率直さ(単におだてられただけだろ)に、いつのまにやら何とかしてやりたいという気持ちになっていました。タイプ的には昔風のSOULダンサーズの血筋を持つグループでもあったので、本心では「もうSOULの時代は終わっちゃったんだよ」と思いつつも、まるで昔の自分を見ているような熱い思いを感じたのも事実でした。再び糸数店長に「イベント企画」として彼らを使わせて欲しい旨伝えると、ノーギャラならということでOKがでました。「ところでどんなイベントを考えているの?」と糸数支配人。「えーっとですねぇ(どうしようかな)、オカマ・ダンサーズ対ソウル・ダンサーズって企画なんですけど」(おいおい、言ってることわかってんのか)「ふ~ん、まあ、どれだけ人を呼べるか・・・やってみるんだね。バナーくらいは作ってあげるから」口から出任せの割には意外とすんなり受けてくれた糸数店長に頭を下げると、早速リーダーのトミーに連絡を取りました。「1日だけのイベントってことで了解取ったから(偉そうに言うなよ)、もちろんギャラは出ないけどやってみる?」(今更やらないわけにはいかねぇーだろ)電話口の向こうもかなり喜んでいます。ありがとうございます、の連発で益々頭に乗って先輩風を吹きまくる委員長でした。ということで、口先商売の得意技を屈指してセンスのかけらもないイベントが企画されたのでした。この話を聞いてチーフDJジュリーも、しら~っとした目で、そんなの見に来るヤツいんのかよ、みたいな感じでしたが、ともかくも企画をぶち上げた以上は何とか成功させなければなりません。ここまでは成り行きで話が進みましたが、はて、オカマ・ダンサーズはどうすんだよって、肝心の対抗馬であるオカマのダンサーズなんて都合よくいるわけはありません。そんな委員長の頭の中に、当時常連でよく遊びに来ていたオカマ・スタイルのカップルの顔がとっさに浮かんだのでした。この仕事ができるのはあいつらっきゃいない!(そうじゃないだろ、こんな話を受けてくれそうなのはあいつらしかいないんだろ)そう確信した委員長は早速店の常連のツテを辿ってこの二人に会いました。実はちょっとした経緯があって、この二人が付き合い出すきっかけとなったのが委員長だったこともあり、委員長の熱情に(ほんとかよ)渋々ながら応諾してくれた二人でした。この彼氏の方が、当時大人気のYMOの坂本龍一さんに顔立ちや雰囲気が似ていて、常連からも「教授」などと呼ばれて親しまれておりました。彼女の方も姉上様がちょっとしたタレントなどをしており中々の美形タイプで、二人して中近東ファッションなどして踊っていると、それは華やいだ雰囲気を持つカップルでありました。更に、この教授君(委員長は玉三郎と呼んでおりましたが)、オカマダンスのクリエイトなどもしており、彼の考案したコマダンスなるものも巷では少々流行ったりしておりました。なんのこたぁない、コマを回す仕草というかフリで踊るってだけのことなんですが、二人の踊りが目立つせいか、これを皆が真似しだしたりして、常連の中でも結構な人気者でもありました。しかし、ソウルダンサーズのショーをやるために担ぎ出された二人こそ良い迷惑です。「俺達二人でそんなショーみたいなことなんかできないよぉ~。素人なんだし」「大丈夫だよ、おまえら見栄えは良いし、身内を集めて盛り上げちゃえばなんとか格好つくだろ」(どうせお前らがメインじゃないんだから心配すんなって、テキトーですね)さあそんな二人を巻き込んで、このアホらしくも白々しい企画は執り行われたのでした。糸数店長が手を回してくれたバナーも入り口とフロアに掲げられました。オカマダンス対ファンキーダンスシルエッツ VS インフォメーションズちなみにシルエッツっていうのは委員長が勝手につけたオカマダンサーズの名前ですが、結構このネーミング気に入ってたんですよね。シルエットって語感と彼らのファッション性が意外とマッチしてました。(って自己満足ですけどね)しかし、オカマ対ファンキーって、なんじゃこりゃ~? 赤面しそうなタイトルですねぇ。ところが当日、予想外の客の入りに驚いたのは委員長だけではなく、糸数店長やジュリーでさえ目を丸くしておりました。しかも集まった数は圧倒的にオカマ軍団が多かったのでした。いやー、こんなもの本気で見に来るヤツの気が知れん、と仕掛けた本人も呆れ返ってしまったような状況でした。(こんなこともあんだね~って感じです)じゃ~ん! まずはスフィンクスという曲に乗ってシルエッツのコマダンス登場。続いて富田勲のシンセ・シンンフォニーで完全に入りきった二人が、日本一の広さを誇るトゥモローUSAのダンスフロアーを独占します。ムラちゃんの照明で何とかごまかしましたが、雰囲気的には歌舞伎というか能というか獅子舞というか、なんかよくわからないショーでしたが、またまた予想外の拍手喝采。なんじゃこの展開は?自分の感性にすっかり自信を喪失した委員長でした。はっきり言って私にゃさっぱりわかりません、ってことでした。さあ続いてインフォメーションズのショータイムです。男ばかり6人編成のダンサーズ。衣装も昔風SOULジャンプスーツ、もちろん踊りも古いタイプのSOULダンスです。こちらもファンと言うか親衛隊みたいな連中が数十人来ており、ダイナミックなダンスのご披露にはやんやの声援で盛り上がりました。途中アクロバット系の柔軟な男の子のソロが入りました。どこかで見たことあるヤツだと思ったら、なんと彼は、委員長のライバルだったジョニーのファンキードールズにいたボビー君ではありませんか。そうか生き残ってたのかぁ、と感無量の委員長。アホな先輩ではありましたが、同じ時代を生きた仲間の生き生きとした姿がこれほど頼もしく思えたこともありませんでした。たった1日1回限りのショータイムでしたが、トミー君以下メンバーの満足そうな顔をみてちょっとは先輩らしいことが出来たような優越感に浸っていた委員長でした。たぶん、SOULの時代はもうこないだろうけど、縁があったらまた会おうぜ(なんじゃそりゃ)ってことでインフォメーションズの面々とお別れしました。片やシルエッツの方は、本人たちも驚くくらいの反応にびっくりしていた二人ですが、やっぱりこいつらも筋金入りの道楽者です。ダンサーズなどという既成の事実を作ってしまいましたから、この後の二人はそれなりにオカマ・ダンス愛好家の星となっていってしまいました。当の彼らもこの日を境に新しいオカマ・ダンスのクリエイトに向けて、新宿2丁目に二人してお勉強に行くなど、委員長にとっても予想外の展開となっていったのでした。こんな調子でしたから、「ひょっとしてオレはプロデューサーとかの才能もあるんじゃないだろか」などと、またもや自信過剰に拍車が掛かった委員長でした。
2005年09月15日
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まあ、こんな感じで1978年はディスコDJの傍らバンドデビューを目指すという、誰でも思いつきそうな夢ではありましたが、まさか本気でそんなことするヤツはいないだろう、というような無謀な道楽に邁進していく委員長でありました。この頃のディスコも丁度転換期のような時期に入っており、いわゆる黒人音楽が引っ張ってきたディスコ音楽の幅も少しずつ広がり始め、SOULといった表現からディスコサウンドというような呼び方に変わってきた時代でもありました。当時の委員長は、自分自身がポリシーとするSOULでDJを続けていくことをすでにあきらめていましたので、どのような形にせよもうひとつランクアップすることだけを考えていました。どういうことかといえば、高校生の頃から「踊り場」に通い出し、黒人音楽の洗礼を受けアフロまでしてのめり込んだSOULミュージックとダンス、その終わりを体験した委員長は、この今のディスコブームも必ず終わりが来ることを予感していたのでした。そうなると、今更カタギの仕事にも戻れないし、かといって今更黒服になる気もありません。となれば、あとはこの業界でどう上手く泳いでいくかということに尽きます。とは言うものの、ただ流されるような生き方はしたくなかったので、もう一度熱くなれることをやってみたかった、というのが当時の考えでした。それはバンドでも良いし、ダンサーでも良いし、もちろんDJでも良かったのですが、できれば今までの経験を全て生かせる仕事をしてみたい、それが本音でした。(カッチョイイ~)でもねえ、たかだか高卒の22、3の若造ですから、結局は目の前にチラチラ現れるおねーちゃんの色香に釣られてふらふらしていたというのが現実だったわけです。(それって結局流されてるってことじゃん)そんなにしっかりとした意志があったら、いつまでもこんなことしてるわきゃありませんね。というわけで、とにかく興味のあるものは手当たり次第に手を出しまくりました。感性の赴くままに何にでもクビを突っ込んでいったということですね。まさに青春真っ只中(くっさ~)、若さという才能満開の時代でもありました。確かに当時は何をやっても自分は成功すると思えましたから怖いですよね。環境が良かったということもあります。Tomorrow USAで一緒に仕事をしていた仲間の、米国ジョージア州出身黒人ミュージシャンのジョーからは「お前のダンスならアメリカでも通用するから俺と一緒にツアーに出よう」などと言われて益々天狗の鼻はぐーんと伸びます。フィリッピン・ミュージシャン出身のリトからは、ロニーのエンターティメントはもっと他にも生かした方が良いヨと言われ、当然だろ、くらいに自信過剰は胡坐をかきます。更にムラちゃんは、ダンスショーとバンドのパッケージなら今すぐにでも仕事取れるヨ、などと言われるに至っては道楽者ドリーム満開というほかありません。まして、当時は仲違いしていたジュリーですら、委員長のオトボケ・キャラクターとダンスの腕はきちんと評価してくれていましたから、もう世界は自分を待っているみたいに思い込んでいくのも仕方の無いことだったと思います。まあ、今にして思えばガキの突っ張りというか、背伸びと言うか、高慢な野郎だったんでしょうね。それでも皆にあんまり嫌われることもなく生きていたと言うことは、結構性格が良かったのかノーテンキだったのか、まあ持って生まれた性分ってヤツだったのかもしれませんね。(とにかく遊ぶことしか考えてなかったんですけどね)そんなこんなの道楽を繰り返すうちにディスコDJもそこそこの人気者となり、バンドごっこという夢のある道楽にも目覚め、支援してくれる姉御達にも恵まれ、まさに絶好調の委員長は道楽街道まっしぐら、Enjoy Myselfの楽しい毎日を過ごしていたのでした。そんな新宿界隈でも売り出し中の委員長のもと、それなりに慕ってくるヤツらなども現れはじめ、いつしか一丁前に兄貴風など吹かせるようになっておりました。中でもトゥモローUSAの従業員、小鷹君は委員長に踊りの指導を受けるため歌舞伎町風林会館裏のアパートを借りたりなどして、まさに連日連夜休み無く道楽に精進する委員長でもありました。この小鷹君のアパートには同店の増田君や田中チーフなども溜まるようになり、時にはおいちょかぶ大会なども開催されるようになりました。(ったく何を考えているのでしょうか)しまいにはそれぞれの彼女たちも寝泊りするようになってゆき、ゴミの中にゴミが重なるようなアパートとなっていったのでした。ダーっと、布団が敷き詰められた6畳一間の木造モルタルアパートには小鷹君と彼女の他、その友達などが集い、踊りのレッスンをしたり、おいちょかぶをしたり、挙句の果てには疲れてそのまま布団の束に包まって寝てしまう、などという破廉恥極まりない生活ぶりでありました。しかし、この部屋でみんなして喰った吉野家の牛丼は本当に旨かったですね。仕事終わって疲れてんのに、皆何故か朝方までギンギンになって遊んでましたから、夜が明ける頃は当然腹が減ってくるわけで、昔はコンビニみたいな便利なもんはありませんから、そうなるとじゃんけんで誰かが牛丼を買いに行くことになります。でも、一人で行くんじゃ寂しいだろうからって、先に男同士でじゃんけんして負けた野郎の彼女は必ずついて行く、ってなルールができました。で、委員長が負けた場合、当然そこには彼女は連れてきてませんから、踊りを習いに来てる小鷹君の彼女の友達とかがついて来ることになります。冬の寒い歌舞伎町の裏通りを二人で牛丼の買出しになんか行っちゃったりすると、そこには妙な友情みたいなものが芽生えてしまったりして、更に皆で狭いコタツに足突っ込んで同じ牛丼を喰ったりなんかしてると、殊更他人とは思えなくなってきたりしまして、そこはかとなく一夜のご縁ができてしまったりするわけですね。(それは友情じゃねーだろ)ちなみにこの時の小鷹君の彼女はとっても個性的でした。踊りもそこそこ上手くて、どちらかというと小鷹君の方が彼女に夢中になっていたみたいだったのですが、なんと彼女、寝る前に化粧するんですね。なんでも、夢の中でも美しい自分でいたいからだそうで、要は夢の中でも素晴らしい出会いに備えておこうってことらしかったんですが、じゃあ一体化粧はいつ落とすんだろうって、不思議な女の子でした。委員長はそういう個性的な子が大好きだったので、このアパートに集うゴミ仲間は皆個性的でとても面白かったですね。このアパートの主小鷹君は当時、トゥゲザー~トゥモローUSAのマスコットだった身長3メートルの巨大ゴリラの着ぐるみによく入らされていましたが、気ぐるみ脱いで出てきた彼の顔がこの着ぐるみと同じ顔をしていて(ちょっと失礼ですね)、結構身内ウケしてたりして、彼もそれなりに結構な人気者でもありました。また、ある日などは小鷹君と増田君と委員長の三人だけが部屋にいて、たまたま朝のテレビで再放送していた「俺たちの朝」という確か神奈川県鎌倉を舞台にした青春ドラマを見ていたことがあったんですが、その時増田君が目を潤ませながら言ったのです。「ほのぼのしてていいなぁ~、こういうの。田舎思い出すなあ」そう言って、増田君は三人で甲府に行こうと言い出したのです。(ドラマの設定も三人の若者のお話ですね)甲府は増田君の郷里で、とてものんびりとしたよいところなので、是非この三人で行きたいと言い出したのでした。自分の話に酔い始めてしまった増田君が突然歌いだしました。「はっちぃじ~ちょうどの~、あずさ2号で~、私は、私は、私は~」(こらこら、なんやんねんそのオチは)ということで、新宿駅8時発のあずさ2号松本行きに乗って行くこの甲府の旅は、とうとう実現されることなく月日は流れてしまいましたが、委員長は新宿駅のホームであずさ号を見るたびに、あの頃のほのぼのとした増田君、小鷹君の顔を思い出さずにはいられませんでした。ディスコだ、祭りだ、花だ提灯だと馬鹿騒ぎしていたあの頃のことですが、ゴミはゴミなりにこんな素朴な想い出もあったのです。さて、そんな当時絶好調の委員長の前に現れた本命彼女のC子が、またまたこの道楽人生の展開に新たな刺激を加えました。音楽学校一年目を終了した3月、C子は共に上京した友達と杉並区高円寺にアパートを借りて住み始めたのでした。国鉄(JR)中央線高円寺駅南口亀屋マンション5階の2DKに、C子と委員長、C子のルームメイトKと彼氏のS、4人の奇妙な生活が始まったのです。ちなみにこのC子の友達Kの彼氏SはトゥモローUSAで働いていたアー坊の兄貴でした。これも本当に偶然の話です。そしてこの亀屋マンションが、更に新しい数々の道楽者ストーリーを生み出していくことになるのです。(今でもこのマンションは電車から見えますヨ。当時このビルの屋上にはLAXの看板が出てました)新大久保のアジト~東中野の別宅~小鷹君のアパート、加えて高円寺の溜まり場、次々と遊び場を確保した道楽者は、この年一気に道楽の頂点を極め、道楽者の王道を行くことになるのでした。
2005年09月14日
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さて、委員長とムラちゃんのバンドごっこの夢は大きく膨らんで、いよいよアッちゃんのオリジナル・ソング「紫の煙」のデモテープ録りへと進んだのでした。メンバーは寄せ集めで、お馴染み「腕は確か顔は肉まん」ドラムの石○君、ベースはムラちゃん(やっぱ自分でやりたいもんね)、そして強力な助っ人として、ムラちゃんが参加したセミナーで知り合ったという渋谷のヤマハ・エレクトーン・スクールの先生E氏、オマケにパーカッションのロニーというメンバーでデモ録音が行われました。場所はまたまた三鷹の某音楽スタジオ。当時はスタジオと言ったってまともな録音設備なんぞはありませんでしたから、4トラックが精一杯で、リズム(ドラム+ベース+ギター)と(キーボード+ギター)の2トラックを一発で録って、ソロパート1トラックとヴォーカルの1トラックというような非常に稚拙な録音方法でした。でもって、助っ人のE氏は中々多彩な人で、アレンジはもとより、エレピ(エレクトリック・ピアノ)、ギター、パーカッションなどをこなしてくれて、ほとんどマルチミュージシャンのような大活躍でした。ただパーソナリティはどうみてもコミックバンドのおっちゃんって感じでした。(笑)テクと感性は良かったんですけどね。勿論本人も委員長たちに加わる気はなく、あくまでも助っ人でした。(黒ぶちメガネにYシャツ、ブレザーって、モロ先生タイプでした)ということで3時間のスケジュールで2曲のデモ録りを無理矢理敢行しました。売り込みデモは「紫の煙」(ディスコアレンジ)で、もう一曲「この街の夜景」(ボサノバ風スローバラード)をウン万円掛けて制作したのでした。勿論ワリカンですよ。3人で。早速出来上がったデモテープはトゥモローUSAの深夜パートでご紹介しちゃいましたが、誰も踊らんわね、そんな聴いたこともない曲。しかもだみ声の日本語バージョン。まあ、自己満足に近いノリだったわけですが、本人たちはもうすっかり出来上がっちゃってますから、下手にディスコで流してアイディアを盗まれたらいかんとか、業界の奴らに情報が漏れたらまずいとか、バンドごっこも究極の遊びへと転じて行ったのでした。結論。はい、ご想像の通りです。委員長のツテでレコード会社数社に持ち込みましたが反応なし。良いも悪いもなし。(相手にもされなかったってことですね)「おつかれさまでした」ムラちゃんは音楽的な問題点を色々とあげつらって反省などもしておりましたが、委員長は元々ミュージシャンじゃないし、根がいい加減極まりない性格でしたから、「こんな地味なやり方じゃなくて、もっとドカンと派手なことしようよ」みたいに全く落ち込みませんでした。(自分の出番が少なかったからつまらなかったってだけなんですけどね)ということで、もう一度やってみようよってことになり、今度はトゥモローUSAの同僚リト君も巻き込んでしまいました。リトはなんといっても元プロですし、フィリッピン人のフィーリングでアッちゃんの曲がどれくらい変わるか試してみようということになりました。更にムラちゃんは、当時出始めたばかりのシンセサイザーなどを月賦で買い込んできて、音的にも新しいことをしようと意欲的でした。(おもちゃが増えただけ?)スタジオもグレードアップして、吉祥寺に出来たばかりのヤマハ音楽教室のスタジオを使うことにしました。メンバーも今回はシゲルのベースに石○君の知り合いの若手ギタリストを呼び込んで、バンド結成にもかなり本気になっていきました。中でも一番悪乗りしたのがアッちゃんで、8ミリカメラを友人のカメラマンごと借りてきて、練習風景を撮影させたのでした。こりゃ画期的でしたね。今で言うプロモーションビデオの先駆けですよ。当時、アマでここまでやるヤツはいませんでしたからね。でもって、演奏も前回に比べて見違えるほどプロっぽい仕上がりになりましたし、8ミリ映像がまた素晴らしかった。そりゃ、フィリッピン人だの派手な委員長だのが踊ったりする練習風景は、当時のアマチュアバンドの世界ではかなりな話題性を持っています。(当時の8ミリは音声まで録れませんから、画像だけ見てる分には演奏技術はわかりませんね)この日を境に委員長も益々道楽に磨きがかかって、早速クレジットの丸井で当時新発売のコルグ社製プリセット・シンセサイザー8万7千円を購入。(当時の8万円ですからね、ちょっと根性いりましたね。いきなりのお買い物としては)更に、新発売のロート・タム(ドラムのパーツとして使用するタムの一種で、タムを回すと音の高低が調節できる優れモノ)を購入。ステージングなども考えて、パーカッションとシンセを担当するつもりで本気になりました。もちろん予算補填はおねーちゃんたちでした。御支援ありがとうございました。しかしこの当時委員長は楽器貧乏というくらい、稼いだ金は手当たり次第に楽器に注ぎ込んでいましたから生活のメンドーはというと、二人の姐御がよく支えてくれました。ホント今にして思えばお二人には御礼の言葉もございません。ございませんので言いません。って、冗談じゃなく、この場をお借りして改めて懺悔、コホン、いや失礼、御礼申し上げます。その節はありがとうございました。ちなみに委員長の楽器貧乏した中でも、特に思い出深い楽器が二つほどあります。そのひとつがカリンバです。これは委員長が尊敬していたアースウィンド&ファイヤーのリーダー、モーリス・ホワイト氏が愛用したアフリカの民族楽器です。約20cm四方の台形の木製箱の上に、金属の小さな棒板が鍵盤のように付いているだけの非常にシンプルな楽器でしたが、その音色は心の中に響くものがありました。結局使いこなせず、ハッタリと言うかアクセサリーというか、宝の持ち腐れでしたが、なんとアフリカから輸入したこの民族楽器は当時の価格で8千円もしたのです。しかも一番安いタイプで、知らない人が見たら、「おまえアホちゃうか?」みたいなシロモノでしたが、委員長にしてみればこれを持っているだけでモーリス・ホワイトに近づけると信じていた宝のような楽器でした。そしてもうひとつが木魚でした。この楽器は、78年当時歌舞伎町のコマ劇場の近くにオープンした楽器屋さんにディスプレーしてあったものでした。このお店は近隣のお店でお仕事をしているバンドマンのために夜の10時頃まで営業しており、委員長は休憩時間になるとよくここへ遊びに行っておりました。そんなある日ショーウィンドウの向こうから「私を買って」と委員長にメッセージを送ってきた楽器があったのです。そうです。それがこの木魚だったのです。カウベルのスタンドに取り付けられた大中小3つの木魚と委員長の運命の出会いでした。しかも叩く道具はドラムスティックではなく、棒の先に布が巻かれた特性のバチでした。ポク、ポク、ポク・・・心に響くこの音色の虜になった委員長は、ボンビー生活をも省みず定価1万8千円の道具を購入したのでした。さすがに面倒見の良い姐御からも、「なにこれ~、出家して坊さんにでもなるのぉ」と戒めのお言葉を頂戴いたしました。後日談として、とあるコンサートのさなか、この木魚ちゃんは真っ二つに割れて、委員長の道楽の行く末を暗示したかのようなお別れとなったのでした。
2005年09月13日
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桑名正博さんのヒットソング「哀愁トゥナイト」に触発された委員長とムラちゃんの生活苦脱出計画第一弾は、まず楽曲の選択から始まりました。なんにせよ、売り出す大本になる「曲」がなければ何も始まりません。とは言うものの、今からムラちゃんと委員長の二人で作詞作曲などをしていたのでは、出来上がる頃にはブームが終わっているどころか、二人とも爺になっているのがせきのやまです。(ってことは~?いやな予感がするなぁ~)そうです、この問題を解決する人はあの人しかおりません。所有オリジナル250曲。(出た~!)武蔵境の新聞少年、別名岩窟王アッちゃんです。実はアッちゃんも、ロニーのバンドみずぼうず(笑)と競演して以来、すっかりその道楽者熱にうなされており、この人たちならオレの才能を理解してくれると信じて疑わない日々を送っていたのでした。早速ムラちゃんと委員長の二人は彼の住む武蔵境の座敷牢に出張っていくことにしました。「いや~、ムラさんにロニーさんまで来てくれて感激です。またひと暴れしましょうよ」(暴れてるのはあんたの頭ん中だろ)ここまで慕われて悪い気はしませんが、どうも彼の感性にはイマイチついていけないものもあります。さて、二人の悪巧みを簡潔に説明したムラちゃんは、アッちゃんの使えそうなオリジナル曲の選定に入ります。アッちゃんも調子くれてギターで歌いだすワ、古テープを引っ張り出すワの大騒ぎです。もうどこかのスカウトにでも拾われたかのような錯覚を起こすアッちゃんでしたが、結局、例の学祭で演奏した「紫の煙」(ってパープルヘイズやんけ)って曲をいじくってみることにしました。ブルースっぽいスリーコードですが、リズムを重くすればちょっとディスコっぽくなるし、雰囲気的にもロック的ニューミュージックみたいなアレンジはいけそうでした。歌詞はもうメチャクチャで、「紫の煙の中でオレはもう、明日の安らぎを求めてるぅ~」なんて意味不明わけわらんって感じですから、こりゃチト手直しが必要、みたいなことで詩はあとからどうにでもなるからまず音を先に固めちゃおう、ってなことになりました。早速、アッちゃんにその場で歌わせて、骨董品のようなテープデッキで一発録り(ってそんな大そうなもんじゃありませんね)、ムラちゃんが持ち帰ってアレンジを考えるってことでその日のミーティングは終了しました。帰りの道すがら悪巧み二人組は、さらに悪巧みの相談を重ねます。「ところでアッちゃんのルックスについてなんだけどさ、あれじゃまずいんじゃないやっぱ」「う~ん、ロニー、手直しできない?」「まあ、上から下まで全取っ替えってことなら何とかなるかもしんないケド」「いざとなったら、楽曲とバンドだけでヴォーカルはトラ引っ張ってくる手もあるよな」「そのバンドもメンバーが揃うかなぁ」「う~ん、いざとなったら全部差換えってのもアリじゃない」「差換えって?」「うん、全然別のバンドでデビューするってこと」「えっ、じゃオレらはどーなんの?」「だから、それはそれできっかけさえつかんじゃえば何とかなると思うんだよね」「で、具体的にはどーゆー売り方するわけ?」「う~ん、それがまだイマイチ煮詰まらないんだよねぇ」何のこっちゃない、結局はムラちゃんにもたいした考えがあってやってるわけでもなかったんですね。そんなムラちゃんに委員長は失望するどころか逆に気が楽になりました。「ってことは、オレたち得意の出たトコ勝負ってこと?」元来きちんとしたルールとか、枠とかが大嫌いで道楽者になった委員長ですから、このいい加減さが大好きで、先の見えない楽しさと言うか、予測できない状況でどう遊ぶかってことの方に興味があり、かつ刺激があったわけです。まあ、そんなにきちんとした販売戦略を持ってる策士だったら、なにもこんなディスコ業界でウダウダしているはずがないんですから、要は夢を見てそのプロセスを楽しんでいるに過ぎないってことでした。ということで、新大久保のアジトで二人は大まかなプロットを練りました。まず第一に、デモテープを作る。当たり前ですね、売り込む「商品」がなければ商売になりません。次に、このデモをどこに持ち込むか考える。まあ、これはレコード会社のディスコ系洋楽宣伝担当者を通じて邦楽の企画モノかプロデューサーを紹介してもらう、ってことが今の二人の最善策ですね。控えとして、ジュリーの人脈を利用する。この時の二人はジュリーと結構仲違いしてましたから、あまり頼りたくなかった、というよりは見返してやりたいという気持ちの方が強かったので、これは最後の手段と言うことで残しておくことにしました。(見返してやりたいと思う割には、考えが結構セコイよね)さて、次はデモが認められた後のことです。ここらあたりからが非常に難しい問題になったわけです。(昔からのことわざどおりですねぇ、取らぬ狸の皮算用)いうなれば一番楽しい会話のひと時ですね。シヤワセな二人は夢物語を夜を徹して語り明かしたのでした。お日様が昇ってきて二人の血走った目もそろそろまどろむ頃、アジトの主のご帰宅です。6畳一間のワンルームで胡散臭い男二人が朝までナニを語り明かしていたのだろう、とやや不審に思うY子でしたが、そんな夢見る道楽者が好きでこんな生活を始めた訳ですから、本人も少しは話しに混ぜてもらいたいってな気持ちもあるわけです。「ところでさぁ、おまえ、なんか楽器出来ないの?ピアノとかさぁ」「エレクトーンなら少しはできるけど、なんで?」「いや、バンドのメンバー探しててさ、なんか出来れば手伝ってもらおうかなと思ってさ」「楽譜見て弾くくらいならできるけど」「楽譜ねえ・・・・・」委員長の頭の中でアッちゃんのだみ声が響きます。(むぅ~らっさきの煙のなかで~・・・うーん、楽譜かぁ・・・)三人の沈黙を破ってムラちゃんが玄関に出ます。「じゃ、ロニー、オレ帰るから」もうすでに一般社会の働く一日は始まっておりました。ムラちゃんを送り出した委員長にY子がボソッと一言。「ムラちゃんてさ、ちょっと暗いよね。年もチョイ老けて見えるし」う~ん、確かに。でも、真面目な道楽者だからなぁ~。(なんじゃそりゃ)「腹減ったから焼肉でも食いに行かない?」「こんな時間に焼肉屋が空いてるわけないでしょ。何時だと思ってんのよ」ということで、撮影会でお疲れのY子は夢見る道楽者と午前9時消灯!おやすみなさい。一体道楽者はどんな夢を見たのでしょうか。(どのみちろくなもんじゃないよね)
2005年09月12日
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道楽愛好家の皆様、昔話107に書きました内容に一部間違いがございましたので、勝手ながら編集させて頂きました。1978年桑名正博さんの当時の新曲は「薔薇と海賊」でした。確か、哀愁トゥナイトのディスコ・ヒットに味を占めたRCAが、それならばということでモロにディスコヒットを狙った企画でした。そのためのプロモだったんですね。ただ、この曲、ほとんどウケなかったし、かけませんでした。ディスコも知らずに、おっさんたちがサウンドだけ真似しても駄目って典型的なパターンでした。ちなみに浅野ゆう子さんのセクシー・バスストップもRCAだったと思います。そんな下地があってやってみたってことじゃないでしょうか。でもって、桑名さんの方は、次のシングル「サードレディー」、「セクシャルバイオレットNo.1」と続けて新宿のディスコではヒットしました。流行るものはほっといても流行るんですよね。ということで、誠実なブログだなぁ~(自分で言うなよ)それにしても78年は色々なことがドッカン、ドッカン起きた年なもんで、うまく順を追って書けないかもしれませんが、一生懸命思い出して書き続けますので、細部の間違いはお許し下さい。また、当時の記憶をお持ちの道楽者の皆様には、是非ともBBSにキーワードなどを書き込んで頂くと委員長は嬉しゅうございます。今夜は徹夜で明日のお話、昔話その108を書きます(^o^)記憶の断片を繋ぎ合わせる作業はまさにパズルのようです。
2005年09月11日
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さてRCAレコードのヤラセ作戦の行動隊長に任命された委員長は、早速サクラとなるべく踊りの踊れる若衆を集め、MASAHIROのロゴ入りTシャツを配りダンスフロアーで待機しておりました。やらせシナリオは、東京で一番でかいディスコ(トゥモローUSAですね)にぶらっと立ち寄った桑名正博さんが、自分の曲で踊るファンに取り囲まれて新曲の発表をするという、今考えると赤面しそうなアホらしいストーリーでした。たいした仕掛けではないので打ち合わせはいらないだろうって、ぶっつけ本番いきなり始まりました。委員長もジュリーも、事前の挨拶もないのかよ~、ってな感じでちょっとブー垂れておりましたが、いきなり本人が登場すると、なんとヤラセじゃなくて親衛隊みたいなファンのおねーちゃんたちが数十人ドカドカと乗り込んできて、抱きつくはキスするはの大混乱。おいおい、これじゃヤラセの俺達の立場はどーなるんじゃい、って言う間もなく、「哀愁トゥナイト」が流れ出し、本人も混ざって皆で踊り出しました。バシャ、バシャとフラッシュが焚かれ、テレビクルーのカメラも回ります。こらこら、ぶらっと立ち寄ったんじゃないんかい?ちょいと疑問でしたが、もうノリは絶好調、委員長の若衆も張り切って踊ります。更に親衛隊のおねーちゃんたち、「哀愁トゥナイト!哀愁トゥナイト!」の合唱です。(言っときますが、田原俊彦さんの哀愁デイトじゃありませんよ。お間違いなく)後半のビートのノリは中々バカに出来ません。これはディスコでも確かに踊れるなぁ~、委員長の実感でした。さて一息ついてフロアの音が止まり、我らがチーフDJジュリーがマイクを持っての登場です。「こんにちは、チーフDJの鈴木昇二です」なんじゃい、こういうことだったんかい。ということで他愛もないやり取りがあって、新曲「薔薇と海賊」とスローバラードの「月のあかり」が紹介されて終了。「おつかれさまでした。」桑名さんから声をかけてもらった委員長は、彼のその素朴な感じに好印象を持ちました。っていっても業界じゃ一応大先輩ですよね。その日は何度も「哀愁トゥナイト」と「薔薇と海賊」を回しましたが、この時初めて聴いた彼の声は結構心にズシンと効きました。今までなんで知らなかったんだろうって思いと、聞き込むほどに引き込まれてしまう桑名さんの声にすっかりはまってしまった委員長は、その日からしっかりとファンの一人になってしまったのでした。(しっかし、ホントかぶれ易い性格やのぉ~、ジョー山中はどないなったんやい)ムラちゃんいわく、ロックファンなら大概知っているよ、とのことで、桑名さんはかなりの有名人であったことを遅まきながら知った委員長でした。それにしてもこの「哀愁トゥナイト」の後半のベースギターのノリは凄かったですねぇ。マジでノッてしまいました。当然と言えば当然で、よくよく調べたらあの後藤次利さんだったのですね。関西のディスコでは当たり前のように流れてて、みんなで踊ってるって話を聞いたときはどうもウソくさいなって思っていた委員長でしたが、実際に聞いて踊ってみてよく分かりました。歌謡曲とは言えバカにはできないなぁとつくづく思いましたね。そして、ムラちゃんもこの妙なノリと言うか、雰囲気というか、何かを感じていたようでした。そうかあ、こういう手もあるんだってなもんです。バンドが売り出すにあたって、どこのマーケットにターゲットを絞るかと言うことを考えれば、これだけ業界の内情を知っていて、かつヤラセもふんだんにこなせるこのディスコを使わない手はないんじゃないか?ってことでムラちゃんと委員長二人の意見が一致しました。それまではディスコ=ディスコ・サウンドという図式しか描けなかった、自分達の単純さというか愚かしさにようやく気がついたということです。しかも歌謡曲でここまで踊れるんだったら、これは使わない手はないだろう、という結論に達したのでした。いくらディスコだからって、マジでディスコサウンドなんぞできるわきゃないし、最終的にはお茶の間のアイドルまで登りつめなきゃ大金も掴めません。そう考えると、ディスコはひとつの話題つくりというか突破口であって、ここで勝負したんじゃ何の面白みもないだろうってことに話は進んでいきました。そうなってくると、こりゃ踊れそうな歌謡曲を徹底的に分析しようじゃないか、ということでムラちゃんと委員長の二人は片っ端から歌謡ポップスを聞きまくりました。まあ、皆考えることは似たようなもので、委員長とムラちゃんが目を付けた業界ですが、すでに同時期、トミーザビッチの「抱いて火をつけて~Give it to me one more time」を代表とする和製ディスコ~タレントの企画が、業界の裏側では着々と進められていたのでした。後年知ることとなりますが、委員長のライバルだったジョニーのBIBも、キングレコードでインディアン・リバーのカバー・ディスコ・バージョンの企画が進んでいたのです。ただ、ひとつだけ違っていたのは、レコード会社各社が狙っていたのはディスコヒットで、委員長たちが狙っていたのは「お茶の間の人気者」といったところでした。委員長たちはディスコでのヒットというよりは、ディスコからブームが始まったという流れを狙っていたのでした。いわゆるオカマダンスのようなノリですね。元々はディスコのものじゃないけど、何故かディスコから火が付いた、みたいなヤラセのストーリーを考えていたわけです。このお手本になったのが桑名正博さんの「哀愁トゥナイト」でした。この曲ははっきり言ってディスコサウンドじゃありません。でも、たまたま大阪のディスコで踊るようになって、関東圏にも飛び火したという、この構図がポイントでした。まさしく委員長とムラちゃんの方向性を導いてくれた一曲と言えました。方向性が決まった二人は、いよいよ生活苦脱出計画を練り始めていくことになったのです。
2005年09月11日
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委員長の道楽人生にとって激動の1年とも呼べる1978年は俗に言う「22歳の別れ」、普通ならば大学を卒業し社会に出て行く年齢です。「少しは大人にならなきゃなぁ」などと殊勝なことを言ったりしていた委員長ですが、言ってることとやってることはまったく違っておりました。あの元旦の運命的な出会いをしたC子とは、中々最後の一線が越えられず多少苛立ちを覚えつつも、理性の無い下半身の赴くままにあちらこちらのお姉様方とテキトーぬかしては遊び歩いていた委員長でもありました。当時C子は19歳、音大のピアノ科に通う現役バリバリの女子大生、静岡県清水市出身の彼女は結構男っぽい性格でもありました。下宿学生の彼女と、夜のオツトメの委員長では中々デートする時間も折り合わず、結局はトゥモローUSAで会う程度が精一杯でした。とは言うものの、その頃の委員長は結構プロっぽいお姉様方ともお付き合いをしており、いよいよ道楽人生にも腰が入ってきた時期でもありました。家政大文化祭でのバンドデビュー以来、ムラちゃんとのバンドごっこもかなり本気になり始め、武蔵境の新聞少年、別名岩窟王アッちゃんも委員長たちの道楽熱に感染してしまいシコシコとメージャー・デビューを狙う日々が続いておりました。そんな中、ムラちゃんの「アジトが欲しいな」という一言にすっかりその気になってしまった委員長は、風呂屋の娘Y子をそそのかして歌舞伎町の真裏、新大久保にアパートを借りさせてそこを作戦本部にしたのでした。Y子はアダルト雑誌のモデルをやっておりまして、結構なお金を稼いでおりましたから、委員長のバンドごっこに同じ夢を見てくれたりしました。非常に勝気で聡明な娘ではありましたが、未成年の女子大生現役時代に、妻子ある男性との不倫関係で裁判沙汰まで起こしたという、中々のツワモノでもありました。委員長とお付き合いするようになった経緯も色々と込み入った事情がありましたが、とにかくプライドの高さは天下一品、加えて開き直りも大胆な面白い娘でした。当時はまだAV関係は今ほどオープンではありませんでしたから、この業界に飛び込む度胸は中々たいしたものでした。彼女のお仕事は「撮影」ですから家を空けることが多かったので、委員長にとってみれば好都合極まりなく、結構デタラメなことを平気でしておりました。ちなみに、彼女と同時代にすでに名前がちらほら売れ始めていた青山京子という名のモデルさんが、後年愛染恭子として大ブレイクしたときには驚きました。当時、別冊プレイボーイとかのグラビアにY子と一緒に載っていた彼女を見て、鼻の下を伸ばしていた委員長が「可愛いなこの子」などというのを耳にした彼女は、お仕事でご一緒した青山さんと委員長をお電話でお話しさせてくれたりして、結構な変わり者でもありました。まさかこの十年後、この青山京子さんこと愛染恭子さんとサイパンで再会するとは夢にも思いませんでいた。(当時の愛染さんの事務所がサイパンにスタジオを持っていた関係で、こちらでお仕事をされておりました)しかし、下ネタになりますが、アダルト雑誌に自分の彼女が載っているってのも何だか妙な気分でしたね。雑誌で大胆な姿を見せている女が、今自分の目の前に同じ状態の「生」でいるっつーのは、ちょっと複雑な気分でした。この雑誌見て興奮しているヤツがいるってことと、今自分がここにその「生」といるってことが交錯して不思議な気がしましたね。更に、もう一人お風呂屋さんで働いている娘とも付き合っていたのですが、これも何だか非常に複雑な気分でしたね。お風呂屋さんに行って彼女と遊ぶとお金がいるのに、自分は彼女とタダで遊んでいて、しかも二人がいるこの部屋の家賃は彼女と遊んだ男から貰った金で払っているってことは・・・・ってこれも不思議な気分でした。「カゴに乗る人担ぐ人、そのまた草鞋を作る人」って名文句がありますが、委員長の場合はさしずめ、「春を売る人ひさぐ人、そのまたヒモで食べる人は男の人とは限りません」ってことですか。(なんかよくわかりませんが、言いたいことわかってもらえますか)ということで、新大久保の作戦本部には夜な夜なバカな道楽者が出入りするようになっていったのでした。まあ、とにかく78年は幕開けから波乱含みだったことは前述しましたが、委員長の「若さ」もまさに絶頂期に向かって突き進んでいたと言えます。この頃ムラちゃんは、音楽プロデューサー養成講座なるものに参加して、いよいよ業界への斬りこみを画策しておりました。委員長はバンドのメンバーをグレードアップすべく、シゲルとメンバー探しに明け暮れておりました。っていうほど真剣に探してたわけじゃなく、そういう名目で夜な夜な遊び回っていただけのことでした。しかもすべておねーちゃんのおこづかいでやりたい放題し放題でした。(だから後年罰当たりな人生に成り下がったわけです)そんな頃、犬猿の仲となっていたジュリーから久々の仕事依頼がありました。以前サルサでご一緒したRCAレコードのA氏からのお願いということで、再びプロモのお手伝いをすることになりました。仕事はお馴染みのヤラセで、関西では超人気の桑名正博氏が東京のディスコ、トゥモローUSAにふらりと立ち寄ったら、自分の曲が踊られていて大喜び、といった非常に白々しい内容の企画でした。RCAのA氏いわく、大阪のディスコではガンガンかかってて皆踊ってるとのことでしたが、東京では未だ知名度も薄く、その大ヒット曲「哀愁トゥナイト」ですら馴染みがありませんでした。更に今回は新曲「薔薇と海賊」の発表を兼ねて、ディスコヒットを狙った東京進出作戦ということでもありました。「男ながらSEXYで色っぽいし、だからといって女々しくない男っぽさのあるヤツ」というA氏の言葉に半信半疑の委員長でしたが、どうせ歌謡曲なんかディスコで流行るわきゃないだろと、たかを括っておりました。まあ、雑誌やテレビの取材も入るってことなら店の宣伝にも貢献するし、一丁やったるか、みたいな感じで引き受けました。まさかこのお仕事が委員長とムラちゃんのバンドごっこに相当な影響を与えることになるとは、夢にも思っていませんでした。
2005年09月10日
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前回、前々回と1978年当時のディスコをリストアップしてみましたけど、この頃はどの店もまだまだパターンが同じでしたね。六本木もこの数年後にはがらっと様変わりしてしまいますが、1978年頃は第一次ディスコ(ソウル)ブームの頃に比べると、米兵が少なくなったってのもあるし、円が強くなったってこともあってか、昔ほど米兵も気軽に遊ばなくなったというか、遊べなくなったといったところでしょうか。そういった意味では、「六本木」というブランドが大衆化していった時代かもしれません。それでも赤坂、六本木に比べると、新宿はかなりガキ扱いされていたような気がします。確かに新宿は子供が多かったんですけど、文化的に言えば新宿の方がはるかに面白かったと思いますね。六本木が昔からの輸入文化を踏襲する中で、新宿ではオカマとかテクノとかタケノコとか歌謡ディスコとか、独自の文化をどんどん生み出したしていったのではなかったでしょうか。パフォーマンスなる表現が出てきたのもこの頃でした。後に一世風靡セピアとか、ストリート・パフォーマンスなるものが出てきますけど、少なからず当時の踊り好きなヤツはみんな道の上で踊りたがっていたんじゃないかな。委員長の時代もBAD CHILDRENは新宿の歩行者天国で踊ったりしましたからね。自己主張というよりは単なる自己顕示欲を満足させるためのものでした。だから、タケノコが原宿で踊り始めたときは妙に親近感が湧いたと言うか、考えることは皆同じだなと思いました。更に一世風靡セピアが登場したとき「遅えよ、お前ら」ってな感じもしましたね。でも見る側(観客)の方の環境が整っていったのは、やはりタケノコ族のおかげでしょうね。委員長の時代は誰もそんなのマジで相手にしてくれませんでしたからね。うるさいからあっち行けみたいな感じで、面白がって見てくれるほど周りの人間も練れていませんでいたからね。そういう意味では、委員長は個人的に一世風靡よりは元祖タケノコ族を評価したいですね。彼らがこの文化を作ったのは間違いないことですから、そこの部分だけはきちんと認めてあげるべきでしょうね。元祖ストリート・パフォーマンスってやつでしょうか。彼らの発想は踊る場所を求めて原宿に辿り着いたってことですから、「見世物化」していったのは後年のことですね。きっかけは自分たちの場所を作ったってことで、やはり「道の上で踊った」先駆けだと思います。後年に続くロックンローラーとかセピアなどは、潜在的に売名行為というか「見世物」としてのパフォーマンスを意識したものでありましたから、根本的にモチベーションは違っていたと思います。それでも、タケノコも続けていくうちに結局は見世物の流れに取り込まれていってしまったんですけどね。一番最初に踊り出したヤツがやっぱりホンモノの道楽者だったのではないでしょうか。ちなみに委員長も、店に出入りしていた中高生をよく可愛がったりましたが、彼らの感性には結構刺激を受けましたね。(可愛がったと言っても怪しい関係ではありませんヨ)特に面白かったのは、今までのディスコの流れというか、踊りの形態が淘汰されていくのがはっきりとわかったことでした。トゥモローUSAにちょこちょこ紛れ込んでいた女子高生二人組がいたんですけど、まずファッションが面白かったですね。当時はオカマ系っていうのが随分と枝分かれしてきていて、中近東風のコスプレ型、エスニック無機質系テクノ型、もんぺ風麦踏ダンス型などがありました。で、彼女たちは無難なもんぺ風麦踏ダンス・ファッションだったんですけど、踊りが実に個性的というか先輩方の流れをきちんと引き継いでいるんですね。しかも色々と混ざり合った情報として受け継がれていました。まず、両手を振り上げてウォークしていく踊りはたぶんステップとオカマが混ざった型で、途中両手をパシッと打ってジャンプして止まってポーズ、これはいわゆるファンキーフルーツですか?更にスキップして横に移動、かけ声がかかる、これはタケノコ系でしょうか。要は、彼女たちの目に映ったディスコの先輩の踊りがそこで体現されているんですね。ファンキーフルーツとかロボットなども、彼女たちの目を通して見るとこのように映っているのかぁ、と妙に納得したりしました。見るからに子供子供した顔立ちで可愛かったので、よくゴハンを食べさせてあげたりしましたが、案の定慣れてくると群れをなしてやってきて軍団化してしまい、結局はタケノコになっていってしまったんですけどね。この頃の委員長はバンドデビューとか狙っていましたから、今時の中高生の趣向と言うか好みが知りたくて可愛がっていたこともありますが、高々5~6年とはいえこの感性の違いには正直言って驚きました。もう少し年上の子たちになると、まだSOUL時代のディスコを自身が体験していますから、きちんと選択がなされているわけです。私たちはファンキーな踊りは出来ないから、オカマで良いんだとか、僕らは正統なSOULダンス派ですとか、これからはテクノポップですよ、のようにそれぞれがきちんと趣向を分けて掌握しているんですね。更にその上の委員長の時代の人間になると、時流についていけなくなっているのも何人かいて、昔のステップとかに固執するやつなんかも出てきたりして、たった数年のディスコ文化でこれだけ感性が違っているというのも別の意味で驚きでした。委員長の時代はやはり頂点には黒人がいて、その流れを踏襲することで自分をアピールしていたわけですが、数年後のダンスフリークには、もうSOULとかFUNKとかDISCOが一本化されていて、ジャンルにこだわる自分の方が逆に恥ずかしくなっていった感すらありました。どこでどうジャンル別けされるのかというとこれも甚だ疑問ですが、この78年にブームの火付け役となったサタデーナイトフィーバー以降は、黒人っぽい音楽はFUNKとかヘビーファンクとか呼ばれるようになっていって、その他をひっくるめてディスコサウンドと表現したように思います。殊更黒人にコダワッタ委員長は、この時点で趣味と仕事の分割が行われたと言っても良いでしょう。自分が楽しんで聴いたり踊ったりする音楽は、もう仕事場ではしょっちゅうかけることはできないという戒めを行ったのでした。(笑)少なくともヨーロピアン系のサウンドは、委員長の中ではお仕事の音楽という位置付けがなされました。サタデーナイトフィーバーとよく比較される映画にT.G.I.F.がありますが、これはコモドアーズが出てるって事くらいで、委員長にとっては似たり寄ったりにしか過ぎず、SOULマンはやっぱりドナ・サマーじゃ踊れませんでしたね。かといって、78年代のディスコじゃパーリャメントやファンカデリック、JBですらかけるのに抵抗がありましたから、まさに時代の変わり目だったのかもしれませんね。ということで、この年委員長はアフロ頭を落としケジメをつけることになりました。といってもチリチリ頭のカーリー・ヘアという往生際の悪い断髪式でもありました。ああ、もう一度薄暗いダンスフロアでアフロのおねーちゃんとSEXYにダブルパンプを踊ってみたい。ディスコが健康的になったらエアロビですよね。やっぱり不良は薄暗い店内で如何わしさの漂う雰囲気が好みです。
2005年09月09日
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今日もまたまた調子コイて、1978年代のディスコめぐり赤坂~六本木篇です。赤坂ビブロス(赤坂見附駅前)白人系も多かったロックディスコですか?言うなれば元祖サーファー系じゃないでしょうか。正直言って委員長は、かなり昔に1~2度行っただけでもうお腹一杯でした。(確か2階席からタバコの灰をアフロ頭に落とされたことがあって、それ以来行ってなかったと思います)2ドリンク付 男性3000円、女性2000円赤坂ムゲン(ビブロスの同ビル隣)1ドリンク付 男性2500円、女性1500円二階建てになっていて、バンド演奏時はDJブースがクレーンで上に上がります。バンドもホンモノ黒人バンドで、コンファンクシャンがここに出ていたことは有名。ステージが丁度中間くらいに位置するような造りになっていて、一階のダンスフロアーからは見上げる感じで、二階席からだとライブ・コンサートを観賞するような感じでした。委員長はとにかくこの店が大好きでしたね。とにかくバンドが皆カッコよかった。下手な外タレのコンサートなんかよりよっぽど楽しめました。ブラザーも多くて、ちょっと異国情緒溢れるディスコって感じで、赤坂の雰囲気も好きでした。こんな店が残らなかったのは本当に残念で仕方ありませんね。赤坂ブッチー(青山通り側扇屋ビル4階)ディスコというよりはパブでした。入場料無料で水割り600円~。女の子同士が多かった。ブッチーで思い出しましたが、プロレスラーのブッチャーってのがよく赤坂で遊んでいましたっけ。酒飲んで暴れて店の備品とかぶっ壊しちゃったりするんで、非常に嫌われておりました。でもってキャッシュ(札びら)切って弁償するんですけど、結構ムチャクチャなヤツでしたね。赤坂ポテトクラブ(みすじ通り松平ビル11階)大人っぽい店でした。いかにも赤坂って感じ。(どんな感じやねん)男女ともに3500円チョイ高かったケド落ち着いた雰囲気が赤坂っぽかった?赤坂ホワイトハウス(かなり青山に近かったですね)ここも大人のお店って感じでした。ゲーノー人やスーホ(ホステスさんですね)が客連れていくような玄人ぽい店でした。いわゆるサパー系みたいな。男女共に4500円ってちょっと高くね~?赤坂ハレムこのブログにも何度も登場しましたが、一ツ木通りの赤坂見附寄りにあった黒人専門店(笑)でした。入場料は1ドリンク付で1000円だったかなぁ~。とにかく店の中に入った途端ムスクの香りがぷんぷんして、古くさいボックスシートに黒い人達がウザウザと座っていて、目ん玉だけが白くギョロギョロって感じのスリリングな店でした。赤坂マンハッタン(千代田線赤坂駅より徒歩10分)赤坂から六本木に抜ける道の一角にありました。現在のツインビルを抜けてIBMへ向かう坂の途中を右に折れた変なところにありました。入り口が斜面になっていて、隠れ家みたいな感じでしたね。隣に神社もあったし。道路隔てて、前はホテル・シャンテ赤坂(お城のような連れ込みホテル)が当時はとってもおしゃれでした。(戦後ここは外人娼婦の溜まり場だったそうな)この時代はディスコ教会勝本会長が仕切っておりました。DJはガミタ君ことタガミ君でした。深夜遊びに行くと、EMOさんが一人で昔のステップ踊ってたりして、ちょっと暗かったですね。雰囲気的に。後に知ったのですが、このマンハッタンのオーナーは細木数子さんだったらしいですね。もちろんオーナーは何度か代替わりしたと思いますが、島倉千代子さんも所有してらっしゃったこともあるとか、由緒あるお店のようです。(なんのこっちゃねん)1ドリンク付 男性1500円、女性1000円この頃、スーパーコップスはまだあったのかなぁ。記憶がはっきりしません。でも五郎さん二郎さんが新小岩に居たってことはもう潰れてたんですかねぇ。六本木のパート2も寿命が短かった気がしますから、78年には両店とも無くなっていたのかなあ。。。。。というわけで次は六本木です。インフィニティ(飯倉方面レーヌビル1階)ハイ、お馴染みニック岡井店長のお店です。入場料無料。水割り500円~(名門ですか?)エンバシー(渋谷方面渡辺ビル2階)この時期は飲み放題食べ放題で男性1500円、女性1000円でした。今にして思えばやっぱり時代の流れには逆らえなかったのかなあ。グリーングラス(エンバシーのチョイ手前ユニ六本木3階)学生ディスコとか言われてましたが、パブっぽい感じの明るい店でした。雰囲気は悪くなかったケド、面白みのない店だったかな。男女共に2200円。なんとオープンDJは、委員長の昔馴染みのマチャアキでした。サハラ(メインストリート沿い六本木プラザ5階)大衆パブって感じで新宿ぽかった記憶があります。歌謡曲とかもかかってたし。1ドリンクおつまみ付で男女共に1100円。六本木にしちゃ中途半端な感じだったなぁ。TGIF(サハラのチョイ先を入った所にありました)委員長の大先輩サミーさんのお店でした。相変わらずサミー・ディビスJr.の物真似ショータイムとかやってましたね。1ドリンク付男女共800円、週末は確か1000円だったような?ここも寿命は短かったと思います。後年すぐ近くにキサナがオープンして、話題も客も皆持ってかれたって感じです。(委員長の個人的見解ですヨ。笑)ズッケロ(エンバシーのひとつ先オリエンタルビル地下1階)昔から大人の店でした。ディスコと言うよりはパブ系です。その昔、年上の彼女とよく行ってましたが、この時代はほとんど行かなかったですね。男女共に入場料1000円。ボトル・メンバー制だったと思う。スタジオONE(スクエアビル6階)はいはい、お馴染みですね。スクエアの代表選手みたいな店でした。内装は特別な感じはしませんでした。長方形のスケートリンクみたいな感じだったなぁ。2ドリンク付男女共1500円で朝の4時までがうたい文句でした。ネペンタ(スクエアビル8階)はいはい、こちらもお馴染み、というかやっぱりスクエアの顔でした。アフリカ像が好き!って妙な感じの店でした。飲み放題食べ放題で男性3000円、女性2500円。インテリア以外はあまり記憶に無いのはなぜでしょう?バイカウント(スクエアビル3階)変なショータイムがありました。でもはっきり言って1度しか行ったことありません。1ドリンク付男女共2000円。確か、一時フィリッピン人のレビンがDJやってたような気がするんですが、定かじゃありませんね。アメリカ人のベガスショーみたいなの演ってたんじゃなかったかなぁ。中に美人のオカマがいて、レビンに騙されて声かけた覚えがありますね。もちろん満足に英語喋れませんから、テーブルでお話しただけですよ。レビンがネタばらすまで女だと信じてましたからねぇ。ちょっと小柄で金髪、胸が大きくて結構やばかったですね。(笑)パウワウ(スクエアビル10階)はっきり言って行ったことありません。すんません。男女共2500円。フーフー(スクエアビル9階)店内は装飾されたレストランとネオンのフロアーに分かれていました。飲み放題食べ放題で男女共4000円。高かったケド料理は一流でした。ちょっと高級な感じで、ボビーマギー(ロアビル13階)新宿プレイハウスのアダルト版みたいな店でした。客層も大人というかオッサンやらスーホ(ホステスさんですね)が多かった。昔はバンドも出てましたが、この頃はDJだけになってたんかな?1ドリンク+フリーフードで男性3000円、女性2500円。メビウス(六本木ハイツ1階)俳優座を越えて日本フォノグラム社の先でした。そういえば同じ通りに「ピクニック」っていう小さなレストランがありましたね。ということで、この頃は1ドリンク500円になってしまっていました。レオパ変身前の末期的状態だったような・・・・。パープルオニオン(ミラックスビル地下1階)TGIFのもうひとつ先、ピットインの手前でした。半円形のフロアーからライトが照らし出され、ちょっとファンタスティック(笑)な雰囲気の店でした。男女共1500円。ということで、1978年当時の新宿~渋谷~赤坂~六本木界隈のディスコを思いつくままに振り返ってみましたが、まだまだ他にもあったと思います。どうも時代がはっきりしない店もあって、アイとかプラスワン、ジュニアとかウィスキー・ア・ゴーゴーとか78年に未だあったのか、閉店していたのか、よくわからないものは書きませんでした。当時遊んでいた方達には、甘く切ない思い出が蘇ったのではないでしょうか。オレの店が抜けてるぞぉ~とか、この店を知らなくてどーする、みたいな方がおいででしたら、是非ともキーワードを掲示板にでも書き込んで頂けましたら幸いです。また、現役バリバリの道楽者の皆様には、現在のこれら繁華街の20数年前の姿を想像して頂き、今と比べたら結構可愛い遊びで皆喜んでいた古き良き時代に少しでも触れて頂ければ幸甚と存じます。
2005年09月08日
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今日は昨日に引き続いて1978年当時のディスコをざっくり振り返ってみましょう。まずは新宿地区です。新宿ムゲン(歌舞伎町モナミビル3階)席料+料理一品+飲み物サービス(税込)女性1580円男性2300円ボトル・オールド4500円、カティサーク・ホワイトホース6500円、レミー1万五千円この当時はまだバンドも出演していました。この年は委員長のライバル・ジョニーのバンドBIBが出演していました。新宿クレージーホース(歌舞伎町モナミビル5階)ボトル+料理一品(税込)で会員は約2000円、初回はこれに2000円プラス。ボトルはロバート・ブラウン。全員が自動的に会員になる独自のシステムですね。ポップコーン(歌舞伎町モナミビル8階)値段はムゲンと同じ。*確かこのモナミビルの7階は炉辺焼き「北の家族」だったと思います。座敷(板の間)があって、DJがよくここに集って飲み食いした記憶があります。ポップコーンのファンキー太郎こと山田氏がここの厚揚げ豆腐を皆に薦めていました。ちなみに最上階は焼肉屋さんでした。後年ここが大爆発起こして、ディスコの床が抜けて大事故になったんだよね。新宿インディペンデントハウス(歌舞伎町東亜会館6階)飲み放題・食べ放題のバイキングシステム平日は夕方6時までに入店すると女性900円、男性1700円6時以降は女性1500円、男性2300円土曜及び祭日前夜は6時までが女性1800円、男性2000円6時以降は女性1800円男性2500円営業時間は夕方5時~11時30分、土曜、祭日前夜は深夜1時まで。ジョイ吉野が作り上げたサウンド・システムは素晴らしかったです。彼は元々三菱電機出身で、配線図なんかも自身で書いてたし、機材も全部自分で調達していました。新宿シンデレラ(東亜会館5階)5時~深夜飲み物+料理付きで男性2500円、女性1500円確かオープンは夏だったと思います。9月だったかなぁ~。カンタベリーハウス・ギリシャ館(東亜会館4階)5時~11時30分飲み放題食べ放題(税込)男女共3000円カンタベリーハウス・ビバ館(東亜会館3階)5時~11時30分飲み放題食べ放題(税込)男性2200円、女性2000円カンタベリーハウス・三号館(新宿東口武蔵野館4階)5時~11時30分飲み放題食べ放題(税込)男女共3000円このビルの1階は映画館でした。三愛もありましたね。地下の喫茶店エトワール?だったかな、コーヒー・ゼリーが美味しかった。カンタベリー・ツバキハウス(テアトル新宿5階)5時~深夜飲み放題食べ放題(税込)男女共3000円1階に映画館のあるおしゃれなビルで、ここもいつの間にかカンタベリー系になっていました。こうして見てみると、この年はまさにカンタベリー・チェーンの快進撃って感じですね。オーティス中村氏が偲ばれます。(って故人みたいな言い方するなよ)ブロウハウス(風林会館裏HIDEビル地下1階)会員は年間2000円でボトルはロバート・ブラウン5000円。女性同士はいつでも1500円フルーツ・サービス付。5時~5時まで。ここはフィリッピン・バンドが出ていて、ちょっと大人というかオッちゃんたちのパブって感じでした。ダイショウ・チェーンですからクレージーホース系です。アップルハウス(新宿歌舞伎町)5時~1時飲み放題食べ放題(税込)男性1800円、女性1600円ブラックシープ(歌舞伎町千代田ビル地下1階)5時~深夜男性1980円、女性1480円ゲット(新宿東口ロイヤルプリンス・ビル4階)3時~11時30分1ドリンク付き700円ソウルトレイン(東口みよしビル3階)4時~11時30分男女共入場料1000円スキャット(歌舞伎ビル3階)4時~深夜飲み放題食べ放題(税込)男性2000円、女性1500円その昔イサムちゃんがDJやってた店ですね。確かダイタン商事崩壊のあと、杉社長が買ったんだと思います。店の前に掲げられた看板が絵で、トゥモローUSAの大型写真が模倣してあり、アフロ頭のDJが手を振っている姿のモデルはなんと委員長でした。結構笑えましたね。ステージ(アシベ会館隣)5時~深夜飲み放題食べ放題(税込)男性2000円、女性1500円このお店はいつ開業していつ閉店したのかもわからないほど、知る人ぞ知るって感じのディスコでした。一時ダンサーズのTGIFが練習場所にしてたので、何度か監督をお願いされたことがありました。ソウルハウスGO(新宿三丁目高山ランドビル地下2階)4時~11時30分1ドリンク付 男性1000円、女性700円このお店もよく代替わりしましたねぇ。確か開業時はソウルハウス「GOOD」で、次がDを取って「GOO」、さらにOを取って「GO」、最後は何も無くなりました。チェスターバリー(歌舞伎町ピアザタテハナビル4階)5時~深夜1ドリンク+料理一品(税込)男性2400円、女性1800円ダブルDJ方式って単にDJが同時に二人いるってことでした。この後ミルキーウェイがオープンして、なんだかいっぱいDJがいたような気がします。それだけ出入りが激しかったってことですか。ざっと思いつくだけでも、赤シャツのみつぐ氏、イサムちゃん、ペケ、ジン君、テリーもいたそうですね、更にあのV-oneの恐怖のM浦さんがアフロして現れたときには、どーしようかと思いましたね。プレイハウス~ニューヨーク・ニューヨークたぶん改装してオープンしたのは翌年79年だと思いますので省略。同じく、ビッグ・トゥゲザー、ツモローUSAも省略。ニューヨークは赤シャツのみつぐ氏が売り出したお店として印象に残っています。トゥゲザーは後にハローホリデー、ゼノンと変わっていったんでしたっけ。ワンプラスワン(東宝会館6階)トゥモローUSAの姉妹店でした。元々はパブ「青春の館」という店で、池袋にも支店があったはずです。ダイタン商事崩壊の時に、USAの小林社長が買ってディスコにしたんですね。この時、仲間の杉社長はパブスキャットを買ったんだと思います。オープン時はジュリー共々委員長も交代でDJに入りました。PUBツモロー(スタッセビル4階)5時~深夜3時飲み放題食べ放題 男女共2500円その昔、ハリマオという日本のロックバンドがここからデビューしました。メンバーは中々の苦労人だったようです。その彼らを育てたのがUSAの小林社長だったとのことです。当時小林社長は支配人をやっていたらしいですが、バンドメンバーは休憩時間に客席回ってオーダー取ったと言ってました。もちろん契約切られないためですね。はっきりとした記憶はないのですが、確か腰にガンベルトのようなストラップをつけて、ギターをくるくる回すパフォーマンスで有名になったのではなかったでしょうか。ブギーボーイ(新宿2丁目)9時~深夜20歳未満お断りの本格ゲイ・ディスコ料金は飲み物食べ物すべて500円オカマ・ダンスの流行から、皆でホンモノのオカマを観察に行ったらしいです。(なんかようわからんかったですね)オカマっつーよりモーホーが多かった気がします。踊りの勉強にはならなかったようですが、常連になってしまったヤツもいるとか。ブラックボックス(新宿厚生年金会館裏)9時~深夜1ドリンク付男性500円、女性1000円男の方が安い! 当たり前ですね。当時一番有名な店だったのではないでしょうか。ホンモノのオカマダンスが見られるぞぉ~ってことで行きましたが、確かに本当のオカマが踊っていましたが、ファッショナブルでも上手でもなく、ドサクサに紛れて体を触られるだけのことでした。倒錯した世界が好きな方が多かったですね。ついでですから渋谷~原宿もいっちゃいましょう。渋谷パブ野郎(道玄坂大外ビル8階)ボトル会員は料理二品、ミネラル・ウォーター1本(税込)1980円。1ドリンク付きの場合は料理二品(税込)2530円。ボトルはロバート・ブラウン2300円。5時~11時30分まで。この時の店長伊藤さんは以前新宿ブラックシープにいました。渋谷ブラックシープ(プリンスビル4階)5時~11時30分。男女共に1980円。ちなみに上野にもありました。(御徒町寄り上野広小路側大和ビル3階)渋谷ソウルトレイン(岩本ビル3階)すんませーん。委員長は一度も行ったことがありませんでした。78年当時の渋谷はディスコってダメだったですね。盛り上がってきたのは後のサーファーブームあたりからでしょうか。原宿イベリア(表参道と明治通りの角GA-Zビル6階)5時~11時30分、土曜日は深夜2時まで。第一と第三月曜が休み。1ドリンク付き平日女性800円、男性1300円土日は女性1000円、男性1300円平日6時までの入店は女性無料、男性800円ボトルはウィリアム・ローソン3500円確か社長は薬屋の息子だったとか?この当時の原宿、青山は大人しくて、ディスコと言う感じではありませんでしたね。店を出たところ、まわりがやたら静かでかえって落ち着きませんでした。ついでに池袋いっちゃいましょう。池袋エル・クレッセント(池袋西口勝又ビル1階)8時~4時日曜休み1ドリンク・システム男女とも平日550円、土曜が1100円。店長の村上さんは元パブ・ツモローの主任でした。池袋アダムス・アップル(西口ロサ会館)男性2000円 女性1500円バンドとDJの交代制。特別に新小岩もご紹介しちゃいましょう。新小岩アリマ(新小岩北口かに谷ビル4階)5時~11時45分、土曜日は深夜2時まで。第三月曜定休日。前金チケット制で女性1500円、男性2000円新小岩ピラミッド(新小岩南口東栄ビル5階)5時~0時1ドリンク付き(税込)女性1100円、男性1650円なんと支配人は、あのメビウス~コップス~シンデレラの五郎さんでした。一時こんなトコでシブイことしてたんですね、五郎さんこと吉山店長。いや~、とにかく凄い数ですね。特に新宿歌舞伎町はディスコの街って感じです。あと、小さい店もいくつかあったのですが、名前とか場所とかが曖昧です。資料も殆どないので、当時のチラシの断片とか雑誌の記事の切り抜き(っていうかたまたま残っていたページの切れ端みたいな)から辿ってますので、皆様からのキーワードなど頂けると非常に嬉しく思います。歌舞伎町の入り口あたり(一番街じゃない方の通り)にもいくつかあったと思いますが、親爺の記憶も断片的で時代も曖昧です。さらに区役所通り近辺とか、伊勢丹前とか、色々なお店があったと思うのですが、時代と場所が今ひとつ噛み合いませんので、また思い出したら書きますね。ということで、なんだか資料みたいになってしまいましたが、明日は六本木~赤坂も振り返ってみたいと思います。
2005年09月07日
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1978年が道楽者にとってどれだけ激動の年であったか、一年間の出来事をちょっと振り返ってみましょう。まずはこの年最大の話題と言えば、カラオケ・ブームの始まりだったですね。8トラック・カラオケ・システムでスタートしたカラオケは、瞬く間に飲み屋の必需品となりました。「カラオケあります」の張り紙が懐かしいですね。1月:TBS放送歌謡番組「ザ・ベストテン」がスタートしました。札幌でブリティシュ・ロック「レインボー」のコンサート会場で女子大生一人が圧死、8人が重傷を負った事件は、「悪魔に魂を売った男」の伝説を裏付けました。2月:フォークの神様ボブ・ディランが来日。ちょっと時代がずれた感もありますが、学生運動で大活躍された団塊の世代が随喜の涙でお迎えしました。映画ではスピルバーグの未知との遭遇封切。パピポパペ~という妙なトーンが耳についていますね。さらにモンチッチが流行します。とにかく流行りましたおサルのモンチッチ。3月:世界最大客船クイーン・エリザベス号が横浜に来航。こんな船で世界一周する人たちって?そのスケールの大きさにビビりました。国鉄(JR)常磐線・地下鉄千代田線・小田急線の三線が直通運転開始。委員長は小田急線梅が丘駅に居住していましたので、大変便利になりました。ミス・ユニバース代表に萬田久子が選ばれました。翌々年にNHKの「なっちゃんの写真館」で女優デビュー。4月:VANジャケット倒産 日本人アイビーの元祖、あの青山通りの看板が消えました。創業者の石津謙介氏と「メンクラ」こと男性ファッション誌メンズクラブが、日本男子にもたらせたおしゃれ感覚への功績は大きなものでした。キャンディーズ後楽園で解散コンサート。「私たち明日からフツーの女の子に戻ります」って涙のセリフが忘れられません。ピンクレディーとともに時代を飾ったアイドル、バラドルの元祖でした。この系統は、後に続くヲタク系とかコスプレ系とかアキバ系とかに受け継がれていきました。5月:新東京国際空港(成田)開港。千葉でなぜ東京空港なのか?皆の疑問でした。勝新太郎アヘン所持容疑で書類送検。このあとパンツ事件に続きますね。6月:スターウォーズ封切。記念すべき第一作目です。シリーズ最新作までざっと26年ですよ。凄いですね。それでもウルトラマンにゃかなわんね。7月:山口組田岡組長狙撃事件。京都のナイトクラブ「ベラミ」で銃撃された山口組三代目。業界では大騒ぎとなりました。後に映画化されましたが、日本の西のドン撃たれるは衝撃的でした。サタデーナイトフィーバー封切。第二次ディスコ・ブームの起爆剤となったジョン・トラボルタ主演の青春映画は世界的なブームを巻き起こしました。8月:矢沢永吉の後楽園コンサート三万人動員。我らが永ちゃん28歳、キャロル解散から三年目の偉業を達成。星のマークが印象的でした。さらば宇宙戦艦ヤマト封切。未だにヲタク系には異常な人気があります。巨人軍王選手800号ホームラン達成。日本中の話題をさらいました。堀内孝雄の君の瞳は百万ボルトが資生堂のCMソングとしてヒット。9月:時間よとまれ、ミスター・サマータイムがイメージソングとしてヒット。ディスコでもよ~くかかりましたね、この2曲は。10月:テレビドラマ「西遊記」モンキー・マジック放映開始。夏目雅子、堺正章、岸部四朗、西田敏行出演、ゴダイゴのテーマソング「ガンダーラ」がヒット。世界5000号のマクドナルド江ノ島店開業。このあたりからサーフィンブーム到来 湘南・千葉方面大渋滞しました。西武ライオンズ誕生。クラウンライター・ライオンズをコクドが買収。11月:国鉄(JR)「いい日旅立ち」キャンペーン。山口百恵さんですね。円広志「夢想花」世界歌謡祭グランプリ受賞。「とんで、とんで、とんで、とんで・・・・」本人もこれ一曲で飛んでいってしまいました。11月:江川投手巨人軍と空白の1日電撃契約。そこまでやるか、と言われた歴史に残る茶番劇でした。悲劇の小林投手が歌手デビューしたりと、プロ野球界も色々と楽しませてくれました。12月:俳優田宮二郎自殺。名優の突然の悲報にファンは愕然としました。そして日本レコード大賞はピンクレディの「UFO」。どうしてもアホの坂田を思い出してしまうのは何故でしょう。「アッホー!」そしていわゆる竹の子族が登場してきたのもこの頃でした。まだタケノコとは呼ばれていませんでしたね。皆ディスコで踊ってたし。中高生が段々と群れを成していくようになってしまい、警察からも睨まれ、ディスコからも迷惑がられ、遂には追い出されていったというのが実情でした。サラ金地獄で自殺者多発。これも一種のブームと言うか社会現象でした。フレンチジーンズ・ウェッジソールシューズが大流行。ディナー・ジーンズとか呼ばれてましたが、意味よくわかんないですね。夕飯の喰えるジーンズって何か特別なことだったのでしょうか?ファラ・フォーセットのヘアスタイルが一世を風靡。初代チャーリーズ・エンジェルですね。サーファー・ルックのおねーちゃんたちにこの手の髪型が多かったような気がします。小松政夫と伊藤四朗の名コンビが放ったギャグがバカウケでした。「しらけ鳥、飛んでゆ~く南のそ~ら~へ、ミジメ~ミジメ~」まあ、とにかく次から次へと話題に事欠かない年でもありました。とは言うものの、やはり遊びの主流はディスコでした。サタデーナイトフィーバーのおかげで、まさに雨後のタケノコのようにディスコが乱立したのもこの時代ですね。せっかくですから明日は当時のディスコをざっくりピックアップしてみましょうか。乞ご期待!
2005年09月06日
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1977年大晦日は、SOUL馬鹿一筋で生きて来た委員長のひとつの節目でもあり、新たなチャレンジへ向けた78年の幕開けとして記念すべき日でもありました。Tomorrow USAの年越しパーティーはドンちゃん騒ぎで盛り上がり、その勢いは衰えることなく深夜番の委員長を筆頭にムラちゃん、シゲル、バンドごっこで大活躍したKGとI君、更に委員長に憧れる山形出身のウェイター小鷹君、その先輩の増田君などと連れ立って明治神宮へ初詣に出かけることになったのでした。USAグループ一行は、閉店間際のドサクサに紛れて手当たり次第におねーちゃんに声かけまくってナンパ合戦です。初詣の帰りにあわよくば姫始め、などという不埒な下心ミエミエ、神をも恐れぬ不届き者の罰当たり、しょーもない奴らでした。委員長はといえば、実はしっかりと最近ナンパしたばかりのおねーちゃんC子をこの初詣に誘ってあって、何とか素晴らしい新年を迎えようと企んでいたわけです。ところが閉店時間を過ぎ、そろそろ出発という時間になってもC子は現れません。うーん、結局今年も女運はダメかぁ、とやや落ち込んだ委員長ですが、正月気分の盛り上がりの勢いは最高潮に達していますから、店に居残ったおねーちゃん数人を引き連れ、とにかく全員でしゅっぱ~つ!ということで、新宿駅から代々木に出て明治神宮参拝へと向かったのでした。午前6時、未だ薄暗い参道を、寒さにもめげずぞろぞろと人ごみの中を一団は進みました。お賽銭を投げる神社の境内は、もうとにかく人だらけでお金を投げ込む順番待ちのような有様でした。ようやく自分たちの番に来た一団は、せ~の!の掛け声と共に一斉に機動隊に向けて百円玉を投げ込んだのでした。拍手を打って各自それなりの祈願をしたわけですが、委員長はもちろん「早くこの生活苦から脱出できますように」という切実な願いを百円玉に託したのでした。さあ、お参りが済んだらあとはどっかの屋台で一杯やって盛り上がるぞぉ~ってなもんで、一団は代々木方面へと向かいました。参道の周りは屋台がずらりと軒を並べ、さすがにお正月の賑わいを見せておりました。行き交う人々もみな完璧に出来上がっていますから、ちょっと油断をするととんだトラブルに巻き込まれたりしてしまいます。特に、おのぼりさん系の兄ぃなどは、これだけ盛り沢山のジャンルの人を見ただけで興奮しまくってしまいますから、わけもわからず暴れたりします。年初めから大トラ、大化けで大怪我したり、檻に入れられたり、ニュースになってしまう人々も少なくありません。もちろんニュースになるくらいのトラブルはかなり大きなモノですから、小さなトラブルならあちこちで起こるわけです。火事見て興奮する奴とか、群集を見て興奮する奴とかは、そのほとんどが自分を見失うことにかけては天下一品、大凶を背負った性格ともいえます。こういう人達は、「誰か俺を殺してくれ~」とか「誰でもいいから俺を殴って止めてくれ~」とかわめいて歩いているようなものですから、どのみち長生きできるような人生は歩めないでしょう。さて、委員長の一団も、KG、I君、小鷹君、増田君、総勢5人がアフロ頭、しかも中のひとりは大胆な金髪メッシュ入りで目立ってますから、誰かに絡みたくてウズウズしているあんちゃん達にとっては格好の餌食そのものでした。KGが空いているオデン屋の屋台を見つけて「ここ空いてますよ~!」と一団を呼び込んだところで、数人の少年ヤクザのご挨拶を受けることになりました。どうも、自分ら以上に目立つ委員長たちが気に入らないようです。向こうも女連れならこちらも女連れ、まさか喧嘩にはならないだろうとタカをくくっておりましたが、どうも向こうは正月早々人気者になりたがっているようでした。早速おとなしそうなKGが因縁コカれていまいます。「おまえ面白い頭してんなぁ、男か女かどっちだぁ?」無視するKG。更にあんちゃんは委員長たち一団に向かって挑発します。「なんだぁ、オカマの集まりかぁ?」正月早々弱っちゃったなぁ、ってことで、「触らぬ神に祟りなし」って感じで無視してオデン屋の屋台に腰をかけます。「シカトしてんじゃねーよ」どうしても遊んでもらいたいようです。あんちゃんはKGの前に立ちふさがって脅しかけます。どう考えても多勢のこちらに分があるにも関わらず、屋台の前まで乗り込んでくるところをみると、よほど軟弱な一団に見えたのか、あるいは皆で袋叩きにでもされたいのか、トラブルメーカーのあんちゃんが吹き上がってこちらの顔ぶれを舐めるように見渡しました。一瞬全員の背中に戦慄が走りました。しょうがねぇな、と立ち上がろうとした委員長を飛び越えて、あんちゃんは坊ちゃん顔のシゲルを見て凄みます。「何見てんだ、テメーこの野郎」静かに立ち上がったシゲル君はゆっくりと屋台から離れて言いました。「てめぇの顔があんまりみっともねぇツラだから見てんだよ」「なんだぁ、この野郎」思いがけないシゲル君の言動に驚いたのはあんちゃんばかりではありません。オデンの鍋を前にして座っている一団の誰しもが意外な展開を見守っていました。あんちゃんはシゲル君の背後から肩を怒らせて声を張り上げました。「やんのか、てめぇ」あんちゃんの仲間の少年ヤクザ二人が後を追います。屋台から数歩離れたシゲル君は、後ろから首を振りながらついていくあんちゃんの方にゆっくり振り返りざま、いきなり右フックを喰らわせたのでした。あんちゃんの顔面が真横に飛んだと同時に、膝からがくんと落ちてその場にドサっと倒れこみました。冷静なシゲル君は少しも興奮した様子もなく、足元に転がったあんちゃんの後ろに呆然と立ち尽くす仲間二人に対して軽くワンツーのポーズ、無言でにやりと笑いました。屋台に座った委員長他一団は、顔だけ外側に向いたまま少年ヤクザ二人同様呆然と成り行きを見守っていました。シゲル君の足元で白目を剥いて口から泡を吹いているあんちゃんを見て、仲間二人は言葉に詰まった様子で倒れたトラブルメーカーを抱き起こして、引きずるように連れ去っていきました。意識の戻ったあんちゃんは自分に何が起こったのかも分からぬまま、ややロレツの回らない口で何かを唸っていましたが、仲間二人が足早に引きずって行きました。屋台の一同、首だけでシゲル君の姿を追っていきます。シゲル君は何もなかったように屋台の長椅子に腰かけて一言。「熱燗にしようかな」KGが講釈をたれます。「シゲル君ボクシングやってたんですよね」一同無言で頷いて納得です。「モロに入っちゃったからなぁ、今のフックは。ちょっと可哀想だったかな」おとなしい顔して恐ろしい奴です。KGが更に調子付いてMCを入れます。「シゲル君の弟さんも中学から番張ってたんですよ。兄弟で恵比寿ジョーカーズでしたから」以前のパラキン事件でのシゲルの迫力を知っていた委員長は殊更納得しました。「余計なこと言うなよ」シゲル君が静かな口調でKGを制します。「一度弟さんにも助けてもらったことがあるんですよ」意外?という顔でシゲルがKGに聞きました。「マサルに?」「ええ、前に僕が先輩から毛皮のコート借りたとき、汚れたからって5万弁償しろって脅されたことがありまして、そのときマサルさんが間に入ってくれたんですよ」「へ~え、マサルがねぇ」「まあ、まあ、とにかく今日は正月なんだから、まずは乾杯!おめでとうございます」と委員長の音頭で乾杯。1978年の始まりも波乱含みのスタートです。タコやハンペンなどをかじりながら一杯やった一行は、それぞれのお正月を楽しむため帰途につきました。あたりもようやく明るくなり、周りを見渡すと益々正月気分に沸く元旦の明治神宮でした。委員長は小田急線なのでここで皆に別れを告げ神宮の参道を、参宮橋駅方面へ向かって歩き出しました。初詣で歩いてきた道を再び逆行していく委員長、その前方にモロに委員長好みの南方系髪の毛チリチリ女が歩いてくるではありませんか。しかも委員長の顔を見ています。おっ~と、なんとそれはC子ではありませんか。一瞬委員長の頭が炸裂したのは言うまでもありません。「ごめんね、友達と一緒にいてちょっと間に合わなかったんだ」そう言って委員長の顔を見つめるC子。言葉に詰まる委員長。まさに運命の出会いでしたね。いくら何でも話が出来すぎだろうって?でもこれは実話なんですよ。何かの縁があったんでしょね。こいつぁ~春から縁起がいいぜ。この年一気に舞い上がっていく委員長の忘れられない元旦、1978年の幕開けでした。
2005年09月05日
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ディスコ親爺の昔話もとうとう100回目を迎えることになりました。これもひとえに本人の努力の賜物、皆様にはお礼の言葉もございません。ございませんので言いません。(すんませ~ん、綾小路キミマロさん、パクりました)いやーしかし、よくもまあこれだけ書くことが次から次へと出てくるものだと、当の本人も飽きれかえっている始末です。言うなればそれだけ真剣に道楽に打ち込んだというか、人生賭けて遊んだと言うか、馬鹿なことばかりして楽しかった時代だったということの証でもあります。とは言うものの、これらの話の全てが貧乏自慢と申しますか、馬鹿自慢の話ばかりで、どう考えてもまともな生き方であったとは到底思えませんが、どんなにくだらないこととはいえ、なんにせよ自慢のできるものがあるということは素晴らしいことでもあります。(なんのこっちゃねん)これだけムチャクチャな生き方をしてきた割には、結構フツーの親爺になった(でもないか)今の自分を思うと、ことさらに可笑しさがこみあげて参ります。まさに「親は無くとも子は育つ」の言葉どおりです。(ちょっと意味が違うと思うけどなぁ)幼い頃から言われ続けてきた、「そんなに遊んでばかりいると立派な大人になれないぞ」とかいうお説教にもメゲズ道楽道を貫いて遊び倒してきた委員長の人生訓でもあります。確かに立派な大人にこそなれませんでしたが、ろくでもない大人にもなってないところをみると、どんなにデタラメな生き方をしようが、まあ言うなれば本人の意思次第でフツーの大人くらいにはなれるということですね。まあ、何を持って「立派な大人」というのかわかりませんが、少なくとも手鏡で女の子のスカートを覗いてみたり、女子トイレにビデオカメラを隠したりするような立派な大人にはなれなかったことがせめてもの救いです。現在道楽道を突き進んでおられる若手の皆様、なんにせよほっといても歳は取れますし、最低でもフツーの親爺くらいにはなれますからどうぞご安心下さい。もちろん道楽者がフツーの大人になるためにはそれなりの苦痛や苦労も伴いますが、少なくとも人の倍以上は楽しい思いをしたことと引き換えにしても損はなかったのかなぁ、とも思える今日この頃です。(何が得で何が損かはわかりませんが)人生には損得で測れる規準なんてもの自体がありませんから、自分の心のままに生きていくことが全てであると断言できます。まして生き方の教科書なんてものもありません。人間なんてものは息を引き取るその瞬間まで感情があって、喜んだり悩んだりし続けますから、その時代時代で、人の人生が良く見えたり、自分の人生が良く見えたりと絶対的な尺度では測れませんし、一生ひとつの感情で生きているわけでもありませんね。人が生きていく上で悩むこと、苦しむこと、更に、喜ぶこと、感動することはどの人間にも与えられた共通の機能ですから、良いことばかりで生きてきた人なんてのは存在するはずもなく、また、苦しいばかりの人生なんてのも有ろうはずがないわけです。ひとつだけ確かだと思えることは、「若さ」とは全ての人間に与えられた唯一平等な「才能」であるということです。どんな人にでも、もれなく付いてくる「才能」、それが「若さ」です。とにかく「若い」ってことは、もうそれだけで「才能」なんですね。この才能をどのように、何に使うかはその本人の自由であり、生きている以上例外なく万人が持つ特権なワケです。今日は何故こんな話をしたかと言いますと、委員長の昔話もいよいよこの「若さ」と言う「才能」が開花する時代に突入しつつあり、まさに馬鹿自慢も頂点を極めていくことになりますが、残念ながらこの「若さ」には賞味期限と言うお約束があるということをお伝えしたかったからです。この「若さ」という「才能」はその人の人生において、一生際限なく与えられているわけではありませんから、本人がどんなに抵抗しようが、しがみつこうが終わりは否応無くやってきます。なんとか誤魔化しながら多少の延長も認められますが、これも言うなれば疑似体験のようなもので、次にやってくる「若さ」という「才能」を持った人と交代する日は泣こうがわめこうが必ず来てしまうのです。ですから、これからこの「才能」の訪れを待つ人には、このお約束を守って充実した「才能」を存分に発揮して頂きたいと思いますし、すでに賞味期限の切れた「才能」をお持ちの人には、今なお生まれている数々の「才能」を育てる楽しさを知って頂きたいと願っております。特にこれから続く昔話の後半は、こういった時代との決別、「若さ」という「才能」の終焉に直面していく道楽者の「その後」を書いていきたいと思っていますので、馬鹿を自慢する道楽者が一体どのようにしてフツーのおっさんになっていったかというような真実の告白(笑)、はたまた、大馬鹿野郎が一般人社会への復帰に向けたリハビリなどの大変興味深い(?)内容が盛り込まれておりますので、道楽道を目指す方々にとって何かしらの人生のヒントを示すことができれば道楽者冥利に尽きるというものです。ということで、道楽者の昔話は続いて行きます。1977年暮れ、ディスコ業界には新たな旋風が巻き起こりました。オカマ・ダンスの登場です。凄いですね~、オカマ・ダンス、初めて耳にされる方には想像もつかないのではないでしょうか。発祥の地は不明ですが、一般的には新宿ツバキハウスというディスコから生まれたファッションと言われております。踊り方はいわゆるモデルウォークが基本で、ファッション・ショーでモデルが衣装をまとってステージでショーアップする独特のポーズと歩き方を真似たものです。当時新宿で一世を風靡した「エル」というニューハーフ?が広めたことからオカマ・ダンスと呼ばれるようになっていきました。彼(彼女)が実際にゲイだったかどうかは知る由もありませんが、男が化粧して踊るところからそう呼ばれたのでしょう。時代背景にも、ブリティッシュ系ロッカー(今で言うビジュアル系)とか、YMOとか、男性が化粧をする風潮もあり、着飾ってディスコで踊るというひとつのムーブメントが新宿から巻き起こっていったのでした。(詳しくは昔話その86参照して下さい)DJもこのあたりからちょっとした新風が吹き込んできました。「さあ、手拍子いっちゃいましょ~う!」(もちろんこれって男性DJですよ)ってかけ声と共にフロアで踊っている客が両手を挙げて手拍子打ったり、「さあ、まんなかあけて輪になりましょ~う!」とか言いながら客を扇動していくという、まるでコンサート会場さながら、まさにライブ風なノリが現れました。(幼稚園のお遊戯みたいだったですけどね)このDJの喋り方も、おすぎとピー子風?って感じのやわらかい口調が、フロアで踊るファッションマニアと重なって一種独特のムードを醸し出しました。このあたりもオカマと表現された理由ではないでしょうか。今までソウルやステップといった輸入文化の上で遊んでいた子供たちが、遂に自力で生み出したというか自然発生した新しい文化がこのオカマ・ダンスでした。もともと盆踊りとかお祭り好きな日本人ですから、扇動する者があれば団結力は強烈な底力を発揮します。新宿界隈のOL(今風に言うとデパガ)とか女子大生とかが、このブームに一気に感染していきます。今でも印象に残っているのが、大橋純子さんの「シンプルラブ」ですね。この曲で全員オカマ・ダンス(モデルウォーク)してうねるようにフロアーを踊り歩きます。ここですかさず「手拍子いっちゃいましょう!」なんて煽った日には、全員で両手を挙げて手拍子打って爆発です。この光景を目にした週刊誌の取材記者が「ディスコという宗教」と表現したのも頷けます。彼らの目にはこの群集を煽るDJはまさに教祖様に見えたのではないでしょうか。マニアっぽいオカマ族はそのファッションも益々エスカレートしていき、中近東ファッションや、無機質なテクノファッション、YMOなどが中国の人民服などをアレンジしたアジア系のエスニックファッションなど等、この時期から流行も一色に染まることなく、各自のパーソナリティや持ち味、個性を主張する時代へと変わって行きました。これらのニュー・ムーブメントに加え、従来のSOUL系ファッション、ROCK系、パンク系なども混じり、まさに新宿は文化鍋のごった煮状態となり、独自の街文化を形成していくことになりました。当時の一般的なファッションの流れから行くと、女性はニットのワンピースにロングブーツ(踝の辺りがちょっと垂れた感じですね)とか、バギートップなどが主流でした。音楽の方もごちゃ混ぜ状態、踊る曲全般をひっくるめて「ディスコサウンド」と呼ぶようになったのもこの頃からでしょう。委員長が特に印象深かったのは、YMOの「コンピューター・ゲーム」という曲がビルボードの上位にランキングされ、これを黒人たちがFUNKYと言って踊っていたことでした。音は、確か風船を割るゲームのBGMをベースにした単調な音楽だったと思います。でもビートのメリハリが確かに重くてヘビーな感じで、踊ってて心地よいサウンドでした。後年、「東風」とか「勇者ライディーン」とかの一大ブームを巻き起こすことになるのですが、その片鱗を見せた一曲と言えるでしょう。そしてこの77年の年の瀬、メッシュ入りのアフロの委員長はナンパ技術の全てを屈指して新しい彼女を遂にGETしたのでした。ダイアナロスのような顔立ちをしたカーリーヘアの彼女C子は、委員長のナンパの手練手管の罠にはまり道楽者人生へと巻き込まれていくのでした。バンド・デビューを目指して大きな夢と期待に胸膨らまた委員長は、しっかりズボンの中も膨らませて道楽者の王道を行く1978年を迎えることになっていくのでした。
2005年09月04日
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秋晴れの土曜日、派手やら地味やらの混合バンドの一団は赤羽線十条駅に降り立ったのでした。「いやー、ちょっとやばいんじゃないのここら辺」やたら興奮する委員長を尻目に、一団は目指す家政大学へ早足で進みます。「ロニーさん、僕達ってちょっと目立ち過ぎてません?ここらで」同じく動揺を隠せないKG。わけもなく多少興奮気味の我らがバンドごっこのメンバーはコンサート会場の教室に到着しました。いわゆる大学の教室ですが、それとなく飾り物などが施してあり、模擬店風に飲み物なども売っていたりして、ちょっとしたライブハウスといった面持ちでした。プログラムは4バンドの出演となっていましたが、委員長のバンドは名前がなく、「正宗&ザ・バンド」となっていました。どーゆーことかムラちゃんに尋ねると、アッちゃんの芸名が正宗だそうで、ロニーズバンドはレパが2曲しかないので、いくらなんでもバンド名はオコガマシイので、アッちゃんのバックバンドということになったようでした。しかし、アツシ君のセンス、凄いですねぇ、「正宗」って何だか刀匠みたいですね。岩窟王の方がピッタリと来る感じなんだけどなぁ。ということで、対バン(対抗するバンドのことです)はフォーク系ポップスバンド、ヘビメタ系(当時はヘビーメタルという呼び方はありませんでしたが)ロックバンド2組、そして我らがロック&ソウルバンドの4グループが演奏を競い合うのでした。(笑)教室の裏の通路のようなところが楽屋になっていて、ここで皆持参したそれなりの衣装に着替えます。アッちゃんはいつもの赤のボタンダウンのシャツから青のボタンダウンに着替えます。(ほとんど意味がわかりません)H氏はなんと昇り竜の刺繍の入ったガウンを羽織ります。さらにミニアフロのカツラにサングラスとかなりの入れ込みようです。その姿に一同「おおっ~」と声が上がります。「昨日吉祥寺で見つけて買って来たんだよね。これでかなりソウルバンドでしょ」と、かなり自信アリの表情です。シゲルは大人しいアイビー系でしたが、シャツを脱ぎTシャツの上に委員長が着てきた革ジャンを羽織って襟を立てます。大人しい顔立ちながらもしっかりとした体格に革ジャン、Tシャツはそれなりに雰囲気が出ます。ムラちゃんは黒のフレアーに黒のシャツ、サテンの黒ジャケットに黒のハンチングと黒ずくめのブラックマンですが、ちょっと間違えると変質者の親爺になりそうです。そう言って委員長がからかうと、「いっひっひひー」と妙な笑い声を立てて怪しい目付きをして見せるムラちゃんでした。そしてドラムスの石○君といえば、「ボクは特別衣装にはこだわってませんから」と、相変わらずの白ワイシャツに白の綿パン黒の革靴です。そっちがこだわらなくてもこっちがこだわってるんだけどなぁ、とやや不服な委員長でした。委員長はもちろんラメ入りのジャンプスーツです。脇役ダンサー二人は主役の委員長を盛り立てるため、チョイ地味なお揃いのジャンプスーツで準備万端整っています。さあ、いつでも来いってな感じで気合が入りますが、さすが主催者である企画委員会が知り合いの強みで、委員長たちのバンドの出番はもちろんトリになっています。ちなみにこういったアマチュア・バンドの競演とかコンテストってやつは、リハーサルの音出しの段階でほとんど勝負がついてしまいます。アンプの調整やPAのセッティングで1曲演奏すれば、大体どの程度の腕前かはわかってしまいますから、ちょっと気の小さい奴らだと本番前にビビって帰っちゃったりする場合もあったりします。このあたりがアマ・バンドは実に面白いですね。ファッションとか楽器とかでハッタリかましたりしますが、実際に演奏してみればその実力は一目瞭然、本番前にランキングは決まってしまうわけです。さて、我らがアッちゃんバンドはどうだったかというと、まずメンバーの異様さとアフロ三人組みに威圧されて、フォーク系は当初よりビビリまくり、本来イケイケであるはずのヘビメタ系ですら、親爺だの若いのだの頭がデカイだのが入り混じったこのバンドの醸し出す異様な雰囲気に少々恐れを抱いているようでした。さらに、リハーサルの音出しが始まり、次々とバンドが調整のための演奏を開始する中、なんと我バンドの若手ドラマー石○君はステージの真ん前のイスに寝転んでいるではありませんか。これにははっきり言って委員長も驚きました。まるで対バンにケンカを売っているような態度です。しかし、その態度たるや、挑発というよりは明らかに相手にしてないといった風の、完全に舐めきったものでした。だってこいつ本気で寝入っちゃったんですよ。頼もしい奴っちゃなあ。委員長はこの時から彼の根性に一目置くようになりました。金髪振り乱してガンガン音鳴らすメタルバンドの真ん前で、いびきかいて寝てる18歳の少年なんて想像を絶する登場の仕方です。ルックスはイマイチかもしんないけど、たいした根性者だぜこいつは、ってなもんで、ムラちゃんはもとよりシゲル君も彼の度胸を認めざるを得ませんでした。さあ、我らがアッちゃんバンドのリハはアッちゃん一人に任せて、あとのメンバーはかなり適当な音出しで余裕をかまします。とは言うものの、やはりドラムはバンドの要、基本的基本ですから、ちょっと叩けば実力は歴然とします。さらにシゲルのチョッパーも軽くベンベンと弾いただけですが、すでに回りを威嚇しています。さらにアフロ三人衆は何もしません。マイクのテストとポジションを確認しただけで終わり。益々妙なバンドは不気味さを漂わせています。一体、何なんだよこいつらは~、みたいな感じですね。大体バンドとかショーなんてものは、この始まる前の期待感とか不安感があってこそ本番が生きてくるものなんですね。期待はずれってこともありますが、見るものの理解を超えた所にこそ面白さがあるわけです。(そうなの?)さて、いよいよライブハウス模擬店の開演です。まずはちょっと若手のメタルバンドからスタートです。ナリからして結構真面目なコピーバンドといった感じで、技術的にはまあまあでしたが、面白みのないアマチュアっぽいバンドでした。身内が数人見にきていましたが、開演はちょっと可愛そうなくらいがらんとしていました。続いてフォーク系バンドの登場です。4人組みで、アリスみたいな感じのグループでした。やりたいことは判るが実力が伴っていないといった感じです。コーラスなんかも入れて頑張ってはいるのですが、自分たちが目指しているものと現在の実力とが噛み合っていないステージでした。理想は高く持った方が良いので、まあそれなりに頑張って下さいってことで、おつかれさんでした。このバンドは傾向的にも同大生徒には比較的好評で、それなりにファンのようなグループが見に来ておりました。(しかし、ディスコっぽい演出って、誰が言い出したのでしょうか、よくわからないですね)次はがらりと代わってちょっとプロっぽいハードロックバンドの登場です。先程の若手メタルバンドと比べてチョイ歳喰った感じですが、金髪ヴォーカルにバックは革ジャン系のいかにもといったバンドです。(いわゆるボンデージ系みたいな)ばぁあ~ん! おっといきなりツェッペリンから入ります。ちょっとハイトーンは苦しかったし、ドラムも結構シャバダバでハシリ気味です。途中にレイジーが出てきたのにはちょっと意外でした。(後のラウドネスですか)ということで観客もそこそこ30人ばかりで埋め尽くされ(?)、いよいよアッちゃんバンドの登場です。青のボタンダウンシャツに黒のスリムジーンズ、妙な助平サングラスをかけた正宗ことアッちゃんはエルク社製のSGを引っさげてダミ声でシャウトします。オリジナルなんで、聴いている方もようわかりませんが、それなりにニューミュージックというかフォークというか、まあこんなもんかなぁ、って感じです。そして委員長のソウルバンドが華やかにエンディングを飾ります。はっきり言って、見に来ているお客の顔ぶれ見て冷め切っていた委員長でしたが、そこはそれ、だてにディスコでメシ食ってきたわけじゃありませんから、ベシャリも入れてウケ狙います。「みなさんこんにちは。新宿ディスコバンドのみずぼうずです(なんじゃそりゃ)」その昔、委員長の同級生にみず坊と呼ばれる個性的な奴がいて、突然そいつの顔とアッちゃんの顔がダブってしまい、つい口からでまかせ、DJ得意の饒舌なハッタリが次々と飛び出してしまいました。「今日の会場は超満員、席の無い方はどうぞ前の方に詰めて下さい。これを我々の業界ではチョーマン大入りと呼んでおります」(言ってる本人も何だかよく分かりません)「今日はこのステージのためにカムチャッカ半島よりダンサーズ約2名を連れてきております。それでは聴いて下さい、郷ひろみの曲で男の子女の子!」(ドドン!とここでスネアの音とチーンとシンバルの音が入ります)肉まんドラマー、石○君わかっとるやないけ。って感じでコミックバンドのノリそのまんまでしたが、この程度のジョークで大うけの家政大お嬢様女学生の心をしっかりとつかまえた委員長のバンドの演奏が始まりました。泥臭いFUNK ROCKのTHANK YOUながら、踊りが珍しかったのか、どこまでマジだかわからないようなバンドの雰囲気が面白かったのか、観客は手拍子打って大喜びです。殆ど歌など入っていないインストもんのようでしたが、無事終了。「お楽しみ頂きましたみずぼうずのコンサートも残念ながらお別れの曲となりました」(会場大爆笑)ヘイヘイ、フィーオーライッ、(ワンタイム)アッ!ブレイクでダンサー全員ストップモーションからロボットを踊ります。馬鹿ウケ!調子づくダンサーズもブレイクを増やしていきます。ツータイム、スリータイム、フォータイム、ってことで会場からも声が掛かります。全員でアッ、アッ、アッ、アッ!更にここでメンバー紹介が入ります。キーボード、ミスターH!H氏も乗り易い人でした。お尻でキーボード弾いて馬鹿ウケ。昇り竜のガウンが揺れています。ベース、ゲルシー(シゲルの反対ですね)チョッパー炸裂、まるで空手チョップです。フェンダー社製プレッジョンが唸ります。ギター、ちゃんムラ(ムラちゃんの反対ですね)なんと更に悪乗りムラちゃん、ギターソロのまま裏の楽屋に入って非常口を閉めてしまいました。ギター音だけが会場を駆け巡ります。(爆笑)最後は肉まんドラム小僧、ミスター石○!いやー、凄かったですね。ここだけマジでミュージシャンでした。さすがに対バンのメンバーとかも目を丸くしておりました。テクはとにかくプロ並です。最後は会場も一緒になって大合唱!最後のブレイクで全員がストップモーションでエンド。馬鹿ウケ、大拍手!いやーマジで受けました。まあ委員長にしてみれば毎日お店で仕事してるのとあまり変わりなかったんですけどね、一般市民にも通じる技だったということを認識したコンサート体験でした。おかげで、翌日の打ち上げは噂を聞きつけた学生がどっと押し寄せ、冗談抜きで教室は人で溢れかえりました。しかし、たった2曲の持ち歌(歌じゃねーよなこれは)でこれだけ沸かせたのですから、妙な自信を持った委員長とムラちゃんでした。ちなみにこの学祭にはウェストロードブルースバンドなどが別会場でライブをやっておりました。ということで一気にバンドへの夢が花開いた一日でした。あれっ、今日はオチがないの?もちろんあります。キーボードH氏の昇り龍のガウン、アンプの上に載せっぱなしにしていてちょうどお尻の部分がこげてしまいました。翌日の尻弾きキーボードではこの焦げた穴で、またまた笑いを取ったH氏には頭が下がりました。もうひとつ、会場を後にしたバンドの面々、駅に向かう道すがら、案の定サンペン襟章の少年たちと遭遇、小さな紙くずをアフロ頭に投げ込まれた委員長以下3人でした。さすがに十条、噂どおりの街でした。
2005年09月03日
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さて、家政大の学祭コンサート・ライブに向けて一気に盛り上がる委員長とムラちゃんのバンドごっこは、ついに第一回目の練習へと突入したのでした。練習スタジオはお馴染み下北沢駅南口「WHO’S WHO」です。メンバーは、シゲル(ベース)、ムラちゃん(ギター)、H氏(エレクトーン)、ロニー(パーカッションと歌)、KGとI君(ダンサー兼コーラス)、アッちゃん(ギター&ヴォーカル)というオリジナル・メンバーに加えて、ドラムス担当のトラ(エキストラの意味ですね。要は代役)は、なんと二人も来てしまいました。これはあまりにもムキになってメンツ探しをしたせいで、ムラちゃんの方のツテで呼び寄せた学生ドラマー18歳と、アッちゃんの方のツテを辿ってきたおっさんドラマー30歳が、双方の確認を取らぬまま召集されてしまったのでした。一応、バンドというか出演者はアッちゃんと委員長の二組ジョイントになるので、ドラマーは双方のバンドで交代しよう、というような流れになりました。練習の方は、アッちゃんのオリジナル曲5曲と、ロニー&ダンサーのコピー曲2曲の合計7曲が演奏されることになったのですが、やはりオリジナル曲は大本になるしっかりとした原曲がないわけですから、その場で適当に編曲を兼ねて仕上げていくというアマバンドにしては結構ムボーな試みでもありました。でもって、結局のところアッちゃんの練習で、ほぼスタジオの予約時間は手一杯になってしまい、委員長の方の練習は後半の約15分程度となってしまいました。とは言うものの、委員長の選んだ二曲ともワンコード一発の全編アドリブみたいな、まるで委員長の性格そのまんまですから、練習と言うより顔合わせのようなものです。ところが、この練習時間終了間際の音出しで、見事ロニーズバンドのコンセプトはバッチリ決まったのでした。まずはシゲルの迫力のあるチョッパーベースに18歳の学生ドラマーの湿り気のあるスネアの音がビシバシと入り、ムラちゃんのチャカポコギターが絡み、更にH氏のエレクトーンがワンコードならではのリズムがビートを刻み込んでいったのでした。そして委員長の歌です。Thank you for let me be myself again!お~っと、いきなりサビから入ります。って、いい加減ですねぇ、歌詞なんかまともに覚える気ありませんから、サビの繰り返しです。ワンコードのリフにワンフレーズのコーラス。なんのこっちゃねんって、これがロニーズバンドです。まあしかし、全体のアンサンブルといい、ビートといい、それなりのダンスバンド風な感触はつかめました。「ロニー、歌はこれだけなの?」ムラちゃんが半ば飽きれた様子です。「だって、時間なくて歌詞覚える時間無かったし・・・」あとは踊ってごまかすからみたいな屁理屈で無理やり納得させた委員長でした。ということで、時間切れ。練習曲はたった1曲にて終了です。明日もう一度練習ということで、スタジオは今日の倍の4時間を押さえて解散。新聞少年アッちゃんも意気揚々と引き上げていきました。「あのドラム小僧はめっけもんだったかもしれないよ」ムラちゃんが委員長にボソッと呟きました。「ありゃ、使えるよ。若いけど腕は確かだね」そう自信たっぷりに言うムラちゃんでしたが、委員長にはルックスがいまいちってことの方が気がかりでした。プロ・ミュージシャン目指すために大学も夜間に行っているという、18歳のドラマー石○君はかなり本気な職人タイプのミュージシャンでした。ニキビだらけの丸顔で白ワイシャツに白の綿パン黒の革靴、ドラムを叩いているとき以外はなんの変哲もないタダの学生という風貌です。委員長は今のメンバーで自身のバンドを想像したとき、これはかなりのファッションセンスの手直しが必要だなぁ、と溜息が出たくらいでした。現在はどうか知りませんが、当時のアマチュア・バンドなんてのは多かれ少なかれこんな感じで、腕のあるやつは音楽一本にのめり込んでて容貌等はお構いなしか、カッコばかりに気を使って腕の方は全くダメというような二者択一でした。ですから、ルックスが良くてテクがあるなんてバンドが現れれば、すぐにでもデビューってな時代でもありました。裏を返せば、結局バンドマンなんてのは、なかなかうだつの上がらない世界でグダグダしているのが殆どだったわけです。当時、チャーが颯爽とデビューしてきて話題になりましたが、「どちらかと言えば、テクよりルックスで集めました」と彼も公言していたように、その当時ルックスまで重視したバンドはいなかったということです。翌日、第二回目の練習に行ってみると、30歳のおっさんドラマーは来ていませんでした。時間がもったいないので、今回はロニーズバンドの仕上げから始めようということになり、早速昨日のおさらい「THANK YOU」をやることにしました。今日はダンサーズの振り付けも入れようってことで、ステージングなどもシュミレーションしながら結構ノリノリで終了。もう一曲の方、JBのI Feel All Rightもサンキュー同様ワンコード一発、アドリブだらけの曲ですから、単純にノリだけの練習です。ただ、この曲は仕掛けがありますから、委員長のベシャリをかましながら進行していきます。ヘイ、ヘイ、アイフィーオーライッ、(ワン・タイム)アッ と歌って、スネアが一発スコーンと入ってブレイクです。Are you ready, next? Two Time! などと委員長のベシャリが入ります。委員長の両脇を固めるダンサーズ、KGとI君が客席に向かって二本指を立ててアピールします。ヘイヘイ、アイフィーオーライッ、(ツータイム)アッ、アッ と歌ってスネアが2発、委員長とダンサーは2回ブレイクして止まります。ここでロボットを見せます。「さあ、次は3回、行きますよ~」てな感じで客席と掛け合いをしながら進めていくわけですが、ブレイクは何回までとか、踊りは何分とか、そういった決め事はまったくなしの出たとこ勝負。いい加減の極みですね。でも、ムラちゃんの言うとおり、この石○君のドラムは、委員長の指示通り気持ちよく引っ張ってくれます。練習とは言いながら、皆踊りが面白いのか、リフのビートが心地よいのか、結構本気で遊んでしまいました。結局、2曲じゃ間が持たないだろうからということで、メンバー紹介をここに入れようと言うことになりました。各自好きなだけアドリブ入れてよし!ということになり、それぞれがアピールを宿題として考えてくるということで練習は終了。ムラちゃんの心配をよそに、これでももう完璧と豪語する委員長。「ムラちゃんはちょっと考えすぎなんだよ。心配ないって。だてに毎日こんな仕事してんじゃないから、お客の心理はよくわかるから」ってまったく理屈にならないような屁理屈で押し切ってしまいました。さて、アッちゃんの方はと言うと、相変わらず30歳のおっさんドラマーは現れません。結局石○君が通して引き受けるということで、後半はアッちゃんバンドのリハーサルを2時間近くやって練習終了。多少荒削りだけどこのまま本番と言うことになりました。「あのおっさん(ドラマーのことですね)ビビッっちゃったんじゃないかな。18歳の凄腕ドラマーに」とムラちゃん。「ボクも彼(石○君です)の方がやりやすかったですね」とアッちゃん。「顔は肉まんだけどね」とシゲル君。(厳しい評価?)ということで、いよいよこの異色バンドのデビューです。
2005年09月02日
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中央線武蔵境に住む夢見る新聞少年との出会いは、委員長に人生の奥深さと音楽の持つ神秘の世界を垣間見させてくれました。さあて、どうしたものかこの話。当時「学祭」といえばアマチュア・バンドの登竜門というか、1年に一度の売名行為のチャンスです。(昔はストリート・ミュージシャンなんていなかったし、チャンスは非常に少なかったですからね)1回でも多くの学祭のステージを踏むことは、それだけ話題に上るチャンスを得るということですから、アマバンドの多くがこぞって実行委員会に売り込みにいったり、コネを使って何とか食い込もうと凌ぎを削ったりもしていました。そんな当時の状況の中で巡ってきた出演依頼ですから、何とか形にしたいムラちゃんと委員長はあーでもない、こーでもないと無い頭を捻りつつ思案しておりました。早い話、新聞少年を利用して自分たちの売名行為に利用するってだけのことなんですが、いずれにせよ肝心のバンドがないことには何も始まりません。バンマス兼マネージャーのムラちゃんが現状を語ります。「スーベはシゲルがいるだろ、ターギはオレがやるとして、あとはタイコがいればとりあえずバンドにはなるけど、鍵盤がないとまずいよなあ、やっぱり」(注)バンド用語はすべて反対読みになります。スーベ→ベース、ターギ→ギタータイコ→ドラムス、鍵盤→キーボード全般を指します。「でもさ、ムラちゃん、こっちでメンツ全部揃えるんだったら何もアツシ君いらないんじゃない?」委員長の素朴な疑問です。「それはそうなんだけど、この短期間で、ロニー、一体何曲レパ作れる?」(レパートリーのことですね)「う~ん、そうかあ、五曲も仕上げらんないだろうなあ」「そうだろ。だからアッちゃん(アツシ君のことですね)とのジョイントはどうしても必要なんだよ。それに彼の場合はコピーをやらないってところが魅力なわけよ」「なんで?」「オリジナルだったら上手い下手は聴く人次第でしょ。もちろん演奏の上手い下手はあるけど、楽曲自体比べようが無いんだから、俺達にとっちゃこれほどやりやすいパートナーはいないわけじゃん。しかもレパは250曲もあるんだから」「なるほど、そこまで考えていたんだぁ。さすがムラちゃん、だてにドンバでシーメ喰ってきたわけじゃないね」(注)ドンバ→バンド、シーメ→めしというわけで、ドンバ根性出し丸(バンド根性丸出し)せこい策略をめぐらせて、何とか学祭への出演を実現しようと一生懸命なムラちゃんに改めて尊敬の念を抱く委員長でした。「ところでロニーの方はどうなの?歌って踊れるソウルバンドって言うからには、せめて3人は踊れるコーラス部隊を作らなきゃ絵にはならないよ」「歌はともかく、踊れるヤツなら声かければすぐ集まるから大丈夫」(え~と、誰にしようかなぁ)とは言ったものの、バンドのステージとなると見栄えだけじゃなく、かなり踊れるヤツを連れてこなけりゃなんないなぁ、とやや不安になった委員長でした。こうなりゃ手っ取り早い方法で、後輩のKGを巻き込んじゃえってなもんで、早速KGを呼び出しました。もちろんコイツもしょーもない道楽者ですから、1年ダブって高校へ復学はしたものの、アフロ頭のままで登校して結局は3ヶ月も経ずしてクビになるという頼もしい後輩でした。委員長のお呼びがかかり、待ってましたとばかりに新宿に馳せ参じたKGでありました。たった1回の学祭のために今更委員長自らメンバー探しも鬱陶しいので、あとのメンバー探しはKGに任せ、委員長はムラちゃんとバンド集めに奔走したのでした。前回のDJバンドで登場したドラムの小熊君をあたってみましたが、秋口から冬場にかけては焼き芋屋さんで稼ぐから遊んでる暇はない、とあっさりお断りされてしまいました。(屋台の石焼き芋売りですね。冬場は相当な稼ぎになるとのことでした)ミュージシャンってのもなんだか地味ぃ~な人生なんだなぁとつくづく思った委員長でした。代わりに、SONYに就職が決まったというムラちゃんの元バンドメンバー、H氏がエレクトーンならばという条件付で参加を申し出てくれました。これでドラムが見つかれば取りあえずは何とか格好がつきそうです。こうなったら手当たり次第に声かけまくって、誰でも良いから引っ張ってこようということになり、新聞少年アッちゃんにも「少しは手伝えよ」みたいなプレッシャーもかけ、ドラマー獲得に全力を注いだのでした。学祭のコンサートと言っても出演バンドは幅広く、会場も幾つかの教室や屋外に設営されるので、1時間も演奏できれば良い方で、名前の売れていないグループだったら30分かそこらでどんどん入れ替わっていくようなパターンが一般的でした。もちろん体育館とか運動場あたりに設営するステージの場合は、かなりメージャーなバンドをトリにして、前座は部外者ではなく大抵その学校の同好会とかが仕切るので、これは中々出演が難しいわけで、今回の出演依頼もROCK同好会による教室でのコンサートでした。教室に作られたステージですから、小さなライブハウスみたいなもんで、収容人数は50人入れば満席と言うようなこじんまりしたものです。KGがI君というアフロ頭の少年を連れてきたのは、委員長がKGに指令を出したわずか翌日でした。「踊りはともかく、ルックスが良くて背丈が揃うヤツを連れて来い」という委員長の命令に従ったKGは、言いつけどおり背丈の揃ったやや童顔の少年を見つけてきたのでした。どうせ歌や踊りを満足に仕込んでる時間なんてないんだから、取りあえず見た目でハッタリかますしかないと判断した委員長でした。どっちにしろ主役はオレだし、両脇を固めるだけの出番なんだからたいした期待もしていませんでした。(道楽にもかなり年季が入ってきたこのころでしたから結構生意気ですね)そんな手はずを委員長がシコシコと整えている間に、ムラちゃんのところにはドラマー見つかるの連絡が入り、それなら早速練習に入っちまおうということで、またまた下北沢のスタジオに集合となりました。ところで委員長のソウルバンドのレパは何になったのでしょうか。英詩を覚えるのも面倒くさいし、歌って踊るとなるとあまり長い歌はダメだろってことで、委員長がシゲルと相談して見栄えだけで勝負できる曲を選んだのでした。しかしホントに根がいい加減ですから、ステージ上がりゃどーにかなるだろくらいのもんで、テキトー極まりないですね。でもって課題曲は、スライ&ファミリーストーンの「THANK YOU」です。シゲルも自分の見せ場はチョッパーしかないってくらいに入れ込んでましたから、すぐに決定です。それでも1曲じゃまずいんじゃないの、ってことで、もう1曲はジェームス・ブラウンのライブアットアポロからの「I Feel All Right」を選びました。凄いですね。この曲は歌というよりも、ほぼお客との掛け合いみたいなもんで、「ヘイヘイ、フィーオーライ、ワンタイム!」って叫んで1回ブレイクが入るって単純なものです。で、段々数を増やしていって「ツータイム、アッ、アッ」、スリータイム「アッ、アッ、アッ」とか言う感じで、お客とのやり取りをしながら盛り上げていくわけです。実際ライブ盤でのJBは、曲と曲の間にアドリブ的に入れてステージ全体を盛り上げるために使っていたのですが、委員長はこのアドリブをメインに持ってきちゃったんですからもうデタラメもいいとこです。もちろん、SOULの神様JBを歌うなんてのは百年も早いわけで、歌というよりアトラクションみたいな感覚で選曲したまでです。委員長の頭の中では、このブレイクに合わせてロボットでも見せてやればお客が喜ぶだろうと、ディスコならではの趣向で観客を完全に舐めきった演出を思いついたのでした。とにかく目立って、客がよろこびゃ良いんだろう、みたいな典型的道楽者根性出し丸ですね。
2005年09月01日
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