本日の記事は、「直江津から糸魚川へ( その1 )( その2 )( その3 )」の続編となります。
11月12日糸魚川のホテルに到着したところで自転車が壊れたことは既に述べました。
ホテルにチェックイン後、駅前の方へ食事に出る。
(糸魚川駅前の通り)
駅前にも奴奈川姫の像がありました。
こちらの像は右手を下にして軽く差し出している。説明書きを読むと彼女と握手すると「願い事が叶う」とある。まあ、それを信じる訳ではないが、試しに握手してみる。握手し易い形に作ってあるので、しっくりと違和感なく、いかにも握手である(笑)。翌朝の彼女の写真も並べて置きましょう。


(奴奈川姫像)
駅前の物産センターのヒスイ館に入ると巨大な翡翠の原石が置いてある。昔、白馬岳登山をした帰りに途中下車したことがあり、その折に、これは見た記憶がある。2階に上がると和食の料理店があったので、そこで夕食とする。
(ヒスイの原石)
翌13日もサイクリングをする予定でありましたが、自転車が壊れては如何ともし難い。壊れた自転車は宅配便で自宅に送り返す。
という訳で翌日はホテルで朝食を済ませた後、早々にチェックアウト。近くを散歩して、12時20分発の北越で金沢、金沢からはサンダーバードに乗り換えての帰阪と相成りました。
さて、ホテルを出て駅方向に歩いて行くと「良寛詩碑」の標識。誘われて行ってみると、単伝山直指院という寺の境内にその詩碑があった。
余将還郷 至伊登悲駕波
不預寓居于客舎 聞雨凄然有作
一衣一鉢裁随身 強扶病身坐焼香
一夜蕭々幽窓雨 惹得十年逆旅情
良寛禅師作 御風拝書
余まさに 郷 に還らんとして 伊登悲駕波 に至り
不預 客舎に寓居す 雨を聞き 凄然 として作あり
一衣一鉢わづかに身に 随 ふ 強いて病身を 扶 け坐して香を 焼 く
一夜 蕭々 たり幽窓の雨 惹き得たり十年 逆旅 の情
詩は、良寛が岡山県玉島の円通寺での修行を終えて帰国の途次、糸魚川で病気になり、社人の家に投宿し、夜、香をたき、雨を聞きながら作ったもの。この碑は、昭和5年良寛の百年忌に相馬御風が主宰する短歌会、木蔭会によって建立されたもので、碑の字は御風の肉筆、と副碑に書いてある。
(良寛詩碑)

(単伝院直指院)
相馬御風は早稲田大学の校歌「都の西北」や童謡「春よこい」の作詞者で知られる歌人、詩人であるが、その後半生は良寛研究に打ち込み、ここ指直院にもよく滞在したとのこと。

(日本一大きい翡翠の勾玉)
駅構内、改札口の前に大きな翡翠の勾玉が鎮座している。日本一大きい勾玉とある。こんなものをつけたネックレスをしたら首の骨が折れますな。
駅前に何やら石碑がある。近寄って見ると、相馬御風詩碑であった。碑文は「ふるさとの山はなつかし ふるさとの川はなつかし・・」という「ふるさと」の歌詞である。
(相馬御風詩碑)
こうなっては、昨日、立ち寄らず通り過ぎた相馬御風宅を訪ねなくてはなりますまい。
相馬御風宅は糸魚川駅正面のヒスイロードを行き、奴奈川姫像のある公園を右折して直ぐの処にある。
(公園)

(相馬御風宅)
御風はその最晩年をこの家で一人暮らしていたそうな。では、家の中へお通り下さいませ。
(応接室・洋室)

(居間)

(台所)

(土蔵)


(相馬御風像と写真)
あ都散遊美 波留能知萬當尓 古東もら東
末理川久保布志 以まあら那久二 (相馬御風)
<参考>
相馬御風(1883~1950)の生涯その他は糸魚川市歴史民俗資料館(相馬
御風記念館)のホームページからご覧下さい。
御風の生涯
御風と良寛
多くの校歌を作詞
校歌以外の作詞
代表的な作詞曲
史跡・相馬御風宅
御風の文学碑
<追記・注>
写真2枚(「奴奈川姫像(左)」「日本一大きい翡翠の勾玉」)
が横倒しの歪んだ画像になっていたので、2020年11月13日これらを復元修正しました。
●
過去記事の写真が歪んでいたりすること
2020.10.12.
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