< 承前 >
佐和山トンネルを出ると道は長い下り坂。やがて歩道が無くなり、車道を走ることとなる。東海道新幹線を潜り、最初の信号で右に入ると中山道。鳥居本宿である。
先ず、北に向かう。
鳥居本宿は番場宿(米原市)と高宮宿との間に位置し、北国街道との分岐点となる交通の要衝である。
鳥居本宿の名物は、赤玉神教丸、合羽、西瓜で「鳥居本宿の三赤」と呼ばれていた。今は合羽も製造されなくなり、鳥居本西瓜も皮が厚いことが不評で姿を消し、胃腸薬の赤玉神教丸のみが健在。
先ず目に入ったのは合羽の看板。
街道筋には10軒もの合羽屋があったとか。
鳥居本の合羽製造は、享保5年(1720年)の番場弥五郎の創業に始まるという。柿渋を用い保湿性と防水性に富んだ鳥居本合羽は人気で、旅人はこぞってこの合羽を買い求めたという。
写真の看板は黄色だが、鳥居本合羽は柿渋を塗る際にベンガラを入れたので赤い色をしていた。
鳥居本宿が置かれたのは、慶長8年(1603年)のこと。江戸からやって来た奉行の嶋角左衛門の命で、小野宿をこの地に移したことによる。
小野で本陣を勤めていた寺村庄兵衛が鳥居本宿の本陣を務めた。
本陣跡の建物はヴォーリス設計によるもの。それ自体も近代化遺産として高く評価されている。
本陣跡の向かいも合羽屋さん。こちらの看板は軒下に吊り下げられているが、本来は屋根の上に掲げるのが正しい。
此処は湖東焼の自然斎の住居跡。
湖東焼は、彦根藩の保護の下で生まれた焼物。幕末期の安政3年(1856年)には、原村の右平次、高宮村の善次郎らと鳥居本村の米屋・治平(自然斎と号した)が株仲間を結成して、湖東焼の土産物販売を積極的に展開している。
中山道となるとデイサービスセンターもこのような建物となる。
鈴の音に 聞かばや風の 夕まぐれ
わがまつ虫の 秋はいづちと (偐家持)
「鳥居本宿三赤」のうち、唯一今も健在という赤玉神教丸であるが、その有川家建物も亦このように今も健在なるはご同慶にて候。
(矢倉川 右は国道8号線) <参考> 矢倉川
矢倉川を渡り国道8号線を北に少し行くと摺針峠への登り口。今回は峠まで向かう。
「道はなほ学ぶることの難 (かた)
からむ斧を針とせし人もこそあれ」
その昔、また諸国を修行して歩いていた青年僧が、挫折しそうになっ
て、この峠にさしかかったとき、白髪の老婆が石で斧を磨ぐのに出会
います。
聞くと、一本きりの大切な針を折ってしまったので、斧をこうして磨い
て針にするといいます。そのとき、ハッと悟った青年僧は、自分の修
行の未熟さを恥じ、修行に励み、後に、弘法大師になったと伝えられ
ています。
その後、再びこの峠を訪れた大師は、摺針明神宮に栃餅を供え、杉
の若木を植え、この一首を詠んだと伝えます。
この後、峠は「摺針峠(磨針峠)」と呼ばれるようになりました。
(彦根観光協会「観光情報」中山道擂針峠より転載)
江戸時代には望湖堂という大きな茶屋があり、平成3年(1991年)まで保存されていたが火災で焼失したとのこと。
現在の建物は焼失後に建設されたもので、望湖堂を復元したものではないというのが残念。
旧の峠道は上のような道にて、荒れ放題。とても登る気にはならぬ。
実際のサイクリングでは摺針峠には参りませんので、これは道草。往復のロスタイムは僅か21分。
「摺針峠の山の宿場で番場というところがござんす。」番場の忠太郎に因んで、瞼の母の歌を下にリンクして置きます(笑)。
<参考>
番場の忠太郎
島津亜矢
瞼の母
中村美津子
では、今日は此処まで。つづきは明日です。( つづく
)
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