今日は一日気持ちが落ち着いていた.
夕方からの鬱や, 買い物の際の外出恐怖もそれほど辛くなかった. こういう日があると落ち着けるので助かる.
何冊かの本を読んだ.
自分に課しているわけではないが, 読むのが遅いので数冊の本を並行して読んでいる.
そのうちの一冊にスーザン・ケインの『Quiet』がある. 読み始めて 5 年か 6 年になると思う. 繰り返し読んでいる.
この本は内向的な性格というものをいろいろな側面から堀り下げたものだ. 自分自身がもともと内向的な性格ということもありどのテーマにも興味を持てるために, 手元に置いて何度も読んでしまう.
スーザン・ケインはアメリカ人なので, 紹介されている実際の例はアメリカで暮らす人びとが主役になっていることが多い. そのため欧米人と日本人の気質の差を読んでいて感じることもある.
一方で, 住んでいる地域に関わらず内向的な性格の普遍的な特徴や生き辛さなどを知ることもできる.
社会とうまく馴染めなかったり, 学校のクラスで低く見られたりいじめの対象となったり, 外向的な人たちとうまく付き合えなかったり, 親からもっと友だちと遊ぶように言われたり, 下手をすると病気を疑われたり, シリコンバレーでのアジア系の人びとの存在感だったり, HSP (Highly Sensitive Person: 高度に感受性の強い人) の生き方だったり, 本当にいろいろのテーマが扱われていてとても面白い.
ある章では, 内向的な人と外向的な人とのコミュニケーション, 付き合い方を取り上げている. 章の題名は『コミュニケーションギャップ (The Communication Gap)』で, 内向的なエミリーと外向的なグレッグの夫婦の間に起こった対立と解決がテーマとして書かれている.
自分も外向的に振る舞う人たちとのコミュニケーションが時折わからなくなるので, 共感できることが多かった. だが, 自分にグレッグと折り合いをつけることができたエミリーと同じ考え方・態度が取れるかどうか.
30 歳のグレッグと 27 歳のエミリーの夫婦は, 互いに愛し合うと同時に互いに苛ついてもいる.
グレッグは, 誰もが社交的だと言うくらい非常に活発である.
エミリーは静かで穏やかで, 人と話すときには伏せた睫毛の下から相手を見つめるようにする.
二人は確かにお互いを必要としている. エミリーが居ないとグレッグは寂しさを感じるし, グレッグが居ないとエミリーは仕事に出かける以外外に出なくなってしまう. しかしいつも衝突しているのだ.
問題は毎週末にグレッグが自宅に友人を招いて開くパーティーで, 彼はこのパーティーにエミリーも参加して夫婦でホストとして振る舞うことを要求する. しかしエミリーはそれが嫌なのだ. パーティーに参加して, たまたま話がはずむと彼女はそのグループにずっと居てその話題についてもっと深く話したいと思う. グレッグはそれを咎めてもっといろんな人と話すようにと促す. 彼はエミリーと一緒にパーティーのホストをしっかり務めなければと考えているのだ. エミリーはちっともパーティーが好きではない.
このときのエミリーの辛さは, 自分自身も友人や親から事ある毎に言われてきたのでよくわかる.
どうしてそんなに皆と快活に話さないといけないのだろうか.
グレッグとしては, エミリーはもっと努力すべきだと思っている. 夫婦なのだから.
エミリーは一体わたしの何がいけないのだろうと自分を責めて内に籠もってしまう.
このエミリーの内に籠もるという対応も自分そのもののように感じる. 子どものときに両親や教師から, もっと活発に明るくしなさいと言われた苦痛を思い出す.
それでエミリーとグレッグは最終的にどうなったかというと, お互いの苛立ちを超えて話し合うことで問題の妥協点を見出だすのだ.
毎週開いていたパーティーの回数を減らす.
その雰囲気も皆が一つの大テーブルを囲んで一緒に楽しむ形式から, 小さなグループで個々の話題を楽しめるようにいくつかのテーブルを置いた立食形式にする. グレッグはパーティーを取り仕切る中心として忙しく各グループに顔を出し, 誰もが楽しめるよう気を配る. エミリーはその日の具合で気に言った話題のグループに参加し, 時には一対一の会話を楽しむ.
お互い自分だけの時間と空間を持つようにして, 必要以上に干渉しないし立ち入らない.
これは知性だと思う. こういうことができるパートナーを持てた彼らは幸せだと思う. 自分はずっとエミリーに感情移入して読んでいたのだが, 最終的にエミリーの立場に耳を傾けたグレッグにも共感できる.
しかしエミリーのように正直に相手にぶつかることができるだろうか, 反面グレッグのように相手の立場に立って物事を考えられるだろうか. わからない. もしかしたらできないかも知れない.
この話の中で, 考えさせられる寓話が紹介されている. おそらく内向的な人でも外向的な人でも何かしら引っ掛かるところがあると思う.
あるところに一匹のコブラが居た. 誰かれ構わず噛むので村人から恐れられていた. ある日, ヒンドゥー教の行者がやってきて, コブラに噛むことは悪いことだと言って諭す. コブラは納得して以後人を噛むのを止める. 村人は安心するが, しばらくすると今度は子どもたちが噛まないコブラを馬鹿にして虐待するようになる. 血だらけになったコブラは行者に言う ── こんなことになるなんて話が違うではありませんか. 行者はコブラに言う ── お前には噛むなとは言ったが, されるがままにしろとは言っていない.
ずいぶん前だが, 自分には傲慢だった時期がある. 内向的な自分をカバーするために, 無理をして強く振る舞っていた. そのうちに相手を下に見るようになり上から目線の態度を取るようになってきた. 今から思うと自分の中に人を下に見るような意識が強くあることを知ってショックだが, 実際に不遜な態度をとる人間になっていたのだ.
鬱が悪化してその無理が効かなくなったときに, 今度は周囲から非難され否定されるようになる. まったく自業自得だ.
結局仕事の仲間や知人から断交や人格否定をされて倒れたが, その間ずっと, ほぼされるがまま言われるがままだった. 反論する気力はどこにも無かったのである.
どうしても, 寓話のコブラと自分を重ねてしまう. 読み返す度に考えるのだが, まだ答えを見つけたと感じられたことは無い.
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