小鳥
小樽へ駆けつけて姉のやつれた顔を見たとたんに涙がこぼれた。姉は僕が日本を離れている間に傷だらけの小鳥のようになっていた。
「純、お帰り。帰ってきちゃったのね。心配かけちゃったね。ごめんね。姉ちゃん、うまくやれなかった。姉ちゃん、夫に愛されなかったの。それでも、赤ちゃんができれば、純より大切な人ができて幸福になれるんじゃないかと思ったの。なのに、なのに亡くしちゃったの。罰かもしれない。だまして結婚した女に神様が罰を与えたのかもしれない。」姉は、声を殺して泣いた。
僕のせいだと思った。僕がいなければ姉は普通の恋をして幸福な家庭を作っただろう。幸福な家庭で育った穏やかな性格の女だった。ただ、とても美しい。その美しさや、優しさに僕がのぼせたからいけなかった。
僕が馬鹿な遊び方をしなければ普通の仲のいい兄弟で暮らせたはずだ。姉の忍び泣きが余りにも辛かった。放っておくことができなかった。
「姉ちゃん、僕ちょっと大人になったよ。馬鹿なことしないから大丈夫だよ。いろんなことがあったんだろ。全部僕に話してよ。嫌なことは全部僕が引き受けてやる。姉ちゃん、すっきりして東京へ帰ろう。東京で、また、幸福なお嬢さんに戻ってくれよ。僕、姉ちゃんの辛かったこと全部引き受けてやるよ。大丈夫だよ、落ち着いたらアメリカに帰る。もう一年行かなきゃだめだ。姉ちゃん、東京でパパとママと落ち着いて暮らしてくれよ。僕、日本に帰ったら東京以外で就職するよ。絶対姉ちゃんにつらい思いをさせないよ。」
姉は、しばらく泣いていた。「ごめんね。純にそんな悲しい決心させちゃって。」といって毛布で顔を隠してしまった。「パパにもママにも話せないの。こんな話をしたらパパもママも本当に卒倒しちゃう。誰にも話せない恥ずかしい話よ。純だけよ。お願い誰にも言わないでくれる?」と念を押した。
姉は毛布で顔を覆ったまま話し出した。「夫は、ただ、食事をして姑と話して眠るためだけに家に帰ってきたの。そして、寝室に入った時だけ私に笑いかけて、きれいだよっていうのよ。いつも同じセリフよ。最初はそれが本心だと思ったわ。でも、だんだんそれは夫のルーチンワークだとわかってきたの。ただ、それをするためだけに言うのよ。決まった時間に決まったようにそれをするのよ、純。決まった時間に終わるの。ただ跡取りを作るためだけの作業だったの。どんなに嫌がっても、泣いても聞き入れてくれなかった。余りてこずらせると平手が飛んできた。腫れた顔で朝食の準備をしたのよ。お手伝いさんと二人で。」姉は、そのまま顔から毛布を外すことは無かった。
「野郎、殺してやる。」と思った。姉は僕が絶対手を触れてはいけない女だった。どんなに自分のものにしたくても手を出してはいけない女だった。その女を凌辱して大切な子供、姉の子供を殺しやがった。
僕がトイレに立って戻ったときには、姉がソファーに座って目を閉じていた。泣きはらした目だった。一言もしゃべらない。僕もだまってPCを開いた。重苦しい沈黙の中でただモニターを眺めているだけだった。
父からも姉の結婚生活が悲惨なものだったことを知らされた。それを知らせてくれたのが当時、長谷川家のお手伝いさんだった宮本さんだった。宮本さんは、見るに見かねて父に手紙をくれたのだった。その手紙を見た父が、すぐに姉を救い出して離婚の手続きに入った。
僕は小樽にいる間に宮本さんと連絡を付けた。どのみち長谷川家で働いていてもいいことなんかないはずだった。実際、長谷川さんは姉が家を出たのをきっかけにして解雇された。
僕は大阪の祖母に相談して、大阪の家のお手伝いさんとして宮本さんを雇ってもらった。誰にも相談しなかった。誰にも報告しなかった。僕が姉のことに深入りするのを家族に知られてはいけなかった。
続く
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2019年07月12日
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