全7件 (7件中 1-7件目)
1
【楽天ブックスならいつでも送料無料】【DVD3枚3000円2倍】大追跡 [ プール・ヴィル ]価格:1,000円(税込、送料込) 小学生のときに、ルイ・ド・フュネスというフランスの喜劇俳優のファンになった。ド・フュネスが主演した『グランド・バカンス(1968)』を見て、大笑いしたのだった。 じつのところ、ルイ・ド・フュネスに初めてお目にかかったのは、『ファントマ/ミサイル作戦(1968)』だった。こちらのド・フュネスは、怪盗ファントマを追うコミカルな警察署長ジューヴという役どころだった。 『ファントマ/ミサイル作戦』は満足度の高い映画だったが、やはり主演映画である『グランド・バカンス(1968)』は、ド・フュネスの魅力満開だった。なにせその日は、続けて2回見ちゃったくらいだからね(その頃は、今みたいに入れ替え制ではなかった)。 しかしながら、ファンと言っても当時はまだ子供だし、地方に住んでいたから、ド・フュネスの映画を追いかけることはできなかった。 テレビで、『ファントマ』のシリーズが放映されると、ファントマとともにド・フュネスの爆笑演技に注目していた。 そして、待ちに待ったド・フュネス主演作をようやく見ることができたときは、高校生になっていた。題名は『大沈没(1968)』。 この映画はあまりにも笑いすぎて腹が痛くなり、それどころか呼吸も何も満足にできなくなってしまった。笑うというのは楽しさや愉快さに対する感情なわけだが、このときは笑い地獄ともいえる苦しさから「もう笑わせるのはやめてくれ〜」と言いたかった。 一緒に見に行った高校の先輩も、笑いが止まらず、笑いの元を絶つべくスクリーンから目をそらしたが、それでもおさまらず、身体を丸めてなんとかこらえようとするうちに座席から転落した。そんでもって、床に散乱するポップコーンにまみれてまさに笑い転げていた。 映画館というのは、観客のお互いの笑い声が相乗効果になって、ますます笑いが大きくなる。みんなが楽しく笑っているときは、ひとりでいるときより気持ちが解放されるのだと思う。 でも、しかし、今回久しぶりに『大追跡』でド・フュネスに再会し、ひとりでビデオを見たわけだが、おもしろいものはおもしろい。思わずふきだすことしきりだった。映画館で見たら、きっと映画館中が激笑にあふれたことだろう。 映画の中で連発されるおバカなギャグとともに、何といってもド・フュネスのキャラクターがとっても楽しい。 しかめっ面というか苦虫を噛み潰したような表情の小男が、本人は大まじめでアホなことをするわけだ。 『大追跡』では、ギャング・グループのボスなのだが、ボスとして手下に威張れば威張るほど、アホ丸出しになる。 全編に繰り広げられる迷場面のうちのひとつがこれだ。犯罪に使う車がパンクしたり破損したりしてボロボロになってしまった。一晩で修理しないと都合が悪ってことで、ド・フュネスは大急ぎで修理工場にもっていき、夜中に工場主を叩き起こす。そして、工場主を脅して修理をさせると思いきや、なんとタイヤ交換からボディの穴を塞ぐことからさっさかとひとりで作業し、全部自分できれいに仕上げてしまうのだった。そして、なおかつ料金まで支払って意気揚々と帰っていく。工場主は不労所得を得て大喜びだ。 おそらくルイ・ド・フュネスと言っても知らない人が多いと思う。 DVDも、ファントマ・シリーズとこの『大追跡』くらいしか見られない。 とても残念なことだと思う。人気ブログランキングへ
June 28, 2015
コメント(1)
【送料無料】ゾンビランド/ウディ・ハレルソン[DVD]【返品種別A】【smtb-k】【w2】価格:3,591円(税込、送料込)『ゾンビランド』は、ゾンビが登場する青春ロードムービーといった趣きの映画だ。 数人のグループがアメリカを旅するのはよくあるパターンだ。ところが、この映画の舞台となっているアメリカは、ゾンビの跳梁跋扈する世界だったのだ。青春ロードムービーを、ゾンビで味付けしたらおもしろかろうと考えたのだろう。ゾンビは添え物だね。 確かに『バイオハザード』のシリーズも、登場人物がゾンビのいない安息の地をめざして旅をするそんなところがヒントになったのではないか。 それはともかく、『ゾンビランド』は、ホラー・ファンのぼくの期待に十分応えてくれる映画ではなかった。 ぼくはホラー・ファンではあるが、ゾンビそのものは、好みではない。個体のモンスターやクリーチャーがいい。ゾンビは群れで襲ってくるから、モンスター、クリーチャーとしての際立った個性を感じない。その十把一絡げなところがいやなのだ。 でも、ホラーファンたるもの、たとえゾンビが好みではなかろうが、その系統の映画は見る。 その結果、『ゾンビランド』は青春ロードムービーであって、それなりにはおもしろかったが、ゾンビの恐怖や襲撃を主体とした映画でなかったと分かった。残念ながら、この映画は自分のストライクゾーンではではない。 もともとゾンビは、映画の中で有象無象である。古典的な狼男やドラキュラ、新しいところではジェイソンやマイケル・マイヤースのように、映画の中心となることができるキャラクターとは異なる。だから、青春ロードムービーと組み合わせると、余計にゾンビの存在感が希薄になるんだと思う。 ちなみに、『ゾンビランド』はコメディタッチなのだが、ホラー・コメディというカテゴリーは打ち気満々。『ゾンビランド』は、青春ロードムービーの世界だったが、ホラーの世界でコメディをつくったものなら、思いっきりバットをスイングする。たとえ空振りでも。
May 3, 2011
コメント(1)
ゾンビの恐さとは、まず噛まれた人もゾンビになってしまうことです。実際ゾンビになってしまえば、自分がおぞましい姿になっているかどうかなんてことはわかりゃあしない。でも、生きてるときはゾンビなんぞになりたくないわけです。だから、映画の中では、噛まれたとわかると自殺しちゃう人もいます。 そして、もうひとつ恐い点は、夥しい数のゾンビが襲ってくることです。ゾンビを倒すには、頭を吹っ飛ばさなければなりません。襲われた人たちは、銃を撃ったりや鈍器で殴ったりして迫り来るゾンビの頭をかち割ります。けれどゾンビは一人や二人じゃない。一体のゾンビの頭部を粉砕していると、次のゾンビが来る。またその次も来る。そしてゾンビは大群で押し寄せてくる。そのうちに応戦するのに疲れちゃって餌食になっちゃいます。 もし、そんなゾンビがあふれかえる渦中におバカが巻き込まれたとしたら・・・。「ショーン・オブ・ザ・デッド」は、大胆にもゾンビVS.おバカに挑んだ映画なのです。 ショーンはロンドンの家電販売店に勤めています。とろい彼のことを若手店員はなめきっています。優柔不断なために長年つきあった彼女から愛想をつかされます。そして、世の中にゾンビが蔓延し始めてもショーンは全然気付きませんでした。 しかし、ショーンもついに立ち上がるときが来た。彼女と自分の母親を救出して、安全な場所に避難するのだ。 イギリス人ショーンは、クリケットのラケットを持ち出してゾンビの頭をひっぱたき破壊します。これはオーソドックスな戦法だ。なにせこの映画、おバカが主役なのに、ゾンビたちはホラー映画のゾンビと変わりありません。人肉を食らったり、脳みそが吹き飛んだりなどリアルな残酷描写たっぷり。まさに通常のゾンビ映画におバカが紛れ込んだ感じです。 ところが、ここらあたりがショーンの真骨頂。なんとかゾンビをかわしてショーンと母親、彼女、友達の一行は、避難先と目論んだパブ(ってのもおバカのひとつ)まであと一歩のところまで来ました。そうしたらパブの周囲はゾンビの群れがくろついているではありませんか。 さて、どうやってパブまでたどり着くのか。 そこでショーンが考えたのは、一行がゾンビと同化すること。ゾンビのように無表情でフラフラ歩きをしてカモフラージュしようというもの。 確かに擬態というこのアイデアは今までのゾンビ映画になかった(当たり前)。けど、ゾンビってどうやって人間とゾンビを見分けていたのだろう。ゾンビは人間を食べるのだから、やっぱり臭いとか体温とかそんなところで察知しているんでしょう。 だから、無表情とフラフラ歩きを装ってもゾンビを誤魔化せないだろう。ショーンたちも、必死にゾンビを演じていてもいつバレるかドキドキハラハラ。このおバカぶりは一見の価値が大ありです。 「ショーン・オブ・ザ・デッド」と同じロンドン、イギリスを舞台とするゾンビ映画が「28日後...(2002)」、「28週後...(2007)」のシリーズです。こちらのゾンビは凶暴性を抑えきれず全力疾走する。さあ、そんなときショーンはどうする。ゾンビ集団に混じって走りまくり、フェイントをかけて急にショーンのグループだけコースをはずれるとか・・・。
July 19, 2009
コメント(12)
パッケージに“ファレリー兄弟”の名前があったので、このDVDを借りました。 実際は、ファレリー兄弟は制作を担当し、監督作品ではありません。でも、ファレリー兄弟色満載の映画でした。 ファレリー兄弟が監督した映画は、ほとんど見ています。キャメロン・ディアスが出演した「メリーに首ったけ(1998)」や、最近ではドリュー・バリモアの「2番目のキス(2005)」など。どれも、とても個性的な作品で、ファレリー兄弟ならではの味があります。 ファレリー兄弟らしさというのは、ともするととても“危ない”。たとえば、「愛しのローズマリー(2001)」なんかは、タイトルロールのローズマリーは、魔法をかけられて人の内面が見えるようになった主人公からするとすごい美人に見えちゃうのだけれど、実像は極度に肥満した女性、というような具合に“危ない”。 コメディでブラックな笑いにしながら、“危ない”部分にどんどん突っ込んでいきます。ほかの人が避けて通ろうとするところに、あえて踏み込むのがファレリー兄弟でしょう。内面的には素晴らしい人なのだが、見た目にはひどくぶっさいくという設定なんかまさにそうです。人は外見ではないことを強調しているわけですが、主人公にだけ見える美男、美女の役ではなく、ぶっさいくな方の役をやった人はどんな気持ちだったのでしょうか。 さて、「リンガー!替え玉選手権」です。“リンガー”とはなんぞやと、でぃくしょなりぃを調べましたところ、“輪になっている人”、ちがうなあ。“鐘を鳴らす人”って、和田アキ子か。これもちがう。“そっくりな人”、映画の内容と照らし合わせるとはこれですね。 主人公スティーヴは、かつて陸上競技選手として記録を残していました。また、役者を志していたこともありました。それらの経験を生かし、知的障害者になりすまして“スペシャル・オリンピック(知的障害者の競技会)”に出場しないかと誘われます。裏のレース賭博で一攫千金を得ようとのたくらみなのです。 ね、メチャメチャ危ない内容でしょう。こんな話はありなのかと、ハラハラドキドキしました。 この映画には、スペシャル・オリンピックをめざすスティーヴの仲間として、障害者の皆さんが多数出演しています。 障害児教育に障害を捧げた教師の伝記映画「春男の翔んだ空(1977)」には、障害児たちが出演していました。セリフの声は吹き替えの部分があったり、子役が混じって演技をしたりしていましたが、彼らの屈託ない様子をカメラがとらえていました。 タイ映画の「ダブルマックス(2004)」にも、障害者が、じつにいい味を出しながら出演していました。個性的な役者として、力を発揮している様子がわかりました。 スティーヴは、競技期間中に、障害者の仲間と一緒に生活し、彼らの素直さに諭されていきます。スティーヴ自身はもともと、とてもやさしい人です。スティーヴは、会社から、使用人に対して解雇を言い渡すように命じられます。けれど、辞めさせようとした相手に同情して、クビにするかわりに会社以上の条件で、スティーヴ自身が雇ってしまうくらいです。 そのやさしさは、きっと会社の中では通用しないのでしょう。あるいは、やさしすぎて、周囲からは変人扱いされるのではないか。また、やさしさいがゆえに、スティーヴは、人から言われると断れない優柔不断さももっています。 そんなスティーヴですが、障害者たちのじつに端的で明快な考え方、人に対する思いやりなどに、目を覚まされていきます。世の中に惑わされるのではなく、自分らしさや自分のやりたいことを追求するのが大事だとわかってきます。 リンガー(そっくりな人)というタイトルは、スティーヴが障害者のふりをすることのみならず、そこには障害者も健常者も、同じ人間なんだとのメッセージが込められているように思います。 ファレリー兄弟の作品の中で「ふたりにクギづけ(2003)」は見ていませんでした。この映画は、腰のところでつながった結合双生児が主人公です。ちょっと恐くて、今まで見ることができませんでした。けれど、「リンガー!替え玉選手権」の印象から、つぎは「ふたりにクギづけ」を見たくなりました。人気blogランキングに参加中。クリックしてね。ご協力、よろしくお願いします。
April 6, 2008
コメント(0)
アシュレーはラッキーガール。何をやってもうまくいきます。雨が降っていても、彼女が外に出れば青空に。スクラッチカードは必ず当たり、仕事も急場しのぎのアイデアが認められ、法人クレジットカードをの使用を許可されるまでに。一方のジェイクは、何をやってもうまくいかない。水溜りに落っこちる、お金を拾うとするとズボンが破れ、お札には犬の糞がくっついている。 その二人が、仮装ダンスパーティーでキスを交わす。そうしたらアラ不思議。ジェイクはツキまくって、あれよあれよと言う間にマネージメントをするバンドがメージャーデビュー。それに反してアシュレーは、職を失い、逮捕されて留置場に入り、セレブの彼氏とは別れる破目に・・・。「ラッキーガール(2006)」監督:ドナルド・ペトリ出演:アシュレー:リンジー・ローハンジェイク:クリス・パイン 例えば同期に入社した社員がAとBいたとします。Aは、重要な仕事を任されたり、海外出張にも行かされるなど、何かと忙しい。それに対してBは、退屈な日常を送るばかり。Bがぼやきます「Aは運がいいな」。 しかし、それはちがいます。Aは一生懸命に仕事をする。上司の指導をよく受け止め、社員の間でも人柄が認められているのです。一方のBは、仕事の手を抜く割りに態度がでかい。他人に対して批判的でありながら、力のある人間には擦り寄るといった行動をとりがち。 これは、人間性や生き方のちがいです。誠実なAの方がとんとん拍子でいっても決しておかしくありません。それを運ととるところが、Bの浅はかさか。人間の性格は、育ち方によるところが大きいので、そこに運、不運があるということもできるかもしれませんが。 アシュレーは、ジェイクとキスしたことで、運を吸い取られてしまいます。運を返してもらおうとジェイクを探しますが、当日彼は仮装パーティーでマスクをしていたので、どこのだれかがわからない。その場にいた男を捜して、次々と唇を奪う?スクラッチカードで運が戻ったかどうかを見るけれど、全然あたらない。そして、不運ばかりが襲います。 セレブになったジェイクは、落ちぶれたアシュレーを町で見かける。かつての自分を見るようで放っておけなくなり、ジェイクは、かつて自分がやっていた仕事(ボーリング場の雑用係)をアシュレーに世話するのです。 そして、仮装パーティーでキスをしたのがジェイクだと判明します。強引にキスをして、運を奪い返すアシュレー。しかし、運を失ったジェイクは苦境に立たされる。マネージメントをするバンドのコンサートが、土壇場で開催不能に。アシュレーは運をジェイクに戻し、危機を救う。そして、一人立ち去ろうとする。そこへジェイクが駆けつけ・・・。 かつてはできる女として、広告会社で華やかな活躍をしたアシュレー。運をなくしてしまったために、ボーリング場の雑用係として、トイレ掃除や電灯の取替えなどに追われる。失敗を繰り返し支配人にどなられながらも、けなげに、懸命に働く姿は、ジェイクでなくとも手を差し延べたくなります。ドン臭くても不器用でも、キミのように、手抜きをしないでがんばる人は、とても愛おしい。 お互いの気持ちを確かめ合ったアシュレーとジェイクはキスを繰り返し、運はどちらへ行ったかわかりません。そして二人して、同時にツキのない少女の両頬にキス。そうしたら少女のスクラッチカードはいきなり25ドルの当たりくじ! ちょっと待って。運と不運が同時に注入されたらプラマイゼロなんじゃないの?まあそれはいいでしょう。もう強運がなくたって、アシュレーとジェイクは二人でいれば幸せ。ハートウオーミングな一本でした。 運に見放されたアシュレーも、最愛の人と巡り会うことができました。それは、アシュレーの人徳からです。だからやっぱり、その人の生きる姿勢がとっても大切。例え結婚後に、本当に愛する人と出会ったとしても、それが一概に不運とはいえないでしょう。 人は、お金がなくても、地位がなくても、場合によっては健康が損なわれていても。自分の存在を認めてくれる人がいれば、強く生きていくことができます。お互いに認め合い、励まし合うことによって、たいていのことは乗り越えていけると思います。 人気blogランキングに参加中。クリックしてね。ご協力、よろしくお願いします。みんなブルース・リーになりたかった
November 18, 2007
コメント(0)
もし、スーパーマンが女で、性格に難があり、嫉妬深かったとしたら、というお話。「Gガール 破壊的な彼女 (2006)」監督:アイヴァン・ライトマン出演:ユマ・サーマン ルーク・ウィルソン アンナ・ファリス レイン・ウィルソン 街の平和を守るGガール。強盗が起こる、火事が発生する。そんなとき、どこからともなくGガールが飛んできて大活躍。 Gガールその正体はジェニー。クラーク・ケントがめがねをかけてスーパーマンの素顔を隠すように、ジェニーも、普段はめがねとカツラをつけて、Gガールであることを隠しています。 そのジェニーが、平凡な会社員のマットと恋に陥る。ところがジェニーは、話題や話し方がちょっと個性的すぎ。「私、Hはうまいの。でも今夜はダメよ、初デートだから」てな調子。フツーは言いません。これは、Gガールをカモフラージュするための演出でもなんでもないのです。まったくの素顔。 そして、ジェニーは、自分がGガールであることをマットに打ち明けます。マットはびっくりするやら嬉しいやら。しかし、最初は燃えていたマットも、ジェニーの激しい性格や上空高く飛行しながらのSEXなど変態的な行為に、徐々にジェニーについていけなくなります。さらに、ジェニーは凄く嫉妬深い。マットと同僚のハンナの仲を疑って、しつこく問いつめる。ついに、別れ話を切り出すマット。 怒り狂ったジェニーは、ストーカー行為やスーパーパワーを使っての破壊的な嫌がらせを繰り返す。マットとハンナがいるところを見つけると、海からでかいホオジロザメを捕まえてきて、投げつける。 威圧的な行為は、ホントに恐いです。 ジェニーの性格、とりわけ嫉妬深いところを考えてみよう。これは、コンプレックスから来ているものでしょう。 ジェニーは高校時代、オタク、変人といって、仲間はずれにされていたのです。同じく嫌われ者の男の子、エディがいました。二人は、いつも一緒でした。在学中に落下した隕石に触れてスーパーパワーを手に入れ、ジェニーは自信を漲らせ、溌剌とします。すると、男の子たちが寄ってくるようになります。エディは、ジェニーに近寄れなくなりますが、ジェニーの方はエディが離れていったと思っています(大いなる誤解)。 ジェニーの心には、自分は人からはじかれているという思いがあるのが見て取れます。昔から奇行奇癖型だったのでしょう。その後、雰囲気が変わり、人から注目されるようになりますが、これは本来の自分の力ではありません。 ジェニーは人から嫌われる、人が自分の元から去るということに極端な恐れを抱いているのです(見捨てられ不安)。だから、恋人が同僚といるだけなのに、変に疑ってしまいます。さらに、巣のままのジェニーとして、普通に人間関係を築いた経験がありません。もし人が離れていこうとしたら、スーパーパワーを使って、力ずくで人を自分の元に繋ぎ止めておくしか手段を知らない。本来のジェニーのことを好きだったエディとのつきあいが続いていれば、よかったのですが。 さあ、このあと、ジェニー、マット、アンナ、エディ(ベッドラム)はどうなるのでしょう。それは映画を見てのお楽しみ(なんとなく予想がつくでしょ)。 かくいう私自身も、見捨てられ不安を抱くものです。自分が安心できるのは、私のことを最優先事項として取り扱ってくれているとき。そうしてくれた人には、とても感謝しています。例えば、こちらが電話したときに、相手に用事があって話せない。そんなささいなことでもたまたま重なると、自分のことを優先してくれてもいいだろうと思う。つまらないと感じてしまう。会えない時期が続いたりすると、どう思っているんだろうと疑い、不安になってしまいます。そんな自分がバカでした。 人にはいろいろとするべきことがあります。電話に出られないことだってあるでしょう。ましてや忙しい時期に、状況によっては、対応したくてもできないこともありますよ。 ゼータクをいってはいけない。いい大人のことを、常時優先事項にできるわけないのだから。最優先にされていいのは赤ちゃんやお年寄り、病人など。 人気blogランキングに参加中。クリックしてね。ご協力、よろしくお願いします。みんなブルース・リーになりたかった
August 20, 2007
コメント(0)
プロレスごっこで技をかけようとしても、相手がかかるまいとふんばると、技が決まらなかった。例えば足四の字固めは、相手が足をピンと伸ばしたまま力を入れると、テレビのプロレス中継で見たように、たやすく膝から折り曲げて技に入ることはできない。 こちらが大人で、相手が子供の場合には、圧倒的な力の差で固め技ができる。さすがに投げ技は、相手が怪我をするからやらない。けれど、走ってくる小学生に、すれちがいざまウエスタン・ラリアットをぶちかましてやろうとしたら、あっさりかわされた。 プロレスを信じる者は、技をかけるときに、対戦相手の協力があるとは夢にも考えない。きっとプロレスラーは、厳しいトレーニングによって、プロレス流の高度で、複雑な技をいとも簡単にやってのけるテクニックやタイミングを身に付けているのだろうと推測する。 あるバラエティ番組で愛川欣也が「プロレスなんて、あんなものは最初から勝敗が決まってるんですよ」と公言しても、「そんなことはない。お前の素人演技こそ八百長だ!」などとテレビに向かって怒鳴りつけた。プロレスの試合展開の中で起こることは、そのすべてを信じきっていたから(95パーセントくらいだけど)。それがプロレス好きだ。 プロレスラーとは、超人的な強さをもった別格の存在だと思っていた。しかし、最強を確信していたプロレスラーたちが、総合格闘技のリングで、次々に敗れた。それでも、プロレス好きは、“人間発電所”ブルーノ・サンマルチノだったら、キックやパンチをものともせずに突進し、相手の胴を絞り上げる怪力ベア・ハッグでいとも簡単に勝利を得たはず、“鉄の爪”フリッツ・フォン・エリックだったら、マウントポジションに押さえ込まれても、相手の顔面へのアイアンクロー一発で逆転勝利だ、などと余裕をかましたものだ。 21世紀、ついにアメリカWWEは「プロレスはショーである」とカミングアウトする。それは、アメリカでのこと。日本のプロレスは、違うと言ってくれ、と思っていたら、ミスター高橋の暴露本「流血の魔術 最強の演技―すべてのプロレスはショーである」が出版された・・・・・。 WWEのファンなどは、「勝敗にこだわるより、気楽に見られていい」と言うが、プロレスは、見せる要素が強くあったとしても、やっぱり勝敗は実力で決めてほしい。 ところが、プロレスの勝敗が実力で決まる試合があった。それは、映画という虚構の世界だった。 「ナチョ・リブレ 覆面の神様」は、実在のルチャ・ドール(メキシコのプロレスラー)“暴風神父”フライ・トルメンタをモデルにしている。フライ・トルメンタ、本名セルヒオ・ペニテスは教会の神父である。身寄りのない子供達の面倒を見る一方、彼らの生活費等を捻出するために、覆面のルチャ・ドールとなってルチャ・リブレ(メキシコのプロレス)に出場していた。 まさに梶原一騎、辻なおき原作の「タイガー・マスク」を地で行く話である。フライ・トルメンタについては、テレビ番組で何度か紹介されているし、ジャン・レノ主演で「グラン・マスクの男(1991)」として映画かもされている。 プロレス好きが、プロレスを扱ったドラマや映画、小説などに接するときには、まず、「プロレスを茶化した内容ではないか」と疑う。それは、プロレス好きが、非常な警戒心をもっているからだ。他人と打ち解けて、うっかり「じつはプロレスが好きなんです」などと言おうものなら、聞いた人は飲みかけのビールを吹き出して「プ、プロレスですかぁ?」と軽蔑の眼を向けられる。 そのようにプロレス好きは、日常的にいわれなき差別を受けているので、いつも扱いには敏感である。映画や小説などに登場するプロレスラーが、図体がでかいだけの大食らいで鈍感な役立たずであったり、プロレスの試合がショーという以上に手抜きの馴れ合い勝負として描かれていたりすると、我慢ができない。作り手が、プロレスを軽く見ていないか、きちんとプロレスを理解して作っているか、厳しいチェックを怠らない。 「ナチョ・リブレ 覆面の神様」ではプロレスを、貧しい修道院の料理番イグナシオ(ナチョ)の憧れの世界として描いている。けれど、修道院では、プロレスは禁忌なのだ。神聖な場所に闘いは馴染まないのであろう。 イグナシオは、修道院の孤児たちに、よりよい食事をさせるために、アマチュアのプロレス大会に出場する(言葉が矛盾している)。メキシコの田舎町などには、こういったプロレス大会があるのだろうか。レスラーというよりはゾンビかゴブリンみたいな、不気味なアマチュア・ルチャドールが対戦相手だ。プロレスラー特有の筋肉隆々な様子など持ち合わせないところが、プロにはなれないルチャ・リブレ好きの集まりという感じがする。アマチュア以上、ただのプロレス好きの素人であるイグナシオをいきなりプロに試合に出さず、田舎のプロレス余興に参加させるのは、なかなか慎重な演出である。 そんなアマチュアが相手でも、イグナシオは勝てない。ところが、試合の様子や負けっぷりにファンができてしまう。ファイトマネーをもらい、試合出場の要請も受ける。このあたりが、勝敗よりも試合過程を楽しみ、試合内容を評価するプロレスらしさが現れている。 ある日、修道院に、子供たちの先生として、シスター・エンカルナシオンがやってくる (男の修道院にシスターが同居することはあるのか?) 。シスターに一目惚れしたイグナシオは、大張り切り。だがシスターは「プロレスの戦いは、虚栄心のためのものです。本当の英雄の闘いは、誰かのため、何かのためのものでなくてはなりません」と言う。これは、いい言葉だ。「プロレス」をほかの言葉に換えても通用するセリフだ。 虚栄心の塊として描かれるのが、ルチャ・リブレのスターレスラー、ラムセスである。イグナシオは、ラムセスとの対戦を賭けてバトルロイヤルに出場する。「ファイトマネーで子供達にバスを買って、みんなで遠足に行くんだ」、それが、イグナシオの闘いの動機である。そして・・・(公開されたばかりの映画ですので、ネタバレはやめます)。 この作品は、ダメ男が一生懸命がんばる話だが、プロレスを舞台としたのがいい。これがテニスとかゴルフのような世間的に認められたスポーツだったら、また印象が違っただろう。プロレスはどことなく胡散臭いものだから、イグナシオは、虚栄心ではなく、本当にプロレスが好きなのだとわかる。ダメ男が現を抜かすには絶好の対象であり、イグナシオの純粋さを窺い知ることができる。 イグナシオは「オレはこんなにプロレスが好きなのに、どうして神は強いレスラーにしてくれなかったのか」と嘆く。その気持ちは、すごくよくわかる。「プロレス」と「強いレスラー」をほかの言葉に換えても通用するセリフだ。 イグナシオを演じたジャック・ブラックは、キャラクター的に西田敏行みたいな俳優かなぁと思って見ていた。西田敏行は、基本的に善人を前提としている役を演じている。ご自慢の口をUの字にして笑窪を浮かべた表情にそれを感じる。観客は、西田敏行は、いつもいい人だから、はずれた行動をしても、許す、安心できる、というところがある。しかし、ジャック・ブラックは、善人を言い訳にしないで、ひたむきなおバカ・キャラクターを演じていた。虚栄心なしで、おバカだった。 イグナシオのおバカな活躍に笑いました。 (その笑いは、プロレスをバカにした笑いではない)。楽しく、そして、素直に感動できる映画です。誰もが楽しめます。プロレス・ファンにも、そうじゃない人にも。 現実のプロレスも、活気をとりもどしてほしいなぁ。人気blogランキングへクリックしてね。みんなブルース・リーになりたかった
November 5, 2006
コメント(1)
全7件 (7件中 1-7件目)
1