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宇宙戦争 (偕成社文庫) [ ハーバート・ジョージ・ウェルズ ]この表紙を見てわかるように、火星人の戦闘マシーンは巨大怪獣である。そして、このSF小説は、怪獣パニック映画として味わうことができるのだ。件の戦闘マシーンについて、小説の中では「怪物のようにおおきな三脚とでもいおうか。たいていの家よりも高く、若い松の木ぐらいはかるがるとまたげて、ぶつかれば両側へなぎたおしていく」と描写されている。「背たけは30メートル」という表記もある。なおかつ、戦闘マシーンは熱射線を発射し、人々も森も街も焼き払う。最初はイングランドのウォーキングあたりに飛来した火星人は、戦闘マシーンを駆使してロンドンに進攻していくのだった。経路に住む人々は、日常生活を奪われていく。次々に飛来する火星人、続々と増えていく戦闘マシーン。火星人の攻撃がますます激化し、映画でいうモブシーン、人々の逃げ惑う姿が描かれる。イギリス軍も砲撃により戦闘マシーンを一機撃破する、が、それだけ。まったく打つ手がない。などなど。小説『宇宙戦争』は、読む怪獣映画である。この戦闘マシーンについて、映像作品から、その登場シーンを見てみよう。『宇宙戦争(2019)』では、全4話の第2話の冒頭で初登場する。火星人の襲撃が始まった。「逃げろー!」という怒号、人々の悲鳴。しかし、どこで何が起きているかはわからない。わけもわかず、地響きに苛まれる中で、尖塔の向こうに何か巨大なものが見える。そして、尖塔の背後から、徐々に姿が見える戦闘マシーン。ゆっくりと三脚(トライポット)を伸ばして、戦闘マシーンが立ち上がった。完全に尖塔を見下ろす戦闘マシーン。さらに、戦闘マシーンを見上げる主人公。『宇宙戦争ーロンドン壊滅ー(2023)』宇宙からの奇妙な飛来物を見に来た主人公たち。すると、飛来物の向こう側から、巨大な甲殻昆虫の脚のようなものが見えてくる。「なんだ?」と思っていると、そのものはゆっくり立ち上がり、見上げるような高さとなる。あっけにとられている野次馬たち。いきなり熱射線が放たれ、人々は一瞬で焼き尽くされる。それに比べると、元祖『宇宙戦争(1953)』はちょっと物足りない。原作には、火星人のメカとして、戦闘マシーン、作業マシーン、飛行マシーンが出てくる。ジョージ・パル版映画の『宇宙戦争』では、戦闘マシーンと飛行マシーンが合体した形のマシーンになっている。このマシーンは飛行形態で、原作にある「おおきな三脚(トライポット)」の部位はない。そうすると、宇宙船の攻撃という印象になり、残念ながら怪獣感は乏しくなる。あと、『宇宙戦争(2005)』の戦闘マシーンは、街中で、いきなり地中から建物や車両などをぶっとばしながら登場する。圧倒的なパワーが発揮された、派手なシーンではある。しかし、その分、情報量が多すぎる。破壊される街に目が行ってしまい、肝心の戦闘マシーンの印象が薄くなってしまった。ここは、戦闘マシーンの巨大感に焦点化してほしいところだ。また、この戦闘マシーンは、メカ感が強い。モンスターというよりも巨大ロボットのイメージだ。やはり、巨大怪獣は、初代『ゴジラ(1954)』のように、山陰からぬっと現れるようなのがいい。一瞬、山が動いたかと思えるかのように、ゴジラの背びれと頭部が目に入る。人々の驚愕の悲鳴。ゴジラが人々に目を向ける。巨大怪獣を見上げ、恐怖し、こけつまろびつして逃げ去る人々。人々の背後から、ゴジラが咆哮を上げる。タメ、が効いてるね。宇宙戦争 ロンドン壊滅 [ サム・ギティンス ]宇宙戦争(1953) スペシャル・コレクターズ・エディション [ ジーン・バリー ]宇宙戦争 スペシャル・コレクターズ・エディション【Blu-ray】 [ トム・クルーズ ]『ゴジラ』 4K リマスター 4K Ultra HD Blu-ray【4K ULTRA HD】 [ 本多猪四郎 ]
June 8, 2024
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【楽天ブックスならいつでも送料無料】ウエストワールド [ ユル・ブリンナー ] 巨大テーマパーク「デロス・ランド」。 西部劇の世界では、ロボットを相手にして、撃ち合いや乱闘などのリアルな体験ができる。 ロボットは、やられ役にプログラムされているはずだったのだが、突如として人間を襲撃してきた。 この映画は、公開時に見ている。 テーマパークのロボットが反乱する、というところが軸である。 登場するロボットは、主にアンドロイドだ。人間と同じ外見をもつ。 あるいは、ガラガラ蛇も馬もロボットだったりする。 当時は、この点がつまらないと思った。 アンドロイドまたは動物のロボットなど、ビジュアル的な非日常感がない。 幼児のロボットごっこじゃないんだから、ロボコップみたいな、映像でしか見られない(現実には存在しない)かっこいいメカか、または異形のロボットが見たかったわけだ。 しかし、今回見直してみて、印象が変わった。 西部世界で黒ずくめの悪役ロボットを演じているのが、かのユル・ブリンナーである。酒場のシーンに初登場し、客に因縁をつける場面がすばらしい。人間の0.9倍速くらいのゆっくりさで動く。なんとそこにロボット感が出ているのだ。演技力でロボットを表現しているのである。 そして、ロボットの反乱という展開が非常に興味深い。 デロス・ランドでは、客が悪役ロボット相手に腕力を振るったり、銃をぶっ放したりしてストレスを解消する。 そんなふうにして活況を呈するデロス・ランドだったのだが、ある時からロボットの故障が急増する。それらの故障は、周辺機器ではなく行動をコントロールする中央ユニット部分に集中しているのだ。 メンテナンス工場では、科学者、技術者が故障について協議していた。「(ロボットの故障が)一週間で2倍に増えた。修理しても故障率は上昇している。パターンに類似性があり、伝染病が広がっていく過程とそっくりだ」「ロボットに病気があるとは考えにくい」「我々が取り扱っているのは高度に進歩した特別な装置で、生物同様に複雑だ。コンピュータがデザインした部分も多く、我々は機能すら知らん」 人間側は、何の疑問もなくデロス・パークの最新システムをコントロールできていると思っていた。ところが、気がついたらロボットは人間の支配と予想を超えた活動を行い、手に負えなくなってしまったのだ。 西部劇の撃ち合いをすれば、ロボットは必ず撃たれるようにつくられていた。そして、ロボットの銃は、人間に向かっては弾丸が発射されないように設定されていたはずだった。 それなのに、ロボットが人に向かって発砲し、実弾が人体をえぐる。 例えば、スマホなど、本来は便利な機器であったはず。ところが、スマホ依存症や歩きスマホなど、人間の生活に害を及ぼす側面も少なからず見せている。これは、スマホが人間の役に立つ範囲内でのコントロールを逸脱して、負の存在にもなってしまっているわけだ。 スマホは、悪影響が積み重なることはあっても、直接的には人を襲ってくることはない。多分。 しかし、デロス・ランドのロボットは、どこまでも人を追撃し殺害する。 人を追い詰め殺害するといえば、『ハロウィン(1978〜)』シリーズのマイケル・マイヤースや『13日の金曜日(1980〜)』シリーズのジェイソン・ボーヒーズなどのスプラッター殺人鬼がいる。彼らは、血縁関係やキャンプ場の監視員に対する怨恨といった動機がある。 あるいは、同じロボットである『ターミネーター(1984)』のT~800は、もともと人を抹殺するようにプログラムされている。 ところが、デロス・ランドのロボットは、なんで人を襲ってくるのか、全く不明なのである。 機械であるロボット、あるいはコンピュータ・システムが、勝手に暴走したとしかいいようがない。 この映画の監督、脚本はマイケル・クライトンである。 マイケル・クライトンは、『ジュラシック・パーク』の原作小説を書いている。 テクノロジーでコントロールされたアミューズメント・パークが、あるとき地獄と化すという設定は、この『ウエストワールド』がプロトタイプといえるかもしれない。 確かに恐竜が襲ってくるのも恐いが、不気味さでは『ウエストワールド』に軍配が上がる。人気ブログランキング
November 19, 2017
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エアポート2015 [ ファラン・タヒール ]価格:4665円(税込、送料無料) 1970年代に「エアポート・シリーズ」と呼ばれた映画があった。 それらには、バート・ランカスター、ディーン・マーチン、チャールトン・ヘストン、アラン・ドロン、ジャクリーン・ビセット、カレン・ブラック、シルビア・クリステルなど、綺羅星のごとく当時の有名俳優が出演していた。 『エアポート’75(1974)』を見に行ったとき、当時は入れ替え制や全席指定というものはなかった。いつ映画館に入ってどこに座ってもよかった。だから上映中だったけど客席に入ったのだけど、そうしたら、いきなり客室乗務員のカレン・ブラックが必死の形相で操縦桿を握るアップが映し出されていた。 機長(テレビ番組『FBIアメリカ連邦警察』のエフレム・ジンバリスト・Jr)らが操縦不能状態になり、CAのナンシー(カレン・ブラック)がボーイング747旅客機を飛行させていたのだ。 カレン・ブラックは、美人ではないと思うが色気のある女優さんで、男臭いチャールズ・ブロンソンに対して、女臭いといわれていた。 暗闇の中で大スクリーンに映った女臭い女優さん、ある種の衝撃があったね。 そして記憶に残るのが、『エアポート’80』の名場面。 なんと超音速旅客機コンコルドが、戦闘機から発射されたミサイルで撃墜されそうになる。ミサイルの追撃をかわすために、機長のジョージ・ケネディは、コックピットの窓を開けて信号弾を撃った。ミサイルは、信号弾の発する熱を追ってコンコルドからそれていった。 超音速機の飛行中に、窓を開けること、さらに信号弾を撃つことが可能かどうかは知らない。 そんなふうに一世を風靡し、思い出深いエアポートシリーズだから、『エアポート2015』のタイトルを見たときには、食指をそそられた。 もちろん、かつてのエアポートシリーズが、35年の時を経て21世紀まで綿々と続いてきたとは思わなかった。 正統派のエアポートシリーズは4本で完結しているはず。 それにしても、映画の冒頭、大空を行くCG以外の何物でもない旅客機にかぶって「THE ASYLUM PRESENTS 」と表示が見えたときには脱力した。 Asylumは、手間隙かけず、金かけず、ヒット作、話題作のパクリ、便乗映画を量産するアメリカの映画会社である。 だから豪華スターの競演などはもちろんない。 この会社の場合、映画を楽しむよりは、Asylumとして楽しむという心構えのほうがいい。 というところで『エアポート2015』のストーリーだ。 アメリカ発ロンドン行きの旅客機が、激しい乱気流に巻き込まれる。なんとかそこを脱するが、なんだか様子がおかしい。本来だったらまだ午後の時間帯で、このあと機内から夕陽が見られるはずだったのに、すでにとっぷりと日が暮れている。 最新の通信機器がまったく役に立たない。航空管制と連絡が取れない。 なんだなんだ、とりあえず雲の下まで降りてみると、爆撃機の編隊が空襲攻撃をしていた。 そこは第2次大戦中(1940)のヨーロッパ上空だとわかる。 旅客機は、タイムスリップして過去の世界に出現してしまったのだ。 運よく?イギリスの学会に参加する予定の歴史学者が乗っていたから、それがわかったんだよ。 まず、この夜という設定がクセモノだ。 真っ暗な中を旅客機が飛んでいきますから、地上も何も見えない。いいかえると、画面に映る外景は旅客機と闇だけでいいということ。 空襲場面も夜だから、建物なども闇の中でしかとは見えず、そこから火の手が上がっている様子はわかる。 で、ドイツの戦闘機Me262が襲ってくるが、なにせ暗闇だから、戦闘機がときおりそれとなく姿を現すだけでいい。 手間隙がかからない。 そして、このMe262とは、なんとジェット戦闘機なのだ。 実際にドイツ軍は、第二次大戦中にジェット戦闘機を開発を急いでいたとのこと。 しかし、実用化されるのも夜間飛行ができるようになるのも、もっと後になってからだったらしい。 そうした史実を曖昧にしてジェット戦闘機を登場させたのは、プロペラ戦闘機じゃあジェット旅客機に追いつかないからだね。 もし、当時の技術に忠実にして、たとえば地上からの高射砲攻撃の場面などをもってきたとしたら、撮影に手間隙、お金がかかっちゃう。 このあたりは「ここはもう我々の知る世界じゃない」「見知らぬ歴史が進んでいます」と話を進めていく。 第二次大戦中には力を発揮するところまでは至らなかったジェット戦闘機、だからなのか相手が民間航空機でも機銃攻撃などがかわされてしまう。 もちろん、民間航空機のほうだって、急上昇急降下、ジェットコースター級の飛行テクニックで銃弾をよけて飛び回る。 本来だったら弾があたってもいいような場面で、全然あたらない。 なんだかとってもスリリング。 そして、ドイツの戦闘機からミサイル攻撃が。 さすがに『エアポート’75』のように追跡ミサイルまでは登場させられない。 奇跡のアクロバット飛行で被弾をまぬがれていた旅客機も、ついに機体を撃ち抜かれる。 側面が破壊されれば、機内の気圧が激しく変化する。 こんな場面では、必ず天井から酸素マスクがぶら下がってくるのがお約束。 しかし、この映画の、この旅客機では、酸素マスクが落ちてこない。 故障なのか、不良品なのか、映画的な予算の問題での手抜きなのか? こんな旅客機には乗りたくない。 常識、定石は通用しないのがAsylum。 乱調のピッチャーは、的を絞ることができないので打たれそうで打たれなかったりする。 それと同じでドキドキ、ハラハラ、とってもスリリング。映画(全般) ブログランキングへご協力のほど、よろしくお願いします。
May 5, 2016
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【楽天ブックスならいつでも送料無料】インターステラー ブルーレイ&DVDセット(3枚組/デジタ...価格:3,478円(税込、送料込) 『インターステラー』はハードSF映画である。 ハードSFとは、「最新の物理学的、あるいは天文学的な知識に基づいた科学的な作品」とのこと(Wikipediaより)。 荒唐無稽、ご都合主義ではなく、きちっとした科学的根拠があってお話がつくられているわけだ。 するってぇと、宇宙怪物や光線銃などは登場しないってことだ。 言い換えるとハードSF映画は、「リアル」なSF映画ということか。 『インターステラー』の中には、五次元だの相対性理論によるウラシマ効果だのといった話が出てくる。 これは、ちょっとむずかしい。「ハード」ってのは「むずかしい」という意味もあるからな。 しかし、SFの中でこのむずかしさを愛好する人たちもいるわけだ。むずかしいけれどリアルだから説得力があり、納得できるんだろうな。 当方のSF映画初体験は、『マックイーンの絶対の危機(1958)』としよう。 これは、ハードSFではないね。宇宙から飛来したゼリー状の物体がアメリカのとある街を襲い、それを(科学的に)どう撃退するかっていう話だから。 そのつぎは『ミクロの決死圏(1966)』。この映画には、SFマインドを強く刺激された。けど、『ミクロの決死圏』は、質量保存の法則からすると、ご都合主義ともいわれてしまう。そうするとハードSFではない。 そして、子供のころ見た映画で、とっても衝撃的だったのが『猿の惑星(1968)』でありハードSFの代名詞のような『2001年宇宙の旅(1968)』だ。 『猿の惑星』も『2001年宇宙の旅(1968)』も、インターステラー(星と星との間を航行すること)を扱っている。 その頃、マンガ雑誌の豆知識コーナーで、光速航行と年齢の関係について知った。お父さんが光速ロケットで宇宙に行って帰ってくると、子供の方が齢をとっているというのだ。光速で移動しているものの時間経過は、地球での時間の経過より遅くなるそうだ。 これは「ウラシマ効果」といわれるものだ。アインシュタインの特殊相対性理論によって説明されているとのこと。 『インターステラー』には、その豆知識と同じようなエピソードが出てくる。そのへんまではついていけた。 けど、頭がこんがらがったところも随所にある。 たとえば、水の惑星の時間経過は、地球と異なる点。水の惑星の1時間は、地球の7年なんだと。 映画の中では、宇宙船に残る人がいて、水の惑星に行く人がいた。水の惑星に行った人たちは、さっさと用事をすまして、できるだけ早く宇宙船にもどったのだが、宇宙船にいた人は23年間も待たされていた。 このエピソードでは、水の惑星で数時間ですごした人たちは、一挙に23歳も齢をとってしまった仲間を見て、自分は長生きをして得をしたと思うのか? 本人の体感時間は、あくまでも数時間だからねえ。どう理解すればいいのだ? そのほか、5次元の話とか、ストンと腹に落ちていないところがまだあるが、だからこそハードSFの面目躍如やね。 そんなふうにひっかかるところは数あれども、監督であるクリストファー・ノーランのヒューマニズムは十分に納得することができた。その点では、彼が以前に監督した『ダークナイト(2008)』に似てるなあ、と思った。 そして、映画の芯をシンプルに見てみれば、主人公が大きな目標のために様々な困難を乗り越えていく話だ。そういう意味では、宇宙の星々ではなく、大海原の島々を巡り様々なクリーチャーを倒していくファンタジー映画『アルゴ探検隊の冒険(1963)』と同じストーリーラインとも言える。むずかしいところにこだわらなければね。映画 ブログランキングへあなたのクリックでランキングを上げてくださいませ【楽天ブックスならいつでも送料無料】【DVD3枚3000円2倍】アルゴ探検隊の大冒険 [ トッド・ア...価格:1,000円(税込、送料込)
November 1, 2015
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スター・ウォーズ展に行ってきた。 ゴールデンウィークあたりは6時間待ちとかだったので、時期を遅らせるとともに、月曜日の朝一番に行ってみた。 混んでいるのはいやだからね。 そうしたらオープン前で、すでに並んでいた。しかも、小中学生がいたのだ。どうやら運動会の代休だったらしい。けど、小中学生のおめあては、同時開催の『ナルト展』でそっちに行ってくれて助かった。 今回もうひとつ気にかかったのは、地震だった。 土曜日の夜、地震のせいでエレベーターが止まって、大勢の人が降りてこられなかったとニュースで騒いでいた。 もしかまた揺れたらと思うと、52階はやっぱ恐いよな〜。 まあ、しかし、地震がきたばっかりだから、しばらく間が空くだろうと勝手に解釈した。 平日の朝だったためか、地震を恐れたためかはわからないが、結果的にすいている中で、ゆっくりと『スター・ウォーズ展』を見ることができた。 絵画コレクションはさておき、実際に撮影に使われた衣装、小道具などを目の当たりにしたときは感激した。なんといっても、実物だからね。めったにお目にかかることはできないものだから。 とはいっても、当方は『スター・ウォーズ』のファンではない。 映画好きであり、『スター・ウォーズ』は第1作から封切りで見ているが、ハマっているわけではない。 確かに、クリーチャー、メカ、キャラクターなどが宴会のご馳走のようにストーリーを彩って、楽しいと思う。であっても、『スター・ウォーズ』には、当方をマニアに陥らせるような魅力は感じない。 なぜなら、『スター・ウォーズ』はメジャーだからだ。 当方はぬぐいきれないマイナー志向なのだ。 SF映画の原体験は『SF最後の海底巨獣(1960)』と『マックイーンの絶対の危機(ピンチ)(1958)』だからね。 『スター・ウォーズ』が公開されるまで、メジャー系のSF映画といえば『猿の惑星(1968)』とか『2001年宇宙の旅(1968)』など、文学的な要素が強いものだった。 その他のSF映画、とりわけSF活劇はマイナー系が多かった。 しかし、スター・ウォーズがSF活劇を一挙にメジャーにした。 『スーパーマン(1978)』が超大作として制作されたのも、『スター・ウォーズ』の成功があってのことだ。 さらに、21世紀のアメコミ・ヒーロー映画も、『スター・ウォーズ』があり、CGの発達があって見応えのある作品として世に出ているのだと思う。 スパイダーマンも超人ハルクも、1980年前後のテレビドラマは、とってもチープだった。それだけ扱いが軽かったのだ。 とにかく、キワモノ扱い、B級グルメだったSF活劇が、『スター・ウォーズ』のおかげでメインストリームの高級料理として再生された。 SF活劇は市民権を得たわけだ。 ちょうど『スター・ウォーズ』の初期の作品が公開された頃、アントニオ猪木が「プロレスに市民権を」と訴えていた、とされている。 当方は、プロレスが世間から認められることを望む気持ちがなかったわけではない。だが、市民権を得たとすると、反則とか覆面とか必殺技とか、そういったプロレス的な魅力がなくなるという危惧を抱いた。そして、市民権なんてどうでもいい、自分にとっておもしろいものが一番、と考えた。 まあ、完全に市民権を得ている野球とかサッカーではなく、いかがわしさや胡散臭さを漂わせたプロレスがおもしろいと思うのだから仕方がない。 さて、SF活劇が市民権を得た、といったが、それはあくまでもお金と時間と労力をかけられるメジャー系の作品についての話。 何がなくてもマイナー系のパワーを感じる作品に出会ったら、ハマると思うな。 正しいことよりも楽しいことを。人気ブログランキングへ
June 2, 2015
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バトル・オブ・ロサンゼルス 【DVD】価格:4,536円(税込、送料別) 『世界侵略:ロサンゼルス決戦(2011)』は、緊迫感のある映画だった。 登場人物を追うカメラが、ドキュメンタリータッチに揺れていた。戦場からの実況中継のようだった。 あっという間に異星人に攻撃され、壊滅状態の中でなんとか市民を救い出し、その上で反撃に転じないと全人類が虐殺されるという状況がハラハラ、ドキドキ感を生み出していた。 相手は異星人である。奇襲、無差別攻撃、話し合いは通じない。極悪非道な殺戮を繰り返すのみ。 つまり、地球人は闘うしか選択肢がないのである。 問答無用の戦闘状態とは、抗戦に正当性をもたせている。 これは、よく使われる手法である。 異星人は、地球人の生命など、虫けら同然だ。 しかし、地球人だって、相手が異星人ならぶっ殺しても、手足をもいでも平気なのだ。 異星人にとって、地球人の人権はない。 地球人にとっても、異星人に人権はない。 『世界侵略:ロサンゼルス決戦』は、展開がリアルである。そして、軍人を主人公とし、人、国、地球を守るための決死の闘いやそれを支える想いを描いていた。視点は、アメリカ軍にある。 それだけに、気持ち的についていけないものがあった。 戦争とは、敵の人権を度外視して行うものだ。敵を「悪」としてとらえれば、その時点から敵は人間とは見なされない。 例え、平常時には人権を認めていたとしても。などと考えてしまった。 『バトル・オブ・ロサンゼルス』は『世界侵略:ロサンゼルス決戦』のパチモンである。こちらは、ゆる~い映画だった。 『世界侵略:ロサンゼルス決戦』においては、破壊され阿鼻叫喚の地獄絵のようなロサンゼルスが舞台となっている。夥しい数の兵士や異星人が闘いを繰り広げる。 ガレキの中に半壊した車が行列をなし、人々は黒こげ死体となっている。 だが『バトル・オブ・ロサンゼルス』は、どこで戦闘が行われているのか不明なほど建物が残っている状態で、少数の兵士がウロウロしている。車の中で人々が死んでいるシーンも、とっても簡単に撮影してある。ストーリーの前後を知らずその場面だけ見た観客は、通行止めにあって進むことができない人たちが、疲れて居眠りしているようにも受け取れたのではないだろうか。 いよいよ主人公の兵士達が異星人の母船に乗り込む。しかし、不思議なほどに敵異星人は姿を見せない。その代わりに、巨大モンスターが襲ってくる。 ここらあたりはエンターテインメントしていて、拍手喝采である。 こういうゆる~い設定であるなら、な~んにも考えずに映画を楽しむことができる。
September 25, 2011
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アバター・オブ・マーズ価格:4,536円(税込、送料別) ジェームズ・キャメロンも、『殺人魚フライング・キラー(1982)』や『ターミネーター(1984)』の頃は注目してたけど、メジャーで売れてからは興味なくなっちゃった。 『アバター(2009)』も、DVDレンタルで何も見るものがないぁ、というときにしょうがなくて見た。 そういう嗜好だから、『アバター・オブ・マーズ』は楽しかったよ。 タイトルそしてDVDのジャケットから、『アバター・オブ・マーズ』は『アバター』のパチモンだと思った。 まあ、地球に主人公の本体がありながら、念力移動で他の天体に行っちゃうところがアバターなんですかね。 でもこの映画の原題は『Princess of Mars』。Avatarじゃない。原作小説は、由緒正しい元祖スペース・オペラだ。 この『火星のプリンセス』、ディズニーが映画化するとのこと。 つまり、アメリカの映画制作会社The Asylumはアバターではなく『火星のプリンセス』のパチモンとしてつくったのだ。 そして、日本の映画配給会社アルバトロス・フィルムが『アバター』のパチモンとして邦題を付けたのだ。 と、理解した。 いずれにしても、パチモンにはちがいがない。 『アバター・オブ・マーズ』に登場する火星のプリンセス、原作ででは絶世の美女と表現されているが、その役を演ずるのは、なんとトレーシー・ローズだぁ。 トレーシー・ローズ、未成年のポルノ女優として物議を醸し出した彼女もいまや齢40をこえている。プリンセスなんだからね。クィーンじゃないんだから。 話題性のあるキャスティングをしたかったのでだろうね、無理を押して。 じつにパチモンにふさわしいプリンセスだ。 トレーシー・ローズの自叙伝「トレイシー・ローズ 15歳の少女が、いかにして一夜のうちにポルノスターになったのか?」を数年前に買って放置してあったが、この機会に読みたくなった。 さて、中身的にはどうか。どっかで見たようなスター・ウォーズ似のシーン、そして猿の惑星を思い出させるシーンがあった。いずれにしても、しょぼい。 本家『アバター』なんかは、リアルな映像を見せてくれるわけ。でも、リアルな分、味がない。かつて慣れ親しんだ映画は、予算が限られているのだろう、特撮シーンがそれと分かるしょぼいものだった。特撮映画とはそういう怪しいものだった。だから、この手の映像を見るとなんだか懐かしく感じるのだ。 であっても、言い訳を許したくないところもあった。 空気浄化工場を巡る攻防が映画のクライマックスになる。ここが破壊されたら惑星の死活問題だ。ところが、この空気浄化工場、どう見てもどっかの工場借りて撮影してることがバレバレのまる分かり。 だから、他の惑星の活劇と見立てることはとっても困難。トレーシー・ローズなんか、一気におばさんのコスプレ状態が明々白々。 てなわけで、じつに手作り感のあるパチモン映画でした。
January 1, 2011
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MIND STORM マインド・ストーム価格:3,591円(税込、送料別) ソ連KGBは、超能力者をヒューマン・ウェポン=人間兵器に仕立てる「マインドストーム計画」を強行した。ロシア連邦になったからも、マインドストーム計画は引き継がれ、神の力をもつ男ジュリーを育て上げた。 そして、アメリカもジュリーを狙う。 この映画、かなりのハイ・ストレンジネスだった。 ハイ・ストレンジネスとは「あまりにも奇妙な現象」ということらしい。 たとえば超常現象報告の中には「高級外車に乗って、宇宙人が壁を突き破って現れた」なんていう、なかば妄想のような証言が実際にあるんですよ。「あるとき、空飛ぶ円盤がやってきて、目の前に大きなスクリーンが映って、火を貸してほしいと文字が出た」とか、嘘をつくにも大概にしろというような奇妙な証言がいくつもされています。オカルト用語ではそういう事例を「ハイ・ストレンジネス」というそうです。(引用「大槻ケンジが語る江戸川乱歩」角川文庫) おりしもロシアの超能力者養成所で、超能力者同士による超能力バトルが行われていた。そして、ジュリーともう一人が決勝に残る。相手の超能力もかなりのものだったが、ジュリーとはものが違った。ジュリー、貫禄で勝利を得る。そうしたら、養成所の担当が「殺せ!」と命じるのだ。で、ジュリーが従わなかったら、担当は自分で拳銃を撃って殺しちゃう。 なんで殺すんだ? ジュリーほどではないにしろ、かなりの超能力者だったのに。 人間兵器を作りたいんだったら、一人でも多くの超能者がいたほうがいいんじゃないのか。最強の超能力者一人に絞る必要はどこにも説明されていない。これまで法外な予算をかけてきたんだろうから、有効活用しろよ。 仲間?を殺されたジュリーは、超能力を使って大混乱を引き起し、その機に乗じて養成所を脱出した。 ジュリーは、生き別れになっていた妹を探し出し、一緒に逃走を続ける。テロリスト軍団が二人を襲ってきた。ジュリー、超能力でテロリスト軍団を抹殺する。その直後、アメリカ人のエスパー・ハンターが銃を構えてジュリー達に迫ってきた。 新たな敵の出現を目にして、妹がテロリストが落とした銃を拾い、エスパー・ハンターたちに銃口を向けた。恐れをなしたハンターたちは、すごすごと立ち去る。 なんなんだ、これは?エスパー・ハンターたちは、元エリート軍人とかのプロという設定だぜ。いくら銃をもっているからといっても、相手は素人娘だ。なんとかできんのか。しかも、エスパー・ハンターは先に銃を構えていたんだよ。それが、なぜいとも簡単に追い払われてしまうのか。 そのあとすったもんだの挙句、ジュリーと妹はロシア側に捕えられ、空路搬送される。しかし、力を取り戻したジュリーが超能力で小型ジェットを乗っ取っる。そうしたら、ミグ戦闘機が迫ってきて、ミサイルをぶっ放すんだ。 これは、いかんでしょう。予算をかけて人間兵器として養成し、どうしても必要だったからやっと捕まえたのだよね。それを簡単に撃墜しようとは。 短気は損気だよ。 そんなわけで、この映画いかにも理屈が合わない奇妙な展開だ。 映画によっては、映像を見る限りでは理屈に合わないことがある。例えば、直前まで素顔だったスーパーヒーローがいつの間にコスチュームに着替えて登場する、など。けれど、姿を想像力を働かせて、低い可能性をも考えて、なんとか納得させる。姿を消した数秒間に、隠し持っていたコスチュームに電光石火で着替えたのだな、と。可能性は低いが、まったくできないことではない。 けれど、『マインド・ストーム』の展開は、理屈の整合性が見出せない。なかなか好意的な解釈が見つからないのだ。 何がハイ・ストレンジネスかといって、この甘い展開を人が見る映画にしてしまうのがハイ・ストレンジネスだ。なめとんのか、こら、と言いたくなってくる。 とはいっても、わざわざ「どマイナー」な映画を選んで見ているのは、ハイ・ストレンジネスを楽しんでいるのだけど。
November 20, 2010
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人と人とのコミュニケーションは、難しいものだ。 言葉など表面に現れるのは、一部分である。一人の人間と他者は、生きてきた過程が違えば価値観も違う。自己の内なる思考なり感覚なりをパーフェクトに他者と共有することはできない。だから、自分としては伝えたと思っても、相手には伝わっていないことが往々にしてある。 生活エリアや言語を共有する同国の者同士であってもそうなのだから、文化が違う外国の人とはさらに違うところが出てくる。例えば、日本人が好んで食べるイカやタコを西洋文化の人たちは、デビルフィッシュなどといって忌み嫌い、口にすることなんてとんでもないという(食べられる人もいます。もちろん)。 そうであるから、異星人になると、共通理解することがもっともっと難しい。 南アフリカ共和国、ヨハネスブルグの上空に、突如宇宙船が停泊する。中には体の弱った大勢の宇宙人が。 『ウルトラマン 侵略者を撃て(1966)』では、20億のバルタン星人が乗る宇宙船が地球に漂着する。防衛軍は、その宇宙船を核ミサイルで攻撃し、あげくのはてにウルトラマンがスペシウム光線で破壊してしまう。 常識ある21世紀の地球人としてはそんなことはできない。人権にも配慮しなければいけないというわけで、地球上に住まわせるわけだ。しかし、エビと呼ばれる異星人たちと地球人は生活習慣や文化が異なり、共存することはとってもとっても難しく、様々な問題や争いが起きてしまう。当然エビ排除の動きも出てくる。 さらに、人間とは残酷なものだ。建て前は異星人の人権に配慮していていも、裏では彼らに人体実験を施すなどしていた。 その一方で、地球人とエビとの間に、共闘、友情も生まれる。それは、地球人が薬品によってエビ化することがきっかけになっているところがなんとも皮肉。 このように、『第9地区』は、宇宙人という分かりやすい例を出すことにより、異文化交流の難しさを描き、それでも高度知的生命体としての人間の可能性を示唆しているように感じた。 猫を飼っていると、人間側の思いと猫の生態が食い違う場面がある。例えば、人間としては、餌をきちんと残さず食べてほしいと思うわけだ。しかし、猫にそんなしつけはできない。猫は、完食するときもあるし、平気で食べ残すこともある。猫にとって、人間のようなもったいないとか行儀よくという概念はない。気ままに食べ散らすだけ。 けれど、猫は人を慕って、餌をねだりにくる。そして人間は、そんな猫をかわいいと思い、餌をあげる。そこに心のふれあいがある。 エビ星人は、仮面ライダーシンに似ていた。胴が細く、着ぐるみでは映像化できない。
April 11, 2010
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オリジナル版は「地球の静止する日(1951)」。そして今回のリメイク版が「地球が静止する日」と、「の」と「が」がちがうわけですね。 かつて旧作の「遊星よりの物体X(1951)」が、新作では「遊星からの物体X(1982)」となった例がありました。それと同じように日本語のタイトルをちょっと変えてみたのですね。 「遊星よりの物体X」と「地球の静止する日」は、両作共に1951年に公開されています。まだSFが子供向き活劇と見られていた時代に、「物体X」はハワード・ホークス、「静止する日」がロバート・ワイズと、二大監督が後世に残る作品を撮影しているのも何かの縁なのでしょうか。 当時、SFは、ホラーとの境界もあいまいでした。宇宙人とかロボットなどは、ホラー映画のモンスターと同じような扱いだったのです。「物体X」においては、図体はフランケンシュタインの怪物のようでありながら、知力腕力共に人間より優れ、動物の血を吸うという「物体」が宇宙から飛来しました。 そんな状況の中で「地球の静止する日」は、新しいタイプの宇宙人を登場させました。それまで宇宙人といえば地球を襲ってくるという恐怖のイメージでした。しかし、「静止する日」の宇宙人クラトゥは、「地球上の核兵器や戦争は、こののち宇宙の平和も脅かしかねない」として、地球人に忠告しにきました。映画界初の平和の使者、友好的な宇宙人だったのです。 しかし、この平和の使者、友好的な宇宙人というパターンも、次第に目新しさはなくなっていきます。新東宝の「スーパージャイアンツ・シリーズ(1957~1959)」も、宇宙の平和のために、地球の原水爆実験中止を呼びかける使者として、宇宙人議会からスーパージャイアンツが派遣されたというお話でした。 新作の「地球が静止する日」では、クラトゥが「危機に瀕している地球を救う唯一の方法は、人類を滅ぼすこと」と述べます。しかし、すでに日本のスーパーヒーローもので、何度も宇宙人の口からこの理由が言われてきています。それに対して地球人は「我々も努力している」。そしてラストは決まって「これからは、本気で考え直して地球を守っていかなければならない」と固く決意する、もう何十年も前から同じことしてるやんけ。 さて、この映画で困ったところは、キアヌ・リーブス=クラトゥをいい人として描かなければならないところです。スーパーヒーローものでは、地球環境のために人類を滅ぼそうとする宇宙人とバトルになります。宇宙人は人類の敵だからです。人類を滅ぼすためには、宇宙人は冷血漢でなければならない。けれど、スター、キアヌ・リーブス=クラトゥを人類と敵対する存在としては描けません。キアヌ・リーブス=クラトゥは妙に優しいのです。だって、地球上の動植物を人類から保護しちゃおうっていうNPO的ボランティア宇宙人ですから。 よく本来の自然状態を保護するために、外来種の動植物等を駆除しようって話があります。そのとき、植物だったらまだ気楽に引っこ抜いたりできますが、魚や動物となると気が引けるもの。ましてや人間となると、空想の話の中だってやりにくい。 オリジナル「地球の静止する日」でクラトゥがやってきた理由は、「地球上の核兵器や戦争は、こののち宇宙の平和も脅かしかねない」。確かに宇宙人にしてみれば、自分たちの安全を守るためには地球人をほっとけません。けれど今回の「地球が静止する日」でクラトゥが語るのは「これほど様々な生き物が生息する星は宇宙でも珍しい。だから保護しなければならない。そのために人類を排除する」。これを聞いとき、「ほっとけや!」と言いたくなってしまいました。スミマセン。 人気blogランキングに参加中。クリックしてね。ご協力、よろしくお願いします。
January 4, 2009
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2005年は「宇宙戦争」「スター・ウォーズ エピソード3/シスの復讐」、2006年は「スーパーマン リターンズ」。毎年夏休みのメインを飾る映画がある(キミと見たね)。 2007年は、「トランスフォーマー」だ! これは、もう子供の頃からの習慣です。夏休みといえば、映画。特に夏休み映画の目玉、これは見逃せません。 「宇宙大怪獣ドゴラ(1964)」「フランケンシュタイン対地底怪獣(1965)」「フランケンシュタインの怪獣サンダ対ガイラ(1966)」「キング・コングの逆襲(1967)」夏休みには、東宝特撮怪獣映画が何よりの楽しみでした。なぜか夏にゴジラは登場しません。かろうじて「怪獣総進撃(1968)」に出演しましたが、翌年はまた「緯度0大作戦(1969)」でした。 1964年から1969年までのラインナップを見ると、いかに豊かな映画環境だったかがわかります(個人的な趣味の強い判断ではありますが)。夏休みの東宝特撮映画が失われた今、夢よもう一度ということで、DVDで「フランケンシュタイン対地底怪獣」と「海の若大将(1965)」や「キング・コングの逆襲」と「長編怪獣映画ウルトラマン(1967)」など、当時と同じ2本立ての組み合わせを、キミと一緒に見たいなぁ。 じつは「トランスフォーマー」には、あまり興味がわきませんでした。予告編を見る限り、ロボットらしきものが、つぎはぎ機械みたいで、かっこよく感じません。けれど、世間が夏休みになると、やっぱり夏休み映画でフィーバー (死語?)したくなってきました。もう「トランスフォーマー」の封切り日が待ちきれない。作品よりも雰囲気です。 では、「トランスフォーマー」を見ていないキミのために。 結論から言うと、予想外におもしろかった! まず、巨大ロボット(正確に言えば“金属生命体”または“自律的ロボット組織体”)が大迫力です。これも怪獣映画で育ってきた性(さが)なのか、でかい図体で街を破壊する構図がたまりません。お腹の底からわくわく感が盛り上がってきます。 劇場で「ファンタスティック・フォー:銀河の危機(2007)」の予告編をやっていました。ヒューマントーチと新しい敵シルバーサーファーが超高速飛行の追いかけっこをしていましたが、やっぱり私は等身大のヒーロー、モンスターよりも、怪獣並みの巨体がビルの間にぬっと立ち上がる姿には、言い知れぬ魅力を感じます。 映画の展開は、とにかくスピーディ。144分の上映時間があっという間に流れます。正体不明の敵と戦うアメリカ軍チーム、謎を究明しようとする政府スタッフ、そうした非日常的な緊迫した展開の中に、アメリカの高校生とその家族のオトボケぶりが息抜きとして挿入され、その緩急がファミリー映画として、みんなが楽しめるものになっていると思います。 主人公の高校生サムは、女の子にモテたい、そのために車がほしい、などの欲求を満たそうとしてなかなか満たされない情けないアメリカンボーイでした。しかし、今回の闘いを通して、信頼できる仲間ができ、重要な役目を与えられ、行動する男になっていきます。 日本の場合だと、主人公の成長物語というと、設定で、親がいないなどの同情を引く要素をもってくる傾向を感じます。けれど、この映画のように、どこにでもいるであろう現代物質消費社会にあまやかされた脳天気坊やが登場すると、わざとらしくありません。 けれど、私の好みでいえば、善玉はもっとヒーローらしく、悪玉はもっとモンスターとして描いてほしかったな。 まず、善玉も悪玉も、両方がセイバートロン星から来た “金属生命体”または“自律的ロボット組織体”で、地球の機械に姿が変えられるし、さらに人型に変形します。つまり、敵も味方も姿が似ているんです。 一応善玉側は、部分的に赤、青、黄色など、変形する前の車のボディ色が部分的に残っていて、悪玉はダーク系です。でも、入り乱れて激しくバトルを繰り返すと、どっちがどっちだかわからないじゃないか!善玉を応援したいのに、どっちに気持ちを預けたらいいんだよ。 それと、善玉も悪玉も、動きが派手な割には、今ひとつ個々のキャラクターがはっきりしません。ヒーローがヒーローとしての魅力を発揮するためには、たとえが、サムが襲われピンチに陥ったとき、突然善玉が正体を現し、悪玉ロボット相手に八面六臂の活躍を見せて、見栄を切るというようにしてほしかった(見栄を切るのは、日本のヒーローの専売特許か)。そうすれば、ぐっとスクリーンに引きつけられたでしょう。 今回は、ヒーローとしては、ハードパンチャーとして、KO必至と期待されたボクサーが、決め手を欠いて判定でドローってなところか。 悪玉の親分“メガトロン”も、最初は凍結されていて、溶けて出て来るのを恐れられている。しかし、実際に動き出すと、その他の巨大ロボットとの差異があまり感じられない。あまり特別なところがありません。 相手チームには、凄い代打が控えているぞといわれ、ついに出てきたが、あっさり初球に手を出してセンターフライという感じですね。ここはやはり、けた外れのパワーを見せつけるべきでしょう。 スピーディな展開であるだけに、善玉と悪玉について、見ている人の情に訴えるまでの演出ができなかったのかな。 前半の、モンスター・ロボットが姿を見せるあたりは、古くからの怪獣映画のパターンを踏襲し、正体も狙いもわからなくて、とてもとても引き込まれます。悪のトランスフォーマーが、巨大サソリに変形して暴れ回り、アメリカ軍が迎撃するシーンなど、まさに怪獣映画。この時点では、DVDになったら絶対に買うぞ、と思っていました。その後、ロボット同士のバトルになると、ちょっとトーンダウンして、DVDは買わなくてもいいかな、と・・・。 ですが、2007年の夏休みを代表する映画としては、記憶に残る映画です。夏休み気分は、十分に味わえます。特に巨大ヒーローと巨大モンスターの激突が、私には東宝特撮怪獣映画を思い出させて・・・、しつこい? 楽しみにしていた夏休みの目玉映画を見てしまうと、感じてしまいます。「ああ、今年の夏も終わったな」と。毎週日曜日の朝には必ず更新しています。つぎも読んでくれたら嬉しいです。 人気blogランキングに参加中。クリックしてね。ご協力、よろしくお願いします。みんなブルース・リーになりたかった
August 5, 2007
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「ギガンテス」には、“低予算映画、B級映画の帝王”といわれるロジャー・コーマンが製作総指揮として名を見せています。 彼が出版した自伝のタイトルは『私はいかにハリウッドで100本の映画をつくり、しかも10セントも損をしなかったか』。 商売人臭いイメージを感じます。 私自身は、映画好きですから、見終わって作品がつまらなくてもお金を損したとは思わない。時間が無駄だったと感じることはありますが。だから、映画を商品としてとらえてはいないようです。ですが、映画は商売なんですよね。 高校生ぐらいのとき、日本もドバーっと予算をつぎ込んで超大作をつくり、世界の映画市場に殴り込めばいいのに、と考えていました。決してハリウッドに負けないぞなんて。 しかし、映画をビジネスと見たとき、利益を出さなければなりません。少ない投資で大儲けできればそれにこしたことはない。けれど、ビッグヒットを狙うとなると投資額も大きくなります。その場合、コケたとしたら損失は大きい。日本の映画会社が、ハリウッド並みの超大作をつくって売れなければ、簡単に潰れてしまったでしょう。 ロジャー・コーマンは、投資を抑えて映画をつくり、確実に回収していく手法を確立しているみたいです。そのときどきの流行等に合わせて、客が入りそうな映画を作るのですが、中にはカルトやマニア受けする作品も作っています。 「原子怪獣と裸女(1955)」「金星人地球を征服(1956)」「リトル・ショップ・オブ・ホラーズ(1959)」「アッシャー家の惨劇(1960)」など。 さて「ギガンテス」です。 キャッチ・コピーは“エイリアンより最悪”“プレデターより残虐”。これを見ればわかってしまうのですが、ギガンテスは“エイリアンもどき”映画です。キャッチ・コピーを使って、観客にエイリアンやプレデターを想起させれば、宣伝の手間も省けるというものです。 しかし、公開から40年近くたっても、までまねっこされるなんて、「エイリアン(1979)」の凄さがわかります。「プレデター(1987)」だって、“エイリアンもどき”です。 エイリアンとプレデター、両方とも宇宙生物で、残虐無比に人間を襲います。設定に違いはありますが、最も異なる部分は“逃げられない”とことです。「エイリアン」は、宇宙船という密室の中で事件は起こり、乗組員はどこへも逃げられません。 対する「プレデター」は、ジャングルでのできごとです。主演のシュワルツェネッガーは、逃げようと思えば逃げられたのですが、そこはヒーロー、自らプレデターに果敢に闘いを挑みます。 ですが、やっぱり“逃げられない”状況の方が、緊迫感は強いように思います・ ギガンテスは、サソリとゴキブリと人間の遺伝子とチタンまで組み込んで作られた生物です。究極のワクチンを作るためのバイオテクノロジーだというのですが、だったら凶暴性はなんとかならなかったのか。 こいつらが逃げだし、人を襲います。アメリカの特殊部隊が出動し、闘います。 ギガンテスは倉庫の中に隠れています。特殊部隊は、マシンガンをぶっ放して立ち向かいますが、ときどき隊長などが、作戦本部まで行って指示を受けたりしている。緊迫感という点では、この間がなんともトロいんです。 やっぱり、息を抜けない状態を作らなければ、ギガンテスの凄味が感じられない。 でも、ギガンテスが襲ってくると、胴体をちぎられたり、首を引っこ抜かれたりして、なかなか見せてくれます。それと、特殊部隊とギガンテスのバトルに時間が割かれているところも、観客は何を見たいかをとらえて作ってあり、ロージャー・コーマンらしいサービスぶりです。 ロジャー・コーマンとしては、“エイリアンもどき”という、ある程度売れる方程式に当てはめて、映画をつくったのでしょう。観客は、巣や卵など、どこかで見たことあるなあと記憶を探りながら、ストーリーのパターンは理解していますから、期待したところで期待したことが起これば、まあ元をとったような気分になるのでしょう。ラストもお約束通りでしたし。毎週日曜日の朝には必ず更新しています。つぎも読んでくれたら嬉しいです。 人気blogランキングに参加中。クリックしてね。ご協力、よろしくお願いします。みんなブルース・リーになりたかった
July 28, 2007
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小学校の図画工作の時間には、似たような絵が何枚も見られることがありました。絵の得意な子と不得意な子がいます。得意な子は、さっさと描き上げていく。何をどう描いていいかわからなくて画用紙が白いままだった子達は、「いいなぁ、上手だなぁ。あんなふうに描きたいなぁ」などと考えて、ほとんど同じ構図の絵を再現してしまうのです、内容は劣りますが。とにもかくにもようやく時間内に間に合ったと思ったら、友達から「まねっこ、まねっこ」と囃し立てられてしまいってガックリ。 大映の「大怪獣ガメラ(1965)」が公開されたときには、東宝ゴジラの「二番煎じ」「後追い企画」の印象がありました。当初人類の脅威として登場したゴジラですが、「三大怪獣 地球最大の決戦(1964)」で、地球(日本?)怪獣仲間と共闘して宇宙怪獣キングギドラを迎え撃ったことをきっかけに、徐々に人類の敵ではなくなりつつありました。その様子を見ていた子供達は、最初は悪役として登場したガメラも、ゴジラのパターンを踏襲して、きっと善玉に転向するだろうなという予想を立てました。そして、やっぱりその通りになりました。 怪獣映画好きにとっては、「二番煎じ」「後追い企画」などといわれようが、ゴジラの制作本数が限られていることもあり、ガメラの映画も欠かさず見たものです。 特撮怪獣映画は、東宝の専売特許でした。けれど、ガメラのシリーズ化、ウルトラQ、ウルトラマンのテレビ放送(1966)などにより怪獣ブームが起こりました。邦画各社は、怪獣映画を作ります。松竹は「宇宙大怪獣ギララ(1967)」、日活は「大巨獣ガッパ(1967)」、東映は“時代劇は東映”のキャッチフレーズに乗って忍者がドロンドロンと大蝦蟇や竜に変身する「怪竜大決戦(1966)」なんて調子です。みんな「二番煎じ」「後追い企画」です。 その中で生き残ったのはガメラだけなのです。ほかはみんな1本の作品だけで消えていった。ギララやガッパは、人類の味方となって敵怪獣とバトルを繰り広げることはありませんでした。それにくらべてガメラは、昭和に8本の作品に登場、平成になってからは4本、その中で「ガメラ大怪獣空中決戦(1995)」という大傑作も生み出します。ちなみにゴジラは全28作です。 「二番煎じ」「後追い企画」といわれながら、本家ゴジラを凌ぐかのガメラ。その人気の秘密は、ゴジラの亜流のようでありながら(ゴジラの設定をいただきながら)、ゴジラにはない魅力をもっているところでしょう。恐竜型怪獣が主流の中でばかでかい“亀”というキャラクター、敵怪獣の攻撃を受け流血大淋漓(子供が見るのに!)、などなど。 その中でも、空を飛ぶことは、本家ゴジラにはできませんでした。甲羅の中に首や手足を引っ込めて、そこから回転ジェット噴射で空中に舞い上がります。ガメラは、口から火を吐きます。子供の頃は、ガメラが首をひっこめた後、甲羅の中でお腹あたりに向かって火を噴き出し、それが手足の穴から出てくるのだと勝手に解釈していました。 ガメラの活躍によって、本家ゴジラも逆影響を受けます。怪獣との闘いで流血したり、ついに「ゴジラ対ヘドラ(1971)では、放射能火炎を噴射しながら体を浮かせて、後ろ向きに飛んでいくという離れ業を見せます。本来飛ぶはずのないゴジラを飛ばせてしまったところは、凄いと言わざるを得ません。 「リベリオン」について、「マトリックス(1999)」の「二番煎じ」「後追い企画」「パクり」などと言う人たちがいます。近未来を舞台にしていること、アクション、黒いロングコートのファッションなどからそういう印象を受けるのです。 しかし、「リベリオン」は独自の作品世界をもっています。作品の中にガン=カタ(Gun Kata)が登場するのです。 ガン=カタは、格闘技と射撃を組み合わせたような技です。「リベリオン」の監督、カート・ウィマーの考案により、この作品で初めて公開されました。例えば打撃系の格闘技では、キックやパンチを相手にあてます。ガン=カタは、格闘技のような動きの中で、キックやパンチによる攻撃の変わりに拳銃を撃つのです。「リベリオン」は、ストーリー展開もさることながら、ガン=カタを見るのがじつに楽しい。流れるような動きで敵の銃弾を避けながら、二丁拳銃を効果的に撃ち込んでいきます。 ブルース・リーのカンフーや勝新太郎の座頭市、瞬速の居合い斬りは、スクリーンに映える美事な格闘芸術です。お話の流れとともに、カンフーや居合い斬りをどこで見せてくれるのか、わくわくしながら映画を見守った。「リベリオン」のガン=カタも、まさにそんな魅惑の必殺技だ。 「リベリオン」は、ガン=カタによって、「マトリックス」の「二番煎じ」「後追い企画」「パクり」の誹りを免れ、アクション映画史に語り継がれる存在になりました。 これは、ガメラが回転ジェット噴射で空を飛ぶことで、怪獣王ゴジラに一矢報いたことに共通します。かつてフリッツ・フォン・エリックというプロレスラーがいました。その頃アメリカマット界には、ドイツナチスを名乗る悪役レスラーがたくさんいたのです。そのギミックだけで、誰でも売り出せるほどプロレス界は甘くはない。エリックは、自らの握力が並はずれて強力なことに気づきます。そして、アイアン・クローという戦慄の必殺技(対戦相手の顔面をつかむと、こめかみあたりから流血する)を身に付けることにより、凡百のレスラーから抜きんでたスターレスラーとなっていきます。 見せることができるフェイバレット・ホールド、これが大切なんだね。 だから、まねっこ小学生も、上手な絵を写したようでありながら、自分の絵には、ガーンと強烈に印象に残る建物なり、人物なりを描いたならば、クラスの子供達は恐れをなしたかも。毎週日曜日の朝には必ず更新しています。つぎも読んでくれたら嬉しいです。 人気blogランキングに参加中。クリックしてください。ご協力、よろしくお願いします。みんなブルース・リーになりたかった
April 8, 2007
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「ロボット3原則(人間に危害を加えない、人間の命令に服従する、前の2条に反しない限り、自己を守る)」は、「鉄腕アトム」でお目にかかった。そのときは子供だったからか、ロボット自身を規制する法律のようなとらえ方をしていた。鉄腕アトムのようなロボットは、自主性を備えている。と同時に、人間を上回る力ももっているわけだ。だから、人間に逆らったりした場合は、罪になるというそんな解釈をしていた。 今回「アイ、ロボット」を見て、「ロボット3原則」とは、人間側がロボットを作る際に、人間にとって都合がいいようにプログラムすることなのだとわかった。知的に高性能のロボットを作る場合は、必ず人間に服従するように設定しないと、人間の管理下にはおけないのだ。ロボットは、すべてプログラムによって作動する。受け答えできる会話は、言語の数をいくつ組み込んであるかで決まる。笑う、泣くなどの感情的な反応も人間をモデルにしていろいろな場合のサンプルをとり、それをデータとしてインプットしてやればその分についてはできるだろう。 ファンタジー映画の「アルゴ探検隊の冒険(1963)」。水と食糧を補給するために立ち寄った「ブロンズ島」で、メンバーは青銅の巨人タロスに遭遇する。普段は、台座の上でポーズをとる単なる銅像なのだが、探検隊が宝物を盗み出したことで動き出す。タロスは、ドロボーに反応し、撃退するようプログラムされていたと考えられる。タロスには、「ロボット三原則」が適用されていない。神話時代の動力エネルギーが何か、マイクロチップのコンピュータが埋め込まれていたのかどうかは不明だが。 「アイ、ロボット」では、ロボットが、事故によって水中に沈んだ車から人を救い出す。このとき、12歳の少女と成人の男子が車内にいた。ロボットは、助かる確率を計算して、可能性が大きい成人男子を助ける。これなども、そのようにプログラムされていたわけだ。 人命救助という人道的な行為でありながら、優先順位はあくまで機械的だ。とはいっても、プログラムの中に、年少者から救助すると組み込んでおけばいいわけだ。だから、全然ロボットの責任ではない。ロボットの融通がきかないというのではなく、人間の見通しがあまかったわけだ。 全てはプログラム通りなのだから、人を殺すように組み込まれたロボットはそうするだろう。SONYの“AIBO”の動作を見て、「かっわいーい!」とのたまう各年齢層のご婦人方がいらっしゃる。“AIBO”の動作は、人間に受けるようにプログラムされているだけです。そういうとミもフタもないか。 人間の行動も、プログラムされるものといえる。子供たちが素直な心、よい習慣を身につけていくのは、親や周囲の人々がほめたり認めたりすることで、プログラムが組み込まれていくのだ。そのような子供たちの行動を見て、大人は「かわいい」と感じるだろう。けれど、人間は人間同士のやりとり、相互作用、コミュニケーションで学習する。あらかじめ決まり切ったプログラムが組み入れられているわけではない。毎週日曜日の朝には必ず更新しています。つぎも読んでくれたら嬉しいです。 人気blogランキングに参加中。クリックしてください。ご協力、よろしくお願いします。みんなブルース・リーになりたかった
January 8, 2007
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