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【楽天ブックスならいつでも送料無料】【BD2枚3000円2倍】燃えよドラゴン【Blu-ray】 [ ブルー...価格:1,500円(税込、送料込) 6月3日(水)、NHKBSプレミアムの「アナザーストーリーズ 運命の分岐点」で「燃えよドラゴン誕生 ブルース・リー 最後の闘い」が放送された。 のっけからボブ・ウォールが登場したよ。 ブルース・リーの映画を彩った重要な人物の一人だよ。 『燃えよドラゴン(1973)』以後は寡聞にして名前を聞かなかった。しかし、ブルース・リー関連のイベントなどにゲストとして呼ばれ続けてていたとのこと。 ブルース・リーは早逝したが、ボブ・ウォールはご高齢に達した現在もご健在でなによりだ。 ボブ・ウォールは、主役級ではなかった。しかしながら、彼は彼なりに、ブルース・リーのイベントでファンに歓迎されて、充実した人生を送ってきたのだろう。 番組の中では、ブルース・リーの「型は持たない」という言葉が取り上げられていた。 何かにとらわれること、執着することは、いわば型にはまることだ。 型にはまれば、型にそってしかものが考えられなくなる、行動できなくなる。 人間は本来、よりよく生きるという目的があるはずだ。 しかしながら、型にはまってしまい、ひとつの主義主張あるいは信条などにこだわりすぎると、それ以外のものを排除したくなる。自分の考えが正しくて他はまちがっていると。 主義主張や信条というのは生きるための手段であるはず。ところが、主義主張や信条にそって生きようとすればするほど、他の価値観やそれをもつ人間を受け入れることができなくて、かえって生きにくくなってしまう。 これを本末転倒、または自由を失うという。 格闘技の目的は相手と闘うことである。手段であるべき流派の型を厳守することではない、というのがブルース・リーの考えだろう。 流派という集団のお山の大将になることと、格闘技を極めることは、自ずから違うのだ。 そして、型にとらわれるのことは、あの技を教わってなかったから負けたという受け身的な愚を冒すことにもつながる。常に相手の出方を想定し、自分のもっている技で、応用を利かせて闘う姿勢が大切だといえるのではないか。 型とは量であり、型をもたないとは質であるかもしれない。 量をふやすことに頼らず、シンプルに質を高めたいものだ。 また、ブルース・リーは「水はあらゆる形になれる。ティーポットの中に入ればティーポットの形に。カップの中に入ればカップの形に。水の如くあれ。吾が友よ」とも言っている。 自分一人だけで生きていけるのではない。様々な外的要因がとりまいている。 その中で、ものごとの本質や自分自身を大切にしながら、柔軟に生きていきたいものだ。人気ブログランキングへ
June 7, 2015
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★お取り寄せ★リージョンALL&中&英文字幕!「DVD/燃えよ!じじぃドラゴン 龍虎激闘-打擂台 ...価格:2,300円(税込、送料別) 藤岡弘は仮面ライダーではない。 しかし、ブルース・リーはドラゴンである。 そして、ブルース・リャンもドラゴンである。 カンフー・スターは、いつでもどこでもドラゴンなのだ。 カンフーのないブルース・リャンなんて見たことがない。 1974年のゴールデンウィーク、映画街は怒濤のカンフー・ラッシュだったんだぞ。 本命ブルース・リーの『ドラゴン危機一髪(1971)』 ”天皇巨星”ジミー・ウオングの『片腕ドラゴン(1972)』 はたまた 『怒れ!タイガー(1973)』チャーリー・チャン 『嵐を呼ぶドラゴン(1972)』チェン・カンタイ そして、ブルース・リャン、倉田保昭の『帰ってきたドラゴン(1973)』 (千葉真一の『殺人拳2(1974)』もあった!) なんという魅惑の連休であったことよ。 (ちなみにあの頃の地方映画館は、2本立て興行だったからね) そのチャーリー・チャン、チェン・カンタイ、そしてブルース・リャンが時空を超えて一堂に会したのが『燃えよ!じじぃドラゴン 龍虎激闘』だ。 思い返してみれば、『帰ってきたドラゴン』がかかっていた映画館の看板は倉田保昭がメインだったのだよ。 凱旋大将軍みたいにして、日本人倉田が大々的に看板に掲げられていた。 じつのところ映画では倉田は悪役。ヒーローはブルース・リャンだった。 この二人が繰り広げる疾風ハイスパート・カンフーには度肝を抜かれた。 猛ダッシュしてキック、パンチの応酬、また猛ダッシュして派手にバトルする。 それだけではない。 建物と建物の抜け道に来たかと思うと、倉田が両脚を広げて、両側の建物の壁に足を懸けて、ぎゅんぎゅんと上っていく。 不適な笑みを浮かべるブルース・リャンも、向かい合って同じように上っていく。 両者股を開いて両側の壁で自分自身を支え、ガンガン殴り合い突き合うのだ。 こんなアクション見たことない! ブルース・リャンは『必殺ドラゴン 鉄の爪(1972)』『無敵のゴッドファーザー ドラゴン世界を征く(1974)』などの映画のほか、倉田保昭のテレビシリーズ『闘え!ドラゴン(1974)』や『Gメン'75』にもゲスト出演していた。 映画はもとより、日本のテレビ番組にカンフー・スター=ブルース・リャンが登場するなんて、驚天動地のスーパーサプライズなできごとだった、個人的には。世間的にはどうだったか知らんが。 そんなふうに、力いっぱい目いっぱいアクションしたブルース・リャンだったが、カンフー・ブームが去り、いつしかその名前も聞かれなくなった。 と思っていたら、数十年のときを経て、ブルース・リャンは突然『カンフー・ハッスル(2004)』で奇跡の復活を果たした。 ブルース・リャンの役どころは、なんとバトルアクションするハンニバル・レクター、またはパンチとキックを繰り出すジャバ・ザ・ハット。。 あの二枚目スターでならしたあのブルース・リャンが、極悪非情の怪物悪役に変身したのだった。 往年のベビーファイスがよる年並みからヒールへの転向とは、プロレス界にはよくある展開だ。 そして今回、『カンフー・ハッスル』から約10年ぶりのお目見えは、じじいドラゴン。 この映画、ブルース・リャンが、老いたりとはいえ無敵の達人ぶりを見せるのかと予想した。 例え年をとっても、中国4000年の秘法拳法で大活躍、という筋書きを期待したのだった。 しかし、意外にも、格闘場面はリアルファイト路線であったのだ。 とうに峠をすぎ、思うように動かぬ体を駆使して、まさに、まさに死力を尽くして闘うじじいドラゴンの勇姿を見よ! 時の流れに身を任せ、さすらいのカンフー街道を漂ってきたブルース・リャン。 カンフー・スターは、いつでもどこでもドラゴンなのだ。人気ブログランキングへ
January 20, 2013
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ラーメンは豚骨がいいです。お店に入って注文し、面やスープを口に含む。期待通りの風味を感じると、一気に食べ尽くしてしまいます。豚骨の味は忘れがたく、コンビニなどで豚骨カップ麺を見ると、思わず購入してしまうことがあるのです。味わってみれば、お店で食べるほどのコクはない、豚骨の味に似せてはあるけれど化学調味料仕立てなどとわかっていながらも。 レンタルビデオ屋さんでDVD「ジム・ケリーINブラック・サムライ(1976)」を発見、これは掘り出し物だ!ジム・ケリーは、あの「燃えよドラゴン(1973)」に出演した黒人の空手使いです。ブルース・リーを筆頭にした善玉側のナンバー3のポジションに位置していました(途中で殺されたけど)。「マスク(1994)」や「マジェクスティック(2001)」に出演したジム・キャリーとは別人です、念のために。 ブルース・リーが世界にその名を知らしめた「燃えよドラゴン」、これをじっくり煮込んだ絶品豚骨ラーメンになぞらえるならば、同じカンフーを題材にしながら「ブラック・サムライ」は3分でできあがるお手軽カップ麺に位置するといえるのではないか。 まず、セリフがカップ麺です。エージェントのケリーに情報部が仕事の依頼に来ました。そこでの会話を見てください。情報部「この写真を見ろ」ケリー「トーキーだ」情報部「とても言いづらいがジャンコットにさらわれた」ケリー「目的は?」情報部「2日前のことだ」ケリー「犯人の名前は?」情報部「ジャンコットは東南アジアに巨大な麻薬ラインをもつが・・・」 話が噛み合ってないって。状況説明が難しいので他に引用はしませんが、おおよそこんな調子のやりとりが続きます。 さらに、場面の展開がカップ麺。トーキーの捜索に乗り出したケリーが、ホテルに落ち着きます。早速武道のトレーニングを開始するケリー。このあたりは、「燃えよドラゴン」などのブルース・リーが、自室で鍛錬する姿を意識したのか。そこへ突然敵の戦闘員が襲ってきます。軽く一蹴するケリー。戦闘員を窓から外へ放り出す。さすが全米空手ミドル級チャンピオン、強い。しかし、吹っ飛んでいった敵と入れ替わりに、壊れた窓から味方の情報部員が入ってきました。どうしてそんなところから?と思うまもなく事務的に打ち合わせを始めるのです。こんな場面展開の省略を見たことはありません。 続くアクション場面も、カップ麺。敵の集団に追われるケリー、ビルの側面にあるはしごを登り始めます。追っ手をふりきって、屋上に逃れるつもりか。下から迫る敵を蹴り落とす。その直後だ。ケリーは登り途中のはしごを降りていって、群がる悪漢と闘い始めました。何のためにはしごをのぼったのか?フェイントか?ケリーはきっと、はしごを登っている最中に、屋上に行けば逃げ場がなくなることに気付いたのでしょう。 「燃えよドラゴン」で売り出したジム・ケリーは、ブルース・リーの幻影と切り離して存在することは難しい。彼は、どこまでいっても“黒いブルース・リー”です。 ケリーは、トーキーを誘拐した男と対決します。電光石火の空手技で誘拐犯を倒すケリー、横たわる敵にジャケットをかぶせます。おお、これは、「ドラゴンへの道(1972)」のあの場面を思い起こす。チャック・ノリスとの死闘を制したブルース・リーは、事切れた好敵手にそっと空手着を着せかけました。味わい深い場面でした。“黒いブルース・リー”ケリーも、武道家として敵に敬意を現すのか。しかし、「ブラック・サムライ」の誘拐犯は、死んではいなかった。油断したケリーの目を盗んでこっそり起き出し、逃げていくではありませんか(つぎの展開用に、ここではまだ役者が生きている必要があったのです)。何のためにジャケットをかぶせたのだ。寝冷えしないように気を遣ったのか?カップ麺だなあ。 バルコニーで闘うケリー、後ろから敵の戦闘員が羽交い締めにします。するとケリーは、自らのジャケットをするりと脱ぎます。しがみつく戦闘員は、バルコニーから落下、ケリーは上半身裸となる。ブルース・リーは、自らの鍛えられた肉体を晒すのに、服が破れる、剥がされるなどの演出を行いました。“黒いブルース・リー”であるケリーも、これをやってみたわけです。ケリーの肉体も確かに鍛えられてはいますが、ブルース・リーほど鬼気迫る物はありません。残念ながら、カップ麺。 そして迎えるクライマックス(?)、いよいよ敵のボスとの闘いです。迷路のように入り組んだ通路でのバトル。これは、「燃えよドラゴン」の鏡の部屋でのリー対ハンの対決場面を拝借したのでしょう。ちがうのは、敵のボスがハンのようには強くないのに対して、ケリーがブルース・リー以上に強すぎること。斧を振り回すボスをいたぶるケリー、だから、名勝負は生まれません。やっぱりカップ麺。 この映画、偉大なるブルース・リーへのオマージュ、ではないようです。敬意はあまり感じられません。ブルース・リーの映画をちょっと形を変えて“黒いブルース・リー”でやってみました、という趣です。濃厚豚骨のような「燃えよドラゴン」の中でけっこういい味出していたジム・ケリーですが、 「ブラック・サムライ」ではカップ麺の安っぽさに埋没していました。カップ麺はカップ麺として、刺激的な味を発揮してくれればよかったのですが、 “黒いブルース・リー”ジム・ケリーは、ジム・ケリー独自のテイストに到達することはできなかったようです。悲しいことに。お店のラーメンの身代わり品にすぎないカップ麺でした。 所詮カップ麺の味には限界があると知りながらも、豚骨カップ麺を食べてみたくなります。豚骨味が好物だから、まがいものでもあの味を感じたいと思うわけです。食べてみれば、案の定お店の豚骨ラーメンとは比べものにならない。でも、好奇心は十分満足させられました。食べてよかった!だって、豚骨マニアなんですもの。人気blogランキングに参加中。クリックしてね。ご協力、よろしくお願いします。
January 27, 2008
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「燃えよドラゴン(1973)は、ハンの組織を滅ぼすため(個人的には妹の敵討ちのため)に闘う。「片腕ドラゴン(1972)」は潰された道場と失った片腕の復讐のために闘う。そして、「上海ドラゴン」は、出世のために闘う。なんか動機に共感できない。ちょっと俗っぽいぞ。「今は車磨きだが、今に必ず出世する」「俺が出世したら、みんなに恩を返す」自信満々だ。 主人公馬永貞(実在の人物 以後マー)のいう「出世」とは、会社の社長になるとか政治家になるとかではない。成り上がって親分になることを夢見ている。しかし、マーは既成の組織に属す気はまったくありません。どーしても、自分一人の力で、ステップアップしていくことにこだわっている。根性があるね。 映画の中で、実際に階段昇るシーンがある。安宿で、金がなくて通路の片隅に寝させられていたマーだが、ならず者一味を追い出したことで「2階の部屋を使っていい」と優遇される。マーは一人、一歩一歩階段を上がっていく。じつに象徴的だ。 香港ショー・ブラザーズの作品には、往年の日活テイストを感じる(スタッフの交流があったりして、日活映画の影響は大きかったとのこと)。「フィストバトル/拳撃(1978)」などは、和田浩冶や松原智恵子が登場してくるんじゃないかと思った。「上海ドラゴン」も、日活映画香港撮影所作品牡蠣油風味だ。 日活といえば、大スター小林旭。彼は、大部屋俳優時代から周囲の人々に「すぐに主演作を撮りますから」「俺はスターになりますよ」と豪快に語っていたという。マーのキャラクター設定に似ているではないか! この作品は、「カンフー・ハッスル」の元ネタといわれる。出世を夢見る主人公が相棒とともに行動する、敵のならず者一味が武器として“斧”を使っている、上海を舞台としている、などのことから。「カンフー・ハッスル」のせこいチンピラ、シンは、ずっと負け犬で、弱い者いじめで憂さを晴らす。その惨めさによって、後半のスーパーヒーローへの劇的大変身が生きてくる。対するマーは、最初から威風堂々、たとえ財布が空でもプライド高く行動し、傲慢ささえ感じさせる。しかし、親分と呼ばれる身分になってからも、ショバ代が払えない商人に寛容さを見せる。暗黒街のならず者一味とは異なる人格、「いい人」を表現している。 マーは、上海の大物タン・リーに憧れる。タン・リーを演じるのはデビッド・チャンだ。デビッド・チャンは、「風間トオル」似と聞くが、髪型などから「近藤正臣」似といいたい。拳法も強いが、上等な服を着こなし、吸い口パイプでタバコを吸いながら特注の馬車を乗り回す。ひたすらカッコいい。「いつかああなってやる」粗末な身なりをして、屋台で食事するマーは誓う。やがて階段を昇り始め、金が入るようになると、まずパイプを買う。さらに景気がよくなると同じデザインの馬車を注文して、タン・リーに近づいてきた自分を味わう(やや単純?)。 粋でスマートな佇まいを見せるタン・リーだが、大ボス、ヤンの奸計に陥る。スターがやられる、負けるといった状況は、相当な気配りが必要だ。ジャイアント馬場やアントニオ猪木も、ときには負け役をして変化をもたせないと客に飽きられる。でも、あっさり実力勝負で悪役レスラーに負けてしまっては、最強善玉レスラーの商品価値が急降下して客足が遠のく。だからアブドーラ・ザ・ブッチャーやタイガー・ジェット・シンの反則、凶器攻撃など、汚い手によって負けてしまったとのストーリーをつくるのだ。それでも、完璧に傷がつかない負け方などはとても難しい。凶器を奪うチャンスがあったのになんでそうしなかったのか、などとどこかで弱点を見せてしまう。 タン・リーの場合は、信じていた部下に裏切られ、自慢の馬車のシートでナイフによって深々と腹をえぐられる。それでも気丈にヤン一味を蹴散らす大立廻りを演じる。やがて力尽き、馬車にもどってシートに身を沈める。パイプのタバコをくわえてこときれる。“スター”デビッド・チャンの商品価値を損なわず、ファンの感涙を絞る演出だ。最期の言葉は「子分に裏切られちゃいうことないや」。その通り。死に際もひたすらカッコいいが、ちょっとお人好しだぞ、大物タン・リー。ヤンがつぎに狙うのは、マーだ。会食への招待を装って、マーを襲撃しようと謀る。マーは考える。 「行こう。俺は上海で勝負する。もっと高い所に立ってみせる」 「ヤンは上海では有名人だ。約束は守るはずだ。俺とサシで会うはずだし、人が多い場所だから 手出しはできない。何かあればすぐ隣にいるヤンを殺す」 マーは、タン・リーの復讐をするために、ヤンの誘いに乗ることにした。 ヤンは、料理屋の客も店員もすべて自分の子分に入れ替えてマーを待つ。単身乗り込むマー。卑怯といえば卑怯なヤンなんだが、マーの方も甘い。ヤンの手口が汚いことはわかっているじゃないか。いかにカンフーが強くても、策をもっていないと対抗できないぞ。 料理屋での大激闘は、15分以上続く。しかも、マーは腹部に斧の攻撃を受け、斧が刺さったままの状態で闘い続ける。あらかじめハンディをつくり、ぐっと主人公よりに観客の気持ちをつかんでいる。タフネス・マーは、ヤンの手下ども、そして幹部の四大天王も倒し、ヤンに迫る。さすがにマーも力尽きてきた。2階に逃れるヤンを追って、マーは手すりにつかまって階段を昇る、血まみれになりながらはいつくばって階段を上がる(「呪怨(2003) 」の伽椰子は血まみれで下ってくる)。しかし、蹴落とされて階下に落下。じつに象徴的だ。 するとマーは、階段を支える柱を破壊する。一挙に崩れ落ちる階段。自分が昇れないなら、上海の大ボスを引きずり降ろしてやれってなもんだ。ついにヤンを倒し、自らも笑って死んでいくマー。すべてを投げ打って憧れの人物の仇を討ち、短い一生を終える。 「出世」は、地位や金に執着してこそ叶うのかもしれない。裏社会で「出世」するためには、どんな手段を使ってでも、生き残りたいとする執着心が必要なのだろう。カッコいい“滅びの美学”とは対極にある。毎週日曜日の朝には必ず更新しています。つぎも読んでくれたら嬉しいです。 人気blogランキングに参加中。クリックしてください。ご協力、よろしくお願いします。みんなブルース・リーになりたかった
January 14, 2007
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0.前書き 香港映画の中には、タイトルに少林寺と忍者のついた作品が、いくつかある。このブログでも「激突!少林寺対忍者」について書いたことがある。少林寺と忍者の対決というと、なかなかに興味をそそるものだが、それらの映画は、必ずしも少林寺と忍者が話と中心となっているわけではないし、少林寺と忍者の大決闘を描いているものでもない。少林寺と忍者は、中国的な強いものと日本的な強いもの、それぞれの代名詞になっている。1.気配りの映画 高校野球、サッカーワールドカップ、オリンピックなどは、ほとんど見ない。劇団四季も見ない。クリーンなイメージがあり、世間的にみんなが話題とするなるものばかりだが、残念ながら魅力を感じない。スタジオ・ジブリもダメだ。 その点からすると映画「少林寺VS忍者」も、ダメな部類に傾いている。ジャンルからすれば香港カンフー映画はこちらの守備範囲なのだが、この作品の中の「気配り」から、みんなに好かれようとしている印象を受けた。そのために、趣味に合わないところがある。 「少林寺VS忍者」のDVDには、主演俳優リュー・チャーフィー(KILL BILL(2003)に出演)のインタビューがある。そこで彼は、「この作品は中国と日本の武術の闘いを描いているが、監督の心配の種は、どちらが強いとはいえないことだ」「中国と日本の武術の優劣や勝負を決めるものではない」「中国人の主人公に肩入れしているが、どちらが勝っても、香港にしろ日本にしろ、負けた方の観客はおもしろくない」と繰り返し述べている。中国にも、日本にも「気配り」した映画というわけだ。 結果的にこの映画は香港で大ヒットし、リバイバル上映もされたという(中国人にとっては、自国のリュー・チャーフィーが勝つ話だからね)。作った側としては成功だったのだろうが、一観客としては、どっちにもいい顔をして、あたりさわりがないように志向したあたりが不満である。2.日本人が悪役でもいいじゃないか ブルース・リーの「ドラゴン怒りの鉄拳(1973)」やジミー・ウォングの「片腕ドラゴン(1972)」などには、悪役の日本人が出てくる。そして、中国人のヒーローに成敗されたりすると、確かに日本人としては、ちょっと複雑な心境になる。 「少林寺VS忍者」で、リュー・チャーフィー演じる主人公は、日本人の七人の武道家と毎日一騎討ちを続け、辛勝とは言え、連戦連勝する。「相手は達人だぞ、たった一人で勝ち続けられるわけないだろう」と映画に対してリアリズムをもちだし、クレームをつけたくなる。日本人が勝ち続ける話ならば、疑問ももたず、気持ちよく見ていられたのだろうけれど。オリンピックでもワールドカップでも、興味をもって見ることはないが、日本が勝った聞けば、それはそれで嬉しいものだ。 しかし、映画は虚構の世界なのだ。日本人が極悪非道な役を割り振られていようが、そこによほど日本に対する意図的なバッシングなどが見られない限り、それほど役の上のことにこだわるものではない。 この作品の監督であるラウ・カーリョンは、もともと武術家である。彼の興味の焦点は、武術の美をスクリーンに映し出すことにあったのだと思う。彼は、中国武術と日本武道のお互いのよさを引き出して、異種格闘技交流戦が描きたかったのだろう(リュー・チャーフィーはインタビューで「技の磨き合い」「文化交流」といっている)。彼が武術家として、日本武道に十分敬意を払ったことはわかる。勝負において、圧倒的な力の差はなく、僅差で日本側が負けること、また、負けた日本人も大変潔いことなどから。さらに、花嫁が結婚式で白無垢を着ていると、中国人にとっては不吉な色だと囁きが聞こえてきたり、日本人にとっては正座して食事をするのが基本なのに、中国人はそれを死刑囚の食事の仕方ととるなど、民族によって異なった解釈をするというシーンを提示し、観客に異文化に対する理解を促している。 だが、同じような素材なら、中国征服を企む忍者軍団と、迎え撃つ少林寺修行僧の秘術をつくしたバトルといった内容が見たかったなあ。どちらにも気を遣うのではなく、虚構の世界ならではの思い切ってスケールの大きいもの、悪と善がはっきりしていて、きちんと決着がつくものが好きなのだ。 3.夫婦喧嘩から二カ国対抗異種格闘技団体戦へ 中国人武術家アタオ(リュー・チャーフィー)は、日本人女性と結婚する。妻となった弓子は、武道家であって、結婚後も修行に余念がないし、なおかつ日本武道の優位性をひけらかす。そうくるとアタオとしても、武術家として黙っていられない。二人は、顔を合わせるたびに格闘を繰り返し、自分の正しさ、自国の格闘技や文化を相手に認めさせようとする。 何度か目かの対決で、弓子は忍術を使う(黒の忍者装束を着て)。アタオから忍術の戦法は卑怯だ、正々堂々と闘うことが大切だと言われ、「どんな手を使っても勝つことが優先よ」と反論するが、言い負かされてしまった弓子は、日本に帰ってしまう。それきり妻が戻ってこないため、アタオは、弓子に「挑戦状」を送る。その挑戦状を、弓子の兄弟子倉田保昭が目にして大激怒(じつは倉田は弓子に気がある)。武道連合とともに中国に乗り込んできて、アタオとの闘いが行われる。 あらすじからして、コメディー・タッチなんですよね。新婚早々の弓子が武道の稽古と称して、庭の塀や置き物などをつぎつぎに破壊していく場面などがある。これは、笑う場面なんだろうなあと思うけれど、ギャグ特有のオーバーアクションやリアクションが感じられなくて、真剣に鍛錬をしているように見える。こちらの読み取る力も不足しているのだろうが、笑っていいのかどうか、ちょっと判断に迷ってしまった。雰囲気からして、生死を賭けた闘いにもっていこうとするものではないことはわかりました。 後半は、アタオ対日本武道家連合の七番勝負が展開される。剣術対剣道、酔拳対空手、中国槍術対日本槍術、短剣対サイ、などなど。そして最後が少林寺拳法対忍術、リュー・チャーフィーと日本側のエース、倉田保昭のメインイベントだ。この試合で倉田は、「日本の蟹形拳だ!」と大見得を切る。そんな拳法はないと思うぞ。頭の上のハサミを振り振り、まさにガニマタで右へ左へと横歩き気味に動く。対するリュー・チャーフィーの優美な鶴形拳にくらべると、ギャグに見えるのだけれど、本人は真剣にやっているので、やっぱり笑っていいかどうか迷った。 これらの勝負をみんなリュー・チャーフィーが勝っちゃうのです(倉田戦だけは、微妙な一勝一敗なんだけど)。日本側としては、ちょっと不満でしょ。でも、ちゃんと「気配り」があるんだな。巨漢の柔道家との闘いでは、リュー・チャーフィーが裸になり、油をぬって掴まれないようにする。だから圧倒的に体力で勝る日本人柔道家は、負けても言い訳ができるというものだ。三節棍対ヌンチャでは、実力は同等だが、三節棍の方がヌンチャクより寸法が長かったために、その差が勝敗の分かれ目となった。リュー・チャーフィーは、インタビューの中でこの闘いにふれ、格闘技においてリーチの差はいかに大きなハンディとなりうるかを解説している。 つまり、勝負はときの運で、たまたま(8回も!)リュー・チャーフィーが勝ったけれど、日本武道も本当の意味では負けていないんだよ、というわけだ。気配りだねぇ。すべての取り組みが終われば、お互いの技量や精神、作法に対する理解が深まり、ノーサイド。カンフー服と羽織を脱いで、交換するかと思ったぞ。 4.プロレス的「気配り」と座頭市の負けバージョン この作品の気配りは、かつてのプロレスの勝敗の決し方に似ている。スター・レスラー同士の試合では、両者リングアウト(通称「両リン」)や時間切れの引き分け、または反則で勝敗が決まる(ルール上の勝ち負けと実力による勝敗は別な価値観という解釈。反則負けした悪役が試合後も元気で、勝ったヒーローが力つきていることもある。その場合はどっちが強かったのか)ことが多かった。実力が拮抗しているということで優劣がつかず、両者ともに商品価値を落とすことなく、決着戦が次回にもちこまれて、観客の期待を煽ることになった。この場合、同じ引き分け(反則決着)でも、あらかじめ引き分け(反則決着)に持ち込もうとするイージーな試合と白熱の好勝負の末の引き分け(反則決着)では、観客の満足度は全然ちがった。 90年代以降は、完全決着が当たり前になってきた。それは、プロレスの不透明決着に対して、観客が段々と不満を表面化させてきたからだった。ね、お互いの商品価値を落とさないってのは、見ている方にはつまらないんだよ。けれど、今でも、レフェリーが不可抗力でレスラーと激突して気を失うなど、アクシデントによって勝敗が決まってしまうことがある。試合の結果は出るが、レスラーの強弱は明確にならないという、まさにプロレス的決着はまだ綿々と生きているのだ。 それにしても香港の人は、勝敗に対する執着心が強いのだろうか。ブルース・リー以前のスーパースター、天皇巨星ジミー・ウォングは、勝新太郎に招かれて「新座頭市 破れ!唐人剣」に出演した。その映画には、エンディングが2つあったそうだ。座頭市が勝つパターン(日本公開版)と、ジミー・ウォングの片腕剣士が勝つもの(香港公開版)と。 ジミー・ウォングは香港における超大物俳優だし、片腕剣士は彼の当たり役である。だから自己のイメージを傷つけたくなかったのだろう。しかし、相手は大先輩の座頭市ですよ。ジミーの片腕剣士シリーズ(1967,69)は、2本のみ(カンフーバージョンの「片腕ドラゴンシリーズ(1972,76)を加えても4本」。それにくらべて座頭市は、この作品ですでに22本目(映画作品は全26本、テレビは全100話)、ですよ。さらに、片腕剣士は座頭市をヒントに作られたものといわれている。格の点でいったら、新鋭の片腕剣士が、十分実績を積んだ座頭市に負けでもいいじゃないかと思うのだけれども。4.日本進出作戦 リュー・チャーフィーは、DVDのインタビューで「ラウ・カーリョン監督は、どちらかが負けることがないよう、とても気を遣っていた」と繰り返し述べていた。日本人の観客への配慮は大変ありがたい。けれど、この作品は当時日本では公開されていないのだ。後にビデオになって、ようやく日本で日の目を見たのだ。どうしてあの時点で、そんなにも日本の観客を意識する必要があったのだろう。 もうひとつ、劇中、日本から乗り込んでいった7人の武道家は、全員日本人俳優である。他の映画では、仇役の日本人を必ずしも日本人が演じてはいない。それなのに、香港に渡って活躍した倉田保昭は別格だとしても、そのほかに八名信夫や大前均など、もれなく日本から俳優を招聘し、妻役にもまったく無名ながら日本人女優水野結花を配している。これは、日本向けのキャスティングととれる。 じつは、ラウ・カーリョン監督やリュー・チャーフィーが、この作品で日本進出を計画していたのだ!と思うけど。
August 12, 2006
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ハイスパート・カンフーと映画の「魔界」 ラスト近く、リャン対倉田のハイスパート・カンフーが繰り広げられる。この対決は、二人の最盛期に行われた、掛け値なしの名勝負である。好敵手同士、お互いの力と技がかみあって、躍動感あふれる、見事な攻防を見せてくれる。 上映時間は103分。リャンと倉田の一騎討ちは、7分間である。7分間休みなく格闘が続くが、対決場面はここだけだ。もっと長く、何度も見たい気もするが、「ここだけ」だから一気にスパークしているし、ありがたみもあるといえる。 103分から7分を引き算すると、残りは96分。7分間の格闘は、エキスパートの技術を見て畏敬の念を抱く時間である。あとの96分間は、映画に存在する「魔界」に引きずり込まれる。7分間のバトルも、96分の「魔界」も、両方とも、現実を超えた世界を見せてくれる。この対決を見よ 「7分間のカンフーが名勝負であろうと、それがどうした」といわれたら、文句はいえない。 人には好きずきがある。格闘技で血が騒ぐ人がいれば、毛皮で覆われているにもかかわらず、ペットの犬に洋服を着せている人もいる。犬にとってはありがた迷惑じゃないのか、といったところで、通じない。犬の方も、次第に慣れるところが恐ろしい。事程左様に、趣味を強制することはできない。多分、多くの人は、「7分間の秀逸なカンフーバトル」のために103分の映画を見ることはないだろう。 残念に思う。例え魔界の96分間が、ストレスの塊だったとしても、ハイスパート・カンフー対決が出現したときは、汗をかきながら登山道を進み、ようやく頂上に立ったときのように爽快!なのに。香港映画には台本がない 映画の中に魔界を出現させるのは、当時の香港映画界には、台本がなかったことが一因だと考えられる。もし、台本を作ったら、すぐに盗まれ、本物より速く偽物が完成してしまったらしい。 台本がない。そのために、スタッフやキャストが映画について共通理解することは不可能だ。勢い監督の指示に従うしかない。 監督は「ドラゴン世界を征く」をつくるにあたって、頭の中に、リャンと倉田の対決シーンのイメージが明確にあったはずだ。その他には、イタリア、マフィアなどの題材の断片もあっただろう。けれど、監督自身だって、台本がなければ、一貫した見通しをもつことはできない。映画の撮影は、多分、閃きや思いつきによるところが多かったんじゃないか。だから、「魔界」だらけになったのだろう。 ヒーローは守銭奴 主人公を演じるブルース・リャンは、第二のブルース・リーといわれた人物のうちの一人だ。リャンは、香港でマフィアの殺し屋からインターポールを救う。以後リャンは、殺し屋の威厳を傷つけたこと、マフィアの失地回復のために、命を狙われる立場に回る。リャンは、役の上でも映画スターである。ロケでローマを訪れ、現地在住の兄の家に泊まる。翌朝、リャンが目覚めると、兄が殺されている。自分と間違えて、兄が殺されたとわかり、怒りに燃えるリャン。 彼は、その直後に、警察にも、葬儀屋に行かず、保険会社へ出向く。「どこも断わられたけど、あの会社だけは保険に加入させてくれたよ」って、兄貴が殺されたから、急いで保険に入ったのか?弟は、金の心配をして、検視も葬儀もなしで、兄貴の遺体を放置しているとしているのか?だとしたら、気の毒だ。 ところでリャンがローマにやってきた理由は、マフィアのボスによる「最高のギャラ(映画の出演料)を払うといって、呼び寄せろ」との策略にのったものだった。なんだか、リャンは計算高いキャラクターのように思える。ヒーローの金銭感覚がしっかりしていると、せこい感じがしてしまう。ヒーローは神出鬼没 閃きや思いつきなどというと、その場しのぎであっちへ行ったり、こっちへ来たりすることが往々にしてある。けれど、この作品にはぶれない軸もきっちりとある。いかにブルース・リャンをカッコいいヒーローとして撮るか、どうやってハラハラ、ドキドキの場面や予期せぬ展開をつくるか、といったことについては、いささかも姿勢を崩していない。ただ、ワンシーンごとにブルース・リャンを、思いっきりカッコよく撮ろうとしているので、そのシーンを並べると、魔界が生じる。 保険会社の女性社員アイビーは、ブルース・リャンの身を案じて、香港に帰るように諭す。彼女の勧めに従い空港の登場口へ消えるブルース・リャン。リャンを見送ったアイビーが、空港から一人車を走らせていると、マフィア一味の追撃を受ける。車を降ろされ、マフィアに拳銃を突き付けられるアイビー。「リャンはどこだ」「今頃、飛行機の中よ」。そのやり取りを聞いて、車からさらに巨漢がのっそり登場してアイビーを襲う。 マフィアさんたちが狙っているのはリャンでしょう。リャンが香港に帰っちゃったとわかってから、保険屋のアイビーを痛めつけてもメリットはないじゃないか。どうもこのマフィアは、自分の仕事がわかってないようだ。だれでもしばけばいいというものじゃない。 いずれにしも、とにもかくにも、アイビーは絶体絶命の危機に陥る。突如姿を現すブルース・リャン。颯爽、ヒーローの登場だ。あれ、リャンは、さんざん説得されて、納得して香港へ帰ったはずだ。なんで、そこにいるんだ。そして、なぜアイビーの居場所がわかったのか。疑問噴出。 リャンは、お約束通り、マフィア連中をカンフーで一掃する。八面六臂の大活躍だ。闘い終わって、彼の口から出たのは「飛行機に乗り遅れた」。ヒーローは、飛行機に乗るのには妙に手間取るが、ヒロインのピンチには、絶妙のタイミングで現れます。ハイスパート・バトルのシーンにも こうした数々の魔界シーンを積み重ねて、いよいよリャン対倉田の対決になだれ込む。ハイスパート・カンフーとは、走りまくり、立ち止まって格闘し、また激走しては格闘する。ローマの名所を舞台に、見事なハイ・キックや回し蹴りが火花を散らす。激闘シーンのその脇を、ローマの一般市民の皆さんが、何ごともないかのように歩いていく。 おい、カメラマン、通行人を写すなよ。普通撮影中は、「すみませーん。すぐ終わりますから」とかいって、交通を遮断するだろう。なんかジャン=リュック・ゴダールの映画みたいだ。ゴダールは意図的に日常と非日常を同一場面に収めたけれど、こちらは単に町中で、無許可の撮影を行ったとのこと。先のアイビー救出の場面も、撮影を見る野次馬が取り囲んでいた。そんな中で、あれだけの格闘シーンを演じるのだから、ますますすごいぞ、リャンに倉田! 二人は、とにかくローマ市街をひたすら走って闘い、闘って走る。気がついたらあたりは雪景色だ。走り抜いたぞ、都会から雪山へ。しかも、息も切らさず、汗もかいていない。格闘技よりも、本気でマラソン競技に挑戦したらいい記録が出るって、そんなことはない。思考はグルグルと回る 魔界シーンについては、できる限り合理的な説明を考えてみている。リャンは、一度は香港に帰る決心をしたが、アイビーと離れ難くて飛行機に乗らずに戻ってきて、アイビーの車をタクシーで追いかけたので、マフィアの襲撃場面に駆けつけることができた、とか。 さらに、制作側の意図にそった説明も試みてみる。 雪山の対決場面は、様々な背景の中で、迫力あるハイスパート・バトルを撮りたかった、結果的に、ローマ市街から突然ワープしてきたように見えても、などと。けれど、全編を通して見ていくと、まだまだ仮説検証できない。そのため、「7分間の秀逸なカンフーバトル」とともに、この映画は、脳みそに張り付いてはがれなくなってしまった。 そんな現実離れした映像が嬉しい。犬に洋服を着せるような、物好きの嗜好だといわれようとも。(犬の洋服は、もう見慣れた風景なのかもしれない)
June 25, 2006
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デビッド・チャンはタッグチーム・プレイヤー 「激突!少林拳対忍者(1981)」について、ストーリーを理解することは放棄したくなるが、アクション・シーンは感動的だ。命がけのスタントなどといったド派手なアクションではない。鍛練を重ねた格闘技アクションだ。主演は、亜洲影帝デビッド・チャン。70年代、香港ショウ・ブラザーズのスーパー・スターだった。(この作品は「金冠国際電影有限公司」制作です) デビッド・チャンは、もう一人のスター、ティ・ロンとの共演でヒット作を連発した。ショウ・ブラザーズの二枚看板、「黄金コンビ」といわれた二人だが、主役はいつもデビッド・チャン。ティ・ロンは、半歩下がったポジションでデビッド・チャンを立てていた。拙著「みんなブルース・リーになりたかった」の中でも書かせていただいたが、この関係は、新日本プロレスの黄金タッグ、アントニオ猪木、坂口征二組の関係に似ている。坂口は人気実力共に兼ね備えながらも、自らはトップに立とうとはせず、猪木をもりたてる立場を貫いた。 強力な二枚看板は、安定したパワー・バランスにより、1+1が2ではなく、4にも5にもなる。当然、映画やプロレスの試合が、エキサイティングになり、ファンを集めた。 「激突!少林拳対忍者」は、デビッド・チャンとティ・ロンの黄金コンビが解消された後の映画である。この作品でデビッド・チャンは、夢よもう一度、ティ・ロンに代わる強力なタッグパートナーを求めていた、のではないか。黄金コンビのシングル・マッチ 猪木や坂口は、タッグの試合だけでなく、シングル・マッチでも数多くの名勝負を残している。デビッド・チャンとティ・ロンも、単独で主演映画を撮っている。デビッド・チャンの主演作は「ドラゴンVS七人の吸血鬼(1974)」や「激突!螳螂拳(1978)」など。ティ・ロンは「マジック・ブレード(1976)」「書剣恩仇禄(1981)」などなど。単独作品が面白くないわけではない。けれど、黄金コンビは、共演作品の方が、はるかに輝いて見える。 太陽と月は、同じように空にある。昼間の太陽は、夜の月の存在があって、一層その明るさがわかる。月も、燦々とした太陽とくらべて、落ち着いた光り方を感じることができる。デビッド・チャンは太陽、ティ・ロンは月だ。お互いが、お互いを引き立てる、絶好の存在だった。今回のパートナーは倉田保昭 「激突!少林拳対忍者」は、シュウ(デビッド・チャン)と倉田保昭(一匹狼)の話が同時に進行する。 シュウは、白装束の美剣士、暴漢に襲われた美女を無表情に救う。助けられた美女が執拗に言い寄ってきても、無言で去っていくクール・ガイだ。 一方の一匹狼と言えば、混浴はするは、伝書鳩は用がすんだら焼き鳥にして食ってしまうは、最強であるのは退屈だから自分を負かす人間を探していると豪語するは、ふざけた野郎である。 実に対照的な二人。共通点は、武芸に秀でていることだ。 デビッド・チャンは、敵の剣による攻撃をギリギリのところで、流麗にをかわし、攻撃に転じる。その柔軟な動きに目を見張る。 倉田保昭は、「帰ってきたドラゴン」などで名勝負を繰り広げたブルース・リャンとの再会をはたす。リターン・マッチで相変わらずの激しいキック合戦を見せる。 さらに、デビッド・チャン、倉田保昭、ロー・リエという夢の組み合わせによる三つ巴戦が組まれている。めまぐるしく対戦相手が代わり、剣を交える。格闘の職人芸だ。 傘、扇、車椅子?水上スキー??など、小道具を工夫した格闘アクションの連続だ。(アクションの素晴らしさは容易に列挙できる。けれど、物語の筋を説明することは困難を極める。) このシュウと一匹狼の組み合わせこそ、デビッド・チャンが二枚看板路線を狙ったものだ。デビッド・チャンは、ショウ・ブラザーズにおいて二枚看板で映画を面白くし、二枚看板により自分の役どころを際立たせてきた。しかし、ティ・ロンのときのような、二人の相乗効果は生まれなかった。1+1は2にしかならなかった。ウディ・アレン「アニー・ホール」の場合は アルビー(ウディ・アレン)はかつての恋人アニー(ダイアン・キートン)のことが忘れられない。二人は、ロブスター料理を作ろうとして、キッチンで生きたままのロブスターを取り逃がして大騒ぎし、大笑いになった。アルビーは、アニーと別れた後、新しくつきあい始めた女とロブスター料理に挑戦する。やはり生きたロブスターを逃がして大騒ぎし、あのときのように同じ楽しさを味わおうとするが、新しい彼女は全然のってこないばかりか、完全にしらけている。落ち込むアルビー。 例え、全く同じ場面設定しても、人が変われば、雰囲気は変わってしまう。昔の恋の思い出を違う相手で再現しようとしても、それはできない。 二人で一人、二人は二人 デビッド・チャンとティ・ロンは、美男子コンビだった。彼らが二枚看板として大当たりしたのは、両方とも同じタイプだったからだろう。デビッド・チャンは柔、ティ・ロンは剛なのだけれど、ふたりとも揃ってスマートだ。美男子系でありながら片方のデビッド・チャンが中肉中背、もう一方のティ・ロンが長身。お互いが、お互いを補完する魅力をもっていたのだ。女性から見ると、キリッとした感じに惹かれるけど、優しい雰囲気も捨てがたい、てなことで、お寿司・おそばセットと考えればいいでしょう。つまり、デビッド・チャンとティ・ロンは二人で一人分なのだ。 対する倉田保昭は、決してまずい顔をしているというわけではない。倉田は、男らしい顔立ちで、「激突!少林拳対忍者」では、野武士を彷佛とさせるワイルドな個性を放っている。だが、デビッド・チャンが貴公子然とした佇まいとは、完全に表裏の関係になってしまった。デビッド・チャンと倉田の組み合わせは、別々の二人でしかないということ。お寿司とカレーライスのセットは、ちょっと売れないね。 かといって、デビッド・チャンが、同じ美男子系を配役したらよかったかというとそうではない。アルビーがどんなに探しても、アニーと同じような女性は現れなかったように、ティ・ロンも二人とはいないのだ。※「激突!少林拳対忍者」の日本版DVDはありません。売り出してほしいとは思いますが、出ないでしょう。※タイトルを見て、常識的に判断すると、デビッド・チャンが少林拳の使い手、日本人の倉田保昭は忍者と解釈できます。けれど、それはちがいます。主要登場人物とタイトルは、対応していません。
June 17, 2006
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キワモノ・パワー 作品によっては、ホラーや特撮の体裁を借りてるけど、高尚なテーマを語ってるもんね、という作る側の自己満足映画がある。ホラーや特撮は、際物かもしれない。しかし、愛や反戦などのテーマ性に負けるものでは断じてない。作品に理屈をつけないで、恐怖、怪獣などを追求して、見る者を楽しませてほしい。 「キングボクサー大逆転(1972)」は、キアヌ・リーヴスやテイタム・オニールが御贔屓のカンフー映画である。香港映画ながら、「燃えよドラゴン(1973)」以前にアメリカで大ヒットした。劇中には、愛や友情も描かれている。けれど、キアヌもテイタムも、その他大勢のアメリカの観客も、この作品を、愛や友情について語る香り高い文芸映画として評価したわけではない。彼らは、痛快なカンフーアクションを楽しんだのだ。 この映画には、武道としての最強を決める武術大会が登場する。そこがクライマックスの到達点、大団円ではない。さらにバーリ・トゥード、ストリート・ファイトなど実戦分野の闘いも続く。格闘技の強さにこだわった作品だ。 香港製カンフー映画といえば、ハリウッドの超大作とは対極に位置する、「際物」である。観客は、際物パワーを存分に楽しむために、受け身でいてはいけませぬ。キワモノ・ムービーは想像力で見ろ 以前、「七人のマッハ(2004)」を見に行ったとき、後ろの観客から「ツッコミどころがいっぱいだ」との声がした。耳に入ってくる会話は、挙げ足取りである。観客不在の傲慢な作品は、いくらでも揚げ足を取っていい。けれど、際物ムービーに大切なものは、「想像力」である。なぜヤン師匠は殺されたのか 主人公チャオは、カンフーの才能をもちながら、田舎の道場で修行をしている。冒頭、チャオの師匠ヤンがモン一味に襲われる。モン一味は、華北5省の武術界を支配するため、邪魔者を消そうとしたのだ。 なんとか難を逃れたヤン師匠、しかしこう言う。「わしはもうトシじゃ。力の衰えを感じた。チャオよ、もっと強くなるためには、保定府に行ってスン館長に弟子入りしろ」チャオは、師の勧めを受け入れ、武術大会への出場をめざして、ソンの尚武国術館に入門する。 ヤン師匠は第一線を退き、子供に武術などを教えながら、たまに来るチャオからの手紙を楽しみに暮らしていた。武術界への影響力などまったく見られない。にもかかわらず、モン一味は、最強の刺客である岡田一派を送り込んだのだ。 モンは自分の息子を武術大会で優勝させて、それを足掛かりに武術界の支配を目論んでいた。もし、チャオが田舎道場での修行を続けていたなら、ヤン師匠を殺すことにも意味があっただろう。ヤン師匠の指導を絶ち、チャオに動揺を与えれば、優勝候補の一角を崩すことができる。だが、この時点では、すでにチャオはヤン師匠のもとを去り、はるか彼方の地に赴いている。そればかりか、モン一味に両手を潰され、失意のどん底に落ち込んでいた。 こういった状況の中で、モンは、なぜわざわざ遠くまで刺客を送り込んだのか。コストパフォーマンスを考えれば、隠居同然のジイさんなんか放っておけばいいのに。わざわざ手間ひまかけた結果、亡き師匠の敵討ちを誓うチャオの闘志を盛り上げただけではないか。 これは、モンがとても体面を気にする性格だったためだと考えられる。 モンは、手下が「チャオが大会に優勝するようなことになったら、尚武国術館を潰せません」と言えば、「尚武国術館を潰すだと、武術界はみな仲間だ」と一喝する。「(チャオに優勝させないために)策を練らなければ」に対しては、「正々堂々と闘うことに意義がある。勝敗は二の次だ。わしは正直に生きとる」なんぞと応える。明らかに普段の行動とは裏腹だ。こいつは、自分をよく見せたいわけだ。 だから、周囲から「モンはヤン殺害を企てたが、失敗した」とのマイナスの見方をされると傷つくわけだ。「モンさんは、一度口にしたことは、つねに最後までやりとげる人だ」このように印象づけたかったのだろう。なぜ潰されたチャオの両手は復活したのか チャオは、尚武国術館で力をつけ、スン館長から秘技「鉄掌」の継承まで許される。ついには、代表者決定トーナメントを勝ち上がり、武術大会出場を決めた。 モンはチャオの実力に脅威を感じて、大勢で彼を襲撃する。両手を木の幹に縛りつけ、棒状の物で甲をガンガン殴る。血だらけになった両手は、皮膚の裂傷ばかりか、骨にも異状が及んだはずと見られる惨状だ。 「この手では、もう武術大会には出られない」チャオは、失意のあまり、歌手イエン宅に身を寄せ、無気力のまま日々をすごしていた。だが、兄弟弟子ターミンに見つかり、連れ戻され、修行を再開する。さらに、必殺技「鉄掌」を駆使して、見事武術大会で優勝を果たすのであった。 なぜ、再起不能とまで思われた怪我が回復したのか。スクリーンから読み取れる情報からは、以下のような推測が可能だ。A.歌手イエンの献身的な看病により、彼女が見立てた薬が劇的に効いた。B.じつは襲撃を受けた段階で、すでに鉄掌の訓練が進んでいて、その効果から拳が丈夫になっていた。C.チャオ自身も観客も、痛みや衝撃で、当然骨にまで相当な影響があったと思ったのだが、意外に表面だけの傷ですんでいた。D.気力、精神力で治した。 あるいは単独の理由ではなく、4つがからみ合っていたのかもしれない。が、ここでは、Dを取り上げたい。 チャオは、イエン宅を去り再出発をするにあたって、ターミンから「勇気を持て」といわれる。そればかりかつぎのように言葉をかけられている。「ケガのことは重く考えるな。なにごともおまえの意志次第だ」。「厳しい修行をつめばお前は勝てる」。治療と修行は別問題だと思うが、彼は素直に再修行に突入する。しかし、チャオは手刀で横木を叩き割ろうとしてできない。見守っていたスン館長の叱咤激励が飛ぶ。「なんだそのザマは。怖じ気づくな。全身全霊だ。もう一度やれ」。兄弟弟子ターミンはやはり「勇気を出せ」。意を決したチャオは、鮮やかに木を真っ二つに・・・。 発揮されたのは、気力、または精神力以外のなにものでもない。 キワモノ・パワーは、観客を楽しませようとして、見せ場で突っ走ってくれます。そんな映画にふれたとき、自分の頭の中で、あらためて作品をイメージし直せば、作品に対する愛がますます深まります。 特撮映画などについては、想像力でシーンやストーリーをつなげることが有効だ。子供の頃には、見た映画にインスパイアされて、スクリーンには表現されてない怪獣の登場場面をイメージしたり、別バージョンや後日談を考えたりしていました。だから、実際に見直すと、作品そのものにはないシーンまで記憶に残っているんです。 この映画、主演はジャイアンツの工藤公康選手似のロー・リエ(似てないか?)。彼にとっては、ヒーローを演じた数少ない作品だ。同じころ作られたジミー・ウオング主演の「吼えろ!ドラゴン、起て!ジャガー(1970)」では、日本人の刺客北島に扮して、ジミ−と死闘を繰り広げている。 監督のチェン・チャンホーとしては「キングボクサー大逆転」の主演に、ショウ・ブラザーズの看板スター、デビッド・チャンをもってきたかったらしい。デビッド・チャンであったならば、画面がもっと明るくなっていたかな。デビッド・チャンの「キングボクサー大逆転」、見たかったなあ。けれど、ロー・リエは、華はなくても、朴訥としたまじめな拳法青年の味が出ていると思います。参考文献 「裏モノの神様」唐沢俊一(著) 幻冬舎文庫(2005/10)
June 11, 2006
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