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【楽天ブックスならいつでも送料無料】X-コンタクト [ ランス・ヘンリクセン ]この映画を見た人は、 『エイリアン(1979)』みたいだなー とか 『遊星からの物体X(1982)』に似てるなー などと感じるかもしれない。 それもそのはず 『エイリアン』、『プレデター』、『ターミネーター』シリーズのSFXスタッフが手がける、原点回帰の正統派SFスリラー(TCエンタテインメント・ホームページより)。 だからであり、また、そのスタッフが、 『遊星からの物体X ファーストコンタクト(2011)』でできなかったことをしよう(TCエンタテインメント・ホームページより)、 ということでつくられた映画だからである。 こんなお話です。 セイディは研究調査のため、大学の仲間達と祖父の漁船に乗り込む。そして、海中に不思議な発光体を発見して引き上げる。それは旧ソ連が打ち上げた衛星が帰還したもので、中には氷付けになった宇宙飛行士の死体があった。その死体には宇宙生命体が寄生しており、氷が溶けると生命体は活動を再開した。生命体は固体と液体とに自在に姿を変えながら、船の人間を襲い、寄生時我がものとする。はたして彼らは、この寄生体を撃退することができるか。 類似した映画のあるなしよりも、この映画の価値は、「一撃必殺」なところにある。 「一撃必殺」とは、武術(格闘技)に起因する言葉なわけだが、今年、新日本プロレスは、試合におけるレスラーの大怪我が相次いだ。 それは、最近の試合が、大技やアクロバティックな空中殺法など、危険な技の応酬になる傾向が強く、そのため立て続けに重傷者が出ているからなのだ。 かつて、昭和のプロレスは、一発の必殺技で試合が決まった。 例えば、「ネックブリーカー・ドロップ」。 今では、つなぎ技、見せ技として使われているこの技が、かつては一撃必殺の押しも押されもせぬフィニッシュ・ホールドだった。 思い起こせば1969年(昭和44年)、アントニオ猪木、吉村道明 対 バディ・オースチン、ミスター・アトミックのアジアタッグ選手権2連戦は、必殺技「ネックブリーカー・ドロップ」をめぐる攻防戦だった。 ミスター・アトミックの必殺ネックブリーカー・ドロップが決まれば、確実にフォールを取られてしまう。だから、ネックブリーカー・ドロップを喰らってはいけない、出させてはいけない。 10月10日の山形県体育館、猪木、吉村の防衛戦60分3本勝負では、決勝の3本目、ついにアトミックが吉村の首から頭部をロックし、反動をつけて今にもネックブリーカー・ドロップを決めようとした。 その瞬間、猪木はエプロンからロープ越しに吉村の体をつかんで投げられないように助けた。そのためアトミックはひとりマットに体を打ちつけて自爆し、そこをファールされて勝負が決まった。 猪木、吉村組は、アジアタッグのタイトルを防衛したが、オースチン、アトミック組は、「猪木のインターフェアによる反則だ」とのクレームをつけた。そのため、タイトルはコミッショナー預かりとなり、あらためて10月30日岐阜市民センターで、両チームによる王座決定戦が行われた。 岐阜での決定戦は「ネックブリーカー・ドロップ」による因縁含みの試合となった。ネックブリーカー・ドロップを決めようとするアトミックと決められまいとする日本側のスリリングな試合展開の末、日本側は、みごとインターフェアなどなしにアトミックのネックブリーカー・ドロップを防ぎ切り、タイトルを獲得した。 このように、たったひとつのプロレス技が、アジアタッグ選手権の行方を左右するとともに、試合をドラマチックに演出していたのだった。 あのころは、必殺技が、たった一発でまさに必殺技だったのだ。 ところが、今は、様々な必殺技を何発も繰り出さないと試合が決まらない。 そして最近は、プロレスばかりでなく、ジャンル映画においても、なかなか決着がつかないパターンがありがちだ。 モンスターなどが、やっつけた、と安心しても、何度も、パワーアップして、起き上がってくる。 あるいは、地球規模の大破壊に至るまで収拾がつかないで延々とバトルが続く。 などなど。 映画の場合は、プロレスと違って、決着がつくまでに、これでもかこれでもかと見せ場を作ったとしても、けが人が出るということはないだろう。 しかし、物量作戦、派手な光の点滅、大音量で見せればいいというものではないと思うのだ。 その点、『X-コンタクト』は、クリーチャー(宇宙生物)の襲撃に主人公側は防戦一方だったが、「必殺技一発」で完全決着がつき、清々しさを味わった。 このクリーチャーが、性懲りも無く復活して襲ってくるかどうかは、別問題だ。 とはいってま、第2作がつくられるほどの映画ではないように思うが。人気ブログランキング
June 18, 2017
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【楽天ブックスならいつでも送料無料】ゾンビシャーク 感染鮫 [ キャシー・スティール ] 鮫の映画が好きなわけじゃない。 『ジョーズ(1975)』にしろ、超大型の人喰いホオジロザメが襲ってくる話なわけだ。 超大型と云っても、ビルよりも大きいわけじゃない。 異常に頭がよく、力も強いが、生物としての範疇は超えていない。 つまり、当方が好むところのモンスターではない。 モンスターとは、生物学的な存在とは確実に一線を画していなければならない。 大きかろうが、強かろうが、頭がよかろうが、鮫は鮫なわけで、現実に依存したものはモンスターではない。 そういった超常現象的な視点からして、『ジョーズ』に思い入れはもてない。 そして『ジョーズ』からすでに40余年、様々な鮫映画が登場し、怪獣的な鮫も出てきているわけだ。 ロボシャーク(ロボット鮫)とか、シャークトパス(鮫と蛸の合体獣)とか、トリプルヘッド・ジョーズ(三つ頭鮫)とか。 そうした、フツーじゃない鮫たちは、モンスターと呼べるのか。 あるいはパワーアップしただけの鮫にすぎないのか。 で、今回は「ゾンビシャーク」とあいなった。 タイトルからは、生物学的にあり得ない、超常現象的な鮫だ。 果たして、どれくらい怪獣しているか。 オバさん顔の主人公アンバーは、見かけほどは年がいってないらしい。 妹たちとシーズンオフのリゾート地、レッドプラム島に出かける。 そこにアメリカ軍の研究施設があり、負傷した兵士の治療、回復のために、細胞再生の研究が行われていた。そして実験のために、サメが使われていたのだ。 オバさん顔のアンバーたちが今はもう秋のビーチにいくと、鮫が砂浜に打ち上げられていた。 見ると、鮫の体の一部が大きくえぐられている。 その傷が致命傷で死に至り、浜に打ち上げられていたと誰もが思う。 ところが、死んだかと思われていた鮫が、突然アンバーの彼氏を襲い丸呑みした! ゾンビシャークの出現だ。 ちょっと待てよ。細胞、再生してないじゃないか。えぐられたままの傷は何なんだ? よくわからんが、ま、とにかく、軍の秘密実験がゾンビシャークを産み出したと云うことだ。 それにしても、なんでリゾート地にアメリカ軍の研究施設があるんだ? そんでもって、危ない秘密実験をしている。 危機管理意識がまるでないぞ。 さてさて、この手の鮫映画を「動物パニック」と位置づけたときには、ひとつのパターンがある。 それは、町おこし、村おこしのお祭りがあって、人が大勢集まってくる時期に鮫やピラニアが襲ってくる、というのが「動物パニック」の定番なのだ。 なぜならば、鮫やピラニアが大勢集まった人々を襲い、阿鼻叫喚の大パニックになるからだ。 しかし、今回のリゾート島は、シーズンオフ。 人がいない。 アンバーたちは、時季外れの格安料金だということでレッドプラム島にやってきたのだった。 これまでの動物パニックとは異なるアプローチで新風を吹きつけるのか。 人気(ひとけ)のないリゾート地で、孤立感を出すとか。 いや、ちがう。 予算が乏しいから、常套手段のお祭り騒ぎができなかっただけだ。 スケール・ダウンは否めない。 いずれにしろなんにしろ、鮫がゾンビになっても、しょせんは水の中の生物。 鮫がゾンビに感染しても、海の中で泳ぎ回っているだけ。 人間のゾンビみたいに群れで襲ってきて、人が追い詰められるというような展開にはならない。 人間は陸にいれば問題ないはず。 ところが島の人々は、海に入ってゾンビ鮫を退治しようとする。 当然ゾンビ鮫は、手ぐすね引いて待ち構え、人間を食らいまくる。 水の中で人間が鮫に敵うわけがない。 無謀にもほどがあるだろ。 お祭り騒ぎによる集客ができなかったので、阿鼻叫喚のパニック・シーンを演出したいがために、この惨劇を招いたのか。 もうスタッフは自棄(やけ)なのか、単なるおバカなのか。 そうなると、ゾンビ症状は人にも感染するわけだ。 もしかして、ゾンビ人間が主人公たちを襲うのかと思った。 であるならばゾンビシャークからは軸がずれるが、それで盛り上げようというのか。 だが、ゾンビ人間は、群れどころか、多分3人しか出てこなかったぞ。 てなことで、ゾンビシャークには、モンスターと呼ぶ呼ばない以前に、もうちょっと活躍の場がほしかったところでございます。人気ブログランキングへ
December 25, 2016
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【楽天ブックスならいつでも送料無料】エクストラ テレストリアル [ ブリタニー・アレン ]キーワードは、エイリアン・アブダクション、山小屋ホラー、マイケル・アイアンサイドだ。 ストーリーの骨子的には「エイリアン・アブダクション」である。 映画の冒頭では、家族が宇宙人に連れ去られる。母親は、電話ボックスから電話をかけて助けを求めるが、電話ボックスごと空に舞い上がり、空になった電話ボックスだけが落下してきて粉々になる。 エイリアン・アブダクションとは、宇宙人に誘拐されて、人体実験をされるというもの。 映画の中には、キャトル・ミューティレーションも出てくる。 キャトル・ミューティレーションとは、家畜の体の一部がきれいに切り取られるというもの。それは、耳や足といった出っ張り部分ではなく、腰の肉などが円形にスライスされたような状態だから異様だ。 この映画は、SFではない。ホラー映画であり、恐い対象は宇宙人という設定なわけだ。 という前提で見ていたのだが、次第に「山小屋ホラー」の様相を帯びてくる。 山小屋ホラーとは、能天気な若者たちが山小屋に遊びに出かけ、そこで恐怖に遭遇し、阿鼻叫喚の事態に陥るというもの。 『死霊のはらわた(1981)』では、若者たちが山小屋で悪霊を呼び覚ましてしまう。 『キャビン・フィーバー(2005)』は、若者たちが正体不明のウイルスに感染していく。 『マイティ・ソー(2011)』のクリス・ヘムズワースが出演していた『キャビン(2011)』は、タイトル通りの山小屋で恐怖に襲われるのだが、じつに意外性のある展開だった。 『アックス・ジャイアント(2013)』も、山小屋ホラーの一種だ。遊びにいったわけではなかったが。 山小屋ホラーは、ホラー映画の定型のひとつ。 襲ってくる恐怖を変えれば、つぎつぎとホラー映画ができる。 そして、はめをはずす若者たちの中に、なぜかけっこうまともなのがいるのもお約束。そうじゃなければ、観客の感情移入が図れない。 今回は、山小屋に出かけた若者たちが、恐怖の宇宙人に襲われ、エイリアン・アブダクションの犠牲者となっていくのだ。 3つめのキーワードは、「マイケル・アイアンサイド」。 彼は、『スキャナーズ(1981)』や『面会時間(1982)』のアブノーマル・タイプの人物を、じつに恐く演じて売れた人。 B級映画に、名が売れた俳優が一人、昔の名前で出演するのことはときどきある。 今回も、マイケル・アイアンサイドは、山の中で、一人麻薬を栽培しながら暮らし、なんだかアメリカ政府と宇宙人との取引についても知っているみたいだし、それでいて主人公の女性にはやさしい、そんな変人を演じている。 当方は、つぎのように期待した。 せっかくビッグ・ネームのマイケル・アイアンサイドを起用したのだから、宇宙人とつながっているマイケル・アイアンサイドが、アブノーマルな形相で襲ってくると。 それがマイケル・アイアンサイドを生かす道。 しかし、そうではなかった。 大変残念。 きっと、宇宙人より恐かったはず。人気ブログランキングへ
November 27, 2016
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【楽天ブックスならいつでも送料無料】ウルフ・コップ [ レオ・ファファード ] 世界三大モンスターといえば、ドラキュラ、狼男、フランケンシュタインの怪物である。 その狼男が、警官となった。 映画の中では、警官が、邪教集団によって狼男にさせられてしまった。 それがウルフ・コップだ。 だからといって、ウルフ・コップは邪教集団の手先ではない。 姿形は狼男だが、警官の心は失っていない。 だから、ウルフ・コップは、パワーを得たあと、強盗やカツアゲなどの犯罪現場にかけつけ、悪人ばらをやっつける。 まるでスーパーマンかスパイダーマンのようだ。 そして、邪教集団に闘いを挑む。 そう、もとは人々を恐怖に陥れる三大モンスターの狼男なのだが、この映画ではりっぱなスーパーヒーローになったのだ。 スーパーヒーローは、変身前と変身後の二面性が楽しみの一つだ。 仮面ライダー=本郷猛は、変身前から知能指数600、スポーツ万能。そういう優れた資質から、仮面ライダーに選ばれたわけだ。こちらは正義のエリートのさらなるパワーアップ型といえるだろう。たくましいことこの上ない。 一方、『快傑ゾロ(1940)』や『アラン・ドロンのゾロ(1975)』のドミノマスクのヒーロー、ゾロは、素顔では気弱な貴族を演じている。しかし、ゾロに変身したら勇猛果敢な剣豪だ。 その二面性が、見るものをしてエモーションを刺激する。弱々しい姿から、一変し本当の強さを見せたときには、たっぷりカタルシスを味わわせてくれる。 で、ウルフ・コップはどうかというと、これが狼男になる前は、アル中のだらしないダメダメ警官だったのだ。けれども、胸の奥には正義の心を秘めていた。 それが、狼男になることによって、圧倒的なエネルギーを爆発させて法の番人として使命を果たす。 モンスターのパワーを得て、スーパーヒーローとなったのだ。 けど、変身シーンは、光に包まれて登場するというようなことはない。 警官=人間の皮膚を破って狼男が出現する。 かなりグロい。もともとはモンスターだからね。 これもまた二面性。 つまり、モンスターとスーパーヒーローは紙一重。 モンスターはスーパーヒーローになりえるし、スーパーヒーローもある意味ではモンスターである。 ウルフ・コップだから、狼男なんだけど、バンバンと銃をぶっ放すよ。人気ブログランキングへ
November 13, 2016
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【楽天ブックスならいつでも送料無料】ザ・ハロウ/侵蝕 [ ジョゼフ・マウル ] アイルランドの森林が伐採され、ハロウたちの棲家もなくなっていく。 クリーチャー(≒モンスター)が登場する。 赤ちゃんも登場する。 アイルランドの森を、森林伐採のための調査をするため、乳飲み子のいる家族がやってくる。 赤ちゃんは、丸くてかわいい。 この赤ちゃんを、パパはやたらと連れ回す。 そういうのやめてくれよ。 赤ちゃんの身に何か起こったらどうするんだ。 木々を調べるために、森の中に踏み込んでいくときに、赤ちゃんを背負っていく。 妻の家事労働を軽減するためなのか。 森の中の小川を渡るとき、赤ちゃんは、口にしていた「おしゃぶり」を流れの中に落としてしまう。 とある小屋の中で、動物の死骸を発見する。 動物の身体には、何やら黒い物体が付着している。 その黒いものを持ち帰る父親。 赤ちゃんにくっついたらどうするつもりだ。 妻は、家の窓に取り付けられた鉄格子のようなものを一本一本取り外していく。なぜ、どの窓にもそんなものがあるのだろうか。 鉄格子がはずされた窓がなにものかに割られる。 夫は、窓枠を車に乗せて街まで出かけていく。修理してもらうために。チャイルドシートには赤ちゃんもいっしょだ。 街からの帰途、車が運転不能になる。 あやうく大事故になるところだった。 だから、赤ちゃんを乗せたらだめなのだ。 ボンネットを開けると、エンジン回りに黒い物体がびっしりはりついていた。 隣人は、伐採のための調査に来ている家族に対してここを去れという。 「赤ん坊も危険な目に会うぞ」 そして、森に棲むハロウについて書かれた本を置いていく。 そこには、「子取り替え」に記述もあった。 赤ちゃんの安全を思ったら、早く立ち去ってくれよ。 このハロウ、『ディセント(2005)』の地底人に似ている気がした。ワサワサと集団で襲ってくるところあたりが。 だが、ハロウは、地底人より強力といえよう。 ハロウに襲われると、普通の人間もハロウになってしまう。 同時に、ある弱点ももっている。 これらについては、科学的な理屈をつけて説明しようと思えばできてしまう。 ハロウは、伝染性のある風土病だとか。 でも、そういう見方はしたくない。 やはり、超常的な存在としてとらえたい。 そして、ついに、赤ちゃんに魔の手が迫る。 赤ちゃんを助けてくれ! いたいけな者を危険にさらしちゃいけないよ。 おしゃぶりをかえしてくれぇ。人気ブログランキングへクリックしてね
November 6, 2016
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残穢【ざんえ】-住んではいけない部屋ー【Blu-ray】 [ 竹内結子 ]残穢 [ 小野不由美 ] 原作を先に読みました。 じつに納得のいくホラー小説(怪談)でした。 何が納得がいくのかといえば、確実に恐いのです。 当方は、以前、映画等で話題になる前に、小説『リング』を読みました。このときも恐かったのですが、それ以来の恐さでした。 それは・・・ とあるマンションのひと部屋で、怪奇現象が起こります。 住人の背後で、畳をするような音がするのです。 どこからか風が吹き込んでいるのか、気のせいなのか、あるいは霊的なものなのか、わかりません。 しかし、何回目かに、ふと音をたてているものが見えました。見えたと思ったのですが、それも光の加減だったのか、思い込みだったのか、あるいは霊的なものなのか、わかりません。 さらに、そのものが、なぜそこで畳をこするようにしているのかも、わかりません。 そのマンションは、部屋によって人が居着かないことがわかります。 同じ建物なのに、どうして頻繁に人が入れ替わる部屋と長い期間住み続けている部屋があるのか。 入れ替わる部屋が、同じフロアだとか、上下の同じ場所に位置しているとか、規則性はまったくありません。 怪奇現象に見舞われた女性(ホラー・ファン)とホラー系の女性作家が、共同で謎の解明に乗り出します。 調べを進めるうちに、マンションを出た人が、転居先で自殺しているとわかります。 そのほかにも、近隣の一戸建てでも、人が居着ず、住人がたびたび入れ替わる家があることもわかってきます。 いったい何が起こっているのか。一部の問題なのか、地域全体の問題なのか。人の問題なのか、土地の問題なのか。規則性や、理屈で考えて繋がるものは見つかりません。 女性作家は、ホラー系の小説などを書きながらも、合理主義者で霊的な現象などについては懐疑的です。 一方、住人の女性はホラーファンなのです。彼女には、霊的な現象などを期待している気持ちがあって、単なる自然現象を自分の望むような霊的な現象と解釈しているのではないか、と、女性作家はそういう見方をします。 ファンの女性と作家は、地域の歴史を遡り、霊的な現象の原因を探っていきます。 しかし、なかなか的確にヒットしない。 そうこうするうちに、ときならぬとき、ときならぬ場所に、ふーっと霊的な現象が姿をあらわすのです。当方は、こめかみあたりから、すぅーっと熱が引いていくような感覚を味わいました。 とにかく、こちらの読み手側は、霊的な現象が解明されて、原因がわかりたいので、小説から目が離せません。早く落ち着いた気分になりたいのです。ところが、小説は不安定な雰囲気を醸し出したままで書き綴られていきます。 で、映画のほうです。 原作は、「ドキュメンタリー・ホラー」というコピーが付与されています。 映画のほうも、ドキュメンタリー・タッチで進んでいきます。その点は臨場感があったと思います。 けれど、これまで当方は、「映画が先、原作(ノベライズ)があと」と原則を決めていましたが、今回はそれを破ってしまいましたので・・・。 これから『残穢』にチャレンジする方は、映画を先に見たほうがいいでしょう。映画(全般) ブログランキングへ
September 11, 2016
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ドラキュラZERO [ ルーク・エヴァンス ]価格:1000円(税込、送料無料)15世紀のトランシルヴァニア。ワラキア公国は、ヴラド・ツェペシュが王として国を治めていた。 ヴラドは、ワラキア領土内で、強大なオスマン軍が攻め入ろうとしている徴候を見つける。 オスマン軍は、牙の山に潜伏しているようだ。 ヴラドが牙の山を調べに行くと、オスマン兵士の鎧兜、そして人骨が散乱している。 さらにヴラドは、そこで正体不明の魔物の襲撃を受けたのだった。 命からがら逃げ帰ってきたヴラドに、修道士が牙の山の魔物はヴァンパイアだと伝えた。 翌日、オスマン軍の使者がヴラドの居城にやってきた。 使者は、オスマン帝国の王であるメフメト2世からの伝言を伝えた。 それは「オスマン軍の兵士を養成するために、1000人の少年とヴラドの息子を差し出せ」というものだった。 ヴラドは、勝ち目のないオスマン帝国との戦争は避けたかった。 だが、そのためには1000人の子供ばかりか息子までも差し出さなければならない。 ヴラドは、国を守るために、苦渋の決断をする。我が子ともども1000人の男子を差し出すことにしたのだ。 しかし、いざオスマン軍に息子を渡す段になって、王妃ミレナの悲痛の叫び声を聞き、ヴラドは息子を渡さずオスマン軍の使者を皆殺しにしてしまった。 もう戦争は避けられない。 しかし、圧倒的な戦力を有するオスマン軍に対して、弱小ワラキア公国がまともにやりあっては、大虐殺も免れることはできない。 ヴラドは、牙の山に出向き、自らも魔物になってオスマン軍と闘うことを決意する。 牙の山でヴァンパイアと顔を合わせると、ヴァンパイアはヴラドに自分の血を差し出した。 それを飲めばヴァンパイアのパワーを得ることができる。と同時に、血に対する激しい渇望が湧き起こってくる。 もし、その渇望に抗しきれず、一滴でも血を口にすれば本物のヴァンパイアになってしまう。 だが、その飢えを3日間我慢することができれば、人間に戻ることができるとのこと。 ヴラドは、国を守るため、家族を守るためにヴァンパイアの血を飲み干す。 おりしもオスマン軍が1000人規模でワラキア公国に攻めいってきた。 ヴラドは、ヴァンパイアのパワーで1000人の兵を撃退した。 いったんは難を逃れたものの、オスマン軍が兵力を増強して攻めてくることは目に見えている。 ヴラドは、公国の人々に山の頂上にある修道院まで避難するよう命じた。 その一方で、怒り狂ったオスマン帝国のメフメト2世は、なんと10万の兵をワラキア公国に送り込んできた。 ブラドは、オスマン軍の侵攻に備えながらも、生き血に対する強すぎる欲求に必死で耐えていた。 さすがに王妃ミレナは、そんなヴラドの様々な異変に気づいてしまった。 ついにヴラドは、自分がヴァンパイアになりつつあることを告白した。 また、3日間生血への渇望に耐えれば人間に戻れるとも説明した。 無事に修道院までたどり着くことができた。だが、修道士にヴラドがヴァンパイア化していることを勘づかれてしまう。 修道士は、火攻めにしてヴラドを抹殺しようとしたが、ヴラドは炎を物ともしなかった。 ヴラドにしてみれば、公国の人々を守るために魔物化したのだった。それなのに、民衆はそんなヴラドを忌み嫌う。それを必死にかばう王妃ミレナ。 ついに1万のオスマン兵がワラキア公国に攻め込んできた。 ヴラドはコウモリの大群を操って対抗した。 しかし、この1万のオスマン軍勢は陽動作戦だったのだ。 オスマン軍の精鋭部隊が密かに修道院に潜入していたのだ。 そのことに気づいたヴラドは、戦場から急ぎ修道院に戻る。 彼らはヴラドの息子を誘拐し、王妃ミレナを断崖絶壁から突き落としてしまった。 落下していくミレナを急降下しながら必死に追って行くヴラドだったが、彼女を救うことはできなかった。 息を引き取る間際にミレナは、自分の血を飲み、本物のヴァンパイアとなって息子を救い出してほしいと嘆願した。 ヴラドは、ミレナの血を口に含んだ。牙の山の魔物の血を飲んでから、3日目がすぎようとしているときのことだった。 こうしてヴラドは、吸血鬼ドラキュラと恐れられる存在になっていったのだった、というお話。 いうまでもなく、創作である。 ドラキュラのモデルはいる。 ルーマニア南部にあったワラキア公国のヴラド3世だ。 ドラキュラと呼ばれたのは、ヴラドの父の名がドラクルで、ドラキュラはドラクルの息子という意味だそうだ。 彼は、他国からの侵略者からは串刺し公と恐れられるような残虐性も秘めていたことから、作家のブラム・ストーカーがヴラドをモデルにして小説『吸血鬼ドラキュラ』書いた。 ちなみに、小説では、最初から吸血鬼として登場する。 この映画は、ヴラドとドラキュラのすきまを埋めた形になっているわけだ。 しかし、この映画において、ヴラドが吸血鬼になる過程には、妻である王妃の影響が大であるなぁ。人気ブログランキングへご協力のほどよろしくお願いします。
May 29, 2016
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マッドマックス 怒りのデス・ロード 3D&2Dブルーレイセット(2枚組/デジタルコピー付) 【初回限定生産】 【Blu-ray】 [ トム・ハーディー ]価格:3234円(税込、送料無料)マッド・スピード [ クロエ・ファーンワース ]価格:4975円(税込、送料無料)ゾンビマックス! 怒りのデス・ゾンビ [ ジェイ・ギャラガー ]価格:3936円(税込、送料無料) 『マッドマックス』シリーズ(1979〜)は、エポックメイキングな映画でした。 『マッドマックス』シリーズ以降、荒廃した未来を描くSF映画は、その影響が強くありました。『マッドマックス』シリーズに見られた未来世界こそが、リアルな未来であるかのごとく。あるいは、『マッドマックス』の続編かスピンオフに見えるような後追いや、もどき、パチモン映画もたくさんありました。 けれど、当方は『マッドマックス』に思い入れはありませんでした。 あの埃っぽさ、不潔さがいやだったのかもしれません。 この『マッドマックス』シリーズ、最新作(『怒りのデスロード(2015)』が前作から27年のときを経て公開されました。 最近ビデオで見ましたが、水も資源も乏しい世界での狂気と、そんな修羅場に残る人間性とが描かれていました。 そして、今回も、ご多分に漏れず『マッドマックス』便乗映画がありました。 まず『マッド・スピード(2015)』、手間隙かけず、金かけず、ヒット作、話題作のパクリ、便乗映画を量産するアメリカの映画会社ASYLUMの映画です。 この映画ではゾンビみたいなヴァンパイアが襲ってきます。 けど、ASYLUMですから、「ヴァンパイアの大群が襲ってくるぞ〜」といっても、画面に映るヴァンパイアは数えるほどのしかいませんでした。 この切り込み隊のあとは双眼鏡のフレーム外とか、夜の闇にまぎれてたくさんのヴァンパイアがいるんだろうな、と見る者の想像力におまかせの状態です。 さらに、これもASYLUMの特徴ですが、特定の場面で登場人物が「ああでもない、こうでもない」と話し合っている場面が多くて長い。セットや小道具にかかる予算を節約し、早撮りを心がけているのでしょう。 つぎが『ゾンビマックス!/怒りのデス・ゾンビ(2014)』 この映画も、地球上はゾンビの世界となっています。 ある夜流星群が降り注ぎ、そこからゾンビが大量発生したのです。 当方は、マッドマックスものに思い入れがないと同時に、ゾンビも好みではありません。 でも、この映画はおもしろかったなぁ。 それは以下の趣向からです。 1.ゾンビになる人間がいればならなかった人間もいる。ならなかったのは血液型がRHマイナスの人間だった 2.ゾンビが発生してから、燃料がすべて水になってしまった。しかし、ゾンビの血液や呼気が燃料となる。夜、ゾンビの活動が低下すると、燃料も使えなくなる 3.マッドサイエンティストにゾンビの血を注入された者は、ゾンビを操る能力を身につける ただ大群で人を襲ってくるだけの存在だったゾンビが、一捻りすることでこんなにおもしろくなるとは。 もしかしたら『マッドマックス』が、それ以後の映画に影響を与えたように、『ゾンビマックス!/怒りのデス・ゾンビ』も、ゾンビ映画に新しい風をもたらすかも。人気ブログランキングへどうぞご協力よろしくお願いします
May 8, 2016
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回転 [ デボラ・カー ]価格:4,665円(税込、送料込) 『回転』は、Jホラーの原点ともいわれるイギリス映画。 当方、この『回転』と『たたり(1963)』の2本は、非常にエクセレントなホラー映画だと思う。 「絶対に迷惑をかけないこと」 「自分で責任をとること」 ミス・ギデンスは、郊外の大邸宅に住む幼い兄妹の家庭教師に応募した。 そうしたところ、依頼主の兄妹の叔父が、これらふたつの条件をつけてきた。 この家庭教師とは、受験をめざすために勉強を教える人とは趣きがちがう。 この時代、大富豪の子供達は、学校へ行くのではなく、自宅で家庭教師から必要な学問や教養を教わったのだ。 そして、この映画では、完全住み込みで、ベビーシッターこみの家庭教師となっている。 デギンスが、大邸宅に出向いたところ、妹のフローラはとても愛らしい少女だった。 豊かな自然に囲まれて、デギンスは、幸福感に包まれて仕事を始めた。 しかし、寄宿学校を退学になった兄のマイルズが帰ってきた。 そのあたりから、デギンスの周辺で不可解なできごとが起こり始める。 この映画は、閉塞感に包まれている。 「絶対に迷惑をかけないこと」 「自分で責任をとること」 子供達の両親は、すでにこの世にはいない。 不本意ながら子供達を保護した叔父は、自分の仕事が忙しいため、家庭教師にこのような条件をつけたのだ。 これはつまり、本来保護者となるべき叔父に頼ることはできないという閉塞された状況がある。 子供を育てるというのは、ひとりの家庭教師に責任を負わせるべきものではない。 子供は、愛らしく、手がかからないときばかりではないからだ。 任された方は、子供のよりよい育ちについて、判断に迷うようなことは多々ある。 それなのに、困ったときに相談もできないとあれば、家庭教師の負担感はとても大きい。 また、広大な敷地に建つ大邸宅も、住んでいる人間は数人である。 幼い兄妹、家庭教師、そして数人の使用人である。 たとえ屋敷が大きく、広くても、いつも顔を合わせるのは同じ人間である。 とりわけ、家庭教師と幼い兄妹が勉強をしている場面がある。 この教室は、いつもこの3人なのである。 来る日も来る日も3人だけ。 この環境で、子供の社会性は育つのかと疑問をもつ。 家庭教師のデギンスにとっても、毎日、四六時中少数の同じ子供と大人とつきあっているわけである。 それが仕事とはいえ、ストレスも大きいだろう。 そんな環境の中で、デギンスは、この世に存在するはずのないものを目にするようになるのだった。 じつにエクセレントなホラーである。映画(全般) ブログランキングへ皆様のおかげでランクアップしています。これからもよろしくお願いします。
April 3, 2016
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バトル・オブ・モンスターズ(DVD)価格:3,486円(税込、送料別) フィリピンの吸血鬼「アスワン」ってどんなモンスターなのか。 とある田舎町を訪れたマッコイ。なぜかとても不機嫌。恋人のソニアが2人の子供を身篭ったまま実家に帰ってしまったからだ。彼女を追いかけてきたものの、実家に着くや、ソニアと彼女の母親から門前払いをくう。 気の毒に思ったソニアの父ネスターは、マッコイを伴って豚を買いにいくことにした。豚の丸焼きで、ソニアの誕生日と、新たに生まれてくる子のお祝いをしようというのだ。 ネスターの使用人から「親戚が安く豚を譲ってくれる」と聞き、マッコイとネスターは、その村まで足をのばした。妙な雰囲気が漂う集落だったが、なんとかそこで豚を手に入れることができたのだった。 ところが、その村は、フィリピンの吸血鬼アスワンの巣窟だったのだ。 購入した豚は、若いアスワンが変身したものだった。 じつはアスワンたちは、人間の胎児、赤ちゃんが大好物なのだ。 豚に化けてネスターの家に潜入したアスワンが、ソニアに襲いかかってきた。 さらに、アスワンの一族が、お腹の子を狙ってネスターの家を取り囲む。 マッコイたちは、アスワンを撃退し、赤ちゃんを守ることができるのか? と、こんな話なのだが、大勢のアスワンが赤ちゃんに寄ってたかって群がったら、一人の口にはいる分はたかが知れているだろう、相手がちっちゃいんだから。そこはいいのか? さて、アスワンは、吸血鬼は吸血鬼でも、フィリピンの吸血鬼である。 われわれがよく知るのは、ヨーロッパ系の吸血鬼だ。 両者の、おなじところ、ちがうところは、どんなんやろうね。 まず、アスワンも、ニンニクをことのほか苦手としている。 ここは、ドラキュラなどのヨーロッパ系吸血鬼と同じだ。 マッコイたちは、アスワンが家に入って来られないように、玄関などにニンニクをばらまいた。そして、窓には塩をまき散らす。 そうアスワンは、塩にも弱いのだ。このあたりは東洋的な味わいがあるなー。 もうひとつ、赤エイのしっぽも嫌いだ。 しかし、アスワンもさるもので、間隙をついてネスターの家に入り込んでくる。 ネスターたちは家を捨て、雑貨屋、塩田へとアスワン相手の激闘は続く。 バンパイヤは、人知を超えた存在である。しかしながら、ニンニクや十字架、陽光、聖水などの弱点をもっている(これらはヨーロッパ系吸血鬼の弱点)。そこが吸血鬼の粋な魅力である。 一方でゾンビという無粋者がいる。ゾンビは吸血鬼と似たところがあるだが、こちらは弱点があまりない。首をはねるか頭をぶっとばす、その点だけである。これはとても即物的だ、と当方は思うのだ。 吸血鬼=バンパイヤの弱点については、呪術的であり、またファンタジーを感じる。 ホラー映画にしても、怪獣が登場するような空想特撮映画にしても、楽しいのはファンタジー色である。このファンタジー色は、現実の世界に出現した異世界を感じさせてくれる。あくまでも現実世界がベースとなり、そこに通常ありえない状況が垣間見えるのがいい。 しかし、ハリーポッターやロード・オブ・ザ・リングのようなファンタジー物語については、魔法の世界がベースになっていて現実色が薄まるので、あまり好みではない。 ファンタジー色は、濃すぎてはいけない。 塩とか醤油とか、味付けが濃いものは素材のおいしさを消すし、健康にもよくない。 同じように、ファンタジー色が濃すぎると、現実味を消してしまう。精神的な健康によくないと思うのは当方だけか。 そういう点で、この『バトル・オブ・モンスターズ』は、じつに適度な味わいのファンタジー色である。 マッコイやネスターは、手強いアスワンを撃退するために、知恵を働かせる。 ネスターは、雑貨屋にあった塩を水に溶かし、ニンニクの絞り汁を混ぜて背負い式農薬散布器につめ、アスワンに向かって放出する。 マッコイは、赤エイのしっぽで鞭をつくり、アスワンを打ちのめす。 そして、ネスターの甥は、ニンニクフレーバーのスナック菓子を吹き矢みたいにしてアスワンに吹きつける。 人知を超えた存在を相手に、普通の人間が力を尽くして渡り合う様子は、見ている者も勇気が湧いてくる。 いうまでもなく、『バトル・オブ・モンスターズ』はフィリピンの映画である。 フィリピン映画は、たいがい家族がテーマになっているとのこと。 『バトル・オブ・ザ・モンスター』も、ネスターの家族対アスワンの家族という図式になっているね。 そして、『バトル・オブ・モンスターズ』は、全編セットで撮影されているが、絵画的、ファンタージー的効果が出ていて楽しい。 監督は、エリック・マッティ。この監督の映画は、『スパイダー・ボーイ ゴキブリンの逆襲(2005)』を見た。こちらもおもしろかった。また、同監督の『牢獄処刑人(2013)』は、ハリウッドでリメイクされるとのこと。 『牢獄処刑人』見なきゃいけない。 なお、フィリピンの吸血鬼アスワンについては、人間の生き血を吸い、血を吸われた人間はアスワンになる、というシーンはなかった。 吸血鬼というより食人鬼というたたずまいだね。映画(全般) ブログランキングへご協力、よろしくお願いします。
February 21, 2016
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[DVD] シャークトパス VS プテラクーダ価格:3,099円(税込、送料別) 前作『シャークトパス(2010)』では、ラストに退治されたシャークトパス(シャークトパスとは、鮫とタコの合成モンスターです)。 しかし、卵の中に、第2のシャークトパスが1匹だけ隠れていたのです。 その貴重なシャークトパスの稚魚?を、女性生物学者がグーゼンにも発見して飼育しちゃいます。悪魔の人喰い合成怪物とも知らずに。 よって、このたびはシャークトパスの再登場となります。 一方で、アメリカ軍は、プテロダクティルス(翼竜)とバラクーダ(オニカマス)を合成して生体兵器「プテラクーダ」をつくり出します。 あれ?もとはといえばシャークトパスも、米軍製の合成生体兵器です。アメリカ軍は合成生体兵器マニアかいな。 とにかく、この映画では、相次いでつくられた生体兵器である合成モンスター2体が、人間のコントロールが不能となって激突します。 合成モンスターといえば、東宝映画『緯度0大作戦(1969)』に登場する「グリホン」がいました。 悪の天才科学者マリクは、元祖合成生物マニアです。こうもり人間や大ネズミなども製作しています。その集大成ともいうべき合成怪物が「グリホン」なのです。 ライオンの体にハゲワシの翼をくっつけ、脚の先には武器となる強力な鉄の爪を装備しました。さらに、自分の命令通りに動くようにと、部下だった黒い蛾の脳を移植してしまいました。 あまつさえグリホンは、巨大化血清により30メートルの巨体に成長しちゃいました。 さて、『緯度0大作戦』のグリホンと『シャークトパスvs.プテラクーダ』の二頭をくらべたとき、同じような合成怪物でありながら、そこには確固としたちがいがあります。 そのちがいは、グリホンはアナログで、シャークトパスやプテラクーダはデジタル、といえるのではないでしょうか。 これは、一方が日本特撮の伝統的な着ぐるみ怪物で、もう一方が21世紀のCG怪物だというところの、映像の話だけではありません。 グリホンは、マリクが移植手術をして合成されます。合体といった方がいいかもしれません。 マリクは、メスでもってゴシゴシとハゲワシの翼を切り取ります。そんな切断面できちんと移植できるかどうか心配でしたが、ライオンの体にハゲワシの翼を縫い付けるわけです。そんなふうにして、手作業でグリホンは誕生します。 これは何かというと、フランケンシュタインの怪物タイプ(Fタイプ)ですね。フランケンシュタインの怪物は、人間の死体をつなぎあわせてつくられました。 それに対して、シャークトパスやプテラクーダは、遺伝子レベルでの合成です。こちらは、『ジュラシック・パーク(1993)』の恐竜タイプ(Jタイプ)といえます。 『ジュラシック・パーク』では、つぎのような恐竜再生法が説明されていました。琥珀に封じ込められた太古の蚊は、恐竜の血を吸っている。そこから恐竜のDNAを採取し、両生類や爬虫類のDNA、未受精卵を使って恐竜を再生した、と。バイオテクノロジーですね。 『ジュラシック・パーク』は、バイオテクノロジーでモンスター(恐竜)を生み出すと同時に、CGでリアルなモンスター(恐竜)を映像化しました。 以後、その品質はさておき、バイオテクノロジーとCGのモンスターが頻出します。そういう点で、『ジュラシック・パーク』は、エポックメイキングな映画だったのです。 FタイプとJタイプを並べたとき、当方は、古い人間だからでしょうが、Fタイプの着ぐるみモンスターの方が圧倒的に好みです。 確かに、グリホンの着ぐるみは、ゴジラなどの恐竜系の怪獣とちがって、毛むくじゃら系ですから、おもちゃのぬいぐるみ感が出ていて、恐いというよりはかわいい印象もあります。 しかし、架空のモンスターとしてのFタイプは、手作りだから恐ろしい。それは、血と痛み、残酷さがともなうからです。 それに比べてJタイプは、鮫とタコの合成とか、プテロダクティルスとバラクーダの合成なんて、手作業ではできません。どうがんばっても鮫の体にタコの脚を縫いつけるなんて不可能でしょう。 それが可能なのは、バイオテクノロジーであるか、さもなければ魔法と呪いの世界の話です。あまりにもブラックボックス、その過程で何が行われているか見えません。 で、シャークトパスのつぎの相手は、ホエールウルフ(狼鯨)とのこと。 シャークトパスが海の生物だから、対戦相手は海の生物との合成が必須条件だね。映画(全般) ブログランキングへご協力よろしくお願いします!
February 14, 2016
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アナコンダ vs.殺人クロコダイル [ ロバート・イングランド ]価格:1,000円(税込、送料込) アナコンダも、殺人とついてはいますがクロコダイルも、当方の認識ではモンスターではありません。 当方としては、モンスターとは、小はフランケンシュタインの怪物から大はゴジラ級まで、架空の存在をさします。 だから、実在するアナコンダも、クロコダイルも、怪物的ではあっても、モンスターとは認められないのです。 どーでもええことやけどな。 実写映画にモンスターが登場する場面は、超現実を感じさせてくれます。 この場合、超現実に浸りたいのですから、モンスターも超現実がいいわけです。この世に存在しない架空のモンスターですね。そこで、いかに現実感が出せるかが勝負どころですが。 それだものですから、実在の生物とか、それが単に巨大化しただけというパターンは、あまり食指がわきませんでした。 実写映画の中に、モンスターが登場する場面は、現実にはぜぇったいにありえないので、超現実を感じます。 その場合、モンスターも、架空の存在であることが望ましい。 例え怪物的であっても、この映画のようなアナコンダとかクロコダイルといった、実在する生物は、あまり食指がわきません。 わかないのですが、めぼしい架空のモンスター映画がなければ、見てしまうのです。 昔、同僚に「日本酒以外は酒じゃねぇ」とのたまうオヤジがおりました。 そのころ、オフィスの冷蔵庫には、何かお祝いがあったときとか、誰かを慰労するとかいった場合に備えて瓶ビールが冷やしてありました。 日本酒オヤジは、時折、勤務時間が終わるやいなや、冷蔵庫を開けていました。そして「ビールしかないのか」とかぼやきながらも、つぎからつぎへと取り出し、べろんべろんになるまで飲んじゃうのです。 べろんべろん—ウルトラマンタロウに登場した酔っ払い怪獣ベロンは、べろんべろんに酔っ払う、というところからきているんだね。 そのオヤジは、日本酒好みだったかもしれませんが、要は酒ならなんでもいいというわけだったのです。アルコールが切れたら、ビールだってなんだって、完全に酔いが回るまで飲むのですから。 それと同じようなもので、当方も、めぼしい架空モンスター映画がないときには、実在の生物が怪物的に扱われたものでも見ます。味わいや超現実度数は低くなってもかまいません。 といったところで、『アナコンダvs.殺人クロコダイル』についてです。 ここに登場するアナコンダとクロコダイルは、もともと現実の生物ですが、じつはすでに怪物的ないわくがついてたのです。 アナコンダは、映画『アナコンダ(1997)』のタイトルロールであるクリーチャー(シリーズ4まである)です。 そして、クロコダイルは、『UMAレイク・プラシッド(1999)』に登場するクリーチャーなのです(こちらもシリーズ全4作)。 やつらは、この映画に至るまでに、自分が単独主演する映画シリーズをもっていたわけです。 そうすると思い出すのが、古くは『フランケンシュタインと狼男(1943)』や、新しいところでは『フレディVSジェイソン(2004)』です。 それぞれのモンスターや殺人鬼が、れっきとした単独主演作がありながら、シリーズに翳りが見えてくると、両雄の対決にもっていくというパターンです。 ただ、当方、映画を見るまでは、2つのシリーズ、そのクリーチャーが激突する映画だとは知りませんでした。 タイトルが映されたときに、気づいた次第です。 その原題は『Lake Placid vs. Anaconda』。 しかしなあ、Lake Placidって土地の名前だよなぁ、冬季オリンピックが行われたところだよ。ワニの名前じゃない。 とにかく、こいつらはフツーのクロコダイルやアナコンダじゃありません。実在する生物ではありますが、それぞれの映画シリーズにおいて、それぞれの理由から、でかく、強くなっています。 ストーリーとしては、ある企業が、このフツーじゃない2種類の遺伝子やら血液やらを融合させて、不老不死の薬をつくりだそうとします。 しかし、特別強靭なこいつらには協力な麻酔薬も効果なく、逃げ出してしまいます。 この手の映画に何を期待しているかといえば、モンスター、巨大生物が暴れ回るところです。2頭以上が登場するのならば、そいつらが対決するところです。 昔から、子どもたちは、怪獣映画を見に行っても、怪獣が出るシーンしか見ていない、人間だけが登場する場面は、勝手気ままに騒いでいる、とか言われていますね。 もちろん、スクリーンにモンスターが出てなくても、引き込まれることがあります。それは、よくできたストーリー展開や迫真の状況設定、ドラマ性がある場合です。そうすると、モンスターの出現が一段とリアルになります。 ですが、往々にしてこの手の映画にありがちなのが、グダグダした話の進み具合なのです。 今回の主な登場人物は、女性保安官、動物保護官、悪徳企業の人間、そしてご多分にもれず、ビキニの女子大生サークルなどです。 ビキニサークルは、自分さえよければいいイジワル女王とその他の脳みそ不活性女子大生で構成されています。 このビキニサークルの中に、なんと動物保護官の娘がいました。最近、このパターンもよくあります。 動物保護官の娘は、「私の母は、若くして死にました。その母が、このサークルに入っていたのです。私は、母を偲ぶために、母の心に近づきたくて、このサークルに入ったの」と言います。 つまり、自分は、本来的には脳みそ不活性の仲間ではない、という言い訳です。 しかし、そうであっても、じゃあ、あんたのママはどうだったんだい? 映画としても、脳みそ不活性の女子大生とイジワル女王だけだと、話が進みません。彼女らはワニや大蛇の食われ役にふさわしいけど、まともな判断力や行動力はありません。だから、常識や良識を備えた登場人物が必要なのです。 それならそれで、もうちょっと落ち着いた理由を考えられなかったのかー。 そんなこんなで、ストーリー展開につきあっていくのは難行苦行でしたが、これも超現実場面を見るための修行だと思って耐え忍びました。 しかし、途中で、当方自身が大きなまちがいを犯していたことに気づいたのです。 なぜだか、当方は、アナコンダやクロコダイルが、ビルよりも大きいサイズに巨大化して闘うものだと思い込んでいました。 アナコンダとクロコダイルが、現実の生物そのままの姿形でも、超巨大化すれば、そこはモンスター感がアップします。そんな当方のモンスター理想像が、現実の映画設定を歪めて脳内創造してしまったようです。 しかし、残念なことに、最終決戦に至っても、アナコンダとクロコダイルはそこまでの大きさには巨大化しなかったのですぅ。 アナコンダもクロコダイルも、通常のサイズよりはでかいです。そしてアナコンダは、クロコダイルの遺伝子と合体してクロカコンダになりました。しかし、湖畔で闘っている姿は、やっぱり現実に存在する蛇とワニに闘いであって、うーん、ガッカリ。 次回、クロカコンダが立派なモンスターに成長してくれることを期待しています。映画(全般) ブログランキングへランキング上昇中です。ご協力よろしくお願いします。
February 7, 2016
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アクア・クリーチャーズ [ シャナン・ドハーティ ]価格:4,665円(税込、送料込) アクアクリーチャーズ=水の怪物。 何が水の怪物なのかというと、ウミヤツメ(八ツ目ウナギ)なのです。 ご多分にもれず、凶暴化したウミヤツメが人を襲います。 よくありがちな『ピラニア(1978)』パターンの動物パニック映画を、今回はウミヤツメでやってみました、というところでしょうか。 『ジョーズ(1975)』→『ピラニア』→『アクア・クリーチャーズ』 こんなふうに、ごく大雑把に、アクア・クリーチャーズに至る動物パニック映画の系譜が描けるかと思います。 巨大な鮫から、なりは小さいが鋭い歯をもち群れをなして牛でも一瞬で食べ尽くすピラニアへ。 そして、今回はピラニアではなく大量発生したウミヤツメが暴れ回る、というところですか。 この映画、手間隙かけず、金かけず、パクリ、便乗のアサイラム製です。 で、ウミヤツメなのですが、八ツ目ウナギといいますからウナギの一種かと思いきや、そうではないのです。その名前や、にょろにょろしていて形状もよく似ていますが、八ツ目ウナギは、魚類ですらないとのこと。 「非常階段が、怪談の一種ではないというのと同じ理屈やね」 「そう、螺旋階段が、怪談の一種ではないのと同じ、って、そんなこと誰でも知っとるわ!」 当方は、この映画を見るまで、八ツ目ウナギを、ウナギの一種と信じて疑っていませんでした。 それには、理由があります。 巣鴨に「八ツ目や にしむら」というお店があります。 そこは、基本、鰻屋さんです。 お店ののれんなどには、うなぎ蒲焼き、と表示されていて、なおかつ店名に「八ツ目や」とあるわけです。 メニューを見れば「うなぎ定食(中)(上)(特上)」に並んで、「八ツ目定食」「八ツ目蒲焼き定食」があるのです。 そのお店には何回か行きましたが、くだんの八ツ目を食べたことはありませんでした。 今回「八ツ目や にしむら」のホームページを見てみたら、「八ツ目の入荷時期(11月~3月頃)」とありました。確かに、「八ツ目や にしむら」に行ったのは、土用の鰻の時期=夏だったかもしれません。 「八ツ目や にしむら」で八ツ目を食べてみたいという意欲はありながら、時期じゃなかったので、口に入ることはなかったのです。 そして、今は食べなくてよかったのかな、という気がしています。 それは、八ツ目がけっこうクセのある味らしいと知ったからです。 当方は、普通のうなぎよりも、八ツ目の方が多少脂が多いといった程度のちがいかな、と勝手に認識していました。なので、実際に食べていたら「ナニ、これ?」と戸惑ったかもしれません。 若い頃だったら、味にクセがあっても、好奇心とか、後学のためとか、モチベーションを高めて、きっとチャレンジしたでしょう。また、適応する自信もありました。 でも、今は、平穏無事を求める気持ちが強くなっています。パクチーも、合わんな、と思ったから、食べ慣れる努力を放棄しました。なので、当方は、生涯八ツ目を食することはないでしょう。 さて、そんなウミヤツメですが、怪物としての存在感はどうなのでしょう。 ネットで、ウミヤツメの生態を調べてみました。そうしたところ、恐い写真を見ました。ウミヤツメは大きな寄生虫といったグロテスクな姿です。なんと、魚の表皮を食い破って頭を突っ込んで離れなくなるのです。その姿は、魚の体からウミヤツメがはえているようです。しかも、魚の体長と変わらないような大きさのウミヤツメなのです。そして、ウミヤツメは、その状態で中身を食べていくのです。 実際のところ、アメリカの五大湖地方では、このウミヤツメが増殖して、在来魚に大きな被害をもたらしたとのこと。 この映画は、その一件をもとにして作られました。 そして、アサイラム製なのですが、大手ケーブルテレビ会社のアニマル・プラネットの依頼によるものだそうです。 アニマル・プラネットは、動物好きを対象としたようなドキュメンタリー番組などを放送しています。けれども、その中で「モンスター」を扱っているカテゴリーもあるんですね。ちょっと不思議なチョイスです。 『アクア・クリーチャーズ』は、アニマル・プラネット初のホラーということらしいのですが、ウミヤツメの大量発生に警告を発する意味もあったのかと思います。 そういう背景があるからか、『アクア・クリーチャーズ』は、アサイラム製であっても、アサイラム特有のお手軽感が多少薄らいでいた印象があります。 けど、なんで動物好きのアニマル・プラネットが、手間隙かけず、金かけず、パクリ、便乗のアサイラムに制作を依頼したのかよくわかりません。 アニマル・プラネットの特色も、アサイラムの駄菓子屋映画的味わいも、中途半端になっちゃった気がしないでもありません。映画(全般) ブログランキングへ
January 31, 2016
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アックス・ジャイアント [ ジョー・エステヴェス ]価格:3,493円(税込、送料込)アックス・ジャイアント価格:324円(税込、送料込) 巨人が斧を振りかざして人を殺しまくる映画なんて、いったいだれが見たいと思うのでしょうか!? マーケッティング・リサーチをしたのでしょうか、この映画会社は。 と書いている当方は、斧を振り回す巨人の映画を見たわけです。これについては、当方は、物好きですので。ゲテモノ、マイナー興味津々という、ある意味特殊な趣味嗜好で映画を選んでいるわけです。 そうでもなければ、斧を振り回す巨人の映画を見たい人が、大勢いるとははなはだ思いがたい。 まあ、確かに自社商品を選んでいただくためには、差別化が大切であると聞きます。 ほかと同じことをやっていては売れない。 でもって、映画に登場するクリーチャーが、今さら鮫だとか蜘蛛だとかゾンビだとかじゃないだろう。そこで、差別化を図り、斧を振り回す巨人をセレクトした、と。 はたまたスラッシャー映画として見た場合、レザーフェイス=ババ・ソーヤー、ブギーマン=マイケル・マイヤーズ、ジェイソン・ボーヒーズ、フレディ・クルーガーに続く新しい殺人鬼を生み出そうとして、巨体という点で彼らと差別化を図るために、アックス・ジャイアント=ポール・バニヤン(身長約5m)を登場させた、と。 このように、差別化を図る意図があったとしても、やっぱりただ差別化すればいいってもんじゃないでしょう。 差別化も、勝算なりの見通しがあってこそのもの。 斧巨人は、クリーチャーとしても、殺人鬼としても、どっちつかずの中途半端なヤツなんだ。 斧を振り回す巨人に、果たして勝算はあったのでしょうか。 別の見方をしてみましょう。 フィギュアや食玩で有名な海洋堂は「自分達が欲しいもの、作りたいもの」を作って、商品化しているといいます。 同じように、会社内に巨人贔屓(野球ファンみたい)がいて、巨人が大暴れする映画を見たいがために、よそではつくらないので、自分でつくったのでしょうか。 で、あるならば、海洋堂のフィギュアのように、納得のいくできあがりならばいいわけです、たとえ斧を振り回す巨人の映画であっても。。 お話的には、人里離れた山の中に若者たちが行くんですね。よくあるパターンです。差別化を図っているといえば、彼らは自分たちから進んで遊びに行ったわけではない。法にふれることをしたために、更生訓練に連れていかれたわけです。 けど、この差別化が、特にポイントになっているかというと、そうでもない。 とにかく、若者たちの一人が、山に住む斧巨人の逆鱗にふれる行為をしてしまって、斧巨人が襲ってくるのです。 斧巨人の手にかかり、若者も、そして更生指導のための刑務官も、頭からまっぷたつ、あるいは上半身と下半身が切り離されたりと、惨殺されます。 しかし、安心してください。 斧巨人は、夜は襲ってきません。 暗くなると、疲れて棲家である洞窟に帰ります。 だから、生き残った若者たちも、とりあえず山小屋で休息をとることができます。 のみならず、さわやかな朝を迎えます。 なぜか斧巨人は、日が高くならないと活動しないらしい。 忙中閑あり。一息つけてよかったね、って、なんでやねん!? 隙を見て逃げ出さんかい。 ぬるい。 さてさて、低血圧で朝が弱い斧巨人も、ようやく重い腰を上げ、山小屋を襲撃しました。斧を振り下ろして屋根を破壊する。 この絶体絶命のピンチに、保安官が駆けつけてきました。 若者の中に、保安官の娘がいるのです。 保安官の娘が法を犯したのでしょうか? 娘は、さかんに不慮の事故だったと言い訳をしていました。 しかし、同情すべき不慮の事故であるならば、保安官の立場にある父親が、絶対に罪にならないよう立ち回ると思うのですが。 それはいい。 斧巨人が猛威をふるい、残りの若者たちもまたまた殺され、冤罪の娘もあわやというところで、パパ保安官が荒野のガンマンのように姿を現しました。 バーン、バーン。 パパ保安課のライフルが火を噴き、小屋をつぶして倒れる斧巨人。 え、これで終わり。 最近の映画としては、なんか、ちょっと、物足りない。 と思ったら、パパ保安官曰く「麻酔弾の効き目は長くない。急ぐぞ」。 ね、生命尊重、無闇矢鱈と森の生き物を殺してはいけませんって、なんでやねん!? なんで生きるか死ぬかの瀬戸際に、わざわざ麻酔弾やねん!? 案の定、目を覚ました斧巨人が追ってきました。 さすがに、そのあとパパ保安官は実弾に入れ換えたのです。 けど、何発撃っても、斧巨人には効きません。 だったら、もう一回麻酔弾を撃てばよかったのにぃ。 チャンチャン。 この映画には、ミークスというオヤジが出てきます。 この人が、なんだかマーティン・シーンに似ているなぁと思ったら、なんとマーティン・シーンの弟のジョー・エステベスという俳優。チャーリー・シーンやエミリオ・エステベスのおじさんというわけです。映画(全般) ブログランキングへ
December 30, 2015
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ウェア WER(DVD)価格:3,435円(税込、送料別)『ウェア -破滅-』というタイトルを見ても、映画のなかみは想像できない。なんとこの映画は、狼男の話なのである。 おとなしい男がはたして惨殺犯かどうかを追究する前半と、狼男が正体を現してからのアクション、バトルの後半という構成になっていた。 そのストーリーも去ることながら、当方の興味は、どんな狼男が出てくるかだったのだ。 狼男は、かつてドラキュラ、フランケンシュタインの怪物といっしょに、三大モンスターと並び称されたものだ。古きよきユニバーサル・モンスターだね。 ユニバーサル映画では、狼男に噛まれたものは狼男になってしまう。そして、普段は善良な男が満月の夜になると半人半獣の狼男に変身する。また、狼男の弱点は銀である。銀の杖で殴られたり、銀の弾丸で撃たれると死んでしまう。 今回の『ウェア -破滅-』における狼男は、非常に稀な遺伝的病気という設定になっている。そして、狼男にひっかかれた者は感染してしまう。えー!?遺伝子の異常が移っちゃう病気なわけ?。 それはさておき、とにかく狼男は病気なんだと。そういう解釈で、満月の夜に凶暴化することについても説明が試みられる。満月は、海水に影響を与える、人体の60%は水分である、だからある種の病気は満月によって発作が起こる、というように。 この映画の中には、「狼男の弱点は銀」という件は出てこない。けれども、狼男は病気という解釈にならえば、狼男病の人は、銀に対するアレルギーがあって、銀に接するとアナフィラキシーを起こす、と考えられないこともない。そうした場合、エピペンが狼男の強い味方になる。 『ウェア -破滅-』はそういったリアル系の狼男譚なわけだ。勢い、狼男映画の売りである変身シーンがない。つまり半人半獣に変身することはない。 モンスターのイメージをわかりやすく伝えてるのは、やっぱり半人半獣のスタイルである。人間体そのままで凶暴化して怪力で人体を引き裂いても(なかなか迫力があったけどね)、モンスターびいきとしてはちょっと物足りなさがあるけど、リアル系狼男だからね。 もともと狼男は、オカルト系だった。つまり、咬まれる以前に、狼男になってしまうのは、魔女に呪いをかけられたとか悪魔の仕業などのため。そういった闇の存在が、人間を獣=狼に貶めてしまうわけだね。これは、やっぱり獣の姿にならざるを得ない。 弱点が銀、というのも「イワシの頭も信心から」的なものだし。 で、『ウェア -破滅-』の狼男なのだが、変身はしないが四つ足で走っちゃう。このあたりから、リアル系とはちょっとちがう気がしてくる。 どうしてかというと、遺伝性の病気だとしたら、その解釈は満月の夜に凶暴性を発揮する病気で、あたかも伝説の狼男みたいになっちゃうもというもの。その場合は、実際の狼とは無関係なはずだ。 さらに、凶暴化した男は、銃弾で撃たれても死なないんだ!となると、これはますますリアル系ではなくなってくる。 少しずつ、病気から超自然に向かっていった。 しかし、変身して半人半獣のモンズタースタイルを見せてくれることはない。多少毛深くはなるようだが。 そこまでして半人半獣を出さないのは、リアル系を守りたかったのだろう。 そして、タイトルのウェア(wer)だが、そこに破滅という意味はない。 これはwerewolf(ウェアウルフまたはワーウルフ)のwerだったのだ。werewolfとは人狼のこと。 werまたはwereは、manと同じような意味らしい。 つまり狼男は、wolfmanとwerewolf、どっちでもいいわけだ。 で、wer(ウェア)は、男、または人ってことだ。 わざとwolfの部分を削除したんだね、リアル系だから。 ということで『ウェア -破滅-』は、リアル系で迫ろうというのは分かるんだが、モンスターらしくないところが当方は残念。となると、やっぱり狼男映画はオカルト系がいい。映画(全般) ブログランキングへ
December 6, 2015
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【楽天ブックスならいつでも送料無料】ババドック〜暗闇の魔物〜 [ エシー・デイヴィス ]価格:3,078円(税込、送料込) ホラー映画や特撮映画などでは、そこに出てくるモンスター、クリーチャー、化け物、妖怪、怪獣などにとても興味があるわけだ。 そのデザインについても、あるいは特質についても。そして、どんな活躍を見せてくれるか、などと。 さて、暗闇の魔物ババドックとはいかなる存在か。 アメリアはシングルマザーである。 息子サミュエル(1年生くらいか)は、わがままでとにかく手がかかる。 夜中に起き出してきて、化け物がいるからとアメリアにすがってくる。 たまにはゆっくり眠りたいアメリアなのだが、サミュエルに安眠を妨害されてばかりいる。 かと思えばサミュエルは、化け物を撃退するために投擲武器を器用にも製作し、それでガラスを割ってしまったりする。 さらに、学校へも危険な弓矢をもっていき、アメリアは呼び出されて注意を受ける。 学校の対応に不満をもったアメリアは、転校させると啖呵をきってしまう。 育てにくい子どもはいるものだ。 サミュエルは衝動性が強く、高いところに上るなど後先考えないで危ないこともやってしまう。 とにかく目が離せないのだ。 シングルマザーのアメリアは疲れがたまっていく。 ある夜、寝しなの絵本読みに、サミュエルは「ミスター・ババドック」という本を選んでくる。 「こんな本、うちにあったかしら」と不審に思うアメリアであった。 絵本を開くとなんだか気味が悪い。 アメリアは、サミュエルの手の届かないところに絵本を隠した。 でも、サミュエルは隠したはずのその絵本をまたもってくる。 アメリアは、気持ち悪がって絵本を捨ててしまった。 けれども、絵本はまた戻ってくるのだ。 ついにアメリアは、絵本をビリビリにやぶいてしまう。 それでも、絵本はやぶれたページが貼り付けられて戻ってくる。 当方が期待しているババドックは、その本体をなかなか表さない。 そう思っているうちにも、サミュエルの自分勝手な行為はますますエスカレートし、アメリアはどんどん追い詰められていく。 そうして、アメリアは、ババドックにそそのかされたのか、ついにサミュエルを襲うまでになってゆく。 しかし、最終的にアメリアは知恵を働かせ、ババドックを監禁することに成功する。 当方が期待していたババドックは、ついに明確には姿を見せなかった。 そうであっても、失望なんかとは無縁で、とても見応えのある映画だったのだ。 これは、アメリアの心の闘いなのである。 母としての受容する心持ちを維持しようとしても、ひとりの人間としてはストレスに押しつぶされてしまいそうな心持ちとがバトルする。 あわや、アメリアは心の暗闇のババドックに支配されてしまうかに追い詰められる。 しかし、とりあえず、ひとまずアメリアはババドックを監禁することができた。 であっても、ババドックは退治されたわけではない。 この先アメリアは、自らの心の闇の魔物ババドックと折り合いをつけていくことができるのだろうか。人気ブログランキングへ
August 2, 2015
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・カルミーナ・ヴィラロエル・TJ・トリニダード・レキシー・フェルナンデス・バービー・フォル...価格:3,999円(税込、送料別)【楽天ブックスならいつでも送料無料】【DVD3枚3000円2倍】激突!スペシャル・エディション [ デ...価格:1,000円(税込、送料込) 『ザ・アブノーマル』は、心霊ホラーとサイコの対決と見た。 超常現象が起こらなければ、ホラーとはいわない。 と、当方は考える。 だから、サイコパスの殺人鬼(=人間)が登場するスラッシャー映画などは、ホラーではない。 と、当方は考える。 モダン・ホラーの帝王といいわれるスティーブン・キング。 彼の『ミザリー(1987)』、小説の方はおもしろくて夢中で読んだ。 けど、サイコものであって超常現象は起きない。 だから、その点では物足りなかった。 という具合に、当方の中では、超常現象はポイントが高いんだな。 どうしてそうなのか? そのあたりを『ザ・アブノーマル』で探ってみたい。 この映画は、3つのパートに分かれている。 2008年、1998年、そして1888年の3つだ。 2008年。 このパートは心霊ホラーのテイストだ。 3人組の若者(男1女2)が、無免許で車を乗り回すうちに、森の中の一本道に入り込む。 すれちがう車もないなぁと思っていたところへ彼らを追い抜いていく1台の車。 「運転手が乗ってない」 さらに、その車を追い越してないのに、なぜかまた後ろから接近してくる。 「もう引き返そう」 「ちょっと待って、あの木、何度も見てる」 そして、ビニール みたいなものをかぶった女がふわりふわりと歩いていく。 運転手のいなかったはずの車が発火し、車内に大やけどの女が。 あの女は誰なのか。 いったい何が起こっているのか。 なぜ3人組のうちの男女2人は殺されてしまったのか。 1998年。 森の一本道でオーバーヒートする車。 若い姉妹が乗っている。 通りかかった青年に、水を所望する。 青年は水を提供するような素振りを見せて姉妹を自分の家に連れて行き、二人を監禁してしまう。 鎖に繋がれる姉妹。 妹の方は、殴り殺される。 脱出を試みた姉は、車ごと焼き殺されてしまった。 このパートはサイコテイストを志向しているようだ。 ちらっと霊も出てくるが。 1988年 最後のパート、サイコテイストはノーマン・ベイツのテイストをおびてくる。 さっきの青年は、まだ小学生だ、 そして、小学生のおかあさんは、気が強く恐い。 母役の女優さん、顔つきがキツイよぉ。 おとうさんはやさしいが情けない。 男の子はおかあさんにこきつかわれて家事などやらされている。おかあさんのところに男が来ると、戸棚に閉じ込められてしまう。 そして、ショッキングな事件が起こる。 男の子がトラウマからサイコパスになっちゃうわけだよなって話。 心霊ホラーというのは、あの霊は誰なのか。 いったい何が起こっているのか。といったあたりで心持ちが不安定になる。 サイコものは、その人の行動が理解できないところが見る人の心持ちを不安定にする。 たとえば、スティーブン・スピルバーグの『激突(1971)』。 デイヴィッドは、ハイウェイを走行中に、のろのろ走っている大型トレーラーを追い越した。そうしたら何が気に障ったのか、大型トレーラーは、デイヴィッドの車をしつこく追いかけてくるではないか。鬱陶しくなったデイヴィッドは、トレーラーを先に行かせた。そうすると、今度は行く手を妨害したりする。 なんとかトレーラーを振り切って、踏切でデイヴィッドは沢山の車両をつなげた貨物列車が通り過ぎるのを待っていた。その後ろからトレーラーが音もなく近寄りぐいぐい押してきたではないか。なにするんだ⁉︎列車にぶつかってしまうじゃないか!デイヴィッドは必死にブレーキを踏む。やめろ!叫びながら踏みとどまり、なんとか貨物列車が行き過ぎた。 デイヴィッドが警察に通報しようと電話ボックスに入ると、トレーラーはそこを狙って走ってきて電話ボックスをクラッシュさせた。間一髪逃れるデイヴィッドだった。 かと思えば、こんなこともある。 小学生の乗るスクールバスがトラブルで立ち往生している。 デイヴィッドに助けを求めるスクールバス。 そこに忍び寄るトレーラー。 子供達を狙っているのか? 「あぶないぞー」と警告するデイヴィッド。 と、思ったら、トレーラーはスクールバスを後ろから押して、助けてやるではないか。子供達は大喜び。そしてデイヴィッドの方が変な奴に思われてしまう。 という具合に、デイヴィッドとともに感情移入している観客の神経まで逆なでするのがサイコだ。サイコは、押したり引いたり緩急自在にターゲットをいたぶり、観客や読書を不快で不安定な心持ちにする。 けど、『ザ・アブノーマル』のサイコ青年は、サイコになった原因から行動に現れているものまで、ストレートでわかりやすい。そうすると、残虐行為はするものの、不安定な心持ちにはなりにくい。つまり、サイコによるコクがたりないと感じてしまうのだ。 じゃあ、心霊テイストの方はどうか。サイコ青年をとり殺した霊は、怨みを晴らしたわけだ。しかし、霊の本望がそこにあるならば、なんでパート1で少女たちを殺したんだろう。そこを考えると、とても不安定な心持ちになってしまいました。 さてさて、心霊ホラーとサイコの対決だが、この『ザ・アブノーマル』に勝敗が示されている。サイコは、人間だから死ぬんです。どんなにしぶといサイコも死を免れることはない。『激突!』も、トレーラーが崖から転落して一件落着する。死ねばそこで決着がつく。 しかし、超自然現象の幽霊、魔物、モンスターは死ぬことがない。一旦消滅したとしても復活してくる。だから、超自然現象の方がこわいってわけ。人気ブログランキングへ
July 19, 2015
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【送料無料】【DVD3枚3000円5倍】 【GWポイント3倍】ヴァン・ヘルシング [ ヒュー・ジャックマン ]価格:1,000円(税込、送料込) 全部乗せラーメンって知ってる? 全部乗せラーメンは、チャーシュー、味付玉子、メンマ、ねぎ、のり などがどかっと入っているラーメンだ。 「豪勢でいい」と思うだろう。 ところがだ、案外何のラーメンを食べてんだか分かんなくなってしまう。 チャーシュー麺であれば、チャーシューの食感や味付け具合を何枚もじっくり楽しむ。 あるいはスープをすすり、麺を噛みしめながら、半熟味付玉子をどのタイミングで口に運ぶかを考える楽しみ。 単品のトッピングであれば、そんな食べ方ができる。 しかしながら、全部乗せでは、何かノルマのようにつぎつぎにトッピングに挑まなければならな い。 ある店では、「店主盛」という全部乗せのメニューがある。 ここのラーメンが好きで、「うわっ、チャーシューもターローも一度に食べられる」と喜び勇んだものの、実際食べてみると、チャーシューとターローが相殺してしまって、とても残念だった。(これは個人の感想です) さて、『ヴァン・ヘルシング』である。 もともとエイブラハム・ヴァン・ヘルシングは、小説『ドラキュラ』に登場する老学者である。 ヴァン・ヘルシングが、吸血鬼ハンターとしてのキャラクターを際立たせたのはハマー・プロダクションのドラキュラ・シリーズだ。ピーター・カッシングが演じるヴァン・ヘルシング教授は、知力を駆使し、大胆なアクションでドラキュラとの攻防戦を繰り広げる。 吸血鬼ドラキュラは、不老不死、変身能力があって、人を襲っては生き血を吸い尽くす。そのような恐ろしい存在なのだが、十字架、聖水、ニンニク、日光などの弱点がある。 カッシングのヴァン・ヘルシングは、特別な力をもっているわけではない。ごく普通の人間なのだが、果敢にドラキュラに立ち向かい、吸血鬼の弱点を突いて追い詰める。ドラキュラの超自然性や強大な力に恐れをなさず、冷静に闘えばただの人間でも活路を見出せるのだ。 普通の人間であるヴァン・ヘルシングが、どんな手立てでドラキュラに立ち向かうのか、それがドラキュラ・シリーズの楽しみ。 そんなヴァン・ヘルシングの活躍は、勇気を与えてくれる。ノスフェラトゥ(不死者)というとんでもない魔物であっても、知恵と力で人間が立ち向かえることを教えてくれる。 しかし、映画『ヴァン・ヘルシング』のヴァン・ヘルシングはスーパーヒーローである。ドラキュラに負けず劣らず不死身の男で、映画の舞台である19世紀まで400年の長きに渡って生きてきている。また、特殊な武器を使ってモンスターを駆除する。さらにクライマックスでは、自らモンスターに変身してドラキュラと闘う。 映画に登場するモンスターも、ドラキュラだけではない。フランケンシュタインの怪物、狼男、ジキルとハイドなど。これをホラー・アクション映画の全部乗せと言わずなんと言おう。 まあ、ヴァン・ヘルシングを主人公とした映画だから、ヴァン・ヘルシング自身をグレード・アップする必要があるだろうこともわかる。しかも、主演が当時売り出し中のヒュー・ジャックマンだから、ド派手に行きたかったのだろう。 まあ、ジェットコースター・ムービーを期待する向きにはいいだろう。 だが、単純な全部乗せになってしまっているからいけない。 モンスターの魅力やヴァン・ヘルシングの個性を際立せるには至っていない。(これは個人の好みです) 斯くなる上、ニンニクをたっぷり入れたラーメンを食べにいくぞ。人気ブログランキングへ
May 6, 2013
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【送料無料】モスキートマン [ マイケル・マナッセリ ]価格:3,730円(税込、送料込) 要するに蚊男だ。 蚊男ねえ。 まだ蠅男の方がイメージしやすい。 『蠅男の恐怖(1958)』『蠅男の逆襲(1959)』 蚊は小さすぎて。 ともあれ蠅男も蚊男も、もとはといえば害虫だ。 ハエハエカカカ、キン◯ョール。 蚊男(蚊人間)については、これまでに『キラー・モスキート』があった。 『キラー・モスキート』は、吸血モンスターが殺戮を繰り返す話。 しかし、この映画のタイトルは「モスキートマン」だからね。 なんとかマンというと、ヒーローの趣きを感じるじゃないか、スパイダーマンやバットマンのように。 スパイダーマンは、スーパーヒーロー。ところが、蜘蛛男ならば、仮面ライダー第1話「怪奇蜘蛛男」のショッカー怪人だ。 バットマンだって、スーパーヒーロー。でも、蝙蝠男といえば、やはり仮面ライダー第2話「恐怖蝙蝠男」のショッカー怪人だ。 本来「蚊」は害虫なのだから、「蚊男」はモンスターが妥当なところだが、もしかしてモスキートマンて、ヒーローなのか? イケてないジムは、会社を解雇され、女房には浮気され、いいことがない。 その上、人体実験で「蚊人間」にされてしまう。 皮膚が爛れ落ちたような姿のジムは、見た目モンスター以外の何ものでもない。 おぞましい姿で、自分を陥れた人物、辛くあたった人物を襲い、血を吸い尽くす。 しかし、ジムを追う刑事は言う。 「ジムは(襲う)相手を選んでる」 つまり、無差別に人の血を吸っているのではないと。 もうひとついいかえると、残虐無比の凶暴モンスターではないとアピールしているわけ。 そして、ラスト。 ジムに優しくしてくれた唯一の女性エヴリン、彼女が悪の科学者に囚われの身となる。 この悪の科学者こそ、ジムを蚊人間にした張本人だ。 ジムは、蚊人間の能力を駆使して危機一髪エヴリンを救い出す。 この活躍は、すなわちヒーローだ。 モスキートマンは人の生き血を吸うモンスターか、それとも蚊の特別な能力(なんだか、「か」弱そう)で悪と闘うヒーローか。 この問題を解決するスマートな言葉がある。 ダーク・ヒーロー。 害虫の超能力を身につけたドロドロ男は、ダークヒーローと呼ぶにふさわしい。 とはいえ、自分に意地悪したいけ好かない奴だからといって、駐車場係の血を吸っちゃうことまでは弁護できないと思うが。人気ブログランキングへ
April 14, 2013
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【23%OFF!】「Dr.ジキル vs 狼男」/「ゾンビの怒り」(2 in 1) 【DVD】価格:3,880円(税込、送料別) ポール・ナッシーなんて、誰も知らないだろう。 ナッシーの映画を初めて見たのは、『狼男とサムライ(1983)』。テレビの深夜放送だった。ポール・ナッシーが脚本、監督、主演を務める。共演は天知茂。映画自体は日本未公開である。 眠いのを我慢して見たが、奇抜な設定に期待をした割には、そんなに面白いというものでもなかった。 この題名と映画の扱い(劇場未公開、テレビの深夜枠)から分かるように、ジャンル系、B級、まぎれもないマイナーなのだ。 ポール・ナッシーは、映画監督、俳優の才能に恵まれていたわけではない。ホラー映画が好きが高じて、映画人として生きたという印象。 彼のフェイバリット・フィルムは、ユニバーサル映画の『フランケンシュタインと狼男(1943)』だそうだ。この映画に深くはまってしまったがゆえに、以後彼自身が狼男を演じ、ホラー映画を作り続けることになった。 ナッシーのフェイバリット・フィルムが、同じユニバーサルでも『フランケンシュタイン(1931)』であったり『狼男(1941)』であったりしたら、彼の生き方、作風もまたちがったものになっただろう。 しかし、『フランケンシュタインと狼男』である。文学性とか悲哀とか怪奇、幻想というより、モンスター対決が売りの映画だからね。『フランケンシュタインと狼男』で強烈なインパクトを受けたナッシーは、こんな楽しい映画を作っていった。 * 吸血鬼ドラキュラ対狼男 (1967) * ワルプルギスの夜/ウルフVSヴァンパイア (1970) * モンスター・パニック/怪奇作戦 (1970)吸血鬼、狼男、フランケンシュタイン、ミイラ男共演 才能はともかく、モンスター、ホラー・キャラクターへの愛情があふれている。 さて、『Dr.ジキルvs.狼男』だ。 『ジキル博士とハイド氏』では、ジキル博士が別の容貌と人格をもつハイドに変身する。 同じく『狼男』もまた、普通の人間が獣人狼男に変身する。 ともするとこの映画は、凶悪ハイドと怪奇狼男が対決するような話と予想される。 だが、そうではない。 なんと、一人の人間が、狼男にもなりハイドにもなってしまうのだ。 この強引さが、『Dr.ジキルvs.狼男』の素敵なアクセントになっている。 ダニンスキーは狼男である。彼はなんとか、普通の人間になりたいと願っていた。その治療にあたったのが、あのジキル博士の子孫だった。ジキル博士は、仮説を立てる。人格分離の薬品を使ってダ二ンスキーの悪の部分を表出させて「ハイド氏」にすれば、彼が狼男に変身するときに、ジキルの悪と狼男の悪とが互いに打ち消し合って両方が消滅する、つまり狼憑きが治る!、と。 そうです。この一本の映画の中で、狼男にもハイド氏にもなってしまうのが、ポール・ナッシーだ。彼は、ホラー・マニアのやりたい放題を叶えていったといえる。 だれも知らないマイナー映画人のポール・ナッシーだが、世間の評価でなく、ひたすら自分の嗜好を追究したところがいいな。人気ブログランキングへ
March 17, 2013
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邦題は『モンスター・トーナメント』だが、原題は『MONSTER BRAWL』。 BRAWLといえば、ジャッキー・チェンがアメリカで初主演した『バトルクリーク・ブロー(1980)』があったね。 『モンスター・トーナメント』は、プロレスラーがモンスターに扮して闘う。 『バトルクリーク・ブロー(1980)』も、ハードボイルド・ハガティ、オックス・ベーカー、アール・メイナードなどのプロレスラーが出演し、格闘大会で覇を競った。 あの頃は、マニアックにプロレスラーの顔と名前が分かった。 しかし、『モンスター・トーナメント』に至っては、ジミー・ハートとケビン・ナッシュくらいしか知らん。 お楽しみが半減じゃ。 さて『モンスター・トーナメント』、様々なモンスターが世界最強怪物決定戦を争う。といっても、実際にトーナメントを行うのはヘビー級の3試合である。ミドル級は前座か。 とっても楽しい映画なので、やりようによっては、もっとおもしろくなったのではないか。 たとえば、出場モンスターの選出だ。 フランケンシュタイン、狼男、ミイラ男などというユニバーサル・ホラー以来のビッグネームはいい。それぞれが主演映画をもっている。プロレス界でいえば、ブルーノ・サンマルチノ、ザ・デストロイヤー、ボボ・ブラジルといったあたりだろう。 しかし、レディ・バンパイア、ゾンビマン、サイクロプス、ウィッチ・ビッチ、スワンプ・ガットって何? 確かに、かつての日本プロレス、ワールドリーグ戦も、実際に優勝に絡んでくるレスラーは限られていた。そうそうスター・レスラーをアメリから招聘するわけにはいかない。 その点、ギャラは関係ないんだから、『モンスター・トーナメント』は、スター・モンスターを集めてもいいんじゃないか。ドラキュラ、半魚人、透明人間、みんなユニバーサルか。透明人間はどう闘いをスイングさせるか、対戦相手の力量が問われるぞ。 渋いところでは、ハマーホラーの蛇女とか妖女ゴーゴンなんて、マニアが泣いて喜ぶよ。 まちがってもジェイソンとかフレディ・クルーガーとかの新参者は参加させない。モンスターとも呼べない。 そうそう、フランケンシュタイン対狼男は因縁の闘いなんだよ。『フランケンシュタインと狼男(1943)』では決着がついていない。70年ぶりの遺恨試合で盛り上げてもよかったんじゃないか! 人気ブログランキングへ
September 23, 2012
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【送料無料】人喰い怪物ゴブリン [ ギル・ベローズ ]価格:3,440円(税込、送料別) 『The Cat ザ・キャット(2011)』を見た。 霊が、次々と人々を憑り殺す。 けど、殺されるべくして殺される人がいる反面、通りすがりというかとばっちりというか、理由がよくわからないままに殺されちゃう印象の人もいた。 なんで特に怨みもない人が殺されちゃったのか。 霊の考えることは、こちら側ではなかなか窺い知ることができない。 他の霊の例はどうなのか、考えてみた。 まずあの貞子の場合。 貞子と直接因縁のない人々に後の世まで祟っているが、でも呪いのビデオを見た人に限られている。 もう一方の伽椰子はいかがか。 伽椰子は、呪怨の家に足を踏み入れた者に対してだけ祟ったのではないか。 Jホラーの二大巨頭は、けっこう祟る条件が見えてるぞ。 霊とか超自然的なクリーチャーとかは、人間界の常識や科学は通用しない。 かといって、やつらがあまりにも好き放題やってくれちゃうと、見ている方は混乱するよね。 その点『人喰い怪物ゴブリン』は、説明がていねいだったな。 例えば、冒頭、不浄なものを燃やす狂信的な儀式で、禍々しいとされた赤ん坊が、なんと燃え盛るたき火に投げ込まれてしまう。 そうしたら、その母親がじつは魔女で、怒り狂ってゴブリンを呼び出し復讐を果たすのだ。 ここで?と思った。 魔女だったら、我が子が火に投げ込まれる前に、ゴブリンを呼び出せばいいじゃないか。 しかし、後の展開で、この疑問にきちんと答えを出してくれる。 「彼女は悪魔をこの地に呼び出したの。 赤ちゃんの骨から異臭を放つ悪魔を作り出したのよ」 なるほど。そうだったのか。 未然にことを防ぐことはできなかったんだ。 そして、次の疑問はこうだ。 ゴブリンの目的は、赤ん坊を奪い去ること。 しかし、赤ん坊が不在であっても、なぜかゴブリンは赤ん坊の妙齢の姉を襲ってくる。 それについては、地元のじいさん(じつは魔女の子孫)が解説する。 「君から弟の匂いがするんだ」 うーん、そういうわけだったのか。 さらに、ゴブリンを倒すためには、ある武器が必要である。 赤ん坊が燃やされたたきぎを柄にし、魔女の髪の毛で槍頭をくくりつけた槍で心臓を突き刺さなければならない。 魔女の子孫のじいさんは、そう言いながらも、銃を用意する。 なんでや? 「銃弾では打撃はわずかで命までは奪えない。霊魂だからだ。これ(槍)が頼みの綱だ」 そう、銃は、ゴブリンを怯ませ、進撃をわずかに食い止めるためには役立つのだ。 これだって、きちんと話して聞かせてくれたから、見てる側は納得するのだ。 だから、『人喰い怪物ゴブリン』、行動が明確である。 わかりやすい。なかなかいいやつじゃないか。人気ブログランキングへ
August 4, 2012
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【送料無料】獣人ゴリラ男価格:1,350円(税込、送料別) 「フランケンシュタイン」マニアである。 あの額がせり出した人造人間の造形は、じつに見事だ。見飽きることがない。 また、タイトルロールのフランケンシュタインにしても、じつに魅力的だ。死体のパーツを継ぎ足して自らの手で新しい命を吹き込んでしまうのだ。元祖マッドサイエンティストとして、いきなり大仕事をやってのけたのだ。 タイトルに「フランケンシュタイン」とついている映画は、見ずにはいられない。 そうでなくても、「フランケンシュタイン」傾向の映画は、嗅ぎ分けて見る。 『獣人ゴリラ男』は、「フランケンシュタイン」の換骨奪胎版と呼ばれるにふさわしい映画だ。 あるマッドサイエンティストが、屈強なプロレスラーの肉体にチンパンジーやゴリラの脳髄を移植して、人間の寿命を延ばす研究をしていた、というお話。 なんて素敵な発想であることよ。 こんなにマッドサイエンティストと呼ばれるにふさわしい研究があるだろうか。 試行錯誤の結果、ゴリラの脳髄が適応し、最強の覆面レスラーが誕生する。 しかし、獣人レスラーは凶暴化するとともに風貌も獣人化し、暴走するのであった。 映画の意図としては、プロレスラーを獣人化することによってモンスターらしく暴れさせたかったのだろうね。 そのためにプロレスラーとゴリラの脳髄をかけあわせたわけだ。 でも、その目論みは嫌いじゃない。 プロレス会場で、ゴリラ男が暴れ出したために、人々がパニックになるシーンはモンスター映画らしくていい。 ときどきゴリラ男と鉢合わせし、ゴリラ男のわきをすり抜けて逃げる人々がいるところはご愛嬌。 DVDの解説によると『獣人ゴリラ男』は、『フランケンシュタイン(1931)』と『モルグ街の殺人(1932)』の影響が見られるとのこと。 でも、クライマックスの美女を攫って建物の屋上に逃走するところは、ゴリラ男なだけに『キング・コング(1933)』を彷彿とさせる。本当は、「キング・コング」もどきの巨大生物映画がやりたかったのに、予算がないから等身大モンスターにしちゃったのではないのか。 いずれにしても「フランケンシュタイン」傾向の映画は、マッドサイエンティストのいかれ具合とモンスターの暴れっぷりだね。 この映画はメキシコ製である。 プロレス界を部隊にしているので、古いルチャ・リブレを見ることができる。 ルチャ・リブレの印象は、空中戦、アクロバチックな動きを主体としたものだ。 しかし、当時のルチャ・リブレは、アメリカン・プロレス的な動きだった。 まだ、メキシコ独自の試合スタイルに進化するには至っていなかったようだ。 そんな中にあっても、ロープ・ワークなどに後年のルチャ・リブレの片鱗が感じられた。 そして、コーナー・ポストに投げられたルチャ・ドールが、そこに飛び乗ると振り返りざまにダイビング・ボディプレスを放った。 この映画の15年後には、日本初登場のミル・マスカラスが、コーナー・ポスト最上段から対戦相手の星野勘太郎めがけて華麗に宙を舞うことになる。 人気ブログランキングへ
July 28, 2012
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【送料無料】ピラニア価格:3,152円(税込、送料別) 劇場公開版のタイトルは『ピラニア3D』だったけど、DVDでは『ピラニア』。 映画でもDVDでも、3Dでも2Dでも、近年ピライチいやピカイチのおもしろさだった。 基本的に小さいモンスターは好きじゃない。 モンスターであるならば、最低でも2mはないとね。 でも、今回のモンスター・ピラニアは迫力あるぞ。 オリジナルのジョー・ダンテ版では、ピラニアは陸軍の生物兵器だった。 しかし、アレクサンドル・アジャ版は、地底湖に生き残っていたピラニアの祖先種パイゴセントラスだ。 顔つきだけでふるえがくる。 バイオテクノロジーで無理無理強化されたピラニアって、養殖ものみたいだ。 その点、パイゴセントラスは原始から生きぬいてきたバリバリの天然もの。 どん欲なたくましさのカタマリだ。 また、生物兵器という設定では、科学者や軍人が登場することになりがち。 そればっかりで、そのパターンはもう頭打ち。 そこで科学者、軍人の代わりに出てきたのが、ポルノ映画の監督だった。 であるから、映画は、エロが前面に出て、ピラニアに喰いまくられてグロとなる。 でも、ひたすら能天気。 エロの方は、美女が水中をオールヌードで泳いだり、「濡れたTシャツのボインが見たい!」と叫びながらピラニアに喰われたりする。そんなもんで、ハードコア的なからみシーンはない。 グロの方は、ピラニアに喰われ、手足はちぎれ、かなり人体破壊ではある。しかし、『ホステル(2005)』みたいに拷問苦痛を見せるわけではない。 いずれにしても圧倒的に凶暴、何の感情もないピラニアが暴れまくる。 人間にはピラニアに対抗するための効果的な手立てもない。 さらに、このピラニア軍団(かつてそんな集団があった)は、前座レスラーにすぎなかったのだ! まだメインイベンタークラスが控えていた、というところで『ピラニア・リターンズ(2012)』に続く。 『ピラニア・リターンズ』、早く見たい。人気ブログランキングへ
July 8, 2012
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【送料無料】クラシック・モンスターズ コレクション 【DVD】価格:7,541円(税込、送料込) イギリス映画『ゾンビ襲来』だってさ。 ハマー・プロの『吸血ゾンビ(1966)』じゃなくて? ゾンビは好きな分野じゃない。だから、単なる『ゾンビ襲来』だったら見なかっただろう。 しかし、ピーター・カッシングとクリストファー・リーの二大怪奇スター、怪奇監督フレディ・フランシスが顔を揃える豪華版なのだから、ホラー愛好家としては見ないではいられない。 映画の冒頭、ピーター・カッシングの後頭部が画面に映る。あれ、カッシングって、こんなに禿頭だったっけ?なんだか、ごそっと抜けちゃっている感じだ。しかし、のちにこのシーンの意味が分かるんだ。 フランケンシュタイン博士、ヴァン・ヘルシング教授を当たり役とするカッシングは、今回もお得意の学者役である。 カッシングは古い地層から発見した新たな原始人の骸骨を研究していた。角張ったしゃれこうべといい、この骸骨は巨体プレデターの骨格標本をイメージさせる。ふとしたことからプレデター骸骨の指に水がかかった。そうしたところ、今まで骨だったところに、なんと肉や皮が蘇ってきたのだ。 そうか、こいつがやがて「ゾンビ」として襲ってくるんだな。一般のゾンビ映画とはちょっと違うが、死骸が生き返るんだから、「ゾンビ」といえないことはない。ゾンビの爛れ感より、巨体モンスターへの期待が高まるじゃないか。 それで、またカッシングが後頭部を画面上に見せるのだが、ちゃんと毛に覆われている。なんなんだ? フランケンシュタインの怪物、吸血鬼ドラキュラ役でビッグネームとなったリーは、カッシングの異母弟である。彼は、精神科病院の院長を務めている。そこには、カッシングの妻が色情狂というか本当に患ってしまって入院していた。が、最近亡くなってしまった。 異母弟リーは、カッシングの学者としての才能を妬んでいる。あろうことか、カッシングの研究室からプレデター原始人を盗み出してしまうのだ。そして、運搬途中に雨にうたれたプレデター原始人は、水分を吸収してゾンビとして蘇る。いよいよゾンビ来襲かと思うと、いずこかへ姿を消してしまう。 カッシングは、この妻のことがあって、人間の内なる悪(病気)について根源的な研究をしていたのだ。なんだかよくわからないが。 そして、カッシングの娘も、母と同じように奇行奇癖が表面化してくる。カッシングは、プレデターゾンビの血液から血清を作り出し、娘に注射するが・・・。 そんな調子でプレデターゾンビは存在感が薄れたまま、ストーリーはどんどん進行していく。 しかし、とりあえずタイトルに嘘はなかった。プレデターソンビはちゃんと役割意識をもって「ゾンビ襲来」しますぜ。宇宙人プレデターのような破壊力はない。ひっそりと、不気味に執念の再登場を果たす。 そして、ラスト、またしてもあのカッシングの薄毛の映像が。 とにもかくにも『ゾンビ襲来』は、映画のメインではない。 それはそれとして、この映画、よくあるおぞましいゾンビ映画とはちがって、怪奇映画としての味わいがある一本だった。 映画のタイトルで見過ごすことなく、カッシング、リー、フランシスの名前で選んで本当によかった。
August 13, 2011
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ジェシー・ジェームズとフランケンシュタインの娘/世紀の対決!人造モンスターVS.ガンマン価格:650円(税込、送料別) 1965年、日本では『フランケンシュタイン対地底怪獣』が公開された。 そして、アメリカでは、なんと『ジェシー・ジェームズvsフランケンシュタイン』。 ジェシー・ジェームズ単独の映画だったら、見ない。ブラッド・ピットの『ジェシー・ジェームズの暗殺(2007)』っていう映画があるらしいけど、全然興味ない。 ジェシー・ジェームズとフランケンシュタインの絡みなんてまさにミスマッチのフレーバー・タイプだ。その味わいを確かめずにはいられない。 この映画、期待に違わぬなかなかのキワモノ・テイストを発揮してくれる。 たとえば、脳移植の際は、科学者と被験者とが電気コードでつながったヘルメットをかぶって行う。この時代、ヘルメットなんてないはずだから、その点で未来SF的な印象を出そうとしたのかもしれないが、役者さん達の割り切った心構えが忍ばれる。 かと思うと、意外にリアルな設定が見出せるのだ。 フランケンシュタインと題名にはあるのだが、だれもがイメージするあのフランケンシュタインの怪物は出てこない。(『フランケンシュタイン対地底怪獣』には、ちゃんと怪物が出てきす。) 西部のアウトロージェシー・ジェームズにからむのは、科学者フランケンシュタインの孫娘なのだ。 (別タイトル『ジェシー・ジェームズとフランケンシュタインの娘』でもDVDが販売されている。) 日本でいえば、さしずめ「国定忠次vs四谷怪談お岩の娘」とかそんな感じか。 この二者、時代的にはどうかというと、フランケンシュタインの原作が出版されたのが1818年で、ジェシー・ジェームズは1882年に没している。だから、フランケンシュタインの孫娘とジェシー・ジェームズが遭遇しちゃうこともありえないことではない。 また、実在の人物であるジェシー・ジェームズが、フランケンシュタインの孫娘と出会ったという史実はない。だから、暗殺されたはずのジェシー・ジェームズがじつは生き延びていた、としてある。 考えているじゃないか。 ボリス・カーロフ・タイプの怪物が登場しないことについては以下のように推測した。 映画的には、あのモンスターがスクリーンで暴れ回った方がいいに決まっている。 しかし、この映画は開拓時代のアメリカが舞台だ。フランケンシュタインはヨーロッパの話なのだ。怪物が海を渡ってはるばるアメリカまでやってくるのは不自然だろう。 それよりは、フランケンシュタインの孫娘が、実験のために雷の多い西部の町に移り住んできた、とした方が説明がつく。 けれど、フランケンシュタインものだったら、人造人間モンスターらしきものがが出てこないことには話にならない。ということで、孫娘は自作の脳をプロレスラーみたいな筋肉男に移植してモンスターもどきをつくりだす。 モンスターもどきは、頭の周囲に塗った部分がある。それ以外は普通の大男だ。造形、雰囲気ともにあの怪物には到底及ばない。でも、孫娘が、祖父と同じデザインの人造人間を作り出すことはありえないから仕方がない。 なーんてね。 ウルトラマンと郵便配達のミスマッチCMだって、地球での活動時間をカラータイマーで知らせている。そういうところはきちんと押さえなければ。
July 16, 2011
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【送料無料選択可!】フランケンシュタイン 恐怖の生体実験 [期間限定生産/廉価版] / 洋画価格:1,335円(税込、送料別) フランケンシュタインの怪物は、見飽きない姿形をしている。 そして、科学者フランケンシュタインも、じつに魅力的なキャラクターだ。 フランケンシュタインというのは、怪物をつくった男の名である。 ドラキュラは吸血鬼の名前だが、フランケンシュタインは怪物の名前ではない。 この区別、知っている人は知っている。知らない人には、あいまいだけどどうでもいいこと。 1930年代から40年代にかけて、ユニバーサルで8本のフランケンシュタイン映画がつくられた。このシリーズは、怪物のシリーズだ。フランケンシュタインとタイトルにありながら、ご本人が出てこない映画もある。 50年代から70年代にかけて、今度はハマープロで新たにフランケンシュタイン映画がシリーズ化(6本)された。こちらは、科学者フランケンシュタインご本人のお話だ。怪物が登場しない映画もある。とりわけ、あの突き出た額と首のボルトが特徴的な怪物は出てこない。似たような人造人間の出ている映画が1本だけあることはある。 ハマーホラーに、特徴的な怪物が出てこないのはどうしてか。あのフランケンシュタイン・モンスターのデザインは、ユニバーサル・オリジナルだからなのだ。 ハマーホラーで科学者フランケンシュタイン男爵に扮するのは、ピーター・カッシングだ。カッシング=フランケンシュタインは、過剰な冷徹さを備え、自分の課題とすることを追究するためには、死体、生体を問わずあたかも機械の部品交換のように手足その他体の部位を付け替える。脳みそを一人の人間から別の人間に移し替えるのは、コンピューターのCPUやハードディスクを入れ替えるみたいだ。 この人体パーツ取り扱い作業を通して、ハマーのフランケンシュタイン映画は、怪奇映画と呼ぶにふさわしい雰囲気を醸し出している。それはカッシング演じるフランケンシュタインが、恐れを知らない超クールな佇まいを見せつけるからだ。彼にとっては、神や理性より、または感情より、常にインテリジェンスが優先する。 『フランケンシュタイン 恐怖の恐怖の生体実験』は、シリーズ中最も極悪なフランケンシュタインである。自分の研究のために、若いカップルの弱味に付け込み、強引に手伝いをさせる。 そして、あろうことか、その女性をレイプしてしまうのだ。 映画会社がシリーズを継続していく上では、観客に飽きられないようにさまざまな工夫が必要であろう。 ゴジラ・シリーズだって、ただ1本だけ自力で空を飛んだことがある。 だから、まあ中にはそういう映画もあったなあ、と受け止めている。 しかし、フランケンシュタインのマニアックな性格は、自分の研究のためには手段を選ばないところにあったはず。ただ単に欲望を制限しないのとは違うと思うな。
July 3, 2011
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双頭の殺人鬼/ピーター・ダインリーDVD/洋画ホラー価格:1,350円(税込、送料別) フランケンシュタインを嚆矢として、マッドサイエンティストがモンスターを生み出す話は多い。 フランケンシュタイン博士の研究目的は、生命を自らの手で作り出すことだった。神の領域に挑むその行為は、結果的にモンスターを創造してしまった。決して意図してモンスターを誕生させたわけではない。 では、『双頭の殺人鬼』に登場する鈴木博士は、何を研究していたのか。 これがよく分からない。 放射線とか宇宙線とかが生物進化に与える影響を研究していたと本人は言っているようだ。だが、妻の顔面と精神を崩壊させ、実の弟を凶暴な獣人にしているのはいかがなものか。 さらに、鈴木博士は、新聞記者ラリーの肩に注射を打って、頭を二つにしてしまうのだが。 しかしながら、これは恐い。科学者が、薬物か何かでお手軽に人を怪物化してしまうのだから。 魔法使いが、人をカエルやネヅミに変えられてしまうより、ずっと恐いことかもしれない。 あるかないかわからない魔法より、科学や医学はリアルだ。薬物や化学物質で人間の体がどうにかなってしまうことは実際にある話だから。 それはさておき、言うまでもないが、二つ頭にされたラリーが双頭の殺人鬼となる。 この二つ頭というのは、ビジュアル的にモンスター性が際立っている。 単なる獣人や異形のモンスターよりは、二つ頭は確かにインパクトがある。 ただラリーの頭がふたつ並んでいるのでなく、ラリーの顔の原型をとどめない歯を剥き出した恐ろしい形相なのだ。 けれど、なんで鈴木博士がラリーを二つ頭にしたのか。その理由は不明だ。研究により、特定の薬物を投与することで人間の頭が二つになることがわかったから、それを実験してしまったのだろうか。あるいは、人間の頭を二つにして何かを検証しょうとしているのか。 フランケンシュタインは、生命の謎を解き明かし、人間の手でまともな人間をつくることが目的だった。倫理的問題とは別に、医学的な知見を得られないことはないだろう。だが、脳みそを入れ間違えて、モンスターが出来上がってしまった。つまり、モンスターは失敗作だった。 その点、ラリーの二つ頭はどうなんだ。人間の頭を二つにして、科学的にどんな意義があるのだ。 ラリーの変身過程を見てみよう。注射により肩に目が現れ、どんどん性格が悪くなって、やがてもう一つ頭が生えてくる。頭が二つになったら、凶暴極まりなく、手当りしだいに人を惨殺しまくる。 これでは鈴木博士は、ただ二つ頭の個性的なモンスターをつくっただけにしかとれない。 生命の進化と二つ頭、いったいどういう関係があるのか。 しかし、なんと、予想もしなかった驚くべきラストが……。 二つ頭の状態は、実験の過程だったのだ。 鈴木博士は、がん細胞を摘出するように、人の悪の部分を切り離して善だけを残すのことが可能との考えたのか。それが生命の進化か?。 この映画では、テレビ番組の『月光仮面(1958~1959)』の怪獣マンモス・コングの着ぐるみが流用されているという。ということは、もう一体の白っぽい方は、人工コングか。
June 19, 2011
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【送料無料】帰ってきたドラキュラ価格:2,816円(税込、送料別) 多感な時期に『帰ってきたドラキュラ』を見た。なんと『恐竜グワンジ』との二本立てだった。至福の映画体験にどっぷりと浸ったものだ。 映画館に入る前は、『帰って来たドラキュラ』(当時は「来た」だった)の恐怖に耐えられるかどうかドキドキした。お化け屋敷の入り口に立ったときと同じような心境なわけだ。 しかし、実際に見てみると、心胆を寒からしめるような恐さはなかった。 ぼくの「恐い映画」の原体験は、「四谷怪談」である。お岩さんが崩れた容貌で、怨みを抱いて化けて出る、など「四谷怪談」は恐さの神髄だ。 『帰ってきたドラキュラ』が「四谷怪談」みたいに恐かったかどうかというと、全然そんなことはなかった。でも、恐さとは別に、ホラー映画のおもしろさを感じたのだった。一般人の青年が、恋人を救うために魔力をもつドラキュラに立ち向かう、多感な時期だからその姿がとてもかっこよく映った。それに刺激されて、吸血鬼と闘うストーリーをつくったほどだ。 今回何十年ぶりかでこの映画を見直した。シリーズ四作目で、ドラキュラは三度目の復活を果たした。そのドラキュラの顔は、ライティングなどによっておっかなかった。かつてそう感じなかったのは、お岩さんのような顔が恐い顔との思いが強かったからだろう。 再確認したのは、活劇としてのおもしろさだった。第一作『吸血鬼ドラキュラ(1958)』は、ホラー映画の名匠テレンス・フィッシャーによって、おどろおどろしさと同時に胸のすくような軽快、スリリングなアクションが展開された。 る本作は、監督はフレディ・フランシスに変わったものの、活劇の雰囲気は変わらず流れていた。ヴァン・ヘルシングのようなプロの吸血鬼ハンターこそ登場しないが、ドラキュラに襲われた若い女性を巡って、恋人の青年らがドラキュラと攻防、追撃を繰り広げる。そして、ドラキュラは、必ず一旦退治される。 そして、もうひとつ。かつて見たときに、ストーリー的に「?」「?」と思ったところがあった。腑に落ちなかったのだ。そこんところは、やっぱりねじれていた。
June 5, 2011
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【送料無料】ブラッド価格:3,591円(税込、送料別) モンスターとしての吸血鬼にはそれほど魅力を感じない。しかし、ヴァンパイア・ハンターは、とっても贔屓にしている。 ピーターカッシング演じるヴァンヘルシングはマイヒーローである。『キャプテン・クロノス/吸血鬼ハンター(1973)』も、じつに楽しかった。 最近は、『ロストボーイ サースト:欲望(2010)』を見た。このシリーズも好きだな。コミック本で研究してバンパイアハンターになるなんて、夢があるじゃないか。妙な新兵器を駆使してヴァンパイアと激闘を繰り広げるのだから拍手喝采だ。 そんなんだから、『30デイズ・ナイト(2007)』は、ヴァンパイア・ハンターが出ないヴァンパイア映画だったので、つまらなく感じた。 そして今回見た『ブラッド』では、なんとあのルーシー・リューがヴァンパイアになり、やがてヴァンパイア・ハンターとしての活躍を見せてくれた。 吸血鬼の設定は、基本的なところでどの映画でも共通しているものもあれば、あるひとつの映画で独自の設定を盛り込んだものもある。 普通、吸血鬼に噛まれると、噛まれた人間も吸血鬼になってしまう。だが『ブラッド』では、そう簡単に伝染するものではないとしている。ヴァンパイアとして蘇るためには、けっこうやっかいな手続きがあるという。ところが、ルーシー・リュー扮するセイディは、血を吸われたあとに、自力でヴァンパイアになって息を吹き返すのだ。 それだけ、ヴァンパイアに適していたともいえるが、強い生命力?をもっていたというわけなんだ。だから、なりたてヴァンパイアであっても、セイディは、復讐のために先輩ヴァンパイアを追撃する。 ヴァンパイアになっちゃったセイディは、銃で撃たれても死なない。だが、深いダメージは負ってしまう。そのため、弾丸を摘出してもらうという場面もあった。 よくあるのは、銃弾などものともしない、全然効かないタイプのヴァンパイア。そして、一旦は弾丸を撃ち込まれても、すぐに体から排出するタイプもあったと思う。しかし、手術により弾丸をつまみ出してもらったヴァンパイアとは、おそらく映画史上初めてなんじゃないか。 など、『ブラッド』は、オリジナルの解釈による吸血鬼像が見られた。 ヴァンパイア・ハンターは、これまでたいていが人間であった。あるいは、ハーフヴァンパイアとか。完全なヴァンパイアであり、素質的にパワーをもっているが、けっこう人間的な弱味ももっているセイディ、そこがルーシー・リューが演じるヴァンパイア・ハンターの持ち味だ。 これは、『ロストボーイ』などとはちょっと違うビターなテイストのヴァンパイア・ハンターだね。
May 28, 2011
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【送料無料】THE JOYUREI 女優霊価格:2,953円(税込、送料別) ドバーっと血が噴き出したり内蔵がはみ出したりも嫌いじゃない。 だけど、暗がりに何かがいる。何だかわからないけど、さっきからじぃっとこちらを見ている。いわくありげな雰囲気がある。妙な気配を感じる。こちらの方がしみじみと恐い話である。 雰囲気や気配で恐怖を醸し出す、これがオリジナルの『女優霊(1996)』のねらいだった。 しみじみと恐い話方向を試行したわけだね。 霊の存在を小出しにする。霊について説明をしない。など、見る者の想像力に訴える演出がされていた。 高尚な恐怖の表現を試みたともいえると思う。 だから、アメリカでのリメイク作品『THE JOYUREI ~女優霊~』は、どんな雰囲気の映画になっているかに興味があった。 アメリカのホラー映画といえば、ジェイソンやブギーマンなどの殺人鬼やゾンビが登場する直接表現のスプラッター系が目立つ。 しかし、『たたり(1963)』のように、雰囲気、気配で恐い系の映画もある。『女優霊』をリメイクするからには、当然こちらなのだろうと思ったわけだ。 残念ながら、『THE JOYUREI ~女優霊~』は、ぼくの興味に応えてくれる映画ではなかったのだ。そこをはずしたら意味ないじゃん、と思っちゃった。
May 21, 2011
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【25%OFF】[DVD] 女優霊価格:2,993円(税込、送料別) 女優霊は、雰囲気で恐さを見せようと試みられたと考える。 撮影所のセットで、撮影したフィルムの中に、そしてロケバスでも、怪異が起こる。 これらの演出は、じわっ、じわじわっとくる。 だが、クライマックスは何だ。突然襲いかかる霊は、それまでのトーンと合わないと感じた。 この映画では、霊についての説明はない。正体不明の脅威を味わわせたかったのだろう。 その場合、クライマックスは大きなアクションより、すーっと吸い込まれるような殺され方の方が名状しがたい余韻が残ると思のだが。 じわじわとボディブローを効かせて、最後にとどめのストレートパンチという意図がわからなくもない。 しかし、とどめの一発のつもりが、オーバーアクションのために相手が見極めてクリーンヒットしなかった、ということもある。 ジャブやボディブローを的確に打ち続けることで、相手はダメージが蓄積し、いつの間にか戦闘不能状態に陥る、っていう方が気持ち的には重く感じるだろう。 霊が、はっきりと姿を現し、猛ラッシュを仕掛けてくるということは、そこに強烈なパワーを感じる。ぐぅっと耐えてきたものを一気に噴出した感じだ。であるならば、映画を見ているこちらとしては、そのパワーのみなもととなる怨念のわけについて知りたくなる。 四谷怪談のお岩は伊右衛門に深い怨みを抱いた。見る側はそこが分かっているから、化けて出たお岩の復讐が恐い。 『リング(1998)』の貞子も、『呪怨(2003)』の伽椰子も、強い怨念を抱いていることが示されている。それが裏付けになっているから、祟りとも言うべきパワーの表出がとても恐いのだ。 作用の強いものには、それに見合う説得力が必要だと思う。 最後まで霊の説明をせず、見ているものの想像にゆだねるのであれば、強烈な刺激ではなく、どこまでも幻想的であった方がいい。
May 13, 2011
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【ポイント10倍】送料無料!!【DVD】パラノーマルフェノミナン白石晃士 10P26Jan11【smtb-u】 [A...価格:3,990円(税込、送料込) アクティビティの仇をエンティティ、フェノミナンで。 『パラノーマル・アクティビティ(2007)』は、公開される前年から前評判が高かった。低予算だが日本のホラー映画的な手法を使ったとっても恐い映画で、アメリカで大ヒットした、と聞いて一刻も早く見たくなった。 だから封切りの第1回目を見に行ったのだけれども、脱力した。 低予算で恐いということなら、そこに工夫があると楽しみにしたのに、はずれだった。 つぎに、『パラノーマル・エンティティ(2009)』を見た。こちらはパチモンである。知る人は少ないだろう。例によって、『パラノーマル・アクティビティ』というタイトルをうろ覚えの人が、まちがって見ちゃう類いの映画である。内容も似ている。もし、知らずに借りた人は、自分はあの『アクティビティ』を見たと思い込んじゃうかもしれない。 でも、両方見た者には違いが分かる。ぼくはこっちの方が面白かった。 エンティティでは悪霊がピンポイントで娘を狙ってくるところが恐かった。家にいたら襲われるというのでホテルに移動するが、そこにも悪霊が追ってきた。で、また家に戻ってくる。 ホラー映画では、登場人物が、恐怖地帯に自ら行ってしまうことがよくある。「そっちに行っちゃいかん。そっちに行けば、襲われるだろう。何で行くんだぁ」と見ている者が危惧しても、吸い込まれるように行ってしまって恐い目に遭う。 『エンティティ』においては、狙われた娘が一人きりになる。「娘が襲われるから、一人にするなよ」と見ていて思うのだが、相変わらず娘は夜一人で寝ている。そこにやっぱり悪霊がやってくる。 このへんのもどかしさが、恐怖感を醸し出した。 そして、『パラノーマル・フェノミナン(2010)』 カップルがホテルに来ている。突然お風呂にお湯が入る。「自動的にお湯が出るのか?」などと合理的に解釈しようとする。しかし、鏡に手形がついていたり、あるはずのない場所に髪の毛が落ちていたり、誰もいないのにドアがノックされたりする。 ホテルの一室という限定された空間の中で、ちょっと目を離した隙を狙って断続的に怪異が畳み掛けるところが恐い。 さらに、監督の白石晃士が登場する。 「ぼくのところにはこんなビデオがよく送られてくる。もう送ってこないでくれ」 そういっていやがっている様子を示してリアル感を出そうとしているわけだ。 これは「本当にあったことで、凄い内容のビデオですよ」と煽るよりも効果的だ。 この『フェノミナン』こそ、よほど低予算で工夫してつくってあるとぼくは思う。 金と時間と労力をかければ、一定のレベルの映画ができてあたりまえ。 でも、それらがなくても、工夫することでおもしろい映画はできる。 マイナー映画やパチモン映画は、ゲリラ的な楽しさがあるんだよ。
January 29, 2011
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【送料無料】【セール特価】ウルフマン ブルーレイ&DVDセット【Blu-ray Disc Video】価格:1,995円(税込、送料別) モックバスター(模倣映画)ではない、メジャー作品の『ウルフマン』でござる。 と、最初に断るのもなんか変だが。 ウルフマンて、なんだか馴染めないんだよな。やっぱり狼男でしょう。 狼男は、世界三大モンスターである。由緒正しいのだ。 狼男の恐怖とは何か。 それは二面性であると思う。 三大モンスターの狼男以外の二大は、フランケンシュタインの怪物と吸血鬼ドラキュラである。 Fの怪物は、死体をつぎはぎした醜い外見とはうらはらに知性を秘めていたりする。ドラキュラは、夜の闇でしか活動できない。昼、日の光の下では生きていけない。 どうやらモンスターは二元論の存在らしい。 狼男の二元論は、ローレンス・タルボットと狼男の二つの顔をもっているのだ。 Fの怪物はFの怪物だし、ドラキュラはドラキュラである。一つの顔しかない。 二つの顔が狼男のセールスポイントだ。 二つの顔をもつローレンス・タルボットだが、当然望んで狼男に変身するのではない。だれが好き好んで獣になりたがるだろう。狼男になってしまえば理性は失われ、自分がコントロール不能となり、殺戮を繰り返す。不本意なことながら、自分のしでかしたことなのだ。ローレンスは、狼男に噛まれて変身すると分かってからは、自分自身におののくのだった。 これが狼男の第一の恐怖だ。 このローレンス・タルボットは、当然普段は決して凶暴粗暴な男ではない。ところが、狼男に変身してしまえば、手当り次第に鋭い牙で人に噛みつき、強靭な爪で引き裂くのだ。相手が誰であろうとおかまいなしだ。それは、ローレンスが親しくしている人、例えば恋人のグエンであっても識別はできない。グエンからすれば、あの優しいローレンスが残虐無比の狼男に変わってしまうのは、何ともやりきれない。この落差、正常な状態なら愛を語り合うのに、一旦狼男になってしまえば、理屈も哀願も通用せず、血の海に沈めてられてしまう。 これが第二の恐怖である。 この二つから、満月の夜が近づくにつれ、自分も他者も恐怖が高まっていくのだ。 しかしながら、『ウルフマン』のクライマックスは、父親狼男と息子狼男の対決だった。狼男本来の恐さは、あんまり生かされてなかったと思うぞ。父子も二元論だる。でも、こうなるとホラーというよりモンスター・アクションだ。
December 25, 2010
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ディセントZ-地底からの侵略者-価格:4,536円(税込、送料別) 『ディセントZ』だよ。 これは『ディセント2(2009)』とまちがえるよね。 『仮面ライダーZO(1993)』は、仮面ライダー20周年記念作品である。「ZO」と「20」は形が似ているから、とか。 このタイトルをパクって、DVDの売り上げや貸し出しが増えるのか。元ネタの『ディセント2』自体が、それほど知られているとは思えないけど。 パッケージに描かれた怪物も、『ディセント(2005)』から登場しているクローラー(地底人)によぉく似ている。 そんなこんなで、こちらとしては、またパチモンのとんでもなく安っぽい映画だと予想した。最低映画に浸ろうと身構えたわけだ。そうしたら、意外にしっかりとできた映画だった。その点では期待はずれだった。 パチモン映画の世界は、脚本が出たとこ勝負で、出演者が極端に少なく素人演技などの特徴がある。金を払い時間をかけて見る映画の基準をぐうっと下回っている。 しかし、『ディセントZ』は、タイトルのパチモンぶりとは異なり、地味なりに一定の水準に達している映画だった。メッセージ性もあるし。そんなこともあるんだね。 だからといって満足するのかというとそうでないのが、ジャンク映画マニアだ。 この映画のモンスターをZモンスターと呼ぼう。Zモンスターは、『ディセント』シリーズの地底人に姿形が似ている。さらにZモンスターとクローラーは、ともに地下に棲息している。ここらへんから、ディセントってタイトルを使ったわけだね。 で、登場人物は、Zモンスターの襲撃を木槍で撃退する。この部分がイヤだね。 熊だって虎だって猛獣は、そんなふうに退治できないでしょう。アクション映画では、敵が放ったドーベルマンにも、太刀打ちできないシーンがある。 モンスターとは、人知を超えた強さを発揮するものだ。 しかし、決定的な弱点をもつ。 たとえば、ドラキュラ。闇の王といわれるが、十字架、にんにく、日光などに弱い。 狼男も、銃弾を撃ち込もうが何をしようが殺せないが、銀製品には弱い。 ただ人間を食うために襲ってきて、木槍で突き殺されるZモンスターはモンスターといえるのか。肉食獣と変わりない。 ところが、このZモンスター、日光を浴びたら肉体がボロボロに剥離していって滅びた。この部分、モンスターらしい。 オリジナルタイトルは「The Burrowers(穴居性動物)」。これじゃあ売れないか。
November 7, 2010
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【25%OFF】[DVD] プリズン・デッド 女囚VS狼女価格:2,993円(税込、送料別) パクリ、パチモンの世界は、ストーリーが面白いとか、内容が感動的だとかとは別次元の楽しさがある。 『プリズン・デッド』は、『プリズン・ブレイク』の人気に便乗しようとしたタイトルだろう。『プリズン・ブレイク』って見たことないけど、題名はよく聞く。 原題は『WEREWOLF IN A WOMEN'S PRISON』。こちらは『An American Werewolf in London』つまりジョン・ランディスの『狼男アメリカン(1981)』からいただいてるね。 『狼男アメリカン』では、死んだ友達がたびたび主人公の前に現われて、回を追うごとに顔が崩れていった。『プリズン・デッド』でも、主人公の彼氏が死んだ後に現れる。やっぱり何回も出てきて顔がくずれていくのかなぁと見ていたら、案の定同じ展開。 おもしろいなあ。『プリズン・デッド』の監督は、ジョン・ランディスに憧憬を抱いていたのだろうなあ。 そして、副題が『女囚VS狼女』。女刑務所が舞台となっている。 映画の1ジャンルといっていいのか女囚もの、女囚映画なる分類がある。見たことないけど。推して知るべしの男性向け映画のようだ。 変身前の狼女が投獄され、やがて刑務所内は大騒ぎになる。けど、なんで女刑務所なのかといえが、エロ・シーンを見せられるからにほかならない。 しかし、この映画、特筆したい部分がある。 狼男ならぬ狼女という設定ではない。その変身パターンだ。 これまで、人狼、狼男は、人間形態に毛が生え、耳が伸び、顔が変形してモンスター化した。だが、『プリズン・デッド』では、体の両側面が縦に裂けて、人間の皮を脱いで内側から狼女が出現するのだ。これまでにないパターンだ。 では、戻り方はどうなんだろう。夜変身した狼女は、朝になればまた人間の姿になっている。抜け殻になった人間の皮は脱ぎ捨てたままだ。ということは、狼女の皮を脱ぎ捨ててその下から人間の女が出てくるのか?けど、脱ぎ捨てた狼女の皮はない。そこのところの描写はないからわからない。 『狼男アメリカン』は、ジョー・ダンテの狼男映画『ハウリング(1981)』と競作のような形になった。それは両作とも、特殊メイクを活用した変身シーンがとても斬新だったからだ。 あるいは『プリズン・デッド』も、これまでにない変身方法を見せれば、注目されると考えたのかもしれない。30年遅れの競争参入だけど。 それはいいんだが、変身した狼人間形態が不自然なのだ。大胸筋が発達して、どう見ても男の体にしか見えない。確かに女子アスリートにも逆三角形の体型をしている人たちがいるけど、それ以上は言わない。 ここのところ、某レンタルビデオ・チェーンストアは、このところ旧作100円レンタルを実施してきた。100円だったらね、パチモン、パクリも気楽にたくさん借りられるってもんだ。
October 31, 2010
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ザ・ウルフマン価格:3,591円(税込、送料別) パチモン、パクリ、二番煎じ、マイナー、Z級……、怪しいテイストは確かめずにいられない。 『ザ・ウルフマン』というタイトルは、メジャー映画『ウルフマン』に『ザ』をつけたわけだ。『ウルフマン』の原題は、『The Wolfman』だからややこしいんだけど、『ザ・ウルフマン』の方は『DEATH HUNTER Werewolves vs. Vampires』。ウルフマンの文字はない。 原題を見ると、この映画自体は、メジャー『ウルフマン』のパチモンではなさそうだ。制作年も『ザ』の方は2008年だ。2010年の『ウルフマン』の公開に便乗して、『ザ・ウルフマン』とタイトルを付けてDVDを発売したのだろう。 「人狼対吸血鬼」。 そうすると、とりあえず狼男軍団と吸血鬼軍団のバトルなんだな、と思うじゃないか、複数形だし。狼男一族と吸血鬼一族の何百年もに渡る抗争を描いた『アンダーワールド』シリーズ(2003~09)をパクったのか。 スケールはしょぼいだろうとわかってはいるが、狼男と吸血鬼の血で血を洗う戦いが展開される、と予想する。ちょっこっと期待もする。でも、ちがう。確かに、狼男一族らしき存在と、吸血鬼一族は登場する。しかし、両者が映画の中で直接対決することはないのだ。あっさり肩すかしをくらった。 でも、タイトルが『ザ・ウルフマン』なんだから、パッケージにあるような狼男が主役であることは、これは最低限間違いないはず、と思うわけだ。 この映画の主人公は、ジョン・クロワ。吸血鬼一族に遭遇し、妻を奪われながらも命からがら逃げのびるとつぎには狼男の襲撃を受けて噛まれてしまう、という珍しくも不運な男。 ついに、ジョン・クロワが狼男に変身し、吸血鬼一族とのバトルが展開する、と予想する。ちょこっと期待もする。 でも、ちがう。確かに、ジョンは狼男になりそうになる。しかし、化学者ヴァン・ネスがジョンに解毒剤を処方し、狼男に変身するのを防ぐ。ジョンは、そのままいつまで待っても変身はしない。またまた肩すかしをくらった。 変身は防げたのだけど、ジョンは狼男の能力を備えており、妻の奪還に挑むのであった。けど、あっという間にバトルは終焉を迎えちゃう。山場なし。妻は、めでたくも吸血鬼にもされずに無傷で生き残っていたし。 ジョンが狼男に変身しないとすると、パッケージの狼男は何だったのか。 人を襲うとき、人間に近い狼男第一形態が出現する。これは、役者が衣服着用でマスクを被っている。しかし、このマスク、眼鼻口の一帯に毛がないから、狼男というより猿に見えてしまう。 そして、パワーアップするのだろうか、衣服を脱ぎ棄て全身剛毛に覆われたより狼に近い狼男第二携帯が登場。こちらはCGである。 狼男は、都合二回画面に姿を現す。一回目はジョンが襲われるとき。もう一回は、ホラーにおなじみの若者グループが襲撃を受けるとき。この2回とも、CG画面はまったく同じ映像。使いまわしだ。 このCGの狼男がパッケージの狼男だ。 パチモン、パクリ、二番煎じ、マイナー、Z級……、怪しいテイストの映画は、見る側の予想、期待をはずしてくれる。あるはずの階段がなくて、宙に泳ぐ感じですね。そのはずし具合が楽しかったりもする。 ジョン・クロワ、変身しない狼男。しかし、狼男にかまれる前、かまれた後、そして修業を経てヒーローになってからと三段で姿を変える。意味もなく。そのピンボケぶりが、また奇妙な味だったりする。
October 24, 2010
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人間より一回り大きい2m級だろうがビルを破壊する巨大級であろうが、モンスターが出現する映画をならば見ないわけにはいかない。 モンスター映画は、見るものを現実から非現実へと橋渡しする。最初はモンスターの存在など、人々は信じない。しつこく信じない。 その時点では、世界は現実味を帯びている。しかし、ついにモンスターが出現すると、一気に非現実的な世界に様変わりする。それまであった堅固な現実的世界は崩壊し、非現実が世界を支配する。この展開がたまらない。 モンスターのキャラクターやデザインが際立っていれば、ますます嬉しい。 ところが、モンスター映画は、いつもこちらの期待に応えてくれるわけではない。モンスター映画は、基本的にジャンク映画だ。映画の体を成してないものさえある。モンスター好きのぼくでさえ、最後まで見続けるのが辛いときがある。 『モンスター・オブ・ザ・デッド』も、なかなか困った映画だった。 まず、モンスターの造詣が悲しい。ビデオ・パッケージを見たとき、そこに描かれているモンスターが本当に映画本編にも出てくるとは考えなかった。パッケージの絵は、なんらかの誇張したイメージを表現しているとばかり思った。だってお笑い系でしょう、このモンスターは。 しかしながら、こんなモンスターが登場するのですよ。発泡スチロールのはりぼてだよ。 過去に数本、ぼくは、とても最後まで見ていられなくて、映画の神様に「ごめんなさい」と謝りながら途中でDVDを止めたことがあった。『モンスター・オブ・ザ・デッド』はそこまでではなかったが、なんとかついていったという程度のもの。それは、飽くまでもジャンク映画についての好事家としてのぼくの基準である。世間一般からしたら、椅子を蹴って席を立ってしまうかもしれない。 ところが、見ている途中で、暇に任せてふと音声を言語から日本語版に切り替えた。そうしたら、日本語の字幕はそのままだったので、本来のセリフと、吹き替えで言っているセリフが全然ちがうのが分かった。 通常の映画でも、音声と字幕の文字は、おのおのの情報量から表現が異なる場合がある。『モンスター・オブ・ザ・デッド』は、そんな程度の違いじゃなくて、吹き替えにおいては、エロネタを言っている。場合によっては、ストーリー展開とは無関係にエロネタを喋りまくっていた。 日本語音声には、「日本語通常版」のほかに「日本語 モンスターしゃべっちゃう版」もあった。実際の映画のモンスターは、ガオガオと吠えるだけだが、「しゃべっちゃう版」は無駄口をききながら襲ってくる。 まあ、本編がつまらないから、せめて日本語版では遊んじゃおうと思ったのでしょう。 ラストはこうだ。ニュースキャスターが話す場面。字幕は「私はこの目で確かめました。怪物は実在すると」それに対して日本語版は「私はこう思いました。モンスターくらい気合い入れて作れと」
April 18, 2010
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だれかにお菓子をもらって、口にふくむ。あれ?このお菓子は食べたことがあるぞ、と。けれども、お菓子の名前やいつどこで食べたかは思い出せない。この味は、食感は、と過去の記憶をたどるのだが、たぐりよせることができない。 そこで「これ、何だっけ?」と聞いて、相手から「かるかんだよ」との答を得る。ああ、あの鹿児島のお菓子、と合点がいった。 同じように、『怪奇異星生物』も、なんだか見たような、記憶の底を耳かきでこそぎ落とすような(どんなんや?)もどかしい感触を味わった。 で、見終わってから調べたら、この映画は『原子怪獣と裸女(1956)』のリメイクとのこと。 けれど、ストーリー的には、ほとんど共通点はない。『怪奇異星生物』は、自分の父親は異星人だと信じている少年の話です。『原子怪獣と裸女』は、核戦争後の閉ざされた世界に放射能で突然変異を起こしたモンスターが出現するという内容。 『原子怪獣と裸女』は、世界原子怪獣3大傑作集として、大蔵映画の配給で公開された。ちなみに他の2本は、『美人島の巨獣(1952)』『吸血原子蜘蛛(1958)』。当時のポスターはお化け屋敷のノリで、いかにも恐いもの見たさを刺激するようなデザインだ。観客の方も、映画の中味よりも、異形のモンスターを垣間見られれば、とりあえず満足感を味わったのかもしれない。 リメイクといっても全然雰囲気がちがう映画なのに、では、なぜ見たような気持ちがしたのか。それは、森の中を徘徊するモンスターが、主人公たちの様子を覗き見るシチュエーションが共通していたからだ。共通しているのはそこだけなんだが、『原子怪獣と裸女』のリメイクと分かったら合点がいった。もどかしい気持ちが解消され、宿便がとれたようにすっきりした。 それはさておき、『怪奇異星生物』には、あのナスターシャ・キンスキーが出演している。え~どうしてぇ?ナスターシャ・キンスキーといえば、あの『テス(1979)』のナスターシャ・キンスキーですよ。あの『パリ、テキサス(1984)』のナスターシャ・キンスキーですよ。 そのほかにも、世界の巨匠監督作品の常連ともいえる女優だ。 なぜ、そのナスターシャ・キンスキーが出演しているわけ?しかもキャスト順は2番目だし。彼女、いつもは、孤高というか、人と気軽にうちとけないような役柄が多いように思った。しかし、今回は、孤独な少年を守るために人々とかかわっていく、いわばフツーに愛情豊かなおばさんを演じていた。 ナスターシャ・キンスキーがモンスター映画に出るなんて、原節子がゴジラに出演するようなものではないか。(ナスターシャ・キンスキーには『キャット・ピープル(1982)』などがあることはある。原節子も東宝特撮の1本に数えられる『日本誕生(1959)』があることはある。二人を並べたのは、小津つながりだ)
April 3, 2010
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なんだか過去の記憶が蘇るようなモンスター映画。 「キラー・モスキート 吸血蚊人間」のギミックは、いうまでもなく蚊人間だ。 ある研究所に、殺人犯の死刑囚が減刑と引き替えに人体実験にやってくる。しかし、凶悪犯だけあって、脱走を画策しているわけだ。すきを見て実験室を逃げ出そうとする。そこでは感染症を引き起こさない新種の蚊を研究していた。警官の銃撃により周囲の設備が破壊され、凶悪犯は新種の蚊を生み出すための放射線とかDNAとかを浴びて蚊人間になってしまう。 蚊なんて害虫なんだから、新種を生み出すなんて面倒なことはしないで駆除する方法はないのか?新種の蚊の開発は、重大な感染症を防ぐために従来の蚊を駆逐する作戦なのだ、とのこと。 ……とにかくそういったわけで、蚊人間=キラー・モスキートなるモンスターが出現する。50年代、60年代から、分かるような分からないような科学的理由で、モンスターは誕生してきた。モンスターなんだから、出自は怪しいものだ。 そこらへんが過去の記憶を揺さぶるのか。 キラー・モスキートは、人間的な知性も感性なくなり、蚊としての本能のままに行動するとのこと。人にぶっとい口吻をつきさして血を吸うキラー・モスキートは、完全な殺戮モンスターというわけだ。 東宝特撮の「電送人間(1960)」「ガス人間第1号(1960)」などに登場する変身人間は、愛憎うずまくキャラクターだった。しかし、蚊人間にはそういった深みがない。逆に葛藤も何もない冷酷無情のモンスターに徹し切ったところが、キラー・モスキートの魅力だ。意図的な設定かどうかは知らないけど。 ということは、キラー・モスキートには、変身する前の人間が、凶悪殺人犯でも、律儀で優秀な医者であろうとも、その性格は反映されない。見る側にとっては「元は死刑囚だった」との印象は残っていて、単純にモンスターのヒール・イメージは増すだろうが。 もし、律儀な医者だったら、変身前後のイメージ・ギャップがにじみ出るはず。 けど、単純な方法論の方が話は展開しやすいからね。 さて、アングルはというと。 女性科学者ジェニファーは、凶悪犯と一緒に放射線やDNAを浴びてしまう。それが彼女の場合は、体の一部分だったため、すぐには変身しない。徐々に徐々に蚊人間になっていく。 先のキラー・モスキートは、生殖本能に突き動かされて同じ蚊人間のフェロモンを放つジェニファーを付け狙う。この部分がアングルとしての因縁にあたる。ジェニファーを巡って、キラー・モスキートと恋人の刑事や警官隊とのバトルが繰り広げられる。 美女を追いかけるモンスターとは、血を吸うだけに、一連のドラキュラ映画を想起させる。 ここが過去の記憶に触れる原因か。 変身していく過程で、ジェニファーは、やたらに甘いものを摂取する。コーヒーに砂糖を何杯も入れたりと。さらに彼との交わりがやたらに激しくなったりと。 あれれ、これらと同じようなシーンが「ザ・フライ(1986)」であったのを記憶している。 「ザ・フライ」は蝿だったが、「キラー・モスキート」は蚊と、どちらもよく見る害虫。そしてブンブン、プンプンうるさい。大きさはちがうが、類似性がある。 蝿がモンスターになったのだから、それなら蚊をモンスターにしてみようと考えたのも分かる。 過去の記憶を刺激するわけだ。 ハエハエカカカ、キンチョール。
March 7, 2010
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映画はスーパーナチュラルである。非合理的な世界をリアルに見せてくれるのは映画だ。 「悪魔の椅子」の前半は、スーパーナチュラルで迫っていく。悪魔の椅子が人を惨殺する。悪魔の椅子が人を異次元へ運ぶ。異次元世界では悪魔が襲ってくる。 しかし、後半はスーパーナチュラルではない。その点について、ネタバラシはしない、極力だけど。 本来、こういう展開は好きではない。スーパーナチュラルに見せかけておいて、じつは……と知らされると急速にガッカリする。映画では、徹底的にスーパーナチュラルしてほしい。 と言いつつも、「悪魔の椅子」は、そんなに失望しなかった。それというのも、前半のスーパーナチュラルテイストと後半の殺人鬼ニックの残虐非道ぶりととが割合と釣り合いがとれていたからだ。 スーパーナチュラルに見せかけておいて、じつは人間が仕掛けた何らかのトリックがあったとした場合はつまらない合理的な話である。あるいは、スーパーナチュラルに見えたものがユメオチに終わる場合も、絵的に派手な非合理の世界をいいように使いながら、最終的な説明は合理性に委ねている。 それらに比べれば、「悪魔の椅子」はなんぼかいいよ。
February 16, 2010
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DVDのパッケージには「クリーチャー・ホラー」の一文があったから、てっきり地下鉄内に怪物が出没する映画だと思って見たのだけれども、クリーチャーはいない。姿を現すが、存在はしないのだ。クリーチャーなり霊なりを見るのは、特定の何かをした者だけ。 閑散とした真夜中の地下鉄車両。そこへ殺戮邪教集団が襲ってくる。 場所は、カナダ。東京だったら、夜中でも地下鉄は人でいっぱい。 信者たちは、いたって穏やかなもの。人のよさそうな若者だったり、地味なおばさんだったり。地下鉄の座席で「いやあ今日の牧師様の説教はよかったなあ」などとにこやかに会話している。ところが、一斉にポケベルが鳴り司令が入ると、十字架の剣をもって活動を開始するのだ。ポケベルって、今はもう死語? 「あなたたちの魂を救うため」「神は愛」「天国へ行きたいなら神の儀式に参加しなさい」などと叫びながら信者たちは追ってくる。地下鉄の乗客はごくごくわずか。ひとつの車両に一人か二人しかいいない。彼らは車両から車両へと追い詰められ、トンネル内に逃げ延びる。邪教集団は乗客を次々に惨殺し、出くわした地下鉄作業員ともども、事務所内に避難した。 この状況は、いずれも閉ざされた環境である。逃げ場がないし、助けも来ない。事務所でテレビをつけると、くだんの牧師が「生き残っているものは裁きを受け、永遠に地獄へと落とされる。その前に人々の魂を神のもとへ送るのだ」などと叫んでいる。都市も邪教集団の大襲撃でパニックに陥っていた。 邪教集団は、人のためにいいことをしてやっていると思い込んでいる。それが人殺しなのだから、押し付けがましいにもほどがある。狂信的行動の恐怖にほかならない。 しかし、この邪教信者たち、何故人の少ない深夜の地下鉄にけっこうな人数が乗り合わせていたのだろう。都市の騒ぎを見れば、放送局を乗っ取るなどして、革命行為にも等しい大がかりな宗教テロである。真夜中の地下鉄の乗客なんて、まったく取るに足らない人数じゃないか。人知れず粛清を加えるというのなら、人気のない地下鉄を選ぶのもわかるのだが。 おそらく、地下鉄を襲った信者連中は、弱体部隊だったのだろう。精鋭部隊は地上に送り出し、残った落ちこぼれ軍団をどこでつかってやろうかと考えたとき、相手が少なければ役目を果たすと牧師が判断して、地下鉄に派遣したのではないかな。 この映画、割りと人を惑わす展開になっているけれど、肩の傷、ラジオのニュース、そしてマフィンに注意するといいです。
February 14, 2010
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前評判に誘われて公開直後に見に行ってしまった。 館内は小学生、中学生、高校生と思われる人たちがほとんど。ミーハー的な映画なんだね。 あるカップルの女性に何かが取り憑き、二人の家に超常現象に起こるという話。 隣の席は、中学生か高校生の女の子だったけれど、映画が始まっても、ポップコーンを食べたり、コーラを飲んだり、櫛で髪を梳いたりしていた。なんでかというと、地味ィな展開だから。まあ、怪獣映画で怪獣が出てこない場面ではろくにスクリーンを見ていない子供と同じだね。 けれど、クライマックスあたりになると、後ろの席から女の子の荒い息づかいが聞こえてきた。ちょっと恐かった。映画が終わった後で、その周囲の友達が「大丈夫だよ。もう終わったよ」と慰めていた。どうやらその女の子は恐くて泣いていたようだ。 そして、映画が終わって、前の席の男子中学生が言った。「(恐かったのは)一瞬だったね」 本当は一瞬という言葉ではなかったけれど、ネタバレを防ぐために敢えて言葉を変えました。 60年代まで、プロレスは、小技、中技の攻防を見せていって、決め技として必殺の大技一発が炸裂するとそこで試合が決まった。 そして70年以降は、一試合に必殺技が何発も出るようになり、今では、これでもかこれでもかと大技が連発される。それでもなかなか勝負は決まらない。 映画も、見せ場の連続やCGによるあり得ないけれどリアルな映像の垂れ流しなど、ひたすら派手になってきた。 そんな中で、『パラノーマル・アクティビティ』は、超常現象を小出し小出しに積み重ね、一瞬の驚愕映像を出す、というクラシックなスタイルのプロレスにも似た映画でした。 目の付けどころは悪くなかったのだけれども、あらためて古いスタイルを使えば恐いかというと、あるいは満足できるかというと、それだけじゃね。 しかし、プロレスは衰退してしまったなぁ。
February 1, 2010
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DVDパッケージに「恐怖!スクリーンから這い出る殺人鬼!」のキャッチコピー。 そして悪役メキシコレスラーのようなドクロ・マスクをかぶったような殺人鬼の図柄。 ホラーならではの虚構性を感じる。 この二つで十分にそそられてしまう(一般的な嗜好ではないけどね)。 見かけ倒しかもしれない。けど、見るしかない。 精神病院に入院中の映画監督ラドフォードは、殺人の容疑をかけられている。念願叶って、病院で自作の映画を見せてもらえることになった。 しかし、映画を見ていたラドフォードが突如凶暴化。あたりを血の海にして忽然と姿を消してしまった。 なるほど、いわくつきの監督と映画なわけだ。 この映画と監督に潜む秘密とは何だ? 5年後。 地方の小さな街で、そのいわくつきの映画が上映されることになった。 観客たちは数組のカップルなど、ごく少数。客席の一部分を占めるだけ。その中には、ラドフォードを追っている刑事と担当の精神科医もいた。 これらの観客、そして映画館の従業員達が殺人鬼の犠牲になるわけだな。 ラドフォードにかかわる刑事と精神科医が登場するということは、いずれラドフォード自身も姿を見せるのだろう。そして、映画のいわく因縁についていずれ明かされていくものと興味をもって見守った。 さて、(映画の中の)映画が始まった。なんとモノクロ映画だ。映画の内容は、『悪魔のいけにえ(1974)』もどき。 映画中映画がモノクロなのは、(映画の中の)現実場面とスクリーン上のできごとを分かりやすくするためと理解する。 『悪魔のいけにえ』のレザー・フェイスが人の皮を剥いでつくった仮面を着用していた。それをなぞって『マーダー・フィルム』の殺人鬼はドクロ仮面=スカル・フェイスというわけか? これはこれでよい。観客に映画中映画の筋書きをあらためて追うような無駄な思考をさせず、殺人鬼が登場する映画であることが分かればいいのだ。 映画の中では予定調和の殺戮が行われる。 すると、観客の若者が声を上げる。「あの役者、どこかで見たことあるぞ」 それもそのはず、殺されたのは出演者ではない。従業員の一人(男)なのだ。 続いてトイレに行った若者が殺される場面が映る。 「あいつ、何で映画に出てるんだ」「どっきりカメラか?」「(現場を)見に行ってみよう」と盛り上がる若者たち。 ロビーに出た観客達。そこからドクロ仮面の襲撃が激化する!映画館で殺戮が繰り広げられ、スクリーンの中に連れて行かれる。 ドクロ仮面を止める方法はあるのか。そうだ、映写機を切ればいい。だが、なんと映写機は、プラグを抜いてもぶっ倒しても、自然復旧してしまうのだ。 映画の中の世界では、殺されたはずの人々が生き長らえている、監禁されて。まるでドクロ仮面のコレクションのように。 現実の世界では死に至った者が、映画の中ではまだ命がある。まさに映画の虚構性を現していて楽しいではないか。 このように、(映画の中で)虚実が入り乱れ、軽快なテンポで『マーダー・フィルム』は進んでいく。さあ、この怪奇現象は、いかにして解決に向かうのか? で、ラドフォードと映画の秘密はどうなったか。 それについては、まったく触れられていない。あれ? まあ、それでも満足。 「恐怖!スクリーンから這い出る殺人鬼!」実際にはありえないイマジネーションの世界を堪能できた。
January 12, 2010
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タイ映画「怨霊-THE HOUSE-」は、「呪怨(2002)」にインスパイアされた映画でしょう。タイトルの「怨」が共通しているし。伽椰子似のキャラも出てくるし。何よりもある家に住んだ人々が、怨霊に憑かれるというところが「呪怨」風味だね。 それに、霊らしきものがちらっと画面をよぎったりして小出しに怪異を積み上げたりするのは、Jホラーの影響だね。けど、そういった演出が怖さを引き立たせるのは万国(タイだからバンコクってことではない)共通なのか。 いずれにしても、観客に恐怖を味わわせようとがんばっていることは確かだ。 その家は、病院の医者用住宅になっているが、代々住んだ人が妻を殺してしまうのだ。女性レポーターのチャリニーは、この事件を追究した、物好きにも。 でも、まんま「呪怨」ではない(って当たり前か)。伽椰子似(医者の妻)が「怨霊」かな、と見せておいてじつはちがう。 医者の妻は、チャリニーに警告を与えていたのだ。「ここに入ってはいけない~」と。しかし、それじゃあ何が言いたいか分からんだろう。で、医者の妻は、ラスト近くにちゃんと姿を現し、様々ないきさつを説明する。取り返しのつかない悲劇が起こった後に(ネタバレを防ぐために、あえて悲劇については秘す)。 だったら、「ここに入ってはいけない~」と脅かすのではなく、早めに出てきてきちんとお話したら、悲劇も起こらなかったのに。 て言うか、医者の家を調べようとしたら恐いことばかりが起こってチャリニーは再三絶叫しているわけだ。だったらフツーは「何か知らないけど恐いことばかり起こるから、あの家にかかわるのはやめよう」とか警戒しないかね。つまり、この場合、怪異や恐怖から逃れようと思えば逃れられるのだ。ジャーナリストという設定がしてあっても、あえて生命の危険を冒してそこにかかわっていくことに説得力が感じられない。 そういう点では、「リング(1998)」にしても「着信アリ(2004)」にしても、ビデオやケータイの呪いが襲いかかり、それを回避するためには元凶に迫り、解決方法を探るしかなかった。これはいたしかたない理由となる。見ているものは納得する。だけど、この映画の場合は、その家に行かなければならない枷はないのだから。 別の霊、ちがった例を出すと「エイリアン(1979)」と「プレデター(1987)」がある。「エイリアン」は宇宙船の中という閉ざされた環境で、エイリアンから逃げ出すことができないところで恐怖が盛り上がった。でも「プレデター」は舞台がジャングルだった。主人公のシュワちゃんは果敢にも単身プレデターに向かっていったが、オープンエアなので逃げようと思えば逃げられたのだ。だから、恐怖という点では盛り上がらなかった。 ラスト、チャリニーが「どうして人は、出会った当時はお互い深い愛を感じるのに、時がたつと薄れてしまうのでしょう」と訴える。医者が妻を殺したのは怨霊のせいなのだから(たしかに愛が薄れてきたところを怨霊につけこまれたともいえるが)、チャリニーの言葉に説得力を感じない。けど、それでもけっこうジーンときてしまった。
January 9, 2010
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ついに見てしまった。伝説の『死霊の盆踊り』。 原作・脚本は、史上最低監督といわれたエド・ウッド。 そして本作品は、史上最低のハリウッド映画、Z級映画と呼ばれている。 監督はエド・ウッドではありません。赤貧の中で、糊口をしのぐために原作・脚本を書いたらしい。 冒頭、あるカップル(昔はアベックといったもんだ)が夜道で車を走らせている。アップ(スタジオ)では闇の中なのだが、ロング(ロケ)にすると明るい。昼間に見える。それを何度か繰り返す。なぜだ?その割にはヘッドライトを点けている。 もしかして白夜?とか思った。常識的な映画ではあり得ないことだから。しかし、そうではない。夜のロケが不可能だったのだろう。つくる側の事情を優先したわけだ。観客が戸惑っても。 カップルは、車の運転を誤り事故る。そして、墓場に迷い込む。 そこでは、夜の帝王と闇の女王が恐怖の饗宴を繰り広げていた。 饗宴とは、「…の女」が次々と出てきて踊る、だけ。 火に命を捧げた女、闇に生きる女、黄金を崇拝した女、猫女、花嫁衣装の女、とか。 彼女たちはみんな衣装を脱いでストリップ。これが「死霊の盆踊り」だ。 カップルは、物陰から花咲爺さんが鬼の宴会を見るみたいに「死霊の盆踊り」を覗いていた。しかし、夜の帝王に見つかってしまう。そして一緒に「死霊の盆踊り」を見させられる。こんなに非道い拷問はない。 饗宴の最後に、闇の女王がナイフをもってカップルに襲いかかる。ところがそこで夜が明け、帝王も女王も白骨化。でおしまい。 闇の帝王は唱える「満月の輝く深い夜には 呪われた死者の地を 避けて通りたまえ 我々がいないとも 限らないから 今 我々は墓に戻る あなたもいずれ来るがよい」などと。 このセリフに象徴されるように、映画をつくった人たちは、けっこうまじめにホラー映画をつくったのだろう。見た人は苦笑するしかないけれど。 あるいは、「連続ストリップを見せれば客が入るぞ、これはいいアイデアだ」と、営業についても考えたのかもしれない。 しかし、アメリカの映画事情は度量が広い。Z級映画の歴史と伝統が面々と続き、未だに「フロッグマン(2004)」や「ブラックナイト リターンズ(2009)」など、見終えるまでに艱難辛苦を乗り越える努力が必要な映画がつくられているのだから。 ボクは、そういった映画を見ちゃってるのだけれども。
January 3, 2010
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DVDのパッケージを見たときは、Jホラーを、ちょっと雰囲気を変えて、心霊ではなく妖怪に置き換えてつくったのだろう、という程度の印象だった。コメント等は読まず、写真を見ただけだったけど。 いずれにしても、ただ単に和物のホラーでも見ようかという軽い気持ちでレンタルした。期待はしていなかった。ところがこれが、意外に独特のテイストだった。 映画は三話から構成されている。「ろくろ首」「かまいたち」「のっぺらぼう」。 心に闇をもった三人の女性が、妖怪に変化していくのだ。 「ろくろ首」美智子は、他人が自分をどう思っているかを考え過ぎるモデル。 「かまいたち」みひろは、他人を思いやることをしないフリーター。 そして「のっぺらぼう」まなは、冷酷な中学生。 それぞれの心の有り様が、姿形に現れていく。 人間は、自分のことを自分のもっている鏡に映すと、自分が見たいように見えてしまう。しかし、他人から見たときには、あの人ちょっとイヤだなぁということが、多かれ少なかれあるものだ。そこのズレが、社会性からずいぶんはみだしてしまうと人づきあいがうまくできなくなる。 三人の女性は、そこのところのバランスが崩れて妖怪になってしまった。 この映画では、寓話的なエピソードを語るだけでなく、三話の中で三つの妖怪がお互いに出会う場面があるのだ。 ひとつの話を妖怪になった一人の立場で語りながら、別の妖怪(または妖怪になりつつある者)がそれを見る様子などが含まれている。“人の振り見て我が振り直せ”というけれど、妖怪になってしまった我が身を振り返り、他人の苦しみも悲しみも理解できるのだった。 それにしても、三人を取り巻く人々も妖怪じみている。彼らも、内には妖怪を飼っているのだ。あるいは、人間はみな妖怪ともいえる。 けれども、多くの人々は妖怪部分をうまくカモフラージュして、人間として振る舞っているわけだ。妖怪になった三人は、妖怪部分をストレートに出してしまったのかもしれない。 映画は、やっぱり見てみないと分からない。個性的な映画が、潜んでいるかもしれないから。妖怪のように。
January 1, 2010
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1974年、新日本プロレスの王者アントニオ猪木に、国際プロレスを脱退したストロング小林が挑戦し、二団体のチャンピオン同士が激突する夢の対決が実現した。 その2年後につくられた映画「デビルズ・ビレッジ 魔神のいけにえ」は、二大怪奇スター、夢の競演作なのだ。 二大怪奇スターのひとりは、あのピーター・カッシング。イギリスのホラーメーカー、ハマー・プロダクションのフランケンシュタイン博士、そしてドラキュラに敢然と立ち向かう“吸血鬼ハンター” ヴァン・ヘルシング教授を演じたことはあまりにも有名。 対するもうひとりは、ドナルド・プレザンス。ジョン・カーペンターの代表作『ハロウィン(1978)』とその後のシリーズで、“ブギーマン”マイケル・マイヤースを追い続ける精神科医ルーミス博士に扮していた。 こうして両者を並べてみるとわかるが、ルーミスはヴァン・ヘルシングのコピーともいえる。 カッシングが演じたヴァン・ヘルシングは、元祖モンスター・ハンターとして、ひとつの雛形となった。学者(精神科医)として豊富な知識で吸血鬼ドラキュラと対峙するが、ときにアクションも辞さない。ルーミス博士も精神科医であり、殺人鬼マイケルを観察分析しながらも、俊敏な動きからマイケルに銃弾を浴びせたこともあった。 プロレス夢の対決で、猪木はこうつぶやいた。「あいつ(小林)は、顔が俺に似ているから気にくわない」そう、この二人はコピーといえるほど、風貌が似通っていた。このときの猪木と小林は大熱戦を展開し、後々に語り継がれる昭和の名勝負となった。では、怪奇映画のコピーキャラクター同士、カッシング対プレザンスはいかに。 二大怪奇スターの競演は、カッシングが邪教集団の教祖、そしてプレザンスは正義の神父として激突した。 この邪教の信者達は、悪魔の洗礼を受けたことによって、車に轢かれても、銃で撃たれても死なない! そこで、正義の神父プレザンスが満を持しての登場だ。悪魔集団を倒すにはこれしかない。神父の必殺武器は、十字架と聖水だ。 これまで何度もヘルシング=カッシングは、宿敵ドラキュラとの十字架を突きつけ、聖水を浴びせてきた。ところが、今回は、初めて“ヴァンパイア・キラー”ヴァン・ヘルシング(だった)カッシングは、自らが十字架を向けられ、聖水をかけられてのたうち回ったのだ。 これは、アントニオ猪木が自らの得意技、延髄蹴りや卍固めなどによる攻撃をストロング小林から受けたようなものだ(実際にはプロレスでそんな場面はなかったが)。 このカッシング対プレザンスの名場面で、「デビルズ・ビレッジ」はホラー史に残る一本となった。きっと見る人は少ないけど。 しかし、この十字架と聖水で倒されたとき、ピーター・カッシングは邪教集団のシンボル、とんがり覆面をしていたのだ。 これは、猪木が、(仮に)“覆面レスラー”ミスターXとしてリングに上がり、小林に敗れたようなものだ。つまり、本体のアントニオ猪木は負けていないの。であって、同じ論法いくとヴァン・ヘルシング=素顔のピーター・カッシングもじつは負けていない。 スーパースターは簡単に負けない。
December 26, 2009
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今度はちゃんと『TATARI』を見た。 この映画の監督はウィリアム・マローン。 調べてみたら、この人の映画を結構見ていたことが分かった。『バイオ・スケアード-悪魔の遺伝子(1980)』『クリーチャー(1985)』、そして、『フィアー・ドット・コム(2002)』。 どの映画も、食い足りなかった。エイリアンもどきであったり、風味Jホラーであったりして。 でも、『TATARI』は、楽しく見ることができた。 ロサンゼルスのバナカット病院では、かつて狂った院長により残虐な人体実験が行われていた。入院患者達が暴動を起こし、病院は焼失、大勢の死者を出した。 数十年後のある夜、この廃院で怪しげな誕生日パーティーが催された。無事に一晩過ごしたら100万ドル進呈するというのだ。院内では、様々な怪奇現象が参加者を襲う。 冒頭のサディスティックな手術から患者の暴動場面、一転して遊園地の絶叫マシーン、金持ち夫婦の離婚騒動、そして廃院で起こる不可解なできごとの数々、次々に死んでいく人々、生き残りをかけた脱出、とじつにめまぐるしい展開だった。 ひとつひとつこだわっていけば、腑に落ちないところがある。 例えば、パーティーの主催者は、遊園地の人気絶叫マシーンの設計者である。そのノウハウを生かして病院内に恐怖の仕掛けをしたらしい。それを動かす技術者まで登場させながら、仕掛け自体は存在を示さないまま、技術者は何者かに顔面から脳みそまでえぐりとられていた。絶叫マシーンはしっかりと見せたにもかかわらず。 ここは、フツーに考えれば、人為的な仕掛けを見せておいて、しかし何かおかしい。人が実際に死んでしまった。そこまでやるつもりはない。確認したら技術者はすでに殺されていた。これは不自然な現象だ、恐い、という展開にもっていくと思うのだが、など。 そんなわけで、なんともアバウトな印象もあるのだが、映画全体からはパワーを感じた。地下室には、大型の水槽に異様なホルマリン漬けの人体標本が並んでいる。治療ボックスは、外観、内装ともに拷問部屋にしか見えない。このあたりは、病院が病気を治す場所でありながら、同時に恐ろしさも秘めている様子を表現している。 そして、この不気味な廃院で、参加者たちが怨霊によってつぎつぎに惨殺されていく。 たぶんウィリアム・マローン監督は、お化け屋敷感覚を表現したかったのだろう。整合性よりも、雰囲気を醸し出すことや刺激的なシーンをつなげていくことで、一気に見せたかったのではないか。そして、この僕は、つぎは何が起こるのかとお化け屋敷を見ていったわけだ。浅はかにも、心躍らせて。 ウィリアム・マローンは、ジャンル系の監督として、もう一回見直してみたい。『バイオ・スケアード-悪魔の遺伝子』などは、見るのに辛い映画だったが。マローンがデザインしたというモンスターのシンジェノアだけはかっこよかったけど。
December 23, 2009
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このところ『SAW』5話と『ホステル』2話を立て続けに見た。残酷拷問については、展開も場面自体も工夫してつくっているけれど、これらは現実世界を前提とした話なのだ。人体を切り刻むのが、我々と変わらない人間であるところが確かに恐い。 『ゴーストシップ』はストライクゾーン、かなり好きなコースに入ってきた。恐怖映画というよりは、怪奇映画。つまり、あんまり恐くはないけど、スーパーナチュラルな筋立てが嬉しい。やっぱり現実世界の合理性を超えた話の方が“夢”を感じる。 1962年、アメリカへ向けて航行中、イタリアの豪華客船アントニア・グラーザ号で大量虐殺事件が起こる。 優雅に社交ダンスに興じる乗客たち。何者かの手がレバーを引くと、ダンスの輪に向かって一本のワイヤーロープが水平に走った。一瞬のうちに胴体を、首を、頭部を切断され、何が起こったか分からないままに絶命する人々。 一体誰が、何のために大量殺戮を行ったのか。 そのときから、アントニア・グラーザ号はぷっつりと消息を絶った。 40年後、アラスカの沖合に謎の漂流船が発見される。サルベージの依頼を受けたアークティック・ウォリアー号が現地へ向かった。この船こそがアントニア・グラーザ号だった。 男勝りのエップスを含めたサルベージ達が、アントニア・グラーザ号に乗船する。甲板が古くなっていて抜けそうだ。あぶない!メンバーの一人が床を踏み抜いてしまった。落下寸前のメンバーを慌てて抱き止めるエップス。そのとき、老朽化した船内に、いるはずのないドレスを纏った少女の姿を見つける。 曳航の作業が始まった。しかし、一人、また一人とサルベージのメンバーが消えていく。栄華を誇った船上パーティーの幻に誘い込まれた者もいる。 ドレスの少女、ケイティーがエップスに近づいてきた。そしてかつての大量虐殺を再現して見せる。 大量虐殺は、金塊を狙ったならず者の仕業か? いや、黒幕は……。これが魔界の住人であるところが、怪奇映画としての面目躍如だ。 確かに、見終わって、あれ?なんで?と思うところもある。一本のワイヤーで大勢の人間をぶった切ることができるのか、とか。 そんなときには自分で解決策を考えるのもまた楽しい。ワイヤーは、ただ強力であるばかりでなく、魔界の者のパワーが込められていた、とか。 広い大海原、人目につかない夜の洋上を幽霊船が漂っている、と考えるだけで、現実世界をトリップする夢があるじゃないか。
December 12, 2009
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