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アメリカでの生活も1年が過ぎた。佐々木は、アメリカと日本の文化のちがいに、大きく興味を持つようになった。アメリカナイズされる部分は多々あったものの、結局、佐々木は『日本人』であった。アメリカに住むことによって、自分が日本人であるというアイデンティティが確かなものになった。ある日、「インターナショナル・コミュニケーション」の授業で、佐々木はアメリカ人学生と口論になった。日本をさげすむ学生が、軽はずみに『ジャップ』という言葉を使ったのだ。教室の空気が一瞬凍りついた。全生徒の視線が、日本人である佐々木に集まる。佐々木は言った。「私はジャップと言われても気にしません。だって、『ジャップ』って何ですか?そもそも、私の国はなぜ国際的に『ジャパン』と呼ばれるのでしょう。私の国は『にっぽん』です。マルコ・ポーロという西洋人が、『黄金の国』という意味でわが国を『ジパング』と呼んだのがジャパンの起源です。だとすれば、ある意味、誉め言葉です。そこから西洋人がたまたまそう呼んでいるだけであって、彼の『ジャップ』という発言は、私にとって何の意味も持ちません。」授業後、佐々木のもとにその学生がやってきて言った。「悪かった。とても恥ずかしいよ。キミはサムライだね」。新渡戸稲造氏の「武士道」はよく知られているが、このときの佐々木のコメントに「武士道魂」があったかどうかは分からない。しかし、アメリカ人に自分の意見を言うことが、日本人にとっては必要なのだということを、佐々木は実感した。留学2年目の夏、佐々木は寮の仕事をやめて、引っ越すことにした。アジア系の留学生3人と共に、オールドウェストバリーとアイスリップのちょうど中間に位置する場所に一軒家をシェアして借りることにしたのだ。プール付きの一軒家だったが、日本では考えられない破格。家賃は1ヶ月600ドル。1人分150ドル。自然、日本、台湾、韓国、タイの文化交流の場所になった。価値観の相違から、もめることも多々あった。しかし、それが佐々木の現在のコミュニケーション能力につながっていると言う。人間とは、本当に「十人十色、百人百色、万人万色」であると思った。そのすべてが、素晴らしい人間なのだと。ある日佐々木は、台湾人シェアメイトのリアンから、一人の女性を紹介された。アメリカ在住6年目の台湾人女性、劉紫微(リウ・ツエイ)。彼女は、台湾人留学生の仲でも飛びぬけて英語がうまく、成績も優秀だった。初めて話したとき、佐々木は彼女を中国系アメリカ人かと思った。彼女は佐々木のうわさを聞いて、興味をもって、会いに来たのだった。彼女は佐々木と同じ大学院のマスターコースにいたので、プロジェクトチームを一緒につくることになった。佐々木より2つ年上であったが、特にビジネスに関する考え方は老練と言ってもよいほどだった。彼女は後に、実際に佐々木の仕事上のパートナーとなる。1993年12月。佐々木はニューヨーク工科大学院のマスターコースを修了することになった。アメリカ人学生が佐々木に尋ねる。「ケイ、おまえ、アメリカで就職するんだろ?」佐々木は答えた。「まさか。母を日本に置いてきているし。それに、俺は根っからの『日本人』だ。アメリカは俺に似合わないよ。」~【Kei 11 アメリカ横断】につづく
2007.07.30
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私が以前「大いに助けられ」、生徒たちにも「日々伝えている」ことがあります。 それは「潜在意識」と「顕在意識」の違いです。 成功者の多くの方(というかすべての方)はご存知だと思いますので、読まれる必要はないと思います。 しかし、これを中高生に伝えるのはかなり難しいんです。 私も暇さえあれば生徒に語っているのですが、それを利用できる子供たちは非常に少ないです。それでも、卒業までに何人かの生徒は体得してくれます。 すべての生徒は「俺(私)やる気あるよ」とか「良い点とりたい!」といいます。でも、はたから見ると彼らの行動はまったくといっていいほど「やる気なし」「点取りたくない」行動です。 先生の指導力を棚に上げて、子供たちを批判しているわけではありません。もちろん、子供たちのやる気を上げ、点数を取らせるのが私たち先生の仕事であることは百も承知です。 しかし、勉強の仕方だけを教え、厳しく、楽しくやれば勝手に生徒の成績が上がっていくかというと、それは・・・ 大人でもそうですよね。「タバコやめたい」と言いながらいつになってもやめれない人。「やせたい」と言いながらいつまでもやせない人。でも、そんな人たちだって、言っていることはウソではないのです。 「顕在意識」の上で本当のことを言っているのです。 しかし、人間の行動を支配しているのは「潜在意識」です。これがすごいパワーなんです。潜在意識は「命令されたこと」をフルパワーで達成しようとします。そして、最後は必ず「達成」します。それが「良いことであれ」「悪いことであれ」です。そう、潜在意識は「善悪の区別がつかない」のです。 「やる気のない」生徒は、潜在意識の中に「俺(私)はやる気がない人」だと言い聞かせているのです。 「やせたい」というひとも「でもやせられないかな」という気持ちが潜在意識の中に実は強く浸透しているのです。もっと言ってしまえば、その人は「やせたくない」のです」。「やせるな」という命令を「潜在意識」がフルパワーで発しているのです。 それだけなのです。 能力のない子供なんていません。 でも、潜在意識をコントロールできる人とそうでない人が分かれることも事実です。 もちろん私だって、うまくやれないことも多々あります。しかし、成功したときは確実に潜在意識をうまくコントロールしたときです。それ以外にはありません。まして、「偶然の成功」や「運悪く失敗」などということは私にはありません。 私の身に起こったすべての事象は私の「潜在意識」の命令によるものです。 この厄介な「潜在意識」とうまく付き合う方法を私は研究しています。そのうちここで、具体的な方法を示してみたいと思います。 もし、興味を持った人がいたら以下の「すごい人たち」の書いた本を読んでみるとよいでしょう。(敬称略させてもらいます) ジョセフ・マーフィー(かなりベタですが、最初にこれを読むべきです。彼の本なら何を 読んでもエッセンスはわかります) 神田昌典(ビジネスの世界では、この方もかなりベタな方ですが私はかなり 尊敬していますし、マーフィー同様私を助けてくれました) 石井裕之(セラピストの方ですが、とてもわかりやすく「潜在意識」 のことを書かれています)
2007.07.30
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―塾などの教育機関を専門に人材を供給する会社で、講師手配のみならず、新企画を次々に展開していった鎌田。次のねらいとして、私立学校への教員供給を目標に、広報室を運営。ある学校での教員採用をきっかけに、徐々に事業に興味を持つ私立学校が増えていきました―[ 私学の倒産 ] 近年、私立学校の共学化や校舎移転、校名の改名などが多くあります。 学校改革の一環としてのこうした動きは、 その多くが生徒募集難に伴うものです。 私立校は、助成金があるとは言えども (余談ですが、教員の構成を従来と変更する、具体的には、専任教諭の比率を高くするのは、 助成金を確保するという事情もあります。) 生徒が来なければ経営を続けていくための資金も底をつきます。 つまり、倒産するはずです。ですが、一般にはあまり報道されません。 実は、学校の倒産は、現実に何度も起こっています。 しかし、「お金がありません。つぶれました。だから、やめてください」と 通う生徒に告げることなどできません。 ですから、殆どの場合、 秘密裏にオーナー間での「法人」の売り買いが行われるのです。 一般に取り上げられることはない。 混乱と教育全体への不信感を与えるだけだからです。 かつて都内に 「高尚な花が咲いていそうな名前の学校」がありました。法人名も同じ。 いつの間にか、学校名は改名され、近代的な設備を整え、共学化。 今では通う生徒が、学校の良さに思わず「はにかんで」しまう、 そんな学校に成長したのですが、 ひそかに学校法人の名前自体が変わっていたことに、 なかなか一般の人は気づかないものです。 もちろん、そういうことです。[ 生徒を『金』で買おうとする学校 ] そもそも鎌田が私立学校に事業参入を図ったのは ビジネス・チャンスをうかがったというより、個人の教育観によるものが大きかったのです。 自分ひとりなら、同時に数十名が限度。 10人の先生が味方なら、一度に数百名の生徒がみられる。 これが彼の考え方でした。 ですから、私立学校への参入で彼が目指していたものは、 「ダメな教員、やる気のない教員は去る。 真剣に身を粉にして教育にあたり、 子どもたちの未来のために命がけになれる人が現場にいるべき。」 そんな現場、採用方針を広めていくという、大それたことでした。 そんなことができるものか、と思われたこともありました。 しかし、教員の採用について、仮にある組織が100%近いシェアをしめる。 逆に言えば、学校が教員を採用しようとした場合、 その組織に相談する以外の方法はない。 そんな状況があったとしたら、 そして、その組織が、供給する教員の質を管理できる立場にあったとしたら、 実現可能なのでは・・・? 無論、鎌田は自分のコピー教員を作りたかったわけではありません。 教員の理念を定義づけたかったわけでもありません。 縁故採用とか、政略的な採用、ただテストの点数がよかっただけでの採用など、 そういう教員の採用にひたすら疑念を持っていただけです。 また、良い教員の存在が、学校の評判につながり、生徒数の問題にも大きく関係する。 良い教員がいれば、生徒は増える、 生徒の減っているところは、教員がダメである、とまで考えていました。 そんな理念のもと、彼は機会さえあれば、首都圏の私学を訪問していたのです。 あるとき、都内の下町方面にある学校を訪問しました。 当時は女子校で、「排球」で有名な学校でもありました。 (←バレてもいいと思って書いてる。事実だし、心底アタマに来たから) 鎌田を前にした校長、教頭、理事は、ニヤニヤしながら彼に言いました。 「おたくのとこ、塾と付き合いが多いんでしょ? ウチの学校で、いくら、おたくのところで使えば、 塾に、ウチに生徒を送るように手を回してもらえる?」と。 ほとんど怒ることのない鎌田が、本音で、一瞬で「キレ」ました。 さすがにその場で怒鳴り散らすようなことはありませんでしたが、 「うちは、そういうよこしまなことは、一切やる気がありません。それでは。」 と、一方的に校門を出ました。 学校経営陣は、これも驚くことに、きょとんとしていました。 「だって、他のとこでも、そういう話は聞くのにねぇ・・・」だそうです。[ 社長もキレた「金」の使い方 ] 最近でこそ、民間企業関係者が学校運営に携わることはめずらしくありませんが、 当時はあまり一般的ではなかった。 それでも、実質的に企業が学校を持っているというケースはそれなりにありました。 あるとき、都内下町のある学校に社長が訪れました。 生徒募集に苦しむ女子校でした。 この学校のオーナーは、誰もが知る 「上から読んでも下から読んでも」・・・でした。 名刺には、ばっちり、そちらの肩書きが載っています。 社長は、その学校のダメなところを無遠慮にどんどん告げていきます。 広報活動に力がない。生徒指導が全く行き届いていない。 卒業後の生徒の進路についていい加減である。 教員の意識が統一されていない。サボりたがっている・・・。 これでもかというくらいに改善点を挙げた社長は、 どうしたものか、学校側オーナーに気に入られたようでした。 「気に入った!コレをやるから、 この学校を好きなようにしてみろ!」 目の前に一億円を出されたそうです。 この点では、鎌田と社長は近い感性を持っていたようです。 社長は「そんなことだから、ダメなんだ!」と、 こちらは『怒鳴りつけ』て、学校を出てきました。 (もっとも、そのことがさらに気に入られて、 結局鎌田を巻き込んで、学校改革に乗り出したのですが) お金を出せばなんとかなると本気で信じている人たちです。 鎌田も社長も、お金をかけること自体に腹を立てたのではありません。 ある意味、お金をかけることは至極当然。ケチな方が余程タチが悪い。 問題は「使いみち」です。 なぜ自分たちでやろうとしないのか。 なぜそのお金を教員の教育のために使わないのか。 なぜそのお金で、生徒が満足する設備を整えないのか。 お金だけ出して、他人にやらせるなら、学校経営なんてしてはいけない。[ 校長をクビにする ] 一方、こんな学校もありました。 都内の高級な街にある、やはり生徒募集に苦しんでいた女子校。 現在では校名は変わり、ズバリその地域の名前の学校になっています。 まず鎌田が依頼された内容は、 効率よく広報活動ができるよう、 オリジナルのデータベースのソフトを開発することでした。 もちろん、鎌田はプログラマーではありませんから、 事務長の意見をもとに、ソフトの基本理論を組み立てたのみです。 しかし、鎌田はこの依頼には乗り気でなかった。 気持ちは分かるが、どこの塾に何回行ったか、どの塾にどの学年の生徒がいるか、 どの塾からの受験実績があるか、そういうデータを分析することは、 逆に言えば、体当たりの姿勢とは言えないのではないか。 そう思ったからです。 この仕事を終え、事務長は鎌田を気にいってくれたようで、 まだ若い彼に、とんでもない仕事を依頼してきました。 「学校の広報活動―例えば オープンキャンパスなどのイベントを見て、 コンサルティングをしてほしい」。 余程、鎌田が広報に通じていると思ったのでしょうか。 ともかく、できる範囲でならということで、 鎌田はおそるおそるオープンキャンパスに参加したのです。 ところが、問題山積みだった。 校長の話がボソボソ言っていて聞こえない上に、 内容に一貫性もなく、説得力がまるでない。生徒に「来てほしい」と思っていることが伝わらない。 職員のあいさつがプラス評価にならない。 体験授業の教師がヘタ・・・。 挙句の果てに、説明会に参加した親子の後を歩き、 スパイよろしく、 「ここだったら○○高校の方がいいよね・・・」というような会話を聞き取る・・・。 鎌田が「できる範囲で」書いた報告書を、事務長は真剣なまなざしで一気に読みました。 そして、 「いやぁ、これは助かる。さすがです。 見るところが我々と違いますね。これは、理事長にも見せないと・・・」と。 次の年、校長は解雇処分となりました。 その後、この学校は校名変更のほか、コースの新設、 専門学科の廃止など、さまざまな改革をほどこし、経営危機を脱出しました。 鎌田は、自分の力ではないと思っています。 内部の力。それこそが決めてだった。 鎌田が学校に出入りしている際、 ひとりの人物、当時の広報部長だけは、あまり歓迎していない様子でした。 鎌田のなすことを無視したわけではありません。 むしろ、利用できるものは最大限に利用していた。 しかし、最後だけはゆずらなかった。 「ありがとうございました。じゃあ、これからは私たちが・・・」 必ず最後には自分自身で解決する姿勢を貫かれた。 そうでなければならないと、鎌田も思っていました。 外部は利用できるだけ利用する。 でも結局最後は、内部が動かねばならない。 自分が動かず、他を頼りにだけしているところは崩壊する。こうした経験は、今に至るまで、鎌田の仕事観に通じているようです。~【Kama 8 転職の決意】につづく
2007.07.29
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―大学を卒業後、アメリカに渡り、大学院に入学して半年。はじめはキャンパスにたどりつくだけで精一杯だった佐々木も、アメリカ人学生に一目を置かれる存在になっていた―英語力が成長してきた佐々木には、多くの友人ができ、顔も広くなった。佐々木の知らない学生が突然話しかけてくるようなこともでてきた。中には面と向かって「おまえ、スゴイ奴なんだってな!」と言ってくるアメリカ人学生もいたが、佐々木にはそう思われている理由はよく分からない。だが「ほめ言葉」は人を成長させる。周囲の視線によって、佐々木には「ならば彼らを裏切らないよう、なんでもやってやる!」というプライドめいたものが生まれた。まずは、日本語教師のアルバイトをはじめてみた。大学内でのボランティアのような仕事だったので、大した稼ぎにはならなかったが、日本語を教える中で、日本文化を布教しているような気分にもなって楽しかった。寮のスタッフの推薦で、「レジデンシャル・アドバイザー」(寮長のサポート)もやることになった。半年前にヘロヘロになって寮にたどりついたときには思いもしないことだった。アルバイトの稼ぎで、車を買った。もっとも、新車が買えるわけはない。佐々木がたったの500ドルで手に入れたのは、ホンダのシビック、オンボロの中古品だった。マフラーに穴が開いていたので、走ると暴走族のような音がする。アメリカでは、そんな車を堂々と売っている。せっかくアメリカに来たのだから「アメ車」に乗りたい気分もした。でも、小さくて安い日本車に、なんとなく手を出してしまった。「日本車、がんばれ!」という思いが強かったのだろうか。車が手に入ると、行動範囲も格段に広がる。友人とマンハッタンやお隣のニュージャージー州などに遊びに行く機会も多くなった。あの「世界貿易センタービル」(ツインタワー)にも行った。大学院生活も2年目に入った。マンハッタン・キャンパスでの授業もあったので、週に3日くらいはマンハッタンに行っていた。だんだんニューヨークという巨大な街がわかってきた。華々しい建物が並ぶブロードウェイや5番街。しかし、ちょっと裏道に入ると銃声が聞こえてくる。いつ襲撃されてもおかしくないような雰囲気がただよう。数知れないホームレスが小銭を乞う。アメリカなのに英語が通じない地帯。ハーレム。「クイーンズ」なんてしゃれた名前なのに、小便くさい地域。明るいニューヨークも有名だが、もうひとつのニューヨークが確実に、あった。佐々木は、ある時期「無精ひげ」を生やしていた。ニューヨークの「陽」だけでなく、むしろ「陰」の側をみたかった。こぎれいな日本人が歩いていると危険だということを、アメリカ人学生に教わっていたからだった。ダウンタウンからアッパーまで、つまり、マンハッタンの上から下まで地下鉄に乗ると、あることに気づくダウンタウンは、ニューヨーク大学などに象徴されるように、なにかインテリっぽい雰囲気があって、白人のテリトリーという感じだ。それが100丁目あたりになると、白人はみんな下車してしまい、車内は黒人だけになる。その現場に実際に居合わせると、恐ろしい。そんなニューヨークでうまく立ち回るために、佐々木は無国籍風の出で立ちで過ごしていた。~【Kei 10 (アメリカ)『人』】につづく
2007.07.29
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今日から夏期講習会が始まりました。愛夢舎の講習は、他の塾さんに比べて、遅めに始まります。おそらく他塾さんは、学校の終業式翌日には開始されるところが多いのでしょうが、僕らの場合、富士登山に向かったり、講習会の準備をしたり、その先に控える合宿の準備に充てたりするので、数日間の準備期間が必要なのです。今日は、朝から生徒たちに、「顔が赤い!」と冷やかされっぱなしです。もちろん、富士登山でこれでもかと日焼けしてしまった結果。晴天を導いた小田切大明神も真っ赤な顔で、2人で「ヒリヒリして痛い・・・」とぼやいています。僕にとって、今年の講習会は昨年よりは色々なことができる余裕があります。と言っても、午前9時から最初の授業で、合計8コマ。午後9時までのスケジュールです。去年は、朝9時から夜9時まで、ぶっとおしの10コマ連続でした。それが5日連続。さすがに立っているだけで足ががっくがくになったもんです。ウチは、時間講師の先生もいますが、基本的には専任が授業をまわすので、塾長からして7コマ。面談する時間もとれません。教務部長の小田切先生は9コマ。今年一番大変です。一日10コマ近くの授業をしていると、予習が大変です(先生の)。最近は大量コマ数に慣れているのでほとんどポカをやりませんが、昔は、どの学年の授業だか混乱してきて、気がついたときには、小学六年生の算数で、黒板に三角関数を書いて、生徒に「暗い将来」を見せてしまったことがあった・・・。なにせ、他の塾さんの様子が分からないのですが、朝から晩までずっと授業って、もしかして特殊なのでしょうか?・・・というわけで、今回はこの50分間が僕にとっての「着席可能時間」。またすぐに五年生の国語が始まります。できる限り、講習中でも更新はしたいと思います。それでは。Kama
2007.07.24
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こんにちは、愛夢舎の「富士登山ナビゲーター」鎌田です。なぜワタシがナビゲーターかと言うと、1.小学4年生(5年かも)の時を最初に、これまで10回程度の登頂経験2.「生徒を連れて行こう!」と言い出した張本人3.なんでもウンチクを語りたがる・・・なんていう理由づけでもしてみましょうか。今回は、愛夢舎としては3回目のチャレンジになりました。山梨県側、河口湖口から挑みます。5合目まで車で行って、そこから山頂を目指すのです。富士登山には、昼間登るプラン、山小屋で一泊するプランなど、色々なツアーの組み方がありますが、愛夢舎では、敢えて最もキツいプラン、「夜間登山」を行っています。すなわち、夜に五合目を出発して明け方までに山頂を目指し、山頂でご来光(=日の出)を拝む・・・・という。この場合、敵は3つ。「寒い」・・・明け方、山頂付近の平均気温は5度(もちろん、真夏です)「眠い」・・・子どもにとっては最大の難敵「高い」・・・酸素は、麓の3分の2程度7月21日夕方。入間市を出発した時点で、山梨県の天気予報は曇りでした。もっとも前日までは「降水確率80%」であって、さすがに今回は「雨天中止」を考えました。五合目まで行って、ヒドいようなら引き返すことも。何しろ、富士山の場合、雨は「下から降る」。雷も「下から足元に落ちる」。生命の危機です。とにかく五合目に到着しました。案の定、雨は降っていましたが、小雨程度であるのと、ほかの登山客の方が、全く気にせず登り始めるのを見て、(隣の外国人は、フンフン歌いながら、ゴキゲンで出発)我々も山頂を目指すことにしたのです。今回は、先生5人、生徒6人の合計11人。先生は全員登頂経験がありますが、生徒は1名を除いて、富士山初体験者。自然と足早になるのを先生が抑えて、暗闇の中を進んでいきます。雨は降ったりやんだり。もっとも、土砂降りになることもなく、雨雲の中を進んでいる感覚。実際、富士山の場合、雨雲が下にあることもあるので、仮に下が雨でも、上は快晴なんてこともあるようです。ただ、当然ながら、湿度はものすごい!万全の寒さ対策をとってきたものの、逆に汗だくになるシマツ。星が見えてきました。雨雲の上に出たのです。ものすごい星の数です。夏期合宿で志賀高原に行ったときも、生徒たちは星の数に歓声を上げますが、そんなものではない。空一面の星です。少し眺めていると、次から次に流星も見える。七合目でワタシの体調に異変が生じました。高山病です。全身がしびれ、胸が強い力で圧迫されて、呼吸ができない。吸えども吸えども、酸素が体に回らないのが分かる。迷惑はかけられないので、他の先生に生徒を託し、先に行っていただきました。こう言ってはなんですが、経験上ワタシは一人であっても、体調を整えながら登頂できる自信(意地?)はありました。しばらくワタシは独りで登り、本八合目でパーティに追いつきました。午前3時すぎ。さすがに生徒にも疲労の色が見えます。眠気からか、ワタシ同様、酸欠なのか、ぐったりとして、動けなくなっている生徒の姿も・・・。過酷です。午前4時すぎ。ワタシたちは九合目付近にいました。土日のせいで、登山客の数はものすごい。パーティの何人かが苦しさを訴えていたのもあって、腰を落ち着け、日の出を待つことにしました。山頂でのご来光参拝はおあずけです。愛夢舎には、ものすごい「晴れ男」がいます。小田切大明神。この人が一緒だと、雨が降ったことがない。ホントです。一番すごかったのは、2年ほど前、やはり夏休みの休館日のさなか、塾長佐々木とワタシとで、校舎で合宿の準備をしているときでした。入間は土砂降り。そこに都内在住の小田切先生から電話があって「ボクもこれから行くから」。すると東の方からだんだん晴れ間が近づいてくる。みるみるうちに雨雲が散っていき、小田切先生が校舎に到着したときには、まさにピーカン。以来、BBQでもスキーでも、降ったことがありません。富士登山も、これまで2回、今回はご来光はムリでしょうと思われた中、見事日の出を見ることができた。さしもの小田切大明神も、今回は厳しかったようです。降水確率80%をはねのけ、なんとか雨にやられず、ここまで登ってくることができた。山小屋の人も、「まあ、ご来光はムリだけど、登れてよかったじゃない」的なことを言う。日の出の代わりに、文字通り「海」と見まごう、一面の雲海を目にすることはできた。ホントにラピュタでも潜んでいそう。周囲からも「スゴイ雲だね~」と、感慨深い声が上がっている。ところが・・・。出た、太陽。大明神、ハンパありません!すごすぎます!もうここまで来ると、大日如来か天照大神か小田切か、の世界です、マジで!先ほどまで、VTRの編集をしていましたが、カメラ係のワタシも100回くらい「すげぇ~~」と、バカみたいに連発していました。まだ「仕事」は残っています。太陽は昇ってしまいましたが、我々も頂上まで登らねばならない。すっかり暑くなってきた日差しの中を、さらに頂上まで進みます。またしても九合目付近で高山病にやられました。今度こそダメかと思いましたが、個人的に、登頂断念の経験は作りたくなかったので、やはり意地だけで、遅れながら登ったのですが・・・。つまりですね、誰もが登れるというワケではないのです。今回も、我々が登っている途中に、次から次に、登頂を断念して上から降りてくる人たちとすれ違いました。統計があるのかどうか分かりませんが、おそらく数十パーセントの方は断念するのではないでしょうか。だからこそ、今回がんばって登頂したウチの生徒たちはスゴイ。結局今年も、チャレンジャー全員が見事山頂踏破を果たしました。おそらく、体力の問題ではありません。もう、意地と根性というか、精神力の問題だと思います。そうでなければ、70歳を超えたおじいちゃん、おばあちゃんが登頂できる理屈にならない。火口の反対側に回って、本当に日本一高い地点に立つことは断念しました。さすがに生徒たちも頭痛やめまいがひどく、早く低い地点に下りたかった。でも、「日本一」を制覇したのは事実です。「日本一高い神社」での参拝もしてきました。私たち講師陣は、言うまでもなく、今年の受験生全員の第一志望合格を祈念して参りました。(だから、ワタシも途中断念するわけにはいかないのです)高校3年生の高山君、佐藤君、増子君、榎田君、高校1年生のスポーツマン、金子君(さすがにへっちゃらのようでした)中学3年生の佐藤さん。(愛夢舎史上初の女子生徒チャレンジでした)よ~く頑張りました。きっとキミたちの願いは叶うはず!・・・で、その後延々と続く下山道を、口数少なく下りてきたわけです。今日はさすがに筋肉痛です。日焼け止めを塗るのを忘れてしまって、半分ヤケドじゃないかと思うほど、日焼けしてしまった。この数回、高山病になる率が高くて、来年以降、ワタシは行けるかどうか、微妙かも・・・。ただ「行きたい!」という生徒があれば、意地だけで連れていきたいとは思います。記事本編で紹介できなかった写真も、このページの最下段のアルバムでご覧ください。そして、「日本一に挑んでみよう!」というご家庭があれば、ぜひ親子の力を合わせて登頂に挑まれることをおすすめします。意外と、子どもの方がたくましかったりするもんですよそれではKama
2007.07.23
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愛夢舎では、数多くの冊子を作っています。その大半は進路指導に関するもので、中学3年生の進学説明会で配布するものは100ページくらい。毎回毎回、大変だぁ・・・。ところで、1年に1回、僕がほかのモノ以上に、心血を注いで細かい部分をチェックし、滅多に使わないカラーコピーを使って作る冊子があります。「緑の表紙」の冊子。それが、「夏期合宿のしおり」。ウチの合宿は、はっきり言って、スゴイです。ほかと比べたワケではありませんが、でも、自信を持って「スゴイ」と言い切れます。昔の僕ら、当時の合宿を知っている方ならお分かりでしょう。今やっているのは、当時のそれほど「極端」ではありませんが、一言で言うと、ウチの合宿は「厳しい」!昔は「軍隊式」なんて言われました。僕は軍隊に入ったことはありませんので、よく分かりませんが、先日、参加生徒の保護者対象の説明会で、ウチの厳しさを表現するのに、やっぱり入ったことがないから分からないにも関わらず、「一言で言うと『刑務所』です。」って説明して、失笑を買った・・・。(ホントに入ったこと、ありませんからね!)昔は、かなりすごかった。高速道路のサービスエリアでは、バスを降りた生徒を一度整列させ、大声で「いち!に!さん!し!・・・」と点呼し、「トイレまで駆け足~っ!!」って、一般のお客さんの注目を集めた。ホテルに着くなり、「先生の気合いが入ってなぁ~~いっ!!」って、総責任者に全員ビンタを喰らった。(つまり、先生が先生をぶん殴る・・・)愛夢舎になってからは、そこまでの体制はやめた。昔ほどやると、生徒はどうしたって、「怒られないように、怒られないように・・・」ってビクビクして、勉強の目的が摩り替わってしまうから。それでも、部分部分の「厳しさ」は残っています。廊下では一切の私語は禁止。「あ~つかれた・・・」なんて一言でも言おうもんなら、先生が「しゃべるな!」って、怒鳴る。遅刻したら、即・正座。毎日のテストの結果で、1点でも足りなければ、無慈悲に次の日のクラスを転落させる。文面だけでは、かなり誤解を招きそうですが、その反面、頑張った生徒は「これでもか!」というほど、賞賛する。つまり「極端」なんです。グレーは存在しない。ダメなときはMAXで叱り、良いときはMAXでほめる。70点の合格ラインに対して、71点でも「まぁまぁかな・・・」ではなく、「よく頑張った!」って、心底称える。69点なら「惜しかった」以前に、「キミは不合格です」・・・。淡々と告げる。生徒も大変だと思う。こんな厳しい環境は体験したことがないから。でも、もっと大変なのは、実は僕らだと思ってる。さっきまで生徒をド叱っていたかと思えば、次の瞬間にはサッと切り替えて、涙を流して褒め称える。演技ではできません。去年は、ぶっちゃけ、僕もO先生も、かる~く泣きました。マジで。はっきり言って、気が狂いそうです。生徒も大変です。部屋のテレビは、当たり前ですが、点きません。携帯電話は持ち込み禁止です。志賀高原で5泊6日でやるんですが、「下界」から完全に遮断します。ホテルも赤字覚悟で貸切です。完全に「普段とは全く違う環境」をつくるのです。僕らは、半年以上前から、当日のシミュレーションを繰り返し、若い先生は朝から晩まで、合宿に参加するためのトレーニングを塾長 佐々木から受けます。僕は10年前、まだ愛夢舎になる前の塾で、丸2日、校舎で「叱り方」のトレーニングを受けました。だから、愛夢舎をご存知の方はお分かりだと思いますが、佐々木をはじめ、ウチの先生は「キレる」ことができる。叱るのは最も難しいことです。僕も叱るときには、(感情的になっているように見えるかも知れませんが)頭の中はフル回転で、どうやったらこの子が納得して、行動を改めることができるように、明るく終わらせられるか、必死で考えます。で、合宿ですが、厳しいだけでは塾ではありません。もちろん、成績を上げてナンボのもんです。そこに絶対の自信がある。初日に模試をやります。5日後の最終日にも、同じように模試をやります。その成績の上がり幅は、こんな感じです。【英語模試偏差値】 A君 42.1 ⇒ 55.2 13.1上昇 B君 45.8 ⇒ 57.6 11.8上昇 C君 61.2 ⇒ 69.1 7.9上昇【数学模試偏差値】 D君 39.6 ⇒ 57.6 18.0上昇 Eさん 59.0 ⇒ 71.3 12.3上昇 Fさん 51.8 ⇒ 63.5 11.7上昇ウソではありません。毎年、偏差値10以上のアップは、必ず出ます。去年、高校生で日本史の模試偏差値が20以上上がった子がいましたが、大学受験の場合、模試偏差値は必ずしも信憑性があるものではありませんから、それでもスゴイと思います。書くのを忘れてましたが、僕は合宿が大好きです。毎年の楽しみです。ただ、成績が上がるから合宿が好き、なわけではありません。もちろん、生徒を厳しい環境に追い込むのが好きなわけでもない。生徒が一生懸命になる姿を見ることができる。だから大好きなんです。合宿では、毎日テストをします。その日に学習したことを確認する、30分の小さなテストです。その結果で、生徒たちは泣くんです。合格点を取ることができて、嬉しくて。合格に届かず、悔しくて。テストの点で生徒が泣く。見たこと、ありますか?受験ならともかく、塾の毎日の確認テスト、そんなもんで、真剣に号泣する。そんな生徒、見たことあります?そして最終日、 誰一人として、「ようやく終わった」という生徒はいません。みんな「もう終わり?」と言います。「勉強が楽しい。もっとここにいたい!」と、口をそろえて言うのです。「一生懸命」はそれほどまでに快いものなのです。僕はよく合宿で言うのですが、そんな生徒が、個人的にうらやましい。僕自身、そりゃ一生懸命やったようなこともいっぱいありますが、果たして1点の違いで涙を流すほど、一生懸命になれたことって、あったかどうか・・・。僕ももちろんそうですが、愛夢舎では、受験は「手段」に過ぎないと考えています。生徒が涙を流すほど「一生懸命」になるための手段。僕自身、実は塾に通ったことはありません。「ヒストリー」を読んでいただければ分かりますが、どちらかといえば、塾に対して批判的であった。でも、「受験」であってもなんであっても、人が涙を流すほど真剣になれるものを提供するのは素晴らしいことだと思いますし、だから、この仕事にハマッた。合宿は来月末です。今は夏期講習直前期間として、お休みなのですが、合宿の準備があって、こうしてPCに向かっています。僕の仕事は、先生の行動予定を組むこと。文字通り、1分刻みで組んでいきます。例えば、N先生のある日の予定であれば、 15:00 β教室待機 15:05 試験回収⇒講師室へ 15:10 β教室へ 15:14 試験配布補佐 15:15 講師室へ 15:45 高校教室へ・・・てな感じで、一人ひとりの先生の動きが1分ごとに異なります。6人の先生が1分たりとも間違わずに動くことで、完璧な状態になりますし、間違えるとどこかで生徒がほったらかしになる。(僕はこれを「事故」と呼んでいますが)まるでオーケストラの交響曲を作っているようなもんです。・・・って言うと、怒られますかねえらくダラダラ書いてしまった。気分は「お休みモード」なもんで。明日から富士登山に向かいます。天気が不安ですが、無事成功のあかつきには、ここでその様子もご報告しますね。Kama
2007.07.20
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―塾現場を離れ、教育機関専門の人材供給会社に身を置いた鎌田。塾・学校などへの教師提供を行う一方、社長の右腕として、新規企画を次々に成功させていきました。そして、ターゲットはついに海外へ―[ 中国に『日本語学校』を設立する ] そもそものきっかけは、 「日本で活躍したいという、優秀な中国人のために、何かしたい」という、 社長の発想でした。 いや、正確に言えば、社長に影響を与えたのは、 当時、同社の顧問弁護士を担当していた、 労務関係が専門で、塾業界誌に執筆もしているT弁護士の発想です。 鎌田は社長とともに、弁護士の事務所を訪れ、実行に向けてのプランニングを行いました。 日本国内に住む外国人のための「日本語学校」を訪れたり、 実際に日本で働く外国人にインタビューをしたりして、鎌田も初めて知ったのですが、 外国人が日本で学校に入学したり、企業に就職したりするには、 ある程度、日本語ができることが条件となり、 それはスキルのみならず、「学習時間」もが条件となるのです。 そこで、鎌田は財団法人をはじめ、関係各所をさらに訪問、 ヒアリングを重ねた結果、 中国現地に「日本人による日本語学校」を設立、 日本語教育を施すとともに、日本への留学斡旋も行うという、 一大プロジェクトに発展したのです。 中国では、現地人による日本語学校は多数存在したのですが、 「日本人による」という点は、優位性を誇るに十分なはずでした。 出店候補地となったのは、高度経済成長著しい、上海でした。 冬のある日、鎌田は2人のプロジェクト・スタッフとともに、 上海・浦東空港に降り立ちました。 4日間という短い日程の中で、町の様子を散策、 出店候補店舗の決定までを行う予定でした。 鎌田自身は、「日本語学校」ではなく、 当地で暮らす日本人の子女のための「日本人向けの補助学習機関」の設立を 同時に狙っていました。 ありていに言えば、「塾」です。 そのため、「日本語学校」と「対日本人・学習塾」の両方向での可能性をさぐるべく、 上海では、まず「日本人学校」を訪問しました。 奇しくも、当時、上海日本人学校の校長を務めていたのは「鎌田先生」でした。 数年交代で日本からの派遣でやってくるという先生方は、 教室の様子や上海で暮らす日本人の様子を事細かに説明してくれました。 実際、日本人学校に通う生徒たちは、みな一様に「大変優秀」でした。 というのも、中国に両親の仕事の都合でやってきたものの、 数年後には日本への帰国が決まっている。 当然のことながら、保護者は帰国後に日本の教育についていけるかどうか、 大変気にする。 また、そもそも上海へ転勤してくるご家庭というのは、 子どもの教育意識が大変高く、物価や出張手当、キャリアなども伴って、 資金力も高い。 その結果、周囲にはすでに日本人向けの塾もあったし、 日本人学校で使われている教材は、日本から取り寄せた公立学校向けの教科書に加えて、 日本の進学塾で使われる問題集も多い。 普段の生活では中国語を話し、学校では日本語を操るという、 バイリンガルの生徒が殆ど。 だから、日本に帰国した後は、他の生徒に比べて、格段に高い学力成績を修めるといいます。 この時点で、鎌田の構想から「日本人向けの塾」は、基本的に無くなりました。 さて、そうなると「日本語学校」の出店に集中することになります。 現地の大学や日本語学校への訪問を行い、 上海の人々が 外国語の習得に大変熱心であることがすぐに分かりました。 昼間大学に通っている学生、会社で働くサラリーマンなどが、 夜になると大学構内に集まってきます。 大学の教室を借りて、日本語を始めとする語学の講座に参加するのです。 授業を見学させていただいた「朝日日本語学校」では、 LL教材をたくみに使い、一教室に5~60名もの若い人たちが、 熱心にレッスンを受けている。 その光景は、日本人が「カルチャー・スクール」などと呼んで、 趣味の一貫として英会話を学ぶ姿とは全く異なります。 生徒さんたちは、きわめて真剣です。 昼間の仕事だけでも忙しいのに、 虎の子の大金をはたいて、夜、勉学にいそしむ。 その姿に、鎌田も少しばかりの感動を覚え、 同時に自分たち日本人の自堕落な姿勢を恥ずかしくも思ったのです。 過密なスケジュールの中、現地の不動産業者との交渉も行いました。 出店候補地はいくつもあります。 今は使われなくなった大学のキャンパス、 ビルのテナントほか、めぼしいところを次から次に視察しました。 中国で事業を起こすには、いくつもの障害があります。 この場合、日本への留学斡旋手段をどのように講じるかという、 とても大きな問題も待ち構えていたのですが、 さし当たっては、外資企業が中国国内で事業を行うときに必ずぶつかる問題がありました。 中国は、資本主義化する傾向があるとはいえ、 れっきとした「社会主義国家」であり、 国内の貨幣が海外に流出することを極端に嫌います。 分かりやすく言うと、 外国人が自分たちの国内で金もうけをし、 中国の財産を持っていかれるのを、 政府をあげて阻止するのです。 従って、いきなり日本企業がのこのこ出かけていって、 日本語学校を設立したいと言ったところで、 まず政府の許可はおりません。 鎌田たちのときも、予想通りの展開となりました。 条件は2つ。 1つは、中国国内の企業と提携を結び、合資企業として運営すること。 もう1つは、新たな店舗を開設することは認めず、 現地の大学の教室を使用し、大学内での講座とすること。 どたんばにきて、コレです。 その頃、日本国内ではすでに教育プログラムの開発などを 中国人スタッフに任せてあって、 現地校管理者(つまり校長)の選考も進んでいました。 そこにきて、中国政府からのこの回答。 プロジェクトは八方ふさがりになりました。 ちょうど最近、中国の価値観が問題視されています。 今日なども、 イギリス・アメリカでは明日発売の「ハリー・ポッター」の最新刊が、 なぜか中国では、すでに発売されているとか。 (中身はまるで別モノらしい・・・) 例のニセ・ディズニーランドとか、パンダ風イヌとか、 倫理的に理解しがたいことを平気でやってのける国なのですが、 なにしろ「国の利益」につながることを最優先するようです。 結局、鎌田本人は、日本語学校の開校を目にすることはありませんでした。 しかし、当初の予定地である上海はあきらめたものの、 社はその後奮闘を繰り返したようで、 現在では北京市内に日本語学校を構えています。~【Kama 7 衝撃!学校の倒産と生徒の売買】につづく
2007.07.20
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(【Kei7】へもどる) ―ニューヨーク工科大学院(NYIT)アイスリップ・キャンパスに佐々木はようやく腰を落ち着けた。寮にはアジアからの留学生が多くいた。ルームメイトとなった、台湾人の「ディヴィッド・タン」。向かいの部屋の住人である、韓国人の「イーグ・カン」。イーグのルームメイトの、タイ人の「ティラット・ラタナセヴィ」。彼らと佐々木の学生生活が、ようやくはじまる― 待ちにまった授業初日。オールドウェストバリー・キャンパスで、1時間目からはじまる。キャンパスまではスクールバスでの移動となる。1時間目に間に合うためには、早朝の始発バスに乗らねばならない。軽い緊張も手伝って、佐々木は午前5時には起きていた。バス停には十人以上の学生が集まり、始発バスを待っていた。アメリカ人の学生たちは、朝からにぎやかに会話する。「輪の中に入りたい」。佐々木は思うが、弾丸のように英語が飛び交う会話の中に、なかなか飛び込んでいくことができない。最初の授業は「アドバタイジング」。広告学である。教授は、ロマンスグレーの髪の毛が美しい、小柄なジェントルマン、ドクター・メイシー。テキストは、百科事典かと見まごう厚さ。ものすごいボリュームである。教授の授業は分かりやすかった。学部の授業に比べ、実践的な部分が多い内容も、楽しかった。しかし、授業後の教授の言葉は、そんな楽しい気分を急転直下させるに十分だった。「来週までに、150ページまで読んで、内容を理解してきなさい。」アメリカ人にとっては、1週間で150ページは、たいした量ではないかも知れない。しかし、佐々木のような留学生にとっては、ものすごい量だ。増して、テクニカルターム(専門用語)が連発する。それを、辞書を片手に、きちんと内容を把握しながら読め、と・・・。ドクター・メイシーだけでなく、ほかにもこのような課題を出す教授がいたから、佐々木は必要に迫られて、1週間に5~600ページのテキストや参考文献を読むハメになった。文字通り、「朝から朝まで」課題に奮闘する日々が始まった。数ヶ月後。佐々木の「読書」のスピードは格段に速くなり、教授ごとの特徴も分かってきて、要領よく授業の準備をすることもできるようになった。膨大な課題をこなしていたら、「読む」ことだけでなく、「話す」ことにも自信がついた。授業中に意見を求められても、怖くなくなった。はじめは「英語もロクにできないヤツ」と佐々木を見下していたアメリカ人学生も、佐々木の意見に論破されることが多くなり、いつしか一目を置かれる存在になっていた。ほかの学生に意見を求められることも増えてきた。半年後にNYITにいたのは、英語がしどろもどろな佐々木ではなく、「日本からの優秀な留学生 佐々木」だった。~【Kei 9 ニューヨーク・ニューヨーク】につづく
2007.07.19
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みなさんは『夏』という季節・言葉で何を連想されますか?「海」「プール」「スイカ割り」「お祭り」「花火」「浴衣」「風鈴」・・・「ビアガーデン」「バンドのTUBE」この辺は私だけですかね(笑)。 以前、小学生の国語の授業で子供たちに同じ質問をしたことがあります。「ビアガーデン」は無いとしても、上記のような答えが返ってくるものと思っていましたが、最初に質問された子の答えは、なんと『おばあちゃん』???!!!! なるほど、よく話を聞いてみると、彼は毎年ご両親の田舎に行っていたため、そこで会う『大好きなおばあちゃん』が夏のイメージとして一番強く頭の中にインプットされていたのでしょう。かなり癒されました。 子供たちの「季節感」や「語彙力」に対する問題は最近よく取り上げられます。ステレオタイプに子供の『答え』を否定することもよくありません。上記の子供のように、純粋に答える子もいるのですから。 しかし、それでも一般的に言って『夏』=『おばあちゃん』はいかがなものか(笑)。 保護者の方々にお願いがあります。出来るだけ子供にしゃべらせてください。 上記の子供の場合も『夏』=『おばあちゃん』に至るまでの『イメージの流れ』を説明させたいですね。 たとえば、「僕は、夏は毎年、秋田のお母さんの田舎に行きます。上野から新幹線に乗って・・・新幹線の窓の外には・・・・到着すると、おじいちゃんとおばあちゃんが待っています。おばあちゃんは必ず畑でとれたスイカを切ってくれます。縁側でいとこの○○ちゃんと、スイカの種の飛ばしっこをします。 それから、おじいちゃんが僕といとこの○○ちゃんを釣りに連れて行ってくれます・・・。・・・だから僕はおばあちゃんが大好きです。」(架空の話です) こんなレベルのことでいいので、子供に順を追って話をさせる。なるべく詳しく。できれば日記として文字を書いてほしいのですが、言葉に発するだけでも十分です。論理が多少おかしくても、まずは気にしない。よく聞いてあげる。「それで?」「へえ」「だから」「ほー」「すげえじゃん」「おもしろいね」などの相槌を交えながら話を聞く。 最後に「ってことは、○○君は、秋田の田舎で○○ちゃんとスイカの種を飛ばしたり、釣りに行ったりすることが夏のイメージなんだね。おじいちゃんもおばあちゃんにも会える夏は○○君にとっては最高の季節だね」なんてコメントすればよろしいのではないでしょうか。 そうすることで、子供は自分のしゃべったことを自分の耳から聞き客観的に物事を考える、そして先人が簡単にまとめてあげることで、もう一度自分が話したことを客観的に理解する。その反復で「語彙力」や「論理的思考」も身につく。 とにかく、た~くさんおしゃべりしましょう。P.S. かく言う私も『夏』といえば、『夏期講習』『夏合宿』『プリント作成』『テスト作成』『オタ大先生の息子タッくんの誕生日』というイメージが先行するくらい偏っているのですが・・・。
2007.07.19
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受験生にもう少し危機感を持ってほしいという思いから、テストまでの「残りの時間」を計算して、塾内に掲示することがあります。こんな感じです。中学校卒業式まで・・・あと240日。 すなわち、あと5760時間・・・のこり345600分大学入試センター試験まで・・・あと185日。 すなわち、あと4440時間・・・のこり266400分高校入試初日(1月22日)まで・・・あと188日。 すなわち、あと4512時間・・・のこり270720分さらに、1日8時間の睡眠と、1日2時間の食事時間を差し引くと・・・センター試験まで、 残り2590時間・・・あと9,324,000秒高校入試初日まで、 残り2632時間・・・あと9,475,200秒そして、テレビ、携帯メールなどで2時間費やすと、7,200秒の浪費・・・。いずれも7月18日(つまり今日)の午前0時0分で計算した場合です。お分かりの方も多いかも知れませんが、ミヒャエル・エンデ氏の名作童話「モモ」の中で、「時間どろぼう」が人の時間を奪うときに使う話術をマネたものです。これを貼っておくと、さすがに生徒も焦る、焦る!中にはパニックのようになる子もいるので、僕も毎回毎回やっているわけではありませんし、増して、入試直前にやろうもんなら、泣き出す子もいるだろうと思うので、秋くらいまで、生徒が「ダレているなぁ」と感じるときだけ、掲示することにしています。もっとも、「焦る」というのはそれだけ受験に対して真剣な気持ちが残っているということですから、その部分だけは安心できるのですが。さて「残りのじかん」の計算は、実は、僕自身は毎日のように感じていることです。ブログで人気の「しょこたん」こと中川翔子さんが、テレビなどで、若いにも関わらず、「寿命が・・・」とぼやいて、たまに笑いをとっていますが、僕自身、「残りの時間」は、やけに気になります。中川さんの場合には、早くにお父さんが亡くなられたということがきっかけとしてあるようで、僕の場合にはそういう出来事は特にないのですが、割と小さい頃から、「人は死んだらどうなるのか」ということに強く興味を持って、そういう関係の本を読みあさった頃もあって(←アブナイ・・・)大学では哲学なんていうものをかなりマジメに勉強してしまったこともあるのか、ぶっちゃけ、自分が死ぬのが、かなり恐い。もちろん、こうしてパソコンに向かっている間も、「1秒過ぎた、また1秒過ぎた・・・」って考えているわけではなく、そんな人だったら、本当にアブナイ人になってしまうので、ただ、改めて生徒に見せようと思って「時間」を計算すると、「うわっ、時間、足りねぇ~!」と思う。1秒で何ができるかという人も多いと思うけれど、10秒あれば100メートル近く移動することもできる。5分もあれば、一曲聴いたり、演奏したりすることもできる。生徒にしてみれば、10秒あれば、解答の書き直しは充分できる。10秒の解答の書き直し、5分の一曲で、ではそこまで大きく変わるのかというと、それは分からないけれども、少なくとも、その後の人生になんらかの影響があるのは間違いない。だって、その一曲で人生観が変わるかもしれないし、10秒の1問で、進む高校が変わるかも知れないし。ただ、正解はないはずだとも思うので、その1秒が決めた人生のベクトル(方向)を自分にとって良い方向に持っていくことが大切だと。いずれにせよ、無意識の1秒は、僕にとってはすごく「もったいない」のです。冗談抜きで、ほげぇ~っっっと時間を過ごしているなら、その時間を分けて欲しいと思う。・・・なんていうことを書くと、やっぱり神経質で小難しい、ジジ臭いヤツだと思われるんでしょうかKama
2007.07.18
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(【Kei6】へもどる) ―いくつかのトラブルを超えて、佐々木はニューヨーク工科大学院(NYIT)アイスリップ・キャンパスに到着した。これから過ごすことになる「寮」である―佐々木は、寮長に買い物に行くことを伝えて外に出た。アイスリップ・キャンパスの地図を見て、あらためてすごい広さに驚いた。正門を出るまで15分もかかる。ようやく門を出て、5分ほど歩くと、見慣れた看板が見えてきた。「セブンイレブン」だ。ドーナツとコーヒーを買った。少し安心した。さらに15分も行くと、まさにアメリカ的なショッピングセンターもみえてきた。想像どおり、なんでも売っている、ホームセンター的な店であった。シーツや掛け布団、枕などを買って、佐々木は寮に戻った。翌日、ルームメイトが到着した。ディヴィッド・タン。ドアで名前を確認していた「彼」は、台湾人だった。佐々木より年上の、コンピュータ学科の大学院生である。色々と話してみたものの、台湾人なまりの英語だったので、佐々木には理解できないところが多かった。ディヴィッドにはすでに留学生の友人がいて、彼らと一緒にすぐに出かけてしまった。ここで分かったのは、NYITの大学院にいる日本人は、佐々木ひとりだということ。学部には4人の日本人がいるということ。アジア系留学生では、台湾人、韓国人、タイ人が多いということ。日本での知名度が低いせいであろう、NYITでは日本人が少なかった。廊下で、他のアジア人と出会った。向かいの部屋に入るという、韓国人の「イーグ・カン」だ。彼は、後に佐々木の『親友』となるのだが、初対面のこのとき、ルームメイトのデイヴィッドより話やすく感じた。イーグもデイヴィッドと同じ学科の大学院生だった。イーグのルームメイトとなる男もやってきた。「ティラット・ラタナセヴィ」。タイ人である。彼は佐々木より年下の20歳。しかし、母国タイの大学を「飛び級」で卒業し、佐々木と同じ学科の大学院生としてやってきたという。いよいよ授業の初日だ。~【Kei 8 学生生活】につづく
2007.07.17
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今日、7月14日はうちの子の1歳の誕生日だった。たまたまOFFの日だったので、じじばばを家に呼び、みんなでお祝いをした。思えば誕生して1年。早いものである。去年の写真を見ると、今の顔と全然違うように思える。赤ん坊の成長はすごい!1年で2700gから8600gになった。身長は47cmから73cmになった。母子手帳で見ると、平均よりやや小さい、といったところか。親が親だけに、人一倍大きくなってくれることを願ってしまう。今はとにかく、健康でよく食べることがなによりもうれしい。ハイハイの開始は早かった気がするが、まだ歩かない。つかまり立ちはすぐにするのだが、ひとりで立つ勇気がまだないようだ。ママさん仲間で同じ頃に生まれた子がもうひとり立ちした と聞くとついうちの子も負けまい!と無理矢理立たせようとしたりもするがそんなことで競ってもしょうがないまあ、そのうち歩くだろう。歩き出したら出したでいたずらが増えるからもっと大変になるし(大変なのは母親だが)子供が生まれてから最近になって初めて知ったことだが、1歳の子の行事として、『一升餅』を担がせる。というのがあるそうだ。人の一生とお米の一升を掛けて、その子が一生食べ物に困らないように願いを込めて子供に担がせる儀式らしい。地方によって違うようだが担がせて転ばせるのが 縁起を担ぐというのもあるそうだ。うちもそれをやった。(うちの子は歩かないので転びようがないが・・・)『1升餅』を買いに行って、それを持った瞬間、結構重いと感じた。1.8kgぐらいだろうか。重くて泣く子もいれば、平気で歩く子もいるとか・・・果たしてうちの子は・・・まだ歩けないので、背中にくくりつけて様子を見ると餅の重さにふられて、自由に動けない。動くたびに餅に持っていかれる。ピカピカのランドセルを背負った小学1年生が、ランドセルでひっくり返るような感じだ。それでも泣かないでいた。背中の餅にふられて床に顔をぶつけながらも自分の行きたいところへ移動しようと動き出す。そのこっけいな姿に周囲の大人は大爆笑なんともほほえましい光景 というものをまた見ることができた。これからどんな子に成長するのか、楽しみ半分不安も半分。いつか悪いことを仕出かして、叱らなければならないときもくるだろうが、今はできるだけ子供に笑顔を見せて、子供の笑顔で癒されてできるようになったことを褒めてあげたい。塾の生徒達を見ても、勉強ができるようになった、成績が上がった子を見ることは先生にとって、この上ない幸せである。その集大成が、受験生の『合格』であることは言うまでもないことだが、今年の受験生と共に過ごす1年間も終わったときに また『あっという間だったね』と愛夢舎の先生方で会話していることだろう。ota
2007.07.14
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[ アイドル女優 Hさんの早稲田大学合格の真相 ] かつて、アイドルであったHさんが早稲田大学に合格を果たし、世間をにぎわせました。結局彼女は大学を中途退学してしまうことになったのですが、それ以前に「どうやって入った?」ということが、ウワサ話のネタとなりました。真相をお教えしましょう。というのも、鎌田はこの件について直接関わったわけではありませんが、間接的にその経緯を知る立場にあったからです。ただ、ここでご紹介するのは、むしろ色々ネタとして取り沙汰された彼女の名誉を守るためです。四国出身の彼女は、東京に上京し、一人暮らしをしながら高校に通っていました。彼女の通っていた高校は、都内の私立高校、S女子学院。彼女の大学合格実績のおかげか、レベルの高い学校に「進化」したこの学校は、現在では中高完全一貫校になりました。「名誉」と先に触れたのは、あくまでもHさんは高校において、芸能活動と並行して、勉学に真摯に取り組んだという事実があるからです。結果として、トップとまではいかないものの、二束のわらじを履きながらも、学年上位の成績を修め続けたということです。いざ高校卒業が近づくにあたり、彼女は大学への進学を希望しました。できれば、推薦入試で、早稲田大学へ。公平な見方をすれば、行きたければ芸能活動をやめてもっと勉強すればよい、ということになりますが、ここでは敢えてその観点はおいておき・・・。彼女の通う高校は、ある大手塾と深い関係があります。私立学校関係者であれば、誰もが知る事実です。Hさんの大学進学の意向を知った学校側は、この大手塾のトップに、なんとかならないものか、打診しました。まぁ、普通なら「なんともならない」ものなのですが、この人物には、たまたま早稲田大学出身の、教育業界に顔が利く知り合いがいたのです。そしてその人物は、早稲田大学時代、名門のラグビー部に所属し、今でも学内である程度、顔が利くことも知っていました。それが、鎌田が勤務していた会社の社長でした。社長は早稲田大学に赴き、Hさんの意向と学校での様子、学校が自信をもって推薦できる人物であることを大学側要職に訴え、晴れて特別推薦枠での合格を勝ち取ることができたといいます。どこまでが真実か。それは、鎌田本人が直接動いたわけではありませんから、本当のところは分かりません。彼はその状況を「聞いた」だけです。ただ、少なくとも数名の人物が動き、そうした推薦が行われたということは事実のようです。そして、くれぐれも、合格を勝ち取ったのはHさんの努力のたまものであったということもゆるぎない事実です。信じるか信じないかは、あなた次第です。~【Kama 6 中国に学校をつくる】につづく
2007.07.14
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(【Kei5】へもどる) ―ニューヨーク工科大学院(NYIT)に着いた佐々木であったが、暮らすことになる寮は、車で30分かかる、別のキャンパスにあった。途方に暮れながらも徒歩でキャンパスを目指す彼を、ジープに乗ったNYITの学部生、ケントが拾ってくれた―ようやく「アイスリップ・キャンパス」についた。メインキャンパスより広大だった。正門をくぐると、ゴルフ場が延々と続く。ゴルフ場を過ぎると、古めかしい建物が見えてくる。それが校舎や寮だった。ケントに「キミが入るのはどの寮だい?」と尋ねられ、そこで初めて、寮も一つだけではないことが分かった。とりあえず、留学生が多いという「インターナショナル・グラデュエイト・スチューデントビル」という寮に行ってみた。「Kei、あとはいいかい?Good Luck!」と言い、ケントは自分の寮へと帰っていった。彼のおかげで、佐々木も少し元気を取り戻していた。寮に入り、寮長室に案内されると、そこには若いアフリカ系のアメリカ人がいた。名札には「TAYEE」という、見慣れないスペルの名前が書いてある。「俺は『タイイー』。『テイイー』でもいいぞ、よろしく。」「あ~、『カイ・サセイキー』、フロム ジャパン ね」どうも佐々木の名前を言っているらしい。部屋番号を教えてくれると同時に、カギを渡してくれる。「え、もう入れるの?!」と佐々木は思う。確か、受付では3日は入れないと言っていたはずだ。しかし『タイイー』は「ホワイ・ノット(もちろん!)」と一言。とにかく、寝る場所は確保できた。佐々木の部屋は2階に用意されていた。ドアには佐々木の名前のほかに「デイビッド・タン」という名前もある。ルームメイトらしい。部屋に入ると、デイビッドは明日到着するようだ。机とベッド、クローゼットが、それぞれ2組ずつあって、先に到着した者が好きな方を選んでよいようだ。次は、生活に必要なものを買い揃えなければならない。ベッドは、病院のベッドのようだ。パイプでできた枠組みに固そうなマットが置いてあるだけ。これではさすがに寝ることすらできない。とりあえず、腰を落ち着けた佐々木は、町に買い物に出てみることにした。~【Kei 7 アイスリップ】につづく
2007.07.13
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あっという間に期末テストが終了しました。みんな中間テストの時より点数を落としてしまった子が多かったようですが平均点も中間のときより下がっているはずですので、それを見比べてから、保護者の方も判断をしていってほしいと思います。毎回のテストで、点数が上がったら素直に喜ぶことも大切ですが、悪かった、または下がったときに、ただ単に落ち込むだけでは次も同じ結果になります。しっかりと『反省』をしましょう。どうして思うように点が取れなかったのか? 勉強不足なのか、出るところが予測できなかったのか、覚えたつもりが忘れてしまったのか 問題をよく読まなかったのか、計算ミスなのか、自分の答えに自信がなくて書かなかったのか・・・理由はそれぞれ人によって違うものです。しかし、その理由をはっきりとさせる人とさせない人では次の結果が違ってきます。先の『高校受験』を考えても、学校の成績だけで高校が決まるわけではありません。もちろん学校の成績が悪くても良いという意味ではありません。定期テストの結果(学校の成績)だけで高校が決まるわけではないとうことです。だからといって、定期テストのための勉強に手を抜けと言っているわけではありません。定期テストに向けた勉強を利用して『実力をつける』ことが大切なのです。つまり、定期テストで良い結果が出るように一生懸命勉強して、その勉強したことを忘れなければ、入試本番でも十分に点数が取れるということです。もちろん実際には、人間は忘れる動物ですから、『復習』をすることが必要です。だから塾では、模擬試験でも『自己採点』をするように口うるさく言っているのです。自分の答案をしっかりと振り返らない人は、なかなか次に良い結果を生むことはできません。まずそれをちゃんとやるだけでも成績は簡単に上がります。是非ともやってほしいと思います。それはそうと、今回のテストでも100点満点が出ました。しかも2人!おめでとうございます! 今回は数学で出ました。2人とも数学が得意な子で、他の教科をもう少し頑張って欲しいという愚痴も少しありますが、それでも100点満点はなかなかできることではありません。(前回英語100点の子は、今回は97点。おしーい。しかもリスニング1問だけ・・・)もう少しで塾の掲示板に優秀者が発表されますので、みんなで褒め称えましょう!そういえばアメリカ大リーグのオールスターベースボールで、イチロー選手がランニングホームランを打ってMVPを獲得しましたね。愛夢舎もテストごとにMVPを発表するのはどうかな?ねっ塾長?ただ単に点数がいい人とは限らなくて、自習時間が多くて成績が上がった人とか、とにかく一番頑張ってそうに見えて、結果も出せた人を塾長が勝手に表彰するどんなに小さなことでも、人は誰かに褒められるから、次また頑張ろうと思うものですね。そういう僕も、最近は小言が多いような気もする・・・明日からは、また初心に帰ってやってみようota
2007.07.11
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―ハローバイバイの関さんの「都市伝説」が流行っていますね。そこで今回は、「都市~」風に―【TBSの番組放映に協力する】 かつて、ジャ●ーズ事務所に所属するグループ、 TO●●Oが司会を務める「ガ●ンコ」という番組がありました。 ラーメン屋の開業を目指したり、プロボクサーを目指したり、 最近になっても「あれはヤラセではないか」と雑誌の特集を組まれる、 わりかし話題の多かった番組です。 そのコーナーのひとつに「大検予備校」というのが あったのを覚えていらっしゃいますか? 高校進学をあきらめたり、 通ったものの、いじめにあって退学してしまったりと、 なんらかの事情のある少年を集め、 大学受験資格検定(通称「大検」)の合格を目指そうという企画です。 このコーナーでは、 生徒に対して熱く語り、時には体罰も辞さないという、 厳しい先生が講師として登場されていました。 番組を見ていると、毎回のように生徒同士でのケンカがおこり、 生徒対先生の抗争ほか、すさまじい事件が起こっていました。 「ヤラセ」疑惑の多い番組でしたが、 少なくとも「大検予備校」のコーナーに関しては 完全な「ヤラセ」ではないと、鎌田は断言できます。 なぜなら、その一部に関わっていたからです。 メインの講師である方は、とにかく生徒を叱咤します。 「オイ、てめえら!」呼ばわりです。 確かに、生活指導の面では高い指導力をお持ちのようですが、 生活指導だけで「大検」に受かるでしょうか。 また、聞けばその方は割と有名な方のようで、 だからこそテレビ局もメインの講師に選んだのでしょうが、 そんな方が合宿所に泊り込んで、 勉強する生徒につきっきりでいられるなんてことがありましょうか。 大検合格のために、生徒に必要教科の勉強を指導していた講師は、 テレビに映らないところで、ほかに何人もいました。 その講師たちを採用・手配したのが、鎌田たちでした。 結論のみ言いますと、生徒たちは全員本気で大検に合格したいと思い、 テレビ局の募集に応募してきました。 勉強しているときは、ごくごくまじめで、 講師に逆らう生徒などいませんでした。 「有名な講師」の方は、週に1度だけ、現場を訪れます。 すると、ここぞとばかりに 「○○くんと△△くん、じゃあ、ケンカして!」と、 ディレクターから指示が出るのです。 あの放送の中では、 「放送されているシーン」だけが「ヤラセ」でした。 生徒たちは、テレビ局の撮影が来ると勉強が中断されると、 迷惑がっていたものです。 しかしながら、そのような環境で無償で勉強に取り組むことができた、 その代償としての撮影と考えれば、 許してあげてもよい気もします。 信じるか信じないかは、あなた次第です。・・・って、ホントはもう一つ、にわかに信じがたいエピソードを紹介する予定でしたが、少し長くなってきたので、次回に・・・。~【Kama 5 アイドルの大学合格の真相】につづく
2007.07.11
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[ 2000年 新規事業開拓専門としての『広報室』を設立。 鎌田が担当となる。 ]鎌田の企画力、行動力は、早い段階で社長に評価され、彼を中心に、新たな事業に乗り出すことにしました。それが「私立学校の採用現場への参入」でした。学校における「問題教師」についての話題は、今に始まったことではありません。もう長年、ずっと叫び続けられているのです。塾の先生が素晴らしいに越したことはありません。しかし、塾はあくまでも「学校教育の補助機関」です。「まず学校の教員が素晴らしくあるべき。」これが、鎌田と社長の統一した見解でした。学校教員の採用現場に参入するためには、まず私立学校という現場に「人材紹介」、「人材派遣」という、もはや民間企業では当たり前になった、新たな人材確保の方法についての理解を浸透させる必要がありました。「学校」という現場は、社会の動向に閉鎖的になりがちで、結果として大変保守的、旧態依然としていて、悪く言えば「古いままの考え方をひきずっている」ことがよくあります。世の中の常識がWindowsになって、Word、Excelが主流になっても、「一太郎とLotusしか使わない」という、ガンコな人も数多くいたのが現実でした。「広報室」としてまず手がけたのは、首都圏の全私立中学・高校に、新しい採用方法としての「人材派遣」、「人材紹介」を理解してもらうべく、ダイレクトメールを発信することでした。一度や二度ではなかなか効果が出ないものの、何度か繰り返すうちに、「話を聞いてみたい」という学校がいくつか現れます。ひとつの学校で、成功実績をつくることができれば、これも私立学校の特徴として、学校同士の関係は根強いものがあるので、口コミが口コミを生み、他の学校に活動を広げるチャンスとなります。「広報室」最初の仕事となったのは、都内文京区にあるK女子高等学校でした。この学校では、毎年の労働争議の結果、清掃担当の職員(有体に言えば「そうじのおばちゃん」)に対してですら、年収1000万円の賃金を払わざるを得ない状況になっていました。もちろん、経営を圧迫します。そこで、新たに家庭科の教員を採用するにあたって、そうした労働争議と縁のない、新しい観点の教員がほしいという依頼が入ったのです。度重なる打ち合わせと、入念な手配を行い、この依頼を成功させました。以来、学校からの問い合わせも増え、教員採用の実績が積み重なっていきました。鎌田の新提案も続き、通常の教員採用以外にも、受注内容は多彩になっていきました。[ 年間指導計画(シラバス)を立案する ]私立学校のウリは、もちろん「指導が計画に基づき、しっかりしていること」です。これは私立の最低条件とも言えるでしょう。そのカギになるのが、教科ごとに立案する「シラバス」の精度です。「シラバス」のない学校は、教員の気分次第での授業となり、確実な成果を残すことができません。そこで学校改革に取り組むこの学校では、総力を挙げて、「シラバス」を作成することにしました。ところが、本来は内部の教員が行うべきことなのですが、なかなか現場が動かない。そこで、管理職側は、敢えてその作成を外注することで、客観的なシラバス原案を手にしたいと考えました。その上で、内部で調整をし、最終段階の計画をつくるということを考えたのです。鎌田は、各教科のプロフェッショナルとおぼしき講師に直接シラバスの作成を依頼し、鎌田自身は国語のシラバス作成を担い、学校から「すぐに使いたい」という評価を得るに至ったのです。ただ、やはり学校の内部で作らずにどうする、という思いは強かったのです。費用も数百万円はかけていただきました。都内のT大●●高校での話です。ひょっとすると、まだ鎌田の指導プランが使われていたりして・・・。[ 外国人講師の採用 ]公立学校のALT(外国人講師)は、自治体が、特定の外国人講師専門の派遣会社に委託契約を行い、そこから自動的に供給されてくるのが普通です。しかし、私立の場合にはやはり独自に採用活動を行わねばなりません。採用担当は、一般に校長・事務長・理事長などがあたります。こうした方々の中には、英語を苦手とされる方が少なくありません。無論、学校の英語教員も立ち会うのですが、学校側と供給側の双方に通訳が必要となります。鎌田本人は、そこまで英語が堪能というわけではありません。しかし、ほかに担当者がいないのだから仕方がない。拙い英語でなんとか意思疎通をはかり、採用にこぎつけます。ただ、外国人講師の場合、文化・価値観が日本のそれと大きく異なりますから、トラブルの発生については細心の注意が必要となります。例えば、契約期間中であっても、ちょっとした事情があれば簡単に帰国してしまうという特徴があります。これは、学校としては最も困る事態ですから、そうしたことが起こらないよう、常に講師の管理のする必要があります。また彼らは、賃金の取り決めについても、アバウトな部分は見逃しません。これも細部に至るまで、綿密に練る必要があります。外国人の採用については、日本人の数倍の手間と労力、精神力が必要となります。・・・だというのに、ある学校ときたら、「アングロ・サクソンでないと困る」とか、「移民系のアメリカ人はダメだ」、「北部なまりがあってダメ」とか、やたら細かい注文を多く出してくるのデス・・・。いわく、そのガンコな英語の先生は、「ワタクシ、元々スチュワーデス(当時の呼称)をやっていましたから、発音とかなまりは、気になってしょうがないんでございますよ~。しっかりしてくださいましな」だそうです。・・・だったら、ネイティブ・アメリカンでも連れてこいと言うのでしょうか。アナタの言うところのアメリカ人って、みんな「移民系」じゃん!!・・・とは、お客様なので言えませんでしたが。都内のK商業(←バレるか?!)の話です。長くなりすぎるので、今回はここまで。でも、まだまだ、ホントの裏話はこれからです。~【Kama 4 テレビ局がらみの仕事】につづく
2007.07.09
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(【Kei4】へもどる) NYIT(ニューヨーク工科大学院)は、ニューヨーク州内に3つのキャンパスをもっていた。ロングアイランドにある『オールドウェストバリー・キャンパス』がメインキャンパス。ほかに、同じロングアイランド内の『アイスリップ・キャンパス』、そして、セントラルパークのすぐ近くの『マンハッタン・キャンパス』である。佐々木の到着した『オールドウェストバリー・キャンパス』は、ニューヨークとは言っても、アメリカ東海岸特有のどこか落ち着いた雰囲気をもっていた。ニューヨークと言えば、テレビに映る摩天楼やタイムズスクエアをイメージしていたので、佐々木は少々戸惑った。でも、勉強をするには最適の環境だ。正門からオフィスへ歩く途中、黄色や赤に色づきはじめた木々を見ながらゆっくり歩いた。アメリカの大学のキャンパスは、とても広かった。アメリカの「デカさ」に圧倒された。長期休暇中のため、学生の姿がまばらで、静か過ぎるほど静かだった。オフィスについて、緊張しながら、ヘタな英語で自分が9月からマスターコースに通う留学生であることを告げると、受付係は問題なく理解してくれた。しかし、その後が問題だった。寮は3日後から入居することができると言う。いかにもアメリカらしい。入居予定の自分がいるのに、3日前に前の居住者が残っているはずがない。それなのに、3日分の料金を余分に払うからと言っても、かたくなに「NO」。さらに、寮があるのはメインキャンパスではなく、車で30分ほど田舎に行った「アイスリップ・キャンパス」の方であると言う。キャンパス間を連絡するスクールバスも、長期休暇中で運休中。佐々木はパニックに陥った。3日間も、どこでどう過ごせばよいのか。仕方がないから、またタクシーを拾うか・・・。ところが、今度は空港ではない。コンビニエンスストアやレストランすらない、田舎である。タクシーが走っているわけもない。どうしようもないから、仕方なく、とにかく地図を見ながら、「アイスリップ・キャンパス」の方へと歩き始めた。荷物をひきずり、汗だくになりながら、国道のような広い道に出た。延々と続く長い道。車で30分くらいだと、歩くとどのくらいかかるだろう・・・。1時間ほど歩いていると、突然、まだ10代と思われる、いかにも「アメリカ人」というような白人の青年が載っているジープを佐々木に横につけて停車した。おそらく、東洋人が多くの荷物をかかえ、汗だくになって国道を歩いている姿は、余程「異常」だったのだろう。「どこまで行くの?」 「アイスリップまで行きたいんだけど・・・」「キミはNYITの生徒かい?」 「そうだ。」「僕もそうなんだ。乗りなよ!」彼の名前はケント。NYITの学部生であった。なんとか、歩き続けるハメにならなくてすんだようだった。~【Kei 6 ドミトリー】につづく
2007.07.08
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―塾をはじめとする、教育機関専門の人材供給会社に身をおいた鎌田。依頼された講師を探す業務の中で、教育業界の裏側にどんどん触れていくことになります―講師を探すと言っても、登録者は6000名以上。翌年、鎌田が転職する時点では10000名を超えていました。その中から手作業で、依頼元である塾の希望条件(住所、年齢、指導可能教科、経験など)に見合う人材を探します。候補が挙がると、直接その方に電話をし、スケジュールを確認し、本人が仕事に興味を持ったら、諸条件の説明をするのです。これだけだとごく簡単に思えます。10000人もいれば、いくらでも手配のしようはありそうです。しかし、実際には登録に来た人は、定職のない「就職活動者」である場合が多いのです。ここに、現在の日本経済の縮図が見えると言えば言いすぎでしょうか。どれだけ人がいても、「採用にならない人は、やっぱりならない」のです。増して、教育業界では、「人の力」がダイレクトに経営に響きます。「良い先生」がいれば、塾にもプラスである反面、「ダメな先生」であれば、一発で塾が閉鎖する可能性もあるのです。ですから、就職希望の人がいくらいても、やはり採用側では、慢性的に「人材不足」に陥るわけです。[ 名物 『当日代講』 ] 「当日代講」という言葉を聞いて、鎌田は初め、 「なんだい、それは?」と思いました。 文字どおり、その日に行われる授業を担当する先生を 探してほしいという依頼のことです。 会社の営業時間は、昼の12時から夜の10時。 普通、塾の授業は夕方5時くらいから始まります。 営業開始と同時に依頼が入ったとして、 5時間以内に先生をよこせ、というのです。 鎌田が前に勤めていた塾では、 その日の授業の先生がいないなんていうことは、考えられませんでしたから、 余程の事情がない限り、そのような依頼はないだろうとタカをくくっていました。 ところが、毎日のように「当日代講」はあるのです。 何しろ、その日の授業ですから、 いざ依頼が舞い込むと全部署投入、最優先事項として、 思いつく人に一気に電話をかけまくります。 もはや、人を選んでいる場合ではありません。 とにかく「時間までにそこに行ける人」を探すので精一杯です。 タイムリミットまでに見つけることができない場合も、それはあります。 その場合には、授業のできる社内のスタッフが自ら現場にとんでいき、 自分で授業をするのです。 ・・・危機感があります。 誰が考えたのか分かりませんが、 「当日代講」のための緊急グッズとして、 会社にはスーツ一式が用意されています。 電話をかけても講師が見つからない場合、 仮に、「たまたまそこにいる『私服』の人」が現場に向かうことができれば、 スーツを貸し出して直行させるのです。 「なんとムチャクチャな」と思います。 でも、授業に穴があくことを考えれば、それでも塾長さんは喜ぶのです。 もちろん、そんな塾が「良い塾」であるはずがありません。 鎌田は、ときたま他塾の悪口を言うことがあります。 こうした裏事情を見てきた彼にとって、 「悪口」は根拠のないことではありません。 (・・・ですよ、M塾の塾長のみなさん!)[ 『日曜までに40人』の依頼 ] 埼玉県では、多くの中学生が受験する模擬試験として「北辰テスト」があります。 東京や神奈川、千葉でも、同様の会場模擬試験が行われています。 模擬試験の試験監督は、ある業者(Sとしておきましょう)の場合、 1名の社員以外は、全員その日限りのアルバイトで行います。 1日テスト監督をして、7000円の日給。 なかなかよさそうに思えるかも知れません。 しかし、朝7時に集合です。 しかも、交通費は出ません。 この条件で仕事を受ける人を数日間で40人探せと言われたら、 アナタ、どうしますか?[ 青森に行ける人 ] だって、東京の会社です。 来月から1年間、青森で勤務できる人を探せって言われても・・・。 でも、見つけるんです。それが仕事だから。 (苦労しました。「サァ~っ」で有名な卓球少女の母校ですけど。)あんまり一気に出してしまうと、ネタ切れになってしまうかも。・・・ということで、今回はここまでにしますが、こんなの序の口。裏バナシは、どんどん続きま~す♪~【Kama 3 私立学校へ参入】につづく
2007.07.07
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(【Kei3】へもどる) 大学卒業後の進路として、佐々木はニューヨーク工科大学院に入学することを決めた。入学は9月であったが、いざそう決まるとそこまで待ちきれなくなり、6月には渡米することにした。大学院の寮は9月まで空かない予定だったから、院からの薦めで、オレゴン州のポートランド州立大学において学部聴講生として3ヶ月間勉強することにした。日本の大学を卒業し、3ヶ月後、佐々木はポートランドの空港にいた。ポートランドは、小さいながらも何をするにも事欠かない便利な町で、生活するには何の苦労もなさそうであった。大学自体が、郊外ではなく町の中にあって、寮で暮らしていれば、車がなくとも、徒歩で充分。そんな環境だったので、勉強にも身が入りやすかった。だが、前回の語学留学と違って、外国人向けでない、普通の大学の授業を受ける。クラスメイトは、当然アメリカ人が大半。教授も「日本人だから」と気を遣ってくれることもない。当然の結果として、90分の授業のほとんどが理解できないこともあった。聴講生だから、課題に追われることはなかったものの、「授業が理解できない」ということだけで、精神的に疲労した。それでも、ポートランドを発つ頃には、授業が楽しく受けられるレベルまで、リスニング能力が向上していた。8月下旬。まだニューヨークも暑さがひどい中、佐々木はケネディ国際空港に降り立った。ニューヨークの地理について、下調べはしていなかった。「マイアミやポートランドでの経験があるし、どうにかなるだろう。」そんな風に考えていたものの、ニューヨークは全く勝手が違った。実に、空港から外に出ることさえ、難しく感じた。タクシーを拾うことも、簡単にはいかなかった。映画で見たあのニューヨーク、そしてイエローキャブ。「手を上げて拾うだけ」。そう思っていた。ところが、いざ空港の外に出てみると、いわゆる「イエローキャブ」的な車がまったくいない。「どうしよ・・・。」佐々木はトランクケースとスポーツバッグをひきずりながら、あたりをうろうろするしかなかった。すると突然背後から巨大な黒人に声をかけられた。「キャブ?」佐々木がなんとか「イエス。」とだけ答えると、男は手招きをする。少し怖かったが、佐々木は「もう、この人に頼ってみよう」と無条件に思うほど、疲労困憊していた。しばらく行くと、男は「白い車」を指差し、「これが俺のキャブだ。乗りな。」と言った。佐々木は心の中で「・・・これがニューヨークのキャブか・・・黄色くない・・・」と思う。「本当にキャブ?タクシーなのか?」と男に尋ねる。男はドアを開け、メーターを指差し、「ほら、タクシーだろ?」と自信満々に答える。確かに、「白い」けれども、タクシーのような気もする。佐々木は男に行き先を告げてみる。男は、満面の笑みを浮かべる。そして、「いいぜ、安くしといてやるよ、乗りな」と言う。後で分かったのは、相当な距離であったので、男は「こいつは稼げる!」と思い、笑みを浮かべたのだったろう。恐る恐る料金を聞くと、「トゥーハンドレッドバックス(200ドル)プラス、タックス、アンド・・・」その後はよく聞き取れなかった。佐々木は頭の中で日本円でいくらになるか、計算をしてみた。「えっ?2万6千円?!それに、なんか足すのか?」それでも、男が「悪い人」に見えないという感覚だけで佐々木は男の「白い車」に乗った。空港を出発して、随分時間がたった。いっこうに到着する気配がない。佐々木は男に、おそるおそる聞いてみた。「あとどれくらいですか?」「オールドウェストバリーだろ?あと1時間くらいかな?」ニューヨーク工科大学院のメインキャンパスのあるオールドウェストバリーは、ニューヨークの代名詞的な「マンハッタン」内ではなく、ロングアイランドの中心部に位置している。現地の人は、タクシーなんか使わない。普通は鉄道に乗るのであった。タクシーはついに目的地に到着し、佐々木は男に250ドルを支払った。男は非常に上機嫌で(当たり前だが・・・)「サンキュー・メン。エニータイム、エニータイム」といいながら去っていった。長い時間と高い金をかけて、佐々木はようやくニューヨーク工科大学院にたどりついた。「ふーっ。ニューヨークは、ちょっと手ごわそうだ・・・。」佐々木は思った。~【Kei 5 ニューヨーク工科大学院】につづく
2007.07.07
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―「学習塾愛夢舎」において、唯一、塾以外の企業での正社員経験を持つ鎌田。塾講師を辞めて、愛夢舎に戻るまでの間、彼はどこで何をしていたのか。ワケの分からない豆知識までを、授業で披露する鎌田の空白の4年間を探る―[1999年9月 鎌田、以前の塾を退社。リフレッシュのため、 一旦実家の長野へ帰省。 同月、東京・有楽町で行われた、 中途採用者対象の合同企業説明会に参加。 目星の企業を2社選ぶ ] ここで言う「目星」の2社は、全く業種を異にする会社でした。 1社は「MR」と呼ばれる、病院相手に薬品をセールスすることが専門の営業マンの所属企業で、 MRの資格取得の勉強から始められる点に魅力を感じました。 勤務地は、実家のある長野でした。 もう1社は、学習塾に対し、講師を派遣したり採用の手伝いをしたりする、 教育機関専門の人材供給会社。 分かりやすく言えば、派遣会社みたいなものです。 合同企業説明会で、鎌田の履歴書を見た説明担当者は急に低姿勢になり、 何としてでも鎌田を会社に連れていこうとしました。 きっと「この経歴の持ち主なら、どこかの塾に『売れる』だろう」と考えたのでしょう。 ただし、残念ながら、 このときの鎌田には、よその塾で講師になるつもりは毛頭ありませんでした。[1999年10月 教育機関専門の人材供給会社『C』に入社 ] 結局、鎌田の選んだ会社は、教育関連業である会社でした。 この会社の簡単な仕組みは、次のようなものです。 1.会社で日頃から講師職希望者(アルバイト、正社員問わず)を募り、 「登録者」としてデータを管理しておく。 2.塾や学校などで、講師が不足すると、塾から「講師を探してほしい」という依頼が入る。 3.依頼を受けたら、塾の希望に応じた講師を登録者の中から探し、 仕事内容の説明を行い、合意があれば、塾にその人物を紹介する。 4.塾は「講師採用の手間賃」として、費用を払う。 派遣会社の仕組みをご存知であれば、 ほぼそれと同じ流れであることがお分かりいただけるでしょう。 ただし、当時この会社では、厳密な意味での「労働者派遣契約」ではなかったため、 派遣会社ではありませんでした。 (派遣と業務委託の契約の違いを知りたい方は、鎌田まで。 一時、「労働者派遣事業 派遣元責任者認可」を持っていたため、 派遣労働法についても鎌田は明るいのでした♪)[1999年冬~ 『C』社で、研修担当を希望するも、開発室に配属 ] さて、鎌田を勧誘した担当者の思惑は、 やはり鎌田を他塾に紹介し、その手数料を稼ごうというものでした。 「教室長」だの「教務主任」だの、 やたら派手な履歴書とほどよい年齢を考え、 大手塾の教室長候補として紹介すれば、 高額な売上が着たいできると思ったのです。 しかし、鎌田が希望した職種は、 『C』社内部のスタッフとして、登録者の研修を担当することでした。 そもそも、彼が教育関連業界に残ったのは、 「自分ひとりで育てられる生徒は、 一度にせいぜい数十名、何年かかかってようやく数百名程度であるが、 自分が育てた10人の教師がそれぞれ100名の生徒を育てれば、 1000名の生徒が育つ」 ということを試したいと思ったからでした。 自分で教えたければ、自分で就職先を探してます。 『C』社の方も一瞬戸惑ったようでしたが、 その場で社長面接が行われ、鎌田は採用内定をもらいました。 ただし、配属された部署は「研修室」ではなく「開発室」。 分かりやすく言うと、営業部門です。 新規の取引先の塾を開拓するほか、 講習会や新学期の前には取引先の塾を訪問し、 会社から出向させる講師の枠をいただく。 と同時に、いざ取引先から講師手配の依頼が来れば、 自分で登録者のデータを繰って、出向させる講師を見つけるのです。 実に、『C』社の社員の大半は、この職についていました。 そして、入社してから分かったことですが、 「研修室」は、営業部門たる「開発室」で『使い物にならなかったヤツ』を送り込む、 掃き溜めのような部署だったのです。 担当者はヒマなので、ひがな一日「モーニング娘。」のホームページを見ている。 登録者相手に模擬授業の研修を行うと、「担当者の説明が分からない」と逆に文句を言われる。 挙句の果てに取引先に自分自身が行って授業を行うと、生徒からクレームが出る・・・。 いかん部署でした。[ 開発室で、以前の塾での同期と再会する ] 開発室に配属されて、鎌田が一番驚いたのは、そこに知った顔があったことでした。 以前の塾で同期として共に入社し、 「最後の5人」になるまで苦楽を共にしたF氏の姿がそこにありました。 彼は鎌田より半年ほど早く『塾』を離れたのですが、 やはり同じような経緯で、先に入社していたのです。 鎌田があっさりと社長と面会し、 あっさり内定をもらった裏側には、 先に入社していたF氏の働き具合が素晴らしく、 「あそこの塾の元社員は『使える』!」という評判が立っていたせいもあったのです。[ 開発室で、スゴイ依頼を受け続ける ] 鎌田は、まずは依頼に応じた講師を探すことから始め、仕事に慣れていきました。 ところが、あまりにスゴイ依頼が多く、 「塾がこんな状態で、ホントに大丈夫か?!」と唖然とすることも多かったのです。 さぁ、いよいよ裏バナシです。 実名は出しませんが、乞うご期待!~【Kama 2 スゴイ依頼】につづく
2007.07.06
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(【Kei2】へもどる) アメリカに渡り、英語を介し、ジャーナリズムを学ぼうと決めた佐々木であったが、まるで知識はなかった。どうすればアメリカに行けるのか。向こうの大学に入学するにはどうしたらよいのか。どのくらいお金はかかるのか。何冊もの本を買う金を惜しみ、必要な情報が頭に入るまで、何度も何度も書店に足を運び、立ち読みを繰り返した。結局のところ、留学において最大の難点は費用であることは分かった。佐々木は日本での就職活動を中断し、渡米のための資金稼ぎを生活の主体としていった。まずは、築地市場で2ヶ月半、夜中のアルバイトをしてためた資金で一ヶ月半程度の語学留学に向かうことにした。フロリダ州マイアミ。フロリダ国際大学内の語学学校。佐々木にとって、初めて訪れたアメリカの地であった。計画どおりに行けば、佐々木は日本で大学を卒業した後に留学することになる。であれば「学部」ではなく「大学院」に進学しよう。アメリカには、ジャーナリズム関連の大学院がたくさんあったので、佐々木は片っ端からパンフレットをかき集めた。その中から5校の候補を選んだが、どこも入学するための条件はほぼ同じであった。TOEFLの点数、GREの点数、志望動機を軸とした小論文の提出、そして、複数の推薦書の提出・・・。アメリカの学校は9月からが新年度であることが多く、佐々木も、大学を卒業した後の9月の入学を目指すことにした。大学4年の春、ためしに受けてみたTOEFLのスコアは400点程度だった。これでは、大学院はおろか、短期大学ですら受からない。数年ぶりに、佐々木は「受験勉強」を始めた。翌年の春。TOEFLの点数は590点。一流大学でなければ、なんとか合格できるレベルまでたどりついた。GREの英語は、アメリカ人を対象に作られているので、その難しさはTOEFLの比ではなかった。しかし、GREには数学の試験もある。日本人である佐々木にとっては、アメリカの数学なんて、中学校レベルも同然だった。大学卒業とほぼ同時に、アメリカの4つの大学院に出願した。そのうち、2校に無事合格することができた。佐々木は、学校の知名度より、環境、土地柄を優先させることにした。佐々木の選んだ学校は、ニューヨーク工科大学院。こうして、佐々木は9月には大学院生になることが決まった。~【Kei 4 ニューヨーク】につづく
2007.07.06
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(【Kei1】へもどる) 父の死を乗り越え、母の後押しもあって、佐々木は大学に入学した。母は、自ら商売をはじめ、その経営も軌道に乗ってきた。そのおかげもあって、佐々木はたくさんの友人をつくり、大学生活を楽しむようになった。決してレベルの高い大学でなかったが、想像していた以上に魅力的な人間が多く、とにかく大学では、そうした友人と世の中のことについて語り合った。大学での経験は、佐々木に大きな影響を及ぼし、未だ大学で得たものを尋ねると、「人生、世の中のことを考えることができたこと」と佐々木は答える。2年時になって、卒業後の進路を考えた。当時は「バブル経済」全盛期であり、就職戦線は、完全に「売り手市場」だった。それでも、先輩の就職活動の様子、内定の状況などを聞くと、どうも様子がおかしい。「佐々木、大手は結局『大学名』を気にするぜ。お前がどんなに優秀でも、大学の名前は常につきまとう。俺も、大手は全滅だよ・・・。」そんな周囲の声に、佐々木は戸惑った。別に大手に就職したいと考えていたわけではない。でも、せっかく母が行かせてくれた大学である。「良い会社」(大手?)に入ることが正しいことだとも信じていた。そんな折、親友のひとりが「進むべき道」を見出した。彼は大学を卒業したら、アルバイトで資金をため、それを元手に起業するという。はじめは、ただ無謀なことにしか思えなかった佐々木も、時間を忘れて彼と語るうちに「彼の本気」だけは理解するようになってきた。そして、そんな友人がいることを誇りにすら思った。「俺もやりたいことに全力を尽くそう。」佐々木はそう決心した。佐々木の「やりたいこと」。それは「英語に触れ続けること」だった。大層な理由はない。「カッコいい」。それだけだった。佐々木は両親の影響もあって、幼い頃から「アメリカのロック」、「アメリカの映画」に触れる毎日を過ごしてきた。中学生の頃、科目としての英語の成績は非常に悪かったが、英語の歌を歌うこと、外国映画のセリフを真似することは得意だった。大学の友人のすすめで、落合信彦氏の著作を手にしたこともきっかけだった。毎日のように氏の著作をむさぼり、「カッコいい!」といたく感じ入った。落合氏の肩書きは「国際ジャーナリスト」である。英語が堪能なばかりでなく、世界各国をまわり、その土地その土地で様々な人とかかわって、文章という形式で自分の主張を訴える。そんな氏の生き方に強い影響を受けた。大学卒業後の進路として、「趣味としての英語」を「仕事の英語」に転換させようと考えたことは、あまりに自然であったかも知れない。「アメリカに行って、ジャーナリズムを学ぼう」。佐々木はそう思った。~【Kei 3 留学準備―渡米】につづく
2007.07.05
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1986年7月。佐々木の父は逝った。大学進学を目指し、佐々木が受験勉強の追い込みに入ろうとした、まさにそのときだった。あまりに突然の死だった。健康そのものだと思われていた父は、心筋梗塞で勤務中に倒れた。佐々木が病院に駆けつけたときには、父はもう、病室ではないところに横たわっていた。まるで寝ているようだった。今にも起きてきそうだった。前日に交わした会話が佐々木の頭をめぐる。「お前、大学はどこを受けるんだ?」 「色々・・・」「ちゃんと受かるんだろうな?」 「わかんねぇよ・・・」それが2人の最後の会話だった。長い時間「父の死」を受け入れることができなかった。佐々木は18歳のこのとき、初めて「はかない」という言葉の意味が分かったような気がした。葬儀が終わっても、事実として受け止めることができないままだった。でも、自分と母は生きている。今後のことも考えなければならない。「俺、やっぱり働かなきゃ、ね」何のアテも、自信もないくせに、それが「言うべき言葉」だと思った佐々木は母にそう言った。でも、母はなんの考える様子もなく、佐々木に言い放った。「大学へ行きなさい。お父さんも、それを願ってるんだから」涙が止まらなかった。「枯れるまで泣く」という表現もあるが、泣いても泣いても、「涙は枯れることはない」ということも、このとき初めて分かった。佐々木は、大学に進学することを決意した。数ヶ月後、佐々木は大学入試に挑んだ。なんとか「父の死」を乗り越え、予備校の講習会にも参加し、やるだけのことはやったはずだったが、それでも結果は散々だった。7校受験して、かろうじて1校の合格・・・。志望順位の低かったその大学に、自分は進学するべきか。やはり「就職」すべき運命なのでは。「現役で大学に合格するのは、すごいことらしいよ。おめでとう。がんばったね。その大学に進学しなさい。」そう言って、佐々木の大学進学を決定づけたのは、やはり母だった。~【Kei 2 大学時代の葛藤】につづく
2007.07.04
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「愛夢舎ヒストリー」、いよいよ2007年までやってきました。もう過去の話ではなく「現在進行形」になってしまった・・・。そこで、いよいよ新章を始めます!スタートに際して、少しご説明を・・・。「愛夢舎ヒストリー(本編)」 そもそも愛夢舎は、生徒8人・講師3人からスタートした塾です。 現メンバーは、以前は「それなりの規模」の塾で、 それぞれ教室長をやっていたのですが、 「会社の倒産」⇒「元社長との闘争」⇒「夜逃げ」など、 どエラいドタバタの後、ようやく理想の塾を築きました。 私たちの「仲間」の中には、 金銭的な被害をこうむったり、 精神的・社会的に致命的な状態に追い込まれた者もいました。 別に、うらみつらみがあるわけではありません。 ただ私たちが「生きざま」として 教育にあたっていることを分かっていただくには、 この歴史を公開するのが早いかと思い、 数十章にわたってご紹介しています。 (未読の方は、ぜひ「カテゴリー」から過去の記事をご覧ください)「佐々木の渡米」 新章第一弾です。 そもそも塾業界に何の興味もなかった現塾長・佐々木が 業界にとびこんだきっかけは、 大学卒業後に渡米し、大学院で学んだことにありました。 ある意味、佐々木の「人生記」です。 これまで保護者・生徒にもお話ししたことのない、 相当ディープな内容を公開します。「サラリーマン時代の鎌田」 一旦塾業界を離れたものの、 4年の歳月を経て復帰するまでの間、 どこで何をしていたかの記録です。 数百にのぼる私立学校・塾のトップのパートナーとして、 数千人の学校教員面接を行い、 「学校経営の一助」まで担った彼の貴重な記録。 教育業界の知られざる世界をご案内・・・。ところで、愛夢舎のホームページもリニューアルしました。「家だ、家だ」と言っていますが、愛夢舎が果たしてどんな「家」なのか、ご覧になりたい方、「それで、佐々木ってどんな顔なの」とお思いの方、ホームページもご覧ください。(講師の容貌は、一部、大きく変わっているところがあります。鎌田は、金の長髪をばっさり切ってしまってますので・・・)
2007.07.02
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明日から期末テスト本番・・・。しっかり勉強できる、最後の週末でした。生徒の仕上がり具合はまだまだ不完全で、これで1学期の成績が決まると思うと、不安でしょうがありませんが・・・。・・・というわけで、今日も朝から晩まで授業&面倒見ラッシュ。先生もへろへろ状態・・・。日記の更新も明日から再開します。今日までご勘弁を・・・。
2007.07.01
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