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『山椒大夫・高瀬舟』森鴎外(角川文庫) この短篇集には、以下の五つの短編(後ろの二つについては、その「縁起」含む)が入っています。 山椒大夫(T4) ・ 魚玄機(T4) ・ ぢいさんばあさん(T4) 高瀬舟(T5) ・ 寒山拾得(T5) それぞれの作品について、私は再読かそれ以上の回数を読んでいると思いますが、今回、古書店で見つけたこの本の解説を高橋義孝氏が書いていまして、その文章によって、初めてこの一連の短編が、晩年鴎外の小説から史伝への橋渡しになっているということを知りました。 上記に発表年も書いておきましたが、鴎外の最初の歴史小説は、以前にも本ブログで報告したことのあります『興津弥五右衛門の遺書』で、これが大正元年になります。 そして、『高瀬舟』等の発表された大正5年には、史伝『澁江抽斎』の連載が始まります。 ということは、これらの作品は、えー? 鴎外にとってかなり意味のある作品群ってことになるではありませんか! (知らなかった。) ところで、上記の中では、どれが一番有名でしょうかね。 えーっと、やはり『山椒大夫』でしょうか。 安寿、恋しや、ほうやれほぅ。 厨子王、恋しや、ほうやれほぅ。 なんてフレーズを、私は音程を付けて何となく口ずさむことができるんですが、これって、何の「メディア」に出てきた曲なんでしょうか。 初期のアニメかしら? そんな『山椒大夫』を初めとして、『高瀬舟』については、多分中学か高校の教科書で読んだような気がするんですが、記憶がはっきりしません。しかし、初読はきっとそんなところでしました。 『寒山拾得』については、あれは誰の日本画なんでしょう、坊っちゃん刈りの、汚らしそうな服を着て、へらへら笑っている二人の「がきんちょ」の絵。 どうも最近、記憶が断片的になってしまって、話したいことがどんどん隔靴掻痒。加齢のせいで日に日に愚かになって、全く困ったものです。 ともあれ、そんな風に断片的に個々の作品には以前から触れていたんですが、今回高橋氏の文章から、これらの作品はセットで読むべきであるとのお教えをいただき、なるほどと思いつつそのように読んでいくと、なるほど、吉田兼好は偉いなーっ、と。 えっ? また話が本線から外れていますか? いえ、「何事も先達はあらまほしものなり」という例の一文を実感したという話であります。 この様にセットで、かつ、これらの作品を機に鴎外が史伝の世界に行ってしまったのだというテーマを頭に置きつつ読んでみると、俄然、よくわかるんですねー。 うーん、全く、偉いものです。 実はそんなことを知る前、この本を手に取ったときの僕のテーマは、密かにこんな事を考えていたんですね。 ポイントは、『高瀬舟』と『寒山拾得』である、と。 『高瀬舟』については、「安楽死」テーマをもう一度精査してみる。実際の所、鴎外は安楽死をどう思っていたのだろうか、と。 そして、『寒山拾得』については、前回読んだときの記憶では、狐につままれたような読後感であった、と。早い話がさっぱり分からなかった、と。 今回、より読解力のついた(!)私が、読みなおしてくれん、と。 と、まぁ、あれこれそんな「テーマ」を持ちつつ読んでみたら、上記のように俄然よくわかったことと、それから『高瀬舟』については、読み誤っていたとまではいきませんが、なるほど、鴎外の意図とそしてできあがった作品とは、こんな関係にあったのだなということが、私としては非常に納得できる形で浮かび上がってきました。 これだから、やはり、再読は大切なんですよねー。 と言うことで、詳細は次回に。 よろしければ、こちら別館でお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末にほんブログ村
2010.05.29
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『對髑髏・艶魔傳』幸田露伴(岩波文庫) 元々あまり漢字を知らない上に、もう四半世紀近くもワープロばかりでほとんど手書きをせず、それに近年は逃れられない加齢の難渋が加わり、漢字が書けも読めもできなくなりつつあります。(困ったことですなー。) そんな僕が、なんだって、どう読んでいいのかも分からないようなタイトルの小説を取り上げたのかといいますと、先日久しぶりに都会の古書店に行ったんですね。 そこはちょっとした古書店街で、十軒ほどの「古本屋さん」(懐かしい言い方)が並んでいます。 久しぶりに行きますと、僕なりの「獲物」がやはり、ちらほらあります。 僕の「獲物」とは、稀覯本なんかでは全くなく、基本的には本ブログで取り上げている本、つまり明治から昭和の日本文学(小説)の文庫本であります。 だから、たとえそれが初版本であっても(初版本に対する興味は僕には全くありません)、絶版本であっても(少なくない「獲物」が現在絶版本です)、値段的には、まー、知れているんですね。 それどころか、僕の求めるそんな文庫本は、基本的に売れ筋であるはずもなく(少なくない「獲物」が現在絶版本・リフレイン)、流行の大量流通古書店に準じてか、店前の通路に出してあるカートなんかに入って、一冊百円(場合によっては二冊・三冊で百円)で売っていたりします。 今回報告の岩波文庫も百円で見つけました。 ちなみに、昭和二十八年第一刷、「★」一つの岩波文庫で、このころの「★」印は、一つ四十円だそうです。そしてこれも現在絶版本です。 さて筆者の幸田露伴ですが、僕の持っている高校用の日本文学史教科書には、尾崎紅葉と並べて書かれてあります。 どういうペアかというと、「男性的な作品の露伴・女性的な作品の紅葉」というセットですね。 男性的な価値観とか生き方を、男性的な文章で力強く描く露伴という見解であります。確かに、以前本ブログで報告した『五重塔』もそんな感じの小説でありました。 ところが本書は、これが、珍なるかな、全然違うんですねー。たとえばこんなくだり。 第三十五は小便とて、是は昔時町家の娘などの小面の剥げたるを作り立させ、御大名の目に止るやう仕掛、支度金沢山取りて御妾奉公致させ、殿様添寝の暁寝小便したたかすれば、何ほど色好みの大名も驚きて御下となるなれど、さりとて支度金返せと云ひ玉ふ事もなく、又其悪き風評をさるるをも恥玉へば何の仔細なく其まま別離るるなり。当時売買の其まま流れとなるを小便といふも是より出たる事にて、是れ男に我身を罪の無き悪き者に思はせて直に退く企み、一番の酷らしき手、相對密夫筒もたせと変らざる悪事に候へど、まさかに当世小便は拙し。(『艶魔傳』) まるで、フランス文学の艶笑コントのようですよね。 この短編集には三つの話が入っています。そのうちの二つは、鏡花の『高野聖』のような話、つまり思わぬ山中や寒村に美女が現れるという話です。そして、その美女が自らの「愛欲」の半生を語るんですね。 こういう一種の「額縁」付きの小説は、この時代の流行だったんでしょうかね。国木田独歩なんかもこんな感じの小説を書いています。(遡っていけば、モーパッサンあたりに行き着くのかも知れませんね。) そしてその二つの「色っぽい」小説に加えて、残り一つの短篇が、上記に引用した『艶魔傳』で、これは書簡体(仏文得意(?)の、例えばラクロの『危険な関係』の書簡体!)で、男を手玉に取る方法を伝授するという内容です(まさにラクロですね)。 上記引用部冒頭に「第三十五」と書いてあるのは、「色道裏の第一」から始まる、男を誑かすことから始まって、都合良く捨ててしまうに至る、様々なテクニックの紹介順であります。(「恋愛テクニック」の35個目ですよ。どうです、とっても面白そうでしょ。) 考えれば、露伴は小説家であると共に、考証家でもありました。露伴の多方面にわたる博引旁証ぶりは、実に恐るべきものであったと聞きます。 露伴とフランスの「好色文学」とは、およそ関わりがなさそうに思いますが、蘊蓄家の筆者のことですから、あっち方面の知識も、実は極めてマニアックにいろいろとご存じであったということは、充分に考えられますよねー。 よろしければ、こちら別館でお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末にほんブログ村
2010.05.27
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『平凡』二葉亭四迷(新潮文庫) この本は僕は再読です。二年ほど前に確か初めて読みまして、その時は結構面白がっていたんですね。その理由は二つです。 (1)この小説は『トリストラム・シャンディ』じゃないか、という興味。 小説というのは面白いジャンルで、十八世紀あたりからわっと広がった新しい形の表現形態だそうなんですが、できたての頃に、すでにその枠組みを内部から壊そうとするタイプの作品が生まれてるんですね。 その一つが、イギリスの作家ローレンス・スターンが書いた『トリストラム・シャンディ』という小説であります。 主な特徴としては、一貫したストーリーの欠如で、現代の言葉で言うと「メタ・フィクション」ですかね。何でもありーの小説です。二葉亭のこの作品にも、例えばこんな表現があります。 ……が、待てよ。何ぼ自然主義だと云って、こうどうもダラダラと書いていた日には、三十九年の半生を語るに、三十九年掛るかも知れない。も少し省略ろう。 で、唐突ながら、祖母は病死した。 こういうのはどうなんでしょうね。極めて現代的な感じがしますが、案外、そのジャンルの黎明期の方が、そのジャンルの成立に尽力したような人が、あっさりとこんな事を書くのかも知れませんね。少しそんな気もします。 そして、これも関係するのですが、二つ目の理由。 (2)文体がほぼ完全な言文一致をなしていること。 この作品は、1907年(明治40年)に東京朝日新聞に連載されています。 この作品の連載の前に、同じ東京朝日新聞に連載していた小説は、夏目漱石の『虞美人草』です。漱石が、最初の「リアリズム小説」『三四郎』を書く約一年前であります。 ちなみに森鴎外が最初の口語体小説『半日』を書いたのが、1909年(明治42年)です。二葉亭の口語文章力が、いかにこの時代において突出していたかが分かります。 本文の中に、飼い犬の「ポチ」が殺されてしまうというエピソードが出てきます。 二葉亭自身がとてもかわいがっていた愛犬の死が実際にあった直後のようですが、そのポチについての描写は、実に丁寧で瑞々しく、犬好きの者でなくとも、その犬に好意を抱いてしまうほどの達者な文章であります。 という、大体二つの理由で、僕は初めてこの作品を読んだときは面白がっていたんですが、今回読みなおしてみて、少し辛いところがありましたね。 その理由は、一言で言うと、要するに、作者のパッションが伝わってこないということですね。 表現として極めて達者なものであっても、作者の中に、何というか、やはり高い志がなければ、作品は冷笑的なシニカルなもの、いささか不真面目さの感じられるような投げやりな感じのものになってしまうということですね。えらいものです。 ではなぜ、この時期の筆者が、小説執筆について「なげやり」であったかについては、かつて本ブログでも紹介致しました、中村光夫の『二葉亭四迷伝』に詳細な説明があります。 それを僕なりにまとめますとこうなります。 結局二葉亭は徹底的な「眼高手低」作家であった、と。いえ、もう少し厳密に云えば、自分は「眼高手低」な作家であると、彼自身が一番に思っていた作家であったと言うことです。 彼は自らの「眼高手低」の基準を、明治の中頃、わが国ではまだ近代小説は産声を上げたばかりでしかなかった頃に、ロシアのトルストイとかそのあたりの大巨人と比較して、自らの小説についての才能不足を嘆いていたんですね。 うーん、しかしこの一種誇大妄想じみた観念も、ここまで来るとやはり普通の型には納まりきらない、優れた偉大な「個性」としかいいようがありませんよねー。 泣きながら書いたと言われる『平凡』は、結局尻切れトンボのように終わります。 その翌年(1908年)、以前よりの念願が叶って、二葉亭は朝日新聞特派員としてロシアに赴任、ペテルブルグへ行きます。 しかし体調を壊したこともあって充分な結果を残せず、翌1909年、船での帰国途中、ベンガル湾上で客死します。 この不思議な明治の「文豪」の享年は45才、死を惜しまれるナンバー1作家・漱石よりもまだ4才、年下でありました。 よろしければ、こちら別館でお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末にほんブログ村/font>
2010.05.25
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『遙拝隊長・本日休診』井伏鱒二(新潮文庫) かつて一年に364日くらいお酒を飲んでいた時期がありました。 いえ、しっかり体を痛めて、今は控えているんですがね。 そんな酒飲みはみんな下痢体質だと、中島らもの小説で読んだことがありますが、僕もその例から漏れません。 というより、僕は幼かった頃から「お姫様腹」と言われていまして、すぐにお腹を壊す、下痢をする体質でした。 今ではだいぶ治っているような気がしますが、その代わり(その代わりってのも変ですが)息子にしっかり遺伝して、息子は「お姫様腹」です。 (ついでに、「お姫様腹」の対義語が「乞食腹」で、何を食べても、腐りかけているものを食べても大丈夫な消化器官を持った人のことを指します。あー、女房なんかがそうなのかも知れません。) 小さかった頃、よくお医者さんが家に来て、僕はお尻によく注射をされました。 (昔はよくお尻に注射をされたんですが、今でも小さい子供については、そんなことするんですかね。うちの子供についての記憶では、そんなシーンはないんですがね。) お尻に注射はともかく、かつては「往診」ってのがかなりあったような気がしますが、これも今はもう、ほぼないんでしょうね。 それはもちろん、マイカーが行き渡り、発熱中の子供でもお医者さんまで連れていけるという社会事情の違いや、やはり、往診って、お医者さんにとっても大変でしょうからね。 でも少し穿ったことを言いますが、往診がなくなって、お医者さんが少し近寄りがたい「偉い人」になってしまったような気がします。(穿ちすぎの意見でしょうか。) さて、冒頭の作品集に収録されている『本日休診』は、昭和二十四年から二十五年にかけての連載発表です。産婦人科医の三雲先生は、往診だらけです。そして、今読むと信じられないような(しかし間違いなくリアリズムの)仕事風景です。「先生、大手術なさる前には、やはり先生もお酒を召しあがるんですね」その男は、顔に緊張の色を見せて云った。「私は岡山の生れですが、あそこの医科大学の、何とかさんという外科の博士さんも、やはりそうでした。大手術の前には、お酒を飲むという話でした。いざ、これからというときに、きゅうッと強い酒を飲むそうです。足から生れる児を出すのは、やはり大手術の部にはいりますでしょうか」「初産かね」「二度目です。七年前に産みましたが、安産でした」「じゃ、大したことはない」 こんな時代が「古き良き時代」といえるのかどうか僕には少しわかりませんが、少なくともこの時代は、人間は生活の隣にいつも死を伴っている、つまりもっと自然の中で生きていた時代だという気がします。 さて、筆者井伏鱒二氏ですが、上記のような表現を読んでいると、いかにも達者だなー、という感じがします。 井伏氏のこの達者ぶりは、初期作品の『山椒魚』の頃からそうですが、肩に力が入るということが全くなく、それでいてとても的確な描写であり、まさに「無手勝流・天衣無縫」という気がします。 全く見事なものであります。 一方、もう一つの収録作『遙拝隊長』についてですが、実は僕はこの本は再読で、前回読んだ時は(もうかなり昔です)、こちらの小説の方がおもしろく感じられました。 しかし再読して、今回はさほどおもしろがることができませんでした。 狂人に、軍隊において用いられる権威主義的言葉を用いさせ、さらに軍隊用語的な説明を加えるのですから、そこに、権威の転倒によるユーモアと、強烈な批判精神が生まれるのは間違いのないところではありますが(そして前回読んだ時は、僕もそこに快哉を叫んだことは間違いないのですが)、今回読んでみて、少し身も蓋もないという感想を抱きました。 もちろんそんなところは筆者も十分承知して、作品の終盤から最終場面にかけて、軍国思想批判にとどまらない、人間の存在そのものへの深い視線が見られはするのですが、僕は少し、さはさりながらと思えてしまいました。 でもそんなのって、きっと贅沢な不満なんでしょうね。 この二作は、間然とすることのない、引き締まった作りの好短編といってしまって、過つところはありません。 よろしければ、こちら別館でお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末にほんブログ村/font>
2010.05.22
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『夜叉ヶ池・天守物語』泉鏡花(岩波文庫) 『ゲゲゲの鬼太郎』って、とっても面白いですね。 何度もテレビアニメ化されたり、近年は実写で劇場映画化されたりもしていましたね。きっと根強い人気があるんですよね。 そんなに深く入れ込んでいたわけでも、また考察したりしたわけでもありませんが、僕も割と古くからの鬼太郎ファンです。少年マガジンに『墓場の鬼太郎』というタイトルで連載していた頃から知っています。 鬼太郎漫画の魅力はなんと言っても、バラエティー豊かな、次々と現れる妖怪の魅力でしょうか。 日本人は妖怪が好きですね。 でも、これって日本だけの現象なんでしょうかね。うーん、よくわかりませんが、そうだとしたら、それは日本の特殊な文化傾向なのか、それともずばり水木しげる作品の魅力ゆえなのか、こんなあたりも研究すればいろいろ面白いでしょうね。 ともあれ、「人間は妖怪が好きですね」という言い方に変えた方がいいのかもしれませんが、とにかくそんな状況分析がある、と。(って、人ごとみたいに書きましたが、もちろんこれは僕が勝手にアバウトに状況分析したわけであります。) さて冒頭の作品でありますが、最初につまんないことを一つだけ。 この作品は、本ブログで初めて取り上げる戯曲作品です。今まで基本的にずーっと小説作品だけを取り上げてきましたが(評論はいくつか取り上げました)、実は僕はさほど頑なに小説のみを読んでいるわけでは、まぁ、ありません。当たり前ですね。 本ブログに取り上げる作品も、もうそろそろそんな「頑なさ」はやめにして、少しずつ懐深くということで、(詩作品なんかも先日取り上げましたように)ジャンル枠を広げていこうかと考えています。まぁ、どうなるかわかりませんが、そんなことで、よろしく。 閑話休題、冒頭の二つの戯曲ですが、いやー、実に見事な戯曲であります。 なるほど、漱石が天才であるといい、芥川や志賀直哉や並みいる文豪がその魅力を大いに語ってやまない泉鏡花ですが、さすがに凄いですよねー。ト書きにまで気合いが入っていますよ。例えばこのト書き、クライマックスのシーンのものなんですが。 学円 (沈思の後)うむ、打つな、お百合さんのために、打つな。 晃 (鎌を上げ、はた、と切る。瞠と撞木落つ。)途端にもの凄き響きあり。……地震だ。……山鳴だ。……夜叉ヶ池の上を見い。夜叉ヶ池の上を見い。夜叉ヶ池の上を見い。真暗な雲が出た、……と叫び呼わるほどこそあれ、閃電来り、瞬く間も歇まず。衆は立つ足もなくあわて惑う、牛あれて一蹴りに駈け散らして飛び行く。 鉱蔵 鐘を、鐘を…… 嘉伝次 助けて下され、鐘を撞いて下されのう。 宅膳 救わせたまえ。助けたまえ。 (『夜叉ヶ池』) 二作品共に見られる絢爛豪華な音楽的な台詞回しが、まず見事であります。 それに加え、『夜叉ヶ池』ならば、上記に引用したあたりがそうですが、大洪水の起こる場面のカタストロフィーの見事さ。 まさに勧善懲悪、観劇の楽しさを存分に味わえる作りになっています。 一方『天守物語』においては、ドラマツルギーが見事ですねぇ。 舞台は姫路城の天守閣のみで、階下に起こる事件を天守の人物が実況報告しつつ物語が進んでいくという、なんか「飛び道具」のような展開は、いかにも舞台芸術の象徴性を見事に具現化した、小憎らしいばかりの作劇と演出になっています。 さてそこに主人公となって現れるのが、二作品共に妖怪であります。 いえ、厳密に言いますと、二作品の主人公の「姫」は、過去に人間によって無念の死を遂げさせられた女性が妖怪へと生まれ変わり、その恨みを晴らす(それも、そのきっかけはどちらも人間側の裏切りや非道にあって)、という形のものです。 醜い人間世界と、美しく誇り高い妖怪世界というこの構図は、いったい何なのでしょうか。 冒頭にふれました、妖怪好きの人間という分析とあわせ、ほんの覚え書き程度の事柄を最後に二つ、まとめておきたいと思います。 ひとつは、妖怪と人間の力関係が、その分析には重要なのじゃないかということです。『天守物語』の時代設定は封建時代となっていますが、『夜叉ヶ池』は現代、つまりこの劇が書かれた大正期であります。 この時代、妖怪は一般的に恐れられていた存在なのでしょうか。 そんなことを考えると、その先には、明治の文明開化以前の古い日本からの、現代(明治・大正時代)を照射する文明批判的な光を読み取ることができそうな気がします。 そしてもうひとつ、人はなぜ妖怪を愛するのかということですが、それは妖怪が、自然を我々が感情移入できるような形に擬人化したものであるからということです。 だとすれば、妖怪とは、全く日本の八百万の神やギリシャの神々と相似形に重なる自然への親近感であり、さらに、妖怪への嗜好とは詰まるところ、流行りの環境問題なのではあるまいか、と。 なるほど、時に煩瑣な環境問題の先に、例えば「一反木綿」が「ぬりかべ」が、そして『夜叉ヶ池』の「白雪姫」がいると考えると、何ともいえぬ親しみとリラックス=脱力感が感じられて、怠け者の僕なんかは、とってもうれしいんですがねー……。 よろしければ、こちら別館でお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末にほんブログ村/font>
2010.05.20
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『カインの末裔・クララの出家』有島武郎(岩波文庫) 先日久しぶりにビートルズの『サージェントペパーズロンリーハーツクラブバンド』(カタカナで書くととても長いですね)のCDを聴きました。 久しぶりに聴くととってもいいですね。 そしてついでに、ネットであれこれ探していたら、いろんな画像が溢れていることを改めて知りました。 何の曲を中心に探していたか、そしてなぜこんな話題を書いているかと言いますと、冒頭の二つの短編小説のうちの最初に読んだ方、『クララの出家』に触発されたんですね。 「あ、これは、ビートルズの『She's Leaving Home』だな」と。 これもネットで拾ってきたんですが、こんな歌詞ですね。 Wednesday morning at five o'clock as the day begins Silently closing her bedroom door Leaving the note that she hoped would say more She goes downstairs to the kitchen Clutching her handkerchief Quietly turning the backdoor key Stepping outside she is free She (We gave her most of our lives) Is leaving (Sacrificed most of our lives) Home (We gave her everything money could buy) She's leaving home after living alone (Bye, bye) For so many years 同様にネットでこの曲に関するコメントを見ていたら、いろんな事が書かれてありました。 例えばレナード・バーンスタインが、この曲はシューベルトのどの歌曲よりも美しいと言ったとか、この曲の元になっている家出少女のエピソードは、ポールが新聞紙から見つけたとか、なかなか興味深いお話があれこれあって面白かったです。 というイメージを抱きつつ、そして頭の中にはビートルズの曲を流しつつ、僕はこの短編を読んでいったんですが、途中からもう一つ、別の物をまた思いつきました。 「あ、これは、三島由紀夫の『憂国』だな」と。 僕はこの有島と三島の二作品に、単純に考えて二つの共通点があると感じました。 (1)完璧に一つのエピソードのみで作品を作り上げていること。 (2)主人公の行動の裏にはかなり官能的なものがあるということ。 『憂国』は(背後の設定は幾つかありますが)、単純に切腹をするというだけの話です。 そしてこの作品内の血に溢れた描写には、とても強い官能性があります。 (これは後に知ったのですが、そもそも「切腹マニア」なる方々も世間にはいらっしゃって、切腹に関する事柄で性的興奮を覚えるという、なかなかストライク・ゾーンのシビアな嗜好の方々ですね。) 一方『クララの出家』も、タイトル通り、「出家する」というだけの話です。 そしてこの中にある、彼女の持つ宗教に関するイメージには、やはり強い官能性があります。 そして僕が面白いと思うのは、このどちらもの作者が、その官能性に対して「確信犯」であることですね。 しかし三島由紀夫はともかく(彼ならいかにもやりかねませんよね)、有島武郎が出家しようとする少女の内面に強い官能性を描くというのは、もちろん「リアリズム」(あの『或る女』を描いた恐るべきリアリズム!)としてはわからないわけではありませんが、彼自身がキリスト教信者であることを考えると、少し「背徳的」な感じがあるような気がします。 もう一作の『カインの末裔』においては、あれほど野卑と粗暴の塊のような主人公を造型しながらも、「背徳的」なものはほぼ感じられないという、一種不思議な純粋性を描いているというのに……。 なかなか面白いものですね。 さて本短篇集には、そんな見事にイメージの異なる二作品が収録されています。 最後に、この二作品に作り上げられたイメージの遙かな隔たりを思うと、僕は筆者の小説家としての懐の深さに、改めて大いに感心致す次第でありました。 よろしければ、こちら別館でお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末にほんブログ村/font>
2010.05.18
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『猫町』萩原朔太郎(岩波文庫) 朔太郎と猫といえば、もちろん『青猫』という日本文学史上五指に入るような詩集のタイトルがありますが、(そもそも猫は朔太郎に霊感を与える動物のようですが)『月に吠える』の「猫」の詩が僕にはとても印象的です。有名な詩なんでちょっと抜き出してみますね。 猫 まつくろけの猫が二匹 なやましいよるの家根のうへで、 ぴんとたてた尻尾のさきから、 糸のやうなみかづきがかすんでゐる。 『おわあ、こんばんは』 『おわあ、こんばんは』 『おぎやあ、おぎやあ、おぎやあ』 『おわああ、ここの家の主人は病気です』 ……この家の主人は病気ですって、あんたが病気なんでしょうが、って初めて読んだときは思わずつっこみを入れてしまいました。 特に『月に吠える』の詩はほとんどがそうですが、我々鑑賞者としては、そのままに読んでそのままに「すごがる」(って表現は、違反ですかね。ひたすらすごいナーと思い続けるって事ですが)しかないように、最近僕は思っています。 もう少し若かった頃は、この凄さの秘密は一体どこにあるのかと、少しはあれこれ詩の解説文章なんかを読んでみましたが、(当たり前なのかどうかは知りませんが)結局言葉の置き換え以上に納得できたものはなかったです。 そういうことで言いますと、詩の鑑賞を文字に表すというのは、絵画(例えば抽象画でも)とか音楽の鑑賞を文字に表すよりもっと難しいように思います。 文字で描かれていない芸術の方が、返って文字媒体にした時に少しは掬い取れる物があるような気がします。 文字媒体の芸術は、別の文字に置き換えたところで、その本物の表現より良くなりっこありません(良くなるんならその本物の芸術の出来が悪いんですよね)。 そこで僕は数年前より、すごい詩を読んでは阿呆のように「すごいなーすごいなー」だけ言ってきました。「白痴読み」ですね。 ということで今回取り上げた岩波文庫の作品集ですが、今後、詩作品を本ブログでも取り上げるか否かと言うことを少しは考えていたんですが、まぁ、「試供品」のような感じで、とりあえず取り上げてみました。 (よく考えれば、かつて宮沢賢治の童話も取り上げましたものね。) さて本短篇集は三つのパートから成り立っています。 一部・小説、二部・散文詩あるいはアフォリズム、三部・随想、と、こういう構成です。 こうして各パートの作品にとりあえず「レッテル」を張ってしまいましたが、そのように考えたらそんな気もする以上の意味は、実はありません。 そもそも僕は「散文詩」というものがよくわかりません。 そんなこと言っちゃうと「小説」と「詩」だって、その国境線はよくわからなくなってきます。 (朔太郎は『詩の原理』の中で、「小説は文学に於ける詩の逆説である」と言っているそうですが、無知・不勉強で何のことかよくわかりません。) ただ本書の中では「散文詩」的な第二部に面白い話が多かったと僕は思いました。 「自殺の恐ろしさ」自殺の恐ろしさとは、死へ向かってのその決行から、死の完成までの間の、ごく短いタイムラグの間に取り返しのつかない己の行動への後悔が出現することが恐ろしいのであるという、いかにも朔太郎的なオリジナリティと穿った発想が面白かったです。 「詩人の死ぬや悲し」芥川とニーチェのエピソードが悲しくもどこか懐かしさを伴って哀切。詩人の、持って生まれた才能に対する存在論的な不幸を描いて余りあります。 「虫」これこそ詩人による詩人自身の内面描写。「鉄筋コンクリート」という言葉の「謎」に取り憑かれた詩人を巧まぬユーモアを交えて描き出します。そして言葉の秘密を知った詩人の快哉。詩と美と言葉とそして狂気の、綱渡りのような緊迫感が実にスリリングで、読後、スポーツ観戦のような爽やかさが感じられます。 とまぁ、細切れに書いてみました。 第一部の「猫町」を中心とする小説は、芥川と宮沢賢治と梶井基次郎とそして江戸川乱歩を足して割ったような作品でしたが、小説としてみると、もう一歩展開に「キック」が足りないように思いました。 だって筆者は小説家ではなく、しかし日本一の詩人なんですものね。 ということで、私事ながら、詩の批評はやはりなかなかできるものではないなという感想に、もうしばらく落ち着きそうであります。 よろしければ、こちら別館でお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末にほんブログ村/font>
2010.05.15
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『歯車』芥川龍之介(岩波文庫) 上記作品の読書報告の後編です。 本短篇集には、以下の三作が収録されています。 『玄鶴山房』・『歯車』・『或阿呆の一生』 前回の報告では、そのうちの『歯車』を取り上げ、読後、二つのことを考えた(あるいは、疑問に思った)として、その一つ目に触れていた途中でした。(考えれば中途半端なところで前回は終わっていまして、どーもすみません。) それは、後半をフォローしながら一言で云うと、『歯車』は「壊れかけた理性」を描いている作品だが、果たして芥川の理性は本当に壊れかけていたのだろうか、ということであります。 狂気を描く小説というものは、実は、結構ありますよね。 小説家は、どういうものか、「狂気」に対してかなり、神経質なくらい敏感ですね。やはり何か思うところというか、恐れるところがあるんでしょうね。分からないことないですね。 そんな中で、僕が狂気を描いて第一級と思っている小説に、色川武大の『狂人日記』がありますが、確か山田風太郎がこの作品に触れて、「壊れた頭を描く壊れていない頭」と述べていました。 当たり前ですが、「壊れた頭」では「壊れた頭」は描けません。 とすれば、『歯車』等を書いた時点で、芥川の理性は本当に壊れかけていたのでしょうか。ひとつそれが、疑問に残りました。 もう一つ読後に思ったことですが、上記の三作の内、芥川が生きている間に発表されたのは『玄鶴山房』だけなんですよね。 なるほど、この作品はとりあえず作品として「体」を成しています。 死を近くに控えた老人堀越玄鶴とその家族の、鬼気迫るような、粘抽度の高いストーリーと描写は、人生の意味に絶望的な晩年の筆者の視点とそのまま重なって、奥行きのある作品となっています。力作です。 しかし、『或阿呆の一生』はどうなんでしょう。 これは、作品として発表に値する作品なんでしょうか。 本作は冒頭に、久米正雄宛の私信の様な一文(遺書)が付いていまして、それによると、この原稿を発表するか否かは君に一任する、とあります。 この一文は何でしょうね。 普通に考えると、こんな一文付きで遺稿を預かった友人の小説家は、まー、例えばそんな人が仮に十人いたとしたら、たぶん十人が十人とも発表するんじゃないでしょうかね。 カフカの友人なんか、死ぬ前のカフカから全部燃やしてくれと言われていた原稿を、そのまま全部発表しちゃったんですから。 でもそのおかげで、人類は二十世紀文学に、実に肥沃なフィールドを一つ手に入れることができましたんですけどー。 閑話休題。芥川は多分、この作品に自信がなかったんでしょうね。 つまり発表するに足りるものかどうかの。 本作の最後の断片「五十一 敗北」にはこう書かれています。 彼はペンを執る手も震へ出した。のみならず涎さへ流れ出した。彼の頭は〇.八のヴェロナアルを用ひて覚めた後の外は一度もはつきりしたことはなかつた。しかもはつきりしてゐるのはやつと半時間か一時間だつた。彼は唯薄暗い中にその日暮らしの生活をしてゐた。言はば刃のこぼれてしまつた、細い剣を杖にしながら。(『或阿呆の一生』) この表現の中に、晩年の筆者の痛々しい姿を見ることは可能ではありましょうが、例えば、三島由紀夫が、太宰治に対してコメントした、彼の苦悩の何割かは朝きちんと起きて乾布摩擦をすることで解決する種のものであるといった趣旨が、そのまま当てはまると考えられないこともありません。 しかしご存じのように、三島由起夫は最後、太宰的あるいは芥川的理性の崩壊は経験しなかったかもしれませんが、三島的な透徹した理性のせいで、結局は三者同様の死に方になってしまいました……。 うーん、なかなか難しいものですねー。 よろしければ、こちら別館でお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末にほんブログ村/font>
2010.05.13
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『歯車』芥川龍之介(岩波文庫) 私事ではありますが、本ブログの第一回に芥川の『河童』と『歯車』を取り上げました。 しかしその時は、一冊の本という単位の取り上げ方ではなく、一作品(あるいは二作品)という単位の取り上げ方でありました。 本棚を見てみると、あの時の本は、旺文社文庫の芥川作品でした。 というつまんないことから書き出しましたが、今回冒頭の岩波文庫で以下の三作を読みました。 『玄鶴山房』・『歯車』・『或阿呆の一生』 第一回目のブログで僕は『歯車』を取り上げて、こんな事を書きました。 解説文によると、このタイトルは、発表前に(この作品の発表は芥川の死後ですがー)、原稿を見せてもらった佐藤春夫がアドバイスをしてつけたそうですが、うーん、なんというか、感心しましたね。 この作品は、幻覚と幻聴が始終おそってきて、死にたい死にたいと考えている人物が主人公ですよ。そんな作品を読んだとき、一番に言うべきなのは 「うーん、タイトル、変えた方がいいねー」じゃなくてー、入院を勧めることでしょうに。おかげで芥川君は死んじゃったじゃないか。 うーん、難儀な人達です。 この思いは全く今回の読後感も同じですね。 この作品で芥川の自殺は、ほぼ宣言されているんじゃないですかね。 作品の発表そのものは芥川の死後ですから、一般読者はどうしようもなかったでしょうが、少なくとも佐藤春夫はもう少し親身になって、家族に緊急度の高いアドバイスなりをするべきじゃなかったかと思います。 この作品は、そんな、「壊れかけた理性」を描いています。 僕は読後二つのことを思ったのですが、まず一つ目はこんなことです。 今書きました「壊れかけた理性」ですが、例えばこんな風に描かれているところ。 僕はそこを歩いてゐるうちにふと松林を思ひ出した。のみならず僕の視野のうちに妙なものを見つけ出した。妙なものを? --と云ふのは絶えずまはつてゐる半透明の歯車だつた。僕はかう言ふ経験を前にも何度か持ち合せてゐた。歯車は次第に数を殖やし、半ば僕の視野を塞いでしまふ、が、それも長いことではない、暫らくの後には消え失せる代りに今度は頭痛を感じはじめる、--それはいつも同じことだつた。(『歯車』) この歯車の幻視ですが、続いてこの文章はどうでしょうか。 そのとき、にわかに伊木一郎は躯に異変を覚えた。立暗みに似た気分だが、ふしぎに病的な感じではない。 彼は部屋の隅の椅子に腰をおろした。異変はつづいており、躯の奥底でかすかな海鳴りに似た音がひびき、それがしだいに大きくなり、広い幅をもった濃密な気分が轟々と音を発して彼の躯の中を縦に通り過ぎた。膨らみ切ったたくさんの細胞が、一斉に弾け散ったような音がそれに伴った。 よく似ていますよね。でもこれは芥川ではありません。 この文章は、吉行淳之介の『砂の上の植物群』から取ってきました。 つまり、この程度の「幻視」を書いているうちは、作家の理性はまだまだ大丈夫なわけですね。 でも、上記の『歯車』には、ついで主人公がホテルの食堂でステーキを食べていると、「小さい蛆が一匹静かに肉の縁に蠢いてゐた。」とあります。 これはもう、かなりアブナイですね。 そしてさらに、翌朝、ホテルで目覚めるとベッドの下にスリッパが片方しかないと書かれています。そこでボーイを呼んで、スリッパを捜させるとバス・ルームから出てきます。 このエピソードも、かなり危ういですね。 うーん、やはり、佐藤春夫は、タイトルのアドバイスをしている場合ではなかったじゃないですかね。 さらに、次回に続きます。 よろしければ、こちら別館でお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末にほんブログ村/font>
2010.05.11
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『風立ちぬ・美しい村』堀辰雄(岩波文庫) それから私たちはそうして手を組んだまま、一つの沢の前に立ち止まりながら、押し黙って、私たちの足許に深く食いこんでいる小さな沢のずっと底の、下生の羊歯などの上まで、日の光が数知れず枝をさしかわしている低い潅木の隙間をようやくのことで潜り抜けながら、斑らに落ちていて、そんな木洩れ日がそこまで届くうちに殆どあるかないか位になっている微風にちらちらと揺れ動いているのを、何か切ないような気持で見つめていた。(『風立ちぬ』) 八ヶ岳の大きなのびのびとした代赭色の裾野が漸くその勾配を弛めようとするところに、サナトリウムは、いくつかの側翼を平行に拡げながら、南を向いて立っていた。その裾野の傾斜はさらに延びて行って、二、三の小さな山村を村全体傾かせながら、最後に無数の黒い松にすっかり包まれながら、見えない峪間のなかに尽きていた。(『風立ちぬ』) 上記小説の読書報告の後編であります。 前回は、同短篇集にもう一つ入っている『美しい村』を取り上げて、堀辰雄独特の文章についての感想を書きました。 上記の引用文の一つ目などは、読みづらくも、一つ一つの言葉に躓きながらイメージを形作っていくと、とても瑞々しいものが朝の水蒸気のように立ち現れるという、そんないかにも「堀辰雄製」と言えそうな文章であります。 なるほど堀辰雄の文章は、このように実に美しさを発揮するものではあります。 しかしそれだけでは、堀作品は一部の文学マニアに読み継がれるだけであったでしょうが、人口に膾炙された堀辰雄らしいイメージは、今更ながらにこの『風立ちぬ』のストーリーにあります。 かつて僕が文学青年であった頃(今となっては「大昔」なんでしょうが)、僕はなぜか堀辰雄の作品には出会いませんでした。 多分堀辰雄と同じような「ランク」の作家で(「ランク」ってのも変な使い方ですが)、僕が「出会った」のは、太宰治・梶井基次郎・中島敦ではなかったかと、自分では思っています。 友人に『堀辰雄全集』を持っていた奴もいましたが、なぜか僕はほとんど入っていきませんでした。 今回読んだ『風立ちぬ』は、多分再読だと思いますが、もしこれを十代後半か、二十代初めの頃にしっかり読んでいたら、ひょっとしたら僕の読書傾向は少し変わっていたかなと思いました。 冒頭に二文引用をしてみましたが、二つ目の文章なんかは、いかにも「文学青年」が感心し、憧れ、そしてこっそりと真似をしそうな描写でありますよね。 その上、ストーリーの素材が 婚約者・結核・別荘地・サナトリウム・死ときて、タイトルがポール・ヴァレリーの詩句 「風立ちぬ いざ生きめやも」からと来れば、なんかもう「煮つまっている」という感じなんですが、これは一体どういうことなんでしょうね。この堀辰雄が、そもそもの「オリジナル」なんでしょうね。 何のことかといいますと、今に至るまで間欠泉のように世間に現れ続ける「大恋愛」小説・映画・テレビドラマ・漫画などのことです。 最後に男女どちらかを「殺して」、そして巷間の淑女達の涙を絞るというたぐいのやつですね。 今回僕は、この作品を「批判的」に読み始めてみました。 再読であったし、この話は「できすぎ」で、通俗的でありすぎるんじゃないかという気がしたんですね。 そしてそう思って読んでいくと、五章あるうちの始め三章あたりまでは、確かに作者の自己満足のように読めないでもありません。煽りすぎのエピソードと感じる個所も見られそうです。 しかし、第四章から日記形式がきちんとなり(三章までは、「手記」の形でしょうか)、四章の終わりに恋人の死が暗示され、第五章はそれから一年後の、たった一人の冬の軽井沢での山小屋生活が描かれます。 このあたりに来ますと、さすがに凡百の通俗恋愛小説作家には書けない描写です。 「死」の静謐さと象徴性が、雪の野山や林や夜、灯りやそして大気の中にまで、しみ通るように描かれています。 なるほど、「風立ちぬ いざ生きめやも」とは、こういう意味であったのかと思わせる圧倒的な作者の筆力に、僕は少しため息をつきながら、やはりもっと若かった頃にこれを読んでいたらと、再び考えるのでありました。 よろしければ、こちら別館でお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末にほんブログ村/font>
2010.05.08
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『風立ちぬ・美しい村』堀辰雄(岩波文庫) 水車の道の上へ大きな枝を拡げている、一本の古い桜の木の根元から、その道から一段低くなっている花畑の向うに、店の名前を羅馬字で真白にくり抜いた、空色の看板が、さまざまな紅だの黄だのの花とすれすれの高さに、しかしそれだけくっきりと浮いて見えている。(『美しい村』) 父の側にいることがお前に殆ど無意識に取らせているにちがいない様子や動作は、私にはお前をついぞ見かけたこともないような若い娘のように感じさせた。(『風立ちぬ』) かつて三島由紀夫は、堀辰雄の文章をこう述べています。 堀辰雄氏の文章はまるでどの文章にも堀辰雄製という印鑑が捺されているように、誰の眼にもすぐわかる特徴をもっています。作家がこれほど特徴のある文体をもつことは、作品の世界を狭くする危険もないではないが、堀氏はそれを堂々と押し通して、長く病床にありながら、自分の芸術的世界を守り通した稀有な作家であります。(略)氏は自分の気に入ったものだけを取り上げて、自分で美しいと思ったものだけに筆を集中しながら、自分の気に入った言葉だけでもって、美しい花籠を編みます。『菜穂子』のような長編を書きはしましたが、やはり本質的な短編作家であって、その文章は明晰さに仮装された感覚の詩でありました。(『文章読本』) さすがに上手に解説していますよねー。でもよく読めば、「自分で美しいと思ったものだけに筆を集中しながら、自分の気に入った言葉だけでもって、美しい花籠を編みます。」なんて個所は、堀辰雄の文章の解説に託して、読者に、自らの小説を読む際の注意事項を教えているみたいですね。 (この三島の『文章読本』については、井上ひさしがその分析力を認めつつも、かなり強い嫌悪感を表しましたが、今読んでみると、要するにこんな「上から目線」のせいだったのかも知れませんね。) ともあれ、三島の堀辰雄文体の説明については、全くその通りだとは思いますね。 しかし、今回僕が取り上げたこの短篇集には、上記に一部を抜き出した二つの短編小説が入っていますが、その文章については、三島の一文に一言で説明されているにもかかわらず、実は微妙に異なっています。 まず、冒頭の『美しい村』から抜き出した一文ですが、どうですか、すぐに文脈が辿れましたか。最後の「くっきりと浮いて見えている」のは、何がそうであるのか、すぐに分かりましたか。 僕は、四回ほど読んで(そのうち二回は声を出しながら)、それでやっと、たぶんこうだろうと思えたくらいであります。 『美しい村』は、こんな文章が、あまり改行されることなくびっしりと詰まったまま続いていきます。読んでいると、なにか、抽象画を見ているような、あるいは音楽を聴いているような感じのする文章です。 上記の引用の二文目は、『風立ちぬ』から取りましたが、こういう無生物主語の文もしばしば見られます。実に独特な、なにか「眩暈」の様な感じを受けますねー。 さらにもう一つの特徴として僕は気が付いたのですが、そんな抽象性の高い文章なのに、比喩表現が殆どありません。事物や風景の説明がそのまま克明に描かれているばかりなんですね。 なるほど、三島が述べるところの、いかにも堀辰雄独特の(そもそも一文が極めて長く、そして、読点の打ち方の独特であることが、文脈理解を難しくさせています)、少しずつ屈折しながら、飛び石のようにイメージを次々捉えていく文章でありますね。 さて、このような文章は、もちろん読み始めにおいては読者に一定のストレスとなりますが、さらに読み続けて、筆者独自の文章の「息」に慣れてくれば、この読みづらさは、まるで朝靄の掛かった別荘地の林の中を散歩するように、独特の拡がりを持ったイメージを伴ったものとなってきます。 「朝靄の掛かった別荘地の林の中」と今書きましたが、もちろんこのイメージは、実際のこの小説の舞台がそうであるからですね。 軽井沢の別荘地が舞台であります。 そんな風に捉えてみますと、この作品は、文体と内容が渾然一体となった、まれに見る美しいマーブルのような作品だと言うことができますね。 しかし、それだけであるなら、いくら何でもさほど堀辰雄の小説が読まれるとは思えません。やはり、文脈のたどりにくい文章は読みづらいです。 あー、いいなー、堀辰雄だなー、と思わせるのは、次の『風立ちぬ』でありました。 次回に続きます。 よろしければ、こちら別館でお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末にほんブログ村/font>
2010.05.06
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『牛肉と馬鈴薯』国木田独歩(岩波文庫) この文庫には四つの話が入っています。これです。 『牛肉と馬鈴薯』・『正直者』・『女難』・『富岡先生』 もうかなり以前になると思いますが、僕は一度この本を読んでいるはずなんですね。 しかし今回改めて読んでみると、総タイトルにもなっている最初の話以外は、見事に記憶に残っていませんでした。(厳密に言うと、四つ目の話は飛び飛びに記憶が少し残っていましたが。) これはおそらく、かつて読んだ時の、僕の作品に対する一種の評価なんでしょうね。 だから僕は、今回一作目の『牛肉と馬鈴薯』の短編を読んだ時、前回読んだ時の印象に続いた、どこか爽やかで瑞々しい感じを持ちました。 この作品は、モーパッサンの手法にかなり影響を受けているなと思いつつも、近代日本文学そのものの青春期に、筆者の青春期が重なった、類まれな蜜月時代の作品ではないかと感じたんですね。 で、それなりの「好感」も持っていたのですが、残りの(全く記憶に残っていない)作品を読んでいくうちに、僕はひょっとしたらこの筆者に、誤ったイメージを持っていたのかなと考え出しました。 次に『正直者』『女難』と続いているんですが、この作品のテーマは、「日本自然主義」といえばこれ、とでも言われそうな「性欲」がテーマです。 まー、筆者もまだ青春期にあったようですし、時代の「流行りもの」のような部分もあったでしょうが、とにかく「性欲」と、その力に巻き込まれてしまう主人公が描かれています。 ただ、その描き方が、なんというか、とても「シニカル」なんですね。いえ、「シニカル」に、僕には思えたんですね、はじめ。例えばこんな表現です。 私の知っている三四人の妾についても父は情愛をもってこれを遇した様子は少しもありませんでした。私は少しばかり酒を飲みますが父は決して杯を手にしたことなく、また私よりもさらに無口で、家にいてもただぼんやりと火鉢にむかって煙草をふかしているか、それでなくば机に向かって英書をひもといているかで家中は常にひっそりとしていました。 それですから女中兼帯の妾が来ても初めのうちは父や私を相手にしゃべりますが、一月二月とたつうちにいつしかこれも無言の業に堪えうるようになってしまうのです。(『正直者』) きわめて冷笑的な文章ですね。この「冷笑」を、僕は筆者の、主人公に対する「冷笑」だと捉えていたんですね。 そして、「性欲」そのもののテーマは(特に日本自然主義が捉えていた角度での「性欲」は)、もはや現代になってみれば、科学的な性知識の欠如といった部分がどうしてもほの見え、そこに「古くささ」を感じるのでありました。 ただ、それならば、作品のテーマを「薄志弱行」と、捉えることも可能です。 「薄志弱行」とは、いきなりどこから出てきた言葉かと申しますと、漱石の『こころ』から僕は思いついたんですね。 『こころ』の中で、自殺した「K」が、遺書に書いていた言葉です。薄志弱行ゆえに自分には将来の見込みは到底なく、だから自殺する、と確かあったように思います。 もっとも、「K」の自殺の場合は、この理由付けは失恋自殺の「アリバイ」でありましょうが、一般論として、こんな自殺理由に一定の納得ができるというその時代の文化があったんですね、たぶん。 はて何の話かと言いますと、今述べている二作品について、シニカルに読んでいけば批判的な主人公像に突き当たると、僕は読んだと言うことです。 ところが最後にある『富岡先生』を読むと、これはもう、主人公に対する冷めた描写だけでは、終わらないんですね。いわゆる、「庶民」に対するシンパシィを伴う視点という解釈が出てきます。 僕は、国木田独歩のことを、もっと才気走った、やや軽薄な文学青年の仲間くらいに考えていた(これはちょっと言い過ぎかな)のですかね。 思いの外に、弱者への心優しい視点と共感があり、そしてそれを誠実にしっとりと描く表現形式に、少し戸惑いながらも僕は大いに感心しました。 何についても、故あらぬ先入観はよくないと、改めて、そしていつもながら、反省することの多いわたくしであります。 よろしければ、こちら別館でお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末にほんブログ村/font>
2010.05.04
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『耽溺』岩野泡鳴(岩波文庫) クラシック音楽が好きなくせに何も知らないので、その代わり、この道の僕の先達である友人を「師匠」とあがめて、いろいろとお教えを頂いています。 ところが、幾つかの事柄について、僕としてはどうも納得しがたいこと、「師匠」と意見が合わないことがあったりします。 それは細々といろいろあるのですが、少し無理に一言でまとめて言うなら、実は音楽以外の「モラル」についてであります。 例えばプッチーニの『蝶々夫人』ですね。 僕はあのストーリーに、どうしても抵抗感を感じずにはいられません。 「師匠」は、あれだけ優れた歌が入っているオペラであるのに、それに、作られた時代には当然その時代固有の価値観があるのに、「歴史を現在の価値だけで判断する愚」とおっしゃるんですね。 いえ、それは分かるんですがね、理論的には分かるんですがー、どうも、何というか、生理的な皮膚感覚として、納得できないんですよねー。 例えば、音楽家の人間性やモラルについても、意見が合いません。 (それに、音楽の本場ドイツといえば、どうしても第二次世界大戦中のナチスとの関わりなんて事がちらほらと僕の頭には浮かんだりして、それについても話が合いません。) 音楽的才能と人間性とは、なんら交錯あるいは連動する部分を持たないんでしょうか。 うーん、その通りであるような、いや、そんな意見には与したくないような、ちょっと考えてしまうんですね。 で、さて、ここに岩野泡鳴がいます。 人間的にはどうしようもない気がします。ただ僕がそう判断をする、その判断の材料は、岩野泡鳴が書いた小説によってなんですね。 まずそれをどう考えるかという問題があります。 次に、上述のものと同じ、文学的才能と人間性、という問題ですね。 こんなのは、まるで無関係なものだと言ってしまえば簡単なんでしょうが、例えば、今回報告の小説には、夫婦間、または男女間における、男性側の完全なモラルの欠如が描かれています。男であるという、それだけの理由の特権意識です。 まー、考え方や慣習の時代的限界であるといってしまえば、そうかもしれませんが、その立場に安住してふんぞり返っている主人公の姿には、僕は何ともいえない嫌悪感を覚えます。(そもそもそんな歪な状況にありながら、意に添わぬことが起きると主人公が苦悩するという展開は、馬鹿馬鹿しいと共に腹立たしくなってきます。) 男女間の差別だけではありません。描かれている主人公の意識には、そもそも何の根拠もない、自らの存在そのものに対する特権意識が伺えます。 これはいったい何なのでしょうね。 わたくし、思うんですがね、実はこれは、作家であること(=知識人であること)を根拠としている特権意識ではなかろうかと、密かに思いますんですね。 (少し本題から離れますが、現在においてはさらに、上記の「=」は成立するかというところから考えねばならぬと思っておりますが。) なぜいきなり「密か」になってしまったのかと申しますと、この意識は、実は僕が好きな漱石などの中にも流れているものであるからです。 例えばそれは、『坊っちゃん』にみられる地方差別や、『猫』の中に描かれていた経済人や経済活動に対する故のない差別意識として現れています。 さすがに漱石も後期の作品になってくると、こんな単純な差別意識は姿を消しますが、それでも絶筆の『明暗』の登場人物「小林」の造形の端々に、まだ少しそんな残滓がみられるように思います。 それに比べますと、二葉亭四迷にはそんな経済活動への偏見意識はありませんね。 その代わり、彼には知識人への強烈な嫌悪感があり、その原因が知識人の持つ故のない特権意識のせいかどうかはわかりませんが、とにかくかなり徹底したものであります。(四迷には学歴コンプレックスめいたものがあるように思いますね。) さて、本題の『耽溺』の読書報告から大きく外れてしまったような気もしますが、この読書は僕にとって、上記文章からも伺えますように、少し辛いものでありました。 ただ、その感じ方の元となった「一元描写」という描写理論そのものについては、これだけで作品を最後まで押し切ったということを含め、なかなか興味深いものがあると思いました。 何事も、それを初めて、かつ徹底的にやるというのは、それなりに評価されてしかるべきだと、僕は考えます。 よろしければ、こちら別館でお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末にほんブログ村/font>
2010.05.01
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