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『挟み撃ち』後藤明生(講談社文芸文庫) 例えば、何でもいいんですが、……いや、何でもいいって事はありませんね。前言撤回。 例えば、筒井康隆の小説を初めて読むとして、その際の作品に日本語の音が一つずつ消えていく小説『唇に残像を』をチョイスしてしまったら、筒井康隆については正しく理解できるでしょうかね。 うーん、難しいような気はしますが、かなり出来そうな気もします。 変なことを書き始めたのは、今回報告の後藤明生の小説の、私にとってのファーストチョイスがこれなんですね。 上記に筒井康隆の例を引いて、どんなファーストチョイスでも、その作家についての理解はかなり可能だと書きました。だとすれば、なかなかこの筆者は苦悩の入り口から小説に入っている人だなぁと言う気がします。 少し持って回った書き方から始まってしまいましたが、一言で言うとこの小説は「小説破壊」の小説であります。少し流行っぽい言い方で書けば「メタ小説」ですかね。 内容まとめは極めて簡単です。文庫の解説者武田信明は、このようにまとめています。 ひとりの男が、お茶の水駅前の橋の中ほどに立っている。彼は、二十年前に着用していた旧陸軍の外套の行方が不意に気がかりになり、一日を費やしてあちこちを訪ね歩いたのである。男は佇みながら外套について、あるいは彼自身の過去について思いをめぐらせる。 本当にこれだけの小説なんですね。しかしこれは、実に玄人好みの小説だなとつくづく思います。 小説は、外套を探して次々と昔の記憶を辿っていきます。この記憶の掘り返しが、いわば果てることのない波のように、寄せては引き、また押し寄せては引いていくわけです。 それを克明に書いていくわけですから、これはまー、緻密な力業だと言い切っても間違いはないと思います。ただそれを「玄人好み」と書いたのは、なんといいますか、それがあまり面白くないからなんですね(私としては)。 しかしこの「面白くなさ」についても、筆者は自覚的であります。作品終盤に「わたし」という一人称の主人公は、自分のことを小説の主人公としてあまり適していないなどと書いています。「メタ」ですね。 さてここで私の想像はまたもや作品を離れていくわけですが、およそ、小説の主人公として相応しい条件は何なのか、ということであります。何でしょうね。 ぼんやりと考えていたんですが、単純にかつ箇条書きにまとめてみますと、こんなところですかねー。 1.非凡な人物の非凡な体験。 2.非凡な人物の平凡な体験。 3.平凡な人物の非凡な体験。 どうですか? こんな感じじゃないですか? しかし上記のようにまとめますと、一つ足りない、順列組み合わせで言って一つ足りないものがありますよね。当然「4.」として書かれるべきはずの、これ。 4.平凡な人物の平凡な体験。 実はこの小説は、この「4」なんじゃないかと、私は思っているんですね。 ただ、考えてもみてください、こんな「平凡な人物の平凡な体験」の小説なんて、一体誰が読みたいと思いますか。そんなの読んでいて楽しいですか。 しかし考えてみれば、日本文学史にある「自然主義」とか「私小説」とかいう流派はほぼこの「4」じゃなかったかしら。 多分そうだと思います。だから面白くなかったんですね。 でも、ここに日本の文学者は微妙な付加価値を付けていきました。それは、玄人好みの「文体」であります。職人じみた文章へのトリビアルなこだわりを深く深く追及していったんですね。そして世界でも極めて不思議な小説世界を作っていった、と。 (この「4」は、いわゆる日本の「純文学」には多そうですね。もしその事も考察の中に含めて箇条書きで表すなら、もう一つ「平凡・非凡な描写」あたりの要素を付け加える必要があるかも知れませんが、今回はパス。) 文学史のおさらいは以上として、さて今回の小説に戻ります。 この小説は、基本的に上記の「4」タイプの小説です。そして、その「付加価値」は(と言えるか言えないかはまるで分かりませんが)、ほとんど物語としての働きを持たないということであります。 それは、「因果関係がない」という言葉通り、物語の「原因」の追及もなければ「結果」の提示もないという、そういう意味ではきわめてオリジナリティの高い小説であります。 うーん、こういう「玄人好み」の一種実験作の集成が、一つの国の文学史を形作っていくわけでありますね。 なるほど、この様な小説の枠組みの多様性こそが、皮肉ではなく、名作の揺籃であるはずなのでありますよねー。 よろしければ、こちら別館でお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末にほんブログ村
2010.10.30
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『楢山節考』深沢七郎(新潮文庫) しかし、人間の記憶なんて、……いえ、人間などと一般化してはダメですね、私の記憶の話です。言い直します。 以前よりうすうすと我が灰色の脳細胞に対して、特に近年は加齢のせいもあって、急速に不信感を抱きつつあったんですが、この度我が事ながら全く信用をなくしてしまいました。我が記憶力はほぼ役立たずであります。 今回取りあげた小説を私が初めて読んだのは、高校3年生くらいの時だったでしょうか。まー、考えてみたら、今でも世の中のことについてほとんど何にも分かってない私でありますのに、ましてや高校三年生時の私であれば、ほぼ社会全面的・全方位的に破壊的に無知状態であったと思われ、誤解が生まれたことについては、少々むべなるかなと言う側面もあると思うんですが。(身びいきですかね?) つまり本書を高校生の私は、「小説としては少しできが悪いながら、人生についてなかなか深い洞察を含んでいる小説だ」と理解したんですね。 もちろん、そんなもの、「受け売り」にきまっていますよー。 なーんも考えていない高校三年生に、「人生についての洞察」なんて分かるものですか。自慢じゃありませんが、今の私にだってこれっぽっちも分かっちゃいません。エヘン。 しかし今回私が問題としたいのは、18才の私の受け売り理解の、その前半部分であります。 つまり、「小説としては少しできが悪いながら」の部分。この思いこみはいったいどこから来たんでしょうかね。 思い当たるのは二つの文章です。 一つは三島由紀夫の『小説とは何か』。小説を巡る三島のこの絶筆エッセイの中に、確か本作が取りあげられていました。 作者深沢七郎の「異常」な才能に感心しつつも、作品にある種の不愉快を感じるという主旨だったと思います。もう少し丁寧に思い出せば、それは三島由紀夫が中央公論新人賞の審査員をしていた時、応募作としての本小説を読んだというものでした。夜中に読み始めた三島は、最初なんだかだるい感じの文章で眠くなりそうだったと書いてあったように私は覚えていたんですね。これが一つです。 もう一つは、多分文庫の解説に正宗白鳥の、この作品に対する批評として、「私はこの作品を一小説として読んだのではない。人生最大の本として読んだ」といった感じの文章があったと覚えていたんです。 で、この二つの表現を足して勝手なバイアスを掛けて二つに割った18才の私は、この作品は小説としては少しできが悪い云々、と思ってしまったんですねー。 そして、その思いを四半世紀以上も引きずったまま、今回、再読してみました。 この小説、めちゃめちゃできがいいですやん! ぼそぼそとだるいどころが、前半部のエピソードの配列など全く間然としたところも無くピリッと引き締まっていますし、文体についても丁寧で分かり易い表現ながら胸に染みこむように入ってきます。 そして後半の「楢山参り」は、これはまた何と凄絶な「苦いヒューマニズム」の結晶でありましょう。雪積もる楢山山中の独りぼっちの「おりん」の姿は、鳥肌が立つほど哀切で美しいイメージであります。 そんな名作に対して私を誤解に導いた(!)三島と白鳥の文章を、怒りと共に読み直してみました。(逆恨みかーい。)こんな内容でした。 いくつかの候補作に倦んじ果てたのち、忘れもしない或る深夜のこと、炬燵に足をつつこんで、そのあまり美しくはない手の原稿を読みはじめた。はじめのうちは、何だかたるい話の展開で、タカをくくつて読んでゐたのであるが、五枚読み十枚読むうちに只ならぬ予感がしたきた。そしてあの凄絶なクライマックスまで、息もつがせず読み終ると、文句なしに傑作を発見したといふ感動にうたれたのである。(『小説とは何か』) 「ことしの多数の作品のうちで、最も私の心を捉えたものは、新作家である深沢七郎の『楢山節考』である。(中略)私は、この作者は、この一作だけで足れりとしていいとさえ思っている。私はこの小説を面白ずくや娯楽として読んだのじゃない。人生永遠の書の一つとして心読したつもりである。」(『楢山節考』新潮文庫解説文より正宗白鳥の文) うーん、細かな記憶の違いが、結果として大きく「小説としての出来はあまりよくない」にミスリードしたニュアンスは、何となく分かりますね。 しかし、この細かな記憶の誤りが作品そのものの評価をゆがめてしまったことについて、私は私の記憶力を断罪せねばならぬと、この度大いに思いました。 一方今回読んだ本書についての感想ですが、それはすでに三島由紀夫の文章が充分に語っていると思います。 本書は、日本文学史上に屹立する、細くはありましょうが遥に高い一つの頂であります。文句なしに名作と言える数少ない短編小説であると言えましょう。 ただ、今「短編」と書きましたが、もちろんこの長さで間然とするものはないのですが、読者としましては、もう少し長く作品を楽しみたかったと、少々愚考もするものでありますが。 最後に、上記に書きました「我が記憶力への断罪」ですが、一体どんなことをするのかと考えて見ますれば、……えーっと、「自分で自分の大ボケを認める」って、ことかな。 えーっと、すみません。 よろしければ、こちら別館でお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末にほんブログ村
2010.10.27
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『きれぎれ』町田康(文春文庫) えー、この小説は、なんですね。 この小説は、普通の関西人の男なら必ずみんな一日に一度は言うやろう(人によってはもっとしょっちゅう言うやろう)こんなせりふと一緒ですね。これです。 「さ、仕事も済んだし、家帰って屁ぇこいて寝よ。」 一寸下品ですかね。すんません。 このフレーズを、標準語に直すと、こんな風になります。 「さぁ、仕事も終わったことだし、家に帰って眠るとするか。」 こんな感じですかね。え? どっか抜けてますか? 「屁ぇこいて」がないって? よぉわかりましたね。そやけど、これでええんですわ。 ご指摘の部分は、いわば言葉の調子を整えるためのフレーズなんです。そやから、意味なんて初めっからあらへんのです。 そんなら何のために喋ってんねんといえば、それが関西弁やから、としか言いようがあらへんですね。 関西弁には、こんな風な、誰に言うわけでもない、そやけど言わずにはおられへんようなフレーズが、しょっちゅう顔出してくるんですわ。 実はこの小説が、これと一緒やねと、まず思いました。 つまり、これは関西地域に昔から広く生息してる「しょーもないこといい」の男の系譜ですわ。 「しゃべくりの話芸」いうたらちょっと上品すぎるような気もしますが、それを芸というねんやったら、間違いなくこの「しょーもないこといい」は、関西弁芸のコアの部分に位置するもんですね。 そういうたら、筆者の最近作に浪曲講談をモチーフとした作品があるっちゅのは、もっともなことやと思いますなー。 ただ、以前この筆者の小説を読んだ時の感覚と較べると、なんやちょっと違う感じがするんですわ。 以前は確かこんな風に感じてたんですね。 「しょーもないこといい」と「不条理」を足して、さらにそれを「スラップスティック」に雪崩れ込ましたらこんな小説になりよる、と。 そやけど今回は、ちょっと違うなーという気が、かなりしてるんですわ。 何か、ちょっと、違う。スラップになりきってぇへん。 最初の方のタクシー待ちの場面とかランパブの場面なんかは、まさにその通りになってますね。 そもそも不条理っちゅもんは、サミュエル・ベケットの例を持ち出すまでもなく、ユーモアと、そしてその先に存在の悲しみがあるもんやと思うんですね。この辺にはそんなどたばたが、不条理な登場人物の言動と共に描かれています。 ところがその先の、母親の死のあたりになると俄然リアリズム、素直な落伍者(わりとええとこのぼんぼんの出来の悪いやつ、つまり「へらへらぼっちゃん」やね)のモノローグになってしもたように感じました。 それは、自らの心情に対して悲しいくらいに素直に描かれとって、なんや読んでるこっちまで心洗われるような気ぃがしてくるんですわ。 せやけどこの筆者は、いっつもこんなに哀愁を漂わせてたんやろか。 ところが、作品はもう一転します。 その先からまた、話がわけわからないようなっていくんですわ。 幻想描写と現実描写の接点が紙一重で、くっついたり離れたりしながら捻れ捻れて進んでいきます。そやけど悪夢というほど悪夢じみてもいません。狂気と言うほどその突き詰めも感じられません。 近いところで考えると、これはいわば、不条理にしばしば見られる「被害妄想」、なんやろか。 そして作品が唐突に終わっていくその時に、ああこれやこれや、この終わり方や。町田康独特の「情緒エンド」や。 『くっすん大黒』も『夫婦茶碗』も、なるほどこの「情緒エンド」でした。 とすると、やはり本作も、町田康小説の本道なんやろかねー。 「スラップ」と「情緒エンド」のさじ加減。 ついでに「しょーもないこと」を付け加えときますと、この作品は芥川賞受賞作です。 (そやからさじ加減がいつもより少しウェット、と考えるんはゲスの勘ぐり?) しかし最後に一つ、上に書いた二つをつなぐ言語表現・しゃべくりオーバードライブ文体の強烈に独創的なイメージの噴出については、これはやっぱり、誰が何というても、抜群の力業や、町田康の吃驚するような才能やと、感心しきりではあるんですけどね。 よかったら、こっち別館で休んでってんか。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末にほんブログ村
2010.10.23
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『燕のいる風景』柴田翔(新潮文庫) 今は昔、本好きの友人達の間で庄司薫の「薫君シリーズ」が流行ったんですが、その時、庄司薫に近い位置にいる作家として柴田翔の名前を僕は知りました。 『されど我らが日々』なんて小説です。しかし、手に取ったりはしながらも結局読まなかったんですね。なんか少し違う、という感じがしていたんでしょうかねー。 で、それから四半世紀も経って、ふとしたきっかけで『されど…』を読みました。 で、さらに続いて『贈る言葉』という小説も読みました。 しかしその時の感想は、すでに読むべき時機を遙かに逸している、というものでした。 どちらも、簡単に言えばインテリゲンチャ予備軍の苦悩とでもいうのがテーマでしょうが、インテリにもなれずこの年になってしまいますと、正直なところちょっと甘ったるいんじゃないかと、思ってしまいました。 (毎度毎度の横滑り話ですが、少し前に漱石の『それから』を読んだ時にも同様の物を感じました。だから、一概に私は筆者の小説を批判しているってばかりではないんですね、たぶん。) しかしもし私が、10代後半とか20代前半の年でこの本を読んでいたら、私は主人公や筆者に大いに共鳴できたでしょうか。 うーん、考えたところで詮無いことでありますが、やはり、なんか少し違うように思いました。 実は今回の読書報告の骨格も、どうもそんな感じになりそうなんですが……。 明治・大正時代とかの古い小説を読んで、そして、その合間に本作のような昭和の後半の小説を読みますと、時に歴史感覚が倒錯するように感じてしまうのですが、なぜでしょうね。そんなことって、私だけが勝手に感じている事なんでしょうか。 明治・大正の小説に時代を超えた普遍的な新しさを感じ、昭和後半の小説には、どうも古くさい感じがして読みづらい、と。 まー、少し客観的に考えますと、明治・大正期の小説で現在も生き残っている作品には、それだけ歴史のヤスリに耐えた真実性があるのだ、ということですかね。 しかしそんな風に考えてしまうと、もうそれだけで、今回の作品なんてかなり批判的に言い切ったことになってしまって、少し困るんですがー。 うーん、そんな簡単なものでもないんでしょうね、きっと。 気になる点を、少しまとめてみますね。 まず作品全体に流れているトーンなんですが、おおざっぱに言うと、「かつて大きな挫折があった」と、そんな感じなんですねー。 ニヒリズムと言いますか、無力感と言いますか、少し意地悪に言いますと、アンニュイに溢れつつも高みに立った冷たい視線が感じられる、という感じ。 この虚脱感の原因のようなものが明示されず(ある種の読者にとっては当然の状態であるという認識なんでしょうか)、そして描かれる視線に少し厳しい言葉で言いますと「蔑視」の様なものが感じられてとくるとなると、これはちょっと辛いような気がします。 しかしこれは、時代的なものが関係しているのでしょうか。 たぶんしていると思います。その時代を覆っていた「認識」ではなかったかと、私は思います。(そしてその「認識」が、古くささを感じさせるのですかねー。) もう一つ感じるのは、これは恐らく同根なのだと思いますが、非常に観念的な描写という気がすることです。 もちろん筆者もそのことには気づいている、というか、効果の一つとして意識的に描いているのだと思います。しかしなんと言いますか、自らの文章は自らが隅々まで支配しているという描写「理論」が、ひょっとすれば、現代の感覚と少しズレ掛かっているのかも知れません。 うーん、なんか困った報告になってきました。 ともあれ、小説が風俗を描写する形のものである以上、風俗の風化は免れません。 しかしそんな風化が際立つ期間というものは、一度完全に風化してしまうまでの「完全変態」のための「蛹」の様な期間であるのかも知れません。 「蛹」は、最終形態ではありません。 優れた作品は、その次にこそ、本来の生き生きとした普遍的な「最終形態」の姿を、初めて私たちの目の前に現してくるのでありましょう。 今少し、時が必要なのかも知れません。 よろしければ、こちら別館でお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末にほんブログ村
2010.10.20
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『春昼・春昼後刻』泉鏡花(岩波文庫) えー、本書を読みまして、わたくし、ちょっとショックを受けてしまいました。 何のことかと申しますれば、例えば、上記の岩波文庫の解説(川村二郎)には、本書のことを「鏡花の美があらゆる面において完璧に輝きでている」などと書かれております。 まー、解説文というものは「仲人口」みたいなものでしょうから(そんなにひどいものではないですかね)、話半分で聞くとして、例えばネットのアマゾンなんかのレビューには、どんな風に書いてあるだろとチェックしてみました。 ところが、これも少なくない方々がえらい誉めようであります。 うーん。……しかしねー、こんな文章の小説がそんなに万人に誉められるとは思えないんですがねー。こんな文章です。 一座の霊地は、渠らのためには平等利益、楽く美しい、花園である。一度詣でたらんほどのものは、五十里、百里、三百里、筑紫の海の果からでも、思いさえ浮んだら、束の間に此処に来て、虚空に花降る景色を見よう。月に白衣の姿を拝もう。熱あるものは、楊柳の露の滴を吸うであろう。恋するものは、優柔な御手に縋りもしよう。御胸にも抱かれよう。はた迷える人は、緑の甍、朱の玉垣、金銀の柱、朱欄干、瑪瑙の階、花唐戸。玉楼金殿を空想して、鳳凰の舞う竜の宮居に、牡丹に遊ぶ麒麟を見ながら、獅子王の座に朝日影さす、桜の花を衾として、明月の如き真珠を枕に、勿体なや、御添臥を夢見るかも知れぬ。よしそれとても、大慈大悲、観世音は咎め給わぬ。 これだけ絢爛に書かれてしまうと、どうですか? かなりイメージを纏めづらくないですか? 私だけですかねー、そんな風に考えるのは。みなさんミエ張っているんじゃないですかねぇ…。 そもそも私は、極めて権威に弱い人間でありましてー、寄らば大樹の陰、長いものには巻かれろ、札束には切られろ、というのが基本的ポリシーであります。 大家が誉めれば私も誉める、大家が貶せば私も貶す、弱きを挫き強きを救うという、うーん、ここまで書くと「最低なヤツ」ですなー。 ところが、そんな私が、この名作の誉れ高い本作が、さっっっっっっぱり、分かりませんでした。 しかし、これはちょっと、ショックでしたねー。 で、今まで読んだ鏡花本を振り返ってみたんですね。もとより、鏡花はさほど読んでいるわけではありません。 『婦系図』……後半、急にピカレスクになって、早瀬主税がなんか『嵐が丘』のヒースクリフみたいになってしまって、びっくりしつつおもしろいなーと読んでいました。 『天守物語・夜叉ヶ池』……戯曲なもので、構成が特に引き締まっており、カタストロフに向けて一直線の展開にわくわくしつつおもしろいなーと読んでいました。 『高野聖』……女が水浴びをするシーンなど、ゾクゾクするほど瑞々しくとても色っぽいと思いつつおもしろいなーと読んでいました。 うーん、こうして「反省」してみると実によく分かりますね。 結局私は、「幻想文学」としての鏡花作品に余り触れていないんですね。 そして、今回の本書は、「幻想文学」としての鏡花の「直球勝負」である、と。 今「直球勝負」なんて書きましたが、鏡花の幻想小説は、イメージの連続性や仄めかすものを重視し、可能な限り物語の論理性を描かないと言う手法のようで(本書の表現をさっと読んだだけで、主人公の女性の死がすっと読みとれるものでしょうか)、そんな鏡花の幻想文学理解には、一種読み慣れる必要があるように思いました。 なるほど、アマゾンの鏡花作品のレビューなんか書く方は、いわば鏡花マニアみたいな方なんですよねー、きっと。 という風に考えを辿り辿って、なんとか我がショックを相対化したのですが、いやいや、まだまだ日本文学の中には、それこそ鏡花作品の「魔界・異界」のように、そこから鬼が出るか蛇が出るか、不気味にもおぞましくもしかしなかなか奥深い世界が、沢山あることを知りました。 侮るまじ、日本文学。 よろしければ、こちら別館でお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末にほんブログ村
2010.10.16
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『小説日本芸譚』松本清張(新潮文庫) 確か、去年が松本清張生誕100周年でした。 同年の100周年でもっとも華やかだったのは、おそらく太宰治だったろうと思いますが、松本清張もきっといろんなところで「松本清張展」の類をしていましたよね。そのうちの一つに、私も見に行きましたから。 にもかかわらず、実は私はほぼ松本清張は読んだことがありませんでした。 昔、それこそ大昔に、確か『点と線』を読んだきりであります。 なぜ、松本清張をほぼ私は読まなかったのだろうと考えると、なんと言いますか、一人の作家を愛読するしないの分水嶺は、極めていい加減なものであることに思い至ります。それはほとんど、「愚かさを伴う偶然」としか言いようのないものであります。 もちろん、人生というものがそういうものだと言ってしまえば、そうですものね。 「人生とは愚かさを伴う偶然の集大成である」と。 それに比べれば、愛読する作家かどうかなんて事は、極めて些細な出来事であります。 で、私がほぼ松本清張を今まで読んでこなかった理由はといいますと、これがまー、いい加減極まるんですが、思い当たるのは多分こんな事でしょうか。 つまり、わたしは松本清張より先に金田一耕助が好きになってしまった、と。 これは、日本の近代推理小説史に詳しい方ならすぐに分かると思われる言い回しのつもりなんですが(私自身は推理小説史に詳しいわけでは全然ないんですが)、えーっと、簡単に私なりのバイアスの掛かった説明をしてみますね。 第二次大戦後、いち早く売れ始めた横溝正史的「浪漫主義的」推理小説は、昭和30年代に入って一度息の根を完全に止められてしまいます。 あのおどろおどろしさが「荒唐無稽」だって事でしょうね。 そしてその息の根を止めたのが、松本清張などの描いた「現実主義的」社会派推理小説だったわけです。社会正義とかを伴ったリアリズムで現代を描く推理小説ですね。 今考えると、「政治の時代」の黎明期だったせいでしょうね。 えー、そこから先は完全の私の偏見なわけで、一時的とはいえ私の愛する金田一耕助様を葬った松本清張一派は許し難い、と。社会派推理小説など読んでやるものか、と。 まー、そんなところでしょうかねー。まったく、愚かしーですなー。 さてこの度、二冊目の松本清張小説を読みました。 しかし、え、なかなか、地味そうな文章ですね。 およそ「衒い」とか「ハッタリ」とは縁のなさそうな、もう少し突っ込んで言えば「キレ」とか「冴え」の見られそうもない、しかしそのぶん、極めて誠実そうな感じのする文章であるなと、そんな第一印象を持ちました。 本書は、芸術家小説であります。 運慶・世阿弥・千利休・小堀遠州・写楽など十名の歴史上の芸術家を描いた連作短編集になっています。 芸術家を描く小説というものは大体二種類のパターンがあるように思います。 一つ目は小説の形を取りながらその芸術家・芸術を評価するというもの。描かれるエピソードや描き方で評価が浮かび上がって来るという、まぁ評伝・評論の「一変種」ともいえましょうか、芥川龍之介あたりが得意としましたね。 二つ目は、小説で描く芸術家を自分の分身にしてしまうというもの。 これは少々荒っぽそうですが、私の読んだ範囲では、武者小路実篤がこのタイプの芸術家小説を書いていたように思います。 やや「ノー天気」の感は否めませんが(武者小路故でしょうか)、何となく諧謔味の漂うほんわかムード小説だったような記憶があります。 で、本作はと言いますと前者かなとは思いますが、それはそうとしつつ、十作ある連作中、半分ぐらいまでがどうも面白くないんですよねー。 文章に「ハッタリ」がなくて解釈にも「キレ」がないという、ひたすら地味ーに進んでいきました。 ところが終盤の幾つか、「小堀遠州」「光悦」「写楽」あたりになって、やっと面白さが見えてきました、わたくしとしては。 典型的なのは「写楽」と「光悦」だと思いますが、写楽を描いた短編には、小説らしい視点と小説らしい(直接的にはテーマと関わらない)描写が表れてきたからだと思います。 当たり前ですが、評論とは違って小説は、ほとんど役に立たないように見えるエピソードや描写の総体として成立します。しかしこのエピソードや描写こそが作品の生命線なわけですね。「写楽」の話にはそれが、とてもうまく描かれていると思いました。 一方「光悦」のほうは、芸術に取り憑かれたものとしての光悦の一面を描く作者の解釈に「キレ」が見られたように思いました。 自らの芸術が本物であるかどうか、他人は欺けても、自らに対しては欺きようがないという表現者の根元的な「不幸」(あるいは「幸福」と言い換えてもいいでしょう)を、作品終盤にさらりと定着させました。 これはなかなか秀逸だと感じました。 というわけで、わたくしこの年になってやっと二冊目を読んだ松本清張小説ですが、全く何事においても、つくづく偏見はよくないものでありますよねー。 いや、「尾籠(おこ)の後智恵」でありましょうが。 よろしければ、こちら別館でお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末にほんブログ村
2010.10.13
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『1Q84・Book1~3』村上春樹(新潮社) いえ、そんなつもり、つまり拙ブログに取り上げようというそんなつもりは、元々はなかったんですが、つい読んでしまったもので。 えー、この三冊の本自体は、私の部屋の本棚にかなり前から(特に1、2はそうです)あったんですが、でもあっただけでした。 以前、村上春樹を取り上げた時にも少し触れましたが、かつて私も若かった頃、発売されるとほぼすぐに買っていた小説を、『ねじまき鳥』あたりからですか、すぐに買う、つまりすぐに読むことがなくなってきて、とうとう『カフカ』は文庫本で、『アフターダーク』は「ブック・オフ」で、『スプートニク』は図書館で借りて読んでしまいました。 少し、話が飛ぶんですけれどね、まぁ、私の話なんて、いつも糸の切れた凧のように行方知れずに飛びっぱなしなんですが、でも全く関係のない話でもありません。 実は先日近所の図書館で、村上春樹についてのお話の講演会をしていたものだから、聞きに行きました。 そこで、図書館における村上春樹本の貸し出し状況の話なんかも聞いたのですが、特に今回取り上げた小説なんて、現在、二、三年経たねば借りられないような状況だそうです。 えー、余り個人の趣味とかお金の使い方なんかについて、あれこれ言うつもりはないんですが、まー、人の勝手、放っておけばいいんでしょうがねー。 しかし、本当に二、三年待ってもいいから読みたい本なら、やはり買うべきじゃないんでしょうか。それとも、私の考えが間違っているんでしょうか。ましてや、……いや、やめます。 ともあれ、そんな講演会に行ったことなんかも影響して、この度私はこの三冊を一気に読みました。 読みながら、ちらちらとネットなんかの読書感想を読んでみたりしていますと、なんと、この小説はこの三冊でまだ終わっていなさそうではありませんか。 また私は先日、村上春樹の「ロング・インタビュー」なんてのが掲載された雑誌も買っていたんですね。(しかしこの本も読んでいなかった。いえ、まだ今でもぱらぱらと見ただけなんですが。) でもぱらぱらと見ていたら、作者自身続編の可能性を否定していない、それどころか「Book4」か「Book0」なんて言葉が出てきていました。 なるほど、「Book0」ねぇー。なんか、ブルックナーみたいですね。 …うーん、「Book0」は、魅力的だ。 さて、以前拙ブログで、私は村上春樹の小説をこんな風にまとめてみました。 1.男が、精神的な双生児のような運命の女と出会う。 2.二人は別々の人生を歩み始め、絶対的孤独を感じる。 3.男は、日常生活を捨てて女を手に入れる冒険に旅立つ(あるいは旅立てない)。 4.男は女を手に入れることができず、より深い孤独が残される。 今回の小説も、もちろんいろんな物の出入りはありますが、このまとめは当たらずといえども遠からずという気がしました。 (これは、村上春樹をマンネリと言っているわけではありません。小説とは常に「古い皮衣に新しい酒を盛る」側面があると、基本的に私は考えています。) ただ、今回の小説は「Book3」でおしまいだと、上記の「3」あたりまでになっちゃうんですね。 もちろんたまには、ハッピーエンド(としたら、上記の「3.5」くらいですかね)も悪くないとは思いますが、言われてみれば、どーもアヤシイ。 「Book4」または「Book0」がありそうです。 というところまで思った時に、はたと、私の拙ブログの数少ないポリシーの中に、「最後まで読んでいない小説は取り上げない」というのがあったことに気が付きました。 そんなのどうでもいいような「ポリシー」じゃないかと言われると、そんな気もしますが、いえいえ、それはなりませぬ、と。 しばらく、すでに亡くなって久しい作家ばかりを取り上げていたせいではありませんが、そして小林秀雄ではありませんが、まったく生きている人間というのはなかなかやっかいなものですね。 「生きている人間とは人間になりつつある一種の動物」じゃないかという小林秀雄のフレーズは、おやっ、と今気が付きましたが、まるでこの小説の登場人物達について述べているようではありませんか。 うーん、「Book4」または「Book0」の読後にこの件も含めて、もう少し真剣に考えてみたいと思います。 よろしければ、こちら別館でお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末にほんブログ村
2010.10.09
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『二人女房』尾崎紅葉(岩波文庫) 「ああ、宮さんかうして二人が一処に居るのも今夜ぎりだ。お前が僕の介抱をしてくれるのも今夜ぎり、僕がお前に物を言ふのも今夜ぎりだよ。一月の十七日、宮さん、善く覚えてお置き。来年の今月今夜は、貫一は何処でこの月を見るのだか! 再来年の今月今夜……十年後の今月今夜……一生を通して僕は今月今夜を忘れん、忘れるものか、死んでも僕は忘れんよ! 可いか、宮さん、一月の十七日だ。来年の今月今夜になつたならば、僕の涙で必ず月は曇らして見せるから、月が……月が……月が……曇つたらば、宮さん、貫一は何処かでお前を恨んで、今夜のやうに泣いてゐると思つてくれ」 えっと、この文は、冒頭の今回の報告の小説ではありませんね。同作家の代表作『金色夜叉』であります。なぜこれを引用したかといいますと、まぁ、次の文章を読んでみてください。 晩酌をする亭主です。徳利が空になって、もう少し欲しいと女房に言います。女房は、渋々少しばかりお酒を注いでお膳の上へ……。「もうこれこれですよ。」「今度は狆扱ひだ。あとのはお預けかね。」 とにたにた笑ひながら徳利を持つて。余り軽いのに驚いて。思はず。「ほい。」と声を懸けて。少時考へたが。「怪しからん。酒だと思つたら。此中に子供を入れて来たな。」「また冗談ぢやありませんよ。早く上るなら上つて了つて。相談を決めませうよ。」「いや。何でも子供が入つてゐる。」「なぜで御座いますよ。」と希有な顔をする。「なぜでも可いから。一寸振つて見な。」 女房は何の気も着かず振つて見る。「そら。そら。ぼつちやんぼつちやん。」 前者『金色夜叉』が明治三十年新聞小説として連載開始、後者『二人女房』が明治二十四年の発表であります。 文学史の本を見ますと、『二人女房』の文学史的評価は「である」文体の定着とあります。なるほど、作品の中盤以降、「である」文体がかなりきちんと処理されています。 かなり読みやすい感じです。 こうして本作などの文体実験を重ねて、名作『多情多恨』や冒頭の『金色夜叉』が生まれたわけですね。 ただ、今回私が二作品の比較を通して示そうと思ったのは、読めば分かりますが、「読点」についてなんですね。 六年の時差をもって発表された二作品のこの違いは、単に尾崎紅葉一人の修練の賜物というだけではなく(もちろんそれも当然ありますが)言文一致運動の黎明期に於いて、こんなふうに多くの作家たちが、本当にいろんな試行錯誤をして、そして読点を作り出していったんですよねー。 ところでこの読点のない文は、初めはかなり違和感がありますが、読んでいくとさほどでもありません。結構抵抗なく読めるものです。 さて。本作でありますが。なんといいますかー。構成については。うーん。「破綻」なんて言葉が野暮に感じるような。そんな見事な破綻ですね。 (って、こんな感じですね。) 読みながらタイトルについてもあれこれ思っていたんですが、『二人女房』って、どこから来ているのでしょう? (最後まで読めば、まぁ分からないでもないですが、きっとこのタイトルも、構成上の思惑違いがあったんだろうなと思います。) 「上・中・下」三部に分かれている「下」の始まる前後になっていきなり「小姑」が出現したり、姉妹それぞれの結婚話の分量的バランスの悪さや、そして唐突の「エンディング」などなど。 そもそも「構成」なんて考え方が、あまりなかったのかも知れませんね。 ほぼ同時期の幸田露伴の『一口剣』なども、完全にお話が二つに割れていましたし。 (しかし、作家が構成について考えないなんて、そんなことってあるんでしょうか。) ともあれそんな時代の作品であります。 ただ、上記に挙げた『多情多恨』などは、時代を勘案する必要もなく近代日本文学が誇る名作の一つだと思いますし、『金色夜叉』も含めて紅葉の作品は、上記引用文からも分かるような諧謔味大いに漂う文体など、今読めばとても親しみを感じる、どこかあっけらかんとした面白さを持っています。 かつて漱石は、藤村の『破戒』が出版された時、『金色夜叉』は残らなくても『破戒』は残るだろうという趣旨のことを言ったとききます。 なるほど、そうなっているとも思いますし、いやそう簡単にはいっていないという気もします。 そんなことを考えていきますと、紅葉の没年三十六歳というのは、詮なき事ながらやはり惜しんで余りあると、つくづく私は感じるのでありました。 よろしければ、こちら別館でお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末にほんブログ村
2010.10.06
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『犬』中勘助(岩波文庫) えーっと、あんまり良くない喩えでー(いや、めちゃめちゃよくない喩え、かな)、犯罪事件報道なんかで、犯人の人柄を知らせるために、例えば犯人の住居の近所に住んでいた人とか、学生時代の同級生なんかにインタビューしている場面、見たことありますよねー。 「こんな凄い犯罪を起こしたんですぅ」なんてことをインタビュアーが言うと、 「えー、とってもそんな人には見えなかったですぅ。道で会ってもきっちり挨拶をする礼儀正しい方だと思っていましたのにぃ。」なんて答えが返ってきたりします。 えーっと、中勘助って、そんな人ですぅ。(おーい、中勘助は犯罪者と違うやろー!) えっ? そうでしたかね。 だって中勘助と言えば、日本文学の奇蹟のような、あの岩波文庫が天下に誇る珠玉作『銀の匙』の作者ですよ。 純朴で純粋で品行方正で真面目で、ピュアをそのまま絵に描いたような作家ではありませんか。 いえ、そんな人に限ってねー、実はこんな「えげつない」作品を、しこしここっそりと書いてるもんですわ。(えっと、本作は別にこっそりと書かれていたものではありませんがー。) いえいえ、『犬』は、このくらい書かねばバランスが取りきれないような、そんな強烈な「衝撃作」であります。 時代は西暦千年、舞台は印度。年老いた醜い修行僧(聖者)が、若い娘を騙してレイプします。 実は娘はその前に、回教徒の軍人に同じようにレイプされたのですが、こちらの男の方は若く美男子でもあり、確かに切っ掛けはレイプだったとはいえ、娘にそれなりの優しさも示し、娘はほのかな恋心を抱き始めていた時でした。 娘をレイプした直後の、醜い修行僧(聖者)の独白場面には、吐き気を催しそうな論理展開が描かれています。 聖者は手さぐりに燈明へ油をさして火をともした。娘はまだ喪神している。ただ前とは姿勢がちがっていた。彼ははじめて女の味を知った。彼は今弄んだばかりの女のだらしなく横たわった体を意地汚くしげしげと眺めてその味を反芻した。そして今までとは際立ってちがった一種別の愛着、性慾的感覚にもとづくところの根深い愛着を覚えた。彼は嬉しかった。たまらなかった。で、蜘蛛猿みたいに黒長い腕を頭のうえへあげて女のまわりをふらふらと踊りまわった。 「わしはもうなにもいらぬ。わしはもう苦行なぞはすまい。なにもかも幻想じゃった。これほどの楽しみとは知らなんだ。罰もあたれ。地獄へも堕ちよ。わしはもうこの娘を離すことはできぬ」 「それにしてもわしは年よっている。そうして醜い。これからさきこの娘はわしと楽しんでくれるじゃろうか。いやいや、とてもかなわぬことじゃ。ああ、わしはあの男のように若う美しうなりたい。そうしたら娘も喜んで身をまかせてくれるじゃろうに」 彼は醜悪ではあるが悲痛な様子をした。 「そういうめにあってみたい。一日でもええ。ただの一遍でもええ。おお、なんたらうまそうな身体じゃあろ」 そこで身をかがめていいきかせるようにいった。 「これ娘、わしはどうでもそなたをはなしはせぬぞよ」 「わしはこの娘をひとにとられぬようにせにゃならぬ。若い男はいくらもおる。ああ」 彼は悶えた。泣きだしそうな顔をした。そして久しいこと思案してたが終になにか思い浮んだらしくひとりうなづいた。 「そうじゃ。わしはこれの姿をかえてしまおう。ふびんじゃがしかたがない。わしらは畜生になって添いとげるまでじゃ。よもやまことの畜生に見かえられもすまい。若い男も寄りつかぬじゃあろ」 彼はそっと娘を抱き起こして藁床のうえにうつ伏せにねかした。そして上からしっかりとかじりついて猫のつがうような恰好をした。それから娘の頸窩の毛をぐわっとくわえながら怪しい呪文を唱えはじめた。と、尖った耳の生えた大きな影法師がぼんやりと映った。そしてすーっと消えた。それと同時に彼の五体が気味悪く痙攣しだした。 と、まぁ、こんな描写なんですがね。 難儀なことにとっても上手な描写で、何よりもっとも厄介なことは、私の心の中にもこんな「醜悪ではあるが悲痛な様子をした破戒僧」が「泣きだしそうな顔」で確かにいると、つい気付かせてしまうそんな「邪悪な」リアリティが、全編に満ちあふれていることなんですよねー。 うーん、誠に困った小説であります。 この後、修行僧と娘は犬になってしまいます。 人間の持つ性欲の存在を(男の性欲の存在といってもいいのでしょうか)、ただ存在するということだけでこれほど醜悪に描かれてしまうと、しかし男には立つ瀬がないだろうと愕然と思ってしまう、そんな名作=衝撃作でありました。 ひょっとしたら古人はこんな時に、こんな言い回しを使ったのかも知れません。 「君子危うきに近寄らず」 よろしければ、こちら別館でお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末にほんブログ村
2010.10.02
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