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ヤマト運輸がアマゾンの送料無料サービスから撤退することになった件について、東京工業大学教授の弓山達也氏は、16日の東京新聞に次のように書いている; 「モーレツサラリーマン」世代の父は、文字通り朝から晩まで働いていた。一時期は会社から数分の社員寮の寮長となり、家族もそこに移り住み、父は帰宅後も寮のミーティングや宴会に遅くまで付き合っていた。父が定年を待たずに会社を辞める決意をしたのは、定期検診の後に緊急入院した病床の中だった。 先月28日の働き方改革の実行計画を政府がまとめたことを受けて、本紙は四回の「過労社会 働き方改革の行方」(4月2~5日)の連載を組んだ。残業100時間の妥当性、勤務時間の自己申告の盲点、専門職など一部の職種では「働かせ放題」になる抜け穴等が指摘されていた。 筆者が特に注目したいのは最終回の「宅配疲弊 利用客も助長」(5日)である。長時間労働の常態化と人手不足の悪循環に加え、過剰サービスが客のわがままの増長につながるのだという。確かに不在票を見て、電話一本で荷物を持ってこさせることに私たちは何のためらいもない。買い物は、そうした便利なネット通販の割合がますます高くなっている。 8日夕刊には「ネット通販 ヤマト即日配送撤退へ」の記事がある。そうだ、もう即日配送なんてしなくていいのかもしれないと思いつつ本文を読むと、別の宅配便かネット通販の自社配送でこの制度は維持されるという。会社は代わっても誰かが激務をこなすことには変わりない。 働き方改革は何も政府や企業の問題ではない。私たちが、速く、大量に、質の良いサービスという「豊かな」生活を無批判に続けていく限り、どこかで誰かがツケを払うことになるのだ。そのツケはたいてい下請けだったり、バイトだったり、外国人労働者だったり、社会の中でも弱い立場の者が引き受けることになる。例えば「休日なしで朝から夜遅くまで働かせられ、残業代の時給はたったの550円」(3月20日特報面)、そして支援団体に助けを求めたら解雇というのが外国人実習生の実態だ。働き方改革の裾野にこそ目をやりたい。 しかし一度手にした「豊かさ」を手放すことはそう簡単ではない。どうすればいいのか、私たち一人ひとりが知恵を出し合うしかないのだが、面白かったのは100時間残業を一日の円グラフで視覚化した「帰宅は深夜 だんらん遠く」(3月27日)だ。忙しいとつい忘れがちになるが、自分の生活において「豊かさ」とは何なのかを考えることが重要だ。そして大切なのは私たちが普段接する宅配の運転手やファミレスやコンビニのバイトにも同じような生活があるのだと想像することだろう。ささやかなことかもしれないが、働き方改革とともに私たちの意識改革も必要なのだ。(東工大教授)2017年4月16日 東京新聞朝刊 11版S 5ページ「新聞を読んで-働き方改革の裾野に目を」から引用 いつもは気の利いた論評をする弓山先生ですが、今回のこの記事は、私は問題があると思います。この記事では「私たちが、速く、大量に、質の良いサービスという『豊かな』生活を無批判に続けていく限り、どこかで誰かがツケを払うことになるのだ」とか「一度手にした『豊かさ』を手放すことはそう簡単ではない」とか、宅配便を利用する一般市民にも責任の一端があるかのような認識は、おかしいと思います。送料を無料にするとか、夜中でも電話一本で再配達に応じるというようなサービスは宅配業者が顧客獲得のために始めたものであって、そういう営業方針を打ち出したのであれば、労働者の負担が増えるのですから、その分を人員を増やすとか残業手当を過不足無く支払うというような企業としての当然の負担を、全部現場の労働者に押しつけて、過酷な労働条件を改善しようともせずに放置したから、離職者が増えて人手不足になっただけのことであって、問題の所在と責任は全てヤマト運輸経営者が負うべきもので、宅配便の利用者には何の責任もありはしないと思います。品物を送ったり、不在のために再配達すれば、費用が発生するのは当たり前の話であって、それをサービスで無料にすると経営者が決めたのであれば、その負担は経営者が負うのは当たり前の話で、それを今までは現場の労働者に「ただ働き」で負担させた、今度は利用者に「豊かさを諦めさせる」形で解決する。あまりにもズレた認識に呆れるほかありません。
2017年04月30日
トランプ大統領のビッグマウスが朝鮮半島に危機的状況をもたらしていることに関連して、法政大学教授の山口二郎氏は、16日の東京新聞コラムに次のように書いている; 北朝鮮情勢が緊迫の度を増している。先制攻撃を含むあらゆる手段を考慮するというアメリカ、トランプ政権を支持する我が国の指導者も、日本も敵基地攻撃能力を持てと主張する一部の政治家も、平和ボケ日本を象徴していると私は思う。 人口や経済活動がこれだけ大都市に集中し、日本海沿岸に多数の原発を抱える日本は、戦争のできない国である。アメリカのような大陸国家は、国土の一部を攻撃されても国が滅ぶことはない。しかし、日本とアメリカの立場は違う。核弾頭や化学兵器を搭載していなくても、東京や原発がミサイル攻撃を受けるだけで日本は壊滅する。数個分の3・11級の大災害が大都市と原発を襲うと想像するのが、戦争のリアリズムである。 北朝鮮の核開発との関連では、日本はこれを非難する正義の側に立つ。しかし、正義の実現の仕方には周到な配慮が必要である。邪悪な国にミサイルを撃たせないことが日本の生存の大前提である。日本が滅んでもよいから邪悪な国を滅ぼしたいというのもーつの考えではあるが、その道を行きたいなら政治家は国民を説得すべきである。 力を誇示したがる思慮分別を欠くアメリカ大統領とこれに追随するしか能のない日本の首相の下で、国民の生命と安全が大きな危機にさらされている。今こそ軍事力ではなく、政治の出番である。(法政大教授)2017年4月16日 東京新聞朝刊 11版 27ページ「本音のコラム-政治と軍事」から引用 朝鮮の核ミサイル開発がアメリカにとって脅威であるなら、アメリカは自国の安全のために朝鮮と話し合いをするべきである。朝鮮の核ミサイル開発を断念させるためには、その必要性を除去すれば良いのであって、朝鮮の武力の誇示は、毎年繰り返される国境付近の米韓合同軍事演習が朝鮮の主権を侵害しかねない事態になっていることへの対抗策なのだから、アメリカにとっての朝鮮の脅威を無くすには、米韓軍事演習を、今後は朝鮮国境とは遠く離れた場所に移すこと、その上で戦争状態となっている米朝間の国交を正常化すること、さらに朝鮮がアメリカにどのような要求をもっているのか、耳を傾け、可能な範囲で前向きに対応することが必要である。現在のアメリカの朝鮮に対する対応は、朝鮮を東西冷戦時代のソ連の「手先」という認識で、妥協を許すわけにはいかない「敵」ということであるが、今はもうそういう時代ではないのだから、アメリカは国内の軍事産業のための「メシのタネ」をキープする姿勢を改めるべきである。
2017年04月29日
沖縄県は米軍基地に関する国民の誤解を解消するためのパンフレットを作成し、全国に配布することになったと、16日の東京新聞が報道している; 沖縄県は、米軍基地問題を巡る誤解を正して理解を促そうとパンフレットを作成した。全ての都道府県と市町村に配布する。米軍普天間(ふてんま)飛行場(宜野湾市)の名護市辺野古(へのこ)移設問題で国と対立する中、地方自治体からの応援に期待している。 パンフレットは4万部発行し、県のホームページにも掲載した。写真や図表をふんだんに使って米軍基地の歴史的背景から移設に関する県の立場まで説明している。 Q&A方式で「何もないところに米軍基地ができ、周りに人が住んだのでは」「軍用地主は大金持ちと聞いたが、本当か」「県が辺野古に反対すれば、普天間飛行場の危険が放置されるのでは」などの疑問に答えた。 辺野古移設については「辺野古が唯一の解決策だから、沖縄が基地を負担しろというのは理不尽だ」と強調。昨年、移設を巡る最高裁判決で国に敗訴したことには「知事権限の一つについて判断が示されたにすぎない」とし、阻止へ向けた他の権限には影響せず、辺野古に反対する県の立場は変わらないと明記した。 辺野古が面する大浦湾では絶滅危惧種262種を含む5800種以上の生物が確認されていると紹介。「世界自然遺産の知床(北海道)や屋久島(鹿児島)を上回る」などと他の地域と比較し、分かりやすいよう工夫した。2017年4月16日 東京新聞朝刊 12版 28ページ「基地問題 誤解解きます」から引用 この度沖縄県が作成したパンフレットによると、米軍が基地に使用している土地の地主が受け取る使用料は、年間100万円未満が全地主の57%、100万円~200万円の地主が20%となっており、「軍用地主は大金持ち」は真実を表現した言葉ではないことが分かります。このような基本的な事実を周知することによって、人々が沖縄に対する正しい認識を持つようにする努力は、平等な社会の実現への第一歩になると思います。
2017年04月28日
都教委が小中高校生に配布した「五輪読本」は、五輪憲章と日本国憲法に違反しているとして市民団体が住民監査請求を起こしたと、14日の「週刊金曜日」が報道している; 東京都教育委員会が作成・配布した『オリンピック・パラリンピック学習読本』(以下、『五輪読本』)・DVD・教師用指導書は、「五輪憲章に違反した誤謬(ごぴゅう)のものである」とし、都教委を訴える会(共同代表=高嶋伸欣(たかしまのぶよし)琉球大学名誉教授・増田都子(みやこ)元子代田区立中学校教諭。以下、訴える会)の都民110人が3月27日、経費1億6431万円強の返還を求める措置請求(住民監査請求)を行なった。 都教委は昨年4月から、全公立小学校4年生から高校生までの約66万4000人に『五輪読本』を配布し、年間35時間の五輪教育実施を義務化した。『五輪読本』は小学校用が「表彰式の国旗けいようでは、国歌が流されます」、中学校用が表彰式の写真説明で、1位の国の「国歌演奏」時「敬意を表し、起立して脱帽する」と記述。 これに対し訴える会は、「五輪憲章は、表彰式で掲揚・演奏するのは『各NOC・選手団の旗・歌』であり、国旗・国歌ではないとしている」という事実を指摘。 続けて「『(国家権力が)誤った知識や一方的な観念を子どもに植えつけるような内容の教育を施すことを強制する』のは、『憲法26条・13条・・・からも許されない』と判じた、1976年の旭川学力テスト事件最高裁判決に照らし、『五輪読本』等の支出は違憲・違法」とし、中井敬三(けいぞう)教育長と山口香(かおり)・遠藤勝裕(かつひろ)・大杉覚(さとる)・宮崎線・木村孟(つとむ)の各教育委員(木村氏は退任)に対し、連帯して返済させるよう都監査委員に措置請求した。 都庁記者クラブでの会見で、長谷川直彦弁護士は「2000年シドニー五輪で韓国と北朝鮮が(国旗でなく)統一旗を使用した事実」を示した。映画監督の増山麗奈(ますやまれな)さんは「小5と中3の母親として(五輪教育の)年間35時間は多過ぎる。将来に役立つ基礎学力充実の方に時間を使ってほしい」、音楽家・小野寺通(とおる)さんは「”君が代”を敬愛せよと教え込むのは外国籍の子どもへの配慮を欠く」と発言した。<永野厚男・教育ジャーナリスト>2017年4月14日 「週刊金曜日」 1132号 8ページ「都教委読本『五輪憲章に違反』」から引用 昔はオリンピックを国威発揚に利用しようとする試みが露骨に行われた時代があって、その反省からIOCは敢えて「表彰式で掲揚・演奏するのは、国旗・国歌ではない」と規定しているのですから、小中高の生徒に教えるときはIOCの意図を踏まえて、正しい知識を伝えるべきです。都監査委員には、公正な判断を期待したいと思います。
2017年04月27日
伊藤隆著「歴史と私-史料と歩んだ歴史家の回想」(中公新書)は、素人にも読みやすく、大変面白い本です。伊藤隆氏は、東京大学名誉教授で歴史学者、自らの人生を振り返ったもので、興味深いエピソードが満載です。「まえがき」には、元号が平成になって間もない頃、いきなり宮内庁から電話があって、陛下がお話を伺いたいと仰ってますが、ご都合はいかがですか、と言われ、半信半疑で赤坂御所へ行ってみると、門衛は「どうぞ」と通してくれて、一人で3~4分歩いて御所までいくと、玄関に侍従が立って待っていた。部屋に通され、天皇と二人だけで清酒と軽いつまみを頂いて、日本の近代史について、1時間半ほど話し合った。今思い出しても夢のような気がする、などと書いているので、「なんだ、そんなことを自慢したい人なのか」と思いきや、本論に入ると、なかなかこれが、自分でも知ってるつもりの戦後史が「そうか、そういうことだったのか」と思わされる記述が次々と出てきます。 戦後間もなく東大に入った伊藤氏は共産党の党員として活動しますが、歴史学を学ぶうちに、当時のマルクス主義者たちが主張していた発展段階説と階級闘争史観に拘っていると、どうも説明がつかない事態が生じるという疑問を抱えたため、共産党が武装闘争路線を転換した六全協を機会に共産党を離党した、という経歴の持ち主です。あるとき、中央公論の社長の発案で、司馬遼太郎を紹介するから、対談してもらって、それを記事にしたいとの申し出があり、対談したところ、司馬遼太郎は持論の「明治の日本は輝いていた。昭和に入ってからは最悪だった」を繰り返し言うものだから、伊藤氏のほうも「スイッチが入ってしまい」司馬の言うことを、一々根拠を上げて反論し、昭和の敗戦は明治以来の路線がもたらしたものだ、と説明したところ、司馬はかなりのショックを受けた様子で沈黙してしまい、それっきり対談は終わってしまった。事態に驚いた中央公論の社長は「伊藤さん、申し訳ないが、司馬さんは当社にとって貴重は財産だから、今回の対談記事はすぐに発表するわけにはいかない。当分の間、私に預からせてほしい」と言ってきたので了承したところ、その対談記事の発表は司馬遼太郎の死後になった、ということです。 また、伊藤氏は中央公論が企画した歴史叢書の執筆にも参加しており、「革新」や「共産主義」が近代日本にどのような影響を及ぼしたか、という点に触れて、平成3年のソ連解体によってロシア型の革命が失敗したこと、日本共産党も平成12年には党大会で規約前文を改訂し、「前衛政党」「社会主義革命」という文言を削除したことなどに言及しています。 伊藤氏の歴史学研究では、歴史に名を残した著名人でまだ生存中の人々に直接インタビューしているので、その体験から語られるエピソードが面白い。戦前の軍国主義と国家神道の理論的支柱となった平泉澄は、戦後福井県の白山神社の宮司になり、伊藤氏は研究室の助手を連れてインタビューに出かけると、平泉氏は相変わらずの権威主義で「私が指導したころの日本はだね、・・・」というような話し方をするので辟易したとか、インタビューの途中で「日本人というものは、このようでなければならない」と言って、いきなり本物の日本刀をさやから抜き出して見せる、するとそばにいた助手が「先生、ちょっとそのまま」とか言ってカメラを構える、すると平泉先生もますます図に乗ってポーズを取ったりするので「私はすっかり呆れてしまった」などと書いてます。そんな調子でインタビューを終えると、奥様が「どうもお疲れ様でした。お茶でもどうぞ」と言ってくれたのでご馳走になると「うちの主人はプロレスが好きで」と言われて、伊藤氏も驚いて「先生、プロレスのどこがそんなにいいんですか」と尋ねると、「隠忍に隠忍を重ねて、最後にパッと相手を倒す、これは日本精神に通じる」と、真面目な顔で言われて、こっちは苦笑して帰るしかなかったとのことです。 この後、岸信介、竹下登等の総理大臣経験者へのインタビューのことも書いているので、どんなエピソードが飛び出すか、楽しみです。伊藤隆氏は、「新しい歴史教科書をつくる会」の理事をしていたこともある人ですから、当ブログのコメンテーター諸君の中にも知ってる人はいると思います。
2017年04月26日
エッセイストの酒井順子氏は、9日の東京新聞コラム「3冊の本」に、鉄道に関する本について次のように書いている; (1)江上剛『クロカネの道-鉄道の父・井上勝』(PHP研究所・1944円)は、長州藩士の息子として幕末に生まれ、やがて青雲の志を抱いて伊藤博文らと共にイギリスへ密航した井上勝の一代記。日本に鉄道が走り、人や物が自由に行き来するようになってこそ、国としてのまとまりが生まれる。・・・との信念のもと、井上は幾多の困難を乗り越えてイギリスで勉学に励み、帰国後は鉄道敷設に邁進(まいしん)します。 出世よりも、「クロカネの道」を少しでも早く、長く日本に走らせることに没頭した井上は、日本で最初に、鉄道に魅入られた人なのかも。彼の猪突猛進(ちょとつもうしん)な生き様は、レールをつき進む列車の姿とも、重なります。 「クロカネの道」にも記されますが、鉄道の黎明(れいめい)期には、西郷隆盛や黒田清隆などが、鉄道敷設に対して激しく反対しました。のみならず鉄道敷設にあたっては、さまざまな事情から反対する動きもあったのです。 今も日本各地にその手の「鉄道忌避伝説」が残されますが、果たして鉄道反対運動は本当にあったのか、と検証するのが(2)青木栄一『鉄道忌避伝説の謎-汽車が来た町、来なかった町』(吉川弘文鮨・1836円)。特に街道筋の宿場町では、鉄道が走ると町が衰退する、という理由から「あえて鉄道を拒否した」という話が残るケースがあるけれど、それが資料としては残っていないことが多いのです。 なぜその手の「伝説」が多く残ったのかを考察しつつ、実際にあった鉄道への反対運動をも記す本書。それによれば、やはり鉄道創業時の、すなわちゼロから一にする時の守旧派による反対は非常に厳しいものであった模様。今となっては当たり前に走る鉄道ですが、それがどのようなものかを知らない人々に敷設を納得させようとした井上らの苦労が、偲(しの)ばれます。 井上は東京駅開業の数年前に世を去りましたが、開業に先だってその銅像が、丸の内側に建てられました(東京駅改築工事により現在は撤去中)。(後半は省略)2017年4月9日 東京新聞朝刊 8ページ「3冊の本-鉄道敷設一筋に」から引用 井上勝が「人や物が自由に行き来するようになれば国としてのまとまりが生まれる」などと言って、それで鉄道建設が進んだというのは、何だか子供だましの美談に過ぎないのではないかと思います。井上勝自身は、そう思い込んで情熱的に鉄道建設を訴えたとしても、政府がその訴えを聞き入れて、資金を出して建設を実施したのは、当時の社会が物流や人の通行の効率化を求めていたからであって、政府がそういうニーズを認め、井上の主張がそのニーズに応え得ると判断したから建設が進んだというのが実態ではないでしょうか。また、鉄道忌避伝説は、私にとっては「伝説」というよりももっと現実的に感じられます。それというのも、私は小学校の社会科の時間に、先生がそういう話をしてくれたからです。秋田県増田町は江戸時代から商業が盛んな町で、商売で成功した家は大きな蔵を建ててその子孫も後を継いで、今もその蔵は残っていて、つい最近も吉永小百合がJR東日本のコマーシャルの撮影をしたくらいで、今も資産家が住む町ですが、明治の鉄道建設が始まったとき、増田町の実力者は国に抵抗して鉄道の敷設や駅の建設を認めませんでした。そのため、国は増田町に鉄道を通すことを断念し、増田町のとなりの寒村だった十文字村に駅を作りました。ところが、その駅が出来ると駅前に商店街ができ、人口も増えて、私が小学生になったときは村ではなく「十文字町」になっていて、増田町をしのぐ大きな町に発展していたわけで、先生はそう説明してくれました。ですので、私にとっては「鉄道忌避」は伝説などではなく、れっきとした実話です。ちなみに、秋田県の増田町も十文字町も、今は「平成の市町村合併」で「横手市」になっています。
2017年04月25日
横須賀市の公園に、かつて地元で建造された戦艦陸奥に搭載されていた巨大な大砲が展示されることになったと、9日の東京新聞が報道している; ヴェルニー公園(横須賀市)に設置された旧日本海軍の戦艦陸奥の主砲の周辺整備が終わり、案内板が完成した。地元の市民団体が、陸奥の歴史の「陰(かげ)」の部分も直視する内容にしてほしいと市に要請していたが、触れられなかった。 要請した「非核市民宣言運動・ヨコスカ」の新倉裕史さん(69)は「陰の部分も含めた歴史的事実を伝えることで、平和への思いを発信することができる」と話す。「内容的にはゼロ回答に等しく残念ではあるが、市の担当者と対話することができた。旧軍遺産を観光資源にすることについて、是非を論じていくことが大切。今後、市にも参加を求めて市民を対象にした連続講座を開催したい」と話した。 案内板は高さ90センチの台座(横幅2メートル30センチ)の上にA3判のプレート5枚でできている。 陸奥の歴史の中で「昭和18年(1943年)瀬戸内海の柱島沖で火薬庫が爆発し、沈没した」と説明した。市民団体が求めていた「沈没で乗員1121人が死亡し、生存者もその後、最前線の戦地に送られ、大半が戦死している」ことなどは触れていない。 「主砲はハイテクの塊」と題したプレートは、主砲の断面図などとともに、「江戸の刀鍛冶等の匠(たくみ)のノウハウと西洋技術の融合」と解説した。このほか、陸奥の当時の姿や主砲を引き揚げた際の写真、陸奥を真上と真横から示した図、陸奥や主砲の全長などの数字データも載せた。 市担当者によると、案内板の内容は、横須賀市への移設を呼び掛けた地元の政財界関係者が発起人となった「陸奥の会」と協議の上、市の博物館の学芸員の意見も聞いて決めたという。 陸奥は1921(大正10)年、横須賀海軍工廠(こうしょう)で、長門型2番艦として建造された。36年に大改装され、今回、設置された主砲はこの時に取り付けられた。戦後引き揚げられ、東京・お台場の船の科学館に展示されていたが、陸奥が横須賀海軍工廠(こうしょう)で建造されたことから、陸奥の会が中心となって「里帰り」を実現させた。(加藤寛太)2017年4月9日 東京新聞朝刊 24ページ「市民団体要望も『陰』触れず」から引用 戦艦陸奥に搭載した大砲がいくら立派で江戸時代の刀鍛冶の匠の魂が入ったものであっても、それを搭載した戦艦が爆発事故を起こして千人以上の乗員を死なせたとか、そういう事故で生き延びた者も結局は南方に送られて、大半が戦死したという歴史のほうが、後世に伝えるべきという点で遙かに重要だと思います。横須賀市の連続講座では、活発に討論してほしいと思います。
2017年04月24日
原発事故避難者に対する政府の対応について、法政大学教授の山口二郎氏は、9日の東京新聞コラムに次のように書いている; 今村復興大臣が、福島原発事故の被災者が自主避難を選ぶかどうかは自己責任だと発言したことに、怒りが収まらない。一応大臣は発言を撤回したが、発言後の経緯からして、自己責任論は今村氏のみならず安倍政権の意思とみなすしかない。 過去の公害事件から原発事故に至るまで、日本の政府の対応には一貫したパターンがある。それは、プロクルステスのベッドである。プロクルステスとはギリシャ神話に出てくる強盗で、通りがかる人をとらえてベッドにくくりつけ、はみ出す手足を切断するという残虐な趣味を持っていた。人は、問題をありのままに見て解決策を考えるのではなく、出来合いの解決策に無理やり人間を押し付け、そこからはみ出す問題は切り捨てる、無視するという本末転倒な対応をすることを示唆する寓話(ぐうわ)である。 現代日本では、乏しい予算、被災者に対する冷淡な法制が狭いベッドである。くくりつけられているのは生身の被災者である。震災から6年たって原発事故の記憶を消去したい政府は被災者に帰還を迫る。そして、政府が用意した政策からはみ出す部分を切り捨てる論理が自己責任である。 同じ構図は水俣病の患者認定の仕組みにも存在した。現在でも、医療、介護、貧困対策などについて、安倍政権の「やったふり」は、すべてプロクルステスと同類である。(法政大教授)2017年4月9日 東京新聞朝刊 11版 27ページ「本音のコラム-プロクルステスのベッド」から引用 自主避難は自己責任だと記者の前で発言したのは今村大臣であるが、彼のその発言は彼独自の発想だったのかというと、恐らく今村氏の気持ちとしては閣僚や自民党内に普通に存在する「空気」だから、記者の前でためらいもなく言えた、というのが真相ではないか、と思います。世間に向かって大っぴらには言えないが与党内には普通の空気として存在する例は、他にもあるような気がします。そういう空気から出てくる「暴言」を、私たちは「また、いつもの暴言だ」と慣れてしまわずに、その都度「非常識な暴言である」と、しつこく追及していって尻尾をつかみ、与党の座から引きずり下ろす実力を養いたいものです。
2017年04月23日
作家の筒井康隆氏のブログやツイッターでの発言が、韓国で問題になっていると、9日の東京新聞が、次のように報道している; 【ソウル=共同】作家の筒井康隆氏=写真=が自身のブログなどで韓国のソウルや釜山に設置された慰安婦問題の少女像に性的な侮辱行為をするよう呼び掛ける内容を記したとして、韓国で反発が拡大している。筒井氏の作品を扱う出版社は7日、昨年12月に翻訳出版した著書を絶版にすると表明した。韓国メディアも非難している。 筒井氏は7日までに、釜山総領事館前の像設置への対抗措置として一時帰国していた長嶺安政駐韓大使がソウルに帰任することに絡み「長嶺大使がまた韓国へ行く。慰安婦像を容認したことになってしまった」と主張。「あの少女は可愛(かわい)いから」とした上で、侮辱を促すようなことを書いた。ツイッターでも同じ文章を書き込んだというが、既に削除されている。 韓国メディアは「妄言」と一斉に批判。筒井氏の著書「モナドの領域」を翻訳出版した出版社は「作家としてだけではなく、一人の人間としての彼(筒井氏)の態度に憤怒と悲しみを覚える」と絶版を宣言した。 今回、問題視されたのは「偽文士日碌(ろく)」と題された筒井氏のブログで、文士のパロディーとしてつづられた日記という体裁。「碌でもない」に引っかけて「日禄」としたという。◆”炎上”を狙った冗談【筒井康隆氏の話】 韓国を侮辱するつもりはなかった。僕は戦前の生まれなので、韓国人に日本人がどれだけひどいことをしたか知っている。慰安婦像が設置されても仕方ないと思う。今回騒いでいるのは、僕の小説を読まない人たちでしょう。(今回の書き込みは)そういう人をあぶり出すための”炎上”を狙ったもので、冗談だ。2017年4月9日 東京新聞朝刊 12版 28ページ「韓国で筒井康隆氏批判広がる」から引用 私は筒井康隆が書いた小説を読むような趣味は持ち合わせておりませんが、彼の作風は人の心の裏側を表現するものだとか、未成年に与える悪影響から、警察関係者は彼の作品を「不良文化財だ」と言っているというような情報に接した記憶はあります。また、彼の作品が国語の教科書に掲載されそうになって、日本てんかん協会からクレームがあがり騒ぎになったとき、彼は「言葉狩り」に抗議して断筆を宣言するというような事件もありました。あの時は、誰と誰がどのような議論をして筒井氏が断筆することになったのか、詳しい情報に接することはありませんでしたが、「彼の小説を教科書に載せようと考えたヤツが悪いんだ」くらいの認識でした。そういう経歴(?)を持つ人物ですので、ブログが炎上したくらいは驚くほどのことではないと思いますが、この記事のポイントは、筒井氏は戦後生まれの我々とは違って戦前生まれなので、かつて日本人が韓国人にどれだけひどいことをしたか知っている、だから、大使館や領事館前に慰安婦像を設置されても仕方ないのだと思う。この認識は、何も知らない我々にとって、大変貴重な発言だと思います。こと慰安婦問題に関しては、ウィーン条約違反だなどとは日本人は言えないと思います。
2017年04月22日
評論家の佐高信氏は、以前から自民党と連立政権を組んで「平和の党」に相応しくない法律を次々と成立させる公明党を「下駄の雪」と表現して批判してきましたが、3月10日の「週刊金曜日」には、作家の故・城山三郎氏に宛てた手紙という形で、次のように書いています; 拝啓 城山三郎様 先日、早野透さんと松田喬和(まつだたかかず)さんの共著『田中角栄と中曽根康弘』(毎日新聞出版)の出版記念会に出て、公明党前代表の太田昭宏氏と会いました。同党の高木陽介氏も一緒でしたが、私は2人に、「共謀罪を通したら承知しないからな」と浴びせました。 2人はモゴモゴ釈明していましたが、公明党が自民党にべッタリとくつついて”下駄の雪”となっているのは、およそ15年前とかわりありません。2001年から2003年にかけて城山さんは本当に鬼気迫る勢いで個人情報保護法に反対しました。それは呼びかけた私をハラハラさせるほど激しいものでしたが、この法案は創価学会の池田大作名誉会長が自民党と公明党が連立を組む際の条件としたといわれ、私たちは「権力者疑惑隠し法」だと批判しました。 当時、公明党の国会対策委員長だった太田昭宏氏は、城山さんに”理解”を求めようと「お会いしたい」と申し入れたのですね。それで城山さんが、サタカさんも一緒にと向こうに答えたら、「その人は別の機会に」 と同行を断られました。 私がテリー伊藤さんとの共著編『お笑い創価学会--信じる者は救われない』(光文社)を出して、学会から”仏敵”扱いされていたからでしょう。「信仰に自信がないんだね」 と城山さんは笑っていましたが、私もそう思いました。 公明党の”下駄の雪”ぶりはますますひどくなっています。共謀罪についても、それは必要と支持する「識者」も現れましたが、そういう人は下駄の雪についた泥とでも言うべきでしょうか。◆紫綬褒章を断った城山三郎さん 城山さんのことは誰よりも知っていると自負していた私が脱帽した加藤仁さんの『筆に限りなし』(講談社)に、城山さんと石原慎太郎氏の遣り取りが引かれています。 一橋大学では城山さんが先輩で、文壇では石原氏が先輩という関係だったわけですが、ある時、石原氏が城山さんに、「どうしていつまでも、あんなことにもたもたしているのですか」 と尋ねたのですね。「あんなこと」とは天皇制のことで、それにこだわって『大義の末』(角川文庫)という小説を書き、「天皇制への対決」という評論を発表した城山さんに、石原氏は、「天皇制なんかほっておけば消えちゃいますよ」 と言ったとか。 それに対して、講師を務めた愛知学芸大の女子学生たちが編んだ卒業文集『英』の座談会で城山さんはこう語ったわけですね。「僕はほっておけば消えるという気持が80パーセント、今まで天皇制の果たしてきた役割を書き続け、言い続けなければならない気持が20パーセント、それが戦中派の責任であると思う」 少年兵の体験もあって、「おれには国家というものが、最後のところで信じられない」と紫綬褒章を断った城山さんは、若いころからの読書会「くれとす」の仲間の国立大学名誉教授2人が、瑞宝中綬章(ずいほうちゅうじゅしょう)を受けた時、「そんなのもらって、うれしいのか」 と激しく毒づいたのですね。「汚ねぇぞ」「恥を知れよ」 と続けて、城山さんの怒りはしばらくおさまらなかったそうですが、『筆に限りなし』のこの箇所に私は呆然としました。城山さんの怒りのマグマを書き落としたと思ったのです。 城山さんが存命なら、共謀罪まで認めてしまう”下駄の雪”とそれについている泥に「汚ねぇぞ、恥を知れよ」と言うでしょう。2017年3月10日 「週刊金曜日」 1127号 「佐高信の新・政経外科-下駄の雪についた識者という泥」から引用 石原慎太郎氏が都知事になってから、都教委は都立高校の式典で君が代斉唱のときに起立しない教職員を処分するようになったと、私は記憶してますが、その割に石原氏自身は「君が代」の歌詞が気に入らず、どうしても歌うときは「♪き~み~が~よ~わぁ」ではなく「♪わ~が~ひ~の~も~と~わぁ」と歌うのだ、と何かに書いていたのを読んだことがあります。天皇制についても、あんなものはほっておけば消えちゃうと、保守の政治家にしては随分風変わりなことを言う人だなぁと思います。また、「国から勲章などというものをもらって喜ぶような者はろくなものではない」という主張は、よく耳にします。「暗夜行路」を書いた志賀直哉も、生涯そういう信念を貫いたのだそうです。
2017年04月21日
関周一編「日朝関係史」(吉川l弘文館刊)について、京都大学教授の小倉紀蔵氏は2日の東京新聞に、次のような書評を書いている; 古代から現代までの、日本と朝鮮半島の多元的な関係史を叙述した本。アジアのなかで日朝関係を動かしてきた複雑な動力を、世界観の変化という視点から明確に描いた。わかりやすい。興奮する。ためになる。 世界観とは、たとえば古代の各国における自国中心主義の性格の違いや、海をどう見るか(開かれた利益の源泉と見るか、管理の対象と見るか)など。それは単純ではない。たとえば室町幕府が朝鮮を自分より下の国家として扱ったのは、逆に朝鮮文化を高く評価していたからだった。 対馬の役割も注目されるべきだ。対馬は室町時代以降、幕府と朝鮮とのあいだの軋轢(あつれき)に苦悩しつつ、文書を偽造し、朝鮮に偽使を派遣して莫大(ばくだい)な利益を得た。日本から大量の銀が朝鮮に流れたのも対馬によるところが大きい。ところが幕末になると、対馬は一転して朝鮮進出論を打ち出す。矛盾が凝縮する接触面であるがゆえの行動である。東アジアという枠組みで見れば、日本、中国、ロシアの接触面が朝鮮になるが、その枠組みのなかで日朝関係を見れば、対馬が接触面になる。入れ子構造になっているわけだ。 本書から、現代のわたしたちが学ぶべきことも実に多い。たとえば古代において、君主間の外交が困難になると、別チャンネルが多様に発動して関係を修復したことなどは、現在の外交よりも賢いやり方だ。 ただ本書は、近代・現代の部分が近世までの叙述と明確に異なっており、違和感を与える。近世までの叙述では、日朝の複雑な多元的関係を、道徳や価値から離れて多角的に描くことに成功している。しかし近代・現代にはいると突然、叙述は単眼的になって平板になる。それだけ、この時代に関する複眼的な叙述はまだ困難なのだということだろう。現代に関しては、本書とほぼ同時に出た李鍾元(リージョンウォン)ほか著『戦後日韓関係史』(有斐閣)をあわせて読まれることをぜひお薦めする。(評者 小倉紀蔵=京都大教授)関周一編「日朝関係史」(吉川l弘文館・3780円)編者のほか太田修、木村直也、河内春人、澤本光弘、松田利彦の5人が執筆。2017年4月2日 東京新聞朝刊 9ページ 「読む人-複雑な動力 多角的に描く」から引用 日本列島と朝鮮半島に住む人間同士が大昔から関係を維持して今日に至っているという話には大変興味が引かれます。日本と朝鮮の間に挟まれた対馬が、うまく立ち回って莫大な利益を得たという話も面白いし、そう言えば日本も昔は地下資源が豊富で、室町時代のことではないと思いますが、私の郷里の秋田県でも、山形県との県境にある院内峠はその昔、銀を産出して繁栄した時代があったと聞いたことがあります。銀を掘り出すために日本中から労働者が集められ、その労働者に食事を提供する業者、宿泊施設を運営する業者、盛り場で賭場や遊郭を経営する者などが集まり、かなり大きな町だったという記録があるそうです。私が知るところでは、今は少数の農家があるだけの山村ですが、そういう時代があったという話を、懐かしく思い出しました。
2017年04月20日
作家の藤沢周氏は、児童生徒に画一的な道徳観を教え込もうとする政府の方針を、2日の東京新聞読書欄で次のように批判している; 何処(どこ)ぞの学園による教育勅語暗誦(あんしょう)の強制やら、文科省による道徳の教科化やら、何を言うとるの? と思っていたら、今度は「パン屋・和菓子屋」問題である。この国のお上の教育観、どうかしている。 ならば、私がことあるごとに頁(ページ)を繰る川端康成『美しい日本の私』(角川ソフィア文庫・778円)をどう読むのだろう。 そのタイトルから、「素晴らしい!」などと諸手(もろて)を上げて迎えたら、痛い目に遭う。作家がノーベル文学賞を受賞した時(1968年)の講演記録は、むしろお上の考える日本とは対極なのである。 なにしろ、一貫して禅の「逢仏殺仏逢祖殺祖<仏に逢(あ)えば仏を殺せ、祖に逢えば祖を殺せ>」という覚悟をベースに、命を賭して真・善・美を追求する芸術について語っているのだから。透徹した死生観=「末期の眼」からの芸術は、引用されている一休宗純の「仏界入り易(やす)く、魔界入り難し」同様、とてつもなくアグレッシブなのだ。(以下省略)2017年4月2日 東京新聞朝刊 8ページ「3冊の本-『仏界』『魔界』を巡る命」から引用 道徳を教科として教えることの不自然さについては、多くの教育の専門家が指摘したところであったが、専門家や学者を毛嫌いする安倍政権は何がなんでも道徳の教科化ということでごり押しして、無理な教科書を作るから、国を大切に思う心を育むにはパン屋は不適切で、和菓子屋はOK、などと妙な議論が出てきたりするわけです。 川端康成の「美しい日本の私」は、出版された当時、友人が「何を書いているのか、さっぱり分からない内容だった」と言うのを聞いて、ああ、そんなものかと思って、自分で読もうとは思いませんでしたが、それから何十年か経って、安倍氏が首相になる前後に似たような名前の本を出版したのをみて、これは川端康成のパクリだなと思ったものでした。ところが、上の記事を読むと、川端康成「美しい日本の私」と安倍晋三「美しい国へ」は、似ても似つかない内容と知りびっくり、これは日記に書き留めておく必要があると思った次第です。
2017年04月19日
法政大学教授の山口二郎氏は、昨今の世の中の動向について、2日の東京新聞コラムに次のように書いている; 過日、アメリカの大学を訪問した際、菅直人氏が福島原発事散について講演したので参加した。質疑で、日本人留学生が原発事故は日本以外の国にも大きな衝撃を与え、エネルギー政策の転換を促しているのに、日本国内では何事もなかったかのように再稼働が進んでいる。この差はなぜかと質問した。日本全体に対する厳しい問いである。 日本では最近「忖度(そんたく)」という言葉がにわかに注目されている。そこに一つの答えがあると思う。世の中の多数派の意向を慮(おもんぱか)り、先回りしてそれに同調するという心理である。原発再稼働を差し止めた一審判決を覆した高裁の判事も、政府に逆らうなという最高裁の意向を忖度したのだろう。 今まで長く続いた仕組みには既得権が絡みついている。転換を最初に主張するのは少数派である。少数者を圧殺する社会は誤った政策を変えられないまま、破局に向かって転がり落ちていく。 折しも、政府は教育勅語を憲法や教育基本法に反しない範囲で教材にすることは可能だとの見解を示した。「一億一心」で亡国への道を歩んだ経験の根底には、勅語に象徴される権力、権威への従順さを植え付ける教育があった。過去の事実を直視することなく、個人の尊厳を否定する教育が復活しようとしている。 われわれは、多数者の誤りに異を唱える少数者たる覚悟を固めるしかない。(法政大教授)2017年4月2日 東京新聞朝刊 11版 25ページ「本音のコラム-少数者の覚悟」から引用 この記事は、短い文章ではあるが、なかなか教訓に富んでいる。少数者を圧殺する社会は誤った政策を変えられないまま、破局に向かって転がり落ちていくというのは、70数年前に正に我々日本民族が体験したことであり、70年経って「喉元を過ぎた」と思ったのか、憲法をねじ曲げて自衛隊を海外に派遣はするし、共謀罪を新設して監視社会にしようとするし、自民党の改憲案では「表現の自由」も「基本的人権」も法律が許す範囲に限定しようという魂胆である。「安倍一強」ではだめなのだということを、国民は自覚するべきだ。
2017年04月18日
森友学園問題に象徴される日本政治の特徴について、東京大学教授の宇野重規氏は2日の東京新聞コラムに、次のように書いている; 日本政治の中枢に一つの妖怪が排徊(はいかい)している。その名はソンタクである。この妖怪が現れると、人々は不機嫌な沈黙状態に陥る。何を聞かれても、関係者は「申し上げることばない」、「規則通りやっている」と繰り返すばかりである。とはいえ、誰がどう見ても、何か話すべきことはあるだろうし、規則通りに物事が動いているとは思えない。誰もがおかしいと思いながら、何ごともなかったように時間だけが過ぎていく。 ソンタクと比べるならば、ケンリヨクノオウボウという名の怪獣は乱暴だが、ある意味でわかりやすい。その怪獣の名前を声に出して、戦っていくしか道はないからだ。これに対しソンタクの場合は、独特な無気力が支配する。人々は低い声でボソボソとしゃベりながら、誰に明確に命令されなくても、自分に「期待されている」はずの役割を粛々と果たすのである。 しかし、ソンタクによってもっとも損なわれるものがあるとしたら、それは政治そのものであろう。政治においては、さまざまな利害がうごめく。とはいえ、だからと言って、腕力のある者の意見ばかりが通るわけでもないし、あらゆることが馴(な)れ合いで決まっていくわけでもない。すべての利害関係者が自分の主張をし、相互に説得を試みて、妥協できるところは妥協し、できないところは場合によっては問題を先送りする。 肝心なのは、政治は議論を通じて行われるということだ。それも密室において、特定の関係者だけで議論をするのではなく、あくまで衆人環視の下で物事を決めるのが政治の本質である。人々は言葉を尽くして自らの主張の正当性を主張し、その代わりに、他人の主張にもきちんと耳を傾けることがその第一歩となる。 ソンタクに取りつかれた政治はその逆だ。多くの人には物事がどこで、どのように決定されるかわからない。それでも「そのようなものなのだろう」という諦めの思いとともに、人々は自分の思いをのみ込む。結果として、政治の舞台からは真剣な主張や説得の試みが見られなくなり、聞こえるのはただ騒がしい騒音や、あるいは真剣にものを言おうとする人間に対する冷笑ばかりとなる。 今回の森友問題がどのような決着を見るかわからない。とはいえ、問題を通じて得られるものは少ないのではないか。普通、どれだけばかげた事件であれ、人々に何らかの教訓を与えてくれるはずである。しかしながら、今回の問題を通じて明らかになったのは、日本政治の中枢にいかに怪しげな人物が集まるかということと、妖怪ソンタクがどれほど日本政治において力を持っているかということくらいである。 世界が不安定化し、とりわけ極東の状況は緊迫の度を増している。欧州では重要な選挙が今後も続く。このような状況で、日本の国の指針を間違えば、取り返しのつかない事態となる。にもかかわらず、日本政治を妖怪ソンタクが支配しているのは異常である。 「どうしようもない」、「他に選択肢がない」という言葉は、ソンタクにとって何よりの好物である。この言葉を安易に口にする時、妖怪が忍び寄ることを忘れてはならない。これ以上妖怪を跋扈(ばっこ)させないためにも、この2つの言葉は歯を食いしばっても口にすべきではないと思うが、どうだろうか。(東大教授)2017年4月2日 東京新聞朝刊 11版S 5ページ「時代を読む-ソンタクという妖怪」から引用 宇野先生は、森友問題がどのような決着となるか今の時点では分からないが、どっちみち得られる教訓などは大したものではなく、せいぜい日本政治の中枢にいかに怪しげな人物が集まるかということと、ソンタクがどれほど日本政治において力をもっているかということくらいだと、達観しているようです。日本会議の息のかかった総理大臣や、防衛大臣、次々と暴言を繰り出しては訂正や謝罪に明け暮れる閣僚など、こういう怪しげな人物で構成される政権が長く続くのは国民にとって不幸なことで、将来に禍根を残すことになるのではないかと思います。
2017年04月17日
上智大学教授の三浦まり氏は、最近の新聞を読んだ感想を、2日の東京新聞コラムに次のように書いている; 森友学園への不透明な国有地払い下げ事件は、籠池氏の証人喚問で政官業癒着の一端が垣間見えたものの、財務省が文書を破棄したとしているため真相の解明が進んでいない。南スーダンの日報のように本当はあったということにはならないのだろうか。そもそも国民の財産である国有地の売却に関して、文書を破棄したですまされるのだろうか。 思い起こせば1990年代の政治改革は、政治主導という名の下に首相への権力の集中を進めてきた。これが政官業癒着をもたらさないのは、政権交代が定期的に起こるからであり、政権交代を起こすためにも小選挙区制導入を通じた二大政党化が望ましいとされた。しかし、一強多弱と呼ばれる現状では、政権交代の見通しは明るくない。 癒着や権力の私物化を防ぐもうひとつの装置はアカウンタビリティ(応答責任)であった。首相は権力を行使するにあたり、常に説明を果たさなければならず、皆が納得できる答弁ができないなら、職を辞さなければならないというのが、アカウンタビリティが利いている状態だ。 もっとも、開き直りの答弁であっても、本人が居直ってしまえばそれまでである。納得できるかどうかの基準は曖昧だが、だからこそメディアの役割が極めて重要だ。 「首相説明納得せず62%」の世論調査の結果(3月27日)は2面ではなく、1面トップに載せるような記事のはずだ。一昔前であればとっくに辞任につながったような発言が、訂正やおわびで済むようになったのは、メディアの追及が甘いからではないだろうか。 政府のアカウンタビリティが求められる案件として残業規制もある。過労死を防ぐための上限規制は月100時間未満で決着したが、過労死認定基準の直前まで残業が許されたのには驚く。過労死遺族らの反発を買ったとの報道(3月14日、17日)に心が痛む。 月100時間までの残業合法化は、それこそ「世界は、日本に驚いている!」ではないだろうか。これは経済産業省が製作した日本アピールの冊子に載っているコピーだ(3月15日)。 長時間残業がなければ経営者は「収益が下がる」と言っているそうだが、「残業を減らせば業績が上がる」ことを小室淑恵氏が実証しているという(3月13日「私説」)。長時間労働なくしては利益を出せないというのは、経営能力がないと言っているのに等しい。 残業100時間の暮らしがいかに過酷なものであるかをイメージ化した3月27日の記事はわかりやすかった。働き方改革が生活のゆとりをもたらすのか、メディアは政府答弁との整合性を追及し続けてほしい。(上智大学法学部教授)2017年4月2日 東京新聞朝刊 11版S 5ページ「新聞を読んで-メディアの追及今こそ」から引用 一昔前なら大臣のクビが飛ぶような暴言でも、最近は訂正やおわびで済むようになったのはメディアの追及が甘いからではないか、という指摘はその通りだと思います。一昔前なら、朝日も毎日も厳しく追及していたのに、今は東京新聞と赤旗だけでは、いかにも力不足であり、朝日や毎日の追及が弱いのは、やはり経営者が首相におごってもらったりしているからではないかと思います。また、長時間労働がないと利益を出せない経営者というのも困ったもので、労働者に過労死ギリギリの労働を押しつけていたのでは、若い労働者はデートの時間もなくなり、少子化にますます拍車がかかり、人口減少、国力の衰退という方向に進むのではないでしょうか。国家の繁栄こそは、安倍首相にとって何をおいても最優先事項のはずですから、今の政策でいいのか、真剣に考え直す時期にきているのではないかと思います。
2017年04月16日
自民党や民主党で幹事長を務めたほか、大蔵大臣や財務大臣の経験もある藤井裕久氏は、森友学園問題の異常さについて3月26日の「しんぶん赤旗」で、次のように述べている; 元大蔵官僚で、財務(大蔵)相を3度務めた藤井裕久さん(元衆院議員)に、「森友学園問題」をどうみるかを聞きました。 私の経験からいうと、今回の森友学園への国有地払い下げは、まったく異常です。国有地を8億円もまけて売却するなど、およそ考えられません。 国有地の処分にあたる役人は、法規を守ること、前例を守ることに重きをおきます。頑迷固陋(がんめいころう)な役人が、独断でやれることではありません。 大きな「力」が働いたとしか思えません。だれとは言えませんが、特別の力です。そうでないと今回の結果はありえない。徹底的な解明が必要です。 近畿財務局の判断だけでもできません。私も関東財務局にいたからわかります。8億円もの値引きを一地方部局だけでできるわけがない。普通なら近畿財務局から本省理財局長に、理財局長は必ず財務相に相談するケースです。私が財務相なら、こんな値引きは絶対に許しません。 「森友学園」の問題で許せないのは、その教育の内実、歴史観です。「教育勅語」を幼稚園児に暗唱させるというのは論外です。私は昭和12年(1937年)に幼稚園に入りましたが、「教育勅語」の暗唱はしませんでしたよ。森友学園は戦前よりも異常です。 「教育勅語」の中にはまともなことが書いてある、という人もいる。しかし「朕惟フニ」から始まって、最後は「一且緩急アレハ・・・」です。何かあったら天皇に命をささげよと教えている。だから戦後すぐ(48年6月)、衆参両院の決議で教育勅語の排除と失効が確認されました。それを今一度持ち出すのは、再び日本が「戦前」を目指そうとしていることではないでしょうか。 首相夫人がそうした森友学園の小学校の名誉校長をしていたのは事実だし、首相自身が「すばらしい」と持ち上げていたことも事実です。これらについての首相夫妻の道義的責任は問われます。<聞き手・田中倫夫記者>2017年3月26日 「しんぶん赤旗」日曜版 6ページ「近畿財務局ではできない」から引用 この記事が指摘するように、財務省の組織構造を知り尽くした藤井氏から見て「あり得ない」ということですから、安倍政権によって、憲法秩序のみならず官僚機構までねじ曲げられているという状況の深刻さを、国民は自覚する必要があるのではないでしょうか。近畿財務局から、森友学園に対する値引きについて「お伺い」が上がってきたときは、間違いなく財務大臣がそれを見届けたわけで、このときの財務大臣が藤井氏であれば却下されたものを、たまたま首相と「お友達」の麻生氏が財務大臣だったために「よっしゃ、よっしゃ」ということになったであろうことは、容易に想像がつくというものです。やはり、この問題は国民が納得するまで、徹底的に追及されるべきです。
2017年04月15日
経済学者の山家悠紀夫氏は、総務相が本年2月に発表した家計調査を基に、安倍政権の経済政策を次のように批判している; 総務省の家計調査(2月発表)で、2016年のエンゲル係数が25・8%(2人以上の世帯)と、約30年ぶりの高さになりました。 エンゲル係数とは世帯の消費支出に占める食料費の割合のことで、暮らし向きの良しあしを示す指標です。命を維持するための食料費への支出割合が高いほど、ほかの支出に回す余裕がなく、生活が苦しくなるという分析に基づいています。係数が上がると暮らしが厳しくなっていると考えられる、というわけです。 70年代半ばまで30%を超えていた日本のエンゲル係数は、90年代半ばまで下がり続けました。2000年代に入ってからは0・1~0・2ポイントのわずかな上下を繰り返し、ほぼ横ばいで推移しました。上昇に転じたのは、12年末に安倍内閣が誕生してからです。13年から4年連続で上がり、16年には25・8%まで上昇しました。(図) 安倍政権発足前、12年のエンゲル係数は23・5%でしたから、2・3ポイントもの上昇です。喜らしが急激に厳しくなってきたということです。 とりわけ、収入の少ない世帯の上昇が目立ちます(図)。収入の下位20%の世帯では政権発足前と比べて3ポイント以上も上昇、消費の3割を食料費に使わざるを得なくなっています。そのため、教育や医療などへの支出を大きく減らしています。エンゲル係数急上昇の背景をみますと、そのことごとくが安倍政権の経済政策(アベノミクス)の結果であることが分かります。 第一は収入の伸び悩みです。労働者派遣法の改悪などアベノミクスで労働規制が緩和され、非正規雇用が政権発足前より200万人以上増えました。雇用に占める正社員比率が低下、非正規は35・2%から37・5%に上昇。これが家計の収入の伸びを抑えました。(勤労者世帯の収入は政権発足後の4年間でわずか1・6%増、以下同じ) 第二は社会保障の負担増などによる非消費支出の増加(5・1%増)です。このため、収入から非消費支出を除いた可処分所得(消費に回しうる所得)は、収入の伸び以下に抑えられ、0・9%増にとどまりました。 第三は消費性向(可処分所得から消費に回す割合)の低下です(73・9%から72・2%へ)。社会保障改悪で将来不安が高まり、乏しい所得でも貯蓄に回さざるを得なくなったため、消費支出は1・4%減っています。 第四は、異次元緩和で加速した円安による輸入品の値上がりや、消費税増税による消費者物価の上昇です(3・8%)。これは可処分所得の増加率を大きく上回り、暮らしを圧迫しました。とりわけ食料品は8・7%と大幅に上昇しました。 可処分所得が伸びず、物価が上がっても、多くの世帯(とくに低所得世帯)では、食料費はそれほど切り詰められません。そのため、エンゲル係数が上昇しました。 暮らしをよくすることを第一に考える経済政策に切り替えることが求められます。(やんべ・ゆきお 暮らしと経済研究室)2017年3月26日 「しんぶん赤旗」日曜版 20ページ「経済 これって何?-アベノミクスで暮らし急激悪化」 エンゲル係数が高いということは生活が苦しいことを意味する、というのは素人にも理解しやすい話ですが、これが安倍政権になって顕著に高くなったということは、この政権の経済政策がうまくいっていないということを意味するわけです。「しんぶん赤旗」は、これまでも政府発表の資料を基に、企業の内部留保がどんどん増えるのに反比例して労働者の総収入がどんどん下降していくグラフなどを提示してきました。やはり、企業が繁栄すれば労働者の生活も豊かになるという安倍政権の考え方は、どこかピントがズレているのではないでしょうか。
2017年04月14日
政府が自衛隊の南スーダンからの撤収を決めたことについて、新聞各紙はどのように報じたか、弁護士の白神優理子氏は、3月26日の「しんぶん赤旗」コラムに次のように書いている; 南スーダンPKO(国連平和維持活動)派遣の陸上自衛隊。5月撤収方針を政府が決めたことを各紙が報じています。 「PKO撤収『治安悪化』なぜ認めぬ」と問うのは「朝日」(12日付社説)。「南スーダンの治安情勢は悪化し、事実上の内戦状態にある。憲法9条との整合性を保つために設けられた『PKO参加5原則』に適合しているのか、強い疑問がぬぐえない」と憲法の視点から批判します。 「毎日」(13日付)も指摘します。「政府はジュバ周辺は『比較的安定している』として野党の撤退要求を拒んできた。今回の撤収判断の理由に治安情勢を含めると、これまでの説明とそごを来す恐れがある」 地方紙もきびしく批判します。 「治安情勢の悪化を認識しながら派遣を継続したのは、強い反対があった安保法を既成事実化する狙いから」(「東京」14日付) 「黒を白と言いくるめるような国会答弁は自衛隊員の生命にかかわる問題だけに、看過できない」(沖縄タイムス14日付) 「政府の説明は破綻している。憲法9条に違反する可能性を放置したまま、部隊を現地に置き続けた責任を問わねばならない」(琉球新報12日付) 憲法の視点が全く欠落しているのは「読売」「産経」です。 「読売」13日付は「妥当な政治判断」だとして、ジュバの治安は「比較的平穏」、PKO参加5原則は「守られている」・・・政府答弁のようです。安保法に基づく新任務付与も「国際標準の行動が可能になったのは特筆すべきだ」と礼賛します。「産経」(14日付)も同様。「新任務を付与する前進もあった」とし、派遣部隊の「日報」をめぐる議論は「神学論争」「不毛な論争」と言い放ちます。 南スーダンの派遣部隊の撤収をどう見るかは、命と憲法という政治の根底に関わる問題。これらの視点が抜け落ちた一部大手紙の異常さが際立ちます。(しらが・ゆりこ=弁護士)2017年3月26日 「しんぶん赤旗」日曜版 35ページ「メディアをよむ-憲法の目で見る陸自撤収」から引用 白神氏が指摘するように、自衛隊の海外派遣の問題については「朝日」「毎日」あるいはその他の地方紙のように、憲法の視点からの検証が必要と思います。「読売」は自衛隊が国際標準の行動が可能になった、などと無責任なことを言ってますが、自衛隊は国際標準の「軍隊」ではありませんから、武器使用が可能な法律を作っただけでは片手オチです。今回は、たまたま武器を使用する場面に遭遇することなく撤収できそうですが、このような危険な海外派遣は、今後慎むべきです。
2017年04月13日
東京工業大学教授で「週刊金曜日」編集委員の中島岳志氏は、安倍首相の政治手法について、3月24日の「週刊金曜日」に次のように書いている;「森友学園」の小学校設置認可をめぐる問題では、政治家の圧力の有無とともに、役人たちの「忖度(そんたく)」が話題になっている。現在の首相官邸は、懲罰的な人事をくり返すことで、巧みに官僚をコントロールしている。官僚たちは、官邸からのまなざしを内面化し、官邸の意向を付度して動く。官邸の思惑に従順な官僚組織が出来上がる。 安倍首相はこの「忖度」のメカニズムを熟知している。 2001年、NHKで番組改変問題が起きた。日本軍「慰安婦」問題を取り上げた1月30日のETV特集シリーズが、事前に右派から抗議を受けたことで改変され、当初とは大きく異なる内容となって放送された。 この間題では政治家の介入の有無が議論になってきたが、05年1月12日、『朝日新聞』が松尾武(たけし)放送総局長の証言を取り上げ、放送前の政治家との接触を報じた。松尾は、ある政治家と面会している。当時、内閣官房副長官だった安倍晋三だ。 松尾はその時の面会の様子を、次のように語ったという。「先生はなかなか頭がいい。抽象的な言い方で人を攻めてきて、いやな奴だなあと思った要素があった。ストレートに言わない要素が一方であった。『勘ぐれ、お前』みたいな言い方をした部分もある」。 証言が事実であるならば、重要なのは、安倍が「勘ぐれ」と言ったことだ。安倍は、直接的に番組の改変を指示していない。内容に踏み込んで、攻撃を加えてもいない。発した言葉はあくまでも「勘ぐれ」だ。 これは人を服従させるための巧妙なテクニックである。言われたNHK幹部は、権力のまなざしを内面化し、安倍の意向を忖度して行動する。勝手にNHK予算の国会承認への悪影響を想起するのかもしれない。もちろん「勘ぐれ」と言った本人は、そのように仕向けるのである。圧力の証拠は残らない。 結果、直接的な指示がないにもかかわらず、番組内容への政治介入が具体化する。権力ヘの服従が加速する。 安倍政治の本質は「勘ぐらせる政治」である。これは特定秘密保護法や共謀罪と連動して、いずれ一般市民に刃が向けられる。権力に対する自発的服従を生み出す。 森友問題と共謀罪は、構造的に連動している。私たちは手遅れになる前に安倍政治の本質を打破しなければならない。共謀罪は絶対に通してはならない。2017年3月24日 「週刊金曜日」 1129号 9ページ「風速計-安倍の『勘ぐらせる政治』」から引用 この記事は、安倍政治についてかなり具体的に要点を把握できているように思えます。森友学園問題や四国の獣医学部の問題などを追及していく上で、野党の議員の皆さんが作戦を考えるのに参考にするべきと思います。
2017年04月12日
従軍慰安婦問題を象徴する「少女像」がドイツに設置されたと、3月24日の「週刊金曜日」が報道している; 今月8日、欧州では初となる「慰安婦」少女像がドイツ南部で設置された。場所はバイエルン州レーゲンスブルク近郊にある私立公園「ネパール・ヒマラヤ・パヴィリオン」内の一角。韓国・水原(スウォン)市からの50人ほどを含むおよそ100人の参席者たちの見守る中、除幕式が執り行なわれた。「日本では像の設置を単純に反日行為だと受けとる人がいますが、これは『慰安婦』問題を通じて戦時下のあらゆる性暴力に反対し、平和の大切さを伝えるものです」 そう語るのは水原市「ドイツ平和碑推進委員会共同執行委員長」のファン・ウィスクさん。昨年、姉妹都市であるフライブルクでの像設置を日本からの横やりで断念した。今回は韓国系住民の手を借り準備して来たが候補地が二転三転、ぎりぎりのタイミングで当公園に決定したという。 この日は生存者のアン・ジョムスンさん(88歳)も立ち会った。14歳の時に「慰安婦」として連行された経験を持つ。「日韓合意で『慰安婦』問題が解決なんて私にはとうてい受け入れられない。お金よりも誠意ある謝罪です。いまでも私たちのことを嘘つき呼ばわりする日本人がいるのもたまらない」と像が世界に向けて放つメッセージに期待を寄せる。 この像設置を受けて在ミュンヘン日本国総領事も動いた。13日、公園の所有者であるヘリベルト・ヴィルー氏と面会し、像の撤去を要求した。ヴィルト氏に手渡した日本政府の立場を説明する書面には「(日韓合意に基づき)46人を対象に1000万円ずつ支払われ、支払うつもりだ」とあるが、これだとすべての生存者が受け取る意思があるかのような誤った印象を与える。日韓合意を批判し受け取り拒否を表明している女性たちも実際いるからだ。なおヴィルト氏は像撤去に応じる考えは今のところ示していない。<矢嶋宰・フォトジャーナリスト>2017年3月24日 「週刊金曜日」 1129号 6ページ「金曜アンテナ-ドイツで『慰安婦』少女像設置」から引用 思いやりのカケラもない安倍外交のつまずきが、こういうところにも如実に表れていると言えます。河野談話を発表して以降の歴代政権は、史実を否定したり疑問視するような素振りを見せることはしませんでしたが、安倍内閣の場合は「強制連行を示す公文書は発見されていない」とか「河野談話を再検証する」など、慰安婦問題被害者とその支援グループの神経を逆なでするようなことばかりやってきたことを考えると、アメリカやヨーロッパにも少女像を設置することは有意義であり、日本政府には像の設置に反対する正当な理由はないものと思います。
2017年04月11日
詩人の嶋岡晨氏は、多胡吉郎著「生命の詩人・尹東柱」(影書房刊)について、3月26日の東京新聞に次のように書評を書いている; はや30余年前になる。韓国の代表的近代詩人・尹東柱(ユンドンジュ・1917~45年)の全詩集『空と風と星と詩』が伊吹郷の訳で、記録社から出版されたのを手にして、われわれは深い感銘を受けた。 本書は、尹東柱の『自筆詩稿全集』に接した多胡吉郎氏が、その読後の抑えがたい感動から筆をとったものだ。要因には、東柱の「限りある生」の自覚と詩的使命感への熱い共鳴があった。 1943年夏、思想犯として逮捕・投獄され、獄中死にいたるまでの、尹東柱の生涯を-つまりは彼の思想を、詳細かつ執拗(しつよう)なデータ(ノート類や原稿下書きに及ぶ)の精確な確認作業によって検証し、真摯(しんし)に再生したのが本書である。 尹東柱と親交があった、自称「半韓」詩人の上本正夫への接触から獄死の真相にいたるまで、筆は細部へも柔軟にのびる。著者の告白する、頻繁な電話や図書館通い、また元(もと)稿との入念な対比などの努力と成果は、文章の随所に感知されよう。それらなくして、例えばオリジナル稿にふと記された落書きめいた一語(病院)から「mortal」な生の自覚や使命を読みとり、獄死の深い意味を掴(つか)み取る技(わざ)も、ありえなかった。ふんだんに収録された写真も、じつに興味深い。 今年は、声東柱の生誕百年である。長い年月を費やした多胡氏の研究に、そして東柱詩の世界に、注目してほしい。(評者 嶋岡晨=詩人)多胡吉郎著「生命の詩人・尹東柱」(影書房・2052円)たご・きちろう 1956年生まれ。作家。著書『吾輩はロンドンである』など。2017年3月26日 東京新聞朝刊 9ページ「読む人-獄死の深い意味 くむ」から引用 尹東柱という詩人は満州で生まれ、ソウルの大学を卒業後、日本に渡り立教大学や同志社大学で学んだ人で、思想犯として逮捕された時は、かなりの量の蔵書や原稿等も押収されて、それらはその後所在不明になっているのだそうです。しかし、生前に発表された詩は、朝鮮半島のみならず日本でも評判が高く、一時は教科書にも掲載されたことがあったということで、27歳で亡くなったとは、大変残念です。
2017年04月10日
大阪府の松井知事は収拾の目処がつかない森友学園騒動について「安倍首相は忖度があったと認めるべきだ」と発言した、と3月26日の東京新聞が報道した; 松井一郎大阪府知事は25日、森友学園への国有地売却に閲し「なぜスムーズに手続きが進んだのか。安倍晋三首相は、自分が知らないところで財務省近畿財務局の忖度(そんたく)があったと認めるのが一番だ」と述べた。安倍首相の妻昭恵氏の証人喚問については「必要ない」と否定した。代表を務める日本維新の会の党大会後、東京都内で記者団に語った。 松井氏は森友学園の籠池泰典(かごいけやすのり)氏が、首相や昭恵氏の名前を使って財務省と国有地の売買交捗をしていたとの見方を示し「財務省職員は忖度してサービス精神旺盛な対応をしたが、法律の範囲内だ。首相は忖度がないと強弁せず、丁寧に説明すべきだ」と強調した。 学園の小学校設置に関し、府私立学校審議会が「認可適当」と答申したことについても「僕は何も言っていないが、会長は私学を広げようという改革方針を受けて判断したと言っている。(首相も)そういう忖度があり得ると言えば国民は納得する」と語った。2017年3月26日 東京新聞朝刊 12版 2ページ「森友問題『首相が忖度認めるのが一番』」から引用 安倍首相に比べると、松井知事はどこか余裕がありそうな雰囲気で、まるで他人事のように言ってるが、問題の小学校の校舎建築を請け負った業者の事務所は、自民党から大阪維新に鞍替えした議員の事務所と同じ住所になっているという、これまた限りなくクロに近いグレーな事態が存在しており、この問題を徹底追及していけば、首相官邸に留まらず大阪府にも調査の手が伸びることにもなりかねず、松井知事の余裕の発言の裏にもそれなりの危機感が隠れていることを、国民は見逃してはならないと思います。東京でも、大阪でも、あちこちの部署において、一様に忖度が機能して変な小学校の校舎が建ったというのは、かなり不自然な話で、これはやはり首相官邸が司令塔になって、証拠をその都度消しながら推進したと考えるのが自然ではないかと思います。
2017年04月09日
雑誌編集長の篠田博之氏は、森友学園騒動について、3月26日の東京新聞に次のように書いている; 森友学園騒動が劇的な展開となっている。籠池泰典理事長の証人喚問はクライマックスだったが、その後も安倍昭恵首相夫人のメール公開など、次々と新たな素材が飛び出している。こうなるとやはり強いのはテレビで、週刊誌はなかなかついていけていない。 例えば『週刊文春』3月30日号は「籠池独白60分」という特集を掲載しているが、これは3月19日に行った籠池氏への電話インタビューだ。その号が発売された23日が証人喚問の日なのだが、本人が直接話す映像がテレビの生放送で見られるわけで、その迫力にはかなわない。 この間、いろいろな話をよく拾ってきて読ませるのは『週刊新潮』だ。最新の3月30日号でも、昭恵夫人のお付きのスタッフの費用が私費で払われているという話に食いつき、官房機密費が使われているのではないかという推論を提示している。その特集タイトル「『死なばモリトモ』爆弾」には笑ってしまうが、籠池氏が爆弾発言を繰り返す動機は、同志と思っていた右派政治家にしっぽ切りされたことへの私憤だ。いわば今の騒動は右派同士の対立といえる。 もともと籠池氏が右派組織「日本会議」のメンバーで、子どもたちに教育勅語を暗唱させているという話から騒動が拡大した。その日本会議の田久保忠衛会長が『週刊朝日』3月31日号に登場している。見出しは「籠池問題は迷惑。安倍政権は日和っている」。その中で田久保会長は、籠池氏は既に2011年に日本会議に退会届を提出していると指摘。問題が日本会議にあるかのような指摘は迷惑だと話している。 ただ、この騒動の背景に保守派の問題があることは確かで、『サンデー毎日』では毎日新聞政治部の伊藤智永氏が2週にわたってそれを指摘。4月2日号では今回の問題を「安倍首相を担いだ『保守ビジネス』」と書いている。 ここへきて注目されているのが、ベストセラー『日本会議の研究』の著者・菅野完氏だ。『SPA!』3月21・28日合併号のコラムで本人は、この間題を追いかける動機を、『日本会議の研究』で踏み込めなかったことへの贖罪(しょくざい)だと書いている。(月刊『創』編集長・篠田博之)2017年3月26日 東京新聞朝刊 11版 29ページ「週刊誌を読む-背景に「保守ビジネス」? 森友学園騒動」から引用 この記事は、森友学園騒動が「右派同士の対立」であるように書いているが、正確に言うと右派同士の間の路線の対立というような「高尚」(?)な問題ではなく、世間から後ろ指を指されるような輩と同類と思われたくないという身勝手な、レベルの低い「対立」であるように思われます。しかし、客観的に言えば、安倍首相と日本会議と籠池理事長の3者は、教育勅語を礼賛する点で「共通の価値観」もつ仲間であることは否定しがたいのではないでしょうか。ところが、安倍晋三という政治家は首相としての立場があり、うっかり教育勅語を礼賛する発言はできないため、裏では官房機密費から学園に100万円の寄付を出しても、表向きは「何も知らない」態度を取らざるを得ない。この辺が安倍首相の弱点だと思います。
2017年04月08日
「森友学園」問題について、法政大学教授の山口二郎氏は3月26日の東京新聞コラムに、次のよう書いている; 森友学園の籠池理事長の証人喚問は真相解明に結び付くものではなかったが、政治、行政の腐敗を明らかにするものではあった。国有地の払い下げや小学校の設立認可をめぐって、贈収賄などの犯罪があったとは思えない。しかし、見方を変えれば、だからこそ今の腐敗は質が悪いということもできるのである。 安倍首相の妻昭恵氏が籠池氏の求めに応じて口利きをしたことはないのかもしれない。しかし、首相や夫人と親密な間柄にあることを誇示すれば、幼稚園長の頼みであっても首相夫人付きの官僚が財務省の高級官僚に事情を問い合わせ、予算措置についても情報を提供してくれる。それだけでも不公正と言える。 財務省は国有地の値引きについて適正な手続きに沿ったと言い張るが、価格算定の過程に関する資料は廃棄したと、以後の説明を拒否する。政治家からの働きかけはなかったのかもしれないが、森友学園に対する売却が前例のない厚遇であったことは明白である。政治家は明示的な指示を出しておらず、官僚は有力政治家の意向をおもんばかって優遇を与える。そして、意思決定はすべてやぶの中。 法治国家における責任追及は、文書に基づく意思決定を前提としている。以心伝心と資料の廃棄は、法の支配を崩壊させ、誰も責任を取らない専制国家をもたらす。(法政大教授)2017年3月26日 東京新聞朝刊 11版 29ページ「本音のコラム-無責任の王国」から引用 この記事が指摘するように、籠池理事長を証人喚問してはみたものの、それで贈収賄のような犯罪が明らかになるというようなことは無かった。しかし、国有地を只同然で払い下げた事例に何の問題もないことが証明されたわけではなく、疑いは残ったままである。本来であれば、国有財産を処分した場合はいくらで払い下げたか、金額は公表されるのが普通であるのに、今回は非公開とされていたとか、交渉の過程でどのようなやりとりがあって価格が決まったのか、関係する書類は保管されるはずのところ、一切の書類は処分したので公開できないなど、限りなくクロに近い状況証拠がそろっているのであるから、この問題は黒白がはっきりするまで徹底的に追及するのが国会の責務である。そのためには、首相夫人の証人喚問が必要である。
2017年04月07日
確固たる戦略もなく行き当たりばったりで対応する安倍外交が、「慰安婦」問題でつまずいたことについて、ジャーナリストの西谷玲氏は、3月10日の「週刊金曜日」で、次のように厳しく批判している; 国会では森友学園問題が火を噴いている。野党は徹底的に追及すべきだ。外交に目を転じれば、トランプ米大統領と安倍晋三首相は先月の訪米で蜜月関係を築けたという。トランプの無茶苦茶にはまるで意見せず、「Trumpabe」(トランペイブ、トランプ=安倍)の様相である。 さて、外交のもう一つの懸案、安倍政権の行き当たりばったり、戦略のないさまがよく表れているもの・・・それは、日韓関係である。「慰安婦」問題で象徴として建てられた少女像をどうするのか、解決が見えていない。昨年末に釜山(プサン)の日本総領事館前にも少女像が設置された。日本はそれに抗議して、この1月に駐韓大使と釜山総領事を一時帰国させた。 その後どうなっているかと言えば、韓国外相が、少女像撤去を要請する文書を釜山市や同東区に送っている。が、何の効果もないどころか、今月1日の、日本統治下での大規模な独立運動の記念日である「3・1節」には、各地で新たな少女像の設置、除幕式が続々と行なわれた。さらに、今計画中のものもあるという。こんな状況で大使と総領事をまた派遣させるわけにもいかず、日本政府はまさに振り上げたこぶしのやり場に因ってしまっている状況である。 ご存知の通り、朴槿恵(パククネ)大統領はスキャンダルで弾劾訴追され、4月にも退陣、6月にも新たな大統領を選ぶ選挙が行なわれそうである。つまり、国政の混乱状況がずっと続いており、それまで現政権は当事者能力をとても持ちえない状態なのだ。しかも、次の大統領選では文在寅(ムンジュイン)氏をはじめとして、野党の候補が勝つであろう可能性が高い。文氏は「慰安婦」問題に関する日韓合意を批判しており、少女像問題に対しても撤去の必要はないという意見である。 このような情勢のなか、大使と総領事を帰国させてしまったら、その後の落としどころに困ると予測するのは容易だっただろう。それなのに確固たる戦略もなく、行き当たりばったりで対応するからこんなことになるのである。 ある元外交官が言った。「安倍外交にはやさしさがない」。 こんな状況を生んだのは、まさにこのことに起因するのではないだろうか。毅然たる、決然たる、断固たる……そんな勇ましい言葉ばかりが躍る安倍外交。しかし、外交とは何枚腰、そして硬軟両様の使い分けが必要。さらに、人の心の重さをどう考えるか、どう見えるかがとても大切だ。外交だけでなく、政治全般がそうなのだが。 元「慰安婦」の人たちが何に怒っていて、何が赦(ゆる)せないかといえば、突き詰めていけば、やはり心の問題ではないだろうか。やさしさ、思いやり、心の底から悪かったと思う気持ち・・・。それが安倍首相に見えないというのである。「慰安婦」問題について、歴代の首相はずっとお詫びの手紙を書いてきた。確かに一昨年末の日韓合意で日本は政府から10億円を拠出することに合意した。それは画期的には違いない。いつまで謝ればすむんだ、という声もわからないでもない。首相には「嫌韓」な人々の支持が多い以上(森友学園を見よ)、あそこまで譲歩したのも画期的であるともいわれる。それも理解したうえで、でも、心が必要なのだ。これは政治家でなければできないし、一流の政治家だったらできることだ。<にしたに れい・ジャーナリスト>2017年3月10日 「週刊金曜日」 1127号 10ページ「西谷玲の政治時評-『慰安婦』問題に見る安倍外交のつまずき」から引用 2015年末の日韓合意によって慰安婦問題を解決できると見込んだ日韓両国政府は、見通しが甘かったと言うことです。また、その「合意」というのは、韓国政府が設立した財団に日本政府が10億円を拠出して、日韓両国政府が協力して解決に当たるという合意であったにも関わらず、日本政府は10億円を出したきりで、その後韓国政府からの協力要請に一切応えず、「最終で不可逆的な決着である」との文言を入れたからと言って、後は知らないという態度では、解決するものもしなくなるのは当然というものでしょう。釜山の領事館前に「少女像」が設置されたときも、だからと言って大使と総領事を一時帰国させたのは間違いで、もっと重大で深刻な事態が起きた時のために取っておくべき「奥の手」だったのに、小さな問題でいきなり大上段に構えてしまって、結局は何も解決していないのに、数日前に、抗議の意味で引き上げた大使や総領事を、何も解決していないのに、元通り大使館と領事館に戻すというみっともない事態を演じる羽目になりました。メンツを大事にする安倍首相にしてみれば、これはかなり深刻な「汚点」であると思います。
2017年04月06日
天皇の生前退位の問題について、3月19日の「しんぶん赤旗」は日本共産党の考え方を、次のように紹介している; 天皇の退位をめぐって衆参両院の正副議長が国会の対応について意見の取りまとめを進めています。13日には衆院議長公邸で、全10政党・会派から個別の意見聴取を行いました。 日本共産党の小池晃書記局長は聴取に対して、退位の立法化の根拠は憲法に置くべきだとして、党の意見を表明(別掲)しました。 大島理森衆院議長は15日の全体会合で可能な限り合意形成をはかり、とりまとめを了承する全体会合を17日に国会内で開きたいと説明しました。 各党・会派の意見聴取後の記者会見で大島氏は「総じて、憲法の観点からできるだけ整合性を持ったものにしようというのが共通した認識だった」と感想を述べました。◎共産党の意見◎ わが党は、天皇退位の立法の根本に日本国憲法をすえるべきだと考えます。 私たちは、昨年8月に天皇が「高齢によって象徴としての務めが果たせなくなるのではないかと案じている」と述べられたことは「よく理解できる」と表明しました。そして、あくまで政治の責任で退位を認めるべきだとしてきました。 私たちが退位を認める根拠は、一人の方がどんなに高齢になっても仕事を続けなければならないという今のあり方が、日本国憲法の根本原理である「個人の尊厳」と相いれないものであるということにあります。立法の根拠は、天皇の意思ではなく、憲法に置くべきです。 私たちは、高齢というのは誰にでも訪れるもので、現天皇だけの特別な事情ではないのだから、皇室典範の改正で対応するのが筋だと考えると表明してきました。 今回、現行憲法の「象徴」たる天皇の退位を初めて立法化することとなります。それがどのような立法形式をとるにしても、憲法の規定に適合するものとすることが絶対に必要です。 そして、それが憲法の規定に適合するものであれば、今後の退位においても先例になります。憲法に基づく立法とすることで、各党の一致点を見出していくべきだと考えます。 多くの国民が天皇の退位を可能にする立法を望んでいます。 退位を可能にする立法が、憲法の規定に適合し、「主権の存する日本国民の総意に基く」ものとなるべく、各党各会派が議論をつくし、合意の形成を目指すべきだと思います。2017年3月19日 「しんぶん赤旗」日曜版 7ページ「立法の根本に憲法をすえるべき」から引用 天皇の地位については日本国憲法に規定があり、またその詳細は皇室典範と呼ばれる法律で定められているのですから、その制度の運用に変更が必要となった場合の変更は、憲法の規定に適合した「変更作業」であるべきだ、というのは、至極まっとうな当たり前の考え方であると思います。
2017年04月05日
中村一成著「ルポ 思想としての朝鮮籍」(岩波書店刊)について、ジャーナリストの青木理氏は、3月19日の東京新聞に次のような書評を書いている; 書名に痺(しび)れた。「思想としての朝鮮籍」。ここに本書の意味が凝縮されている。朝鮮籍にこだわる作家の金石範(キムソクポム)氏も本書でこう語っている。「もったいないくらい、いいタイトルだよ(笑)」 しかし、この意味を直ちに理解する人は、おそらくそう多くない。中には朝鮮籍イコール北朝鮮籍と誤解している人だっているだろう。 1910年、日本は朝鮮半島を植民地化し、そこに暮らす人々も「日本人」とした。なのに戦後、一方的に切り捨てた。47年の外国人登録令などにより、すべての朝鮮半島出身者は国籍等の欄に「朝鮮」と表記されたのである。 その後、韓国が建国され、韓国籍に変更する者もいた。だが、朝鮮籍にこだわる者もいた。北朝鮮を支持する者もいたが、統一朝鮮を願って変更を拒む者もいた。いずれにせよ、「朝鮮」は「国籍」ではない。本書には、そのこだわりへの叫びが横溢(おういつ)している。「私のプライドです」(李実根・リシルグン)「元々全部朝鮮籍よ、それに尽きるわけ」(鄭仁・チョンイン)「状況にすごい憤懣(ふんまん)がある。この分断状況を続ける朝鮮人社会と、その原因である日本に対してね」(朴正恵・パクチョンへ) では、私たちはどうか。為政者が歴史を忘却し、憎悪の罵声を吐く愚か者までが現れる中、本書の叫びが一人でも多くの「日本人」に突き刺さることを願う。(評者 青木理=ジャーナリスト)(岩波書店・2160円)<なかむら・いるそん 1969年生まれ。毎日新聞記者を経て、フリーに。>2017年3月19日 東京新聞朝刊 9ページ「読む人-プライドからの叫び」から引用 この記事のポイントは、在日の人々の中で韓国籍を取得しないでいる人たちを日本政府は「朝鮮籍」という扱いにしているが、これは本人たちが意図して「朝鮮籍」を取得したのではなく、日本政府が勝手にそのように分類した、というのが実態です。在日の人々が日本に渡ってきた当時の日本政府は、朝鮮半島の人々を日本人であるという扱いにしていたわけで、当時、半島から日本に来た人々は「外国に来た」というつもりではなかったということです。それを急に、戦争に負けたからといって、半島から来た人々から勝手に日本国籍を取り上げたのは、理不尽な所業と言わざるを得ません。したがって、現在朝鮮籍と言われる人々は、中には少数の朝鮮民主主義人民共和国の国籍であると認識する人々もいるにしても、大部分は、「北」でもなく「南」でもない、朝鮮半島の出身であるという意識なのだということを、私たちは理解する必要があると思います。第二のポイントは、朝鮮半島が北と南に分断されたことについて、日本政府は責任があるということ。第三のポイントは、在日の人々に対して誹謗中傷する輩は「愚か者」であるということです。
2017年04月04日
元ワイドショープロデューサーの仲築問卓蔵氏は、森友学園・籠池理事長が記者会見するのと同じ時刻に安倍首相が「南スーダンからの自衛隊の撤退」を発表したことについて、3月19日の「しんぶん赤旗」に次のように書いている; 10日夕、森友学園の籠池泰典理事長が急きょ会見したのとほぼ同時刻に、安倍晋三首相が緊急会見するという報道番組にとって慌ただしい一日でした。テレビ朝日系「Jチャンネル」は、籠池理事長の会見を中断して安倍会見に切り替えました。現場は混乱したことでしょう。 その夜の「報道ステーション」は、「突然の発表」だと、首相の「南スーダンに派遣中の自衛隊は5月末を目途に活動を終了」という会見内容を紹介。菅義偉官房長官は「治安の悪化が理由ではない」といいますが、同番組は「先月から南スーダンでは政府高官や軍幹部の辞任が相次いでいる」とし、現地のジャーナリストは「正直、いまは紛争中」とコメント。日本政府と現地の情勢の見方には大きなズレがあることが鮮明です。 NHKの「ニュースウオッチ9」は、日本共産党の小池晃書記局長の「安倍首相は正直に南スーダンヘのPKO派兵、武器使用の拡大の路線の破たんを認めるべきだ」とのコメントを紹介。河野憲治キャスターも「国民は現地の情勢がわからないだけに、なんでこのタイミングなのかわかりづらい」と指摘しています。 なぜこのタイミングなのか-。稲田朋美防衛相によれば「最終的に撤退を決めたのはきのう(9日)の安全保障会議」(「報道ステーション」)。緊急ならば9日にやればよかったのに、10日の籠池氏の緊急会見とほぼ同時刻にぶつけたのは、「ニュースつぶし」「情報操作」だと勘繰られても仕方がありません。それほどまで両ニュースを小さくしたかったのか。首相への「疑問」はここでも深まりました。政治リテラシー(読解力)に磨きをかけ、「目くらまし」に惑わされないようにしたいものです。 筆者は12年間、このコラムを担当してきましたが、ここらでひとまず一段落。またどこかでお会いしましょう。(なかつくま・たくぞう=元ワイドショープロデューサー)2017年3月19日 「しんぶん赤旗」日曜版 35ページ「メディアをよむ-首相会見は情報操作?」から引用 南スーダンと言えば、昨年秋の国会で変な法律をでっち上げて「かけつけ警護」が可能になったなどと報道されたものでしたが、専門家が解説するところによると、PKOに参加するということで派遣された場合は、自衛隊と言えども国連の指揮命令に従って行動することが義務づけられるので、邦人が危険な状態になったからといって勝手に「かけつけ」することは許されないとのことですから、「かけつけ警護」をするなどということはあり得ないことで、単に国会を強行突破するための口実に過ぎなかったということです。このような観点からも、自衛隊の南スーダンへのPKO派兵、武器使用の拡大路線は破綻したことは間違いありません。また、今回の自衛隊が武器を使用しないで帰国できれば結構なことですが、もし万が一武力衝突に巻き込まれて自らも武器を使用して、それで一般市民が巻き添えで死傷した場合、自衛隊は軍隊ではないとの理由から日本は軍法を整備していないため、一般市民の死傷に対しては、その場で武器を使用した自衛隊員が個人的に責任を負って一般人と同じ「刑法」で裁かれるという羽目になります。日本政府の命令で海外派遣されたのに、コトが起ったら責任は個人で、というのはひどい話です。やはり、自衛隊は海外派遣するべきではありません。
2017年04月03日
作家の雨宮処凛氏は、森友学園騒動に関連して3月10日の「週刊金曜日」に次のように書いている; 国会では安倍晋三首相への追及が続き、「第二の森友学園」疑惑が浮上するなど「アッキード事件」は広がっていくばかりだ。 そんな森友学園が運営する塚本幼稚園の映像が連日テレビに映し出されている。 教育勅語の暗唱、運動会で「安倍首相、頑張れ!」「安保法制国会通過、良かったです」などと言わされる園児たち。 塚本幼稚園の映像を見て思い出したのは、今まで5回訪れた北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)だ。 初めて北朝鮮に行った時、連れて行かれたのは幼稚園だった。 そこには、幼稚園なのになぜかファンデーションをがっちり塗り、唇を真っ赤に塗るなどしたフルメイクの子どもたちがきらびやかなチョゴリに身を包まれていた。 私たち外国人が教室を訪れると、「うちのお父さんは主席から勲章をもらった」という歌を朗々と歌い上げたり、集団で一糸乱れぬダンスを披露してくれたりしたのだった。 また、幼稚園の先生が「この日はなんの日ですか?」と聞くと、「大元帥様のお生まれになった日です!」と全員が大きな声で唱和。子どもたちは可愛かったものの、歌ったり踊ったりするときの子どもらしさのまったくない作り込まれた表情に、なんとも言えない違和感が残った。 それから数年後、また北朝鮮を訪れた際、今度は小学生が芸術活動をする場所に連れていかれた。 やっぱり綺麗にメイクをして、琴のような楽器を弾いたりバレエをする子どもたちの表情は作り込まれていて、演奏やダンスはもちろん完璧だった。 そんな子どもたちを次々と見せられているうちに、一緒に行った男性の1人が突然泣き出した。混乱して、動揺して、とにかく何もかもが異様で、耐えられなかったのだという。彼が泣く姿を見て、「ああ、やっぱりこれって泣くくらいのことなんだよな」と、妙に冷静に思った。が、北朝鮮のガイドは、終始「わが国の子どもはこんなに素晴らしい教育を受けている」と自慢げだった。 そんな北朝鮮を彷彿とさせる森友学園が新設する「瑞穂の國記念小学院」の名誉校長に、首相の妻である安倍昭恵氏が就任していたのだ(現在は辞任)。しかも、教育方針に感銘を受けたことを語っている。 森友学園の問題が発覚する数日前、あるヴィジュアル系バンドのコンサート会場で昭恵氏を見た。終演後、出口に向かう昭恵氏は満面の笑顔だった。布袋寅泰(ほていともやす)氏もそうだが、彼女は随分とミュージシャンが好きなようである。彼女には公費で5人の秘書がついているというが、あの時、秘書は同行していたのだろうか。 なんだかとても、気になる。2017年3月10日 「週刊金曜日」 1127号 41ページ「雨宮処凛のらんきりゅう-森友学園の異様さに」から引用 森友学園のニュースの画像を見ていると朝鮮を連想するというのは、理解出来る気がします。私が思うに、朝鮮政府のあの国民の自由を許さない政治体制は、多分、植民地支配されていたころの日本政府のやり方を模倣しているのではないか。また、安倍首相や日本会議が目指す社会というのは、どうも戦前の日本であるような気配が濃厚なので、結局、安倍首相はリップサービスで「人権と民主主義の価値観」などと言って、韓国と価値観が同じであるように言いながら、実は本音では朝鮮のような価値観のほうが好ましいといったところであろうと思われます。日頃、安倍首相は朝鮮政府に批判的ですが、これは多分、似たもの同士だから反発しあうのだと思います。
2017年04月02日
大阪の幼稚園が園児に教育勅語を暗唱させていたことに関連して、評論家の佐高信氏は3月17日の「週刊金曜日」に、次のように書いている; 問題の森友学園理事長の籠池泰典(かごいけやすのリ)が、「教育勅語のどこが悪い?」と叫ぶのを見ながら、私は『橋のない川』(新潮文庫)の作者、住井(すみい)すゑの次の提言を思い出していた。「教科書に一つの方法として『教育勅語』と『水平社宣言』を並べて印刷し、表紙をめくったら『教育勅語』がある。その次には『水平社宣言』があるというような教科書をつくつたらいいんじゃないか。どっちが人間的であるか、どっちが人間的真実を訴えているか、どっちがより人間的哲学を生かしているか、一目でわかると思うんですね。『教育勅語』をむざむざと葬ってしまって、今の子どもが知らないというのも、ある意味ではマイナスですね。明治、大正、昭和の敗戦まで、このような教育の名のもとに調教をやってきたんだということをくり返しくり返しみんなで反省する必要があるんじゃないかと思いますね」「朕惟(チンオモ)フニ我力皇祖皇宗」の教育勅語と、「全国に散在する吾が特殊部落民よ団結せよ」で始まり、「人の世に熱あれ、人間に光あれ」と結ばれる水平社宣言を並べて教えよという住井の主張を生かさなかったから、いま復讐されているとも言える。 いいものだけを教えてきた弱さ、いいものを悪いものとの比較に於て教えなかったもろさが、いま、出てきた。「昼の光に夜の闇の探さがわかるものか」と言い放ったのはニーチェだが、闇との対比に於てこそ、光は意味をもつのである。そのことを住井はよくわかっていた。◆住井すゑにお礼を言った児玉誉士夫 住井と永六輔(えいろくすけ)の『人間(じんかん)宣言』(光文社)に「いい話」がたくさん出てくる。 亡夫の犬田卯(しげる)の遺骨を持っていらっしやるそうですね、と永が問いかけると、「これね、遺骨にしてそれを地下へ埋めるということは忍びないですよ、できないですよ。だから書斎の箪笥のいちばんいい場所にあります。もう何十年もたちますけれども。ときどきは骨をかきまわしてやってます」 と住井は笑い、「ぬかみそじゃないんだから」 と永がまぜっ返すと、「好きな男の骨なんだもの、ときどきさわって話しかけるっていう意味よ」 と住井は答えている。『橋のない川』のモデルは水平社宣言の起草者、西光万吉(さいこうまんきち)だといわれる。西光はその後、転向したが、住井との深い信頼関係は崩れなかった。 住井が西光の家を訪ねると、西光の妻は仏間に並べて二人の布団を敷き、住井と西光は遅くまで語り合ったという。 あれほどはっきりと天皇制廃止を主張しながら、住井のところには不思議に右翼が糾弾に来なかった。それについて住井は、「私は来るのを待っているんですがね。もし来てくれれば帰りには左翼にして帰しますから」と笑っていた。 永との『人間宣言』によれば、『橋のない川』の第四部を発表した段階で、右翼の親玉の児玉誉士夫(こだまよしお)が、「いい小説を書いてくれてありがとうございました」と言ってきたとか。 そして、それから住井が上京するたびに、外車で迎えに来て、乗ってくれ、という。右翼の世話になる気はないからと断ってタクシーに乗ると、護衛のつもりか、その車がついてくる。 そういうくらいだから、住井によれば右翼は、「土産は持ってくるけど、文句はいってこない」多分、住井の迫力に気押されたのだろう。 そんな住井を偲びつつ、娘の増田れい子は棺に住井の大好きだったキャラメルを入れたという。2017年3月17日 「週刊金曜日」 1128号 37ページ「佐高信の新・政経外科-教育勅語を水平社宣言で読み破れ」から引用 教育勅語を国会で廃止決議したからといって、その後誰も顧みることなく放置したのは、住井すゑ氏が指摘したように、残念な対応だったかも知れません。やはり同じ過ちを二度と繰り返さないためには、折に触れて「あれは、こういうことで誤りであった」という反省の機会を作るべきだったと思います。そのような意味でも、歴史の授業は世界史、日本史、の他に「近現代史」という教科を設けるべきと思います。
2017年04月01日
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