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大阪名物 泉州の水ナスというものを買ってきた。四天王寺への参道沿いに店を出しているところがあったので、そこで買った。そこの主人に「実は泉州に知り合いがあって、ミナミ菜園というんですが」と言ってみたが、心当たりはないようだった。この水ナス、ぬか袋に一つずつ入っていて、いつもは二つ五百円のところ、今日は二つ三百円ということだった。水ナスは写真を撮ってあるので、近々アップします。
2005年10月28日
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吉本新喜劇。自分は、おおさかぁあでぇえ うぅうまぁんれぇたぁあ おっとこやぁああけぇええどおお・・一度も吉本を生で見たことが無い。それが、作業所メンバーのリクエストで、見に行くことになった。車椅子のメンバー数人と介護者は、荷物用のエレベーターを特別に使わせてもらい、劇場最後列の車椅子用観覧席へ。実はここが一番見やすい。ところが、一般席にいた介護者の一人が、一般席は腰が痛いので替わってくれということで、開演してすぐ、真ん中あたりの席に移動した。まあ、前の人の頭見るのも吉本の想い出。後ろの方では、おばはん二人が、いちいち劇のせりふを繰り返したり、しぐさを解説したり。居るんですよ。映画館なんかでも。本業の方は、トイレ介護も何とかこなし、無事終了。今日担当したAさんは、体重があり、三人がかり。食事は難波グランド花月前のたこ焼き屋で明石風たこ焼きというのを食べてもらった。自分は普通のたこ焼きを注文しました。この仕事、いろいろな社会経験をさせてくれる。
2005年10月27日
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この坂は 転がるもまた ここちよし 転がり終えると 僕の場所に ちゃんと 着く
2005年10月26日
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私の町内。拡声器で、時報とか、呼びかけ放送をしている。「こちらは瓜破小学校PTAです・・・地域の皆様方の、温かい目で見守ってくださいますよう、お願いいたします。」だと。この放送の醜さは、子供がやがて大人になり、大人として、子供を見守らなければならない立場になるという前提を持たないことにある。子供にとんでもないこと、いたずらとか、果ては殺人とか、をしでかす大人は、どうしてできてしまったのかを考えていない。PTAなら、呼びかけは子供たち自身に向かって行え!人のことを考えて行動せよとか、他人の邪魔をするなとか。何か言い方があるだろう。この放送は、下校時刻には、家の外に出て子供を見守れとまで言っているのだが、そんなご立派な御仁にはお目にかかったことも無ければ、噂も聞いたことは無い。この放送の正体、それは偽善に他ならない。「私たち(実は「私」といいたいんだろう)は、こんなに活動をしていますよ」、と言いたいのはまさにそ・れ・だ・け!ほんまに、あほかおまえ。
2005年10月12日
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今「使える!悪用禁止の心理学テクニック」~上手な「世渡り」に心理学は欠かせない~ を読んでいる。ちょっと違うんじゃないか、と思いつつ。まあ、面白いところもある。でもこんな「術」なんか、すぐ相手に見破られてしまうこと請け合いだ。この本を読んでそのテクニックとやらを私に仕掛けてくる人がいたら、無視するでしょうね。きっと。表紙に踊る「相手はイチコロ」だの「恋人がみるみるできる」だのをみるとつい買ってしまうんでしょうなぁ。私もその中の一人なんですが、一応心理学のさわりぐらいはやった。なので、この手の本は、どの程度の信頼をおいて見るべきかくらいは知っているつもりだ。その分を割り引いたとしても、げんなりする内容だ。数ページ各Partを拾い読みしたところで、最後まで読むかどうか迷いだした。「別冊宝島」というブランド自体に、不信を抱いてしまいそうになる。
2005年10月11日
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他人によく思われようとしないこと。
2005年10月10日
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道家最高の徳目は、無為自然である。これはおそらく、自由を意味しているものと自分は理解する。当時(「荘子」成立の前後)には、「自由」という言葉はまだ無かったはずである。当時は、儒家・墨家という標的があったので、話を簡単にすることは出来たはずだ。ただし、明らかなように、儒と道とが、必ずしもその本質的な部分において、対立軸を持っているとは限らない。さらに、それぞれが目指した政治的野心も同一である場合もあった。現在のような状況においてはじめて、二つの思想はそれこそ純粋に対峙できるのかも知れない。すなわち、道家の自由とは、第一義的には、儒家が作った社会的力学からの自由である。それは、「~す(ある)べき」「~のはず」という、当然からの開放を意味している。我々は、ある常識が、他のところでは通用しないことを知っている。個性だとか、違いを認め合おうなどと、平気で口走ってはいるが、一方で、考えの違いから、人殺し、戦争までしているのは事実である。
2005年10月07日
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私は、骨格の一部に奇形を持っている。また、若いときから、何かと「変」「おかしい」とか言われてきた。親、姉妹、親戚とて例外ではない。そうこうするうち、「この世に完全な(身体的)機能を持った人間も、また全く不完全な人間もいない」という言葉に出会った。現在、私は総て人間はグラデーションの内にあると思っている。介護ヘルパーとして働くとき、おそらく、他のヘルパーが抱く感情の一部を欠落していると思う。また、年長者とか、「お客様」、「立場のある人」への接し方は、道家としてのそれを逸脱することは無い。まあ、神経逆なで、くらいはしている。もちろん、形を儒家に合わすことはするが、そんなことは単にテクニックに過ぎない。奇形、ふぐ(変換してくれない)、かたわ(同左)。まあ、世の中、そういう言葉を隠して、それなりにいい子ぶってはいるが、交差点にものの十分も立っていたら、人々が、いかに他人のことを思いやっていないか、「命」など口にする資格があるのか無いのか、分かるというものである。そんなやつらが、私は人を傷つける言葉を使わない、人に優しい人ですと言った所で、何になる。世の中は、かくして、うそで出来ているのである。うその中にいる人は、本当のことを言う人間を排斥し、いじめ、そしてそれを以って、己の正義を証明する。
2005年10月02日
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