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来し方を振り返り後悔するのも 悪くない本当のことだったんだから無理に理屈をくっ付けても疲れがたまるだけサロンパスも効かないこのごろの肩こりには後悔のお湯が いちばん
2005年12月31日
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この日記は、ようちゃん2号さんの2005年12月23日の日記に触発されて書くものです。ただし、氏の名誉のために言っておきますが、同氏の日記が当然として以下のような文章を導くとか、同氏の文章の要点はこれこれとか、そのような類の物ではありません。以下にある内容は、私が以前に書いていたものを改めて焼き直しすると言ったほうがいいと思います。で、何の焼き直しかと言うと、資本主義とか、企業家精神とかについて言った話です。-------------そもそも、洋の東西を問わず、ある社会が行き詰まりを感じたとき、原点回帰が為されます。資本主義そのものが疑われたとき、帰るべき原点、そして古典は、アダム・スミスをおいてありません。日本では、An Inquiry into the Nature and Causes of the Wealth of Nations という彼の主著を「国富論」ないし「諸国民の富」と訳すことが多いですが、これらのいずれもNatureないしCausesを含んだ訳でなかったため、そこに書かれた彼の主張を、人々が勝手に解釈しやすくしてしまいました。「自由放任」がそれで、現在では逆に「国富論に自由放任という語は一言も出てこない云々」の方がよく言われています。「国富論=諸国民の富」が、自由放任か否かという議論など、全く本義とはかけ離れた、関係の無い議論です。スミスが言いたかったのは、国の富とはどういう(性質=Nature)のものか、そしてそれをもたらすもの(原因=Causes)は何かということです。私なりにここを言ってしまうと、それは「国民道徳」です。すなわち、彼のもう一つの主著The theory of moral sentiments (「道徳感情論」ないし「道徳情操論」をあわせ読むとき、彼の主張の何たるかはより明らかになるはずです。(この点は結構言われてますね)古来、「経済は哲学の僕」と言われて来ました。この言葉の意図するところを汲み取ろうとせず、「経済学の独立」とか、「経済を蔑視する無かれ」とかいう論がもっともらしく言われ出して現在の経済の基礎が出来上がりました。経済学の独立、大いに結構です。経済学が尊敬を集めることもいいです。しかし、それと「哲学の僕」とは矛盾しないのです。今の経済は「経済効果」一辺倒です。ひたすら経済指標を追い求めている。国民が経済を発展させることによって、自らの精神生活を豊かにするという視点がありません。日本は資源乏しく、国土狭く、周りは韓国・北朝鮮・中国・ロシア・台湾等が日本との間に領土をめぐり主張の違いを見せています。国民がこのまま、哲学無き経済に走りっぱなしでいいはずはありません。いったい何のために生きているのか、何のために住宅ローンを払っているのか、何のために自分は車が欲しいのか、その理由に自信はありますか。
2005年12月29日
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おととい、合格通知が届いた。今回は全く自信が無かっただけに、三級・二級の時とは違う喜びがある。それで昨日、ささやかながら難波に行って、二千五百円くらい無駄遣いをした。地下鉄と市バスの一日券を買ったら、帰りに落としてしまって、600円プラス270円の交通費でした。と、それだけなら、よかったが、ソニーの専門店でW5の黒が19800円で出ているのを見てしまった。(シルバーは売り切れ)うーん、プリンターをもう一台買う予定にしていたのだが、これも捨てがたい。自分はメモリースティックを持っていないので、プラス五千円になるけど、安いことは確かだね。今日は自転車で難波に行って、悩んできます。
2005年12月24日
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スポーツなどで、いつのころからか、「大いに楽しんできます・・」という試合前の言葉を聞くようになった。これはおそらく、英語の単語enjoyを訳した結果だと思われる(ご存知の方突っ込んでください)が、本当に楽しめる選手がどの程度いるかは大いに疑問の残ることである。自国の単語が、他言語の影響を受けて新たな意味を獲得するということは自然なことであり、言語生活を豊かにするという意味では、いいことでもある。ただまあ、なんとなく、みんなそう言うから言っている風の人もいることは確かなように見える。実は先日12/10の土曜日、プールに行った。「ラスパ大阪」という施設で、この季節、きっと屋内の温水プールのみの利用になると思っていたら、屋外のプールもやっている。屋外の、数箇所のジヤグシー(これは熱いお湯でした)はともかく、プールの方はかなりぬるいというか、冷たくて、自分は一分も持たなかった。この日はAさんという知的障害の人のヘルパーとして行ったのだが、このAさん、「わっはっは、ツメテーッ」と言いながら、この冷たさを楽しんでいるのだ。ああ、楽しむってこんなことでもあるのか、と大いに感じいった日でした。
2005年12月14日
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このサイトでも何度も言っているが、朝鮮戦争ベトナム戦争湾岸戦争これらの戦争は、日本が実際に参加した戦争だ。この認識が無い人たちが、九条擁護派である。九条があるから日本は戦争しないなんて、うそもいいとこ。戦争しないから、相手からやられないなんてもう一つうそ。テロはもう目前に迫っているのだ。これからの戦争は、対テロ戦争だ。法と正義はテロリストの側にもあるのだ。彼らは正義だ。その正義に、はい分かりました、私の子供の目をえぐってください、私は平和主義者ですから、自衛隊が出て行ったら反対のデモをしますとでも言うのか。=====まあ、ちょっとねえ、この文章無理がありますよ。でも、これが私の好みです。こういうものの言い方が自分は好きです。これからもこの調子で行きますよ。
2005年12月12日
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その歌が心臓に届くとき声は 真実を語る思わせぶりには もう飽きた見掛け倒しに 用は無い欲しいものは ただ一つ残された時間が いかに短いものだろうと私の歩みの先にあるものは ただ一つ
2005年12月11日
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さて、先日の日記の続きである。先の日記では、一 外国人犯罪について二 子供の安全についての若干の補足を書かねばならない。一 (先日の日記では「別にした」)外国人犯罪まず一般論としての基本的なことを書くと、外国人が日本で犯罪を犯そうというのは、日本に隙があるからだ、と自覚したほうがいい。日本人が、真に礼儀正しく、他人を思いやり、自信に満ちていれば、外国人も大いに感化され、犯罪を思いとどまるであろう。今の日本人は、自信なく、自分が他人に知られたらそれこそ終わりだと思っている。その延長上に今日の個人情報崇拝もある。そんなもの守ったって、人を守ることにはならない。このたびのペルー人日系三世も、本国で同様の犯罪を犯しながら、日本に入国し犯行に及んだ。日本は、自分も他人も公開するという「安全」を選択しない限り、保護された犯罪者の入国は阻止できない。これは国内の人間にも当てはまることで、非公開こそが人権の保護だと理解している人権派が、実は一般市民を危機に陥れているのである。二 安全ということについての補足先の日記では、教育の連続、積み重ねということとを書いたが、では当面のこの日本で増え続ける若年者への犯罪を同防ぐのか、という問題は残る。この対策は二つである。一つは、犯罪はまず第一義的に犯罪を犯す側の問題であるという当たり前の認識に立つということ。今のやり方は、犯罪を犯されたほうの自覚とか、保護、知らない人についていったらだめですよ式の、いわば小手先の偽善である。犯罪者の犯行に至る経緯は、徹底的に暴かれ、公開されなければ、犯罪の抑止にはならない。もし本当に「罪を憎んで人を憎まず」という精神がこの社会に生きているなら、それは可能である。犯罪者の社会復帰もできるはずだ。人権保護の名の下に、非公開になっている部分が多い。そして二つ目は、子供たちを将来の担い手として、鍛えるということである。その昔、ある藩の若君が道中、足にとげが刺さったので、守役の侍にとげを抜くよう命じた。するとその家来である守役の者は、とげを思い切りねじ込んだ。その様子を見ていた殿様は、これでよしと安心した。今の親たちは、ひたすら「危ない危ない」と言いながら、肝心のところで目を離し、手を引くべき時にはそれをせず、公共の場所では係員の指示に従わず、子供に悪い手本を見せている。そのくせ、ことが起こると自分以外の誰かのせいで、自分の、最愛の、かけがえの無い、子供が傷つき、果ては命まで失くすと考えるのだ。この様なことでは、やがて子供は、子供を傷つける大人となるのは、当たり前だ。
2005年12月04日
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今に始まったことではないが、幼年者を狙った犯罪がこのところ目立つ。これで、子供を守れとか、セキュリティとかで食っている人たちが勢いづくのであるが、彼らの言うことは信用しないほうがいい。やつらの言う事は、「人前で安易に子供の名を呼ぶな」に象徴されるがごとく、子供を弱く、弱く、ひたすら弱くするのみで、後先のことを考えないその場しのぎである。外国人犯罪を別にすると(このことについても後で述べる)、子供とは、大人になる前段の状態で、この時期に自分がどんな大人になるのか、どんな人間になるのかということを教育されない大人が、犯罪に走るのである。すなわち、教育段階において、己に対するいたわりのみを肥大化させてしまった人間が、幼児を狙う人間になったのである。また、今のままでは、子供がより弱い子供を傷つけることは目に見えている。言い換えると、今こそ、自分の子供、児童・生徒が成人して子供に害を及ぼすような人間にならないように、そのような教育を施すことこそ肝要であるという事だ。すなわち、自分の子供が加害者にならない教育である。過去にそのような教育の連続があって、現在があるなら、今のようにはなっていないはずだ。一 安全とは、子供を弱くすることではない一 子供は人間として一人前になる権利がある
2005年12月02日
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