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これで古典がよくわかる(著者:橋本治|出版社:ちくま文庫) 書名通り古典入門なのだが、内容ではなく、文体の問題から入っていく。 漢字だけのもの、漢字とカタカナのもの、ひらがなだけのもの、漢字とひらがなのもの。 それぞれの背景、歴史を語り、それらがどのように違うのかを明らかにし、「方丈記」と「徒然草」の違いを説明する。わかりやすく、納得できる。 歴史についても勉強になった。鎌倉幕府を開いたのは源頼朝だが、彼が強大な権力を握っていたわけではなく、『源頼朝は、「磯野家のマスコさん」です。』(p138)という。なるほどそうだったのか。どうりで北条政子が強いわけだ。 古典になれるために暗唱しなさい(p229)というのも納得できる。まさに、「古典は、体で覚えるもの」なのだ。 これほどの著者でもミスはおかす。 『「宣りたまふ」の「宣」は、「宣言」や「宣誓」の「宣」です。』(p239) 日本語の意味を説明するのに、漢字の意味を使ってしまっている。漢字と日本語が一対一で対応しているわけではないので、この説明には無理がある。
2003.10.31
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翻訳という仕事(著者:小鷹信光|出版社:ちくま文庫) ハードボイルド小説の翻訳、紹介といえばまずこの人。 松田優作のテレビドラマ「探偵物語」の原案者であり、小説も書いている。 自分の体験をもとに、翻訳とはどのような仕事なのか、どのようにして翻訳家になるか、なってからの収入はどうか、ということを具体的に述べている。 これだけ名の知られた翻訳家であっても、翻訳だけで生活できるわけではない。 「あまり人目につかないところで、雑多な仕事をこなすことによって、やっと食いつないでいるのが現実である。」(p117)という。 好きな仕事をしているというだけでは食っていけない。「印税率とは翻訳というhそくぎょうがよって立つ原点であり、あくまでも引き下げには抵抗していかなければならない」(p158)と強い調子で述べている。 翻訳家の生活も興味深かったが、もっとも印象に残ったのは「翻訳のコツ」である。 「翻訳は英文和訳ではない」(p188)からはじまって、具体的に、重要な点を説明している。 もっとも重要なのは、原文を一語一語日本語に置き換えるのではなく、わかりやすい、正しい日本語で原著の内容を表現することなのだ。英語ができることはむろん必要だが、日本語にたいする感覚を磨いておかなくてはならないのだ。 英語はさっぱりわからないのだが、こうすれば簡潔な訳文になるという例だけ読んでも勉強になる。
2003.10.30
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広辞苑の神話(著者:高島俊男|出版社:文春文庫) あとがきを読んで初めて知ったが、「週刊文春」連載の一年分で一冊の単行本になり、三年たつと文庫化されるのだそうだ。 これが四冊目で、もう八年書いているというから、少なくともあと四冊はでるはずだ。 相変わらず面白いが不思議な表記をするところもある。「某A新聞や某M新聞である」(p61)なんて、誰がどう考えたって「朝日新聞と毎日新聞」なのに、どうしてそう書かないのだろう。 その次のページにある「某K国と某C国」だって「韓国と中国」以外考えられないのに。 ユーモラスな書き方をすることが多いのだが、「これは賤しきものなるぞ」は激烈である。 内容は新潮文庫「津軽」の注のいい加減さについて。 最初に書いた時にすでにかなり腹を立てているのがわかるのだが、その後、注釈を書いた人が、その文章を読んで手を入れたらしい。しかしそれがかえって怒りを招く。 いい加減な注をいろいろ取り上げて批判するのだが、注を批判するというよりも、注を付けた人の姿勢を批判しているのだ。 「すこしは心をこめて書いてはどうか」という批判は、いい加減に済まそうと思うことの多い私には耳が痛い。
2003.10.28
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明治タレント教授(著者:高島俊男|出版社:文春文庫) シリーズ第3弾。 言葉に関する考察はやや減り、その分、世相に関することが増えた。 それでも面白いことに変わりはない。 知識はもちろん重要だ。しかし、もっと重要なのは、何をどう考えるか、ということである。 有名な人がいっていたから、欧米ではこうだから、と、判断の基準を自分以外のものにおいてそれにもたれかかり、自分と同じようにしない人を批判するような連中、たとえば新聞記者に読ませたい本だ。 具体的な内容を上げると、次の文章。 「なにしろ日本の民主主義というのは「何事も一番下のレベルにあわせて行きましょう」を大原則とするものであるから」(p78) 「明治このかた日本を動かしてきたのは人間平等の信仰、それも、「万人同形同質」の信仰だと書いていらっしゃる。」(p183) 「開明」「進歩」イコール善、「保守」「守旧」イコール悪、という観念は、明治維新以後の日本人の、とりわけ戦後日本人の、度しがたい迷妄である。」(p250) これを読んで反発するだけの人には、この本は、読んでも理解できないのかもしれない。
2003.10.23
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百鬼園随筆(著者:内田百間|出版社:新潮文庫) 初めて読んだ。 名前は知っていたし、興味はあったのだが、敷居が高いような気がしていたのだ。 もっと早いうちに読めばよかったとも思ったが、若い時に理解できたかどうか。 文章の密度が高く、実際の字数以上の字数があるように感じさせる。 決して難解なのではない。いずれもユーモアのこもった軽妙なものなのだ。しかし濃密である。 難しい言葉を使うところもある。 「戒飭《かいちょく》」(過ちを犯さぬよう戒める)、「加餐」(栄養をとって体を大切にする)、「三十年の一狐裘《いっこきゅう》」「豚肩《とんけん》は豆を掩《おお》わず」(いずれも、非常に倹約すること)など、見慣れぬ言い回しが出てきて、辞書を引かされた。 表記の上では、冒頭の「琥珀《こはく》」で「萬」を使っているのが目をひいた。 新潮文庫編集部による「表記について」には、「旧字体で書かれているものは、原則として新字体に改める」とあるのだが。 「萬」と「万」は本来別の字で、「万」は《ぼく》と読むべき字であったので著者が厳密に区別していたものだろうか。 ほかに、「一一」「我我」「沸沸」というように、「々」を使わない表記をしているのも理由があってのことなのだろう。
2003.10.21
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だめだこりゃ(著者:いかりや長介|出版社:新潮文庫) いかりや長介の自伝。とはいっても、生い立ちの部分はあまり詳しくはない。 実母を幼いときに亡くしたこともあって、父親っ子だった。父親が大好きらしい。自分でも「ファザコン気味なのだろう」と書いている。 やはり興味深いのはドリフターズの歴史。 ドリフターズというのは前からあって、いかりや長介は途中加入。三代目のリーダーだったのだ。 さらに、ジャイアント吉田や小野やすしもかつてはメンバーだったと知って驚いた。 ジャイアント吉田ら四人が抜け、慌てて見つけ出したメンバーが後のドリフターズ。 それぞれの芸名をつけたのはハナ肇だったという。 私が子どもの頃は、クレージーキャッツはほとんど終わったグループで、ドリフターズの後塵を拝していたように思っていたのだが、クレージーキャッツは事務所の先輩であり、その後がまとしてドリフターズが育成されたのだった。いかりや長介は、クレージーキャッツのメンバーを尊敬し、一緒に仕事をした植木等に対しては、兄貴分として信頼を寄せている。「植木さんさえいれば、自分がリーダーシップなんか取らずに住むんだ、と甘えた気持ちになった。」(p87)というのだ。 クレージーキャッツのネタを使っていいとまで言ってもらっているのだが、だからこそ、クレージーキャッツを意識し、決して重ならないように気を配っている。クレージーキャッツが洗面器を使っていたから、重ならないように金盥《かなだらい》を使う、というように。 ドリフターズのメンバーそれぞれに対しては、距離を置いて客観的に評価している。 クレージーキャッツを見習って、けっしてメンバーをクビにするようなことはしない。 文章もうまい。「全身の産毛《うぶげ》がダダッと逆立っていく期待と不安と爽快《そうかい》さが入り交じっているあの感じ」(p197)という文章が書ける人なのだ。普通なら、「鳥肌が立つ」を肯定的な意味で使ってしまうところだ。 懐かしい芸能人の名前がいろいろ出てくるが、「演出家列伝」にも懐かしい名前があった。 巡り会ったいい演出家の一人に鷹森立一《たかもりりゅういち》をあげている。 東映の監督だった人で、真田広之・千葉真一・秋吉久美子で「冒険者カミカゼ」という映画を撮っている。低予算で短期間で撮った映画なのだろうと思うのだが、しゃれていて面白い映画だった。アラン・ドロンの「冒険者たち」のリメイクなのだから面白くて当然といえば当然だが、話も映像も優れていた。 「社会風刺や現代風刺はむしろ、極力避けてきた」(p243)というのは、大人になって振り返ると、確かにそうだった。表立って言うことはしなかったが、ポリシーを持ってコントを作っていたのである。
2003.10.12
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藤岡屋ばなし(続集) 江戸巷談(著者: 鈴木棠三 |出版社:筑摩書房・ちくま学芸文庫) 著者の姿勢は「あとがき」ではっきりと述べられている。「浮世噺」なのである。 『藤岡屋日記』自体はまだまだ続くのだが、内容は、幕末のできごとになっていく。著者は、幕末の物情騒然とした時代は「私は嫌いなのです」だそうだ。 このあとを代わりに書いてくれる人が現れてもいいが、「颯爽と龍馬は行く式の幕末物語はお断りしたい」と、はっきり述べている。 政治や社会ではなく、民間の生活、人々の意識に目が向いているのである。 この本でも、いわゆる雑学的な面で新知識を得た。 「大小の歌」(p72)に、「四月大江戸ハ」とあり、江戸時代から「大江戸」という言い方があったことが確認できた。 「出役」に「でやく」とルビを振っているのは誤り。(p165) 遺体に血を注いで親子かどうか確認する話。「生きていた土左衛門」(p222) 「金さんも顔負け」(p244)は、「顔負け」とありながら、遠山の金さん本人の話。本人なのだから、「顔負け」もないのでは。 目をひいた表現。 「徳川家慶は、水野越前をバックして」(p329) 「バックして」と、「バック」を動詞として用いるのは初めて見た。 「水野越前は徳川家慶をバックにして」というような名詞として用いるものだと思っていた。 「会津奥山の梁山泊」(p334)は、「ああ、やられた」と思ったが、『水滸伝』の李逵は黒雲や暴風を自在に起こす能力はなかったのでは? よく一緒にいる公孫勝と混同したか。 「翕然」(p419)とはまた難しい言葉を使う。「きゅうぜん」と読むのだが、知らなかった。
2003.10.11
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誰がために鐘は鳴る(上巻)改版誰がために鐘は鳴る(下巻)改版( 著者: アーネスト・ヘミングウェイ。大久保康雄・訳 | 出版社: 新潮文庫 ) 下巻になり、戦闘が始まるとあとは一気に読み進むことができた。 正直なところ、上巻は読み通すのに忍耐を要した。 時間としては、物語は四日間ぐらいしかないのだが、台詞や回想、心理描写が長い。 饒舌ですらある。 最後は、こうなるのかな、と思った通りの最後になったが、感銘は残る。 それにしても、翻訳は難しい。 野卑な言葉を話す連中のせりふが特に難しい。 短い例を挙げれば、「あのワイセツな橋を吹き飛ばし、それからおれたちはワイセツにもこの山から出て行かなきゃならねえっていうじゃねえか」(上巻p86)「わしらは奇跡のおかげで、ここに巣くっていられるだ。ファシストのやつらの怠慢と愚かさの奇跡のおかげだて。」(上巻p283)「雌のやつが、夜明け前に、雪のなかで、何かドタンバタンやってたんだ。やつらが、どんな放埒(ほうらつ)なことをやらかしてたか、とてもおまえさんにゃ想像がつくめえて。」(上巻p90)などという台詞がある。日本語の世界なら、野卑な言葉を使うものがいいそうにないことをいうから不自然なのだ。 翻訳の問題というよりも、全く異なる文化のなかで書かれたものを日本語で読む、というところに無理があるのだ。 文学は何が書かれているかではなく、どう書いてあるかだ、という高島俊男さんの言葉を思い出す。 しかし、日本語で書かれたものしか理解できない身としては、翻訳で読むしかない。 翻訳家は大変だ。
2003.10.06
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