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宮本武蔵(3)(著者:吉川英治|出版社:講談社文庫) 「火の巻」の続きから「風の巻」まで。 宍戸梅軒とは直接の立ち会いはなく、吉岡清十郎には勝つ。 武蔵とお通は、すれ違いの連続。京では、すぐそばにいながら、お通は武蔵の前に現れない。朱実との再会はあってもお通とは顔を合わせない。 次から次と山場の連続で驚くが、新聞小説なのだから、こうでなくては、読者の興味をひきつけておくことはできないわけだ。 一度出てきた人間がほかの所でまた出てきて、登場人物の関係が蜘蛛の糸のようにからみ合っている。赤壁四十馬なんてすっかり忘れていた。 作者の頭の中では、人物がきちんと整理されているのがすごい。
2003.01.31
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江戸の思い出(著者:岡本綺堂|出版社:河出文庫) 「江戸東京の思い出」「震災の記」「怪談奇譚」の三部からなる。 ほかの随筆集でよんだのもあるが、たいてい忘れているので面白く読んだ。 初出が明治四十三年の「思い出草」の一編「紙鳶」に、寒風の中でたこ揚げをしていた昔の子供にくらべ、あたたかい恰好をして「無意味にうろうろ[#「うろうろ」に傍点]している今の小児は、春が来ても何だか寂しそうに見えてならない」(p43)というあたり、今も昔も変わらないのである。 綺堂の感性を示す表現。 「釣荵《つりしのぶ》は風流に似て俗であるが、東京の夏の景物として詩趣と涼味とを存分に併せ持っているのは、彼《か》の虎耳草《ゆきのした》である」(p89) 蕎麦屋の変遷。 「そばやでは大正五、六年頃から天どんや親子どんぶrまでも売りはじめた。蕎麦屋が饂飩を売り、更に飯までもうることになったのである。」(p128) 誤植? 「周囲の者どもを睥睨《ひげい》していた」(p138) 調べてみたが、「睥」に「ひ」の音はない。 「そこへ或《ある》人が三人ずれで料理を食いに行くと」 「三人づれ」の誤りのはず。 目についた言葉。 「見当り次第に沢山の塚を」(p324)。「見あたり次第にそこらの墓を」(p341)。 「みあたりしだい」というのは目新しい。手元の国語辞典類で調べてみたが載っていなかった。「見当たる」という語はあるから、「見つかり次第」という事なのだろう。 なお、「手あたり次第」は(p342)に用例がある。 この文庫はなかなか良くできていて、巻末に、「初出誌紙・収録単行本一覧」がある。 これを見れば、それがいつ頃書かれたものか、どの本と内容が重なっているのか分かる。
2003.01.29
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人形佐七捕物帳(著者:横溝正史|出版社:光文社) 「羽子板娘」「嘆《なげ》きの遊女」「笑い茸《だけ》」「呪いの畳針」「螢《ほたる》屋敷」「舟幽霊」「双葉将棋」「風流六歌仙」「万引き娘」「春宵とんとんとん」の十編。 正月から冬まで、季節の順に配列されている。 滑稽味のこめられているものもあるが、いずれも横溝正史らしい、陰影の深い話である。 そのため、子分の豆六の初登場の話が、当たり前のような顔をして豆六の登場している話の後になっていて、ちぐはぐ。 初期に書かれたものらしい「羽子板娘」には「文化十二年」とあり、「嘆きの遊女」には、お粂のせりふに「二十二になる去年まで」とあり、そのお粂は寛政五年生まれ、とある。何年のことか、佐七がいくつの時のことか、ということを明らかにして現実味を持たせようという意識があったのだろうが、いくつも書いているうちにいちいちそんなことを気にしていられなくなったらしく、何年のことなどと断っていないものがほとんど。 佐七はお粂より一つ年下、ということだから、寛政四年(一七九二)の生まれ。 明治維新は七十六歳で迎えたわけで、半七よりだいぶ年上だ。 「人形佐七」の中に、人のうわさ話の中に半七の名が出てくるのを読んだ記憶があり、横溝正史が「半七捕物帳」が好きだったことは知っていたが、解説を読むまで、女房のお粂の名が半七の妹と同じ名だとは気づかなかった。 作家の真鍋元之による解説は良くできていて、作者の略歴、人形佐七執筆のきっかけなどが要領よく紹介されている。先に解説で、二話まで読んだら、三話、四話をとばして五話を読めば、豆六について違和感を持たずにすむとうことを知り、それに従って読んだ。 また、横溝正史にはほかにも捕物帳のシリーズがあったことを初めて知った。 小説とは別に、この文庫、表紙のイラストが金森達。昔、SFのイラストでこの人の絵を随分見たんだよなあ。懐かしかった。
2003.01.23
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宮本武蔵(2)(著者:吉川英治|出版社:講談社文庫)「水の巻」の続きから「火の巻」。 宝蔵院とのあれこれから柳生を経て、宍戸梅軒を訪ねるところまで。 武蔵、お通、城太郎、沢庵とうまい具合に出会ったりすれ違ったり。 一方、いよいよ佐々木小次郎の登場かと思わせて、小次郎自身はなかなか登場しない。 なかなか気を持たせる。 朱実とお甲は実の親子と思っていたが、298ページからしばらく、「養母《はは》」「養母《おふくろ》」という表記が続く。実の親子ではなかったのか? 又八とお杉の再会があるが、そこを読んでまた疑問が一つ。 お杉は「婆《ばば》」となっているが、又八はまだ二十歳そこそこ。お杉婆がいくつのときに産んだ子なのだろう。
2003.01.19
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宮本武蔵(1)(著者:吉川英治|出版社:講談社文庫) 「地の巻」「水の巻」収録。 関ヶ原から宝蔵院まで。 二十年以上前に読んだことがあるはずなのだが、ほとんど何も覚えていない。 こうして大人になって読めば、実在した宮本武蔵とはほとんど無関係の娯楽小説だということがよくわかる。おそらく、実像とはかけはなれていることは作者としては自明のことなのだろうが、この小説によって宮本武蔵像が決定されてしまったのには、作者も困ったことだろう。 意外だったのは、沢庵が若いこと。三十歳ぐらいで登場する。老僧のような気がしていたが、武蔵が歳をとるにつれ、老いた沢庵も登場するのだろう。 もう一つ、ただのだめ男のような又八が、最初の方はけっこう強い。 また、武蔵は簡単に人を殺す。 新聞に連載されたためか、読者を飽きさせぬよう、次々に事が起こる。特に何もないときは、時間はあっという間に過ぎる。白鷺城での三年など、わずか二ページ。 読んだ版は、現代仮名遣いに直してあるわけだが、「三日月山」(p185)に「みかずきやま」とルビが振ってあるのはどういうわけか。編集部の誤りだろうか。
2003.01.17
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青べか物語(著者:山本周五郎|出版社:新潮文庫) 作者が若いときに浦安に住み、見聞したことをもとにした小品集。 おそらく、現実にあったことがほとんどなのだろうが、あくまでも小説である。 浦安に住んでいたのは1928年から一年余りであり、執筆したのは1960年であるから、三十年の時を経て作者の中で熟成された物語なのである。 ドーデの『風車小屋だより』を読んだときに、『青べか物語』に似ている、と思ったが、読み直してみると確かに似ている。 精神的に疲れた主人公が、思考様式や倫理観までことなる人々の間で暮らし、やがて新しい道を歩み始める。 「おわりに」で、「私は浦粕から逃げだした。その土地の生活にも飽きたが、それ以上に、こんな田舎にいてはだめだ、とうことを悟ったからであった。」とあり、うんざりして浦粕を捨てたかのように書かれているが、実は、浦粕による癒しが終わり、失われていた気力が回復した、ということなのである。 一年余りも住んだ土地ではあるが、主人公はつねに異邦人であった。通り過ぎる存在なのだ。だから八年後に訪れたときに思い出してもらえず、三十年後になるとさらにほとんど忘れられている。現実には街に存在していなかったと言ってもいい。 作者もそれは意識していて、「私」の科白が書いてある場面はほとんどない。 「私が答えると」「私はまた質問した」などと書かれるが、その言葉がちゃんと書かれることはほとんどない。せいぜい「繁あね」との会話ぐらいである。 ただし、自分自身に言う言葉は科白として表記される。 たとえば、「いいさ」と私は自分に云った、「そのうちに忘れてしまうだろう」(p39)「おかしいな」と私は呟いた、「気がつかなかったのかな」(p47)という具合である。 作者はこれに続いて『季節のない街』を発表している。 山本周五郎の作品に何度も登場する「たんばさん」的人物は誰か。 それは、「私」自身なのである。 「たんばさん」は街の人々に頼りにされ、人々を癒すが、「私」は自分から人々にかかわることはなく、浦粕に癒される。 しかし、精神的には、人々と同じ世界には住んでいないという点で共通する。 「私」は裏返しの「たんばさん」なのである。
2003.01.15
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赤ひげ診療譚(著者:山本周五郎|出版社:新潮文庫) 年末にドラマ化されたのを見たのをきっかけに、およそ20年ぶりに読み直した。 ドラマは黒澤明の映画の脚本をそのまま用いたもので、改めて原作を読んでみるとだいぶ違う。 特に、「徒労に賭ける」の「おとよ」、「鶯ばか」の「長次」の話は黒澤のオリジナルだ。 原作の方が現実的だが、黒澤明は救いを求めたのだろう。 『季節のない街』を読んだばかりなので思ったことだが、赤ひげは、『季節のない街』の「たんばさん」なのだ。 気短で、感情をすぐに表に出すが、「たんばさん」なのである。 不思議なのは、第3話の「むじな長屋」で、主人公の同僚の森半太夫が労咳ではないかと思われるところがあるのだが、その後、それに関する話がないこと。 連作になっていて、雑誌に連載したものなので、最初はそれに関する話を書くつもりでいたのが、途中で変わってしまったのかもしれない。 全体としては、甘いと言えば甘いのだが、山本周五郎はこうでなくてはならないのだ。 何度もテレビ化されているが、やはり黒澤明の映画がもっともいいようだ。
2003.01.10
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季節のない街(著者:山本周五郎|出版社:新潮文庫) 黒澤明の映画「どですかでん」の原作。初めて読んだ。 読んでびっくり。「とうちゃん」の沢上良太郎は、映画では三波伸介が演じたのだが、小説中の人物の風貌も話し方も三波伸介そのままなのだ。 「あとがき」で作者自身が述べているように、都会版の『青べか物語』である。 架空の街を舞台に、様々な人生が語られる。どれもこれも現実離れしているのだが、おそらく現実に作者が見聞したことなのだろうと思わせるリアリティをもって描かれている。 実在しない街へ行くために、実在しない市電に乗っていくところから始まり、所々に顔を出していた「たんばさん」の話で終わる。 この「たんばさん」は、山本周五郎の小説に繰り返し登場する性格の持ち主であり、山本周五郎の理想とする人物像の一つである。 ほかの登場人物には、あるいはモデルとなった人が実際にいたのかもしれないが、この「たんばさん」だけは完全に作者の心の中から作り出された人物ではないかと思う。 言わずとしれた、黒澤明初のカラー映画「どですかでん」の原作である。
2003.01.08
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町奉行日記(著者:山本周五郎|出版社:新潮文庫) 短編十編。 「土佐の国柱」と「晩秋」は、おのれを悪く見せることで藩を救う武士の話、という点では共通しているが、前者は男の目から、後者は女の目から見ているためか、前者は名誉が与えられ、後者は精神的な救いを得る。 「金五十両」は町人もの。誰も信じられないという心境だった男が人を信じられるようになるまで。いかにも山本周五郎だ。 「落ち梅記」もおのれを犠牲にするが、藩のためということよりも、友のため、かつて思いを寄せた女のため、という面がある。現実にこういうことが起こりうるかどうかということは重要ではない。作者は、こういう生き方を好むのだ。 「寒橋《さむさばし》」は市井もの。実は、と思わせておいて、さらに実は、という落ちがある。収録作品中、もっとも癖がない。 「わたくしです物語」は強いて言えば「ひとごろし」に類するもので、こんなことで解決するはずがなくても解決してしまう話。軽みがある。こういう本の解説は役に立たないことが多いのだが、解説を読んで、阿倍幸兵衛や角下勝太という人物名が洒落になっていることを初めて知った。読みが浅かった。 「修業綺譚」も滑稽譚。ここまで読んで気がついたが、どれもこれも、主人公が女にもてる。 「法師川八景」は女が主人公。自分が人の支えとなることに幸福を見いだす女。周五郎の好みの女性像である。 「町奉行日記」は先年映画化された「どら平太」の原作で、文庫の表紙や折り返しには映画の写真が使われている。なるほど、このまま映画になりそうだ。主人公が何でもできすぎるのが気になるが、あえてそういう人物造形にしてあるのだ。 「霜柱」になると、ちょっと読み足りない。もっともっとながく書くべき話なのだ。初出が雑誌で枚数の制限があったためなのだろうが、主人公の心境の変化をもっともっと書き込んで欲しかった。 山本周五郎は大衆小説と純文学の間を目指していたという話だったが、随分難しい言葉を使う。「奸譎《かんけつ》」「秕政《ひせい》」(p54)あたりは何となく分からなくはないが、「劬り」(p170)は読めなかった。調べたら、「劬」は「働いて疲れる」という意味だから、おそらく「いたわり」なのだろう。 巻末の、編集部による「文字づかいについて」には、「年少の読者をも考慮し、難読と思われる漢字や固有名詞・専門語等にはなるべく振仮名をつける。」とあるが、これこそ振り仮名をつけて欲しい。
2003.01.07
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