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オズワルド畠中悠、初期の腎臓がん公表「大きくなる前に手術すれば完治します」堀ちえみは“がんサバイバー”の希望の星 生存率50%ステージ4の舌がん克服で親衛隊も感涙 今までに書いたように、私はがんの手術を三回経験している。 いずれも、早期発見だったので、1週間程度の入院ですんだ。 畠中悠は、早めに発見できてよかった。 堀ちえみの場合は、発見が遅れて気の毒だったが、無事に5年が過ぎてよかった。 大事なのは早期発見。 積極的に検診を受けよう。異常があったらがんも疑おう。
2024.02.29
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こういう企画があったことを知らなかった。 レコーダーで、「全日本プロレス」という言葉が入っている番組は自動的に録画するように設定しておいたおかげで見ることができた。 協力した団体は全日本プロレスとNOAH。かつて日本テレビが中継していた二団体だ。そして、いずれも中継を打ち切られてしまった団体でもある。 心中複雑なのだが、日本テレビの中のプロレスファンが働きかけて実現した番組なのだろう。 立会人として小橋建太と武藤敬司が登場して始まった。 番組は、力道山時代から始まり、鶴龍時代、四天王時代を紹介するだけでなく、外人レスラーも紹介し、昨年亡くなったテリー・ファンクの追悼セレモニーも放送された。 徳光アナが登場したり、大仁田厚と渕正信に福沢アナがインタビューしたりして、プロレス中継を支えた人材の起用を忘れない。 試合の実況担当は平川アナで、これも懐かしい。 若林アナも出して欲しかったな。 メインの試合では、田上と川田が解説席にいたが、話は聞けなかった。 一時はしょっちゅう全日本プロレスを見に行っていたのに、もうずいぶん会場に足を運んでいない。 見に行くにはそれだけの気力が必要なのだが、体力も気力も衰え、ガンになったあたりから、気力がわかなくなってしまった。 プロレスというのは終わりのない物語だ。物語の展開について行けるよう、心の準備はしておこうかという気になった。公式サイト
2024.02.23
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今日の読売新聞「編集手帳」にこんな文があった。辞書によれば、二は<に、ふ、ふた、じ>などと読む。二男には「じなん」のほか、「つぎお」と読ませる人名もあるそうだ◆文章を書く仕事をしていて、洋数字の2を悩ましく思うことがある。昨日の当欄に、政倫審への出席の意向を伝えた議員を「二人」と表記した◆「2人」と書いてもいいのだが、洋数字を「ふた」と読むのはどうかという疑問を禁じ得なかったからだ。 一読しただけでは意味がわからなかった。しばらくして、「二人」と書いて「ふたり」と読むのは、「ふた・り」で、「二」を「ふた」と読み、「人」を「り」と読むのだと思っていることがわかった。 そんなはずはない。「人」が「たり」のはずだ。「三人」と書いて「みたり」、「四人」と書いて「よたり・よったり」と読む例もある。 引用した箇所にも、「辞書によれば、二は<に、ふ、ふた、じ>などと読む。」とあるように、「二」は「ふた」ではなく「ふ」なのだ。 洋数字であろうが漢数字であろうが「二」は「ふ」であって「ふた」ではない。 数字は算用数字を用いるようになっているらしく、通常は「ふたり」は「2人」と書くらしい。 しかし、「2人」では、「ににん」と読まれる可能性もある。「二人」なら、「ににん」よりも「ふたり」と読むのが自然ではないか。
2024.02.22
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自閉スペクトラム症の女性(門脇麦)が主人公。 ドラマの中で、「自閉症」や「ASD」という言葉が使われている。 マイノリティが登場するドラマは今や珍しくないが、父親(大森南朋)が同性愛者の大学教授という設定で、さらに希少な親子ということになる。 発達障害をどのように描くのか気になるところだが、特性を誇張しすぎている。 ドラマなのだから仕方がない、といえばそれまでだが、ここまで極端な人がそんなにいるのだろうか。 誇張した描き方が、かつて自閉症の主人公を描いた「僕の歩く道」を思わせる。自閉症が多様であることが描かれていない。 自閉症を取りあげたドラマでは、「光とともに」が最も良かったと思う。発達障害が今ほど認知されていない時代に、自閉症が多種多様であることも描いていた。 今回のドラマが、ASDの人は特別な能力持っていると誤解させることにならなければいいが、と思いながら見ている。 門脇麦が、ほとんど暗号のような長い長いセリフを蕩々と語るのには感心する。 なお、公式サイトの右にある「制作によせて」には、事前に色々と勉強して、取材に臨んだつもりでしたが、いざ当事者の方々やご家族と接すると、私たちの言葉で傷つけてしまわないか、すごく不安になりました。とあり、制作者は当事者に直接会ってはいるらしい。
2024.02.21
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同じ原作者の「透明なゆりかご」もNHKでドラマ化され、それも見た。 原作とドラマの関係についてはいろいろ問題になっているが、原作者の沖田×華は、前作のできにも納得してドラマ化を許諾したのだろう。NHKで発達障害についてとりあげた番組に、原作者が出演したのを見たこともある。 このドラマは、発達障害とは関係はなく、終末医療に携わる病院が舞台となっている。 若い看護師(岸井ゆきの)と、生きている間は病院から出られないかもしれない入院患者との関わりを中心に、終末看護にまつわる様々な出来事を、ややコミカルな要素を入れつつ描いているが、「死」が避けられないテーマであるため、重い雰囲気になりがちなのは仕方がない。 主人公や患者だけでなく、医師など同僚もさまざまな経歴を持っていて、やや盛りだくさん。 第3話では、わがままで暴力的な患者(木村祐一)を、若いスタッフが、自分の経験をさらして怒鳴りつけることで問題が解決に向かうが、こういうのは、偶然の力が大きすぎるし、一つの出来事でそんなに態度が変わるとは思えない。 出演者は、特に女性入院患者が豪華で、樫山文枝、根岸季衣、木野花というような人たちが出ている。 気になるので、最後まで見ようという気になる。公式サイト
2024.02.20
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TBSの日曜劇場。 親と子、夫と妻の物語であり、地方都市のオーケストラの話でもある。 屋外の場面が多く、静岡県の架空の市が舞台と言うことで、富士山が背景になることも多い。 画面が広々としていて気持ちがいいし、屋内の場面も色が美しい。 出演者が豪華なのもいいが、映像がよくできているのが魅力だ。 さまざまな問題が並行して描かれており、どのように収斂していくのかわからない。 オーケストラの演奏の場面は、もちろん専門の人たちの演奏の力を借りている。 音楽の知識がない当方としては、いろいろと勉強になるドラマでもある。公式サイト
2024.02.18
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1986年の中年男が、現代にタイムスリップする話、ということで見始めたのだが、1986年と現代を行き来するのだった。 現代からすればとんでもないことばかりしている1986年と、コンプライアンスにがんじがらめに縛られている現代とを行き来し、対比するドラマだった。 どちらがいいという訳ではない。こんなに違う、というだけだ。 宮藤官九郎は、現代のテレビ界の風潮に違和感を感じていて、それが根底にあるのだろうが、基本的にはエンターテイメント。 突然ミュージカルになったりして、視聴者を引きつける。 面白いのだが、1986年の風潮が気になる。 当時のことはおぼえているが、通勤バスの中でたばこを吸うことはなかったはずだ。観光バスには灰皿がついていたと思う。こういう細かいところが気になるが、どうやら「現代では考えられないようなことばかりの過去」というものを、1986年に圧縮しているらしい。 制作者は、こういうドラマを作っても問題解決にはならないとわかっていても、作りたくなって作ったのだろう。公式サイト
2024.02.16
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この映画は遠い昔に映画館で見たし、テレビでも何度か見た。 わかりやすく、面白い。斬新ではない設定なのに面白いのはなぜかというと、キャスティングと取り方がすぐれているからなのだろう。 当時は無名だったというオードリー・ヘップバーンのういういしさ、グレゴリー・ペックの大人らしい対応。 映画の中では「若い」ということになっているが、グレゴリー・ペックは三十代後半で、日本の感覚では若くは思えないのだが、年長者が若い役を演じるのは洋画では珍しくない。アメリカ人は違和感を感じないのだろう。 当時の風俗も興味深い。ヒロインが宿から抜け出して荷台に乗り込むのが、三輪トラック。 カメラマンがライター型のカメラを使うが、これは実在した日本製品なのだそうだ。 スクーターの二人乗りでローマのまちなかを走る場面で、屋台を壊してしまったりする場面は、後世に大きな影響を与えたのではないだろうか。 ストーリーを知っていても飽きることがない。 名画というのはそういうものなのだろう。
2024.02.14
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舞台は昭和初期の宇都宮。 採石場が舞台になることが多く、屋外撮影が多く、珍しく画面が明るい。 ただ、墓石などは屋外で撮影しているのに、墓参の人がいるカットになるとスタジオ撮影になっている。 弟分のために、心ならずも人望のある男を切った主人公(高倉健)。 刑期を終えて出所して帰ってくると、自分の人を切らせた悪辣な男が幅をきかせ、大谷石の利権独占を狙っていた。一方、弟分は幸福な夫婦生活を送っていて、主人公をあつくもてなす。 主人公は、かつて切った男の墓参をするなど、後悔の念を抱いて街の様子を見ているうちに、かつて殺した男の子供と、男の妻と知り合う。その未亡人が三田佳子で、任侠ものでは新鮮。ただし、あくまでも堅気の石材業者。その息子の子役が穂積ぺぺだったので驚いた。 物語は予想通りの展開で、未亡人と息子は主人公に好意を抱くが、主人公は耐えきれず、自分のしたことを告白する。 その一方、自分に男を切らせた悪党の所業を知り、怒りの炎を燃やしている。そんな中、かつては未亡人たちの支えであった男が帰ってくる。 最初は対立するが、最後には力を合わせるという展開が最初からわかっているのだが、それでも面白く見ていられる。 東映映画の任侠道と武士道は同じものなのだ。
2024.02.12
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経歴は全くわからないが腕の立つ子連れの主人公(高倉健)が、金に困って土地のヤクザに身を寄せるが、これはまっとうなヤクザで、その娘(富司純子)は、子供の世話をし、主人公に思いを寄せる。まっとうなヤクザというのは無理があるのだが、それを感じさせない展開で、自然に主人公側に肩入れしてしまう。 すぐに一目置かれ、跡継ぎ候補となるが、実はヤクザには果たせなかった夢があった。 それが、露天商をまとめて、どこの一家の支配も受けない露天商組合を作ることだった。しかし、かつて、対立する一家の妨害で挫折したのだった。 娘と結ばれ、義父の夢を託された主人公は、自らも慣れない露天商となり、なんとか組織化しようとするが、あくどいヤクザ一家の妨害が繰り返される。 ついに主人公の怒りが爆発して、ということでいつもの展開になるのだが、露天商の利権争いというのが、なんだがほのぼのしているようにさえ思える。 最後には、主人公の仲間のヤクザたちが楽しく露天商の仕事にいそしんでいる。 陰惨なのか明るいのかわからない話で、何でもありの突き抜けた発想に感心した。
2024.02.10
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原作の改変ということで、ディズニー映画を思い出した。 とにかく、ディズニーは原作を買えてしまうのが当たり前だと思っているところがある。 「ピーター・パン」もそうだ。 ネバーランドでの冒険のあたりまではいいのだが、ウェンディが家に帰るところで原作から大きく離れる。 原作では、ピーター・パンだけがネバーランドに戻り、ほかの子供たちはウェンディの家に引き取られ、どうということのない大人になる。 そしてウェンディは、ピーター・パンのことを忘れずにいるが、大人になる。 ピーター・パン以外はこの世界で普通の大人になる、というところが重要だと思うのだが、ディズニー・アニメでは、子供たちはネバーランドに戻る。こんな結末にすることにどんな意味があるのかわからない。子供のままでいることの方が大切だ、ということなのだろうか。 「ピノキオ」は長い話なので、ダイジェストのようになってしまうのは仕方がないのだが、ディズニー・アニメによる改変が公正に大きな影響を与えていることがある。 ピノキオがクジラに飲まれる、というところだ。これは原作ではサメに飲まれるのだが、ディズニー・アニメの影響が大きすぎて、その後、子供向けの本ではクジラに飲まれることになってしまっている。 また、「人造人間キカイダー」は「ピノキオ」を意識した話で、人間になりたいと願う人造人間の悲哀を描いている。 主人公が苦しむ理由の一つは、良心回路が不完全であることで、そのその良心回路の名が「ジェミニ」だ。 「ピノキオ」は、最後に人間になることができてめでたしめでたしだが、「人造人間キカイダー」は、非常に苦い結末で、「人間になったジローは幸せなのだろうか」という疑問を投げかけて終わる。 これはもう、原作のグリム童話と違いすぎていていて、どこが違うかなどいちいち指摘していられない。 Wikipediaであらすじを読むことができるし、「青空文庫」で翻訳を読むこともできる。
2024.02.07
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昨日「タイムトラベラー」のことを書いたが、NHKの少年ドラマシリーズは、SFもいくつもあり、結構よくできていた。 いずれも学習雑誌にジュブナイルSFとして連載されたものを原作にしていた。 同じ作者の複数の作品を組み合わせてオリジナルの話にしたものもあった。 SFばかりが記憶に残っているが、「しろばんば」「ぼくのおじさん」「二十四の瞳」などもおぼえている。 「つぶやき岩の秘密」は、短かったが、主題歌が、石川セリの「遠い海の記憶」だった。この歌は印象深かった。後に、「みんなのうた」でも放送された。 角川映画の「ねらわれた学園」は、少年ドラマシリーズの「未来からの挑戦」を意識したものだったのではないだろうか。 「夕ばえ作戦」は、再放送を見て、「ずうとるび」の今村良樹も出ていたことを知った。 「幕末未来人」も面白かった。 全部が全部傑作だったとは言わないが、記憶に残っている。 当時は、原作は原作、ドラマはドラマとして別のものと考えていたのかもしれないが、ドラマ制作者に、良質のものを作ろうという意識があったことを今でも感じる。視聴者である、小学生から高校生の世代には受け入れられていた。ずいぶんたってから、映像が残っているものが再放送されたりすると、懐かしくて見たものだ。 ただ、一昨日罵倒した「11人いる!」のこの「少年ドラマシリーズ」の一つになっているのは不思議だ。
2024.02.06
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原作を離れていながら傑作となった例が筒井康隆の「時をかける少女」を元にした「タイムトラベラー」だ。 NHKで少年ドラマシリーズの第1作として放送された。これは面白かった。 脚本の石山透が、原作のタイムトラベル能力を身につけた少女が主人公という設定だけを生かして、オリジナルの話を作り上げていた。 好評で、続編も作られ、これは石山透のオリジナルだった。後に、石山透の書いたものが単行本にもなった。読んだ記憶がある。 「時をかける少女」は、繰り返し、実写でもアニメでも映画化されドラマ化された。 原作そのままだったことはない。リメイクした人たちは「タイムトラベラー」を見ていたのではないかと思うことがある。 昔、中学生向けの学習雑誌は、SFを連載するものだった。筒井康隆も、依頼を受けて書いたにすぎず、特に思い入れはないとインタビューで語っていた。 それ故か、どんなに内容を変えられても気にならないようだ。 内田有紀版では、筒井康隆自身が住職役で出演していた。 NHKの番組で、「タイムトラベラー」の原作者と紹介された時に、「時をかける少女」の作者だと訂正していた。自分が書いたのは「タイムトラベラー」ではなく「時をかける少女」だという気持ちはあるわけだ。
2024.02.05
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原作を破壊した愚作として思い浮かぶのは、「11人いる!」だ。 19877年にNHKでドラマ化されたのだが、これはひどかった。脚本は佐々木守。どんでもない改変は制作者の意向だったのか、脚本家の意向だったのかわからない。制作や監督が原作を読んでいたら、もっとまともな話になっていたのではないかと思う。どうしてあんなことになったのだろう。 話もひどければ映像も安っぽかった。今思い出しても腹が立つ。 「11人いる!」はアニメ映画にもなっている。それは原作に近い内容になっていた。
2024.02.04
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原作とドラマが良好な関係にあるのは、池波正太郎の「鬼平」だろう。 「必殺シリーズ」も、最初の「仕掛人」は梅安もので、池波正太郎原作だが、シリーズ化されていくうちに雰囲気が変わってきて、原作はないオリジナルのものとなった。だからといって、原作者が不快に思っているわけではないようだ。不快に思っていたのなら続くわけがない。 「鬼平」は、今の白鸚の父親の白鸚主演でドラマ化されたが、そもそも白鸚にあてて書いたものなのだったはず。 その後、丹波哲郎、萬屋錦之介でドラマ化された。再放送で全部見たが、どれも面白かった。 同じ話を何度も見たわけだが、何度見ても面白い。原作の力が大きいのだろう。 吉右衛門版製作に当たっては、池波正太郎との間で、主演は吉右衛門にする、原作がなくなったら終わる、という約束があったそうだ。 吉右衛門は父の白鸚の雰囲気を知っているし、昔遊び人だったという雰囲気も備わっていて、ぴったりで長く続いた。 原作がなくなっても、原作ではない話を鬼平ものに作り替えて取り入れたりしている。 池波正太郎も腹を立てたりはせず、受け入れていた。残された日記で、テレビで鬼平を見て、異なる話を組み合わせて新しい話にしてあることに感心したというようなことを書き残していたというのを読んだ記憶がある。 こういうのはまれな例だろう。 ドラマ制作側に、原作への強い思い入れ、原作者への深い敬意があってこそのことだ。 「鬼平犯科帳」ドラマ化に携わった人たちと同じ気持ちがあれば、マンガのドラマ化を巡ってのトラブル起こらなかったはずだ。
2024.02.03
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最も多く映像化された小説家は山本周五郎ではないだろうか。 司馬遼太郎も多いが、司馬遼太郎の作品は時代小説というより歴史小説と呼んだ方がいいだろう。 何度もドラマ化されたのは「赤ひげ」だろうか。 NHKでは小林桂樹版があったが、さらに船越英一郎でリメイクし、ナンシリーズにもわたってドラマ化し、オリジナルの話を作って続けている。しかし、あまり違和感がないので、原作を生かしていると言える。 「雨あがる」と「雪の上の霜」を原作にした「さらば浪人」も、山本周五郎の他の短編をアレンジして取り入れ、原作の空気を生かそうとしていた。 その一方で、原作とは全く関係のない、主人公の名前を借りただけのものもある。 里見浩太朗の「半七捕物帳」や、高橋英樹の「桃太郎侍」など、こういうものの方が多いのではないか。 「桃太郎侍」は、高嶋政宏主演でドラマ化した時には、なんとか原作に近づけようとしていたが、高橋英樹版の方が印象に残っている人が多いだろう。 こういうのは原作などなくてもいいとおもうのだが、原作があるという方が、原作のファンが見るのではないか、という計算があるのだろうか。 原作者の生前ドラマ化されたものはあまり記憶がない。 大川橋蔵の「銭形平次」もテレビシリーズが始まったのは野村胡堂の死後だ。 野村胡堂の生前にも何度も映画化されているが、長谷川一夫版は野村胡堂も気に入っていたらしい。 原作者というと、「遠山の金さん」シリーズと陣出達朗の関係でいざこざがあったと記憶している。 テレビシリーズで、テレビ朝日(当時はNET)は原作者として陣出達朗の名をクレジットしていたが、「遠山左衛門尉」は実在の人物だということで、原作者の名を消したことがあった。それに陣出達朗が異を唱えて裁判になったか何かして、以前通り原作者として名が出ることになったはず。 片肌脱いで決め台詞を言うところが陣出達朗の創作だとかいうことだったと思う。 金さんの「原作」は春陽堂文庫で何冊も読んだが、あまりテレビとの関連は感じなかったのだが、この件に関しては記憶が曖昧で、検索したが情報は得られなかった。 時代小説とドラマというと、池波正太郎に触れなくてはならない。 それは後日。
2024.02.02
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昨日に続いて、原作とテレビの関係について。 人気のあるマンガをテレビ化するのはよくあることだし、最初からテレビ化を前提としてマンガが書かれることもある。 例えば、マンガの「デビルマン」とアニメではあまりにも違うので驚いたが、そもそも別物として制作されることが前提になっていたらしい。 ほかにも、石ノ森章太郎の「仮面ライダー」もそうだ。これは、ヒーローものの企画に、原作者として後からマンガ家を参加させたもので、むしろ、テレビの企画とは関係なく自由にマンガ化したというべきものなのかもしれない。 原作とは関係のない世界になっていても好評で、原作者もそれをよしとしているものもある。 「サザエさん」がその代表だ。原作を知っていれば、原作とアニメでは全く世界が違うことがわかる。長谷川町子が亡くなった時に、アニメが終わるのではないかと思った人がいて驚いた。 「サザエさん」を制作しているエイケンは、その前にTJC動画センターという社名で「忍風カムイ外伝」を制作している。これは低調率だったらしいが、何度も再放送されており、質の高さで人気がある。私も大好きだ。 主人公の造形が原作とは違っているが、それ故に魅力が増している。さらに、終盤の「スガルの島」の話は、原作がまだなかったので、白土三平が作った話をアニメ化している。 原作者が協力した珍しい例だ。 エイケンといえば、「冒険コロボックル」という困ったアニメも作っている。 佐藤さとるのコロボックルものをアニメ化した、ということになっているが、原作とは似ても似つかぬ愚作だった。 コロボックルそのものは佐藤さとるの創作ではないのだから、オリジナル作品にすればよかったのに。佐藤さとるはどう思っていたのだろうか。 作者が脚本を書いた例としては、「ちびまる子ちゃん」がある。なにしろ原作者自身がアニメ化したようなものなのだから、原作を生かしたものになっているし、改変があっても原作者の意向なのだから問題ない。 同じ話のリメイクもいくつもあるが、1回目には登場しなかった野口さんが、リメイク版には出ていたりする。 原作があるものをテレビ化することの是非を問うつもりはない。 持ちつ持たれつの面もある。テレビ化されて喜んでいる原作者だっているはずだ。 ただ、原作者が納得するもの、原作のファンが納得するものをつくって欲しいと思うばかりだ。
2024.02.01
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