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編集より(同人誌「賀茂短歌」3月号)下書き 後藤瑞義 どうにかこうにか区長の役も無事務めることが出来きそうです。ただ、四月からは、区の神社の総代と組の組長が回ってきます。それは、まあいいんですが、気がかりなのは、ここ一年気に入った歌が出来なかったことなのです。いろいろな会議にも出ましたし、今まで知らなかったこと、体験しなかったこともする機会に恵まれました。なのに歌が出来ない、出来なかったのです。ただ、弟が今年の一月末亡くなり、その時やっと何首かの連作が出来たのでした。失業し必死で夜警の仕事をしたときのことを思いますと雲泥の差があります。夜警のときは、いま振り返りましても納得のいく歌が何首かできたのでした。 区長の職にあり、防災のこと、学校統合のこと、高齢化、過疎化によるいわゆる買物難民のことなど会合を開き議論をしたのですが、それが短歌に結晶できなかったのです。会合の資料も色々あったわけですが、無味乾燥な、具体性に欠ける文章だったように感じました。それよりも、なによりも区長という重責にともすれば押しつぶされそうな心をなんとか正してゆくことに四苦八苦していたのだと思います。もう少し中に飛び込んでいたらあるいは短歌に結びつくこともあったかもしれません。 なんでも短歌に出来るといったことは自分にとってはまだまだ先のことなのでしょう。短歌を作り始めて三十年近くなろうかと思うのですが、あるいは何か大事なことを見落としているのではないだろうかという不安な気持を味わっているわけです。何か突破口を見つけなければ、あるいは見つけられたら良いのにと思っているのです。
2015.03.25
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三月号歌評下書き(歌誌「賀茂短歌」3月号より) 後藤瑞義 原 明男 ひよんなことなどと思へず五十年ほそくも永き分け合へる福 「ひょんなことなどと思へず」とまず作者は言っています。何が?それは、「五十年ほそくも永き分け合へる福」だと作者は言っているようです。「長き」を「永き」とわざわざしていること、やはり作者にとっては「五十年」は文字通り「永き」時の経過だったことが思われます。「分け合へる福」、福つまり、人生における幸せ、それを大事にだいじにして分け合ってきたのでしょう。誰と、もちろん伴侶、奥さんとだと思います。その奥さんとの五十年を作者は「ひょんなことなどと思へず」と言っています。奥さんと過ごした五十年は、自分にとって大事なだいじな人生であった…。伴侶への思いを歌にすることは男性としてはむずかしいことのように思えます。この歌などは、なかなかしみじみとしたものが伝わってきます。 渡辺つぎ それぞれにきびしき昭和のり越えし人等集いてショートステイなす 「ショートステイなす」で、ここが養護老人施設であることを想像させます。作者が百四歳と知ればなおさらです。その養護老人施設に百四歳の作者自身も入所しているのでしょう。そして、そこに入所している色々な人を観察しているようです。入所している人は多分すべて作者より若い人たちでしょう。それなのに、認知症になったりいろいろな症状を持っている人たちがいることでしょう。ただ、作者はそれには触れません、ここが作者のすごいところだと私は思うのです。そうです、「きびしき昭和のり越えし人等」と一種の愛情をもって見守っているのです。これは、オーバーにいえばもう人間ばなれした温かい眼差しだとわたしは思うのです。 鈴木菊江 飛ぶ鳥のいづこゆきしやきさらぎの雨はしとしとわが胸にふる 鳥が今飛んでいったのでしょう。そして、ふっと視界から消えてしまったのでしょう。そのちょっとした欠落感、それは亡くなられたご主人のことが頭をよぎったのではなかったでしょうか。時は如月、ご主人が病に臥した思い出が頭をよぎったのではなかったでしょうか。「きさらぎの雨しとしとわが胸にふる」が切なくこころに響きます。決して感情をあらわに表現しない作者です、それゆえになおさらこの言葉がこころに響くのです。 黒田幸子 ひとり身になられし人を見舞うとて明るき話題さがし持ちゆく 「ひとり身になられし人」、いうまでもなく伴侶が、たぶんご主人が亡くなられた人なのではないでしょうか。今日は、そのご主人を最近亡くされた人を訪問するのです。お土産に何がよいだろうか、何を話したらいいのだろうか、色々行く前からこころを悩ましている作者なのでしょう。その悩みの果ての結論が、「明るき話題さがし持ちゆく」ではなかったでしょうか。「明るい話題を探す」というのはさもありなんと頷けることです。この歌のおもしろいのは、「話題を持って行く」あたかも明るい話題をお土産のようにして持って行くという表現に惹かれました。 後藤早苗 おどおどと新幹線の列につくここでいいのか不安持ちつつ 新幹線にも、こだま、ひかり、のぞみなどと色々種類があります。作者はもちろん下田に住んでいますので、帰りはこだまに乗って、熱海で下りる必要があります。それでないと、最悪名古屋まで行ってしまいます。旅なれない作者なのでしょう、帰りの新幹線の列にならびながら、こだまはここでいいのだろうか、ひかりやのぞみではないだろうかと、不安を持っている姿が想像されます。作者はあえてこのような作品、自分は御上りさんですよといった告白めいた作品を作ることに、正直に自分の姿を表現することに、ある短歌の美学のようなものを感じているのかもしれません。啄木などの作品にもこれに似た作品あるいは作風にめぐりあいます。 藤井美智子 勝ち組の晴ればれ育つ晩白柚三個が並びまん中にデブ この作品は「晩白柚みかん」という題で詠まれた五首のなかの一首です。晩白柚みかんというのは、ザボンのような大きなみかんです。それは、亡きご主人が接木して育てた大事なみかんの木のようです、そして、それは二人で丹精込めて育てたみかんの木でもあるかもしれません。その実はいわば、わが子のようにいとおしいものなのではないでしょうか。 「勝ち組」という言葉に目を止めました。作者は、西風の強い西伊豆に住んでいます、その西風に負けず三個のみかんが枝にしがみついているのです、それを、作者はとっさに「勝ち組」といったのだろうと推察します。そして、そのまん中にひときは大きなみかんがあったのでしょう。それを作者は「デブ」という差別語で呼んだのです、しかしそれはむしろ「デブちゃん」といった愛称なのでしょう。「勝ち組のデブちゃん」といった感じがわたしにはします。 「勝ち組」についてですが、作者の心のなかにも「勝ち組」というような何かがあったのでしょうか。西風のような荒い人間関係にもめげず生きてきたというような思いがあったのかもしれません。そして、あるいは自分自身に「勝ち組のデブちゃん」と心のなかでつぶやいたのかもしれません。 鈴木きみ 富士山はいつ見会いてもうるわしく雲少し乗せ更にうるわし 「いつ見合いても」、「いつ見ても」ではないこの言い方にまず目がとまりました。「いつ見ても」ですと、いつでも富士山が見えるところにいる感じがしますが、「いつ見合いても」ですと、たまにしか見えない、会えないそんな感じがします。 この歌はやはり下の句「雲少し乗せ更にうるわし」に思いがこもっています。青空に聳える富士山、それはそれですばらしい景ですが、なにかものたりないというか、完璧すぎてかえって寂しいような感じがします。それで、構図的にも富士山に雲を配することが考えられます。ただ、この作品の「雲少し乗せ」という具体的な表現は、その時作者が見たままを純粋に表現したように思えます。そこが、大切なことだと思います。まだ歌歴が少ない作者です、この感性、個性を今後も大切にしてもらいたいと思います。 土屋文恵 洋洋と開ける海の心持ち古希なる年を踏み出し行かむ まず、「洋洋と開ける海の心持ち」と詠んでいます。洋々とした、広々とした海、そのような広い気持のことなのでしょう。そこに「開ける」としたところに作者の特殊な思いが感じられます。 ところで、「開ける」という言葉が「心」と結びつくとわたしは悪い癖で「閉ざされる狭い心」をも連想するのです。 「人生七十古来稀なり」、その七十歳にどうにかたどりついた。これからは、今までのような狭い心ではなく、広々と晴れ渡った海のような心を持って生きてゆこう。そんな決意の歌のようにわたしには思えるのです。
2015.03.22
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平成27年3月17日(火)よみうり文芸(静岡版) 篠 弘選 入選する家継がぬわれに代わりて弟は継ぎたり父の膵臓癌も 後藤瑞義
2015.03.17
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平成27年3月16日(月) 読売歌壇 俵 万智選 に入選する一生涯知らず過ぎても不便なき伊勢物語今読まんとす
2015.03.16
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白浜短歌会三月(三月十九日)歌評下書き 金指まり子 西の風風待ち船が碇泊し灯ともす夜景一と町と化す 春来たり隣家の桜花美しく吾が家の梅と追いつ追われつ 1.今年も西風が強い日続きます。多くの船が碇をおろして風待ちをしていることでしょう。夜ともなると海上の沢山の灯火がまるで一つの町の明りのように見えたのでしょう。よくまとまっていると思います。ただ類型の歌がけっこうありそうです。 2.ひとつは、やっと春が来たという感動の気持ちがあるのでしょう。「桜花」は河津桜のような気がします。ですから、梅の花と追いつ追われつ競っている姿が浮かびます。「春来たり」は思い切って捨てて、はっきり「河津桜」という文字を入れて姿が目に浮かぶようにしたらどうでしょうか。 参考:隣家の河津桜が咲き始め吾が家の梅と追いつ追われつ 齋藤うら子 十歳もはなれ産まれし弟を不思議みるよな新米の兄 大都会小さな家にアネモネを飾りて春に挨拶などす 平積みの本見て現代(いま)の風を知る昔そのまま書店での癖 1.「不思議みる」は、「不思議そうに見る」をくずした作者の造語として鑑賞しました。「新米」などという言葉もなにかぴったりくる感じです。作者のある人となりというか、物の見方というか、なにか作者自身がちらっと見て取れるそんな感想です。いいと思います。 2.「大都会」とまず初句は大きくとらえ、二句で「小さな家に」と焦点をしぼった感じです。そこにアネモネを飾る。アネモネというのは小さいが艶やかな色のイメージがあります。大都会の殺風景な感じのなかにアネモネを飾り、はなやかな、春らしい明るい感じを出した。それを、「春に挨拶などす」と表現するところがなかなか新鮮であり、独特だと思います。そんな楽しいうきうきした気分だったのでしょうし、またそのように演出をなさったのでしょう。 1.「平積みの本」、本の背文字だけしか見えないように立て掛けるのではなく、表紙が見えるように、本を平らに並べる、本屋さんでベストセラーなどをそうしてあるのをよく見かけます。こうした言葉はやはり本の好きな人、あるいは書店によく出入りしている人を連想させます。その平積みの本に目を通すだけで、今どんな本がよく売れているのか、どんな本が好まれているのかだいたい分ってくる。それを、「現代(いま)の風を知る」という独特の表現をしています。また、それは若いころの自分の書店での癖であり、久しぶりにまた若いころにもどって書店の中を見回している自分を発見したのでしょう。それは、なつかしい、楽しいひとときではなかったでしょうか。 土屋弥生 すがた見の鏡に映る姿みてオバア(老母)になったと白髪をなでる ふきのとう天婦羅にして家族皆一足先の春をよろこぶ パタカラとお口の体操してからにデイサービスの食事いただく こういう詠いかたは良いとおもいます。「すがた見」は単なる鏡ではなく、全身が写る細長い鏡を連想します。ですから、全体の姿から「オバアになった」と思ったのでしょう。結句を感情語などでしめないで、「白髪をなでる」と動作でしめたのがよいかもしれません。あるいは、いいんだ、いいんだよと自分をなだめるようになでたかもしれません。感情を読者に押し付けない詠み方がよいのです。「オバア(老母)」は、「老母(オバア)」としたほうが良いと思います。 参考:姿見の鏡に映るわれをみて老母 ( オバア )になったと白髪をなでる 2.作者は独り暮らし、それを知っているとまた別の感慨が湧きます。蕗の薹を春先に天婦羅にして食べるのはどこのご家庭でもすることでしょう。そして作者は、息子さんのところかなにかで食べられたのでしょう。「家族皆」に思いがこもります。「春をよろこぶ」は文字通りの意味のほか、ひさびさの家族そろっての食事をよろこんでいる作者の姿が浮かびます。あるいは作者が土手などから採ってきた蕗の薹かも。 3.「パタカラ」ということば、耳慣れません。調べたところ、「パタカラ体操は、舌、唇やその周りの筋肉(口輪筋、表情筋など)の衰えを予防、改善します。大きな声で、しっかり口を動かして、リズム良くパパパパパ タタタタタ カカカカカ ラララララ を3 回繰り返す…などとでています。」デイサービスを楽しんでいる作者の姿が浮かびます。参考:パタカラのお口体操したあとでデイサービスの食事いただく 長谷川孝子熱湯にわかめ浸せばみどり色この宝石を待つ人がいる 朝日うけ植えし桜は輝きて十八の門出祝いくれるか 1.下の句の「この宝石」という若布に対する比喩、あまりにも飛躍しているので最初はちょっと違和感がありました。しかし、どうもそこが良いようです。作者もこの作品である目には見えませんが、なにかつかみかけているかもしれません。常識的な基準や表現ではやはり人はそれほど感動しないということです。 2.「葉桜になりつつ」とありますから、今の時期からいって「河津桜」だと思いました。「十八」は「十八歳」としたいと思います。音数によっては「十八歳(じゅうはち)」とすると良いと思います。 「朝日うけ」と「朝日うける」との違い、「朝日うけ」は「かがやきて」につながります、ちょっと説明的な感じがします。「朝日を受けてかがやく」といったところです。一方、「朝日をうける河津桜はかがやきて」にすると、あくまでも「河津桜はかがやきて」となります。 「河津桜」はあるいは、コメントにある「誕生木」がいいかもしれません。お孫さんの成長、誕生のとき植えた誕生木の大きさと現在との対比、それはそのままお孫さんの成長を連想されます。 参考:朝日うける河津桜はかがやきて十八歳の門出を祝う 参考:朝日うける誕生木はかがやきて十八歳の門出を祝う 原 久恵 休詠 藤井テゴ 母さんが風邪にて臥せた一日はたゞオロオロと吾は過しぬ 忘れ物度々するを若き日の亡夫(つま)の写真が笑って見てる うぐいすのまだあどけない初鳴きが胸にほのぼの朝の一時(ひととき) 1. お嫁さんが風邪で寝込んだので一日をおろおろとして過ごしてしまったという歌です。「オロオロ」は「おろおろ」で良いように思いますが、困った状態を強調したいのでカタカナ表記をしたのかもしれません。お嫁さんを頼りにしている姿が出ていてよいと思います。 参考:風邪に臥す嫁を気遣いおろおろとして一日が過ぎてしまえり 2.素直な歌で良いと思います。「度々する」という表現はこれでもよいかと思いますが、「またする」とすると、より臨場感が出るように思うのですが。「度々する」という表現には、ひとつの説明のようなあるいは一般化というのでしょうか、ちょっと臨場感に欠けるように思うのです。「若き日の亡夫の写真」、これは年取って亡くなっても写真は若い時の写真を飾ることがあるかもしれません。藤井さんの場合は、ご主人が若いころお亡くなりになったように聞いています。その点をはっきりさせたほうが、いつまでも若いままのご主人をあるいはうらやましく思われることもあるかもしれません、そんな作者の思いが出ると思います。 参考:忘れ物またするわれを若きまま逝きたる夫の写真見ている 3.よくまとまっていると思います。「うぐいすのまだあどけない初鳴き」と「朝のひと時」がびきあっているようです。「胸にほのぼの」くらいに止めているところがいいと思います。 「うぐいすのまだあどけない初鳴き」を愛する作者、そこに作者の思いがこもっているようです。 山村ハツ子 冬ざれの庭を彩る南天の房を揺らして鵯がついばむ わが庭に蕗のとう三つかおを出し近づく春にこころ明るむ 1. 冬でさびれた庭があります、そこに南天の木があり沢山の赤い実がなって房になっているのでしょう。それをヒヨドリがきて実をひとつずつ啄ばんでいるのでしょう。こういうある意味では地味な作風ですが、しっかり観察している。いっときいっときを大切に生きている人の姿が浮かんできます。 2.これもなんということもない庭の風景を詠っています。「三つ」と具体的に数字を入れたのが良かったと思います。ひとつ、ふたつと数をかぞえている姿が浮かびます。蕗の薹を見つけた喜びが「かおを出し」に出ているのでしょう。そのながれで、「こころ明るむ」に説得力を感じます。 潮鳴り 原 明男 若きらに支へられゆく日日にしてバレンタインの甘すぎるチョコ 炉に朽ちし貝殻あまたを散らばせて果てし海女らの声か潮鳴り 1. 「若きら」とは、息子さんたちでしょうか。「若きらに支へられゆく日日にして」は、作者の素直な思いでしょう。そういう思いをもって食べると、贈られたバレンタインのチョコレートは、あまりにも「甘すぎる」と感じたのでしょう。ほんとうは、自分こそ贈りたいのにといった、あるいはそんな思いもあるのかもしれません。 2. 炉というと囲炉裏のようなものを連想します。その炉に朽ちている貝殻がいっぱいちらばっている、そういった光景でしょう。「朽ちし」となっているので、かなりの時間の経過を感じます。「果てし海女ら」となっていますからこれもかなりの時の経過を感じます。「海女」ですからここは浜辺でしょうか。そこに、炉のようなものがあって、朽ち果てた貝殻がたくさんちらばっていたのでしょう。それは、海女が一時の暖をとりながら、食事などもしたのでしょうか。それも、はるか昔のことなのでしょう。そうした海女の人たちもすでに亡くなっているのでしょうか、「果てし海女ら」となっています。おりしも潮鳴りがしています、まるで海女たちがわいわいがやがやあるいは笑いながら炉を囲み食事などをしている声のように作者には聞えたのかもしれません。そして、それが潮鳴りとわかったときの作者の気持はどのようであったでしょうか。海女をする人たちも現在はあまりいないのかもしれません。
2015.03.13
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平成二十六年度渡辺つぎさんの秀歌(百三歳の歌) (角川書店雑誌「短歌」他の入選歌より) 電線に並ぶ雀もゴミ箱をあさる烏も少なくなりぬ (雑誌「短歌」平成二十六年一月号題詠「鳥」入選 中地俊夫 選) 百人のクラスメートのかくれんぼ一人も出て来ず鬼もつかれた (雑誌「短歌」平成二十六年一月号公募短歌館 秀逸 久々湊盁子 選) 大日本帝国と敗戦国わが百二年の明暗きびし (雑誌「短歌」平成二十六年一月号公募短歌館 佳作 三井ゆき 選) おむかえがなかなか来なくてと言えばこちらでお迎えしますと主治医 (第五回角川全国短歌大賞 奨励賞 ・馬場あき子 選 佳作 ) このいのちさし上げたしとけんめいに祈りし百歳 八月十二日 (第二回河野裕子短歌賞 入賞 永田和宏選賞 産経新聞社主催) 日だまりで居眠りしながら次の世に行けたらいいなあ百二歳われ (雑誌「短歌」平成二十六年三月号 題詠「陽だまり」 小林幸子 選) 百二歳喜怒哀楽をくぐり抜けぼんやりゆっくり終焉を待つ (雑誌「短歌」平成二十六年三月月号公募短歌館 秀逸 久々湊盁子 選) (評)これまでに人生の喜怒哀楽はおおよそ経験したという百二歳の作者。心静かに「ゆっくり」その時を待つという。かくありたいものと感歎する。 長命をほめられながら自らは生きて恥多き百と三歳 (雑誌「短歌」平成二十六年三月月号公募短歌館 佳作 三井ゆき 選) 居眠りしながら次の世に行けたらいいなあ百二歳われ (雑誌「短歌」平成二十六年四月号 題詠「陽だまり」 小林幸子 選) おそろしきまでの長命百三歳幼児退行日日すすみつつ (雑誌「短歌」平成二十六年四月号公募短歌館 特選 楠田立身 選) (評)百三歳の長命を「おそろしきまで」と表現したのは恐怖ではなく感謝と驚愕だろう。幼児退行を歎いておられるが、応募ハガキの小さな桝目に歌を清書して応募する意慾は退行ではない。 百三歳の春ともなればはなやぎにあらずひそかに四方を拝す (雑誌「短歌」平成二十六年五月号 題詠「春」 入選 小林幸子 選) おびえいし百三歳はどんときてわれの鼓動の高まり止まず (雑誌「短歌」平成二十六年五月号公募短歌館 佳作 松坂 弘 選) おびえいし百三歳にとらえられめでたくもありおそれでもあり (雑誌「短歌」平成二十六年六月号公募短歌館 佳作 松坂 弘 選) 気の遠くなりそうな長い年月も波に消されし足跡のごと (雑誌「短歌」平成二十六年六月号公募短歌館 佳作 秋山佐和子 選) 春よ来い百三歳だ杖持たず一歩一歩と地面をふんで (雑誌「短歌」平成二十六年七月号公募短歌館 秀逸 三井 修 選) (評)百三歳という年齢に無条件に敬意を表したい。初句の柔軟さ、下句の力強さが、全く年齢を感じさせない。 春よ来い百三歳だ杖持たず一歩一歩と地面をふんで (雑誌「短歌」平成二十六年七月号公募短歌館 秀逸 一ノ関忠人 選) 春よ来い百三歳だ杖持たず一歩一歩と地面をふんで (雑誌「短歌」平成二十六年七月号公募短歌館 佳作 春日真木子子 選) 百三歳を祝い下さる方方のかんばせすべて観音菩薩 (雑誌「短歌」平成二十六年八月号公募短歌館 佳作 春日真木子 選) 百三歳を祝い下さる方方のかんばせすべて観音菩薩 (雑誌「短歌」平成二十六年八月号公募短歌館 佳作 三井 修 選) 山の端を出づる朝日にみまもられ百四歳の一歩ふみ出す (雑誌「短歌」平成二十六年八月号公募短歌館 佳作 田宮朋子 選) 百三歳を祝い下さる方方のかんばせすべて観音菩薩 (雑誌「短歌」平成二十六年八月号公募短歌館 佳作 一ノ関忠人 選) スッと立つ百歳さんと詠みくれし友よ百三歳はテコでも動かぬ (雑誌「短歌」平成二十六年九月号公募短歌館 佳作 春日真木子 選) スッと立つ百歳さんと詠みくれし友よ百三歳はテコでも動かぬ (雑誌「短歌」平成二十六年九月号公募短歌館 佳作 一ノ関忠人 選) 百三の誕生日なり大空も山川草木色濃くぬくし 今日よりは父母たまわりしこの足で百四歳のいのちをはこぶ (日本歌人クラブ主催 第三十五回全日本短歌大会 秀作 ) 介護不要百四歳へ歩みいる抱きいるもの落とさぬように 古りてなおなしたきことのあまたあり長命のあかし乏しきゆえに (日本歌人クラブ主催 第三十五回全日本短歌大会 優良賞 ) クラスメート一人も居らず教え子ら卒寿を越ゆとわれは何者 (雑誌「短歌」平成二十六年十月号公募短歌館 特選 花山多佳子 選) (評)百四歳の作者。教え子が卒寿というから驚く。「われは何者」という結句が卓抜だ。ただ者でないセンスがあっておかしみを誘う。 苦を越えて楽が訪れ苦に追われ楽な日日来て百と四歳 (雑誌「短歌」平成二十六年十一月号公募短歌館 秀逸 花山多佳子 選) 介護不要百四歳への一日なりとりこぼさぬよう生きねばならぬ (雑誌「短歌」平成二十六年十一月号公募短歌館 佳作 花山多佳子 選)
2015.03.11
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「編集より」(同人誌「賀茂短歌」平成27年2月号)下書き「虚と実」物、現実、事実は、短歌にとってたいせつなことです。これらの反対のことはなんでしょうか。観念であったり、虚であったり、空想であったり、嘘であったりするのでしょうか。虚構などといって短歌ではとかく嫌われるのが普通です。嫌われるといえば、説明も短歌では嫌われるのです。いや、嫌われるというより、三十一音の制限のなかで物事を説明することは出来ないのです。ですから、われわれは、物や現実や事実を述べるしかないのです。今、わたしは何を書こうとしているか実は私自身はっきりしないまま書いています。つまりわたしは、今作歌に悩んでいるのです。なかなか歌が出来ない、浮かばない、無感動のままに時だけが過ぎて行くといった状況です。焦りの気持ちが私を不安にします。そんななかで弟の、六十四歳の死に直面したわけです。これは嘘でも空想でもなく現実であり事実であったわけです。嘘に出来たらいいと思うのですが、現実であり、事実であるわけです。虚と実、事実と嘘、こんなことを漠然となぜか考えたわけです。実は、虚があるから実があり、嘘があるから事実があるのだろうか、またはその逆か、それはあるいは裏と表のようなものでどっちも存在し、どれが良いとか悪いとかでなく、それは鑑賞にまかせるということがあるかもしれない。などと、意味なく悩んでいるのです。今回、弟の死に直面して何首か浮かびました。やっと連作五首が作れそうです。それを三月の歌稿としてみなさんに今回お送り出来ると思います。 土屋文恵さんより三月号の歌稿の遅れの電話がありました。お聞きするとやはり弟さんが亡くなられたということです。私の弟とまるで同じ症状で驚いています。折りしも、やはり同じ病名で歌舞伎俳優の坂東三津五郎さんが五十九歳でなくなられていることを報じています。同じ時期の偶然の出来事がたぶん長く私の記憶に残ることでありましょう。土屋さまの弟さんのご冥福をお祈りいたします。
2015.03.04
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平成27年3月3日(火)よみうり文芸(静岡版) 篠 弘選 入選する透析をつづくる妻がひっそりと食事の後に薬飲みおり 下田市 後藤瑞義
2015.03.03
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