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十二月号歌評(歌誌「賀茂短歌」12月号)下書き 原 明男咳一つ無き待合室に娘から高鳴り止まぬケータイ電話 (評)「咳一つ無き」は、静寂な待合室のたとえのように思いました。作者自身の心理的な緊張感もあるように感じます。今回の五首の題が「再検」です。なにか多少不安のようなものもあったかもしれません。そんな時に突然と鳴った携帯電話、作者ならずともドッキとするでしょう。「高鳴り止まぬ」は、慌てて止めようとするが、あせってうまくいかない感じもします。電話の相手は娘さん、娘さんのほうはなんにも心配はしていない、そんな感じを受けるのです。それが「ケータイ」といったカタカナ表示にあらわれているように思うのです。そうした作者と娘さんとの心理の行き違いのようなものも背後にあるかもしれません。「待合室」を「まちあい」とルビをふっておりますが、これはそのままでいいように思いました。「まちあい」という言葉は、個人的にあんまりよいイメージがしない気がしたのです。 渡辺つぎはなれ屋の出窓に並ぶ蘭の鉢に水やりながら問答をする(評)この作品の作者は、あと三ケ月足らずで百五歳となります。「はなれ屋」ですから、家から外に出て行かなければならないのです。私は承知しています、はなれ屋との距離は百メートルはゆうにあり、且つ三段の石の階段が二か所にあります。そこを作者は杖なしで歩いて行くわけです。はなれ屋にはガラス張りの出窓があり、蘭の鉢が六、七鉢並んでいます。それにヤカンで水を注ぐわけです。話し相手があまりおられないであろう作者は、「水やりながら問答をする」ということになるのでしょう。人間は年とともに自然に帰るといいますか、自然との一体感を意識するようになるのでしょうか。私も自然との対話が出来るようになりたいものです。 鈴木菊江霧雨はかわける土面をしっとりと「おしめりさん」と云ひし母顕つ (評)雨といっても、「霧雨」ですから土の表を少し湿らすほどでしょう。乾燥が続いていたのかもしれません。特に農作業に従事している人にとって水分がどんなに貴重なものか、想像できます。作者は確か九十六歳になられると記憶しています、作者が「おしめりさん」という言葉を思い出し、母上を思い出しているようです。それは、単に母上だけのことではなく、「おしめりさん」と「お」つけ、「さん」をつけて水をありがたく思った、そうした農業に従事した人の自然への感謝といいましょうか、あるいは神への感謝なのかもしれませんが、そうした時代のこころの豊かさみたいなものをなつかしんでいるようにも感じたのでした。 黒田幸子事なきは無事ということ近頃は何事もなきと電話を返す (評)「事なきは無事ということ」、作者らしい表現と思って味わいました。息子さんからか、娘さんからか安否の電話があるのだと思います。確か米寿の祝いが過ぎた作者だと記憶しています。それだからこそ息子さんたちも一人暮らしの作者を案じて電話をしてくるのでしょう。どうしても、決まり文句で「何か変わったことはない」というような電話があるのでしょう。「近頃は」、という言葉がありますから、昔は色々な話題について話すこともあったのでしょう。それに対しての「近頃は」でしょう。近頃は、「別に変わったことはないよ」とだけ返事をするようになった。作者にしてみれば、無事であることが最良の言葉であると思っているのだと思います。それだけ作者にとっては、「無事である」ということの深い意味が分かっていらっしゃるのだと思います。そこに、作者と息子さんたちの思いの差のようなものをわたしは感じたのです。息子さんたちにとってみれば、「無事である」ことをある程度当然のように思っていらっしゃる。そのうえで作者との会話を楽しみたいようなところがあるのではあるまいか。そのくい違いのようなものを感じたのです。この息子さんの身になってわたしは思い当たることがあったのです。 後藤早苗子に送る荷物が重く持ちあげたはずみに落す六十八才 (評)子に送る荷物、野菜などあれもこれもとついつい予定以上の物を入れてしまう。そんな感じでしょうか。しかし、これは今回だけではなくいつものことでしょう。そして、その荷物を持ち上げたはずみで落してしまう。いつもは、そんなことがなかったのでしょう。そこに年齢が浮かんだのでしょう。普段は意識していない年齢をそのとき意識したのでしょう。もうわたしは、六十八才になっていたのだ...と。 藤井美智子小雨きて予定くり上げ帰り来る夕陽ほほえむ西伊豆の海 (評)天気予報では雨の降る予報はなかったのでしょう。それである所へ出掛けて行った作者でしょう。それが小雨が降ってきた、それで予定をくり上げて帰って来たのでしょう。少し残念な作者の気持ちでしょう。しかし、どうでしょうか西伊豆に帰ってみると折しも夕日が沈むところだったのです。おもわず「夕陽ほほえむ西伊豆の海」という言葉が浮かんだのかもしれません。「災い転じて福となす」そんなことわざが浮かびました。 小池美恵子真夜中に目覚むる我の片傍に夫の寝息と温もりがあり (評)この歌のあとには、次のような歌があります。「番号で呼ばるる事に慣れし我大学病院の患者で二年」という歌です。たぶん入院もされていたのでしょう。退院して、ご自宅に帰られてこの提示している歌を詠んだのだと思います。そのような前提で読みますとますます作者の気持ちが伝わってきます。「真夜中に目覚める」のは、あるいは入院生活で身についたかもしれません。しかし、ここは病院ではありません、片傍らに御主人が寝ていらっしゃる、その寝息が聞こえてくる。それだけでも十分自宅で眠れる今の幸せを感じる作者でしょう。それに加えて温もりもあるのです。申し分ありません。 鈴木きみ静かなる寝息なれども忍び来る病いの深き底の底まで(評)この歌の前に「夫の寝顔穏やかなれど寝息には病いのつらさ垣間見られる」という歌があります。ご主人の病気のことを歌っています。くわしく言いますと、手術した癌が再発したようです。ですからとても重い歌です。このような状態を妻の立場でどのように歌うか、歌えるかが問題となるでしょう。「静かなる寝息なれでも」と言い、「忍び来る病い」と恐怖を歌います。ご主人の体の深い底の底まで病が忍び込んでくるような恐怖をうたっているのでしょう。「静かなる寝息なれども病いが(体の)深き底の底まで忍び来ている」ということなのでしょう。作者の感情の乱れが倒置的な表現になったのだろうと推察します。 土屋文恵人の手の深く入りし伊豆の山風車の異様山何思う (評)まず、伊豆の山を歌っています。観光地伊豆の山です。「伊豆の山山月淡く」と「湯の町エレジー」に唄たわれている伊豆の山です。「人の手深く入りし」の「人の手」がどういう意味に使われているか正確には分かりませんが、伊豆の山の頂上に立っている風車を歌っています。風車は遠くから見るとそれほどでもないですが、近くで見るとやはり作者がいうように大きな異様なものであるでしょう。風車をつくるのに山の頂上を造成し、大きな機材を運んで組立てたのです。それが人の手が入った、山深く入ったというイメージでしょう。作者にはそれが異様に見えたのでしょう。こんなに山を傷つけて、もし山が人間のような心があったなら何と思うだろうか。ものの言えない、こころを表現できないそうした物へのいたわりのようなものも感じたのです。
2015.12.19
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鑑賞:歌集「悲しき玩具」(四十一)(下書き) 後藤瑞義正月の四日になりてあの人の年に一度の葉書も来にけり。はがきが明治になって発行され年賀状が盛んになったような記述がありました。ですから、この歌も現在と同様の感覚で読みました。正月の三ケ日を過ぎて、つまり「四日になりて」年賀状が届いた。それも「あの人の」とことわっています。なにか女性らしい感じがします。それも啄木のほうが一方的に思っている感じもあります。 「正月の四日になりて」は、現在のわたしの経験的な感じからしますと、こちらからの年賀状を元日に受け取って、「お年賀有難うございました」というような返信が先方より四日に届いたというように想像します。実際はそうではないかもしれませんが、年に一度の葉書があの人から来たことに感激しているようです。こちらの年賀状の返信だとしても、無視されるよりどれほど有り難かったか知れません。今日も来ない、今日も来ない、今年は来ないだろうか、色々思い悩む三日が過ぎたことも想像されます。少しオーバーに言えば、「これで今年も頑張るぞ」といったくらいの感激を感じます。 啄木に常に感心するのですが、一握りの砂の話の時にもふれましたが、啄木の些細なことを大切にする姿勢、「年に一度の葉書」が来た、それも遅れて四日に来たことをこのように感動的に歌にできる啄木に、わたしはいつも感心しているのです。正月の四日になりてあの人の年に一度の葉書も来にけり。
2015.12.18
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後藤早苗の入選歌開帳の日に拝むべき仏居らず盗まれしまま何年過ぐる 後藤早苗(よみうり文芸 読売新聞静岡版 篠 弘 選)
2015.12.08
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