全10件 (10件中 1-10件目)
1
小説「わたしの起したいくつかの奇跡」としたい(4) 後藤瑞義「ボストンマラソン」 「後藤は、死にそうな顔をして走るのがいい」中学のわたしの担任であり、体育を教えていらっしゃた小林先生が誉めてくれました。 ボストンマラソンで山田敬蔵選手が優勝したことに感動したことがありました。ラジオでの実況放送を聞いたのだろうと思うのですが、調べましたら昭和28年のことでした。わたしの小学5年生の頃だったでしょうか。走るのが苦手な私も、長距離競争(マラソン)があることを知ったのでした。だからといって練習をしたりしたわけではないのですが。 中学になってロードレースといいますか、校内マラソン大会があったのです。なぜかボストンマラソンのことが頭に浮かんだのです。夢中で走って何着か忘れましたが、それなりの良い着順だったようです。 天城山を境にして北側が田方郡、南側が賀茂郡と分かれます。その賀茂郡の東側、東賀(とうが)地区に当時村が5つほどあったと思います。わが上河津村はこの東賀地区に属していたのです。この地区はその後合併があり、河津町と東伊豆町という現在の形になりました。ただ、河津についていえば合併前から名前が同じ河津であり、ひとつの共通の風習が伝わっていたのです。 12月18日から23日まで、鳥肉、卵を食べない、それから酒を飲まないという風習。鳥精進酒精進(下記の注記を参照してください)といわれる風習。これを千年以上も前から、上河津村、下河津村に関係なく河津の地に住む人々は、かたくなに守って現在に至っているのです。そうでもしなければ正月が迎えられなかったのでしょうか、それほど貧しい土地柄だったのでしょうか。この風習は、土地に住む人間だけでなく、この土地の出身者の多くに今も守もられているのです。もちろん私も、河津には住んでいませんがずっと守っております。この禁を犯すと火の災いを受けると昔から恐れられているのです。 横道にそれました、その東賀地区で毎年体育大会がありました。中学三年生の時に、その体育大会に三千メートル競走が加わったのだと思います。それまでは、千五百メートルが一番長かったのです。人材不足だったのでしょう、突然「後藤お前出ろ」と小林先生に言われたのです。一年生、二年生の時は陸上競技など遠い世界のことだったのです。 この東賀の体育大会の三千メートルで結局わたしは三位になったのでした。一位から三位になった選手は、東賀の代表として今度は郡の体育大会に出場することになるのです。そんなことは私にとっては夢のまた夢、郡の大会に出場する選手は上河津村では何年に一度の快挙なのです。最後の一周で十人くらいを抜いたでしょうか。火事場の力だったのでしょう。これは、確かに奇跡的なことだったでしょう。ただ、これが私一人のことならば単なる自慢話となるのです。 場違いな、陸上競技の走る訓練も練習もほとんどしていない、いまにも死にそうな顔をして走っている私を見て、他の代表に選ばれた選手たちはどんな気持ちだったでしょうか。断ればいいのに、馬鹿だなあと思っていたことでしょう。それでも、ぎこちない練習をしている私と何日か、何ヶ月かいっしょに練習をしている間になにか影響をうけたことがあったのではないでしょうか。それを、わたしは言うのです。それを奇跡と、奇跡を起したのだとわたしは、こじつけといわれようとも、自意識過剰といわれてもいま振り返ってそう思うのです。 結局3000メートルの私を含めて、1500メートル、砲丸投げ、高跳び、200メートルとあと思い出せませんが、六名ほどが郡の体育大会に出場したのだと思います。上河津村の中学から東賀地区の代表としてです。過去にない前代未聞のことなのです。天城山の麓の小さな学校でのスポーツは、他の地区に比べてかなり劣っていたのでしょう。 (つづく)(注)鳥精進、酒精進:静岡県賀茂郡下河津村(現河津町)字田中の杉桙別命(すぎほこわけのみこと、河津来宮神社の主祭神)の氏子の間に伝わる風習。昔、川津の郷に杉桙別命(すぎほこわけのみこと)という武勇に優れた男神がいた。ある日のこと、命が酒に酔い野原の石にもたれ眠っていると、そこに野火が起こりあっという間に周りを囲まれてしまった。そこに無数の小鳥が飛んできて川から水を運び火を消し、命は難を逃れた。この出来事の後から杉桙別命は、酒を慎み村人にも一層慕われる事となった。 尚、「河津桜」として全国的に有名になった桜の原木が発見されたのはこの神社の近くでした。(後藤のメモ書きより)
2015.08.30
コメント(0)
小説「わたしの起したいくつかの奇跡」としたい(3) 後藤瑞義「まだ十年くらいは出来ると思います。どうぞまだまだ働かせてください。天なる父よ、お願いいたします。」人は死ぬ時に自分の一生を走馬灯のように思い出す、あるいは見るといわれています。 子供の時のことなど、すっかり忘れていて、意識の中になかったように思っていましたが、ここにきてあれこれと思い出すようになったのです。前回の「5円硬貨」もそれです、また次に書く「紅茶」がやはり小学校時代のことなんです。 「紅茶」 これもまた、とりとめのないことで、奇跡とはなんの関係のないことなんです。戦後、すなわち第二次大戦後の混乱期ですが、温暖な伊豆には観光客だけでなく色々な人が住みやすいということでやってきたようです。 自分が座れるだけの板に、車をつけた、すなわち前後両側に一個ずつの車をつけて、それにのって移動する、足のない、膝からか腿(もも)の付け根からかはわかりません。「いざり」の人が、防空壕の跡に暮していたこともありました。なにか英語などを教えてくれるという噂があったのです。しかし、勉強に熱心でなかったわたしには、関心がなかったことでした。 隣の家の三つ年上の兄さんが、英語を教えてくれる人がいると紹介してくれたのは、小学五年生のころでした。「カネハン」さんといわれていたその人は屑屋さんでした。新聞、雑誌などの屑、「カネ」から察すると屑鉄なども集めていたのかもしれません。 後に県東部屈指の進学校沼津東高等学校に入学するようになるS君となぜか二人で訪ねたわけです。どんな家だったか、さっぱり記憶にないのですが、畑の隅にある農機具を保管する小屋だったように思っています。三畳くらいの広さでしょうか、みかん箱かりんご箱がテーブルがわりで、二つくらいあったでしょうか。そこにわたしたち三人が座るとほとんど隙間がないような感じでした。なにしろ家の周りがどんなだったか、部屋の中がどんなだったかほとんどおぼえていないのです。そのころの私には、そんなことは何んら気にならなかったのでした。ですから、なにか明るくぴかぴかかがやいていたようにしか思い出せないのです。 しゃれたカップを二つ出されたのです、電気ポットのようだったか、あるいは陶器製だったのか、おぼえていないのですが、お茶と言ってカップに茶色をしたお茶をついてくれたのです。そして、砂糖を匙で2杯、レモン(のちにレモンというものを知ったのですが)を切って入れてくれたのです。いま考えるとなんと正式なレモンティーを田舎の何にも分らない小学五年生に出してくれたんだろうかと恐縮します。わたしは、茶色のお茶に砂糖を入れて飲んだと帰って報告したのでした。船員だったようで、いろんな国に行ったようでした。神戸の商船大学を出ているなどと噂する人もいました。 体の大きな人で、笑うと大きな歯にところどころ隙間があり、プロレスラーのオルテガのような顔をしていたのです。オルテガといっても分る人は少ないでしょうが。力道山、シャープ兄弟、ルーテーズなどの時代のプロレスラーです。 歯と歯の間に舌を入れる、歯の付け根に舌を置く、舌をまるめて「アール」と、または「エとア」を同時に発音するなど、発音に力を入れていたように思います。発音記号なども覚えさせられたように思います。申し訳ないのですが、あまりよくおほえておりません。「君は、もう来なくていいよ」などと何回か叱られたこともありました。最初二人だった生徒は、中学三年になると、村医の息子が近くの空き部屋を提供してくれ、十人くらいになったのです。 高校一年の五月の休みに下宿先の三島から帰ってくると、「カネハン」さんはすでにいらっしゃらなかったのです。何処に行ったか知っている人は誰もいませんでした。 もうとっくに亡くなられていらっしゃるでしょう、「カネハン」さんはわたしに勉強をすることを教えてくれたように思います。ほんとうに有難うございました。それにしても、沼津商業高等学校への受験に成功し、合格し、有頂天になっていたわたしは、「カネハン」さんのことをすっかり忘れてしまっていたのでした。「カネハン」さんに、合格の報告もせず、お礼もせずに別れてしまったのでした。 (つづく)
2015.08.27
コメント(0)
後藤早苗の短歌今日一日人間誰も来なくとも小鳥の数は数えきれない(雑誌「短歌」平成二十七年九月号公募短歌館 佳作 伊藤一彦 選)取り残りの甘夏は木に残りいて青きちいさき実が育ちゆく(読売新聞静岡版 よみうり文芸 八月二十五日 佳作 篠 弘 選)
2015.08.25
コメント(0)
小説「わたしの起したいくつかの奇跡」としたい(2) 後藤瑞義これから書くことは奇跡でもなんでもない、少年時代の失敗談あるいは懺悔(ざんげ)の気持ちです。5円硬貨 小学校三年生か四年生かの夏休み、いっしょに川で泳いでいた友の背中にあるものを発見したのでした。あの穴の開いていない五円硬貨、国会議事堂が描かれていた昔の五円硬貨です。ちょうどその五円硬貨くらいの大きさの円い跡を見つけたのです。それはわたしにとって大変ショックな出来事だったのです。 その五円硬貨のような円い跡を友の背中に見つけた一年くらい前のことです。わたしたちは校長室に呼ばれて校長先生に大きな声で叱られたのでした。その友とわたしとあと一人か二人いたでしょうか、「子供なのに金儲けをしたりすると牢屋に入らなければならなくなるぞ」といったことだったと思います。わたしたちは、みんなわんわんと泣いて、もうしませんから許してくださいと謝ったことをおぼえています。 紙芝居を買ってもらった友達がいたのです。それを他の級友たちに、読み聞かせたのです。それだけなら別に校長室に行くことはなかったでしょう。級友から一円ずつ徴収したのでした、それも見ることを強要しかつその料金として一円を強制的に徴収したのでした。そして帰りに、駄菓子屋に行き集めた金で菓子を買ってみんなで食べたのでした。 校長室に呼ばれて叱られたことはとっくに家に伝わっていました。帰るとすぐさま詰問され、確か叔母たち(その当時は小姑が何人か家にいまして)に押さえつけられて背中に灸をすえられたのでした。 その後、その灸のことはすっかり忘れていました。自分では背中を見ることが出来ませんので背中がどのようになっているのか気にもせず忘れてしまっていたのです。 友の背中の五円玉くらいのまるい跡を見つけたとき、あ!!友もお灸をすえられたのだとそのとき気がついたのです。それと同時に、自分の背中にもこの友のような五円玉くらいの円い跡がついているのだろうと気がついたのです。 時代劇などで、罪を犯し島流しにされると手に刺青をされるようなシーンがあったのを思い出したのです。わたしは、自分も罪を犯し、罪人として背中に五円玉のような烙印を押されたんだとそう思ったのです。 それからわたしは、人前で肌を、裸になることを極端に避けるようになったのです。わたしの背中にあるであろう五円玉のような円い跡、そのお灸の跡よって自分の犯した罪がみんなに知れるのではないかと恐れたからなのです。 (つづく)
2015.08.24
コメント(0)
小説「わたしの起したいくつかの奇跡」としたい(1) 後藤瑞義題をつけるとしたら、「わたしの起したいくつかの奇跡」としたいのですが。他人はそれを奇跡とは思わないかもしれません、いやそれは君の思い違いだ、こじつけだよという人もいるかもしれません。特にご本人(私の影響を受けたと名指しされた人:ただし匿名ですが)は君の影響ではないあくまでも自分の意志だったというかもしれません。「河津桜」で有名になりましたが、ここは昔で言えば下河津村の出来事なのです。わたしの生れた上河津村は、川端康成の「伊豆の踊り子」の舞台の一つである湯ヶ野温泉のあるところです。六十年近く前のことですので、高校へ進学する人は少なかったと思います。大阪へ丁稚奉公に行くことになっていたわたしは、大変不安だったのです。人前で話が出来ません。特に自己紹介。あるいは教室で本を読むように指名されたときなど毎回パニックになって本が読めません。自己紹介は七十二歳になっても、いまだに苦手にしています。丁稚奉公に行かないですむ方法は、色々かんがえ高校へ行くことだと思ったのです。猛反対する祖父を父が説得してくれて、商業高校ならいいだろうという許しが出たのですが、商業と名前のつく高校が近くにありません。当時伊東にも商業高校はありませんでした。三島にも商業の名前のついた学校はありませんでした、結局沼津の商業高校に行くしかなかったのです。運がよかったのは、三島に知り合いの家があったことです。正確には遠縁の知り合いで、下宿屋をしていた家があったのでした。下河津村のことは分りません。上河津村にかぎってのことですが、過去に沼津商業高等学校に入学した者はいなかったのです。その後も、わたし一人ではないだろうか。ここまででも、確かにわたしにとっては信じられないことだったわけですが、単なる自慢話のようになるかもしれません。わたしの学業が優れていたということではなかったのです。単に丁稚奉公に不安自信がなかっただけです。わたしが沼津商業高等学校を受験するということは、少なからずわたしの友人を驚かす出来事だったようです。「え、後藤が沼津の学校を受験するんだって。それなら、おれだって...」ということです。わたしが、いかに平凡な中学生だったかが分ると思います。いや平凡というより、劣っている所の多い少年だったような気がします。一人は静岡県東部屈指の進学校沼津東高等学校、一人は沼津工業高等学校それから天竜林業高等学校と過去にありえなかった事態になってしまったのです。もちろん皆合格したのでした。もし、わたしが自分の実力も顧みず沼津商業高等学校に進学することを決めなかったら、多分このような快挙はなかったことでしょう。それをわたしは言っているのです。それをわたしが起した奇跡だと言っているのです。しかし、このことは今後わたしの周りに起ることのほんの序章にすぎなかったのです。 (つづく)
2015.08.21
コメント(0)
八月号歌評下書き(同人誌「賀茂短歌」8月号) 後藤瑞義 原 明男 疎まれし吾 ( あ )の方言に馴れしかも娘らの笑顔と地下街を行く (評)「疎まれし」の「し」は文語独特の過去の回想の助動詞「き」の連体形です。ですから、「昔は疎まれたっけなあ」というようなことだと思います。その作者の方言に現在は娘さんたちも馴れてしまった。今日は、娘さんたちと連れだって東京かどこかの地下街を歩いているようです。連れだって歩く娘さんの笑顔を見るにつけ、昔を思い出す作者なのではないでしょうか。と同時に現在の幸せをかみしめる作者でもあるのでしょう。 渡辺つぎ 投稿日を待ちかねていた日もありき超高齢はお先まつ暗 (評)百四歳と五ヶ月の作者です。作者は、角川書店発行の雑誌「短歌」に毎月投稿をなさっています。つい最近発行された「短歌」八月号にも題詠の作品が入選されていました。私のところにも早々九月分として五首送られてきています。超高齢とは作者にとって何歳のことなのでしょうか。今現在がその時なのでしょうか。そうしますと、昔あんなに投稿する日を待ちかねていたのに、現在は義務的に強制されるようなお気持ちで作っていらっしゃるのでしょうか。その状態が「お先まつ暗」ということでしょうか。これは作者の真の声、心からの声なのでしょうが、そう重い感じがわたしにはなぜかしないのです。むしろ、明るく、軽く「お先まつ暗よ」と言っているように感じるのです。 鈴木菊江 音もなき雨が似合えり額の花青空色にいよよ華やぐ (評)「音もなき雨が似合えり」ということは、今雨が降っているように感じました。その雨は音もなく降っていたのでしょう。「音もなき」の「も」は、音はもちろん降っていることもわからないような雨だったのでしょう。わたしは、霧雨というか、日照雨(そばえ)のようなイメージをもったのです。そうしたなかで、額の花(額紫陽花)の青色が青空のように華やいでいた、と作者は感じたようです。額紫陽花が雨に濡れ、日照雨のような雨で明るさもあったのでしょう、華やかに見えたようです。一首のなかに雨と青空がでてくるところもわたしはいいと思いました。 黒田幸子 母の里へ墓参にゆけば三人の老いたる友が花持ち連れ立つ (評)「母の里」ということは、お母さんが誕生された場所です。その里の墓には、お母さんのご両親やその先祖、あるいは家を継がれた方およびその関係者(奥さんであったりあるいはお子さんがなくなっていることもあるかもしれません。)が入っているわけです。しかし、作者のご両親は埋葬されていないはずです。なにかのご事情で、作者はお母さんの生家で暮したことがあったのでしょう。それも年単位でかなり長期だったかもしれません。その地域の学校にも通ったのでしょう。久しぶりにお母さんの里の墓参に行った作者、そこには幼い日々いっしょに学校に通った友だちがいらっしゃって、自分のことを覚えていてくれた。高齢なのに(高台の)お墓に、お花をもって幼友だちの三人がいっしょに行ってくれた。そんな光景を想像したのです。 後藤早苗 熊蜂も木槿の花が好きらしい私も好きだ一緒に見よう (評)熊蜂が木槿の花に止まってでもいたのでしょうか。それを見た作者は、「熊蜂も木槿の花がすきらしい」と思ったのでしょう。「熊蝉も」の「も」は、「わたしも」の「も」と対の「も」と思われます。作者は、蜂の歌をかなり作っています。それは、作者が野菜を作るのを楽しみにしていて、それに蜂が重要な役割をするため、つまり蜂が受粉をしてくれるため、蜂を大切に思っているのです。ですから、蜂に親近感があるのです。今熊蜂を見つけた作者、いつもの親近感から、「一緒に見よう」と声をかけたのでしょう。 藤井美智子 朝々の天気予報に待ちわびる曇マークにほっと一息 (評)「朝々の」といっていますので、毎朝天気予報を見ているのでしょう。猛暑日が何日も続いています。今日はどうだろうかと期待して見るわけです、つまりひと雨ほしいところなんだと思います。そこに、曇マークがついている天気予報だったわけです。作者ならずとも「ほっと一息」といったところです。雨のマークならもっとよかったでしょうが。 小池美恵子 退院を祝いて夫の活けくれし淡きブルーの庭の紫陽花 (評)待ちに待った退院です。ご自宅に着かれるとご主人が退院を祝って活けてくれた花に気がつかれたのでしょう。その花は、淡いブルーの紫陽花だった。そうです、ご自宅の庭に咲いていた紫陽花です。清潔な淡いブルーの色、それもご自宅に育った紫陽花の花、それをご主人が活けてくれた退院祝い、作者の感謝の気持ちが伝わります。そして、やっと家に帰ったという安堵の気持ちも伝わります。 鈴木きみ すいすいと晴れわたる空飛び交いて燕の子育て忙しらしや (評)作者は初心の人と聞いています。「すいすいと」は燕の飛んでいる姿の形容でしょう。普通の語順なら「晴れわたる空をすいすい飛び交いて」としたいところです。そのように添削してもいいのかもしれません。しかし、「すいすいと晴れわたる」もなんとなく晴れた空を強調するようで不思議な魅力もあるように感じます。このままの語順にすることで「晴れわたる空」と「子育てに忙しい燕」との対比が鮮明になってこれはこれでいいように感じるのです。私の体験ですが、初心のころに思いきった力強い歌ができることが多いようです。 土屋文恵 強き雨車の屋根を舞台とす弾け飛ぶ様飽かず眺めり (評)作者は今どこにいるのでしょうか。ご自宅にいて、車を眺めているのでしょうか。車に乗ってどこかに行く用事があった作者かもしれません。しかし、豪雨のため断念したときの歌かもしれません。「強き雨」ということばがそう感じさせます。それにしましても、車に打ち付ける雨を歌う歌はめずらしいと思います。雨が車の屋根を強く打ち弾け飛ぶ様子をなにか舞台の上で演じられているものを眺めている作者です。それも、「飽かず眺めり」です。どこかに行く用事のことも忘れ、無心にあるいは幼子のような気持ちになって車の屋根に弾け散る雨粒を眺めている姿が浮かびます。マイナスをプラスにするということばがありますが、この歌はそんなことを感じさせました。
2015.08.19
コメント(0)
平成27年8月18日(火)よみうり文芸(静岡版) 篠 弘選 に入選するブルーベリー今年は採ると早々に防鳥ネットを張りているなり 後藤瑞義(読売新聞静岡版 よみうり文芸 八月十八日 入選 篠 弘 選 )
2015.08.18
コメント(0)
編集より(同人誌「賀茂短歌」平成27年8月号)下書き 後藤瑞義「火花」、「HANA・BI」、「一握の砂」 「火花」は、もちろん芥川賞を受賞した又吉直樹の小説です。「HANA・BI」は、ヴェネツィア国際映画祭金獅子賞を受賞した北野武監督主演の映画です。ただ、「一握の砂」は石川啄木が生前に出した唯一の歌集の名前ではなく、その題名のもとになったと思われる「頬(ほ)つたふ/なみだのごはず/一握の砂を示しし人を忘れず」の短歌一首のことです。 小説嫌いの妻が雑誌「文芸春秋」を買ってきた。その雑誌には「芥川賞発表」と赤い字が書かれていた。妻はわたしと違ってお笑いが好きなのでその方面から買ってきたのかもしれない。先に読んでいいと渡された。わたし自身も小説は好きではないのです。ただ話題性があるので読み始めたわけです。わたしにとっては、あまり興味のないことで、ぱらぱらと見て読んだよと渡すことも考えていたのです。3枚目あたりでしょうか、「俺のことを忘れずに覚えといて欲しいねん」という言葉があった。そしてもう一枚読んでいくと「...漫才は面白いことを想像できる人のものではなく、偽りのない純正の人間の姿を晒すもんやねん。...」、このことばは短歌にも言えるなと思ったので、読んでみるかと少し前向きになっていったわけです。少し、観念的なところが気になりましたが、あるいはこの小説は観念の小説であってエピソードはその影に過ぎないのかもしれないとも思ったのです。 語り手が、兄とも師とも仰ぐ神谷。その神谷は、泣き止まぬ赤子に対して自分が考えた漫才のネタを、本気になって披露し続けるような人間です。「...神谷さんは誰が相手であってもやり方を変えない、...一切ぶれずに自分のスタイルを全(まっと)うする...」 わたしは、いまだに「頬(ほ)つたふ/なみだのごはず/一握の砂を示しし人を忘れず」の啄木の短歌を消化出来ずに苦しんでいるのです。「一握の砂」とはなんだろう。商業高校から大学の商学部に学び、会社は何社か変えたものの仕事は常に経理畑であった。すべて金額で表し、お金がすべてといってもいいような仕事であった。そんな自分にとって「一握の砂」とはなんだろう。なんの価値もない砂、砂金ならわかる、「一攫千金」も分る、ただ啄木のいう「一握の砂」とはなんなのだろう。それも、それを示した人を忘れないと言っているのです。「頬に伝うなみだをぬぐわない」とはどういうことか、そんなに切迫しているのか、涙が出ているのも分らないくらいに何かに夢中になっているということなのだろうか。「なみだ」とはなんの涙だろう、悲しいのか、くやしいのか、うれしなみだなのか。いやいや、そういった部分的な問題ではなく、一首全体のなかに啄木の思いがこめられているのであろう。なにか、重大な発見を啄木はしたに違いない、それは何なのだろうか。たぶん価値観の問題だろうということはなんとなく分る気はするんだけれども。わたしの価値の物差しでは計れないものを啄木は得たのだろう。 又吉直樹の「火花」を読んでいて、これは一握の砂ではないかとなぜか思ったのです。それ自体なんの価値のない「一握の砂」それを一生懸命、頬を伝わる涙をぬぐうことも忘れて、「わたしはひとにぎりの砂にすぎない」と言っているように、「わたしの持てるものはひとにぎりの何の価値もない砂だけです」と言っているように、「わたしの短歌はひとにぎりの砂のようなものです」と言っているように、「わたしの人生はひとにぎりの砂のようなものです」と言っているように。 又吉直樹の「花火」の内容はまさに「ひとにぎりの砂」のようななんの価値もないものかもしれない、それどころか猥雑きわまりないものだろう。しかし、借金だらけの、結局自己破産した神谷のなかにながれるであろうなんともいえないピュアなもの、純なもの、純粋なもの。これこそ啄木が発見したもっとも大切なものではないのだろうか。それは、とても金額ではあらわすことが出来ない、たとえ見た目には何の価値もない「ひとにぎりの砂」にしかみえないかもしれないが、啄木にはもっと奥底のピュアなもの、純なもの、純粋なものをみていたのではなかったか。それだからこそ「その人をわたしは忘れない」と言ったのではないだろうか。 同じ漫才界の大先輩ビートたけしの映画「HANA・BI」、又吉直樹が影響を受けているのではないかと思い急きょ見たわけです。 演出というのでしょうか、脚本というのでしょうか、その点にまず好感を持ちました。つまり、説明のないところです。主人公が、ヤクザなのか、刑事なのか元刑事なのか、一切の説明がなく画面が展開してゆきます。そうしたなかで、観客がいろいろ想像するしかないのです。これは、やはり短歌の作り方に似ていると思いました。それにしても、内容の殺伐さ、殺人、銀行強盗、この映画の方も一般的な金銭感覚、常識では計れないものになっています。ただそうした陰惨な画面のなかで、主人公が余命いくばくもない妻への一途な献身さ、自分の代わりに半身不随となった同僚に対する思いやり、あるいは命を落した同僚の奥さんへの思いやりといったもののなかに、やはり「一握の砂」があるように思うのです。すなわちピュアなもの、純なもの、純粋なものがあるのです。それはやはり一般的な、常識的なものさしではとても計ることが出来ないものです。 この度、小説「火花」映画「HANA・BI」を読みあるいは観てあらためてご両人のすごさを発見しました。と同時に啄木のすごさも再確認したのでした。 ただ、又吉直樹氏北野武氏ご両人にひと言短歌的な観点から言わせてもらえたら、やはり過ぎたるは及ばざるがごとしといいますか、極端な描写はやはりまだものの本質を掴みきっていないのではないかと思うのです。失礼しました。
2015.08.15
コメント(0)
白浜短歌会八月歌稿(八月の歌会は休会です)下書き 後藤瑞義 A子さん 我が庭の気になる雑草取り終えて念願果たしゆっくり休む 庭のすみ紫陽花ぼつぼつ咲き出して人目引寄せ大空仰ぐ 1.「念願果たし」という強い言葉が印象的です。そのために、「ゆっくり休む」が、単なる休憩以上の重みが加わったように思うのです。オーバーに言えば、「これで安心して死ねる」くらいの意味合いも含まれてくると思います。それは、「念願果たし」といった強い言葉を使ったための効果、影響です。 2.庭のすみに紫陽花が咲き始め人目を引くようになった。「大空仰ぐ」は紫陽花が仰ぐのか、作者自身が仰ぐのか、分りにくいところがあります。動詞が少し多いでしょうか。「咲き」「出し」「引寄せ」「仰ぐ」 参考:庭すみに紫陽花ぽつぽつ咲き出して雨降らぬかと大空仰ぐ B子さん その昔シュプレヒコールの渦ありし安保法制アブナイ予感 宇宙 (そら)のこと好きなキミと見たかったハートを印す冥王星を 毎日賞友旭 ( きょく )佑 ( ゆう )の書を背 ( せな )にハレの顔して記念撮影 1.いまからもう五十年以上の昔でしょうか、日米安保条約締結ということで日本中が混乱した時期がありました。「その昔シュプレヒコールの渦ありし」はまさにそのことを言っているのでしょう。今また集団的自衛権行使などを含んだ条約で再燃した感じです。こういう社会詠で大切なのはどれだけ自分に引きつけることが出来るかということです。自分に引きつけるということはたとえば自分の体験を踏まえるといったことです。 2.最近冥王星の探査機から鮮明な画像が送られてきました。そのなかにハートの形をした部分が見られます。亡くなられたご主人は天体のことがお好きのようでした。宇宙には人間の悩みを解消させる力があるように思います。太陽から一番遠い惑星といわれていた冥王星、今は準惑星と呼ばれているようですが、遠い星にハートの形に見える印がある、ロマンを感じます。それが、亡きご主人への思いに繋がったのでしょうか。 3.毎日賞という書道で権威のある賞があるようです。そこに友人が入賞したのでしょう。「旭佑」というのは、友人の書道での雅号でしょうか。その受賞作品を背景にして記念写真を撮った。作者は思わず「ハレの顔」、晴れ晴れしいというか、余所行きの顔をしたのでしょう。書の作者も加わっての記念撮影だったのかもしれません。なにか一緒に写真に写るのを誇らしく思って「ハレの顔」をしたのかもしれません。それは書および書の作者に対しての賞賛でもあるのでしょう。 C子さん 名を呼ばれ診察室に車いすで順天堂の待合室は患者で一ぱい 夏服を嫁と一緒にセール中年老いし我の服は見当らず 朝々の母の遺影に呼びかける「お母さん」今日もよろしくね 1. 「名を呼ばれ診察室に車いすで(入ってゆく)」、短歌は一人称の文芸ですから、これはご自身のこととなります。作者は患者でいっぱいの待合室に呼ばれるまで待っていたのでしょう。「順天堂」が必要かどうか。診察室、待合室で病院と分ります。 参考:名を呼ばれ診察室に車いすで待合室は患者で一ぱい 2.「セール中」は、安売りセール中とか特別な売り出しがあったのでしょうか。ただ、この歌では、前後の関係がなく突然出ているために分かりにくさがあるでしょう。「嫁といっしょにセール中」は、お嫁さんといっしょに売っている、売り子をしているようにも取れます。 参考:夏服を嫁と一緒に買いに行く九十台の服見当たらず 3.「朝々の母の遺影に呼びかける」、「朝々に母の遺影に呼びかける」、普通は後者の表現だと思われますが、ここにまず注目しました。あるいは、朝ごとに遺影のたとえば表情とかが微妙に違っているように作者には見えるのでしょうか。下の句の字足らずはどう解釈したらよいのでしょうか。心細さが思わず字足らずの不安定さになったのでしょうか。それとも、軽い気持ちが思わず字足らずになったのでしょうか。それとも、「お母さん」の五音だけで十分七音の重みがあるというのでしょうか。九十歳台の作者にして常に母の面影を求めている心が伝わります。 D子さん まっ青な海に小舟が帆を張りぬこんな景色は昔と変わらず(地域の宝) 朝食のパンにつけるはママレード五十の甘夏凝縮の味 1. コメントによりますと、昔から海と共存し海のめぐみを得ていることへの感謝とこののどやかな景色が災害もなくずっと続けられるようにと願いを込めた歌のようです。「まっ青な海」には、ある種の感動があります。ただ、これだけではとても作者の思いの深さを表現できないでしょう。それではどうするか、私にも妙案はありません。参考は眼前の海を見ている作者の姿をそのまま描いてみました。 参考:まっ青な海に小舟が帆を張りぬ昔と変わらぬ景色見ている 2. いいと思います。あとは、表現の仕方だと思います。短歌は瞬間の文芸、今この一瞬を表現したいのです。「朝食のパンにつけるはママレード」は、いつもつけているという感じがします。今つけたと表現したいのです。「五十の甘夏」、五十個であることは分ると思いますが、やはりはっきり「五十個」としたいと思います。 参考:朝食のパンにつけたるママレード甘夏五十個凝縮の味 E子さん つつがなく今日も過ぎたるよろこびを明日も続けと願ごうて眠る あかつきに鳴く老鶯の声さやかしぼむ心に灯をともすごと ながながと伸びて無心に眠る猫にふと羨望の思ひおこれり 1.無事に一日が過ぎたことを喜びとしている作者。この喜びが明日も続きますようにと願って眠りに入る作者の敬虔な気持ちが伝わります。「よろこびを」は願うにかかるのでしょう。普通は「よろこびの明日も続けと願ごうて眠る」のようになるのでしょうが、「よろこびを」にしたためにあるいは深みが出たのかもしれません。 2. 夜明けどきに鴬が鳴く、それは老いた鴬だというのです、その声が冴えていて作者の心に灯をともすように明るくしてくれるというのでしょう。夏の鴬の声がさやかに聞こえた作者、それだけでも一首出来そうです。老鴬の声がさやかであったそれだけでです。問題は「しぼむ心に灯をともすごと」です。「さやか」とダブっているようにも思います。参考は、「さやか」の言葉を削ってみました。 参考:あかつきに鳴く老鶯の声聞こゆしぼむ心に灯をともすごと 3.わたしは、猫を飼ったことがないので、猫の習性が分りません。「ながながと伸びて無心に眠る猫」の表現。まず「無心」、猫が無心かどうかが少し気になりました。それから、猫が眠っているいるのかどうかが外から分るのかどうか。わたしなら、外から分ることだけに止めておきます。 参考:ながながと体を伸ばし横たわる猫に羨望の思いおこれり F子さん 戦争で失ったもの数あれど得たるものあり平和の一語 太陽に愛さるる花向日葵はゆらりと高し生きよとわれに(われに生きよと) 1. 戦争で失ったものを列記することはよく見かけますが、得たものを歌うの発想は特色があると思います。その意味でこの歌は成功していると思います。読者の「平和」に対する深浅によっても鑑賞が分かれると思います。 2.「生きよとわれに」は、「われに生きよと」のほうが私はいい感じがします。「太陽に愛さるる花向日葵」という見方も納得です。猛暑日にゆったりと高くそびえる向日葵の花、まるでわたしに生きよ、わたしのように太陽に愛されてゆったりと生きよと言っているかのようだというのでしょう。 丑の日 原 明男 如何にして七ツの海を越へ来しや想い味はふけふは丑の日 三連休悲喜交々に暮れるらむ赤ヘリ白ヘリ飛び交へる空 1.今日は丑の日、作者はうなぎを食べているようです。最近のうなぎ事情のきびしさは誰もが承知していることでしょう。うなぎの稚魚が激減しているのです。そのようなことを作者も考えているのでしょう。うなぎの生態はまだ分らないところが多いようです。七つの海を越えて来たであろう貴重なうなぎを味わうことの出来る幸を噛締めている作者なのでしょう。 2.三連休は、七月十八、十九、二十日のことでしょうか。7月20日は、海の日で祝日です。海、山のレジャーに楽しむ人も多いことでしょう。そうした中に思わぬ悲劇も起るのです。赤ヘリは消防関係のヘリコプター、白ヘリはドクターヘリなのでしょう。何か災害が起ったのでしょうか。不安そうに暮れゆく空を見上げている作者の姿が浮かびます。
2015.08.15
コメント(0)
後藤早苗の短歌われの手の届かぬ所に居るような社内報に載る娘(こ)の文面は(読売新聞静岡版 よみうり文芸 八月十一日 秀逸 篠 弘 選)(評)おそらく勤務先の社内報に書いた娘の実務にふれた感想であろう。娘の急速な成長ぶりに対する驚きか。
2015.08.12
コメント(0)
全10件 (10件中 1-10件目)
1

![]()
