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平成27年7月28日(火)よみうり文芸(静岡版) 篠 弘選 に入選する夏草の覆い繁れる休耕地ひときは高く桑の木伸びる 後藤瑞義(読売新聞静岡版 よみうり文芸 七月二十八日 入選 篠 弘 選 )
2015.07.28
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編集より(「賀茂短歌」7月号)下書き 「短歌入門とマイウエイ」「私には愛する歌があるから、信じたこの道を私は行くだけ...」、ご存じマイウエイの歌詞の一部です。今八月四日に行う短歌入門講座について、どのような段取りで話をするか考える時期だと少し焦っているのです。しかし、実際にはそんな段取りを考えることに熱が入らないのです。自分の体験、何故に短歌を私は始めたか、それを中心に話すことはすでに最初から決めてありました。それから今まで読んだ他人の多くの短歌から有名無名を問わず心に残っている歌を、私なりに鑑賞をする。そうそう、それから、妻の短歌についての話も、鑑賞を交えてしたいと思っています。なにしろ妻がいなかったならば、現在の私、短歌をする私は存在しないわけですから、短歌に私を導いてくれた妻について、または妻の短歌について話をする必要があると思うのです。ですからこれで、これだけ決めておけば十分だと思っているのです。どのような形で話を始めるかは、その場で、ぶっつけ本番でいいではないかと思っているのです。そんなことより、マイウエイを歌わなければならないといった、妙な考えが頭から離れなくなったのです。カラオケの講座ではないのだからと思うんですが、頭から離れないのです。練習にカラオケで歌ったところ、点数が61点とか75点とか、80点以上にどうしてもなりません。「北国の春」「まつり」「酒よ」などは90点越えを何回もしているのにです。「マイウエイ」という歌はなかなか難しい歌であることが歌ってみて初めて分ったのです。音域が広いのでしょうか。布施明の歌い方もその場その場で微妙に違っているのが気になります。尾崎紀世彦は抑えた感じで歌もうまいし、参考にしたいのですが、訳詞が中島潤でなく岩崎時子なのが残念です。外国の男性ではフランクシナトラ、ポールアンカ、プレスリー、女性ではセリーヌデオン、シャリーバツシーなど何度聞いても心を打たれます。なにしろ、マイウエイを歌いたいという本題に関係ない、二次的、三次的なことにこだわる、また悪い癖が出てきたと内心これはこれで頭が痛いのです。困ったものです、テスト前になると映画を見たくなったり、関係のない本を読みたくなったりする癖、十代からの私の癖、逃避癖と名づけている頭の痛い私の悪いの癖です。力以上の問題に対して立向かってゆくのではなく逃避する性質をつくづく情けなく思う次第です。もうじたばたしても仕方ありません。三時間の講演がどのようなことになるかは神のみぞ知るです。
2015.07.20
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七月号歌評(「賀茂短歌」7月号)下書き 後藤瑞義 原 明男 木苺を蕗の葉つぱに分けくれし母の笑顔も祖母も在まさず (評)「木苺を蕗の葉っぱに分けくれし」、幼い子の手よりは蕗の葉のほうが大きくてよかったのか、豊富な木苺の実を連想しました。母親が不公平のないように蕗の葉を何枚か並べてその上に分けたのかもしれません。木苺の実を見て作者はすっかり幼いころにかえったのでしょう。母親の笑顔をありありと思い浮かべているようです。そして、近くに祖母の姿も見えたのでしょう。それは多分一瞬のことですぐに現実にかえった作者、そこにはもちろん母親の笑顔も祖母の姿もなく、採る人のない木苺の実がたわわになっているだけだったのではないでしょうか。 渡辺つぎ 谷底も嵐の原もくぐり抜けぽつかり浮ぶ百と四歳 (評)「谷底も嵐の原も」はひとつの喩えでしょう。どん底などという言葉もあります、「嵐の原」もやはり厳しい生活環境のたとえなのでしょう。百四年の間には厳しい生活環境の時期もおありだったのでしょう、それを乗り越えてきたという自負の気持ちを感じます。問題は「ぽっかり浮ぶ」ということばです。最初は苦しい水中より浮びあがった喩えと思ったのです。しかし、これは水の中ではなく、空中にぽっかりと雲のように浮んだのではないだろうかと思ったのです。雲のように空の上から地上を見下している、そんな感じをうけたのです。なにしろ満百四歳にして毎月五首の短歌を送ってこられる作者です。九月の歌会は渡辺さんがショートステイを利用している施設で開催する予定です。現在もお元気で杖なく歩いていらっしゃる作者です。 鈴木菊江 春おぼろかくれんぼうの老眼鏡いづこにじっとわれを待つらんや (評)「春おぼろ」はおぼろ月を連想しました。老眼鏡が見当たらない、記憶をたどってみるがぼんやりとしてはっきりと置き場所を思い出せない。九十六歳の作者、家のどこかにあるのは分っているのでしょう、「じっとわれを待つらんや」とあわてず、ユーモアをもって、眼鏡とかくれんぼしているんだと歌っています。ここに作者のお人柄、人生における余裕さえ感じさせます。 黒田幸子 裏庭の玉のつづじの花ざかり共に見るべき人なき初夏 (評)まず、「裏庭」です、この裏庭が非常にきいていると思います。そこに、玉のつつじが今花ざかりなのです。道に面した表の庭でありましたら、通る人も見るでしょう、「きれいですね」と声をかけてくれる人もいるかもしれません。しかし、表からは見ることが出来ない裏庭です。「共に見るべき人」はもちろんご主人です、そのご主人が亡くなられ独り見ている作者です。「初夏」は「はつなつ」と読むのでしょうか、字余りですがそのぶん思いがこもるように思います。今生命が躍動する夏になろうとしています、欠如感が身に沁みるようです。字足らずで「ショカ」と読んで欠如感を増幅する考えもあるでしょうか。 後藤早苗 山中に一袋百円と書きありてニューサマーオレンジ無造作に有り (評)「山中に」、下田の近くですと、松崎に通うバサラ峠あるいは河津へ通う峰山でしょうか。そこは車の往き来が主であまり人が通らぬ道です。「一袋百円」と書いてあるところをみますと、無人売店なのでしょう。そこにニューサマーオレンジを無造作に置いてあるというのです。あるいは、百円を入れる缶も無造作に置かれているのかもしれません。オレオレ詐欺の報道がテレビ新聞等でたびたび報道されています。それとの比較を私などはしてしまうのです。まだここには日本人のある良心みたいなものが失われていない、そんなふうに考えたのです。作者もあるいは同じような気持ちだったかもしれません。 藤井美智子 血液が下がったままで上がれない手術台にて年令思う (評)最初、血圧が下がったままで上がれないと読みました。私は低血圧のために、そんな読み違いをしたのかもしれません。血圧ではなく「血液」でした。血液を全身にめぐらすために動脈、静脈がありますが、心臓に血液を運ぶための静脈に異変があるのでしょうか。ただごとでない感じがしますが、手術台で考えているようですので、それほど大手術ではなさそうです。それにしましても、「手術台にて年令思う」とはどういうことでしょう。作者は事実をそのままぽつりとつぶやいているようです。「もう年だからしょうがない」でしょうか、そうじゃないでしょう。わたしたちの歌会には満百四歳の渡辺さんがおられます。「まだまだ、こんな年で死ぬわけにはいかない」そういう「年令思う」ではなかったでしょうか。 小池美恵子 居眠りやストレッチする人読書の人待合室に大あくびもあり (評)病院の待合室をイメージしました。病院は空調設備が完備していますので、心地よくついうとうととなります。実際に居眠りをしている人も目につくでしょう。ストレッチをしている人もいたようです。これは、付き添いの人なのでしょうか。静かに本を読んでいる人、これは当然目にするでしょう。待ち時間の多い病院のこと、作者は色々な人を観察して時を過しているのでしょう。それにも飽きて大きなあくびをした作者、「待合室に大あくびもあり」は実は作者自身ではなかったか、そんな想像をして読ませてもらいました。 鈴木きみ 風情ある三つの色を身にまとい都忘れはやはり良い花 (評)「風情ある三つの色」とは、花びらの紫色、雄しべの黄色、そして葉や茎の緑いろのことでしょうか。「身にまとい」と擬人化していて、親しみを持っているようです。「やはり良い花」、「やはり」と言っていますので、あれこれ都忘れのマイナス的な面をおもいめぐらしたのでしょうか。花が小ぶりですこし地味な感じがするとか、しかし「やはり良い花」、作者自身にとって大事なかけがえのない花、確信をもって作者がつぶやいているように感じました。 土屋文恵 薔薇の香に包まれ巡る丘の園心のつかえいつしか溶けむ (評)具体的にはどういうものかは分りませんが、作者は心につかえるもの、心配ごとがあったようです。多分作者は、過去にもそうしたことがあってここの丘の薔薇園を訪れたように私は思ったのです。その時、香しい薔薇の匂いにつつまれて薔薇園を巡るうちに心のつかえが溶けたのでしょう。作者は、今日も薔薇園を巡っていて、そのうち心のつかえが溶けるだろうと思っているのでしょう。理想とするもの、この場合は薔薇あるいは薔薇の香でしょうか、それとの一体感によって心の安定を計るのはだれしも経験があることではないでしょうか。
2015.07.19
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七月号歌評(「賀茂短歌」7月号より) 後藤瑞義原 明男木苺を蕗の葉つぱに分けくれし母の笑顔も祖母も在まさず (評)「木苺を蕗の葉っぱに分けくれし」、幼い子の手よりは蕗の葉のほうが大きくてよかったのか、豊富な木苺の実を連想しました。母親が不公平のないように蕗の葉を何枚か並べてその上に分けたのかもしれません。木苺の実を見て作者はすっかり幼いころにかえったのでしょう。母親の笑顔をありありと思い浮かべているようです。そして、近くに祖母の姿も見えたのでしょう。それは多分一瞬のことですぐに現実にかえった作者、そこにはもちろん母親の笑顔も祖母の姿もなく、採る人のない木苺の実がたわわになっているだけだったのではないでしょうか。渡辺つぎ谷底も嵐の原もくぐり抜けぽつかり浮ぶ百と四歳 (評)「谷底も嵐の原も」はひとつの喩えでしょう。どん底などという言葉もあります、「嵐の原」もやはり厳しい生活環境のたとえなのでしょう。百四年の間には厳しい生活環境の時期もおありだったのでしょう、それを乗り越えてきたという自負の気持ちを感じます。問題は「ぽっかり浮ぶ」ということばです。最初は苦しい水中より浮びあがった喩えと思ったのです。しかし、これは水の中ではなく、空中にぽっかりと雲のように浮んだのではないだろうかと思ったのです。雲のように空の上から地上を見下している、そんな感じをうけたのです。なにしろ満百四歳にして毎月五首の短歌を送ってこられる作者です。九月の歌会は渡辺さんがショートステイを利用している施設で開催する予定です。現在もお元気で杖なく歩いていらっしゃる作者です。鈴木菊江春おぼろかくれんぼうの老眼鏡いづこにじっとわれを待つらんや (評)「春おぼろ」はおぼろ月を連想しました。老眼鏡が見当たらない、記憶をたどってみるがぼんやりとしてはっきりと置き場所を思い出せない。九十六歳の作者、家のどこかにあるのは分っているのでしょう、「じっとわれを待つらんや」とあわてず、ユーモアをもって、眼鏡とかくれんぼしているんだと歌っています。ここに作者のお人柄、人生における余裕さえ感じさせます。 黒田幸子裏庭の玉のつづじの花ざかり共に見るべき人なき初夏 (評)まず、「裏庭」です、この裏庭が非常にきいていると思います。そこに、玉のつつじが今花ざかりなのです。道に面した表の庭でありましたら、通る人も見るでしょう、「きれいですね」と声をかけてくれる人もいるかもしれません。しかし、表からは見ることが出来ない裏庭です。「共に見るべき人」はもちろんご主人です、そのご主人が亡くなられ独り見ている作者です。「初夏」は「はつなつ」と読むのでしょうか、字余りですがそのぶん思いがこもるように思います。今生命が躍動する夏になろうとしています、欠如感が身に沁みるようです。字足らずで「ショカ」と読んで欠如感を増幅する考えもあるでしょうか。 後藤早苗山中に一袋百円と書きありてニューサマーオレンジ無造作に有り(評)「山中に」、下田の近くですと、松崎に通うバサラ峠あるいは河津へ通う峰山でしょうか。そこは車の往き来が主であまり人が通らぬ道です。「一袋百円」と書いてあるところをみますと、無人売店なのでしょう。そこにニューサマーオレンジを無造作に置いてあるというのです。あるいは、百円を入れる缶も無造作に置かれているのかもしれません。オレオレ詐欺の報道がテレビ新聞等でたびたび報道されています。それとの比較を私などはしてしまうのです。まだここには日本人のある良心みたいなものが失われていない、そんなふうに考えたのです。作者もあるいは同じような気持ちだったかもしれません。 藤井美智子血液が下がったままで上がれない手術台にて年令思う(評)最初、血圧が下がったままで上がれないと読みました。私は低血圧のために、そんな読み違いをしたのかもしれません。血圧ではなく「血液」でした。血液を全身にめぐらすために動脈、静脈がありますが、心臓に血液を運ぶための静脈に異変があるのでしょうか。ただごとでない感じがしますが、手術台で考えているようですので、それほど大手術ではなさそうです。それにしましても、「手術台にて年令思う」とはどういうことでしょう。作者は事実をそのままぽつりとつぶやいているようです。「もう年だからしょうがない」でしょうか、そうじゃないでしょう。わたしたちの歌会には満百四歳の渡辺さんがおられます。「まだまだ、こんな年で死ぬわけにはいかない」そういう「年令思う」ではなかったでしょうか。 小池美恵子居眠りやストレッチする人読書の人待合室に大あくびもあり(評)病院の待合室をイメージしました。病院は空調設備が完備していますので、心地よくついうとうととなります。実際に居眠りをしている人も目につくでしょう。ストレッチをしている人もいたようです。これは、付き添いの人なのでしょうか。静かに本を読んでいる人、これは当然目にするでしょう。待ち時間の多い病院のこと、作者は色々な人を観察して時を過しているのでしょう。それにも飽きて大きなあくびをした作者、「待合室に大あくびもあり」は実は作者自身ではなかったか、そんな想像をして読ませてもらいました。 鈴木きみ風情ある三つの色を身にまとい都忘れはやはり良い花(評)「風情ある三つの色」とは、花びらの紫色、雄しべの黄色、そして葉や茎の緑いろのことでしょうか。「身にまとい」と擬人化していて、親しみを持っているようです。「やはり良い花」、「やはり」と言っていますので、あれこれ都忘れのマイナス的な面をおもいめぐらしたのでしょうか。花が小ぶりですこし地味な感じがするとか、しかし「やはり良い花」、作者自身にとって大事なかけがえのない花、確信をもって作者がつぶやいているように感じました。 土屋文恵薔薇の香に包まれ巡る丘の園心のつかえいつしか溶けむ (評)具体的にはどういうものかは分りませんが、作者は心につかえるもの、心配ごとがあったようです。多分作者は、過去にもそうしたことがあってここの丘の薔薇園を訪れたように私は思ったのです。その時、香しい薔薇の匂いにつつまれて薔薇園を巡るうちに心のつかえが溶けたのでしょう。作者は、今日も薔薇園を巡っていて、そのうち心のつかえが溶けるだろうと思っているのでしょう。理想とするもの、この場合は薔薇あるいは薔薇の香でしょうか、それとの一体感によって心の安定を計るのはだれしも経験があることではないでしょうか。
2015.07.18
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心を詠むとは 後藤瑞義 短歌入門講座に向けて昔書き散らしたものを読み返しているのです。こんな観念的なことを書いてた時期があったのです。もう少し具体的な視点がほしいのですが、この時は真剣に思い詰めていたように思います。 編集より(歌誌「賀茂短歌」14年4月号)原先生がよくこころを詠むように言われました。 短歌の三十一(みそひと)文字(もじ)はそれ自体こころではありえないでしょう。こころというのは良く分からりませんが、少なくとも目で見たりすることは出来ないのです。ですから、三十一文字(あるいは三十一音)はそのままではこころではないように思います。それは、こころに対してからだのようなものでしょうか。われわれはからだを詠むのではなくこころを詠むとしたら、三十一文字に書かかれていない目に見えないものを詠まなくてはならないということになると思います。かなしい、うれしいという文字はからだです。目に見えないかなしい、うれしいでなければいけないのでしょう。しかし、からだを軽視しているわけではありません。からだがなければこころもないと考えるのが普通だからです。ですから、からだのたいせつなのは言うまでもないのです。 子規は写生を重視しました。ものをよく見てありのままに詠むように強調しています。こころということは直接的に言っていないように思います。それではからだが大事と言っているのと同じではないかという意見もおこるかもしれません。どちらかというとからだを大事にしたのかもしれません。目でよく見ることを大切にしていますので…。しかし、それはこころが大事ではないというのと違うように思います。健全な精神(こころ)は健全なからだに宿ると言いたかったのかもしれません。 さて、こころは目に見えません。それでは三十一文字のなかにこころがあるかないかどうして分かるのでしょうか。分かるというか感じるしかないのでしょう。自分自身のからだのなかにあって目には見えないけれど実在するところのこころで感じるしかないのでしょう。こころの目などという人もおりました。こころの目で作品のこころを見るしかないのでしょう。
2015.07.15
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白浜短歌会七月歌評(七月は休会です)下書き A子さん 目覚時今日の目標決めるのに忘れが多く計画空し ぼうぼうの庭を清掃丸坊主さすが職人業の腕前 1.作者は、目が覚めるとすぐその日にやりたいこと、目標を決めているようです。やりたいことは一つではなく、いくつかあるようです。しかし、忘れることが多くて、計画したこともあらかた出来ずに一日が終わってしまう。そんな歎きの歌だと思います。「決めるのに」を「決めたるに」にすると、今日一日がくっきりとしてくると思います。 参考:目覚め時今日の目標決めたるに忘れが多く計画空し 2.草だけでなく木々の枝や葉がぼうぼうとなっている庭を想像しました。「庭を清掃」は「庭の剪定」としてみました。 参考:ぼうぼうの庭の剪定丸坊主さすが職人業の腕前 B子さん 朝露がどくだみの花光らせる四点星がちょっと小粋で 短歌(うた)仲間母の世代と座を囲むかくありたいの思いしばしば うしろがみひかれるヒトのない日々よ(自由)それでも重い羽根の優しき 1.朝露がどくだみの白い花についていて輝いているのでしょう。四弁の花びらが星のように見えたのでしょう。「ちょっと小粋で」で止めています。「ちょっと小粋で、憎めない花」とでも続きそうな感じがします。「どくだみ」という言葉、それに対し「四点星」「小粋」などと表現することによって作者の「どくだみ」に対する気持ちが出ているように感じました。 2.短歌会、歌の仲間それは母の世代の人たち、その人たちと座を囲んでいる。このように母の世代の人たちと座をともにしたいとしばしば思ったことがあった。それが、いま実現しているのだ。そんな感激をを詠んでるのでしょうか。 3.まず、「日々よ」か「自由」かの選択があります。「日々よ」には時間といいますか、期間が入っています。「自由」は、時間は入っていない、今という感じ、その違いがあるでしょう。どちらかと言いますと、「日々」の方が歌としては重くはなると思います。短歌的には「自由」とする方が普通でしょう。短歌には原則的には時間を入れない、瞬間の文芸などと呼ばれることもあったと思います。 ご主人が亡くなられた、長らく病院に入院されていたようにも聞いています。ご主人の生前は何をするにつけても気になった、常に後ろ髪を引かれる思いであったのでしょう。それが、今解放されて自由になった。せいせいと羽根を伸ばしていいのだけれども、どうしてわたしの羽根は重いのであろうか。羽根を伸ばす気にならない、わたしの重い羽根よ、優しいこの重い羽根をわたしは愛している、そんな気持ちでしょうか。 C子さん城山のアジサイ祭デイ仲間展望台で下田見下す 菜園に赤く色ずくミニトマト一つほおばればプチッと音する ローソクの灯りをともし亡父母(ちちはは)に家族の無事を祈る毎日 1. 六月に城山で毎年紫陽花祭がおこなわれます。作者も、デイサービスで知り合った仲間と見に行ったのでしょう。歌のテンポが非常によい感じがしました。「城山の」「アジサイ祭」「デイ仲間」と軽く調子がよい、それが心の弾みを感じさせます。その気持ちのたかぶったところで、下田の街を見下している、そんな感じでしょうか。 2.赤く色ずいたトマト、それもミニトマトです。今畑になっている新鮮なトマトなのでしょう。それを一つもいでほおばる。「プチッと音する」はどういうことか、なにか悲鳴のようにも感じたのでしょうか。何かあわれなおもいがしたのでしょうか。この辺の解釈は、読者にゆだねられているように思います。あくまでもトマトは自然の力が加えられてつぶされ、音を発しただけなのです。 3.「ローソクの灯りをともし」は、仏壇のことでしょう。仏壇のローソクに灯をともし、線香に火をつけ、祈っているのでしょう。そういう儀式のなかに死者(亡きお父さんお母さん)が一瞬の間まるで生命を与えられ、生き返ったようにも感じるのでしょうか。今、生きているように感じるからこそ祈りが通じるのかもしれません。 D子さん 離れ住むうからに送る不ぞろいのじゃがに玉ねぎ干物も添える まぐれでもホールインワン三回も吾におどろき心ふわふわ 1. まず、離れて住んでいるうから(親族)に送った。ふぞろいのじゃがいもとなっていますから、かなり親しい間柄かと思います。じゃがいもといっしょに玉ねぎも入れたんですが、なにかまだ物足りなかったのでしょうか、干物も添えて送ったということです。コメントによると子どもさんとかお孫さんへ送ったとのこと、うからより直接表現することもよいでしょう。「離れ住む」という設定も、もし「送る」という言葉である程度分るかもしれません。原作で良いと思いますが、参考として何首か書いておきます。 参考:一向にうまくならない野菜作り不ぞろいじゃがを子等に送りぬ :無農薬野菜を子等に送りたく不ぞろいなるもじゃがいも入れる :ふぞろいのじゃがに玉ねぎ干物添え喜び待てる子等に送りぬ 2. グランドゴルフをしたことがありませんので、良く分りませんが。やはり三回のホールインワンは凄いことなのでしょう。「三回も」の「も」、気持ちが入っていてよいですが、感情をおさえて、「三回の」とする方法もあるでしょう。参考:まぐれでもホールインワン三回の吾におどろき心ふわふわ E子さん ひさびさに湯ヶ野の友の便りあり「犬の太郎と元気でいます」と 梅雨寒く巣篭りしたかうぐいすよ早よ出で聞かせなれの歌声 風の意のまゝに揺れてる竹のごと運命(さだめ)の風に我も任そう(われも任そう運命の風に) 1.友人が河津町湯ヶ野に住んでいるようです。その友より久しぶりに便りがあったようです。これは作者が先に便りをしていてそれに対する返事が久しぶりに来たのか。作者の方も最近便りをしてないところに、久しぶりに便りがあったのか。たとえば、後者の場合、「元気でいます」という言葉が額面通り受け取っていいのか。なんとなく、さみしさを感じます。便りのないのが無事の便りとかいいます。今お一人で住んでいる友なのでしょう。「犬の太郎と...」がそれを物語っています。作者は何か気がかりのことがあるのではないでしょうか。友を気づかう気持ちがこの一首を作らせたのではないでしょうか。 2. 作者は、木々に囲まれた環境に住んでおられて、鴬とは友だちのように親しんでいるようです。最近まで、じめじめと雨が続いていました、肌寒い日が続いていました。それで、鴬も巣篭りしているのか、早く元気な声を聞かせてくれと訴えています。作者自身もこの長雨でまいっているのでしょう。 3.風の吹くままに竹はなびきます。それを作者は見ていて思いついたのでしょう。この竹のように自分も運命の風に身を任せてこれから生きてゆこうと思ったのでしょう。「風の意のまゝに揺れてる」は、見ている風景のようにも思えるのですが、竹の性質を説明しているようにも思えます。説明は、歌を弱くします。たとえば、「強風のまゝに揺れいる」と風を「強風」にすることによって、「運命の風」も激しい運命を予感させて効果的のように感じます。下の句「運命の風」を先にするか後にするか。ご自分の感じで決められたらと思います。ただ、結句には大切な思いを込めた言葉を置きたいものです。 参考:強風のままゝに揺れいる竹のごと運命(さだめ)の風にわれも任そう F子さん 省エネのみどりの蔓は伸びきそう夏日ま近きわが家の軒下 とびの声に空みあぐれば白き雲天城の山の上にうかべり 1. 「省エネのみどりの蔓」は、緑のカーテンのことと思います。具体的にはゴーヤとか色々あるようですが、この歌では種類まではわかりません。軒下に何本か等間隔に植えてあるのでしょう。それが競い合っているようだというのです。「夏日」は、夏の暑い日、専門的にはセ氏25度以上の日ということです。夏に向かって緑の蔓が伸び競う姿になにか生命力のようなものを感じたのではないでしょうか。 2.とびの声がした、空を見上げると白い雲が天城の山の上に浮んでいた。ただ、それだけの歌です。このような歌は非常に鑑賞がむずかしいと思います。それは、作者が自分の気持ちを読者に伝えようとはあまりしていないからだと思います。「とびの声」、あののどかなピーヒョロロという鳴声、おもわず空を見上げたのでしょう。「白い雲」もそう深刻な思いはしないのではないでしょうか。「天城の山」を意識した作者、天城山の先には順天堂大学病院が伊豆長岡にあります。なにか検査に行く予定があるのでしょうか。ただ、そう深刻なせっぱ詰まった気持ちは感じられないように思います。ただ、一点の曇りない晴天の心とは言えないようです。 原 明男 圧し曲げてたわわと連れに頬張らすのどかなりけり山桃の紅 手を掛けてけふの大漁食む夕餉話題は尽きぬなめらうの鯥(むつ) 1.山桃が沢山の実をつけてなっていたのでしょう。作者は二人で歩いていて山桃の木を見つけたのでしょう。高い枝を押し曲げ、連れの人がほおばって食べた。それは、連れの人が食べたのではなく、山桃の木が食べさせてくれたのだと言っています。山桃を擬人化し自分達と同等に扱っている、いやむしろ山桃のほうが寛大でどうぞどうぞ思う存分食べてくださいと言っているようにも感じます。故郷ののどかな一風景です。 2.まず、今日は大漁のようです。手をかけて料理したのでしょう。たとえば鯥(むつ)を細かくたたいた料理などで仲間といっしょに夕食を食べたようです。話題の尽きない、なごやかな集まりだったようです。鯥(むつ)は睦に通じる効果があるようです。「なめらう」(魚を細かくたたいた料理)も「手を掛けて」という言葉と響きあって効果があるようです。
2015.07.14
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「短歌とは」 後藤瑞義 このたび、短歌入門の講演をすることになって、どうも色々思い悩む日々が続いています。そんななかで、次のような記事を見つけこんなことも自分が書いたことがあったのだとあらためて読み直した次第です。編集より(歌誌「賀茂短歌」平成14年8月号) 自分とは何か。「短歌は一人称」と原昇先生がよく言っておられました。「短歌は自分探しの旅」と何かに書いてあったように記憶します。 自分とは何か。しかし、なぜそんなに自分にこだわるのでしょうか。 自分とは何か。無私の精神とか、自らを捧げるとか色色言われます。しかし、その「私」なり「自ら」なりをほんとうに分かっているのでしょか。 今、自分と思っている自分でほんとうによいのでしょうか。あるいは、自分にわからない自分の姿もあるかもしれません。 自分の正直に思ったことなり感じたことを短歌にするとそこに自分の真の姿が映されるのでしょう。それは、真の自分…誰かの真似でない真の自分、たとえかっこうが悪くても、真の自分が映されるのでしょう。そのかけがえのない、世の中に一人しかいない真の自分、その自分がいなくなればその欠如感は大きくなるのではないでしょうか。その結果として、かえって世に残ることになるのではないでしょうか。それが短歌であれなんであれ…そんなふうに思えます。 ですから、私達は真の自分に出会いたいのではないのでしょうか。自分探しをするのではないでしょうか。 このようなことを書いたのは、いま私は短歌に行き詰まりを感じているからかもしれません。「何で短歌なのだろうか」と自問しますが答えが浮かびません。短歌が作れない現状もあります。私にとって短歌とはなんだろうか。あらためてそう自分に問う時、私の短歌はほんとうに自分の深い内から湧いてきているのではなかったような気がしてなりません。いま私にとっての短歌は危機状態にあるようです。 交際のための短歌、自己顕示のための短歌そのような短歌を捨て去ろうと思っています。そして、私に短歌が残らなかったら、そのときは短歌と潔く決別しようと思っています。
2015.07.08
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平成27年7月6日(月)読売歌壇 小池 光選 二席に入選するプルターク英雄伝は本棚に埃にまみれ立ちつくしいる 後藤瑞義(評)こういう本の数冊、多くの人は持っていることだろう。いまさら読み直す とも思えない。しかし、捨て切れない。『プルターク英雄伝』という書名がいか にも生きている。
2015.07.06
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編集より(「白浜短歌会」平成27年7月号)下書き講演 「短歌入門」について 生涯大学葵学園の講演、短歌入門についての講演を引き受けた件です。無謀なことを引き受けたものだと少し後悔をしています。私は、三時間も、いや一時間、いや三十分でさえ、続けて話をした経験が、実は今までないのです。 賀茂短歌会の満百四歳となられます渡辺さんはもちろんですが、白浜短歌会の皆さんも大変熱心に歌を作っています。その熱心さ、元気さに私の方も元気をもらっているのです。今回のことも、そんなみなさんの元気さ、熱心さに勇気をもらったように思うのです。まだまだ私は、七十二歳です、渡辺さんと比べましたらあと三十年以上あるわけです。そんなことを考えますと、この年でも新しいこと、未知のことに挑戦してもいいのではないか、いや今こそ挑戦すべきだという気持ちになったのです。 前回、啄木についての話をしたいと書きました。「一握の砂」に込めたであろう啄木の気持ちを察して、推察して話をすることはぜひしたいと思っています。彼の価値観についてです、このことは私たち短歌を作る人間にとっても大変重要なことのように思うのです。それと同時に私を短歌に導いてくれた妻の短歌について、ぜひこの際話したいと思っています。それと、私が短歌を始めた経緯(いきさつ)についてもお話したいと思っています。
2015.07.04
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