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鑑賞:歌集「悲しき玩具」(三十七)(下書き) 後藤瑞義 (注)歌の順序は歌集の順序によります。何となく、今年は良い事あるごとし。元日の朝、晴れて風無し。短歌を習い始めた時まず注意されたことは、短歌は一行書きにするようにということでした。原稿用紙の最初のます目から一字もあけないで、一行書きにするように教えられました。また、句読点などをつけないようにというものでした。そういう意味から、啄木の三行書きは異例であり、例外的なことなのです。「なんとなく今年は良い事あるごとし元日の朝晴れて風無し」句読点も付けずに、このように書くことが通常の書きかたになります。そして、この一行書きにした歌を読んでわたしが思うのは、これは倒置した歌、つまり下の句が先で、それに上の句がつく、そういう歌だと考えるわけです。まず、「今日は元日、今は朝、空は(よく)晴れていて、それに風が(少しも)無い。何となく(だけど)、今年は(きっと)良い事があるような(感じがする)。」そんな解釈をするわけです。「これは朝から縁起がよいわい」的な発想をするわけです。確かに、「晴れて風無し」、とくに「風がない」という把握はさすがに啄木だと思うのですが、天才啄木としては、それだけですとわたしなど物足りないのです。わたしは、啄木の発想は、この歌のままだと思ったのです。つまり、「何となく、読点の、(てん)、」で一呼吸して、行を変えて「今年は良い事あるごとし。句点の。(まる)」で休止します。ここで文章を完了させています。そして、また行を変えて新しい文章「元日の朝、読点、(てん)」をつけて一呼吸して、「晴れて風無し。句点。(まる)」でこの文章も終えています。ですから、一行目二行目の文章と三行目の文章は、直接的にはつながっていない、それぞれ独立した文章だということなのです。わたしが、この歌を倒置の歌、つまり三行目の「元日の朝、晴れて風無し。」が先にあって、現象(「元日の朝から晴れて、風が無い」)が先にあって、その上に立って、だから「何となく、今年は良い事があるんじゃないだろうか」と推察するのです。ただ、天才啄木はそうじゃないだろうとおもうのです。たとえば、朝目がさめて、布団のなかで、「何となく感じる」、「今年は良い事があるように感じる」、この予感といいますか、予言といいますか、予知といいますか、そういうものが先にあったのではないでしょうか。そして、しばらくして、外へ出たところ「晴れて風無し」だった。そうれみろ、思ったとおりだ。そんな感じではなかったのでしょうか。それでこそ、天才啄木だとわたしは思うのです。何となく、今年は良い事あるごとし。元日の朝、晴れて風無し。
2015.10.27
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平成27年10月27日(火)よみうり文芸(静岡版) 篠 弘選 佳作に入選する西空の晩夏の光消え去りて何か終りしごとき静寂 後藤瑞義(読売新聞静岡版 よみうり文芸 十月二十七日 佳作 篠 弘 選 )(評)この下の句のドラマチックな寂寥(せきりょう)感の表現が鋭い。いち日の終りに、このような終末感を味わうこともあろうかと思う。
2015.10.27
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十月号(歌誌「賀茂短歌」)歌評下書き 後藤瑞義 こんなにも静かな夜のありしかと終戦の日の空を見上げる 原 明男 (評)「終戦の日の空」は、夜空なのでしょう。それまでは、夜外にでることも出来なかったのでしょう。「灯火管制」のこともありましたから、家のなかで灯を消してひっそりとしていたのでしょう。そして、外には飛行機の音とか、爆撃の音があったのかもしれません。その恐怖が取り除かれ、自由の身になって、夜空を眺めた、美しい星空、あたりの静けさがひとしお身にしみたのではないでしょうか。 施設にて日暮れはいつも淋しくてすこし早目にカーテンを引く 渡辺つぎ (評)上の句「施設にて日暮れはいつも淋しくて」はそのままのお気持、呟きのような感じです。その上の句が無理なく下の句に続いてゆきます。「すこし早目にカーテンを引く」がごく自然で無理がありません。しかし、このことばは簡単なようでなかなか出てきません。 「カーテンを引く」やはり「引く」がいいと思います。「閉める」でなく、「引く」がいいと思います。 「カーテンを引く」こと自体は、日暮れとは必ずしも直接的な関係はないと思います。日差しが強い場合日中でもカーテンを締めます。しかし、この場合日暮れとぴったり合っています。 「いつも」といっているところに、一回きりのことでなく、何回も体験していることが分ります。そうしたなかで、自然と身についた行動で「すこし早目にカーテンを引く」ということになるのでしょう。そこにわたしは、なんともいえない哀しみを感じるのです。作者はご存知のように、もうじき満百五歳になられます。この自然体の詠み口にただただ感嘆するばかりです。 草ひきし土はたっぷり大気吸い朝の光に耀いており 鈴木菊江 (評)草むしりをした後の土、障害物が取り除かれて「たっぷり大気を吸うことが出来た」のでしょう。雨とか水分でなく大気を吸うというところに注目しました。大地がまるで生き物のように呼吸しているように思えたのでしょう。朝の光にかがやいているのは、露とかが、おおっているためではなく、土そのものが呼吸をしていて活き活きと耀いているように見えたのでしょう。 くりかえしになりますが、作者の生命にたいする讃歌のように感じたのです。 土曜日ごと電話かけくる息の夫婦くつたくのない声に休らぐ 黒田幸子 (評)作者は現在お一人で住んでおられます。もう九十歳近いでしょうか。息子さんはやはり心配して電話を掛けてくるのでしょう。それが、土曜日ごとかけてくるようになったのでしょう。 それで、夫婦となっていますから、息子さんだけでなくお嫁さんからもことばがあるのでしょう。「くつたくのない声に休らぐ」が実感として伝わります。「安らぐ」が「休らぐ」となっていて、よりやすらぎが深くなっているように感じました。親というのは、特に母親は、子供の声に敏感のように思うのです。「元気だ」と言っても、ほんとうかどうか、母親には分るような気がするのです。息子さんからの電話を耳をすまして聞いている作者が浮かびました。 ひさびさに逢いたる友は白髪 ( はくはつ )の似合う立派な初老となりおり 後藤早苗 (評)同窓会かクラス会か久々に友とあったのでしょうか。その友はすっかり白髪になっていたのでしょう。しかし、それがぴったりとする、なにか充実をした感じの初老となっていたのでしょう。時の経過を無駄にしてない感じの友だったのでしょう、そして、それに感動をした作者なのでしょう。と同時に、自分はあまり変わっていないことに気付いたのかもしれません。あるいは、自分の年齢をあらためて意識した、意識させれれた思いがしたのかもしれません。 子育ては資産か投資か問うテレビどちらかと云えば分のない投資 藤井美智子 (評)作者はたぶん子育てについて、いろいろ考えていたのでしょう。そうした中でテレビの「子育ては資産か投資か」という問いかけにすばやく反応したのではなかったでしょうか。 いま、すばやく反応したと書いたのですが、反応はその通りなのでしょうが、答えはそれほど簡単にすぱっと割り切れなかったようです。「どちらかと云えば」という言葉によってそれが分ります。あれこれと比較したりしたのでしょう。そして、結論として「分のない投資」に落ち着いたのです。 「子宝」という言葉が昔からあります。投資という言葉を子に使い出したのは多分最近になってではないでしょうか。先行投資とでもいうのでしょうか。世知辛い世の中になってきたのかもしれません。 「どちらかと云えば」と言いよどみながら、「分のない投資」と言ったところに作者の人間性が出ていて好感がもてました。 大雨の災害映像見つめいる庭に一輪ハイビスカス咲く 小池美恵子 (評)たいへん気になる一首でした。気になるというより正直にいえば把握しきれない一首でした。 「大雨の災害映像見つめいる」までは、そのままでよろしいと思います。問題は、次の「庭に」であります。普通に考えれば作者が映像を見つめている「庭に」となると思います。ただ、「大雨の災害の庭に一輪ハイビスカス咲く」と読めないこともないと感じたのです。どちらにしましても、一輪のハイビスカスが一首のなかでかがやいてみえたのです。 作者の庭にハイビスカスが咲いている。それにしてもこの取り合わせはどうしたことでしょう。作者は今熱心に大雨による災害の映像を見ています、いや見つめています。最近のことであれば、鬼怒川の氾濫、家は流されヘリコプターで人を吊り上げている映像が浮かびます。それに「一輪のハイビスカス」です。ハイビスカスは熱帯地方をイメージさせます。地球温暖化を象徴するために登場させたのでしょうか。そうかもしれません、それも文明に対する一種のメッセージとしての役割をはたすでしょう。 わたしは、「ハイビスカス」からイメージされる「ハイの気分(昂揚をした精神状態)」を想像したのです。不謹慎かもしれませんが、大自然の偉大な力を目の当たりにしたとき、「一輪のハイビスカス」、ほんの少し「ハイな気分に」なったという告白のようにもわたしには思えたのです。 涼香り立つ熱き珈琲頬張れば暑さも飛んでし気もする 鈴木きみ (評)なかなか力強い歌です。その乱暴な言葉使いも内容によるでしょう。こう暑いと頭もおかしくなるといった感じです。 「頬張れば」は、物を口いっぱいに詰め込んで食べるようなときに使われるでしょう。ですから、物を頬張るように珈琲を、それも熱い珈琲飲むならば、ということでしょう。 暑さには、氷が普通ですが、昔から暑い日に熱いお茶を飲むようにいわれます。暑さには熱さで対抗するというのでしょうか。なにか科学的な根拠があるのか私は知りません。この歌を読みながら思い出したのです。 「涼し気もする」は、正確には「涼しい気もする」あるいは「涼しき気もする」となるでしょう。「涼し」は終止形ですから、ここで終止し、「気もする」につながらないのです。しかし、この舌足らずのような言い方が、あるいはこの歌の全体的な雰囲気には合っているようにも感じるのです。 新しき靴買う友は病の身負けてなるかと戦う気概 土屋文恵 (評)作者は、病(やまい)の友が新しい靴を買ったことを、ことさら問題視しています。ですから、友人の病がかなり重いのではないかと想像します。 ところで、助詞一字で歌は変わるとよく言われます。この歌を読んだときそのことを思ったのです。上の句「新しき靴買う友は病の身」、その「は」に注目したのです。 「新しき靴を買う友病の身」としてみてはどうでしょうか。なにか静かな、冷静な語り口になったように感じないでしょうか。写生に重点を置くとしたらこちらのほうがいいようにわたしは感じます。 それでは、「友は」と「は」が入ったことでどのように変わるのでしょうか。まず「友」が強調されるでしょう。それと同時に、何かと比べるようなふうにも感じるのです。「何は…だが、友は…だ」といった感じです。 下の句はどうでしょうか。上の句の「は」が入るのと入らないのとで違いがあるのでしょうか。「は」が入らない方は、上の句と同様に「負けてなるかと戦う気概」のように見えるくらいな感じでしょうか。これはこれでいいとは思いますが。「は」が入りますと、なにか作者自身があたかも友自身になったような、「負けてなるかと戦う気概」は作者自身の言葉でもあるようにわたしには強く感じるのです。なにか作者は自分自身に、友はあんなに頑張っているのに、こんなことでわたしはいいのだろうか、と心の弱さみたいなことに対して問いかけてでもいるような、そんな激しさをわたしは感じるのです。
2015.10.26
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白浜短歌会十月歌稿(十月二十一日歌会です)下書き A子さん毎夜ごと休まずバチ打つ太鼓の音(ね)若衆の熱意素晴し音響御社の大樹の森もうつそうと北風受けて大ゆれ小ゆれ1.祭の練習の音が聞こえてきます。それは、作者自身の若い頃を思い出させるかもしれません。また、待ちに待った祭を今年も見られるといった思いもあるかもしれません。「夜ごと」で毎夜のことです。若衆の熱意は、バチを打つことに対する思いでしょう。「素晴し」は終止形ですので、「素晴しい音響」あるいは、「素晴しき音響」となるでしょう。参考:よなよなを休まずバチ打つ若衆の熱意伝わる素晴らしき音2.強風のなかの風景でしょうか。それで神社の森も見えたのでしょう。大きな樹木が揺れるのは壮大な風景だったでしょう。「ゆれ」のリフレイン(繰返し)は良いと思います。「うっそうと」は「大樹の森」のことだと思いますが、このままだと「うっそうと受けて」というように読まれる可能性もあります。参考:御社のうっそうとする大樹の森北風受けて大揺れ小ゆれ B子さん女郎花(おみなえし)哀しい名前野辺に咲く深い愛だと花言葉云う折々の小さな花と文庫本テーブルの上ちょっと幸せ祭用笛太鼓祭に群がる子等もなく小さな里に秋風の吹く1.「おみなえし」は、漢字で「女郎花」と書きます。作者はこの「女郎」という名前にあるいは、「遊女」を思い出したのでしょう。辞書には、「身分のある女性」とも書かれています。野辺に群り咲く「女郎花」、その花言葉が「深い愛」だと知った作者、複雑な思いにかられた作者なのでしょう。2.「折々の小さな花」は、連作的な思いで読めば「おみなえし」のような感じもします。「折々」と書いてありますから、今回は「おみなえし」だったかもしれません。テーブルの上におみなえしを飾ってあった、そこに(読みかけの)文庫本が置いてあった。それを見たとき作者はなんともいえない幸せ感にうたれたのでしょう。3.現在の祭風景をたんたんと描写している感じです。やはり、「秋風の吹く」がきいているでしょう。これは、作者の心風景のようにも感じました。そこに哀しみがあります。C子さん仲秋のスーパームーンに空財布ふりふりすれば願いがかなうと新聞もテレビも見れる目と耳もただ年令(とし)だけはわれに従(つ)きくる秋づきて畑に小粒の種を蒔く夕焼の空に雨雲をみる祭用年重ね思い出積もる御社の祭りの太鼓遠くきこえる1.満月に空の財布をふると願いがかなう、金運がアップするという言い伝えみたいなものが確かにあるそうです。不思議な話です。作者も不思議に思ったことでしょう。実際に実行したのでしょうか。「仲秋」は「仲秋の候」などに使い、月の場合は、「中秋の名月」と書くのが正しいようです。2.土屋さんのお歳で「目も耳も」しっかりしているとは、うらやましいかぎりです。そういう健康体であっても一年一年年齢は増えているのです。そして、人間はたいていの場合その年齢で判断され、ああしたほうがいい、こうしたほうがいいと規定されるのです。そういう年齢のマイナス面をかなしく思う作者のようです。3.若い頃から、毎年祭を楽しみにしていた作者なのでしょう。「年重ね思い出積もる」ということばに実感がこもります。あるときは、子供の頃、あるときは子供さんと、いろいろな思い出がおありなのでしょう。その祭の太鼓が今は遠くにきこえる。「遠くきこえる」に思いがこもっています。 D子さん手の届くところに浮ぶ七島よ呪文となえて訪ねてみたし菩提寺に咲きほこりたる彼岸花風にゆられておじぎするごと祭用この郷土守り祈りて何千年若衆が舞う奉納三番叟(さんば)1.伊豆七島を「手の届く」と思い切って表現しています。それに、「呪文」という言葉もなにか現実離れした感じ、たとえば仙人の世界のような感じを受けました。この発想、なにかはじけたような発想に興味を持ちました。2.「菩提寺に咲きほこりたる彼岸花風にゆられて」までは、見たままを詠んでいるようです。やはり、「おじぎするごと」という発想はユニーク(特異)だと思います。「いらっしゃいませ」と言っているのでしょうか。帰りなら、「お気をつけて」とでも言っているのでしょうか。彼岸花がお寺さんと一体になった感じ、お寺さんの使用人のような感じ、なんかふしぎな感じが出ています。3.下の句「若衆が舞う奉納三番叟」は、そのままよくわかります。上の句の「何千年」はすこし漠然としています。たとえば、「二千年」とか「千余年」とかもう少しはっきりさせたほうがよろしいのではないでしょうか。参考:わが郷土守り祈りて二千年若衆が舞う奉納三番叟 E子さん夏過ぎて秋深みゆく砂浜は長く連らなる砂防垣のみ台風を逃れて来たかキリギリス網戸をつかみピタッと動かず夏の日を咲きさかりたる百日紅まろき実残して秋風に散る祭用連綿と続く社の大祭(おおまつり)立てたる幟(のぼり)秋空を突く1.夏の賑わい、秋のさびれた風景を対比して詠んでいます。「長く連なる砂防垣のみ」の実景の描写がさびれた感じを伝えます。それとともにあるいは作者の心の中のある風景がそこに表れているのかもしれません。風景描写は自分の内面の描写でもあるのです。人は自分と無関係なことは詠まないと思っています。2.細かい描写、昆虫にすなわち一匹のきりぎりすに目を止めている作者です。「網戸をつかみピタッと動かず」と細かに描写している作者、小さな弱い生き物に対する愛のまなざしを感じさせます。3.さるすべりの花、百日紅とも呼ばれ真夏の日射しをむしろ好むように赤くあるいは白く、あるいは桃色などに咲きます。その花もたぶん散ってしまったのでしょう、よく見ると丸い実が残っているということだと思います。この歌も夏の激しさと秋のさみしさのようなものを表現しています。参考:夏の日を咲きさかりたる百日紅秋風に散るまるき実残して F子さん久々に娘とともに行く道は赤き彼岸の花さきさかる真夏日にばっさり剪りし石路は秋深くなり花芽生(お)い立つ祭用戦なき世の続けよと願いつゝ今年の茅の輪つゝしみてくぐる1.久しぶりに娘さんが、帰られたのでしょう、そして、お墓詣りかなにか行ったのではないでしょうか。「娘とともに行く道は」と強調しています。普段はあまり感じなかったのでしょう。「赤き彼岸の花さきさかる」、彼岸花は普通赤い色をしています。それをわざわざ赤きと強調しています。これはむしろ「明るき」に近い「赤き」のようにわたしには感じました。ぱっとあかるくなったような道を歩いているイメージです。2.つわぶきもあじさいなどのように剪定したほうがよいのでしょうか。その習性をくわしく知りませんが、夏の暑いうちにつわぶきの茎を刈り込んでおいたところ、花芽が(たぶん、いっぱい)出ていた。「花芽生い立つ」とその生命力に感動をしている作者です。読者にもそれが伝わります。3.「茅の輪」をくぐる行事はいろいろな神社で行われているようです。六月や十二月に行われることが多いように書かれていました。疫病や罪穢を祓う行事と聞いています。作者は「戦のない世が続くようにと願って」輪をくぐっているのでしょう。それは、疫病や罪穢にもまして戦争の恐ろしさを知っている作者の切なる願いなのでしょう。戦争は昔のことではなく、現実に今行われている国が地球上に存在し、それが日本を巻き込まないとも限らないという作者の恐怖心がそのようにさせているのでしょう。神にその願いが届くようにわたしも祈りたいと思います。 ふるさとの海 原 明男老いふりてふるさと遠くする兄と今宵しみじみ潮鳴りをきくふるさとは遠くに在りてといふ兄に遠くなりゆくふるさとの海祭用伝統も継承されつさんさんと余韻のごとき昭和に還る 1.作者の兄さんは静岡に住んでいらっしゃるようです。同じ県内とはいえ静岡市は遠方ですなかなか故郷に帰ることが出来ないのでしょう。「老いふりてふるさと遠くする兄」がそれです。その兄さんが帰ってきた、そして二人で「今宵しみじみ潮鳴りをきく」です。まず、この歌を読みまして感じたのは、作者の兄さんの思いです。「しみじみ潮鳴り」を聞いたのはたぶん兄さんのほうでしょう。それが、作者にも通じたのでしょう。兄さんの心がよくわかる作者のようです。また作者にもあらためて潮鳴りの音が胸に迫ってきたのでしょう。なにはともあれ、一首全体にうつくしい兄弟愛を感じるわたしです。2.「ふるさとは遠くにありて」は、室生犀星の「小景異情」の一節「ふるさとは/遠きにありて思ふもの/そして悲しくうたうもの」を踏まえているようです。兄さんとどんな会話をしたかわかりませんが、「遠くにありて」と兄さんが言っているところをみると、故郷の変貌ぶりが話題になったのかもしれません。兄さんの思い描いていた故郷と現実の故郷の違いに失望しているふうにもみえます。そして、故郷は遠くにいて思うものものだと言った、そこで実際の故郷の海が兄さんにはいよいよ遠くになってゆく、その哀しい思いを作者は歌っているように思うのです。3.「伝統も継承されつ」、「伝統も」といっていますので、なにか他のものも継承されているのでしょう。「つ」は、意思的な完了形といわれます。人々が努力して継承してきた意味合いがあるでしょう。「さんさんと」は、燦燦(たいへんきらびやかなこと)でしょうか、あるいは、太陽(sun)のサンサンでしょうか、あるいは単なる擬音語(オノマトペ)でしょうか。昭和は終ったが余韻が残っていて、なつかしく、かがやかしいものと感じる作者なのでしょう。祭となるとその昭和に還ったように感じる作者なのでしょう。
2015.10.17
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平成27年10月15日(木)よみうり文芸(静岡版) 篠 弘選 に入選する大の字になりて幼き孫眠るただそれだけの風景なれど(読売新聞静岡版 よみうり文芸 十月十五日 篠 弘 選 )
2015.10.15
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鑑賞:歌集「悲しき玩具」(三十七)(下書き) 後藤瑞義 (注)歌の順序は歌集の順序によります。戸の面(も)には羽子突く音す。笑ふ声す。去年の正月にかへれるごとし。短歌を作っている人間として、こういう作品をみると感心してしまいます。「戸の面(も)」などという言葉も、短歌を作るようになって見ればなんとか分るような気がします。たとえば「水面(みなも)」などという読み方も短歌を作るようになって知ったのでした。「戸の面」の意味は類推してなんとか分るんですが、「戸」でなくて「外(と)」ではないのか、「面」とはなんだろうとか色々考えます。わたしをここで出す必要はないですが、「外よりは」などの表現がわたしなどのせいぜい出てくる言葉です。しかし、「戸の面(も)には」がやはりいいように思います。「地面(じめん)」というしっかりしたイメージも浮かびます。羽子板(はごいた)や羽子突(はねつ)きなど分らない若い人もいるでしょう。わたしにしても、子供の頃の思い出です。正月になると今も思い出す、今では見られない風景です。「笑ふ声す。」がやはりいいです、こういう言葉を使うことに感心します。「喜ぶ声す。」「楽しむ声す。」「はしゃぐ声す」「子供の声す」ではなく「笑う声す。」がやはり直接的で心にひびくような感じがします。と同時に啄木は「笑い」のあまりない生活環境のなかにあったのではないでしょうか。あるいは「笑い」が回りにあったとしても気づく余裕がない生活だったのかもしれません。啄木は「笑い」に新鮮な感動を受けた、そして「笑ふ声す。」の言葉が出てきた。短歌を作っている人間としてそんな想像をするのです。「去年の正月に」がやはりいいと思います。「子供の頃に」などでなく、「去年の正月に」とするところがやはり啄木なのでしょう。常に前を向き後ろをあまりふりかえらない、そんな生活態度をこの歌で感じました。そんな、緊張した生活のなかでちょっぴり息ぬきが出来た啄木でしょうか、そんな啄木の姿が浮かんできます。戸の面(も)には羽子突く音す。笑ふ声す。去年の正月にかへれるごとし。
2015.10.01
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