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よみうり文芸(静岡版) 篠 弘選 に入選するゆったりとその身を風にゆだねつつ炎天に盛る百日紅(サルスベリ)は(読売新聞静岡版 よみうり文芸 九月二十九日 入選 篠 弘 選 )なお、同日 妻も入選していた。自閉症と言わるるままに育ちきて体は大人になりゆく息子 後藤早苗(読売新聞静岡版 よみうり文芸 九月二十九日 入選 篠 弘 選 )
2015.09.29
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九月号(歌誌「賀茂短歌」)歌評下書き 後藤瑞義 原 明男父も来よ母も来て酌め男の五人ごたり尽きぬ思いのをさな日にゐる(評)「おやじの海」五首、全体的に飄々と、あまり力まず歌っているのがいいと思いました。やはり思いの深い分かえって肩の力がぬけて自然に歌えたのだろうと思います。さて掲題の一首、「父も来よ母も来て酌め」、もちろん作者のご両親はすでに亡くなられております。ただ、作者を含めた五人の男の兄弟が一同に会して酒を飲んでいるようです。そのうちに、作者は幼いころの自分に戻ったのでしょう。まるで隣の部屋にご両親がいらっしゃるようなそんな気分、そんな錯覚におちいったのではなかったでしょうか。 作歌に思い悩む最近のわたしですが、歌を作る原動力に幼い純な心が関わっているのではないだろうか、などと思ったりしました。 渡辺つぎ点滴の合間に見する師のみ顔ごこうが射して神のかんばせ (評)医師との信頼関係が健康維持にたいへん重要なのでしょう。そのつど色々な病院に行っているわたしは、このままではいけないと思いました。 さて、人間の一番美しい瞬間は多分人のために自分を忘れて一心に何かをしている時ではないでしょうか。ですから自分の一番素晴らしい姿は多分自分では見ることも意識することも出来ないのではないかと思うのです。しかし、それを、その瞬間の美しい姿を見た人にとっては一生忘れられない素晴らしい姿となるのだと思います。 作者は点滴の合間に、上記に述べたような医師のうつくしい姿を垣間見たのではないでしょうか。思わず、「ごこうが射して神のかんばせ(顔)」と口から出てきた、そんなふうにわたしには思えたのです。 鈴木菊江梅雨の間につんつんのびしわれもこう「空が青いよ」見下している(評)「梅雨の間」をわたしは、梅雨の晴れ間と思いました。梅雨時に梅雨晴れの日がある、そのわずかなあいだに「のびのびとのびたわれもこう」、そんなふうにわたしには思えました。「われもこう」は一説には「われもこうありたい」と名付けられたとあります。作者のこころにわれもこうのようにのびのびとしたいという気持ちがあったかもしれません。下の句は、なかなか難解ですが、もしわれもこうが「空が青いよ」と作者に語ったように思ったのでしたら、作者のそのときの状態は、なにか沈んだ精神状態だったのではないでしょうか。「そんなに沈んでいないで空を見てごらん、青あおと澄んでいるよ」と上の方から言われたように感じたのでしょうか。花々をこよなく愛する作者、そんな作者に花々もお返しのように元気を与えるてくれるのかもしれません。最後に、「ツゆのまにツんツんのびし」という「ツ」の音のくりかえしは、わたしの好みのリズミカルな表現です。 黒田幸子地割れせる田の面も嬉々とよろこびて声あげおらん土砂降りの雨(評)「田の面も」、この「も」は、「わたしも、田の面も」の「も」と思われます。それから、「嬉々とよろこびて声あげおらん」ですが、「嬉々」というのは、広辞苑に、「うれしそうなさま。喜びたのしむさま。」と喜びの状態を示す言葉です。ですから、「嬉々と声あげる」で、よろこびの声をあげることになるのだとおもいます。しかし、この歌のように「嬉々とよろこびて」と言われると、「嬉々」というのが擬音のように思えて、まさに「キキ」と喜びの声をたてるというように思えるのです。それほど、雨のない状態が続いたのでした。「地割れ」であったり「嬉々とよろこびて」であったり、「土砂降り」であったり、それくらい強調しなければ作者としては物足りなかったのでしょう。 後藤早苗里芋に水やりおればどこからか蛙出てきて喜びて鳴く(評)八月は日照りが続きました。里芋の葉がどこでも枯れ始めていました。作者もこれはいけないと里芋に水まきをしたのだと思います。そうするとどこからか、たぶん里芋の大きな葉の陰にひそんで日差しを避けていたのでしょう、蛙が出て来て喜んで鳴いたというのです。きっと恵みの雨と思ったのかもしれません。雨を求めていたのは人間だけではもちろんなかったのです。日照りのときは、雨はまさに天からの恵みです。しかし、今年は八月後半から台風や長雨などの影響で水による災害が起こりました。常に恵みの雨であってほしいものです。 藤井美智子六日前元気に見舞いを受けし友終焉うらやむわれら親友(評)この五首目は「六日前元気に見舞いを受けし友その終焉をわれらうらやむ」で「親友」までは、いらないのではないかと最初は思ったのです。しかし、読みすすむうちに、これは「親友」という言葉がなくてはならない、大切なことばであることに気がついたのです。亡くなられた友は、六日前親友の見舞を受けることができたのでした。これは、やはり故人にとりましてたいへん嬉しいことだったにちがいありません。親友の見舞いを受けて元気をもらった、その元気さが反射したように見舞い客の作者たちに返って来たように感じたのかもしれません。「六日前はあんなに元気だったのに」ということです。これは、ただの友でなく親友でなくては得られない体験のように、わたしは思ったのです。作者には、お見舞に行った時の故人の元気な姿がいつまでも心に残ることでしょう。そして、ご自分も亡くなる時はあんなに元気のままで逝きたいものだという目標のようなものを得たかもしれません。これは、作者が親友だったからこそ受けることができたように、わたしには思もえたのです。 小池美恵子入退院重ねる我に添いくるる耳遠き夫の眼差し空ろ(評)「入退院重ねる我に添いくるる耳遠き夫」というのは、事実の描写であろうとまず思います。「入退院」も「重ねる」も「重ねる我に添いくるる」も「耳遠き夫(つま)」も事実であり、またそれぞれ重い言葉として伝わってきます。そうした重い事実の上に、結句の「眼差し空ろ」があるわけです。この歌を読みますと、抜き差しならぬほどの追いつめられた思いにかられるわけです。ただ、結句の「眼差し空ろ」は、事実というより作者の感じたことなのでしょう。 短歌は一人称の文学といわれます。そういう意味で、この歌の主人公は作者の旦那さまではなく、あくまでも作者ご自身のわけです。「眼差し空ろ」は、眼差しが空ろに感じたという作者の感想で、必ずしも事実とはいえないでしょう。もっといえば、「空ろ」なのは、作者の反映、作者自身の空ろさがご主人に映っているということです。しかし、空ろと感じるのは、片方で空ろでないものを感じているからこその表現です。しっかりしているからこそ反対が見えるということだと思うのです。 長くなります、ずばり結論を言いましょう。この歌はご主人に対する相聞歌だとおもいました。作者のご主人に対する愛があふれています。また、感謝があふれています。そうわたしは、感じたのです。 鈴木きみ川添いを続く並木をひとり行く緑風受く我が身わびしき(評)「緑風」は、「りょくふう」と読むのでしょうか、「みどりかぜ」と読むのでしょうか。「みどりかぜ」と読んだ方が七音にぴったと定まります。「りょくふう」と読んで結句の「我が身わびしき」に対する欠如感みたいなものを出しているのかもしれません。 「緑風(りょくふう)」は、広辞苑によれば「初夏の、青葉を吹く風。」となっています。なんといいましても、初夏のさわやかな風に「我が身わびしき」と続けるところに私はいつも驚くのです。この作者のあるすごさを感じるのです。 上の句の「川添いを続く並木をひとり行く」も普通に考えれば、「川添いに続く並木を」と「に」を使うと思うのですが、「を」としています。つまり「川添いを」で一呼吸して、「続く並木を」と「ひとり行く」にたたみかけるように続いてゆくのです。そうすることによって、心のあるたかまりというか、思いつめたというか、そういう心理的な衝迫感が出てくるように思うのです。作者はまだ作歌して間がないと聞いています。ただ、なにか歌心といいますか、なにかもっていらっしゃるように感じるのです。 土屋文恵また何時か出逢いたき花心内に約束かわす霧深き谷(評)作者は乗鞍岳に旅して感動の連作五首を出されました。一首目では、厳しさに耐えて咲く乗鞍の花、二首目は、冷気の中に咲く岩桔梗を、三首目では、短い夏を競って咲く個性的な花々、四首目で、透明な山の空気を吸い生存する小さな花たち、どの歌もくっきりとした歌で、作者の感動が直接伝わってきます。それで、掲題の五首目となるのです。 「また」といい、「何時か」とつづき、「出逢いたき花」につづくわけです。「また」と言った時の作者は、多分出逢いたい、また出逢いたいと素直に思ったことが想像されます。しかし、実際は「何時か」とぼやかしています。結句の「霧深き谷」に照応するような、ぼやっとした感じが作者のその時の心境だったのでしょうか。それゆえことさら乗鞍岳で出会った花々に、一首目から四首目までのような鮮烈な印象を受けたのでしょうか。 初句が、「何時かまた出逢いたき花」と続いていたのであれば、「また逢いたい、きっとまた逢いにくるよ」という強い作者の決意や意志を読者は感じるでしょう。しかし、それでは作者のそのときの心境と、多分一致しなかったのでしょう。
2015.09.21
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短歌鑑賞(窪田空穂の一首) 後藤瑞義鉦鳴らし信濃の国を行き行かばありしながらの母見るらむか 『まひる野』 あまりにも有名な歌でわたしがあれこれ言うまでもないのですが、わたしなりのなにか今の気持ちが出ればいいがと思いながら読んでいます。 空穂の若い頃の作品なのでしょう。母親を亡くされたようです、まだ間がないときの作品のように思います。母親が亡くなられたとき、東京にいてすぐに故郷の長野へ行くことが出来なかったのかもしれません。そんな悔いのようなものも若干感じられるような気がします。 それはともかく、この歌は、現実にはありえないと思われるのですが、空穂が巡礼になって故郷を訪ね歩けば、昔のままの、生前のままの母に会えるだろうかというのです。そんなこと有り得ないことは百も承知の空穂だったはずです。そこがなんとも切ないのです。 母を亡くした空穂、少年のような純な心持ちとなって亡き母を一途に思う空穂、その切ない空簿の心が偲ばれます。
2015.09.16
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小説「わたしの起したいくつかの奇跡」としたい(8) 後藤瑞義 わたしは、何をしているのでしょうか。何を書いているのでしょうか。結局はわたしが素晴らしい人間、奇跡を起した人間だと声高々に言っている、あるいは言いたいのでしょうか。自分自身では毛頭そんなことは考えてないのです。自己紹介もまともに出来ない、人前ではっきり話ができない、授業中教科書を読むように指名されても、まともに読むことができない、成績も目立たない中くらい、そんな商業高等学校生のわたしが慶応大学商学部と早稲田大学商学部に合格した。周りの人がおれだって出来る、そうです、その呼び水の役をわたしがしたのですと言いたいのです。奇跡を起したのは、いうまでもなく、わたしがいままで述べた方々自身の力なのです。みなさんは、やれば出来るのです、ただやらなかった、最初からあきらめていただけなのです。多分そのようなことを、わたしは言いたいのだと思います。 ただ、もうこれ以上具体的に書かないほうがいいでしょう。やはり、これからまだほんとうの人生を生きていかなければならない青年に関してだったり、今も年に何回か会っている大学時代の友人だったり、あまりにもダメージが大きすぎます。いやわたしは、こんなことを、こんな自己妄想的な考えをしているどうしようもない、いやな人間であると誤解されたり、あるいは自分で暴露しているように思われてもよろしいのですが、それでは純粋な心をもって接してくれていた人たちへの裏切り行為になってしまうように思ったのです。わたしは、こんなひどいことを考えているいやな奴なんですよと表明することによって、今まで純な気持ちで、後藤はほんとうに田舎育ちの純朴な人間、良い奴だ、と純な気持ちで接してくれた人たちへの裏切り行為になるように思うのです。国体に優勝した君の功績も、または大学時代の友人たちの奇跡的なことも、みんなわたしの御蔭だなどと書いたら、あまりにも平素のわたしの態度からするとまるっきりの裏切り行為、心の腐った人間の思うこと、ああ…きっとそう思われるでしょう。わたしは、どれだけ、けなされてもかまわないんですが、純に接していてくれた人たちの心に負うであろう傷を思うとやはりこれ以上書かないほうが良いでしょう。この章でこれだけ、もうこれだけ書いただけで、読む人が読めば、まったく読むに耐えない文章のはずです…。 そういえば、わたしには妙な巡り合わせが、子供の時からありました。その子供のときのことを、次回に少し書かせてもらえますでしょうか。よろしいでしょうか。なにか書きたい衝動にかられるのです、最近短歌が出来ない反動かもしれません。申し訳ありません。
2015.09.16
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白浜短歌会九月歌稿(九月十六日歌会です)下書き A子さん 真夏日に白砂埋める避暑の客パラソル一杯花咲く大浜(海辺) 夏も去り行き交う海道姿無く監視所アナの美声も消え去る 1.「真夏日」がよいか「猛暑日」がよいか。「猛暑日」にすると、少し批評的、批判的な感じがするでしょう。「こんな暑い日に、わざわざ…」といった気分が加わりませんか。「大浜」を「海辺」とすると、ちょっと一般的な、どこでもある夏の風景といった感じになります。「大浜」とすると、作者の近くの海辺であろうと思われ、作者が実際に目にしている感じが強くなりす。 参考:猛暑日に白砂埋める避暑客のパラソルいっぱい開く大浜 2.意味はよく分ります。夏の賑わいの過ぎた虚脱感でしょうか。まず、「消え去る」の「去る」は不要と思います。上の句にも使っておりますので。「夏も去り」は、ちょっと説明的な感じがしないでもありません。下の句で夏の去ったのが分ると思います。 参考:海道に行き交う人の姿なく監視所アナの美声も消える B子さん 指先を糸瓜たわしで泡にして子規の辞世なぞる夕昏れ プチトマトもいでは口に放りこむ畑の中にぜいたくありぬ(て)(し) クワガタの死がいを運ぶ蟻の群れどこまでゆくかあとを追いたし 1.子規の辞世は次の三句といわれています。「糸瓜咲て痰のつまりし仏かな」「痰一斗糸瓜の水も間に合わず」「をとヽひのへちまの水も取らざりき」。へちまの水は淡によいといわれていたようです。指先に泡をつけ、子規の辞世の句を壁かなにかになぞったのでしょう。糸瓜たわしが出てきてまさに子規を思い出させます。時あたかも夕昏どきでものかなしい気分が伝わります。はかない泡で辞世をなぞるという発想はすばらしい。 2.「ありぬ」の「ぬ」は厳密には完了の助動詞です、ただ口語では「あった」となるでしょう。この歌は、「ぜいたくありぬ」が先で、それを受けて、今「口に放りこむ」となるのでしょうか。「ありて」は、「口に放りこむ」と同時的な考えでしょう。「ありし」の「し」は過去の回想の助動詞ですから、「ぜいたくがあったなあ」ぐらいの感じでしょうか。結論的には「ありて」でしょうか。「ありぬ」も、ありえるとは思います。ともかく、「ぜいたく」という発想がよいと思います。 3.虫の死骸にしても、「クワガタ」がきいているでしょう。蟻との比較が鮮明になるでしょう。「どこまでゆくかあとを追いたし」という発想がやはり特異でよいと思います。 C子さん 家族 (うから)来て冷蔵庫を開きみて期限の切れたは捨てろと云いゆく 畑仕事トマトキュウリの後仕末小さき葉?の虫背中をつつく 杖をつき日蔭の路を散歩する九十路のしあわせちょっとそこ迄 1. よく分る歌ですが、ちょっと時間が入っていてだらっとしている感じがしました。「家族」と言っているのは、あるときは息子さんだったり、あるときは娘さんだったりするのでしょう。「云いゆく」というのも、云って帰って行くといったことでしょうか。たとえば、娘さんに言われた瞬間を切り取ることがやはり短歌の本道だと思うのです。 参考:冷蔵庫の中を調べて娘言う「期限切れたらどんどん捨てて」 2.「葉」という字だったでしょうか、ちょっとくずしてあって読めなかったのですが。「葉の虫」ではなくて「美の虫」ですか。「小さな虫が作者の背中をつっついた」作者にとってはそれが意味のある事なのでしょう。かんばってるねといった励ましだったかもしれません。「畑仕事」と「トマトキュウリの後始末」が重複しているようにも思うのです。 参考:汗ふきてトマトキュウリの後始末小さな虫が背中をつつく 3.よい心境です。平安、平穏な心を保っていたいものです。「九十路」はなんと読みますか、「ここのそじ」ですと字あまりですが。 参考:杖をつきちょっとそこまで散歩する九十歳(きゅうじゅっさい)の幸(さち)をかみしめ D子さん やめようかいやもう少し頑張るか涼風 ( かぜ )がするりとほほを横切る 夏の海底まで透かし人を待つ(興味ひく)海へおいでと波が寄せくる 1. 「やめたんでしょうか」「もう少し頑張ったのでしょうか」「風がするりと横切った」という表現はどう解釈したらいいかちょっと分りませんが。個性的な表現であるでしょう。「体」でもなく、「顔」でもなく「ほほ」としたところ、そのほほを「するりと横切る」とは? 参考:やめようかいやもうすこし頑張らん涼風(りょうふう)するりとほほを横切る 2. 何か少し不気味な感じがしました。人を引きこむような海の不気味な恐ろしさを感じました。特殊な切り取り方でよかったと思います。「夏の海」と特定しなくてもよろしいのではないでしょうか。「興味ひく」より「人を待つ」がよろしいと思います。 参考:底までを透かして人を待つ海かおいでおいでと波が寄せくる E子さん 賑やかな最後の客の帰りたるあとはガランド風の吹きぬく 雨続く日は心もとなく妹の声を聞きたく電話かけたり 七十年切れぬ絆の友二人弱気出すなと便りを貰う 1.「賑やかな最後の客が帰った」というだけで、「ガランドになって風が吹きぬける」感じをかなり表していると思うのです。この辺が短歌で一番むずかしい、重要なところになるかと思います。説明しないということを言われますが、それにも関係があるでしょう。 参考:賑やかな最後の客の帰りたる空(あ)きたる部屋に秋の風吹く 2. これも気持ちのよくわかる歌だと思います。お気持ちはこの通りだと思います。「雨続く日は」とすると、いつものこととなります。短歌はやはり新鮮さ、一瞬一瞬の貴重な体験を切り取りたいと思っています。 参考:雨続く心もとなさ妹の声聞きたしと電話かけたり 3.七十年も親しく交際をしている友人がいらっしゃるのでしょう。貴重なことです。この場合は、二人と数を入れなくてもよろしいのではないでしょうか。そのような友人がいることがすばらしいことですので。「便りを貰う」というより、今その便りを読んで感動していることが重要と思いました。 参考:七十年切れぬ絆の友よりの弱気出すなの便り読みおり F子さん 夏空に白きむくげの咲きみちて亡き母しのび香をたむける 軒端にて杉の葉いぶし蚊を追いき工夫に生きし戦中戦後 1. お母様はむくげの花がお好きだったのでしょうか。「夏空に白きむくげの咲きみちる」という表現はすごいですね。むくげの木が高くて、空に花が咲いているようにみえたのでしょうか。それとも、白雲をむくげの花にみたてているのでしょうか。どちらにしましても、スケールの大きさを感じます。お墓参りなのでしょうか。「香をたむける」としております。「白いむくげの花」の清楚な感じにお母様が重なるのでしょうか。 2.「蚊を追いき」、「き」ですから、過去の回想です。この「き」がきいていると思います。「工夫に生きし」まさに、物のない時代でしたでしょうから、工夫でおぎなったのでしょう。第二次大戦中および終戦直後の事情を簡潔に表現しています。 猛暑日 原 明男 人込みの監視カメラに睨 ( ね )められつ店内めぐる猛暑日の午後 くりや辺に水道水を弾かせて麺すすぐらし茗荷がにおふ 1.まず猛暑日の午後だということです。それに、「人込み」であってそれは店内であることが分ります。コンビにかなにかそんな感じでしょうか。こんな猛暑の日には何か良くない事が起るかもしれない、この気温で頭がおかしくなる人間が出るかもしれない。ふとそんなこと思いながら店内をめぐっていると、自分も監視カメラに睨まれているんだということに気づきます。そんな作者の姿を想像をしました。 2.台所からたぶん昼食の仕度をしている物音がしたのでしょう。水道水が勢いよくながしにはじける音がしています。茗荷のにおいもしてきました。昼の食事は素麺だなと作者は気がついた。さっぱりと素麺をすする作者の想像をおもい浮かべました。と同時に作者もまた食事の主導権は奥様にあるようですね。
2015.09.12
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平成27年9月8日(火)よみうり文芸(静岡版) 篠 弘選 秀逸に入選する一声が二声三声うぐいすの声はたちまち山にこだます 後藤瑞義(読売新聞静岡版 よみうり文芸 九月八日 秀逸 篠 弘 選 )(評)単純化された表現が、みごとに迫力をもつ。うぐいすの美しい声に酔いしれた瞬間をいとおしむ。じつに鮮明な表現。
2015.09.08
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小説「わたしの起したいくつかの奇跡」としたい(7) 後藤瑞義 私の文章をS先生やT君が、またこれから書かれるだろう人たちが読んだらどうなんでしょうか。「後藤、ばかなことを書いている。」と思うでしょう。小説ですから、そうことわっていますから、もう少し書かせてください。お願いします。「クラス会」T君から同郷の、今も富士宮に住んでいる、T君、養子に行って苗字がSになっていますが、そのS君に連絡がつき、急きょクラス会をするようになったのです。郵送等はS君がすべて手配してくれて、クラス会をわたしの勤めているホテルですることになったのでした。S君はクラス会の案内を全員ではなく、気心の知れた者だけに出したようです。十三人ほど集まりました。皆三十年以上会ってなかったのでした。S君がS銀行に勤めている関係でやはりS銀行に入った級友が4、5人いました。S銀行といえば静岡県ではトップ企業のなかの一つでしょう。慶応大学に行けば就職は簡単に出来ると安易に考えていたわたしは、たいへんな思い違いをしていたことに気がついたでした。たとえば、S銀行などはわたしの成績では試験を受けることさえ許されなかったのです。大学から推薦状がもらえなかったのです。私の成績は上中下でいえば、中程度ではあったとは思うのですが。なんにしても、丁稚奉公を逃げ回るだけで将来のこと、将来の就職のことなど何も考えなかったのでした。その付けがいっきに来た感じで、まず就職には苦労しました。なんにしましても、人前で話が出来ないのは致命的でした。横道にそれました、三十数年ぶりに高校のクラスメイトに会ってひとときの宴(うたげ)に酔いしれたわけです。そして、わたしは、いっきょに高校時代にタイムスリップしまして、みんなの話を横から聞く、聞き役になりました。そのうち、各人の子供さんといいますか、息子さんの話になったのでした。(わたしはその会話には加わらず、ずっと聞き役を通しました)「うちは東大をなんとか出て、K建設に就職した。」「じつは、うちも東大なんだけど、M商事になんとか入ることができた。」「うちは、京大…」「うちは、東工大…」…。(おい、おいわたしの子供が心身障害者だと知ってか、ちょっと冗談がきついなあ…)内心わたしは面白くなかったのでした。しかし、これは冗談でもなんでもなく事実だったのです。わたしの級友のご子息がみんな、いやみんなではないかもしれませんが、素晴らしい大学を卒業し素晴らしい、日本のトップクラスの会社に就職されていたのです。級友たちは、自己紹介もまともに出来ない、人前ではっきり話ができない、授業中教科書を読むように指名されても、まともに読むことができない、成績も自分より明らかに劣る、そんな後藤が慶応大学商学部と早稲田大学商学部に合格した、もし自分が受けていたら自分も必ず受かっていただろうと常々子供たちに話していたのでしょうか。いや、これは話す必要はないのかもしれません。心のなかで確信していれば、それだけで十分だったのかもしれません。父親のその確信が不思議に子供たちの心に伝播したとしか言いようがないのです。わたしが、平凡なわたしが、平凡というより劣ったところの多いわたしが、沼津商業高等学校から、初めて慶応大学商学部に入学した、そしてこのことによって、級友達にまたそのご子息にすばらしい影響を及ぼした。東大に入学させ、京大に入学させ、卒業後は一流企業に就職させた。このことを、「わたしが起こした奇跡」とわたしは言うのです。読者のみなさんのなかには、後藤さんあなたは、慶応大学や早稲田大学に合格したり、あるいは東京大学や京都大学に合格したり、あるいは教育長になったり、公認会計士になったりすることがすばらしいこと、成功者と思っているのですね、それは一面的な見方ではないですか。とおっしゃる方がおありだろうと思います。ごもっともです。その通りです。しかし、これは人間社会の立派な現実です。ですから、わたしは、それを軽視しようとは思いません。人間は富や地位などを得るためにに心血を注ぐことも事実なのです。功成り名をとげること、豪華な邸宅、高級車、などなど、それを求めることをわたしは一概に軽視しようとは思わないのです。ただ、啄木の「頬(ほ)につたふ/なみだのごはず/一握の砂を示しし人を忘れず」の世界もわたしは承知しているつもりです。そこには、頬に流れ落ちる涙をぬぐうこともなく、ひと握りの砂を示している人がいます、なんの価値もないひと握りの砂をです、(このひと握りの砂がわたしの持っているすべてですとでもいうように)(わたしはこのひと握りの砂のようなものですといっているように)(わたしの短歌はこのひと握りの砂のような価値のないものですとでもいっているように)(わたしの人生はこのひと握りの砂のような価値のないものですとでもいっているように)、ただひと握りの砂を示して泣いている人。わたしは決してこの人を忘れないだろう、と啄木は言っているのです。こういう世界、ピュアな、純な、純粋な世界といいますか、芸術の世界というのでしょうか、一般的な価値の尺度では計れない世界というのでしょうか、そういう世界も一方ではある、それもまたたしかな事実であると思います。なにか、えらそうなことを書いて申し訳ありません。 (つづき)
2015.09.03
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小説「わたしの起したいくつかの奇跡」としたい(6) 後藤瑞義そんなにあわてて書くつもりはないのですが。ただ、つぎからつぎへといろいろな思いが湧いてくるのです。今回は少し書き急いでいると自覚しています。「公認会計士」長女が誕生して二ヶ月しか経っていませんでした。三度目の会社に勤めて三年目くらいでしょうか、会社は事実上倒産をしました。商社安宅産業の子会社で、連鎖倒産的なことだったと思います。この窮状をH氏に救われたのでした。H氏は大分のご出身、彦根高商(現滋賀大学)を卒業され住友本社に入社されたのでした。戦前のことで石炭部門が盛況だったため、銀行部門に行かず石炭部門に入られたようです。戦後斜陽化した住友石炭でたいへんご苦労されたようです。転職し、当時熱海に建設中だったリゾートホテルの立ち上げにご尽力されていたのです。H氏との奇しきご縁はここでは割愛さしてもらいましょう。話せば長い長いお話となります。五百室あり、半分はリゾートマンションとして分譲し、残りの半分をホテルルームとして営業していました。開業二年目となるこのリゾートホテルに、わたしは閉鎖されるまで、いや正確には残務整理の終わるまで二十数年お世話になるわけです。それはそれとしまして、本題に入らしてもらいましょう。入社して十年くらいたったでしょうか、フロントより地下の事務室に電話があったのです。面会の人がフロントに来ているというのです。フロントに行ってみると、いかにも温厚そうな紳士がにこにこして寄ってきたのです。「後藤君久しぶり」と言うのです、わたしはきょとんとして誰だか解しきれずにいたのです。「Tですよ、君がここに勤めていることを最近知ったので…。ぼくはここのオーナーでオープン当時からたびたび来ていたんだが、…」「地下の事務室にいつもいるので、フロントとか表に出ていないもので…」。名詞を見ると公認会計士となっているのです。東京の青山に事務所を持っているのが分りました。頬がもっとほっそりとしていたのに、すっかり丸顔になっていました。大学で会って以来二十数年会っていなかったのです。「後藤君このホテルでクラス会をしないか。みんなが会いたがっているよ。」今回のメーンのテーマ、T君について語らねばならないでしょう。大学二年ですから、日吉のキャンパスでした、一瞬わたしは凍りついたようになって一人の学生に会ったのでした。それが、T君だったのです。「ぼくも、後藤君に続いて今年入ったんだよろしく」わたしは、なんと話したらよいか分らず、それに級友何人かで学食(学生食堂)に行く途中だったので、二言三言、何を言ったか分らず別れてしまったのでした。T君とは、沼津商業高等学校で二年生と三年生、ともに同じクラスだったのです。富士宮の出身だったと思います。成績も彼のほうがよかったと思います。高校時代からもの静かな、どことなく品のある、良いところのぼちゃんといった好青年でした。一方わたしは自己紹介もまともに出来ない、人前ではっきり話ができない、授業中教科書を読むように指名されても、まともに読むことができない、暗い感じの学生だったのです。そんな私が入学できた慶応大学に彼が入学したのはなんらの不思議もないのです。再会したときの驚きと同時になんともいえない複雑な心持ち、なかなかいまも表現できないのです。ここで本来は旧交を温めるべきでしたが、すぐ日吉と三田とにわかれてしまって、結局同じ高校出身者同士なのに、よそよそしく大学時代を過してしまったのでした。今回の再会は二十数年ぶりとなりましょうか。T君はわたしに続いて沼津商業高等学校から慶応大学に入学した二人目となりましょうか、もちろん同じ商学部です。もし私が沼津商業高等学校から慶応大学に入学していなかったら、または、入学したのを彼が知らなかったら、T君は次の年に慶応を受験しなかったのではないでしょうか。後藤より自分のほうが成績が良い、後藤が合格したのだから自分だって慶応大学の商学部に合格できる、と確信し次の年に無事合格したのでしょう。もっといえば、もし私が慶応大学の商学部に合格していなければ、彼の輝かしい公認会計士の地位もなかったかもしれないのです。成績が劣る私が慶応大学にチャレンジして合格したことでT君の将来も開けたようにわたしは思うのです。このことを、「わたしが起こした奇跡」とわたしは言うのです。 (つづき)
2015.09.02
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平成27年9月1日(火)よみうり文芸(静岡版) 篠 弘選 に入選する東京のペースにやはりなじめないエスカレーター駆け下る人 後藤瑞義(読売新聞静岡版 よみうり文芸 九月一日 入選 篠 弘 選 )
2015.09.01
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小説「わたしの起したいくつかの奇跡」としたい(5) 後藤瑞義「静岡県教育長」 県知事の推薦した何とか大学の学長だった人が議会の反対を受けて教育長になれなかったことが、テレビをにぎわせました。静岡県の教育界のトップとなる人だから、誰でもいいというわけにはいかないのでしょう。その静岡県教育長なんですが、もう二十年くらい前になるでしょうか、静岡県の教育長といわれる人がテレビに出ていたのです。温厚なお顔をしていらっしゃって、見違えましたが、卓上のネームプレートを見てぎょっとしたのでした。「S犬(エスケン)」じゃないか、いや失礼しました、S健(たけし)先生ではありませんか。いつも、がみがみ叱ってばかりいる先生で、「S犬」とあだなされていたのでした。わたしの、沼津商業高等学校二年G組の担任の先生でした。たしか「商事」という科目を教えていたのだと思います。あるいは「商業一般」だったかもしれません。商業高校ですから、いろいろな科目があったのです。「ソロバン」や「簿記」はもちろんです。簿記は、「商業簿記」「工業簿記」とがありました。「会計」、「法規(だったと思いますが)」、「商業英語」、「商業実習」のようなものもありました。ですから、普通高校のように「国語」「数学」「社会」「理科」の科目がだいぶ削られていたのではないでしょうか。高校二年となってまたも進路の悩みが出てきたのです。このままだとまたもや丁稚奉公にやらされてしまう、その恐怖心です。そこで、またしても丁稚奉公に行かない方法を考えたのです。その結論は大学へ行くことだと思ったのです。ただ、大学についての知識はまるっきりありませんでした。親族にも大学に行った人がいない、そのような家庭環境だったのです。そこで本屋に行きました。「蛍雪時代」という、旺文社という会社の受験雑誌があることを知ったのです。普通の大学であったらとても受験は許されません。日本のトップクラスの大学に合格しなければとても許されないだろうと考えたのです。商学部では、国立大学ですと一橋大学、私立ですと早稲田大学か慶応大学だろうとなんとなく目標を決めたのでした。担任のS先生と進路相談の面談があったのです。「大学に行きます」までは、S先生も平静に聞いていられたと思います。次に志望校のところにきて、最初さっと赤味を帯びた顔がすぐ、むしろ青ざめたようになったのです。その当時、沼津の千本松原の近くに脳病院があると聞いたことがありました。今考えますとS先生の脳裏にはこの病院のこと、入院手続きのことなど、大変なお荷物をかかえこんでしまったという思いが、あれこれ駆け巡っていたことだと思います。一方、わたしの方はといいますと、いつも真っ赤になって怒鳴り散らすS犬先生が青ざめた表情で声を落しているのを見て、どこか体が悪いんじゃないかと真剣に心配したのでした。S先生が何をこんこんと説明されたのか、正直のところあまり覚えておりません。若いころは大きな夢を見る、それは大事なことだ、しかし、現実を忘れてはいけない、出来ることから、地にしっかり足をつけてから始めなければいけない。多分そのようなことを、語調を落とし、しんみりと語ってくださったのだと思います。しかし、私の方は、生きるか死ぬかなのです、とても丁稚奉公はつとまらない、それだけはなにがなんでも避けたいと心に決めていたのです。科目の多い一橋大学はさすがに断念せざるを得ませんでした。そして、早稲田大学と慶応大学の商学部を受験したのでした。慶応大学の方が合格発表が早く、且つ不思議なことに授業料がだいぶ安かったのでした。早稲田大学の方は前の年に授業料が上がっていたのでした。慶応大学はわたしが二年の時に授業料が2倍になりましたが、前年に入学した私たちには適用されないのです。沼津商業高等高校から慶応義塾大学に入学した学生は、戦後つまり昭和20年以降いなかったようです。戦前には、沼津商業学校といわれていましたが、2度のオリンピックに出場し、銀メタル、銅メタルを取った小池礼三という人がおって、慶応大学に進学したということです。あまりにも偉大な先輩であるために、その偉業を傷つけないように、沼津商業高等学校から慶応に進学するのは暗黙のタブーだったのでしょうか。分りませんが、もしそうなら、わたしはそのタブーを破ってしまったことになります。ともかく、ここでもわたしが戦後初めて慶応大学に入学したことになったようなのです。思えば伊豆の天城山の麓にある上河津村立上河津中学校から開校以来初めて沼津商業高等学校に入学し、またしても沼津商業高等学校から慶応大学への初めての入学者になったようなのです。さて、これもたいへん奇跡的なことなのですが、私一人のことであれば単なる自慢話になるでしょう。自己紹介もまともに出来ない、人前ではっきり話ができない、授業中教科書を読むように指名されても、まともに読むことができない、クラスのなかでそれほど学業が優れているともおもえない、そんな私でした。その私が慶応大学の商学部に入学したのです。わたしのこの出来事は、少なからずS先生の心に変革を起したのではないでしょうか。後藤だって慶応大学の商学部に入学できたんだ、自分だって…、自分だって教育長になっておかしくないんだ。まあ、そんなふうなことかもしれません。S先生が実際にはどんな人だったのか、商業の高校で商業科目を教えていた一商業高校の教師だったこと以上に知るところがわたしにはありません。今年就任した教育長の前歴は静岡県立大学の副学長です、名誉教授であり、薬学博士でした。そんなことを考え合わせますと、S先生の教育長就任はまさに奇跡的なことではなかったでしょうか。もしS先生が高校二年生の時の私の担任でなかったならば、そしてわたしの進路面談をしていなかったならば、あるいは教育長にはならなかったかもしれません。このことを「わたしが起こした奇跡」とわたしは言っているのです。 (つづく)
2015.09.01
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