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平成28年3月29日(火)よみうり文芸(静岡版) 花山多佳子選 に入選する両眼を入れられダルマ積まれおり節分待てるてらの境内 (読売新聞静岡版 よみうり文芸 三月二十八日 入選 花山多佳子 選 )
2016.03.29
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三月号歌評(歌誌「賀茂短歌」3月号)下書き 後藤瑞義 原 明男 若き等が大きなハートの砂絵文字はちきれそうな浜の夕映え (評)若者達が砂浜に大きなハートの絵文字を書いた。それは、若者らしくはちきれんばかりのものであったのでしょう。「はちきれそうな」という言葉をわたしは、絵文字に掛けて鑑賞しました。ですから、「はちきれそうな」で一拍間をおいて、「浜の夕映え」と読みたいと思います。「はちきれそうな浜の夕映え」もありえると思いますが、八十代の作者の心持を考えますと、「若者のハートの絵文字」のはちきれそうな若さと作者自身の「夕映え」との対比を味わいたいと思いました。 渡辺つぎ 由緒ある下田の土地の一粒の砂となりたし百五歳われ (評)まず、「由緒ある」という言葉に注目しました。「由緒ある」とは、具体的には何をさすのでしょうか。下田といえばまず黒船、開国を思い浮かべます、それは日本を大変革した歴史的な大事件だったわけです。それは、偶然のなせる業のように思われますが、下田の土地にもともとそうした不可思議な力、強力な引力のようなものが備わっていたのか、分かりませんが、作者には何か感ずるところがあったのでしょう。百五歳の長寿を得ている作者の心に一粒の砂でもいい、この下田の土地と一体化したいと思わせたものは何だったでしょうか。それは、由緒あるという言葉とともに具体的には謎なのです。 鈴木菊江 冬鳥は好みの実から啄みて庭は天国高らかに啼く (評)「冬鳥は」、この「冬」がいいと思います。ヒヨドリなど具体的な名前よりわたしは、「冬鳥」がいいと思ったのです。食べ物のあまりないであろう「冬」です。冬には鳥も飢えていることでしょう。作者の庭には、たとえば南天とか千両とかモチの木とか色々実のなる木があるのでしょう。それを無差別に食べるのでなく、なにか一定のルールがあるように感じたのでしょう。それを、「好みの実から啄みて」いるように感じたのでしょう。その満ち足りている鳥を見ている作者、「庭は天国」は、作者の心持が言葉になったように感じます。高らかに啼いている鳥は作者自身が投影されたものかもしれません。 黒田幸子 歌の種子道に落ちてる筈もなし微笑みはじめし桜見上ぐる (評)われわれは普通に「歌のたね」ということばを使います。歌、つまり短歌を作る時、ちょうど植物の種のようなものがあって、それが花になるように、歌の種があってよい短歌が生まれるように思うのです。ですから、短歌を作る時まず種をさがすのです、短歌に花開く種をさがすのです。作者も短歌の種を探していたようです。そのとき作者ははっと気が付いたようです、下を向いて歩いていることを…。あるいは沈んだ気分でもあったかもしれません。しかし、上を見上げるとそこに咲き始めた桜の花、つまり微笑みはじめた桜が、いや桜の花が作者に微笑んだかもしれません。やはり、下を向いてはいけない、上を向かなければと思ったかもしれません。 後藤早苗 血圧の薬を飲んで二十年今日より飲むなと医師に言われる (評)低血圧の私には、高血圧のなんたるかがよく分かりません。ですから、この歌を鑑賞できるか自信はありません。それは、それとしまして「血圧の薬を飲んで二十年」はたいへん重い言葉です。それなしでは、その血圧の薬なしでは体調を保つことが出来なかったということでしょう、二十年間も…。それが医師より、今日より飲む必要がないと言われた、いやもっと強い言葉で「飲むな」つまり、「飲んではいけない」と言われたのです。言外に、病気が良くなったのか、それで飲む必要がなくなったのか、あるいは別の理由で飲んではいけないのか、揺れ動く作者の心を垣間見る思いがします。 藤井美智子 花粉症の予防対策あれこれの一つに錠剤ピンクがやさし (評)幸いなことに、私は花粉症に悩んだことはありません。しかし身近にかなりの人が花粉症に苦しんでいるのを見て驚くのです。くしゃみなどによる鼻水やもちろん目なども苦労うしているようです。「予防対策あれこれ」というなかに、鼻の対策あるいは目の対策などがあるんでしょう。マスクはもちろんのこと、目薬や飲み薬などいろいろあるんでしょう。そんななかで「ピンク色の錠剤」があったのでしょう。現実の花粉症の苦しさのなかでふとそのピンク色の錠剤に気分がやわらいでいる自分を発見してのではないでしょうか。花粉症はやはり春に始まるようです、そのピンク色の錠剤はさくらやももの花を連想させたかもしれません。「ピンクがやさし」に実感がこもっているように感じます。 小池美恵子 再会を喜ぶ我にどのくらい?嬉しいか問う六歳の女孫 ( まご ) (評)確か、作者には北海道に暮らしていらっしゃる娘さんがおったと思います。六歳のお孫さんは、その娘さんのお子さんだと思います。それにしても、「どれくらい嬉しいか」と問う六歳の子に圧倒されます。嬉しさの程度を問うているのです。わたしが問われたら、一瞬とまどったでしょう。二の句が告げないといった感じでしょうか。なにげなく深い意味もなく使ったりする、「逢えてうれしいよ」といった言葉、この歌の作者はそうではないにしろ、幼い子は鋭く問いかけるのです。軽々しく言ってはいけないと私自身は自戒したのでした。 鈴木きみ 野良子猫泣き声透り手立て無く耳ふさぎして明け方に消ゆ (評)まず、「野良子猫」という言葉がいかにも哀れを誘います。野良猫の産んだ子は当然のことながら、住む家のない過酷な運命が始まろうとしています。生まれたばかりの子猫、まだ汚れていない子猫の声はさぞ透き通るように作者の心に響いたことでしょう。しかし、作者にはどうすることも出来ないのです、ただ耳をふさいで布団におったのでしょう。そして、時間が経過して明け方となると、子猫の声は消えていたのです。短歌には時間を入れないのが普通です。時間を入れるとどうしても散文化してしまうなどと批判されるのです。しかし、作者はまんじりもせず明け方まで眠れない一夜を過ごしたのかもしれません。 土屋文恵 踏まれても又踏まれても野の草の芽吹きたくまし自然の摂理 (評)大自然の営みに感動している作者です、それを「自然の摂理」という言葉によって表現しています。具体的にどのようなことかというと、「踏まれても又踏まれても野の草の芽吹きたくまし」です。これは純粋な写生というよりやはり観念的な色彩が強いように感じました。さて、作者の心持を考えますと、あるいは沈んだ心、折れそうな心を感じていた時だったかもしれません。そんな心をふるいたたせるように、わたしも自然の一部、その偉大な力に身をまかせよう、そういった気持ちの上で作られたようにも思ったのです。
2016.03.23
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白浜短歌会三月(三月十九日)歌評下書き A子さん 春の庭芝生の合間に顔を出し大空仰ぎ伸び行く雑草 晴れる日に我が部屋迄も恵の陽お礼述べつつ温陽いただく 1.作者は九十歳になられたでしょうか。あまり行動範囲が広くないなかで、庭をながめたのでしょう。春の光が芝生を照らしているでしょうか。そうしたのどやかな感じの中で作者は芝生ではなく芝生の合間に伸びている雑草に目を止めています。「大空仰ぎ伸び行く雑草」に作者の思いを感じます。雑草のたくましさに作者の憧れのようなものを感じます。 2.「晴れる日に」、「恵みの陽」「温陽」とくどいくらいに光の恵みに感謝しているようです。そのくどいくらいの強調がかえって作者の置かれている環境を思わせ、心に迫るものを感じます。 B子さん 「新世界」ドヴォルザークにシンクロす幼な児の声消えたる里よ 葉桜に三十一文字 ( みそひともじ )を遊ばせて万葉の世につかの間出逢う 海見たく車走らせ浜見ればかげろうの春波はフラット 1.上の句は、「新世界」、ドヴォルザーク(の曲)にシンクロ(一体化)するということでしょうか。何がシンクロするかというと、下の句の「幼な児の声消えたる里(の風景あるいは状況)」でしょうか。クラッシックはくわしくないですが、「新世界」は有名なので聞き憶えています。たぶん第二楽章の、日本でも「家路」として愛唱されている旋律、なにか牧歌的といいますか、それと子供が少なくなった里のイメージが重なるような気がしました。第一楽章の、荒々しい、太鼓(ティンパニ)などのとどろくような迫力のある旋律から、第二楽章の穏やかな感じとなる落差がなにか、現在の子供の少ない里になったことを連想させました。「新世界」という言葉にも作者の思い入れがあるでしょうか。第一楽章の激しいとどろきあるいは叫びに、産声を連想するかもしれません。案外深い歌かもしれません。それは、クラッシックをもってきたことによるでしょう。 2.「葉桜に三十一文字を遊ばせる」とはどういうことでしょうか。葉桜を見ながら短歌を作った、あるいは思ったのでしょうか。桜の葉から万葉を連想し、万葉集をまたその時代に思いを馳せたのかもしれません。その時代は思いを歌に込めた時代だったのです。現在はいろんな表現方法がありますが、万葉人のように短歌に思いをこめていると、まるで自分が万葉の世にタイムスリップしたように「つかの間」思ったのでしょう。「万葉の世をつかの間思う」のではなく、「万葉の世につかの間出逢う」という表現が、なかなか良い表現だと思います。リアルというか臨場感があるというか。 3.この歌には時間が入っています。「海見たく車走らせ」に時間が入っています。短歌に時間を入れると間延びし歌がだらけるい言われます。これが短歌にとってふつうは傷となるのです。しかし、この歌では、不思議とその間延びした感じが下の句とよく響き合っているように感じるのです。「かげろうの春」「フラットな(平らかな、おだやかな)波」は、おだやかな平和そのものを感じますが、わたしにはそれが、かえって孤独感のようなものを感じさせるのです。 C子さん 朝寝坊独り暮らしの気楽さか雨戸開ければ朝日さしこむ デーの日を忘れぬようにとカレンダーに大きな赤丸印しておきぬ 日を追いつ千羽の鶴を折りつづけよく頑張ったと完成よろこぶ 1.独り暮らしの作者、朝寝坊をし、独り暮らしは気楽だとひとりごとを言っているようです。昔はこんなことはなかった、うす暗いころから起きて食事の支度をしたりお弁当を作ったりしたのでしょう。雨戸を開け、まぶしい光を浴びて昔を思い出したことでしょう。 2.「デーの日」とは、デイサービスに行く日なのでしょう。楽しいのでしょう、それが言葉ではなく、「大きな赤丸印しておきぬ」に表れています。このように、自分の気持ちを感情語(うれしい、とか楽しいとか)を使わないで表現することが大切だと思います。 「デーの日」という表現は、出来れば、「デイサービスの日」としたいと思います。 3.何日をかかって「千羽の鶴を」折りあげたのでしょう。完成おめでとうございますとこちらからも言いたいと思います。ただ、ご自分のことであればもう少し抑えた表現のほうが余韻が増すと思います。短歌は一人称の文芸ですから、ことわりがないかぎり作者のこととして読みますが、この作品に関しては、他人が折っている、あるいは一緒に折っているような感じがしました。 D子さん 短歌 (うた)を見て性格ずばり言いくれし師の一言に気持洗わる ひな祭り雛に磯物そなえたくすべりころばず磯場をさがす 1. 「短歌を見て」という表現にまず、注目しました。普通は「短歌を読み」でしょう。これは多分作者に占い(手相を見てもらう)的な思いがあったのかもしれません。ただ、占いなら「性格ずばり当てくれし」となるところかもしれません。それをあえて「言いくれし」といったところが、よいのかもしれません。「師の一言」はなかなか強い言葉です。「気持洗わる」は、普通は「心洗わる」ですが、あえて「気持」にしたのでしょう。まあ、軽めにさらっと詠んだということでしょうか。 2.「ひな祭り雛に磯物そなえたく」は、海辺に住んでおられる作者にとって自然に浮かぶ思いなのでしょう。次の、「すべりころばず」に目が止まったのです。「すべらぬように磯場をさがす」とか、「ころばぬように磯場をさがす」といった表現が思いつくのですが、「すべりころばず磯場をさがす」となっています。「すべりころばず」は、すべりころばないでという意味ですから、「磯場をさがした」つまり「磯場さがせり」とか過去形にするのが普通のように思うのですが、あえて現在形にして臨場感を出したのかもしれません。細心の注意をして磯物を採っている作者が目に浮かびます。 参考:磯物をひな人形にそなえたくすべらぬように(ころばぬように)磯場をさがす E子さん はやばやと散りたる河津桜の木若葉萌え立ちこころ充たさる うねりうねり寄せくる波のように見ゆ今日の竹林荒れに荒れてる にぎやかな女 ( ひと )が入り来て何時の間に雰囲気変る女の座敷 1.花の散った桜の木に、また一方では若葉が萌え立っている。そういう相反するものを一首に取り入れて歌としたのは良かったと思います。散る花があり、萌え出る若葉がある自然の摂理、それに作者は感動しこころが充たされたのでしょう。もし、「こころ充たさる」が一番言いたいのであれば、あえてそのことは言わないというのも短歌の作り方です。参考はあくまでも参考です。 参考:はやばやと散りたる河津桜の木みどりいろなす若葉萌えたつ 2.強風に吹かれて荒れ狂っているような竹林の様子を大海原の波のうねりに見立てています。「今日の」がいいと思います。いつもと違っているのでしょう。その荒れ方を波にたとえることによって津波などをも連想しました。3・11の東日本大震災の時期と重なりタイミングのよい短歌となりました。 3.「女の座敷」というのが、男性の私には分かりずらかったのですが、女性特有の特別な意味があるのでしょうか。何かシーンとした、緊張した雰囲気だったのでしょうか。そんな中ににぎやかな女性が入ってきて、一座の雰囲気がなごやかになり、にぎやかな楽しい宴席となった。その女性に感謝しているような気もしました。 F子さん 引く草も手に暖かし彼岸会の近づく墓処にめじろ行き交う 萌え出づる春の草木のみづみづしわが住む庭をあかず眺むる 1. 「引く草も」の「も」が微妙にきいている感じです。それがあるために、一見唐突に思える下の句の「めじろ行き交う」が自然に受け入れられるのだと思います。おだやかな気分が歌にみちています。作者のお体のことを思い合わせるとなおさらのことしみじみと感じるのです。 2. まず、上の句で「萌え出づる春の草木のみづみづし」と草木の萌える春の気分を「みづみづし」と詠い、下の句は一転して、「庭を飽きずに眺めている作者」を登場させます。足のご不自由な作者、ご自宅の庭の春の息吹を満喫しているようです。「わが住む庭」とことわって、「あかず眺める」としているところに余韻が残ります。 快速船 原 明男 友と釣る竿先を航 ( ゆ )く快速船話題をしばし攫ってゆけり どっぷりと五右衛門風呂に夕映と荒磯のけふの大漁を詠む 1.稲取大島航路が快速船で復活したニュースをテレビで見ました。その快速船を磯釣りのとき真近に見たのでしょう。その迫力におもわず見とれたのでしょう。それを「話題をしばし攫ってゆけり」と表現しているところがみごとだと思います。上の句の「友と釣る竿先を航(ゆ)く」という表現も独特です。 2.「五右衛門風呂」という言葉が懐かしくもあり、独特の味をだしているように思います。「夕映えと荒磯」「大漁」の言葉に奥行をつけ、実感を増す効果を与えているようです。これこそ、男の醍醐味というものでしょう。現代ではなかなか味わえないことでしょう。
2016.03.18
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平成28年3月15日(火)よみうり文芸(静岡版) 花山多佳子選 に入選する施設にて正月迎えるわが息子せめてと床屋に連れて行きたり 下田市 後藤瑞義 (読売新聞静岡版 よみうり文芸 三月十五日 入選 花山多佳子 選 )なお、同日妻後藤早苗も入選していました。よみうり文芸(静岡版) 花山多佳子選 に入選する 「ひみつきち」など書きありて粘土や絵、孫は帰れど捨てられずいる 後藤早苗
2016.03.15
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平成28年3月14日(月)読売歌壇 小池 光選 に入選する まじまじとわれを見つめて幼子がどうして頭に毛がないか問う 下田市 後藤瑞義
2016.03.14
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平成28年3月8日(火)よみうり文芸(静岡版) 花山多佳子選 に入選する木蓮の枝先にはや銀色のしずくのごときつぼみかがやく 後藤瑞義 (読売新聞静岡版 よみうり文芸 三月八日 入選 花山多佳子 選 )
2016.03.08
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鑑賞:歌集「悲しき玩具」(四十五)(下書き) 後藤瑞義 (注)歌の順序は歌集の順序によります。ぢりぢりと、蝋燭の燃えつくるごとく、夜になりたる大晦日かな。現在では蝋燭もあまり見かけない生活になってしまいました。わたし個人的には、仏壇があり毎日蝋燭に火を点す習慣があります。「ぢりぢりと」はまさに蝋燭の芯が燃え尽きるときの音を連想させます。この蝋燭の「ぢりぢりと燃えつくる」といった、リアリティのある表現を啄木は比喩として使っています。即ち、「ごとく」がそれです。啄木はこの比喩を使って何を表現したかったのでしょうか。大晦日ですから、一年が、蝋燭がじりじりと音をたてて燃え尽きるように終るんだといった感慨でしょうか。確かに、蝋燭を使ってリアリティのある表現になっています。つまり、大晦日、一年の終り、それが、蝋燭の芯の燃え尽きる比喩によって鮮明にイメージされているのです。ただこの歌は、それだけではないように思うのです。この歌の最もすばらしいのは、「夜になりたる」という言葉ではないかと思うのです。実作者としてわたしが、いつも啄木に感心するのがこういう表現なのです。「夜になりたる」、なんということもない言葉です、またなんということもないような表現です。この「夜になりたる」の言葉があることによって、「蝋燭の燃えつくるごとく」の比喩が非常に効果的になります。単なる「大晦日」の歌ではなく、「夜になりたる大晦日」なのです。それに、「かな」の感嘆の言葉がついているのです。「夜」です、暗闇をイメージする夜です、蝋燭が燃え尽きる夜、暗闇です。「夜になりたる」という言葉によって、いよいよ今年も終わるんだという緊迫感が伝わります。と同時に、単なる一年の終りではなくて、一生の終りをも連想させるだけの緊迫感をわたしは感じるのです。ぢりぢりと、蝋燭の燃えつくるごとく、夜になりたる大晦日かな。
2016.03.03
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よみうり文芸(静岡版) 花山多佳子選 に秀逸に入選する孫どもの眠りに付きしひと時よこの安らぎを知らず過ぎにし 後藤瑞義 (読売新聞静岡版 よみうり文芸 三月一日 花山多佳子 選 )(評)子どもが寝付くとほっとする。父親だったときは、このひと時の思いを知らないで過ぎてきた、という感慨。祖父になって初めて味わう思いの発見である。
2016.03.01
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