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十二月号歌評下書き(「賀茂短歌」より) 後藤瑞義原 明男失効の旅券も今だ捨てきれず折々記憶の証となせり (評)「旅券」という言葉がまず目につきます。言うまでもなく、パスポートのことです。それで、外国旅行に行ったことが分かります。それはすでに「失効の旅券」です。別の歌からナポリが出て来ます。ですから「ナポリの記憶の証となせり」ということなのでしょう。それは原さんの人生に記憶されるべき輝かしい思い出なのです。 渡辺つぎ一日一日追い込まれゆく道なれど何だ坂こんな坂と頑張っている (評)あと三か月足らずで百六歳の作者です。「一日一日追い込まれゆく道」、一日一日生きて行くということは、なにか追い込まれてゆくような気持になるということでしょうか。生きてゆくということを、道を歩いて行くことにたとえているようです。その道は平坦な道ではなく坂道のようです。ですから、「何だ坂こんな坂」といまだに頑張っているのだということでしょう。天国に向かっているのでやはり坂道になるのでしょうか。 鈴木菊江秋のひる訪う人もなき一人居は柿の落葉が便り運びくる (評)「秋のひる訪う人もなき一人居は」は、よく分ります。問題は、「柿の落葉が便り運びくる」です。「落葉と便り」、ハガキには「葉」の字が使われています。まして柿(書き)の落葉であったら、「落葉」と「葉書」、そして「便り」との連想が出来るように思います。それと、もうひとつは、郵便配達人が便りを持って来るとき柿の落葉を踏んで来る。そして、落葉を踏む音で郵便配達人かどうかがわかり、「柿の落葉が便り運びくる」というフレーズが浮かんだのかとも思ったのです。 黒田幸子「ひまご」という赤ちゃんに会うよろしくね彼挨拶か力強く泣く (評)初めての「曾孫」誕生でしょうか。「ひまごという赤ちゃんに会う」というフレーズに、作者の思いがこもっているように感じました。初対面に大声で泣き出したようですが、作者は少しもあわてず、挨拶代わりに泣いていると言うのです。赤ん坊は泣くのが仕事とはよく聞く言葉です。それも力強く泣いているのです。男のわたしなどは、赤ん坊が泣き出すとただおろおろすると思うのですが、さすがに作者は少しも騒がず、むしろそれは作者に対する挨拶なのだとしているところがおもしろいといいますかすばらしいと思います。 後藤早苗並んでまで食べたくないと我言えば待つこと大事と孫に言われる (評)「並んでまで食べたくない」というのは、私も同感です。規則正しく、時間を定めて朝、昼、晩の食事をしている私などは特にその思いが強いのです。安くて美味しい店は、すぐ評判になり行列ができるようです。行列が出来ることはむしろひとつのステータスでもあるようです。都会に生活する孫がそれを承知しているということでしょう。この場合は、少し違うかもしれませんが、「負うた子に教えられる」という諺を思い出したのでした。 藤井美智子ゆっくりと安静に過ぐ風邪の十日落葉積む庭秋ふかまりぬ (評)風邪を引いた作者、家で安静にしていたようです。「ゆっくりと」というのは、たとえば五日くらいの安静のつもりを用心をして十日くらいに延ばしたようなニュアンスを感じました。やっと元気を取り戻した作者、庭を見ると落葉がだいぶ積っていたのでした。それは、風邪で庭掃除が出来なかったこともあるでしょうが、病気のあいだにすっかり秋が深まったということを実感したのでしょう。それは、作者の心に一抹の寂しさをもたらしたのではないでしょうか。 小池美恵子「菊香る今日の佳き日に」と祝われて重ねし結婚記念日 五十二回目 (評)「菊香る今日の佳き日に」、祝辞の決まり文句です。作者は、十月か十一月に結婚なされたのでしょうか。そして、今近くに菊の花が咲いていて、現実に香りがしているのではないでしょうか。それによって、「菊香る今日の佳き日に」という結婚式での祝辞を思い出されたのではないでしょうか。そして、思い返せばもう結婚して五十二年になることに気がつかれた。半世紀以上の年月です、その間に世の中もご自分の身の上にもさまざまなことがおありだったでしょう。そんなことが、色々思われた作者ではなかったでしょうか。 鈴木きみ群青の空を飛び交う赤とんぼ昔とくらべ小さく見ゆる (評)「群青の空」。「群青」とは①岩群青の略、②鉱物から作る青色の顔料。そのように広辞苑にあります。作者としては、ただの青では物足りなかったのかもしれません。青を強調しているようで、あるいは「赤とんぼ」の「赤」を強調する効果や、赤とんぼの群れの連想もあるかもしれません。「赤とんぼ昔とくらべ小さく見ゆる」、このフレーズが作者の最も言いたいことのように思います。ただし、色々に解釈できる含みのあるフレーズです。作者が成長したので、昔の少女時代の赤とんぼのイメージに比べ小さく見えるのは自然です。また、大人となるとともに、生活上の諸々のことがあり、自然とじっくり接することが希薄になった現実もあるでしょう。「昔とくらべ小さく見ゆる」がそれを暗示しているようです。 土屋文恵わが庭の小さき畑の蚯蚓まで取り来る猪身の毛のよだつ (評)猪や鹿などの害が言われて久しくなります。里と山との境がすっかりなくなり、畑のみならず田も荒らされる現実です。さて、作者は庭で作物を作っているようです。藁や草などを畝などに敷きますが、その下に蚯蚓が繁殖するわけです。それを猪が狙って来るのです。「わが庭の小さき畑の蚯蚓まで」とは、「庭以外の畑の野菜類はもちろんのこと」という含みがあるでしょう。それにしましても、「身の毛がよだつ」とは、なかなか思い切った表現をしたものです。すこし、オーバーにも思えるこの表現は、それほど猪が身に迫っている感じを表したかったのでしょう。あるいは、猪のとげとげとした体毛の連想もあるでしょうか。そして、この嫌悪感は単に猪だけのものではなく、何か別のものの譬え(隠喩)のようにもちょっと感じたのです。
2016.12.29
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白浜短歌会歌評下書き(十二月二十一日) 後藤瑞義 A子さんおだやかな新年迎えた我が心境九十才迄は指折れるかな年共に動く動作もままならぬ(ず)杖を頼りにぎっしり握る施設にて笑わす友在り楽しくて一日室内笑顔の集い 1.伊豆新聞の新年詠の提出は、十一月末で締切られています。 ちょっぴりさみ しい気分もある新年詠と思いました。作者は、九十才になられたのでしょうか。「指折れるかな」は、五七五七七と指を折る。つまり、「短歌を作ることが出来るかな」ということでしょう。「かな」は感嘆ではなく疑問と思いました。2.「杖を頼りにきっしり握る」、この「きっしり」というのが、新鮮でした。「ままならぬ(ず)」は、「ぬ」ですと連体形ですから杖につきます」。この場合はここで切れるのですから、終止形の「ず」になるでしょう。3.デイサービスに通っている作者、それが「施設」です。そこには、みんなを笑わす友が待っている。一日みんな笑顔になって、楽しいひとときを送ることが出来る。友への感謝、デイサービスへの感謝が感じられます。 B子さん誕生日赤のワインでカンパイす少しきどって指にはルビー押し入れに眠るアイボはちと悲し キミと育てた犬のロボット霜柱静寂の中きらめいて 深呼吸などす 初霜の朝1. 誕生日祝いを赤ワインで、ルビーの指輪をはめて、一人でしたのでしょう。いつもなら、旦那さんと祝ったことでしょう。そこにさみしさがあります。「少しきどって」という軽い言葉も、かえってさみしさを増幅させるようです。ルビーは、七月の誕生石で、石言葉は「熱情・情熱・純愛・仁愛・仁徳」などがあります。語源はラテン語で「赤」を意味する「るべうす」に由来すると言われます。この歌の場合は、単に赤ワインとルビー(赤)、赤と赤の取り合わせでしょうか。2.アイボというのは、かってソニーが販売したペットロボットの名称のようです。「君と育てた犬のロボット」、特に「育てた」という言葉に思いが籠ります。もちろん、ロボットを育てることはできません。それは、ご夫婦が過ごした貴重な日々のたとえのように思えます。ご主人が亡くなられてから、アイボは押し入れに入れたままになっているのです。3.初霜、朝の光り、霜柱のきらめき、誰しも深呼吸をしたくなるような一瞬です。この感動を一首に凝縮したいわけです。あまり技巧を凝らさないで、ぶっきらぼうな感じの原作も一つの方法でしょう。「深呼吸する」とするところを、「深呼吸などす」とぼかしたところに、感動をどう表してよいか戸惑っているような思いが感じられます。 C子さんしあわせは歩いてこない歩くんだ一、二、三とリズムをとって年の暮美容院を予約する老人 ( としより )になってもオシャレはしたい ねそびれて家庭の医学をみていたら手袋をしてねむるといいよと1.「しあわせは歩いてこないだから歩いてゆくんだね…」三百六十五歩のマーチの歌詞。作者はそれを下敷きにして歌を作っているわけです。昔で言えば本歌取りとでも言えるかも知れません。これは、昔からある方法で、単なる真似をするというのではなく、同じ思いをもったからこそ歌に出来たのです。2.作者は、九十二才になったでしょうか。「年の暮」と「オシャレ」という言葉に少し注目しました。美容院への予約は、「年の暮」だけで理由としては十分だと思うからです。あるいは「年の暮」をはぶいて、「おしゃれをしたい」だけで十分のはずです。そこに、あえて二つの理由を書いているところに、作者の複雑な心を感じるのです。それと「オシャレはしたいね」の「ね」が必要かどうか、これも作者のある思いを表現しているのでしょう。「老人」をあえて「としより」とルビをふったり、「オシャレをしたい」ではなく、「オシャレはしたい」と「は」にしていたり、作者に何かこだわりがありそうですが、分かりません。3.この歌などもなかなか面白いと思いました。眠れなくて「家庭の医学」という本を見ていた。眠れる方法が書いてあるか調べたのでしょう。これは、いつもというより、たまたま「見ていたら」といった感じでしょうか。「手袋をして眠ると眠れます」とでも書いてあったのでしょうか。思いもよらない方法だったのではないでしょうか。ちょっと驚きの感じがしました。実行したのでしょうか、結果はどうだったでしょうか。試した後の歌も読みたいと思います。 D子さん男子一位 夫の名前を呼ばれたるただおどろいて笑顔みている流木の横たう姿猪 ( しし )に似て動けないからいとしくもあり 1.題が「グランドゴルフ大会」となっています。「男子一位」は、グランドゴルフ大会でご主人が一位となったと知れます。ただおどろいて、ご主人の笑顔を見ている作者。ひとときの幸せな気分を素直に歌っている感じがします。「呼ばれたる」は「呼ばれたり」と終止形にして、ここで区切った方が良いと思います。「男子一位夫の名前を呼ばれたる」という細かい描写があります。これだけで、作者の驚きは言葉にしなくても表れていると思います。言葉にしない大切さを知ると歌が一段、二段上って来ると思います。一位で笑顔というのも言わずもがなの表現でしょう。「はにかみ笑う」とか、ここにこそ細かい描写がほしいのです。全てをカットして参考のようにすることも一考です。 参考:男子一位夫の名前を呼ばれたりグランドゴルフ大会のこと2.これも、流木ですから、動かないのは当たりまえです。それをわざわざ言葉にすることがもったいないと思います。流木の姿に魅せられた自分の姿を表現すればよいように思いました。「横たう」は文語で、口語ですと「横たえる」です。間違いではないですが、わたしは口語にしてみました。「動けないからいとしくもあり」をすべて言葉にしないで、すこし隠しておくことによって、詩的雰囲気が出て来る様に思います。参考:流木の横たえる姿猪に似ていとしく思い近寄りて行く E子さん高々と薄紫の花盛る誰 ( た )が名付けしか皇帝ダリヤと夕映えの中にクッキリ送電塔高根の山を背 ( せな )にして立つ1. 背の高い皇帝ダリヤを詠っています。名の通りあたりを見下しているような皇帝ダリヤです。「誰が名付けしか」ですが、「誰が名付けしや」ではどうでしょうか。相手になげかける疑問は、「や」、自分自身に問いかける疑問は「か」です。参考:高々と紫の花見下ろせり皇帝ダリヤと誰が名付けしや2. 夕映えの中に鉄塔が立っています。それは送電線を支える鉄塔です。電線は電気を送り、家庭を明るくし、文化生活をするのに欠かせないものです。そして、高根山を背景として立っています。何となく鉄塔の孤形を連想しました。前の作品にしろ、この作品にしろ、作者の「高さ」に対するあこがれのような、あるいは誇りのような思いを感じました。「背」を「せな」とルビをふってありますが、「せな」は背中のことです。「せ」ですと、後ろとかいろいろな意味があります。「背に立てり」としたらどうでしょう。 F子さん足なえの吾にもたのしき時のありテレビが連れ行く世界の旅行に戦争を実感せざる世代らが危うき法をつぎつぎ通す1.「足なえ」とご自分のことを包み隠さず言っています。しかし、それをぼやいたりしていません。今の現状を受け入れて、その上で生きる楽しみを見つけ出す。そんな前向きな姿勢に読者は感動するのです。2.多分その通りなのでしょう。戦争を知らない世代が七十一才になっているわけです。鋭い社会詠です。作者の色がもう少し入ると完璧です。 新春 原 明男ささやかな新春 ( はる )を装ふ老妻とゐて酌む熱燗にほのぼのと酔ふ賜りし夫婦茶碗の鶴と亀触れ合ふ音の今朝もさはやか 1.「新春」という題詠のような作品です。詠うべきものが先にあって、それに肉付けした作品です。写生と言うより、和歌の世界を感じます。 2.結句は「さはやか」でよかったですか。これも前作と同様和歌の世界の歌で、新春にふさわしい作品だと思います。題詠にどしどし挑戦してみてください。
2016.12.29
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編集より(平成二十八年十二月号)下書き 和歌と武士 先日、NHKBSプレミアムで往年の映画「忠臣蔵」を放映していました。東映のオールスター映画です。大石内蔵助が片岡千恵蔵、浅野内匠頭が大川橋蔵それに、吉良上野介が月形龍之介です。その他市川右太衛門、大友柳太郎、中村錦之助、東千代之助などなど豪華俳優の共演です。忠臣蔵は、ご承知のように、播磨赤穂藩藩主浅野内匠頭が江戸城城内の松の廊下で高家旗本の吉良上野介を切りつけ、切腹となることから始まります。浅野内匠頭の辞世の和歌風さそう花よりもなお我はまた春の名残を如何にとかせん 場面は赤穂城城内の大広間です。一段高い所に大石内蔵助が一人座っており、 大広間にたくさんの家臣が整然と座っております。内蔵助はおもむろに殿である内 匠頭の辞世の和歌を読み始めるわけです。そして、「春の名残を如何にとかせん」 のところで片岡千恵蔵が、あの独特の底ごもるような、絞り出すような声で、それも この部分だけ二度繰り返えすのです。これを聞いていた居並ぶ家臣たちが、ぐわー とみな泣き崩れるわけなのです。 和歌を三十一文字(みそひともじ)ともいいますが、その三十一文字あるいは三十 一音のなかに、どんな名文もかなわないくらいの力があるんだと今さらながら思った のでした。 武士と和歌一見相容れないような感じですが、案外密接に関係していることがあ るかもしれないと、大変興味深く感じた次第です。武骨で無風流のような武士と和歌 との関係についてすこし調べてみようと思ったのです。
2016.12.26
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