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よみうり文芸(静岡版) 入選 頭上にはサルスベリ咲き地上にはサルビアの咲く赤あかと 下田市 後藤瑞義 (読売新聞静岡版 よみうり文芸 九月二十八日 入選 花山多佳子 選) なお、妻も入選した 調律をせぬまま何年過ぎたるか思い出だけのピアノになりたり 下田市 後藤早 苗 (読売新聞静岡版 よみうり文芸 九月二十八日 入選 花山多佳子 選)実家にもたまには帰るかと息子言う思えば四年かえっていない 下田市 後藤早 苗(読売新聞静岡版 よみうり文芸 九月七日 佳作 花山多佳子 選)
2016.09.29
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九月号歌評(歌誌「賀茂短歌」)下書き 後藤瑞義 原 明男漁師らの気勢とび交ふ浜なくて坡塘に一羽立てる海鳥 (評)「漁師らの気勢び交ふ浜」が昔あったのでしょう。漁業によって生計を支えていた人たちが多くおって、活気があったのでしょう。「浜なくて」とは、そういった活気が浜になくなってしまったということでしょう。そういう浜辺を見渡している作者、おりしも坡塘(堤防でしょうか)にぽつんと一羽海鳥が立っていた、それはまるで取り残された今の自分の心境のように感じることだ…といったことでしょうか。自分の心境を一羽の海鳥に投影して味わいが深くなりました。かつての活気あふれる浜辺と一羽の海鳥との対比、そこまでで留めて鑑賞するのがよいので、作者の心境まで踏み込むのは行き過ぎなのかもしれません。 渡辺つぎ未来という文字がわれより奪われてオリンピックも最後の観戦 (評)ナポレオンは、「余の辞書に不可能の文字はない」と言ったといわれています。そうしてみますと、作者の現在の心境は「未来という文字がない」ということでしょうか。百五歳の作者は、リオデジャネイロオリンピックを感慨深く観戦されたのではなかったでしょうか。まさか、見ることができるとは思わなかったといった感激があるようにも思います。そのオリンピックも終り次回は東京で開催されます。そこで、当然次回のオリンピックも観戦したいと思う心がおありなのではないでしょうか。その心を抑えるように作られたのが、この歌のように思われるのです。ご自分に言い聞かせるように、「未来」という文字は自分からは、奪われていると言い、リオオリンピックが最後のオリンピック観戦だと言い聞かせているように感じるのです。 鈴木菊江炎熱に耐ゆる牡丹のいたいたし力なけれど老も水まく (評)牡丹の花が咲いています、夏の燃えるような暑さのなかです。その牡丹の花の暑さも忘れさせる健気さを見ると、九十九歳の老の身で力はあまり出ないけれどもせめても水でも撒いて涼をよぶ手助けをしょう、といったことでしょうか。前向きな生活態度はもちろんその素直な詠い口に大変好感を持ちました。 黒田幸子宮掃除施餓鬼法要この夏の猛暑の中を行事済みゆく (評)作者は、八十九歳だったでしょうか、お一人で住んでおられます。ご主人亡き後お一人で家を守っておられます。旧家を守っていくということは並大抵のことではないでしょう。それは、家の内向きの仕事だけではなく、地域を支える色々な仕事があるわけです。その一つが神社の清掃であり、お寺の施餓鬼であり、その他、法要であったりするのでしょう。今年も猛暑が続きました、そうした中で、一つ一つ行事を済ませて行く作者の安堵の思いが伝わってきます。それというのも、ご本人が健康であればこそのことで、お体にお気を付けくださいと言わざるをえません。 後藤早苗ダンボールに野菜つめ込み送るという畑はやめろと言いたる娘が (評)上の句が少しわかりにくいかも知れません。電話で「野菜を送ってほしい」と言って来た、というようなことだとすっきり分かりやすい歌になります。しかし、実際は、もっと具体的で「ダンボールに野菜をつめ込み」となっています。つまり、作者の目の前でその行動をみているわけです。つまり帰宅して、自分で野菜をダンボールにつめ込んでいる、そういった光景のようです。下の句は、電話などで「野菜つくりはもう止めて、のんびりしたら」と常に言っている言葉と受け取って良いと思います。娘の行動と言葉の矛盾をついている歌ですが、そう深刻な感じではなく、むしろ少しユーモアを含んでいるように感じたのです。 藤井美智子夏空の雷雲が影おとし日照りの庭に背を分ける雨 (評)「夏空」と俳句でいえば季語のような言葉を初句にもってきています。これは、「雷雲」であったり、「(馬の)背を分ける雨」であったり、夕立ちを連想させるための「夏空」なのでしょう。それにしても、「影おとし」といった言葉に多少作者の思い、暗いイメージがあるように思ったのです。この一首には時間が入っています。つまり、雷雲が起こり、影を日照りの庭に落し、そして局部的な夕立となったという流れのように感じました。短歌の定石は瞬間を切り取ることです。参考はあくまでも私の感じた参考です。参考:馬の背を分けるがごとき夕立が日照りの畑を潤している 小池美恵子目を病みて絵筆も取れず二年過ぎ美術協会脱会を決意す (評)作者は長年絵を描くことを趣味となさっていたようです。その絵を画くのに大切な目の病気をして、二年が過ぎてしまったということです。その間、今に絵筆をもって描けるようになるだとうという希望を持っていたようです。その希望もだんだん薄れて行って、最後の砦のように会員として関係を保っていた美術協会からの脱会を決意したというのです。絵を描くことは、作者にとって、生きる支えのような重要な位置を占めていたのでしょう。それを、失った絶望感といいますか、悲しみが私の胸を打つのです。 鈴木きみ早苗等が風と和しつつそよぐさまわが心までいやしなごます(評)整然と早苗が並んでいます。今、風がその早苗をおだやかに吹いているようです。それが、「風と和しつつそよぐさま」なのでしょう。その光景を見ている作者、こころまで癒され和まされると表現しているわけです。「わが心までいやし」という表現は、なにか心に気にかかる事、おだやかならざることがあったのでしょうか。それが自然の力といいますか、こだわりのない早苗等の靡くさまにいやされなごんだということでしょうか。 土屋文恵金メタル重いと語る選手らの笑顔に光る鍛錬の跡 (評)「金メタル重い」と語る選手の笑顔、ここまでは、テレビなどの映像からのいわば実写といってよいでしょう。ただ、「笑顔に光る鍛錬の跡」となりますと、作者独特の感じ方だと思います。この「鍛錬の跡」という観念的な表現ですが、何か作者の心が現れているように感じました。作者自身何かに打ち込み鍛錬をした経験があるのか、あるいは鍛錬にある種の憧れみたいなものがあるのか、それはどちらかか判明しません。この一首は、金・重い・それに鍛錬という金偏の漢字によって、重々しい金属性の光沢を放つような感じを受けたのでした。
2016.09.26
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白浜短歌会歌評 九月分 下書きA子さん 秋空を眺める雲も美しく風と共通何処へ流れる 連休日うならし走るバイク連轟音響かせ格好つけて 1.「秋空を眺める」は、ここでいったん切れるでしょう。「雲も」の「も」は「何も雲も」の「も」と思われますが、「青空も雲も美しい」ということでしょうか。「風」が出てきて、「共通」というようなおよそ詩の言葉としては不似合いな言葉が出て来て、「何処へ流れる」となっています。そこに、ある種新鮮さも感じます。 ぼーとして空を眺めていたときの作者の思いを歌にしたのでしょう。青空のように雲も真白で美しい、しかし雲は風と同じであって何処へ流れ去って行くかわからない。(わたしもこれからどうなるのだろうか)といったことでしょうか。 参考:青空も雲も美し風吹けば雲はどこかへ流れ去りゆく 2.よくわかる歌です。作者の思いもよく出ているでしょう。「うならし」と「轟音」が少し付きすぎているかもしれません。下の句は、「轟音響かせ」「格好つけて」のどちらかを終止形にしたいと思います。「轟音響かす格好つけて」あるいは「轟音響かせ格好つける」というふうにしたら、落ち着きます。しかし、言い差しの不安定感をねらっているのかもしれません。 B子さん 日の丸が揚がると胸がキュンとなる五輪ばかりの愛国心か 水谷は雲の上なる人なれど我も週いち今夜は卓球 イマジンはもう神がかりジョンレノン真青 ( まっさお )な空ピースが見えし 1.上の句「日の丸が揚ると胸がキュンとなる」という、軽い表現(とくに、「キュン」というような)が、下の句で「五輪ばかりの愛国心か」と逆転させられる。上の句が軽い分だけ下の句が重く響いて来る。そういった、内容的はもちろん技巧的にもうまい歌だと思います。この独り言のような、自分自身に語りかけるような表現は短歌の重要なところだと思っています。短歌は外への発信ではなく、あくまでも自分自身に向うことが大事だと思っています。 2.水谷選手は、ご承知のように、最近行われたリオオリンピックの卓球の個人戦で銅メタルを獲得しました。同じ卓球を趣味としてやっている人にとっては確かに、「雲の上なる人」なのでしょう。「週いち」という表現にわくわく感のようなもの、躍動感のようなものも感じました。「今夜は卓球」という言葉に、やはり喜びが感じられました。 参考:銅メタル水谷選手にあやかりてわれも週いち今夜は卓球 3.ご承知のように、元ビートルズのメンバーのジョンレノンが作詞作曲し且つ歌っています「イマジン」。ジョンレノンのピアノでの弾き語り、その淡々とした歌いぶりにいつも感動しています。その詩、その曲、その歌いぶり自体に、平和が満ち満ちて感じられます。「イマジンはもう神がかり」は、まさにそうでしょう。いつも気になるのですが、「見えし」の「し」です。「し」は、まず文語的表現で、過去の回想の助動詞「き」の連体形です。ですから、「ピースが見えし」は、あのときピース(平和)が見えたなあ、と過去を回想していることになります。それに、もうひとつ、短歌は常に現在を意識しなければならないということです。そういうことからいいますと、過去にはピースが見えて現在は見えないということになります。現在の状況をもし詠んでいるのであれば、「真青な空ピースがみえる」としなければならないでしょう。 参考:イマジンはもう神がかり見上げたる真青な空にピースが見える C子さん 国道のパンパグラスも海よりの白波の風にゆれゆれている 賞味期限昔は気にせず喰べたのにもったいないなあと思いつ捨てる 秋ずく日草に隠れた赤蛙びっくり仰天叫び声あげる 1.たしか、白浜海岸の国道沿いにパンパグラスのかたまっている場所があったことを記憶しています。垂直に立ち上がった茎に長さ六、七十センチの羽毛のような花穂をつけるパンパグラスは、秋を告げる風物の一つでしょう。ああ、秋になったなあという作者の思いが伝わります。 参考:海沿いのパンパグラスは白波を寄せくる風にゆれにゆれいる 2.よくわかる歌です。賞味期限を昔は気にしなかったが、今はもったいないけれど捨ててしまう。これは、やはり年齢のことを歌っているように思います。九十歳を過ぎている作者です、最近は量的にそれほどたべられなくなった。しかし、買い物をするときは、思わず昔と変わらない量を買っているのではないでしょうか。そんな、溜息が感じられます。 参考:買い過ぎに賞味期限が切れているもったいないと思いて捨てる 3.「秋ずく」は、「秋づく」ですが、そうした季節感をもってくるのは、古い和歌の歌い方を感じます。そうした和歌の季節感を表す方法が、俳句の季語になっていったのではないかと思います。明治以降短歌で季節感を読み込むことは、俳句と違って必ずしも必要ではありません。「叫び声あげる」のは、もちろん作者でしょう。赤蛙を見た瞬間に作者は叫び声を上げたのでしょう。その見た瞬間の反射神経に、あるいは若さを思い出したのかもしれません。 D子さん 電話での友の言葉に感謝せし胸のつかえも秋晴れとなる 青空の下でカラスが水遊び黒羽 ( くろは )まぶしきまぶしき三秒の間 ( ま )に 1. まず、友人から電話があったのか、こちらから電話したのか不明ですが、電話のなかでの友の言葉に感謝したというのです。そして、胸につかえていたことがすっきりした。そんな気持ちを歌にしたようです。「友に感謝する」のではなく、「友の言葉に感謝する」という表現。「胸のつかえがすっきりとする」というのではなく、「胸のつかえが秋晴れとなる」という表現がなかなかユニークだと思いました。その上で、「感謝」といった、漢字での表現、「秋晴れ」といった比喩(たとえ)ではない、そのままの気持ちの表現を工夫するのもよいでしょう。「来(く)」は、文語で、「来る」は、口語です。 参考:謝(あやま)りのわれの電話にさばさばと明るき友の言葉返り来(く) 2. この歌には、二つのテーマがあるようです。そのひとつは、水遊びをしているカラスの羽の色、そしてもう一つは、水遊びをしているカラスの時間の短さです。別の言い方をすると、一つは黒髪の艶やかなたとえの「カラスの濡(ぬ)れ羽色(ばいろ)」、もう一つは、短いのたとえ「カラスの行水」です。短歌では、ひとつのことを歌うというのが定石です。原作の「黒羽」は、カラスですから、黒は不要でしょう。参考は、黒髪への個人的なうらやましさから、「わが目に」としました。「まぶし」は文語、「まぶしい」は口語です。 参考:青空の下でカラスの水遊びその濡れ羽色わが目にまぶし E子さん 耕運機曲りそこねて道下に転落したのも遠き日の事 童心にかえりホームの夏祭借りた浴衣に団扇も持ちて 退院の吾れを迎える山の家キバナコスモス揺れるたかむら 1.耕運機はなかなか思うように進みません。作者もうまく曲がることが出来ず、道下に転落してしまったのでしょう。遠い日の失敗、あるいは命にかかわるくらい危なかったのかもしれません。そんなことを、思い出した作者です。そこには、若い日の失敗などもなつかしく、いとおしんでいる作者の姿が浮かんできます。 参考:耕運機曲りそこねて道下に転落せしも今は懐かし 2.「ホーム」とはなんでしょうか。「老人ホーム」のようなイメージでいいのでしょうか。浴衣も団扇も借りたというのですから、思ってもみなかったことなのかもしれません。参考:童心にかえり施設の夏祭り浴衣団扇を借りて踊りぬ 3. 病院に入院し、治療を受けて退院を迎えた作者です。久し振りに我が家に戻ったのでしょう。すっかり秋めきてキバナコスモスが咲いているのが目に入ったのでしょう。「揺れるたかむら」、たかむらは、篁、竹群、竹の林、竹藪でそれが揺れているということですが。これですと、竹群だけが揺れていることになります。「キバナコスモス竹群ゆれる(ゆるる)」であれば、両方が揺れていることになります。ただ、キバナコスモスとたかむら、ふたつではなくどちらかひとつに集中したいように思います。 参考:退院のわれを迎える山の家キバナコスモス群れ揺れている F子さん 虫すだく家にあかりの灯る頃かすむ山脈静かに眠る 名を知りてとり残したる母子草そちここち生えて絆深めり 1. 「虫すだく」ですと「家」に直結します。「虫すだき」ですと、ここでいったん切れます。「虫すだき」と小休止したほうがよいように思いました。すなわち、虫がすだき、家に灯りがともるころ、山脈(やまなみ)の方は眠りにつくという、虫の騒々しさ、家の明るさに対比する形で山脈の静寂と暗闇をもってきているのでしょう。ものの二面性を同時的にに見つめている作者、なにもかも、これでいいんだと受け入れているような心境なのでしょうか。 2. 小さな黄色い花を咲かせる、母子草という雑草があります、作者はその名を知っているのです。そして、それを作者は庭に見つけたのでしょう。草取などする時も、その名がいとおしく、そのままにしておいたのでしょう。それが、いつのまにか庭のそちこちに生えているのを発見したのでしょう。それは、まるで母と子の絆が深まったように作者には感じられたのでしょう。 参考:名を知りて取り残したる母子草絆深めるごとく増えたり プランタ菜園 原 明男 稚なき子連れの猿かこの所行プチの歯形に納得の妻 めっきりと暑さも風に和みいていつもの里が浜に戻れり 1.「プランタ菜園」という題となっております。「歯形」が出てきますので、トマトかあるいは胡瓜かもしれませんが、プランターで育てていたのでしょう。そこに、多分獣の食べたあと、歯形がついていたのでしょう。作者は奥さんに「何が食べたのだろうか」と問いかけたようです。「子連れの猿」を実際に見たのか、想像で言ったのか不明ですが、作者の説明で奥さんも納得されたようです。それにしても、ただの「子連れ」ではなく「いとけなき子連れ」であり、ただの歯形ではなく「プチの歯形」と表現しているところに作者の気持ちがあふれています。子供に食べさせるためなら仕方がないといった気持ちではないでしょうか。 2.作者独特の表現です。「暑さも風に和みいて」「いつもの里が浜に戻れり」といった表現です。暑さが風と中和して涼しくなり、海水浴の観光客が去り、いつもの静かな白浜海岸にもどったのでしょう。観光業は町の財政にとって、死活問題にもなりかねない重要なものです。しかしそれは、住民の多大な犠牲の上に成り立っていることも事実なのです。
2016.09.16
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