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編集より(「賀茂短歌」四月号より) 後藤瑞義 四月十三日の図書館での歌会の席上で、原明男氏より次の歌の感想を求められました。詳しく伺うと満百五歳になられた渡辺つぎさんより歌会の席上で会員のみなさんの意見を聞きたいという申し出があったということでした。 とにかくまずは問題の歌を下記に書きましょう。 わが家に泊まりてゆきし五歳の孫の書き置きしじいじのばかと 吉田建三郎 感想は、手紙で送ると席上では言ったのですが、会員みなさんにも目を通してもらったほうがよいような気がしまして、ここに書こうとしている次第です。 まず、この歌が一首単独の歌か連作の中の一首か気になりました。そして、わたしは、これは連作のなかの一首ではなかろうかと思ったのでした。これはあくまでも、わたし個人の勝手な思い込みです。次に、気になりましたのは、過去の回想の助動詞「き」の連体形「し」を二回も使用している点です。そこで、これは、回想の歌であろうと結論付けたのでした。 結句の助詞「と」、これも不用意に使用しますと、歌の臨場感や生き生きとしたものを殺してしまう怖れがあります。「じいじのばか」は、なかなか迫力のある、生き生きとした言葉です。それが「じいじのばかと」とありまして、これはやはり後から、つまり回想した思いなのだろうと推察したのです。 決定的であったのは、つまりわたしにあるイメージを与えるのに決定的であったのは、「書き置き」という言葉でした。「書き置き」、人が亡くなった場合、たとえば自殺などの場合、「書き置き」の有無を問題にします。ですから、「書き置き」という言葉からわたしは、勝手にこの歌は挽歌ではないだろうかと思ったのです。 五歳のお孫さんが何かの不幸な事件、事故あるいは病気などで亡くなられた。そんな設定をしてわたしは、この歌を鑑賞させてもらったのです。(後略)
2016.04.27
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四月号歌評(歌誌「賀茂短歌」4月号)下書き 後藤瑞義 原 明男 木苺の花白白とおちこちに飛び交ふ蝶のごとくさゆらぐ (評)木苺、今ではあまり目にすることがなくなりました。子供の時に食べた記憶があります。真っ白な花にもこころが引かれます。それが、蝶が飛び回っているように感じた作者です。木苺の花を見ながら、少年の頃の思い出にひたっている作者なのでしょう。それは、木苺の甘酸っぱい味はもちろんでしょうが、今は亡き人々の顔も思い出されたのではなかったでしょうか。古代の日本では、蝶は亡き人の魂が宿っていると言われました。そんなことも、ふと思い出しました。 渡辺つぎ 一寸先の光を求め深呼吸今日から春だ誕生日近し (評)政治家がよく「一寸先は闇」ということを言います。世の中の闇を光にかえるのが政治家の役割でもあるでしょうが、その政治家にして、この言葉です、一般人はどうしたらいいのだろうかとお先真っ暗な気分になります。 さて、この歌は「一寸先の光」で先ほどの言葉とは正反対の表現となっています。百五歳の誕生日ま近の作者の作品です。「光」です、「一寸先の光」を求めて、深く息を吸うのです。深く息を吸って、生きてゆくのです、闇のような冬が終わり、光あふれる春となるのです、もうじき百五歳の誕生日となる。一瞬一瞬を大事に生きている作者の姿が神々しく感じます。 鈴木菊江 枯芝にたんぽぽ生れてきさらぎの庭の微笑む春訪れぬ (評)庭一面に芝生が植わっています。きさらぎですから、陰暦の2月、陽暦では3月ごろとなるでしょうか。すっかり芝生が枯れているようです。そんななかに、緑色を見つけた作者。よく見るとそれはたんぽぽの葉であった。「たんぽぽ生(あ)れて」で、「咲いて」ではないのでたんぽぽの葉を見つけたのだろうと思ったのです。「ほっと」作者の微笑んだ姿が浮かびます。ご自分の微笑みを思わず「庭の微笑む」とした作者なのでしょう。心待ちにしていた春の訪れをいち早く見つけた作者のよろこびが感じられます。 黒田幸子 門に立ち下校の吾を待ちをりし祖母の姿の浮びくる春 (評)「門」というのは、校門でしょうか、あるいはご自宅の門でしょうか。わたしは、校門として解釈しました。結句の「浮びくる春」、とくに「春」という言葉に強くひかれたのです。そして、この春は、特に一年生となった春、小学校に入学した春を思ったのです。新しい環境で心細かろうとお孫さんを待っていたお祖母さん。現在作者自身がそのご年齢になられて、一層お祖母さんのことが思い出されるのではないでしょうか。 後藤早苗 買うものを忘れぬように書きとめて四日に一度買い物に行く (評)まず、毎日買い物に行くのではなく、四日に一度買い物に行く作者です。もし、買い忘れたら、四日間不自由しなければなりません。ですから、忘れないようにちゃんと書きとめているのでしょう。ただ、昔は、書きとめたりしなくても必要なものは忘れず買ってきた作者なのかもしれません。年齢とともに忘れることが多くなり、書きとめるようになったのかもしれません。そうしたことは、この歌の表面にはいっさい表れていませんが、そんな余韻の残る作品として味わいました。 藤井美智子 朝光 (あさかげ)の恋しい寒空季 ( とき )はやく高遠小町の開花におどろく (評)なんといいましても、「高遠小町」という言葉に引かれました。高遠は、長野県伊那市の地名で、古くから交通や軍事の要地でした。なかでも「高遠の桜」として知られています。そういう歌枕を一首のなかにいれたのが良かったと思います。それによって、連想がふくらみます。そういえば、「小町」も「小野小町」を連想させます。さて高遠の桜は、「タカトオコヒガンザクラ」といって独特な品種であると聞いています。寒い長野に育った高遠の桜が、いち早く咲いてくれた。沈みがちな作者の心に明るい光を差しかけたことでしょう。 小池美恵子 朝靄の涙か雫はとめどなく流れる窓にワイパーつけたし (評)五首のなかでこの歌をまずは選んでみました。他にもなかなかいい歌がありました、むしろそちらの歌のほうがしみじみとしていたかもしれません。 「靄」「涙」「とめどなく流れる」「ワイパーつけたし」などと思い切って歌っていると思ったのです。この思い切り、この強い調子はなんだろうかと考えたとき、これは単に「靄」だとか「涙」とか「ワイパー」だとかを歌っているのではないのではないかと思ったのです。何か作者のなかにはっきりしない、もやもやっとした、先の見通せない、そんな気持ちがあるのではなかろうか。それを、すっきりさせたい願望が「ワイパーつけたし」ではないだろうか、そんなふうに思ったのでした。 鈴木きみ 幼き日何度か出来た雪だるま霜柱さえ踏めぬ暖冬 (評)暖冬と言われ始めて久しい感があります。確かにわたしにも雪ダルマを作れるほど雪が降った記憶は、最近ありません。わたしの住んでいるところは、下田市でも山の方ですので、霜柱と言えるほどでもないですが、霜はかなり降ります。それにしましても、少年時代の記憶をたどりますと、やはり現在の暖冬を実感します。ただ、不思議なことに寒くてつらかった記憶の方は薄れ、雪だるまを作ったことなどの喜びだけが強く残っていることです。現在の暖かい冬、これはこれですばらしい感謝すべきことであるのですが、麻痺しているといいますか、つい昔はよかったと口からでてくるのです。そんな、人間の心理もついた歌として鑑賞しました。 土屋文恵 緩やかな川面に写る南桜豊けし時空永遠にと願う (評)五首のうちどの歌を選ぶか正直迷いました。この歌はどちらかというと観念的な感じがしました。「豊けし時空」「永遠」などの言葉がそれです。「緩やかな川面(かわも)に写る南桜」までは実景と思われます。満開の南桜(河津桜)が「豊けし」の言葉を発想させたのでしょう。「緩やかに時がながれている」そんな満ちたりた、こころ豊かな瞬間、この瞬間がこのまま永遠につづいてほしいという思いが、「豊けし時空永遠にと願う」なのでしょう。観念的と先ほど書きましたが、これは案外作者の心から自然に湧きあがったもののように思ったのです。この願いは、作者の観念的なものではなく、満たされていない日常生活における切実な願いのように感じたのです。「豊けし時空永遠にと願う」という祈りのような言葉にそれだけの力がこもっているように感じたのです。それは、上の句に「緩やかな川面に写る南桜」の実景があるためかもしれません。
2016.04.23
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4月20日(水)よみうり文芸(静岡版)秀逸に入選する 年だから妻は言えどもそのうちに産むよと言いて鶏に餌やる 下田市 後藤瑞義(花山多佳子 選 秀逸 平成28年4月20日)(評)夫婦のやりとりに味がある。妻のほうは、もう卵は産まない、とあきらめている鶏に、夫はまだ期待しつつ餌をやる。うまくまとめ目に浮かぶようだ。.
2016.04.20
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