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六月号歌評下書き(歌誌「賀茂短歌」6月号) 後藤瑞義原 明男寄り添ひて足跡つづく潮千潟素足の影をつつむかぎろひ (評)作者の住んでいられる、白浜海岸の風景を想像しました。「寄り添ひて足跡つづく」は、(若い)カップルが素足ですから、あるいは水着姿かもしれません。そうでなくとも、なにか解放された感じを受けます。浜辺の人影はまだまばらのようですが、夏の近づきを実感したのでしょう。若いカップルの影がかげろうでゆらめいている風景、それに作者の思い、過去の思い出などもダブっているのかもしれません。幻想的な感じもしました。渡辺つぎ規律よく配給を待つ被災者よ日本人たる誇り忘れず (評)「被災者」は時期的に熊本地震の被災者と思われます。ボランティアの炊き出しなどに整然と順番を待っている情景が目に浮びます。それは、作者によれば、日本人である誇りを忘れない行動なのだということなのです。「配給」という言葉が出て来ています。百五歳の作者の言葉として、戦時中の統制経済下の物不足の状況を連想するのです。そして、作者自身実際に規律よく配給を待った体験があるのだと思います。それは、日本人としての誇りを作者自身が持っていたためだと思っているのです。鈴木菊江そよ風にのりて春日をあそぶ蝶浮きつ沈みつ花になりたり (評)春の微風に乗って、遊ぶように蝶が飛んでいます。「浮きつ沈みつ」は、なにか海をあるいは、波を連想します。波のうえに乗って浮き沈みしている感じでしょうか。そんな連想が不意に作者の脳裏をかすめてのでしょうか。春のたゆたうような気分がその連想を起こしたのかもしれません。「花になりたり」は、蝶がどこかに止まったのでしょうか。花をこよなく愛する作者です。作者の心をひきつけた一匹の蝶が、蝶は死者の魂を宿すと古くからもいわれています、その蝶が作者の愛する花になったというのです。そこに非常にわたしは引かれました。 黒田幸子奈良吉野の蔵王堂朝の勤行に三拝九拝する紅毛の人(評)奈良県吉野郡吉野町にある、金峯山寺(きんぷせんじ)。そこの修験堂を蔵王堂というようです。そこで、毎朝勤行が行われるようです。一般の人も自由に参拝することが出来る様です。作者も参拝したのでしょうか。ともかく、そこに参拝をする外国人に出会った作者。その外国人が、三拝九拝する姿に非常に心打たれたことが詠われています。その驚きが、「紅毛の人」という言葉に表れています。まるで江戸時代の人が初めて外人、それも南蛮人(ポルトガルやスペイン人)ではなく、紅毛人(オランダ人あるいは欧米人)に出会った驚き、伊豆人ですから、この紅毛人は、黒船来航のアメリカ人のイメージでしょうか。 後藤早苗網戸には虫コナーズを吊るしても利いているのか蚊が家に居る(評)玄関などに吊るす防虫剤に、「虫コナーズ」というのがあります。それは屋外に取り付け、あるいは吊るして、屋外から屋内へ入る蚊を防ぐわけです。ただこの歌で面白いのは、屋内に蚊がいるわけです。そうすると蚊にとっては屋内にいるほうが安全ということになるわけで、そんな逆転現象がちょっとしたユーモアに感じるわけです。 藤井美智子日ぐれゆく今日のかたりべ鶯の去りし庭にふたりしずか咲く(評)「日ぐれゆく」という言葉がまず目に付きました。「日ぐれ」が「ゆく」とはどういうことなのでしょう。「ゆく」は「行く、往く、逝く」いろいろあります。短歌は、瞬間の文芸といわれますが、作者のなかには、時間を含めて散文的にしたい気持ちがあるのかもしれません。「今日のかたりべ」というのも、「昨日のかたりべ」ではなく、「今日のかたりべ」ということでしょうか。「かたりべ」という言葉にも作者の思い込みを感じます。 鶯の去った庭、自分以外に誰もいなくなった庭、そこに「二人」という名を冠した「二人しずか」が咲いているというのです。 小池美恵子知らぬ間に別れも告げず去りし友施設暮しと 噂に聞けり(評)まず、友を詠っています。かなり親密だったように一読して感じました。そうしますと、「知らぬ間に」も、「別れも告げず」という言葉も納得出来ます。「別れも」の「も」は、「別れも」、「行く先も」告げず、の「も」でしょうか。その友が施設に暮らしているらしい、と誰かから聞いたのでしょう。もちろん本人からでも、本人の身内からでもないでしょう。それが、「噂に聞けり」なのでしょう。「施設」という言葉からくる連想は、最悪「認知症」まで及ぶでしょう。 鈴木きみ五月雨のあとの天城路もや深くつづら折りなる行くて不安に(評)「五月雨のあと」とはどういうことでしょう。とくに「あと」とは、「後、跡」、普通は、「後」でしょう。「五月雨」は、いまなら「梅雨」のことでしょう。断続的に続く雨ということもあるでしょうか。場所は、天城路、くねくねとつづら折りの坂道が続きます。雨のあとの道はスリップしやすいかもしれません。それに、もやが立ち込めている、つづら折りの天城路です。 「行くて不安に」がこの歌の中心です。作者は、病院へ行くために天城越えをしているはずです。その「行くて不安」が、心にあって、それに色々な言葉が引き付けられてきて、一首になった、そんな気がしたのです。 土屋文恵若葉萌ゆ緑の色の多きこと春の季節は色の魔術師(評)「若葉萌ゆ」という初句は、終止形ですので、ここで文意は完了します。この初句は、二句以降に直接的には続きません。もちろん間接的といいますか、意味的には続いてゆくのです。初句は、なにか時候の挨拶のような感じもしました。それがまず、面白く感じたのです。次に、「緑の色の多きこと」に特色を感じました。色々な色がある、色が多いというのではなく、「緑の色が多い」のです。薄緑、深緑、青緑、緑青、若緑、浅緑、萌黄、うぐいす色などなどです。「春の季節は色の魔術師」の下の句がうなずけます。 全体的な特色は、具象を詠うのではなく、「緑の色の多きこと」「春の季節は」「色の魔術師」といった、観念的、知的に歌を処理する傾向があるようです。
2016.06.29
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後藤瑞義の入選歌(読売新聞静岡版)平成28年6月29日(水) よみうり文芸 花山多佳子選 入選連休にレクレーションと都会より田植えに来たる子等の声する 下田市 後藤瑞義
2016.06.29
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編集よりの下書き(「賀茂短歌」六月号)「言霊ということ」 後藤瑞義 言霊(ことだま)ということを考えています。古来より言われています言霊、しかしどうも実感として捉えることが出来ません。なんとか言霊を実感したい、それがわたしの最大の目標、あるいは最大の願いなのです。「霊(れい)」とは、あるいは、「霊(たま)」とはどういうものなのでしょうか、ということでもあるのです。それが、ほんとうに分かると、和歌のあるいは短歌の、いやそればかりではなく、古くから伝えられている諸々のものに対するわたしの疑問が一気に解消するような気がするのです。言霊のことを思う時不思議とわたしはあることが心に浮かんでくるのです。それは、聖書です、新約聖書、それもヨハネ伝の冒頭の言葉です。つまり以下のような言葉です。ヨハネ伝第一章一、「世の始めに、すでに言葉(ロゴス)はおられた。言葉(ロゴス)は神とともにおられた。言葉(ロゴス)は神であった。」『岩波文庫「福音書」より』 言霊すなわち言神、霊は神なのだろうか。霊と神とは違うのだろうか。そうです、つまり、霊は神ではなく神の力、神がほどこされる力、すなわち霊力なのではないでしょうか。 言霊が真に実感出来たとき、はじめて、聖書は自分にとって真の聖書になるような気がします。今のような、砂を噛むような感じではなく、生きた言葉として、聖書のことばを読むことが出来るようになるのでしょう。いや、これはキリスト教だけの問題ではなく、仏教でも、たとえば、法然や親鸞の「南無阿弥陀仏」を唱えれば救われるということなども、実は言霊が救ってくれるのだということなれば納得出来るのです。ただ、残念ながら今の私は、言霊を実感することができないのです。 記紀(「古事記」と「日本紀」)や「万葉集」だけでなく、あるいは「古今集」も「新古今集」も、言霊の宝庫かもしれません。なんとかして、言霊を実感したいそれが今の私の最大の目標なのです、最大の願いなのです。
2016.06.25
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五月号歌評(歌誌「賀茂短歌」)下書き 後藤瑞義原 明男童らの春に馴れしか校庭に絮毛のやうな声とび交へり (評)「童ら」は、小学校の新入生をさしているように感じました。「春に馴れしか校庭に」にそれを感じたのです。それにしましても、「絮毛のような声」という表現はなかなか思い切っています。「絮毛」は、新たな環境への出発でもあるわけで、子供たちがのびのびとあたらしい環境に馴れるように、また実も結んでほしいという願いもこめられているかもしれません。また、個人的には「童」の「わ」、「絮毛」の「わ」の繰り返しなど心地よいところです。渡辺つぎ末の子の五十回忌の今日たち日母百五歳と言いて香炷く (評)五十回忌は満四十九年目の命日に行う法事で、これで個人としての法要は終了し、これ以後は、ご先祖の霊として祀られるようになるということです。それは、それとしまして、作者は今日、逆縁の息子さんの五十回忌の命日に、線香をあげています。わが子の五十回忌の法要を勤め上げるまでは生きなければと百五歳になってしまったのでしょうか。または、作者が生きている限り息子さんの思い出は作者のなかに生き続けるとも言えるでしょうから、息子さんの分まで長生きしなければと思っているのかもしれません。そんな作者の思いを感じました。鈴木菊江きのう嵐今日はうらら日春の雲迷える羊の如くさまよう (評)最近で言えば、熊本地震、また常態化しています温暖化や気象の不順があります。そんなことも下敷きにして、自然の力にたいする人間の無力感があるでしょう。それが春のあわい雲に象徴されている感じです。また「迷える羊」ときますと、クリスチャンでなくとも聖書の一節を思い浮かべるでしょう。「さまよう」のは作者でもあり読者でもあり、自然の力に対する人間のありさまのように感じるのです。 黒田幸子時は春花は吉野と誘われ花狩り花見の客となりたり (評)この歌も「時は春」という初句を読んだとき、ぴーんとくるものがありました。そうです、明智光秀の「時は今 天が下知る 五月哉」です。また、「花は吉野」という句にも歴史を感じさせます。詠みぶり、ちょっと芝居のせりふを思わせる様で、なにかわくわく感がおもわず歌になった感じがしました。歌まくらや本歌取りといった和歌の世界の技巧が見直されてもいいのではないかと最近思ったりもしています。 後藤早苗暖かい土の布団にくるまりて里芋生姜うごめいている(評)冬が過ぎ春になったのでしょう。畑の土も暖かくなってきました。それを「暖かい土の布団にくるまりて」と擬人化して表現しています。「啓蟄」ということばを思い出させます。この方は、虫が春の日差しに誘われて土から出て来るのですが、植物もつまり里芋も生姜も早く芽を出そうと土の中でうごめいていると言うのでしょう。「里芋生姜」と具体的なのがよいと思います。 藤井美智子梅干しひとつ入れて上げたい被災地の炊きたてご飯に湯気たちのぼる(評)社会詠や報道の映像をもとに短歌を作ることの難しさがあります。映像をそのまま歌にしますとどうしても類型的になってしまいます。自分に引き付けて歌いなさいとはよく言われることです。この熊本地震を歌ったと思われる作品も「梅干しひとつ入れて上げたい」として、作者独特の歌となり成功していると思います。 小池美恵子氷雨降る中に響くは解体の音は売地となれる友の家(評)助詞「は」は、強調するのに使われます。「響くは」「音は」と畳みかけるように使われています。いかに作者の思いが強いかが自ずから分かります。「氷雨降る中に響くは」とここで一拍小休止して、「解体の音は」以下を読みました。自分の感情を言葉では表さず、状況をありのままに歌うことによって、かえって作者の深い悲しみが伝わってくるようです。 鈴木きみ車窓より白蓮紫蓮そちこちに見える景色にはげまされゆく(評)まず「車窓」です。電車なのか、車なのかは分かりませんが、それはあんまり重要なことではないでしょう。白色の木蓮、紫色の木蓮の花が今が盛りとあちらこちらに咲いているのが車窓から見えたのだろうと推察します。ただ、それだけの歌なのですが、重要なのは、結句の「はげまされゆく」でしょう。作者は、観光気分で車窓をながめているのではないようです。なにか心に気になるものを持って、どこかに向かっていることが分かります。そういう作者のこころを励ますように木蓮の花が白色にあるいは紫色に咲いているように感じたのでしょう。自分の気持ちをこのような形で歌うことに、たいへん好感を持ちました。 土屋文恵若人の心に戻り同窓会宴たけなわに老いの身忘る (評)同窓会にたまに出席すると、友の姿に自分が年を取ったことを知らされます。しかし、それは束の間のことで、すぐに昔に返ります、つまり「若人の心に戻り」がそれにあたるでしょう。ただ、この歌でとくにわたしの目を引いたのは、「宴たけなわに」という言葉です。この「宴たけなわ」という言葉は、宴会などでよく使われる言葉ですが、口語ではないでしょう。かといって文語かというと、文語とも言い切れない、いわば挨拶語といいますか、口上語というものだと思います。こういう言葉を短歌で見つけたとき、たいへん新鮮な気分になったのです。ちょっとユーモラスな感じといいますか、ほろ酔いの感じで「老いの身忘る」の結句を納得させます。
2016.06.15
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後藤瑞義の入選歌(読売新聞静岡版)平成28年6月15日(水) よみうり文芸 花山多佳子選 入選逝きし子の命日四月十五日モンシロチョウの飛び始めたり 下田市 後藤瑞義
2016.06.15
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読売歌壇 小池 光選 入選平成28年6月6日(月)読売歌壇 小池 光選 二席入選何事か成し遂げたりというように大の字となり蛙死に居り 下田市 後藤瑞義(評)カエルは時々こんな具合にして死んでいるもの。見事な死にっぷりに思わず感動。にんげんはこういうふうにはいかない。上句の比喩が堂々としてユーモアたっぷり。平成28年6月1日(水)よみうり文芸(静岡版) 花山多佳子選 秀逸 に入選する雪知らず逝きし子なれば雪柳たわわに咲ける枝を供える (評)小さいときになくなったお子さん、雪もまだしらなかった。雪のような「雪柳」に、そのことを思ったのではなかろうか。哀切な抒情性がある。(読売新聞静岡版 よみうり文芸 六月一日 秀逸 花山多佳子 選 )平成28年5月11日(水)よみうり文芸(静岡版) 花山多佳子選 に入選する言い過ぎを悔む言葉が何回も闇にうごめき寝返りをする (読売新聞静岡版 よみうり文芸 五月十一日 入選 花山多佳子 選 )
2016.06.07
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