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例年は29日か30日に行う「お餅つき」だが、今年は31日になってしまった。実は、私の子どもの頃は、「29日」に決まっていた。9のつく日は「苦」に通じるというので一般的には避けられるようだが、私の実家は天邪鬼というか「福(29)餅」だと言っていた。お餅つきを「杵と臼」でやるのは、実は結構手間がかかる。しかし、子供達が小さい頃は、孫に本物の餅つきをさせたい一心で実家の両親が頑張って準備をしてくれた。現在は、私達が「孫に餅つきを伝えたい」と頑張っている。もちろん息子も、搗きたての餅を食べないと年末の実感が湧かないように育ってしまった。しかし、今年はたったの二臼しか搗かなかった。それでも、搗きたてのお餅で「大根おろし、納豆、餡、黄粉」と四種類の絡みもちと、母のお煮しめでみんなでワイワイ食べることで、家族の一体感を感じることができた。何事もなく笑顔で一年を終えることができたことを、心から嬉しく思う。来年もまた、同じように笑顔が並ぶといいのだけれど・・。実家の両親も年老いてきたので、今年もこのように年が越せたことを、心から喜んでいるようだった。
2003年12月31日
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おせち料理作りの合間に、今年最後の書き込みをします。もしも書いておきたいことが生じても、記入するのは1月4日以降になるでしょう。もうすぐ息子一家がやってきます。夫の仕事の関係で、明日、杵と臼での「お餅つき」をする予定。面倒だけど、息子達も「本物の餅つき」を続けたいと言うものですから・・。どこかの団体のイベントではない、家庭の年中行事の餅つきをする家は、今では希少価値なのではないかと思います。杵と臼がある家でも、「電気餅つき機」を使っている家が多いようです。これを見ていて下さるみなさんのご家庭で、本当の餅つきをする家庭があったら、教えてくださいな。それでは皆さん、良いお年を!【補記】年が明けて一段落してから、年末年始の日記を順次書いてゆきます。
2003年12月30日
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ずっと以前から、このことについては気になっていたのだが、特に日記に取り上げていなかったので、書いておこう。今日の新聞にも、米軍が使用した劣化ウラン弾による健康被害が、自衛隊が派遣されるサマワにも広がっているということが書かれていた。私はこのこと(劣化ウラン弾や放射能による影響)については知識もないので断定できないが、多くの専門家がその影響の深刻なことを指摘しているのに、アメリカは人体への影響を否定しているようだ。そりゃ否定するだろう。影響があるとわかっていて使用したとなれば、とんでもない話だし、国際社会から非難されるのは必定だから。このことだけを見ても、少なくてもブッシュ大統領は、イラクを含む中東やアジアの国々やそこに生きる人々は、利用するだけの価値しか認めていないのではないかと思う。自国の兵隊にすら、「生きる兵器」としての役割しか求めていないようにさえ思えてしまう。だからこそ、日本の政府関係者もアメリカが怖いのだろう。自分の味方、あるいは自分達を支援する者しか、その存在さえも認めないというような感覚が、チラチラと臭ってしまう。このような人間や、そんなタイプの人をリーダーとする国と対峙する時に、何が必要なのだろうか。やはり、相手に逆らわずに生き延びることだけを考えるしかないのだろうか。劣化ウラン弾の放射能を浴びたとしても、すぐに死んだり癌になったりするわけではない。だから、影響がないことを祈りながら、自衛隊に行って貰うしかないのだろうか。
2003年12月29日
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新聞でこの記事を読んだ時、多分日本中の大多数の人がそうであったように、私は我が目を疑った。「なぜなのだ?」という疑問を抱えながらも、「世の中には色々な人がいるから・・」と、それ以上は深く考えなかったのだが・・。午後から図書館に本を返却に行き、いつもの習慣で雑誌の立ち読みをしていると、「中央公論12月号」での宅間守の戸谷茂樹主任弁護人のインタビュー記事が目に飛び込み、獄中結婚のこともあったのでつい読んでしまった。単純に語ることはできないが、宅間死刑囚の心理的変遷に共感した人も多かったようで、多分獄中結婚した女性もその一人であろう。私はこの事件が起きた時から、第二第三の宅間守を生まないためにも、彼の精神的な変遷をしっかりとみんなが考えることが必要だと思っている一人だ。いつの間にかそのような強い気持ちも薄れていたのだが、弁護士の言葉の中に、その気持ちを改めて思い出した。屈折した気持ちを抱え続ける体験をし、そのことによって心を病んだり苦しんだり、あるいは不条理なこの社会や、特定の人に対する強い怒りや恨みを抱え続けた人は、同じような心理的体験をしている人には「共感」することが多い。そんな意味で、宅間守は決して特殊な人間とは言えないのではないだろうか。いつしか人間らしい心を失い、打算と快楽を求めるばかりになってしまった彼が、彼に真の意味で共感してくれる人と出会い、それによって人間らしい心を取り戻し、心からの謝罪の心を持つに至ってから、生涯を終えて欲しいと思った。「人でなし」のままに命を絶たれてしまうのでは、被害者遺族の心はどこにも救いがないように思う。戸谷弁護士は、「憎しみは憎しみしか生まない」と何度も語っていたそうであるが、私もそう考えている。増幅された憎しみは、傷つけて良い相手を探して次の憎しみを生むことだろう。人間同士だけのことではない。集団同士や国同士にもまた、同じようなことが起きている。この連鎖は、断ち切ることが不可能なのであろうか。不可能であるとするなら、未来は決して明るいものにはならない。そして、次々と宅間と同じような人間が生まれる環境が整備されるということであろう。私達はそれを望んでいるのであろうか?
2003年12月28日
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★イランの地震で6000人死亡 このような時に、すばやく自衛隊が災害支援に行ったらいいのに・・・。 それにしても、イランは地震国らしいのに「日干しレンガ」の家なんだ・・。火事にはなりにくいだろうけれど、と思うのは「阪神淡路大震災」を連想するから。あの時は長男が神戸に住んでいて、連絡がつくまでの時間は生きた心地がしなかった。自衛隊がイラク行きのために準備していることは、「医療・給水」などと聞いているので、そのままイランに行ってあげられないものかと、素人考えではあるけれど強く思う。こっちの方が絶対に緊急事態だし、喜ばれること確実。★アメリカBSE牛、国外感染の可能性当然でしょうが。ない方が不思議ですよ。私はあまり牛肉を食べない方なのだが、以前から「食べるために飼育する牛は殺してもいいが、鯨は賢いからだめ」なんてのたまうアメリカには腹が立っていた。論点が違うので並列して書くことは変なのだが、人間の(特に私の)思考はあちこちに飛ぶことをここでも実感。★運転中の携帯に罰金これも当然でしょう。携帯電話で話しながら運転をしている人を見ると、本当にドキドキしてしまう。私は不器用なので、あのようなことは絶対に無理なのだが、いくら聖徳太子でもあれは危ないと常々思っていた。罰を与えなくては自制できないというのも情けないけれど、シートベルト不着用より何倍も危険だと、ずーっと思っていた。
2003年12月27日
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私は、もういらないと思ってます。必要なのは高速道路建設事業そのものであって、「高速道路としての必要度」はとても低いのは、誰でもわかっていることのはず。道路としての必要度が高くないのだから、計画見直しも含まれる三区間がとりあえず生き残ったとは言え、多分ズルズルと執行猶予が続くんじゃないだろうか。今後、お金の使い道に困るような状況となれば別だろうけれど・・。ということで、私はこれ以上の高速道路は北海道には不必要だと強く強く思っている。
2003年12月26日
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来週になると、実家の掃除の手伝いやおせち料理準備、お餅つきなどで忙しくなるし、明日から土日にかけては出かける用事があるため、今日可能な限り掃除をしようと決意。実は昨日も、台所の片付けや掃除をするかたわら、パソコンで年賀状を作っていた。年賀状書きは夜の仕事にすることにして、夫が出かけてからは普段の手抜き掃除のツケを実感しながら汗を流す。一段落して遅めの昼食をかき込み、今はちょっとお休みの時間。この日記を書いてからは、足りなくなった家具用ワックスや洗剤等を買いに行き、予定している今日の作業を済ませたいと思う。今日できなかったら、多分私のことだから「汚れていても死にはしない」と開き直るに違いない。この日記のテーマは『大掃除しますか?』なのだけど、他の人達はどのようにしているのだろう。私程度の「大掃除」は、きれい好きな主婦なら日常の家事なのだろうけれど、私にとってはやっぱり大掃除である。つまり、壁や窓ガラスや床磨き。蛍光灯などの掃除や家具磨き。普段使わない食器洗いや、押入れの不要物の整理などなど・・。こんなことを書くと、いかに私が「主婦らしからぬ主婦であるかがバレバレ。だが、これを一気にやろうとすると、実に疲れてしまう。実は、もうやりたくない心境である。今夜の私は、多分例年通りの反省をしていることだろう。
2003年12月25日
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大正時代の日本赤十字が、当時は国交のなかったシベリアにおけるポーランドの孤児を救済したこの話は、以前、テレビのドキュメント番組か何かで見て、とても感激したことがある。だから昨夜のこのドラマは「見逃してはならじ」と、しっかりと見た。時は大正11年、私の父が生まれた年なので80年も前のことだ。いつも感じることなのだが、やはりドラマ化されるとドラマになってしまう。私は、直接の資料や写真などで淡々と綴られるドキュメントの方が、想像力をかき立てられるせいかより感動する傾向がある。それでも、大正期の日本がこのような国際貢献や人道支援をしていたことを、何だか誇りに感じることができた。そして、今の日本のイラク支援のことを思う。支援は、支援を受ける人との人間同士の相互作用がなくては、本物にはならないような気がする。ポーランド孤児の支援は、「助けて欲しい」という訴えが当事国から具体的に頼まれて、受けた日本が「わかりました」とポーランドの意向に最大限沿った形で国をあげて取り組み、受け入れ先の日赤やその周囲の住民こぞってポーランドの子供達を助けようとしたことが、相手の心に届く支援となり、80年後の私達にも感動を与えるものになったのだと思う。自衛隊は「自己完結できる唯一の組織」などと、どなたかが言っていたけれど、「自己完結」は「自己満足」と非常に近い。自衛隊の派遣については賛否両論あるが、今となっては「派遣中止」は無理だろうと思う。だからこそ、イラクの人達の心に届く、お互いに実りのある支援活動になるように、精一杯の知恵と努力を傾けて欲しい。アリバイ作りのためにしか見えない神崎氏のイラク訪問など、私には邪魔にしか見えない。創価学会の人達は、神崎氏のイラク訪問での無責任とも思える言葉によって納得してしまうのだろうか。今更ながら、創価学会と公明党には失望している。
2003年12月24日
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★天皇誕生日 師走でクリスマスイブ前日という日が誕生日ということを、毎年少々お気の毒に感じてしまう。天皇陛下の記者会見の記事を読みながら、あのお立場で言える形の中で、精一杯現在の日本の状況についての危惧を伝えようとなさっていると感じるのは、私の深読みだろうか。言外の陛下の主張を感じてしまう私である。★道路公団民営会員の二人の委員が辞任 これも私の勝手な感想だけど、「委員が役割分担しての主張」とつい思ってしまった。この世は、主張がまるごと通ることはまずないから、多少でも自分達の意見を多数の人に認知してもらい、応援団を増やして自分たちに風を呼び込む戦略はとても大切だ。★わいせつ教員175人 少しずつ実数に近づいているのは確かだろうというのが最初の感想。教師が「聖職」と思い、先生が悪いことをするはずがないと思っていた幸せな日々は、いったいいつの頃だったか・・。多分、高校生の頃にはそのような幻想は失せていたと思う。「あの先生の奥さんは、教え子だったんだって・・」という話、それほど珍しいことではなかったと思うし、ということは教師と教え子の関係が男女の関係になるということは、たぶん・・・そういうことだろう。それに、女生徒が若い男性教師に恋心を抱くのは一般的なことで、昨今の女生徒なら積極的に迫ることだろう。それだからこそ、私は教師には強い自制心を求めている。だけど、自制心が育たずに成長した若者達がフェモロンを発しあう「学校」では、このような事件は減りはしないだろう。少なくても、泣き寝入りしたり人生を変えられたり(妊娠、中絶、できちゃった婚など)することが、少なくなることは強く願う。多くの場合、傷つくのは肉体で代償をはらうことになる女生徒のほうなのだから。
2003年12月23日
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息子家族が引越しをするため、3日間孫達を預かることになりました。あー、子育ては体力勝負だということを実感しています。
2003年12月20日
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またまた昨夜も、「北の国から」を半分だけ見た。「半分」というのは、地元の小学校関連の集まりに出席していて、帰宅が九時頃になってしまったからである。帰宅するやいなや「北の国から」を見ていて、色々なことを考えてしまった。現代の北海道農業の課題や、「結婚」ということのありかた。そして子どもを産むということの責任のあり方などなど。多くの人がこのドラマを見て「泣けて泣けて・・」というのだが、私はあまり涙は出ない方だと思う。一つには、このドラマの主人公達があまりにも泣いてばかりなので、少々しらけてしまうという部分がある。それ以上に、私は涙もろくないのだ。(涙もろいのは、夫の方である)卒業式、結婚式、お葬式など、多くの人が涙を流している場面でも、私はどうしても泣けない。泣けた方がどんなに楽かと思うときでも、なかなか泣けないので、「私は冷淡なのだろう」と思うしかない。それはともかく、昨夜のドラマの中で一番思ったことは、あの「石の家」の寒さだ。蛍ちゃんと五郎さんの嫁入り前の挨拶の場面で、二人の息の白かったこと。昔の私の実家でも、居間はあれほど寒くはなかったぞ!その居間に結婚式から酔っ払って帰宅した五郎に、毛布だけをかけている様子をみて、「それじゃあ、凍えちゃうよ」と余計な心配をしてしまい、いよいよ泣けなくなった私であった。さて、小学校での親や教師との話の中で、この頃は少し天候が悪ければ、「お出迎えの自動車」がズラーッと並ぶという話を聞いた。(私の子ども時代は馬橇だったなんて、私も老人の部類になったと痛感)また、「トイレ」の話も出た。最近の子どもは、家庭で清潔な洋式トイレを使っているので、学校のトイレ(特に和式)を使えない子もいるし、下校途中のコンビニでトイレ拝借をする子もいるとか。その学校は校舎も少し古い部類なので、洋式トイレは設置したものの、構造上の問題で臭いがするので嫌われているらしい。「子どもが安心できる学校にするために」設備の充実も必要という議論に流れている時、思わず私は言ってしまった。「だけど、社会ではきれいなトイレばかりではないし、どんな環境の中でも生きていく力を育てなくてはならないのなら、学校設備を過度に完備する必要もないのでは?」と。子どもが安心できる学校の一要素としてトイレの問題もあるかもしれないが、それよりももっと大事なことがあるような気がしてならない。昔のことを言っては笑われるだけだろうが、当時の学校のトイレなんて暗くて臭くて危険極まりないものだった。(だからこそ、トイレの怪談も成立した)しかし、トイレに落ちた話を聞いたことはないし、トイレがイヤだから学校に行きたくないとも聞いたことがない。「トイレがイヤだから・・」というのは、子どもの大人向けの言い訳のように思うのだ。コンビニのトイレで用を足すのは子どもの知恵であり、別の意味も隠れているかもしれないではないか(たとえばマンガの立ち読みとか)。学力低下の問題もそうである。取り組み始めたばかりの「ゆとり教育、総合学習」の評価は、この子供達が大人になってはじめて見えるものであろう。知識偏重教育の弊害をあれほど指摘していた人々が、どうしてすぐに「学力低下」の危機感を煽るのか、私には理解できない。「生きる力や情操豊かな人間」を子どもに期待しながら、どうして少しの雪や雨で、子どもを自動車で迎えに行くのだ?雨や雪を身体や心で受け止める中で、子どもは人として育っていくのだ。自動車で送迎された子どもが、「正吉君」には絶対にならないことは断言できる。
2003年12月19日
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今日は、所属する団体のボランティア活動として、市内の特別養護老人ホームに行く。この施設では、かつて私の祖母も何年か過ごしたことがある。その頃は頻繁に通っていたのだが、祖母が病院に入院しやがて亡くなってからは、年に1~2回のボランティア活動で訪問するだけになった。実はここには、95歳になる私の叔母がお世話になっている。数年前から「寝たきり状態」で、生活すべてが「全介助」である。元気な頃は、とても頭の良いしっかり者で、私達にも結構厳しくて、少し煙たい叔母だった。作業の合間を縫って、何度か叔母の部屋に行き声をかけてみたが、今回は全く目を開けてはくれなかった。前回訪問した時には、言葉はなかったけれど私の顔を見て私だとわかったらしく、表情が歪み涙を流した。元気な頃は涙など想像もできなかった叔母だったが、この施設に入所してからは、顔を見ると泣かれるのでそれが切なかったものだ。しかし今回は、いくら耳元で「○○だよ。」と声をかけても、熟睡しているようにも思えないのだが、目を開けてくれない。職員に聞くと、最近はほとんどの時間をうつらうつらしているらしい。二度目に居室に行った時は、介護士さんが食後の「水分補給」に苦労していたのだが、叔母は抵抗するかのように水を飲もうとしない。吸い飲みの攻防を見ていた私は切なくなり、せめて声をかけようと、「おばさーん、水飲まないと心配なんだよ。イヤだろうけれど頑張ってね。もう少しでいいから、飲んでくださーい」などと、頬をさすりながら耳元で声をかけた。すると、叔母は少しではあるが「ゴックン」と水を飲んでくれた。私は、叔母に私の声が届いていると感じて嬉しくなり、「わー、すごい、ありがとう。 もう少し飲んでくれると嬉しいんだけど、頑張って!」などと、また一所懸命声をかけた。それを何度も繰り返して、やっと吸い飲みに半分くらいの水を飲んでくれた。それでも叔母は、目を開けることはなく、介護士さんの「もうこれくらいでいいかなー」と言う声に安心したのか、口元の緊張を抜いた。祖母の時もそうであったけれど、病院や施設はその人の命を守ることが至上命令でもあり、本人の気持ちには無関係に、食事や水分を過不足なく半強制的に与えてくれる。そのことの重要性を充分理解しつつも、私はいつも複雑な思いに駆られてしまう。美味しくもない「とろみのついた水」を流し込まれたら、私だって拒否するに違いない。多分「このまま枯れさせてくれー」という気分だろうと思う。しかし、人は死ぬまでは生きなくてはならないのだ。祖母を見詰めていた時も思ったのだが、今日、叔母を見ていてまた思った。人間は生きること自体が一番の仕事なのだな・・と。生きているだけで、人は何かを周囲に伝えられる存在なのだ。だから、生きていて喜んだり楽しみを見出すことができれは、それは本当に幸せなことだ。さらに、自分が何かをすることでも少しでも誰かが喜んでくれるとしたら、それ以上の贅沢があろうかと思う。こんなことをしみじみ思えるのも、今日、叔母と会ってきたお陰だ。叔母さん、本当にご苦労だけど、命の炎が尽きるまで、もう少し頑張ってくださいね。
2003年12月18日
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「北の国から」は、主人公の純君と蛍ちゃんが息子達と同世代であり、最初の時からズーッと見続けたドラマである。二人の息子にとっても、主人公は幼馴染のようなものであり、他のドラマとは違う思い入れがあるようだ。私にとっても、何度もみているのに無視できないというドラマである。無視できないもう一つの要因は、私の幼い頃の体験と重なることが多いからでもある。今日はその一つ、「吹雪体験」について書こうと思う。断っておくが、北海道の冬は吹雪と晴天ばかりではない。当然ではあるが、曇天も霙も小春日和もありますよ。さて、私の小中学生時代は、今よりも雪も多く寒かったような気がする。住宅事情が今より悪かったせいなのかもしれない。暖かいのは石炭ストーブをガンガン焚いている居間だけで、私の寝ていた部屋の寒さは、戸外と大差なかったのではないだろうか。朝、目を覚ました時に、布団のヘリに息で白い霜のようなものがついていることも、稀ではなかったような・・。小学校・中学校は家から4㌔の道のりで、当然冬は徒歩である。今のように除雪された道ではなく、馬橇の跡や人の足跡が道の痕跡であり、小学校低学年の頃は、上級生の大きな歩幅の足跡を必死にたどって歩いたものだ。吹きっさらしの道だったので、少し吹雪になるとその道の痕跡もあっという間に見えなくなってしまう。悪いことに道路の脇には用水があるので、道が見えなくなったらその用水に落ちないようにと、道なき道を歩くことになる。踏み固められていない雪原は、一歩ごとにズボッズボッと腰までぬかってしまい、家までたどり着くのは本当に重労働であった。学校から帰るには、「道なき道」になってしまう農道が近いのだが、自動車も通る広い道を歩くという選択肢もあった。しかし、広い道は安全ではあるけれど、何しろ遠くなってしまう。子どもは安全よりも近い方を選ぶので、学校をでる時に晴れていたら農道を選ぶ。しかし、冬の天候は変わりやすく、下校途中で吹雪になってしまうことも稀ではなかった。悲惨なのは、そのような時であった。吹雪になると方向感覚を失ってしまう。その上に、用水を避けて道なき道に踏み込んでいる。さらに私は、一緒に帰る同世代の友達が近所にいなかったから、いつも一人で吹雪と格闘することになった。雪の中でもがいているうちに、いつの間にか手袋が脱げてしまったことがある。手がかじかんでいるから、手袋が脱げてしまったことにも気付かなかったのだ。手袋無しで厳寒の中をもがくのが自殺行為であることは、幼いながらわかっていた。ただでさえ「しもやけ」で腫上がる手が、手袋無しではどのようになるのか、考えるのも恐ろしい。私は必死で手袋を探し回り、それを見つけたときには「助かった!」と思ったものだった。しかし、もがけばもがくほど、自分の位置感覚も失う。そのような吹雪の中で、私は何度か、「もう、これで死んじゃうのかもしれない」と思った時がある。疲れ果てて、もう動きたくないと思うときがあるのだ。寒い・冷たいという感覚もなくなると、吹雪の中で座り込んだり大の字になったりしていると、妙に平安を感じるのだ。このまま凍って死んでも、苦しくないなーと思うのだ。しかし同時に、「死んでいる私を見つけて、お父さんやお母さんはどう思うかな」とも思う。すると、「やっぱり、このままじゃいけない」と思いなおし、また立ち上がるのだった。経験を積むうちに、吹雪の最中にも必ず一瞬の静寂の時があることを知る。その瞬間に、周囲の風景が確認できて自分の位置がわかり、進むべき方向が見えるのだ。最大の危機を感じたのは、中学生の時だった。その日は生徒会活動で遅くなり、あたりは真っ暗だった。吹雪の上に真っ暗となると、いよいよ位置がわからなくなる。自分の感覚では、もう我家に近づいているはずなのに、どうしても位置がわからない。我家への出入り口を見逃して先に行ってしまうと、そこには用水どころではない本当の川がある。そこに過って足を滑らせてしまったら、それこそ一巻の終わりである。私は、それ以上進むべきかどうか、本当に悩んでいた。危険を犯すよりは、このままジッとしていたほうが良い。同時に、私の体力も限界に近づいていたので、心のどこかに「もう、どうなってもいい」という気持ちが芽生え始めていた。その時である。突然私の目の前に、懐中電灯の明りが突きつけられた。私の帰宅が遅いのを心配した父が、迎えに出てきてくれたのだ。それは、本当に我家の入り口だったのに、吹き溜まりになっていて私には見つけることができなかったのだ。父は、少し前からそこにいたようなのだが、激しい吹雪はその明りを遮っていたのだった。私は何度かの吹雪体験の中で、生きることに通じるものを体得してきたようにも思う。今は北国に住んでいても、私のような体験をする子どもは少ないだろう。それが良いことばかりではないのだけれど、時代は逆行することはない。【補記】下校時にすでに吹雪いている時は、集団下校になった。当時の農家には必ず馬がいたので、都合のつく父親達は馬橇で子供達を学校まで迎えに来てくれた。私達は、それらの馬橇に乗り合わせてぬくぬくと帰ることができたので、吹雪きそうな日には学校の窓から「もっと吹雪け!」と願ったものだ。
2003年12月17日
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子育て関連のサイトを見ていて、ふと思い出したことがある。「親心・・」のテーマに合っているかどうかわからないけど、今日は25年も前のその思い出を書きたいと思う。長男が小学校一年生の冬のことであった。その小学校では、冬になると校庭にスケートリンクが学校とPTAの共同作業で作られて、冬季間の体育の時間は(スピード)スケートだった。スケートをしたことのある人はご存知だと思うが、スケート靴は紐で編み上げ状に結ばなくてはならない。その紐がゆるいと靴が足にキチンと固定されず、グラグラして危険なのだ。小学一年生の子どもには、スケートの紐をしっかりと結ぶのは、とても難しくて大変な作業だ。大人でも、厳寒の中で素手でその作業をすると、すぐに手がかじかんで上手に結べない事だってあるのだから・・。ということで、私は長男にスケートの紐結びを一所懸命に教えた。まずは自宅でその練習を始めたが、なかなか上手に結べない状態のままに、スケートの授業が近づいてきた。このままでは、長男はキチンと紐を結べず、危険なばかりか先生や他の子供達の迷惑にもなると私は焦った。それは我息子だけではなく、他の子供達も同じであったようで、最初のスケート授業の時に私は職場を抜け出して学校に行ってビックリした。そこには、私同様に、子どものスケートの紐を結ぶために、子どもとほぼ同数にさえ見える母親達が集まっていたのだ。しかし、私は当時仕事をしていたので、毎回スケート授業のたびに学校に行くことは困難だった。私はさらに必死になって、紐結びの特訓をした。こちらに焦りの気持ちがあるから、どうしても声は高くなり、ついつい手も出てしまう。そんな私の強引さに、長男もふてくされてしまうという悪循環が始まっていた。まずいなーと思いながらも、これを何とかしなくては私は安心して仕事もできない。そんな気持ちで、日曜日に学校のスケートリンクに一緒に練習に行った。紐結びも下手だけど、スケートだって立てば転ぶの繰り返しの状態だから、両方を練習させようと思ったのだ。息子はベンチに腰掛けて、スケートを履き始めた。おぼつかない手付きで、紐結びを始めたとき、私はまた「そうじゃないでしょ・・」と声を出そうとした瞬間・・。「おかあさん、ちゃんとできるかどうか見ててね。言葉で教えてくれてもいいけど、手は出さないでね」長男は紐と格闘して下を向いたまま、きっぱりと私の口を封じたのだ。ガーン、という感じだった。息子は、親ばかになっている私に、自分の言葉で母親のあるべき姿を教えてくれたのだった。私に言えることは、「わかった。見ているからね」しかないではないか。そして思った。どちらにせよ、まだスピードなど出せる状態ではないのだから、少しぐらい紐がゆるくて靴がグラついても、ひどい怪我にはならないだろう。しっかり結んだ方が楽にすべることができることは、息子自身が体得していくはずだ。まがりなりにも結んではいるのだから、あとは少しずつ上達したらいいのだ。私は何をそんなに焦っていたのだろう・・と。それから、「手を出さないで、見ててね」という言葉は、私の子育ての座右の銘になった。親はともすれば、先々の心配のあまりに余計な口を出すことが多い。今、その瞬間に危険だったり取り返しのつかない間違いをしている時には、迷わずに口も手も出すべきだと思うけれど、私の経験ではそのような場合は一般に親が思っているよりは少ない。子ども自身の未来は、子ども自身が切り開くしかない。親の体験だって、本当に狭い体験であることが多い。子どものことに必要以上に心配して手出し口出しする時間があったら、自分の現在をより充実させた方が良い。毎日を元気に希望を持って生きている親の姿を見せた方が、よっぽど子どもへのエールになると私は思っている。ということで、私は今も、自分がやりたいことをやることにほとんどの時間を割いている。あの時の長男の言葉が、今でも息子達との関係を考える時に生きている。
2003年12月16日
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あのフセイン元大統領が、民家の地下の穴の中で発見されたという。さきほどまで孫達の世話に追われていたので、チラチラとテレビや新聞を見ただけだが、今の感想を書いておこう。最初に思ったのが「本物か?」ということ。次に連想したのが、オウム真理教の麻原のこと。彼は地下ではなくて屋根裏部屋に隠れていた。次に連想するのが、自国で動乱があったときに他国に亡命する国家元首たち(王様なども含む)のこと。自分を今まで信じていた国民を放り投げて逃げ回る姿に、その国の人々はどのように感じるものなのだろう。今はまだ頑張って無茶苦茶をしている金正日も、きっと最後はこれに近いのじゃないかと思う。そして、一昨日観た「ラスト・サムライ」を思い出していた。近代国家を目指さざるを得ない日本にとっては、「侍」は邪魔であった。それは歴史の必然であり、それぞれの立場でこの国の未来を考える人達が、必死で国づくりにあたったのであろう。しかし、一人の人間として、それまでの価値観や生き方を180度変換することは、私達の想像を超える葛藤があったに違いない。そして、リーダー的な立場にある人の中には、「いかに生き、いかに死すべきか」と自分に突きつけながら生きた人も多いだろう。自分の存在を客観視できる人ほど、自分が何をすべきか否かを、ギリギリと追求したのではないか。そして、その結論の中には「死」もあったのだ。死に場所を求めるように、義を通すために戦う姿は、映画で見る限りは悪くはない。しかし、戦いとは一対一の対決ではない。その後ろには、多くの兵隊達がいる。その人達もリーダーと思いを一つにできれば話は美しいが、人間はそれほど単純でもないだろう。さて、フセインにはそのような人としてのギリギリの葛藤はあったのだろうか。神の名の元に戦ってきたという信念があるなら、違う態度になるのではないだろうか。我欲や権力欲の塊として君臨し、敗れた時は自分の身の安全ばかりに汲々とするリーダーを持った国民は、本当に不幸だと思う。そしてまた、少なくても第二次大戦敗戦の時、日本の天皇は逃げ隠れもせず国民を守ろうとする人であったことに感謝する。フセインが拘束されたことで、イラクが本当の意味で復興へのスタートが切れることを心から願う。できれば、ここでアメリカが、真の意味での懐の深さを見せてくれるといいのだけど。
2003年12月15日
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昨夜、見てきました。私は自分から映画館に足を運びたいとあまり思わないタイプなのですが、これは見たいと思ったのです。今日も時間があまりないので詳しくかけないのですが、(またこれから息子家族がやってくる!)、とりあえずの感想です。外国人が日本人を描く時、ある種のステレオタイプの日本人になっていて嫌な感じを受けることが多いのですが、これは違いました。私達が忘れていた「日本」を思い出させてくれる部分も多かったし、「正義」とまでは言わなくても「義」に生きる人間の美しさを感じさせてくれました。トム・クルーズには驚かされることが多いのですが、今回も感動しました。渡辺謙もとても良かった。もう一度、新渡戸稲造の「武士道」を読もうと思っています。(もちろん、邦訳ですが)
2003年12月14日
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昨日の日記に、お雑煮を食べたことがない子どもの話を書いた。実は昨夜、出張帰りに長男が我家に泊まったのだが、朝食を食べながらその話をした。すると息子が言った。息子「それと似たようなことだけど、うち(我家)では冬至の時にかぼちゃを食べることって、あんまりなかったよね」私「そういえば、そうだね」息子「知り合いのおばあちゃんの家に立ち寄った時に、冬至だからかぼちゃの汁粉を食べなさいって言われてさ、あー、そういえば冬至ってかぼちゃ食べるんだっけ・・って思ってさ。それと似たようなことかもね」私「・・・そうだねえ。そういえば私は、お赤飯だってあんまり作らないしねえ。人のこと言えないねえ」・・と、しばし反省した次第である。昨日の日記にも書いたけれど、私の年末年始の料理は普段の手抜きの罪滅ぼしだったから、本当に人のことは言えないのだ。実家が近いこともあり、何かお祝い事がある時は、母がお赤飯を作ってくれた。冬至のかぼちゃも、私自身はあまり作らず、母が作ったものを食べていたことが多い。自分の家でやらないことは、子どもにとっては「我家の習慣」とはならない。もしも実家が離れていたら、私はもう少しそのあたりに気を使って赤飯も作っただろうし、かぼちゃも煮たかもしれない。しかし、母の楽しみを奪ってはいけないし私も楽ちんだしと、自分に言い訳をしながら手を抜いていた。このようにして、日本の食文化も季節の行事も、遠いところに行ってしまったのだろう。そして息子夫婦だ。こちらは、何かにつけて家族ぐるみで我家にやってくる。当然、お正月料理は我家で食べることになる。お嫁さんは私のアシスタントであるし、今の今まで私はそれでよしと思ってきたが・・・。孫達にとっては、お正月は「我家のイベント」ではなくなるのかもしれない。お嫁さんの実家では、お父さんがお正月も仕事で不在が多くて、我家ほどにはお正月料理を作ってはいなかったらしいから、ひょっとするとこの家の習慣を「わずらわしい」と感じているのかもしれない。昔と違って、今は年がら年中クリスマスかお正月のように美味しいものが溢れているし・・(お店に)。あー孫の代には、お雑煮がお正月の食卓から消えるのは必至だ。
2003年12月13日
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留守家庭児童会の人の「ぼやき」をまた聞きした。わが町の留守家庭児童会は、親が働いている小学三年生までの子どもを、放課後や長期休暇中に預かっている。冬休みに入ると、朝から夜まで子供達を預かるので、指導員は色々な小イベントを工夫するらしい。その一つに、「お雑煮、お汁粉づくり」をした時のこと・・。子どもの中に「お雑煮」を食べたことがない子どもが複数いたという。嫌いで食べないのではなく、家庭で作ったことがないらしいのだ。私はそれを聞いたとき、「エーッ! ウソーッ!」と黄色い声を上げてしまった。日本のお正月にお雑煮は付き物でしょうが・・・。手の込んだおせち料理は難しいとしても、お雑煮などは作ろうと思えばお味噌汁程度の手間でできるのに。その話をしていて、ふと思い出したことがある。私は、働いていた頃から、普段の手抜き料理の罪滅ぼしもあって、年越しの料理とおせち料理だけは年に一度の頑張りだと思って作ってきた。数年前の12月31日の夕方、料理に足りないものがあったので近くのスーパーに走った。大晦日とあって店内はごった返し、店先には年取り用の「年越し蕎麦、オードブル」などがどーんと並んでいた。忙しい人にとっては、出来合いのオードブルの活用も悪くはないと横目で見ながら通り過ぎようとすると、背後で子どもの声が聞こえた。「おかあさーん、これ食べたい!」何を指してのことかは私は知らない。子どもには魅力的なものだったのだろう。しかし、次の母親の言葉に、私は思わず足を止めた。「だめだめ、パンを買ったから!」思わず振り返って親の顔を見たい衝動に駆られたが、私はぐっと我慢した。この家庭では、年越し蕎麦も食べずにパンを食べるのか?!どんなパンなのかわからないし、ひょっとするとその家はとても貧しくて、年末年始のご馳走を用意できないのかもしれない。しかし、スーパーに来てパンを買うくらいなら、乾麺でもいいから蕎麦を食え!私はお腹の中で毒づきながら、その場をあとにしたものだった。きっとあの子も、お雑煮は食べていないのではないだろうか。数日前に雑誌を見ていたら、現在の日本の家庭ではクリスマス料理には随分力が入るけれど、お正月はさほどでもないらしい。うーん、嘆かわしい。我家でもクリスマスケーキくらいは食べるが、何せ年末年始という一大イベントがあるし、クリスチャンでもないのでその程度で済ませてきた。この国は、食文化もアメリカナイズされてしまったのか。アメリカ親分の力は偉大だ・・。
2003年12月12日
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今までは隠密裏に行われていた訓練が、いよいよ公開された。報道によると、自衛隊員への派遣希望アンケートは8月に行われ、その回答によって選抜されたようである。私が危惧していたような、希望していないのに命令されるという最悪のことはなかったようだ。しかし、アンケート回答の8月時点と、現在の現地状況は変化している。当時の気持ちと現在の気持ちが、変化している隊員もいるのではないだろうか。私の町に住む隊員の中にも、派遣される人がいるのだろう。その家族の今の心中は、いかばかりかと思う。今までにもこの地の自衛隊員は、前回の東ティモールへの派遣などの海外派遣を体験してきたが、今回の派遣の危険度は今までとは比べ物にならない。それなのに、今回はおおっぴらな地元での壮行会の計画も未定らしい。私としても、どうしても行かざるを得なくなったからには、隊員の人達に「日本のために頑張ってきてください」と言いたい。しかし私の心は、「本当に日本のためになるのだろうか」という疑問を払拭できずにいる。だからもし、身近な人が派遣されると知ったとしても、「とにかく無事でお帰りください」と言うしかない。壮行会が開かれても、とても出席する気にはなれないのだ。そう思うと、派遣される隊員には本当に申し訳なく、そして気の毒だと思う。幸いに(隊員の方々、ごめんなさい!)、私の身内には自衛隊員はいないが、もしも私の息子が派遣されるとしたら、私はどう考えるのだろう。人はやむを得ない行動をしなくてはならない時に、必ず自分を納得させる合理性を見つけようとする。だからきっと、無理やりにでも「この派遣は日本のために必要なことであり、正しいことだ」と思い込もうとするだろう。正義のために、イラクの人たちのために、そして日本のためにその命を失ったとしても、その行為は尊くて正しいし、その死も誇りに思って受け入れようと、自分の心をねじ伏せるのではないだろうか。だけど、今の私は、隣人としての自衛隊員を考えるしかない。そうでなくては、冷静に考えることなどできない。その観点からは、やはり釈然としない思いがつきまとう。私の知る限り、自衛隊に「就職」する若者の多くは、「安定した国家公務員」の職場として入隊している。隊員と結婚する女性達も(私の知人にも自衛隊員の妻は多いが)、本当に戦地に赴くことになろうとは考えていなかったと思う。自衛隊に就職したら、給料をもらいながら各種免許を取得できるし、定年は一般企業よりも少し早いけれど、その分だけ再就職への組織をあげてのフォローもあるし、隊員と結婚したら安定した生活が確保されるのだ。自衛隊に入ったり隊員と結婚したら、「良かったねー」と言われることが多いのはそのせいである。きっと入隊してから各種の教育や訓練の中で本人の意識は変化するだろうけれど、家族の意識はついていっていないのが実情ではないか。今頃はきっと、「自衛隊は軍隊で、夫は兵隊だったのだ」と気付き、愕然としている妻も多いのではないだろうか。自衛隊派遣の是非について、私は正直なところわからない。しかし、私の心は「自衛隊のイラク派遣はやめてほしい」と叫んでいる。兵隊は部隊の一つの駒なのだ。その人の価値観、倫理観、人間観をすべてぶっとばして、命令に従うしかないのだ。いくら「人道支援」と言おうとも、銃や戦車の先には人を殺しあう戦争の当事者になる結果があるとしか思えない。民間人が戦争に巻き込まれて死ぬのとは、意味が違うと思うのだ。
2003年12月11日
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この数日、ある少年が気にかかっている。人間関係づくりが苦手というか不器用で、繊細で傷つきやすく、いつも他人を気にしすぎながら日々を送っている。本当の友達や自分を理解してくれる人を強烈に求めすぎて、誰も自分の苦しさををわかってはくれないという思いに囚われている。「助けて!」と叫ばれても、周囲の人達は何をどう助けて良いのかわからず戸惑ってしまう。彼自身が、どうしてそれほど苦しいのかわかってはいないし、どのように助けて欲しいのかわからないのだから当然でもある。そして彼は叫ぶ。「結局、誰も本気で他人のことなど心配なんかしないんだ。大人は優しそうな顔をしていても、助けてはくれない。大人はずるい。大人はみんな同じだ!」と。それは、思春期にきっと多くの人が大なり小なり味わう感情だと思う。その時期を通ってきた記憶を持つ私には、彼の気持ちも多少はわかる。そして、「こんな感情に囚われる自分は特別だ(あるいは変だ)」と感じているであろうとも。それは、自己と他者を考え始めた少年には当然訪れる感情ではあるが、決して自分以外の誰とも同じではない。持って生まれた気質や育った環境、それまでに出会った人々や体験はみんな違う。その違いの分だけ、感じ方も考え方もみんな違う。他者と違う部分を強く意識し、自分のダメで弱くて醜い部分を嫌悪し、周囲の大人の中にもそれを感じて絶望し、生きてゆく希望も価値も見出せないどん底に落ちて、それでも毎日生きていることを知り・・。その繰り返しの中で自分の内部から湧き上がるものによってしか、自分を救うことはできないと私は思っている。私は、泥沼の中に這いずり回る少年に、溺れないようにとロープを投げることはできても、沼に自ら助けには行けない。だって、彼にとっては泥沼であっても今の私にとっては水たまりであり、「ほら、何ともないよ」と言ったところで、彼には泥沼なのだから「わかっていない」と思われるだけだもの。自分でもがいて自分で脱出するしかないのだよ。私たちはその姿にエールを送ることはするし、具体的に彼がしてほしいことを示したなら、可能な範囲で協力はできるけれど、それ以上は大人でも無理なのだよ。大人だって人それぞれだから、出来る事と出来ないことはみんな違うんだよ。そんなことを思いつつ、今の私は彼に少し距離を置いて見守っている。私が彼に伝えたのは、「とにかく今日を生きてね」ということだ。私はその泥沼の絶望に見切りをつけて、この世から去る人達が多いことも知っている。だから、自死する人を責める気にはなれない。それがその人の限界だったのだから、「辛かっただろう。残念だ」と思うしかない。誰もが必ず死ぬのだから、自死もその一つとさえ思う(ただ、他者を道連れにするのは許せない)。だけど、少なくとも思春期の泥沼は、生きてさえいたら通過点となるし人生の糧にもなる。だから、生きていて欲しいと祈る。発作的に死んで欲しくないのだ。その少年は死なないとは思うが、人は自分で自分がコントロールできなくなる時もあるし、思春期にはその傾向も強いからそれだけが心配なのだ。人は同じではない。この世に「私」はただ一人であり、それだからこそ毎日が発見と感動の連続にもなる。だけど、「私はただ一人」ということは、決して全面的に誰かと思いを一致させることはないという孤独と背中合わせなのだ。人は一人で生まれて一人で死ぬのが原則だけど、だからこそ少しでも共感できたり協力し合える人と出会った喜びは格別だし、そのような人達と支えあうぬくもりこそが人として生きるということではないかと思っている。こんなことを言ったとしても、今の彼には「きれいごと」だろう。私自身、はるか昔にはそう思っていたのだから。いつか君と、このようなことを語り合える日が来ることを祈りつつ、かつ信じています。
2003年12月10日
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今日は、臨時閣議で自衛隊派遣基本計画が決められるとのこと。とにかく、今(朝)の私の気持ちを書いておきたいと思います。この数日、自衛隊イラク派遣のことが気になって仕方がありません。昨日は真珠湾攻撃の日でした。どなたかのHPにも書かれていましたけれど、あれはアメリカの戦略に日本が落ちてしまったということが、色々な証言や資料から指摘されています。同時に、当時の現地の外務官僚の間抜けとドジについても・・。そのことの真偽はさておき、この時期にまた日本は泥沼に踏み込むのではないかという不安が募っています。今、切に願っているのは、小泉首相が「君子の豹変」をしてくれることです。イラクの人に歓迎されない自衛隊派遣は、単なるアメリカ迎合に過ぎません。日本にとっての脅威はイラクがテロの温床化することではなく、親分アメリカに睨まれることなのだろうと、さすがの私も理解はしていますが、せめての気骨をみせてほしいと思っています。期待や祈りが募るあまり、この一連の小泉首相はの態度は、豹変への含みがあっての「深慮遠謀」であってほしいとまで思っています。ここまできたら、私自身少し冷静でなくなっていると感じながらも・・。小泉首相のおっしゃる「総合的な(まっとうで大義のある)判断」を切に切に願っています。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・《以下、午後のできごと-10日に記す-》この日は、所属する子育て支援のグループの行事準備の日だった。このメンバーの中には、自衛隊関係者の家族もいる。午後の閣議で「イラク基本計画」が決められることは、多分集まった人のほとんどが内心では気にしているはずだ。しかし、私たちはそのことには一度も触れずに、行事の打ち合わせや準備に追われた。クリスマスが近いので、それらしい雰囲気作りをするために、色画用紙や色紙で様々な工夫をこらした。「わー、可愛いねえ!」「ステキ、ステキ!」「さーすがーぁ!」などと部屋のあちこちで歓声が上がり、私もイラクのことなど全く気にしないような顔をして、私より若い人達のアイディアと指示に従って作業をしていた。・・・切なかった。首相が君子であることを願いつつも、それが万に一つの願いだということも感じていた。私たちはそのような国に住んでいて、ここにいる人の親族・知人の中からもイラクに派遣される人がいるのかもしれないのだ。しかし、私達は国の大きな流れや決定に従うしかないのだ。私たちはそのように決める人達を選び、間接的とは言え小泉首相を支持しているのだ。そんな私達に出来る事は、不安を抱えながらも日々をより良く生きていくことだ。その意味で、私達もイラクの庶民の人達も、全く同じ仲間なのだろう。今日を元気に心豊かに生きることだけに心を砕く。それが、多くの名もない人々がずっとやってきた営みだ。その積み重ねの先に、もっと良い社会が来る可能性を信じ、辛い運命が来ないことを祈り、ただ今日を大切に生きることしかない。様々なモヤモヤを抱えて夕方帰宅すると、豹変をしない毅然とした(?)首相の映像が流れた。かつてカンボジアのPKO活動で警察官が死亡した時、小泉首相は「血を流してまでの国際貢献は反対」と撤退を主張したという。その彼が今回の派遣を主張するには、やはり彼なりの国民を守ろうとする判断なのだろう。すでに彼は豹変済みだったのだ。この判断が最善だったかどうかは、歴史が決めてくれるのを待つしかないのだろうか。
2003年12月09日
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土曜日に、来月4歳になる孫と一緒に、クリスマスツリーの飾り付けをした。このクリスマスツリーは、息子達が幼い頃に毎年飾っていたもので、彼らが大人になってからは押し入れにしまいこまれて眠っていた。私にとっては子供達との思い出の品だったので、何となく捨てられなくてそのままになっていただけであったのだが、孫のおかげでツリーもまた再登場となったのだ。飾りなどは100円ショップで補充して、一歳半の孫も一緒に飾りつけをする。その作業をしながら、「これを見て、サンタさんも来るかなー?」と声をかけると、「うん、そうだねー。きっと来るよ」と無邪気に答えていた。サンタの存在を無邪気に信じている幼児の姿は、大人に忘れていた夢を思い出させてくれることもあり、親は精一杯サンタの実在を信じさせようと努力する。かつての私もそうであった。長男は保育園の年長の頃に、サンタの現実を知ったようだが、二歳年下の弟が信じている間は、親にも何も言わずにサンタを信じているふりをしてくれていたらしい。そのことを知った時、私は子どもが大人になるということを感じたものだった。それを思い出しながら、「この子はいつまでサンタさんを信じていてくれるのだろう」と思っていたのだが・・・。我家に来ている時に、3歳の孫はいつも私と一緒に寝ている。夜、布団に入っていつものようにお話をしたりしているうちに、話はクリスマスのことになった。私「サンタさんに、プレゼントのお願いしたの?」孫「うん、したよ。ぼく、飛行機がほしいの」私「そうか。サンタさん、持ってきてくれるといいねえ。 サンタさんはどこから来るのかな」孫「サンタさんはね、いないんだよ」私「エッ!!・・?? いないの????」思わず私は絶句した。想像もしなかった言葉に、それをどのように受け止めてよいのか、正直なところ混乱してしまったのだ。最近の孫は、ジョークというものも覚えてきたし、大人の言葉に反論というか逆らうこともするようになったので、その類なのかもしれないし、ひょっするとサンタの真実を知ったのかもしれないし・・・と。気を取り直して、私は聞いた。私「えー、おばあちゃんはサンタさんいると思うけどな」孫「えー、いないんだよ。お母さんがプレゼントくれるの」あー、もうダメだと私は思った。しかし、母親はサンタさんを信じさせようとしているし、「おりこうにしたら、サンタさん来るよ」なんて、サンタを利用してもいる。ここはやはり、お嫁さんの共犯者をするしかないと覚悟を決めた。私「そうだね、お母さんもプレゼントくれるのかもしれないね。でも、サンタさんはちゃんといるんだよ。○○君がいないなんて言ったら、サンタさん悲しくなって来ないかもしれないよ」うー、苦し紛れの大人の詭弁だと思いつつも、「嘘も方便」を自分に言い聞かせた。孫は「ふーん?」と、それ以上の反論はしなかったので、私は話題を別に移し、やがて孫はすやすやと眠った。孫が眠ってから、お嫁さんに聞いてみた。私「ねえ、○○君はサンタさんいないっていっていたけど・・、お母さんがプレゼントくれるって・・」嫁「えー、そんなことないはずですよ。サンタさんのこと、信じてるはずです」次の日の日曜の午前中、「クリスマスツリー、きれいだねえ」と言っている孫に、お嫁さんは聞いた。嫁「ねえ、サンタさんってどこから来るんだっけ?」孫は一瞬視線を宙に浮かすような、考えているような表情をした後、「えっとね、煙突から来るんだよ」。(幸い、我家にも息子達が住む家にも、ちゃんと集合煙突があるのだ)母親はホッとしたように、「そうだよねー、サンタさんはいるよねえ」と言っている。私は二人の会話を聞きながら、孫はやはり半信半疑の状態だと確信したし、そのような母親の確認の言葉によって、いよいよ疑いを深めつつも、母親を困らせないようにと自分の疑惑を心にしまっているように感じた。孫がいないときに、お嫁さんは言った。「あの子、私に合わせてますよね」「多分、そうだろうね。それだけ大人になったってことだよ」「えー、でも、何だか子どもらしくなくてイヤですねえ」「仕方ないよ。今は色々な情報が子どもにだって入ってくるから、いくら大人が頑張っても見抜かれることって多いものね。サンタのことを信じてほしいって言うのは、親の夢というか自己満足の部分もあるから、騙しあう楽しさを学ぶって事でいいんじゃないの?」「エー? でも、こんなに早くこんな日がくるなんて、ガッカリです」「でも、まだ半信半疑だと思うから、こうなったら全力あげてサンタさんを信じさせようよ。やっぱり、サンタさんが本当に来たと思うほうが、子どもだって嬉しいはずだよ。いつかはバレても、親が子どもを喜ばせようとして頑張った愛情に間違いはないのだから」「そうですねー」それにしても、いつも考えさせられるのは、子どもが見せる大人への思いやりである。幼児に対して「大人や親に思いやりを持ちなさい」と教える大人はいないだろう。だけど、幼児はちゃんと大人を思いやったりしてくれる。かえって、大人が「思いやりを持ちなさい」と説教をするようになる頃から、子どもはその言葉のうそ臭さに辟易して反発するようになる。さて、孫は今年のクリスマスプレゼントを、誰から貰ったと思うのだろうか。
2003年12月07日
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イラクで亡くなったお二人の外交官の葬儀が、外務省との合同葬としてとりおこなわれた。私は孫達が来ていてバタバタしており、そのニュースを見てはいないのだが、小泉首相は涙を流して絶句し、「2人は日本国、日本国民の誇りでもある。熱い思いと功績を決して忘れない。日本政府は遺志を受け継ぎ、国際社会と協力してイラク復興に取り組んでいく(yahoo!ニュースより)」と言ったそうである。私はこの日記で、「自衛隊派遣は反対」と書いてきた。しかしもちろん、イラクの復興支援に反対なわけではない。また、どうしても自衛隊を派遣しなくてはならないことが納得できたなら、涙を飲んで自衛隊の人達に「世界平和と日本のために頑張ってください」と頭を下げたいと思う。だがどうしても、今の日本の憲法の上からも、イラク特措法からも、イラクに自衛隊を派遣する道理がないと思うのだ。小泉首相は「遺志を受け継いで・・」と言うが、本当にお二人は自衛隊派遣が日本に望ましいイラク支援だと思っていたのだろうか。私は、奥氏が書いていたという「イラク便り」を読んでみたのだが、あのメッセージのどこにも「自衛隊に来て欲しい」という思いを感じることができなかった。そしてまた、お二人が警護もつけずほぼ「丸腰状態」で危険な場所に赴いたということに、(私の勝手な解釈ではあるが)隠れたメッセージがあるのではないかと感じている。つまり、日本はあくまでも軍隊のような形での支援ではなく、武器を持たずイラクの人達のために共にその復興に汗や(時には血を)流していくことが、イラクの人達に信頼され認められる唯一の道なのだという信念である。彼らの尊い死を生かすために、本当に自衛隊派遣が最良の選択なのだろうか。私にはどうしてもそうは思えないのだ。また、もう一つ思ったこと。これから自衛隊員が派遣され、万一犠牲者が出た時には、やはりその都度首相も参列しての合同葬になるのだろうか。そして、多分その時には(あまり考えたくはないが)、もっと多くの遺影が並ぶのであろう。私はその数の分だけ、お一人お一人の命が軽くなるような気がしてならない。繰り返すが、テロに屈せずイラクを支援してゆくことには、私も賛成である。それは自衛隊を派遣することとイコールではないはずだ。
2003年12月06日
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今日の午後から、孫達とのバタバタが始まりました。日曜の夜に孫達が去るまで、パソコンを開くことができないかもしれません。月曜日まで、ごきげんよう。
2003年12月05日
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参加しているボランティアグループで、会のPRと活動資金のための収益を兼ねて、ボランティア・グッズを販売することをめざして、この二ヶ月ほど話し合いを続けてきた。手芸が得意な人もいるので、最初は「手作りグッズ」を作ろうかという話もあったのだが、最近は「百円ショップ」の品揃えが豊富で、ちょっとしたものならそちらで手に入る。ためしにいくつかの小物類を、自分達で同じものを作ったらどのくらいかかるかと計算してみたが、絶対に百円ショップに太刀打ちできないことが判明。では、オリジナルの「絵はがき」はどうだろうかということになった。幸い、仲間の中で可愛いイラストを描くことが得意な人がいるので、その人に原画をただで描いてもらったら、少しは収益があがるのではないかと考えた。では、その印刷をいかに安くあげるかである。この時点では、印刷業者に発注することしか考えていなかったので、市内などあちこちの業者に聞きまくった。しかし、ここで次の課題が発生。ある程度まとまった枚数を注文しなくては、決して安くはならないという現実である。なにせ初めての取り組みだから、一度に大量の注文をして売れなかったことを考えると、かなりの勇気がいる。では、パソコンで作ったらどうかということになった。私はこのようにホームページを作っているから、パソコンはある。しかし、スキャナーがない。他のメンバーにそのような道具を持っている人がいないか探したが、あってもご主人が使っているか自分ではうまく使えないという人ばかり。仕方がない、誰かにスキャナーで取り込んでもらって私のパソコンで印刷してみるか・・と、また心当たりを探したら、いたいた。ちょっと頼みづらい立場の人ではあったが、この際「できるかどうかを試すだけ」ということでお願いした。送られてきた画像を、今度は絵はがきにするために試行錯誤。うん、何とかなりそうだ。では、もっと気安く頼める人はいないかと考え、友人に「こんなことで困ってるんだ」と話すと、何と「私、スキャナーあるよ」。「えーっ、持ってるのー! じゃあ、お願いできる?」「もちろーん、いいよ、いいよ、お安い御用!」彼女は別の会の仲間なので、私の頭の中の「お願い可能リスト」から除かれていたのだ。ということで、無事画像が届き、何だかうまくいきそうな予感、というか、一応の「お試しセット作成」の目途が立った。今回のことで、つくずく感じたことは、ネットワークの大切さである。それも、同類のネットワークだけではなく、無関係と思われるネットとつないで見ることの大切さと言おうか。私たちはつい、関係ある人達の中で何とかやろうとするし、それはそれで大切なことではあるけれど、行き詰った時には違う視野から見てもらったり考えたりすることが大切だと思う。人間同士のことだから、目的さえはっきりしていて正しければ、必要に応じて立場を超えて協力し合うことはできるし、思いがけない形で役に立てたら、それはそれで嬉しいことだ。ひるがえって、イラク問題。国際平和と協調のためのネットワークは、もう望めないのだろうか。理念や目的がはっきりしていて、お互いのためになると確信できるならば、たとえ傷ついたとしても納得できるかもしれない。でも、今の状態では、少なくても私には納得できない。「しかるべき時に説明します」と小泉首相は言うけれど、決定した後で「これで納得せよ」と言われても、私は納得できないだろう。説明を自分の中で吟味して、あれこれ考えた上でなくては、私は納得ができない人間なのだ。どうしても派兵しなくてはならないのなら(現状では、どう見ても派兵だろう)、完全志願制にして一般人も含めた米軍の「傭兵」にしたらどうですか。
2003年12月04日
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慶應義塾大学通信教育の補助教材として、「三色旗」が毎月発行されている。私は在学中に「三色旗」を読むことがとっても楽しみだったので卒業後も取っているのだが、その12月号が届いた。今月号には、9月の卒業生・卒論題目一覧が掲載されていた。9月の卒業生は105名のようである。この中には、別のサイトでおなじみの人もいるはずで、「どの人だろうなあ」と推理や想像を膨らませている。学籍番号で入学時期がわかるのだけれど、中には卒業基本年限の12年以上をかけて卒業していらっしゃると考えられる学籍番号の人もいる。本当に長い間ご苦労様でしたと、思わずその名前に声をかけてしまう。この卒業生一人一人に、卒業までの様々なドラマがあったに違いない。そのドラマこそが、「学位記」以上にその人にとって意義深いものだと思う。はっきり言って、「学歴神話」は崩れてきている。どの大学をどのように卒業しようと、そのことでバラ色の将来を保障されるわけではない。慶應を通信で卒業したからといって、それがそのまま自分の価値になるわけではない。しかし、努力を積み重ねた日々、そこで出会った先生や仲間達に学んだこと、自分の弱さや能力の足りなさに身もだえした体験は、学位記以上の意味をもち、人生の糧となることは間違いがない。色々な事情で、今年の卒業を涙を飲んで見送った人もいるだろう。しかし、その涙も悔しさも、決して無駄なものではないはずだ。気を取り直して、自分に与えられた課題に向き合って欲しいと思う。さて、その中に懐かしい名前を見つけた。私が所属していた慶友会で、役員をしていた人だ。私は慶友会に色々お世話にはなったのだけれど、自ら役割を果たしたことはほとんどなかった。仕事と学業と家庭、そして慶友会の役員と、何足もの草鞋を履きながら卒業までこぎつけたその努力の日々に、心から拍手を送りたい。そして、「本当におめでとうございます」と声をかけたい。私は既に慶友会を退会しており、もうお会いする機会もないのだが、かつての資料のどこかにその人のアドレスがあったかもしれない。感謝とお祝いの言葉を伝えたいと心から思う。
2003年12月03日
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昨日は、皇太子のお子さんである「愛子さま」の二歳の誕生日だということで、イラクのニュースとテレビを二分していた。本当に日本人は、どうしてこんなに皇室の人達が好きなんだろうと不思議なくらいだ。私は戦後生まれなので、特別皇室に対して敬愛の念を持たなくてはならないと、少なくても学校教育で教えられた記憶はない。でも、天皇陛下が近くを通るという時に、小さな日の丸の旗を手作りして、学校ぐるみで「お出迎え」というか「歓迎」のために道路に並んだことは何度かあったような気がする。それでも、私にとっては格別の意味もなくて、ただ先生が行けというから並んだというだけの事であった。とても不思議だったのは、一緒に並んだりしているお年寄りが、手を合わせていたりおがんでいたり、中には感激して涙ぐんでいることだった。私の小学生の頃、現天皇陛下がご結婚されて、ミッチーブームが起きた。私たちは「きーんしかがやくみちこさま・・」なんて替え歌を歌って遊んだりしていたけれど、私にはそれだけだった。時は過ぎ成人する頃、私はどうしても天皇制度には納得が行かなかった。住井すえの「橋のない川」なんかを読んだせいかもしれない。何より、「人間」を象徴とするということが理解できなかった。同時に、何となく美智子妃殿下を好きになれなかったこともある。今にして思えばとても申し訳ないのだが、言動のすべてがわざとらしいというか、無理しすぎているようでイヤだった。しかし、結婚して子どもを産み、滅私奉公的に仕事と家事に日々を追いまくられている頃から、美智子妃殿下に対する見方が変化してきた。生まれ育ったのとはまったく違う環境に身を置き、自分の自由というものが限りなく制限された中で、精一杯自分の務めを果たそうと努力していらっしゃることが理解できるようになったのだ。努力には無理や背伸びも付き物だということを、私自身がイヤと言うほど味わっていたのだから。同時に、特殊な環境の中でありながら(いや、だからこそか)、結婚した人と二人の間に生まれた子供達との愛情を、ご自分の全力をあげて紡いでいらっしゃることに、私はすっかりかぶとを脱いだ。つまり私は、美智子皇后のファンになってしまったのだ。同様の意味において、雅子妃にも関心を持っている。私の皇室への敬愛感は、以上のことに由来する。しかし、その他の人達に対しては、やっぱり格別の感情はないような気がする。ファンとは言っても、お二人がこの近くに来たからといって見物(いや歓迎?)に行こうとまでは思わない。さらに、今でも「人間を象徴とする」ということには納得できないままである。ましてや、二歳の愛子ちゃんのことでメディアがワーワー騒ぐのは、どうしても不思議なのだ。多分、それだけ日本人が皇室(番組)を好きなのだろうと思うのだが、ナンデダロー。だからといって、本当の意味で皇族が大切にされているかというと、過去の歴史からみてもほとんど道具か飾り(象徴だからなのか?)。全く失礼な話だと思うのは私だけだろうか。それにしても、愛子さまが雅子妃を「ママ」と呼んでいるとは・・。それにアルファベットが話せるって、何なのよ。まずは日本語の「あいうえお」じゃないのかと思うのは、英語が苦手な私のひがみかな。
2003年12月02日
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《MSNニュース・ジャーナル》http://news.msn.co.jp/404509.armx で、この記事を読んだ。-以下引用-9月下旬、バグダッドから北に70キロほどいったイラク中部の町ドルアヤの近郊で、米軍のブルドーザーが果樹園の木々をすべて根こそぎにする作業が行われた。付近は旧フセイン政権の支持者が多いスンニ派の地域で、米軍に対するゲリラ攻撃が頻発していた。米軍は、付近の村人たちを尋問したが、誰もゲリラの居場所を教えなかったため、その「懲罰」として、村人たちが所有するナツメヤシやオレンジ、レモンなどの果樹を、根こそぎ切り倒した。 伐採するなと泣いて頼み込む村人たちを振り切り、ブルドーザーを運転する米軍兵士は、なぜかジャズの音楽をボリューム一杯に流しながら伐採作業を続けた。ナツメヤシは樹齢70年のものもあり、村人たちが先祖代々育ててきた果樹園だった。伐採を止めようと、ブルドーザーの前に身を投げ出した女性の村人もいたが、米兵たちに排除された。 (引用終り)このようなことをする背景についても記事は述べているが、米軍のやりかたのどこにも「イラクの人達のために」という大義はない。果樹や樹木を育てることの大変さを少しでも知っているなら、決してそんなことは出来ないはずだ。だからこそ「懲罰」として効果があると考えるのかもしれないが、このようなやり方では憎しみの感情しか生まれはしない。憎しみの連鎖をどこかで断ち切らなくては、平和は決して訪れない。そのことを思う時、思い出す人がいる。今年の春、カンボジアにNGO活動の視察ツアーに行った時、現地のカンボジア人スタッフのエピソードを聞いた。そのNGO(本部は日本)はカンボジアの初等教育支援をしていて、日本から送られた絵本などを、カンボジア各地に届けたりしている。その現地スタッフは、奥地にその活動のために出向いた時、あのクメール・ルージュ時代(彼はまだ少年だった)に自分の父親を連行し、多分殺したであろう人に出会ってしまったのだという。忘れようにも忘れられなかったその顔と向き合った時、彼の心の中がどのような怒りや悲しみ、憎しみや恨みの感情に荒れ狂ったのかは、想像に絶する。いつもは明るいその人が突然無口になり、様子が変わってしまったことに、他のスタッフは戸惑ったという。しかし何日か経った後に、彼は仲間に次のように語ったという。「私の憎しみは、私だけで終りにしなければならない。この気持ちを、子供達に伝えてはならない。そうでなくては、決してカンボジアに平和は来ないのだから」と。私はその話を聞いたとき、明るくジョークを連発している彼の心の中に、深い思いと決意があることに感動せずにはいられなかった。彼はその辛い過去と決意を仲間に表明することで、憎しみを乗り越えようとしたのだろう。だが、そのようにできる人ばかりではないだろう。一般的に、心の中に巣食った憎しみは自己増殖しやすい。そして、すべての原因をそこにつなげることになりやすい。アメリカ軍がやっていることが、イラクの人々の心の中にどのような種を蒔くのだろう。そのような米軍の支援をすることがどのような意味を持つのか、私にはわからないだけに怖い。
2003年12月01日
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