全31件 (31件中 1-31件目)
1
この2日間、何ともいえぬ不快な気分がモヤモヤと続いている。最後の公判でも多分、松本被告は従来どおりの「変な態度」で周囲をイライラさせて終わるんだろうと思っていたが、やっぱりそうだった。この「不快さ」は何によるのだろうと自分でも測りかねていたけれど、その一端が日記リンクをしている七詩さんの言葉で説明されたような気がしている。つまり「不規則言語や異様なふるまいをみると、彼のような状態の人間に精神鑑定を行わないことは、他の精神鑑定が行われた事件と比べても均衡を失しているのではないか。もちろん、極刑を免れるために詐病を行うことは十分考えられるが、それでも、正常な人間が誰ともまともな会話をせずに詐病を何年も続けられるものであろうか。(七詩さんの日記から引用)」それは、最初に彼が発見された時に、屋根裏に隠れていたと聞いた時の、「そんな人間だったのだ」という思いの延長である。彼の言動や、オウム事件のあれこれ、さらにマインドコントロール等々について、様々な視点から分析がされているが、どれも「そのような考え方(あるいは仮説)もあるな」とまでは思うけれど、私自身の気持ちをストンと納得させるものにはまだ出会っていない。さらに、何を「正常」とするかの線引きについても、私は確たる基準が持てない。とにかく、彼を「正常」と考えるのはどうにも無理があるので、カリスマ性も含めて「異常」だと決め付けたいけれど、だとすればそのような人間に対して「まともな論理での裁判」が意味をなすのかということになる。結局、きっと彼については、「正常とみなされる範疇」の人間にとっては、決して納得できるものは導き出されないだろう。そんな諸々の虚しさが、この裁判に関するニュースを見聞きするたびに、私の心を「不快」にさせるのかもしれない。それにしてもお仕事とは言え、弁護団の人達は大変だったであろう。弁護団に対しても様々な批判があるけれど、これほどやりにくい弁護はそうそうないのではないか。この裁判で「無罪」を主張することに対して、世間の目は異常なほど厳しいだろう。だけど、七詩さんも書いているけれど、彼を死刑にするための根拠はと考えると、・・・何だか疑問が出て来る。しかしこの彼を死刑判決にしなければ、「世間」という怪物は許しはしないだろう。かつての「オウム」は「アーレフ」と名前を変えたものの、まだそこで使われているビデオなどには「麻原彰晃」が生きているらしい。どうしても私には理解不可能な世界が、この世には現存している。
2003年10月31日
コメント(1)
もともとこのホームページは、別の「公開掲示板」で通信制大学を卒業した体験などを書いてきたものを、ここにまとめる形で作ったものである。日記リンクをしているメイミーさんのHPを見て、このように簡単にホームページが作れることを知り、それじゃあ私も・・と開設した。しかし、すでに卒業しているので、日記には「通信教育」に関係することでのネタがない。それで、日々雑感を書く「日記」が主になっていたのだけれど、今日テーマをあれこれ見ているうちに、「通信教育」というテーマがないことに気付いた。ということで、このテーマを作ってしまいました。結構、通信教育で勉強している人は多いと思うので、活用してくれないかしら・・。現在は、私が在学していた時以上に、通信制の大学も高校も増えているように思う。それに、このようなインターネットを通しての学習形態もあるのかもしれない。このテーマで、他の大学のことも知ることができたらと思う。ところで、テーマってこのような意図で設定してもいいのですよね?
2003年10月30日
コメント(2)
私が「更年期じゃないの?」と言われたのは、40になるかならないかの頃だった。突然ガーッとのぼせたようになったり、心臓がドキドキしたり、急に頭痛やいいようのない具合の悪さがあったりで、自分でも困惑していた。その頃、私はまだ猛烈な忙しさの中で働いていて、自己判断ではストレスで自律神経が狂い気味なのだと思っていた。元来、身体の方はスコブル丈夫で、病気になりたくても病気になれず、多少具合が悪くても仕事となれば何とか頑張ってしまえる性質(たち)だった。ある日職場で、突然汗が出てきて、汗が引くと同時に急に寒気がしてきた。「最近、どうも調子が悪いんだ・・」と同僚にぼやいた時、返ってきた言葉が「更年期じゃないの?」。ショックだった。更年期は「中年後期」と思っていたので、すでにその時期に足を突っ込んでいるのかということに・・。だから私は内心、「ちがう! 仕事や多忙によるストレスだ!」と思っていた。そして数年後、私は仕事を辞めて念願だった大学生になった。ストレスは激減、というか皆無になって、あの身体の変調も軽減した・・、と思ったのもつかの間・・。やっぱり、のぼせたり睡眠リズムが狂ったり、理由のない頭痛や調子の悪さは、時折波のように寄せては戻っていた。「やっぱり更年期か・・。仕方ないな、もう40も半ばだ・・」と、私はその状態を受け入れ、やがてその時期が過ぎるのを待ち続けた。病院に行くことも考えたが、仕事をしているわけでもなし、いよいよ具合が悪ければ寝てればいいと、知人に勧められた市販の漢方薬を飲んだりしてごまかしていた。気がつくと、最初に「更年期?」と言われてから十年以上にもなっている。やっとこの頃、「抜けたかな?」という感じがしている。人によっては、つわりのようになって食事が取れなくなったり、うつ状態になったりと、更年期も人それぞれである。ほとんど気にならない人もいるようだけど、結構更年期による不調に苦しんでいる人は多い。先月、中学時代のクラス会があったのだが、その場にいた女性ほとんど全員が、何らかの形で「更年期障害」と闘っていた。私達の年代は、子育ても一段落してほっとしている私のような幸せなタイプもいるけれど、それまで棚上げしていた様々な課題と直面している人も多い。「子別れ(子離れ)」で空の巣症候群状態になったり、夫との死別や長年の不和から離婚に至ったり、やっと成人したと思った子どもに色々な問題が起きていたり、親や家族の介護問題に直面したりと、仏陀ではないが「人生は四苦八苦である」と思わされる。話はそれてしまったが、誰にも必ず訪れる「更年期」を、何とか「幸年期」に転換していきたいものである。
2003年10月29日
コメント(4)
色々な人がホームページを見てくれているとわかるのは、単純に嬉しい。おなじみさんのアクセスを見ると、またまた嬉しい。でも、これほどはっきりとわかるのは、ちょっと・・という感じがする。来てくれた人のHPは、拝見しなくちゃ悪いような気がするけれど、行ってみたら「あれれ・・??」というものもあり、慌てて逃げ出すけれど、これもちゃんと記録されているんですよね。アクセス記録は、「ちょっとのぞいた」のと「しっかり読んだ」の区別はないから、勘違いされても困るな・・と思うこともある。おなじみの人の所を訪ねて、何も書き込まないで終わるのも、ちょっと心が痛む。気になる人のページはパソコンを開くたびに行きたいのだけど、上記の理由で我慢することもある。また、行ってみたら「素通り禁止!」なんてものもあって、こんな場合「ドキッ!」としてしまうし、多くは私とは年代も関心も違うもので、書き込むにも書き込めずスゴスゴと叱られたような気分で素通りしている。きっと、あちらは「禁止だって書いてあるのに!」って、怒っているんだろうな。というように、アクセス記録があると嬉しい面と重荷の面と両面あって、痛し痒しというところ。それにしても思うのは、小中学生や高校生がHPを開いていることの多いこと・・。こんな時代なんだなあと、複雑な気持ちになってしまう。
2003年10月28日
コメント(6)
昨日の参議院埼玉補欠選挙の投票率は、27.52%ですって?!結果は自民党が辛勝したようだけど、こんな低投票率でも、有権者に支持されたことになるんだろうか。私は選挙制度の知識はほとんどないのだけれど、素人が考えても、何だか変だぞ。来月は衆議院選挙があるけれど、投票率はどのくらいになるんだろう。マニフェストなるものでそれぞれ政策を約束しているけれど、この国で「公約」などというものは、随分前から「破っても良い約束」の代名詞みたいな感じがしていて、名前がカタカナになっても形が多少違っても、その本質は似たようなものだという気がしてならない。とはいえ、自慢ではないが私は選挙権を持ってからは棄権をしたことはない。棄権してしまっては、こんな「たわごと」を言う権利もなくなるような気がするからだ。今回も、一応それなりに考えて権利を行使するつもりだけど、さてどうしようかなあ。
2003年10月27日
コメント(0)
先週、所用があって福祉事務所に言った時、旧知の職員と「児童虐待」についての話になった。児童虐待防止法ができてから、児童相談所に虐待の通報が増加し、児童相談所の一時保護も養護施設も定員オーバー状態のようである。虐待などの問題ではなくても、親が病気だったり離婚をしたりなどで、家庭で養育できないケースも多いようだ。かつてはそのような場合、「身内」で何とかしていたことが多いのだろうけれど、それも難しい時代になってきているのだろう。それで、里親の話である。実の親でも養育が難しくなっている時代である。いくらニーズが増えても、里親になろうという人が増えるはずがない。それに、里親登録をする人は将来的に「養子縁組」を望んでいる人も少なくないようなのだ。本当に子どもの立場を理解し、その子の人生の中での「里親」の役割を理解しているような里親ばかりではないらしい。うーん、いよいよ切なくなってくる。そんな気分になってきた時、「里親にならない?」と言われてしまった。「しまった、スキあり!」の気分である。確かに私は、子育て経験もあるし時間的ゆとりもある。子どもに関する仕事もかつてしていたこともある。うーん、そんな私がこの問題に知らん振りは卑怯かもしれない。しかし、私は本来、そんなに世話好きのタイプではない。二人の子どもをやっとのことで育てたという思いが常にある。犬や猫のペットも、責任を持って飼う自信がないから、子どもたちの願いを振り切って飼ったことがない。そして今は、「孫は来てよし、帰ってよし」と思っているのだ。そんな私は里親には向いていないと主張して帰ってきたのだが、あれからズーッと気になっている。無理やり「考えてみて!」と押し付けられた里親についての資料から、常に何かの電波が出ているようだ。あー、まいったなー。今のところ、私は里親登録をしようと考えてはいないのだが、少しこの問題を考えてみなくてはならないだろうと思っている。
2003年10月26日
コメント(0)
埃まみれの一日だった。私の実家には、80年前に建てられた「蔵」がある。「蔵」と言っても北海道の田舎なので、一般的にイメージするような瓦葺の白壁ではなくて木造のものであるけれど、父親が誕生した時に建てられたものである。開拓団の一員としてこの地に入植した曽祖父は、庄屋のボンボンとして育ち夢だけはでっかく、一旗あげる積りで北海道に渡ったのだが、主に開墾を指揮したのはしっかりものの曾祖母だったようだ。その長男の祖父は、暇さえあれば尺八や菊造りと優雅に遊ぼうとするグータラ父親に代わって、早い頃から一家の働き手にならざるを得なかったようだ。その祖父が、私の父の誕生を記念する意味も含めて、「蔵」を建てたのだそうである。その蔵には、開拓時代からの農機具類や本州から引き上げてきたものなどが、雑然と押し込まれていた。市内の郷土資料館ができた時に、その中でも少しでも価値がありそうなものは寄付してしまったので、残っているものは私から見たら「ガラクタ」ばかり。どこの家でもそうだと思うが、収蔵する場所があれば、余計なものはとりあえずソコに放り込んでしまう。というわけで、蔵は「粗大ゴミの倉庫」となり、数十年が過ぎていった。私たち身内は、実家の両親の死後に蔵ごと始末する積りだったのだが、私の夫が物好きで、これに目をつけた。建物はまだしっかりしているのだから、これを自分の「秘密基地」にすると言い、私の両親に「蔵を譲ってくれ」とのたもうた。(男はいくつになっても秘密基地が大好きだ・・フゥ・・)父は、自分と一緒に誕生した蔵が再活用されるのだから、嬉しがらないはずがない。母親にしても、「あのゴミを整理してくれるのなら・・」と大歓迎。ゴミ掃除を手伝わされることになる私だけが難色を示していたのだが、夫はそんな私を無視して「俺だけでもヤル」と言う。となれば、いくら身勝手な私といえども、黙ってみているわけにも行かず、この数日間はその作業を少しずつ続けてきた。今日はいよいよその最終段階、「80年のすす払い」である。・・・もう、半端ではなかった。とてもその作業の一部始終をここに書く気にはなれない。思い出しただけで、埃にむせ返りそうだ。床に厚くこびりついた埃は、床ごと取り替えなくてははがすことができないように思えた。悪戦苦闘の末、それでも何とか広々とした空間が蔵の中に出現した。もうこれ以上の「掃除」は、素人の手には負えない。あとは、夫が少しずつ好きなように手を加えていくという。年老いた両親は、このダストの中に入ったらすぐに肺炎か気管支喘息で死んでしまいそうなので、とりあえず埃が収まってから見てもらった。当然ながら、父も母も大感激。その喜ぶ顔を見て、ひょっとするとすごい親孝行をしたのかもしれないと思い、とんでもないことを思いついた夫に、少しばかり感謝した。それでも、もう二度とあのような作業はしたくない。
2003年10月25日
コメント(0)
小泉首相が、中曽根氏と宮沢氏に比例区での定年制の理解を求めて、中曽根さんは「失礼だ! 仕事はこれからだ」などとあくまで出馬すると言っている。今朝の新聞では「小泉首相も配慮が足りない」というような論調があったけれど、配慮でがんじがらめになってどうしようもないから小泉さんが出てきたわけで、この問題はこの時期にズバッとするしかないだろうと思う。そりゃあ、「老人は役に立たない」と言われたら誰でも怒るが、これはそのような問題ではないだろう。老人が若い頃と同じ役割にしがみつこうとするから「老害」になってしまう。年を重ね、経験を積んだ老人の役割は、必ずある。そして、人間は自分が体験しないことは理解することがとても難しいのだから、若い人達を批判するのではなく、経験を生かして若い人達を育てる仕事のやり方を、高齢者は開拓していかなくてはならないだろう。そのために努力して、若い人達をサポートして、若い人が困った時には助け舟を出してこそ、高齢者は若い人達に信頼され尊敬されるはずだ。時には、広い視野に立っての頑固さや一徹さも、大きな力になるだろう。自分個人のプライドだけにこだわるのは、一途さとは言わない。それなりの仕事をしたことは、多くの人が認めている。その時代には必要だったことも、今の時代には邪魔なこともある。それを一番わかることができるのも、色々な時代を生きてきた老人の力ではないのだろうか。私も高齢者の仲間に指先がかかっている。それぞれの年齢なりの、私なりの役割を果たして行きたいと、中曽根氏や藤井氏のニュースをみながらつくづく思う。
2003年10月24日
コメント(4)
今年は、例年になく紅葉が美しい。先日ドライブがてら「盤尻渓谷」に行った時も、赤色がとても鮮やかなのが印象的だった。昼過ぎに買い物がてら近くをサイクリングしたのだが、昨夜の猛烈な雨のせいもあって、すでに紅葉はハラハラと舞い落ち始めている。それでも、秋の日差しの中にイチョウの黄色が目に鮮やかで、とても美しい。それにしても、どうして私達の住む地球はこんなに美しい星なのだろう。地球以外にも、こんなに色鮮やかな星はあるのだろうか。そしてまた、この北海道の四季の鮮やかさにも、ずーっとここに住み続けて毎年見ていても、いつもいつも感動する。以前、紅葉の季節に本州を旅したことがあった。たしか京都だったと思うけれど、ガイドさんが「紅葉がとてもきれいですねー」と何度も言っていたのだが、私は北海道の紅葉と比較してしまい、何だか物足りなかった。毎年毎年、この美しい光景を見ることができるのは幸せだと思う。もう少し暖かいところに住みたいとは思うけれど、北海道から完全に離れることは考えられない。こんなことを書いたら、きつと他の地域に住む人に怒られるだろうなあ。「井の中の蛙大海を知らず」なのかもしれないけれど、ちょっぴり北海道自慢をさせてもらおう。「紅葉は北海道が一番ですよ!」
2003年10月23日
コメント(4)
孫達が帰って一息ついて、次に待っているのが「私的ミニコミ誌」の編集作業。本当は今月初旬には作りたかったのだけれど、原稿が思うように集まっていないことを言い訳にして、ズルズルと日が過ぎていた。私にとって人生を楽しくするために大切なのは、人的ネットワークの豊かさだと考えている。それぞれの時間の中で出会った人達と、細い糸でも繋がっていたいという欲張り屋さんだ。基本的には今と未来を向いて歩いているタイプだと思うけれど、時々過ぎし日々を思い出すことも楽しくなってきたし、かつて出会った人達と再会して語り合うこともとても嬉しい。私は長生きの遺伝子を持っているので、多分人より長く生きるような気がするので、そんな時の楽しみの種として、知人とのネットワークは時折補強しておこうと思っている。そんな私の身勝手な目的で、私的ミニコミ誌を年に二回程度発行している。もとより、書くことが得意な人ばかりではないので、「読者専門」の人も多いのだけれど、けっこうこれを楽しみにしている人もいてくれる。というわけで、今月中の発行目指して頑張ろう!
2003年10月22日
コメント(0)
午前中に、息子一家が帰って行った。昨夜は、息子の職場関係の行事に夫婦で出席するということなので、孫二人を夕方から預かることになったのだ。下の子はまだしも、何でも理解できるようになっている三歳半の長男には、「お父さんとお母さんはお仕事でお出かけ。○○君が寝る頃に帰ってくるから、おばあちゃんと一緒にお留守番していようね」と言い聞かせることにした。「僕も一緒に行きたいな」と少し不満顔だったけれど、何事も納得したら我慢できるタイプの長男は、健気にも「わかった」と言ってくれた。しかし、一歳の下の子にはそれは無理というもの。最初は一緒に遊んでいたのだが、やがて母親がいないことに気付きぐずり始めた。そうなると、我慢している上の子もだんだん心細くなったようで、「お母さん、まだ帰ってこないの?」とベソをかきはじめる。こうなると相乗効果というか、二人の幼子の悲しみは倍増。いやはや、どうなることかと思っているうちに、助っ人の夫が帰宅したけれど、ドアの音に親が帰ってきたのかと一瞬期待した二人は、大好きなおじいちゃんだとわかっても、親ではなかったという失望感の方が強くて、またまた泣き始めてしまった。やっばり、子どもは親がそばにいなければ不安で寂しいものなのだと、改めて実感する。しかし、泣き叫ぶ幼子を保育園に置き去りにして職場に向かう毎日を送った私は、「やれやれ・・」とは思っても、あまり「可哀想に・・」とは思わない。子どもにはこのような体験も必要だし、いつも母親べったりなのだからたまにはヨロシイと、ぐずる二人を前に泣きまねをした。「エーン、エーン、二人が泣くと、おばあちゃんも泣きたいよー。どうしたら笑ってくれるのかなー。エーン、エーン」我ながらひどいバアチャンだと思うけれど、どこかで成り行きを楽しんでいる私。夫は呆れ顔で、二人の好物のカレーライスをお茶碗に盛っている。心優しい長男は、私の泣き真似に困ったように泣くのをやめて、じっと私を見詰めている。そして、何と「おばあちゃん、泣かないで。大丈夫だからね」と言うのだ。これには、私のほうがビックリして、騙していることに心が痛み、「ごめんね。大丈夫だよ。○○君が泣かないのにおばあちゃんが泣いたらダメだよね」と言わずにいられなかった。それでも下の子は泣いていたのだが、夫の「おいしいものあるよ」の声かけに反応した。ずっと泣いていたので、エネルギーを使っておなかがすいたらしい。しゃくりあげながら、トコトコと食卓に向かい、大好物のチーズを見つけると「マンマー」と叫ぶやいなや、ぱくりと口に入れた。その後は、「今泣いたカラスが・・」という感じで、カレーライスもパクパク。上の子も負けじと、パクパク。その後は不思議なことに機嫌が直り、食後も絵本を読んだりおもちゃで遊んだりと、いつもの通りの絶好調。・・というわけで、心配しながら息子夫婦が11時頃に帰宅したときは、二人ともぐっすり。ついでに、寝かしつけていた私もぐっすり寝入っていた。という感じで、ばあちゃん稼業はとても面白いけれど、やっぱり疲れる。息子家族を送り出して家の片づけをしたら、どっと疲れてしまった。
2003年10月21日
コメント(2)
息子夫婦が二人の孫を連れて来ている。二週間ぶりなのだけれど、いつも会うたびに変化があることが楽しくもうれしい。上は男児(3歳半)で、下は女児(一歳四ヶ月)なのだけど、二人の個性の違いがまず面白い。上の子はなかなかおむつがはずれなくて、やっとこの夏にはずれて一安心。それでも、遊びに夢中になっていると時々失敗する。下の子は、2日前からウンチが出たら「・・チ、・・チ」と言ってお尻をポンポン叩いて出たことを教えるようになった。その上、自分でオムツを取ってくるのだ。上の子は、赤ちゃんの時からオムツを取り替えるのを嫌がって大騒ぎだったけれど、下の子は取り替えるのが大好きで、オムツを見るとすぐ寝転がる子だった。この調子だと、おしっこについてはすぐに下の子に追い越されそう。(お兄ちゃん、妹に負けるなよ!)上の子はとっても優しい気質の持ち主で、その分気が弱く臆病なところもある。あまりワガママを言う方ではなく、小さい頃から言い聞かせるとそれなりに納得して、聞き分けが良い子だ。気が強い片鱗を見せ始めた妹とのバトルが、これから激しくなりそうだ。優しいとは言え、やっぱり兄としてのプライドがあるし、家族が妹の成長振りに注目することが多いので面白くないらしい。今になって、「赤ちゃんがえり」のように「赤ちゃん言葉」を使ったりする。上の子は言葉を話し始めるのが遅く(何でもよく理解はしていたのに)、その分、話し始めたときは赤ちゃん言葉ではなくて、大人と同じような会話が成立して、びっくりさせられたものだ。反対に妹の方は、一歳前から盛んに喃語を話し始めて、今ではけっこうおしゃべりらしい会話が成立する。本当に、同じ親から生まれたとは思えないほど、成長プロセスが違うのが面白い。実を言えば、私の二人の息子達も個性が全く違って、それぞれプラスとマイナスがひっくり返ったような性格である。しかし、あまりにも個性が違いすぎたのが幸いしたのか、あまり激しいぶつかりあいもなく、本当に仲の良い兄弟である。本人達も、「物心ついてから、ケンカをした記憶がほとんどない」と言っている。私がずっと働いていて「かぎっ子」だったから、兄弟で助け合わざるを得なかったのかもしれないが。親としては、兄弟が仲良くしてくれることが何より嬉しい事なので、孫達もそのように育ってくれたらと願う。
2003年10月20日
コメント(0)
息子家族が来ていたので、久しぶりに一緒にビデオでも見ようということになり(今日は一本39円だった!)、息子夫婦が選んできたのがこの映画。私も以前から見たいと思っていたので、孫達を寝かしつけた10時頃から、ビデオ鑑賞会となった。ユダヤ人のピアニスト、ウワディスワフ・シュピルマンの実話に基づく映画のようである。一言で言えば、「ナチス占領下でのホロコースト時代を生き延びたピアニストの物語」である。私はなぜホロコーストが起きたのかなどもふくめ、ナチスやユダヤ人問題には普通より少しばかり関心がある。このような映画を見た後の感想は、なかなか言葉には出せない。ただ、頭の中を「このように生きた人々がいたのだ。なぜこのようなことが起きるのか」という疑問詞だけがグルグルと回ってしまう。主人公のシュビルマンは、心優しいピアニスト。彼を含む一家はゲットーに送られ、やがて強制収容所行きへの列車に乗り込む寸前で脱出する。その後、友人達の協力を得ながら隠れ家を転々として、最後の隠れ家でドイツ将校に見つかり、その将校の指示でピアノを弾く。そのピアノに感動したのか、ドイツ将校は見逃してくれて、食料や外套を恵んでくれる。やがてソ連軍の侵攻でワルシャワは解放され、シュビルマンは再びピアニストとして生きてゆく。という物語なのであるが、シュビルマンはどこまでも受身で気弱な人間だ。しかし、ひたすら運命に対して受身に徹して生き延びている。怒りや悲しみを爆発させて、自分で運命を切り開くタイプではない。逃げ惑い、食べ物を必死で漁る姿はみじめで悲しいけれど、これが極限の彼の姿なのだろうと納得できる。そんな彼の自分自身の尊厳の証は、ピアノを弾くことであったのであろう。目を閉じ指を空中の鍵盤に動かす姿は、悲しくも美しかった。そして、廃墟となった隠れ家の一室で、将校の前でピアノを弾く姿。その時の彼は、きっと大好きなピアノを弾くことに没入し、側にいるのが敵兵の将校であり、これが今生最期のピアノ演奏になるかもしれないなどという恐怖心も消えていたのかもしれない。それとも、自分が生き延びるためのくもの糸ということを、自覚していたのだろうか。この映画に限らず、ホロコーストや戦争関係の映画を見ていると、つくづく思う。人間の生死は、目の前の命を左右できる人間の気分次第であり、「運命」などという言葉さえも甘ったるいということを。平和な環境があってこそ、「運命は自分で引き寄せる」なんてこともできるのだろう。シュビルマンの回想録を、そのうちに読んでみたいと思う。
2003年10月19日
コメント(2)
昨日は、札幌に出る用事があり、以前からぜひ観たいと思っていた「岩橋岩橋英遠・片岡球子展」に行くことが出来た。私は美術に造詣が深いほうではなく、北海道が誇る美術界の巨匠といわれるこの二人についても、今まではよく知らなかった。特に岩橋英遠についてはほとんど知らなくて、今回の展覧会がきっかけで、テレビなどでその作品や人物紹介がされているのを見て、すっかり魅了されたというわけだ。片岡珠子の作品はよく目にすることがあったけれど、あまりに個性的な作品であることもあり、印象には残るけれども、さほど好きな作家というわけでもなかった。さて、北海道という風土が育てた(両者とも、自分の作品の根っこは北海道だと言っている)この二人、同じ日本画でありながら、これほど作風が違うというのがまず面白い。片岡珠子の構成や色遣いのダイナミックさや派手さに比べて、英遠の作品には荘厳な静けさがある。しかし、落ち着いた中にも大胆な構図や意表をついたようなアングルやモチーフ。うーん、やはり共通するのは「形式にとらわれない自由さ」というところだろうか。それにしても、どうして今まで、こんなに素晴らしい岩橋英遠を良く知らなかったのだろう。今となっては、それがとっても悔しい。彼の描く自然の姿は、厳しいけれどなぜか暖かい。そこに描かれている「雪や氷」が、彼にとってはある意味での「ゆりかご」であったということなのだろう。私自身、北海道の自然の中で生まれ育ったせいか、冬の自然の厳しさや長い冬の陰鬱さをどこかでうんざりしながらも、その中でじっくりと育まれ醸成していく「なにか」の存在の大切さを感じているし、白と黒の雪の世界の中の「色彩」の喜びも知っているのだろう。岩橋英遠の作品は、そのような私の深部の「道産子の心」に共鳴するなにかがあるように思う。何度も何度も作品を行きつ戻りつして、作品の中に思いを巡らせて楽しむことが出来た。期間中に、もう一度見に行きたいと思っているのだが、どうなることか・・。
2003年10月18日
コメント(0)
今日は所用があって外出したので、帰宅してから新聞を見た。藤井総裁への聴聞は、代理人相手になされたようだけど、これって有りなの? 何だか不思議な気分。本人が子どもだったり知的障害だったり、痴呆や言語障害でもあるなら理解できるけれど、ちゃんとした大人のはずなのにーというのが、単細胞の庶民の感想。人権侵害的なことがあった時にチェックする意味での弁護士ならわかるんだけど。私の素朴な疑問に、どなたか答えてくれないでしょうか。
2003年10月17日
コメント(0)
昨日は拉致被害者五人が帰国してから一年ということで、曽我さんをはじめとした5人のコメントや、家族会の人達の記者会見などを何度か見た。そのたびに、「この一年、何をやってきたのだ!!」という思いが込み上げてくる。もちろん、水面下では色々やっているのだろう。だけど、この人達と一年間付き合いながら、被害者に伝えられるような成果を持てないお役人達は、何と無能なのかと思ってしまう。この人達の心情を思うと、本当に切ない。理不尽に日本から連れ去られ、必死の思いで生きてきた人達にとって、「家族」の意味は私達とは比較しようもないくらい重いものだろう。少なくてもこの人達が拉致されたことは北朝鮮も認めていることであり、北朝鮮に残っている家族を取り戻すことに、どうしてこんなに時間がかかるのだろう。この国は国民を守る気はないのだろうかと、この私でさえも思ってしまう。彼らの不安や不信感や怒りは、私達の比ではない。この人達の本当の笑顔を一日も早く見たいと、心から願う。
2003年10月16日
コメント(0)
この雑誌で、小泉首相の腹心である飯島秘書官のルポ記事(佐野眞一/記)を読んだ。飯島秘書官の姿を見たのは、多分ハンセン氏病判決に対する小泉氏の控訴断念のニュースの時だったと思う。その時は飯島氏には申し訳ないけれど、「この人、何様?」と感じたような気がする。しかしその後、彼が30年にわたって小泉氏の秘書だということを知り、小泉氏・飯島氏の両者に対して「この人達、何者?」と思った。議員と秘書の関係について詳しくは知らないけれど、少なくてもメディアを通しての印象は、秘書を道具のように使う議員や、議員を自分の踏み台のように使う秘書の姿。つまり、どちらもそれなりの利用価値だけのつながりという、私の最も嫌悪感を覚える人間関係を連想していた。しかし、30年間となれば見方を変えざるを得ない。生身の人間同士の「絆」がなくては、それほどの年月は耐えられないはずだ。というような印象は持っていたけれど、それ以上の関心を抱くこともなく、たまたま手に取り購入した「文芸春秋」で、標記の記事を読んだのだ。(購入した目的の記事は別にあった)一読して、私は小泉首相の不思議な人気の一因を見たように思った。小泉氏と飯島氏は、実に素晴らしい「ベスト・パートナー」なのだろう。飯島氏の生い立ちは、小泉氏とは対極にある。知的なハンディを持つ姉・妹・弟を抱える貧困の家庭に育ち、自分の持てる力だけを頼りにして生きてきた人だった。小泉氏の秘書になったのも、その時は生きるための糧を得るためだっただろう。貧困やハンディを持つ家族が味わう世間の「偏見や差別」を、彼は全身に浴びながら育っていたのだ。そしてまた、絶望的な状況の中にこそ見出すことの出来る「人間の底力や暖かさ」も、彼はあの体の中に詰め込んでいるのであろう。もとより、同じ状況にあっても、堕落したり人間の悪の部分が噴出したりする人も多いから、その生い立ちだけで彼を評価するつもりはない。しかし、サラブレッドのように恵まれた環境の中に育った小泉氏と出会い、彼と運命を共にしてきたことから想像するに、環境が恵まれていても人は幸せとは限らないことを、飯島氏は感じたのではないだろうか。人間は、みんな凸凹である。その凸凹を補い合い支え合える仲間やパートナーがいたなら、人はとても安定してお互いに持てる力を発揮できる。きっと小泉首相と飯島秘書官は、そのような関係なのだろう。小泉首相は「痛みに耐えて!」とよく言っているが、身近に本当の痛みに耐えてきた人を知っているからこそ、痛みを耐えて次のステップへ這い上がることの出来る「人間力」を信じているとしたなら、あの言葉も少しリアルに感じられるというものだ。ひょっとすると人々は、そのような匂いを小泉首相に感じているのかもしれない。理屈ではない「直感」が、人を動かしていることも多い。記事の最後は「飯島は小泉に出会うことで、悲惨な現実をファンタジー化した」と書いているが、私はそのくくりにはちょっと首を傾げてしまう。ファンタジー化するほど飯島氏は甘くはないだろうし、そのようなレベルならここまでのつながりはなかったであろう。彼には、「世の中はこうあってほしい」という強烈な願いや祈りがあるはずだから。飯島氏の「小泉と私を合わせれば、世の中の全部の領域をカバーできるんじゃねえかって、勝手に思ってるんです」という言葉は、願いを現実化させようとする強い意志を感じさせるのだ。彼らは、その意味でも「同志」なのだろう。
2003年10月15日
コメント(0)
今日の日記を書こうかとページを確認すると、何とこれが100件目の日記になる。「塵も積もれば山となる」という格言が、ふと脳裏をよぎった。つまり、100日の記録がここにあるということ。むかしむかしの独身の頃は、結構日記を書いていたように思うのだが、結婚してからは三日坊主の連続だった。楽天の日記はとても管理が楽なので、それほどの気負いもなく綴ってきたのだけれど、それが良かったのだろう。でも、この日記を書くようになってから、あちこちの日記をおじゃまするようになり、パソコン画面を見る時間が飛躍的に増加した。私の視力が落ちてきたのも、多分にその影響があるのかもしれない。とはいえ、今までと違った楽しみを得たのだから、そのくらいのことは「老眼鏡」で我慢するとしよう。ということで、これが本日最大のニュースである。
2003年10月14日
コメント(0)
とうとう、老眼鏡を買うことにした。一年ほど前から小さい文字が見えにくくなり、いよいよメガネを買わなくてはならない日が近いことは感じていた。実は私は、家族から「アイアン・アイ(鉄の目)」と揶揄されるほど、丈夫な目の持ち主だった。若い頃の視力は2.0だったし(もちろん遠視ではなく、小さい文字だってバッチリ)、二年ほど前の人間ドックでの視力検査も、1.0と1.2であったから、メガネはサングラス以外はかけたことがない。そんな私の目も老化には勝てず、最近はそのせいか肩こりがひどくなってきたし、大好きな本を読むのも疲れて、集中が続かなくなっていた。それで、100円ショップで買った老眼鏡をかけると、あまりにも良く見えるのにビックリ。でも、これも見えすぎて疲れるという感じで、やはり目に合ったものを買おうと決断したのだ。というわけで市内の眼鏡屋さんで、初めての視力検査をした。そこで初めてわかったのが、近視と乱視も入っているということで、「エーッ」という感じであった。私の場合は、老眼も近視も乱視も、さほど強くはないらしい。だから、一所懸命目をこらすと、ちゃんと見えるのである。検査をしている時何度も、「無理をせずに、見えにくかったらそう言って下さい」と注意されてしまった。瞬間はぼやけていても、じっと注視すると見えてくるのだ。それを日常的に(無意識的に)やっているので、肩こりや目の奥が痛いという感じになるらしい。「近視と乱視のメガネも作った方が楽ですよ」と言われたけれど、何しろ「はじめてのメガネ」だし、今のところ不都合を感じるのは、本や新聞を読むときだけなのだから、老眼鏡だけを注文してきた。それにしても、「ためしに」とかけてみた自分に合った「近視・乱視」のメガネをかけたとき、かつて若い頃のような見え方ができて、とても感動してしまった。はずした時、何となく世界がぼやけてしまってチョットがっかりしたのだが、このくらいのぼやけ方が私には重要だとも思った。それは、人の顔が見えすぎることの弊害である。人の名前と顔が覚えられない弱点を持つ私は、人の顔がよく見えないほうがありがたいのだもの。
2003年10月13日
コメント(5)
「登校拒否・不登校問題全国の集い」の最後の実行委員会の日であった。私達の会からも、実行委員となった4人が出席した。北海道全域の親の会を中心として、手探りの中で計画し運営したつどいだった。私は実行委員といっても末席に近かったのだが、それでも一つの分科会の取りまとめ役だったので、無事に終わったことにホッとしている。集いの成果は、参加した一人一人によって違う意味を持つものだと思う。私自身のことについて言うなら、様々な意味でのネットワークが、飛躍的に広がったように感じている。全道各地の親の会や関係機関、色々な立場で関わってくださる個人、そして全国連絡会などとのつながりは、この集いなくしては得られないものだった。地元においては、集いの後援や協賛をお願いするため、地元の教育委員会など関係機関や団体に足を運び、不登校問題についてお話をしたり情報交換をしたことにより、今後の活動への手がかりをつかむことができた。また、開催をするには全体で100万円の協賛金が必要だったので、それをお願いするために声をかけたことも、思わぬ協力者を開拓することにつながった。さらに、せっかく北海道で開催するのだからと、一人でも多くの人に参加して欲しいと呼びかけて、私の町からも予想以上の参加者があったことが、何よりも嬉しかった。もちろん、これらのことは私を含めて実行委員になったみんなとの協力があってこそ。私にとっての一番の成果は、「ネットワークの広がりと強化」であった。今の時代は、不登校や引きこもり、中退や非行などについても様々な考え方が錯綜している。それぞれの立場で、立場の異なる人達を批判しているだけでは、辛い状況にある人達の問題を解決することにはならない。議論も研究も必要だけれど、「今、困っている」事に対しては、すばやく対処しなくてはならないのだ。そのためには、立場や考えの違いを超えて、それぞれが「直面する課題」にどう取り組むことが可能かを考えなくてはならない。その時にとても大切なのが、「ネットワーク」だと思う。私達のように、地域が活動の場であるものにとっては、とりわけ地域のインフォーマルなネットワークが重要だ。つまり、「どこにどのような人がいるか」を知り、人としてのつながりを持っていることが大きな力になる。行政機関・団体などの、公的なネットワークの強化はそちらで充分やってほしいものだが、それにも人的ネットワークの部分がなければ、生きたネットワークにはならない。とはいえ、基本的に私は「組織」がとても苦手なのだ。以前「カタカナ語はやめて!」と書いたけれど、ここで書いている「ネットワーク」は「網状組織」となってしまうので、何となくしっくりこない。私のイメージとしているネットワークは、必要に応じてつながって協力し合えるゆるやかなつながりであり、共通課題が終了したら、またそれぞれバラバラでOKというような感じである。まあ、難しいことはさておき、あちこちに新しい知人ができたという実感は、何よりも嬉しいし心強い。
2003年10月12日
コメント(0)
昨日は、H学園大学公開講座四回目。「カンボジアの復興・開発と、開発協力」がお題だった。私は今年の4月にカンボジアを訪れたので、とても楽しみにしていた。講義の内容はそこそこだったのだが、カンボジアの紹介の意味で見せて下さったビデオに感動した。NHK番組の録画ビデオだったのだが、アンコール遺跡群のあるシェムリアップで、一人で地雷除去のボランティア活動を続け、私設の地雷博物館を作ってもいるアキー・ラー(通称アキラ)さんの活動を紹介していたのだ。彼は、クメール・ルージュ時代に両親を失い、クメール・ルージュの少年兵士として育てられ、その後はベトナム軍→カンボジア軍→国連平和維持軍と、カンボジアの時代の流れに翻弄されるような半生を送っている。その兵士時代に身に付けた地雷撤去の技術を、かつての贖罪の思いもこめて現在のボランティア活動に生かしているのだ。「アキラの地雷博物館」はガイドブックにも載っているので知ってはいたが、彼の生い立ちや現在の活動については今回初めて知った。(このことについて詳しくは、http://peace.s9.xrea.com/ をご覧下さい)。何に感動したかというと、あのような過酷な状況を生き延びた彼の、知的で穏やかな笑顔であった。トラウマとかPTSDなどなんて何度も塗り重ねたような状況があっても、人はこのように生きることが出来る存在でもあるのだと思ったのだ。次にカンボジアを訪れるチャンスがあったら、必ず彼に会って来たいと心から思っている。
2003年10月11日
コメント(0)
北海道の余市町の「北星学園余市高校http://www.hokusei-y-h.ed.jp/pc/framepage1.htm 」の義家先生をモデルにしたテレビドラマが、昨夜から始まった。http://www.hbc.co.jp/tv/yoichi/index.html 北星余市高校は全国からの中退者(非行や不登校の子供達が多い)を受け入れていることで全国的に有名であり、私自身も、長年にわたっての北星余市の実践には何度も感銘を受けている。北星余市に在学中の高校生の親や卒業生とも知り合いだったりするので、この学校については人並み以上に関心がある。私自身は、まだ義家先生と直接お会いしたことはないが、彼のことを聞き、テレビでのドキュメンタリーを見て感動し、一昨日の日記ではないが「人間っていいな! 捨てたもんじゃない」と、何度も感じさせていただいた。だから、全国ネットでドラマという形ではあるが、義家先生を育てた北星余市高校の教育について知っていただき、親や教育関係者、そして「不登校や非行」を「子どもと親の問題」にしてしまいがちな社会に刺激を与えていただきたいと願っている。しかしドラマを見ながら、私の「老婆心」がムクムクと動き出してしまった。義家先生は、最近は講演などで引っ張りだこだそうである。本の出版やテレビのドキュメンタリー→テレビドラマ化などの影響であろう。しかし、彼はまだまだ若く、発展途上の青年でもあるのだ。様々な体験を積んできている人だし、北星余市という足場があるから大丈夫だと信じたいけれど、人間には弱さだって必ずあるのだ。人の心は信じるに足るものだと確信もしているが、時には悪魔にもなりうるのだとも思ってもいる。そして、何よりも無責任で冷淡なのは「世間」であり、現代のメディアである。どうぞ、それらの「怪物」が彼を、そして北星余市を餌食にしないで欲しいと、ドラマを見て感動しながらも思っていた。北星余市高校に関わる皆さん、そして余市町の皆さん、どうぞ今までと変わらずに暖かく彼らを見守りながら、時には叱咤激励してあげてくださいね。祭り上げられた時には、思わぬ落とし穴があるのが常なのですから。
2003年10月10日
コメント(2)
午前中は、某ボランティア団体の打ち合わせ。会の運営に関する色々な確認や、今後の活動などについて話し合う。どんな小さな会でも、民主的な運営をしていくためには、きめ細やかな目配りや話し合いが必要だ。それをせずに、一部の人達だけで事を進めてしまうと、必ず不満や憶測が湧き始める。悪気のない一言がいつのまにか一人歩きして、突然思いがけないところから刃が飛んでくることもある。そんな体験を数知れず重ねているため、私は必要以上に警戒心が強くなっているのかもしれない。どんなに気を配っても、もともとがどこか抜けているために、何かが起きた時に「しまった!」となるのだ。「その他大勢」の中で「枯れ木も山の賑わい」のような役割でいることが、私は一番楽ちん。そしてまた、結構そのような役割が社会を下支えしているものなのだ。リーダーの資質は、何かあっても必要以上に気にせず、責任を取るべき時はグタグタ言い訳せずに、仲間のためにもスパッと頭を下げたりできること。そして、必要な時には外部に対してキチンとものが言えること。私は、必要とあればいくらでも頭を下げたり恥をかくことは出来るが、グタグタと考えなくても良いことを考えてしまい、自分一人で勝手に疲れてしまう。だから、絶対にリーダー的な役割についてはならないと思っている。頼むから、これ以上私を買いかぶらないで下さい。(現在、リーダーが体調を崩して不在なのだ)
2003年10月09日
コメント(0)
最近はどうも心が暗くなるニュースが多くて、人心が殺伐としてくるのはその影響もあるのではないだろうか。世の中には「人間っていいな!」と思うことだって沢山あるはずなのに、そのようなことはひそやかで目立たない。素晴らしい人ほど謙虚だから、いよいよ目立たなくなってくるんだろう。今日は、嬉しく懐かしい電話があった。以前に仕事をしていた頃、高校生のボランティアと一緒に色々な活動をしていた。その第一期生ともいえる当時の高校生も、いまや36歳になっている。(当時の私は30代半ば、今の彼女の年齢だ)当時の思い出話や、仲間達のその後の消息など、しばらくおしゃべりをしたのだが、あれからもう十数年も経っていることに、今更ながら驚く。「ボランティアは口実で、色々な人と話したりするのが楽しかったな。それにしても、あの頃の大人の人たちは、私達みたいなガキによく付き合ってくれたものだよね。○○さん(私のこと)にいくら怒られても、なかなか帰らなかったものねー。随分迷惑かけたろうなと、今になって思うけど、当時はみんなと話していたくて、帰りたくなくてしょうがなかった」そのような思い出作りに一役買うことが出来たことを、今はとても感謝している。時々、このようにかつての子ども達から連絡があるのも嬉しい。あれほど充実していて、「天職」とまで思った仕事だったのに、私はいつの間にか煮詰まって、とうとう退職することになってしまった。しかし、「いよいよになったら辞めよう」と心に秘めていたからこそ、思い切ったことも出来たと思う。長続きさせなくてはならないことと、短期集中で頑張ることがいいことと、両方あると思う。できれば職場は、その両方のタイプがいたらいいのだろう。世の中も、明るいことと暗いことが両方ある。バランスよく情報を提供して欲しい。
2003年10月08日
コメント(0)
私は生まれてからずーっと、学生時代の一時期を除いて「ここ」に住み続けている。さらに、父も祖父もここで育って生きた。つまり、北海道のような歴史の浅い地域において、曽祖父の時代からこの地に縁を紡ぎ続けているのである。若い頃から現在にかけて、私の夢は「私を誰も知らない所で住みたい」ということだったが、残念ながらかなえられぬままに今日に至っている。若い頃に、なんとしても「ここ」から脱出したいと思い試みたのだが、意に反して連れ戻されたというか・・仕方がなかったというか・・。せめて実家からの脱出をという下心もあって結婚したけれど、結局「ここ」に住み続けることになってしまった。「△△の孫」→「○○の娘」→「○×の奥さん」という呼ばれ方が、常に私には付きまとってきた。それでも、挫折を繰り返しながらも仕事にしがみつき続け、退職後は地域活動に関わり続けているため、今では最初から「○×さん」と呼ばれるほうが圧倒的に多くなり、やっと自分だけで勝負できるようになったような気がしている。それはそれで良いのだが、そんな経過をたどってきたおかげで、一歩外に出ると、必ず知っている人に会わずにはいられない。つまり、「ここ」は私にとって、とっても息苦しい町になっているのだ。親が転勤を繰り返して、「私には故郷がない」と嘆くような人から見たら、私は「どっかりと根を下ろした屋久杉」みたいで、きっと羨ましいのだろう。だけど、動けない状態というのもなかなかシンドイ。実家には老いた両親がいるので、少なくてもこの二人を見送るまでは、私の夢は叶わぬことだろう。しかし、長生きの遺伝子を持つ両親を見送った頃には、もう私自身が動けなくなっている可能性も高い。救いは、二人の息子が「ここ」に住んでいないことだ。実家の両親は、孫が「ここ」に帰ってくることを少しは望んでいるようだが、私は心の底で「帰ってこないで!」と願っている。せめて、時々軽い空気を吸いにどこかに出かけたいから、「息子の家に行く」というような口実が欲しいのだ。通信で勉強していた頃、スクーリングがとっても楽しみだったのだが、その理由の一つが「ここ」を離れられるということだった。東京の街を歩く時、いつも心も身体も軽かった。背中に羽が生えたような気分だった。一日歩き回っても、私のことを知っている人に一人も会わない気軽さ。その解放感を求めるのは、やっぱり贅沢なのだろうなあ。
2003年10月07日
コメント(4)
道路公団の藤井総裁は、辞表提出を拒否したとか。昨日は、石原国土交通相と五時間も話していたらしいが、いったいどんな話をしていたんだろう。テレビの映像で見る限り、私は藤井総裁にはまったく信頼がもてなかった。ことの是非について論じる力量はないのだが、「もし、あのような上司だったら、たまんないなー」とという感じである。自分が悪かったとは、爪の垢ほども思っていない顔だ。多くの人たちや国民に与えている迷惑なんて、まったく想像もしていないように見える。私は、それぞれの仕事には必ず「使命」があると考えている。人が働くのは、生きていくための糧を得る手段でもあるが、同時に社会的使命があり、その使命に沿ったところで努力することに、仕事の喜びがあると思っている。特定個人や集団の利益だけのための労働なんてイヤだと思うのだ。ましてや、誰かの意地や薄っぺらいプライドのために振り回されるのは、できれば勘弁して欲しい。あの上司の下で働いてきた道路公団の人たちが、藤井総裁と同類ではないことを祈る。
2003年10月06日
コメント(0)
知人からのメールで、このことを知った。イスラエルの最大発行部数をもつ「イディオト・アハロノト」紙が用意したインターネット記事を翻訳(ヘブライ語→英文→日本語)したものが転送を繰り返されたものであった。とても勇気ある行動と感動したので、記事の全文を添付させていただきたい。(ギラ・スヴィルスキーさんからの配信メール)『 新年のすばらしい贈り物』友人の皆さん、今週の金曜日(9月26日)に始まるユダヤ暦の新年、ロシュ・ハシャーナの、想像しうるかぎり最良の贈り物がここにあります。25人のイスラエル空軍パイロッによる軍務拒否です。朝の新聞でこの出来事が何故イスラエル人に衝撃を与えるのかを理解するためには、次のことを知らなければなりません。空軍パイロットはイスラエルのヒーローであり、最良のもの、最も輝かしいもの、最も勇敢なものを凝縮して表わすものであるということです。 以下は、イスラエルの最大発行部数をもつ「イディオト・アハロノト」紙が用意したインターネット記事を、私が取り急ぎ翻訳したものです。それは、「ハ・アレツ」紙(英語紙)の無味乾燥な記事よりも、ずっと深い洞察を与えてくれます。それを読んで、このことが持つであろう衝撃、占領への支持を掘り崩すような衝撃を、ぜひ味わってみて下さい。この便りは、ひとつの願いを込めたものです。今回のことが占領を速やかに終わらせる触媒となりますように。理性の夜明けの予兆となりますように。そして、究極的に平和の予兆となりますように。中東で、また世界のあらゆるところで。Shalom / Salaam エルサレムよりギラ・スヴィルスキー(以下、ヘブライ語「イディオト・アハロノト」紙の記事のギラさんによる英訳の翻訳)予備役の空軍パイロット:我々は彼の地(占領地)での攻撃を拒否する 予備役のパイロットおよび乗員が、本日、次のような手紙を空軍司令官ダン・ハルツに提出した。:「私たちは、イスラエル国家が彼の地(占領地)で行なってきた、不法で不道徳な攻撃命令を遂行することに反対します。」(訳注:「彼の地(占領地)」は、the territories の訳で、1967年からの占領地=西岸地区とガザ地区のことです。イスラエル社会では公的には「占領」を認めていませんので、当事者の用語としては「彼の地」ぐらいの訳語が適切だと思われます。しかし、それだけではわかりにくくなると思い「彼の地(占領地)」と訳しまし た。以下同じ。) 25人のパイロット、元パイロット、乗員が、空軍司令官ダン・ハルツ将軍に、本日(水曜日)、嘆願書を送った。その中で、彼らは、彼の地(占領地)での攻撃の任務には参加しないと宣言した。 「イディオト・アハロノト」紙のウィークエンド・マガジンで公表される記事が報 じているところによれば、署名者の中で最も目立った名前は、予備役准将イフター・スペクターの名である。スペクターは、空軍の神話的パイロットである。彼は、飛行中 隊や空軍基地を指揮し、イラクの原子炉爆撃に参加し、軍司令官の候補であった。若いパイロットたちは、スペクターの武勲の話や彼自身が書いた本で育てられている。 彼は、飛行学校での予備役の教官として、今でも空軍で飛行している。 この空軍司令官への手紙に署名した人々によれば、「灰色の拒否者」は既に空軍内に広範に広がっていて、常備軍のパイロットまで含んでいるという。暗殺に参加することを拒否するパイロットが多数存在するが、飛行中隊の指揮官との私的な相談で、静かに任務からはずれているのである。 軍務拒否者(Refuseniks)のリストの弱点は、これまでのところ少なくとも、たった2人の攻撃ヘリパイロットしか拒否者の手紙に署名していないということにある。 攻撃ヘリコプターのパイロットは、ほとんどすべての暗殺を遂行する人々なのである。 チャンネル10の質問に答えて、空軍司令官は、次のように述べた。「これは、空軍に起きた地震などではない。分別をわきまえて、あるがままの大きさでとらえることが重要だ。私は、こんな手紙はこれまで聞いたこともない。我が軍は、現存する軍隊の中で最も思いやり深く高い士気をもつ軍である。これは政治的拒否である。まだ与えられてもいない命令の遂行をどうして前もって拒否することができるのか、私には理解できない。政治的拒否は、この国にとってのあらゆる危険の生みの親である。 拒否は我々の言語の一部であってはならない。」と。 ■手紙全文 「シオニズム、自己犠牲、イスラエル国家への貢献という価値観のもとに育てられた 私たち空軍パイロットは、イスラエル国家を防衛し強化するために、任務の大小にかかわらずいかなる任務をも遂行するつもりで常に最前線で軍務についてきました。 「私たちは、退役パイロットも現役パイロットも、ともに等しく、毎年数週間イスラエル国家のために軍務についてきましたし、また現についています。そのような者として私たちは、イスラエル国家が彼の地(占領地)で行なってきた、不法で不道徳な攻 撃命令を遂行することに反対します。 「私たちは、イスラエル国家を愛し、シオニズムの新進的大事業に貢献するように育てられてきました。そのような者として私たちは、民間人の密集地での空軍の攻撃に加わることを拒否します。私たちにとってイスラエル国防軍と空軍は、私たち自身の譲り渡すことのできない不可分の一部です。そのような者として私たちは、無辜の民間人を傷つけ続けることを拒否します。 「これらの行為は不法で不道徳です。そして、それは、イスラエル社会全体を堕落させつつある現に行われている占領の、直接の結果です。占領の永続化は、イスラエル国家の安全保障と道徳的堅固さを致命的に損ないつつあります。「現役パイロットとして--戦闘員として指揮官として、また次世代のパイロットを養成する教官として--軍務につく私たちは、だからこそ宣言します。私たちは、イスラエル国家の防衛のあらゆる任務のために、引き続きイスラエル国防軍と空軍の軍務につくものであるということを。」署名者:Brigadier General Yiftah Spector, Colonel Yigal Shohat, ColonelRan,Lieutenant Colonel Yoel Piterberg, Lieutenant Colonel David Yisraeli,Lieutenant Colonel Adam Netzer, Lieutenant Colonel Avner Ra’anan,LieutenantColonel Gideon Shaham, Major Haggai Tamir, Major Amir Massad, Major GideonDror, Major David Marcus, Major Professor Motti Peri, Major Yotam, MajorZeev Reshef, Major Reuven, Captain Assaf, Captain Tomer, Captain Ron,Captain Yonatan, Captain Allon, Captain Amnon"ネットを検索したら、下記の記事もみつけた。http://www.asahi.com/special/MiddleEast/TKY200309250247.html
2003年10月05日
コメント(0)
親戚のホテルでの結婚式と祝賀会に出席した。結婚式は、ホテル内のチャペルでキリスト教式によるもの。神式・仏式・キリスト教式、いずれの式にも参列した経験があるが、感覚的にはキリスト教式が一番わかりやすいし、賛美歌やオルガンの音色も美しいし、若い人たちがこの形で結婚したい気持ちもわかる。日本って好みで結婚式の形が選ぶことができて、自由な国だとつくづく思う。(言い方を変えれば、いい加減な国ということにもなる)とにかく、幸せ一杯の若い二人の笑顔を見ていて、この二人が幸せな家庭を地道に築いてほしいと心から願う。北海道は離婚天国と言われ、本当に周囲では離婚が多い。我慢し続けることが良いことだとも思わないけれど、そうコロコロと「誓い」を破るのもどうかと思う。ネット上のHPや掲示板では「不倫・浮気」がとても賑わっているし、本当に人間というものは、少し距離のある異性に心を動かされるものなのだと思う。どんなに熱烈な恋愛結婚であろうと、「恋」は結婚して生活を共にし始めると同時に冷めていくものだ。そこからが本物の「愛」への始まりだと思うけれど、愛を紡ぐのは忍耐が必要である。以前に「愛はなぜ終わるのか」(ヘレン・E・フィッシャー著、草思社)を読み、愛は4年で終わるのが自然だという説に非常に納得してしまったが、この場合の「愛」は私に言わせれば「恋」なのだろうと思う。だから、四年の交際期間で結婚するのは、一番危険かもしれないなー。ちなみに私の場合は、交際期間はほとんどゼロに等しい。突然に降って湧いたような「恋??」で、あれよあれよで結婚し、四年後には二人の子持ちになり、もう「男女の恋愛」をぶっ飛ばして「家族愛」へと移行してしまった。私のような者でも三十年の結婚をまっとうできているのは、夫の忍耐と子ども達のおかげであろう。「めくるめく恋」の体験が多少欠如している寂しさが無くもないが、誰かをひどく傷つけることが無かっただけ、幸せだと思う。「私達は、四年の交際で愛を育んできました」という言葉に、チラッと不安感を持ってしまった私は、うーん、ちょっと意地悪ばあさんかな。でもこのことは、二人には「な・い・し・ょ」。
2003年10月04日
コメント(4)
アジアの一員でありながら、アジア諸国のことについてはほとんど知らないことに、以前から忸怩たる思いを抱いていた。そんな時、H学園大学で「もっと知りたいアジアの隣人達」というテーマで公開講座があることを知り、夫と二人で申し込んだ。全6回で受講料は何と2000円。最近は、あちこちの大學で一般市民向けの公開講座が開催されている。これも、少子化と高齢化の影響もあるのだろうと思うと、一般的に「困った」と思われることにも、プラス面があるのだと実感する。さて、今日はその三回目。インドネシア、バングラディュ、そして今回は「韓国」であった。前の二回もそうであったが、隣国である韓国のことについても、私は何も知ってはいないということを痛感。韓国人の宗教観の変遷や国民性について、「なーるほど。ふーん、そうなのか」の連続だった。以前から、どうして韓国にキリスト教徒が多いのか不思議だったのだが、その理由についても少し理解できた。一時間半の講義だからポイントを絞るしかないので、まだまだ知りたい部分はあるけれど、それは今後の私自身の課題だろう。それにしても、私に限らず日本人はアジアのことをほとんど知らないでいるのが実情のような気がする。北朝鮮のことがわからないと同じくらい、他の国々のこともわかっちゃいない。日本は地理的にも民族的にも、アジア諸国にきちんと立脚していなければならないはずなのに。もっともっと、アジアの国々についてより理解し合える場がほしいと思う。
2003年10月03日
コメント(0)
このところ、「マニフェスト(政権公約)」の文字が新聞やテレビで躍っている。それはそれで結構なのだが、なんで「政権公約(マニフェスト)」にならないんだろう。コレに限らず、何でもかんでもカタカナ語ばかりで、私のように新しい知識がスンナリと脳に定着しない世代は、いちいち言葉でつまづいてしまう。「それって、何のことだっけ?」と考えているうちに話は先に進んでいて、結局話がうやむやになってしまうことがある。日本語は外来語(外来文字)で成立しているようなものだけれど、明治期の人たちは偉かった。外国の知識をどんどん取り入れながらも、ちゃんと日本語らしく翻訳することに努力していた。今のように、英語をそのままカタカナに変えて使うことが、何となく進んでいるような気分にしてきたのは、誰の責任だろう。言葉は、理解して使えなくては何もならない。今のように、専門家や評論家だけが使いこなせる言葉が巷を飛び交い、一般の人たちは何となく「そんなもんか」というようになっているのは、一面でとても危ういものを感じる。日本語の中にその概念がなくて翻訳しづらいものならばまだしも、「マニフェスト=政権公約」なんて文字数が少なくて簡単なのに、どうして日本語がカッコ内に入ってしまうのだ!カタカナ語で国民を煙に巻こうとしている政治家の陰謀ではないかと勘ぐってしまう。私はただそれだけでも、民主党に心からの信頼がおけない。
2003年10月02日
コメント(2)
長崎の男児誘拐殺人で補導された中学一年生に対して、犯行の背景の一つに、彼が「アスペルガー症候群」であったことが指摘された。この報道によって、「アスペルガー症候群」という障害名を初めて知った人も多いのではないだろうか。「アスペルガー症候群」については、インターネットで検索したら沢山情報がみつかるはずである。私がこの障害名を知ってから、まだ5年くらいである。それまでは、「自閉症」あるいは「情緒障害」と言われる子の中に包括されていたと思う。情緒障害児(または自閉症)の中には、学校での勉強は問題がないどころか、抜群の記憶力で他の人たちを圧倒する人もいるし、芸術分野で才能を発揮する人もいるが、対人関係やコミュニケーション能力には欠けているのが特徴だ。とても狭い分野で能力が高くても、学校ではなかなかついていけないことが多いので、大抵の場合は「情緒障害児学級」などに在籍することになるのだが、中には「ちょっと変わった子」「扱いにくい子」ということで、普通学級に通学する子も多い。このようなタイプの子の中に、「アスペルガー症候群」が多いのではないかと思う。私がこの障害について知ったきっかけは、慶應通信の学友組織である「慶友会」の講師派遣学習会であった。その時の参考図書に「自閉症だったわたしへ」(ドナ・ウィリアムズ著、新潮社)があり、自閉症という障害をもつドナ自身の言葉で、その障害ついて書かれていた。それまで、何人もの自閉症児と関わった経験があったが、それまでどうしても理解できなかった行動について、「ああ、そうだったのか」と目からウロコのような気がしながら読んだものである。自閉症と言われる人たちが書いたものを初めて読んだので、「自閉症にもこのような言語能力のある人がいるのだ」と再認識したのである。その後、気になって色々調べているうちに「アスペルガー症候群」を知り、時を同じくするように、やはり慶友会の学習会(講師:木島伸彦助教授)で、「クロニンジャー理論」を知った。この時に紹介された本は、『変光星』(森口奈緒美著、飛鳥新社)であった。(クロニンジャー理論については、今日は触れない)多分、ドナも森口さんも「高機能広汎性発達障害」(アスペルガー症候群も、高機能自閉症もこれに含まれる)であり、今回の事件を起こした少年もまた、その障害を持って生まれたのであろう。残念ながら、福祉関係の仕事をしていた私でも、この障害についての認識は低いものだったし、教育関係者においてはそれ以上に低い認識しかないはずである。ましてや、普通の親がこの障害について知っているはずがない。きつと、幼い頃からとても育てにくい子どもだっただろう。何とかしなければと焦る母親は、不安や心配や苛立ちのストレスを抱えながら育てるしかない。それでも子どもは親の思う通りには育たず、周囲からは「親のしつけがなってない」とか、「親が甘やかすから」などという、見当はずれの冷たい視線や指導にさらされることになる。親も大変だけれど、子ども自身はさらに辛いことの連続のはずである。自分を理解し守ってくれるはずの母親が、その戸惑いや苦しさを全く理解してくれないのだから。ストレスにさらされ続け、自分を理解してくれる人のない孤独感の中で、失敗を繰り返しそれを責められる挫折感の繰り返しを続けたら、人はどのようになっていくのか。とにかく、このような障害についての理解と、その人たちへの対応の仕方や育て方について、もっともっと多くの人が知らなくては、第二第三の少年が育つこともありうる。某大臣が「親は市中引き回しで打ち首」と言って論議をかもしたけれど、あのような発想しかできないのも、共感性の欠如という一種の障害ではないかと思ってしまう。どうもアスペルガー的傾向は、現代ではかなり多くの人達が抱えているのではないか。私は、重大な罪を犯したことに対しては、それなりの償いは必要だと思っている。それは、障害があろうがなかろうが、人間社会の掟でなくてはならない。だから、障害の有無や少年であるからといって、無罪にするのは反対である。しかし、だからといって「人を殺したら死刑」にも反対なのだ。宅間守のことば「私を塩漬けにしても、無差別殺人は防止できぬ」は、一面の真理だろう。人を殺すことに強いためらいを感じる人間を、どのように育てるかを考えたいものだ。
2003年10月01日
コメント(0)
全31件 (31件中 1-31件目)
1