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小山内さんのブログを見たら、三浦さんの死やALSの女性の死について書いていた。多くの人に読んでほしいと思ったので、転載させていただきます。三浦春馬くんは、きっと今頃天国でそろばんで頭をたたかれているだろう2020/07/29 15:39京都のALSの女性は誰かと話したかったのでは?京都でALS(筋ジストロフィー症)を患った女性が、SNSを使って医師2人に連絡をとり、薬物による安楽死を望んで実行したという事件が起きた。医者がお金をもらって殺すなんて、その医者たちは、日本のヒトラーのようなものだと感じた。殺された人の名前をここには書かないが、メディアの報道では、だいぶ障がいが重くなって話せなくなってから殺されたのではないかと思う。殺された時にほんとうにその方が死にたいと希望していたのかは、いまや確かめようもない。その人は誰かと話したかったのではなかろうか。障がい者の人には色々な生き方(国会議員もいれば、会計士もいる)をしている人がいるが、それは見えにくくて、失望してしまう人も多いのではないか。「生きていたくない」という気持ちは とてもよくわかるときがある。癌で入院していたとき、夜中に髪の毛一本が鼻のてっぺんにかかり、痒くてたまらなかった。ナースコールは、ガムテープで布団の足元に固定されていたが、その日の当直の看護師が夜中に呼ぶと怒る人だったので、足指が動かなった。涙が止まらなくなった。髪の毛一本で、体中が震えて「いまは死んだほうがいい」と叫んだ。そのときの叫びで吐いた息が、髪の毛を吹き飛ばしてくれて、やはり明日も生きようと思った。障がい者はそのような思いを繰り返しながら生きていると思う。ある友達は兄弟から「(障がいを持った)あんたがいるから、私は結婚できない」と言われたそうだ。その人はそれが苦しくて、自殺未遂をした。生きていれば、一緒に泣いてくれる親もいるし、「あなたの気持ちよくわかるわよ」と言ってくれる友達もいる。周囲の人たちが、生きるエネルギーをあげているのだ。私も最近67歳になり、肩首腰が痛い。お酒や薬を飲んで我慢していても、やはり夜中に辛くて目が覚める。そんな時にまた死にたくなる愚かな私がいる。心の痛みと体の痛みはちょっと別なのかもしれない。人生において悩んで死にたいのと、障がいや病気になって苦しくて死にたいのとはちょっと違うのかなと思う時がある。私は夜中に体が痛くて目が覚め、テレビをつけると、驚いたヘルパーさんが隣の部屋から飛んでくる。「どうしたの?どこか痛いんですか?」と聞かれる。「肩が痛いのね」と言い、長い時間肩を揉んでくださる人もいて、そんな夜は心も揉んでいただいたような気がする。死にたい時に、大声でそう言える相手が誰かいればいい誰かに話しているうちに生きようという気持ちに変わっていく。人生はそのような繰り返しではなかろうか。「僕たちは、死にたいと思っても死ねないもんね!」と当時40歳だった筋ジストロフィーの友だちが言った。その頃若かった私は「死ぬ方法はたくさんあるじゃない?あなたはまだ手が使えるのだから、電動車椅子で道路に飛び込んだり、アパートの近くに池があるんだから、そこに落ちればいいんじゃない?それから…」と色々死ねる方法を羅列していたら、彼は「もう聞きたくない!わかったから!僕は生きる!」と返しきた。「そうね、車に轢かれてもっと重い障がいになったら困るでしょ?」と言ったら、彼は大笑いした。「こういう話を出来るのはいいねえ。なんだか生きたいと思えるようになったよ」と言われた。人間は孤独過ぎて死んでしまう人もいるのかもしれない。でもその彼は85歳まで立派に生き抜いた。彼が死んだという知らせが葉書で届いたのは、彼が亡くなった後だったので、残念だ。お葬式に間に合ったなら、抱えきれないほどの花を持っていきたかったのにと、悲しくて、涙も出なくなり、なぜか体中の緊張がとれた。いつも脳性まひで緊張している力がぬけ、「あぁ、楽だなぁ。彼が私の体をマッサージしてくれているのかもしれない」と思えた。(私も85歳まで生きるからね)とつぶやいた。筋ジストロフィーでも死にたくない人もいるそういえば「こんな夜更けにバナナかよ」のモデルとなった鹿野さんは、筋ジストロフィーだったが、死にたいとは言わない人だった。彼はいつもアホな事ばかり言い、泣いているのは女性にフラれたときぐらいだった。「僕は長生きして、人に迷惑をかけながら生きるんだ」といつも言っていた。私はその言葉が大好きだった。彼は強い人だったんだね、あほだけど。アホな人の方が強いかもしれない。いろいろな人から映画についての前評判は聞いていた。私は「現実と本や映画は違っていて当然。自分もテレビドラマや記事の題材になったときに、いろいろと違うことがあったから」と最初から割り切っていた。映画はとても感動的だったが、1つだけ注文をつけたいと思っていたことがある。彼が仕事をしているシーンを、2秒間でもいいから描いてほしかった。というのも、鹿野さんは数年間は札幌いちご会に来て、会計担当だった。そろばんをやっているふりをしていたが、頭の中で全て計算ができていたのだ。彼はただ人に甘えていたのではなく、職業人だった。障がい者が仕事をしている姿を伝えるメディアはまだまだ少ないので、そろばんを頭でたたいていた彼の姿を描いてほしかった。前田監督にそういうシーンをリクエストしようかなと思っていたが、もう撮影も済んでいたようで間に合わなかった。鹿野さんは、鹿野靖明という人生を送り、こんな夜更けにバナナかよという本でまた生まれ、その後は映画で生まれ変わった。三浦春馬さんは早く天国に行ったが、きっと鹿野くんとはどこかですれ違うだろう。鹿野さんなら「春馬さん、はやくきすぎだよ。もっともっと女を口説く時間もあっただろう」と、そろばんで頭をたたくにちがいない。三浦さんもいろいろな形でこの世に生き続けるだろう。ご冥福をお祈りします。
2020年07月31日
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私の箪笥の一棹のほとんどは、箪笥の肥やしと化している和服である。結婚する時に祖母や母が誂えたり縫ったりしてくれたものや、いつも私がお正月だけ母のご機嫌取りに和服を着たりしていたものだから、親戚の人が(故人)、「あんたは着物を着るからあげる」と言って押し付けられたもの。私も、いつか高齢になって和服を着る余裕が出るかもと思っていたが、もう面倒くさくなって着る機会はほとんどない。最後に着たのは、父の葬儀の時の喪服だ。お嫁さんも孫も和服を着るような気配はないし、いつか処分しなければと思っていた。以前、ボランティア活動で知り合った知人に一着だけリフォームをお願いした。それがこれ。うーん、画像が回転しない?まあいいか。彼女は残った記事で、ポンチョのようなものとバックインバックを作ってくれた。実はこの元々の着物は、私が学生時代に被服実習で縫ったものだ。後にも先にも、私が着物を縫ったのはこの一着だけで、一度くらい着たかもしれないけれど、私の苦労の証明のような作品だった。だから、捨てるにはやっぱり惜しいし、何より実習用に買った生地なので安価なウール。秋から冬にかけて、部屋着代わりに時々着ている。さて先日、この箪笥の湿気取りを取り換えていて、「やっぱり無用の長物だ。何とかしなくちゃ」と思い、自分でリフォームにチャレンジすることにした。図書館で着物リフォームの本を借りてきて、これなら作れそうだと思うものにチャレンジ。この着物は、数年前に一人暮らしをしていて97歳で亡くなった人のもの。紬の着物と道行のセットであった。まずは、身丈が短い道行の方をほどいて洗濯してアイロンがけ。簡単な型紙を使って裁断し、チクチク手縫い。実は、久しぶりにミシンを取り出したのだがなんだか調子が悪く、色々やっているうちにボビンを分解してしまい、元に戻らない。こんなことで汗をかくくらいなら縫った方が早いと手縫いとなったのだ。二日かけて縫ったものがこれ。まあ、実質丸一日くらいかな。思ったより簡単にできた。本では前開きで重ね合わせてボタンかスナップ止めで、内側にゴムを入れる形だったが、私は面倒なので全部縫ってしまい、余り布でベルト(?)を作って結ぶことにした。久しぶりの運針でちょっと肩が凝ったが、思ったよりうまくいった。布地がこんな模様なので、縫い目の粗さが目立たないのがとても良い。他にも、脇の袋縫いなど手間がかかるところは全部カット。自分用の普段着だから十分だろう。しかし、多分生地は結構良いものだと思われる。とても縫いやすいし手触りが良いのだ。まだ布は余っているので、袋物くらいなら手縫いでもできそう。意外と簡単だったので、早くミシンを治してまたチャレンジしたい。
2020年07月28日
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布マスク8千万枚配布へ 介護施設対象、厚労省共同通信 / 2020年7月28日 0時0分 新型コロナウイルスの感染拡大防止策として、政府が布マスク約8千万枚を7月下旬から介護施設などに配ることが27日、厚生労働省への取材で分かった。春から続く布マスク配布事業の一環で、9月までの配布完了を目指している。 厚労省によると、対象は介護施設や障害者施設、児童施設、幼稚園、保育所などで、職員や利用者が使うことを想定。4月から約2千万枚、6月から約4千万枚を配布しており、今回は第3弾に当たる。「アベノマスク」とやゆされた全世帯向けとは別の事業だが、素材や形状は同じだ。まだ配るって?!信じられないとしか言いようがない。ALS嘱託殺人で医師2人逮捕、「安楽死」の議論や法整備はなぜ進まないのか7/28(火) 6:01配信 年配の読者なら、故・手塚治虫氏の代表的作品「ブラック・ジャック」に登場するドクター・キリコを思い浮かべた方も多いのではないだろうか。京都府警捜査1課は23日、難病に指定されている筋萎縮性側索硬化症(ALS)の女性患者に薬物を投与して死亡させたとして、医師2人を嘱託殺人の疑いで逮捕した。この事件は、医師が依頼されて報酬を受け取り、苦痛を伴わずに患者を死に至らしめる「安楽死」だったとされる。過去にも終末期医療などを巡る同様の事件が明るみになり、そのたびに「治療か尊厳死か」が取り沙汰されるが、ほとんど議論されることはなく、法整備も進まないのが現状だ。(事件ジャーナリスト 戸田一法)● 安楽死の報酬は130万円 逮捕・送検されたのは、ともに医師でクリニックを経営する仙台市泉区の大久保愉一容疑者(42)と、東京都港区の山本直樹容疑者(43)。 逮捕容疑は共謀して昨年11月30日午後5時半ごろ、ALS患者の林優里さん(当時51)に依頼され、京都市中京区にある林さんの自宅マンションで致死量の薬物を投与して殺害した疑い。 全国紙社会部デスクによると、林さんは2011年、ALSを発症。18年4月にツイッターアカウントを開設し、同年12月ごろに大久保容疑者とやりとりが始まった。 19年1月に安楽死を希望する林さんのツイートに、大久保容疑者が「訴追されないならお手伝いしたい」と返信していた。 同年11月30日、両容疑者が別々の新幹線で京都市に到着し、市内のホテルで合流。午後5時20分ごろ、林さんのマンションを訪れてヘルパーと対面し、知人を名乗って訪問記録に偽名を記載したという。 両容疑者がマンションに滞在したのは約10分。別室にいたヘルパーが部屋に戻ると林さんは意識不明の状態で、午後8時19分、搬送先の病院で死亡が宣告された。 林さんの遺体からは司法解剖の結果、鎮静作用がある「バルビツール酸系」の薬物が検出された。この薬物は脳の興奮を抑える作用があり、睡眠薬や抗てんかん薬、麻酔薬などに使用される。 即効性が高く、大量に投与すれば呼吸を抑制し死に至る。欧米では合法的な安楽死や死刑執行に使われている。 林さんはチューブを通して胃に直接栄養を送る「胃ろう」で生命を維持。遺体に注射痕などはなかったことから、胃ろうから致死量の薬物を投与されたとみられる。 両容疑者は当日、そのまま京都市を離れた。安楽死の報酬は130万円。林さんから山本容疑者の口座に振り込まれていた。● 被害者と容疑者の接点 ALSは全身の筋肉が萎縮し徐々に衰える神経変性疾患の難病で、有効な治療法は確立されていない。日本では1974年に特定疾患に認定された。 れいわ新選組の舩後靖彦参院議員、元衆院議員で医療法人徳洲会を設立した徳田虎雄氏もALSで、国内の患者数は約1万人といわれる。 林さんは東京で建築関係の仕事をしていた11年にALSと告知され、京都市の実家に戻った。その後、マンションを借りて一人で暮らしていたが、発声できなくなり、食事も困難に。 障害福祉サービスの「重度訪問介護」を利用し、京都市から派遣されるヘルパーが24時間態勢で胃ろうでの栄養摂取や排せつなどのケアをしてきた。 一方で、事件当時も瞳の動きで操作できるパソコンでSNSに投稿するなど、コミュニケーションは可能だった。(後略)このニュースはとても気になっていたが、どうも自分の気持ちが整理できない状態が続いている。このような病と闘う人の気持ちは、その状況にない人には本当にはわかりようがない。また、病と向き合う人もそれぞれだから、安楽死を望む人もあるだろうが、そうではない人もいるだろう。私ならどう考えるのだろうかと思ってみるが、やはり実感のない想像力では無責任な意見になりそうな気がする。今は、同じ病の舩後靖彦参院議員の言葉を支持したいと思っている。「生きる権利」守る社会に ALSのれいわ舩後氏―医師嘱託殺人 筋萎縮性側索硬化症(ALS)を患うれいわ新選組の舩後靖彦参院議員は23日、ALS患者の女性が殺害された事件について「『死ぬ権利』よりも『生きる権利』を守る社会にしていくことが大切だ」と訴えるコメントを公表した。 舩後氏は、殺害を依頼したとされる女性の行動に理解を示す反応がインターネット上などに出ていることを指摘。「こうした考え方が、難病患者や重度障害者に『生きたい』と言いにくくさせる社会的圧力を形成していくことを危惧する」と強い懸念を示した。「Go To強行」の無残は、安倍政権のみならず全政治家に責任がある7/28(火) 6:01配信「Go To トラベル」が「Go To トラブル」にしか聞こえなくて困っている私である。これから日本での感染者がどのように広がっていくのか、素人の私にはよくわからないが、はっきりしているのは医療や福祉業界では限界に近い状況になっているというこだ。これから日本社会がどのように推移してゆくのか、私には明るい未来が見えなくて困っている。ところで、最近のニュースでコロナ関係では、西村経済再生担当大臣の顔しか見えないが、加藤厚生労働大臣は何をやっているんでしょうか。
2020年07月28日
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「花のあと」藤沢周平久しぶりに藤沢周平を読んでみようかと手に取った本。一時期、藤沢周平は結構読んだけれど、最近はご無沙汰していたようだ。自分のブログを検索しても出てこない。多分、読んでいるのだろうけれど、書いていなかったんんじゃないかな。彼の作品はどこか似通っているものが多いので、この本も読んだことがあるような気がしたりして…。今、作品をリンクするのに検索したら、10年前に映画化もされていると知った。主人公の以登は北川景子さん。ピッタリの感じがする。この本は短編集なので、隙間時間読書にピッタリ。うん、藤沢周平は時代小説の職人だとあらためて痛感。「夢うつつ」あさのあつここの本も短編集なのだが、ちょっと趣が異なっている。作者のあさのあつレビューわたしの日常は、毎日、ほぼ何事もなく過ぎていきます。今までの人生もそうでした。そりゃあ、恋もしました。失恋もしました(しかも、しょっちゅう)。転んで怪我をしたことも、ちょっと怖かったり、不思議だったりの体験をしたこともあります。死ぬほど恥ずかしいと感じたことも、滾るほど他者を憎んだことも、嬉しくて飛び跳ねそうになったこともあります。でも、どれも第三者から見ればささやかなもの。取るに足らない個人的な出来事に他なりません。波乱万丈なんて言葉からは、百万光年も隔たっているのです。平凡でごくごく普通で、ちっとも目立たない。換言すれば、退屈このうえないと言えるような日々を生きてきたし、これからも生きていくと思います。(中略)でも、でも、でも、この退屈極まりない日々が書き手としてのわたしの源泉なのだと、わたしはこのごろ気がつきました。わたしが曲がりなりにも物語を綴ってこられたのは、この日々があったからこそなのだと。一見、平凡と思えること、何の華もなく過ぎていく時間が実は物語の種を豊饒に内包しているのだと……やっと気がついたのです。その証を鮮明にしたくて手がけたのが今回の作品です。今まで、わたしが書いてきた作品群とはちょっと、いささか、かなり異質かもしれません。わたしの日常に生まれた小さな出来事、それは何気ない会話であったり、ささやかな自然現象であったり、取るに足らない事件であったりするのですが、そんなものがわたしの書く物とどう繋がっているのか、意識的に試してみようと思ったのです。前半のエッセイの部分を書くために、わたし自身さえ忘れかけていた記憶をまさぐってみたり、普段よりもちょっと神経を鋭敏にして、「わたしの日常」に網を張ってみました。無駄な会話や行動がごろごろしている中から、ちょっとおもしろそうな種を拾い出し、短い物語に仕立ててみたのです。骨は折れましたが、実に愉快でもありました。自分の書いた物語によって、自分の日々が照射されるのです。わたしの眼が、わたしの嗅覚が、わたしの身体が、わたしの心が捉えた世界が物語に結実していく過程を自分の内に生々しく感じることができました。祖母が教えてくれた優しく温かな手遊びを思い出したりもしました。どんな慎ましやかな、地味な生であったとしても、いやだからこそ、そこは物語の宝庫となりうる。十代のころと同じく、根拠のないままに自分を信じて書いていきたい。この一冊をしあげた今、わたしは、心底からそう思っています。 --本書プロローグより あさのあつここさんが、作品を書くときのヒントの見つけ方の種明かしのような作品。ということなのたが、やはり人気作家になる人は凄いなあと感心するばかり。私なども、種になる様なものは毎日ゴロゴロしているような気がするが、決してそれを小説に変換させることなんてできない。せいぜい、こんなブログに感じたことや気付いたことを書きとめることくらい。そういえば、私は本を友達にして生きてきたけれど、小説家になりたいと考えたことはなかった。私は身の程を知っているらしい。これからも、小説家が身をよじり、身を削るようにして書いた作品を楽しませていただこうと思う。
2020年07月27日
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Milkywayさんの日記で紹介されていたのを読み、図書館にリクエストをして読んだ。(リクエストとは、その図書館で所蔵していない時に他館からの相互貸借で取り寄せてもらうこと)上下二冊なので、返却期間の2週間では読み切れないかと思い、まず上巻を三分の一くらい読んだところで下巻をリクエストした。「あるときの物語」ルース・オゼキ著、田中文訳内容(「BOOK」データベースより)カナダの島に暮らす作家ルースは、海岸に打ち上げられたハローキティの弁当箱を見つける。中に入っていたのは、古びた手紙と腕時計、そして日記だった。日記の持ち主は、東京の中学生ナオ。彼女が書き記す日々の話に、ルースは次第に引き込まれていく。しかし、いじめに苦しむナオは自殺をほのめかす…カナダと日本、現在と過去で響きあう時間と存在。深い思索と笑いと哀しみに満ち、世界を虜にした壮大な物語。著者についてアメリカのコネチカット州で、アメリカ人の父と日本人の母のもとに生まれる。スミス・カレッジにて英文学とアジア研究で学位を取得したのち、文部省の留学生として奈良女子大学大学院で日本古典文学を学ぶ。1985年に帰国。ホラー映画のアート・ディレクターを経て、「世界の車窓から」をはじめとするNHK、フジテレビなどの日本のテレビ番組の制作に携わる。後に自身で映画を撮りはじめ、手がけた作品は各地の映画祭で上映されるなど高い評価を受けた。1998年にデビュー長篇『イヤー・オブ・ミート』を発表し、大型新人として注目を集める。2003年に第二作All Over Creationを発表。2013年に刊行した第三作にあたる本書は、有力紙誌に絶賛され、ブッカー賞最終候補となった。2010年に曹洞宗で得度。現在カナダのブリティッシュコロンビア州とニューヨーク市で暮らす。著者略歴 (「BOOK著者紹介情報」より)オゼキ,ルースアメリカのコネチカット州で、アメリカ人の父と日本人の母のもとに生まれる。スミス・カレッジにて英文学とアジア研究で学位を取得したのち、文部省の留学生として奈良女子大学大学院で日本古典文学を学ぶ。1985年に帰国し、ホラー映画やテレビ番組の制作を経て、映画を撮りはじめる。手がけた映画作品は各地の映画祭で上映されるなど高い評価を受けた。1998年にデビュー長篇『イヤー・オブ・ミート』を発表し、大型新人として注目を集める。2010年に曹洞宗の僧侶となる田中/文東北大学卒、英米文学翻訳家(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)いじめ、現代の日本の若者文化(?)、自殺、東日本大震災、世界とこの場所、生きる意味、命のつながり、魂の存在など、結構重いテーマを時空を超えての登場人物の関わりや相互作用の中で考察し、「今生きる」ことと結び付けてゆく。うーん、このテーマをこのような形で小説にするか…と、何度もうなってしまった。Milkywayさんは、「仏教的要素と量子物理学の要素の巧みな絡み合い」と書いていたが、残念ながら量子力学の要素については私にはピンとこなかった。しかし、その要素を除いても様々な考えが脳や心をグルグル回してくれる感じがした。ただ、上巻は少し間伸びがする感じでグイグイ前に読み急ぎたい感じではないので、上巻でつまんないと感じる人もいるかもしれない。でも、それではとてももったいない本だと思うので、これから読む人は絶対に最後まで読むことをお勧めしたい。この本の中で「有時(うじ)」という言葉が出てくる。私は禅宗や道元、「正法眼蔵」についても詳しくはないので、「有時(うじ)」の意味もこの本を読んで初めて調べてみた。解説を読みながら、ハイデガーの「存在と時間」を連想していた。しかし、ハイデガーも私にはわかったようでよくわからない理論であったので、思い出したというだけだ。(慶應通信で学んでいた時、ハイデガーを専門としている教授の講義を受けたのだが、はっきり覚えていない)記憶しているのは「世界内存在」という言葉で、私は正しい理解はできなかったけれども、「私の存在は世界内存在であり、私の世界は今ここが原点だけど、過去も全世界ともつながっているんだな」と勝手に納得していた。そして、言葉は忘れてしまっていたけれど、今の自分を大切に生きるということは、過去の歴史や世界の人々ともつながりがあるということを、年と共に感じることが多くなっている。こうやってブログを書くことは全く個人的な趣味と言えることだけど、結構時空を超えて多くの事象や人々と関わりあっていることであり、それは自分の存在にも間違いなく意味を感じられるということでもある。こう書いていて、以前にネットで無視されて怒りが爆発し事件を起こした人がいたと思い出した。また、ネットいじめや誹謗中傷をする人たちも大勢いることも。みんなきっと、自分の存在を確かめたいし、自分の言動が他者に影響を与えることを望んでいるからだろう。しかし、それでは「意味のある存在になった」とは言えない。刹那的な高揚感はあるかもしれないけれど、持続的な充足感にはつながらないだろう。ふと、「有時」があるなら「無時」もあるだろうと検索した。今見つけたのはこれ。「無事」とはいわば、求めなくてもよいことに気づいた安らぎの境地といえます。「無事」は「ぶじ」と読むようだが、作品の中のジコウの弟子の名前「ムジ」に使っているのだろうか。とりとめのない感想だけれど、とりあえずこれまでにしよう。【追記】最初に書いた時に、「有時」を「有事」と変換ミスをしていて、その後も「無事」にしたまま調べてしまった。今、それを訂正しながら「無時」で検索して見つけたのがこれ。「時無(ときなし)」さて、作者はどちらの意味をイメージしていたのだろうか。
2020年07月23日
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「ごきげんなライオン おくさんにんきものになる」文: ルイーズ・ファティオ絵: ロジャー・デュボアザン訳: 今江祥智&遠藤育枝BL出版 【出版社からの内容紹介】心やさしいライオンくんの成長と友情を描いた人気シリーズ最終巻。ある日、ライオンくんはけがをして、びょういんにはこばれてしまいました。ひとりのこされたおくさんライオンは、ライオンくんのかわりに、おきゃくさんをたのしませようとがんばります。どうぶつえんのなかまたちといっしょに、草花でたてがみをつくり、すてきなオスのライオンにだいへんしん!いちやくにんきものになったおくさんですが……。ライオンふさいの絆をあたたかくユーモラスに描いたお話です。デュボアザン夫妻、さいごの共作。「ごきげんなライオン」のシリーズは、好きな絵本が多い。この絵本で描かれているライオンは、「百獣の王」といわれるような強くて偉そうなライオンではない。心優しくてのんびりしていて、ちょっとまぬけで…、今までにも図書館で何冊か手に取って読んだ印象はそんな感じだった。今回、「100歳までに読みたい100冊の絵本」にも紹介されていたので、きっと良い絵本だろうと期待して借りてきた。しかし…この絵本は、ごきげんなライオンの奥さんが主人公だ。ケガをしてライオンが入院した後、お客さん達はおくさんには見向きもしない。立派なたてがみがない奥さんライオンは、お客さんもライオンとは思わないようだ。そこでおくさんは、あたりにある草花や木を顔の周りに飾り立て、華やかなたてがみのようにして、みんなの人気者になるというストーリー。おくさんライオンのお客さんへのサービス精神だとは思っても、私は雄ライオンの真似をして喜ぶような態度には少し違和感があった。ストーリーとしては面白いけど、どうもジェンダー肯定のようでひっかかる。どうしてこの絵本が、読みたい絵本になるのだ?と思って、ガイド本を改めて読んで少し納得。この絵本は、最初は「ごきげんなライオンのおくさんがんばる」として清水 真砂子さんの訳で出版されていたそうです。そのあたりの違いについて、本の中で書かれているページをスキャンして添付します。この説明を読んで、納得した。やはり翻訳は、その人や編集者の考え方によって印象が違うものになるのですね。今は絶版になっているという清水訳の「ごきげんなライオンのおくさんがんばる」を読んでみたいと思った。図書館でリクエストしてみよう。
2020年07月22日
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昨日、俳優の三浦春馬さんが自宅で自死したというニュースが流れ、とても驚いた。とても爽やかな好青年という印象で、私が彼を知ったのは「女城主直虎」の時からだった。あまり若い人向けの映画やドラマを見ないのでその後の活躍はよく知らないのだが、今回のことで流れた情報では、仕事は複数の予定や現在進行形のものがあり、仕事のし過ぎくらいの状況のようだった。積み重なってきた疲労が、心身のバランスを失うことになっていたのだろうか。子役のころから芸能界で仕事をしてきたから、「本音と建て前」を常に行きつ戻りつしてきたのかも。それを続けていると、自分を見失ってしまうことも多いのではないか。それでもきっと、プロとして仕事はキチンとやり、求められる「明るく爽やか」なイメージを崩さないよう頑張っていたのではないか。だからきっと、周囲の人たちは「どうして!?」と驚き、これから色々な憶測が流れるのではないだろうか。私も、これからも有望な才能あふれる人が亡くなったことはとても残念で悔しい。しかし、自死する人のほとんどは、ずっと人には気付かないような葛藤の時期が長く続き、何かのきっかけか、あるいは決意の末かはわからないが、自分なりの必然の行為なのだろうと思う。しかしそれはほとんどの場合、「うつ病、あるいは鬱状態」の症状としての決意と行動だと思う。 春先から、新型コロナウイルスで自粛生活が続いている。さらに、九州地方を中心とした豪雨災害で多くの人が亡くなり、今現在も苦しい状況の中を生きている人がいる。感受性が強く、社会や周囲の暗いニュースに人一倍心を痛めたり共感しやすい人は、その気分を必要以上に自分に取り込んでしまう傾向がある。ひょっとすると、三浦さんもそのようなタイプの人だったのかもしれないと思う。自分に厳しく人にやさしいタイプの人は、何かにつけて「まだまだ自分はダメだ」と思いがちだ。未来に対しても、明るい要素を見つけにくく、希望を抱くことが難しい傾向がある。そのような人は、実は現在はとても多いような気がする。 自分の自信を見失いがちで、今現在苦しい状況にある人は、三浦さんの死を自分に置き換えて考えてしまうのではないかと気がかりだ。 「あの才能あふれる三浦春馬さんが死んだのだ。自分が生きていてもいいのだろうか」「あの人でさえ希望を見いだせなかったから死んだのだ。自分が希望を見つけられるはずがない」「あの人に比べたら、自分はゴミのようなものだ。社会のお荷物だ」 そんな思いが心をよぎってしまわないかととても気がかりだ。そんな思いが心をよぎること自体が、すでに「鬱状態」であることの証拠です。明らかに、平常心を失っていることの証明です。 今、三浦さんのご家族や友人、仕事仲間の人たちがどれほどの衝撃を受けているかを想像してみてください。「そんな辛い状況だったことに、自分はなぜ気付けなかったのだろう」「あの時、自分がもっと彼の悩みを聞いてあげていたなら…」もしも家族であれば、その苦しみは想像以上です。そして、その苦しみはずっと長く続きます。一人の死は、周囲の多くの人の心を想像以上に傷つけるし、その傷はきっと完全に癒えることはないでしょう。 もしも、あちらの世界に行った方が家族や社会のためになると感じていたら、それは間違っています。そう感じてしまうことは仕方がないですが、その間違いにどうぞ気付いてください。 きっと三浦春馬さんは、今頃頭を掻きむしって後悔しているはずです。「自分はこれほど家族や仲間を嘆かせることなんて、想像していなかった」と。「できることなら、今すぐ生き返ってみんなに謝りたい」と思っているかもしれません。死んでから後悔しても、それは遅いのです。 「死んでしまいたい」という気持ちがよぎったら、「自分は鬱状態かもしれない」と思ってみてください。「うつ状態だから消えたくなるのだ。これは症状なのだ」と考えて、できれば心療内科とかカウンセリングのドアを叩いてみてください。今なら、「オンライン診療」や「オンラインカウンセリング」があるかもしれません。ただし、もし受診して医師やカウンセラーと話をして、もっと落ち込む気分になるようなら、それはあなたと相性が悪いのです。ですから、その医師やカウンセラーの言葉が絶対だと思わないでください。 先日、「カウンセリングを受けると落ち込む」という人の話を聞きました。なんだか自分が責められているような気がするというのです。そんな時は、迷わずにそのカウンセラーに見切りをつけましょう。 ちょっと話が飛びましたが、どうぞ三浦さんの死に影響を受けて、「自分なんか生きていても意味がない」なんて思わないでください。間違って死を選ばないでください。あなたが亡くなってしまったら、悲しみ傷つく人はあなたが想像するよりずっと沢山いますから。だから辛くても、何とか気持ちを切り替えて、今日と明日は生きてください。あなたが好きな人たちを、悲しませるような選択はしないでください。
2020年07月19日
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17歳の棋聖が誕生した。将棋のことはまったくわからない私も、藤井さんが話題になってから彼の動向には注目するようになった。北海道での二日間にわたる木村王位との対局を制し、一日明けただけでの昨日の対局。棋士って、こんなハードスケジュールをこなすのかとビックリしている。コロナのためにスケジュールが詰まってしまったのだが、そんな中を疲れも見せずに棋聖のタイトルを取った藤井君は、本当に大したものだと思う。もうすっかり和服にもなじみ、その落ち着きには風格さえ感じられる。彼は本当に17歳なのか?とにかく、あまり楽しい話題のない昨今、爽やかな風を感じるニュースだし、これからの長い棋士人生の大きなスタートといえるだろうし、将棋の歴史に残る人になるのだろうから、記録のために残しておこう。藤井聡太棋聖 一夜明け会見全文「将棋は難しいゲーム。まだ分からないばかりなので探究心を」7/17(金) 9:47配信 スポーツ報知 将棋の藤井聡太棋聖(17)が17日午前、史上最年少タイトル獲得から一夜が明け、大阪市の関西将棋会館で行われた会見に臨んだ。 以下、一問一答全文。 ―一夜明けて、あらためて棋聖獲得の感想を。 「まだ棋聖獲得について実感はないですけど、これから徐々に実感する場面が増えてくるのかなと思います。渡辺先生と5番勝負を戦えたことは自分にとって良い経験になったのかなと思います」 ―家族に連絡は。 「電話で家族に報告しまして、喜んでもらえました。まあ…でも結果は知っているのかなと思いますので、自分からは特に何も(笑)。母には『よかったね』と言ってもらいました」 ―師匠とも話を? 「昨日の会見に同席してもらいましたけど、喜んでもらいましたし、竜王戦で師弟戦(藤井棋聖の勝利)があったんですけど、竜王戦も頑張ってね、と言われました」 ―色紙に「探究」と揮毫した思いは。 「タイトルを獲得できましたけど、将棋は難しいゲームです。この立場になってもまだまだ分からないばかりだと思いますので、これからも探究心を持って盤上に臨みたいという思いを込めました」 ―棋聖と呼ばれて。 「慣れない感じはしますけど、これからタイトルホルダーとしての立ち居振る舞いなども勉強していけたらと思っています」 ―5人目の中学生棋士としてのタイトル獲得に得て 「そのことについてはあまり…自分としては意識していなかったですけど、過去に中学生棋士になられた先生は素晴らしい実績を残された方ばかりですので少しでも近づけたのはよかったなとは思います。これからも先輩方の姿勢を見て、自分としても成長できたらなと思います」 ―17歳でのタイトルは早かったか遅かったか。 「棋士になった段階で、タイトルを目指していたんですけど、なかなか遠いものでもあったので。棋士になってからの3年半で経験で成長できたことが今回の結果につながったのかなとは感じています」 ―王位戦(木村一基王位に挑戦中で2勝0敗とリード)では次局から棋聖として指すことになる。 「ここまで王位戦を2局指して、木村王位の力強い指してに苦しめられる場面も多かったので、そのあたりを反省して第3局以降、良い内容の将棋を指せたらと思います」 ―将棋を指す上で、相手は関係がないという印象も受ける。 「将棋は盤上を通したコミュニケーションという面があります。直接的ではないかもしれませんけど、相手の指し手を見て、対局者によってそれぞれいろいろな発見があるのかなと思います」 ―どこがいちばん成長した部分と思いますか? 「プロになってからトップ棋士の方と対戦することができて、自分の課題を見つけることができたと思います。中盤の指し回しなどはデビュー当時から比べると成長できたのかなと思います」 ―将棋をしている子供たちへのメッセージを。 「自分としては夢中に取り組んで来たのがここまでにつながったと感じているので。好きなことに全力で取り組むことを大切にしてほしいなと思います」 ―タイトル戦が続くが、大勝負に向けての思いは。 「棋聖戦でも王位戦でも。渡辺先生、木村先生に番勝負で教われるのは貴重な機会。シリーズを通して成長したい思いはありました」 ―今後の課題は。 「自分の将棋はまだまだ課題が多いかなと思っているので、どのような局面でも最善に近づけるような対応力を伸ばしていきたいなと思っています」 ―昨日の将棋について、△3八銀の局面のあたりが決め手に。 「中盤は渡辺先生に厳しく攻められました。(△3八銀の局面は)受けに回る手もあったと思いましたけど、うまく受かる手が見えなかったので、先手玉に嫌味をつけて勝負できればというふうに考えていました」彼の師匠の杉本八段との出会いは、藤井棋聖の才能を最大限に開花させることになったのではないかと思う。次の記事を読みながら、心がとても温かくなった。師匠の杉本昌隆八段、藤井新棋聖を祝福「指導はクリームソーダの飲み方ぐらい」特別メッセージ寄せる7/17(金) 7:00配信 聡太君、藤井七段、新棋聖おめでとう―。藤井聡太新棋聖(17)の史上最年少タイトル獲得を受け、師匠の杉本昌隆八段(51)がスポーツ報知に特別メッセージを寄せた。小学1年時に出会い、小4からは師匠として天才の成長を見守り、支えてきた。クリームソーダの思い出、師弟戦での感情、将来への期待まで思いを語った。 出会った日のことは今もよく覚えています。藤井新棋聖はまだ1年生で、4枚落ち(上位者が飛車角香なしで戦うハンデ戦)で指しました。でも、駒に躍動感があって派手な大技を狙ってくる。必ず一局に一手は私も気がつかない手を指す子でした。幼稚園時代の(同じ愛知県出身の)豊島(将之)さん(現竜王・名人)を見た時と似ていた。とにかく正確に指す豊島さんとタイプは違いますけど、衝撃は似ていました。 4年生の夏、奨励会を受験する前、お母さんと彼に呼ばれて「コメダ珈琲」に行ったんです。お母さんは藤井に「ホラ、自分で直接言いなさい」と…。何を頼まれるかは分かっていましたけど、藤井は「奨励会試験を受けたいので…弟子にしてください」と言ってくれました。緊張した様子で目も合わせられずに。 師匠になることが決まって、私とお母さんが頼んだアイスコーヒーと藤井のクリームソーダが運ばれてきた。すると、藤井はいきなりアイスをブクブク沈めようとするんです。お母さんが注意しようとしたので、私は「お母さん、もう私が師匠ですので」と制し「いいか藤井、いきなりアイスを沈めるとあふれちゃうだろう。アイスを食べるか、ソーダを飲むかしないとダメだ」と指導しました。思えば、私が彼に教えられた数少ないことのひとつです。 師匠になることは、出会った時からずっと意識していました。あまりに大きく、自分には理解のできない才能ですから、育て上げられるのかという心の葛藤はありました。藤井が憧れている谷川浩司九段にお願いしようかとも考えましたし、まだ10代の豊島さんにも冗談半分で「すごい子がいるんだけど、師匠に興味ない?」とも言いました。「いや、杉本先生が師匠になられるのがいいと思います」と言ってくれましたけど。 過去に2度、師弟戦に臨みました。2018年の最初の時は追憶の時間でした。一緒に東京まで武者修行に向かったこと、一緒にラーメンを食べに行ったこと…。 先月の2度目は竜王戦3組決勝という大舞台だったので、完全にライバルとして戦いました。でも途中、彼が広げた扇子に私の揮毫(きごう)「不撓(ふとう)不屈」の文字が見えた時、師匠としての感情が生まれました。彼は何も考えていなかっただけかもしれないですけど…。 藤井新棋聖がどんな棋士になっていくか。少なくとも複数タイトルを数十年にわたって保持する存在にはなると思います。 出会ってからの10年で全て変わったように、10年後には藤井も結婚していたりするかもしれないけど、今のマイペースなところは変わらないと思います。 羽生(善治)さんは第一人者になってから他業界の方々と対談したり、チェスなどいろんな文化に興味を持って、棋士の存在を世間に広めてくださいました。藤井は同じようなタイプ…にはならないと思います。今のまま、将棋一筋に生きていく姿を思い描いています。(将棋棋士八段)
2020年07月17日
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この日は、Tさんとシネマ歌舞伎鑑賞のために札幌へ予想以上に奇想天外で楽しく、かつ歌舞伎ならではの芸もてんこ盛り。気分が低迷している時には、最高の演目だと思った。自粛生活続きと、周囲の空気の影響を受けやすいTさんは、このところ主治医に入院を勧められるくらい気持ちが落ち込んでいたという。映画後に色々と話をして、そこまで調子が悪かったのだと知り、この日この映画を観て本当に良かったと思った。シネマ歌舞伎「東海道中膝栗毛」【作品紹介】〈シネマ歌舞伎 制作スタッフ〉監督:浜本正機撮影監督:鈴木達夫サウンドデザイン:瀬川徹夫音楽:富貴晴美原作:十返舎一九構成:杉原邦生脚本:戸部和久脚本・演出:市川猿之助お馴染み弥次さん、喜多さんの珍道中記が早くもシネマ歌舞伎として登場。【東京】歌舞伎座「八月納涼花形歌舞伎」で上演された本作は、日本に留まらずラスベガスまで及ぶ2人の旅を描いています。題名にある「膝栗毛」とは、徒歩で旅行をすることを意味しており、享和2 (1802)年より刊行された滑稽本『東海道中膝栗毛』は、主人公2人の道中記を行く先々の土地の風俗を交え面白可笑しく書かれ、ベストセラーとなりました。 歌舞伎での初演は、昭和3(1928)年に木村錦花が脚色し、初世市川猿翁(当時 猿之助)と六世大谷友右衛門により歌舞伎座の夏芝居として大評判をとりました。流行を取り入れ、時代を風刺した内容は肩が凝ることなく楽しめます。以降、様々な脚本・演出により上演されてきましたが、新たに手掛けられた本作も原作の世界観を生かしながら、真面目に生きてこなかった弥次喜多と必死に目標に向かって進んでいく子供たちがともに伊勢へと向かっていきます。多彩な顔ぶれによる出演はもとより、宙乗りや本水の立廻りなど歌舞伎ならではの趣向が満載の舞台は客席を大いに沸かせました。その話題の公演にシネマ歌舞伎ならでの編集が様々加えられ、理屈無しの傑作喜劇をお楽しみください。あらすじ家督を守り、母の病気平癒を伊勢神宮に願うため、信夫の領主梵太郎と御伴の政之助は、不安を口にしつつも決意を新たに旅立っていきます。一方で、冴えない弥次喜多の2人は、長屋へ帰って一杯やっているところへ借金取りが現れるので大慌て。暗闇の中、偶然にも大金を手にし、お伊勢参りに向かうのでした。東海道の茶屋で弥次喜多の2人と梵太郎主従が出会い、4人で旅をすることに。道中で一行は、ラスベガスに辿り着いたり怪奇現象や盗賊の一味、闇金にも襲われます。艱難辛苦を乗り越えて、やっとの事で伊勢参りを果たすのですが・・・配役弥次郎兵衛:松本 幸四郎喜多八:市川 猿之助盗賊白井髭左衛門:市川 右團次天照大神:市川 笑也十六夜:中村 壱太郎茶屋女お稲実は女盗賊三ツ大お新:坂東 新悟五日月屋番頭藤六:大谷 廣太郎信夫の若君 伊月梵太郎:市川 染五郎供侍 伍代政之助:市川 團子読売屋文春:市川 弘太郎老船頭寿吉:市川 寿猿大家七郎兵衛:松本 錦吾役者/女札親師毬夜:市川 春猿石油王夫人麗紅花:市川 笑三郎役者/用人山田重右衛門:市川 猿弥闇金利太郎:片岡 亀蔵アラブの石油王亜刺比亜太:市川 門之助五日月屋女房お綺羅:市川 高麗蔵大家女房お米:坂東 竹三郎劇場支配人出飛人/奉行大岡伊勢守忠相:中村 獅童この日、JRで札幌駅に降りた時、ずっと気になっていたIさんの姿を見かけた。ご実家が火災となり、ご両親を失い、ご自分も火傷による後遺症を抱えてしまい、お仕事の方もなかなかままならない状況らしいとのことで、「どうなさっているだろう」とずっと気になっていた。思いがけず姿を見たので、改札を過ぎてから見失わないようにと後を追った。どう声をかけようなんての構えはまったくなくて、咄嗟の行動だった。時間もなかったので、ちょっと立ち話をした程度であったが、以前とあまり変わらないような表情と話し方だったので、「あ、大丈夫だな」と心から安心した。しかし、未だに困難な状況にある彼女に対して、少し配慮が足りなかったかと後で反省。時間があればもう少しお話が出来たのにと、ちょっと心残りでもあった。でも、同行したTさんの状況を考えると、やはり一緒にお話はしない方が良かったかもとも思う。Iさん、いつか以前のようにお元気な演奏が聴くことが出来る日を待っています。
2020年07月15日
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腎臓結石の二回目の除去手術が無事終わり、めでたく本日退院となった。しばらく入院していたので体力低下が心配だったが、思ったより元気でホッとする。先週、母の姉(96歳)が施設入所したということを話すと、「あー、姉さん可哀そうに」というのが第一声。叔母は、コロナ騒動になる前は週三回デイサービスに通っていたのだが、居住地で新型コロナ感染者が増えたためにデイサービスに行けなくなり、自宅もバリアフリーではないために動くことが激減し、自分で歩くことができなくなったという。その後、自宅で倒れて救急搬送したりして、結局自宅では暮らすことが困難になり、急遽施設入所することになったとか。今は、施設に入ったら家族がお見舞いにも行けない。叔母のような高齢者は、全国で随分増えているだろう。義姉も、最期の時を家族に看取ってはもらえなかった。高齢まで頑張って苦労を乗り越えて生きてきた人が、最期に家族にも会えない状態になるのは本当に切ない。いつこの状態が収束するのか見当もつかない。九州方面はまだ雨が続くようだ。平常な生活はいつできるようになるのだろうか。
2020年07月13日
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ずっと市営住宅暮らしだった次男が、畑の近くの空き家(土地付き)を買うことになった。冬ごろからその話はあったのだが、持ち主が高齢で施設入所しているため、コロナ騒動もあって代理人を挟んでの話がなかなかまとまらなかったのだ。やっと決まったと聞いたので、畑の手伝いがてらそ家を見に行く。田舎の畑や田んぼの中にあるその住宅は築40年くらい。リタイアして戻ってきた夫婦が建てたらしく、こじんまりとした平屋の家である。独身の次男には十分である。持ち主が施設に入ってから5年くらい空き家だったので、住むにはリフォームが必要である。きっと、土地と家の購入費用以上のリフォーム代がかかるはずだ。それにしても、長男が今の土地と家を買った時も思ったが、本当に安い。それでも買う人がいなければ一銭にもならずに安くても固定資産税がかかるのだから、買う人がいるなら手放すしかないのだろう。その土地も、多分明治期に開拓のためにどこかから移住してきて、苦労して開いた場所だろう。周辺は田畑があるが、見える家は廃屋だという。便利な場所に家を建てて、通いで農業をしている人が多いらしい。元気なうちは自動車で移動できるが、高齢になったらどうなるんだろうとふと思う。ぶどう畑は、開花も終わりほとんどが結実していて、これが全部実ったら結構収穫できるはず。でも、なかなかそうはいかないのが自然の厳しさであるが、「とにかくベースはできたから一安心」と次男の顔は明るい。本州の豪雨の被害を見聞きすると申し訳ないが、とにかくホッとしている。
2020年07月12日
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96歳で亡くなった夫の長姉の四十九日。自宅でお経をあげてもらった後、集まった身内で会食。20年くらい前までは、お盆やお正月に夫の親族が集まることが多かったのだが、姉たちが高齢になり、甥や姪も成人して結婚しそれぞれ家族を持つようになってからは、甥姪を含めて集まることはなくなってしまった。だから、義姉の孫二人と会うのも本当に久しぶりだ。二人は本州に住んでいるので、葬儀には間に合わなかった甥も今回は来ることが出来た。会食後にお墓に納骨したのだが、この日はとても良く晴れて気温も高かった。姉の夫は47歳で亡くなっているので、姉は夫の倍生きたことになる。きっとあちらの世界で、「やっと会えたね」などと話しているのではないだろうか。
2020年07月11日
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本州では集中豪雨被害で大変な状態なのに、北海道はとても良い天気のこの日、急に友人とドライブとランチに行くことになった。行き先は、苫小牧のイコロの森。ランチはその脇にある「ガーデンカフェチセ」。「イコロ」はアイヌ語で「宝物」、「チセ」は「家」の意味。森の中の隠れ家のようなカフェであった。ランチはラザニアとサラダのセット。食事のあと、イコロの森を散策したが一つ難点が…。千歳空港の近くで、頭上を飛行機が飛ぶ。さらにこの日は、訓練なのかスクランブルなのか、戦闘機がものすごい爆音で頭上を飛ぶ。去った後は一時的に難聴になってしまったような感じがするくらいだ。あの爆音がなければ、自然満喫できる素敵な場所なのにと、ちょっと残念。その後は、少し足を延ばして支笏湖のポロピナイへ。ポロピナイは、中学・高校と学校でのキャンプをやった懐かしい場所。前回来た時は雨模様だったけれど、この日は穏やかな湖面に日の光がキラキラと輝いて本当に美しかった。まだチップをとることが出来る時期のようで、何人もの釣り人が湖岸や釣り船で釣っているようだった。今年は豊漁なのかな?
2020年07月09日
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家系図ソフトが半額というお知らせがメールで届いた。以前から、自分の家系を少しずつ整理していたので、これを使えば便利そうだと購入。以前に、無料のソフトを使ってみようかと考えて少し調べたのだが、「これでいこう」と思わなかったのだ。今回は、「あ、いいかも」と衝動買いに近い。で、使ってみたらなかなか使い勝手が良い。印刷した時にやたら大きくなりそうでそれが難点ではあるが、まあいいだろう。私の知っている高祖父までのものを入力してみたが、今までは明治以前のものは西暦に直さないと時系列がよくわからなかったのだが、今回その作業で発見したことがいくつもある。残念ながら明治期に北海道に移住する前のことはわからないので、残っている過去帳で調べるしかないのだが、これは私の手に負えない。亡くなった人の俗名や死亡時の年齢、戒名はわかるのだが、家族内の関係性がわかりにくい。というのは、私の実家は曾祖父の代までは家督相続の時に名前も襲名してしまうので、どれが親なのか子なのかわかりにくいのだ。さらに、昔は子どもが生まれても死ぬことが多かったので、長男と思っていたが実は三男、ってことも多い。丁寧に死亡年をたどればだいたいのところはわかるのだろうが、もうあきらめの境地。私の子ども達に自分のルーツがだいたいわかればそれで十分だろう。
2020年07月08日
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東京都は日本の首都なのだから、一応結果を記録しておくことにする。小池百合子氏圧勝で再選 都知事選挙 任期満了に伴う都知事選挙は5日投開票され、無所属で現職の小池百合子氏(67)が有効投票の約6割を獲得し圧勝、再選を果たした。投票率は55%。前回より4.73ポイント低かった。 小池氏は366万票を獲得。一方、立憲、共産、社民の支援を受けて挑んだ無所属新人の宇都宮健児氏(73)は84万票にとどまり、れいわ新選組の新人で元参院議員の山本太郎氏(45)も65万票に、熊本県元副知事で日本維新の会から推薦を受けて挑んだ無所属新人の小野泰輔氏(46)も61万票にとどまった。今回の選挙には22人が立候補していた。 小池氏はコロナ対策へ医療機関への支援や第2波に備えた補正予算への取り組みを述べるとともに、東京オリンピック・パラリンピックについては規模を縮小・簡素化する方針を示している。 都知事を巡っては第18代都知事の猪瀬直樹氏が徳洲会グループからの不透明な借入金問題で辞任、次いで当選した19代都知事・舛添要一前都知事も政治と金を巡る公私混同疑惑で辞任に追い込まれるなどしていた。小池氏には政治と金を巡るスキャンダルもなく、コロナ対応、東京オリンピック・パラリンピックへの対応などを踏まえ、都民の間にトップを変えるより続投させるべきとの考えが働いたとみられる。 立憲民主党の長妻昭選対委員長は「力が及ばなかったことを深くお詫びいたします」と陳謝したうえで「敗因を分析した上で、今回の都知事選挙で培った、市民と野党各党との協力体制を財産とし『お互い様に支え合う社会実現のため』来るべき総選挙に備える」とする談話を発表した。(編集担当:森高龍二)22人も立候補した上に、高齢者の部類になる宇都宮氏が立憲、共産、社民が推していると知った時点で、もう小池さんだろうと思ってしまった。さらに山本太郎氏が立候補では、野党側は小池さんへの批判票にもならないだろうとは、部外者の多くは感じていたのではないか。小池さんは直前に出版された「女帝」での色々な批判ネタも、それこそ女帝には何の影響も与えなかったらしい。私はこの本は読んではいないし読む気もないが、「出る杭は打たれるが出すぎた杭は打たれない」という言葉を思い出してしまった。私はまともな女性政治家がもっと増えてほしいと願っているが、男社会の真似はしないでほしいとも願っている。その意味で、小池さんにはまっすぐに正直に頑張ってほしいと願うのみ。今までのことは仕方がないが、これからは自分の中の弱さやコンプレックスを認めつつ、それらを抱えて生きている人々への優しさを、もっと前面に出していって欲しいと願うばかりだ。7日の天気 全国的に雨や雷雨 九州は土砂災害などに最大級の警戒をまだまだ九州や西日本を中心に豪雨が続いているようだ。最終的にどれほどの被害になるのかと思うと、恐ろしい。これはもう、「梅雨前線」なんて生やさしいものではないし、このところ毎年のように各地で甚大な被害が起きている。本州は山間の集落や町が多い。これからの日本列島はどうなっていくのだろう。トランプ大統領の支持率低下、新型コロナ感染増加地域で顕著7/7(火) 10:16配信お願いだから、もっと下がってください。同時に、安倍内閣の支持率も下がって、仲良しのお二人そろって退陣してほしい。
2020年07月07日
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この絵本を借りてきていながら、ズルズルとブログアップしなかった。期限が近いので、今日こそ書こう。「つるにょうぼう」矢川 澄子 (再話), 赤羽 末吉 (画)【出版社からのコメント】幻想的な美しさにあふれる鶴女房のお話の決定版。若者と鶴との哀しい物語が、数ある再話を凌駕する洗練された文章と目もあやな画面ですばらしい絵本になりました。一般的に「鶴の恩返し」としての物語の一つのバージョンという絵本。この昔話を「夕鶴」として舞台化したものは、結構有名。この本を読んでいて思い出したのが、中学時代の文化祭で演じられた「夕鶴」。学年発表だったのかクラス発表だったのかは定かではないが、主演した二人は別のクラスだったから、ひょっとすると演劇教育(?)に熱心だったS先生のクラス発表だったのかも。文化祭の思い出で、自分が関わらなかったもので印象に残っているのはこの舞台だけだ。私は体育館の一番後ろで見ていたような気がするが、その時初めて「演劇」というものを見たし、それを同じ年の友人たちが演じていることや、その感情込めた演技にとても感動した記憶がある。さてこの絵本の感想。まず印象に残るのは赤羽末吉の絵の素晴らしさだ。物語の内容やことばと絵が、想像の世界をさらに豊かにしてくれる。これは、絵(というよりそれぞれが一枚の日本画)を見ながらでなくては絵本の価値が半減する。赤木末吉は本当に沢山の絵本を手掛けているが、手に取って読んだ絵本もあるけれど、まだ見ていない絵本も多い。この原画はどこにあるのだろうと思ったら、「ちひろ美術館」に全部寄贈していたとか。この美術館には日本と世界の絵本原画27,200点が収蔵されているという。機会があったら、一度行ってみたいと思う。さてそのお話の内容だ。鶴と人間の結婚だから、「異類婚姻譚」といわれるジャンルで、このような話は世界各国に沢山あるらしい。どうしてそのような話が出来上がるのかの起源は別として、どうもこのような話では日本の男は情けないことが多いような気がする。「つるにょうぼう」も、どんどんお金への欲にとらわれ、ついに「見ない」と約束したのに見てしまうなんて、情けないとしかいいようがない。あるいは、異界からの無理難題に男どもが人身御供として女性を提供したりなど、女性から見たら理不尽な話が多いような気がする。でも、この「つるにょうぼう」では、この鶴は優しく助けてくれたよ平に本当に心惹かれて恩返しをしたいと思ったのだろうし、お金に目がくらんで無理を強いる彼を悲しいとは思いながらも、やはりその願いをかなえてあげたいと思ったのだろう。そこには、「自分の身はどうなっても願いをかなえてあげたい」という無私の愛があったのだと思う。約束を破って自分の姿を見てしまったよ平から去ることも、彼への怒りで見捨てるというよりは、多分命が尽きることが近い自分を見せないようにという、もう一つの愛の形かもしれない。なんて、鶴の「愛」を感じてしまうのは、やはり赤羽末吉の絵がそう感じさせるのかもしれない。
2020年07月06日
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沈む民家、むき出しの山肌 豪雨爪痕各地に 熊本上空7/4(土) 21:43配信 時事通信 熊本県南部を襲った豪雨の影響で川が増水し、民家や田畑は一面が茶色の水につかり、茶色の山肌があちこちでむき出しになっていた。 4日、大規模な浸水や土砂崩れで民家などが巻き込まれた被災地の上空をヘリコプターで飛んだ。 午後4時ごろ、熊本県人吉市温泉町付近。球磨川の増水で、民家や田畑の広い範囲が茶色の水で覆われていた。その周辺では、赤い鉄橋の一部が、増水し濁った川の中で倒れていた。既に流されているのか、残りは確認することはできない。他にも多くの橋が寸断されているのが見えた。 芦北町の「東海カーボン田ノ浦工場」の敷地内では浸水し、屋根から高々と黒煙を上げていた。周囲には消防車が見えたが、消火活動を行っている様子ではなかった。 同町では複数の山で土砂崩れが起き、民家を押し崩していた。救助隊員が周辺を捜索している様子が確認できた。 津奈木町でも土砂崩れが発生。押しつぶされ、骨組みだけとなり、原形をとどめていない民家も多かった。流れてきた土砂と木で現場はめちゃくちゃになっていた。 14人が心肺停止で見つかった球磨村の特別養護老人ホーム「千寿園」。周囲は広範囲で浸水し、救助隊員らは建物付近でゴムボートで救助に当たり、海上保安庁のヘリが人を引き上げていた。 このところ、梅雨の時期には毎年のように「線状降水帯による集中豪雨」という言葉を聞いているような気がする。場所は違えど、河川の氾濫や山崩れ、土砂崩れの映像もよく見るようになり、びっくりよりも「またか」という気持ちになってしまうのが悲しい。その要因は温暖化の影響も大きいのだろうが、農林業で守られてきた山林や田畑が、特に本州では農業後継者が減ったことによって荒れてきたことも要因ではないかと思っている。これは、専門家もこのような時にはよく指摘していることだ。農地や山林の保全は、日々の営みの中で地道に続けなくてはならない。そんなことではどうにも止められない被害であることもわかるが、日本人はもっと農産物の自給率を上げてゆかなくてはいけないと、常々感じている。世界ともお付き合いをしなくてはならない時代だともわかっている。お互いに災害に見舞われた時には、生きるための食べ物を輸出入することは大切だ。でも、日々の生活の中では、地産地消ということで食べてゆくことが大切で、そのためには田畑や山林の手入れや活用が不可欠だ。私自身は、自給自足とは程遠いけれど、庭の片隅にミニトマト、ニラ、小松菜、しそ、ラディシュなどを植えている。実家はもっと本格的でハウスがあるので、トマト、きゅうり、さやえんどう、ナス、ブロッコリーなどや、畑ではアスパラ、ジャガイモ、ヤーコン、トウモロコシ、黒豆(主に枝豆で食す)、などなど、こう書いてみても色々作っている。妹は、以前は母の指示で嫌々の部分もあったけれど、今は自分の楽しみでもあるようだ。少しの土地があれば、育てる楽しみや健康増進のためにも、自給率向上に少しは寄与できるのではないか。自分の口に入れるものだから、必要以上の農薬は使う気になれない。自然なつくりの野菜を食べつけると、お店で買う時にも色々と気をつけるようになってくる。今の私のこだわりは、同じものがあったら、少しの価格差なら地元のものを買う。加工品は輸入国には気をつける。絶対に購入しない国は今のところ二国。でも、農産物でも肥料や飼料、農薬などがどのように諸外国から入ってきて使用されているのかわからないので、厳密には間接的には口に入れているのはどうしようもない。日本中の人が少しずつ気をつけたら、この豪雨災害を少しでも食い止める力にならないものだろうか。
2020年07月05日
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ブログリンクしているMilkywayさんのブログ「女性が参政権を得るまで:世界各国での物語」は、世界各国の女性たちの参政権を獲得するまでの苦難の闘いの歴史を簡潔にまとめてくださっている。私たちが当たり前の権利のように感じている参政権は、あだやおろそかにしてはいけないものだと自覚しなくてはならないと思う。ということで、全文をコピーさせていただく。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・このところ、国政選挙でも地方選挙でも、投票率の低さが話題になる。今週末は、東京都知事選挙の投票日だ。一人でも多くの人が選挙に参加して、自分の考えを選挙で反映してほしい。投票率が少しでも高いことを願い、この記事を書く。選挙権をもっているというのは、ごく当たり前のことのように我々は思っている。だが、実は選挙権は、命がけで得てきたものなのだ。その歴史を見ると、参政権を得るまでには、命がけで困難を乗り越えなければならなかったことがわかる。特に、女性が参政権を得るまでには、侮辱、拒絶、差別、暴力、弾圧、逮捕されて監獄に入れられるようなことまで経験した。それだけではない。家を襲撃され、生活の全てを失ったり、殺されたり、家族を失った人たちまで出た。参政権は、こうした命をかけた闘いを乗り越えて、ようやく手にしたものなのだ。こうした女性参政権獲得までの世界各地での歴史を、分かりやすく簡潔に著した本があるので、紹介する。これは、大人にも、特に女性たちに、そして将来投票権を持つことになる小学生高学年以上の子どもたちに、ぜひとも読んでもらいたい本だ。書名 Rebel Voices作者 Louise Kay Stewart 出版社 Hachette Children’s Books日本では翻訳がないので、内容をかいつまんで紹介しつつ、自分の思いも記す。【前書き】この本は、“私たちはだれかの娘というだけじゃない。だれかの妻だけでもない。私は人間。命を持った一人の人間“という2016年、アメリカの大統領選挙中に女性たちの間で歌われた歌で始まる。2016年になっても、こうした歌が歌われていること自体、まだまだ平等も、公平も行き渡っていないのだと改めて思わされる。何百年もの間、女性たちは選挙権をもっていなかった。女性たちに認められていたのは、家にいて洗濯と掃除と子育て、あるいは畑仕事、でなければ工場で働くだけだった。自分たちに関係する規則も法律も、何もかも全て男性たちが決めていた。女性にはそれに関わる権利が認められていなかった。自分たちの意見を反映させる選挙権がなかったからだ。【女性が参政権を求める動きの始まり】19世紀の終わりになって、ようやく女性たちは声をあげ始めた。世界中のあちこちで、投票権を求める署名活動や、嘆願書、集会や、行進が始まり、暴動まで起きるようになった。だが、それは、運動によって女性たちが受けた苦難の始まりでもあった。そうした世界各地で繰り広げられた女性の参政権を求める運動には、その国らしさが滲み出ているし、多様な作戦も見てとれる。いくつかの国を紹介しよう。まずは、【ニュージーランド1893年 世界で初めて女性が参政権を得た国】ニュージーランドは、最近とみに、その民主性が注目を浴びている。まず、2013年。同性婚を認めようと、熱意とユーモアを込めたスピーチが議会でなされ、その名演説は全世界を駆け巡った。 https://www.youtube.com/watch?v=S1gca7hAwIMコロナ対策では、世界で最初に感染封じ込めを果たしたのは、38歳の女性首相。彼女は任期中に出産。産休・育休をとった世界初の政治家となった。こうした民主的国家の模範とも見えるニュージーランドでも、女性が選挙権を得られるまでの道のりは過酷だった。その苦闘が実って、ニュージーランド原住民のマオリ族の女性と、ヨーロッパからの移民の女性の二人が、投票権を手に入れたのは1893年。これが、世界で初めて、女性が選挙の投票権を手に入れた年だった。【1902年、オーストラリア】 女性の選挙権を求める動きは、当然ニュージーランドから最も近い岸オーストラリアに届いた。選挙権を求める人々は、6ヶ月もの間で3万3千人もの署名を集め、その署名を綿の布に貼り付けて、260メートルもの長さの署名布を、国会まで引きずる行進をした。だが、女性たちが投票権を得る、そして、議員にもなれるという被選挙権の両方を得ることはできなかった。本当の意味での参政権を得るには、さらに10年もの月日を要したのだ。民主国家といえば、北欧の国々。女性が参政権をえるための苦闘を紹介する。【ノルウエー 1913年】女性たちの選挙権獲得のために、立ち上がったのは一人の女。彼女は何年も新聞や雑誌に記事を書き続け、さらにこの運動を展開するための組織を作り、多くの困難の末、1913年、ついに彼女は願いを叶えた。【デンマーク 1915年】1887年、2万人もの女性たちが選挙権を求める嘆願書に署名。だが、実際に選挙権を得られたのは、この署名運動から28年後の1915年。この日、首都コペンハーゲンの大通りを、お祝いの白いドレスを着た1万2千人の女性たちが埋め尽くした。【アイスランド 1915年】アイスランドでは、行進の代わりに馬にまたがって活動を続ける女性が。彼女は、くる日もくる日も、馬にまたがり、投票権を得るための運動に参加してほしいと、女性たちを説得して回った。その運動が実って、彼女がようやく鞍から降りられたのは、1915年。続いて、【イギリス 1918年】民主国家といえばイギリス。だが、奇妙なことに、1800年代のイギリスでの女性参政権運動は、他の国々には影響を与えてはいたが、自国では大きな成果はあげてはいなかったところが、1900年代に入ってから、サフラジストと呼ばれる女性参政権の活動家たちが、急に活発に動き始めた。しかし、この運動は、旧体制派の人々から激しい抵抗を受けた。軍や警官による暴力で流血事件も起き、刑務所に入れられる人々も大勢出た。だが、彼女たちは刑務所内で、ハンガーストライキを決行。困った刑務所側は、無理やり食べ物を管で流し込んだ。この強制的な扱いで、多くの死者が出た。その姿に国民は同情。「サフラジェット」とさげすんだ女性たちを応援し始めた。こうした激しい運動の結果、ようやく女性の参政権が認められた。この運動は、映画にもなっている。【カナダ 1918年】カナダの女性投票権を求める運動は、おもしろいエピソードに彩られている。演劇が重要な役割を果たしたのだ。ウィニペグ市の議会をからかう劇なのだが、この劇では現実の男女を逆にして演じられた。この劇の中の議会は、女性議員が男性の選挙権など断固として認めない。そうした議会に、一人の男性が、投票権を求める嘆願書を山と積んだ一輪車を押して、登場した。首相を演じている女優は、その当時の首相のスピーチを引用し、その内容をさんざんからかったあげく、思うぞんぶんこきおろした。女優はさらに続けて、男たちが今まで投票権を無駄に使ってきたことや、男たちの投票によって、家も家庭も不安定にされてきたことを、その劇で聴衆にわからせた。聴衆は大喝采。そのショーは大成功を収め、一大センセーションをまき起こした。この劇は、議会の旧態依然とした古めかしさを、社会に見せつけた。この劇の後、首相は次の選挙で落選。その結果、カナダでも女性の投票権が認められ、男性と同じように、女性の政治への参加が認められることになった。演劇の持つ力を、改めて思い知らさせる。【アメリカ合衆国 1917年。だが実際は1965年】女性の選挙権を求める大きな動きは1851年、オハイオ州から始まった。奴隷制廃止と女性の選挙権獲得を訴えるスピーチの主ソジャーナ・トゥルースは、奴隷から解放されて自由な身になった女性。彼女は自分に、ソジャーナ(たえず先へ進む人)・トゥルース(真実)という意味を込めた名前を自らにつけ、この名前を誇りとして、メッセージを合衆国中に届け続けたのである。1866年、ソジャーナに共感した多くの女性たちは、自由の女神像の除幕式をむかえた日、ニューヨーク港に集まって「自由の女神像は、女性の自由の姿そのものではないか?それなのに現実は、女性に自由はない。選挙での投票権さえも認められていない。これは矛盾ではないか?不正義ではないか?それで良いのか?」と叫んだ。1872年になって、フェミニスト運動の指導者のスーザン・アンソニーが、大統領選挙に女性も投票することを認めてほしいと要求した。ところが、彼女は逮捕され、裁判にかけられた。裁判では彼女の主張は認められなかったものの、女性も男性と同じように投票する権利があるという彼女の主張は、連日、新聞の表紙を飾り、国民の賛同を得て、浸透していった。ほぼ50年後。1917年、全国婦人党を中心にした女性たちが「女性への選挙権を」という横断幕を持ってホワイトハウスへ無言の行進をした。この時、多くの女性参政権活動者たちが刑務所に入れられ、ひどい暴力を受けた。だが、こうした運動によって、国民はだんだんと男女が平等に選挙権が与えられるべきだと気づいていき、ついに800万人の女性たちが、アメリカ合衆国の歴史上初めて、大統領選挙に投票する日を迎えた。だが、すべての国民に参政権が認められたわけではなかった。人種差別がまだ残っていたのだ。この問題が解決したのは、アメリカの国中で沸き起こった公民権運動によって、全ての国民に、平等に参政権を認めるための法律改正をする1965年まで待たなければならなかった。今、全米のみならず世界中に広がっているBlack Lives Matter(「黒人の命も大切」)運動。いまだにこうした運動が大きなうねりをもって広がっているということは、人種、男女を問わず、差別が解消されておらず、公平さ・正義が実現されていないことを表す。【ロシア 1917年】1917年サンクト・ペテルブルグの通りを、平等を求めるという同じ志しをもった4万人もの人々が、国会を目指して行進。この行進を率いたのは、本来は皇帝を守るはずの、女性護衛兵隊だった。白い馬にまたがった彼女たちは、この行進に賛同して、行進の護衛隊を務めた。【フランス 1944年】フランスでは、女優が世間の目を引く、という作戦をとった。1910年、マルガリート・ドュランという女優が、流行のファッションに身を包み、ペットのめすライオンを連れて通りを闊歩した。彼女の人目をひくこの行動は、新聞の表紙ページを飾り続けた。そのことで彼女の名前も、彼女が訴える社会に巣食う不正義への批判も、女性に投票権を与えるべきだという彼女の主張も、国民の間に広がっていった。フランスの女性参政権活動家たちは、国民の耳目をひく方法を巧みに使ったのである。私は、昨年の参院選にれいわ新選組から立候補した、女性装の東大教授、安冨歩さんを思い出す。この方は、女装をし、選挙運動に馬を連れ、音楽も奏でながら選挙運動を展開した。その選挙運動はその主張とあいまって、十分世間の耳目を集めたのだった。【イタリア 1945年】ナチスへの抵抗運動で、時には銃を持ち、命をかけて果敢にやり遂げた女性たちが、男性と同等とみなされるようになり、選挙権が認められる基を作った。1945年、終戦の年。イタリアでも女性の選挙権が確立された。南半球に行こう。アフリカ大陸ではどうだったか。【エクアドル 1929年】アフリカ大陸で、女性の参政権を認めた最初の国はエクアドル。1929年。この道を開いたのは、エクアドル初の女医で、女医を志す女子たちに道を開いた女性。この人が、女性が選挙で投票するのは、違法ではないことを発見し、どうどうと投票場に入っていったのが1924年。警備の人たちが制止したが、彼女はひるまなかった。そして彼女が、南アメリカ全土で、総選挙で投票した初の女性となった。5年後の1929年、エクアドルではすべての女性たちに、選挙権が認めた。【南アフリカ共和国 1956年】1930年、南アフリカでは、議会の議員全員が白人男性だけという議会で、投票権は白人の女性だけに限るという決議をした。だが、その結果を恥ずかしく思う白人女性たちもいた。なぜ黒人たちに、同じような投票権がないのかと、その不平等に怒ったのだ。同じように考えた人々が、黒人にも平等に投票権を与えることを訴えてデモ行進をした。その26年後、1956年8月9日、南アフリカの人種差別と人種隔離政策に抗議して、黒人女性だけでなく、人種も、男女も超えて、2万人もの人々がデモ行進に参加。不平等に抗議する人々は、殴られ、傷つけられ、逮捕された。こうしたことが何十年も続いた。不屈の戦いがやっと実を結んだのは、1994年になってからだった。この年、ようやく黒人の男性にも女性にも、選挙権が認められた。次は、西欧や日本からみれば、女性の権利が認められていないと映る中東諸国に移る。【近年 中東の国々】女性が選挙権を得るという運動は今でも続いている。最近では、中東の国々で、女性の参政権が認められた国が出てきた。 【カタール 2003年】カタールの首都のドーハ。女性政治家の一人は、車の中から、フェイスブックやツイッターを通して、次々とニュースを発信する。彼女の支持者は、毎日、彼女からのニュースを何通も受け取るのだ。議会で女性として初めて議席を得て以来、以前にも増してSNSは彼女の強力な武器となった。シェイハや彼女の仲間たちの顔が、どんどん国民に知られていくにつれ、カタールという国は、国の将来にとって女性が重要だと気づいていった。2003年、カタールは新しい憲法を制定。公式に女性の選挙権を認めた。【クエート 2005年】クエートの女性たちも、インターネットやソーシャルメディアを使って、女性参政権を求める運動を展開した。この方法は非常に効果的で、情報は国中に拡散して、サポーターがものすごい勢いで増えていった。2005年、このSNSを駆使して、彼女は国会前での大規模なデモを成功させ、ついに、女性の参政権が認められることになった。この運動を率いた女性は、クエートで初めて女性の下院議員になった。【サウジアラビア 2015年】サウジアラビアでは、女性への選挙権を求める運動は、車の運転を認める運動と重ねて行われた。女性が自由に外出できるように、女性の社会進出を求める運動と重なったのだ。47人の女性が運転する車が、1990年、首都リヤドの大通りを走った。女性の運転を禁止しているこの国の法律に、抗議する走行だった。彼女たちは、逮捕され、仕事を追われ、社会的な制裁を受けた。だが、この女性たちの勇敢な行動は、サウジアラビアの女性たちの心に火をつけた。これが、サウジアラビアでの、女性参政権運動の始まりだったのだ。女性たちは選挙権を求めて声をあげた。そしてついに、2015年、国は女性に参政権を与えた。すると1000人もの女性たちが、議員として立候補した。【中国 1949年】上に書いたように、女性の参政権を得る運動は、各国それぞれ特報ある展開の仕方をした。中国の活動家たちは、どうだったのだろう。中国では、イギリスのような激しい方法を取り入れた。だが、中国の独特な点は、女性が男性と同じように兵士や軍人として活躍して、女性の地位を認めさせるという方法を使ったことだ。その独特の手法を率いたのは、唐群英(Tang Qunying)。彼女は、4世紀から5世紀に実在した伝説的な女性将軍の花木蓮(ファ・ムーラン。最近、ファ・ムーランの映画もできた)に自らを重ね合わせ、ファ・ムーランの国民的な知名度を活用した。唐群英は、武人として女性部隊を率い、中国の独立戦争を戦い抜いて、ついに1911年、皇帝をその座から追い落とした。1912年、群英は同志とともに銃を携えて議会に入場。女性の参政権を主張した。だが、議会はその要求を拒否。群英の隊は怒り、自分たちの要求を叫びながら窓を壊し、警備隊をけり倒した。この騒ぎをおさえるために軍隊が出動するほどだった。群英の過激な行動は、成功しなかった。しかしながら、女性参政権という考えは、国内で広く知られるようになった。だが、中国の女性参政権運動は、内戦や第二次世界大戦にじゃまされた。そして、中華人民共和国という新しい国になった中国は、女性にも選挙権を保障したのは、1949年になってからだった。【日本 1945年】さて、いよいよ日本。1945年以前の日本の女性は、ヨーロッパの女性たちよりも、もっと不平等に扱われていた。女性は家にいるものとされ、外出したとしても男性から3歩後ろを歩かなくてはならなかった。だが、女優で女性解放運動の活動家、木村駒子は、そうした風潮には従わなかった。1917年、駒子は美しい着物姿で、ニューヨークの5番街を2万人の人々と共に、女性の選挙権を求めて行進した。駒子のこのニュースは、日本中に衝撃を与えた。駒子はアメリカの女性参政権運動の活動家たちから知識を得て帰国。駒子の活動に刺激されて雑誌「新真婦人」が発刊され、日本で女性の選挙権を求める運動が急速に広まっていった。駒子の名前が新聞紙上を飾ると同時に、もう一人、別の女性がさっそうと登場した。市川房枝だ。彼女の言葉は、日本中の村から村へと野火のように広がっていった。一方、彼女への攻撃も起きた。男たちが、暴力を使って彼女を妨害するという卑劣な事を続けた。だが、房江はひるまなかった。続いて起きた第二次世界大戦中の政府の女性抑圧の政策の中で、女性の選挙権を求める運動は、火が消えたかのようになった。だが、房江はけっしてあきらめなかった。地道に活動を続けていたのだ。戦後、房江は、日本を占領した占領軍のトップ、マッカーサー元帥に面会。そして、その素晴らしい説得力で彼を納得させ、日本の女性たちにも選挙権を得させたのだ。上記のように、女性が男性と同じように、公平に機会を求める運動を、参政権の面から見てきた。この100年間で、それなりに成果は出たと思う。その歴史は、それ自体で、皆で力を合わせれば、夢が達成できる証明にもなった。世界中の女性参政権運動の活動家たちが、国を越えてお互いの考えを分かち合ったり、支援しあったりしてきた。そして現在では、インターネットやソーシャルメディアを使って、その協力関係を、より一層緊密で力強いものにした。選挙権を持った女性たちは、声をあげる権利、意見を言う権利、選ぶ権利、自らの生活を変える権利も同時に手にした。だが、まだ十分とはいえない。現実は、教育の機会に恵まれない女性が多いし、望んでも同じ仕事が与えられないことも多い。男性よりも給与も低い。男性よりも能力が劣っているという間違った考え方がまだ残っているし、男性と同じ権利や力が認められているとは言えない。現状を少しでも改善し、のちに続く世代により良い社会をバトンタッチしていくためにも、長い苦闘と多くの犠牲の上にの末に勝ち取った選挙権を生かしきってほしい。 選挙に行こう!自分たちの考えを反映させるには、投票することだ。この大切な民主主義を守る権利を、放棄しないでほしい。選挙に行こう!
2020年07月04日
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小山内さんはどうしてるかなと以前のブログを見たら、新しいブログに移動していた。小山内美智子さんのプロフィール。1953年生まれ。脳性マヒ。77年札幌いちご会を始める。自立生活の寄付金を集め、職員を雇い、ケア制度を作る。札幌オリンピック開催時、地下鉄にエレベーターがなく、仲間と共に用事もないのに地下鉄に乗り、腰を痛めた駅員たちも巻き込んだ。これが、私の代表する障がい者運動の始まりだった。彼女は私よりも三歳年下なので、ほぼ同時代を生きてきている。私は障害幼児の通園センターの指導員が最初の仕事だったので、彼女が自立生活を目指してパワフルな活動を始めたことに、とても関心を持っていた。彼女たちの活動の少し前には、「全国青い芝の会」という団体が活動していて、多分私は、北海道支部の総会に参加したような気がする。(それとも何かの集会だったのかな)その時、脳性麻痺の人たちが、障害のある体や言葉を振り絞るように、自立生活への戦いを挑んでいる姿に衝撃を受けた。なぜそのような会に参加したかというと、私が関わる子どもたちには脳性麻痺の子どもも何人もいて、その子たちの将来像を確かめたい思いが強かったのだと思う。(当時は、重度の障害を持つ子たちは、学齢期になると施設入所して、そのまま生涯を終えるのが常識だった。だから、自立生活を主張する彼らは、それだけで社会の異端だったと思う)その後小山内さんたちの「札幌いちご会」の活動が注目されるようになり、あまり青い芝の会の話を聞かなくなったように思う。青い芝の会はどうしているのかといま調べたら、北海道支部は2014年に50周年を機に解散したようだ。私が初めて青い芝の会を知ってから、もう50年になる。あの時から半世紀、障害を持つ人たちを取り巻く環境は変わったのだろうか。制度的にもハード面でも、彼らの活動がきっかけとなって確かに変化したことは多い。医療の発達により、50年前には生きることができなかった重度の障害を持つ人たちも、結構長生きできるようになった。しかし私の印象では、彼らへの世間の偏見や障碍者観は、さほど変わっていないように感じることが多い。そう感じるとき、私は人間がいかに偏見を持ちやすいのかを痛感せずにはいられない。そういう私自身、無意識の偏見や旧来の常識から解放されてはいないだろう。そう思うとき、いちご会の人たちや小山内さんの苦労はいかばかりだったかと思うし、それだけにずっと先頭を走ってきたような小山内さんに、心からの尊敬を覚える。さて、久しぶりに小山内さんのブログを読み、色々な意味でとても心を打たれ考えさせられている。ぜひ、多くの人に読んでいただきたいと思う。脳性まひのばあさんが考える2つの道多目的トイレは、欲望を果たすところではない障がい者の私がコロナ禍で考える医学の歴史車椅子で行ったNY旅行で思い出した。これからのゆたかさってなんだろう?生きる遠い先に夢を持とう
2020年07月03日
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