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前回紹介した宮之城島津家墓地の入り口に「鬼瓦」があった。見たところ、写真の通り石を彫刻したもののようなので、いろいろ調べてみたが、石造りのものは百済の昔までさかのぼらないと出てこなかった。400年くらい前の時代、鬼瓦に石造のもながあったのか、ご存知の方があれば、教えて欲しい。いずれにしても貴重なモノに違いない。 これも前回紹介の通り、宮之城島津家の墓標は祠堂形がほとんどの中にこの宝筐印塔形ものが一基あった。島津宗本家の福昌寺墓地の墓標と似ている。 ここは島津家の墓地に離接する「宗功寺歴代住職の石塔群」である。いわゆる「坊主墓」と呼ばれているもので、これまでも何か所か紹介してきた。「坊主墓」は正式には「無縫塔」(むほうとう)と呼び、元々は禅宗に伝わる様式だったが、後世になって広く各宗派で用いられるようになったという。 そしてここにも「六地蔵」があった。
2014.02.25
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祠堂型の大きな墓が並ぶここは、宮之城島津家の墓地である。宗功寺墓地(松尾城跡)という。宮之城島津家は島津家中興の祖と言われる伊作島津家の忠良(日新公)の三男・島津尚久に始まる島津家の分家である。長兄は島津本家15代当主・貴久である。朝鮮への出陣、関ヶ原の戦後処理など島津氏に対する貢献度は高く一族としては例外的に家老職として貢献したと言われる。 ここは2代目・忠長が慶長のころ(1596~1615年)京都妙心寺の末寺として「大徳山宗功寺」として創建し、廃仏毀釈まで続いた。2代目忠長から現在まで35の墓石と「祖先世功碑」がある。(宗功寺墓地案内板) 亀の上に乗る碑文「祖先世功の碑」 亀を大写しすると迫力のある表情をしている。「延宝6年(1678)の春、五代・久胤(久竹)がこれを建てる」とある。久胤の当時幕府の弘文院学士であった林春斉の名文が刻まれている。碑の文を一度も間違わずに読み上げたら亀が動き出して川内川の水を飲みに行くと言う伝説があろ(案内板による) これに似たものは島津本家の福昌寺墓地にもあるが、どういうものなのかネット上で調べてみた。「墓前の亀趺というのは、古墳時代の終焉と共に終わった大型墓葬の一部が江戸時代に復活したもの」とある。そして「日本の亀趺を一瞥」というところにこの宮之城島津家墓地、福昌寺墓地を含め日本全国の亀趺が30ヶ所以上紹介されている。
2014.02.19
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2月14日(何故か世間はバレンタインデーと騒がしい日)Kくんに誘われて「小さいおうち」を見に行く。 私は前評判も知らなかったのだが、前回見た「六月燈の三姉妹」もKくんの誘いで行き、いい映画だったので、今回も期待して行った。 何よりも山田洋次監督の映画というのも私を惹き付けた大きな要因でもあった。山田監督がこの「小さいおうち」に惚れこんで、原作者であり、この本で直木賞を受賞した中島京子さんに映画化を熱望し承諾を得たものだったという事はあとで知ったのだが・・・。 話は、主人公のタキ(黒木 華、倍賞千恵子)が女中として住みこんだ赤い三角屋根の「小さいおうち」の平井家での出来事を孫にせがまれながら書き綴っていく回想録の形で進んでいく。時は昭和の初期、私もまだ生まれていない時から物語は始まるが、途中からは昭和15年生まれの私も経験した次第に戦況が悪化する中での様子が描かれている。あらすじはこれから見る人のために書かないが、最後は推理小説の謎が一つづつ解けていくような展開もあり、大いに楽しむことが出来た。主演の 松 たか子の演技も良かったが、タキ役の黒木華の演技は、自分を抑えたような、それでいて芯の強そうな演技が秀逸だった。 映画を見た翌日何気なくテレビを見ていると、第64回ベルリン国際映画祭においてタキ役を演じた 女優 黒木 華(はる)が最優秀女優賞(銀熊賞)を受賞したというニュースが流れた。おお! さすがはKくん 私を誘ってくれた映画はそういう価値ある映画だったのかと改めて感謝することだった。
2014.02.18
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鹿児島市方面から国道328号線を左に入り、入来麓に着いたのだが、三十三観音塔を出て道路の向かい側を見ると鳥居がある。寿昌寺跡である。鳥居の近くに仁王像が鎮座されている。 阿形像 吽形像 「寿昌寺の仁王像」案内板には次のようなことが書いてある。 入来院氏の菩提寺であり、領内随一の寺院として明治維新の廃仏毀釈まで尊崇された。仁王は釈迦に仕え仏法やその聖域(寺院や仏壇)を守護する執金剛神で阿形(あぎょう)吽形(うんぎょう)の二体に分化したもので「二王」とも呼ばれる。また裙(くん)(裳)を腰にまとうだけの上半身裸形で筋骨隆々とした姿で表されることから「金剛力士」とも呼ばれる。 この仁王像は下半身がないが、ある人切り取って石臼を作ったためと言われる。その人は後に仏罰を受けて歩けなくなったと言われている。 とんでもない罰当たりな人がいたものだ。 鳥居をくぐると、境内には比較的新しい記念碑などがあった。その上の細い道を辿って行くとそこは、入来を治めた入来院氏の歴代の「お石」と呼ばれる墓所がある。 墓所の入り口にはここにも「六地蔵」がある。 墓所は歴史を感じさせる。 更にその上には、寿昌寺の歴代住持の墓搭群もある。 清色城と入来麓を後に、さつま町の宮之城に向かった。
2014.02.15
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入来麓のはずれに、この古春庵跡と三十三観音塔はある。案内板にもあるように、いわゆる逆修塔である。県内唯一のものとのこと。三面に33の観音が彫ってあり、構面には文章が書いてあるが、風化しおり、読み取ることは出来なかった。下の写真は三面のうちの一面である。 入り口に「竹の切株」を模したような石造物があったので写してみた。 再び武家屋敷跡に戻る。 しばらく歩くと珍しいかやぶき屋根の武家門に出会う。 角度を変えて この屋敷はこの一帯を治めた「入来院氏」のものである。いまも子孫が住んでおられる。今から767年前の宝治元年(1247年)に鎌倉幕府は三浦泰村一族を滅ぼしたが、その戦いの恩賞として相模国御家人 渋谷光重は、薩摩国入来院の地頭職に任じられた。6人の男子を持つ光重は長子し重直を本国に留め、弟5人を薩摩に下した。 5人の男子は東郷、祁答院、鶴田、高城、入来院の領主としたが、入来院は五子定心が領主となった。一方島津忠久はそれより前文治2年(1186年)に薩摩国島津庄の地頭に任ぜられており、1197年には薩摩、大隅両国の守護となり、日向国の守護を兼ねていた。そして島津氏三州統一事業の進展に伴って1569年入来院氏13代重嗣は全所領を献じて、島津氏に屈服し、以後その家臣となった。 入来院家にとってもう一つ忘れてならないのが「入来院文書」である。これは入来院家に伝わる文書であり、1929年アメリカのエール大学教授であった朝河貫一氏によって入来院文章および関係文書の英訳が刊行されたことによって、日本封建制研究の根本史料として世界的に有名になった。 散策を続けると玉石垣に咲く梅の花など沢山の花や武家門、石蔵など多くのものを見ることが出来た。
2014.02.10
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上2枚の写真は同じ屋敷。剪定されたきれいな門構えである。 石柱の門 瓦葺の武家門と玉石垣 麓内の赤城神社を訪ねる。 町内最古という大永4(1524)年造営の「六地蔵塔} 六面の内の一面 麓の街並みは、瓦葺の武家門をはじめ、いろいろな武家門、ここの特徴である玉石垣など予想を超えるスケールで展開しているので、興味が尽きない。
2014.02.08
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清色城跡と御仮屋跡にある入来小学校の階段を下りて、増田家住宅に向かった。増田家に向かう道路は上の写真の通り、左側に玉石垣、右に生垣がきれいに手入れされていた。 増田家住宅前まで来ると、突き当りの玉石垣の上に「石敢当」を見る。 この石敢当については、以前何回か拙ブログでも取り上げているが、主には沖縄など南西諸島に多く造られているが、鹿児島にも1000を超す数があると言われている。T字路や三叉路に魔除けとして造られたものである。鹿児島以外にもあるが、数は少ないと言う。この石敢当は明治6年に造られているので、増田家住宅はそのころまでに建てられたものと思われる。尚、保存修理工事前の建物の母屋の屋根は瓦葺になっていたが、当初はかやぶきであった痕跡を確認できたので、かやぶき屋根に復元したとのことである。 増田家住宅である。左が「なかえ」と呼ばれ、生活するためのもので、土間や台所、囲炉裏などがあり、右が「おもて」と呼ばれ客間などがある。 石蔵も保存されている。大正7年4月竣工の刻銘があったそうだ。 庭には「六地蔵」がある。衆生の苦しみを救う六種の地蔵菩薩を六面に彫ってある。 イボ地蔵と呼ばれる地蔵。 山から水を引いた跡には「水神」があった。 (現地案内板や薩摩川内市教育委員会発行のパンフレット等を参考にした)
2014.02.07
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伝統的建造物群保存地区である入来麓を訪ねた。鹿児島で三大武家屋敷群と言われるのが「知覧武家屋敷庭園群」「出水麓武家屋敷群」とこの「入来麓武家屋敷群」である。武家門と庭と石垣などが残された武家屋敷群中心に多くの史跡が残され静かな地区である。 薩摩藩における「麓」とはどういうものだったのか。1615年の幕府による「一国一城令」により、鹿児島城(鶴丸城)以外の城は全て破却し、なくてはならなくなったため、薩摩藩はそれに代わるものとして外城(とじょう)と呼ぶ麓を置き「御仮屋」とか「地頭仮屋」と言われる在地役所を中心に郷士屋敷の集落を形成した。 現在でも「麓」という地名や「馬場」という地名が鹿児島県(薩摩国、大隅国)や宮崎県南部(日向国)には残っている。薩摩藩の外城は島津一門や重臣の私領地が21カ所、島津家直轄の地頭所が90ヶ所あったという。 ここは入来麓のあった場所で、その昔、御仮屋があった場所に現在、入来小学校がある。 この日、厚かましくも学校の見学をお願いしたところ、校長が自ら案内していただけるという幸運に恵まれた。入来小学校は他の学校より早く明治2年に開校したそうで、このお城のような校舎は周囲にマッチするようにと設計され平成14年に完成したという。 校舎の内部はふんだんに木が使われており、設計も斬新で、子供たちが伸び伸びと勉学に励むことが出来る環境が整えられている。86人の生徒たちを羨ましく思った。 2階から旧増田家住宅(平成25年4月1日リニュアールオープン)や遠くには北薩地域(旧薩摩国北部)の最高峰(1067m)の紫尾山を望むことが出来る。 場所を変えれば西郷さんの寝姿に似た山も望める。このことは、校長に初めて聞いたが一人納得出来た。右の方に西郷さんに似た顔があって、左へ身体があるのが、分かりますか。 再び校庭に出て学校右にグラウンドの先の上の山が「清色城跡」とのこと。北薩を治めた渋谷一族の入来院氏がここを本拠とした。山城であり、堀切や空堀、土塁はもちろん本丸跡なども残されているそうだが、この日は山には入らなかった。
2014.02.06
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1月にもかかわらず春のような陽気に誘われて、鹿児島市内の郊外にある仙巌園(島津家別邸)の先にある「花倉御仮屋跡」を訪ねようと思って出かけた。ここは鹿児島藩における倒幕の軍用金(贋金)造りがなされたと言われた場所でもある。所が諸般の事情でここには立ち入ることが出来ず、この日は諦めざるを得なかった。 そこでいつも車で前を通るだけで立ち寄る機会のなかった「西郷隆盛蘇生の家」に行ってみようと思い1km位先のそこを目指した。 西郷隆盛が、僧月照と共に入水した事件はNHKの大河ドラマ「飛ぶが如く」でも取り上げられた史実であり、鹿児島では誰一人知らない人はない事実である。 1858(安政5)年11月16日の明け方近く、錦江湾の三船沖に西郷と月照は抱き合って身を投じた。井伊直弼による志士への弾圧、いわゆる「安政の大獄」である。尊王攘夷の月照は幕府に罪人として追われる身となり、薩摩へ逃亡した。しかし地元薩摩も島津斉彬亡き後は藩内にかくまえる状態ではなく、藩は西郷に月照を日向に送るように命じた。当時薩摩では日向へ送る者を「永送り」と言って国境で斬り捨てる習わしだった。それを十分承知した上での覚悟の入水だった。結局、月照は不帰の客となり、西郷はこの蘇生の家で息を吹き返した。 私は、この西郷だけが生き残ったことが、その後の生き方に良くも悪くも大きな影響を与えたように思われてならない。そのことについては、また折に触れて書きたいと思う。 「西郷隆盛蘇生の家」の案内板 上の字は「土中の死骨」である。 次の写真は鹿児島市の中心地にある「南洲寺」とその境内にある僧月照の墓である。その案内板には「尊皇倒幕運動に殉じた宗教人」とある。
2014.02.01
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