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高校生女子アマチュアゴルファー・勝みなみちゃんが「日本ジュニアゴルフ選手権」で昨日優勝した。2日目までは、6打差の2位につけていたが、最終日の昨日、大逆転で優勝したものだ。 4月18日~20日熊本空港カントリークラブで開催のKTT杯バンテリンレディースオープンで並みいる女子プロを相手に戦って、LPGAツアー史上最年少の15歳293日で優勝して、一躍全日本的に注目を浴びるようになった。 それと同時にみなみちゃんを育てたおじいちゃんもマスコミの注目を集めるようになった。そのおじいちゃんが私と高校の同期生であることから、私たち同期生でみなみちゃんを応援している。 最近は私もテレビやネットや新聞で出場日程を調べたり、成績を見たりする毎日だが、Kくんが的確な情報を流してくれるのでテレビ番組も見逃すことがない。 そういう中で、先日おじいちゃんから手紙が届いた。いつも応援ありがとうと言う内容で、写真の通りみなみちゃんの挨拶が入っていた。一面にはゲーム中に「おにぎり」を食べるということで有名になった彼女が、その大好きなおにぎりをゴルフボールと海苔巻で表したユーモアのあるもので、こちらまで楽しくなってしまった。 おじいちゃんが「老後の楽しみに」ということで、みなみちゃんが6歳のときから誘って、育てて10年。ここまで育てたおじいちゃんの楽しみは、今や私たち同期生にも大きな楽しみを味あわせてくれている。 近いところでは、9月3日から長野県で開催される「世界女子アマチュアチーム選手権」と9月19日開幕の「アジア大会」があるので、ここでの奮闘を期待したい。 そこから先、彼女の目標である2020年東京開催のオリンピックでの活躍を期待したい。
2014.08.23
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7月24日の拙ブログで英国人医師 ウイリアム・ウィリスについて少し触れたが、鹿児島にどのような足跡を残したのか、調べてみた。 英国の外交官・アーネスト・サトウの日記を紹介した萩原延壽薯 「遠い崖 アーネスト・サトウ日記抄」13 西南戦争 (朝日新聞出版)によると、西南戦争当時ウィリスは鹿児島で西洋医学の普及に努めており、以前から親交のあった西郷隆盛の出征を見届けた人物でもある。 ウィリスは1837年、アイルランドに生まれ、エジンバラ大学で医学を学びロンドンで外科医をつとめた。1861年箱館領事館の第二補佐官兼医官に任用され、江戸高輪の東禅寺事件に遭遇し、生麦事件の現場を目撃し負傷者の治療にもあたった。 ウィリスの医術が十二分に発揮されたのは慶応4年(1868)1月に起こった新政府軍と旧幕府との間で戦われた鳥羽・伏見の戦いであった。薩摩藩は京都・二本松藩邸の裏手にある相国寺の塔頭・養源院に野戦病院を開設して、負傷者の手当てにあたった。しかし当時の我が国は外科手術がまだまだであったのと衛生状態が悪かったため、負傷者は次々と亡くなった。 それに心を痛めた薩摩藩砲隊長の大山巌は西洋医の招聘を西郷や大久保に相談し、英国公使パークスの許可があり、ウィリスの派遣が決定した。1月27日入京したウィリスは養源院で治療を開始し、百名を超える主に創傷の患者の手当てにあたった。薩摩藩医を助手にして、彼らに医術を教えながらの治療は大きな効果となって名声も広がった。 ウィリスはその後も日本各地で負傷兵の治療に当り、東京医学校の教授に就任する。しかし、明治3年(1870)新政府がドイツ医学採用の方針をとったため自発的に東京医学校の教授を自発的に退職した。 そして、西郷や医師石神良策の招きを受け鹿児島医学校長、付属病院長に就任した。鹿児島医学校は、はじめ浄光明寺跡(現在の南洲神社)にあったが、のちに滑川(現在の鹿児島市小川町)に移転した。赤レンガ造りの洋風建築だったので、赤倉病院とよばれたという。その跡に現在も碑が建てられている。 ウィリスは医学校と病院の整備につとめ、診療のかたわら、西洋医の養成にも尽力し、のちに東京慈恵会医科大学を創設し、「ビタミンの父」といわれた高木兼覚など多くの人材を育てた。 鹿児島で医学と医療に尽力したウィリスは島津斉彬の側近だった江夏十郎の娘・八重子を伴侶とした。彼女との間にアルベルトという息子も出来たという。鹿児島滞在は8年という長い期間だった。 鹿児島の医学の歴史は、それ以前、島津家25代当主・8代藩主・島津重豪(1745~1833)は医学にも関心が強く造士館のとなりに医学を研究する医学院を造っている。薬草園も吉野、佐多、山川に開いている。重豪は斉彬の曽祖父にあたるが、重豪がオランダ商館の医師・シーボルトに会う際に斉彬を同席させて啓蒙したという。 私の父方の大叔父(祖母の末弟)も医者だったが、昔聞いた話では医者に弟子入りして、医者になったという。いま思うに、あるいは前記の英国人医師・ウィリスのお弟子さんにでも入門したのかもしれない。もっと早くこういうことを知っていれば、聞いておくのだったと思うが、時は大きく過ぎ去ってしまった。 参考文献 桐野作人著 「さつま人国誌」 鹿児島市教育委員会編 「鹿児島市史跡めぐり」 ウィキぺディア 「ウィリアム・ウィリス」
2014.08.11
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今日は長崎に原爆が投下されて69年目の日である。11時2分、テレビのの中で打ち鳴らされる平和の鐘に合わせて1分間の黙とうをする。 長崎市長の「平和宣言」、被爆者代表の「平和への誓い」でも今年は核兵器、原子力使用に対する県念をいつもより大きく叫ばれていたように思うのは私だけだろうか。列席していた安倍首相はどのよな気持ちでそれを聞き、どのように思ったのだろうか。その答えはこれまでの首相の施政をみれば想像はつくのだが、願わくば国民の大多数が願う方向に気持ちを切り替えてもらいたいものだ。 原爆で1300人の児童が犠牲になったという山里小学校の児童が祈念式典会場で歌ったあの永井隆博士作詞の「この子」はひときわ私の胸をうった。テレビ中継の中では、山里小学校の体育館で同じ歌を歌うたくさんの子供たちの姿も映し出された。 このように私が長崎のことに関心を持つのは転勤族として3年間という短い期間ではあったが、長崎市住んだことが大きく影響している。昭和50年から52年までの3年間である。 長女、長男は小学校の低学年で次男が幼稚園に入園する年で私も30代の若さだった。教会が多くクリスチャンの多い長崎で次男がお世話になった幼稚園は本原教会の聖アントニオ幼稚園である。そこで、思いがけない役がめぐってきた。クリスチャンでもない転勤族の私に次男の年少組入園と同時に「父母の会」の副会長の指名である。私は副会長ならまあいいや、という軽い気持ちで引き受けたのだが、なんとそれは年長組になったら、会長をという布石だったのだ。地元に人からそれを聞いたときは時すでに遅し。翌年は父母の会の全体の仕切、運動会での挨拶、卒園式でのお礼の言葉を巻紙に書いて読むなど初めて経験することばかりだった。 長崎のことはこれまでも拙ブログでも何回も書いたり、エッセイも書いたりしてきたが、これからも折に触れて書くつもえりだ。ただ原爆のことは、ほとんど書いてこなかった。長崎在住が3年間という短い期間だったので、近所の方々との付き合いも深いものではなかったし、今、妻に聞いても近所におられた○○さんがご家族を亡くされたと聞いたと言うくらいである。職場にも地元の人もいたが、原爆の話題はほとんど出なかった。長崎ではその話はある意味でタブーだったのだろう。 ただ私の職場は松山という電停から山の方に向かって行くと、左側に低い山の上の「平和公園」、右側に「原爆落下中心地」があり、「浦上天主堂」の手前200mほどの場所にあった。事務所はバス通りでに面し、商店街もあり観光客も多かった。近くには永井隆記念館・如己堂もあるという環境で原爆のことはいつも身近にあった。休みには子どもたちを連れてこれらの場所を散策した。 この5年くらい長崎を訪ねていないが、春の桜の時期に訪ねたい。上の写真は5年前の桜の頃の浦上天主堂である。桜がきれいなのは、原爆落下中心地の公園が最高だ。
2014.08.09
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四国地方を中心の雨災害に遭遇された皆さんにお見舞い申し上げます。 この一週間近く台風12号のもたらす雨の影響で南九州も天気が悪く、モグラ生活を強いられていた。今朝起きてみると、久しぶりの青空でモグラも逃げ出すようないい天気である。 今日は水曜日。おじいさんたち定例のグラウンドゴルフの日である。近所の公園に行くと、いつも早いT2さんがホールの据え付けなど準備を終わっていた。 それからしばらく、4人集まったところで、「暑くならないうちに始めて、出来るるだけ早く終わろう」ということで、ゲーム開始。 グラウンドゴルフは先日の加とちゃん出演のNHKテレビ「鶴瓶の家族に乾杯」の鹿児島編でも取り上げられていた通り、鹿児島では老人に圧倒的な人気のスポーツ? である。なんでも鹿児島県のグラウンドゴルフ人口は日本一だと言う。前にも拙ブログで紹介した通りゲームは簡単で小さな球を打ち出す場所から15m、25m、30m、50m先のホールに向かっていかに少ない打数で入れるかということを競うものである。一ゲームは各距離2ホールづつの8ホールである。8ホール回って点数の少ない人が上位にくる。ただその際、一発目で入ればホールインワンであり、ゴルフと違うのは、ホールインワンの場合、1ゲーム8ホール回ったトータル点数から3点減ずることが出来る。従って8ホール中、ホールインワン1回あれば3点、2回あれば6点減ずるということで、大いに盛り上がるのだ。 今日もいつもの通り2ゲームやって休憩、そのあと2ゲーム、トータル4ゲームで終わった。その4ゲームの中で、私は珍しく50mホールで2回のホールインワンを打ち出したのだ。もっともこれは「まぐれ」である。 最近は短い距離でもホールインワンが出ることが少なく、出ても一回がせいぜいという成績が続いていたが、今日はまぐれ当りがたまたま入ってしまった。50mホールを狙って入れるのは地面の凸凹や石ころや雑草のことなどを考えると至難の技である。だから50mホールに入るという事は逆に言うとそういうものに当たりながら、偶然ホールに向かって球が向かって行ったということだ。ラッキーと言わざるを得ない。 もちろんそういう事だから、他のホールも同じことが言えるのだが、ゲームの中で15mホールに入る確率は他のホールより高いので、15mだけはある程度実力のあるなしがモノをいいそうな気がする。しかし、私は今日はその他のホールでのホールインワンはなく、やはり実力の無さを自覚した。それでも、やり始めて5,6年経った今でも飽きない奥の深い遊びである。
2014.08.06
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このところの猛暑と次々に予報の出る台風で外出もままならない。来年1月には後期高齢者(熟年高齢者?)となる身では、いくら健康体と言っても自重せざるを得ない。自慢じゃないが、過去に2回の熱中症を経験している身である。 一回目はおじさん合唱団の会計をしているときだった。6月頃でまだ本格的な暑さは到来していなかったが、蒸し暑いい日だった。歩いて25分くらいかかる銀行まで無帽という無謀さで歩いたときだった。銀行に着いて椅子に座ると足がだるく、身体が浮くような感覚である。疲れだろうと思いそのまま歩いて帰り始めたのだが、辛くてどうしようもない。途中の公園で小休止していたが、だんだん気分が悪くなるので、急いで我が家を目指した。家に着くと体が熱っぽく、喉が渇いていた。このころになると熱中症になったかなと言う思いがしてきた。幸い冷蔵庫にナトリュウムと糖分入りの飲み物があったので、それを2,3杯がぶ飲みして、休んだ。途中で目覚めると相当な熱発をしているのも分かったが、家人も留守のためひたすら横になって半分くらいは眠って時間の経過を待った。2,3時間も経っただろうか。だいぶ気分が良くなって目覚めた。それからまた飲み物をがぶ飲みして、夕方には正常な身体に戻すことができた。 二回目はそれから2年くらい後だっただろうか。当時市民農園を借りて農業の真似事をしているときだった。その日も蒸し暑いだったような気がする。農園の駐車場に着いて借りている農園まで歩く間に前回と同じような違和感を覚えた。しかし、畑仕事を始める前に弱音を吐くわけにもいかず、とりあえず作業を始めたが、どうにも前回と同じような気分になってきた。もう我慢は禁物! 自動販売機で飲み物を買って休憩所で休む。その後、すぐ車で家に帰ったが、前回ほどの症状は出ずに済んだ。 二回とも救急車で運ばれることもなく、今日こうして無事に生きておれるのは、仕事で少しは熱中症の知識を知る立場にあったからである。しかし、いま考えると一回目のときは、一歩間違うと大変なことになっていたような気がする。それほど、状態は悪かった。 それ以降は心して水分補給につとめるようになった。皆さんもおめおめ油断メサルナ! 昨日は県合唱フェステバル(九州合唱コンクール鹿児島県予選)があったので、朝10時30分から、17時30分まで、出場団体全29団体の合唱を聴いた。 学生時代はコンクールにも出場したものだったが、現在のおじさん合唱団ではそういうこともない。気楽に聞くことができると思って行ったものの、さすが九州大会への出場権がかかった場である。こちらもいくらかの緊張感を持って聴いたせいか、帰ったらぐったりだった。いろいろなことを感じたが、自分ももっと真剣に練習に励んで歌うようにしようと思ったことが、一番大きいことだった。
2014.08.04
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