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鹿児島市磯の仙巌園(島津氏別邸)は、島津家第19代当主光久によって建てられた。借景技法が採りいれられて桜島を築山に錦江湾(鹿児島湾)を池に見立てた広壮な庭を造り現在も県民や観光客に愛されている。拙ブログでも2013年4月9日、10日に仙巌園を紹介している。 入り口を入ると17代当主・島津義弘公の鎧兜のが目についた。 この日、雨模様ではあったが、鹿児島史談会の呼びかけに集まった人は50名を超えていた。資料配布と行程の説明があり、一行は仙巌園に向かった。 仙巌園の庭園に「国指定名勝 仙巌園附花倉御仮屋庭園」という標石があり、ここから700mくらい先にある花倉御仮屋跡も国の指定名勝になっていることが分かる。 最初は花倉御仮屋の建設当時はそこにありながら、建物が壊されたのち仙巌園に移された石造物を見てまわることになり、先ず案内されたのが、「獅子乗大石燈籠」である。これは仙巌園を訪れた人なら誰でも目につくいわば一等地に設置してある。私も訪れる度に見てきた。獅子と火袋石は、花倉御仮屋にあったものいを再使用したものだという。 広い庭内を山手に進み御庭神社に行く。ここにある「石燈籠」五基も花倉御仮屋跡から移設されたものだという。石燈籠には、花倉御仮屋が建てられたと同じ「弘化四年丁未九月吉日」の銘もある。階段登り口左右の石塔には島津豊後久寶や調所広郷等の役職名と寄進者名がある。 同じ庭園内の発電所ダムの跡のところには、「(華倉御茶)屋朱御門迄七町十一間」と刻んだ標石がある。 次回以降はいよいよ仙巌園の北側に位置する花倉御仮屋跡とその周辺にある史跡に入ります。
2014.03.24
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私の頭にはいつの日からか、「鹿児島藩(薩摩藩)における贋金造りはあった」ということが刷り込まれていた。特別な根拠はないのだが、調所広郷が藩の財政再建のために贋金造りをやったとか、廃仏毀釈が鹿児島においては徹底的に行われ、寺の梵鐘が贋金造りに使われたとか言う一般的に流布していることなどがその薄っぺらな根拠であった。 しかし、その後鹿児島の歴史を少しづつ紐解き始めたりする中で、ブログ友のやまももさんの「ポンコツ山のタヌキの便り」の中で2008年1月10日から始まる4回の「調所広郷と贋金づくり」を読んだり、いろいろ調べるなかで、調所との関わりや、その贋金造り自体に疑問を持ち始めていた。 そういう中で昨年末、先輩から「鹿児島史談」百周年記念号をいただいた。たくさんの文章を読み進む中に神園紘氏の書かれた「鹿児島藩における倒幕の軍用金造りと華倉御仮屋(島津家別邸)について」という文章をみつけた。30ページに及ぶ力作である。 長い文章なので詳細は書かないが調所が財政再建のために贋金を造ったというのは、これまで書かれた書籍を紐解きながら年代的にも整合性がなく、調所は贋金造りには関与していなかったことがはっきりしたと書いてある。その根拠となるのは「坂本龍馬と薩長同盟」(平成10年発行)にあるという。「吉野の史跡」(昭和6年発行)にある天保4,5年(1833,1834)頃調所が建てた島津の邸庭(華倉御仮屋)跡に創立された御金方(金銀貨幣鋳造兼会計所)が調所の財政整理と関係があるらしいとしているが、「坂本龍馬と薩長同盟」(平成10年発行)で「調所が華倉御殿(華倉御仮屋)を建てたのは弘化4年(1847)であり、天保5年(1834)には花倉御仮屋はまだ出来ていなかった。だから、調所の贋金造りは誤りであり、華倉御仮屋での贋金造りも存在しなかった」というものである。 ここからが更に肝心なところだが神園氏によると、“最近になって、西南戦争関係資料を調べていたところ、偶然にも明治維新前後、「花倉御殿跡で贋二分金造りをしていた」『遠い崖』という記述に出会った。贋二分金は正貨の万延二分金を模造したもので、銀台を金メッキした。しかし、当時の政治的背景を考えると贋金ではなく、戊辰戦争軍用貨幣である。両替商はこの贋二分金を薩摩二分金、明治維新政府は銀台二分金と呼んだ。別名新二分金の呼称もあるが、贋二分金(贋金)とよばれるようになったのは、維新政府が諸藩の二分金製造を厳しく取り締まるようになった明治二年六月以降からである。だから大久保はいち早く、建白書を提出して自藩の密造を廃絶させた” とある。 「遠い崖」はアーネスト・サトウ(幕末から明治にかけて、日本に駐在したイギリスの外交官)の日記抄を中心にサトウの足跡をたどりながら幕末維新の歴史を描き上げた故萩原延壽氏の著書だそうで、県立図書館にもあることが分かった。近々読んでみたい。全14巻からなる大作で、13巻「西南戦争」に「それからしばらくゆくと、1866年(明治元年)大量の贋の『二分』金を鋳造したという、旧造幣工場跡の下に出た」とあり、それこそが前後の文脈からして神園氏は花倉御仮屋跡に造幣工場があったことを示しているという。 「贋二分金」造りの狙いについて、「倒幕の大事業をするには莫大な費用を必要とし慶応元年(1865)以来倒幕のための資金に着手した」という「島津七百年の歴史」にあると紹介し、更に「資金は台を銀とし表を銀で貼った贋金(贋二分金=銀台二分金=薩摩二分金)を行使すると決心した町田実友に賛成したのは、西郷隆盛、大久保利通、小松帯刀、桐野利秋、伊地知正治等でこの贋金の発起者は柳町の菓子商東伊兵衛であった」と紹介してある。 ここから先もいろいろな書籍を紹介しながら、鹿児島で多額の二分金を造ったが、これは鹿児島だけではなく、この維新前後には筑前・土佐・安岐・会津・仙台・加賀・秋月・佐土原等の諸藩も戊辰戦争の軍用金として正貨の万延二分金を模造しそれらが両替商の間で薩摩二分金・筑前二分金・等々として明治元年頃は堂々と入り乱れて流通し、市場を混乱させていたことを紹介してある。 そいう中で「明治政府が、諸藩製造の二分金を銀台二分金(悪金)と称して取締を強化するようになったのは明治2年5月、函館五稜郭が開城し、戊辰戦争が終了してからです。国内統一を達成した維新政府は、同月に貨幣贋造を厳科に処す旨の布告を出しました、翌年4月には、函館平定以前の貨幣贋造の罪を特赦したのです。維新政府自らが劣悪の二分金・一分銀も鋳造しており、諸藩製造の二分金を単純に贋金とは言えません。厳密に言うと明治2年6月以降に鋳造されたものが、贋金なのです」と明快に書いておられる。 これを読んだ私は,贋金ではないが、二分金が鋳造されたいう「花倉御仮屋跡」を1月31日に訪ねた。しかし、この日は近くまでたどり着きながら諸般の事情で目的を果たすことが出来ず「西郷隆盛蘇生の家」を訪ねたに終わった(拙ブログ2014年2月1日) そして3月南日本新聞に「鹿児島史談会 史跡探訪 仙巌園と花倉」3月14日、一般参加OKの記事を見つけた。連絡先は前記 神園 紘氏とある。すぐ電話して参加を申し込んだ。 次回からはその探訪記を書いてみたい。
2014.03.20
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今朝起きていつもの通りカーテンを開けると外は霧でかんすんでいた。室内の温度計は19℃だった。私の住む団地は新幹線の終着駅・鹿児島中央駅の西口から数百メートルしか離れていない山の上を切り開いた場所にある。もっとも我が家はそこから更に1kmくらいの団地の奥に位置する。 そういう場所なので十数年前までは、更に奥の山の影響もあり、この時期になると朝夕よく霧が吹きつけるような感じで我が家の近くまで押し寄せてきて風情があった。 ところが、我が家のある場所から更に奥に200軒くらいの団地が造成された十数年前からは、その風情のある霧を見ることが無くなり、ある意味、寂しい思いをしていた。家人とも「霧を見なくなったのは、奥の造成による自然破壊の影響かな」といつも話していた。 そういう中での今朝の濃霧である。喜んでシャッターを押したのが上の3枚である。
2014.03.19
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天気晴朗で気温20℃の春の兆しのなか、鹿児島市から南へ貸切バスで1時間の南さつま市へ出かけた。総員50名のおじさたちが、 ふれあいかせだ いにしえホールで開催の「南さつま市自主文化事業」のコラボ演奏会に招かれたのだ。もう一つは地元の加世田高等学校吹奏楽部である。ただ協演する場面はない演奏会だった。 初めのステージは加世田高校吹奏楽部であの宮崎駿の世界「スタジオジブリ・アニメ・メドレー」の演奏だったが、童心に返ったおじさん達も大いに楽しむことが出来た。そのほか3曲の演奏も素晴らしかった。 2ステージからはおじさんたちの出番である。団歌に続いて 南さつま市民歌「夢を紡ぐ」を歌って合唱曲集「車椅子のおしゃべり」から6曲。最初に朗読があり、ピアノとフルートの伴奏つきで歌う。 続いて 愛唱曲集から「箱根八里」「ゴンドラの唄」「ウイーン我が夢の街」「朝の歌」 休憩のあと我が団のアイドル ピアニストによるピアノ独奏 2つの伝説より「2 水の上を歩くパオラの聖フランチェスコ」 最後のステージはポップス「少年時代」「涙そうそう」「川の流れのように」 アンコールをいただき「あつい涙」「我が人生に悔いなし」を歌って演奏会を終わった。聴衆の皆さんに喜んでいただけた手ごたえもあり、感動的な演奏会だった。 ここ南さつま市は「いろは歌」で有名な島津忠良(日新公)の本拠地である。ホールの前に日新公と「いろは歌」の像があった。 日新公については拙ブログ 2013年3月18日に詳細は書いた。 うたは「はかなくも 明日の命を たのむかな 今日も今日もと 学びをはせで」 その意味は「人間明日のことは予測がつかない。勉学修行を明日にしようと引き延ばし、もし自分が死んだらどうするのか。今その時に全力投球せよ」ということ。歌を唄い学びもできたいい一日だった。
2014.03.17
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校区の子供たちの安全を守るためにボランティアで始めた「青パト」隊に入って4年目が終わろうとしている。主力部隊は夜間に車で青のパトライトを回しながら公園などを主体に巡回するのだが、私達高齢者は子供たちの下校時に校門から帰宅する主な道路をパトロールするようにしている。 5日はその日である。午後3時前に写真の反射直帰など一式を身に着けて学校に向けて出発。子供たちの通学路になっている道路を歩いていると、道路の向かい側のバス停に一人のおばあさんが立っておられる。優に80歳は超えておられるようだ。杖をついたそのおばあさんが私の姿を見るやいなや信号もないその道路をいきなり私の方向に向かって歩いて近づいてくる。左右から車はひっきりなしに走ってくる道路をだ。その時、左からトラックが、右からは乗用車が近づいてきたが、両方とも止まってくれて大事には至らずにすんだ。多分それらしき服装をした派手な私を見て、用心しながら走っていたのだろう。 そのおばあさんは、私のいる歩道側の金属製の柵に阻まれて歩道に上がることもできないまま、私に問う。「〇〇二丁目は何処じゃんそかい」私「この辺ごあんど、じゃっどんこっちは谷になっちょって、ないもごわはんで、又向こう側に渡いやはんないっもはんど」(この辺りですが、こちら側は谷になっていて人家はないので、又向こう側にわたらないと、いけませんよ) おばあさん「そいなあ、△△バス停はどこじゃんそかい」私が説明する。その間にも道路端にいるおばあさんの前は車がひっきりなしに通過して危ないこと、この上ない。やっと車が途絶えたところでおばあさんは道を横切り、最初いた歩道にたどりついた。 私がおばあさんに教えたそのバス停と私が行く小学校は同じ方向だったので、車の通る大きな道路に沿う右側の歩道をおばあさんは歩き、私は左側の歩道を歩き道路を挟んで平行して歩く形で進んで行った。 小学校の門前まで来ると、ちょうど信号機がある。そこで私がおばあさんに信号に従って私の側に再び来るように呼びかけたところ、今度は渡る歩道の信号は赤なのにいきなり渡りはじめて、肝を冷やした。ここでも私の服装を見たドライバーの皆さんが徐行してくれていたので、事なきを得たのだった。 こちら側に渡ってきたおばあさんは「あいがとしゃげもした」(ありがとうございました)の挨拶を何回もくりかえされてこちらが困惑するほどだった。こういう挨拶は薩摩独特? のものだと私はおもっているがこのおばあさんに限らず、この辺りの年齢の方までは丁寧で、そして長い。これは美徳の一つだろう。 そして次におばあさんが発した言葉に私は訳が解らず戸惑った。「あたいげんお父さんも競輪選手ごわしたとお」(我が家の主人も競輪選手だったのですよ」 私無言で「?」何のことだろう、いきなり。「はあ?」 おばあさんは同じ言葉を2、3回くりかえしたが、私は訳が解らないので聞こえない真似をしてやり過ごした。 そこからおばあさんの行くと言うバス停を繰り返し教えて小学校の門前で別れた。しばらく見送っていたら、私が教えた通り次の信号から左折して行かれた。杖をつきながらゆっくり歩いて行かれるおばあさんの無事を見届けられなかったが多分大丈夫だっただろう。 小学校一年生が出てくるまでの間、おばあさんのセリフ「競輪選手」という言葉が何故出てきたのか考えてみた。「そうだ! この反射チョッキが競輪選手の服装に見えたのだ」やっと私なりの結論が出た。昔、北九州時代に何回か行った競輪で見た競輪選手の服装は見方によってはこんな風に見えるかもわからないと思い、一人笑いを噛みしめることだった。
2014.03.05
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娘が嫁ぐまでは、友だちもよんで雛祭りも賑やかなものだった。そのころは、卵焼きで包んだ「お内裏様」の雛ずしを作ったりしてお祝いしたのを思い出す。 そして現在。昨日は次男坊が勤務が休みで朝5時起きで釣りに出かけた。錦江湾の沖小島が最近の主戦場だと聞くが、昨日はあまり釣果がなく、クロ(メジナ)とカワハギが各一匹ということで帰ってきた。 そのおかげで、普通の「ちらし寿司」がクロの刺身を散らした寿司に変身、ハマグリの吸い物がカワハギ入りの吸い物に急遽変身したわけだ。そういうことで雛祭りの気分を少しは味わうことが出来た。 季節の行事を細々ながらも守って伝えていく大切さをこれまでも書いてきたが、雛祭りもその大事な一つである。
2014.03.04
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