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過日、仙巌園の先にある「花倉坂の大魔崖梵字群」を幸運にも訪ねる機会があった。これについてはネット上の「かごしまデジタルミュージアム」にある「花倉坂の戦跡と磨崖梵字」というところで知ってはいた。曰く「西南戦争で激しい戦いがあったところです。またここは磯別邸の北の方向にあるため梵字を刻んだ大きな磨崖があります」という簡単な説明だけがついている。写真も一枚だけ掲載されているが、木の陰などで全容ははっきりしていなかった。ただ彫られた文字の力強さと迫力は凄いものがあったので、是非見たいと思っていた。あとで分かったことだが、2月に一人で「花倉御仮屋跡」を訪ねるべく近くまで行って、残念ながら見つけることが出来ず、花倉坂の屋根付石塀を見てその先にあった本道から右に入る道を途中まで行ったものの、何も発見できなかった道をもう少し進んでいれば、あるいはその時、磨崖梵字を見たかもしれないという場所だった。 説明者によると、三面に梵字が彫られているとのことで、上の写真は二面が隣り合っているのを、写したものだ。 右に「大日如来五字真言」 左に「帝釈天」 東方の守護神 二面が見えた場所から左に10mくらい進むともう一面を見ることが出来る。 「十一面観音十二梵字呪文」 実物を初めて見ることが出来たが、彫の深さ、力強い立派な梵字、大きさに圧倒されて、言葉が出なかった。こんな山の上にこのようなものが彫られているには深い意味があるのだろうが、梵字の勉強をしていない私にはこれ以上のことを書くことが出来ないが、勉強していずれかの機会にそれを書ければいいなと思う。
2014.05.28
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ここ日置市伊集院町は、関ヶ原の戦いで敵中突破をして、退き口で有名な第17代島津家当主・島津義弘(一説に家督を継いでいないとする説もある)の菩提寺・妙円寺がある。(この妙円寺は廃仏毀釈で廃寺となり、そこに徳重神社が建てられており、現在も秋に開催される「妙円寺詣り」はこの徳重神社への参拝に変わっている。ただ、その後すぐ近くに「妙円寺」も再建されているが・・・) 上の像はJR伊集院駅前に建てられていて、伊集院に着いた人はこの義弘公の馬上姿の像に歓迎される。駅から出て右方向に向かうと右方向に城山トンネルが見えてくる。このトンネルを通り、坂を登って行くと右側に「平野二郎國臣の歌碑」がある。 平野國臣(1828年~1864年)は福岡藩士だったが、攘夷派として上京し西郷隆盛や薩摩藩士と親交を結ぶ。しかし、弾圧を受けて僧月照とともに薩摩に逃れてくるが、薩摩でも受け入れられずここで同乗した船から西郷と月照が投身自殺を図ると言う場面に遭遇する。平野の必死の介抱で西郷は助かるが、月照は亡くなってしまう。 勤皇の志士・平野國臣が薩摩で詠んだ歌が上の写真の「我が胸の燃ゆる思ひにくらぶれば 烟はうすし桜島やま」である。この歌を恋の歌と思っている人もおられるようだが、これは国を思う勤王志士の歌である。 町を歩いていると珍しいレンガ塀の家をみつけた。 そこから24号線に出て猪鹿倉の信号近くに鳥居を見かけたので入って行くと「熊野神社」とある。案内板による熊野神社由緒には次のように書かれていた。「文治2年8月(1185)島津の元祖忠久公薩州へ下向の途、海上にて強風に逢いたる為航海安全を祈願された処無事伊集院の日置浦(今の帆港)に到着上陸出来たので直ちに当地に勧請された旨伝えあり」 熊野三社に昨年行ったばかりの私は興味を持ち、参拝をしようと近づくと「仁王像」があった。 薄暗くフラッシュが閃いて変な色になってしまった。これの由緒は分からないし、摩耗しているため対にはなっているが、阿吽像が揃っているのかも判別出来なかった。 神社入り口の左側に武家門を発見。門自体は旧くはないが、石垣は屋根付の風格のあるものだった。 最後に梅岳寺跡を訪れて帰路、通りがかった道に「市指定文化財 磨崖仏」という看板があった。人のお宅の登り口の左側にあったが、厚かましく見に行った。 磨崖仏の横に案内板があった。「磨崖仏 有形文化財(彫刻)」「後方の山下氏宅の入り口に、高さ170~180センチ、厚さ90センチの巨岩があり、それには表面を磨いて三体の仏像が刻まれています。これは、來迎阿弥陀三尊像とみられ、中央が阿弥陀如来、右に脇侍観音、左に勢至菩薩です。脇侍がひざまずいて如来を迎えるのは珍しいようです。また裏面にも解読不能のかわった梵字が刻まれています。この磨崖仏は、山下家の先祖が、家の前の川から引き上げてきたもののようです。この地域は「イワミドウ」というので、近くにお堂があったのかもしれません。磨崖仏の制作年代は不明ですが、数基の五輪塔の部品と脇に元禄5年(1692)建立の石燈籠があることからして、それより古い時代のものと推定されます」 ということで、この日は数時間歩き回ったが、「犬も歩けば棒に当たる」のことわざどおり、思わぬ発見が幾つかあった。
2014.05.26
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福寿山梅岳寺跡は鹿児島市の武岡方面から206号線を伊集院に向かって行くと、伊集院市街地に入る手前の猪鹿倉南の信号から左へ24号線に入る。5分も走らないうちに左に上の写真の「福寿山梅岳寺跡入口」の標柱があるので分かりやすい。そこから左に曲がると2番目の写真の石仏があり、その奥が墓地になっている。 ここには「島津いろは歌」を詠んだ島津忠良公のご夫人の墓がある。 島津忠良公は島津四兄弟で知られる義久、義弘、歳久、家久の祖父としても有名だが、島津家中興の祖と言われる。忠良公の墓は加世田の竹田神社の前身・龍護山日新寺にある。 歴代の住職の墓もたくさん残っている。 石仏もいくつかある。 ここの入り口で久しぶりに探していた石像に出会えた。五輪塔板碑である。あったのは「五輪塔単式板碑」ではあったが。 私が伊集院の円通寺跡、長寿庵跡、破鞋庵跡を訪ねてみようと思ったのは拙ブログに以前にも書いたが、興味を持った「五輪塔双式板碑」があるとの情報からだった。 ところが、円通寺跡は探すことが出来たが、「五輪塔板碑」は探し出せず、長寿庵跡と破鞋庵跡は未だに場所も探し出せずにいる。そういう中で当初の目的にはなかったこの「梅岳寺跡」を訪ねたことで「五輪塔単式板碑」にめぐりあえて幸運だった。この形の五輪塔板碑はこれまでの私の探訪では、なぜか旧日置郡に多く見られる。鹿児島市の福昌寺や慈眼寺にもあるが数は少ない。いずれ整理してみようと思う。
2014.05.22
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今日は霧島市舞鶴大学・大学院(老人の生涯学習講座)の開講式と霧島市立上小川小学校での芸術鑑賞授業で歌ってきた。 我が男声合唱団は昨年創立60周年を迎えたが、それを記念してこれまで以上に地域の皆さんのためになることをやろうという事が昨年の総会で決定された。私たち合唱団が地域のためになることと言えば、出来るだけたくさんの人に演奏を聞いていただくことだ。それが日々の生活の癒しや、今後の合唱人口の増加につながることが願いである。 鹿児島で数少ない男声合唱団ということで、これまでも県内はもちろん、九州各地、東京での演奏会など数えたらきりがないほど歌ってきた。 そういう中で60周年という節目を迎えて昨年秋以降数回の演奏会をこれまでも開催してきたが、今回は霧島市在住の団員の尽力で午前、午後別会場での演奏が実現したということだ。私たちにとって、1回の演奏旅行で2会場で歌えるということが、疲れはしても、一番goodである。 午前9時鹿児島中央駅を貸し切りバスで出発。10時前には会場の霧島市民会館に到着。声だしと練習の後、11時より演奏開始。 曲は、七高寮歌「森のこずえ」、「さつま兵児の歌」「箱根八里」「ゴンドラの唄」「川の流れのように」 アンコールで「我が人生に悔いなし」 ちょうど30分の演奏だった。 平均年齢70歳のおじいさんたちのハモリを聴衆の皆さんにも熱心に聴いていただき、おおむね好評だったと思う(手前味噌) 終わって再びバスに乗り、午後の演奏会場・霧島市立上小川小学校に行く。先ず前記霧島市の団員の世話で近くの公民館に行き、ここで昼食となった。この近辺のお母さんたちの心尽くしの手作りの弁当をいただく。なんでも週2回近くのお年寄りのために弁当を作っておられるそうで、冷凍食品など一切使ってないおいしいものだった。近くのお年寄りは恵まれていると思う。 次に歌った「上小川小学校」周囲も素晴らしい環境である。 霧島市市立上小川小学校は創立122年、歴史のある学校である。現在生徒数は190人余という。父兄や近所の方もたくさん聴きにみえていて、おじさんたちもここでも張り切ることだった。 曲目は「上小川小学校校歌」 我々の団歌「輝く黎明」 日本の歌から「箱根八里」、三好達治作詞、木下牧子作曲「鷗」(かもめ) 子どもたちと一緒に「夕焼けこやけ」、嵐の「ふるさと」「君をのせて」「Believe] 世界の歌から ウェルナー作曲「野ばら」、 ロシア民謡「ステンカラージン」 演奏時間は45分を予定していたが、少しオーバーした。子どもたちと一緒に歌った曲は、どの曲も我々が負けるくらいの力強い歌声で、元気をもらい、歌う事の嬉しさを味わうことだった。 今日一日いろいろお世話いただきました皆様ほんとうにありがとうございました。またいつか会える日を楽しみにしています。
2014.05.20
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この広済寺はブロ友rinzoさんのブログ「薩摩旧跡巡礼」で知り、訪ねた。場所は島津義弘公の勇猛さを今に伝える「妙円寺詣り」で有名な徳重神社の近くである。行ってみると入り口に一体だけだが仁王像が鎮座し案内板を見ると大変由緒ある寺がここにあったことが記されていた。 一宇治城の城主伊集院忠国には十余名の男子があり、皆強い武将になったが、二人だけは僧になった。兄が「南仲」弟は妙円寺を開いた「石屋」である。南仲は京都の南禅寺に学び、帰ってからこの地に寺を建てたいと念じたが、後ろの山が険しく、前には大きな池があり、敷地が狭くためらっていたところ、一夜大雨が降り続き、山が崩れて池を埋め広い平野が出来た。そこで仏に感謝し「泰定山広済寺」と名付けて開山した。禅宗の一派臨済宗だある。時は正平18年(1363)。その後忠国の孫頼久の寄進により山門、仏殿、方丈、浴室、経堂等豪華な寺が完成した。しかし250年経った慶長18年(1613)、大火が起こり七堂伽藍を始め宝物、文書等すべて焼失、以後50年近く住職も不住となった。後、末寺の太田の報恩寺の和尚の協力を受け、延宝年間漸く再興され、明治2年(1869)まで栄えたが、廃仏毀釈にてすべて壊され山門の仁王像だけが残るのみである。忠国公以下代々の城主の墓も、寺が荒れたころ寺脇の円福寺へ移された。石屋禅師も若いころ、この寺で兄を師として勉学に励んだ。 また「鹿児島県の歴史散歩」(山川出版社)によると、「この寺は薩摩半島随一の文教寺院となり、各地ら多くの学才が集まり、大いに繁栄した」とある。 先ず目についたのが、海軍中将「有馬良助君之墓」と書いた立派な墓標である。有馬中将は第二次世界大戦の特攻の先駆けといわれる。第26航空戦隊有馬正文は、昭和19年(1944)10月15日、率先して一式陸上攻撃機に乗り、敵の空母に向けて突入し戦死した。菊村至『提督有馬正文』は彼の伝記小説である。(「鹿児島県の歴史散歩』)この墓地は大部分が有馬一族のものと思われる。 そこから左にはたくさんの墓標などがあった。 燈籠 ここにも昔の墓石が集めてあった 中には住職の墓石もある
2014.05.19
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円通寺跡墓地を探すのは一筋縄ではいかなかった。事前に地図で調べて行ったのだが、この山の一角だろうと思っていても、入り口が分からない。それらしき道をみつけるために周囲を何回も歩き回ったあげく、やっと竹の倒れた上を超えたりしながらたどり着いた。しかしそこは、歩き回ったときに寄った護国神社のすぐ下に当たる場所だった。つまりは、ハローワークの前にある護国神社を登って行って拝殿の右下に墓地は位置していたのだ。 円通寺跡墓地はその昔「閻通庵」と呼ばれていた。伊集院久氏の娘が、許婚者・渋谷右馬助の菩提を弔うために建立したと言われる。 いわゆる「坊主墓」と言われる住職の墓標もあり、ここに違いないとは思ったが、帰って他の資料により、ここが円通寺跡墓地ということが確認できた。 旧い墓標の一部 新しい墓標もある墓地だが、旧い墓標が集められていた。 墓地を歩いていると、一つの案内板が目に入った。近づいてみると「本田兄弟の墓」とある。 長男・親正と二男・親直の二人の墓である。 本田兄弟は伊集院の名家・犬丈馬場の本田家で生まれた。弟の親直は、後に一族の本田廉四郎の養子となった。兄弟の父は西郷隆盛と親交があったので、兄弟が慶応三年藩主に随い京都に行くとき、西郷は「お前たちが戦死したらは墓はおれが建ててやる」と言って励ました。二人は鳥羽、伏見の戦いで奮戦した後、越後に転戦し兄親正は病にかかり病院に入院中砲声のはげしさを聞き病床にあるを偲びず、杖に頼り戦線に出て奮戦中遂に弾丸に当たり戦死した。時に26歳だった。弟親直は村松城の攻撃で弾丸で傷つき新発田病院で亡くなった。22歳の若さだった。 西郷は約束通り明治2年8月石工を連れて本田家を訪れ、自分で筆をとって碑文を書き、石工に彫らせ、兄弟の墓を建てた。碑文の後に「隆永」とあるのは西郷隆盛のことである。
2014.05.16
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陽刻五輪塔 これは陽刻の五輪塔である。夫婦が生前に法名を寺からもらって碑を彫らせ法名を刻して死後の供養をすでに行ったもので、いわゆる逆修である。 最後にこの清水磨崖仏群の中で一番新しい明治28年(1895)の彫刻である。 宝篋印塔 十一面観音像 阿弥陀如来像 これらは吉田知山(順道)が旧清水村の石工・木原三之助に彫らせたものである。宝篋印塔の木で造ったものが、当時、知山が住んでいた川辺町神殿の末吉家に残されている。知山は大阪の出身で延暦寺、善光寺、清水寺などで修業し、川辺町にやってきた。その後当時の曾於郡大隅町に移り大隅町月野にも磨崖仏群を彫刻している。 以上全容を知ることは出来なかったが、案内板にあった主なものは遠景であれ一応の撮影は出来た。
2014.05.14
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三大宝篋印塔 この三つの宝篋印塔は清浄という女性が亡くなって49日目の供養に鎌倉時代後期の永仁4年(1296)3月13日に平重景によって彫刻されたという。この女性は当時、川辺を治めていた河邉氏の領主の母親か妻ではないかと考えられている。 月輪大梵字 鎌倉時代の弘長4年(1264)に彦山(今は英彦山)のお坊さんが彫刻したという。江戸時代の旧い記録によると梵字は5つあったことが分かっている。ただ現在は写真に見るとおり3つしかない。向かって右側に逢った文字が崩れて落ちたと思われている。 私は梵字のことは詳しくはないが、残っている文字は左から「カーン」「ケー」「バイ」と読みそれぞれ「不動明王」「計都星(彗星)」「薬師如来}を表している。「薬研彫り」と言われる彫り方で。とても美しい。落ちた2文字は次のように推定されている。4番目は羅睺星(日・月食星)(ラー)5番目が毘沙門天(バイ)である。向って3番目の薬師如来(バイ)を中心にして両側の不動明王・毘沙門天が計都星は彗星を羅ご星は日・月食星を表していて彗星も日食・月食も昔の人たちにとって、とても不吉なことだった。これらのことから月輪大梵字は薬師如来と不動明王、毘沙門天の力で不吉なことを封じ込めようとして彫られたものと思われている。 参考資料 南九州市ホームページ 「鹿児島県の歴史散歩」山川出版社 現地案内板
2014.05.14
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上の写真は南九州市川辺にある清水磨崖仏を写したものである。通称「岩屋」と呼ばれる高さ20m、長さ約400mの凝結凝灰岩の岩盤に五輪塔や宝篋印塔、板碑など約200基の彫刻がなされている。彫られた年代も平安時代後期から明治時代にわたるもので、壮観である。今回久しぶりに行ってみたが、がけ崩れの恐れがあるということで、肝心な部分が長い距離にわたり、立入禁止になっていた。せっかくの文化財をまじかに見ることが出来ず残念だった。南九州市の早急な改善を切望する。 鎌倉時代の宝篋印塔、五輪塔 鎌倉時代の特徴は上の写真で見る通り、線で彫った「線刻」が多い。室町時代以降のものは、立体的な「浮彫」で彫られている。 室町時代の五輪塔 上の写真の通り室町時代のものはほとんどが、五輪塔だが、板碑や仏像の彫刻もある。 次は「大五輪塔」 ここにある200基の中で最も古く、最も大きなものである。平安時代末に彫られたもので、幅4,3m、高さ10,3mの大きさで日本一の大きさである。下から地輪「ア」、水輪「バン」、火輪「ラン」、風輪「カン」、空輪「キャン」と彫られており、これを一回唱えると一切経を百万べん唱えただけの功徳があると伝えられている。 五輪塔を囲む五角形のものは「板碑」と呼ばれる塔で五輪塔上の円の中には大日如来を表す「バン」という梵字が彫られている。また板碑と五輪塔の間には10cm四方のマス目があり中に墨でお経と思われる五千字以上の梵字が書かれていたと考えられるが、今は、ほとんど消えてしまっている。 参考資料 「南九州市ホームページ」「鹿児島県の歴史散歩」(山川出版社) 現地案内板
2014.05.12
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鹿児島市の桜島行きフェリー乗場の向かい側に新波止砲台跡(旧薩藩砲台跡)がある。鹿児島市水族館の横に位置する場所である。 私はこれまで、祇園之洲砲台、新波止砲台、大門口砲台、天保山砲台などは全て薩英戦争時(文久3年・1863年)に築かれたものと思っていたが、実際には薩摩藩の地理的条件から日本の他地域よりも早く西欧列強の外圧にさらされていたので、それより以前に造られたものだということを初めて知った。 「明治日本の産業革命遺産 九州・山口と関連地域」のホームページには概略次のような記述がある。1840年代、琉球にイギリス、フランス艦が相次いで来航し、対外的な緊張が高まるに伴い、第二十七代島津家当主で第十代薩摩藩主・島津斉興(斉彬の父)は山川、佐多、根占、鹿児島などの各地に砲台を築いて防備を固めた。 そして第十一代藩主・斉彬は洋式建築の専門書を参考に、斉興が築いた砲台を改築させると共に、嘉永6年(1853年)には鹿児島城下の大門口、祇園之洲に安政元年(1854年)には弁天波止、新波止に新たに砲台を設置し、防衛体制の強化をはかった。なかでも新波止砲台は、鹿児島城(鶴丸城)正面に位置することから、主力砲台として海防上重要な砲台だった。 その備えが1863年の薩英戦争では実際に使われたのだが、150ポンド砲をはじめとする11門の備えられ主力砲台として機能したのだ。 約10日間、愚息の咽頭疾患による扁桃腺摘出手術・入院によるバタバタで拙ブログも休みましたが、退院もし、回復しましたので、親父もボツボツ動きます。よろしくお願いします。
2014.05.09
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