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家庭の事情でしばらく拙ブログ休みます。皆さんのブログには出来るだけ訪問させていただきます。勝手なことですみません。出来るだけ、早く復帰したいと思っています。
2014.04.30
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浮世絵画家「歌川国芳の世界展」を鹿児島市立美術館に見に行き、そこで「敬老パス」を落とした私は、美術館からの落し物の連絡を受けて、もらいに行った。当日は他に用事もなかったので、陽気に誘われて海岸方面をぶらつくことにした。 先ず向かったのは、いつも気になっていた「不断光院」である。場所は鹿児島市易居町にあり、鹿児島市役所の本館前の電車通りを挟んで、左前方である。正門の前に立つと「養泉山 不断光院」とある。他には案内看板などもない。そこでウィキペディアで由緒をみてみた。それによると、浄土宗知恩院の末寺で、江戸時代までは長田町の現在の南風病院の周辺にあったとのこと。そして、薩英戦争時には山斜面にあったため、島津氏の城と間違われて園国艦隊の砲撃を受けて罹災したという。廃仏毀釈にも遭い、明治になって現在地に復興したが、太平洋戦争でも罹災した。 阿像は右手が欠落している 吽像は左手は先が欠落している阿吽像は両方とも廃仏毀釈時に土中に隠匿されたものを、農民が掘り出して販売しているときに買い戻したという。 境内に入ると阿像のみ、もう一体安置してあった。 これまでも何体かの仁王像(金剛力士)を見てきたが、残念ながら完全な形で残されているものは、ほとんどない。それでも、日本で一番徹底した廃仏毀釈の波を潜り抜けてこのような形ででも残されたものは、大変貴重である。このまま、後世に残したいものだ。
2014.04.25
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昨日の鹿児島は朝方は10℃そこそこと冷え込んだもの、グラウンド・ゴルフを始める9時ごろからは、暑いような陽気になった。 それより前、春の暖かさとともに、年寄りの私にも春(仲代達也風に言えば赤秋と言うべきか)が訪れたようで、日曜日に鹿児島市立美術館に浮世絵の「歌川国芳の世界展」を見に行って「敬老パス」をどこかに落としてしまった。帰るときにバスに乗るために必要な(バス料金が1/3になる)敬老パスがポケットにあるか確認したところ、ない! 慌てふためいた私は、一緒に行ったKくんの事務所や、昼食をとった中華料理屋を回って落としていないか、聞いたが、 ない! あとは道路か美術館だと思い、近くの派出所にも寄って恥を忍んで聞いてみたが、ない! そのあと、美術館に落としていないか聞きに行こうと思ったものの、コーラスの練習時間も近づいており、その日はあきらめた。練習と役員会を済ませて夜9時ごろ家に帰ると、妻が何か言いたそうな顔をしている。ピンときた私は「敬老パスのことで、どこかからか連絡があった?」 妻がニヤリ。ピンポーンだった。美術館から連絡を戴いたそうだ。これで一安心である。 その敬老パスを受け取りに昨日は美術館へ。美術館の左横にある軍服姿の「せごどん」(西郷隆盛)が私に「こら、まだボクッたはえが!」(まだボケるには早いぞ!)と一喝するように悠然と立っていた。 美術館の総合受付で二人のお嬢さんに丁重にお礼を言って受けった。 話は戻って日曜日に見た「歌川国芳の世界展」である。 パンフレットや南日本新聞によれば、「江戸の劇画家」斬新発想 時代を活写 とあり、ダイナミックな武者絵や政治への反骨精神あふれる風刺画など、計187点を展示するとある。 そういう予備知識を少しだけ持って絵を鑑賞した。なるほど私がこれまで知っていた本やテレビで見る歌麿や写楽、広重などの絵とは趣を異にしていた。画材が武者絵、役者絵、風俗、風景、歴史、戯画、動物などあらゆるものに及んでいる。もちろん一部東海道を描いたものもある。これまで、こういう生の浮世絵を見ることがなかったので、初めてみる細密な筆使い、色にも驚かされた。絵師や彫師、刷り師が一体となってこそこういう素晴らしいものが後世に残されるのだろう。惜しむらくは「保存のため照明を暗くしてあります」旨の貼り紙のとおり、もう少し明るいところで見ることが出来ればいいなと思う事だった。 美術館を出て少し市内をぶらつくことにして海岸(錦江湾)に出た。一番上の写真。いつもの桜島である。
2014.04.24
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韓国で大きな事故が起こった。 あの事故を初めて知った時、濃霧のため出港を遅らせたにもかかわらず事故が起こったようにテレビを見て思った。「霧」のためフェリーが遅れて、旅程を大幅に変更した経験を持つ私だけがそう思ったのかもしれない。 それは、2013年5月24日から3回にわたって拙ブログに書いた「日本三景の一つ天橋立を目指して船旅へ」に詳細はある。 あの日、北九州の新門司港を19時50分に出発した「名門大洋カーフェリー」の「きょうと2」は予定では翌朝8時30分には大阪南港に到着することになっていた。 ところが、夜中の3時ごろだったか、眠りを誘うような心地よいエンジンが聞こえなくなり、目が覚めてしまった。しかし、そのまま寝入ってしまい朝 目が覚めたのは6時ごろだった。どうも船は動いていないようだ。 何が起こったかも知らない私たちは、甲板に出てみた。そこには、起きたばかりの先客が海を眺めたり、デッキを歩いたりしている。その人たちの話によると、昨夜は濃霧で船がストップしたらしいとのこと。 やがて、私たちのツアー客全員に集合がかかり、添乗員さんから次のような話があった。「昨夜は濃霧のため、海上保安庁からの連絡で、大型客船は全て止められたようです。これから何時に動き出すか現時点では分かりません。いずれにしても、今日の夕方には再びこの船で北九州に帰らなければならないツアーですので、最大の目的地・天橋立には行けなくなりました。そのため大阪南港への到着時間がはっきりした時点で、もう一回皆さんに集まってもらい、行先などをご相談したいと思います」 ああ無情! と思っても天変地異の部類では、ツアー会社の落ち度でもないし、文句の言いようもない。皆すごすごとそこを引き上げた。(そのあとのことに興味のある方は上記2013年5月24日からの拙ブログをご覧ください) とは言っても、まだ見ぬ天橋立を目指してきた私たちは、もうそのころには、すっかり明るくなって、波静かな瀬戸内の海なのにいっこうに動こうとしない船を動かしてくれと、腹立たしい思いでいっぱいだった。 ところが、今回の韓国の船舶事故を見て、私の想いは180度変わってしまった。私も現金なものだと、自分でもおかしくなるくらいの変わりようだが、「あの時は、あれで良かったのだ。もし動いていたら今回の事故みたいなことが起こっていたかもしれないなあ。当時船をとめてくれた当局に感謝しなくちゃ」 韓国の事故は日が経つにつれて、霧の影響はともかく、他にも大きな要因があったのではと言われ始めてきたが、いずれにしても、日本で世界でこのような事故が2度と起こらないように願うや切である。 写真は停船中の船上から写した瀬戸内海
2014.04.21
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ブロ友・よだきゅう商店さんの今日のページに刺激されて久しぶりに我が家の雑草園を見渡してみた。このところ、花好きの連れ合いが多忙なため、ほとんど新しい苗を植えていない。目に入ったのは多年草というか、毎年放っておいても春を知ってか咲いてくれる健気なこの花たちである。他にも何種類かあるが、まだ花本来の実力を発揮せずこれからの花々なので今日は何とか様になるこの4種類に留めた。 余談だが、昨夜は東京から墓参に帰って来た高校時代の友人を囲む会が開かれて、後期高齢者とその一歩手前のおじさん(自称)が9人集まって楽しくお好み焼きを囲んだ。 我々は自分たちでは若いと思い「おじさん」と称しているが、若い人から見れば「おじいさん」と思われているのは必定だ、ということや、中に医者も一人いたことから病気の自慢話などで盛り上がって、終わることを知らなかった。同級生もほとんど社会の第一線を退いた今、こういう機会に集まって他愛ない話をするのは、何事にも代えがたいものである。
2014.04.17
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名護屋城周辺に造られた「島津義弘公の陣跡」を時間不足もあって見ることなく、帰途についたことも博物館の学芸員さんにメールに書いたところ、「島津義弘陣跡」ですと、添付していただいたのが上の写真である。感謝! 次回は是非訪問したい。 もう今は跡形もなく住宅地にでもなっているかと思っていたが、予想以上にしっかりした形で残っているものだ。ネットで島津義弘陣跡を見ると上の写真ほどきれいに整備はされていないが、NHK大河ドラマ・黒田官兵衛で全国的に注目を浴びることもあり、今回名護屋城とその周辺の整備をしており、その一環として島津義弘陣跡もこのようなったのだろう。 先日の拙ブログにも書いたが名護屋城は、太閤秀吉が朝鮮出兵の遠征軍の基地として天正19年(1591年)9月東シナ海に突出している肥前の西北端、名護屋浦に築城を始めたのである。築城は標高80mの勝男岳の頂上である。工事は九州の諸大名が当たった。同年10月に着工、日に4万から5万の人夫を集めての突貫工事で、工期は5ヶ月。翌文禄元年4月(1592)秀吉が来城して検分したという。 城は海に向かって城下町があり、五層七階の天守閣、本丸、二の丸、三の丸、山里丸、水の手曲輪、遊撃丸、東出丸、台所丸があった。総面積は14万平方メートルあった。 だが、城は長くはなかった。秀吉が没し、遠征軍が帰国すると、その後は使用することもなく、取壊され天守閣をはじめ城郭は唐津城の一部に転用されたという。 城だけではなく、城外二里四方に120ヶ所以上に徳川家康の陣屋をはじめ、諸侯の屋敷・陣屋が造られ商家や旅籠、遊郭まで出現したという。 遠征軍約20万、名護屋駐屯の予備軍約10万、それに京都警護約3万、計33万の大軍の根拠地となった。しかし名護屋は秀吉の文禄・慶長年間の在城1年3カ月、動員された諸侯の駐留期間はわずか通算7年間である。 それでは、その短い間に島津義弘が名護屋城とどいう風に関わったのか、調べてみた。もちろん全国の諸侯と同じように陣を築いたことは、上の写真の通りである。浅学の私がそのかかわりのある文章を探したところ、皮肉にも司馬遼太郎の「関ヶ原」の類似問題で絶版・回収となった池宮彰一郎「島津奔る」(上巻)に少しだけだがそれを見つけることが、出来た。以下のとおりである。 島津義弘軍が釜山港を離れ、対馬大浦に帰着したのは、11月24日の翌々日、先に撤退した帰還第一陣の軍船団が相次いで名護屋に入った。加藤清正、黒田長政、鍋島直茂、毛利勝信らの諸軍である。(中略)島津義弘とその軍勢が筑前博多に帰国したのは12月10日である。折柄、季節風が吹き荒れたため名護屋入港をさけた。筑前一国52万2千5百石を領するのは、中国毛利家の支族小早川家である。(中略) 小早川家の使者松野主馬が浜辺に出迎えた。「ご帰国、祝着至極に存じまする。実は手前どもの本家、毛利輝元の名代として秀元儀、浅野弾正少弼様、石田治部少舗様ともどもご帰国の挨拶申し述べたしと、名護屋の城にてお待ち申し上げておりまする」「大儀、確かに承った」というやりとにのあと、名護屋城山里丸を訪れる場面が描写されている。 このように間違いなく島津義弘の存在が名護屋にあったことは、間違いない。義弘については、また別の機会に取り上げたいと思う。次回、呼子訪問の際には、「島津義弘陣跡」を訪ねたい。
2014.04.14
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先日来、拙ブログに「春の佐賀県・唐津市呼子を訪ねる」を書いたが、その中で 名護屋城の東出丸の櫓台跡に不思議な石仏が4,5体あったことを紹介した。上の写真にあるようにその櫓台上にある正体不明の石造物を見かけて私は登って行ったのだった。 鹿児島に帰って、この石仏は、どいういう由緒があるのか、ネット上で探してみたが、そのことはヒットしない。そこで、迷惑とは思ったが先日見学した「佐賀県立名護屋城博物館学芸員」様にメールで聞いてみた。すると日を置かずに次のような丁重な返信メールをいただいた。 「この櫓台上の石仏は、江戸時代末に名護屋竜泉寺(徳川家康開基)の和尚が四国八十八ヵ所を模して、新四国八十八をつくった際のものではないかと言われています。 石仏は、名護屋周辺に石仏が点在していたのが集められて、ご覧になったとおり櫓台の上に集まられたようです。(『鎮西町史』) 残念ながら記録が残っていないのために確実なことは、お伝えできないのが現状です。」 というものだった。名護屋城について研究されている学芸員さんからこれだけのことを聞ければ私としては、大満足である。ここの場合は「新四国八十八ヶ寺」の石仏ではないかとされているが、私がこれまで鹿児島の神社仏閣を巡った経験からすると、そこには直接その場所と関係のないと思われる石造物が集められていることが多い。これも推察だが、住宅団地の造成などによって、山や田畑にあったものを廃棄するに忍びず近辺の神社仏閣の境内に移されたものと思う。いずれにしても、先人の残した貴重な文化遺産がこういう形ででも残されていることは嬉しいことだ。 これまでも何ヵ所かにいろいろな質問をしてきたが、その全てから満足のいく回答をいただいた。これからも遠慮なく質問をしていこうと思う。
2014.04.14
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鹿児島市平川動物園に行ってきた。私が子供の頃は鴨池動物園が、鹿児島市の動物園だった。小学校で6年生を送るために全校生徒で行く「お別れ遠足」も鴨池動物園だった。またこの鴨池には、市営野球場や海水浴場もあり、夏休みには毎日のように水泳に行き、高校生になってからは、夏の甲子園に向けた県予選の応援にも行った。 そういう私は、1962年(昭和37年)学校を卒業と同時に北九州に出た。そこから長崎、徳山(現在の山口県周南市)を経由して鹿児島に帰ったのは1981年(昭和56年)でまるまる20年が過ぎていた。 平川動物園のホーム・ページによると、私が鹿児島を留守にしていた1972年(昭和47年)に鴨池から平川に移転しリニュアール・オープンしたとある。 私は鹿児島に帰ってから30年以上経ってしまったが、今回まで動物園を訪ねる機会がなかった。平川という地が鹿児島市街から遠いところにあるからでもあるが、何故か縁がなかったのだ。 動物園に入ると目の前には桜島が見える。そこには「アフリカの草原ゾ~ン」が広がりチャップマンシマウマやキリン、シロサイなどが放たれている。 園内の花もきれいだ。スノーボールとポピー この日一番の写真、ホワイト・タイガー 子供も3匹いた。 この日一番の傑作、 マレーグマのウンチスタイル。 コアラの食事 コアラ小屋 コアラは鹿児島市とオーストラリアのパース市が姉妹都市であることから誘致できた。 レッサーパンダ これは鹿児島市と中国の長沙市が姉妹都市であることから贈られた。 ここには温泉県の鹿児島を象徴するように、足湯もある。飼育動物数は131種、952点という。(平川動物園ホーム・ページ) 歩く距離は約3km。平日にもかかわらず予想以上の人出で賑わっていた。
2014.04.11
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妻は「お母さんコーラス」の総会があるというので、朝9時過ぎのバスで出かけて行った。私は今日は留守番である。 そこで歩いて20分くらいのスーパーまで、散歩を兼ねて頼まれた買い物に出かけることにした。家を出て5分くらい歩くと校区の行事などで顔見知りのおじさん5,6人が集まっているのに出会う。様子からすると写真の撮影にでも出かけるようだ。挨拶だけして通り過ぎた。 そこから2分、公園の前にさしかかると、犬の散歩をさせている二組のおじさんが話をしている。そこにもう一組のこれも犬の散歩のおじさんが向こうから歩いてきて、三組で話が始まった。犬が3匹集まると吠えあったりするものだが、この犬たちは仲間意識があるのか、しっぽを振って大人しい。 途中、散歩をしているおじさんに何人も会う。さらに10分くらい歩いてスーパーの近くあるこの団地で一番大きい中央公園まで来ると、10人くらいのおじさん・おばさんがグラウンドゴルフに興じている。先日のテレビの健康番組によると、鹿児島県が全国一のグラウンドゴルフ県になっているとのこと。しかもこのことが、鹿児島県の高齢者の健康維持に大いに貢献していることが医学的にも証明されているとのことだ。 日本グラウンドゴルフ協会のホームページで見ると鹿児島県の登録人数は平成25年度で14,000人を超えて確かに日本一の登録数になっている。しかもこの数字は登録員数であるので私達みたいに「もぐり」でゲームを楽しんでいる人数はいかほどのものだろう。 鳥取県の泊村(合併により現在は湯梨浜町)が発祥のグラウンドゴルフは全国的な競技になり、日本グラウンドゴルフ協会も結成されて30年を数える。泊村の皆さん、「このような老人も楽しめるグラウンドゴルフを考えていただいてありがとうございます」と言いたい。 グラウンドゴルフを週2回楽しんでいるので、ついついその話に力が入ってしまった。スーパーから歩いて帰る途中でもグラウンドゴルフ帰りの人に何人も出会う。 しかし、一方今や世界に類のない老人大国になってしまい、そのことが今後ますます加速する日本はどうなっていくのだろう。まあ その解決策は、私の考えの及ばないところであるので、今日はこの辺りで・・・。しかし皆で考えなくてはいけない課題である。
2014.04.10
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2年前まで8年間借りて、野菜づくりの真似事に励んだ鹿児島市都市農業センターに行ってきた。桜の名所の一つでもあり、この時期は畑の手入れ方々よくここで花見をしたのを思い出したからでもある。半分以上、葉桜になっていたが、上の写真のようにまだ少しは桜としてもきれいな木々もあった。 それよりもきれいだったのが、下の写真の芝桜である。私たちが借りているころは、芝生だった場所がこのように芝桜が植えられて見事に変容していた。思いもかけない風景が広がり、人も三々五々楽しそうに歩いている。 年度替わりで今度の日曜日辺りが新規借り入れの人々の入園式があるはずで、1年、2年、3年の各借入契約が始まるはずだ。それでも継続の人々も多く、手入れに余念がない様子だった。 畑からフッと遠くを眺めると秋を思わせるような空が広がっていた。 久しぶりに行ってみたが、10年前に初めて狭いながらも楽しい畑を借りた頃のことを思い出して感無量だった。あのころは、畑友達もたくさん出来て、苗や作物・肥料のやりとりなど楽しいものだったが、さすがにここも世代変わり? をしており、一人も知った人に出会うこともなかった。
2014.04.08
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三の丸跡を左に見ながら本丸跡に向かう。この日は「史跡巡りの歩こう会」があり、ゼッケンをつけた皆さんとあちらこちらで行きかった。 ウィキペディアには概略次のような記述がある。 中世には松浦党の交易拠点の一つであった。そしてここには松浦党の旗頭・波多氏の一族である名護屋氏の居城・垣添城があったという。豊臣秀吉は大陸への進攻を企図しここを前線基地とすべく大掛かりな築城をおこなった。 ここは波戸岬の上段(標高90mほど)を中心に170,000平方メートルにわたりきずかれた平山城(ひらやまじょう)である。五重天守や御殿が建てられ周囲3km以内に120ヶ所ほどの陣屋がおかれた。城の周囲には城下町が築かれ最盛期には人口10万人を超えるほど繁盛した。秀吉の死後、大陸侵攻が中止されたため廃城となったと考えられている。建物は唐津城に移築されたと伝わる。石垣も江戸時代の島原の乱の後に一揆などの立て籠もりを防ぐ目的で要所が破却され、現在は部分が残る。歴史上人為的に破却された城跡であり、破却箇所の状況が復元保存されている。 本丸跡の「名護屋城祉」の碑 現在も城内整備中で玉石の復元もなされていた。 太閤秀吉を詠んだ月斗の句碑案内板 句碑 二の丸の長屋建物跡 天守台跡方面から多門櫓跡を望む 佐賀県立 名護屋城博物館は「名護屋城以前」「歴史の中の名護屋城」「名護屋城以後」「特別史跡 名護屋城跡並びに陣跡」のコーナーに分かれ文書や考古・美術・工芸品などが展示されている。入場無料。 こうして楽しかった二日間はあっという間に終わった。唐津の街に出て、昼食をとり、北九州の妹夫婦と別れてそれぞれ帰途についた。
2014.04.06
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加部島をあとにして、再び呼子大橋を通って戻る。しばらくドライブすると「名護屋城」に到着。駐車場に着いて回りを見渡すと思っていたよりもはるかにスケールが大きい予感がする。 入り口の道路標識の場所案内 「中国・朝鮮半島侵略をもくろんだ豊臣秀吉は、この地に名護屋城を築いて出兵基地とし、文禄・慶長の役(壬申・丁酉倭乱(1592~98年)を起こしました。これはそれまでの日本列島と朝鮮半島との長い交流を一時断絶させた不幸な出来事でした。現在この戦争の舞台となった名護屋城跡と参集した全国の大名の陣屋の跡は『名護屋城跡並びに陣跡』として国の特別史跡に指定されています」(佐賀県立名護屋城博物館パンフレット) 「名護屋城跡」ガイドマップから 写真が小さいのでそのスケールだけでも味わってください。 名護屋城をめぐる陣跡 これもスケールだけでも味わってください。全国から集められた有力大名が名護屋城を中心に陣を築いた。 大手口前井戸の案内板 井戸 東出丸案内板 右の石積の上は東出丸の櫓台 櫓台の上に乗る櫓(やぐら)は本来、武器・弾薬や食料の蔵であると同時に監視や防御のためにあるものだとおもうのだが、何故かここには謎の? 石仏が4,5体ある。櫓の役目を終えたあとで誰かが何らかの目的で設置したものだろうが、一切案内板などは無かった。
2014.04.05
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今回で3回目となる呼子だが、これまでは港町の風情に浸り、新鮮な魚介類を食べて帰ることばかりだったので、今回は少し歩きまわることにした。 呼子には豊臣秀吉に因む、名護屋城もあり、大綱引きも伝統的に今に伝わっているそうだ。 呼子三社神社を見つけて、最初は三社あるのかと思って、由緒書を読むと三社あるのではなくて、名前を「呼子三社神社」と言うとのこと。納得。 そして今回初めて呼子大橋を渡って加部島へ渡ることにした。ここには「風の見える丘公園」があり、展望台もあった。 加部島の「呼子港ビュースポット」から見る呼子大橋と呼子の街はきれいだった。 このあと、朝鮮半島との戦い、文禄・慶長の役の前線基地として築造された名護屋城とその資料を展示する名護屋城博物館に足をのばす。
2014.04.04
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3月29日(土)昨日までの春爛漫の晴天が小雨の降る一日となった。年中行事に近い娘一家と行く我が家の旅行も孫たちが受験やスポーツ少年団の行事に追われていたため、数年ぶりのことである。今回もこれまで2回行って、イカの生き造りなど料理のおいしかった呼子に3回目の旅ゆきが決定したのである。鹿児島を9時30分に出発。九州自動車道の熊本・宮原SAで早めの昼食。ここでしか食べることのない熊本ラーメンを食す。我々のSAと反対側の下りのSAの桜が満開だった。(上の写真) 鳥栖インターチェンジで長崎自動車道へ。佐賀・金立(きんりゅう)SAで休憩。ここも桜満開である。 多久で高速道路を降りて厳木多久有料道路から203号線へ。唐津市を通り東回りの204号線で呼子に到着。海に面した旅館の窓からの眺めは最高。この日は雨に霞んでいた。ここで小倉からわざわざ来てくれた妻の妹夫婦と合流し、8人の宴会となった。 夜の港も風情があるので一枚写してみたが、私のデジカメではこれが精一杯である。 3月30日(日)朝起きてみると晴れてこそいないが、先ず先ずの天気である。8人で賑やかに朝食を済ませ、日本三大朝市の一つである呼子の朝市へ向かう。旅館から歩いて5,6分で着いた。ここには、以前来た時においしい「アジのみりん干し」を売ってくれた名物おばちゃんの店があるので、そこを訪ねた。おばちゃん(おばあちゃん)は元気に商売をしており、今回もおおまけしてくれた。 イカ釣り船の多い港を散策。 途中、「鯨組主中尾家屋敷」の前を通る。入館料大人200円だそうだが、時間の都合もあり、今回は外から眺めるだけにした。パンフレットによると「鯨組主中尾家屋敷は、江戸時代に巨万の富を築いた。特に主屋は当時の姿をよく残しており、佐賀県の重要文化財に指定されているほか、唐津市の景観重要建造物にも指定されています」とある。捕鯨問題が国際的な注目を浴びている鯨の問題これからどうなっていくのだろう。
2014.04.04
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花倉御仮屋跡から北東へ約50m山の斜面を登ると不動寺があった場所で廃仏毀釈後は、五所大明神と呼ばれるようになった場所に着いた。五所大明神は、明治34年に磯庭園内の御庭神社(不動寺)(拙ブログ3月24日に記載)に遷祀され、建物は上町の春日神社(拙ブログ2012年5月25日記載)に利用されたという(当日配布資料) 石燈籠の基礎石が二個残されている。 放置されたままの方形手水鉢。 「弘化四年丁未九月吉日」の文字が刻まれている。 場所は前後するが、花倉御仮屋の手前にも史跡が存在する。 先ずは「茅落とし」と呼ばれる場所である。仙巌園から100mほど先の左手にある2m弱の石垣で、吉野の寺山で造られた木炭を茅俵に詰めて磯山の花園から段階的に滑り落としていった。木炭は磯庭園の反射炉や溶鉱炉に用いられ、また花倉の細工所(お金方=密造所)や銅吹所(精錬所)にも運ばれた(当日配布資料) 御水茶屋跡と乗馬苑跡茅落としから約400m進むと山手に10m弱の石壁が見える。その上は約60坪くらいの敷地があり、御水茶屋(殿様の休息所)の跡であり、出土した軒瓦の破片に〇休の極印があった。その下には幅10m、長さ3百数十mの細長い平坦地があり、殿様の乗馬練習場(乗馬苑)だったと言われている。 その他、検問番所跡や佐土原御金場跡(佐土原藩二分金密造所跡)などもあったという。
2014.04.03
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仙巌園から北へ約800m、花倉御仮屋跡に到着。戊辰戦争軍用貨幣の「薩摩二分金」を造ったと言われる場所である。弘化4年(1847年)9月に建てられ、邸苑は文久3年(1863年)ごろ廃邸となり、建物は同年7月薩英戦争直後、国分村の仮屋として移された(「磯の名所旧蹟」による)という。上の写真は御仮屋跡の石壁である。 「仙巌園附花倉御仮屋庭園」として国指定名勝となっており、私も写真では見ていたが、山の中に突然という形でこの石壁を見たときはその素晴らしさに目を見張った。いつか整備されて一般に公開される日が待たれる。 下は「朱御門」表門=西門である。 屋根付きの門 御仮屋表門手前に「石造りアーチ橋」がある。擬宝珠のついた欄干があったそうだが、今はは残っていない。調所広郷が、熊本の石工・岩永三五郎に命じて造らせたといわれる。 川上から写した写真 川下から写した写真 庭内に戻って「石風呂」 お湯を沸かして入れたそうだ 井戸跡 庭石の残り 折れた石橋
2014.04.01
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