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昨日29日、今年で30回目を迎えた「児童生徒作曲コンクール」授賞式と受賞作品演奏会/作曲セミナーで今年もおじさん合唱団が歌った。今年で30回目という一つの節目であるが、我が合唱団は平成20年以来、今回で連続7回目の出演となった。 作曲コンクールの分野については、2013年11月24日の拙ブログに書いたのが私たちは、その中の声楽作品の部について、毎年歌っている。 今年私たちが歌ったのは優秀賞受賞作品の「車椅子タンポポ号」と最優秀受賞作品の「誕生日」の二曲。二曲とも作曲協会の会員により男声合唱に編曲されており、それを練習して私たちが演奏すると言う段取りである。 「車椅子タンポポ号」は出水の中学一年生の作品で詩に合った楽しい曲だった。「誕生日」は中学2年生の作品で、私にとっては、どこか懐かしい曲だった。いつもそうだが、声楽作品のみならず、器楽作品も子供たちの発想の豊かさには脱帽する。 今日は「町内会ふれあいグラウンドゴルフ大会」今年も「あいご会」とその父母、どんぐりの会(老人クラブ)総勢30名の参加で開催。世話は全て私たちどんぐりの会が引き受けている。数日前から心配していた雨が2ゲームの途中で降りだして、全員町内集会所に逃げ込んだ。 結局1ゲームだけの成績で3位まで入賞の子供を表彰。ホールインワン賞は子供も大人も出すことにする。今日初めて経験した子供を含めて5人のホールインワンが出ていた。 表彰式や全員に参加賞を贈り、自己紹介、おやつタイムのあと、弁当を食べて散会した。参加者全員が大喜びの様子にホッとした。
2014.11.30
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高松塚古墳をあとに、その日の宿泊地でもある多武峰(とうのみね)方面へ。バスは談山神社の手前の駐車場まで。そこから先はマイクロバスでも通れないとのことで、出迎えの「多武峰観光ホテル」の車に乗り換えて、神社に向かう。降り立ったところはまさに紅葉の真っ只中。紅葉の展覧会かと思うほどの様々な色にに彩られている。 飛鳥・方興寺で行われた蹴鞠会において出会った中大兄皇子(後の天智天皇)と中臣鎌子(後の藤原鎌足)が、藤の花盛りのころ、この寺の本殿裏山で極秘の談合をした。この談合により、皇極天皇4(645)年飛鳥板葺宮で蘇我入鹿を討ち、中央統一国家及び文治政治の完成という歴史的偉業を成し遂げた。多武峰はこの後、談峯・談い山・談所が森と呼ばれるようになり、「大化改新談合の地」の伝承が残った。現在の社号「談山神社」もそこからきている。鎌足公の没後、墓は摂津国阿威山(現在の大阪府高槻市)に造られたが、白鳳(678)年、唐より帰国した長男・定慧和尚が鎌足公の遺骨の一部を多武峰山頂に改葬し、十三重塔と講堂を建立して妙楽寺と称した。さらに大宝元(701)年方三丈の神殿を建て、鎌足公の御神像を安置した。これが談山神社の始まりである。(談山神社のパンフレット)ここにも廃仏毀釈の嵐は吹き荒れて、明治以降に談山神社となったいう。 この木造の十三重塔は、世界唯一のものだという。 燈籠と紅葉コラボが美しい。 写真の「三方にらみ厄除け守」はブロ友kopandaさんから、他にはないものですよ、と事前に教えていただいていたので私はあと厄の次男坊のために買い求めた。そのことを仲間ににも伝えると次々と買い求めていた。それにつられてほかの団体の方々も買い始めたので、売り子の巫女さんは大忙しの様子だった。 そして、その夜は神社の目の前の「多武峰観光ホテル」に宿泊した。
2014.11.28
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「甘樫の丘展望台」をあとに、バスは「高松塚古墳」に向かう。「石舞台古墳」から同行していただいているボランティアガイドさん曰く「あなた方のコースには飛鳥の三大名所・石舞台古墳・飛鳥寺・高松塚古墳が組まれているから完璧です」 入り口にはこのような壁画を石に彫刻したものが数基置かれている。 その石の彫刻を背に前に広がるこの広場を歩いて古墳に向かう。 高松塚古墳は昭和47(1972)年、石室に描かれた男女の群像図、四神図、星宿図などの極彩色の壁画で一躍注目を集めた円墳。7世紀末から8世紀初めの築造で、直径約23m、高さ3,5m。昭和48年に特別史跡に指定された。現在石室は解体、搬出され壁画が修復中であるが、壁画の模写や石槨模型は、離接する高松壁画館で見ることが出来る。副葬品に海獣葡萄鏡などがある。(明日香村地域振興公社パンフレット) 「特別史跡 高松塚古墳」案内板 現在の復元された「高松塚古墳」 案内板に見る発掘前の高松塚古墳の写真。昭和46(1971)年撮影とある。 案内板に見る「国宝高松塚古墳壁画」(西壁女子群像) 平成18年撮影 高松塚壁画館がすぐ近くにある。入って驚いたのは、レプリカではあるが、壁画が発見された当時のままの現状模写と壁画再現模造模写、一部復元模写など室も造り当時を偲ばせるように展示されていたことだ。壁画館のパンフレットにあるように「飛鳥の美、ここに再現」は偽りではなかった。一見の価値あり。 ここをあとに、バスに乗車しこの日の最終目的地・談山神社に向かう。宿泊も神社前の「多武峰観光ホテル」途中車窓から「天武・持統天皇陵」を眺望する。
2014.11.27
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飛鳥寺の境内を西に抜けて、案内板に従って行くと五輪塔がある。大化の改新(大化1年・645年)のとき、飛鳥板蓋宮で中大兄皇子らに暗殺された時の権力者、蘇我入鹿の首がそこまで飛んできたとか襲ってきた首を供養するためそこに埋めたともいわれる。五輪塔自体は鎌倉時代または南北朝時代の建立と考えられている。高さ149cmの花崗岩製で、笠の形の火輪の部分が大きく、軒に厚みのあるのが、特徴であるという。(明日香村地域振興公社の「飛鳥周遊マップによる) 下の写真の石のあるところがが実際に首が飛んできたとされる場所。その間直線でも620mあるとされるが、昔の人の話のスケールに驚く。それが、伝承と言われるものなのだろう。 首塚から飛鳥寺を振り返るとそこには古寺の佇まいがあって、何とも風情のある古都の風景があった。こういうところに来ると何故か去りがたい想いがするのは、日本人だからなのだろう。 入鹿の首塚から歩いてすぐ「史跡水落遺跡」がある。 「水落遺跡」は日本初の時計として知られる漏刻(水時計)台跡。日本書紀に寄よれば斉明6(660)年に、「皇太子、初めて漏刻を造り、民をして時を知らしむ」とあり、皇太子すなわち天智天皇が造らせた漏刻(水時計)と推定される。方形基壇の上に楼閣状の建造物が建っていたと考えられ、建物の内部にあたる区域には、銅管や木桶を使った複雑な導排水施設も確認されたという(明日香村地域振興公社パンフレット)案内板にも詳細な説明があったが、ここでは割愛する。私が感じたのは7世紀という旧い時代によくこういう文化があったなあということだ。 水落遺跡をあとに再びバスへ。10分くらいで「甘樫の丘展望台」の麓に着く。飛鳥川に沿ってなだらかに続く高さ148mの丘陵を登ると明日香村の三方が望める展望台に着く。ここから眺める大和三山(耳成山、畝傍山、香具山)は絶景であった。 それともう一つブロ友・kopandaさんからお聞きしていたここから北西? に「二上山」も遠くに眺めることが出来た。(下の写真で手前の山の遠くに霞む左側の山)二上山は「石舞台古墳」の石棺など、明日香の古墳石棺に使われた凝灰岩の産地だとのこと。 まだまだ続きます。
2014.11.25
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飛鳥寺も今回の旅の大きな楽しみの一つだった。飛鳥寺・安居院(あんごいん)は蘇我馬子(そがのうまこ)が建立した日本初の本格的寺院であり、法興寺、元興寺(がんこうじ)ともよばれた。崇峻1(588)年に百済から寺工、露盤博士、瓦博士らの来朝を得て建立に着手、推古4(596)年に完成したとされる。平城遷都に伴い新都に元興寺を建てたあとも、本元興寺として栄えた。ここには創建当初からの飛鳥大仏が残されていたという。その飛鳥大仏とは鞍作鳥の作という「釈迦如来像」(銅製)である。住職が出てみえて、ユーモアたっぷりにこれらの説明をしていただいた。 このようなお寺の仏像などは、ほとんど撮影禁止となっているが、ここでは撮影も許されていた。 並んで立つ像は「聖徳太子孝養像」で木造、室町時代の作。大使6歳のとき、父用明天皇の御病気回復を祈願されている姿といわれる。 座像は「阿弥陀如来像」で木造、藤原時代の作。堂々たるボリュームと丸顔などは藤原時代の特色をよく伝えている。 「思惟堂」(しゅいどう)本尊 聖観世音菩薩が安置されている。 「昭和の名鐘」案内板 鐘楼 このあとも、近くの「蘇我入鹿首塚」に続きます。
2014.11.24
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昨年行った「高野山・熊野・伊勢神宮巡り」の高校同期会の旅で今年は「古都奈良ツアー」と決めて一年。奈良在住のKくんの一年がかりの周到な準備のもと昨年と同じ旅行社、同じバス、同じドライバーという気心の知れたなかでいよいよ旅が始まった。参加者は鹿児島8名、福岡1名、関西3名、関東7名、北海道1名の合計20名。旅をするには、多くもなくちょうど良い人数? である。 鹿児島組8名と東京1名の降り立った関空にバスが迎えに来てくれて全員が揃う。サロン付きバスに乗り込み、葛城インター経由で車窓から橿原神宮を眺め「石舞台古墳」に向かう。 途中、「藤原宮跡」に寄る。ここは条坊制を採用した日本初の本格的な計画都市で、その広さは5km四方にも及ぶ。天武天皇の死後、その計画を皇后の持統天皇が引き継ぎ造営した。持統8(694)年に飛鳥浄御原宮(きよみはらぐう)都が遷され、和銅3(710)年に平城京に遷るまで16年間、古代日本の首都として機能した。中心部1km四方には瓦葺の藤原宮があり、大極殿や朝堂院、役所など国の中枢機構が置かれたという(明日香村地域振興公社パンフレットによる) 昼食は「明日香めんどや」。すぐ近くに「伝飛鳥板蓋宮跡」があるというので、バスの出発時間までの間、急いで見に行く。 そこからバスに乗車し、いよいよ待ちに待った「石舞台古墳」へ。バスを降りると、そこにはKくんがお願いしていた地元ボランティアの方がお二人待機なさっていた。10人づつ二組に分かれて出発。階段の先に「石舞台古墳」が見えてきた。 日本最大級の石室をもつ、飛鳥路を代表する古墳。7世紀初めの築造で、一辺約55mの方墳だったが、早い時期に墳丘の盛り土がはがされ、巨大な横穴石室がむき出しになってしまった。その特異な姿から「石舞台」の名で呼ばれるようになった。露出した石は約30個、総重量は2300tと推定されている。また石室の全長は約19m玄室の長さ約7,7m、幅約3,4m、高さ約4,8m、調査では家形石棺と思われる石棺の破片や鉄鍬などが出土している。被葬者は不明だが、蘇我馬子の桃原墓の可能性が高いといわれている。昭和27(1952)年には国の特別史跡に指定された。(明日香村地域振興公社パンフレット) 石舞台の下には「石舞台古墳の復元石棺」があった。 今回の旅の大きな楽しみの一つであった「石舞台古墳」は想像以上のもので、古代にいろいろな想いを馳せるに十分なものだった。続きます。
2014.11.22
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校区の福祉館の呼びかけで、久しぶりにメンズキッチンに出かけた。今年もたびたび呼びかけられてはいたのだが、なかなか腰が上がらなかったので、近所の民生委員さんには悪かったがお断りし続けていた。 先日今日の教室が今年最後の開催と聞き、「よっこらしょっ」と立ち上がったわけだ。受付で会費500円也を支払って教室に入る。久しぶりに行ってみると、私が以前行ったときは、多くても7,8人だったのが、今日は10人という賑やかなメンバーになっていた。 近所に住む保健婦さん他、5人の御世話役がおられて、いろいろ指導をしてくださるのは以前と同じである。今日のメニューの説明があり、すぐに調理室へ。そこでレシピに沿って材料や調味料、造り方など詳細な説明があり、イザおじさん料理教室の開講である。 今日のメニューは次の通り。1、ごはん2、餃子3、小松菜のアーモンド味噌和あえ4、わかめスープ5、手羽先とごぼうの黒酢煮(今日は手羽先の代りに砂肝を使った)6、さつまいものリンゴ煮 これまでよりも少し手の込んだ料理で、特にギョザに時間がかかり、ちょど2時間の調理時間だった。餃子を包むのも初体験だったが、思ったよりもうまく出来た。デザートの「さつまいものリンゴ煮」は黒酢(普通の酢でも可)が入っていることもあり、甘みの中に少しの酸っぱさがあり、大変おいしかった。
2014.11.13
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種子島宇宙センターのロケットの下で昼ごはんを済ませたおじさん達は、今回の種子島演奏旅行の付録である観光の最終目的地、門倉岬に向かった。ここには「鉄砲伝来紀功碑」や鉄砲伝来の地としての案内文や、下の写真の通りの像も造られている。 この門倉岬は鹿児島県種子島の最南端の岬である。下の写真に見えるのは太平洋に面する東側であるが、砂浜は種子島宇宙センターの宇宙科学技術館まで9kmにわたり続き「前之浜自然公園」と呼ばれている。この砂丘に天文12年(1543)8月25日、明国船が漂着し乗船していたポルトガル人によって、日本に「火縄銃」が伝えられたという。時の島主14代種子島時尭はそのポルトガル人に金2000両を支払い銃2丁を譲り受けて使用法を教わるが、その威力を知った時尭は、種子島在住の鍛冶・八板金兵衛清定に命じて早速その複製を造らせたという。これにより鉄砲の製作はまたたく間に全国に広まったという。(西之表市ホームページより一部引用)なお、歴史的のことについては、何でもそうであるように、この鉄砲伝来についても諸説があるのも事実である。 海は何処までも広がっていた。 展望台に上ると更に四方に展望が開けた。赤い鳥居は御崎神社(みさき神社)である。 ここをあとに、バスは西之表港に一直線。再び高速船の人となり、一行は無事帰着した。今回の演奏旅行で特筆すべきは、55人の参加者のうち、地元鹿児島勢の他に東京から7名、福岡から1名の参加者があったことだ。大学男声合唱団のOB合唱団ならではのことである。その他に奥様方の参加も数名という一大イベントであった。来年7月9日には、鹿児島市の宝山ホールにおいて第9回定期演奏会を計画中であり、全国から100名を超す歌好きが集まる。
2014.11.07
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「千座の岩屋」をあとにおじさん合唱団の一行は二つ目の見学予定地「種子島宇宙センター」に向かった。正式な名称は「宇宙航空研究開発機構(JAXA)」という。バスは現在の大型ロケットの発射点二つを遠くに見ることの出来る高台に止まりそこから遠望した。上の写真の右に見える紅白の鉄塔4本の場所がである。右の2本が第一発射点、左の2本が第二発射点だという。その左の白い大きな建物は大型ロケット組立棟と大型ロケット発射管制棟である。 高台を海に向かって下り、降りたところは入り口に「宇宙科学技術館」(月曜日で休館だった)のある広大な場所である。ここを含くめて、種子島宇宙センターが「世界一美しいロケット基地」と言われていることがうなずける。おじさんたちは、ここで少し遅い昼食をとることになり、弁当を持って三々五々散っていったが、写真にある通り、半分くらいは50mはあるというロケットの下で食べたようだ。 下の2枚の写真もロケットの存在感が凄い 広い敷地の遠くには奇岩も見える海が広がる。 入り口には別なロケットも見える。 現役時代、安全用品製造・販売の会社に身を置いていた私は、鹿児島に籍を置いてからは、宇宙開発事業団も大きなお得意さまの一つだった。そのため、高速船の無い時代には中種子町の空港まで飛んでそこから、タクシーを使って宇宙センターや協力会社で商談をしていた。高速船が運航され始めると、それを利用し、西之表港からレンタカーを使っていた。今回15年ぶりくらいに行ってみると、当時使われていた中型ロケットの大崎射場や小型ロケットの竹崎射場などは使用されておらず、時代の変遷に驚いた。(旧いことで記憶違いや認識の間違いもあるかもしれない)
2014.11.06
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中種子中学校での演奏を終えた私たちおじさん合唱団の一行は大型観光バスとマイクロバスの2台で南種子町の東海岸にある「千座の岩屋」に向かった。奇岩の見える素晴らしい浜辺である。私は現役時代、仕事で宇宙センターを何回も訪ねたが、当時は観光どころではなく、全く初めて見る景色であり、圧倒されてしばしどこまでも広がる海と奇岩を眺めることだった。 下の2枚の写真は「千座の岩屋」の中からの眺めである。ガイドさんによると、干潮時には中に入ることが出来て、そこからの眺望を楽しめるという事だったが、私たちが到着したのは正午過ぎ、干潮は14時過ぎだと言う。そいう事で幸い時間にも恵まれて美しい景色を眺めて写真も写すことが出来た。 現地案内板によると「千座の岩屋」は太平洋の荒波が長年にわたり造りだした海食洞窟で干潮事には洞窟の中に入ることが出来る。洞窟の中は幾つかに枝分かれしており、1000人もの人々が座れるほどの広さがあることから、この名前がついた。洞窟の中から沖合に眺める青い海と空の自然が造り上げた数々の奇岩のコントラストは幻想的な雰囲気が感じられるとあったが、わたしも全くその通りだと思った。
2014.11.05
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それは栖林神社の北隣にあった「島主種子島家御拝塔墓地」である。ここには、種子島家初代から27代までの島主の墓搭がある。 種子島家の始祖は、鎌倉時代初期、平清盛の孫・行盛の遺児が北条時政の養子となり、時信と名乗って種子島に入ったのが後の初代・信基であると言われている。しかし、実際は鎌倉時代中期に島津荘大隅方惣地頭・名越氏(北条氏支流)の代官である肥後氏(菊池氏支流)の一族が種子島氏となったとみられる。(百科事典・wikipedia)しかしこれには諸説がある。 初代種子島信基の墓標である。 墓地の中に異色の墓搭があった。「カタリナ永俊尼」の案内板に次のように書いてある。 薩摩藩18代藩主家久の義母、19代光久の外祖母、また小西行長一族の人ともいわれる。永俊尼はキリスト教の洗礼を受け、カタリナ夫人と呼ばれ、鹿児島の竪野(冷水町、上竜尾町一帯)に住んでいたが、江戸幕府のキリシタン取締が厳しくなり、寛永11年(1634)種子島の大長野(本立、県農業試験場一帯)に配流となった。後、娘妙身(薩摩藩大家老、喜入摂津守忠政夫人)と孫於鶴もキリシタンということで流されてきて、永俊尼と共に赤尾木の石之峯に住んだ。注、(薩摩藩18代藩主家久の義母・・・とあるが、実際には島津家18代当主で薩摩藩初代藩主である島津家久のことである) 墓地は広く、奥にも下の写真の通り、たくさんのぼとうがあった。なお、ポルトガルから鉄砲がもたらされた時の島主第14代種子島時尭公の墓搭ももちろんあるのだが,今回は時間もなく、詳しく見ることが出来なかった。 御拝塔墓地のすぐ上に種子島家の菩提寺・本源寺があった。 道を歩くと、さすが種子島と思わせる可愛いタイルが埋め込んであった。 すぐ近くに「種子島開発総合センター、種子島博物館」の建物を発見したが、練習時間が迫っていたので、今回は後ろ髪を魅かれる想いでここを立ち去った。 しかし、ほとんど諦めていた史跡を見ることが出来て良かったし、この近辺だけでもたくさんの史跡が散在しているので、機会があれば・・・。 翌日の中種子中学校の演奏会のあと、午後からの島内観光の模様は、このあと続きます。
2014.11.03
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種子島演奏会当日、10月26日、昼頃西之表市民会館に到着。幾つかの控室に分かれて私たちは、弁当の昼ごはんをいただく。13時30分から始まる練習まではいくらかの時間がある。そこで私は事前に調べていた市民会館近くの史跡を訪ねることにして一人で出かける。 歩いて5分くらいのところに先ず栖林神社(せいりんじんじゃ)を発見。「栖林神社」案内板に次のような説明があった。 第19代島主・種子島久基を祭神とし文久3年(1863)松寿院(第23代島主・久道夫人)が遺徳をしのんで 建立した。栖林神社の呼称は久基の晩年の号「栖林」に由来する。久基は長い間、薩摩藩の家老職を務め藩政を指 導すると共に種子島においても殖産興業に尽力した。なかでも永禄11年(1698)琉球より甘藷を移入し、栽 培普及させた功績は大きく、島民は「からいも神社」の名で親しんでいる。 尚、松寿院は第26代島津家当主・9代藩主島津斉宜の次女で、篤姫の叔母である。 境内には、県文化財指定の「大的始式」案内板もあり、興味深くみることだった。
2014.11.02
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昨日10月31日(金)は朝7時に自宅を出て、高速道路を鹿児島空港に向かう。岩手に出張する次男坊を送る為である。空港玄関で息子を降ろして、夫婦で当てもないドライブをしようという段取りである。近くのコンビニで私はパンとコーヒー、妻はおにぎりとコーヒーを買って飛行機の腹が見えるベストポジションに先回りし食べながら飛び立った飛行機を見送る。 さあ、これからどうしよう。取りあえず妻が野菜などを買いたいと言うのでミヤマコンセール近くの水の販売所にある物産店に向かう。久しぶりの新鮮で安い野菜に妻が喜んで買い込んだものを、私が両手に下げて、車に向かって歩いていると後ろから「クマタツさん」という声がする。こんなところで誰だろうと振り向くと、そこには、合唱団仲間のTさんが立っておられる。この町の住人のTさんとは何回か参加した「龍馬霧島ハネム~ン・ウオーク」の世話係をされていて休憩場所の比気神社で会ったこともあり、ここで会うのは不思議なことではないのだが、それでも意外性にびっくりして、言葉を交わすことだった。 その後、霧島神宮方面に車を走らす。駐車場の近くまで行くと、車の誘導をする警備員さんもおり、物々しくその辺りの木を切ったり、土地の整備が始まっている。近々新しい建屋などが建つ模様だ。そして驚いたのは、朝早いのに貸切バス3台やタクシー、自家用車など予想以上の台数で、大いに賑わっていたことだ。前日霧島の温泉に泊まった人たちだろうか。アベノミクスが成功しているとは思っていない私にはなんとも不思議な賑わいである。 そこから、高千穂牧場へ。ここはもう宮崎県である。遠足なのか宮崎の子供たちもたくさん来ていて賑わっている。上まで行ってしばらく霧島連山を眺めて英気を養う。コスモスが満開できれいだった。 さあ、そこから何処に行こう。妻が「御池」に行きたいという。10年くらい前に行って、池の周りを歩き回ったことなど忘れているのか、ゆっくり見てみたいとのこと。老いては文句を言わず従うべしの精神で車を走らす。私も前回池に降りた場所を覚えておらず、だいぶ行き過ぎてしまい、引き返し「御池キャンプ場入り口」から突入。平日の昼のためか、私たちの他には4人連れのご家族が一組のみ。湖面の鳥やさざ波を見てしばし憩う。 昼ごはんの場所だけは決まっていた。これも妻がコーラス仲間から聞いてきた情報で10号線にある道の駅「すえよし」の敷地内にある「四季祭」がいいと言う。野菜料理中心のバイキング。大食いの私もじつはそれを楽しみにして出てきたようなものだ。ゴックン! 御池から10号線に出て末吉に向かうようにナビにセットして走り始めたが、それを無視して私が勘で走ったためか、着いたのは13時。なんと着いた道の駅は、コーラス仲間のOさんのご子息の結婚式に宮崎に呼ばれて行った帰りに貸し切りバスで皆で立ち寄ったところだった。しかし遅くなったのが幸いしてすぐに座席にもありついた。バイキングは前評判通りで、野菜中心で味付けもよく大変おいしかった。鹿児島から直行なら60kmくらいである。 帰りには10号線から見えた「上野原縄文の森」にも5年ぶりくらいに立ち寄った。 そして今日11月1日(土) 疲れが少しほぐれたところで、黎明館企画特別展「南からみる中世の世界」~海に結ばれた琉球列島と南九州~ に出かけた。久しぶりに「常設展」も見て全体で2時間以上立ちっぱなしだったのでさすがに疲れた。
2014.11.01
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